2024年07月14日 朝の礼拝「それでも主に従う」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2024年07月14日 朝の礼拝「それでも主に従う」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章34節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 10章34節~39節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:平和ではなく剣を
 イエスが宣べ伝えた「神の国の福音」は、人々に平和を告げ知らせる「平和の福音」である、と私たちは理解しています。ところが、今日の箇所では、そういう私たちの認識を根底から覆す言葉を語っておられます。イエスはここで、自分は「平和」ではなく、人々の間に「剣」をもたらすためにこの地上に来たのだ、と宣言されています。ルカ福音書では、この「剣」という言葉が「分裂」という表現になっています。イエスはここで、ご自分が地上に分裂をもたらすために来たと宣言しているのです。しかもそれは国と国、民族と民族の間の分裂ではなくて、家族間の分裂であると言われているのです。
 「神の国の平和」は、第一義的に「神との平和」のことです。しかし福音は、神と私たちとの間の平和を実現する一方で、神に属さないこの世の民との間には分裂をもたらすものともなるのです。もちろんイエスはここで、弟子たちに家族の関係や情を軽んじるように求めたり、あるいは親兄弟と縁を切ることを求めておられるのではありません。むしろ聖書はあくまで、自分の家族や親族を大切にするということを原則としています。しかし、こと信仰に関しては、たとえそれが親子、夫婦、親友であろうとも、神の国に属する者と、この世に属する者とはどこかで道が別れていくのであり、キリストの弟子となるという事にはそういう厳しさがあるのです。

Ⅱ:自分の十字架を背負う
 今日の箇所では「家族関係」が取り上げられていますが、しかし「家族」と言われている部分には、人によって様々な言葉を当てはめることが出来るでしょう。「わたしよりも仕事を愛する者は、わたしにふさわしくない。」「わたしよりも趣味を愛する者は・・・」等など。ただしイエスはここで、そういう信仰以外の事柄をすべて否定しているのではありません。「私以上にそれらのものを愛するのなら、あなたはわたしに相応しくない」と言われるのです。しかも、神の国の福音は、そのように信仰者と外部との関係を分けるだけではなく、私たち自身の内面においても分裂と対立を引き起こすのです。「自分の十字架を背負う」とは、自分で自分を退けて「自己否定する」ことです。そして「自分の命を得ようとする」とは、この世において自らが手に入れたいと望むもの、 ―富や名声、社会的成功や快楽など― を第一に追い求める生き方のことです。それは正に、現代人の多くが追い求める幸福な生き方ですが、しかし結局人は最後までその幸福を得ることは出来ません。そこに人間の不幸があります。しかしイエスは、そのようなこの世で自分が思い描く幸福を追い求める生き方を手放して、自分の命を捨てる時に、却ってあなたがたは本当の幸福、命を手に入れることが出来ると言われるのです。
 この世において私たちがキリストの弟子として生きるということは、決して楽な道ではありません。もし誰かが、主イエスを信じて洗礼を受けたら、人生の問題がすべて解決して、悩み事が消えて、万事がまくいくようになる、と考えているとしたら、それは全くの幻想です。信仰者もまた、世の人と同じように病の苦しみや死別の悲しみを経験し、仕事に疲れ、人間関係に悩み、死の恐れを経験するのです。そして、そういう悩みと苦しみの中で、なお自分を捨てて主に従わなければ、私たちはキリストの弟子となって、真の命を得るということは出来ない、と主は言われるのです。

Ⅲ:あなたは私を愛するか
 今日の御言葉を読んで、恐らく多くの人が大変厳しい命令であると感じられたのではないでしょうか。けれども、イエスは今日の御言葉を、弟子たちを恐れさせ、怯ませるために語られたのでしょうか。イエスが「私以上に、父や母、息子や娘を愛する者は私にふさわしくない」と言われる時、それは私たちにただ一方的に、そのような愛を求めておられるのではありません。イエス御自身がまず、ご自分の命以上に私たちを愛してくださったのです。そして天の父なる神もまた、我が子を愛する以上の愛で、罪人である私たちを愛してくださり、私たちのためにご自分の独り子を捨てて、手放してくださったのです。それ程までに深い愛をもって、罪人である私たちを愛してくださったお方が、「私以上に、他の者を愛してはならない」と言われるのであれば、それは単に私たちを恐れさせ、縛り付けるためだけの言葉であるはずがありません。それは正に、「罪人であるあなたを、私は自分の命を愛する愛よりも、もっと深い愛で愛した。だからあなたも、他の何よりも深い愛で、私を愛して欲しい」という、イエスからのラブコール(愛の告白の言葉)なのではないでしょうか。 
 イエスは十字架の死から復活された後、ご自分を三度知らないと否定したペトロに対して、「あなたは私を愛しているか」と三度お尋ねになられました。それは、彼のご自分に対する愛を疑って言われたのではありません。イエスは、ペトロの愛の脆さや頼りなさを誰よりもご存じでした。そのペトロの弱さを知った上で、自分を裏切り、人々の前で「イエスなど知らない」と呪いをかけて誓ったペトロに対して、「私は、それでもあなたを愛し抜いて、あなたの罪を代わりに償った。そしてあなたを許した。だからあなたにも私を愛して欲しい」と語り掛けられたのです。
 
Ⅳ:キリストの愛に答えて
 キリスト者とは、この世の幸福の道、繁栄の道を歩む者のことではなく、主の御跡に従って主の道を行く者のことあり、そしてその道は、この世においては恥と苦しみとが待っている苦難の道なのです。そしてその中で私たちもまた、神の愛を信じることが出来なくなり、キリスト以外のものをキリスト以上に愛する誘惑に晒されることになるでしょう。そのような中でなお私たちが、自分の十字架を背負い続けて、主に従っていくためには、「私は、自らの命を捧げても惜しくないほどに、あなたを愛している。その私の愛を知って、その愛にあなたも応えて欲しい。」と呼び掛けておられる、主の声に真剣に耳を傾け続けることが必要なのです。そしてそのキリストの愛の言葉に答えて、自分の望みや自分が思い描いている人生の幸福を手放して、自らの十字架を背負い、主に従うという信仰に生きる時に、そこで私たちは、自分が頭で思い描いていたのとは全く違う、本物の幸福と命とに出会うのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す