Ⅰ:キリスト教と迫害
前回の箇所でイエスが予告された苦難と迫害が、実際に弟子たちに降りかかったのは、イエスが復活して天に昇られた後のことでした。そのことは、使徒言行録に詳しく記されています。更に使徒たちが世を去った後、ローマ帝国による更に激しい迫害と弾圧が起こり、多くのキリスト者の命が失われることになりました。また日本でも、安土・桃山時代の後期から江戸時代の初期にかけて、キリスト教徒に対する激しい弾圧が起こりました。その事を題材に書かれたのが、遠藤周作の「沈黙」という小説です。この「沈黙」を読み返す時に、私の心に浮かぶ問いは「もし、こがそのような迫害の時代に生まれていたとしたら、果たして最後まで信仰を守り通すことが出来るだろうか。」という問いです。
Ⅱ:暗闇で聞いたことを明るみで告げる
イエスは、師である自分が世からベルゼブルと非難されるのであれば、弟子は更に激しい非難と迫害に晒されることになると予告した上で、「あなたがたは、世の非難に心を騒がせて恐れてはならない」と述べておられます。なぜなら「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないから」です。イエスは、今はまだあなたがた弟子にしか明らかにされていない真理は、いずれ全ての人に明らかにされる日が来る、だからたとえ今、人々から誤解や非難を受けたとしても恐れる必要はない、と言って、弟子たちを励ましておられるのです。
そして「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。」と言われているように、イエスは地上の生涯においては一部の限られた者たちにしか、ご自分が救い主である事を明らかにされませんでした。しかし、キリストが十字架の死と復活を成し遂げられた今は、もはや覆いは取り除かれているのです。もちろん、すべてが人の目に明らかにされるのは、世の終わりの日を待たなければなりませんが、しかしナザレのイエスが、私たち罪人のために来られた真の神の御子であるという事実は、聖書を通してすべての人に明らかにされているのです。ですから教会は、イエスが暗闇で弟子たちに告げた福音を、人々の大勢いる明るい場所に出て行って告げ知らせなければならないのです。
Ⅲ:本当に恐れるべきもの
そして28節にも驚くような言葉が語られています。私たちの人生において、最も大きな恐れは何かと言えば、それは「死の恐れ」ではないでしょうか。私たちの命を奪う力と権威を持つ者、それが私たちにとって最も恐るべき相手です。ところがイエスは、そのように私たちの肉体の命を奪う力を持つ者を「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」と呼んで、そのような者を恐れてはならないと述べ、「むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と教えておられるのです。魂という言葉は、「命」と訳すことも出来る言葉です。その命とは、単に肉体的な命のことだけではなく、その人の体も精神も含めた根源的な「命」のことです。そして聖書においてそれは、神との命の交わりを持っているということです。
ですから、私たちが本当に恐れなければならないのは、肉体の命を失う事よりも、この神との交わりという真の命を永遠に失うということであって、その力と権威を持っておられる神こそが、私たちが本当に恐れなければならない相手なのです。この、本当に恐れなければならないお方を恐れないで、恐れる必要がないものを恐れているというところに、私たちがいつも何かを恐れていきなければならない理由があるのではないでしょうか。恐れから解放される唯一の方法は、この本当に恐れるべき神を恐れるということなのです。
一方で私たちの心には、また別の恐れが生じることもあります。つまり「自分はいつか神に見捨てられるのではないか」「最後の裁きにおいて罪人として滅されしまうのではないか」という恐れです。しかし「神を恐れる」ということは、そのように神の裁きを恐れたり、自分は救われないのではないかと心配することではありません。なぜなら、私たちの神は、恐怖によって私たちを支配するお方ではなく、むしろ愛とご配慮を持って私たちを守ってくださるお方だからです。
Ⅳ:恐れを超える愛
イエスは29節で、そのように天の父の深い愛とご配慮について説明しておられます。一アサリオンは当時のローマで最も小さな貨幣の単位です。その一アサリオンという最も安い値段で売られている雀でさえも、神は御心の内に留めておられ、神のお許しがなければ地に落ちることもないのです。その神が、私たち人間に対しては、もっと深い愛とご配慮を持ってすべてのことを備えていてくださるのですから、私たちはその神の愛に信頼して、「恐れてはならない」のです。そして今日の箇所の終りで「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と警告されたイエスもまた、やがて弟子のペトロが、人々の前でイエスを三度否定した時、そのペトロを「知らない」とは言われませんでした。イエスは、なおもそのペトロを許して、ご自分の教会の土台の岩として用いてくださると約束してくださったのです。
冒頭の「私自身が迫害に遭った時に、信仰を保ち続けることが出来るか」という問いの答えは、その場面が来てみなければ、恐らく本当のところはわかりません。ただ、ここで確かに言えることは、ペトロが持っていた弱さ、人の目や言葉を恐れ、暴力や迫害、病や死といったこの世のものを恐れる弱さは、私自身も持っている弱さだということです。そしてもう一つの確かなことは、ペトロの弱さをすべてご存じであり、なおもその彼を赦して、ご自分の教会の礎とされたイエスは、この私の持っている弱さもご存じであって、その弱い私のためにも十字架に架かって下さった、ということです。このイエスが、世の終わりの日には、私を裁き罪に訴える裁判官としてではなく、私の罪の潔白を証しして下さる弁護者として立って下さるということもまた、確かなことなのです。なぜなら、私の弱さや恐れよりも、私に対するキリストの愛と慈しみは、遥かに大きいからです。
この私を心から愛し、私のためにご自分の命をも捧げてくださる神の御子に信頼し、このお方に示された神の愛に生きる時、私たちはこの愛の神を正しく「畏れる」生き方へと導かれていくのです。