2022年12月04日 朝の礼拝「救い主は来たれり」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2022年12月04日 朝の礼拝「救い主は来たれり」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 1章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 1章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

1世紀の、特にユダヤ人キリスト者にとってマタイ福音書1章の冒頭の系図は、自分たちの信じているお方が旧約聖書に預言されていた真の救い主であることの証拠として重要なものでした。「アブラハムの子」という言葉は、このナザレのイエスが確かにアブラハムの血を引く真のユダヤ民族から生まれた御方であるということを示しています。しかしそれは単にイエスの血筋の確かさを述べているだけではなく、「地上のすべての民がアブラハムによって祝福に入る」という神の約束が、このお方において実現したということです。
 そしてマタイはイエスを「ダビデの子」と呼んで、このお方がユダヤ人が待ち望んでいた真の王となるべき御方であることを明らかにするのです。
 2節以下に書かれている系図は、ユダヤ人の歴史の短い要約となっています。そこに出てくる人々の中には、その人勢や人となりが聖書に詳しく記されている人もいれば、名前以外には何もわからない人たちも登場します。彼ら一人一人の人生がどのようなものであったかを詳しく知ることは出来ませんが、しかしきっとその人生には、今の私たちと同じように、喜びに満ち溢れた日もあり、また悲しみや苦しみの中で絶望した日もあったのではないでしょうか。
 そして今朝の系図は、そのようなそれぞれに違う時代、違う人生を生きた人々の人生もまた、すべて神の遠大な救いのご計画の中にあったという事を教えてくれています。この系図は、神が私たち人間を罪から救うために働き続けてこられた、その神の救いの御計画と御業の縮図でもあるのです。そしてその生涯において成功者となった人も、あるいは最後まで苦難に満ちた人生を送った人も、最後にはすべて主イエス・キリストというお方に集約されていき、このキリストにおいて神の救いの御計画が成就するのです。 

 そしてもう一つ、今朝のこの系図はそのような神の救いの御計画の縮図であると同時に、私たち人間の罪と背きの歴史の縮図でもあります。福音書は、この神の救いの御計画の中には、ユダヤ人だけなく異邦人も含まれているというこを明らかにします。そして、そのような人間の醜い罪の歴史と、神の救いのご計画を重ね合わせることで、そのような人間の現実に常に働き続けてくださった神の働きを明らかに示そうとするのです。そしてその神の救いのご計画の成就と完成の出来事として、この系図の最後に記されているのが、御子イエス・キリストのお名前です。

 先に述べましたように、マタイは子の系図の中でずっと、父親の名前を挙げて「アブラハムはイサクをもうけ」と繰り返して来ました。しかし最後の16節では「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と、イエスが父ヨセフからではなく、母マリアから生まれたと記しています。

 「もうける」と訳されている言葉は素直に日本語に訳せば「生む」という言葉ですが、この系図ではアブラハムからヨセフまですべて「生んだ」という能動態の言葉が使われています。ところがこの最後のイエス様の誕生だけは受動態の言葉が用いられています。つまり最後の文章は「マリアからイエスが生まれさせられた」と訳すのが正しい訳です。
 では、このイエスは一体誰によって生まれさせられたのか。マタイはその主語を省略することで、暗にそれはヨセフからではないということを仄めかしています。そしてこの隠された主語の背後にいるのが、天の父なる神御自身であることを読者に伝えようとしているのです。
 そしてその神が今、イエス・キリストというお方の誕生を通して、まったく新しいこと、驚くべき御業をなされようとしている、そのことがこの最後の「生まれさせられた」という言葉の中に表されているのです。

 そして、そういう視点で見る時に、実は1節の「イエス・キリストの系図」という言葉も全く新しい見方をすることが出来ます。マタイ1章1節のギリシャ語原文の最初に出てくる言葉は「書」を意味する「ビブリオス」という言葉です。これはそのまま英語の「バイブル」という言葉の語源となっていますが、この言は他にも「歴史」とか「物語」という意味を持っています。
そして「ビブリオス」の次に出てくる言葉が「ジェネシス」というギリシャ語です。この「ジェネシス」という言葉には「系図」という意味の他に「誕生」とか「起源」という意味もあります。そして旧約聖書の創世記のギリシャ語訳聖書の表記はこの「ジェネシス」です。ですから、1節の「イエス・キリストの系図」という言葉もまた、別の訳し方をすれば「イエス・キリストの創造の物語」と翻訳することも出来ます。
 創世記の神による天地創造の御業と同じように今、私たち人間の罪の歴史の中にこのイエス・キリストというお方が現れて、このお方を通して神は全く新しいことを私たちに始めようとされているのです。それは欲と罪と汚れに満ちたその私たち人間をこのイエス・キリストというお方によって新しい人間として生まれさせ、再創造することです。それがこの福音書全体のテーマであり、マタイはそのことを「イエス・キリストによる再創造の物語」と言い表しているのです。
 そうであれば、このイエス・キリストの系図は、主イエスの名前で終わるのではなく、そこには今も、その主イエスに連なる新しい神の民の名が記され続けているのです。そして、ここにいる私たちもまた、この主イエスに出会い、このお方によって古い自分が死に、新しく創造されて、永遠の命に生きる者へと生まれ変わらせられた者として、この系図に名前を記されているのです。ここに書かれているイエス・キリストの系図は決して私たちに関りのないつまらない名前の羅列ではありません。このキリストの系図を読む時に私たちは、このわたしも今確かにこのキリストの系図に繋がっており、私たちの名前がこのイエス・キリストの系図の中に記されていると信じることが出来るのです。そこから私たちは大いに慰めを受け、また希望を得ることが出来るのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す