新約聖書の四つの福音書の中で、クリスマス物語を詳しく記しているのは、マタイとルカです。そして、ルカでは母マリアを中心にお語が進んでいくのに対して、このマタイでは、夫のヨセフを中心に物語が進んでいくという違いがあります。
ヨセフとマリアは、この時すでに婚約中でした。しかし二人が正式に結婚する前に、マリアのお腹の中に子どもが宿っていることが明らかになります。ユダヤの法律においては、婚約中の女性が他の男性との間に性的な関係を持つことは、立派な不貞行為です。そこで「正しい人」ヨセフは、律法の掟に従って不貞行為をした疑いのあるマリアを妻として迎えることは正しくないと判断しました。その一方で「正しい人」ヨセフは、事を公にしてマリアが処刑されたり、人々の好奇の目に晒されるということを望みませんでした。そこで彼は、マリアを密かに離縁して事態の決着を図ろうとします。
ところが、ヨセフがそのような考えを巡らせているときに、彼の夢の中に天使が現れて、マリアとそのお腹の子どもを迎え入れるようにと命じたのです。ここで天使はヨセフに対して『ダビデの子ヨセフ』と呼びかけていますが、冒頭の系図に示されているように、ダビデの血筋を引いているのは、実は母マリアではなくヨセフの方でした。ですから生物学的な意味においては、ヨセフはイエスの父親ではありませんでしたが、法的な意味においては、確かに救い主はこの「ダビデの子ヨセフ」の子供として生まれてきたのです。
21節で天使は、ヨセフに子どもの名前をイエスと付けるようにと命じていますが、彼に名前を付けさせることで、マリアのお腹の中にいる子どもを法的に自分の子として認めるようにと命じているのです。こういう不思議な仕方で、神は救い主をは聖霊によって母マリアの胎に宿らせながら、一方で「救い主はダビデの子孫として生まれる」という旧約聖書の預言も成し遂げられたのです。
こうしてヨセフは、神様の不思議な介入によって起こった「聖霊による受胎」という事実を、神の言葉によって信じ、受け入れました。そしてこのように彼が、神の命令に従い、それを実行する従順によって、神の御子がダビデの子孫として生まれるという神の約束が実現したのです。
ルカ福音書においてマリアは、天使が告げた妊娠の事実に対して「わたしは主のはしためです。お言葉通りにこの身に成りますように」と答えていて、そこでは神の言葉とその御業を従順に受け入れるマリアの信仰が描かれています。それに対してこのマタイ福音書では、神がみ使いを通して命令することで、ヨセフ自身が何かをしなければならない状況に置かれ、彼が実際にそれを実行していくということで物語が展開していくのです。マタイはこのヨセフという人物を通して、「ただ神の御業を従順に受け留める」というだけに留まらない、より積極的で能動的な信仰の在り方を描いています。私たち人間の救いは、まったく神の恵みによるものですが、しかし一方で神は、その恵みに対する、人間の積極的で能動的な応答を求めておられるのです。
さて、そのことを覚えながら、もう一度天使を通して神が告げられた言葉に目を留めたいと思います。神はここで、この救い主としてお生まれになる子どもの名前は「イエス」でなければならないと命じておられます。しかしこの名前は、当時のユダヤ人の名前としてはごくありふれた、よくある名前の一つでした。親たちはもしかしたら、かつてモーセの跡を継いでイスラエルの民を約束の地に導き入れた指導者ヨシュアにあやかって「イエス」と名付けたのかも知れません。あるいは「やがてこの子が成長して大人になるころには、ローマの支配から解放されて神の救いが実現するように」という願いを込めて名付けたのかも知れません。けれども、今まさに神が実現しようとされている救いは、彼らユダヤ人たちが思い描いていたような、「外国の支配からの解放」でも「地上の王国の再建」でもありませんでした。それは「自分の民を罪から救う」こと、「罪からの救い」です。
イエスが生まれた時代に、「イエス(救い)」という名前を持つユダヤ人が大勢いたように、この世の中には、私たちの抱えている目の前の問題をすぐにも解決してくれるかも知れない、様々な「救い」が存在しています。それらの救いは、私たちの人生を楽しませ、気を紛らわせ、夢中にさせてくれるものかも知れません。けれどもそれらの「救い」は、私たちを“罪”から救い出すことも、罪がもたらす“死”を取り除くことも出来ません。私たちを罪と死から救い出すことができる本物の救いは、ただ神御自身が「イエス(救い)」と名付けるように命じられた、ナザレのイエスただお一人によってのみ、もたらされるのです。
では、神様は一体どのようにして、私たちを罪と死から救い出してくださるのでしょうか。ここでマタイは、旧約聖書のイザヤ書7章14節の言葉を引用していますが、その中で一か所だけマタイが言葉を変えている箇所があります。「インマヌエルとあなたに呼ばれる」という元の文章を、マタイは「インマヌエルと彼らに呼ばれる」という文章に変えたのです。ではマタイは、その三人称複数の主語を一体誰だと考えたのでしょうか。このナザレのイエスを「インマヌエル」と呼ぶのは、今まさにこのキリストによって罪から救い出されて、キリストを通して神と共にいる者とされている、私たち神の教会の民に他なりません。ここにいる私たちこそが、このイエス・キリストがいつも私と共にいてくださることを信仰の歩みにおいて経験し、そしてこのお方を「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼んで賛美することが出来る神の民なのです。それが、私たちが神様から与えられている真の救いなのです。
そしてこのインマヌエルなる神の御子は、あの夜マリアと縁を切ろうとしていたヨセフが、人間的には到底受け入れることが出来ない神の命令を信じて、従ったことによって生まれて来られたのです。
そのように、私たちが悩みや苦しみに満ちた現実の中で、神の信頼の呼び掛けに答えて、み言葉に従っていこうとする時に、「神は私たちと共にいる」というインマヌエルの恵みを本当に味わい知るのです。