毎週日曜日は礼拝の日
千葉県の千城台教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
- 日曜日 朝の礼拝
- 10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜日 夕の礼拝
- 16時00分~17時00分
- こちらも必要な持ち物は特にありません。朝の礼拝に出席出来ない場合におすすめです。
- 水曜日 祈祷会
- 10時30分から11時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。お仕事などで日曜日に教会に通えない方におすすめです。
「信仰を持つということは、ただ自分でそう思い込むだけのことではないのでしょうか。悪くすれば、洗脳されることと同じではないでしょうか。」
このようなお尋ねをいただきました。皆様はどう思われるでしょうか。キリスト教は外国の宗教であり、クリスチャンは日本の人口の0.7%ほどです。キリスト教信仰を持つ、クリスチャンになるためには、当然、聖書の教えを知らなければなりませんが、そのためには、誰かから(牧師から、先輩クリスチャンから)教えてもらわなければなりません。しかし、これは一種の“洗脳”ではないだろうか、という訳です。
一般に、信仰の世界の事柄(例えば、神は一人である、霊魂は不滅であるなど)は科学的に証明できませんから、それを信じるというのは、結局、思い込みに過ぎないのではないか、ということになる訳です。
かつて、キリスト教の異端とされているある宗教団体の信者が輸血を拒否して亡くなるという事件がありました。そこでは、他人の血を受けることは聖書の教えに反すると教えられていた訳です。確かに信仰と思い込みは、また信仰教育と洗脳とは表面的にはよく似ていますので、冒頭のような問いが発せられるのは自然なことかもしれません。
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洗脳とかマインド・コントロール(心の支配)と言われるものは、当人だけでなく周囲の人々に、さらに共同体全体に弊害が及ぶ場合によく使われます。1994年の松本サリン事件や地下鉄サリン事件はその典型的なものです。戦前の日本では『古事記』や『日本書紀』の神話がそのまま史実と見(み)做(な)され、現(あら)人(ひと)神(がみ)である天皇を中心また頂点とした、政治・軍事・教育など国民生活全体を支配する国家体制が敷かれていました。国家的規模の洗脳です。信じるという人間独自の能力・機能を利用した悪質な行為と言わざるを得ません。
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しかし、信じる・思い込むには、逆に大切な働きもあります。あらゆることを疑うのでは、通常の社会生活はできません。信じ合うからこそ円満な共同生活ができる、また人間として成長していくことができる、ということもあります。
学校で受ける教育では、生徒・児童は教師の教えること、また教科書に書いてあることを信じます。例えば、地球と太陽の関係については、地動説(地球が太陽の周りを回る)が常識になっていますが、地球と太陽を遠くから眺め、それを見て確かめた人などいません。あくまでも有力な学説に他なりません。歴史の“事実”も、現存する資料を読み解き、解釈して再構成した結果です。しかし、これを洗脳と言う人はいません。
キリスト教は日本では少数者の宗教ですが、しかし、キリスト教起源の、あるいはキリスト教が育(はぐく)んだ制度や習慣が今では日本でも当たり前になっていることもあります(日曜日休日、私学振興、女子教育、社会福祉、国民投票等々)。
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聖書は、神が最初の人間に一つの命令を与えられたことを記しています(創世記2章16、17節)。それは、人間が神の御(み)心(こころ)を知り、それに従って生き、神との人格的な交わりの中に生かされる(永遠の命に生かされる)ためでした。この命令は同時に恵み深い約束でもありました。
そして、何と、神はこのとき、その命令を人間に強制されませんでした。神の命令自体はもちろん、人間がそれに従うことですが、それに従わないことも可能にされたのです。なぜでしょうか。それは、人間が(他のすべての動植物・無生物と違って)神のかたちとしての存在、すなわち人格的存在だからです。人格的というのは主体性、つまり意志の自由があるということです(動物には自由意志はありません)。
旧約聖書には、古代社会には珍しいほどに、イスラエル共同体の中にいる異国人を、また僕(しもべ)や奴隷を人道的に扱うことが、神によって命じられています。最初期のキリスト教会では、富んでいる信者たちは貧しい信者の生活を支えていました。後に修道士たちは、地域の子女の識字教育や、救貧・施薬を励行しました。キリスト教信仰には、共同体としての生活と共に、個人の生き方の自由を守るという伝統があります(例外はありました)。
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学ぶこと・知ることは、信じること・行うことの一環として重視されて来たことは事実です。聖書が教える信仰とその伝達は決して洗脳ではなく、また当人の思い込み・盲信の類(たぐ)いでもありません。聖書の教えを共有しつつ、同時に、個人個人が自分自身の理解と納得を保障されているのです。ぜひ聖書をご自身でお読みください。そして、教会の礼拝を中心として、ご一緒に聖書の真理を学び、体験しましょう!