毎週日曜日は礼拝の日
千葉県の千城台教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
- 日曜日 朝の礼拝
- 10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜日 夕の礼拝
- 16時00分~17時00分
- こちらも必要な持ち物は特にありません。朝の礼拝に出席出来ない場合におすすめです。
- 水曜日 祈祷会
- 10時30分から11時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。お仕事などで日曜日に教会に通えない方におすすめです。
信仰告白の動機・経緯(SH兄)
主の御名を賛美します。私は昨年の10月4日に信仰告白をいたしました。今回市川牧師より、信仰告白に至った想いや経緯についての執筆のご依頼を承りましたので、僭越ながら少しばかり書かせていただきたいと思います。お読みいただければ幸いです。
私は1997年の11月に神戸市にて生まれました。父が牧師であったため、生まれた時から教会で暮らし、聖書の御言葉に触れ、教会員の方々に囲まれ、そして自然に神様の恵みに導かれていました。また、このような家庭環境であるからこそ、たくさんの信徒の方々を見てきました。この上ないほど奉仕をなさる方がいる一方で、イベントの時にしか教会に来ない方もいました。こうした方々との出会いを通して、私は信仰告白というものがそれ相応の覚悟と強い意志が必要であると思うようになりました。
兄と姉が大学生の時に信仰告白をしていたこともあり、私自身も大学生の時に、と考えていました。しかしながら、学生時代は信仰が弱く、すぐに罪の誘惑に負けてしまう、怠惰なものだったと思い返します。こんな弱い自分に信仰告白する資格などないと考えていました。時の流れに身を任せたまま、気づけば大学3年生となり、学生生活の半分がすでに終わっていました。
私はこれまで小学校、中学、高校、そして大学と、大方予想のつく人生を送ってきました。大学を卒業すれば普通に働いて暮らしていこうと考えていましたが、いざ、進路を考える時になって、この先自分自身で人生を決めて歩まなければならない現実に大きな不安と虚無感を抱きました。迫り来る現実に目を背けたくなる中で、ある聖書箇所に出会いました。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえ
てはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っ
てもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1:9)。
この御言葉は、私の大学受験の時、勇気と希望を与えてくれた箇所でもあります。この御言葉に再度出会った時、自分がいかに間違った考えを持っていたのかと痛感しました。私は己の力を過信して、何事でも自分の力で解決しようとしていました。しかし、聖書には次のようにあります。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたが
たのことを心にかけていてくださるからです」(ペトロの手
紙一5:7)。
私は非常に弱い存在であり、すぐに罪を犯してしまいます。しかし、神様はそのような私をも愛してくださり、「全て任せよ」と仰っておられます。そこでは人間的な覚悟や強い意志など必要でなく、神様に従い、全てにおいて依り頼む、そうすれば神様は私に最善をなしてくださると確信し、私は信仰告白を決断しました。
長くなりましたが、以上が私の信仰告白までの想い、経緯であります。これから先、たくさんの壁に直面するかもしれません。その際には、神様がより善い道へ導いてくださるようお祈りいただければ幸いです。ありがとうございました。
主を畏れることは知恵の初め
(2021年度教会標語)
主を畏(おそ)れることは知恵の初め(箴言1:7)―今年の教会標語になった御言葉です。この御言葉に導かれ励まされて、この一年、教会生活と日常生活に努めたいと願います。昨年はコロナ禍に悩まされた一年でしたが、これは今年もまだまだ続きそうです。しかし、この出来事を通して逆に、創造者である主なる神様のみ、文字通り万物の支配者であられることを確信し、主をこそ怖(おそ)れ畏(かしこ)み、正しく、賢く歩みましょう。
神への畏れは知恵であると言われます。知恵とは賢さのことですが、賢いとは、何事であれ、それが自分の益になるように関わる・用いることに他なりません。全能で聖なる神にどう関わるのか(関わるべきか)―これが神に対して賢いか、愚かかの分かれ目です。
しかし、神に対して賢く関わることができるためには、神がどのような方であるか、何を命じ、また約束しておられるのかを正しく知らなければなりません。そのためには、聖書に教えられる神の御心の中心的、基本的な事柄を正しく知ることが必要です。
信仰生活にあっては知識と知恵は一つです。聖書の教えについての正しいを知識を持っていても、それを信仰生活に応用しないなら、その知識は無用です。しかし、その知識を有効に用い得るためには、その知識は正しくなければなりません。そして、このどちらも、その根本にあるのは、神を畏れるという人格的、霊的な姿勢・関わりです。主を畏れることが知恵の初めと言われる所以(ゆえん)です。この一年、教会標語とされた御言葉に従って共に歩みましょう。
(牧師より/『2021年度年報』「教会標語」欄より抜粋)