毎週日曜日は礼拝の日
千葉県の千城台教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
- 日曜日 朝の礼拝
- 10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜日 夕の礼拝
- 16時00分~17時00分
- こちらも必要な持ち物は特にありません。朝の礼拝に出席出来ない場合におすすめです。
- 水曜日 祈祷会
- 10時30分から11時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。お仕事などで日曜日に教会に通えない方におすすめです。
ポストコロナの教会
わたしは、岐阜の田舎町で生まれ、東京の大学への入学と同時に親元を離れ、以後実家には長期休暇の時に帰るぐらいです。母が教会員であったので、幼少期より地元の教会に通い、大学生の時に受洗しています。
5年前に父を亡くし、現在地元には母が一人残り、一人暮らしをしています。母は父の死前後から認知症を発症し、日常生活は何とかこなしながらも、記憶力は時間の経過とともに低下していくという状況にあります。
しかしながら、いよいよ一人で生活するにはリスクが高すぎるという事で最近施設に入る事になりました。
5年間の一人での生活において、教会員の方々、牧師夫妻の助けのもと、何とか日常生活を維持できておりました。父の死後、心身ともに不調となり、礼拝にもたまにしか出席できなくなった母のために教会員の方が欠席した時は毎週、週報とその日の説教原稿を届けてくれていました。また、多くの教会員の方々が訪ねてくださり、常に気にかけてもらっていることが母の支えでありました。
今回、施設に入ったのも教会の方々の助けと助言がなかったら実現しないものでしたので、とても感謝しております。
母の認知症発症をきっかけに、市の福祉関係の職員の方とも話す機会が増え、家族・地域との繋がりが希薄な孤独な高齢者が数多くいるという事を知りました。
また、「自己責任」という言葉に押しつぶされ、社会に頼らず、自分と自分の家族とで苦しみに耐えねばならない人が多くいるということに気づかされました。
「自己責任」という言葉は本当に嫌な言葉だと思いますが、この言葉が強調される時代がいつ頃から始まったのかといえば、80年代だと言われています。この頃にレーガノミクスやサッチャリズムといったいわゆる新自由主義が台頭し、今日まで約40年間続いてきたことになります。
しかし、このような新自由主義の価値観、自己責任論がコロナ過により退けられ、社会的なものが見直されるという期待感があります。
コロナ過で最も注目された発言といえる、「社会というものはまさに存在する」というイギリスのジョンソン首相の言葉が時代の転換を象徴しています。
この言葉はサッチャーの「社会なんてものはない。あるのは個々の男たちと女たち、家族である」という言葉を意識してのものであり、「新自由主義の申し子」と目されてきたジョンソン首相でしたので、この発言は世界にお驚きを持って受け止められました。
ポストコロナの世界では、自己責任の呪縛から解放された人々が社会的な繋がりを求めるようになってくると思います。このような人々の受け皿として教会は必要とされるだろと期待しています。
最後にまた地元の教会の話になりますが、市役所の職員から求道者を紹介してくれたという事があったそうです(現在も通われているようです)。高齢者を多く抱える教会が市の福祉課と頻繁に交流するうちに、職員の方への信頼を得てこのようなことが起きたのです。
(50代男性)
試練の意味・意義
「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」
(ヤコブの手紙1章12節)
信仰生活を続けていると、必ずと言っていいほど、信仰に伴う困難・苦悩を経験します。特にクリスチャンでない人たちに囲まれて生活し、また仕事をしているときは、なおさらです。
しかし、すべてのことは愛の神様がなさることです。愛の神がそんなことをするのか?といぶかるかもしれませんが、愛とは単に好きとか、優しくするとかではありません。神様は、私たちが神様の民、また子供として、信仰的に、霊的により成長し、ますますイエス・キリストに似るように変えてくださり、そのために私たちを訓練し、鍛えておられるのです。神様の民の、また家族の一員として適格者になれるように、常に助け、導いてくださいます。試練は、大変逆説的ですが、実に私たちに対する神様の愛の証です。
この典型が主イエス・キリストご自身です。主は十字架の死を中心とするあらゆる試練に耐え、神様への信頼と従順を貫かれました。それに対する神様の報いが永遠の命への復活です。私たちも神様の愛を信じて、主に依り頼んで、御国の永遠の祝福に向かって、如何なる試練にも耐えて進んで行きましょう。
「神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘブライ人への手紙12章7節) (牧師より)