惨めなのか、幸せなのか?
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- 聖書 コリントの信徒への手紙一 15章12節~32節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 15章12節~32節
一生涯を日本宣教に捧げたことについて、私の考えと気持ちをお伝えし、「あなたがたに伝えた最も大切なこと」を再確認したいと思います。
説教題:惨めなのか、幸せなのか?
説教者:ローレンス・スパーリンク(基督改革派日本伝道会宣教師)
中心的主張点:「身体のよみがえり、永久の生命」を主が約束してくださいますので、主の働きに人生を捧げても惜しい事がありません。むしろ、御国のための犠牲があっても、大きな報いが期待できますから、辛いことを耐え忍んで、主の愛に生かされて、永遠の喜びを今から楽しみましょう。
聖書箇所:コリントの信徒へ手紙一15章12-32節(新共同訳聖書p.320)
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒おかしているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
序:今年は宣教師となり、満44年になりましたが、いよいよ退職・帰米になりました。44年って、キリスト改革派日本伝道会の記録だそうですね。でも、いろいろな都合があって、今年の末あたり、このキャリアーを終えることになっています。
これについて複雑な心境になっています。当然です。けれども本日は、この機会を感謝しながら、「最も大切なこと」を再確認したいと願っています。これが今日の聖書箇所で使徒パウロが意図していることです。
1。使徒パウロとコリント教会、また、その他の幼い教会に対して、救いの福音を再確認する機会をつかんで、しっかりと信じるようにと呼びかけています。パウロのほとんどの書簡の一部は同じ意図で書かれています。伝道旅行で作り出した教会に対して、自分が生みの親のような気持ちがあって、せっかくできた教会が堕落してダメになることをぜひ防ぎたいと願っていることがよく理解できます。
イ、たとえば、エペソ教会の例を使徒言行録20章が参考になります。特に教会のリーダー、長老たちを呼び集めて、次のように述べたことが21節、24節に書いてあります。「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。... 自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
(使徒言行録20章21、24節p.254)
ロ、コリントの教会の場合は幾つかの具体的な問題点について健全な信仰にちゃんと留まるように論じて勧めています。救いの道について、夫婦のあり方について、礼拝について、聖霊の賜物について、いろいろあります。場合によって厳しく書きます。場合によって優しく、慰めの言葉を提供します。
ハ、宣教師の大先輩である使徒パウロの気持ちに幾つか同感できます。主の民に加わった兄弟姉妹で仲間もいれば、信仰において自分の子のように可愛い存在がいます。とにかく、個々の方々、また、教会全体について、しっかりと立つように、伸び伸びするように願うわけです。パウロがご自身が福音宣教に励んだように彼らも、同じ熱意を抱いて、その使命を受け継ぐようになることを励ますのでした。私もそのつもりです。
2。さて、今日の箇所、第一コリント15章は復活を否定するようになった教会員の疑問に思っているようになったことがわかります。この問題が深刻な過ちであると考えた使徒はこれをここで取り上げ、正統的な信仰に戻り、あるいは、これに留まるように呼びかけています。
イ、使徒パウロにとって、キリスト・イエス様の復活の事実は「最も大切な教え」であると、救いの信仰の中心的中身であり、オプションではないことを根気よく主張します。なぜなら、これが彼らにとって、救いの有無に関わることであるからです。
ロ、コリント教会のある者たちが体の蘇りの信仰を否定していたように、世々のある人たちも、また、今日にもこの教えに引っかかる方がいます。一種の人々は一切の奇跡的出来事を神話であると判断して否定します。あまり深く考えずに否定する人もいれば、いわゆる「科学的な世界観」を抱くゆえに、直ちに、死んでしまった者が生き返ってくるはずがないと判断するからです。たとえ、いろいろな迷信的思いと行為に参与する日本人でもこのように考えるようになることを十分に想像ができます。おそらく今日の教会の中に、黙って疑問視しておられる方がいると思われます。
ハ、しかしそこで使徒パウロは完璧なロジックで議論して、復活信仰の是正を主張します。昔の人であっても今日の人であってもその論理が通じるはずです。少なくとも当時の場合は、十字架につけられたイエス様が葬られて、三日目によみがえられ、あれだけ大勢の人にご自分の生きておられる姿を見せた証言者がいます。パウロご自身もそうです。死者が復活するはずがないと思い込んでいれば、結局、イエス様の蘇りも否定する結論しかないとパウロが論じるのですね。
二、そしてパウロが言います:復活を否定するのは救われる信仰から外れてしまうことになります。復活があると主張するパウロと他の使徒たちは嘘つきとされ、他の教えを次第に疑問するようになるしかありません。そして、いろいろな危険と苦しみに出会った使徒はこの嘘のために自分の大切な人生を費やしてしまった結果となります。
ホ、けれども、そうではなくて、復活を信じる十分な根拠があるだけではなく、これを信じることによって大きな力が与えられます。だって、生きておられる主ご自身が共に働いておられることが事実であると誰が見ても認めるはずだからです。
使徒言行録の1章3節が参考になる箇所です。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」
ヘ、繰り返しになりますが、使徒パウロは、復活がなければ、自分の人生を無駄に費やしてしまったことになると結論を出しています。しかし、復活があるからこそ、あらゆる敵に立ち向かうことができ、苦しみに耐え忍ぶことができます。最後の敵である死も恐れません。これらの点について私自身は同じです。主の民なら全ての方々は同じなはずです。どうして体の蘇りがありうるのかとまだ十分に理解していらっしゃらない方がいるかもしれません。人が亡くなって、遺体を火葬場に運んで灰にしてしまう、あの体がどうして蘇ることができましょう!いや、石からアブラハムの子孫を造り立たせてくださる、天地万物を創造なさった生ける全能の神に容易にできるはずなのではないでしょうか。問題は結局、復活の可能性を信じないことではなく、生ける全能のお方を信じないかもしれません。あるいはこの唯一礼拝されるべきお方をまだ十分に理解していないかもしれません。
4。「自分の十字架を背負い私に従いなさい」と、主イエス様が呼びかけます。
イ、預言者も、使徒パウロも、主イエス様ご自身も、救いが多くの方に行き届くために、苦しみを拒否しません。迫害が当たり前に起こると主は忠告します。復活があることにこそこの苦しいことに耐える秘訣があります。
ロ、たとえ、犠牲があっても、大きな報いが備えられます。主イエス様がおっしゃったことを思い出しましょう。「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした。イエスは言われた。
『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。』」(マルコ伝10章28−30 節)私自身の体験から言えば、イエス様が語った約束が実現してきたことを証しすることができます。人間ですから失敗も罪もいろいろありますが、主の祝福を十二分受けていて、恥ずかしいほどです。
ハ、パウロの場合は、イエス様の名のために多くの苦しみを味わいました。これらをリストアップしている箇所もあります。第二コリント12章23−29節です。けれども、使徒のために栄冠が与えられることを期待して、最後まで励みました。テモテへの第二の手紙4章6−8節にこう書いています。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」もちろん、私たちは比較にはなりませんけれども、ふつつかな僕に過ぎない私であるのに、ご主人が家に帰ってくるときに忠実な僕に報いるように、私たちにもそれを約束してくださいます。たとえ、自分の義務を最低限に果たしただけであっても、主が豊かな恵みの賜物を持って祝福してくださいます。
二、自分を過度に評価すべきではありません。自分の罪と弱さを、失敗を知っています。けれども、絶えなる恵みを備えてくださる主のためにできることがあれば、犠牲が伴っても、喜びとしてそれに取り組みたいと願っています。私のためにその尊い命を捨てて下さったお方、いや、死者の中から復活なさったお方の救いが一人でも多くの人に伝えられ、父、子、聖霊なる神様の御名が豊かに誉め称えられるようになることを願ってやめません。
結論:私たちは、私たちの信仰に伴って、正義を行い、平和を作り、主の憐れみを広めることがあるはずです。この世において大いに役に立つはずです。不幸の者が幸せになることを求めて、愛のわざに励みます。けれども、一時的なものに過ぎないこの世だけあるわけではありません。天からおいでになる主の再臨の時に、体が朽ちないものに蘇り、大いなる祝福が備えられます。これこそ、私たちの慰めであり、私たちの究極的な希望です。我、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。この信仰にとどまり、この信仰を宣べ伝え続けましょう。決して惨めなものになりません。想像をはるかに超える幸せな者とされます。主のお約束です!
最後に、テサロニケの信徒への第一の手紙、4章16−17を読みます。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と
共にいることになります。」アーメン。主よ、来てください!アーメン!
祈り:恵み深い 愛する天の父なる神様、御子主イエス様によって滅ぶべき私たちに、罪の赦しと新しい永遠の生命を約束してくださり、感謝申し上げます。御子の復活によって私たちの復活への道を切り開いて、たとえ、試練と苦難があっても、すべてを益としてくださることを感謝申し上げます。また、たとえ、この地上を去り、主の御元に召されても、あるいは愛するものを先に御元に送ることがあっても、全能の主の力によってよみがえり、罪無き身にして、全き平安の新しい世に共になることができるようにしくださると約束しておられます。この約束を固く信じて、揺るぎない復活信仰をいつまでも抱き、あらゆる障害を越えて、これを宣べ伝えさせてくださいますように。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。