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2024年08月18日「垂れ幕が裂けた」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章45節~56節

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2024年8月18日 秩父教会主日説教「垂れ幕が裂けた」

先ほどお読みいただきました聖書箇所は、キリストが十字架で亡くなられた、その有様を
描いた箇所です。本日はこの箇所から、御言葉に聞いてまいりたいと思います。
45 節から46節は、十字架上での事実を淡々と述べています。「さて、昼の十二時に、全地
は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レ
マ、サバクタニ』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意
味である。」
別の福音書を参照しますと、キリストが十字架にかかったのは午前9時のことでした。46
節にあるとおり、キリストが亡くなったのは午後3時ごろのことでした。その中間である12
時ごろ、全地が暗くなったと聖書は語ります。この現象に関して様々な説が唱えられていま
す。この暗闇の原因を日食と考える人もいますが、それを否定する人もいます。肝心なこと
は、暗闇という言葉が何を意味しているかということです。これは神の裁きを現します。出
エジプト記には、神がエジプトに暗闇を送られた記述があります。これはイスラエルの民を
なかなか手放そうとしないファラオに対して神が送られた災いの一つでした。神がファラオ
に送られた災いは全部で10ありますが、暗闇の災いは最後から二番目です。ですから、この
暗闇というモチーフは二つのことが近づいたことを意味しています。一つは神に敵対する者
への最終的な裁き、もう一つは神に従う者たちの解放です。本来ならば私たち神に敵対する
者であり、神の裁きを受けるべきでした。しかし、この時キリストがそのような神の裁きを
私たちに代わって味わわれました。だからこそ、キリストは 46 節にあるように叫ばれたの
です。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。この時のキリストほど、この
叫びをするに相応しい人はいませんでした。今まで、キリストはどんな人間よりも密接に神
とつながっていました。マタイによる福音書を遡ると、そのことはっきりと書かれています。
11 章27節です。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る
ものはなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」キリストと神
はこのように密接なつながりを持っていました。そのキリストがこの時、まさに神から見捨
てられるものとしての苦痛を味わわれたのです。この時キリストは人間が味わうべきだった
神に見捨てられる苦しみを味わいぬかれたのです。それはなぜでしょうか。先ほど確認した
暗闇のモチーフのもう一つの意味が、ここで意味を持ちます。神に従う者たちの解放です。
キリストは神に従う者たちの救いのために、十字架の死を受けられたのです。
しかし、十字架の周りにいる群衆は十字架の意味を全く理解していません。47 節から 50
節です。「そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」
という者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、
葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来
るか、見ていよう。」と言った。

キリストは想像を絶する苦しみの中で、神に頼っています。苦しみの中にあっても、キリ
ストは神のことをわが神と呼びます。キリストの叫びは詩篇 22 編の引用です。この詩篇は
最終的に神の力を賛美します。「あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」そのように
詩人は歌います。ですからキリストが十字架で叫ばれた言葉は神への信頼を含むものでした。
しかし、十字架の周りにいる人間たちはそのことを理解していません。彼らはキリストの叫
びをエリヤを呼ぶものとしてとらえました。エリヤは旧約聖書の列王記に登場する預言者で
す。この当時、世界の終りの日の前にエリヤがこの地に到来すると考えられていました。ま
ずエリヤが来て、それから救い主が来ると信じられていました。ですからここでは、キリス
トと人間が対照的に描かれています。彼らはキリストを救い主と信じていません。キリスト
は救い主として、人間を救うために十字架にかかっておられます。一方人間は、そのような
キリストを理解できず、嘲っています。人間の罪はここに極まっています。人間は本来神に
向きあう者として作られました。それができなくなったのが罪です。罪によって、人間は神
に向きあえなくなりました。それだけではなく、神に従う人の行いを人間は理解できず、嘲
り笑うようになりました。
キリストの十字架は、むしろそのような神と人間の関係を元に戻すためのものでした。50
節から53節がそのことを現しています。「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取ら
れた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓
が開いて、眠りについていた多くの聖なるものたちの体が生き返った。そして、イエスの復
活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」
キリストが息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。
この垂れ幕は聖なる場所と普通の場所を分ける、そんな役割を持っていました。聖なる場所
とは、神がそこに臨在しておられる場所を指します。神が定められた祭司という務めの人だ
けが、聖なる場所で働くことができます。祭司は人間を代表して、神に近づくそんな役割を
果たす人たちでした。キリストが十字架の御業を成し遂げられるまで、祭司だけが神に近づ
くことができました。それはなぜかと言いますと、神と人間の間には罪が横たわっていたか
らです。神は正しいお方ですから、罪に相応しい裁きを与えずにはおられません。ですから
本来ならば罪深い人間は誰一人、神に近づくことはできません。罪深い人間が神に近づいた
なら、その人間は直ちに神に滅ぼされることでしょう。しかし同時に、神は人間を愛してお
られます。ですから、神は人間との関係を完全に断ち切ることを望まれませんでした。こう
して、祭司だけは罪ある人間であっても神に近づくことができるようになりました。しかし
神が本当に望んでおられるのは、祭司も含む全ての人間が神に近づくことができるようにな
ることです。そのためには罪が滅ぼされる必要があります。キリストの十字架によってはじ
めて、罪は滅ぼされました。52節は墓が開いたと語ります。この記述によって、キリストの
十字架が人間の罪を滅ぼしたことが明らかになります。罪の結果、人間は死ぬべき存在にな
りました。死こそが人間の罪の結果もたらされた悲惨です。キリストの十字架の死によって、
その死が克服されたのです。キリストの死と同時に、聖なる人たちの墓が開きました。そし
てキリストの復活との後に彼らも復活し、多くの人に姿を見せました。このことは、すべて
の人間の死が克服されたことを示します。十字架での死を成し遂げられたキリストだけでな
く、全ての人間の死が克服されたのです。人間は先ほど見たように神に従うキリストを罵り
ます。しかしキリストはそのような人間の罪を滅ぼすために、十字架の苦しみを味わわれま
した。
十字架の恵みは全ての人に及びます。キリストの十字架の死によって、祭司だけでなく全
ての人が神に近づくことができるようになりました。ユダヤ人は全ての民族の中で祭司の役
割を果たすみ民族でした。ほかのすべての民族同様、ユダヤ人も罪ある人間の集まりです。
しかし神は彼らを選び、彼らに御言葉を語られました。これはユダヤ人だけを救うためでは
ありません。ユダヤ人を通して、全ての民族を救うためでした。キリストの十字架の死によ
って、異邦人にも救いが訪れます。そのことが54節に記されています。「百人隊長や一緒に
イエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、
この人は神の子だった』と言った。」
百人隊長や兵士たちはローマ人です。ですから、彼らはアラム語で語られたキリストの十
字架上の叫びの意味を理解できなかったでしょう。しかし彼らは十字架とそれにまつわる一
連の出来事を見て畏れに打たれたのでしょう。彼らはキリストを神の子であると言い表しま
した。残念ながら、多くの人がこの告白を限定的なものと捉えています。つまり、この百人
隊長はこの告白から真の信仰に導かれたわけではないということです。カルヴァンはこの百
人隊長について、「ほんの一瞬キリストの告知者になっただけ」だと言います。しかしともか
く、キリストの十字架の死は異邦人も神に近づくことができるようにするものでした。
キリストの死によって神に近づくことが許されたのは異邦人だけではありません。神が御
自分に近づくことを特にお許しになった祭司になることができたのは男子だけでした。古代
社会において、女性の人権などは保障されていませんでした。ユダヤ社会において、女性の
言葉というものは信頼に値しないものと考えられていました。裁判のような公式の場で、女
性の証言が正式に取り上げられることはありませんでした。しかし、キリストの十字架を描
くにはそのような女性の証言が必要不可欠でした。55節と56節がそのことを証しています。
「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤから
イエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブと
ヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」
ここで名前を挙げられている女性たちは決して身分の高い女性たちではありませんでした。
むしろ、一般的な女性たちだということができます。おそらく当時の社会において、通常な
ら彼女たちの言葉は顧みられることなどなかったでしょう。しかし、彼女たちがいなければ、
マタイはキリストの十字架についてここまで詳しく書くことはできなかったことでしょう。
ユダヤ社会では信頼に値しないと考えられていた女性の言葉が、聖書のために用いられたの
です。これも、キリストの十字架によって成し遂げられたことです。罪の結果、男性が女性
を支配するようになりました。神は罪を犯したエバにこう言われました。「お前は男お求め、
彼はお前を支配する。」これも死と同様、罪によってもたらされる悲惨です。しかし、キリス
トはこの悲惨をも克服されました。もはや男性が女性を支配することはあり得ません。男性
も女性も、神に近づくことができるように変えられたのです。
キリストが苦しみを味わわれたことによって、神を信じる者が実際に解放されました。本
日の箇所は、この驚くべき恵みを語っています。初めの人間であるアダムとエバは初めて罪
を犯したときに、神の前から隠れました。この時、神と人間との関係は切れてしまいました。
神は正しいお方です。ですから人間の罪を見て見ぬふりをすることはできません。罪に対し
て何かペナルティを与えることを、神は望まれます。しかし同時に、神は人間を愛しておら
れます。人間の救いを望んでおられます。神の罪に対する怒りは非常に強いものです。です
から人間がそれに耐えることはできません。しかし罪を犯したのは人間ですから、人間がそ
のペナルティを受けなけれればなりませんでした。こうして、真の神であり真の人であるキ
リストが十字架にかかられることになったのです。キリストは人間として、どうして私をお
見捨てになったのですかと神に叫ばれました。それほどの絶望を、人間としてキリストは味
わわれました。しかし同時にキリストは人間として、死に至るまで神を信じ抜かれたのです。
キリストが人間として苦しまれ、同時に人間として神を信じられた。この事実によって人間
は罪から解放されました。十字架はまさに、暗闇が象徴していたように、罪への裁きと神の
民の解放を告げるものでした。
キリストが、罪への裁きをすべて引き受けてくださいました。わが神、わが神、どうして
私をお見捨てになったのですか。この問いは本来わたしたちが言うべき言葉でした。しかし
もうわたしたちはこの言葉を口にする必要はありません。そして、わたしたちと神を隔てる
ものはもうありません。神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けたのです。ですから、
神は今やわたしたちの身近にいてくださいます。まさに親子のような近い関係で神は私たち
に接してくださるのです。わたしたちはキリストのように困難な中で神を信じる必要はあり
ません。むしろ百人隊長や兵士たち、女性たちのように何もしていなくとも、神がその働き
を用いてくださるのです。わたしたちは彼ら彼女らのように、目の前にいる救い主を目の当
たりにすることができるのです。わたしたちが味わうべき苦しみを引き受け、わたしたちを
解放してくださったキリストの恵みを覚えて、今週も歩みましょう。お祈りをいたします。

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