ふさわしくない賃金
- 日付
- 説教
- 安崎嗣穂 神学生
- 聖書 マタイによる福音書 20章1節~16節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 20章1節~16節
2024年8月11日 秩父教会主日説教「ふさわしくない賃金」
先程お読みしました聖書箇所は、「ぶどう園の労働者」のたとえと言われるたとえ話です。この
たとえ話は大変有名ですので、今日初めて教会に来られたという方も聞いたことはおありではな
いかと思います。今日は、このたとえ話が指し示すことはいったい何なのか、皆様と共に考えて
まいりたいと思います。
まず冒頭で、この話が何の話なのかが示されます。「天の国は次のようにたとえられる。」この
たとえ話は、あくまでも天の国の話です。このたとえは「ぶどう園と労働者のたとえ」という題
ですが、ぶどう園の経営方法の話ではありません。こんなぶどう園の経営の仕方をしなさい、そ
のようなことを教えるのがこのたとえ話の目的ではありません。天の国の有様を示すのが、この
たとえの目的です。では、天の国とは何でしょうか。日本で天国と言いますと、亡くなった方が
行く国のように思われているかと思います。しかし、キリスト教の天の国というのは亡くなった
方が行くというだけのものではありません。キリストは「悔い改めよ、天の国は近づいた」とい
う言葉でご自身の教えを始められました。ですから、天の国というのはキリスト教の教えのまさ
に中心にあると言ってもよいでしょう。この天の国については後程もう少し詳しく解説をいたし
ます。とりあえずここでは、このたとえ話がぶどう園の経営などを教える話ではないということ
をご理解下さい。
それでは肝心の内容に入りましょう。1節の後半から7節までをお読みします。「ある家の主人
が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナ
リオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろに行ってみると、何もしないで広
場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払って
やろう。』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにま
た出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、
何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです。』
と言った。主人は彼らに、あなたたちもぶどう園に行きなさいと言った。』」
ここまでが、まずは一つの場面です。現在でも忙しい時期に臨時アルバイトを雇うということ
は一般的なことです。ぶどう園も収穫期には忙しいので、労働者を雇うのは一般的なことです。
また、一日につき一デナリオンという賃金もまっとうなものです。当時一日の日当は基本的に一
デナリオンと定められていました。そして当時は、仕事を求める人々が広場に集まって立ってい
るということも一般的なことでした。これらの点で、このたとえ話の筋は当時の極めて一般的な
事柄を描いていると言えます。しかしこのたとえ話の筋の変わった点は、主人が行動を繰り返す
点にあります。主人は早朝、九時、十二時、三時、五時と、一日に合計五回も労働者を呼び集め
に行きます。後にも少し触れますが、この当時の労働時間はおおよそ午後六時までだったと考え
られています。ですから、あとのほうに呼び集められた労働者はほんの短い間しか働けなかった
ことでしょう。にもかかわらず、主人は労働者を呼び集めます。ここでは、労働時間の違いがは
っきりと示されています。その一方で、初めに雇われた労働者以外は、どんな約束で雇われたの
かははっきりしません。4節で、九時ごろに雇われた労働者には「ふさわしい賃金を払ってやろ
う」と言われています。ふさわしい賃金とはいくらなのか、はっきりとは記されていません。労
働者の中で労働時間に差があり、その一方で労働に際しての約束はぼかされている。このことは
言ってみれば後に起こることの伏線です。
その伏線は、次の場面で回収されます。8節から12節です。「夕方になって、ぶどう園の主人
は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて、最初に来たもの順に賃金を払って
やりなさい。』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取っ
た。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一
デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、
一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを
同じ扱いにするとは。』」
労働者たちが働いた時間はまちまちでした。先ほども確認しましたが、この当時は通常午後六
時までが労働時間でした。ですから、五時に雇われた人たちは一時間しか働けなかったのです。
そして、先ほどの伏線は賃金支払いの場面で回収されます。驚くべきことに、労働時間の違いに
かかわらず、賃金は全員同じ一デナリオンだったのです。これは不当なことでしょうか。このた
とえ語を確認すると、主人のこの行為を不当ということは決してできません。最初に雇われた労
働者は、一デナリオンの約束をしていました。10節にあるように、彼らはただ自分たちはもっと
多くもらえるだろうと思い込んでいただけなのです。主人は彼らとの約束を破っていません。た
だ、彼らよりも短い間しか働かなかった労働者にも、全く同じ額を払っているだけなのです。そ
のことに関して、最初に雇われた労働者が文句を言う筋合いはありません。主人もそのことはよ
くわかっています。だからこそ主人は次の場面で彼らを諭します。
13 節から15節です。「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。
あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わ
たしはこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいように
しては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。』」
先ほども確認した通り、主人は最初に雇われた労働者たちに、何ら不当なことをしていません。
むしろ彼らとの約束を守っています。そして、ほかの人たちにどのくらいの額を払うかは主人の
自由なのです。この主人は 15 節で自分が言うように、とても気前のよい人だったようです。で
すから、最後の一時間しか働かなかったそんな労働者にも、一日分の賃金に相当する一デナリオ
ンを支払ったのです。自分の財産を処理する権利は確かに自分自身にあります。ですから、主人
のこの振舞いは変わっていると言えるとしても不当ではありません。他人と自分を比較して勝手
に不公平感を抱かず、自分に与えられた分に満足して帰るように、主人は勧めます。
以上が、この話のあらすじです。このたとえ話は話としてよくできており、ポイントも理解し
やすいかったかと思います。しかし、この話は一体を言おうとしているのでしょうか。たとえ話
というのは、何かを指し示すために用いられるものです。このたとえ話はいったい何を指し示そ
うとしているのでしょうか。これはなかなかわかりづらいことです。先ほども言いましたが、こ
のたとえ話はよくできた話です。人間の現実に根差した話です。そのため、このたとえ話が一人
歩きしてしまうということもよくあります。このたとえ話が指し示すことはいったい何か。それ
はこのたとえ話が語られた文脈をよく考える必要があります。
実は、16 節はそのことを考える上でとても大事な節です。「このように、後にいるものが先に
なり、先にいるものが後になる。」
この言葉は、このたとえ話の直前の箇所の最後にとても似ています。聖書をお持ちの方はこの
たとえ話が始まるすぐ前、19章の30節をご覧ください。そこにはこうあります。「しかし、先に
いる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になる。」実は、このたとえ話は、19章30
節のこの言葉を説明するためのたとえ話だったのです。ギリシャ語原文で見ますと、20章の1節、
このたとえ話の初めには「なぜなら」という接続詞がついています。このことも、このたとえ話
が19章30節の言葉の説明であることを示しています。ですから、このたとえ話を本当に理解す
るためには直前の箇所を理解する必要があります。直前の箇所は19章16節から始まりますが、
そこには新共同訳では「金持ちの青年」という題がついています。この「金持ちの青年」の箇所
には、二つの問いかけが出てきます。19章16節「先生、永遠の命を得るには、どんな善いこと
をすればよいのでしょうか。」27節「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って
参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」初めの問いは金持ちの青年がキ
リストに尋ねた問です。後の問いはキリストの弟子の筆頭格であるペトロがキリストに尋ねた問
です。このように、この問いは全く立場の違う二人が発した問ですが、一つの共通理解に基づい
ています。それは、神が人間の働きに応じて報いを与えてくださるという理解です。この二つの
問いは、人間が何かをしたから、神がそれに応じて与えてくださるという考えに基づいています。
金持ちの青年は善いことをすれば、永遠の命という報いが得られると考えていました。ペトロは
自分たちがすべてを捨ててキリストに従ったから、何かをもらえると信じています。一般常識で
考えるなら、この二人の考えは全く正しいものです。普通なら、労働に見合った賃金が与えられ
るべきですし、そうであるはずです。しかし、ここで言われているのは神の恵みについてです。
金持ちの青年も、ペトロも、神の恵みを求めています。
初めに確認した通り、このたとえは天の国のたとえです。神が恵みをどのようにお与えになる
かが、このたとえの主題なのです。そのことを頭に入れて、もう一度このたとえを読んでみまし
ょう。主題がわかると、それぞれの登場人物やアイテムが何を現していたかがはっきりします。
このたとえに登場するぶどう園の主人は、神です。労働者はわたしたち人間です。そして報酬の
一デナリオンが、私たちに与えられる恵みなのです。このように整理してみますと、このたとえ
話が伝えたかったことがはっきりすると思います。一言で言いますと、神は気前の良いお方だと
いうことです。それは15節で言われていることです。
ぶどう園の主人は労働者がどれほどの仕事ができたかを気にしませんでした。同様に、神は私
たちがどのくらいの奉仕ができるかを気になさいません。ぶどう園の主人は一日に五回も労働者
を捜しに行きました。同様に、神は何度でも私たちを招いてくださっています。神はできるだけ
多くの人に恵みを与えることを望んでおられます。
このたとえ話における一日は、しばしば人生に譬えられます。人生のどの段階で神に従ったと
しても、同じ恵みが与えられます。そして、この一日を人生であると考えるなら、6 節の記述は
とても味わい深いものになると思います。ここに登場する労働者たちは、5時になっても広場に
立っていました。彼らは仕事を求めていましたが、それが得られなかったのです。なにかしらの
事情が彼らにはあったのでしょう。けがをしていたのかもしれません。年を取っていたのかもし
れません。しかし、それでも彼らは仕事を求めていました。彼らはぶどう園の主人に言います。
「誰も雇ってくれないのです。」彼らを雇ってくれる人は誰もいませんでした。しかし、そのよう
な人にもぶどう園の主人は言います。あなたたちもぶどう園に行きなさい。求めても得られない、
そんな苦しみの中にいる人々をも、神は招いてくださいます。そして、他の労働者と変わらない
恵みを、一デナリオンの賃金を与えてくださいます。
そしてこの話を神が人間に恵みを与える話だと考えると、もう一つのことがわかります。それ
は、神の気前の良さが全ての労働者に対して発揮されていた、ということです。このたとえで労
働者と言われている人間は全て、神の下から離れたものだからです。キリスト教ではすべての人
を罪人と考えます。日本で罪というと、犯罪を思い浮かべることが多いと思います。しかし、キ
リスト教の罪というのは違う意味です。キリスト教で罪というのは、神との関係が破綻している
ことを指します。人間は本来、神に従う者として作られました。しかし、人間は神に逆らい、神
の下から離れたのです。この件に関して、神は全く悪くありません。神は人間に十分な恵みを与
えておられました。にも拘らず、人間は神に背いたのです。本日のたとえ話で、ぶどう園の主人
は約束を守りました。1日につき一デナリオンの約束で労働者を雇い、その通りに支払いました。
これを神が人間に対してしてくださることと考えると、神の気前の良さは明らかです。人間は一
度神との約束を破りました。神に従うという約束を破り、神の下を離れました。そんな人間たち
に、神は一デナリオンという恵みを与えてくださるのです。神はそれほど、気前の良いお方なの
です。
神は気前の良いお方です。すべての人に惜しみなく恵みを与えようと招いてくださるお方です。
そしてその招きに応えれば、神は必ずや恵みを与えてくださいます。この神の招きを、今日は皆
さまと共に覚えたいと思います。一言お祈りをいたします。