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2024年08月25日「近づかれる神」

聖句のアイコン聖書の言葉

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章11節~20節

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2024年8月25日 秩父教会主日説教「近づかれる神」

先ほどお読みいただきました箇所は、キリストの復活後の出来事を描いた聖書箇所です。
本日はこの箇所から、御言葉に聞いてまいりましょう。
キリストが十字架にかかって亡くなられた後、ユダヤの指導者たちは番兵にキリストの墓
を見張らせました。それは弟子たちがキリストの御遺体を盗み出し、キリストは復活された
と主張することを防ぐためでした。実のところ、弟子たちにはそんな余裕は全くありません
でした。彼らはキリストの死後、絶望と悲しみに打ちひしがれていたのです。
しかし、弟子たちの力を借りるまでもなく、キリストは復活されました。番兵たちはその
一部始終を目撃していました。本日の箇所に先立つ箇所で、復活の際に起こったことが描写
されています。キリストの墓は厳重に封印されていました。大きな石が墓の入り口をふさい
でいました。復活の際、天使がその石をわきに転がしたと聖書は語ります。その時大きな地
震が起こったとも伝えられています。番兵たちはその一部始終を目撃していました。彼らは
その時、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったそうです。その間に、石をわき
に転がした天使たちと墓を見に来た婦人たちの間でやり取りがなされました。
婦人たちが墓を立ち去ってから、ようやく番兵たちは息を吹き返したようです。彼らは恐
ろしいことに気づきました。彼らは職務に失敗したわけです。下手をすると処刑されてしま
うかもしれません。彼らはローマ兵でした。ローマ総督はこのような失敗をした彼らを赦し
はしないでしょう。ですから彼らは自分たちに墓の見張りを任せたユダヤの指導者たちに相
談に行きました。これが、11節に書かれていたことです。「婦人たちが行きつかないうちに、
数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。」
ここでユダヤの指導者たちは復活の一部始終を聞きました。おそらく、この時は彼らが復
活を信じるために与えられたチャンスだったことでしょう。しかし、彼らは依然として復活
を、キリストを信じることができません。人間はこれほどに頑ななものです。それどころか、
彼らは嘘の話を作ろうとします。12 節から 14 節は、その話の内容を語っています。「そこ
で、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『『弟
子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んでいった』と言いなさい。もし
このことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないよ
うにしよう。」
この作り話は非常に馬鹿げた話です。本当に番兵たちが寝ている間に遺体が盗まれたなら、
なぜ弟子たちの仕業であると断定できるのでしょうか。大きな石で封印されていた墓から弟
子たちが遺体を盗む間、兵士たちは皆ぐっすり寝ていたのでしょうか。このように、この作
り話はとても馬鹿げた話です。今日、復活を馬鹿げた話だという人がいます。しかし復活と
同じ時代に生きた人間たちが、復活を否定するために作った話がこれほどに馬鹿げているの
です。これはむしろ復活が事実であることを指し示すのではないでしょうか。このような馬
鹿げた話を信じるくらいなら、復活を素直に信じることの方が理に適っています。しかしそ
れでも、復活ということを信じたくない人々は依然として存在します。それ故、このような
馬鹿げた話が一定の範囲に広まっています。15 節です。「兵士たちは金を受け取って、教え
られたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」マタイは、
この話を示すことによって復活を否定する考えが破綻していることを示そうとしたのでしょ
う。確かに復活というのは信じがたいことです。復活後のキリストに直接会った弟子たちの
中にも、疑ったものがいました。16節から17節です。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤ
に行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しか
し、疑う者もいた。」復活後、キリストを直接目撃した人の中に、疑う人がいたということは
驚くべきことです。一体どういうことなのでしょうか。ここで使われている疑うという言葉
は、ここも含めて二回しか聖書に出てきません。もう一度出てくるのは同じマタイによる福
音書の14章31節です。その箇所は、キリストが湖の上を歩かれた箇所です。ペトロがキリ
ストに対し、自分も湖の上を歩かせて、あなたのそばに行かせてくださいと頼みました。ペ
トロは少しだけ湖の上を歩くことができましたが、強い風に気を取られて沈みそうになりま
した。その時、キリストはペトロを助け、こう言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑った
のか。」この時の疑うという言葉が、本日の箇所の 17 節の「疑う」という言葉と同じです。
この言葉には「ためらう」という意味もあるそうです。湖の上を歩いたペトロは深刻にキリ
ストのことを疑ったわけではありません。彼は沈みかけた時に、「主よ、助けてください」と
叫んでいるからです。ですからこの疑うという言葉は、深刻に疑うというよりは、信じるこ
とをためらうというような意味でしょう。復活のキリストを見た者たちも、同じ心境にあっ
たのでしょう。深刻に疑ったというよりは、復活を信じることにためらいがあったというべ
きでしょう。彼らもすぐにその疑いを拭い去られ、ひれ伏してキリストを拝んだことでしょ
う。確かに復活を信じることは困難です。しかし先ほども確認しました通り、復活を信じる
方がはるかに理に適ったことなのです。
一度復活を信じるなら、キリストの権威を疑うことはもはやできません。復活という信じ
がたいことを成し遂げた方に、特別な権威があることは明らかです。18節です。「イエスは、
近寄ってきて言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』」これまでにもキリ
ストの権威が垣間見えることはありました。しかし基本的に、復活の時までキリストの権威
は隠されていました。この時初めてキリストの権威の全貌が明らかにされました。天でも地
でも普遍的な権威をキリストはお持ちなのです。そんな権威を持った人間は今までいません
でした。ですからこれも信じがたいことです。しかし復活を信じたなら、このキリストの言
葉を信じることは容易だったことでしょう。そして、キリストは復活を信じ、ご自身の権威
を認める者たちに特別な命令を与えます。19節から20節です。「だから、あなたがたは行っ
て、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに教えておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、い
つもあなたがたと共にいる。」
キリストがお与えになった命令は驚くべきものでした。すべての民をわたしの弟子にしな
さい。この時まで、キリストはユダヤの領域でのみ活動しておられました。しかし今や、ユ
ダヤ人だけでなく全ての人にキリストの弟子になる権利が与えられたのです。そしてその弟
子になるということに際して必要なこととして、二つのことが挙げられています。洗礼を授
けること、命じられていることを守るように教えることがその二つです。父と子と聖霊の名
によって洗礼を授けるようにここでは言われています。これは、父と子と聖霊の名のうちに
というニュアンスを含みます。洗礼は三位一体の神とつながることを示すものなのです。洗
礼によって、わたしたちが神につながっていることが明らかになるわけです。そして、洗礼
を受けて終わりではありません。あなたがたあなたがたに銘じておいたことをすべて守るよ
うに教えなさいとキリストは命じます。弟子たちはここまで、キリストから特別な教えを受
けていました。それはこの時まで、弟子たちしか知らず、弟子たちしか守る必要のないもの
でした。しかし今や、神を信じる全ての人がそれを守るように命じられます。つまり、この
マタイによる福音書をはじめとする聖書で言われていることを保存し、実行することが求め
られています。そんなことができるのか、そう思われるかもしれません。もし私たちの力だ
けを見るならば、この命令は実行不可能です。先ほど確認した通り、復活を否定する考えも
この世界に広まっています。私たちの力だけでは、そのような悪の力に対抗することは困難
です。しかし、この命令を実際になし遂げるのはわたしたちの力ではありません。神の力な
のです。キリストは言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
復活を成し遂げられたキリストが、私たちと共にいてくださるのです。それ故にこそ、私た
ちはこのキリストの命令をなすことができるのです。もはや私たちを支配していた死の力は
打ち破られた。復活はそのことを証しています。キリストが来られるまで、神と私たちの間
には罪が横たわっていました。神は罪を憎まれるお方です。ですから罪への裁きを行わない
ことはできませんでした。キリストの十字架によって、罪の裁きが成し遂げられました。も
はや神が人間の罪を問われることはありません。それどころか、キリストが成し遂げられた
功績を、神は人間のものとして認めてくださいます。人間が神の子として、神の前に立つこ
とができるのです。復活こそその根拠です。その根拠に基づいて、神の子に相応しい道を歩
むように。これが今、この命令を通してわたしたちに告げられていることです。わたしたち
は神の交わりに入れられ、神が命じられたことを喜んで守ることができるように変えられた
のです。
本日の箇所が語るのは驚くべきことです。復活が信じがたいことであると本日の箇所は語
っています。祭司長も、長老も、そして弟子たちも復活を信じられなかったのです。13節で
祭司長たちが復活を否定するために作った話は先ほど確認した通り、非常に馬鹿げています。
彼らもそのことは分かっていました。しかしそれでも、彼らは復活を信じられず、このよう
な話を作るしかなかったのです。17 節には、「しかし、疑う者もいた」と記されています。
これは、弟子たちの何人かが復活を信じなかったということではないと思います。ほかの福
音書の記述などを参照しますと、弟子たちは全て、復活について疑いを抱いていました。弟
子たちも、復活を信じられなかったのです。16 節で、弟子たちは十一人と記されています。
キリストは十二人の弟子を選ばれました。その内のイスカリオテのユダはキリストを裏切り、
そのことを悔いて自殺しました。そのためここでは十一人と記されています。しかし、この
十一人という数は単にそういう事実だけを現すものではありません。多くの学者が、この時
十一人の弟子たちしかこの場にいなかったとは考えていません。もっと多くの人々がこの時
復活を目撃したと考えられます。この十一人という数は、あくまでも象徴的な数なのです。
十二という数が、聖書では大きな意味を持っています。イスラエルには十二の部族がいまし
た。ここで言われている十一人という数は、不完全であるということを表します。意味ある
数である十二にひとつ足りない、そんな不完全な数です。弟子たちは不完全でした。彼らは
旧約聖書の預言も知っており、またキリストから復活について知らされていました。にも拘
らず、彼らはこの時実際にキリストに会っても、復活を信じられないのです。
そのような彼らに、キリストの方から近づかれました。ここが肝心なところです。復活を
信じていないという点で、弟子たちは祭司長たちと何ら変わるところはありません。彼らと
祭司長たちの違いは、キリストが彼らには近づかれたということだけです。復活を信じるの
は難しいことです。もし私たちが、自分の理性や常識だけで信じようと思うなら、復活を信
じることなど不可能です。先ほどから私は復活を信じるほうが理に適っていると繰り返して
います。しかしそれは復活を信じた後に言えることです。復活を信じられないなら、馬鹿げ
ていることは薄々わかっていても別の話を信じるしかないのです。復活を信じるためには、
キリストの方から近づいてくださるその恵みが必要なのです。ただ神の一方的な恵みによっ
て、私たちは復活を信じることができたのです。わたしたちも本来ならば祭司長たちのよう
に、馬鹿げていて、おぞましいデマを流していたことでしょう。たまたま、私たちには分か
らない理由によって、キリストが復活の神秘を私たちに示して下さったにすぎません。そし
てそのような私たちに、キリストは務めを与えてくださいます。その復活という神秘を伝え
るという素晴らしい使命を、私たちは委ねられました。そればかりか、キリストは今日も、
私たちにこう言ってくださっています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共に
いる。」今週もこの神の大いなる恵みを覚えて歩もうではありませんか。お祈りをいたします。

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