さあ立ちあがろう
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- 説教
- 小堀昇 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 26章36節~46節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 26章36節~46節
「さあ立ちあがろう」
イザヤ書51:17
マタイ26:36-46 2024年6月9日(日)
1.矛盾する願いの中で
2. さあ立ち上がろう
I.矛盾する願いの中で
さてイエスと弟子達は祈るために、ゲツセマネに来られました。それはイエスが罪人、そのものとして、十字架で神から刑罰を受けるための心備えをする必要があったからでした。
この祈りは十字架の御苦しみを先取りしたもので、人類を救うためには、不可欠な祈りの時でした。正に究極の霊的な戦いの世界をイエスは、このゲツセマネの祈りで経験されました。
ゲツセマネにつかれたイエスは、三人の弟子達を連れて、更に奥深い静かな所へと進まれます。
この三人の弟子達は、イエスの祈りの支え手であると共に、イエスの苦悩を証しするものでもあったのです。あのアマレクと戦ったときに、モーセが手を挙げて祈っている間は、イスラエルが優勢になったと言われているモーセの祈りの手を右と左で支え続けた、アロントフルのような存在です。
しかし、弟子達は、それに応えることができずに、皆寝入ってしまいました。しかも、一度ならず、二度、三度までです。でも、イエスはそのような弟子達を責めることなく、心は燃えていても、肉体は弱いと庇われました。
そして遂に祈りの時は終わりました。イエスは遂に敵に身を委ねる覚悟ができたのです。サタンに祈りの内に、勝利されて、神の贖いの御計画、即ち人類の罪を背負って、十字架に架かるという、神の御心に、完全に従われたのです。
祈るに時があります。しかし、又立ち上がるにも時があるのです。この個所は次のような流れになります。
イエスは弟子達と祈るためにゲツセマネに行かれました(ver36)。中でも三人の弟子達をそば近くまで連れて行って祈り始められました(ver37)。イエスは彼らに一緒に祈るように要請されます(ver38)。
そして、イエスはご自身の思いではなくて、神の御心がなるようにと祈られました(ver39)。しかし、イエスが弟子達の所に戻ってみると彼らは眠り込んでいました(ver40-41)。
そしてそのようなことが、二度(ver42-43)、そして、三度と繰り返されました(ver44-45)。
こうしてイエスは祈りを終えて立ち上がられて、ご自身を捕らえに来た敵たちと対峙されることになったのです(ver46)。
ここは、マルコ14:32-42,ルカ22:39-46に平行記事があります。
「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた」(ver36)。
「ゲツセマネ」とは、ヘブライ語の、「ガトゥシェネマイ」という言葉をギリシャ語に書き直した言葉です。「油が圧縮する」という意味の言葉です。福音書以外には出て来ない地名です。
エルサレムからキデロンの谷を渡り、オリブ山に向かう斜面の何処かにこの地域はありました。それほど広い場所ではありません。「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた」(ver36)。
この「言われた」とは、現在形ですから、念を押すように語られたことを意味しています。「向こうへ行って」という言葉はこの時以前にも、イエスが、この場所に来て祈っておられたことが暗示されています。
そこは正にイエスが、神と交わる聖所でした。イエスだけが入ることができる場所です。ですからイエスは、ここに座っていなさいと命じられたのです。
「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた」(ver37)。しかし、イエスは、この祈りの聖所に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけは連れてきました。
この三人はイエスの山上の変貌(イエスの御衣が白く変わり、モーセとエリヤと語り合っていた)の時にもそば近くに来ることが許されました(17:1)。
山上の変貌は、イエスの栄光のクライマックスです。しかし、今日のゲツセマネの祈りは、イエスの謙卑のクライマックスでもあります。
この二つの両極端のクライマックスに、ぺトロ、ヤコブヨハネは共にいることが許されました。
この三人をイエスが連れて行ったのは、イエスの祈りの支えてになってほしかった事と、イエスの苦悩の証人となって欲しかったからでした。
イエスはゲツセマネの祈りでご自身の苦悩を余すことなく披歴されます。悲しみ悶えとは、七転八倒の苦しみを表すのに使われます。
始められたというのはその苦悶が、その苦しみが、かなり長時間に及んだことが言われているのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(ver38)。
悲しみが高じて、死ぬほどであるというイエスの言葉です。精神的な苦悩の正にクライマックスです。
イエスの生涯には悲しいことが山ほどありました。家族との軋轢、ファリサイ人、律法学者達との対立、弟子達の否認、ユダの裏切り。もう少し先のペトロの三回の否認。そして、無理解な群衆。しかし、どれを一つとっても、この悲しみに勝るものはありませんでした。
今迄イエスはご自身の弱さ、苦悩をさらけ出されることはありませんでした。しかし、正にゲツセマネでは、人間イエスとしてその弱さ、悩み、苦しみを、十分に味合われました。これは単にイエスの人間としての苦しみに起因しているものではありません。
霊的に考えるならば、全人類の罪を自分の身に負うという、神からの刑罰を避雷針のように、一心に背負われたことに由来する、悶えであり、悲しみなのです。
目を覚ましていなさい。これは見張り続けよ、警戒し続けよという言葉です。弟子の三羽烏ですらも近づくことが許されないような聖所において、イエスは弟子達に、全人類の罪を背負うという苦悩の目撃者たれと弟子達に、見張り、警戒を促されたのです。
「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(ver39)。
この祈りは、人間イエスとしての苦悩から救ってほしいという切なる願いです。同時に、自分の思いではなく、神の御心がなりますようにという祈りでした。
「うつ伏せになり」、今迄多くの人がイエスの前に平伏してきました。しかし、ここではイエスが神の御前に平伏しているのです。
イエスが正に罪人そのものになられたという事です。「父よ」、これは「我が父よ」という意味です。イエスは十字架に架かる直前に至るまで、天の父なる神を、私との父よ(アッバ~)と信頼しておられました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(ver39)。
「更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(ver42)。
できることなら(ver39)。これはできるか否か分からないという事ではなくて、神よ、あなたならおできになるのですからという信頼です。
ギリギリのところで、尚イエスは神を信頼しているのです。
「杯」(ver39、42)。これは言わずもがなで人間の罪に対する神の刑罰です(イザヤ書51:17、詩編11:6、エレミヤ25:15-16)。
しかもこの「杯」とは、全人類の罪を一身に背負うという杯です。「過ぎ去らせて下さい」。とは、経験しなくてもよいようにして下さいという言葉です。
「過ぎ去らないのでしたら」(ver42)。これは、「杯を経験せざるを得ないのでしたら」という意味です。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(ver39)。
そして、前の文章を否定する言葉が使われて、あなたの御心のままにが、強調されているのです。
更にイエスは一歩進んで「あなたの御心が行われますように。」(ver42)。祈りの内に、ここまで整えられてきているのです。
ゲツセマネの祈りは、自らの願いと神の意志が矛盾するときに、神の道を選択することの素晴らしさを教える祈りであると共に、これは、聞かれない祈りの典型です。
私達も又、自分の願いと神の御頃が矛盾するような所を通らされる事があります。苦悩の「杯」は誰の人生にも置かれているのです。それを飲まずに済むのならば、「杯」は飲まずに越したことはないでしょう。
しかし、自分の願いと神の御心が違って、その「杯」を飲まねばならぬ時があるのです。そのような、相矛盾した、苦しみの祈りをせざるを得ないときもあります。
しかし、そのようなときに、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(ver39)。と神の御心に従っていく、そのよう歩みさせて頂きたいと思います。
II.さあ立ち上がろう
人類の為に、ゲツセマネの園で、祈りの中で、霊的な戦いを展開されたイエスに対して、弟子達の姿はそれと全く対照的です。
彼らは眠っています。眠っている。弟子達は、ここで三度も眠りこけているのです。眠っていたというのは、「うとうと」ではないのです。彼らは熟睡していたのです(ver40-41、43-44)。
なぜ彼らは、イエスが十字架の直前霊的な戦いをしていた、ゲツセマネの園で眠りこけていたのでしょうか。それは突き詰めると、イエスの警告を彼らは自分のこととして聴いていなかったからです。
「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(ver34-35)。
イエスの警告を彼らは、自分のこととして聴いていないのです。聖書に書いてある警告を自分の事として、聴くことがないクリスチャン達は眠ります。
イエスは優しいお方です。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(ver41)。敢えて弟子達を庇うような言い方をされています。
しかし、彼らは、ガリラヤ湖上で、徹夜をさえ厭わなかった弟子達です(ルカ5:5,ヨハネ21:3)。荒れ狂う湖上で、一晩中漕いでいたような屈強の漁師です(14:24-25)。
ですから、彼らの肉体が弱かった。だから眠っていたのではないのです。勿論、時が夜遅かったというのもあるでしょう。しかし、突き詰めると、彼らの心の目が眠っていたのです。ですから、肉の目も眠ったに過ぎないのです。
ですから、彼らが眠っていたことは、これからイエスを捨てて、ちりじりばらばらに逃げていくことの前兆であり、イエスを三回も知らないという心の先駆けでしかなかったのです。
大体、初めから一度も祈らないクリスチャンはいません。一度や二度ならば、誰でも目を覚まそうと努力すると思います。敢えて厳しいことを申し上げますが、例えば誰でも、一度や二度ならば、祈祷会にも来ます。しかし、長続きしないのです。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚からですましていられなかったのか」(ver41)。要は長続きしないのです。
ですから、私達は、祈りに於いて、長続きしたいと思います。祈ることに於いて眠ることがないようにしたいと思うのです。では最後にそのためにどうすればよいのでしょうか。
イエスは言われました。ここを離れず、「わたしと共に目を覚ましていなさい。」(ver38)。「目を覚まして祈っていなさい」心は燃えても、肉体は弱い。」(ver41)。
だから目を覚ますのです。目を覚ますというのは、心の目を覚ますということです。
そして最後に、立ち向かうのです。「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(ver45-46)。
時が近づいた。これはいよいよイエスが罪人たちの手に渡されるときが来ているということです。
立て、行こうとは、レッツゴーというニュアンスです。イエスは苦しんで、苦しんで、祈りに祈られた、ゲツセマネの園の祈りで勝利されて、人の罪を背負い、十字架におかかりになられることが、御心であることを確信して、罪人達の手に捕らえられるために、ご自分の方から、ファリサイ人、律法学者達に立ち向かっていかれたのです。
ですから、私達も立ち向かうのです。禅問答のようでもありますが、眠ってしまっている人が祈ることができるようになるには、祈れない人が祈ることができるようになるには、結局祈るしかないのです。そういう意味で祈りは修練です。
私達は、祈れないからこそ、祈るのです。そして、祈って行くうちに、祈ることができるようになるのです。
どうか弟子達のように自分の弱さも分からずに眠りこけてしまうのではなくて、イエスのように神の御心を受け取って、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(ver45-46)。
祈りによって、神の御心を確信して、立ち上がって行く、そのような祈りの生活をしていこうではありませんか。
ドイツの宗教改革者マルチン・ルター(1483ー1546)は、ドイツ皇帝カール五世によって1521年4月17日、ついにウォルムスの国会に出頭を命じられた。
皇帝は対仏政策上、法王と結束する必要があったので、法王のごきげんをとるために、ルターの福音主義的主張を取り消させようとした。
国会において彼は、いくつかの聖書講解書や『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』などの問題の書物をうず高くつまれ、それらの取り消しを強く迫られた。
ルターは予期していたことであったが、一日の猶予を得て、その夜、神のみ前に自分の態度をいかにすべきか祈りつづけた。
翌朝、彼の覚悟は以前に増して強くなっていた。
国会で彼は、自分の信ずる「信仰による義」を大胆に表明し、それにつき説明をした。
そして、聖書から導き出された自分の信仰による主張を、なおも堅持することを表明した。
「聖書によって誤りであることが指摘され、理性によってそれが誤りであることが悟らされるまで、自分の説は撤回しすることができない」
彼は最後に祈りをもって結んだ。
「私の良心は、聖書にとらえられている。
私は良心に逆らうことはできない。
神よ、助けたまえ」