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2024年05月26日「最初はたとえ小さくても」

最初はたとえ小さくても

日付
説教
小堀昇 牧師
聖書
マルコによる福音書 4章26節~32節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 4章26節~32節

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「最初はたとえ小さくても」
マルコによる福音書4:26-32        2024年5月26日(日)
1.神様の御手の中で
2.最初はたとえ小さくても

I.神様の御手の中で
 私は、小学生の時に、栃木の本家に、夏休みにかんぴょうの収穫に行きました。
真夏の太陽の陽に照らされて、くる朝、くる朝、どんどん成長していたのを覚えています。しかし、また雑草も結構毎朝伸びていましたので、雑草を抜くことも大変なことでした。正に、神様が育ててくださっているのだなということを、幼心に感じたことでした。

花小金井教会の二階の階段を上がったところに、パッキラという緑が置いてあります。それは、長男がだいぶ昔に、母親の誕生日に買ったものでした。非常に小さな植木だったのですが、大きな鉢に植えなおしたら、非常に大きくなりました。

残念ながら、冬の間は、ほとんど葉が落ちてしまっているのですが、最近は暖かくなってきているので、次々に葉が出てきているのです。

植物の不思議を、本当に思います。私はただ折々に水をやっているだけですから、命があれば、必ず成長する。神さまが、本当に育てていて下さることを、思うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Iコリント3:6-7)。

今日の御言葉も正にとこれと同じです。今日の御言葉は、イエスが譬えで神の御国を語ってこられた、その文脈で、改めて神の御国の不思議さについてかたられているところなのです。

神の御国は、人の手によらず、神さまが、ご自身で養い育ててくださるのです。

「寝起きしているうちに」(ver27)。これは、「そうこうしているうちに」ということなのです。「おのずと」という言葉、「人手によらず」という意味なのです。「アオウトマテー」と言うギリシャ語ですが、お分かりだと思います。英語の、「オートマティック」の語源となった言葉です。

つまり、これは、人の業ではないのです。神様の御業、まさに神様のコントロ-ルなのです。

今日の御言葉は、ver26-29までと、ver30-32までに分かれますが、この二つの譬えとも、最初は小さいものが、最後は、信じられないほど大きくなる。そのことを語っているのです。今日の御言葉は、文脈では、神の御国について語られているのです。神の御国は、どなたが育ててくださるのですか?神が育ててくださるのです。

実際に、イエスが伝道されていたときも、最初、イエスの働きは、小さなガリラヤの片田舎から始まりました。
ガリラヤの春と呼ばれた、平安な時期はあっという間に過ぎました。多くの群衆がイエスの周りにはおりましたが、自分の必要が満たされたら、去っていく人々も絶えませんでした。ファリサイ人、律法学者達の大きな抵抗と迫害に遭いました。

霊的に考えれば、サタンの大きな抵抗にも遭いました。マルコの4章は、種まきの譬えを語っていますけれども、イエスのメッセージを喜んで聞く、そんな人、そんな心ばかりではありません。

勿論、30倍、60倍、100倍という、素晴らしい実を結ぶ、心もあります(ver8-9)。
しかし、道端のような心で聞く人もいます(ver15)、石だらけの心で聞く人もいます(ver16)、茨のような心で聞く人もいるのです(ver18)、それぞれに、勿論特徴はありますけれども、ようは、御言葉を聞いても、実を結ばないのです。


しかし、それでも、イエスが語った、神の御国の福音は、決して、なくなってしまうことはありませんでした。

寧ろ確実に、成長して、拡大、発展して、一体歴史の中では、どれほどのクリスチャンが生まれてきたでしょうか。神の御国は、確実に発展していったのです。
 
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6)。

 神の御国の前進は、人の力によるのではないのです。全てが神様の御業、神さまのみ恵なのです。

これを、例えば、人の成長ということに置き換えたとしても、私達は、クリスチャンとして、自分の力で、成長していくのではないのです。私たちが成長することができるとしたら、それは全てが神様の御業、神さまの恵みなのです。

また、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ2:22-23)。と、聖書は言っていますように、聖霊が、これらの実を結ばせて下さいます。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。成長させてくださるのは、全て神なのです」(一コリント3:6)。言われているとおりです。 

しかし、私たちは、成長するということにおいて、順番があることを忘れてはなりません。
 私たちが、成長していく、例えば、できないことができるようになるためには、どうしても、一つ~のステップを踏んでいくしか道はないのです。
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(ver28)。

一足飛びに、成長していくことは、ありえないのです。まず、茎、次に、穂、そして、穂には、豊かな実ができると言われていますように、順番があるのです。しかし、神は、必ず私たちを成長させてくださいますから、最後には、大きな収穫を見せて下さるお方のです。

では、私たちが、なすべきことは何でしょうか。それは、種をまくことなのです。そうす るならば、後は神が成長させて下さるのです。
例えば、当時の熱心党員は、暴力革命によって、神の御国を引き寄せようとしました。


ファリサイ人、律法学者達は、只管に、律法を守ることによって、神の御国を待ち望みました。

ある思想家たちは、何年の、何月、何日に、神の御国を引き寄せようと致しました。また、私たちは、主の祈りで、御国を来たらせたまえと祈ります。これは、全てを神に委ねた者の祈りです。

しかし、これは、ただただ忍耐して、神の御国を待ち望めということではないのです。

私達の祈りに応えて、神がご自身の御国をもたらして下さるという、ことであって、人間の助けなど一切なく、人間の手を借りることなく、
神がご自身の御国をもたらしてくださるということを、表しているのです。「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(ver29)。

この御言葉は、ヨエル書4:13の引用です。終わりの時における、神によって齎される、霊的な収穫と裁きを表しているのです。

最後には、主が責任をもって、刈り取って下さるということなのです。つまり、神が神の御国をただ成長させて下さるだけではなくて、
完成させて下さるのです。ですから、私たちは、どこまでも、どこまでも、主に信頼して、歩んでいくのです。
そして、これを、また、私達の霊的な成長ということに置き換えてみても、神さまが成長させて下さるのです。そして、神様が成長させて下さるだけではなくて、神様が完成を刺せてくださるのです。ですから、私たちは、本当に信頼して、神様に従いゆくことができるのです。

II.最初はたとえ小さくても
次に、イエスが語られたのは、からし種の譬えです。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(ver30-32)
 
からし種というのは、アブラナ科の植物です。日本でいうからしの種とは少し違います。ともかく、小さな、小さな種なのです。お米一粒よりはるかに小さく、この指先に一粒乗せると、殆ど目に見えません。
 
しかし、そのからし種が、成長すると、大きく、大きくなって、鳥が飛んできて、羽を休めるほどになっていくのです。実際には、3m以上のものになるのです。そして、 一般的に、どんな野菜よりも大きくなっていくのです。
 
これは、神の国の拡大を表しているのです。教会の成長を表しているのです。
「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-32)。
「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」(ルカ13:18-19)。

種まきの譬えで、鳥というのは、御言葉の種を啄む存在として登場しているので、成長する神の国に、教会の成長に、鳥が飛んでくる、サタンの邪魔が入る。だから、霊的に心を整えていなさいと、理解する聖書学者もいますが、さすがに、そこまで読み込む必要はありません。

マタイにしても、ルカにしても、小さな~小さな種から、神の国は成長してくのだ、そのことを語っているのです。

 ここで明確に言われていることは、小さな~ものが、最後は、信じられないほどに、大きくなるということなのです。

 神の国は、ガリラヤ出身の弟子たちの小さな集団から始まりました。しかし、やがて、世界のどのような帝国よりも、大きく~なっていったのです。
 
1世紀ごろの、クリスチャン達は、エルサレムを中心とする、ユダヤ教やローマ帝国に受け入れてもらうことはできずに、苦難の日が続いたのです。

 実際にイエスの時代には、漁師や徴税人であった弟子たちを中心に、ガリラヤ湖畔を中心に、イエスは伝道をしていましたが、やがては、時を超え、文化を超えて、人を新しくし、社会を変貌させていくのです。
 そして、このお方の蒔いた言葉は成長し、大きな枝となって、その下に、多くの人々が、平安を求めるようになるのです。

 神の国は、全世界に広がっていくことを、イエスは、この、からし種の譬えを通して、約束されました。

そして、それは、現実のものとなり、今世界の、クリスチャン人口は、25億人とも30億人ともいわれています。実に世界の、3/1がクリスチャンなのです。
 
日本のクリスチャン人口は文字通り、少数派です。カトリック教会を入れても、100万と言われています。
 毎週礼拝をお献げしている人は、25万人から30万人にすぎません。99%のひとは、神を知らず、そのような多くの人に、私達は、囲まれて生きているのです。

ですから、ともすれば、私たちは、絶望してしまうのです。失望してしまうのです。
 しかし、この、イエスの譬えに隠された、神の御国の奥義がわかったときには、見える世界の物差しに、惑わされていくのではなく、神に信頼して、希望をもって、歩んでいくことができるのです。

「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(ver33-34)。

 これはもちろん、神の国の奥義について、耳のある者は聞きなさい。
本当に心開かれている人にのみ、イエスが、神の御国の奥義を表されたというのはあるでしょう。
 しかし、また弟子たちは、現実に、心の目が開かれていなかった、心の耳が鈍かったという現実があるのです。
 だからイエスは、ストレートに語られたというのがあるでしょう。しかし、もう一つは、イエスにとって、弟子達は、特別な存在、何といっても生涯神に従っていって欲しい、そのような、思いがありました。人間の側にあるものではなくて、神の側にあるものとして、受け入れておられたということを意味しているのです。

 最後にイエスは、私たちにも、生涯神に従っていって欲しいと願っておられます。
 神の御国には、素晴らしい価値があるのです。小さな、小さな者であったとしても、圧倒的に成長する、拡大する、発展する、増え広がっていくのです。
 ですから、私たちも、イエスに従って、イエスの弟子となって、成長させて下さる神に信頼して歩んでいこうではありませんか。
 ドイツからイギリスへ渡って、その地の孤児たちのために、信仰によってのみで孤児院を造り、運営したジョ-ジ・ミュラ-(1805ー98)は、数えきれないほどの困難に直面してきました。
 なかでも1839年11月は、多くの出費が控えていたにもかかわらず、与えられた金額は非常に少なかったのです。そのようなときジョ-ジ・ミュラ-は、このようにしていたと述べています。
「私は、自分の手のなかのわずかなものを見ないで、神さまの御手の中にある、あふれるばかりの富を見上げていました」
 
 大きく成長させて下さる神に信頼して歩んで行こうではありませんか。

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