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2024年05月05日「あなたの名を呼ぶ復活のイエス」

あなたの名を呼ぶ復活のイエス

日付
説教
小堀尚美信徒説教者
聖書
ヨハネによる福音書 20章11節~18節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章11節~18節

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「あなたの名を呼ぶ復活のイエス」
ヨハネによる福音書20章11-18節
     2024.5.5. 秩父教会

3月31日(日)は、イースター、私たちの主イエス・キリストの復活をお祝いする大切な日曜日でした。聖書を読みますと、復活なさったイエスは、その日だけではなく、一ケ月以上にわたり、様々な形で、イエスに従う数多くの人たちに、御姿を現して下さったことが分ります。 

 使徒言行録1:3で、ルカはこう書いています。
 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって
使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」
 復活された主は、40日間、弟子達と共にいて下さったのです。

使徒パウロは、コリントの教会に宛てて、こう書きました。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもの
です。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために
死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」(コリントの信徒への手紙一15:3-6)

イエス・キリストの復活は、僅かな人たちの間で、秘かに、瞬間的に、目撃されたものではありません。主イエスは、「五百人以上もの兄弟たちに」、「四十日にわたって」現れ、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって」示して下さった。それは、「聖書に書いてあるとおり」の「三日目」の「復活」だった。旧約からの長い歴史の中で、約束され続けて来た、神の御計画によるものだったのです。

今日は、「主に愛された弟子」と呼ばれているヨハネが書いた福音書から、マグダラのマリアに出会って下さった復活の主イエスについて、御言葉に聴いてまいりたいと思います。

1. あなたの名を呼ぶイエス
今日の個所は、「マリアは墓の外に立って泣いていた。」(ヨハネ20:11)で始まります。事の次第は、次のようなものでした。
週の初めの日の明け方、マグダラ地方出身のマリアは、イエスの遺体に香料を塗るために、イエスの墓に向かいました。すると、なんと、墓の入口の大きな石が取りのけてあったのです。(20:1)
「イエスの遺体を、誰かが、どこかに取り去ってしまった。」
驚いたマリアは、弟子達に、知らせに走りました。マリアから、この話を聞くと、弟子のペトロとヨハネも、墓に向かって走って行ったのです。
そして、墓の中に入って見てみると、イエスの遺体を包んでいた亜麻布だけが、イエスの頭と身体の形をしたまま、抜け殻のように、そこに置かれていたのです。
ヨハネは、それを「見て、信じた」(20:8)、イエスの復活を直感的に、信じたのです。二人は、家に帰って行きました。

さて、彼らより、かなり遅れて、マグダラのマリアは、再びイエスの墓に戻ってきました。
そして、今日の個所、「墓の外に立って泣いていた」(ヨハネ20:11)のです。

墓の中に入り、抜け殻のような亜麻布を見たヨハネは、直感的に、イエスの復活を信じました。けれども、マグダラのマリアは、イエスの遺体が何者かによって取り去られてしまったという思い込みと悲しみに囚われて、泣いていたのです。
けれども、同時にまた、「泣きながら」も、「身をかがめて墓の中を見」てみたのです。何かあるのではないか…そんな気がしたのでしょうか。

すると、「二人の天使が見えた。」(20:12)そして、「婦人よ、なぜ泣いているのか。」(20:13)と問われたのです。
けれども、まだ、マリアには、それが天使だと分かりません。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(20:13)
こう言いながら、後ろを振り向くと、今度は、イエスが立っておられるのが見えました。(20:14)
「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(20:15)
今まさに、復活されたイエスが、目の前におられるのに、そして、
「なぜ泣いているのか。もう泣く必要はない。だれを捜しているのか。わたしはここにいるではないか。」と、話しかけて下さっているのに、
マグダラのマリアは、イエスを「園丁だと思って」、園の管理者だと思って、こう言ったのです。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」(20:15)
マリアの心は、イエスを引き取りたい、たとえご遺体であったとしても、主の御側近くにいたい。縋るような願いで、一杯だったのではないでしょうか。
墓の入口の石が、取り除けられているのを見た時も、
「主が墓から取り去られました。」(20:2)と、弟子達に告げました。
私が主を引き取りたいと思っているように、主を愛する誰かが、御遺体を取り去ったのではないかと、思い込んだのかもしれません。

マグダラのマリアは、イエスによって、七つの悪霊を追い出して頂いた婦人です(マルコ16:9)。悪霊に苦しめられ、破壊的な生活を余儀なくされていた彼女が、イエスの憐れみと力によって癒され、自分自身を取り戻した。イエスが、マリア自身と彼女の生活、家族や友人、彼女の人生を、丸ごと回復させて下さったのです。
 マリアにとって、イエスは真に救い主であり、人生の主、彼女の全てとなりました。こうして、マグダラのマリアは、他の婦人達と共に、イエスに従い、イエスや弟子たちの生活を助けてきたのです。

 時の権力者達から捨てられ、群衆に罵られるイエス、その苦悩と死をも十字架の下で見守り、アリマタヤのヨセフとニコデモがやって来て、イエスを埋葬する様子も、墓の近くで見届けたのです。
日没から安息日が始まるので、後ろ髪を引かれる思いで、イエスの墓の側を離れ、家路に着いた。そして、安息日が終わると、朝日が昇るのを待てずに、「まだ暗いうちに」(ヨハネ20:1)、婦人達と、イエスの墓に向かったのです。
 そして今、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(20:15)
こう言って、尚、イエスへの愛と献身を表すマリアに、イエスは、誰よりも先に、御姿を現して下さったのです。

 マリアの心と目は、イエスを失った悲しみで、ずっと遮られていました。
けれども、
「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」(20:16)
「この方が、わたしの主、イエスだ」と分かった。マリアの心の目が開かれたのです。

主イエスは、弟子達と共にいた頃、こう言われました。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)
そして、その御言葉通り、イエスは、良い羊飼いとして、十字架で、私達一人一人のために、命を捨てて下さいました。
「わたしたちの罪のために」、身代わりとなって裁きを引き受けて、「死ん」で下さったのです(コリント一15:3)。

「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(10:14)「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。…羊はその声を知っているので、ついて行く。」(ヨハネ10:3-4)
真の羊飼いであるイエスが「マリア」と呼んだ時、彼女の心の目は開かれ、イエスが分かり、「先生」と、イエスにお応えすることができたのです。

イエスは真の羊飼い、私の名を、そして、あなたの名を呼んで下さる真の羊飼いです。私達一人一人のことを、私達以上にご存知で、分かっておられる憐れみ深い救い主なのです。

旧約聖書イザヤ書で、神様は私達に、こう語りかけておられます。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、
 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1)

私達一人一人を愛して、神と共に歩む者として創造して下さった父なる神様が、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。」と言われました。
父なる神様が、御自身の独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そしてイエスが、私達の代わりに、私達のあらゆる罪を引き受けて、十字架で裁きを受けて下さった、私達の罪を処分して下さったのです。
こうして神様は、私達の罪を赦し、私達を罪から救い出して、神様の愛する子として、神と親しく歩む者として、取り戻して下さった、贖って下さったのです。
 イエス・キリストの命を支払って、神様は私達を取り戻して下さった。
「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1)
「マリア」と、マリアの名前を呼ばれた主イエスは、あなたの名を呼んで下さる御方です。あなたを神と共に歩む者として創造し、贖って下さった神様なのです。

2. イエスの使命、マリアの使命
さて、復活のイエスだと分かったマリアに、イエスはこう言われます。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。
つまり、「わたしには、父なる神のもとへ上る使命がある。」と言うのです。わたしは、あなたがたの救いを完成するために、天に帰る。今はまだ、神の御計画の途中なのだ。だから、わたしにすがっていてはいけない、と。
復活されたイエスは、この先もずっと、マリアと居るわけではない。父なる神のもとに、帰らなければならない。そうすれば、今度は、イエスの代わりに、聖霊が遣わされてくるからです。

復活のイエスに出会った者達が、聖書に書いてある通り、イエスが十字架で死に、三日目に復活なさったことを証言して、イエスこそ、約束の救い主であると、聖書からその意味を語る時、聞く者は、それが真理であると悟ることができる。イエスこそ真の神である、ここに救いがあると信じることができる。これが聖霊の業、聖霊の助けなのです。又、私達が祈る時にも、祈れない時でさえも、聖霊は私達を支えて下さいます。
そしてイエスも、天で私達の為に祈って下さる。終わりの時まで、信仰が守られるように、私達が神様に従って、その恵みの内を歩めるように、神の国が建て上げられていくように、執り成してくださるのです。

マリア、わたしに縋っていてはいけない。神の救いの業の続きを、わたしは、果たしに行くのだから。そして、この事を弟子達に伝えるのが、あなたの使命なのだと、イエスは言われたのです。

「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(20:17)
ここでは、「わたしの兄弟たちのところへ行って」知らせなさいと、イエスは仰っています。マリアは、神様を知らない人々にではなくて、弟子たちに知らせるようにと、イエスに言われたのです。
ここに、信仰生活の奥深さ、新鮮さがあるのではないでしょうか。

直前の20章8節9節を見ますと、弟子のヨハネは墓に入り、イエスの亜麻布が空になっているのを「見て」、イエスの復活を、直感的に「信じた」のですが、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」は、まだ「理解していなかった」のです。
ヨハネは、イエスに会わずに、イエスの復活を信じた。けれども、それが、聖書で既に約束されていた神の御計画だったというところまでは、まだ分かっていなかった。彼らは、これから悟るのです。
復活されたイエスが、その後、父なる神のもとに上られることも、マリアから告げられて、この後、知るのです。

  私たちも、同じではないでしょうか。
イエス・キリストの十字架は、聞いていた。けれども、それが私の為だったとは、知らなかった。イエスの十字架が、私の為だと分かった。でも、イエスの復活は、まだよく分らなかった。イエスが天に上られた事は、使徒信条で知っていた。けれども、その意味は、まだよく理解していなかった、等々。
私たちは、いくつになっても、より深く主を知ることができる、神様の救いの御計画の長さ、深さ、確かさを、聖書からより深く悟ることができるようになる、成長することができるのです。

イエスが、マグダラのマリアを、弟子たちの所に遣わされたように、主は私達を、神様を知らない人達だけでなく、信仰を共にする兄弟姉妹の側にも、遣わしておられるのです。
私たちの主イエス・キリストが十字架で死に、三日目によみがえられた事、そして天に上り、今、この瞬間も、私達を御心に留め、執成の祈りを捧げて下さっている事。聖書で約束され、実現した神様の恵みを分かち合い、成長しながら、信仰生活を送っていきたいと思います。

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