この方はどういう方なのだろう
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- 小堀昇 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 8章22節~25節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 8章22節~25節
「この方はどういう方なのだろう」
ルカによる福音書8:22-25 2024年4月14日(日)
1.イエスは、自然を支配する神御自身
2.あなたの信仰はどこにあるのか
I.イエスは自然を支配する神御自身
ガリラヤ湖の岸を向こうへと渡っております時に、イエスが眠ってしまわれる訳ですが、そこへ突風が吹いてまいりまして、船が沈みそうになります。慌てふためいた、弟子達は、イエスに助けを求める訳ですが、イエスの一言葉によって、風も波も収まって凪になるという、有名なお話です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書には三つとも出てくるお話です。
ルカは基本的には、マルコによる福音書4:35-41に出てくる、ストーリーを下敷きにしまして、彼なりに書いているのです。
マルコでは、種まきの例えのお話を、もともと、「船に乗って」、岸辺の「夥しい」群衆に説教なさるという形で書いていますので、それが終わると、「さあ向こう岸に渡ろう」という始まりになっています。
しかし、ルカは、このたとえ話をイエスが語られた情景を、全て省いておりますので、今日の御言葉では、改めて、「ある日のこと」舟に乗って向こう岸に渡ろうと、言われたのだという、新しい書き出しをしています。
その順番も、マルコとルカでは少し違います。マルコでは、渡り始めると、突風が吹いてきて、慌てふためいた弟子達がイエスを見ると、イエスは眠っておられた。という順番なのですが、ルカでは、渡っているうちに、イエスが眠ってしまわれ、それから突風が吹いてきたという順番なのです。
マルコでは、起き上がったイエスが、「風を叱り」、「湖に向かって、黙れ、静まれ」とお叱りになるのですが、ルカは、「風と荒波をお叱りになると」と、サラッと書き流しております。
更には弟子たちの叫び方も違います。マルコは、「先生、私達が溺れても構わないのですか」何かイエスが弟子達に無関心であるかのような存在として、描かれています。ルカは、「先生、溺れそうです。」という言葉になっています。
イエスの、お言葉も違います。マルコでは、「何故怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉です。弟子たちの不信仰を浮き彫りにしているのですが、ルカは、「あなた方の信仰はどこにあるのか。」まあない訳はないと思うけれども、「どこにあるのか」というわけです。
その順番、イエスの自然に対するしかり方、弟子たちのことば、イエスの弟子たちに対する言葉。この二つの福音書は少しずつ違っています。
しかし、実は決定的な、この両福音書の違いというのは、マタイもマルコもこの後に、もう一度、ガリラヤ湖における、嵐があり、イエスがそれを静めるばかりではなくて、波の上を歩まれるという奇跡が、五千人の給食に続いて出てきているのです。しかし、ルカはこの奇跡について、一切触れていません。
そして、嵐を静める奇跡は、ルカの場合はなんと、同じルカが書いた使徒言行録27章のパウロが40日にも渡って、嵐に苛まされるというあのところにおいて出てくるのです。ルカによる福音書においては、これから後ないわけですから、ここで全部学ばなければ次はないということなのです。
実は聖書には、自然を治める奇跡はたくさん出てきます。葦の海を二つに割ったモーセのお話、ヨルダン川を堰き止めて二つに割って、渡らせたヨシュア、或は、天に帰ったエリヤのマントを打って、ヨルダン川の水をそれでたたいて、二つに割ったエリシャのお話し。たくさんのお話があります。
しかし、これらもイエスのそれとは決定的に違います。それは、イエス以外の奇跡は、その人が神に祈ってなしている奇跡なのです。つまり、超自然的な、嵐を治める奇跡をなさったのは、その預言者働き人ではなくて、神御自身なのです。彼らは、神に対する祈りの力を持っているだけなのです。
もしイエスを、只の人間とするならば、自然に命令を下すなど、愚の骨頂、人間の分を弁えない行為に他ならないのです。
しかし、イエスこそは、神、自然を支配される、真の神であることを、ここで聖書は明確に語っているのです。
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った」(詩篇107:28-30)。
ですから弟子たちの問い。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った」(ver25)。
この問いに対するイエスに対する答えは明確です。このお方こそ、自然を支配する、真の神御自身なのです。
II.あなたの信仰はどこにあるのか
私たちは、第一のポイントで、イエスが、真の神である。自然界を支配する、真の神であることを御言葉に聞いたのですが、このイエスを前にした、弟子達の信仰、
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ver25)と言われた、弟子たちの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。
「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った」(ver25)。
この時弟子達は、イエスのことをどう見ていたのでしょうか。マルコは、イエスの弟子達に対する、「まだ信じないのか」と言う言葉を残しています。これは、まだ、「信じてくれないのか」という意味なのですが、あなたがたの私に対する、信仰はどこに在るのですか。ということなのです。
ではなぜ、イエスのことを、ここで弟子達は、真の神であると信じることができなかったのでしょうか。実は、それの鍵となる、御言葉が、「イエスは眠ってしまわれた」(ver23)。というところにあるのです。
ユダヤ教徒の時代から、弟子達は、神が自然を支配されるお方である。その一言葉で、自然を治めるお方であることを頭では分かっていました。
更には、「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」(詩篇121:4)。という真理も良く分かっていました。
しかし、目の前にいるイエスは、とろとろと眠ってしまわれたという事実です。これは弟子たちの信仰を試すための、狸寝入りではありません。本当にイエスは、多くの人々にメッセージを語られて、お疲れになられて、とろとろと眠ってしまわれたのです。
それほど、イエスは疲れておられた。弟子たちもそれが分かった。だから、そのイエスの居眠りのお邪魔をしたくはなかった。しかし、彼らの意に反して、とんでもない、突風が吹きつけてきたのです。
現実的に、イスラエルを守る神は眠らないという信仰があるのです。しかし、異教の神は眠る。
「真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」(列王記上18:27)。
預言者エリヤは、異教の神である、バアル神との霊的な戦いの中で、このように叫んでいるのです。イスラエルの神は決して眠らない。しかし、異教の神は眠る。そして、目の前でイエスは眠っておられる。この事実を弟子達はどのように理解したらよいのでしょうか。
しかし、弟子達の問題というのは、イエスが眠っておられた。ということではないのです。弟子達の周章狼狽、それは突き詰めると、目の前で眠っておられる、イエスが本当に、インマヌエル、神共にいますと預言された、真の神であるのかということなのです。
実際マルコは、「先生、私達が溺れても構わないのですか」という、イエスはインマヌエルなる、いつも共にいて下さる神であると、預言されているにもかかわらず、目の前で眠っている。私たちの安全などに全く興味がない、私達と人格的な交わりを持とうとはしない。そんな神なのではないかという不安を持っていたのです。
最初は確かに、「ああ先生もお疲れなんだな」と受け入れることができたけれども、目の前の大嵐を見たときに、しかもそれで、自分の命が失われるのではないかという危険に遭遇した時に、そんな自分たちをイエスは構ってくれない。居眠りして、放っておかれている。
私達の人生の安否などに、全く興味もないから、イエスは眠っておられるのか、そのように、弟子達は考えてしまっているのです。
ですから、実は真の神が眠っておられて、人間が起きて下さいと迫っている、聖書の箇所は実は案外沢山あります。そのうちの一つが、
「わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし/起き上がり、わたしのために裁きに臨み/わたしに代わって争ってください」(詩篇35:23)。
という御言葉なのです。
私たちに対する、関心があるかないという点からすれば、生ける真の神は、本当は眠ることもなく、微睡む事も無い筈であるにも拘らず、やっぱり、クリスチャンは、神さま、あなたは、本当に聞いておられるのですか、この祈りに応えてくださっているのですか。
眠っておられるのではないのですか。そのように思ってしまうことがあるのです。
実際に、私たちがいろいろな試みにあうときに、神さまあなたは、起きておられるのですか、もっと根源的な問、神さま、あなたは、生きておられるのですか。思ってしまうことがあるのです。
実際にルカが書いた、この奇跡の次の、自然界を支配する神を表している御言葉、
『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」(使徒言行録27:24-26)。
更に、「髪の毛一本も失われることはありません」(ver34)、と言われ、神さまの絶対的な御守りが、クリスチャンにはあることを、聖書は告げているのです。そして、彼らはとうとう、マルタ島に打ち上げられるのです(使徒言行録27:44).
「髪の毛一本も失われることはありません」(ver34)、というパウロの言葉は、
「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:18-19)
イエスがお語りになられた御言葉なのです。どんな試みがやってこようが、髪の毛一本なくならない。耐え忍んで、自分の命を勝ち取っていく。パウロはこの信仰に辿り着いたのです。
疲れたら、眠ってしまうような、そんな人間性を身に纏った神など、信じることができないと思うのでしょうか。しかしまた、嵐を一言葉で静めてしまうような、そんなお方が、疲れたら寝てしまうような、そういう弱い人間性を、自ら纏っている。
そして、私達の弱さを、よく理解して下さる。そんな神が共にいて下さるのであれば、どんな危険の中にあっても、私達は、安らかに歩むことができると考えるのか、願わくは、私達の弱さを自分の事のように理解して下さるイエスと共に歩んでいくものでありたいと思います。