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2024年03月31日「死から復活へ」

死から復活へ

日付
説教
小堀尚美 信徒説教者
聖書
ヨハネによる福音書 19章38節~20章10節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 19章38節~20章10節

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「死から復活へ」
ヨハネによる福音書19章38-20章10節
     2024.3.31.イースター 秩父教会礼拝

皆さん、こんにちは。イースター、おめでとうございます。
今日は、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターです。

さて、イースターと言えば、「空の墓」、主イエスの遺体を納めていた墓が、空になっていたという事実ですが、実は、もう一つ、キーワードがあります。
さきほどお読み頂いた今日の聖書個所に、4回、出て来ている言葉で、
4文字です。お気づきになった方は、いらっしゃいますか。
そうです、「亜麻布」です。今日は、この亜麻布を意識しながら、主イエスの復活について、聖書に耳を傾けていきたいと思います

さて、19章38節~42節を見ますと、十字架で死なれたイエス・キリストの葬り、埋葬について書かれています。38節をご覧ください。
「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのこと を隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出た。」(38節)とあります。

「その後」とは、イエスが十字架で完全に死なれた事が、兵士たちによって確認された後、という意味です。

「アリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出た。」
これは、新約聖書の四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに
共通して書かれている重要な出来事です。

アリマタヤ出身のヨセフは「金持ちで」、「この人もイエスの弟子であ
  った」(マタイ27:57)と、マタイによる福音書には書かれています。
マルコによる福音書には、「身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。
この人も神の国を待ち望んでいたのである。」(マルコ15:43)とあります。
ルカは、ヨセフを、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。…神の国を待ち望んでいたのである。」(ルカ23:50、51)と書いています。

これらを纏めますと、アリマタヤ出身のヨセフは、金持ちで、身分の高 い議員だった。神の国を待ち望んでいた、善良な正しい人で、イエスを十字架刑に処するという、同僚の決議や行動には同意しなかった。この人もイエスの弟子であったが、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた。
しかし、勇気を出して、総督ピラトの官邸に行き、イエスの遺体を、十字架から取り下ろしたいと、願い出たのである。
これが、アリマタヤのヨセフのプロフィールになります。

「勇気を出して」(マルコ15:43)とありますが、その通りだと思います。
彼はサンヘドリンというユダヤの最高議会の議員で、エリートです。議員としての立場があり、責任も、人目もあったことでしょう。議会の中には、イエスに敵対し、イエスを憎む同僚達が、大勢いたのです。ですから、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」のでした。
イエスを十字架刑に処するという同僚の決議や行動には、勿論、反対でした。けれども、彼の声は届かず、イエスは十字架に引き渡されてしまったのです。彼の悲しみ、無力感は、どれほどのものだったでしょうか。
けれども、そのヨセフが、ついに、総督ピラトの前に姿を現したのです。
そして、なんと、十字架という極刑を受けて殺されたイエスの遺体を引き取りたいと、ピラトに願い出たのです。
仲間の議員たちが見捨てたイエスを、総督ピラトが、時の権力者たちや、
群衆までもが見捨てたイエスを、「私は、引き取りたいのです。私は、この御方と、深い関わりがある者です。」と、それまで、ずっと隠していた信仰を、表明した瞬間でした。

ヨセフ自身、辛かったのではないでしょうか。イエスを信じながら、それを表明することができない立場、仲間を恐れて、イエスの弟子であることを隠している自分の弱さ、臆病さを、もどかしく思ったり、恥じたり、神様に赦しを乞いながら、歩んできたのではないでしょうか。

けれども、このままでは、イエスは犯罪者として、十字架の上に野ざらしにされてしまう。あるいは、共同墓地に、投げ込まれてしまうだろうという段になった時、彼は、遂に、「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」(38節)のでした。

この時を逃したら、もう二度と、イエスに会うことはできない。あの方を、せめてご遺体であっても引き取り、丁寧に葬らせて頂きたい。それが、信仰の弱かった自分にできる、せめてもの、イエスへの愛と感謝の表現なのだと、思ったのではないでしょうか。

総督ピラトは、ヨセフの願いを受け入れ、イエスの遺体の取り降ろしを
許可しました。ヨセフは、議員としての立場を用いて、イエスの為に最善を行ったのです。これは、弟子達や婦人たちには、できない方法でした。

私たちにも、同じようなことが、あるのではないでしょうか。自分の臆病さや信仰の弱さに落ち込み、自分はこれでもクリスチャンなのだろうかと悲しみを覚える。私は、いつまでたっても隠れキリシタンなのではないか、と。
けれども、「今」という時が、用意されているのです。
「主よ、私も、あなたを愛し、信じておりました。」と、今、イエスへの信仰を表さなければ、今、主イエスへの愛を表さなければ。
他の人のようにはできなくても、私にできる在り方で、あなたにできる在り方で、主への愛を表せる機会を、神様は用意して下さっているのです。

さて、イエスの遺体が取り降ろされると、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも」(39節)、イエスのそばに、やって来たのです。彼も、最高議会サンヘドリンの議員で、つまり、アリマタヤのヨセフの同僚で、ある夜、秘かにイエスに会いに来た、いわば、隠れ求道者でした。
そのニコデモが、白昼堂々とやって来た。イエスを埋葬するために、
「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」(39節)のです。
「百リトラ」、約30キログラムもの豊かな香料です。

  二人はイエスの遺体を受け取ると、ニコデモが持って来た香料を添え、ヨセフが買った(マルコ15:46)、新しい「きれいな亜麻布に包み」(マタイ27:59)ました。これが、当時のユダヤの埋葬の習慣だったのです。
「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ
葬られたことのない新しい墓があった」(ヨハネ19:41)のですが、
それは、アリマタヤのヨセフが、自分のために用意していた新しい墓で(マタイ27:60)、「岩を掘って作った」(マルコ15:46)高価なものでした。

こうして、イエスの生涯の最後の最後に、勇気を出して信仰を表明したアリマタヤのヨセフとニコデモによって、イエスは埋葬されたのです。
しかも、その埋葬は、王の葬りのように、高価なものでした。30キログラムもの豊かな香料と、真新しい綺麗な亜麻布に包まれ、園に用意された、誰も葬られたことのない、新しい墓に安置されたイエス。
十字架で罵られ、嘲られて捨てられたイエスが、このような手厚い葬りを受けることになるなどと、誰が想像したでしょうか。イエスの遺体は、真の救い主、王の王として、神様の御計画の中心に置かれていたのです。
ヨセフは、新しい綺麗な亜麻布で、傷ついたイエスを丁寧に包みました。もう二度とイエスにお会いすることはない、イエスの御顔を見られる最後の時、決定的なお別れの時でした。

ところが、この悲しみの亜麻布が、三日目に、なんと、喜びの亜麻布に変わったのです。
三日目の朝早く、婦人たちが墓へ行き、イエスの遺体が無くなっていることを告げた時、弟子のペトロとヨハネは、墓に向かって走りました。
ヨハネが、身をかがめて、墓の中をのぞくと、「亜麻布が置いてあった。」(ヨハネ20:5)イエスを包んだ、あの「亜麻布が置いてあった。」のです。
 続いて、ペトロも墓に着きました。「彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」(6節)亜麻布だけが置いてあった。肝心のイエスの遺体が  
無いのです。
更に、こう書かれています。
「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」(7節)
亜麻布が、イエスの遺体を包んだ、その形のまま、頭の部分は丸く、胴体の部分は、胴体の形のまま、イエスがスーっと抜け出た後の抜殻のように、そこに残されていたのです。
アリマタヤのヨセフと、ニコデモによって、イエスの遺体に巻かれた悲しみの亜麻布。それが、イエスの死と復活を証明する亜麻布になったのです。弟子たちは、空の墓と、抜け殻のような亜麻布を見て、イエスの復活を信じたのです。

世界の四大聖人は、皆、死にました。釈迦も、ソクラテスも、孔子も、イエス・キリストも死にました。けれども、ただ一人、イエス・キリストだけが、死の支配を打ち破り、真の神、真の救い主として、復活されたのです。

ヨハネは、イエスが十字架に架けられ時、その言葉を聞きました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と。
イエスを十字架に付け、「他人を救ったのだ。メシアなら、自分を救って
みろ。」(ルカ23:35)と罵る者達、イエスに唾を吐きかけ、嘲笑う者達、物見遊山で集まった群衆、そして、イエスの弟子だと言いながら、イエスを置き去りにして、逃げ去ってしまった弟子たち。今、イエスの十字架の下で、ただ、立ち尽くすだけの自分。
そんな私達に、主イエスは言われたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

本来なら、神に対して罪を犯した私達が、神から裁かれるはずだったのに、主イエスが、それを、代わりに担って下さったのです。神を侮る罪、神に背く罪、人を妬み、憎み、心の中で人を殺し、偽り、自分が神であるかのように自分の尺度で生き、争いを繰り返す私達人間の、あらゆる罪を引き受けて、聖い神の御子イエスが、真っ黒な犯罪人、史上最悪の極悪人となり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、マルコ15:34)と、十字架で、私達の代わりに神の裁きを受け、捨てられてくださったのです。
一点の罪も汚れも無い聖い神の御子イエス・キリストが、神の裁きを、避雷針のように一身に受けて、私達のために、命をささげてくださったのです。
ヨハネは、言います。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子(イエス・キリスト)をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9、10)

私達を愛して、十字架で命を捧げ、三日後に、死を打ち破って復活されたイエスこそ、真の神、私たちの救い主なのです。
イエス・キリストを信じ、罪を赦され、復活の命、永遠の命を戴いて、今週も、この神様の恵みの中を歩んでまいりましょう。

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