あなたは私を愛しますか
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- 小堀昇 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 21章15節~19節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 21章15節~19節
「あなたはわたしを愛しますか」
ヨハネ21:15-19 2024年2月25日
1.わたしを愛しますか
2.私があなたを愛していることは
3.私に従いなさい
I.わたしを愛しますか
ガリラヤ湖の岸辺で、復活のイエスがシモン・ペトロに語りかけられた有名な物語です。聖書を読めば、復活したイエスが色々な人に現れた訳ですが、一番歴史的に古い記録は、Iコリント15:5以下です。そこにはこう記されております。
「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(Iコリント15:5)。と、聖書は言っています。
勿論女性達や他の弟子達に復活の姿を現わされたというのは、大切なことですが、「ケファ」、即ち、「シモン・ペトロ」にイエスが、御自身を現されたという事は、特別に大切な事として、聖書で取り上げられて参りました。
それは、どうしてなのかと言いますと、皆様既にお分かりのように、イエスが裁きを受けられた夜に、「あの人の事を知らない」と三度も言ってしまったからでした。
さて、イエスは復活のお姿をマグダラのマリヤ始めとする女達にまず現されて、男の弟子達に対するメッセージを託しました。この時ペトロは、イエスのために何かができると言った、男性的な能力以前に、イエスがご自身に対する一途な愛を何よりも大切にしておられるという事に気がついたに違いありません。
私達は、どれだけの事が出来るか出来ないか、どれだけのものを集める事ができたか、その様な事で人々の能力を測るような事があります。これが正に、この世界の基準なのです。しかし、イエスの基準はそうではありません。それはただ一つです。
「あなたはわたしを愛しますか」、唯それだけなのです。「愛」こそが全ての基準なのです。
さて、ペトロは、上着をまとって湖に飛び込んでずぶ濡れになっており、又空腹と疲労で参っていたはずです。彼が炭火に暖まりながら、イエスが用意して下さった魚を食べた時に、自分の失敗を思い出していたのではないでしょうか。
思い出して下さい、彼は、イエスが捕らえられた時に、大祭司の中庭にまでついて行き、僕達や、役人達に混じって、「炭火」にあたっていたのです。ヨハネは、そこの所を、「炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた」(ヨハネ18:18)。「シモン・ペトロは立って火にあたっていた」(ヨハネ18:25)。と念入りに二度、火にあたっていたと、繰り返しています。彼は、門番から
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(ヨハネ18:17)と尋ねられて、彼は「違う」(18:17)と答えてしまっています。
その後、約一時間経ってから(ルカ22:59)、恐らく彼は、一時間もある筈ですから、自分の、してしまった失敗を火の前で振り返るチャンスがあったにも拘らず、今度は自分がイエスの弟子ではない事を、「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた」(マタイ26:74)。と聖書は言っています。
イエスは、かつて、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:33)。と言われました。
ですから、ペトロは、自分のしてしまったイエスを否定する行為が、赦されるに価しないという事を心から自覚していたと思うのです。所が、イエスはペトロから悔い改めを引き出す代わりに、彼の空腹を満たして、上着を乾かすために、ペトロに仕えられました。
そして、「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ver15)と三度も言われたのです。しかも、その前に、魚の奇跡を見せて、彼を献身の原点に立ち返らせておられるのです。
ペトロは、かつて、何もかも捨ててイエスに従う前に、同じ体験をしていたのです。その時も夜通し働いて、何も取れなかったのに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)と言われ、それに従ったときに、多くの魚を捕る事が出来ました。イエスは、同じ奇跡を二度される事によって、ご自身の愛と赦しを、改めて示されたのでした。
ここにイエスの素晴らしい御性質があるのです。イエスの行動の動機は、いつも、愛があるのです。一人の人を引き上げるには、叱責も大切です。しかし、何よりも大切な事は、「愛すること」。それが全てです。
ですから、イエスのペトロに対する問いも、正にその一点でした。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ver15)と三回問い掛けられました。
「あなたは、信じていますか」、「あなたは、改心しましたか」、「あなたは、聖められていますか」、「あなたは、選ばれていますか」、「あなたは、義と認められましたか」、「あなたは、聖霊を受けましたか」、「あなたは、新生していますか」、
この様な、問いなら、どれ一つ取っても、ペトロは、答えるのに苦労したと思うのです。しかし、主の問いは、只一つ、子供でも分かる、しかし、非常に、根源的な問いでした。
「あなたはわたしを愛しますか」、ですから、彼は直ぐに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ver15)と答える事が出来ました。
イエスは私達一人~に対しても、「あなたは私を愛しますか」と語っておられるのではないでしょうか。あなたは、イエスを愛しておられるでしょうか。
3.11の直後に、韓国の訪問・・・・三日間・・・食え食え攻撃・・・・座っていたらコピーコピー・・・コーヒー 証・・・220000万ウォン・・・・163万円がささげられた・・・・
独島・・・竹島・・・・一般人は下降線・・・・しかし、クリスチャンは違う・・・益々燃え上がる・・・・マーケット・・・・好きな物入れろ!!日本であはり得ない
根底にはイエスの愛がある!!
皆さんは既にイエス様を愛しておられるのですから、これからも、心からイエスに従っていきたいと思うのです。
II.私があなたを愛していることは
さて、イエスはペトロの事を、「ヨハネの子シモン」と呼びますが、これは当時の正式な、姓名の呼び名でした。又これは同時に、イエスが初対面の彼に、「イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた」(ヨハネ1:42)。と言う彼の弟子としての原点に戻る事でもあったのでした。
その上でイエスは、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ver15)。と不思議な質問をされます。
これは、以前彼が、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と自分を誇っていたからでした。昔の彼なら恐らく、「はい主よ勿論です。私は、他の誰よりもあなたを愛します」と、胸を張って、答えていたと思うのです。
しかし、この時ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ver15)。とイエスの判断に任せるような言い方をしています。その言葉を受けて、イエスは言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」(ver15)。
ここになって、初めてイエスは、ペトロをお用いになる事が出来るようになったのであります。「二度目にイエスは言われます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた」(ver16)。そして、イエスが三度目に同じ質問をした時に、「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった」(ver17)。と聖書は言っていますように、イエスの質問の意味が明確になりました。
何故、イエスがペトロに三度も、同じ質問をされたのか、その意味がわかったのでした。それは、彼が三度、「そんな人は知らない」と、イエスの弟子である事を否定してしまっていた事に対応していたからです。
「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)。と彼の、ペトロの愛が如何に当てにならないかをイエスは、予告しておられましたが、ペトロは、三度イエスに問い掛けられたときに、自分の愛の至らなさにハッキリと気がついたのであります。
ペトロは答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ver17)。そしてイエスは言われました。「わたしの羊を飼いなさい」(ver17)。イエスはこの様にして、ペトロの指導的な立場を、他の弟子達の前で、回復して行かれました。三回の否定の罪を赦すだけではなくて、御自身の教会の世話を彼に委ねられたのであります。
実は、彼が失敗したからこそ、イエスは彼を用いる事がお出来になられたのであります。実際ペトロは、「私は大丈夫だ」と思っていたときには、十字架を予告したイエスをいさめて、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と厳しく叱責を受けました。
実際人は、神のためにと言いつつ、自分の理想に捉われて、自分の力に寄り頼んで、実質的には、自分の力に頼って、「無神論者」と同じ様な働き方をする事があるのです。ペトロは正に自分の力で突き進んでいたような人でした。しかもイエスが、三度確かめられたのは、唯一つ、「私を愛しますか?」でありました。
キエルケゴールは、「信仰者とは恋をする者である」と言う名言を残しました。恋をしている者は、「恋をしている事は大したものである」等と説明もしなければ、自分の恋を弁護する訳でありません。只相手の素晴らしさを賞賛するだけであります。
同じ様に私達一人~に求められている事柄は、自分自身の信仰について語る事ではありません。そうではくて、イエスを愛し、イエスを語り、イエスを伝え、イエスを賛美する事であります。
実際ペトロは、その様に変えられました。ペトロが答えました、「私が、あなたを愛していることは・・・」と言う御言は、ギリシャ語を読んでみますと厳密には、「私は」という主語は、「愛する」という動詞形の一部になっており、「私は」という言葉は、明記はされていないのです。
その代わり、「あなたは、何もかもご存知です」(ver17)の、「あなた」は、非常に強調されています。ペトロはかつては、「私が~」と、昔は、俺はイエスを愛しているんだと言いながら、実は、その自分を誇っていたのでありました。しかし、今は全く違う。「あなた」と生涯をかけてイエスを指し示す人に新しく変えられたのであります。
彼は、失敗を通して、自分の愛が如何に頼りなく、もろい物であるかを知り、しかし、それとは180度違う、イエスの豊かな愛を知る事が出来たのであります。
徳川家康は、あの三方ヶ原の戦いで、武田信玄と戦ったときに大敗を喫してしまいました。その時、家康は戦いに負けて、頬がゲッソリと痩せこけて惨めな自分の姿を、絵師に描かせて、それを何時までも見ていたと言われています。そして、後の天下分け目の関が原の戦いでは、信玄の戦略を真似て、圧倒的な相手を打ち負かしました。この家康の絵は、徳川家に子々孫々まで伝えられ、今でも残っています。私達も失敗する事があります。躓いてしまう事があります。しかし、決して失望する必要はない。
イエスは、あなたの失敗を通しても働いて下さって、あなたを形づくって下さって、あなたを、用いやすいように整えて下さり、あなたを通して御自身の愛を明らかにされて行くのであります。
III.私に従いなさい
さてイエスはペトロに、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ver18)。と言われました。
人は、自分で自分の道を開いたり、人に影響力を与える事を願い、逆に、弱さを知らされ、支配される事を恐れます。しかし、イエスの強さは、その反対でした。イエスの強さは、御自身の身を罪人にお任せになる所にありました。
「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(ver18)。と解説されておりますように、それは、ローマの役人に手を縛られて、ローマの刑場に引かれて行く事を意味しました。
これは、あくまでも伝説ですが、彼は、多くのキリスト者が、皇帝ネロに無実の罪で殺されている最中に、ローマに入り、「主と同じ姿では勿体ない」と「逆さ十字の刑」によって、殺されたと言われているのであります。
イエスは、その上で、「ペトロに、「わたしに従いなさい」(ver19)と言われました。これは、従い続けなさいと言う、現在命令形であります。
それは、何処で何をするかと言うよりも、何処に置かれたとしても、そこでイエスに習う生き方をする事であります。確かにペトロは、過去に於いてはイエスに忠実に従う事ができませんでした。しかし、これから彼は忠実にイエスに従い続けました。イエスの愛が分かるときに、どんな状況の中でも、例えそれが、自分の思うに任せないような状況であったとしても、イエスに従う事ができるのであります。今週もイエスに従う者でありたいと思うのです。
イギリスに有名な交響楽団があり、あちこちを回ってはコンサートを開いていました。所が不況でお客の入りが悪くなり、そして遂には一般の人は切符を殆ど買うことが出来なくなってしまいました。そんな、ある日の夕方、力なく会場の整理をしていた、楽団員の一人が言いました。「もう今日は公演を止めようよ。折も悪く雪も降っている。もしかすると誰も来ないかもしれない。今日は、中止にしよう。」、「そうだ、そうだ、こんな悪い状況の中で、これ以上頑張り続けるのはもう御免だ。」と、もう一人が相槌を打ちました。所が思慮のある、年配の楽団員がこう言ったのです。「ちょっと待ってれ。我々は、切符を買ってきてくれた人に責任がある。だから、たった一人しか来ないにしても、止めてはいけない。さあ今晩もベストを尽くそう。」、こうして彼らは、今までの中で最高の演奏をする事が出来ました。感動に酔った少数の観客の中に、一人の上品な老紳士がおりました。彼は帰りがけに、一枚の紙を渡しました。それには、こう書いてありました。「とても素晴らしい演奏に感謝しています。国
王より」と書いてありました。そう国王が見ていたのです。イエスに従い続ける事には、確かに戦いがあります。しかし、主は見ていて下さるのです。諦める事無くイエスに従う者でありたいと思います。
「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ver16)。