主の愛があなたの心に
- 日付
- 説教
- 小堀昇 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 6章1節~15節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 6章1節~15節
「主の愛があなたの心に」
ヨハネによる福音書6:1-15 2024年2月18日(日)
1.必要を満たして下さるイエス
2.それが、イエスの手に握られた時に
3.12の籠に一杯となった
I.必要を満たして下さる神
この御言葉は、荒れ野に於いて、イエスが五千人もの人々を養われた箇所です。イエスの甦りの記事を除いては、唯一四つの福音書に四つとも出てくる御言葉ですから、それだけ当時の人々は、この奇蹟を大いなる驚きをもって受け止めたのだということができます。
ver14をご覧になりますと、この奇蹟は、しるしであると言われています(ver14)。イエスは、この福音書の中で、全部で7つの奇跡を行われました。そして、それは全て、「しるし」であると言われておりますから、イエスがこの福音書でなさった、7つの奇跡には、其々、意味があるのです。今日は、五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人々を養われた、イエス・キリストの奇跡とその意味について御一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。
「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」(ver1)。
と、聖書は言っていますが、ガリラヤ湖は、湖の西側に建てられました、「ティベリアスの町」に因んで、「ティベリアス湖」と呼ばれるようになりました。その向こう岸が何処であったのか、正確な位置は分かりませんが、恐らくは、北岸(ほくがん)の町、ベツサイダの南数キロの地点と考えられるのです。
この町にイエスは何をしに来られたのかと言えば、休みに来られたのです。休息と祈りの場を求めて、イエスはこの町に来られたのです。今日の御言葉は、洗礼者ヨハネが、ヘロデ王によって斬首され、殉教した直後の事でした。
その事件で動揺している弟子達を落ち着かせるためでしょうか。いずれにしても、日頃の宣教活動のお疲れを癒すためにイエスは、この地に来られたのです。
ところが群衆は、何処まで行っても群衆です。イエスのそのようなお心を知る由もなく、押しかけて来たのです。それはイエスが、多くの病人を癒されて行ったからでした(ver2)。
これは、過ぎ越しの祭りの時期であると言われておりますから(ver4)、イエスが十字架にお掛りになられる、丁度一年前の出来事でした。
イエスの周りに、押し寄せて来た大群衆、それは、男だけで五千人と言われておりますから(ver10)、女性や子供を入れれば、ゆうに一万人になんなんとする、物凄い数の人々がこの時イエスの周りにはいたのでした。その群集を見てイエスは言われました。
「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ver5)。
ここに、まず、私達は、主の深い御愛を見ることができるのです。
それは、イエスが、群衆の日常的な必要に、深い関心を抱いておられたという事です。イエスは唯ここで、神の国の福音を語って、罪の悔い改めを迫ったら、もうそれでお終い。あなたの心が満たされたら、それで良いでしょう。ご飯のことは、自分達で何とかして下さいとは言われなかったのです。あなたの心は満たされたでしょう。良かったですね。お腹の方は自分で、何とかしなさい。ではなかったのです。
「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ver5)。人々の日々の必要に深い関心を抱いておられるのです。
キリスト教は、御利益宗教とは明らかに一線を画しています。しかし、それはまた、心の問題だけに終始していると言っても語弊があるでしょう。イエスが与えて下さるのは、私達のこの肉体をも含めた全人格的な救いなのです。ですから、私達がイエスを信じる時に、イエスが私達の必要を満たして下さるということもまた真実なことなのです。
イエス・キリストを信じれば、罪が許され、魂が救われて永遠の命が与えられるのです。しかし、それだけではない。私達がイエスを信じる時に、生きる意味を見出し、何故生きているのか、いや生かされているのか、生きる意味が与えられ、働くことの意味、勉強する意味が与えられて、今この地上で、信仰をもって生きて行く、何のために、自分は生まれて来たのか、その意味を見出すことができるのです。正に、イエスは、日々の食物と言った日常的な事柄から、人生のあらゆる領域に至るまで、その必要を満たして下さる、イエスとはそのようなお方なのです。
II.それが、イエスの手に握られた時に
さて、このような大群衆を目の前にして、イエスは弟子達に問いかけをなさいました。しかし、それの質問はフィリポに向かって投げかけられたものでした。
「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(ver5-6)。
聖書は、フィリポを試みるために、イエスが敢えてこのような質問をなされたのだと言っています(ver6)。イエスは、よくこのように問いかけられて、弟子達を教育して行かれました。
何故フィリポなのでしょうか。彼は、このベツサイダの町の出身だからなのでしょうか、そこで、近くに何があるか、どのような地形か、よく分かっているからなのでしょうか、しかし、ベツサイダの出身であるならば、シモン・ペトロもアンデレもいる訳です。
ですから、ここでは、敢えて、イエスが、フィリポに問われたその理由があるのです。それは、最後の晩餐の席上でイエスが、私が道であり、真理であり、命であると言われて、私を見た者は父を見たのです。と言われたときに(14:6~)、
「フィリポがいうのです。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」(ヨハネによる福音書14:8-9)。
ある意味彼は不信仰と言いましょうか。現実主義者と言いましょうか。見なければ信じない、あのトマスのような人、フィリポは非常に現実主義的な考えを持った人だったのです。
ですから、ここで、イエスは、敢えてフィリポにこの問いかけをされて、彼の信仰の訓練をなさったのです。
しかし、当然と言えば当然ですが、彼から出てくる答えは、実に現実的なものでした。「フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた」(ver7)。
一デナリオンというのは、一日分のサラリーですから、200日分のサラリーでも足りませんという至極常識的な答えなのです。しかも瞬時にそこまで計算してしまう訳ですから、如何に彼が目の前の世界に縛られていたかが、よく分かるのです。
これは、私達も同じなのです。目に見える物しか受け入れることができない、目に見えない物は、中々信じることができない、それが、私達の心なのです。
しかし、人間的な解決の道が閉ざされた時にこそ、神様の出番なのです。人間的な道が閉ざされた時にこそ、神のチャンスが訪れるのです。こうして、主は五つのパンと二匹の魚から大いなる御業をなされるのです。
「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ver8-9)。
実際現代に於いても、多くの聖書学者は、この奇蹟を文字通りに受け取ろうとはしないのです。例えば、イエスが聖餐式のように、五つのパンと二匹の魚を、小さくちぎって分け与えている姿が、余りにも厳かで、威厳に満ちていたので、人々の心は一杯になってしまって、いつの間にか空腹を忘れてしまったという人もいます。
しかし、 「人々が満腹したとき」(ver12)、と、聖書は言っています。実際に人々は自分で食べて、お腹が一杯になってしまったのです。しかも、その残りを集めると、「十二の籠がいっぱいになった」(ver13)。と、聖書は言っています。ですから、これは文字通り多くの人が口に運んで体験した奇蹟であるということができます。
また、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年の姿に心刺された、大人達が我も我もと自分の持っていたお弁当を差し出したので、人日に行き渡ったと考える人々もいるのです。
ある聖書学者などは、ベロ、ベロ、ベロ、ベロ五つのパンと二匹の魚を、舐めまわしながら皆が右から左へと、回して行ったので、唾で膨らんで行き渡ったなんて考える学者もいるのです。
しかし、私は文字通りこの奇蹟を信じたいと思います。何故ならば、イエスは全知全能の人となられた神に他ならなかったからなのです。「人にはできないことも神にはできるのです。」全知全能の神がおられて、私達一人一人を愛していて下さる、そして、私達を生かして、大切に用いて下さる、幸福にして下さる神が、ご一緒にいて下さるならば、普通私達人間にも出来ないことであったとしても、常識を超えたことであったとしても、神様は必ずなして下さる、その信仰が、私達の人生を変えて行くのです。私達の人生を祝福していくのです。
「イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(ver10-11)。
草が沢山生えていて、座ることが出来たのですから、イエスが十字架にお掛りになられる、過ぎ越しの祭りの丁度一年前、ぼちぼち暖かい季節になる頃でありましょう。イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで感謝の祈りを唱えて、座っている人々に分け与えて行ったのです。そうしたら、どうでしょうか。
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ver12-13)。
五つのパンと二匹の魚が少年の手の内にあるうちは、それは何処までも、五つのパンと二匹の魚でしかないのです。しかし、それがイエスの手に握られた時に、何倍にも増え広がって、多くの人の必要を満たすことが出来たのです。
大切なことは、イエス・キリストに握って頂くことなのです。イエス・キリストに献げることなのです。どんなに小さな物でも、どんなに貧しい物でも、構わないのです。それを献げて、イエス・キリスト握って頂くならば、そこから、神様は不思議なことをして下さいます。神様はそれを増やし、大きく用いて下さる、イエスは、そのようなお方なのです。
今から100年以上も前の事です。靴屋で働く少年が、このメッセージを聞いたのです。そして、献げる一セントのお金もなかったので、私の生涯を献げますという紙を書いて、献金箱の中に入れたのです。彼は献げるものがなかったので、自分自身を、その生涯を献げたのです。
そしたら、神は彼を本当に用いて下さいました。そして、この少年こそ、イギリスの大リバイバルのために、用いられた、彼を冠した聖書学院、ムーディー聖書学院の創設者D.Lムーディーだったのです。
大切なことは、イエス・キリストに握って頂くことなのです。イエス・キリストに献げることなのです。どんなに小さな物でも、どんなに貧しい物でも、構わないのです。それを献げて、イエス・キリスト握って頂くならば、そこから、神様は不思議なことをして下さいます。
III.12の籠に一杯となった
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ver12-13)。
イエスは、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた(ver12)。
ユダヤでは、このような余り物のことを、「ペーアー」と呼んでいます。これは、元々畑の隅を表す言葉で、畑の刈り入れをする時に、畑のペーアー隅まで刈ってはいけない。その隅は、貧しい人々のために置いておかなければならない、そのような憐れみの規定があったのです。丁度、ルツ記のルツの落ち穂拾いがこれに当たるのです。
この規定に基づいて、宴会の後も必ずこのペーアーが残されたのです。そして、この規定に基づいて、弟子達がペーアーを集めたのです。すると、どうでしょうか。何と、12の籠に一杯のペーアーが集められたのです。弟子達分のペーアーが集められたのです。
イエスのために奉仕する者は、唯イエスの足となり手となって奉仕をするだけではないのです。奉仕する者も、まずイエスによって恵まれなければならない、イエスによって養われなければならない、いやイエスは、イエスに仕える者を、より豊かな恵みによって、養って下さるそのことを意味しているのです。
そして、この、「少しも無駄にならないように」(ver12)、と言いますのは、どれ一つ滅びないためにというギリシャ語なのです。
イエスは、五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の人々を養われることによって、象徴的に、ご自身が命のパンであることを、人々を本当の意味で救い、生かし、養い続ける、イエス・キリストこそ命のパンであることを象徴的に現わされたのです。
そして、これこそが、この奇蹟の本当の意味でのしるし、即ち、イエス・キリストこそ、永遠の命を与える、真の救い主であるということだったのです。
しかし、多くの人々は残念ながらそのイエスの本質を見ようとはせずに、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ver15)。
ローマの圧政から人々を救いだすこの世の王であると、期待されていることを知り、イエスは、また一人山に退かなければならなかったのです。
イエスこそ、真の救い主、イエスこそ、私達に永遠の命を与える、真の命のパン、あなたの罪を赦し、あなたに永遠の命を与える、真の神なのです。この主に従う者を主は決して飢えさせることなく、12の籠が一杯になるほどに、丁度満たして下さるのです。
イエスこそ、あなたに永遠の命を与える、真の命のパンなのです。イエスを信じて、永遠の命への道をご一緒に歩んで行こうではありませんか。