そこにおられる神
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- 説教
- 小堀昇 牧師
- 聖書 創世記 28章10節~22節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 28章10節~22節
「そこに神がおられる」
創世記28:10-22
2024年1月14(日)
1.共にいて下さる神
2.人生の照準を神に合わせて
3.あなたにとってのべテル
I.共にいて下さる神
後程、ご一緒に讃美をします、讃美歌320番は、女流詩人、サラ・フラワー・アダムスの作詞で、タイタニック号の沈没事件と深い関係で知られています。1911年に、大西洋を航行するために造られた、イギリスの豪華客船、タイタニック号は、ニューヨ-クに向けての処女航海で、氷山と激突して、沈没してしまいます。
そして、2208人の乗組員の半数以上、1513人が犠牲となるのです。決して沈まないと過信していた船ですから、救命ボートも僅かの数しかなく、女性と子供が優先的にボートに乗り、男性達は決死の覚悟の上、デッキの上から手を振って沈んでいったのでした。
その時に、楽隊に合わせて、この讃美が演奏されたのです。特に、3節以下の歌詞は、今日の御言葉の10節以下を基にして作られているのです。
「主の使いは、み空に、かよう橋の上より、招きぬれば、いざ登りて、主よみもとに近づかん。目覚めてのち、まくらの 石を立ててめぐみを いよよ切に 称えつつぞ 主よみもとに近づかん」
神がアブラハムと結ばれた契約は、その子イサクに引き継がれ、全部ではないにせよ、ヤコブに於いて成就していくのです。彼の誕生の記事は、創世記25章に、葬儀の記事は、創世記50章に出てきます。このことからも、神の契約の歴史の中で、ヤコブの占める地位が如何に、大きな物であったかが分かると思います。
後の、イスラエルの人々は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言い、神は、自分達の父祖アブラハムと契約を結んで下さったと信じて疑いませんでした。
さて、ヤコブは、住み慣れたベエル・シェバを離れて、ハランに向います(ver10)。嘗てアブラハムも住み慣れた故郷ウルを離れて、約束の地に向かいました(12:1)。
また、ヤコブの子であるヨセフも、兄達の怒りを買ってエジプトに売り飛ばされます。故郷を離れるということは、救いの歴史における一つの型です。
人は一つの地に住み着くことによって、そこに自分の城を築きます。家族、財産、文化、そこにアイデンティティーを求めるのです。
その土地を離れて旅に出るということは、その土地に関わる全てのもの、つまり、「自分の生活」、「習慣」、「財産」、「住居」、「地位」、「特権」を捨てることになります。
しかし、これらを捨てて、初めて人は、何が変わっても、永遠に変わる事がない、神を求めるようになるのです。
「ヤコブは、ハランに向かって旅立ちます。そして、とある場所で、一夜を過ごす出のです。そして、そこにあった石を枕にして眠ったときに不思議な夢を見るのです」(ver10-12)。
彼が見た、夢は実に不思議な光景です。天地をつなぐ梯子の夢です。そこを天使が、「上ったり」、「下ったり」しています。父イサクを騙し、兄エサウを出し抜き、家にいられなくなって、彼は、兄の復讐を恐れて北へ逃げています。そして、母リベカの実家を頼っていくのです。
ヤコブは初めて、独り野山に逃げ延びます。もっとも、後から考えれば、この北から南への大旅行は、彼が約束された土地を実際に見て歩く旅になった訳で神のご配慮以外の何物でもないのです。
狩人獲物を追いかける、野生風の兄に対して、彼はインドアを好むタイプです。そんな彼が、一人野宿をしなければなりません。父祖アブラハムもかつてこのあたりでテントを張りました(12:8、13:3)。
いつしか、ヤコブは、先祖ゆかりの地に足を踏み入れていたのでした。しかも彼は、この地で、石を枕にして眠るのです。
人が見る夢、それは、ユングが言うように、その人の潜在意識を表しています。彼が見た夢は正に、彼が、天の父なる神の助けを乞い願っていた事に他なりりません。
この地に頼れるものは何もないのです。頼む事ができるのは、唯天の父なる神しかいない、そう思った彼の心が、そんな夢を見させたのです。しかし、実は、その夢の中にも神の真実があったのです。
「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(ver12)。
天使達は、天に達する階段を、「下ったり、上ったり」しているのではありません。「上ったり、下ったり」しているのです。つまり、主の天使は、最初から、ヤコブと一緒にいたのです。
寂しい荒れ野で、一人過ごさねばならないその夜に、石を枕にして眠らなければならないその夜に、もしかすると、獣に襲われかねないその、野宿している夜に、彼が一人寂しさを感じていたその時に既に神の御守りはそこにあったのです。
天使達は、天に達する階段を、「下ったり、上ったり」しているのではないのです。「上ったり、下ったり」しているのです。主の御守りは既にあったのです。
これは、私達も同じです。私達が気がつく、気が付かないに拘わらず、主の御守りはそこにあるのです。そこに神がおられるのです。
一人野に横たわるヤコブを憐れんで、神は、その夢の中にですらも、現れて下さいました。身から出た錆で、いよいよ首が回らなくなって、故郷を後にしたヤコブ。途方に暮れた後に、そこでも、神は現れて下さったのです。
そして、将来の道を示し、祝福を約束し、励まして下さったのでした。誰がいなくても、神はいつも共にいて下さる、個人的に、深く、ヤコブの生涯に関わって下さって、ヤコブを導いて下さる、この神は、今日第一に、私達一人一人とも、共にいて下さるお方です。
II.人生の照準を神に合わせて
さて、神は、ヤコブに大いなる約束を与え、最後には、あなたを決して見捨てることはないと言われました(ver13-15)。
7つの約束が明確に語られています。第一に、今横たわっているその土地が与えられるという約束です(ver13)。
この約束は、アブラハム、イサク、ヤコブと与えられてきた約束であり、後のイスラエル民族に与えられる約束です。
第二に、子孫繁栄の約束です(ver14)、これもアブラハム(13:16)、イサク(26:4)にも与えられたものです。
第三に、ヤコブとその子孫によって、地上の全ての民族が祝福されるという約束です(ver14)。これもまた、アブラハム(12:3、22:18)、イサク(26:4)に約束されたことでした。
四番目、 「主が共にいて下さるという約束です」(ver15)。(26:3)。
第五番目、「主は何処に行っても、ヤコブを守り最後には必ず約束の地に連れ帰るという約束です」(ver15)。実際後で、この約束は、委細違わずヤコブの生涯に御実現してくのです(50:24)。
そして、六番目、「決して見捨てない」(ver15)。神があなたを見捨てることはない。これは聖書66巻を通して、全てのクリスチャンに語られている、普遍的なメッセージです。
そして、最後第七番目、それは、「あなたに約束したことを必ず果たす」(ver15)。ということでした。そしてこれもまた、イスラエル民族の歴史の中で、委細違わず実現しました(創世記26:3)。
7つの約束は全て実現しました。それは何故でしょう。それは、勿論第一義的には、神ご自身が、契約に、何処までも忠実なお方だからです。しかし、一方で、ヤコブがひたすらに、忠実に神に向かっていったからでもあったのです。
長子の権利を失っていった兄エサウは、残念ながら神に信頼する点では疑問が残ります。
父母から結婚してはならないと言われたカナンの女を妻としてめとり、そのことが父イサクに気に入られないと気が付くと、それに比べ、弟ヤコブが両親の言うことを聞いて、伯父のラバンのもとに旅立った事い刺激されて、それでは自分もと、両親の気に入る女性を探し出してきて、妻に加えるのです(28:6-9)。
神との関係ではないのです。目に見える世界の、見える現象の中で、自分の態度を決定しているのです。その結果エサウの生涯は全て後手、後手に回ってしまい、全てに於いて、相対的に道を選択していく、人生に成り下がってしまいます。
ヤコブのように、確かに欠点はあったとしても、何処までも神に人生の照準を合わせて生きて行こうとするときに、私達は、自分の努力や人知を超えた、不思議な神の祝福、何よりも、契約に忠実な神の御恵みを自分の物とする事ができるのです。
私達もともすれば、神との関係ではありません。見える世界の、見える現象の中で、自分の態度を決定している、その様な事はないでしょうか。
III.あなたにとってのべテル
「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名は、かつてルズと呼ばれていた」(ver18-19)。
「目覚めてのち、まくらの 石を立ててめぐみを いよよ切に 称えつつぞ 主よみもとに近づかん」、讃美歌320番の四節の歌詞ですが、正にこの御言葉そのものです。
神によって、守られていることを確信した彼は、翌朝目覚めると、新しい朝を迎えて、枕にしていた石を立てて、特別な場所として、記念して(申命記27:2~イザヤ19:19)。また油を注いで献身を誓ったのです(レビ記8:10-11)。
石を立てたのは、夢の中で見た、天と地をつなぐ、梯子に準えた物です。この石が象徴している、天から地に届いた梯子は、やがて来られる救い主を表しています。
イエスの十字架は正に、天と地の架け橋です。ヤコブが、そこに油注いだのも、キリスト(油注がれた者)のことでもあり、彼の献身の表れでもあったのです。
ここは、元々父祖アブラハムもこの種の体験をした所で、「べテル」と呼ばれていましたが、今は、「ルズ」という地名に変わっていたのです。そしてそこを、その孫のヤコブが改めて、元の「べテル」に戻し、この地を、「べテル(神の家)」と呼んだのでした。
彼は告白します。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言うのです。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(ver16-17)。こうして彼は、感動と共に、主の御前に十分の一を献げる決意をします(ver20-22)。
確かに、ここは特別な場所でした。特別に神の使いが現れ、天が開かれ、ヤコブの行く末に祝福を約束した、正に記念すべき「神の家」、「べテル」そのものでした。
しかし、ヤコブの生涯を大きく見渡していくならば、あの時も、この時も、天が開かれ、神が直接に現れて、語って下さるという体験を積み重ねていくのです。
ヤコブは、ここ、こそが神の家に他ならないと言いましたが、実は、そこにも、何処にも、彼がどこに行って、何をしていたとしても、そこに神がご一緒して下さって、彼の人生全てが、実は、神の家だったのです。
これこそが、ヤコブの人生の大きな特徴です。彼は行き詰まったのです。八方塞の袋小路で、身動きが取れなくなってしまったのです。
しかし、天だけは、いつも開かれていた。何処に行って、どの場所で行き詰まったとしても、決まって天は彼の人生の中でいつも開かれていた。
後にヤコブは自分の人生を振り返って、戦いや苦しみが多かった人生であると告白をする(47:9)、そんな波乱万丈の人生でしたが、
彼の人生の頭上だけはいつでも、絶えず天が開かれ、折々に主の導きの御手が注がれ続けていた。彼の人生は、特別な天来の恵みに包まれた人生であったということができるのです。
いつどこにいて、何をしていたとしても、そこに主がおられて、天が開かれているとするならば、そこが、私達にとっての、「べテル(神の家)」なのです。
大事なことはなんでしょうか。「べテル(神の家)」は、何も会堂や家だけにあるのではない。野原にも山にもある。人生の旅路の、何処にいたとしても、私達がそこで、神に出会うならば、そこが、何処であったとしても、そこに神がおられるならば、それが、「べテル」なのです。
今置かれている場所、そここそが、あなたのべテルであることを信じて、そこにいて下さる神と共に、新しい年2024年も祝福された人生を送って行こうではありませんか。
あのへロデが、自分の地位を脅かされることを恐れて、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにした時、イエスと母マリア、父ヨセフはエジプトに逃げるのです。
その途中追っ手を逃れて、ある洞窟に身を寄せます。すると、何と、その時、クモが現れて、入り口にクモの巣を張ってしまうのです。
そして、その直後に、ヘロデの追っ手がやってきて、洞窟の中を覗きこむのですが、クモの巣が張ってある洞窟にいるはずがないと、他の場所を探しに行ってしまうのです。
こうして、イエス一行は難を逃れて、エジプトに辿り着くのです。これは聖書に出て来るお話ではありません。
しかし、これこそが、クリスマスツリーのあの銀の糸の下になった話なのです。
神がおられるならば、細い小さなクモの糸もクモの巣も鉄壁の守りです。しかし、神が共におられなければ、どんなに強力に見える守りも、それは、やわなものでしかないのです。
今置かれている場所、そここそが、あなたのべテルであることを信じて、そこにいて下さる神と共に、新しい年2024年も祝福された人生を送って行こうではありませんか。