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2024年01月07日「御心が行われますように」

御心が行われますように

日付
説教
小堀尚美 信徒説教者
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

「御心が行われますように」
マタイ6:9-13
2024.1.7秩父礼拝

ここしばらく、私達は、「主の祈り」の「三つの御(み)」について、聖書に耳を傾けています。「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」、そして、
「御心が行われますように」です。

 今日は、三つ目の「御心が行われますように」ですが、最初の二つを少し振り返りたいと思います。
第一番目は、「御名が崇められますように」でした。
「御名」とは、「神様ご自身」を意味しており、それは、
 「神様について言えることの全部、神について聖書で啓示されてきたことの全て、神様の本質、ご性質のいっさいを含めての神、これまでに、そして今、神様がして下さっていること全てを含めての神様」のことでした。

 大空も、広い海も、宇宙や地球の全てと、私達一人一人を造って下さった神様、私達が立つのも座るのも、眠るのも目覚めるのもご存知で、私達が語る前から、私達の思いを全て知っておられる。

自分でも分からない髪の毛の数まで、ご存知の神様。私達の喜びも感謝も、悩みや痛みも、願いや祈りも、全てを知っておられる神様です。
そして、わたしが共にいるのだから、「恐れるな。」(ルカによる福音書12:6-7)
そう語りかけて下さる憐れみ深い神様です。

「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」 
この祈りの意味は、
「ただ神様ご自身だけが、神様として、崇められますように。」
「どうぞ私達が、ただあなただけを神様として崇めて、歩むことができますように。」でした。

次に、「御国が来ますように」です。
「御国」とは、「神の国」のことで、「神様の主権による支配」という意味があります。
主イエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21)と言われました。
神の国は、主イエス・キリストがこの世界に来られたことによって始まり、悔い改めて、神様を信じる私達の心の中に、既に来ているのです。
既に神の国が来ているのに、「御国が来ますように」と祈るのには、二つの意味がありました。
第一に、「イエス・キリストが一日も早く来られて、天の御国が完成しますように」という意味です。

マタイ25:31-32を見ますと、
「人の子(キリスト)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」とあります。

世の終わりには、キリストが来られて、全世界の者が、神の裁きの前に立たされ、キリストを信じる者達が、用意されている御国に入れて頂くのです。
ですから、「御国が来ますように」という祈りは、「キリストが早く再臨されて、御国が完成しますように」という祈りです。

  そして、この祈りのもう一つの意味は、
「既に、私達の内に始まっている神様の御支配が、更に広がりますように」という願いです。
 
 私達は、ある日、福音を聞き、イエス・キリストを信じて洗礼を受け、あるいは信仰告白をしました。ですから、私達の心の中に、御国は既に来ています。
けれども、神様がどのような御方であるかを更によく知って、神様の恵みが、私達の心の中に更に広がり、私達の歩みを治めて下さいますように。
又、私達が、神様の憐れみによって主イエスを信じ、全ての罪を赦され、神様の子どもとされたように、この救いの恵みが、更に多くの人々に広がり、御国に入る方々が増えていきように。
こういう宣教のための祈りでもありました。

神の国は、からし種のように、最初は、よく見えないほど小さいのですが、成長すると、どんな木よりも大きくなるのだと、例えられています。
神の国は、もともと広がっていく性質のものなのだと、聖書で約束されているのです。

ですから、「御国が来ますように」の意味は、
「キリストが一日も早く再臨されて、御国が完成しますように」、又、
「既に、私達の内に始まっている御国、神様の御支配が、更に広がり、主イエスを信じて、罪を赦され、神様の子どもとされて、御国に入れられる方が増えていきますように。」というものでした。

 では、今日の個所、三番目の「御」、「御心が行われますように」について、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
 これは、全知全能で、愛に満ちた神様に、全幅の信頼を寄せて、御心に服従する心を表した祈り、神様の御心が天で100%行われているように、人の心の中でも完全に行われますようにという祈りです。
 黙示録2:1-2には、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」
 と、神様の栄光と慰めに満ちた、新天新地の完成が約束されています。

神様の御心が、天で100%行われているように、私達の心の中でも完全に行われますように、そして、時満ちて、神様の御計画である新天新地がなりますように、という祈りです。
 神様の御心が地上で行われるためには、私達のわがままな願いは取り下げられなければなりません。ですから、この祈りの中には、どうぞ私達の利己心が神様に取り扱われて、無条件で神様に服従することができますように、という願いを含んでいるのです。

ここに、私達一人一人の信仰の戦いがあります。
天では、いつでも神様の御心は完全に行われていますが、この地上では、私達人間の罪や欲があり、私達を神の恵みから引き離そうとするサタンも働いているからです。(ペトロの手紙一5:8)。
 
 ですから、「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙10:23-25)
 と、勧められているのです。
 
私達には弱さがあり、一人では、神様の御心を行うことはできません。神様に従い続けることもできないのです。
「天におられるわたしたちの父よ」、こう呼びかけて始まるこの主の祈りは、主にある兄弟姉妹と共に祈り、共に励まし合いながら、主に従っていく祈りなのです。
 「御名が崇められますように。」「御国が来ますように。」「御心が行われますように。」この「三つの御」のギリシャ語には、どれも、「あなたの」という言葉が付いています。

神様ご自身の御名、神様ご自身の御国、神様ご自身の御心…このように、神様が前面に出されています。
 まさに、神様を中心にした祈りです。そして、祈る私達が、その祈りが成るように、祈りに参加して、励まし合って歩んでいく祈りです。
 
 最後には、神様がすべてを御支配なさることは分かっている。でも、そのことが、今、この世界においても、私達の間においても成るように祈りなさい。
と、主イエスは私達を励ましておられるのです。

 皆さんは、この「御心が行われますように」という祈りを聞いて、誰を思い出すでしょうか。聖書の登場人物で、このように祈る、行った人は、誰でしょうか。
 そうです。主の祈りを私達に教えて下さった主イエス・キリスト御自身が、このように祈られたのです。
 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)

これは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されている、主イエスの祈りです。イエスを憎む祭司長、律法学者達が、イエスを捕らえに来る直前に、いつもの祈りの場所であるゲッセマネの園で、主イエスが捧げた祈りです。

弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネに、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」(マタイ26:36)と言い、悲しみ悶えて、
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」そう言うと、うつ伏せになって祈られたのです。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願いではなく、御心のままに。」
こう祈りながら、主イエスは苦しみ悶え、汗が血の滴るように、地面に落ちました。(ルカ22:44)
主イエスが飲まなければならなかった「この杯」、「死ぬばかりに悲し」くて、できることなら、取りのけてほしかった「この杯」、私達の主が、「わたしから過ぎ去らせてください」と願った「この杯」とは、何だったのでしょうか。

十字架です。私達を救うための十字架、あまりにも重い贖いの十字架を前に、主イエスでさえ、「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈らざるを得なかったのです。
けれども、父なる神様の御心に全幅の信頼を寄せて、
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。
(マルコ14:36)と祈られたのです。

この主イエスの祈りを思う時、私達は、圧倒されます。
実際、説教を準備しながら、「御心が行われますように。」という祈りの深さを改めて教えられ、
(クリスチャンになって、もう何十年にもなるというのに、私は、本当に幼い信仰者だ。信仰の深みなど分らず、信仰の波打ち際を歩いている者だ。)と思わされました。
「御心が行われますように。」
本当の意味で、この祈りを100%心の底から純粋に祈り、そして実行できるのは、私達の主イエス・キリストただお一人なのではないでしょうか。

けれども、それでも主は、私達に、「こう祈りなさい。」(マタイ6:9)と励まされたのです。
私達の罪が赦され、神様の子どもとなり、天の御国に入るために、
「御心が行われますように」と祈って、十字架を担って下さった主イエスが教えて下さった祈りなのですから、たとえ完全に従うことができなくても、弱くて、情けなくても、それでも、「御心が行われますように」と、私達は祈るのです。

 私達を愛して下さる神様の憐れみを思い巡らし、主イエスが教えて下さった祈りを、共に祈り、励まし合う者になりたいと思います。

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