勇気を出しなさい
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- 説教
- 小堀昇 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 16章25節~33節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 16章25節~33節
「勇気を出しなさい」
詩編20:1-3
ヨハネによる福音書16:25~33 2023年12月31日(日)
1.父なる神に出会う人
2.自分自身の信仰を反省する人
3.平安の源なるイエスに出会う人
I.父なる神に出会う人
Chap14から16まで記されてきた、イエスの長い説教の結びが、今日の御言です。その結論は、「勇気を出しなさい」(ver33)です。何故、私達は、勇気を出すことができるのでしょうか。それはイエスが、既に世に勝っているからなのです(ver33)。
勇気を出しなさいとは、かつて、弟子達がガリラヤ湖で嵐に揉まれておりました時に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた」(マルコ6:50)。の「安心しなさい」と全く同じ言葉です。
或いは中風の患者や長血を患う女がイエスの前に連れ出された時に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた」(マタイ9:2)。の「元気を出しなさい」と同じです。
またエリコの町の盲人が、
「ダビデの子のイエス様私を憐れんで下さい」と呼びかけた時に、人々が、「安心しなさい。」立ちなさい。お呼びだ」(マルコ10:49)と言われた、「安心しなさい」と言うのが、ギリシャ語では同じ御言葉です。
恐いのだけれども、歯を喰いしばって勇気を出すのではない。苦しみの中で喜びをもって、本当にイキイキと生きる姿を現しています。
これは、世の中に沢山ある痩せ我慢、空威張りではく、内側から沸々と沸きあがって来る平安、それに伴う、勇気と勇敢さなのです。その様な信仰を持つために大切な事は何でしょうか。
それは、第一に、「父なる神を知る」という事です。Ver25から28を通してイエスは何回も、「父から」と言っておられます。イエスはそのご生涯の初めから終わりまで、父なる神と交わっておられました。ある時は朝早く起きて、父なる神と交わっておられました。また、ある時は一日の歩みを終えて、父なる神と交わっておられました。十字架の直前ゲッセマネの園・・・「父よ飲まずに済むことの出来る杯であるならば、この杯を私から取り除けて下さい」と言って、父なる神と交わっておられました。
更には、十字架においても、イエスに罵声を浴びせられながらも、「父よ彼らをお許し下さい。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。と言って、十字架の時に至るまで、イエスは、父なる神と交わっておられました。
私達は、イエスを罪からの救い主、また人生の主として、信じて救われクリスチャンになる訳ですから、イエスのお働きについては何度も学んでいると思うのです。十字架についても良く知っているでしょう。
しかし、私達は、父なる神については、どれだけ知っているでしょうか。それは、神が「三位一体の神」、「全知全能の神」、「創造の神」、「愛の神」という事を教理的に知るだけではなくて、私達は父なる神に人格的に出会っているでしょうか。
そして実は、父なる神を人格的に知ると言うことが、私達が送る平安な人生と、その中で築かれて行く兄弟姉妹との交わりに大きな影響を及ぼして行くのです。
あるクリスチャンの精神科医から「小堀先生、あなたは、父なる神に出会っていますか?」と問われたことがありました。私はビックリ致しまして、牧師ですから舐められてはいけないと思って、「勿論私は、イエス様を信じて救われています」と答えました。「そうではなくて、父なる神に出会って、明確に親換えをしていますか?」と聞かれました。そしてその意味を説明して下さいました。人は良い意味においても、悪い意味においても、親から影響を受けて育ちます。思春期になりまして、人格形成に向かうときに、親と戦い、親を乗り越えて、自分にとっての、いらない所は切り捨てて、自分の人格を形成して行くのです。
しかし、親からの悪い部分の影響が心に傷となって残るのです。そして、円満な人格形成に進まない事があるのです。それだけではなくて、その傷が兄弟姉妹との関係に影響を与えてしまったり、父なる神のイメージを歪めてしまったりするのです。これは精神学者であったフロイト、の言葉です。
例えば厳しい親に育てられた人は、父なる神を、とても厳しいイメージでとらえる傾向がある。その時、私達の全てを、ご存知の上で丸ごと受け入れて下さる父なる神に本当の意味で出会う時に、私達の心の傷は癒され、回復をして、自分自身を受け入れる事が出来るのです。
父なる神に出会うことこそが、本当の自分自身を知り、また兄弟姉妹と本当の意味で良い交わりを持てる第一歩なのです。しかし、皆さん既にその様に生きておられるのですから、これから更に御父との関係を深め、自分自身を受け入れ、周りの方々と良い関係を築いて行きたいと思うのです。
II.自分自身の信仰を反省する人
第二に正しい交わりを築く事のできる人は、自分自身の信仰を反省する事の出来る人です。これはまた、自分自身の弱さを知っている人ともいうことが出来ると思います。
「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(ver29~30)。
これは、「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(ver25)というイエスの御言葉を受けて、弟子達が言っている訳ですが、「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた」(ver19)。とございますように、弟子達が尋ねたがっているのを知って、イエスの方から先にその問題を語りだされるお方、つまり弟子達の心の中が分かるお方なのです。
イエスは弟子達に祈りを教えられた時に、
「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。~あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:7~8)。といわれましたが、
イエスは、同じ事を何回も、何回も言って、初めて、「ああそうですか。あなたは、それが欲しかったのですか。」と分かる様なお方ではなく、「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」(ver30)。
先回りして、人の心まで読み取られるお方である事が分かりました。弟子達は言っているのです。
ユダヤに於いては口に出すのを待つまでもなく、心の中にある事を読む事が出来るお方こそ、神であると信じていたのです。
ですから、「あなたが神のもとから来られたと私達は信じます」(ver30)と弟子達は告白をしているのです。所がイエスは、弟子達のこの様な素晴らしい信仰告白を聞いて、次の様に言われました。
「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(ver31~32)。
確かに今、あなた方は、その様に言っているでしょう。その信仰告白も真実でしょう。しかし、違う時が既に来ている。私を裏切り、私を放り出して、皆バラバラに逃げていく時が、既にそこまで来ている。今や正に訪れようとしている。弟子達よ。お前達の信仰は、確かに本物だけれども、未だ不十分だ、未完成だと、イエスは言われたのです。
弟子達は、「あなたが神から来られた方である事を信じます。」と言った時に、自分の信仰は完全だ。神を知る完全な知識に至ったと思い込み自惚れていました。
しかし、イエスは、あなたの信仰は不十分なものだ。あなた方はもう直ぐ、バラバラになると警告を与えらました。
実際これから後弟子達は十字架に掛かるイエスを見て、逃げ出し、ペトロは、イエスを三度も否定して、十字架の後には、「私は漁へ行く」と言って一度弟子の身分を捨てて、一般の生活に戻ってしまっているのです。
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(Iコリント8:2)。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Iコリント10:12)。
実は人生自分は大丈夫だと思った時が、実は一番危ないのです。
沖縄・・・ 4名から数年で平均40名。3年目のクリスマス礼拝には、90名。大きな教会の献堂記念聖会にお招きを頂いたこともありました。「あの教会小堀先生の教会でしょ」地元ではちょっと名前が知られるようになっていたのです。
しかし、私は良くやっている。用いられていると思った、その数ヵ月後に私は体調を崩して、東京に帰らねばならなくなってしまった。正に、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Iコリント10:12)。です。
それから約1年間私は、療養して、来る日もから神様に挫折の意味を問いました。ともかくやる事がない。AM長男を幼稚園に送って行く・・・PM迎えに行く・・・周りの奥さん達からは、何かしらこの人・・・ある時は、一人の幼稚園生から「おじちゃんお仕事ないの?」兎も角も時間は沢山ありますから良く長男と、当時スーパー・ファミコンのドンキーコングをやっていました。さすがに上手くなりました。この挫折の中で多くの事を教えられました。そして、この1年が切掛けとなって、私の牧会が大きく変化して、改革派教会に来る切掛けとなったのです。私は、この挫折を神に感謝しています。
今はっきりと分かりました。もう十分に分かっています。自惚れる信仰は実は、直ぐに躓いてしまう弱い信仰でしかないのです。
しかし、自分自身の弱さに気がついた人、その人は、本当の意味で神に頼り、兄弟姉妹の交わりを正しく保って行くことが出来るのではないでしょうか。
III.平安の源なるイエスに出会う信仰
第三に、平安の源なるイエスに出会う人こそが、祝福の内に、兄弟姉妹と交わりを持てる人です。
この世界には様々な軋轢、戦いがあります。しかしイエスに連なるならば、その中で、何とも言えない平安が与えられるのです。
平安とは、戦いも、矛盾も、葛藤もないという事ではありません。寧ろそのような、軋轢、戦いの中でこそ持つ事のできるものなのです。
また私達の持っている信仰、それは、苦しみや、困難や災いに遭わないというお守りではありません。それら一切から免除されると言う約束でもありません。
では何故信仰をもつ意味があるのでしょうか。それは、苦しみに遭わない人生ではなくて、苦しみには確かに遭うけれども、苦しみによって、押しつぶされてしまう事のない人生、否かえって、苦しみを人生のバネにして、一回りも、二周りも大きく成長して、真の意味で、苦しみに、困難に打ち勝って行く人生、それが、信仰者の人生です。
私達はどうして困難に打ち勝つ事が出来るのでしょうか。それは、既に2000年も前にイエスが、この世界の様々な試練を戦って下さったからです。
「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(へブル人への手紙2:18)。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(へブル人への手紙4:15)。
このイエスが困難を共に戦って下さるからこそ、私達は試練や試みを勇敢に戦う事が出来るのです。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得ためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ver33)。
苦しみがあるからこそ、人は神を求め、苦しみがあるからこそ、人は、神に祈り、実に苦しみと言う土壌にこそ、真の信仰が芽生えるのです。
困難や苦しみを通して、神はまた一歩私達を、御自分の下へと近づけて下さるのです。この神と共に試練や困難を勇敢に戦い、人々との交わりを築いて行く者でありたいと思います。
ホラティオ・スパフォードというクリスチャンがおりました。彼は、弁護士として成功し、医科大学の教授でもあり、神学校理事で、世界的な伝道者ムーディと親しい友人でした。
ところが1871年、愛息を亡くした矢先、シカゴ大火災の被害に遭い全財産を失ってしまいます。スパフォード家族には休息が必要でした。
そこで1873年、スパフォードは、妻と4人の娘と一緒にヨーロッパへ慰安旅行に行く計画を立て、後から合流する予定で、妻と娘たちを先に船に乗せました。
妻と娘たちを乗せた旅客船は、港を出航しました。ところが7日後、船は大西洋の真ん中で大型船と正面衝突し、スパフォードの娘たちは皆、海に沈み、妻だけが救助されたのです。
この知らせを受けたスパフォードは、目の前が真っ暗になりました。
妻を迎えに船に乗り込み、娘たちが沈んだという海の上を通った時、彼は痛みと悲しみで一晩中神様に泣き叫びました。ところが、絶望し、泣きながら祈っていた彼に、突然、驚くべき主の臨在が臨み、それまで体験したことのない平安が心を満たしました。
すべての苦難と絶望を覆うほどの神様の強烈な臨在と、この世を超越した心の平和を受け取ったのでした。朝になると、彼は主からの霊的鼓舞を受けて、一編の詩を記しました。
それが、「しずけきかわの岸辺を」だったのです。 この讃美歌は、信仰の理想を机の上で書いたのではありません。まったく、そのような平安がありえないような状況の中で、すべての現世的理解、現世的事情を超えて、厳然と存在する主が私達を支え活かす御力をその身に実体験して、報告された心からなる感謝と賛美の詩句なのです。
私達は、艱難や苦しみを避ける必要はありません。そこでこそ、苦しみの中で、悲しみの中で、困難の課で、神の御手に抱擁されている喜びと平安を味わうことができるのです。
いよいよ明日から新しい年、2024年が始まります。
新しい年もきっと色々なことがあるでしょう。しかし、困難の中にこそいて下さる神を見上げ、苦しみの中にこそ、共にいて下さる神を信頼して歩んで行こうではありませんか。