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2023年12月24日「心の飼い葉桶」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章1節~21節

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「飼い葉桶の奇跡」

ルカによる福音書2:1-21        2023年12月24日(日)
 少し前の話です。日本の総理大臣に森喜朗という方がおられました。
彼は、時のアメリカ大統領、クリントン大統領に会うために、英語の挨拶を練習して臨みました。
 彼はクリントン大統領に握手を求めながら、「How are you?」、「御きげん如何ですか」というべきところを、 自信満々、「Who are you」、「あなたは誰ですか」と言ってしまったのです。しかし、そこは、アメリカ大統領茶目っ気タップリに、奥さんのヒラリーさんの名前を出しまして「I am a Hillarys husband!!」、「わたしはヒラリーの主人です」と言ったそうです。
そうしたら、森喜朗総理大臣、胸を張って言いました。「Me too!!」、「私もそうです」大いなる勘違いと言ったところでしょう。私達は、クリスマスについて、勘違いしていることはないでしょうか。

I.わたしが共にいるから大丈夫-それがクリスマス
 さて、当時のユダヤは、ローマに支配され、ローマ皇帝が、税金を取り立てる為に、人口調査をしました。人々は皆、自分の生まれ故郷に戻って、登録をしなければなりませんでした。
 
ヨセフも身重のマリアと共に生まれ故郷ベツレヘムに戻ります。身重のマリアを抱えて、ロバに乗って120km程の道のりです。やっと、生まれ故郷ベツレヘムに行くと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ver7)。のでした。住民登録でごった返すベツレヘムに知り合いはいません。皆自分の事だけで精一杯、彼らが安心して過せる場所は、ベツレヘムにはありませんでした。
そして、やっと落ち着いた場所が、家畜小屋でした。イエス様は、飼い葉桶にお生まれになりました。「布にくるんで飼い葉おけるに寝かせた」(ver7)と言っていますが、この主語はマリアなのです。
 皆さんが生まれた時、きっと、皆さんをタオルか何かにくるんでくれた人がいたと思います。それはきっと看護婦さんでしょう。そして、そんな皆さんをお母さんが抱っこしたと思います。
 しかし、マリアは、このとき、誰も助けてくれなかったのです。だから自分でイエスを布にくるむしかなかったのです。夫ヨセフは、きっと、家畜を宥めていたでしょう。しかし、これが世界で初めのクリスマスでした。

 もう一人、聖書には、居場所のない人が出てきます。それは、羊飼い達です。彼らは羊を飼いながら、夜通し群れの番をしていたのです(ver8)。夜通し焚火で暖を取りながら、狼や、野犬から羊を守るのです。
焚火の煙、羊の匂い、その染み込んだ。ボロボロの衣服を着ていました。羊飼い。それは当時社会の一番低い階層の仕事でした。世界で最初のクリスマス。そこには、居場所がない二組の人々がいたのです。
 
ある人が言いました。独りでいることはあまり寂しいことではない。しかし、周りに沢山の人がいて、皆が楽しそうにしているときに、自分には居場所がない。僕は本当に、独りなんだ。その思いは耐え難いと。
 クリスマスのイメージ、それは光です。しかし、その一方で、影もあります。光り輝く年末のイルミネーションの傍に、人間の影があるのです。
 イエス様は、居場所のない人の為に生まれて下さいました。ですから、誰よりも、居場所のない人々の心を分って下さるお方です。神は居場所のない人々の傍に共にいて下さるお方です。独りぼっちだと感じる私達一人一人に私が共にいるから大丈夫と言って下さるお方です。

II.飼い葉桶の奇跡
 さて、夜通し働く羊飼い達にとって、神殿礼拝は無縁でした。いや礼拝に興味もなかったのです。彼らは社会から除け者にされていました。でも、御使いは、そんな彼らに現れて、救い主の誕生を告げます。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ver11-12)。

これは今でいえば、コンビニの前でたむろしている、男の子達に救い主がお生まれになったと告げるようなものです。僕なんか礼拝なんか全然関係ないし~宗教何て、お年寄りがするものだし。そういう人々です。
 でも、ここで、羊飼い達の心に一つの言葉が残りました。それは、「飼い葉桶」でした(ver12)。
天使が、もし、今日救い主が、「あの宮殿にお生まれなりました」。「あの五つ星ホテルに生まれました」。と言ったら、彼らは、出かけることができなかったでしょう。
そこは、ボロボロの服を着ている彼らが入っていくには、余りにも不釣り合いな場所だったからです。
しかし、イエス様がお生まれになられたのは、家畜小屋の飼い葉桶です。そこならいつもの自分達の生活と同じ匂いのする場所です。彼らのありのままの姿で入っていくことができる場所です。「救い主が飼い葉桶」にお生まれになった。「飼い葉桶」この言葉が彼らの心に奇跡を起こしたのです。
 
今迄礼拝何て興味がなかった彼らに、神なんて全く興味がなかった彼らの心に、奇跡が起こりました。そして、ベツレヘムに出かけます(ver15)。飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てるのです(ver16-17)。
 実は、「飼い葉桶」は、どの家にもありました。彼らはきっと迷ったと思います。天使が救い主を連れてきてくれたら、話は早いのに、神は敢えて、羊飼い達を救い主を探しに出かけさせたのです。
神を信じるとき、私達は、きっと迷います。悩みます。これで本当に良いのか、このお方を本当に信じてよいのかと私達は悩むのです。しかし、神はこの探す時間を敢えて大切にしておられます。
 そして、彼らが出会った救い主。それは、赤ちゃんでした。神が人となられた。それだけでも驚きなのに、何と神が、赤ちゃんとして、この地にお生まれになられたのです。赤ちゃんは無力です。自分では何もできない、小さな存在です。
しかし、もし、救い主が立派な大人として、来られたとしたら、羊飼い達は、きっとビビってしまっていたでしょう。
でも、赤ちゃんなら安心です。何時でも、何処でも近づくことができます。救い主は、何か立派な人。地位のある人しか近づくことができないようなお方ではありません。
子供でも、大人でも、若い人でも、お年寄りでも、地位のある人も、ない人も、どんな国の人でも近づくことができる。それが、赤ちゃんとしてお生まれになられた救い主、イエス様なのです。
 ですから、イエス様の前で、私達は、背伸びする必要はありません。本来の自分とは違う自分を演じる必要もありません。救い主、イエス様は今日も、飼い葉桶であなたを待っていて下さるのです。

III.飼い葉桶の奇跡
 羊飼い達は、とうとう飼い葉桶に眠っておられる、イエス様を探し当てるのです。イエス様が眠っておられる飼い葉桶は、羊飼い達が、着ていた粗末な衣服とそこに染み付いた匂いと同じ匂いがしたことでしょう。
 「飼い葉桶」ここから、私達は二つの事が分かるのです。それは、第一に、「飼い葉桶」にお生まれになられたイエス様こそ、この世界のどんな人でも、近づくことができる。どんなに貧しい人でも、近づくことができ 
るどんなに低い境遇に置かれた人でも近づくことできる救い主です。
 そして、もう一つ。イエス様がお生まれになられた、「飼い葉桶」は、私達の心の中を表しています。私達は、もし今私達の心の中が、人々の前で、モニターに映し出されたら、どうでしょうか。

 私達は、誰にも見せることができない、「心の飼い葉桶」を持っているのです。決して人に見せることができない。決して人に語ることができない、そんな「心の飼い葉桶」を、私達は持っているのです。
 しかし、イエス様は、そんなあなたの、「心の飼い葉桶」に降りて来て下さった。クリスマスそれはネオンの煌めきの中で、イエス様に出会う日ではないのです。あなたの、「心の飼い葉桶」に来て下さった、イエス様が、あなたの弱さの真っただ中で出会って下さる日なのです。
 
丁度、カーテンを締め切った部屋で、少しでもカーテンを空けると、そこから一筋の光が差し込んでくるように、あなたの、「心の飼い葉桶」に光が差し込んできます。あなたの罪を赦すという光が、あなたの弱さを担うという光が、あなたの心の飼い葉桶に、差し込んでくるのです。
あなたの心の飼い葉桶に光が差し込んでくるのです。
 イエス様は、皆さんを愛しておられます。あなたのために、まるで羊飼いのようなボロボロの衣服を身にまとわれて、十字架で死んでくださり、三日目に甦られます。そして、その十字架の事実によって、あなたの「心の飼い葉桶」は、きれいになるのです。あなたの罪は許されるのです。
 イエス様は、このクリスマスに、あなたの心に寄り添って下さるお方です。聖書は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と語ります。
クリスマス。それは、あなたの心の飼い葉桶に、神が光を与えて下さる日です。神は決してあなたを見捨てず、あなたを見放したりはなさいません。
このクリスマスにあなたも、羊飼い達のように、イエス様の下に駆け寄って、飼い葉桶にお生まれになられたイエス様の愛を、その温もりを受け取って頂きたいと思います。
イエス様がニューヨークにお見えになるという噂が流れました。それを、いち早く知った大会社の社長さんが、「よし俺の新車で迎えに行こう」と思いました。しかし、「待てよ。イエス様と一緒にニューヨークを走ると、君、あの老人を乗せてやれ、あのホームレスを温かく迎えよ。」というのではないかと」あれこれと想像して、結局迎えに行くのを止めてしまうのです。
色々な人がいろいろとイエス様を迎えに行く、決心をするのですが、あれこれ面倒になる事を恐れて結局止めてしまうのです。そしてイエス様がニューヨークにお着きになった時に、誰一人、お迎えに行く者がなかったそうです。これは、ある本で読んだお話ですが、これは私達の心を表しているのではないでしょうか。どうか、羊飼い達のように、イエス様のもとにかけよって、イエス様を礼拝する。そのようなクリスマスを過ごしていこうではありませんか。

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