リジョイス聖書日課 https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/ リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。 Sun, 20 Apr 2025 03:05:44 JST ja-JP Sun, 20 Apr 2025 03:05:44 JST https://www.jesus-web.org/_rejoice_daily/ RCJメディアミニストリー RCJメディアミニストリー info@jesus-web.org no https://www.rcj.gr.jp/_podcast/local_rejoice/image/artwork.jpg Sun, 20 Apr 2025 00:10:00 +0000 泣く者に復活のよろこびを(ヨハネによる福音書 20章11-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250420 no 2025 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 (ヨハネによる福音書20章16節) 週の初めの日、朝早く、マグダラのマリアはイエスが葬られているはずの墓に急ぎました。ところが、イエスの遺体がなくなっていたのです。私たちは死に対して無力です。人を生き返らせることなどできませんし、死別の悲しみは簡単に消えません。愛する人の死を、なかなか乗り越えることができません。マグダラのマリアは、せめて自分ができることをと思って主イエスの墓に向かったのでしょう。しかし、空になった墓の外で、泣くことしかできませんでした。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。主がどこにおられるのかわからない。人間の根本的な苦しみではないでしょうか。主を見失うとき、私たちはどう生きていけばよいのか分からなくなってしまうのです。実は、よみがえられた主イエスは、マリアのすぐ後ろにおられたのですが、悲しみのあまり、信仰の目がふさがれていたのでしょうか、マリアは振り向いてもそれが主イエスだとわからなかったというのです。 主イエスは「マリア」と言われました。ようやくマリアは気づきます。主が生きて、ここにおられると。イースターの喜びです。たとえ目に見えなくても、御言葉を通して、確かに主が生きておられることを知るのです。 【祈り】 死に勝利し、よみがえられた主よ。復活の希望に私たちの目を開いてくださいますように。 Sat, 19 Apr 2025 00:10:00 +0000 最良の小麦と蜜のような神の言葉(詩編 81編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250419 no 2025 主は民を最良の小麦で養ってくださる。 「わたしは岩から蜜を滴らせて あなたを飽かせるであろう。」 (詩編81編17節) 詩人は、「わたしたちの力の神に向かって喜び歌い…角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」(2~4節)と、神賛美へと人びとを招きます。この「祭り」とは、その特徴から「仮庵祭」であることが分かります。それは、収穫を祝う「収穫祭」ですが、元々はイスラエルの民がエジプトの国から導き出されたとき、荒れ野の生活において、神の守りの内に仮庵に住んだことを想い起こす祭りでした(レビ23章43節)。詩人は、仮庵祭の日に、神の救いが与えられていることを覚えて、神を賛美しようと民を招いているのです。 6節からは、その救いの神に感謝をささげ、神の言葉に聞き従うことの大切さが語られます。「イスラエルよ、わたしに聞き従え。」(9節)、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」(11節)と、神の言葉に聞き従うならば、私たちの命が満たされることを語るのです。 17節には「主は民を最良の小麦で養ってくださる。『わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう』」と、神の言葉が最良の小麦と蜜にたとえられています。私たちの主は、御言葉によって、最良の命の糧を私たちに与えてくださいます。私たちはきょうも、口を広く大きく開けて、主の御言葉をいただき、その命に養われて歩んで参りましょう。 【祈り】 きょうも日ごとの霊の糧を与え、私たちの命を養ってください。 Fri, 18 Apr 2025 00:10:00 +0000 神から離れた者から神と共に生きる者へ(マルコによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250418 no 2025 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 (マルコによる福音書15章38節) 聖書は主イエスが十字架で死なれた後、不思議な出来事が起こったことを記しています。それは、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことです。 神殿の垂れ幕とは聖所と至聖所とを隔てる幕のことです。この垂れ幕は、イスラエルの民が神に、そのままでは近づくことができないことの象徴であり、大祭司による贖罪が必要なことを意味していました。それが主イエスの死に伴い真っ二つに裂けました。これは、主イエスの十字架の上での死によって、神と人との隔たりが取り除かれたことを意味しています。それゆえ、主イエスの十字架の死は、すべての人が、導かれるままに遠慮することやためらうことなく神に近づくことができるようになったことを示しています。 主イエスの十字架の死は、私たちを罪の力の支配から解放するものです。主イエスの死は、神から離れた者としてではなく、神に近づき、神と共に生きるという永遠の命へと至る道を開いた希望に満ちたものです。この希望のもと、私たちは、主イエスを信じ、主イエスと共に、主の赦しに与る者として自分らしく歩み、世のためではなく神のために生きます。そして、この生き方こそ、人生の本来の豊かさを大いに示すものなのです。 【祈り】 主よ。あなたに大胆に近づき、あなたと共に永遠の命に至る道を歩ませてください。 Thu, 17 Apr 2025 00:10:00 +0000 まるごと受け入れてくださるイエス(マルコによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250417 no 2025 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 (マルコによる福音書14章30節) ペトロは十二弟子の筆頭格の立場にありました。それゆえ、主イエスに従うことについて強い思いを持っていました。オリーブ山に向かう道で主イエスは、ゼカリヤ書の言葉を引用しつつ、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われます。これは、受難の出来事において、弟子たちの信仰が揺らされてしまい、彼らが主イエスを見捨てて逃げ行くことを示しています。しかし、ペトロは、いや、自分はそんなことないとばかりに、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言います。 他の弟子はそうかもしれないが、わたしは違うと自信を示すペトロに、主イエスは彼が裏切ることを予告されます。主イエスの言葉に、当然、ペトロも他の弟子たちも、心から裏切ることはないと反論します。ですが、彼らは主を見捨てて逃げてしまうことになります。 ペトロの言葉は、強さではなく、人の弱さを示すものです。私たちも主イエスに従うと固く思いますが、しかし、困難に襲われると主を知らないと言ってしまう弱さを持ちます。主は私たちの中にある弱さをすべて知った上で、私たちを丸ごと受け入れてくださる方です。自分の強さを誇るのではなく、ただ十字架の救いを誇って、歩みたいと願うのです。 【祈り】 主よ。自らをしっかりと見つめる心と、あなたを全面的に信頼する信仰を与えてください。 Wed, 16 Apr 2025 00:10:00 +0000 世の終わりに救いの言葉が成就する(マルコによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250416 no 2025 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 (マルコによる福音書13章31節) 主イエスは、弟子たちに世の終わりが来ることをいちじくの木から教えようとされます。いちじくの木はどこにでもあるポピュラーなものでした。日本において桜の花が咲くと春を感じさせるように、パレスチナにおいていちじくの木々の葉が出てくると、人びとは夏が近づいていることを感じ取ったのでした。主イエスは弟子たちに身近にあるいちじくの木にたとえて、世の終わりが来るその時がいつであるのかは父なる神以外、知ることはない、しかし、誰もが世の終わりが来ること、その近づきは分かるのだと教えられました。 また世の終わりが来たとき、天地は滅びるが、「わたしの言葉は決して滅びない」とも主イエスは言われました。「わたしの言葉」とは、主イエスの言葉、救いの言葉です。その意味は、終わりの時が来たときに、主イエスの言葉、救いの言葉が完全に成就するということです。言い換えるなら、世の終わりにあって、主イエスを信じた者は決して滅びることはないという希望の言葉なのです。 世の終わりが来たとき、主イエスを信じる私たちは、滅びることなく、永遠の命に与る希望が与えられています。主イエスは、この希望をもたらすために十字架の道を真っ直ぐに歩み、ご自身の命を献げられたのです。 【祈り】 神よ。私たちは滅びの道でなく、永遠の命に至る道を歩んでいることを確信させてください。 Tue, 15 Apr 2025 00:10:00 +0000 神への愛と人への愛は一つのもの(マルコによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250415 no 2025 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。 (マルコによる福音書12章34節) 神への愛と人への愛は切り離すことができない関係にあります。ある律法学者が主イエスに、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と質問します。これに対して主イエスは、第一の掟として「唯一の神を愛すること」、第二の掟として「人を愛すること」と答えられます。 律法学者は、「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」と言います。この言葉に対して主イエスは、「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。主イエスの言葉は、律法学者をほめる一方で、律法学者の神についての理解の足りなさを指摘するものでした。 律法学者は「あらゆる掟のうち、どれが第一」かを聞きましたが、しかし、主イエスは、第一の掟として「神を愛すること」、第二の掟として「人を愛すること」を挙げておられます。主イエスがこのようにお答えになった真意は、神への愛と人への愛が、切り離すことのできない一つの関係であることを示されることにありました。 神を愛することは人を愛することを伴うものです。神を愛すると言っても人への愛がなければ、神を愛することではありません。私たちが、自ら欠けと罪深さと認め、神を愛し、神に委ね、神の国に生きるのなら、人を愛する者へと変えられていくのです。 【祈り】 神よ。私たちが、あなたと人を愛し、神の国に生きる者となさしめてください。 Mon, 14 Apr 2025 00:10:00 +0000 平和のために子ろばに乗られた王(マルコによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250414 no 2025 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」 (マルコによる福音書11章9節) 主イエスの最後の一週間、受難週が始まります。主イエスは、エルサレムに入城された際に、二人の弟子に子ろばを連れてくるようにお命じになりました。そして、連れてこられた子ろばに、ご自分の服をかけ、お乗りになります。主イエスが通られる道では多くの人が自分の服と葉の付いた枝を道に敷きました。そこで、主イエスに従う人たちは、詩編の言葉である「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と叫びます(118編25節)。 主イエスは、「神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る」お方です(ゼカ9章9節)。世の王は、都に入るとき、勇ましい軍馬に乗り、兵士に囲まれます。しかし、私たちの王イエスは、ゼカリヤの言葉のとおり、高ぶることのない、平和の象徴である子ろばに乗られました。そのように、神に従い勝利を与えられた平和の君として、熱狂する民衆の叫びの中、神の国の都エルサレムに入られるのです。 しかし、数日後、平和の君を迎えた熱狂は、「十字架につけろ」という叫びへと変わります。主は、この叫びを発してしまう人の罪の贖いのために十字架の上で死なれます。この主の犠牲によって、神と人との間に本物の平和がもたらされるためです。 【祈り】 神よ。主イエスの十字架の贖いによってもたらされた本当の平和が、多くの人に届きますように。 Sun, 13 Apr 2025 00:10:00 +0000 赦しをもたらす主の十字架(ルカによる福音書 23章32-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250413 no 2025 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 (ルカによる福音書23章42節) 二人の犯罪人が、主イエスと一緒に十字架につけられました。まるで主イエスが犯罪人の親玉であるかのように、一人は右に、一人は左に。 祈祷会に集っておられた求道者の方に、「イエスさまの十字架の死は英雄の死ではなかったのですか?」と聞かれたことがあります。決して主イエスは英雄として死なれたのではありません。十字架につけられたイエスを議員たちは嘲笑い、兵士たちは侮辱したと記されます。一緒に十字架につけられた犯罪人の一人も、主イエスをののしって言いました。「自分自身と我々を救ってみろ」。 自分を十字架につけた群衆の姿を見、多くのあざけりと侮辱の声を聞いた主イエスの願いが祈りとなって記されます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。まさに、そのためにこそ主イエスは十字架につけられたのです。彼らが赦され、父の御怒りが彼らに向かわないために、主イエスは十字架の上で父の怒りの杯を飲み干してくださいました。 わたしの罪が赦されるために、神の御子が代わりに死ななければなりませんでした。ただひれ伏し祈りましょう。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。 【祈り】 主よ、十字架こそが私たちにとって御国の入り口です。罪を悲しみ、救いを喜んで歩めますように。 Sat, 12 Apr 2025 00:10:00 +0000 御顔の光の輝きによる救い(詩編 80編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250412 no 2025 神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。 (詩編80編4節) 詩編80編には、国の滅亡と荒廃に伴う詩人の嘆きの祈りが記されています。「万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。…あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ、なお、三倍の涙を飲ませられます。わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ、敵はそれを嘲笑います」と、神に苦悩を訴えています(5~7節)。 そのような中で、詩人は「わたしたちを救うために来てください」(3節)、「万軍の神よ、立ち帰ってください」(15節)と、神の到来と顕現を祈り求めます。そして、「(万軍の)神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」(4、8、20節)と、三回も繰り返し、主の御顔の光が輝かされるならば、神の救いが与えられることを語るのです。 アロンの祝福には、「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」とあります(民6章25、26節)。主イエスが弟子たちに栄光の姿を示されたとき、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書かれています(マタ17章2節)。 どんな圧倒的な暗闇の状況の中でも、主の御顔の光が私たちに輝かされるならば、私たちは恵みと平安を与えられるのです。 【祈り】 暗闇の中でも、御顔の光を輝かせて、私たちをお救いください。 Fri, 11 Apr 2025 00:10:00 +0000 ご自分の死よりも子供の招き(マルコによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250411 no 2025 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」 (マルコによる福音書10章14節) 主イエスが子供たちを招く光景はほほえましく映りますが、これは決して当たり前の光景ではありません。主イエスはご自分の受難と復活を、すでに二度予告しており、このあとも予告をくりかえされます。今は、ご自分の死のことで胸が詰まってもおかしくないときです。そのようなときに、主イエスはご自分のことではなく、ご自分のもとに子供たちを招くことを大事にされたのです。 「子供」とは、単に年齢の小さな者や、純粋な性格、聞き分けの良さといったことを指すのではありません。もし、主イエスが言われる「子供」を純粋で聞き分けの良い者のように考えてしまうと、自分がどれほどかけ離れた存在かと落胆してしまいます。むしろ「子供」とは、ここで子供たちが主のもとへ行くことを妨げられたように、力なく倒れ伏した者を指します。神の国とは、主イエスに従うがゆえにこの世で苦しみを受ける者たちのために、用意されているのです。 ご自分の死が差し迫っていながらも、主イエスのまなざしは、ご自分のことより、主イエスに従う者へと注がれます。ご自分の残された時間を、「子供」のために用いられたのです。そのまなざしの中で、抱き上げられ、祝福されるとは、なんと幸いなことでしょう。 【祈り】 主イエスに従う者を、抱き上げ、祝福し、神の国へ招いてくださり感謝します。 Thu, 10 Apr 2025 00:10:00 +0000 神に背いたこの私さえ(マルコによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250410 no 2025 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」 (マルコによる福音書9章40節) 主の名によって悪霊を追い出す者たちが現れました。それは主イエスの働きが多くの人びとに知られ、好感を得ていたためです。ここに宣教の広がりを見ることができます。喜ばしいことです。しかし、弟子たちは納得できません。「だれがいちばん偉いか」と議論していたためです(34節)。彼らの中では、宣教の成果を自分の成果とすることが問題となっていました。主イエスの直弟子であるというプライドが邪魔していました。だから、他の者の功績を認められなかったのです。 しかし、主イエスによって、逆らわない者は味方であるという、驚くべき視野が与えられます。宣教の権威は、ただ神にのみあります。神がお許しになれば、誰によってであれ、宣教の働きは豊かに実を結びます。主ご自身がそのことを喜ばれます。 私たちも主イエスの名を用いています。聖なる神と罪人には隔たりがありますから、御子イエスの名によって日々祈ります。私たちは主イエスにも、父なる神にも直接お会いしたことがありません。それどころか、私たちは神に背き、自分勝手に生きる罪人です。しかし主は、その私たちをも味方だと証言してくださいました。これが、どれほど偉大な事実であるかに、心を留めたいと思います。 【祈り】 主よ、あなたはご自分に背いた者をもご自分の味方としてくださいました。この赦し、励ましを感謝します。 Wed, 09 Apr 2025 00:10:00 +0000 メシア神の御子罪人の救い主(マルコによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250409 no 2025 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 (マルコによる福音書8章29節) 人びとは主イエスが何者であるかに関心を抱きました。大勢の人びとの空腹を満たし、耳の聞こえない人や目の見えない人を癒し、その業や言葉に驚きを隠せなかったからです。ただし、人びとはその正体を見破ることができませんでした。「洗礼者ヨハネ」も「エリヤ」も、メシア到来の目印として遣わされる人たちです。人びとは、主イエスのすばらしさに打たれながらも、このお方をメシアとは見ることができませんでした。 同じ問いかけが私たちにも迫ります。あなたは、主イエスについて何を信じ、告白するのか、と。私たちは、洗礼を受けたとき、信仰告白したとき、加入したとき、「主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みます」と同意しました。また、聖餐式の招きにおいて、同じ誓約の言葉をくりかえし確認します。私たちが主イエスについて信じ、告白することは、ここに詰め込まれています。 主イエスは神の御子でありながらも、へりくだって私たちの救い主となってくださいました。私たちはこのお方によってこそ、あらゆる癒しにまさる癒しを受け、満ち足りた人生を得ることができるのです。 【祈り】 主イエス、私たちのメシアよ。あなたをメシアと信じ、告白できる幸いを感謝いたします。 Tue, 08 Apr 2025 00:10:00 +0000 パン屑によってさえ養われる(マルコによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250408 no 2025 女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 (マルコによる福音書7章28節) ある異邦人女性が主イエスにひれ伏しました。悪霊に取りつかれた娘の救いを求めてやって来たのです。すると、主イエスは「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われました(27節)。主イエスは、ご自分の使命が、まずイスラエルの養いと救いにあることを示され、女性の願いを一旦取り下げさせようとなさいます。もしわたしがこの女性であったら、返答に詰まってしまうかもしれません。娘の救いのために必死なのですが、主に拒まれたように感じるからです。 しかし、この女性は落胆しませんでした。むしろ、主イエスの言葉を積極的に捉え、その真意を見抜き、信仰をもって受け止めます。そして、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言いました。主はこの受け答えに感心されます。この女性が、まずはユダヤ人の救い、次に異邦人の救いという、神のご計画を受け入れていたからです。 主の食卓に出されるパンは御言葉、だからパン屑もまた御言葉と言えます。この女性は、その御言葉によって自分たちも養われると確信します。すなわち神の救いのご計画の中に自分も入れられていると信頼していたのです。主イエスは彼女の信頼に応えて、幼い娘を救われました。 【祈り】 主よ、私たちがあなたの救いのご計画を信頼することができますように、御言葉をお与えください。 Mon, 07 Apr 2025 00:10:00 +0000 宣教に必要なもの不要なもの(マルコによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250407 no 2025 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け… (マルコによる福音書6章7節) 主イエスは十二弟子を宣教へ派遣するにあたり、「汚れた霊に対する権能」をお授けになりました。そして、杖一本のほかに何も持たないようにと言われます。それは、普通の旅行に持っていく最低限の持ち物さえ用意してはならないということ、特別な準備をしなくとも、旅先での必要が満たされることに信頼しなさいということです。 また、主の言葉には、もうひとつの意味があります。それは、ここに挙げられているようなものは、宣教には「不要」ということです。宣教には、主イエスから授けられた権能があれば十分です。むしろあれこれと持っていこうとすれば、荷物になってしまいます。私は大学時代の多くを登山に費やしていましたが、その準備を思い出します。あれば便利なものでも、たくさん持てば荷物になってしまいます。だからなるべく持ち物を減らします。そうしないと、重たい荷物に苦しめられてしまうのです。 「不要」と言われても、あれこれと持っていこうとするのは、心に不安があるからでしょう。自分の弱さや足りなさへの不安です。しかし、自分に自信が持てなくとも、主イエスは十分な権能を授けてくださいました。主イエスを信頼すればこそ、私たちは宣教に励むことができます。 【祈り】 わたしには自信がありません。しかし、主イエスの力を信頼します。主の宣教が豊かになされますように。 Sun, 06 Apr 2025 00:10:00 +0000 主イエスに感謝の礼拝をささげよう(ヨハネによる福音書 12章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250406 no 2025 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。 (ヨハネによる福音書12章3節) 主イエスが十字架で死なれる過越祭の六日前の出来事です。主イエスはベタニアの村を訪れ、ラザロや他の人びとと共に食事の席に着いていました。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ(約326グラム)を主イエスの足に注ぎかけたのです。金額にすると、労働者の年収に相当する香油でした。 その場にいたユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを叱責します。他の弟子たちも憤慨したと、マタイによる福音書は伝えています。ある意味でもっともな指摘であり、常識的な反応でしょう。 しかし、このときマリアがしたことは何かと言えば、それは礼拝です。この地上を歩まれ、多くの人びとに寄り添い、悪と戦い、いよいよ十字架に向かわれる主イエスの足に、マリアは香油を注いだのです。彼女なりの精一杯の礼拝でした。周りの人たちの目には、それが異常な行為に映ったのでしょう。しかしマリアが異常だったのではなく、キリストの愛が普通ではないのです。その愛で愛され、多く赦された者たちが感謝を表そうとすれば、普通ではなくなるのです。ナルドの香油でもまだ足りない。これが、多く愛されたマリアの気持ちだったのではないでしょうか。 【祈り】 神さま、私たちも多く愛され赦していただいた者たちです。きょうも感謝の礼拝へと導いてください。 Sat, 05 Apr 2025 00:10:00 +0000 主の御名の栄光による救い(詩編 79編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250405 no 2025 あなたの御名の栄光を輝かせてください。 御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。 (詩編79編9節) 詩編79編では、神の民の代表者である詩人が嘆き祈っています。 「神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い、あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました」(1節)。戦争による敗北によって、エルサレムの町も神殿も破壊され、多くの死者が出て(2節)、生き残った民も周囲の民に嘲られていることが分かります(4節)。おそらく、この詩はバビロン捕囚の時代に書かれたものでしょう。詩人はその苦難の中で、神に救いと敵への報復を嘆き祈っているのです。 異国の民が栄え、神の民が衰えている不条理を嘆く詩人ですが、それは「あなたは永久に憤っておられるのでしょうか」(5節)と、神の怒りのゆえであると告白します。そして、「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください」と、ただ神の御名の栄光のゆえに、罪の赦しと救いを祈り求めているのです。 主イエスは、「父よ、御名の栄光を現してください」(ヨハ12章28節)と祈り、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。そのキリストによる御名の栄光ゆえに、私たちの罪は赦され、神の救いが与えられています。 【祈り】 ただ主の御名の栄光のゆえに、救いが与えられることを感謝します。 Fri, 04 Apr 2025 00:10:00 +0000 あなたのための主イエスの戦い(ヨシュア記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250404 no 2025 …イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。 (ヨシュア記10章42節) この章には、ヨシュア率いるイスラエルの人びとがカナン南部を攻略した様子が書いてあります。40節以下はその要約です。彼らが攻略できたのは、主が御自分の民のために戦われたからにほかなりません。 ヨシュアとイエスはどちらも「主は救い」を意味する名前です。私たちキリスト者は、「主は救い」そのものである最高の預言者、主イエスに率いられて、この世を歩んでいます。 ヨシュアの時代、エルサレムの王はアドニ・ツェデクでした。そのエルサレムにおいて、永遠の王、主イエスは、私たちを罪と死と悪魔の奴隷状態から解放し、神の子、神の民とするために、十字架で死んで三日目に復活し、悪の力に勝利して天の王座に昇られたのです。そして、今も、聖霊にあって私たちと共におられ、私たちのために悪の力と戦って、私たちを支え、守っていてくださいます。 今週、私たちは、どれだけこの方に依り頼んで、悪の力と戦ったでしょうか。実を結ばない暗闇の業(エフェ5章11節)に加わることが何と多かったことでしょうか。しかし、天の御父のもとには唯一の大祭司、私たちの罪の償いのために十字架で死んで復活くださった主イエスがおられ(1ヨハ2章1節)ます。このお方が天の御父に罪の赦しを執り成していてくださいます(ロマ8章34節)。 【祈り】 主よ、主イエスによる罪の赦しを絶えず確信できますように。 Thu, 03 Apr 2025 00:10:00 +0000 主の御前で誠実に生きる(ヨシュア記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250403 no 2025 ところがギブオンの住民は、ヨシュアがエリコとアイに対してしたことを聞き、賢く立ちまわった。 (ヨシュア記9章3節~4節) この世の中は、何とか自分を有利にしようと、賢く立ちまわる策で溢れています。 ヨシュア率いるイスラエルの人びとがエリコとアイにしたことを聞いたギブオンの人びとも、策を講じて賢く立ちまわりました。すなわち、実際はカナンの住民なのに、遠い国に住んでいると偽って、ヨシュアと和を講じて、命を保証する協定を結ぶことに成功したのでした。 このとき、ヨシュアやイスラエルの指導者たちは、主なる神の指示を求めませんでした(14節)。ですから、彼らにも落ち度はあります。主の御心を祈り求めることが必要だったでしょう。他方、ギブオンの人びとは、イスラエルの人びとを欺くことはできても、彼らと共にいます主なる神を欺くことはできません。結局、ヨシュアたちに真実を知られるところとなり、命は保証されましたが、奴隷として彼らに仕えて生きなければなりませんでした。欺きの罪に対する主なる神の呪いです(23節)。 この世の中で、私たちが陥りがちな罪の一つに偽善があります。しかし、主なる神は、私たちの心の中までご存じです。心の中で自分への賞賛や栄光を求めるならば、欺きの罪でしかありません。人は欺けても、主なる神を欺くことは不可能です。主なる神の御前で誠実に生きましょう。 【祈り】 主よ、あなたの前で誠実であれるよう、聖霊によって助けてください。 Wed, 02 Apr 2025 00:10:00 +0000 御言葉に忠実に聴従する(ヨシュア記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250402 no 2025 その後ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。 (ヨシュア記8章34節) 本日は、多くの教会で、祈りの集いが持たれます。自分自身へと向かいがちな心を、今一度、天の王座の主イエスへと高くあげて、祈りつつ御言葉に聴従して、今週後半の歩みを始めましょう。 主なる神は、御心に聴従してアカンの罪を処理したヨシュア率いるイスラエルの人びとに、アイの町をお与えになりました。ヨシュアは、エバル山に主なる神のために祭壇を築いて礼拝をささげました。そして、ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げたのでした。今日で言えば、聖書の御言葉を朗読し、御言葉に忠実に説教したということです。 旧・新約聖書の神の御言葉は、どうしたら神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことができるかについて、私たちを教え導く唯一の規範です(ウ小教理問二)。聖書の御言葉は、私たちの信仰と生活のただ一つの規範です。主なる神は、きょうも、御言葉をとおして、あなたが歩むべき道を示してくださいます。今週前半の罪を悔い改めて、聖霊にあって共に歩んでくださる主イエスへの信頼と服従を新たにされたいと願います。 主なる神は、祈りつつ御言葉に聴従するあなたを今週の後半も豊かに祝福してくださいます。 【祈り】 主よ、今週の後半も、私たちと共にいて、守り導いてください。 Tue, 01 Apr 2025 00:10:00 +0000 罪に激しく憤られる主なる神(ヨシュア記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250401 no 2025 イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。…主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。 (ヨシュア記7章1節) 世の中では、今日はエイプリルフールで、公然と嘘をついてよい日とされています。そのような日だからこそ、キリスト者として歩むことについて改めて考えてみましょう。 ヨシュア率いるイスラエルの人びとは、主なる神の主権的な御業によってエリコを攻略しましたが、続くアイの第一回目の攻略には失敗しました。それは、ユダ族のアカンが、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部をごまかして自分のものとしたからです。その罪の結果がイスラエル全体に及び、主なる神は激しく憤られ、イスラエルは敗退したのでした。 ところで、ウェストミンスター小教理問答は問84で、「すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに価します」と教えます。主なる神は、「すべての罪」に憤られる方です。神は、アカンの罪を他の罪よりもいっそう邪悪なものと判断なさり、激しく憤られ、厳しい裁きを与えられたのでしょう。 私たちキリスト者は、主なる神の主権的な救いの御業によって罪の奴隷状態から贖われ、主イエスのものとされています。主イエスのように神を畏れ、この世に倣うことなく、何が神の御心に適うことであるかを聖書の御言葉からわきまえ知り、実践しましょう(ロマ12章2節)。聖霊の助けをいただいて。 【祈り】 主よ、あなたのものにふさわしく、この世の中を歩ませてください。 Mon, 31 Mar 2025 00:10:00 +0000 共におられる主なる神イエス(ヨシュア記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250331 no 2025 「七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。」 (ヨシュア記6章4節) 明日から新年度の歩みが始まります。主なる神イエスは、進級・進学・就職などで、新しいステップへと踏み出す、あなたと共におられます。 さて、主なる神は、ヨシュア率いるイスラエルの人びとを約束の土地カナンへと導かれました。彼らの前に、堅固な城壁の町エリコが立ちはだかります。主なる神は、エリコ攻略のため、軍事作戦とは思えない、とても奇妙なことを命じられます。城壁の周りを行進し、鬨の声を上げよという命令です。神の命令に服従すると、果たして、城壁は崩れ去りました。 神の箱は、万物を御心のままに御支配なさる全知全能の神が共におられることのしるしです。最終日の不思議な出来事は、神礼拝をささげる安息日に起こったのではないかと思われます。今日の私たちにとって、安息日は一週間の最初の日です。主イエスが十字架の死から復活なさった日です。主イエスは、堅固な罪と死の力、ずる賢いサタンを打ち破り、今も聖霊にあって共におられます。 私たちは、礼拝で御言葉に耳を傾けるたびに主イエスが共におられることを確信させられます。主なる神イエスは、御言葉を聞くあなたと共に歩んでくださいます。ですから、安心して、新年度の新しい歩みを始めましょう。 【祈り】 インマヌエルの主よ、新年度の世の中での歩みを、共にいて、守り導いてください。 Sun, 30 Mar 2025 00:10:00 +0000 愚かに見えるほどの神の愛(ルカによる福音書 15章11-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250330 no 2025 「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」 (ルカによる福音書15章32節) 32節で、父親は兄息子に対して弟息子のことを、「わたしの息子は」と所有を示す言葉で語っているのではなく、「お前のあの弟は、死んでいたのに生き返った」と、兄弟としての関係を強調して語っています。これは、家族の一員、失われた兄弟が戻ってきたことへの喜びの表現です。 確かに、兄の冷静な論理と計算によれば、父の喜びは常軌を逸しているように見えるかもしれません。そして、その喜びをすぐに行動に移してしまうのは、世間一般の常識からすれば理解しがたい行為です。裾をからげて人目も気にせずに走り寄ったり、抱きしめて口づけしたり、すぐに祝宴を開いてしまったり…。けれども、それが私たち罪人を受け入れる神の福音の、人間的な尺度を超えた愛の表れであると、聖書ははっきりと示しているのです。 弟の罪は、償おうとしても償いきれるものではありません。精一杯謝罪したとしても、犯した罪の大きさを前にすれば、到底償いきれないという思いに苛まれるでしょう。それは私たちも同じです。父は、そのような私たちの状況を百も承知で走り寄り、抱きとめてくださるのです。何度も口づけしてくださるのです。その神の愛を味わうにつれ、私たちの悔い改めも深まっていくのです。 【祈り】 あなたの、人間には愚かに見えるほどの愛の中での大きな喜びを共に喜ぶ者とさせてください。 Sat, 29 Mar 2025 00:10:00 +0000 語り継ごう驚くべき主の御業(詩編 78編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250329 no 2025 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。 (詩編78編4節) 4節に、「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう、主への賛美、主の御力を、主が成し遂げられた驚くべき御業を」とあります。この詩編は、イスラエルの歴史に示された主の御業を忘れることがないように、語り継ぐことを教えています。 おもにエジプトからの脱出とカナンに向かう荒れ野の旅路が取り上げられています。主なる神の変わらない愛と真実が示され、もう一方で、神の民イスラエルが繰り返し神の恵みを忘れて、神から離れた事実が浮き彫りにされています。 私たちの信仰の歩みも同じようなものではないでしょうか。主の愛と真実は変わることがなく、もう一方には、私たちの不信仰、不真実があらわに見えてくるのです。 70、71節で、神の民の不信仰にもかかわらず、神は「僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り、…御自分の民ヤコブを、御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた」と語られます。その神は、やがて独り子である主イエスを遣わしてくださり、私たちを養う者、罪からの救い主としてくださいました。歴史の中で驚くべき主の御業が鮮やかに実現してきました。私たちも、主の恵みの御業を語り継ぐことへと招かれています。 【祈り】 歴史の中に表され実現してきたあなたの御業を覚えて、御名をほめたたえます。主の御業を語り継いで生きる者とならせてください。 Fri, 28 Mar 2025 00:10:00 +0000 神の契約はとぎれることがない(ヨシュア記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250328 no 2025 そのとき、主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。 (ヨシュア記5章2節) 神の奇跡の御業によって、イスラエルの民は、ヨルダン川を渡ることができました。いよいよ約束の地、カナンの地に攻め上ることになります。そのとき、神はまずイスラエルの民に割礼を施すよう、ヨシュアに命じます。出エジプトのとき、すでに割礼を受けていた民は、主の御声に聞き従わなかったために、荒れ野の四十年の旅の間に死に絶えてしまいました。一方、荒れ野で生まれた者は一人も割礼を受けていません。それで、新しい世代の民は全員割礼を受けました。割礼は契約のしるしです。 次に、民はエリコの平野で過越祭を祝います。これも、シナイの荒れ野以来四十年ぶりのことです。過越祭は割礼を受けた者だけが祝うことができます(出12章47~49節)。 新しい世代が割礼を受け、過越祭を祝うことによって、神との契約が確認されたのです。それは裁きとしての四十年の旅の終わりを示すと同時に、カナンの地を与えることが神の約束であることの再確認となります。そのことを示すかのように、主の軍の将軍がヨシュアに現れたことが記されます(13~15節)。いよいよ約束の実現に向かうのです。 神の契約、神の約束は、人間の側の罪や弱さにもかかわらず、主の恵みによって途切れることなく、貫かれます。神の約束を信じ続けましょう。 【祈り】 神の契約の民として、ふさわしく歩めるよう、お導きください。 Thu, 27 Mar 2025 00:10:00 +0000 主を知り常に敬うための記念(ヨシュア記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250327 no 2025 「それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」 (ヨシュア記4章24節) 神が奇跡的にヨルダン川の流れをせき止められたので、イスラエルの民は無事にそこを渡り終えることができました。その記念として、川から拾った十二個の石が、野営地ギルガルに据えられます。後日、子どもたちがこれらの石は何を意味するのですかと尋ねるときに、その出来事が教えられます。それは、イスラエルの民が常に主を敬うためであり、他のすべての民も主の御手の力強いことを知るためです。 イスラエルの民は、出エジプトの出来事や葦の海を渡った奇跡、今回のヨルダン川の奇跡など、神の業を記念し、記憶し、子孫に語り伝えていきました。実際に経験していない後の世代も、神の民としての共通の歴史、共通の経験として、それらを受け止めていきました。そうして、主の臨在を覚え、敬い、礼拝したのです。 今日では、聖書を通して、さらに豊かに神の業が伝えられています。それは単なる過去の記録ではありません。それを通して、主を知り、その臨在を覚え、敬い、礼拝していくのです。 特に新約の時代に生きる私たちは、主イエス・キリストの御業が伝えられています。その出来事を通して、主の臨在を覚え、敬い、礼拝します。歴史の中で、具体的に御業をなされた神は、今も働き続けておられます。 【祈り】 ヨルダン川の流れをせき止められた神よ、主イエスを遣わされた神よ、御名を賛美します。 Wed, 26 Mar 2025 00:10:00 +0000 生ける神がおられることが分かる(ヨシュア記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250326 no 2025 「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、…エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。」 (ヨシュア記3章10節) イスラエルの民がカナンの地に入るにあたり、まずヨルダン川を渡ります。かつての葦の海の奇跡を経験した世代は、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの二人だけです。今度は新しい世代が、せき止められたヨルダン川を渡るという奇跡を経験します。 雪解けと春の雨で水が満ち満ちていて、川は到底渡ることなどできません。しかし、契約の箱が先だってヨルダン川を渡ることによって、水が壁のように立ち、民はすべて川を渡ることができました。 この出来事によって、生ける神が民と共におられて、カナンの地の先住民を完全に追い払ってくださることが分かるというのです。 「生ける」というのは、ユダヤ人の発想では、命があるというだけではありません。活動しないと、生けるとは言わないのです。ですから、植物は死んでいて、動物は生きていると言います。「生ける神」とは、偶像と違って命があるというだけではありません。具体的に活動するということです。民に働きかけ、御業をなし、救ってくださる神ということです。ヨルダン川の奇跡を通して、そのことが分かるというのです。神は今も御自身の民と共にいて、語りかけ、働きかけ、御業をなしておられます。 【祈り】 生ける神よ、かつてと同じように、今も生き生きと御業をなしておられることを覚えて、感謝します。 Tue, 25 Mar 2025 00:10:00 +0000 主を信じ畏れ敬い従う(ヨシュア記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250325 no 2025 「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」 (ヨシュア記2章11節) 約束の地に上って行くにあたり、ヨシュアはまず二人の斥候をエリコ周辺に遣わします。二人は、遊女ラハブの家に泊まります。しかし、エリコの王にその情報が伝わり、二人の斥候の身が危なくなります。ラハブは追っ手に嘘を言い、二人をうまく逃がしました。その代わり、イスラエルがエリコを滅ぼすときに、ラハブとその親族の命を救ってもらう契約を交わしました。 9~11節に、ラハブがイスラエルの神をどう考えているかが記されています。ラハブは「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と告白しています。 ラハブが嘘をついたことに関して、議論はあります。しかし新約聖書は、「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ」(ヘブ11章31節)、その「行いによって、義とされた」と語ります(ヤコ2章25節)。主イエスの系図にも名が載りました(マタ1章5節)。 神の計画は、イスラエルの民には救いを、カナン人には滅びを、という宿命的なものではありません。6章25節に、ラハブとその一族がイスラエルの中に住んでいるとあります。逆に7章は、イスラエルのアカンの罪の話になります。大事なことは、主を信じ、畏れ、従うことなのです。 【祈り】 生けるまことの神であるあなたを、信じ、畏れ敬い、お従いできるようにお助けください。 Mon, 24 Mar 2025 00:10:00 +0000 強く雄々しくあれ主は共にいる(ヨシュア記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250324 no 2025 「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」 (ヨシュア記1章9節) 出エジプトしたイスラエルの民は、荒れ野の四十年の旅を終え、約束の地カナンの地に入ろうとしています。1章は、モーセの後継者となるヨシュアへの、主からの語りかけで始まります。主は、ヨシュアを励まします。「強く、雄々しくあれ」(6節)。 これからカナンの地に攻め上って行くことを考えると、「強く、雄々しくあれ」というのは、武力的な強さや戦いのための勇気を言っているように思われます。しかし、そうではありません。 たとえば、詩編27編14節に、「主を待ち望め、雄々しくあれ」とあります。詩編31編25節でも、「雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて」とあります。雄々しくあることは、主を待ち望むことなのです。また、ヨシュア記1章7節では、強く雄々しくあることが、律法を忠実に守ることにつなげられています。そうすれば成功すると。 結局、強く雄々しくあることは、主が共にいることを信じて依り頼み、律法を守って主と共に歩むことになります。その反対は、主に信頼しないことで、うろたえたり、おののいたりすることです(9節)。律法から逸れて、主と共に歩まないことです(7節)。共にいてくださる主に依り頼み、お従いしつつ、歩みましょう。 【祈り】 きょうも、主が共にいることを信じ、信頼して歩めるよう、お助けください。 Sun, 23 Mar 2025 00:10:00 +0000 めん鳥が雛を羽の下に集めるように(ルカによる福音書 13章31-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250323 no 2025 「…めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」 (ルカによる福音書13章34節) 31節に「ヘロデがあなたを殺そうとしています」とありますが、直訳しますと、「ヘロデがあなたを殺すことを欲しています」となります。それに対して、34節後半には、「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とありますが、ここを直訳すると、「わたしはお前の子らを集めることを何度欲したことか」となるのです。それに対して、「お前たちは応じようとしなかった」とありますが、ここは「お前たちは欲しなかった」となります。 主イエスの救おうとする強い意志があるのに、その一方でイエスを殺そうとする願望があり、主イエスの救おうとする意志をはねのける思いがあります。ことごとく、食い違っているのです。一方には、神の無限の愛があり、他方には、罪深い人間の残酷で頑なな心があります。この計り知れなく罪深い私たち人間に対する神の無限の愛が、イエス・キリストの十字架に見事に表されているのです。 あなたが主イエスをメシア、救い主として信じ、心に受け入れるとき、主イエスは、十字架の贖いによって、あなたを完全に救ってくださり、その羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださるのです。だから、主イエスの愛に応えて、信仰と従順の道を共に歩んでいきましょう。 【祈り】 主よ、あなたの十字架にあらわされた神の愛を、無限の愛を信じ、あなたのみに依り頼みます。 Sat, 22 Mar 2025 00:10:00 +0000 主の御業を思いめぐらし助けを求める(詩編 77編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250322 no 2025 わたしは主の御業を思い続け …あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら あなたの御業を思いめぐらします。 (詩編77編12節~13節) 詩編77編には、試練と苦悩の中で、主が祈りを聞いてくださらないという自分の思いと、主は必ず祈りを聞いてくださるお方であるという信仰の思いとの二つの間で葛藤する、詩人の姿が示されています。 一方で、詩人は「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか」(9節)と嘆きます。バビロン捕囚という神の裁きがイスラエルの民に与えられて、神はご自分の民を完全に捨ててしまわれたという思いが詩人を圧倒します。しかし、もう一方で、詩人は、いや決してそうではないと思いめぐらします。「わたしは主の御業を思い続け、…あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします」。神はイスラエルの民をエジプトの圧政と奴隷の苦しみの中から救い出してくださったではないか。その歴史的な事実を思い起こして、詩人は、信仰の確信をもって主に依り頼み、助けを求めるのです。「神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます」(2節)。 主なる神は、今や御子イエス・キリストを遣わして、私たちを罪の奴隷から贖い出し、解き放ってくださいました。私たちは、キリストの十字架の御業を思いめぐらします。主なる神は、今も私たちを力強く助け出してくださる、救いの神であられます。 【祈り】 苦難の中にあるとき、あなたの御手に依り頼み、あなたの救いを待ち望む者とならせてください。 Fri, 21 Mar 2025 00:10:00 +0000 死者を呼び起こす主イエス(マルコによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250321 no 2025 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 (マルコによる福音書5章41節) 「死」は私たちにとって動かしがたい現実です。特に愛する者の死は私たちに深い悲しみをもたらします。 会堂長のヤイロは自分の幼い娘が死にかかっているとき、主イエスに助けを求めてやってきました。しかし、主イエスが彼の家に着く前に、残酷にも死の知らせが届けられました。「死んでしまっては、もうどうしようもない」と誰もが思ったでしょう。しかし、主イエスは会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい」と励まされました。そして家に着くと泣き女たちに「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。子供は確かに死んでいましたが、主イエスの目には眠っているに過ぎなかったのです。そして主イエスは、部屋に入ると少女の手を取って「タリタ、クム」すなわち「少女よ、…起きなさい」と呼びかけられました。私たちが死者にいくら呼びかけても返事はありません。しかし、主イエスが権威をもって呼びかけると、少女はすぐに起き上がり、歩き出したのです。 私たちは罪のゆえに死を免れることはできません。しかし、主イエスは私たちの罪を負って死に、復活されました。そして主イエスが再び来られるとき、私たちも主の呼びかけによって復活させていただけるのです。 【祈り】 主イエスよ、あなたが死者をも呼び起こす権威ある救い主であることを信じさせてください。 Thu, 20 Mar 2025 00:10:00 +0000 おのずから実を結ぶ神の国(マルコによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250320 no 2025 「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」 (マルコによる福音書4章28節) 主イエスは多くのたとえを用いて「神の国」について教えられました。その中で「成長する種」のたとえはマルコ福音書だけに記されている珍しいものです。このたとえのポイントは、神の国は私たち人間が知らない間におのずから成長し、豊かな実を結ぶ、ということです。もちろん、私たちが何もしないで良いということではありません。私たちは神の言葉という種を蒔き、実を結べば収穫します。しかし、その種がどのように成長するのか私たちは知らないのです。 宗教改革者のマルティン・ルターは、ある説教の中で次のように語っています。「私はただ神の言葉を教え、説教し、書き記しただけで、それ以外には何もしていません。そして私が眠っている間、あるいは友人のフィリップやアムスドルフと一緒にヴィッテンベルクのビールを飲んでいる間に、御言葉は教皇権を大きく弱体化させました。それは、いかなる君主や皇帝も与えたことのないほどの打撃でした。私は何もしていません。御言葉がすべてを成し遂げたのです」。 神の言葉そのものに力と命があります。それゆえ、私たちが寝ていようとビールを飲んでいようと、それは自ずと成長し、やがて豊かな実を結ぶことになるのです。 【祈り】 神よ、私たちがあなたの御言葉の力に信頼し、収穫を期待しつつ、委ねられた宣教の務めを果たしていくことができますように。 Wed, 19 Mar 2025 00:10:00 +0000 わたしの母兄弟姉妹はここにいる(マルコによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250319 no 2025 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マルコによる福音書3章34節~35節) 私たちにとって家族は特別な存在です。十戒でも「父と母を敬え」と教えられています。しかし主イエスは、ご自分の家族が外で自分を捜していると聞いたとき、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、出向こうとはされませんでした。実の家族に対してあまりにも冷たい対応のように思えます。なぜ主イエスはこのような態度を取られたのでしょうか。 このとき家族が主イエスを捜していた理由が、3章21節にはっきり記されています。身内の者たちはイエスが「気が変になっている」と思い、取り押さえにきたのでした。主イエスはそのような家族をご自分の真の家族とは認められませんでした。 むしろ主イエスはご自分の周りに座っている人びとを見回して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。主イエスはご自分の周りに座り、その教えに耳を傾け、神の御心を行う者こそ、わたしの真の家族だと言われました。もちろん「神の御心を行う」のは難しいことです。私たちが自分の力でできることではありません。しかし、主イエスの御許に座り、その御言葉を聞き、信仰をもって受け入れるなら、いのちの御言葉は確かに実を結んでいきます。 【祈り】 主イエスよ、私たちもあなたの御言葉を聞き、御心を行うことで、あなたの真の家族となれますように。 Tue, 18 Mar 2025 00:10:00 +0000 罪人を招く医者イエス(マルコによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250318 no 2025 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 (マルコによる福音書2章17節) ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの弟子たちに文句を言いました。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。彼らは汚れた人びととは境界線を引き、交わりを絶つことで、自分たちの清さを保とうとしていました。しかし、主イエスは律法の教師でありながら、その境界線を破り、罪人たちと一緒に食事をしている。それが彼らにとっては理解できず、不快だったのです。 この非難に対し、主イエスご自身が答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。律法学者たちは、自分たちの食卓に正しいと思われる人だけを招き、罪人を招くことはしませんでした。しかし、主イエスはそれと正反対のことを言われたのです。それは、主イエスがご自分を「医者」とみなしておられたからです。罪は確かに「死に至る病」です。しかし、主イエスはそれを癒す医者としてこの世に来られました。それゆえ、正しい者ではなく、罪人をご自分の食卓に招き、赦しと癒しを与えられたのです。 この主イエスによって罪人である私たちも主の食卓に招かれ、やがて実現する天の御国での祝宴に招かれています。何という幸いでしょうか。 【祈り】 主よ、あなたが医者として私たち罪人を招くために来てくださったことを感謝いたします。 Mon, 17 Mar 2025 00:10:00 +0000 時は満ち神の国は近づいた(マルコによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250317 no 2025 イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 (マルコによる福音書1章14節~15節) 主イエスはガリラヤで福音宣教を開始して言われました。「時は満ち、神の国は近づいた」と。「神の国」とは、単に私たちが死後行く場所ではありません。聖書における「神の国」とは、まず何よりも「神のご支配」そのものを意味します。それが「近づいた」と主イエスは宣言されたのです。 イスラエルはかつて神のご支配にあずかる民でした。しかし、神に背き続けたために、国は滅ぼされ、捕囚の民となってしまいました。しかし、預言者イザヤは、やがて神が王となり、あなたたちを贖うと約束していました(イザ52章)。そして、遂にその「時が満ちた」と主イエスは宣言されたのです。 神のご支配は、神が油注がれた王、神の御子イエス・キリストによってもたらされました。キリストの到来によって、救いの歴史における神のご支配が決定的な仕方で開始されたのです。神は罪と死に捕らわれていた私たちをイエス・キリストによって贖い、救い出してくださいます。これこそ「福音」、良き知らせです。 この神のご支配と救いにあずかるために、「悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスは招いておられます。自らの罪を認め、神に立ち帰り、福音を信じるなら、神の力強い御手によって救っていただけるのです。 【祈り】 神よ、キリストによってもたらされたあなたのご支配と救いにあずからせてください。 Sun, 16 Mar 2025 00:10:00 +0000 私たちが悔い改めるために(ルカによる福音書 13章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250316 no 2025 「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 (ルカによる福音書13章3節) 主イエスは、3節と5節で、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と繰り返してお語りになります。「皆同じように滅びる」とは、ピラトに殺害されたガリラヤ人たちと同じように、あるいはシロアムの塔が倒れて来て押しつぶされて死んだあの十八人と同じように、悲惨な死に方をする、ということでしょうか。そうではありません。「皆同じように滅びる」とは、「皆等しく滅びる」という意味です。そして、「滅びる」とは、神との関係が永遠に失われてしまうという意味なのです。 主イエスは、「あなたがたも悔い改めなければ」と繰り返すことによって、主イエスの御言葉を聞いているすべての人たち、そしてあなたにも、悔い改めを強く勧めておられます。「悔い改め」とは、単に反省したり、後悔したりすることではなく、神に背を向けて生きていた自己中心な生き方から神中心の生き方へと百八十度、心の向きを変えることです。 主イエスは、「今年もこのままにしておいてください。…肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」(8、9節)と私たちのためにとりなし、悔い改めることができるように恵みを与えてくださるのです。 【祈り】 神よ、主イエスのとりなしと恵みの中で、罪を悔い改め、あなたに立ち帰らせてください。 Sat, 15 Mar 2025 00:10:00 +0000 私たちが真に恐るべき方(詩編 76編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250315 no 2025 神は裁きを行うために立ち上がり 地の貧しい人をすべて救われる。 (詩編76編10節) アッシリアの王センナケリブがユダに侵入して都エルサレムを包囲し、しかし、一夜にして退却せざるを得なかった出来事は、神の偉大さと栄光を覚える記念すべき出来事でした。すでに北イスラエルは滅亡していましたので、「ユダ」と「イスラエル」は同義的に用いられています。2節の「サレム」はエルサレムの古い呼び名です。「エルサレム」とは「平和の町」「平和の基礎」を意味します。5節の「餌食の山々」はアッシリアを指すものと思われます。 8節に、「あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう」とあります。主イエスは、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」と言われました(ルカ12章4、5節)。 私たちが真に恐れるべきお方は、「裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」お方です。すべての権威を持っておられる神の裁きがあることを心に留めましょう。その本当に恐るべきお方が私たちを救い出してくださいます。私たちは、救いのゆえにこそ神を恐れます。真心から主に聞き従う者として生きることができますように。 【祈り】 罪人を罪から救い、御もとに招いてくださる恵みを感謝いたします。 Fri, 14 Mar 2025 00:10:00 +0000 時を超えて成就する神の契約(申命記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250314 no 2025 「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。」 (申命記34章4節) 申命記34章は、モーセが約束の地を目の前にしながら、そこに入れず息を引き取る場面が描かれています。その中で、きょうの聖句の箇所は、神が世代を超えて約束を守り続けるお方であることを示しています。モーセはその約束を信じて忠実に従いましたが、約束の地に入ることは許されませんでした。 聖書の中で神の契約とその約束の成就は重要なテーマです。モーセの物語は、神の契約が時を超えて成就することを教えています。この成就は新約聖書でイエス・キリストによってクライマックスを迎え、主が新しい契約の仲介者となり、神の救いを完全に成就されました。 モーセが約束の地に入れなかったことは象徴的です。律法の限界を示し、最終的な救いがキリストによってもたらされることを示しています。キリストは、神との永遠の交わりという真の約束の地を私たちに与えるお方です。 きょうの箇所は、信仰の忍耐と神の主権を信頼する姿勢を教えます。私たちも、神の約束が目に見えなくとも信頼し続けることが求められます。神の時が来れば、すべての約束は「モーセのような預言者」として来られたイエス・キリストを通して完全に成就するからです。 【祈り】 主よ、あなたの約束を信じ、永遠の救いを見つめながら歩ませてください。 Thu, 13 Mar 2025 00:10:00 +0000 永遠の神がわたしの難を避ける場所(申命記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250313 no 2025 いにしえの神は難を避ける場所、とこしえの御腕がそれを支える。 (申命記33章27節) 申命記33章は、モーセがイスラエルの部族に与えた祝福が記されています。モーセが部族に与えた祝福は、特定の時代や場所に限られるものではなく、私たちにも適用されるものです。神の御手は今もなお私たちを支え、困難の中でも私たちに平安を与えてくださいます。きょうの聖句は、どんなに厳しい状況でも神が私たちを守り、支え続けてくださっていることを思い起こさせます。 聖書はさまざまなところで主権者である神を強調し、摂理の御手をもって導いてくださる神を指し示します。私たちの弱さや限界を超えて、神はいつでも私たちを力強く支えてくださいます。神の「腕」とは、力強く、決して衰えることのない守りと支えを意味します。このことを信じることで、どんな試練や不安に直面しても、神が共にいてくださることに安心し、平安を得ることができます。 また、「難を避ける場所」という言葉は、私たちが安らぎと保護を見いだす場所として、神がおられるということです。神は、私たちが身をゆだね、休むことのできる唯一の場所です。人生の中で多くの乗り越えるべき壁があったとしても、また挑戦を受けたとしても、私たちはこの変わらぬ神の守りの中で、毎日を安心して歩むことができるのです。 【祈り】 主よ、あなたの永遠の守りと導きに感謝します。あなたの恵みのうちに安心して歩むことができます。 Wed, 12 Mar 2025 00:10:00 +0000 神に信頼し歩み続けよ恵みの中に(申命記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250312 no 2025 主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。 (申命記32章4節) 申命記32章は、神が信頼に値するお方であることを強調し、イスラエルの民に対して歌のかたちで警告を与えています。モーセは、神の偉大さと彼らが経験した恵みを思い起こさせ、神から背を向けることの危険性を訴えています。 「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい」という御言葉は、神の信頼性を強調しています。私たちも神の御業の中で日々の恵みを受けていますが、時間が経つにつれてそのことを忘れてしまいがちです。神が私たちの人生にどれほど真実であってくださったかを再認識することが大切です。 また、この章は、警告の側面も持っています。イスラエルの民が神の祝福を豊かに受けながら、他の神々に心を寄せてしまったことを思い起こさせます。私たちも、日常生活の中で神を忘れ、さまざまなものに心を奪われることがあります。この章を通して、私たちは信仰を持ち続けることが求められています。 試練や困難に直面しても、神の約束は揺るがないことを心に留めることが大切です。神との関係を深め、神が共にいてくださることを忘れず、日々の選択において神の声に耳を傾けましょう。 【祈り】 主よ、あなたこそ信頼できるお方です。どうか、私たちの心をあなたに向けさせ、御言葉に従う力をお与えください。 Tue, 11 Mar 2025 00:10:00 +0000 雄々しくあれあなたと共に主は歩まれる(申命記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250311 no 2025 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。」 (申命記31章6節) きょうの聖句は、約束の地へと向かうイスラエルの民を励ます言葉です。ここでは、神が与えた使命を果たすために必要な力強さと勇気が求められています。そのためには、人生のあらゆる局面において神の主権が働いていることを理解することが大切です。私たちは時に目の前の課題に圧倒されることがありますが、神は決して私たちを見捨てず、主権をもって関わってくださいます。 新たな挑戦や変化の中で、不安を抱くことは自然なことです。しかし、神は「強く、また雄々しくあれ」と私たちに命じておられます。どのような状況にあっても神の導きを信じて前進することが大切です。それを可能にするのは、約束を誠実に果たしてくださる神への信頼です。 「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる」という約束は、どのような状況でも神の助けを信じる信仰を支えてくれます。神の愛と恵みを思い起こすと、私たちは勇気を持って一歩を踏み出すことができます。 信仰生活では、常に神の約束を信じることが求められます。神が共にいてくださることを忘れず、強く、雄々しくありたいと願います。困難なときこそ神の御言葉に立ち帰り、共にいてくださる神に助けられながら信仰の歩みを続けていきましょう。 【祈り】 主よ、あなたが共にいてくださることに感謝します。強く雄々しく歩むことができますように。 Mon, 10 Mar 2025 00:10:00 +0000 神の御言葉が近くにある恵み(申命記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250310 no 2025 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。 (申命記30章14節) きょうの聖句は、神の御言葉が私たちから遠く離れた存在ではなく、既に私たちに与えられているものであることを教えています。神は私たちにその御心を明らかにし、御言葉を通してどのように生きるべきかを示してくださいます。それは難解で複雑なものではなく、私たちが聖霊の恵みに謙虚に信頼するときに、日常生活で実践できるものです。 私たちは時折、神の導きを求めながらも、その道を見失うことがあります。忙しさや悩みの中で神の声がかき消されるように感じることもあるでしょう。しかし、この聖句は、神の御言葉が既に私たちの口にあり、心に根づいていることを思い起こさせます。神はただ御言葉を与えるだけでなく、それを行う力も同時に備えてくださいます。この従順さえも、私たちの力ではなく、神の恵みの働きによって可能となるのです。 試練や困難に直面する中で、神は私たちを決してお見捨てになりません。神はその御言葉を通して、私たちに必要な力、知恵、そして勇気を絶えず与えてくださいます。日々神の御言葉に従うとき、私たちは神との親しい交わりに生き、信仰生活はますます豊かにされていきます。御言葉が私たちに常にある限り、私たちは確信をもって、神の祝福された道を歩み続けることができるのです。 【祈り】 主よ、あなたの御言葉を心に留め、日々従う力をお与えください。 Sun, 09 Mar 2025 00:10:00 +0000 神の子なら飛び降りたらどうだ(ルカによる福音書 4章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250309 no 2025 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」 (ルカによる福音書4章9節) 主イエスが荒れ野で誘惑をお受けになった個所です。悪魔は主イエスに対して、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と言いました。 悪魔はここで、主イエスに対して、あなたは神の子なのだから、命の危険を冒してここから飛び降りても大丈夫だろうと試みているのです。これは、神の力を試す行為、つまり神を誘惑する行為です。 しかし、この悪魔の誘惑は、この場面のみが記すものではありません。マタイによる福音書27章にあるように、十字架にかけられたイエスに対する人々の侮辱も、ある意味で神を試す行為と言えるでしょう。「神の子なら、自分を救ってみろ」という言葉は、荒れ野での悪魔の誘惑と響き合うものがあります。 主イエスは、そのような人間の弱さ、神を試してしまう私たちの愚かさをよくご存じです。そして、そのような私たちと共にいてくださるのです。誘惑に陥りやすい私たちと共に、誘惑を受けられた主イエスがいてくださる。この事実は、私たちにとって大きな慰めとなります。 私たちも信仰によって神の子です。神の子なのだからといって無理をすることはないでしょうか。それは神を試す行為といえないでしょうか。神は弱さを抱える私たちと共にいてくださいます。 【祈り】 神よ、無理をして、あなたを試すことがないように助けてください。 Sat, 08 Mar 2025 00:10:00 +0000 公平な裁き主であるまことの神(詩編 75編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250308 no 2025 神が必ず裁きを行い ある者を低く、 ある者を高くなさるでしょう。 (詩編75編8節) アッシリアの王センナケリブがエルサレムの都を包囲したことがありました。主の特別な介入により、一夜にしてセンナケリブが敗退したという出来事です。「わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう」(5節)には、悪人に対する神の預言的な裁きの告知が示されています。センナケリブの軍勢をひきいたラブ・シャケの高慢無礼な言葉を思い起こさせます(イザ36、37章)。 神は、「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う」とおっしゃいます(3節)。「神が必ず裁きを行い、ある者を低く、ある者を高くなさる」のです。イザヤ書33章22節には、「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。…主は我らの王となって、我らを救われる」とあります。 9節の「杯」は人の苦難を示しています。21世紀に生きる私たちも、戦争や災害、疫病などさまざまな苦難を経験します。人類が罪に堕ちて以来、この世はいつも不安定で破壊的でした。それは、人間が創造主の主権を認めることなく、人間中心主義で、自らの主権をもって歩んできたからです。しかし、主なる神がご自身の御業を行われる時が来ます。私たちは、高い者を低くし、低い者を高くする主なる神をほめたたえて歩みます。 【祈り】 すべては神の御手のうちにあることを覚えて、主の前に正直に、誠実に御心を求めて歩み続けていくことができますように。 Fri, 07 Mar 2025 00:10:00 +0000 恐れから祝福へと導く従順な歩み(申命記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250307 no 2025 隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており…。 (申命記29章28節) 私たちの限られた知恵では、神のご計画すべてを理解することはできません。しかし、神が私たちに示されたことについては、従う責任があります。きょうの御言葉は、神の主権と私たち人間の限界を認識することの重要性を教えています。 人生で直面する多くの疑問や困難、将来の不確実性に対して、すべての答えを知ることはできません。しかし、神の御言葉は私たちに必要な真理を十分に与えており、それに基づいて信仰の歩みを進めることが大切です。きょうの聖句は、私たちが神の主権に信頼し、与えられた啓示に忠実に従う生き方を求めています。 イスラエルの歴史を見ると、彼らが神に背き、申命記で語られた呪いが現実に彼らの上に下ったことを教えられます。そして、私たちもまた本質的には彼らと変わらない存在です。同じ道を歩むなら、同じ裁きに直面するでしょう。これは私たちに恐れを抱かせるものです。 しかし、私たちには希望があります。イエス・キリストが私たちに代わって、その呪いを十字架の上で背負ってくださったからです。キリストの恵みによって、私たちは恐れから解放され、神の祝福にあずかる確かな道を歩み続けることができるのです。 【祈り】 主よ、わたしがあなたから示された道を正しく歩むことができるよう、憐れみをお与えください。 Thu, 06 Mar 2025 00:10:00 +0000 主のご生涯を思い起こし過ごす断食(イザヤ書 58章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250306 no 2025 飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。 (イザヤ書58章10節) 主のご受難を覚える季節のなかで、教会は一つ、「断食」をその習慣としてきました。その目的を、御言葉はどのように教えてくれるでしょうか。 ヨエル書は告げています。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(2章12、13節)。断食は罪を泣き悲しむことの発露としてなされます。何かを食べないことに力点があるのではありません。自分の・自分たちの罪を悲しむことです。悲嘆に暮れるとき、喉は食べ物を通さなくなります。悲しむことです。泣くことです。泣かずにはおれない。そこで、神は悲しむ者に慰めを与えてくださる、神を新しく愛し始めることをおゆるしくださる、その時を待つことに力点があります。 イザヤ書には「わたしの選ぶ断食とはこれではないか」と、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え…、同胞に助けを惜しまないこと」が教えられています(58章6、7節)。隣人愛の発露としての断食です。パンを食べないのは隣人が食べるため、与えられた愛は共に生きる人と分かちあうため。そのような断食は主イエスのご生涯を映し出してもいます。 私たちの断食がどのような形をとるにせよ、いつも主のご生涯を思い起こすものとしてなされますように。 【祈り】 主よ、この季節に私たちのなすすべてのことが十字架を思い起こすことに連なるようにお導きください。 Wed, 05 Mar 2025 00:10:00 +0000 悲しみを抱き救いをあおぎ十字架を見る(コリントの信徒への手紙二 5章20-6章10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250305 no 2025 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 (コリントの信徒への手紙二5章21節) きょうからイースターに至るまでの、主日を除いた四十日間、教会は一年の中でも特別に、主のご受難へと心傾けます。四十日間であるのは、主イエスが荒れ野で誘惑を受けられた日々に思いを馳せるためです。神の子イエスは人間として、「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられ」(マタ4章2節)、その身に襲いきたるサタンの誘惑に、御言葉をただひたすらに御言葉として愛することで打ち勝たれました。御心に生きる本当の人間の姿を現してくださいました。そして、そうあることができない罪の悲惨から私たち人間を救いだすために十字架へと歩み始められました。その主イエスのご生涯を、教会はこの季節に思い起こし続けます。 その始まりを教会は古くから「灰の水曜日」として大切にしてきました。「塵にすぎないお前は塵に返る」ことを心に刻むためにです(創3章19節)。神に塵から造られたことを忘れた人間は、自らが神のごとく振る舞います。神のかたちとしての尊厳を見失った人間は互いに命を軽んじ、貶め、傷つけ合っています。 私たちがそうであることを、この季節に悲しみます。そして、そのような人間を慈しみ、愛し抜いてくださった十字架上の主イエスを見上げます。ただひたすらに見上げます。 【祈り】 主よ、この季節に、私たち人間の悲しみと十字架の救いとを見つめ続けられるようにお導きください。 Tue, 04 Mar 2025 00:10:00 +0000 神の御言葉に聴き従う祝福の道(申命記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250304 no 2025 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。 (申命記28章2節) 私たちの信仰生活にとって、神の祝福は単なる幸運や成功を超えた、深遠な意味を持っています。きょうの聖書箇所は、私たちが主の声に聞き従うならば、神の祝福が私たちに臨むと約束しています。しかし、ここで語られる祝福は、物質的な成功や一時的な幸運ではなく、神との深い交わりの中で経験する、永遠の平安と喜びです。 聖書は、救いが神の恵みと選びによって与えられることを教えていて、私たちには、それに応答する従順な心を持つことが求められています。この御言葉が語られたのは、既に神の救いの御業を体験した人びとと、その子孫たちに向けてです。彼らが神との正しい関係を保ち続けるためには、神の御声に日々耳を傾け、御心に従って生きる姿勢が不可欠でした。 後半には、神に従わない場合の呪いが詳しく述べられていますが、神が積極的に罰を与えようとしているわけではありません。むしろ、神を離れることがいかに私たちを苦しみに導くかを警告し、真の幸福と祝福の源が神ご自身にあることを私たちに教えています。 すべての祝福は神から来るものです。私たちが主に従う生活を送り続けるとき、神の豊かな祝福が確実に私たちに与えられるのです。 【祈り】 主よ、あなたの御声に日々従い、あなたの御心に適った生き方を続けられるよう導いてください。 Mon, 03 Mar 2025 00:10:00 +0000 律法の言葉を忘れないために(申命記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250303 no 2025 あなたは石の上にこの律法の言葉をすべてはっきりと書き記しなさい。 (申命記27章8節) モーセは、イスラエルの長老と民に、約束の地に入ったら、いくつか大きな石を見つけ、それをエバル山に立て、漆喰を塗り、石の上に今まで主が語ってこられた律法の言葉をすべて書き記すように命じました。 石に刻まれた文字は、その石が破壊されない限り、消えることはありません。つまり、律法が石に刻まれるとは、イスラエルに対して神の律法が確かに与えられているということを示しています。また、イスラエルも、神の律法を、決して無くならない確かなものとして所有しているということを意味しています。 また、山は神の臨在の場所を象徴しています。つまり、律法を記した石をイスラエルがエバル山に立てるということは、神の御前に、この律法を守るという証しを立てることを意味しているのです。さらに、石を立てた場所には、祭壇も築かれました。民は祭壇で神を礼拝するたびに、律法に従って生きる思いを自覚させられていくのです。 御子イエス・キリストは十字架の死に至るまで神の律法に完全に服従して、律法を成就してくださいました。それゆえ、私たちもキリストへの信仰を通して、神を礼拝するたびに、キリストの律法に従って生きる決意を新たにされていくのです。 【祈り】 どうか私たちが、恵みの契約の民として、キリストの律法に誠実に従って歩むことができますように。 Sun, 02 Mar 2025 00:10:00 +0000 わたしの子選ばれた者これに聞け(ルカによる福音書 28-36節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250302 no 2025 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 (ルカによる福音書9章35節) 主イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを伴い、祈るために山に登られました。祈っておられると、主イエスの顔は変わり、服はまばゆいほどに白く輝きました。さらに、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていたのです。 この光景を見たペトロは、「先生、ここは本当に素晴らしい。いつまでもここにいたい。あなたとモーセとエリヤのために仮小屋を建てましょう」と、その場に留まりたい気持ちを表しました。ペトロにとって、その場は天国のように素晴らしく、永遠に続くことを願ったのでしょう。 しかし、主イエスがモーセやエリヤと話していた内容は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」、つまり十字架の死についてでした。ペトロが永遠の滞在を願ったその場所で、主イエスはこれから起こる受難について語っていたのです。 そのとき、彼らを覆う雲の中から、神の荘厳な声が響き渡りました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。この言葉は、ペトロの提案を制し、主イエスこそが神の子であり、聞き従うべき唯一の存在であることを明確に示しています。栄光に目を奪われるのではなく、十字架の道を選ばれた主イエスにこそ、私たちは耳を傾け、従うべきなのです。 【祈り】 神よ、あなたの御子であり、十字架の救い主である主イエスに聞き従う歩みをさせてください。 Sat, 01 Mar 2025 00:10:00 +0000 契約に忠実な神に祈る(詩編 74編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250301 no 2025 神よ、なぜあなたは 養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき 永遠に突き放してしまわれたのですか。 (詩編74編1節) 1節に、「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか」とあります。この背景には、紀元前586年、イスラエルの首都エルサレムがバビロン軍によって滅ぼされ、神殿が破壊され、汚され、廃墟となった出来事があります。 詩人は、イスラエルの国の荒廃、また神殿の破壊の原因が、イスラエルの民の罪と不従順にあることを認めています。しかし、そこでなお、神の約束に訴えて、不従順の罪の赦しとイスラエルとエルサレムの回復を主に祈り求めます。主なる神とイスラエルの民が羊飼いと羊という特別の契約の関係にあることを根拠として、主に訴えています。かつてエジプトで奴隷であったとき、イスラエルの民をエジプトの国から脱出させてくださったように、荒廃したイスラエルを救い出してくださいと、切に祈り求めているのです。 「あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです」(17節)。「契約を顧みてください」(20節)。偉大な神をほめたたえつつ、契約を必ず守ってくださるという信仰をもって、詩人は祈り求めます。私たちもこのような信仰と希望をもって祈り求める者でありたいと思います。 【祈り】 どのようなときにもあなたの御手を信頼し、あなたに依り頼んで生きる者とならせてください。 Fri, 28 Feb 2025 00:10:00 +0000 私たちの信仰を支える神の誓約(申命記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250228 no 2025 主もまた、今日、あなたに誓約された。「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。」 (申命記26章18節) 26章16~19節には、神に対するイスラエルの信仰の誓約と、イスラエルに対する神の約束の誓約が述べられています。 16、17節では、神の掟と法を忠実に守り、御声に聞き従うという、神に対するイスラエルの誓約が告白されています。他方、18、19節では、神のイスラエルに対する誓約が語られています。その誓約とは、神はイスラエルを宝の民とし、主の戒めを守る者としてくださること、そして、他のすべての民に勝って賛美と名声と誉れが与えられ、主の聖なる民とされるということです。 申命記では、イスラエルの民が守り、行うべきさまざまな神の掟と法が命じられています。しかし、神はただ一方的に命じられるのではありません。神もまた、民に恵みと救いを与えること、彼らを神のすべての戒めを守る宝の民、聖なる民とすることを誓約してくださっているのです。そして今や、御子イエス・キリストにあって、主イエスを信じるすべての者が神の宝の民とされました。 私たちが神の律法への服従に生きることができるのは、神ご自身が、私たちに恵みを約束し、誓約を果たしてくださったからです。この神の誓約に支えられて、私たちは神の御声に聞き従って生きるのです。 【祈り】 どうか私たちが、神の宝の民として、喜んで御声に聞き従って生きることができますように。 Thu, 27 Feb 2025 00:10:00 +0000 心に公正な秤を持って生きる(申命記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250227 no 2025 あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。 (申命記25章13節~14節) 古代社会では、商取引で商品を交換する場合、重りや升で商品が量られました。それゆえ、正しく公平な商取引、経済活動がなされるためには、正確な秤が必要です。 しかし、意図的に不正確な重りや升が用いられるならば、実際の値段以上に多くの物を手に入れたり、実際の値段より少なく相手に渡したりすることになります。それは、自分の利益のために、隣人のものを盗むことであり、隣人をだますことです。神は律法に反するそのような不公正な経済活動を厳しく禁じ、警告を与えておられます。 しかし、この問題は単に商売や経済に関わることだけではありません。私たちは異なる重りや升を用いて、人を偏り見て、差別することがないでしょうか。私たちも時に、自分の益のために大小二つの重りや升を使い分けてしまうことがあります。それゆえ、主イエスは、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタ7章2節)と警告しておられます。 神は正義と公平の神です。神は、決して人を偏って見たり、分け隔てしたりなさいません(使10章34節)。どのようなときも、神が公正なお方であるからこそ、私たちも心に公正な秤を持って歩みます。 【祈り】 分け隔てのない神の愛に感謝します。私たちも人を分け隔てせずに生きることができますように。 Wed, 26 Feb 2025 00:10:00 +0000 社会的弱者の権利をゆがめてはならない(申命記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250226 no 2025 同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。 (申命記24章14節) 申命記には、同胞であれ、在留外国人であれ、弱者の権利を守るための各種律法が命じられています。 たとえば、24章14、15節で、神は、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならないと命じています。また、貧しい人は蓄えがありませんから、その日の食べ物を手に入れるためには、賃金がその日のうちに支払われなければなりません。労働者を搾取し、虐げることが、いかに大きな罪であるかを、神は語っておられます。 また、17節以下でも、神は、寄留者や孤児、寡婦たちの生きる権利をゆがめてはならないと命じ、彼らの命と生活を守るためのさまざまな律法を定められました。 イスラエルの民も、かつてエジプトで奴隷として搾取され、虐げられていました。しかし、神はイスラエルの民の叫び声を聞いてくださり、奴隷から解放してくださいました。イスラエルはそのことを思い起こして、社会的弱者の生きる権利をしっかりと守っていかなければなりません。 私たちも同じです。主イエスは、弱く貧しい私たちを愛し、私たちに仕えてくださいました。私たちも世の貧しい人びとの命と権利を守るために仕えるべきです。それは主イエスに仕えることと同じです(マタ25章40節)。 【祈り】 格差や貧困が広がる今の社会の中で、最も小さい者の一人として共に生きることができますように。 Tue, 25 Feb 2025 00:10:00 +0000 利子を付けて同胞に貸してはならない(申命記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250225 no 2025 同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。 (申命記23章20節) 主は、同胞に対しては利子をつけて貸してはならない、と命じられました。単に、お金に対する利子のことだけではありません。食物の利子、たとえば、何かの事情で隣人に頼まれてパンやお肉などを貸したとき、貸した分以上の取り立てをしてはいけない、ということです。 お金であれ、食物であれ、隣人が貸して欲しいと願うのは、隣人が困っているから、窮乏しているからです。そうである以上、困っている隣人に対して、何かを貸すという行為は、隣人を助ける愛の行為です。それゆえ、主は利子を付けて貸してはならないと命じるのです。 主は、出エジプト記22章24節の人道律法の規定でも、そのことを命じています。 「利子を付けて貸す」行為は、利益を得ることを目的とした商取引と同じです。主は商取引を禁じているのではありません。しかし、困難な状況にある貧しい者への支援を、金儲けの手段にしたり、商取引に利用することは、決して主の御心ではありません。それは、貧しい者たちを虐げることになるからです。 主は、私たちを愛し、イエス・キリストを通して、満ち溢れる恵みを無償で与えてくださいました。私たちも、困っている人々に惜しみなく与える者でありたいと願います。 【祈り】 主の愛に感謝し、私たちも惜しみなく与えることができますように。 Mon, 24 Feb 2025 00:10:00 +0000 見て、見ない振りをしてはならない(申命記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250224 no 2025 同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない。 (申命記22章4節) 主は、十戒の第二の板を通して、父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、隣人のものを欲してはならない、と教えています。そして、主がそれらの戒めを通して積極的に求めておられることは、隣人に対する愛です。それゆえ、同胞が苦しんでいるとき、それを見ても、見ない振りをして助けず、無関心であるならば、それもまた罪です。 あるドイツの哲学者が、アウシュヴィッツの悲劇を多くのドイツ人はうすうす気づいていながら、それでも結局、見ない振りをしたのだ、と語っています。私たちも同じです。隣人の痛みや、苦しみ、虐げを見ながらも、自分には関係ないと考え、見ない振りをしてしまうことがあります。私たちは自分の利益のため、自分を守るために、見て、見ない振りをしてしまう罪人です。 しかし、主は決して、私たちの痛みや苦しみを見て、見ない振りをなさる方ではありません。主は常に、私たちを見守り、御手を伸ばしてくださいます。主は御子イエス・キリストを遣わし、罪の中で、苦しみ、傷つき、倒れている私たちを、御手をもって助け起こし、主の家に連れ戻してくださいました。 【祈り】 どうか、見て、見ない振りをする者ではなく、隣人のために、勇気を出して愛する者とならせてください。 Sun, 23 Feb 2025 00:10:00 +0000 父なる神の深い憐れみに倣う(ルカによる福音書 6章27-36節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250223 no 2025 「あなたがたは敵を愛しなさい。…そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」 (ルカによる福音書6章35節) 「敵を愛しなさい」と主イエスが言われたとき、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。「敵」という言葉を聞いた人びとの心に浮かんだのは、理不尽に自分たちの頬を打ち、上着や持ち物を奪い取るローマ兵の姿であったかもしれません。これらは彼らが現実に経験していることでした。現代の社会では、暴力を振るわれたり、物を奪われたりすれば、権利を主張して戦うでしょう。 しかし、主イエスは、「頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」、「持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」と命じられます。これは、この世の権力者の言いなりになれということではありません。むしろ、人間の支配者ではなく、父なる神に従う歩みを命じておられるのです。「自分によくしてくれる人に善いことを」するのは、この世で誰もがしている「ふつう」のことです。主イエスはこの世で「ふつう」のことに倣うのではなく、父なる神の憐れみ深さに倣う生き方を求めておられます。 日本は道徳的規律が厳しい社会だと言われます。しかし、一般的な意味での道徳を超えて、自分によくしてくれない人に「人にしてもらいたいと思うこと」をするなら、私たちの父である「いと高き方」の姿を人びとが思い描くのではないでしょうか。 【祈り】 主よ、この世のモラルではなく、神の国のモラルに従って、父なる神の愛を実行させてください。 Sat, 22 Feb 2025 00:10:00 +0000 神に近くあることを幸いとする(詩編 73編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250222 no 2025 わたしは、神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。 わたしは御業をことごとく語り伝えよう。 (詩編73編28章) この詩編の詩人は、正しい者が困難に耐え、悪人が繁栄するのを、なぜ神が許しておられるのか、理解できませんでした。神に逆らう者らは苦難や災いに遭うことなく、富や健康、長寿、子孫の繁栄などあらゆる豊かさを享受して、「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか」などと豪語するのです。 神の深い御旨を理解できないとき、私たちはただ状況だけを見て人と比較してしまいがちです。詩人の目には、彼らの繁栄と安泰が妬ましく映ります。しかし、疑問に苦しみながらも彼は聖所に行って祈りました。すると、いつまでも続くかのように見えていた彼らの繁栄が一瞬にして消え去ってしまうものであることを示されたのです。「わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた」と、彼らを妬んだ自分が愚かだったことを悟り(22節)、生ける栄光の神との交わりに真の幸いを見出すことに導かれました。 多くの人には、この世の富を蓄えることが最良の人生かもしれません。けれども、私たち信仰者には、神の近くにあることが最も良いことです。永遠なるものを見失い、迷いやすい私たちに、主の確かな約束が与えられていることを感謝します。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)。 【祈り】 主が常に共にいてくださること、それに勝る幸いはありません。 Fri, 21 Feb 2025 00:10:00 +0000 罪なき者の血を流した罪を取り除く方(申命記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250221 no 2025 あなたは主が正しいと見なされることを行うなら、罪なき者の血を流した罪を取り除くことができる。 (申命記21章9節) 人の命は、神の像に創造された命です。どんな理由があっても人を殺すことは罪であり、必ず罪の贖いがなされなければなりません。「殺されて野に倒れている人が発見され、その犯人がだれか分からない」(1節)場合でもなされる必要があります。 そのとき、主は、その罪の責任を犯人だけでなく、共同体にも問われます。なぜなら、人は孤立した存在ではなく、共同的存在でもあるからです。また、人が犯す罪は、生まれ育った家庭環境や彼の属する共同体の環境とも深い関係があるからです。 主は、共同体に、罪なき者の血を流した罪の責任を果たさせるため、長老たちに、労役に使われたことのない雌牛を選ばせ、川の岸辺で雌牛の首を折ることを命じられました(4節)。「首を折る」とは、「身代わりとして殺す」ことを意味しています。つまり、この儀式は、罪を犯した共同体に対する神の裁きと罪の贖いを表しているのです。 時満ちて、主は、人間の罪を贖うために、罪なき方である御子キリストを世に遣わし、御子の十字架の死を通して、罪の贖いを成し遂げてくださいました。キリストこそ、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1章29節)です。このお方への信仰を通して、私たちの罪は贖われるのです。 【祈り】 主キリストにあって、罪を贖われた恵みに感謝しつつ、主の御心に適う正しい歩みへと導いてください。 Thu, 20 Feb 2025 00:10:00 +0000 キリストと一緒に宿営の外へ(ヘブライ人への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250220 no 2025 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。 (ヘブライ人への手紙13章13節) 13章は、私たちが互いに愛し合うことの勧めで始まっています。それに続く言葉は、マタイによる福音書25章で示される最も小さい者への奉仕を思わせます。たとえば「ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなし」ですとか、「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり」というように、です。 このような勧めは、ただそれ自体としての善い行いを目的にしたものではありません。それは6節の「主はわたしの助け手。わたしは恐れない」という詩編の言葉に基づいて生きた信仰の先輩たちを見習いなさい、との勧めと結びついています。私たちもまた、今ここに神が共にいてくださることを生活で体験するのです。 そのような私たちの生き方の中心にあるのは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」主イエスです(8節)。そして、この主イエスは「門の外で苦難に遭われ」ました(12節)。これは十字架のことです。同じように、私たちにも弟子として背負う自分の十字架があります。それは日常生活において出会う具体的な関わりにおいてです。そこで私たちは宿営の外で自らを献げた主イエスを仰ぎ、自分も宿営という盾の外にある者として愛に生きるのです。 【祈り】 神よ、あなたは私たちを、変わることのない主イエスによって支えてくださいますから感謝します。 Wed, 19 Feb 2025 00:10:00 +0000 神の子としてふさわしく生きる道(ヘブライ人への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250219 no 2025 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。 (ヘブライ人への手紙12章7節) 12章では、冒頭で「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て」と言われます。確かに私たちは、主によって贖われ新しい希望に生きるものですが、一方で、なお地上においては信仰の戦いがあるのです。 その際、大切なのは、2節の「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉です。主イエスこそは、父なる神への信頼と服従に生き切り、私たちにその後に従う道を開いてくださったお方です。その主イエスの背中を見つめて、後からついて行く、ということがまず言われています。 その場合に、私たちの信仰の戦いは、自分の罪との戦いです。それをヘブライ人への手紙の著者は、「主の鍛錬」であると言います。そこに忍耐が求められています。自分の欠点や罪深さに気づかされるのはつらいことです。自らを正しいとする罪と決別しようとするのも困難です。しかし、主イエスについて行くならそのようなところを通らされることがあると言うのです。 しかし、後から振り返ると、その体験は「義という平和に満ちた実を結」ぶことになります。そのようにして、父なる神は私たちをご自身の子として扱って、鍛えてくださるのです。 【祈り】 神よ、あなたはこの地上にあっても私たちを子として取り扱い、あなたにふさわしい生き方へと導いてくださいますから、感謝します。 Tue, 18 Feb 2025 00:10:00 +0000 今と将来二つの希望に生きる(ヘブライ人への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250218 no 2025 …はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 (ヘブライ人への手紙11章13節) 11章では、旧約聖書の父祖たち、アブラハム、イサク、それに連なる人たちが、いずれも信仰をもって生きた証人として取り上げられています。 彼らの信仰を端的に言えば、まだ見ていない約束に信頼して、それがかなうことを待望して生きる、ということになります。たとえばアブラハムは、神が絶望から希望を生み出してくださる方であることを、イサクの誕生において知り、神が命を与えてくださる方であることに信頼し、そのイサクをささげました。しかし、神の約束である多くの子孫と広大な土地を手にすることなく、世を去りました。 そのような彼らの特徴とは、寄留者の生き方となるはずです。13節では「仮住まいの者であることを公に言い表し」という言葉があります。この地上のものは仮であって、それに囚われないというのです。 私たちが地上で手に入れられるものはやがて失われます。私たちにとって本当に価値のあるものは、私たちに与えられている神の約束であり、それは地上ではなく天においてこそ完全な形で実現します。私たちの故郷は天にあり、そして神は私たちを必ず天の都に迎え入れてくださるのです。 【祈り】 神よ、あなたはこの地上にあって私たちに呼びかけ、あなたの都に入れる約束を日々示してくださいますから、感謝します。 Mon, 17 Feb 2025 00:10:00 +0000 確信をもって神に近づいて行こう(ヘブライ人への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250217 no 2025 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 (ヘブライ人への手紙10章22節) 神は主イエスに体を備えてくださいました(5節)。その体は、律法において定められたあらゆる献げものによって実現することができない清さを私たちに与えてくださいます。私たちは聖なる者として神とお会いする礼拝に臨むことができます。 その際、このヘブライ人への手紙の著者が、「わたしたち」といい、また「兄弟たち」(姉妹たち)と呼びかけていることは大切です。私たちが毎週礼拝に集まるということは、ただ、同じ場所にいるということだけではありません。むしろ、このところで語られている事実を分かち合っています。それは、「イエスの血によって聖所に入れると確信しています」とある言葉です。もちろん、この場合の聖所とは地上にあるものではなく、天にあるまことの聖所です。私たちは地上の礼拝に集いながら、キリストにおいて洗われた者として、信頼して神に近づくことができます。 その一方で、私たちはなお、生活の心配とさまざまな争いから完全に自由にされていないことも知っています。けれども、たとえそうであっても、私たちは、週ごとに確信をもって神に近づき、その交わりの中にあることを確認できます。そして、それを希望として日々を生きていくことができるのです。 【祈り】 神よ、主イエスによって清められたものとして、私たちが日々恵みを期待できますから、感謝します。 Sun, 16 Feb 2025 00:10:00 +0000 主イエスのために生きる幸い(ルカによる福音書 6章17-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250216 no 2025 「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。」 (ルカによる福音書6章22節~23節) お金があって生活が安定していると幸せを感じます。満腹するまで食べると満足感があります。人からほめられることは自己肯定感を高めてくれます。ところが、本日の聖書箇所で主イエスは「今満腹している人々」「今笑っている人々」「人にほめられるとき」は不幸であると言われます。これらが禁じられているわけではありません。「偽預言者たち」と同じようにすることが問題にされています。 エレミヤ書に登場するハナンヤという人は、バビロン捕囚が2年以内に終わると人びとに語りました(エレ28章)。ところが実際には約70年続きます。彼は主からの言葉ではなく、人びとが聞きたがっている言葉を語ったのです。しかし、そのように語って人びとからほめられることが不幸だと言われているのです。 真の預言者エレミヤは、捕囚が70年続くと語って人びとに憎まれ、ののしられ、捕えられました。人にほめられるよりも、主に従うことを優先したからでした。主イエスに従うとき、貧しくされたり、食べる物にも困ったり、涙を流すほどつらい経験を味わうことがあるかもしれません。その日にこそ「喜び踊りなさい」と主イエスは言われます。私たちの歩みはこの世では終わらず、天で大きな報いを受けることができるからです。 【祈り】 主よ、人からの報いより、あなたに従う選択をすることができるよう、日々、勇気を与えてください。 Sat, 15 Feb 2025 00:10:00 +0000 全世界のまことの王キリスト(詩編 72編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250215 no 2025 主なる神をたたえよ イスラエルの神 ただひとり驚くべき御業を行う方を。 (詩編72編18節) イスラエルでは、王は神を代理して治める統治者と考えられていました。それで、神から権威を授けられた王が正義と公正をもって統治するように、祈られます。富める者にも貧しい者にも正しい判決を下し、不当に虐げられている者を保護し、略奪も圧迫もない平和が保たれるように。 1節に「ソロモンの詩」とあります。ソロモンはイスラエルの黄金期に国を治めた王で、壮大な神殿を建設し、ひとときの平和を実現しました。それでも、ソロモンもさらにその後に続く王たちも、決して民が求めた理想の王ではありませんでした。傷つき弱り果てた民を顧みられる神は、その豊かな憐れみによって人間の思い描く理想を遥かに超えるまことの王を与えてくださいました。そのお方こそ、イエス・キリストです。 「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と記されているとおり(マタ12章20節)、弱り衰えている者をも大切に養い守る慈しみに富んだ主イエスこそ、待ち望んだ希望の王です。この王は、私たちの罪の赦しのために十字架につけられました。3日目に復活し、天に昇られた主イエスは、もう一度この世界に来られます。そのとき、私たちが信じ望んでいたことが真実であったことを、誰の目にも明らかにしてくださるのです。 【祈り】 キリストが再び来られるとき、私たちはそのすべての栄光にあずかります。主イエスよ、来てください。 Fri, 14 Feb 2025 00:10:00 +0000 キリストは血をもって突き抜ける(ヘブライ人への手紙 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250214 no 2025 …神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 (ヘブライ人への手紙9章14節) 9章は最初に丁寧に地上の幕屋の様子を描いています。それはソロモンの神殿以前のあの幕屋です。一方、このような幕屋は「今という時の比喩」と言います。すでにキリストが来られ、教会が存在している今という時にあって、なお私たちに、第一の幕屋の影響、すなわち自らの行う儀式と業への囚われがあるのなら、それは肉の規定に縛られている(10節)と言いたいのです。 けれども、キリストは私たちに代わって、天の完全な幕屋に突入し、「ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」と、主イエスのなしてくださったことを改めてはっきりとさせています。私たち自身はなお地上にあって完全なものとされることを待ち望む者です。一方で、私たちはすでに、キリストの贖いの業において、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」されています。私たちの日常生活においては日々、困難なことがあり、信仰の戦いがあり、躓きになりそうなことがあります。しかし、私たちは、すでに永遠の救いを受け継ぐ者とされています。 なぜなら、私たちはほかでもない主イエスの血によって清められ、罪が赦されているからです。 【祈り】 私たちの大祭司主イエスのゆえに私たちの思いを越えて神ご自身との交わりを持てますから、感謝します。 Thu, 13 Feb 2025 00:10:00 +0000 約束は既に新しくされている(ヘブライ人への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250213 no 2025 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。 (ヘブライ人への手紙8章6節) 8章の中心にある主張を一言で表せば、約束は新しくされている、です。その新しさは、私たちに与えられた大祭司である主イエスの存在において明らかになっています。 そのような新しさは、比較によって語られます。一つは地上における祭儀であり、もう一つは天においてキリストによって行われている祭儀です。2節には「主がお建てになった聖所また真の幕屋」という言葉があります。主イエスはそこで私たちのために執り成されます。一方、律法に基づく地上の祭司たちとその働きについては、5節に「天にあるものの写し」とあります。旧約律法に基づく祭儀は、本体である天のキリストの幕屋の影のようなものだ、と言います。 地上の祭儀は「更にまさった約束」、「更にまさった契約の仲介者」主イエスによって新しくされました。それゆえ8節以下で、エレミヤ書31章の言葉が引かれています。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と。この新しい契約はキリストによって既に成立し、私たちはこの新しい約束を私たち自身の中にもつものとされ、神と共に生きるものとされています。したがって、私たちの目の前の困難と、内なる恐れは過ぎ去るものとなっています。 【祈り】 神よ、大祭司イエスによって、私たちも、心にあなたをお迎えできるものとされましたことを感謝します。 Wed, 12 Feb 2025 00:10:00 +0000 救いはすでに成し遂げられた!(ヘブライ人への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250212 no 2025 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。 (ヘブライ人への手紙7章27節) ヘブライ人への手紙ではすでに5章においてキリストこそが神に任命された特別な大祭司であると、詩編110編4節の御言葉によって確認されていました。この7章では、律法に従って立てられるレビ系の祭司に対して、メルキゼデクが優位にあること、同じように主イエスこそが、祭司の家系ではない他の部族から神によって特別に祭司として立てられたことが強調されています。 では、主イエスは、何のために祭司として立てられたのでしょうか。11節には律法の目的として「人が完全な状態に達すること」という言葉があります。この場合の「完全」とは、人が神との契約に生きる喜ばしい状態に入れられることです。 しかし、律法によって立てられた祭司たちによっては、この目的に達しませんでした。他方、キリストが大祭司として立てられたことについて、「いっそう優れた契約の保証となられた」とします。それは主イエスによって、私たちが、「神に近づく」ことができるようになったからです。 神ご自身の約束によって立てられた主イエスが神の契約を確かにされました。そして永遠に生きている方としてきょうも私たちに救いを与え、私たちのために祈ってくださいます。 【祈り】 神よ、キリストの御体によって、すでに私たちが救われ、今も主の執り成しにあずかっておりますことを覚えて、感謝します。 Tue, 11 Feb 2025 00:10:00 +0000 キリストを主と告白する(ダニエル書 3章1-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250211 no 2025 「わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」 (ダニエル書3章8節) 国家と宗教との関係が最も深刻なものとなる、あるいは最も緊張をはらむのは、おそらく国家が宗教を政治のために利用しようとする場合です。歴史の中で、国家や為政者はしばしば神を政治の場に持ち出そうとしてきました。神の名は聖にして絶対であるゆえに、神の名を持ち出すなら為政者は自身の政治を(それがいかなるものであっても)絶対化し、正当化することができるからです。 聖書にも、そうした例があります。ダニエル書3章で、バビロン王ネブカドネツァルは自分を偶像に仕立てて礼拝を強制しました。日本においてこのことが問われたのは、いわゆる神社問題です。すなわち明治維新から敗戦まで続いた近代天皇制下における国家神道体制と、そこで説かれた神社非宗教の論理においてです。戦後も、この問題は靖国神社問題としてなお問われ続けています。 私たちの生きることと死ぬことの意味を定めることがおできになるのは、主なるキリストのみであって、国家ではありません。国家が人の生き死ににかかわる領域にまで乱暴に踏み込んでいくのは許されないことです。この国の精神風土、宗教土壌のただ中で、キリスト告白をつらぬいていく霊のたたかいを共に担っていきたいのです。 【祈り】 キリストを主と仰ぐ信仰に生き抜いていくことができるよう、私たちを守り、助けてください。 Mon, 10 Feb 2025 00:10:00 +0000 私たちの内に生きている主とその教理(ヘブライ人への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250210 no 2025 だからわたしたちは、…基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。 (ヘブライ人への手紙6章1節) キリスト教の初歩はどこにあるか、と聞かれたら、私たちは何と答えるでしょうか。かつて『キリスト教初歩教理問答』で教えられたことを思い出す方もおられるでしょう。 当時のキリスト教会においても、一定の教理が教えられていました。ところが、この手紙の背景には、一度キリストを告白しながら、古い儀式的宗教に逆戻りしてしまう傾向のある人たちがいました。そのような霊的な危険において、教えの全体を再吟味する余裕はありませんでした。何を第一にするでしょうか。それは、前に教えられたとおり、大祭司イエス・キリストのもとにある救いから目を離さないでいることです。なぜなら、キリストがただ一度十字架の上で成し遂げられた贖いのゆえに、キリストを予表した儀式も祭りも廃止されたと言えるからです。天の王座に着かれたイエス・キリストの執り成しの中に生きることに留まることを、手紙の全体において一貫して教える理由がここにあります。 この意味で、「イエス・キリストへの信仰」と「命に至る悔い改め」(ウェストミンスター小教理問答問86、87)は、伝道において、最初に教えなければならない教え、また、救いの完成に向かう者にとっても、信仰生活の大原則、土台でありながら、真の信仰と従順の道を備えるものです。 【祈り】 主よ、いつもあなたが教え導かれる救いの道を共に歩ませてください。 Sun, 09 Feb 2025 00:10:00 +0000 あなたは人間をとる漁師になる(ルカによる福音書 5章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250209 no 2025 すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 (ルカによる福音書5章10節) 多くの人が主イエスの言葉を聞こうとして押し寄せてきたので、漁を終えて網を洗っていた漁師に、岸から少し漕ぎ出すよう、主イエスが頼みました。夜通しの漁を終えた後でしたが、漁師は主イエスのために舟を漕ぎ出しました。話を終えられた主イエスが、今度は沖に漕ぎ出して網を降ろすように言います。長年の経験を積んだプロフェッショナルである漁師たちには、これが無駄なことであることが分かっていました。ところが、実際に網を降ろすと、網が破れそうになるほどの魚がかかり、2そうの舟をいっぱいにしました。 魚のことを知り尽くした漁師であるからこそ、これがただ事ではないことがわかりました。漁師シモン・ペトロの反応は「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」でした。人間の存在を遥かに超えた聖なるお方が自分の前に現れたことを悟ったのです。「離れてください」と願うしかありませんでした。 そんな彼らに、主イエスは「あなたは人間をとる漁師になる」と言われます。罪のゆえにどこへ向かっていくのか分からない人びとを、網で舟に引き上げるように、主イエスのもとに引き上げる働きです。自分の罪深さを知る者たちが、主の働き人として召されるのです。 【祈り】 主よ、わたしも罪深い者です。それでもなお、あなたの働き人として召してくださり、感謝します。 Sat, 08 Feb 2025 00:10:00 +0000 年を重ねた者の願いと務め(詩編 71編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250208 no 2025 わたしが老いて白髪になっても 神よ、どうか捨て去らないでください。 御腕の業を、力強い御業を 来るべき世代に語り伝えさせてください。 (詩編71章18節) 詩編はヘブライ語で「賛美」を意味する「テヒラー」と呼ばれます。多くが嘆きの歌である詩編が「賛美」と呼ばれるのは、神の助けを確信して歌われているからではないでしょうか。 この詩編71編の書き手は年を重ねています。彼は、今も敵の中に置かれ、苦しみの中にいると嘆き訴えています。しかし、孤独と苦しみの中で誰からも顧みられなくなっても、なお顧みてくださるお方がおられる、そのお方は見捨てるどころか必ず生き返らせてくださると、心からの感謝の賛美をささげています。感謝は今までの神の良き導きを思い出させ、神の恵みの豊かさを知り、神への信頼を回復させてくれるのです。 彼は、老いた信仰者の願いは次の世代に信仰の喜びを伝えることだと祈ります。白髪になったわたしですが、この務めを果たし続けることができるよう支えてください、と。 50年ほど前のこと、学生だったわたしが訪れた教会には高齢の方が幾人もおられました。当時は気付かなかったことが、年月を経て思い出されます。それは、心身ともに弱り衰えようとも、御言葉によって生かされてきた人の、御言葉という土台を持った人の力強さです。神の御言葉は年を重ねるほどに人を回復させ、力づける、神の力なのです。 【祈り】 日ごとに内なる人を新しくしてくださる主よ、あなたの恵みによってわたしを生かしてください。 Fri, 07 Feb 2025 00:10:00 +0000 主が共に戦う私たちの霊的な戦い(申命記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250207 no 2025 「あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」 (申命記20章4節) この章には、征服のための二つの軍事作戦が記されています。第一は、神の民が約束の土地から遠くの町を通過するときのものです。まず町に降伏を促し、受け入れない場合に限って彼らは町を包囲して攻撃します。町の男性は殺し、分捕り品を奪い取ることができました(10~15節)。 第二の作戦は約束された嗣業の土地を攻撃するときです。このとき、町は包囲され、町の住民をすべて「滅ぼし尽く」すことが求められました(17節)。町の住民の悪い行いを真似ることがないためです。 神は「万軍の主」として戦われます。神の民は主の道具として用いられます。主は神の民の戦いを通して戦われるのです。ただし「滅ぼし尽くす」ことは、およそ約束の土地を得るための限定的な命令でした。また、申命記20章の戦いの律法は、神の国を証しすることが目的で、その時代にだけ限定して与えられたものでした。 新約時代の私たちは、神の国に国籍を持つ者として、この世のただ中で霊的な戦いに召されています。主は私たちの霊的な戦いに、共に進み、戦ってくださいます。キリストは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と(ヨハ16章33節)。 【祈り】 信仰の盾、救いの兜によって、わたしを守ってください。また、祈りによって目を覚まして戦えますように。 Thu, 06 Feb 2025 00:10:00 +0000 たとえ深刻な過失を犯した場合でも(申命記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250206 no 2025 主が…その土地を与えられ…家々に住むようになったならば…主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい。 (申命記19章1節~2節) 人は思いがけず大きな過ちを犯すことがあります。「意図してでなく、積年の恨みによるのでもない」という、過失です(4節)。具体的には、隣人と柴刈りに森に入り、自分の使っていた斧を振り上げたとき、斧の頭が抜けて、側にいた隣人を直撃し、死なせたような場合です(5節)。 そうした意図しない殺人のために「逃れの町」を用意するように神は命じられます。「主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい」。さらに領土が広がったときには「更に三つの町を加えなさい」と。正式な裁判をすることなく、「復讐する者」が怒りに駆られて危害を加えないためです。どこで事故が起きても逃げられるように「逃れの町」は国中に置かれました。 この制度を悪用する者もいました。過失でなく殺人を犯したのに誤魔化そうとします。しかし、正式な裁判で罪が明らかになると、その人は報いを受けます。神のかたちに造られた無実の人間を殺害するなら、血は土地を汚し、「それ(血)を流した者の血によらなければ、贖うことができない」からです(民35章33節)。 私たちは深刻な過失によって孤立するときがあります。私たちの罪や弱さをすべて知る神のもとに逃れられることは、本当に幸いなことです。 【祈り】 神よ、私たちは時に大きな過失に陥ることがあります。あなたの憐れみによってきょうも守ってください。 Wed, 05 Feb 2025 00:10:00 +0000 神と人の間に立つ者(申命記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250205 no 2025 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。 (申命記18章15節) モーセは特別な預言者でした。「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と民が求めたため(16節)、モーセは神と民の間に立つ仲保者となりました。主は友のようにモーセに語りかけました(出33章11節)。モーセは神から直接、御言葉を聞き、神に従うよう民を導きました。 対照的に、「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師…に伺いを立てる者などがいてはならない」と主は告げて(10節)、神をコントロールしようとする教えをしりぞけられます。個人や国家の危機において、こうした手段に頼る者がいました。進退窮まったサウル王は神でなく死者に伺いを立てました(サム上28章)。偽預言者も神の名を悪用します。主の名前を用いるため、人びとは本物であるか迷います。しかし、語られた預言が「実現しなければ、それは主が語られたものではない」と言われます(22節)。偽物は恐れなくて良いのです。 モーセのような預言者、神と人との間に立つ預言者が与えられる約束はイエス・キリストにおいて成就しました(使3章22節)。真理そのものであるキリストが地上に来てくださいました。私たちに与えられるキリストの言葉はすべて真実です。 【祈り】 キリストの真理の言葉を深く知り、心から従うことができますように。 Tue, 04 Feb 2025 00:10:00 +0000 礼拝を何よりもいちばんに(申命記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250204 no 2025 いかなる欠陥であれ傷のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主のいとわれることである。 (申命記17章1節) 17章から18章にかけて、神の民の政治が扱われています。王、祭司・レビ人、預言者など民を治める者たちについての記述が長くあります。その指導者たちの記述の前に礼拝に関することが位置しています。冒頭に礼拝が記されていることが大事です。民を導く者たちの礼拝の姿勢が最初に問われているからです。 欠陥のある犠牲の動物をささげることは主の「いとわれる」ことだとあります。これは偶像礼拝の罪を表すときにも用いられる言葉です。いい加減なささげ物をささげることは、月・太陽など被造物を神のように拝む偶像礼拝と同様に、主がひどくお嫌いになることなのです。 そのような罪を犯した者は、厳格に証言を確認された上で、石打ち刑になりました。そのようにして「あなたの中から悪を取り除かねばならない」のです。しかし、厳しくも感じられます。 私たちの時代に、礼拝に関する罪を犯すことで死刑になることはありません。ただし神が偶像礼拝をひどく嫌われることは同じで変わりません。私たちを深く愛してくださる神は、他の神々を愛することを嫌われる「熱情の神」(出20章5節)だからです。神の愛を知った者は、感謝を表す礼拝を何より大切にします。 【祈り】 霊的命をいただく中心である礼拝において、私たちの心をまっすぐにあなたに向けさせてください。 Mon, 03 Feb 2025 00:10:00 +0000 共に恵みを祝うために(申命記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250203 no 2025 男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。 (申命記16章16節) 約束の土地に着いたとき、年に三度、主の選ばれる場所で祭りを行うよう、神がお命じになりました。第一は過越祭です。アビブの月の深夜、神に導かれ、民はエジプトを脱出しました。大慌ての出発を忘れないように酵母のないパンを食べること、脱出前夜のように犠牲の動物を夕方に屠ることが命じられます。神は昔の出来事をリアルに再現することで恵みを思い出すように命じます。二つ目は七週祭で小麦の刈り入れを祝う祭りです。三つ目は仮庵祭。40年間もの長い間、神の民が荒れ野をさまよったことを覚えるのです。飲食に必要なものすら事欠くような中、神の民はそれでも支えられました。 年に三度の祭りを通して、神は信仰共同体の記憶を新たにされます。祭りによって共同体が建て上げられます。一つところに集められ、祝うことで元気になるのです。過越祭と仮庵祭では、行き詰まりの危機的な状況を神が打開してくださったこと、七週祭では、当たり前にしがちな自然の規則性の中にも神の慈しみがいつもあることを思い起こします。 「息子、娘、男女の奴隷…と共に喜び祝いなさい」(11節)。原文ではそれぞれに「あなたの」が繰り返し付けられています。独りぼっちはいない。恵みは皆で一緒に祝うのです。 【祈り】 毎週行われる礼拝で、あなたからの慈しみを兄弟姉妹と一緒に覚えささせてください。 Sun, 02 Feb 2025 00:10:00 +0000 受けるに値しない者に主の恵みを(ルカによる福音書 4章16-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250202 no 2025 「捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 (ルカによる福音書4章18節~19節) 主イエスが宣教の働きを始められてまもなく、ご自身が育ったナザレに来て、安息日に会堂で聖書を解き明かされました。イザヤ書から朗読し「主の恵みの年を告げるため」に遣わされたことを明らかにされました。 ナザレの人びとは、主イエスの恵み深い言葉に驚きますが、同時に「この人はヨセフの子ではないか」、自分たちがよく知っている身内同然のヨセフの子ではないかと言います。 彼らの反応に対して、主イエスは二つのことを言われます。一つ目は、ほかの町で行った奇跡をここでもして、我々にも利益をもたらしてほしいと求めるに違いないということ。二つ目は、イスラエルの人たちが飢饉や「重い皮膚病」で苦しんでいたとき、イスラエル人ではなく、同様に苦しんでいた異邦人が助けられた旧約聖書の二つのエピソードです。これを聞いて人びとは憤慨のあまり主イエスを殺そうとします。自分たちに与えられて当然だと考えていた主の恵みが他の人びとに与えられるというメッセージを理解したからです。 主イエスが遣わされたのは、主の恵みを受けて当然だと考える者たちに恵みを与えるためではありませんでした。自分の足りなさ、弱さ、罪深さに打ち砕かれた者たちに神の底知れない恵みを示すためでした。 【祈り】 主よ、あなたの恵みを受けるに値しないわたしに、主イエスの救いの恵みを与えてくださり、感謝します。 Sat, 01 Feb 2025 00:10:00 +0000 悩める者の祈りを顧みられる主(詩編 70編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250201 no 2025 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。 速やかにわたしを訪れてください。 あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。 主よ、遅れないでください。 (詩編70編6節) この詩編の詩人は、主が自分の苦しみをご覧になり速やかに助け出してくださることを切に訴えています。彼は、苦境にあって苦しむ者を見捨てることなく必ず救い出してくださる主に期待し、「主よ、遅れないでください」と祈るのです。 困難が降りかかってきたときに、私たちはどのように祈るのでしょうか。自分の思うように運んでいるときには神の恵みだと感謝できるかもしれません。けれども、少しでもうまくいかなくなると、神は助けてくれないのではないか、助けが遅れたらたいへんだという恐れに捕らわれてしまうことが起こりがちです。 ルカによる福音書に、弟子たちが乗った舟が激しい突風に襲われた場面が記されています。おぼれ死んでしまうかもしれないとおびえる彼らに、主イエスは嵐を一声で静めて、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われました(ルカ8章25節)。弟子たちの叫び求める声に、驚くべき力を持っておられることを明らかにしてくださったのです。 予測できない不安や恐れが世界を覆っています。その中で主の守りも支配も見えなくなってしまう私たちです。けれども、主は確かに生きておられ、私たちが気づかないときにも共にいてくださる、心強いお方です。 【祈り】 きょうもわたしの小さな祈りを聞き、遅れることのない助けを与えてくださる主に信頼できますように。 Fri, 31 Jan 2025 00:10:00 +0000 貧しい人に大きく手を開こう(申命記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250131 no 2025 だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞…から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。 (申命記15章2節) モーセは、14章の最後に述べられた貧しい者たちへの配慮について続けます。 7年ごとの負債の免除という興味深い制度について教えられていますが、「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば」(7節)と言われるように、大切なのはそのような人びとへの関心と心の姿勢です。 貧しい人びとに心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、必要なものを十分貸し与えること。損得を考えて貸し渋ったり、貸すときには未練がましくしたりしないこと、等々。 イスラエルの人びとは皆そもそも貧しかったのです。皆、奴隷だったのです。それがただ主の憐れみのゆえに救い出されました。荒れ野の40年も、食べ物が無いときはありませんでした。そうして今、主の祝福に満ちた土地に入ろうとしている。そのような者たちが、どうして貧しい人びとに手を閉ざしてよいでしょうか。 「御子をさえ惜しまず死に渡された方は…すべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8章32節)。この恵みに生かされている者たちは、与えることを渋ってはいけません。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20章35節)とは、神の価値観そのものなのですから。 【祈り】 神様、あなたの大いなる恵みを味わった私たちも、貧しい人びとに大きく手を開くことができますように。 Thu, 30 Jan 2025 00:10:00 +0000 神の民らしい生活習慣を身につけよう(申命記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250130 no 2025 あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。 (申命記14:29) (申命記14章29節) 約束の土地に入る前に、モーセはもう一度、かつてシナイにいたときに教えられた掟の内容を繰り返します。異教的な生活習慣に倣わないこと、特に食物についての規定などです。 毎日の日常生活に関わることだからこそ、神の民として聖別された者らしいライフスタイル(生活のかたち)を確立することが求められます。 それと共に、ここでもレビ人たちへの配慮を忘れないよう注意喚起がなされます。彼らが自分たちの土地を持っていないからです。町の中にいる寄留者や孤児や寡婦への配慮も同様です。人びとに生活や心の余裕があるときは、彼らに憐れみを施すこともできるでしょう。しかし、他人のことにかまっていられないほど忙しくなり、生活が苦しくなると、彼らは容易に忘れられる存在、重荷にさえなりかねません。 それゆえ、定期的に収穫物の十分の一を取り分けて、町の中に蓄えておくように命じられるのです。そうすれば、彼らの必要を確実に満たすことができるからです。 言い換えれば、他者とりわけ弱者を顧みること、それ自体をライフスタイルの一部にしなさいということです。神の民にとって、そのこともまた大切な生活のかたちだからです。 【祈り】 神様、私たちが、あなたの民らしい生活のかたちを身につけることができますように導いてください。 Wed, 29 Jan 2025 00:10:00 +0000 心を尽くして主を愛する難しさ(申命記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250129 no 2025 あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 (申命記13章4節) 心を尽くし、魂を尽くして主なる神を愛することは、いかに困難で厳しい道でしょうか。 預言者や奇跡を行う者たちが現れ、そのとおりになったとしても、それが主を愛することにならないのであれば従ってはならない。自分の家族、とりわけ、愛する妻や親友からの言葉であっても心動かされてはならない。主への愛から引き離そうとする者は、たとい家族であろうと同胞であろうと絶たねばならない、と。 先にカナンの地の諸民族を除き去るよう命じられたように、ここでは同族の中からも試みる者を除くことが命じられているのです。逆に言えば、人間は、目に見えること(占いや奇跡)や、家族や同胞からの誘惑に弱いということです。 考えてみれば、目に見えることに迷わされ、愛する者の言葉を拒否できずに、人類の先祖は堕落したのでした。いつの時代でも、地上のものに迷わされるか、目には見えなくともわたしの救いの神のみを愛するかは、究極の選択です。 しかし、人間は、強くありません。もし人間が真に神を愛するものへと変えられるとすれば、「ただ主に仕えよ」との御言葉をもって悪魔に打ち勝った方(マタ4章10節)と、聖霊の働きによるのみです。 【祈り】 神様、何よりも誰よりも、心を尽くしてあなたを愛する愛を、私たちに与えてください。 Tue, 28 Jan 2025 00:10:00 +0000 主が定める場所での礼拝の喜び(申命記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250128 no 2025 あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい。レビ人には嗣業の割り当てがないからである。 (申命記12章12節) モーセが繰り返し命じているのは、カナンの地に入った後で、その地に住む人びとの礼拝のやり方を真似てはならないということです。具体的には、それぞれが住む場所ではなく、「主がその名を置くために」選ばれる場所でのみ礼拝することです。 これまで一度たりとも十二部族がバラバラに住むことを経験したことがなかったイスラエルにとって、それぞれが勝手に礼拝をすることは、民としての秩序のみならず神に対する信仰さえも自分勝手なものとなる危険性を秘めていました。 むしろ、主が定められる所に皆が集まって、主が定められたとおりの献げ物を献げ、主に仕えるべく定められたレビ人たちを養いつつ、家族と共に主の御前で喜ぶという、これまでどおりの礼拝の喜びを味わうこと。それが、神の民にとって最も健全な在り方を維持するために必要なことだからなのでしょう。 大切なのは、この〝健全な喜び〟ということです。人間の魂にとって、変わることのない健全な喜びを味わうことこそが、神の民として健全に生きる生活の根源となるからです。 その喜びを味わうために、距離をいとわず礼拝に集う民。それこそが、真の神の民のあるべき姿ではないでしょうか。 【祈り】 神様、いつもの場所で、いつものように皆で守る礼拝の喜びが、私たちの生活の中心になりますように。 Mon, 27 Jan 2025 00:10:00 +0000 天からの恵みの前に(申命記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250127 no 2025 あなたたちが渡って行って得ようとする土地は…天から降る雨で潤されている。 (申命記11章11節) 今、モーセが語りかけているのは、荒れ野での40年を多かれ少なかれ経験してきた世代に対してです。つまり、子どもの時から荒れ野時代を過ごしてきた世代と言えましょう。 ちょうど子ども時代に戦争を経験した世代が戦後日本の繁栄を築いてきたように、荒れ野時代の悲惨を経験した世代だからこそ、二度と同じ過ちを繰り返すことなく、神の祝福の中を歩んでいけるようにと、心に誓ったことでしょう。 しかし〝平和〟はつくり続けなければ失われてしまいます。ですから、子どもたちに教え続けなればならない。いかに人間が罪深いか、それに対して主が為してくださったことを物語り続けなければならないのです。 約束の土地は「天から降る雨」で潤う土地だと言われます。エジプトのように灌漑をしなくとも、天から、すなわち神の御許から降り注ぐ恵みの雨によって潤うと。 この「天から」の視点を失い、あたかも自分たちで世界を切り開いているかのように錯覚しておごり高ぶるとき、天は閉ざされ、再び世界は悲惨を経験することになるでしょう。 人間は、いつでもこの「天から」の恵みの前に謙遜に、主と隣人を愛して生きねばならないことを、次の世代に伝えてまいりましょう。 【祈り】 神様、人間の愚かな歴史に学びつつ、あなたを恐れて謙遜に生きる道を、若い世代に伝えさせてください。 Sun, 26 Jan 2025 00:10:00 +0000 主の恵みの年を告げる(ルカによる福音書 4章14-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250126 no 2025 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 (ルカによる福音書4章21節) 主イエスはいつものとおり、安息日の礼拝で説教をされました。年が変わっても、私たちにはたくさんの取り組むべきことがあります。おそらくどれも大事なことでしょう。その中で、キリスト者の営みの中心は変わりません。それは、主イエスがいつも礼拝されたように、私たちも真実な礼拝をささげ続けることです。 主イエスは礼拝の中でイザヤ書を朗読されました(18節以下)。その御言葉は、イザヤ書の文脈ではイスラエルの人びとの捕囚からの解放を意味します。また、「主の恵みの年」(19節)とは「ヨベルの年」と呼ばれ(レビ25章10節)、すべてのものが解放される年です。すなわち、「主の恵みを告げる」とは「解放を告げる」ことを意味します。 主イエスは、イザヤの言葉が「今日、…実現した」と告げられました。貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人に救いを告げ知らせて、救いの時代を切り開く人物がご自分であるということです。それは、今主の御言葉を聞いている私たちに、罪の赦しと罪の力からの解放が実現したことを意味します。 主イエスは今も礼拝において臨在し、私たちの罪を赦し、罪の力から私たちを解放してくださるのです。 【祈り】 主よ。ささげ続ける礼拝を通して、今年も私たちに豊かな恵みをお与えください。 Sat, 25 Jan 2025 00:10:00 +0000 主の苦しみは私たちの救いのため(詩編 69編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250125 no 2025 わたしが受けている嘲りを 恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。 わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。 (詩編69編20節) 詩編第69編は、嘆きと賛美という馴染みの要素を、際立った鮮明さで表現しています。詩人の描く苦しみは切実で、賛美は力強く、侮辱は容赦ありません。 この詩編は新約聖書にもよく引用されています。イエス・キリストとその御業に関する最も明確な預言が含まれています。主イエスは、ヨハネによる福音書2章17節でこの詩編の10節を引用して、死に至るまで「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」ことを説明されました。 十字架上のキリストの苦しみの一部は、22節で預言されています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハ19章28節)。また、イエスが嘲笑と軽蔑を受け、渇きを癒すために酢を飲まされることも預言されています(マタ27章48節)。 キリストはご自身の苦しみを通して、時代を超えて神の民が経験するすべての苦しみを成し遂げ、聖なるものとしてくださいました。私たち一人ひとりの苦しみも、主の死と復活による命によって完成へと導かれます。そのため、私たちは確信をもって主に祈り求めることができるのです(17節参照)。 【祈り】 すべての苦しみにあずかる主よ、あなたの救いがすべての痛みと苦難の中にある私たちを癒してくださることを感謝します。 Fri, 24 Jan 2025 00:10:00 +0000 御子の従順を私たちの従順とするために(ヘブライ人への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250124 no 2025 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 (ヘブライ人への手紙5章8節) キリスト者に絶えず問われていることは、御言葉に聞き従って生きているかどうかです。このことを確かめようとすれば、私たちは御言葉に改めて聞くほかありません。なぜなら、自分の経験則や世の中の価値観では、誰一人として、御言葉に聞き従っているかどうかを正しく判定できないからです。 旧約の時代、主に任命された祭司に求められたことも、御言葉に聞き従うことでした。それは、幕屋や神殿において、祭壇にいけにえを規定どおりにささげることよりも大切な原則です(サム上15章22節)。 「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエス」(4章14節)は、「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれ」たお方です。従順を学ぶとは、御言葉に聞き従うことを日常的に習得された、ということです。十字架の上に、罪を取り去るただ一つのいけにえとして御自身をささげられたお方(9章26節)は、これほどまでに謙遜と従順の道を進まれたお方です。 主イエス・キリストは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、…安らぎを得られる」(マタ11章29節)と命じ、約束されました。御子の従順を私たちの従順とするとき、永遠の安息を仰ぎ見るのです。 【祈り】 主よ、この世のただ中で、御言葉に聞き従うことを学ばせてください。 Thu, 23 Jan 2025 00:10:00 +0000 永遠の安息に入る日を求めきょうを生き(ヘブライ人への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250123 no 2025 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。 (ヘブライ人への手紙4章11節) ヘブライ人とは、元々、遠くからやってきた者という意味があります。つまりは、旅人です。旅人は、次の目的地に向かって進む者、遣わされる者でもあります。 この意味で、ヘブライ人への手紙は、神から遣わされた使者であるお方イエス・キリストが、天の聖所、王座におられること、永遠の大祭司であることを覚えつつ、天の召しにあずかっている兄弟たちに、地上の生涯の目的地をはっきりと示すものです。約束の地カナンという地上の目的地が示している型は、永遠の安息にあずかる天の御国です。ですから、「さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」との警告は、ただ、終わりの日に御前に立つことを覚えることにおいて正しく受けとめられます。永遠の安息に至る道は、この地上の教会の歩みにおいては、ただ、神の裁きをその身に負われたイエス・キリストの苦しみと試練において獲得された救いにのみ、求められるのです。 十戒の第四戒は、霊的安息を象徴しています。それは、安息日を守ることによって救われることを教えているのではなく、安息日の主であるイエスの中に完全な安息を信じる者たちに与えられる安息を約束するものです。「この安息にあずかるように努力しようではありませんか」。 【祈り】 安息日の主よ。永遠の安息に憩う日まできょうを大切にして励みます。 Wed, 22 Jan 2025 00:10:00 +0000 「神の家」を治められる大祭司イエス(ヘブライ人への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250122 no 2025 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。 (ヘブライ人への手紙3章2節) 天上の礼拝に仕える霊である天使にまさる主イエスは、また、契約と律法の仲介者モーセにまさるお方です。それは、「神の家」である教会のために、天において忠実な大祭司であられ、「試練を受けている人たちを助けること」を成し遂げてくださったからです(2章18節)。 教会が「神の家」と呼ばれるとき、それは、会堂のような堅固な建物のことを指しているのではなく、むしろ、荒れ野の旅路の中で、神の臨在を指しています。ヤコブは、孤独な旅路で野宿したとき、神の約束を天と地をつなぐ階段の夢の中に示されたとき、深い畏れの中で言いました。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創28章17節)。神の臨在を示され、深い畏れを覚えて、言いました。 主が召されたモーセに導かれて、エジプトでの苦しみから救出された契約の民は、荒れ野での試練を経ねばなりませんでした。そのとき、主は、民に「先立って進み、昼は雲の柱…、夜は火の柱をもって」民を照らされ、「昼も夜も」行進することができました(出13章21節)。このように、天において大祭司イエス・キリストは、この地を歩む諸国民と共に歩み、神の家であるご自身の民である教会を守り導いておられます。 【祈り】 主よ、地上の教会の歩みを、あなたが共におられて、導いてください。 Tue, 21 Jan 2025 00:10:00 +0000 御子の負われた恥辱を悟る(ヘブライ人への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250121 no 2025 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。 (ヘブライ人への手紙2:11) ヘブライ人への手紙が書かれた背景の一つに、天使礼拝があります。天使が御子にまさることは、現代を生きる教会からすれば、あり得ないことに見えるかもしれません。しかしながら、天使礼拝とは言わずとも、父と子と聖霊なる三位一体の神、御子を正しく礼拝することを妨げる偽りの教えは、今の世の中でも、さまざまなかたちで教会の中に入り込んできて、霊と真理による礼拝を脅かすのです。このような霊的危険を覚えて、「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」と、御子による救いの完全さを真剣に心に留めるように、強く奨励するのです。 「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」とは、御子と御子によって罪を清められた者たちが、「一つの源」に由来することを明らかにします。「一つの源」とは、神と堕落した人間(アダム)です。御子が、罪をほかにしてはまことの人間となられたゆえに、主イエスと聖なる者たちは、兄弟とされました。そして、イエス・キリストが十字架の上で負われた恥辱が私たちの罪と汚れのゆえであったことを信じ、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と、御子が認証された聖なる礼拝を共にします。 【祈り】 神よ、御子の負われた恥辱が何のためであったか悟らせてください。 Mon, 20 Jan 2025 00:10:00 +0000 天の聖所におられる御子の栄光(ヘブライ人への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250120 no 2025 御子は、…人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 (ヘブライ人への手紙1章3節) ヘブライ人への手紙は、その冒頭で、イエス・キリストの十字架と復活と言うところを、「御子は、…人々の罪を清められた」と言います。それは、イエス・キリストご自身が、十字架につけられ、復活されたことが、何のためであったのかを、率直に語っています。それは、「罪を清めるため」でした。 神の御子イエス・キリストがおられる天の聖所は、この手紙において絶えず覚えられている、栄光の御座です。始祖アダムにおいて堕落し、神の交わりを失った罪人にとって、神の聖所に入るための条件は、すべての罪が清められることです。このために、御子は、十字架の上で、その体をただ一つの完全な献げ物としてささげてくださいました。御子による世界の創造と合わせて「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」と言われるとき、御子の神性が、ただ罪のない、完全で清く、純粋なものとして啓示されています。 天使たちは、罪とは無縁であり、永遠に神礼拝に奉仕する霊です。しかし神は、罪深い人間を、ただ御子によって清めることを御心に定めてくださいました。事実、この罪深く、汚れた世のただ中に御子を遣わしてくださり、罪人をご自身のものとして清めてくださったのです。なんと驚くべき、神の愛でしょうか。 【祈り】 神よ、御子によって罪を清められた恵みを感謝し、聖名を賛美します。 Sun, 19 Jan 2025 00:10:00 +0000 喜びを与えてくださる主(ヨハネによる福音書 2章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250119 no 2025 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 (ヨハネによる福音書2章11節) 結婚式は喜びが溢れるところです。主イエスがカナの婚礼に出席されました。当時の婚礼は1週間くらい宴会が続きます。その宴席で困ったことが起こりました。ぶどう酒がなくなったのです。ぶどう酒は喜びの象徴です。喜びの婚礼に暗い影が差し込んできました。そのとき、主イエスが水をぶどう酒に変えてくださったのです。この御業は、主イエスがなさった最初のしるしでした。 これは主イエスが私たちの人生に喜びを与えてくださる救い主であることを示しています。婚礼の最中にぶどう酒が途切れたように、私たちの人生の喜びが途切れることがあります。信仰が揺らぐことや、病気や事故、人間関係の問題もあるかもしれません。さまざまな場面で人生に暗闇の影が差し込んで来ます。しかし、宴席で主が水を極上のぶどう酒に変えてくださったように、人生において私たちの喜びが途絶えそうになるとき、今も、主は大きな喜びで私たちを喜ばせてくださる方です。 この最初のしるしは、やがて来る「わたしの時」(4節)の前触れです。それは、十字架と復活の時を指し示しています。主イエスが来られたのは、その喜びを与えてくださるためなのです。十字架による罪の赦しと復活の希望によって私たちの悲しみを喜びに変えてくださるのです。 【祈り】 主よ。今週も喜びの源であられるあなたと共に歩ませてください。 Sat, 18 Jan 2025 00:10:00 +0000 私たちを担い救いとなる力ある主(詩編 68編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250118 no 2025 神は聖なる宮にいます。 みなしごの父となり やもめの訴えを取り上げてくださる。 (詩編68章6節) この詩編の中心にあるのは、神の力は究極的には苦しんでいる人びとを救うことに向けられているという確信です。 神の力が表されるのは、暴力によって人が苦しむのを見て喜ぶためではありません。そうではなく、抑圧され、寄る辺のない人びとを守るためです。神の力を肯定する詩人は、他のすべての指導者を叱責しているのです。最後の数節には、地上のすべての王たちに対して、神の権威を認めるようにという呼びかけが含まれています。神の権威は神がお造りになったものにおいて、また造られたものを通して、明白だからです。 古代イスラエルでは、やもめや孤児は、保護、経済力、名誉を与えてくれる夫や父親を持たず、必死に生きていました。神は、夫や父親を欠いた人びとの保護者となって、その必要を満たしてくださいます。(6節)。同様に、主は見捨てられた人びとに家を与えてくださいました(7節)。 この詩編は歌であり、私たちもまた、この世の力の中で神の勝利を願う孤独な人たちと共に歌うように召されています。この歌は、無力な者を守る主の憐れみ深い力に倣うよう私たちを招きます。なぜなら、「この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神」(21節)だからです。 【祈り】 主よ、苦しむ者を守るあなたのゆるぎない愛の力を教えてください。 Fri, 17 Jan 2025 00:10:00 +0000 主があなたに求めておられることは何か(申命記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250117 no 2025 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。 (申命記10章12節) イスラエルの過ちの歴史にもかかわらず、神は再び契約を結び直し、民たちへの祝福は回復されました。 こうして約束の地を目の前にしている新しい世代の民たちに、モーセは語りかけます。「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」と。それは、もちろん、同じ過ちを繰り返すことではなく、心を尽くし、魂を尽くして主を愛し、主の戒めを守って幸いを得ることです。 では、その「主」とは、どのような神でしょうか。モーセは、それを神々の神である、畏るべき神であると同時に、どこまでも慈しみ深い神であることを教えます。 何度となく背いてきた民に忍耐して彼らを赦したのみならず、全く無力な孤児や寡婦たちの権利を守り、寄留者たちにさえ常に御目を留めて愛してくださる方だと。 モーセもイスラエルも、この方を単なる知識としてでなく、40年の旅路を通して経験として知りました。その恐るべき御業の数々と限りない憐れみを。 そして、そのような神を知った者もまた、この方の御性質を生きる者へと促されるのです。かつて無力であった自分たちを主が愛してくださったように、目の前の無力な人びとを愛する者へと。 【祈り】 神様、心を尽くしてあなたを愛し、自分と同じように隣人を愛する道へと私たちを励ましてください。 Thu, 16 Jan 2025 00:10:00 +0000 仲保者の執り成しのゆえに(申命記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250116 no 2025 あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。 (申命記9章6節) 約束の土地に入る特権が与えられたことについて、モーセは繰り返し「あなたが正しい」からではないと民に言い聞かせます。そして、シナイでの金の子牛事件をはじめ彼らが何度も主に背いてきた事実と、モーセの執り成しによって滅びから免れたことを思い起こさせようとしています。 それは、第一に、自分たちがいかにかたくなであるかを忘れずに、謙遜であり続けるためです。もちろん罪を犯した当事者は、これを聞いている彼ら自身ではないかもしれません。しかし、かたくなな「民」と言われるように、彼ら自身もその共同体の一部だからです。 それはちょうど、アダムが犯した罪の責任を私たちが負っているのに似ています。私たちがそこにいたわけではありませんが、日々主の戒めを破り続けている点において、アダムと全く同じなのです。 過去を思い起こすもう一つの理由は、私たちが赦されて今あることを忘れないためです。私たちには、本来、約束の土地(神の国)に入る資格などありません。ただ、唯一の仲保者イエス・キリストによる執り成しのゆえに、その光栄にあずかっていることを忘れることなく、謙遜であり続けたいと思います。 【祈り】 神様、かたくなな私たちをお赦しください。たえず謙遜に、御前を歩むことができますように。 Wed, 15 Jan 2025 00:10:00 +0000 主の口から出る言葉によって生きる(申命記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250115 no 2025 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 (申命記8章3節) モーセは、40年にわたる苦しみの日々を思い起こすようにと、繰り返し諭します。それは、試練の年月であり、それを通して人びとの心の中にあることが明らかになるためです。そのようにして人間の知恵も力も尽きる中で、ただ神を信頼すること、人は神の言葉によってのみ生きるとの真理を悟るためでした。 神がその民に試練をお与えになるのはご自分の子らを鍛えるためです。苦しみを与えること自体が目的ではありません。苦しみによって試みられ、ついには幸福にすることが目的です。ですから、苦労もせずに与えられた幸福や富は、祝福であると同時に誘惑となりかねません。事実、約束の地は豊かな土地でしたが、それが誘惑となり、やがてイスラエルは思い上がってその富と共に滅びていくことになりました。 人は誰しも豊かな生活を望むものです。それは、失われた楽園を求める人間の性なのかもしれません。しかし、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」のです(マタ6章21節)。人は「神と富とに仕えること」はできません(同24節)。 人生の苦しみの中で練り清められて、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」との確信に至る人は幸いです。 【祈り】 神様、あなたを忘れるほどに豊かにも、盗みを働くほど貧しくもせず、守ってください(箴言30章8節)。 Tue, 14 Jan 2025 00:10:00 +0000 ただ主の愛による神の選び(申命記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250114 no 2025 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 (申命記7章6節) モーセは、イスラエルの民に、主なる神への徹底的な献身を求めています。それは、いっさいの妥協を廃した献身です。 彼らがこれから暮らすことになる約束の土地は、決してまっさらな無人の土地ではありませんでした。すでに、彼らよりもすべての点においてはるかにまさる諸民族が支配している土地だったのです。 そのような場所に、なぜわざわざ入って行かねばならないのでしょうか。それは、神がかつて彼らの先祖アブラハム・イサク・ヤコブに約束した土地だからです。神は、ただその約束を果たすために、必ず彼らにその地を与えると言われるのです。 しかし、それは、決して彼らが数の多いすぐれた民だからではありません。むしろイスラエルはどの民よりも貧弱な民でした。主なる神がイスラエルに心惹かれたのは、ただ彼らに対する「愛」のゆえです。 この神の驚くべき愛は、御子イエス・キリストにおいて、民族を超える愛として示されました。なぜ私たちが神の民とされたのか。理由などありません。ただ神が、私たちを一方的に愛してくださったからです。 このお方に、私たちも脇目をふることなく、まっすぐに従って行きたいものです。 【祈り】 取るに足らない罪人をも愛してくださるあなたに、まっすぐにお従いできますよう強めてください。 Mon, 13 Jan 2025 00:10:00 +0000 子どもたちに繰り返し教え語り聞かせよ(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250113 no 2025 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも…これを語り聞かせなさい。 (申命記6章6節~7節) 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。この聖書の言葉は、旧新約聖書の中でもとても大事な神の言葉です。「主こそ天地を造られた唯一の神、また、救い主」。この信仰を親から子へ、子からまたその子たちへ。これが、イスラエル共同体に主がお与えになった至上命令です。ですから、申命記だけでも何度もこのことを主は命じています。 私たちの教会で幼児洗礼の恵みにあずかるとき、親に誓約を求めます。「子と共に、また子のために祈り、子に聖書と救いの教理を教えるように」と。また、親がこの誓約を果たせるように、教会員もまた祈り支えるとの同意を求めます。 親から子へと信仰が受け継がれていくとき、自然にそのことがなされる場合もあります。親も子も教会も苦闘しながら祈りの格闘がなされる場合もあります。いずれにせよ、主は真実な御方です。教会に与えられている信仰を、親から子へと継承していく真実な祈りと取り組みを祝福してくださいます。主の真実に信頼して、共同体全体で信仰の継承に取り組み続けたいものです。諦めることなく、執り成しの祈りに必ず耳を傾けてくださる主に信頼して。 【祈り】 信仰が受け継がれていくために、諦めることなく祈り取り組む力を教会に、また、親たちにお与えください。 Sun, 12 Jan 2025 00:10:00 +0000 あなたはわたしの愛する子(ルカによる福音書 3章15-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250112 no 2025 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、…「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (ルカによる福音書3章21節~22節) 主イエスは公生涯のお働きを始められる前に、民衆の長い列に混じって立ち、洗礼を受けられました。罪も汚れもない主イエスが、なぜ罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。それは、私たちの罪を背負って身代わりに十字架につけられる救い主として、主イエスがこの地上に来られたからです。 パウロは言いました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリ2章6、7節)。主イエスが人びとと一緒に洗礼を受けられたのは、主イエスが私たちと同じ者となり、私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされなかったからです(ヘブ2章11節を参照)。 主イエスが洗礼を受けて祈っておられると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。「あなたはわたしの子」と呼ばれるのは神の独り子である主イエスだけです。けれども、私たちの罪の赦しのために、主イエスは私たちと同じ人間になり、十字架上で私たちの罪を償ってくださいました。この主イエスのゆえに私たちは神の子とされ、神を「アッバ、父よ」と呼んで、日々祈ることが許されているのです(ロマ8章15節)。 【祈り】 天の父よ。私たちが神の子とされ、祈ることのできる幸いを感謝します。 Sat, 11 Jan 2025 00:10:00 +0000 御救いをすべての民が知るために(詩編 67編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250111 no 2025 あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために。 (詩編67編3節) この詩編には、際立っていることが二つあります。神の祝福とその範囲です。神がイスラエルを救い、祝福してくださったことを賛美するだけでなく、他の国々の人びとに対する憐れみ深い配慮があります。 自分たちの神についての福音を地上のすべての住民に伝えることは、神の民の務めです。神の民は、他の国々への祝福となるように祝福されているのです(創12章1~3節)。4節と6節のリフレインでも同じことを語っています。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように」とまず宣言し、それを裏付けるかのように、次の行でもその言葉を繰り返し、さらに拡大します。「すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように」。神の憐れみには、神の民イスラエルやキリスト教会を超えた広がりが確かにあるのです。 この67編の「地の果てに至るまですべてのものが神を畏れ敬いますように」という結びの言葉は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタ28章18~20節)と命じる主イエスの言葉とリンクしています。神の救いの恵みと祝福は、本当にすべての人のためのものです。私たちは、普段は越えることを恐れている境界線を越えて、神の祝福を分かち合うよう召されています。 【祈り】 すべての国と民族の主よ、あなたがすべての人に束縛のない祝福を与えてくださることを感謝します。 Fri, 10 Jan 2025 00:10:00 +0000 きょう語られる掟と法(申命記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250110 no 2025 モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。 イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。 (申命記5章1節) 昔ホレブにてイスラエル共同体は、モーセをとおして掟と法の要約である十戒が与えられました。ヨルダン川の東、モアブの地で掟と法が授けられる40年前のことです。 今、約束の地を前にして、あらためてモーセは、全イスラエルを呼び集めて語ります。「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今(きょう)ここに生きている我々すべてと結ばれた」と(3節)。ここモアブの地で、ホレブ(シナイ山)で結ばれた40年前の契約が、あらためて更新されます。しかし、その契約の更新は、新たな契約ではありません。40年前のあの契約をもう一度再確認するための契約更新です。 こうして、40年前と同様、十戒を主はモーセをとおして授けます。同じ十戒ですが、第四戒(安息日)では、贖い出された事実が強調されます。「あなたがたはかつてエジプトの奴隷状態であったが、そこから神が導き出された。この事実を思い起こすためにも、安息日を守るように」と。 私たちは、主イエスによって、まことの出エジプトが与えられました。主の日は、罪と悪魔、死の恐怖の支配からの解放を思い起こす契約更新の時です。毎週私たちは、「今、きょうの出来事」として、主イエスによる確かな救いの約束を思い起こします。 【祈り】 主イエスによる確かな救いにあずかっている事実を主の日ごとに、あらためて再確認させてください。 Thu, 09 Jan 2025 00:10:00 +0000 入って行って得る土地で掟と法を行え(申命記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250109 no 2025 わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。 (申命記4章5節) イスラエル共同体は特別な共同体でした。モーセをとおして神から与えられる正しい掟と法を持つ共同体だからです。神は、彼らがこれから入って得る土地で、神の掟と法を行うために、これらを与えられました。 このイスラエル共同体が、神から与えられた掟と法に生きるとき、諸国の民は驚きます。「こんなに知恵があり、賢明な民は見たことがない」と。主の素晴らしさを証しするために、イスラエル共同体は、主の民として選ばれました。国々の民に主の素晴らしさをあらわすために、主の民は、約束の地に入っていくのです。 私たちも、それぞれに約束されている地に日々召されて入っていきます。神の掟と法とを守り行うことをとおして、世の人びとに驚きを与えるためです。私たちに与えられている神の掟と法は、イエス・キリストの「互いに愛し合いなさい」という新しい掟です。遣わされた地において、隣人を愛し、隣人に仕えるとき、主イエスの民としての素晴らしさがあらわれます。新しい掟に生きる主の民をとおして、主イエスの愛の広さ、長さ、高さ、深さがあらわされます。そんな主の民を見て、人びとは主イエスの愛の深さに触れます。そのために、きょうも明日も、私たちは約束の地へと遣わされて、入って行きます。 【祈り】 新しい掟と法を与えてくださり、ありがとうございます。その新しい掟に生きる力を日々お与えください。 Wed, 08 Jan 2025 00:10:00 +0000 ヨルダン川を渡って行けない(申命記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250108 no 2025 「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。」 (申命記3章27節) モーセに率いられたイスラエル共同体は、神の恵みと助けによって進軍を続けます。南はアラバの海(死海)の東側から、北はキネレト湖(ガリラヤ湖)の東に至るまで占領します。もう約束の地、ヨルダン川の西、乳と蜜の流れる地が目前に迫っています。そのとき、モーセは主に祈り求めます。「わが主なる神よ、…どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」(3章24、25節)。 しかし主は、モーセがヨルダン川を渡って約束の地に入ることをお許しになりません。かつて荒れ野で、共同体の不平不満にモーセは耐えられなくなり、二度、岩を打ってしまいました(民20章8~13節)。これが主の御心にかなわず、モーセは約束の地に入ることができなくなったのです。モーセの人生における痛恨の出来事です。「お前はヨルダン川を渡って行けない」。謙遜なモーセでも民の不平不満に耐えきれませんでした。誰よりも約束の地を切望していてもそれが許されませんでした。 私たちも、誰よりも祈り願っている願いの実現を地上で見ることが許されないかもしれません。そんな厳かな主の御心をも心静かに受け止める者とさせていただきたいものです。 【祈り】 あなたが備えてくださる厳かな現実を、心静かに受け止める心と信仰を折りにかなって与えてください。 Tue, 07 Jan 2025 00:10:00 +0000 占領を開始せよ、主が戦われる(申命記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250107 no 2025 「立ち上がって進み、アルノン川を渡りなさい。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国をあなたの手に渡した。…占領を開始せよ。」 (申命記2章24節) エジプトから救い出され、約束の地を目指したイスラエル共同体の第一世代の人びとは死に絶えました。主なる神の力と約束を信じなかったからです。今や、その第二世代が大人になり、いよいよモーセに率いられ、約束の地に入ろうとしています。 ヨルダン川の東側、アラバの海の南東にて、「ゼレド川を渡れ」と、主はお命じになります。「さらに北に向かい進軍し、アルノン川を渡れ。ヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を与える」と、主はお命じになります。第二世代の出エジプトの民に、進め進め、と進軍命令を与えられます。 心をかたくなにするヘシュボンの王シホンでしたが、主はイスラエル共同体を励まし、彼らに命じます。「シホンとその国を取るために、占領を開始せよ」と。シホンは全軍を率いて対抗しますが、主は彼らをイスラエルの手に渡されました。 「占領を開始せよ」。主は、何度も私たちにこの命令と励ましを与えられます。私たちの目前にはしばしば困難難題の数々が立ちはだかります。そこで主は、「占領を開始せよ。あなたが困難を乗り切るために、勇気と力を与える」と励ましてくださいます。主が戦ってくださるので進軍できます。主は、目前の困難難題の数々を勝利の占領に変えてくださいます。 【祈り】 目の前の難題に直面するとき、どうか私たちを励まし、力づけてください。「占領を開始せよ」と。 Mon, 06 Jan 2025 00:10:00 +0000 恐れてはならない、わたしが戦う(申命記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250106 no 2025 わたしはあなたたちに言った。 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。…主御自身が、…あなたたちのために戦われる。」 (申命記1章29節~30節) 申命記は、長い荒れ野の旅の終わりに、モーセがイスラエル共同体に語った言葉です。聖書は、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(フィリ3章13節)と勧めます。しかし、過去における主なる神の恵みを思い起こし、神に背いたことの反省を心に刻むことが大切です。 「約束の地に入れ」と神が命じたのに、イスラエルが背いたことを、モーセは何度も思い出させます。約束の地を偵察し、その土地の素晴らしさをイスラエルの代表者たちは見ました。その土地を神が与えるという約束も聞きました。しかし、彼らは神の約束よりも、別の現実にうろたえ、恐れました。そこに住む先住民が、彼らよりも強そうに見えた現実。また、その町々は大きく、城壁も天に届くほどとても頑丈だった現実です。そんな現実を目にして、神の力も約束も信じられなくなりました。 昔の民も、今の私たちも、神の約束よりも自分の目に映る現実に圧倒されるものです。たじろぎ、恐れ、共同体にも目に映る困難さを強調して伝えます。そして、共同体は、否定的情報にしばしば同調します。 そんな私たち神の民に今も主は語り続けておられます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいる。あなたたちのためにわたしが戦う」と。 【祈り】 あなたの力と約束よりも、目の前の現実に揺らぐ私たちです。あなたの約束に頼る信仰を与えてください。 Sun, 05 Jan 2025 00:10:00 +0000 初めに言があった、言は神であった(ヨハネによる福音書 1章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250105 no 2025 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 (ヨハネによる福音書1章1節) ヨハネによる福音書の冒頭の「初めに」は、創世記の冒頭の「初めに」を思い起こさせます。「初めに、神は天地を創造された」(創1章1節)。ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった」と語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあり(14節)、この「言」は主イエス・キリストを指しています。 キリストは、私たちに語りかけるお方です。私たちはキリストを通して、生けるまことの神を知ることができます。「万物は言によって成った」とあり(3節)、この世界はキリストによって造られました(コロ1章16節を参照)。ですから、この世界は神を啓示していて、この世界はキリストの語りかけです。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」(詩19編2、5節)。私たち信仰者は、宇宙と自然を通して神の存在と神の素晴らしさを知ることができます。 「言」であるキリストは、私たちと同じ人間になられました(14節)。キリストはこの世に来られ、十字架の御業によって神の深い愛を示してくださいました。今や十字架の福音が私たちに告げ知らされています。キリストが、今も私たちに語りかけてくださっているのです。 【祈り】 主よ、キリストの御声を聞いて、あなたの愛を知り、あなたを賛美することができますように。 Sat, 04 Jan 2025 00:10:00 +0000 信仰によって希望の実現に踏み出す(ヘブライ人への手紙 10章32節-11章3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250104 no 2025 わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する…。 (ヘブライ人への手紙10章39節~11章1節) 新年おめでとうございます。 39節は、「滅びる者」と「命を確保する者」との対比が鮮やかです。著者は読者をも巻き込んで、再臨の主を待ち望む私たちこそ、「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と宣言します。 「望んでいる事柄」は、個人的な願望ではなく、皆で望んでいる聖書の約束です。「確信し」は原文では名詞で、本質、実質、実体とも訳されます。どれほどのリアリティがあるのかが扱われています。信仰とは、自分たちの望みが内実を伴った重みのある希望だ、と確信することです。 「見えない事実」は、将来のことではなく、現在起こっていることの背後にあるものです。神の導きは、有るか無いか分からないものではありません。今、確かにある事実です。信仰とは、目の前の現実に囚われず、目に見えないものの確かさを確認することができる恵みです。 信仰の眼差しが開かれると、目の前に苦しみがあっても、「望んでいる事柄」を確信でき、「見えない事実」を見つめることができます。それにより確かな希望が心に宿ると、ひるむことなく、希望の実現に向けて力強く踏み出せます。私たちは皆で、聖書の約束に望みを置き、神の導きに依り頼み、この一年を歩みます。 【祈り】 神よ、新しい年の歩みを祝福してください。今年、信仰によって、確かな希望に目が開かれますように。 Fri, 03 Jan 2025 00:10:00 +0000 信仰によって再臨の主を待ち望む(ヘブライ人への手紙 10章32節-11章3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250103 no 2025 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。 遅れられることはない。 わたしの正しい者は信仰によって生きる。…」 (ヘブライ人への手紙10章37節~38節) 新年おめでとうございます。 37節は、ハバクク書2章3節の引用です。ヘブライ人への手紙の著者は、約束が指し示している終わりの時の完成に思いを向け、「来るべき方」がおいでになると語っています。待つのは、約束を成就してくださる「来るべき方」です。 本書において、「来るべき方」の到来は、キリストの再臨を指し示しています。「忍耐が必要なのです」(36節)という勧めが、再臨のキリストを待つという希望と結び合わされています。私たちが愛し慕っているキリストとの再会を待つという喜びが、忍耐を育みます。 38節後半の「もしひるむようなことがあれば」とは、迫害を恐れ、たじろぐことです。心が縮こまるとき、信仰の歩みは、現状維持ではなく、後退し始めます。そのような者は、神の「心に適」いません。神は、信仰の道を進み続ける者を喜ばれます。 「信仰によって生きる」は、パウロ書簡では、信仰義認の言葉です。本書では、困難の中にあっても再臨信仰によって生きる、です。聖書の読み方は、深く多様です。再臨信仰は、退こうとする心を励まし、前を向かせます。私たちは、持ち望む者を喜んで受け入れてくださる再臨の主を仰ぎ見て、この一年を歩みます。 【祈り】 神よ、新しい年の歩みを祝福してください。今年、信仰によって、再臨の主を待つことができますように。 Thu, 02 Jan 2025 00:10:00 +0000 信仰によって忍耐すべき時に忍耐する(ヘブライ人への手紙 10章32節-11章3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250102 no 2025 自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 (ヘブライ人への手紙10章35節~36節) 新年おめでとうございます。 自分の「確信」とは、直訳すると「大胆さ」です。迫害下で信仰生活を続けるとは、大胆な生き方です。困難に直面しても、大胆に立ち向かう者には「大きな報い」が備えられています。 昨日学んだ奪われない霊の財産とは、約束です。日々の糧を含む地上での守り、天上での祝福、永遠の命、終末の救いの完成などです。それらの約束の成就が、報いです。約束を受けた者は、「神の御心を行」い、「約束されたものを受け」取ります。 そのために必要なことは、忍耐です。「忍耐が必要」と聞くと、多くの人はしんどいなぁと思います。しかし、本書の読者は、迫害下にあって、忍耐することしかできませんでした。彼らからすれば、本日のメッセージは、今は忍耐していたらよいのだ、という慰めと励ましの知らせです。また、大胆に立ち向かうとは、むやみやたらに蛮勇を奮うことではありません。忍耐すべき時に腰を据えて忍耐できるのは、大胆さの表れであり、信仰の立派な証しです。 神は忍耐できる恵みを与えた上でさらに、忍耐した者を「よく頑張ったね」と労い、報いてくださいます。忍耐を強いられても、価値ある苦しみには報いがあります。私たちはそのことを弁えて、この一年を歩みます。 【祈り】 神よ、新しい年の歩みを祝福してください。今年、信仰によって、忍耐できますように。 Wed, 01 Jan 2025 00:10:00 +0000 信仰によって心を新たにし喜ぶ(ヘブライ人への手紙 10章32節-11章3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20250101 no 2025 …自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 (ヘブライ人への手紙10章34節) 新年おめでとうございます。 この新しい年、2025年がどうなるのか、全く想像できません。また、お正月を迎えても、何か良いことが急に立ち現れるわけではありません。ですから、年頭にすべきことは、祝賀気分に浸るより、いざという場合に備えることだと思います。 本書の読者は、投獄や財産没収を体験していました。そのような目にあったらと想像すると、喜んで「受け入れ」た彼らの姿が立ち上がってきました(直訳、新改訳2017)。彼らは、歯を食い縛るのではなく、喜びをもって受け止めました。 それができたのは、彼らが「いつまでも残るものをもっていると知ってい」たからです。奪われた財産といつまでも残る財産が対比されています。迫害は、地上の財産を奪えても、もっと良い霊の財産が残っているという喜びを奪うことはできませんでした。 年が明けても、往々にして、私たちの心は昨年失ったものに結ばれたままです。信仰によって、失われたものを慕い続ける心を新たにし、いつまでも残り続けるものに心を向けましょう。失ったものは、いつかは失うはずのものだったのですから。私たちは、何が起こっても信仰をもって受け止め、信仰の喜びを改めて握りしめ、この一年を歩みます。 【祈り】 神よ、新しい年の歩みを祝福してください。今年、信仰によって、喜ぶことができますように。 Tue, 31 Dec 2024 00:10:00 +0000 主の怒りの中で立ち帰る(エレミヤ書 52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241231 no 2024 エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から投げ捨てられることになった。 (エレミヤ書52章3節) エレミヤ書の最後に記されるのは、ユダ王国がその罪のゆえに、主の怒りを受けて御前から投げ出されたという悲惨です。 ユダはバビロンに包囲され、食糧難で食べ物が不足し、とうとう都の一角が破られてしまいます。逃れた王はバビロン軍に追いつかれ、目の前で自分の息子たちをバビロンに虐殺され、自らも目をつぶされて、もはや王としての役割を果たせなくなります。エルサレムにある神殿をはじめとした建物もすべて火で焼かれ、民は敵国バビロンに捕らえ移されることになるのです。 聖書が記すのは、ユダもまた主なる神の怒りを受けて、国の滅びを経験させられたということです。これまで預言者エレミヤが繰り返し警告したことが、最後になって現実のものとなっていきます。 しかし、エレミヤ書の最後に記されるのは、すでに捕らえられていたユダの元王ヨヤキンにバビロンからの赦しが与えられ、彼がバビロン王の保護のもとでその生涯を過ごしたという話です。なぜ、このような好意が最後に記されるのでしょうか。 それはやはり、主の怒りからの回復の道を神が備えておられるからです。人がどのような悲惨に陥っても、立ち帰ることが許されているとは、何とすばらしいことでしょうか。 【祈り】 今年一年、私たちに与えられた導きを感謝いたします。 Mon, 30 Dec 2024 00:10:00 +0000 心から立ち帰り主を求める(エレミヤ書 51章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241230 no 2024 剣を逃れた者らよ。 行け、立ち止まるな。 遠くから主を思い起こし エルサレムを心に留めよ。 (エレミヤ書51章50節) 旧約聖書の時代に力を振るったバビロン帝国への主の裁きが、預言者エレミヤによって語られています。 そのために主はバビロンに対して諸王国を集め、それらを前にバビロンの勇士たちはもはや戦う力を失います(30節)。さらに、都が隅々まで占領されたとの知らせもバビロンの王にもたらされることになります(31節)。とても現実的に、預言者は、バビロンの終わりを預言するのです。 そこでこのとき、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民も、バビロンから逃れるようにと語られています(45節)。彼らが主の激しい怒りと裁きを逃れるためです。主なる神のご計画の中では、イスラエルがあるべきところは主の裁きのあるバビロンではありません。むしろ「遠くから主を思い起こし、エルサレムを心に留めよ」(50節)とあるように、主なる神を思い起こして、民が再びエルサレムに戻ることでした。 私たちにも、本来罪人が受けるべき主の怒りと裁きがあります。しかし、それぞれが置かれた状況の中で主なる神を思い起こし、この方を求めて生きるところに私たちの信仰があるのです。私たちには、たとえ罪に陥ることがあっても、立ち帰って、心から主に帰ることが許されています。 【祈り】 ただあなたのみに、私たちが心から立ち帰ることができますように。 Sun, 29 Dec 2024 00:10:00 +0000 神と人に仕え従順を学ぶ(ルカによる福音書 2章41-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241229 no 2024 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。 (ルカによる福音書2章51節) 過越祭の帰り道で、12歳の少年イエスがいないことに気づいたマリアとヨセフは、彼を探しながらエルサレムに引き返し、3日後に神殿の境内で学者たちの真ん中に座って学んでおられる彼の姿を見つけて驚きました。そして自分たちが心配をして捜していたことを訴えましたが、少年イエスは、わたしの方こそ驚きですと言わんばかりにこう言われました。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。この表現には「神の御旨による必然」を表す言葉が使われています。つまり主イエスは12歳にしてすでに「神の子・救い主」としての自己意識を明確に持っておられたということです。 しかし、この後、主イエスはナザレに帰られ、公に宣教をお始めになるまで約18年間、大工仕事をしながら両親に仕えてお暮しになりました。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22章26節)と言われた主イエスは、地上のご生涯の最初から最後まで、仕える者となられました。 人に仕えさせるのではなく、自らへりくだって仕える者となる。ここに悪魔の暗闇の支配を打ち砕く、神の国の秘訣があります。 【祈り】 主イエスよ、私たちもあなたに倣い、神と人に仕えることの素晴らしさを学ばせてください。 Sat, 28 Dec 2024 00:10:00 +0000 神のしてくださったことを物語ろう(詩編 66編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241228 no 2024 神を畏れる人は皆、聞くがよい わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。 (詩編66編16節) この詩編は礼拝を開始するときの、神からの招きの言葉として用いられて来ました。また、堂々とした詩編歌のメロディーで親しまれています。しかし、きょうは違った視点から理解してみたいのです。 この詩編は、冒頭から伝道的であり福音的です。旧約聖書の詩歌ですから、キリストのことが明確に述べられているわけではありませんが、全地を招き、神賛美に連なるように要請するそのスケールが並外れています。 詩の中途では、イスラエル民族が体験した苦難が金属精錬に喩えられています。バビロン捕囚だと考える人が多くいます。いずれにしても、神はその中から導き出し、この「わたし」という詩人を福音の使者とされます。 私たちは基本的には口下手で、どのように語ればよいのかわかりません。何を言いたいのか要領を得ず、どんどん話がずれていってしまうこともあります。なかなか証しができません。 しかし、詩人は「わたしに成し遂げてくださったこと」を物語ると言います。ただ自分に起こった神の御業を素直に、そのまま語ることです。それを聞こうとする人がいるなら、証しは成立します。 【祈り】 生ける神よ。このわたしが、あなたの成し遂げてくださったことを語る器であれますように。 Fri, 27 Dec 2024 00:10:00 +0000 心からの献身のしるしとして(レビ記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241227 no 2024 もし、主への献げ物として家畜を携える場合、主にささげるものはすべて、聖なるものとなる。 (レビ記27章9節) 2024年もあと4日となりました。1年間の神の恵みを覚え、その恵みに対する自分の献身のしるしについて考えたいと思います。 レビ記27章は、主への献げ物について教えています。年齢に応じて、男子の場合、女子の場合など、細かく定められています。貧しい場合は祭司に申し出るよう指示されます。献げ物は、神に対するその人の心を表すのであり、無理な献げ物が求められるのではないのです。また、そうして神に献げられたものは聖なるものであると教えられています。 一つの例として、わたしの母のことを思い出します。わたしが先に信仰者になり、母を教会へと導いたのですが、その母が礼拝献金のためにお札を新札に替えて聖書に挟んでいたのです。そうして母が献身を表そうとしていることに信仰の成長を感じて、感謝しました。それ以来、自分も献金をもっと心を込めてささげたいと思い、わたしも新札を聖書に挟んでおくようにしています。 神は決して私たちに無理なことを求める方ではありません。ただ、心から神を愛し、心からの献身のしるしとして、神にさまざまな賜物をささげることを喜んでくださいます。私たちの献身の思いがきょうも神に届けられますようにお祈りいたします。 【祈り】 私たちに多くの恵みを与えてくださる神様。私たちの心からの献身のしるしをお受けください。 Thu, 26 Dec 2024 00:10:00 +0000 瓦礫の中におられるキリスト(マタイによる福音書 2章1-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241226 no 2024 預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。 (マタイによる福音書2章23節) 主イエス・キリストの降誕。それはすべての人びとにとっての、喜びの知らせです。その降誕は暗闇の中でひっそりと実現しました。主イエスの生涯の始まりは暗闇と、その中にある罪の悲惨に囲まれていました。 占星術の学者たちにだまされたと知ったヘロデ王は、怒りに燃え、ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺させます(16節)。権力者が、自らの権力に対する脅威への不安と憎悪から、残忍な手を下す。ヘロデ王の幼児虐殺は、今も続く、人の罪の悲惨な現実を映し出します。 例年のこの季節、ベツレヘムは、多くの観光客で賑わいます。しかし、昨年の同じ頃、クリスマス行事は中止となりました。例年きらびやかに飾られるツリーの代わりに、瓦礫で作られたモニュメントの真ん中に、乳飲み子の人形が置かれました。 目を覆いたくなるような罪の現実。しかしマタイは、その悲惨の中に、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と、救いの御業を綴ります。救い主は、祝宴の席でもなく、罪の悲惨の真ん中に来られたのです。 権威も力も富も無い、乳飲み子の姿で、罪の悲惨に、神の独り子が降りて来られた。ここに、神の御心が、ここに、クリスマスの喜びがあります。 【祈り】 私たちの罪の悲惨に、独り子をお遣わしくださり、ありがとうございます。 Wed, 25 Dec 2024 00:10:00 +0000 暗闇を歩む人々を招く神の愛(ヨハネによる福音書 3章16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241225 no 2024 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」 (ヨハネによる福音書3章16節) 教会において、「クリスマスおめでとうございます」という特別な挨拶が、クリスマスの朝に交わされます。 聖書に記された、生まれたメシアの姿を目にした人びとは、それぞれに暗闇の中を歩んでいました。メシア誕生の知らせを最初に受けた羊飼いたち。御言葉に触れ、真理を求めて旅を続けてきた東方の占星術の学者たち。彼らは飼い葉桶に眠る乳飲み子という、天使の示したしるしのもとに招かれました。 主が遣わしたメシアとの出会いを約束されていたシメオン。神殿で昼も夜も奉仕し、礼拝をささげ続けていたアンナ。長らく神の民の慰めを祈り続けていた彼らに、メシアの降誕という喜びが示されました。 ヨハネは、真夜中に主イエスを訪ねたニコデモと主イエスの対話をとおして神の愛を示します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この喜びのメッセージに、私たちは招かれています。 世の歩みに疲れ、重荷を負うものを、主なる神は、福音に招かれます。特別な挨拶を交わし合う、喜びの交わりへと、私たちを招かれます。クリスマスの喜びがあなたに豊かにありますように 【祈り】 暗闇を歩む私たちに、あなたの喜びの光を与えてくださり、ありがとうございます。 Tue, 24 Dec 2024 00:10:00 +0000 闇夜に響く喜びのうたごえ(ルカによる福音書 2章14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241224 no 2024 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカによる福音書2章14節) クリスマスを題材にした曲は数多くありますが、ヘンデルの「メサイア」は、古くから親しまれている宗教曲の一つです。曲の中で、イザヤ書の御言葉を歌詞にしたものがあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある」(イザ9章5節)。救い主メシアがお生まれになるという、主なる神の希望の約束です。 福音書は、深い暗闇とそこに苦しむ人びとの姿を際立たせています。皇帝による住民登録の勅令によって、人びとが世界中を行き来していた頃、羊飼いたちは夜通し羊の群れの番をしていました(8節)。彼らは、誰にも関心を寄せられず、相手にされない、暗闇の中を歩んでいました。 突然現れた天使の栄光に、彼らは恐れます。しかし、主の天使は彼らに喜びの知らせを告げます。主の降誕が告知された直後、天の大軍が、賛美を歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。闇夜に響く喜びの歌声に促され、羊飼いたちは立ち上がります。天使の告げた「あなたがたへのしるし」を目にした彼らは喜び、賛美するものとして遣わされました。この賛美は、時代を超えて、私たちのもとに響いています。 【祈り】 主の降誕を賛美するものとして、私たちを遣わしてください。 Mon, 23 Dec 2024 00:10:00 +0000 暗闇の世に降りて来られた光(ヨハネによる福音書 1章4-5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241223 no 2024 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 (ヨハネによる福音書1章4節~5節) クリスマスを記念するこの季節は、一年でもっとも日が短くなる季節です。一日、また一日と暗闇の時間が長くなることを感じ、落ち込みや不安を覚えることも少なくありません。歴史の中で、クリスマスは、このような季節に祝われるようになりました。 ヨハネは、主イエス・キリストの福音を「初めに言があった」と書き始めます。創世記の語り始めを思い起こさせます。ロゴス讃歌とも呼ばれるこの御言葉は、主なる神が人間を造られ、命を与えられたことを伝えています。 ヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と語ります(4節)。「暗闇は光を理解しなかった」(5節)とあるとおり、歴史の中で神が言によって、御心を示してこられたにもかかわらず、光を理解しない、私たちの闇の現実を語ります。神の独り子の降誕は、人の罪がすべてを覆い、人びとが神の御心に目を上げることのできない時代の中で輝く、確かな光です。この輝く光こそ、神から与えられた一番のプレゼントです。 冬至の日を境に、暗闇は短くなり、光の時間が長くなります。神の御心が示された恵みの時代に、日々語られる神の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。 【祈り】 主イエスの降誕をとおして、あなたの御心をお示しくださり、感謝いたします。 Sun, 22 Dec 2024 00:10:00 +0000 御言葉の実現を信じる幸い(ルカによる福音書 1章39-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241222 no 2024 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 (ルカによる福音書1章45節) 聖霊に満たされたエリサベトは「あなたは女の中で祝福された方です」とマリアに言いました(42節)。なぜでしょう。それはもちろん救い主の母となる栄誉と関係がありますが、それだけではありません。エリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました。マリアは天使が語った言葉が神の言葉であり、神の言葉は必ず実現すると信じて「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました(37節)。ですから、彼女は祝福された幸いな女なのです。 これからマリアの身に起こることは、その身に危険が及ぶかもしれない出来事です。しかし、マリアは神の言葉を信じて受け入れました。それは「マリアの賛歌」にも表れています。「わたしの魂は主をあがめ」(46節)の「あがめる」と言う言葉は「大きくする」という意味の言葉です。つまり「わたしを小さくして神を大きくする」ということです。わたしが他人からどう思われようと、神のご計画が大きく実現することをマリアは喜びました。 きょうクリスマスのメッセージを聞いて信じて従う、小さな私たちからも、神の大きな救いの御業が動き始めます。「なんと幸いでしょう」。 【祈り】 主よ、傲慢な強い者ではなく、御言葉に聞き従う小さな弱い者を大きく用いてくださる幸いを感謝します。 Sat, 21 Dec 2024 00:10:00 +0000 お前はテーベにまさっているか(ナホム書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241221 no 2024 お前はテーベにまさっているか。 ナイルのほとりに座し、水に囲まれ 海を砦とし、水を城壁としていたあの町に。 (ナホム書3章8節) 1~3節には、アッシリアの首都ニネベが人の血を簡単に流してしまう流血の町であったことが書かれています。アッシリア軍は圧倒的な戦力に物を言わせ、敵を完膚なきまでに滅ぼし、その残忍性は悪魔的でした。4節からは、ニネベの町があでやかな遊女に譬えられています。ニネベが守護神や戦争の女神を拝み、そして征服した人びとにもそれらに仕えるよう誘惑したからです。 8節以降は、既にアッシリアによって滅ぼされたはずの上エジプトのテーベと、アッシリアが比較されています。「お前はテーベにまさっているか」という質問は、一見すると馬鹿げているように見えます。なぜなら、アッシリアがテーベを征服したからです。預言者は、アッシリア帝国とエジプト王国との相対的な力を比較して質問するのではありません。人間的な力は神の憤りの前には無に等しいということを告知しているのです。いくら強大な力であっても、神の憤りの前では、為す術もないということに気づかないのかということです。神の前に低くへりくだらないなら、ニネベもテーベと同様、神の憤りによって辱められるでしょう。 お前はテーベにまさっているか。この質問は、今日、私たちにも同じように語りかけられています。 【祈り】 私たちは罪を告白し、主に立ち帰ります。日々の営みの中で、ただ主の憐れみにのみ力づけられますように。 Fri, 20 Dec 2024 00:10:00 +0000 わたしはあなたの神、主である(レビ記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241220 no 2024 あなたたちは偶像を造ってはならない。…それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである。 (レビ記26章1節) 26章には、偶像礼拝に対する厳しい戒めと呪いが記されています。たいへん厳しく感じられますが、それほどに偶像礼拝は神が嫌っておられることなのです。 旧約聖書によると、神がイスラエルの民に厳しい裁きを行うところには必ずと言ってよいほど偶像礼拝がありました。それだけ人びとが陥りやすい誘惑が偶像礼拝で、神が最も警戒されていることだったのです。十戒においても、最初にこのことが取り上げられています。 なぜ、それほどに偶像礼拝がしりぞけられるのでしょうか。主なる神は、「わたしはあなたたちの神、主である」とおっしゃいます。それは、私たちが神の被造物であることを意味します。また、私たちが神のために生きる存在であることも意味します。そして最も大切なことは、神が私たちを愛しておられるということです。 神に背いて偶像を拝むことは、私たちが神のものであることを放棄することであり、また神の愛を拒むことでもあります。また、それは神が人をお造りになった創造の目的から大きく外れることでもあります。 きょうも神の創造の目的に沿って、神のご栄光を現す一日となりますよう祈ります。生活の中で神を神として歩んで参りましょう。 【祈り】 わたしの神であり、主であるあなただけを礼拝することができますようにお祈りいたします。 Thu, 19 Dec 2024 00:10:00 +0000 人間を贖われる方に力がある(エレミヤ書 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241219 no 2024 彼らを贖われる方は強い。 その御名は万軍の主。 主は必ず彼らの訴えを取り上げ バビロンの国を揺り動かし その住民を乱される。 (エレミヤ書50章34節) きょうの箇所からは、当時の強大な帝国バビロンへの主の裁きが語られています。バビロンに攻め込まれ捕囚とされたイスラエルにとって、このことはバビロンからの解放となります。 バビロンへの「主の復讐」が繰り返し語られる中で(15節、28節)、バビロンの神々が砕かれ、この帝国が跡形もなく滅ぼし尽くされることが預言されます。結局は、バビロンが主なる神に対して傲慢であり(29節)、主と争い(24節)、主に対して罪を犯したからです(14節)。 この世界でいったい何に真の力があるのかを思わされます。傲慢になり自らを誇る地上の国家に真の力があるのではありません。 きょうの聖書の箇所では、「彼らを贖われる方は強い」と言われています(34節)。地上の帝国であるバビロンは、イスラエルを滅ぼし捕らえて彼らを離そうとしません(33節)。しかし、万軍の主なる神は、イスラエルに赦しを与え(20節)、彼らを贖い、解放される方であることが明らかにされます。 神は、贖い主であられるキリストを通して、私たち罪人を神に向けて解放される方です。キリストによって赦しを与え、私たちをも罪から贖い出してくださいます。この神こそ、この世界で力があります。 【祈り】 この世界で真実に力のある神とキリストを覚えさせてください。 Wed, 18 Dec 2024 00:10:00 +0000 終わりの日の栄光に向けて生きる(エレミヤ書 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241218 no 2024 しかし、終わりの日に わたしはエラムの繁栄を回復すると 主は言われる。 (エレミヤ書49章39節) きょうの箇所には、アンモン、エドム、ダマスコ、ケダルとハツォル、エラム等、諸国・諸民族への主の裁きが語られています。 その裁きの背後にあるのは、ご自分に背く者に対する主の怒りです(37節)。主の怒りの杯を飲ませ、それゆえにその国は確実に罰せられ、廃墟となり、恐怖とののしりの的になる、と言われます(12、13節)。これらの諸国・諸民族はやがて他国から攻め込まれ、その結果、そこにいる人びとが散らされ(5節)、親族や隣人までもが失われます(10節)。都は力を失い(24節)、彼らの安らかさや穏やかさは跡形もありません(31節)。これらはすべて、人間による主なる神への背きの故です。私たちはこのような箇所を見ると、主の裁きの恐ろしさを覚えます。 しかし、一方でこのような裁きの中で、回復への道も語られているのです(6、39節)。ここで言われる回復とは、単なる地上的繁栄の回復ではありません。終わりの日に、一人一人が神と共にあることの回復です。神と共にあることこそ、私たち一人一人にとっての真の回復と言えるものです。今を生きる私たちもただ救い主キリストを通して、終わりの日に向けて神と共に生きる幸いが許されています。 【祈り】 きょうもキリストを通して、神と共にあることができますように。 Tue, 17 Dec 2024 00:10:00 +0000 人間の高ぶりの中で主にへりくだる(エレミヤ書 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241217 no 2024 我々は、モアブが傲慢に語るのを聞いた。 甚だしく高ぶり、誇り 傲慢に、驕り、慢心していた。 (エレミヤ書48章29節) モアブは、旧約聖書の中でイスラエルの古くからの隣国であり、同時にイスラエルと争いを繰り返してきた相手です。今日の箇所では、このモアブに対する主の裁きが語られています。主ご自身がモアブを砕くことが明らかにされるのです(38節)。 なぜでしょうか。モアブにはケモシュという守護神があり、そのような偶像を彼らは拝んでいました。さらにその中で、彼らはとても豊かで力を持ち、栄えていたようです。 しかし、彼らはそのような自分の業と富に頼ってしまったために(7節)、どこまでも自分自身を誇る歩みに陥ってしまいました。甚だしい高ぶり、誇り、傲慢、驕り、慢心、とあらゆる高ぶりがモアブに対して警告されています(29節)。結果的にモアブは、まことの神、主よりも、自分自身を偉大なものとしてしまったのです(42節)。高ぶりの罪は、私たちにとっても他人事ではありません。私たちも日々の些細なことを過度に喜んで、主に対して高ぶることがあるのではないでしょうか。 クリスマスに与えられた救い主は、限りなくへりくだられた方でした。それは私たち罪人をへりくだりに導くためです。そして、主を主として生きるためです。そこに、私たち罪人にとっての真の回復があります(47節)。 【祈り】 御子イエスを通して、私たちを御前にへりくだらせてください。 Mon, 16 Dec 2024 00:10:00 +0000 恐るべき主の裁きの中で(エレミヤ書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241216 no 2024 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。 ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。 主がペリシテ人を滅ぼされる カフトルの島の残りの者まで。 (エレミヤ書47章4節) ペリシテ人は、聖書の中でも古くから力を振るった民族ですが、このペリシテ人にも主の裁きが預言されます。彼らは主なる神以外の神々を拝んでいました。しかし、主なる神こそが、この世界で最も力ある方であることが示されています。 ペリシテの町が攻め込まれる中で、町には人びとの叫びと悲鳴の声が上がると言われます。また、あまりの恐ろしさに父親も気力を失い、子どもたちを顧みなくなる現実も語られるのです(3節)。 主は「ペリシテ人をすべて滅ぼす」と言われ、主の剣が静まることなく、ペリシテ人に向けられる様子が具体的に語られています。このような箇所を見るときに、私たちは主なる神への恐れを覚えずにはおれないのではないでしょうか。聖書が語る主なる神の裁きは恐るべきもので、私たち人間はその方の前に無力な者であることを思わされます。 私たち一人一人も、主の前に裁きに値する罪人です。しかし、主なる神は、クリスマスに愛する独り子イエス・キリストを地上に与えてくださり、この方が十字架上で罪人が受けるべき裁きをすべて引き受けてくださいました。だから私たちは、恐れと深い喜びをもって、この方のもとに逃れるほかはありません。 【祈り】 私たちの裁きをすべて引き受けられた十字架のキリストを与えてくださり、感謝いたします。 Sun, 15 Dec 2024 00:10:00 +0000 想像を絶する裁き主(ルカによる福音書 3章7-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241215 no 2024 「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 (ルカによる福音書3章17節) 民衆は、もしかしたらこの洗礼者ヨハネがメシアではないかと考えましたが、ヨハネははっきりと否定しました。そして「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」(16節)ほど、自分よりもはるかに優れた力あるお方としてキリストを指し示したのです。まずヨハネ自身は水で洗礼を授けましたが、聖霊と火で洗礼をお授けになるお方としてキリストを証ししました。聖霊は罪人の心を新しくし、火はきよめる力を表しています。「彼は精錬する者の火」のように、「金や銀のように彼らの汚れを除く」(マラ3章2、3節)のです。 さらにヨハネは、麦を集めて殻を火で焼き払う農夫のように、実を結ばない者を永遠の火で焼き滅ぼす「裁き主」としてのキリストを証ししました。そのようにして人びとに悔い改めを迫ったのです。 しかし、実際の主イエスは、ヨハネが思い描いていたような裁き主ではなく、ヨハネが想像していた以上に、人を救うためにこの世に来てくださった救い主でした。実を結ばない者たちを焼き尽くす前に、御自身を十字架の上で神の怒りの炎で焼き尽くすという仕方で、罪人に救いの道を開いてくださるお方だったのです。私たちはこの想像を絶する裁き主、救い主の到来に感謝しましょう。 【祈り】 主よ、私たちを裁き滅ぼすためではなく、赦し救うためにこの世に来てくださったことを感謝します。 Sat, 14 Dec 2024 00:10:00 +0000 見よわたしは立ち向かう(ナホム書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241214 no 2024 破壊と荒廃と滅亡が臨み 心は挫け、膝は震え すべての人の腰はわななき すべての人の顔はおののきを示した。 (ナホム書2章11節) 誇り高い獅子として恐れられていたアッシリアのニネベに、バビロンが襲いかかってきます。アッシリア軍は「砦を守り、道を見張れ。腰の帯を締め、力を尽くせ」と自らを鼓舞しますが(2節)、いくらあがいても無駄に終わるでしょう。 9、10節では、ニネベの民と軍勢が「豊かな池の水」に譬えられています。その都には、池に集まる水のように、多くの民と軍勢が集まって来ました。しかし、バビロンが襲ってきた日、城壁は破られ、水が流れ出すように人びとは逃げてしまい、「止まれ、止まれ」と命じてもバビロン軍に対抗するために振り返る人は誰一人いません。このとき、アッシリアの人びとが感じたおののきと恐怖が、11節に書かれています。いったい誰が、世界帝国アッシリアが滅亡する日を予想できたでしょうか。 14節の「見よ、わたしはお前に立ち向かう」という言葉は、バビロンがアッシリアに立ち向かっているのではなく、実は、主ご自身がアッシリアに立ち向かっていることを示しています。このように主に敵対する者に対する審判は、ある日、盗人のように、突然やって来ます。ニネベの陥落は、アッシリアに対する審判であると同時に、主がイスラエルの誇りを回復される出来事でもあったのです。 【祈り】 その日は、あなたを信じ、あなたに依り頼む者たちにとって、回復の日であることを感謝します。 Fri, 13 Dec 2024 00:10:00 +0000 主のために与えられた安息(レビ記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241213 no 2024 あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 (レビ記25章2節) 25章には、安息の年とヨベルの年について記されています。神から与えられた土地を6年間耕して、7年目は安息を与えること、そして安息の年を7回終えた翌年、つまり50年目はヨベルの年として特別な解放を与えることです。 安息の年は土地も安息しますが、耕さないで自然に出た穀物はすべての働き人やその家族、また家畜、野生の動物までも自由に食べることができます。50年目のヨベルの年は、全住民に解放が宣言され、奴隷は放たれ、借金を負っている人は帳消しされ、買い取った土地も元の持ち主に返されます。まさに、ヨベルの年は、すべての抑圧から自由が取り戻される解放の年でした。 これは、イスラエルの人びとにとって真の恵みの年と言っても言い過ぎではありません。聖書は、これを「主のための安息」と言っています(2、4節)。土地や動物、人のために制定されたこの安息は、真実には主なる神のため、神の栄光のためなのです。すなわち、神は被造物の主であり、御自分の被造物が安息を得て、元気を回復して生きることを喜んでおられます。だからこそ安息は主のためなのです。 安息が神の栄光のために与えられていることに感謝して歩むことができますように。 【祈り】 神の栄光のために安息を与えてくださった神様、心から感謝いたします。 Thu, 12 Dec 2024 00:10:00 +0000 苦難の中での主の救済の計画(エレミヤ書 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241212 no 2024 見よ、わたしはお前を遠い地から お前の子孫を捕囚の地から救い出す。 ヤコブは帰って来て、安らかに住む。 (エレミヤ書46章27節) 当時の大国であったエジプトへの主の裁きが預言されています。エジプトは、かつてイスラエルが依り頼もうとした国です(2章18節)。しかし、地上の国家は、いかにそれが力ある国家であっても、依り頼む対象ではありません。ここでは、主ご自身が敵として、エジプトに報復されることが言われるのです(10節、15節)。その結果、エジプトは別の大国であるバビロンに倒されることが預言されます。当時のイスラエルは、エジプトを始め大国に囲まれながらの歩みでした。その中で、主なる神への信仰も大いに試され、揺れ動くこともあったでしょう。 しかし、倒されたエジプトにやがて人が住むようになることにまさって(26節)、イスラエルの子孫もやがて捕囚の地から救い出され、安らかに住むことになります(27節)。世界はすべて、ただ主の御手とご計画の中にあります。今も揺れ動く世界の中で、私たちが唯一依り頼むことができるのは、ただイエス・キリストを与えた主なる神のみです。 ここでイスラエルには苦難からの救済が語られていますが、私たちに与えられる導きも、苦難から栄光に至る歩みと言えます。それぞれに与えられた困難の中で、そこでなお明らかにされる主の救いのご計画をきょうも心に留めたいと思います。 【祈り】 あなたが世に与えてくださったキリストの救いを覚えさせてください。 Wed, 11 Dec 2024 00:10:00 +0000 神の御前にひざまずく命の喜び(エレミヤ書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241211 no 2024 「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」 (エレミヤ書45章5節) エレミヤの言葉が残されるために大きな役割を果たしたのがバルクでした。彼はエレミヤの言葉を書き記します。それはエレミヤと共に神の言葉に生きることでもありました。 バルクの口からは、かつてのエレミヤが嘆いた言葉が出て来ます。「ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない」(3節)。 エレミヤと同じように、バルクに苦しみと悲しみをもたらしたものには、多くのことが考えられます。しかしその苦しみの根元には、神ではなく自分に捕らわれていることがありました。神はそのバルクにエレミヤの口を通して、自分に何か大きなことを期待してはならないと言われます。もしかしたら彼は自分あるいは自分のつくり上げた理想の神が民を救うと思っていたのかもしれません。 しかし、神がなそうとする災いは起こります。「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」と、主はバルクに語られます。 私たちは、時に災いと呼ばれる出来事を通して神の大きさを知らされます。それは自分や自分がつくり出す神のイメージを打ち砕くためでもあります。私たちは神の御前にひざまずきます。そこでこそ神が与える命に私たちは満たされるのです。 【祈り】 主よ、御名があがめられますように。あなたが与えてくださった命をあなたのために用いてください。 Tue, 10 Dec 2024 00:10:00 +0000 本当の言葉が残される(エレミヤ書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241210 no 2024 「そのときエジプトへ移って寄留したユダの残留者はすべて、わたしの言葉か、彼らの言葉か、どちらが本当であったかを悟るであろう。」 (エレミヤ書44章28節) エレミヤは、バビロンの報復を恐れてエジプトに逃亡してきた民に神の言葉を伝えます。それは懲りずに偶像礼拝を繰り返す多くの者は滅ぼされ、少数の者しかユダの地に帰れない、という言葉でした。 しかし、その言葉に対して異教の礼拝がすでに生活の中心になっていた人びとから反論が起こります。昔から天の女王に礼拝をささげてきたからこそ豊かな暮らしをすることができたのだ、むしろその礼拝をやめてしまったから、滅亡の状態に陥ってしまったのだ、と。 その言葉を受けて今度はエレミヤが反論します。その偶像礼拝によって災いが臨んだのだ。そしてその災いはまた起こる。そのとき神の言葉か、あなたがたの言葉か、どちらが本当であったかを悟るであろう。そのようにエレミヤは言葉を重ねます。 ここには両者の歴史観、世界観の違いが明確に現れています。多くの者は生活の豊かさを追い求めて天の女王を礼拝しました。エレミヤを通して語られた神の言葉は、彼の生涯を通じてほとんど聞かれることはありませんでした。しかし、エレミヤの言葉は残されます。何度も彼が語りかけたように、神は人に滅びではなく命への道を開き続けておられるからです。 【祈り】 主よ、御言葉を残してくださりありがとうございます。あなたの言葉によって命を得させてください。 Mon, 09 Dec 2024 00:10:00 +0000 高慢さを打ち砕く神の力(エレミヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241209 no 2024 「エジプトの太陽の神殿のオベリスクを破壊し、エジプトの神々の神殿を火で焼き払う。」 (エレミヤ書43章13節) 確固とした答えがすでに自分の中にある人にとって、外からの言葉は、その答えを固めるだけになります。 エレミヤから、この国にとどまるようにとの神の言葉を受け取ったヨハナンや高慢な人びとは、「偽りだ」と答えます。なぜなら彼らの心の中にはすでにエジプト行きが決まっていたからです。高慢は頑なになることです。自らが納得できる言葉を真理として、それ以外は偽りとしていきます。言葉は言葉だけにとどまりません。言葉はその人にとってもう一つの現実あるいは虚構を生み出していきます。 歪められた現実の中で、高慢な人びとはエレミヤと共にいるバルクを攻撃し始めます。彼らは、バルクがあなたを唆しているのだとエレミヤに告げます。こうした偏見は自らの内に敵を作り、恐れを増やします。この人びとの渦の中で、エレミヤもバルクも民と共にエジプトへ向かいます。 エレミヤはエジプトでもあくまで神の言葉を語り続けます。それはバビロンの王によってエジプトが破壊される預言でした。人の悲惨な状態と神々の神殿の破壊とを語る言葉に、私たちは人の高慢さを打ち砕く神の力を見ます。この神の御前に立つとき、初めて私たちは誠実に自らを問い、新しい答えを求め始めます。 【祈り】 主なる神よ、わたしの高慢さを打ち砕いてください。あなたの御前に正しく問う力を与えてください。 Sun, 08 Dec 2024 00:10:00 +0000 荒れ野で叫ぶ者の声がする(ルカによる福音書 3章1-6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241208 no 2024 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 (ルカによる福音書3章3節) 洗礼者ヨハネには来たるべきメシアのために道を備えるという特別な使命が与えられていました。それは具体的には、メシアが来られる前に整えられた民を用意するということでした。そんなヨハネが、メシアの到来に先立って人びとに語ったこと。それはひと言で言えば「悔い改めよ」ということでした。そしてイザヤ書40章の御言葉が引用され、この御言葉は洗礼者ヨハネによって成就したと、著者のルカは語っているのです。このヨハネのメッセージこそ、イザヤの預言した「荒れ野で叫ぶ者の声」なのです。 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言うイザヤ書40章の御言葉は、直接的には王が行進する際の道路整備を命ずる言葉です。それは山や丘は削られ、谷は埋められ、凸凹はすべて平らにされるという徹底的な道備えです。すなわち、メシア到来に備えて命じられる悔い改めは中途半端なものではなく、自己中心から神中心に方向転換する、徹底的な悔い改めが求められています。 主イエスのご降誕を祝うクリスマスを待ち望む私たちも、今一度このことを覚えたいのです。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)からです。 【祈り】 主よ、私たちの心を打ち砕いてください。そして真実に罪を悔い改める心を与えてください。 Sat, 07 Dec 2024 00:10:00 +0000 主は熱情の神誠実なお方(ナホム書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241207 no 2024 主は熱情の神、報復を行われる方。 主は報復し、激しく怒られる。 主は敵に報復し 仇に向かって怒りを抱かれる。 (ナホム書1章2節) ナホム書は、アッシリア帝国の首都ニネベが間もなく滅亡するという預言です。アッシリアの民は野蛮で残虐非道でした。そのため、周辺諸国から非常に恐れられていました。既に北イスラエルもアッシリアによって滅ぼされ、イスラエルの十部族は歴史からその姿を消していました。 主が、アッシリアの首都ニネベを報復される理由として、2節冒頭の「主は熱情の神」という言葉が挙げられます。この言葉は旧約聖書に何度も出てくる言葉で、神ご自身の契約に対する誠実さを表しています。つまり、神がアッシリアに報復される理由とは、神と契約関係にあるご自身の民を贖うためです。 従って、ナホム書の預言とは一次的にはアッシリアに対する警告でありますが、同時に、当時のアッシリアが悪の象徴として描かれていて、罪と悪を決して罰せずにはおられない、神の正義が語られているのです。 やがて来る日に、主の長い忍耐が終わり、主イエスを信じない罪を裁くため、主イエスが再臨します。その日は、恐ろしい審判の日でありますが、主に依り頼む者たちとっては、神の贖いが完成する希望の日です。この約束を必ず成就される熱情の神に、私たちは身を寄せて、信仰の営みを重ねていきましょう。 【祈り】 恵みの時である今この時に、主イエス・キリストの福音を世に大胆に語る者とさせてください。 Fri, 06 Dec 2024 00:10:00 +0000 尊い存在であるまことの神(レビ記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241206 no 2024 あなたはイスラエルの人々に告げなさい。 神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。 (レビ記24章15節) あなたにとって神はどのような存在ですか。同じキリスト者でも、その信仰の背景によって、神のイメージには違いがあるでしょう。優しいイメージや厳しいイメージ、あるいは親しい友のようなイメージの場合もあるでしょう。一つ確かに言えることは、神は自分にとってとても大切で尊い存在であることです。 レビ記24章は、その尊い存在としての神を描きます。臨在の幕屋を明るく照らす光のために純粋な油を用いること、神にささげるパンのために最上の小麦粉を用いること、そして、神を冒涜する者に厳しい裁きを与えることが記されています。 神の民である私たちキリスト者にとって、神はもっとも大切な存在であり、尊い存在です。ですから、神を第一とし、神を最優先とする者でありたいと願います。 人を殺したり傷つけたりした者を処罰することも命じられています。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19章18節)とあるように、神を愛することと人を愛することは一つです。神を真に畏れる者は人を尊ぶ者とされるのです。 尊い存在である神の栄光のために、きょうも心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして生きる一日になるように、祈り求めて参りましょう。 【祈り】 私たちがこの世のどんなことよりも、まことの神を大切にして生きることができますように。 Thu, 05 Dec 2024 00:10:00 +0000 主に従う心を祈り願う(エレミヤ書 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241205 no 2024 「我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」 (エレミヤ書42章6節) 私たちは神の御心を求めているようでいて、自らの心を優先することがしばしばあります。とくにそれが余裕のない状況であればこそ、ますますその傾向は強くなります。 きょうのヨハナンをはじめとする軍の長や民は、ちょうどそのような心に余裕のない状態でエレミヤのもとにやってきました。彼らは、バビロンの王が任命した総督をイシュマエルが暗殺したために、その報復を恐れていました。そのような中で、この国にとどまるべきか、それともエジプトへ逃れるべきか、神に歩むべき道を示していただきたい、とエレミヤに願います。 エレミヤはその願いを聞き入れ、主に祈ります。そして十日後、主の言葉がエレミヤに臨みました。それは、この国にとどまるならばあなたたちを倒しはしない、もしエジプトへ行くなら災いがふりかかる、というものでした。 民ははじめ、「良くても悪くても…主の御声に聞き従います」と言いました。しかし、結局彼らはエジプトへの逃亡を既に決断していたのでした。神はそのこともご存じでした。 どんなに言葉を飾っても神によらなければ、私たちはその御心に聞き従うことはできません。主に新しい心をつくっていただきましょう。 【祈り】 光の中の光である主よ、どうかこの心を照らしてください。あなたの御心をわたしの心としてください。 Wed, 04 Dec 2024 00:10:00 +0000 悪と解放の狭間で神に祈る(エレミヤ書 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241204 no 2024 イシュマエルに捕らえられていた人々は皆、カレアの子ヨハナンと軍の長たちの姿を見て歓喜した。 (エレミヤ書41章13節) ユダに残された民の総督であったゲダルヤは、アンモンの王が送り込んだイシュマエルによって暗殺されます。それは周辺諸国の避難先からも民がユダに戻り、少しずつ生活が落ち着き始めたときでした。 イシュマエルはゲダルヤ一人の暗殺に留まらず、彼と共にいたユダの人びとや駐留軍のカルデア人をも手にかけます。磁石が引き寄せた砂鉄を放さないように、悪はその人を支配して放しません。翌日にはサマリアなどからやって来た巡礼者のほとんどの人をもイシュマエルは殺してしまいます。暗殺の隠蔽のためか、単に略奪のためか、その理由はよくわかりません。もしかしたら悪にとりつかれた本人すらもその理由はわからなかったかもしれません。それほど悪や罪は、その人を捕らえて動かす力があります。しかし、動き出した悪も止まる日は来ます。 ヨハナンをはじめとする軍の長たちは、この悪事を聞きつけてイシュマエルを追い、彼が捕虜として連行した人びとを解放します。そして、イシュマエルはその家来と共にアンモンに逃げ帰って行きました。 悪とそれからの解放は、しばしば私たちの予想を超えてやってきます。その狭間のような日常の中でも、祈りをもって目覚めていましょう。 【祈り】 主なる神よ、罪と誘惑からお守りください。今、罪と悪に捕らわれている人を解放してください。 Tue, 03 Dec 2024 00:10:00 +0000 与えられた自由を用いるところ(エレミヤ書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241203 no 2024 「さあ、今日わたしはあなたの手の鎖を解く。」 (エレミヤ書40章4節) エレミヤの生涯をつうじて、彼を生かし続けたのは、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」(1章8節)という神の言葉でした。彼が神に嘆くときも、捕らわれてバビロンに向かう今も、それは変わりませんでした。 神が共にいてくださることのしるしは、たとえばきょうの場面で、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンがエレミヤに語りかける言葉にも見ることができます。「さあ、今日わたしはあなたの手の鎖を解く。もし、あなたがわたしと共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。あなたの面倒を見よう」と彼はエレミヤに語りかけます。そしてエレミヤの自由を約束して重ねて言います。「あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい」(4節)。 ネブザルアダンは、バビロンの王からエレミヤを「よく世話をするように」と命じられていました(39章12節)。しかし、エレミヤの解放の直接の理由は書かれていません。エレミヤにとっては突然の出来事だったでしょう。 エレミヤは、この与えられた自由を国に残った貧しい人びとと共にとどまることに使います。誰もいない、何もない、という貧しい者と共に歩む救い主を彼は知っていたからです。その主を待ち望むのです。 【祈り】 いつも共にいてくださる主よ、あなたの救いを必要としている方にわたしをお用いください。 Mon, 02 Dec 2024 00:10:00 +0000 神に滅ぼされたエルサレム(エレミヤ書 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241202 no 2024 カルデア人は、王宮と民家に火を放って焼き払い、エルサレムの城壁を取り壊した。 (エレミヤ書39章8節) およそ1年半にわたる包囲の後、エルサレムの城壁の一角が破られて、バビロニア軍による都の蹂躙が始まりました。ゼデキヤ王は夜中に従者たちを連れて死海方面のエリコに下って逃れようとしましたが、ついに逮捕されてバビロンの王の前に引き出されました。王に対する裁きは厳しく、目の前で息子たちを殺された上、両目をつぶされて、奴隷のような扱いでバビロンに連行されました。都は王宮も民家も焼き払われて、都を守る堅固な城壁も破壊されてしまいました。古代における最初のホロコーストがこうして実現した、とユダヤ教の歴史では説明されます。 エレミヤはこの壮絶な敗戦の目撃者でした。彼はバビロニアからは厚遇されて、王の監視下からついに解放されて家に戻ることができました。エレミヤを救助したエチオピア人エベド・メレクもまた主を信じて生きながらえることができました。 神が選んだ都エルサレムはこうして歴史の中で滅び去ります。神の恵みを忘れておごり高ぶった結果でした。その痛恨の思いを忘れずに歴史を書き留めようとしたのが聖書でしょう。罪深い人間とそれでも人間を愛してやまない神との間の歴史が今日の私たちにも語りかけます。 【祈り】 主よ、悔い改めるのに遅い私たちに聖霊の清めと歴史に目を注ぐ判断力とをお与えください。 Sun, 01 Dec 2024 00:10:00 +0000 主イエスをお迎えする備えとして(ルカによる福音書 21章25-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241201 no 2024 「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 (ルカによる福音書21章36節) 世の終わりのときに、主イエスは栄光に満ちた審判者として到来されます。その日は、主イエスをお迎えする準備ができていない人にとっては嘆きの日となり、できている人にとっては大いなる喜びの日となります。私たちは、大いに喜んでその日を迎えることができるように、常に備えることが大切です。 主イエスをお迎えする準備の基本は祈ることです。しかも「目を覚まして」祈ることが求められています。目を覚ますとは、この世の誘惑に惑わされないことであり、何よりも御言葉によって霊の目を開かれて歩むことでしょう。御言葉の光の中で自分を見つめるときに、自分自身の罪深さが見えてきます。そこに真実な悔い改めと罪の赦しを求める祈りが生まれます。また、御言葉の光の中で世界を見つめるときに、悪魔の暗闇の支配がうごめく様と、その中にあってなお進展しつつある神のご計画が見えてきます。そこに「神の国を求める祈り」と、「霊の闘いの祈り」が生まれます。そして、何よりも「隣人の救いのための祈り」が生まれます。 主イエスのご降誕を祝う喜びのクリスマスに備える私たちは、そのように目を覚まして祈りたいと思います。自分のために、世界のために、そして愛する隣人方の救いのために。 【祈り】 主イエスよ、来てください。罪深いわたしをお赦しください。この世界と世の人びとをお救いください。 Sat, 30 Nov 2024 00:10:00 +0000 喜び満ちるその日を待ち望んで(ゼファニヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241130 no 2024 そのとき、わたしはお前のうちから 勝ち誇る兵士を追い払う。 お前は、再びわが聖なる山で 驕り高ぶることはない。 (ゼファニヤ書3章11節) ゼファニヤ書は繰り返し、「その日」すなわち「主の日」の到来を語ります。そして「主の日」とは、裁きの日でありつつ、同時に救いの日、悔い改めの日であり、同時に神に立ち帰る回心の日です。 主なる神への背きと罪の元凶として、ゼファニヤは傲慢さを指摘してきました。しかし、その日、その時が来たなら、私たちの内に根強く巣食う神への驕り高ぶりを、神自らが、私たちの内から追い払ってくださると約束されています。 ですから、主の日は、その日が今この私たちに訪れないようにと、恐れと共に願わなければならない、来て欲しくない日なのではありません。反対にその日は、私たちの罪が滅ぼされ、私たちが内側から傲慢さを除き去られた聖なる者へと神によって新しく造り変えられる、救いの日、希望と待望の日なのです。 その時に与えられる、溢れるような喜びが、3章の終わりに豊かに語られています。具体的にはその祝福は、神によって集められる「残りの者」たちによって担われます。そして、この約束のとおり、主の日の希望は、主イエス・キリストの福音のもとに集められた教会を通して、私たちに届いているのです。 【祈り】 主の日を待ち望み、その日がこの一日を通しても、また一歩近づいていることに希望を置いて、きょうを歩むことができますように。 Fri, 29 Nov 2024 00:10:00 +0000 きょうの日を心に留めて生きる(レビ記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241129 no 2024 6日の間仕事をする。7日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。 (レビ記23章3節) 23章は、祝祭日に心を留めて、それがどのようなことを記念する日で、どのように過ごすべきなのかをイスラエルの民に教えています。 ここには全部で七つの祝祭日のことが記されています。そのほとんどのところで、「いかなる仕事もしてはならない」ということが共通しています(3、7、21、25、28、35節)。 その言葉どおり、祝祭日は休日ですが、だからといって何もしないということではありません。その祝祭日が制定された理由を知り、それを記念して神に祭儀を行うことが示されています。それこそ、イスラエルの民に与えられた祝祭日なのです。 今の我々にとっては、毎週回ってくる主の日、キリストの復活を祝うイースター、聖霊が降ったことを記念するペンテコステ、イエスの誕生を記念するクリスマスなど、キリスト者としての祝祭日があります。これらの日を覚えて、神がなさってくださった御業を覚えて生きることの大切さが教えられています。 それと共に、神の恵みによって毎日生かされていることを考えると、きょうという日も記念すべき日であり、神の恵みを覚える日であると言えるでしょう。ですから、きょうの日の恵みに心を留めて、神に感謝して一日を過ごしましょう。 【祈り】 きょうという一日を与えてくださった神様の恵みに感謝します。 Thu, 28 Nov 2024 00:10:00 +0000 降伏すれば生き残ることができる(エレミヤ書 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241128 no 2024 「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。」 (エレミヤ書38章9節) 王の取り巻きである官僚たちは、エレミヤが民衆に向かってバビロニアへの投降を呼びかけているのを聞いて、エレミヤを殺そうと考えました。エレミヤは泥のたまった水溜めに放り込まれて放置されます。しかし、エレミヤを気遣うクシュ人エベド・メレクの進言によってエレミヤは何とか危機を脱しました。 国の滅びは避けられないが、自分から投降するなら命は助かるとの進言は、バビロニアびいきの政治的な提案ではなく、主なる神の言葉でした。しかし、民衆を恐れ、プライドを捨てることのできない王は、決断できないまま、国が滅びる様を手をこまねいて見るほかありませんでした。 4節で、役人たちは王に進言してエレミヤを処刑しようとしました。戦争中に民衆の士気を挫いてはならないとの誤った意識に囚われてのことでしょう。しかし、国民のために平和を願わず災いを望んだのがどちらであったかは、結果をみれば明らかです。敗北を恥として徹底抗戦に出た結果、驚くほどの被害を被って国を失う結果となったのです。 こうした無謀な歴史を繰り返す、今日の私たちの国も世界もあると思わざるを得ません。 【祈り】 憐れみ深い天の御神、自分の立場や特権にしがみついて罪の裁きを恐れない罪深い私たちが、真に生き延びる術を聖書から学べますように。 Wed, 27 Nov 2024 00:10:00 +0000 預言者エレミヤの受難(エレミヤ書 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241127 no 2024 エレミヤは丸天井のある地下牢に入れられ、長期間そこに留めて置かれた。 (エレミヤ書37章16節) 主イエスが地上を歩まれたとき「エレミヤの再来」と言われたように(マタ16章14節)、旧約の預言者たちは、王よりも権威ある主に仕えて語ったために度々権力者から迫害を受けることになりました。それを恐れて、王にも民衆にも都合がいい言葉だけを語った職業預言者たちもありました。神が遣わした本当の預言者は、権力を恐れず、主の裁きを堂々と告げました。エレミヤは国家の破滅を語ったために反逆者とみなされて、ついに地下牢に閉じ込められてしまいます。21節によれば「都にパンがなくなるまで」、つまり、いよいよ国が滅びるというときまで投獄されたままであったとのことです。 大きな態度を取りながら実は神の裁きを恐れていたゼデキヤは、ひそかにエレミヤを連れ出して本当のことを聞き出そうとしました。エレミヤはそれでひるむことなくバビロンによる敗戦を告げ、神の預言者である自分に対する不当な仕打ちに釈明を求めました。ゼデキヤはエレミヤを解放することなく、その預言のとおりエルサレムの壊滅後、捕囚に連行されて悲惨な晩年をとげます。 人を恐れずに神の真実を語る預言者の務めは、主イエスの道をたどって今日の教会にまで受け継がれています。 【祈り】 聖書の言葉により真理をお語りになる御神、私たちも聖書を大切に世界に伝えることができますように。 Tue, 26 Nov 2024 00:10:00 +0000 預言者の真実な言葉を伝える仕事(エレミヤ書 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241126 no 2024 「この災いは、すべて既に繰り返し告げたものであるが、彼らは聞こうとはしなかった。」 (エレミヤ書36章31節) 預言者には忠実な弟子たちがいて、先生が聞いた主の言葉を余さず書物に書き留めたことが、きょうの箇所からわかります。エレミヤにはバルクがいて、彼は師匠の言葉を巻物に書き取る奉仕をしていました。ここは聖書の成立を考える上でも重要な個所で、特に32節では書記のバルクが「同じような言葉を数多く加えた」とありますから、単に口述筆記をしただけでなく、師匠の言葉に手を加えて編集作業をしたことも伺えます。そのようにして預言者の言葉は民の内に蓄えられて後代に伝えられていったのです。 さて、そうして書き留められたエレミヤの言葉は民衆にも公に語られたのですが、王であったヨヤキムは恐れもせずにその巻物を暖炉の火にくべて燃やしてしまいました。こうして、預言者が主の言葉を伝えても悔い改めようとしなかったエルサレムの王宮の不信仰によって、国は滅びへと向かったことが伝えられます。 エレミヤの言葉は、再度、書記のバルクによって書き取られ、失われることなく保存され、後の時代にはそれが真正な主の言葉であることが認められて、聖書に組み込まれることになりました。 【祈り】 聖書の言葉によって真理をお語りになる御神、私たちも聖書を大切に世界に広く伝えることができますように。 Mon, 25 Nov 2024 00:10:00 +0000 神に対する真実な信仰の姿勢(エレミヤ書 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241125 no 2024 「おのおの悪の道を離れて立ち帰り、行いを正せ。…そうすれば、わたしがお前たちと父祖に与えた国土にとどまることができる。」 (エレミヤ書35章15節) これも時は少し遡ってヨヤキムが王であった頃、レカブ人一族の真実な信仰が明らかになったことがありました。レカブ人とは先祖の教えを守って「ぶどう酒を飲まず、住む家を建てず、ぶどう園、畑、種を所有せず、天幕に住んで」いた部族でした(8~10節)。律法にそう規定されているわけではありませんが、その忠実な信仰の姿勢が評価されて、エレミヤには「彼らにぶどう酒を飲ませなさい」との命令が主から下りました。預言者が身をもって神の言葉を体現するという御言葉の告知の仕方です。 レカブ人は普段は荒れ野で生活していたようですが、戦争の最中、エルサレムの都に避難してきていたのでしょう。そこへ主の言葉が臨んで、エレミヤは彼らを主の神殿に招き、言葉の通りに酒を勧めるのですが、案の定レカブ人はそれを拒んで先祖の教えを守ると主張しました。 すると主の言葉が再びエレミヤに臨んで、そうしたレカブ人に比べて、ユダとエルサレムの住民の主に対する忠誠心がいかにいい加減なものであるかが問われたのでした。 レカブ人のように原理主義的に先祖伝来の伝統を守ることが信仰ではありませんが、語られた神の言葉にどう真実に向き合うかはいつでも信仰の課題として問われます。 【祈り】 真理である御神、あなたが私たちに誠実であるのと同じように、私たちにも誠実な信仰をお与えください。 Sun, 24 Nov 2024 00:10:00 +0000 明け方の時刻深い闇の中で待ち望む輝き(ヨハネによる福音書 18章28-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241124 no 2024 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」 (ヨハネによる福音書18章37節) 次主日から今年のアドヴェントに入ります。この季節は夜の時間が長く、暗闇が濃くなります。ならば、一日のなかでのアドヴェントは「明け方」(28節)ということになるでしょうか。「明け方」は太陽の光が大地を照らす直前、闇が最も深くなる時刻です。その「明け方」に、主イエスは暴力を受け、縛られ、弟子たちに否まれ、総督ピラトの前に罪人として引き出されることになりました。 私たちもまた生涯のどこかの局面で味わう、その深い闇のなかに、主イエスは身を置いてくださいました。 ピラトは主に問います。「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)。目の前に立つ男をユダヤの大祭司はなぜ、ひどく恐れるのか、どのような罪で訴えているのか、ピラトには分からないことだらけです。彼には真理も真実も見えない。ピラトもまた「明け方」のなかに身を置いています。まことの光が目の前で輝いているのに。 イエスは何者であられるのか。どういう意味で王であられるのか。「明け方」の問いを私たちも重ねてゆくでしょう。しかし、その答えはもう私たちの手の中にあります。そのご生涯において、十字架において、週の初めの日の朝早くにおいて、主は私たちの罪に、人間に勝利された! 「明け方」に、しかし、既に輝いている光があります。人間を救う光が。 【祈り】 主よ、来てください。既に来てくださったことに感謝し、待っています。 Sat, 23 Nov 2024 00:10:00 +0000 勝利の主へのへこたれない力強い行進(ゼファニヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241123 no 2024 主を求めよ。 主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた この地のすべての人々よ 恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。 (ゼファニヤ書2章3節) 3節の「苦しみに耐えてきた」と訳されている言葉の元の意味は、「へりくだる」という意味です。「求めよ」という命令形の強い呼びかけが、へりくだる人びとに対して三度もなされています。 そしてこの2章では、裁きにあい、滅びる民たちは、彼らの傲慢のゆえにそうなるのだと語られています。これは、傲慢な者とは主を神と仰がずに、主に求めない者たちであるのだという事実を指し示しています。 繰り返されている「苦しみに耐える」という言葉から、わたしはコロナウイルス禍を回想します。それは目に見えない小さなウイルスに人類が翻弄され打ち倒されたという大きな挫折の経験でした。あの挫折を経験する前の私たちは、ひどく傲慢であったのではないかと反省しています。しかしながら、その苦しみを経た今、喉元すぎれば熱さを忘れるようにして、恵みの業と、苦しみに耐える力を主に求めない傲慢に再び戻ってしまうのならば、また次の懲らしめを招いてしまうでしょう。 へりくだるとは、単に控え目や謙虚を尊ぶことではなく、何度も何事においても主を求めるという、へこたれない強固な信頼と期待と、確かな信仰をもって、勝利の主へと力強く行進することにほかなりません。 【祈り】 主の前にはへりくだり、へりくだりながらも大胆に求め祈り、苦しみの前には忍耐強く立てますように。 Fri, 22 Nov 2024 00:10:00 +0000 献げ物とその取扱いに表れる忠実さ(レビ記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241122 no 2024 わたしはイスラエルの人々のうちにあって聖別されたものである。わたしはあなたたちを聖別する主である。…わたしは主である。 (レビ記22章32節~33節) 22章では、祭司が汚れを退け、聖なる条件を満たした祭司自身が、聖なる条件を満たしたいけにえを献げること、そして、献げた物を共に食する者にも求められる聖さが述べられます。現在の献げ物の基準とはかけ離れているように見えます。けれども、たとえば主の聖餐を考えてみれば、本質的な神への従順な姿勢が司式者・陪餐者の双方全員に求められていることに、通じるのではないでしょうか。ですから、「あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさい」(31節)と、祭司だけでなくイスラエルの民にも求められるのです。 そして、この章だけでも六度も「わたしは主である」と繰り返されます。 主イエスも、十字架に向かわれるときに主を否んだ弟子に、復活の後に現れて、「わたしを愛しているか」と三度たずねられました。この連呼に、神が「熱情の神」(出20章5節)であられる理由を知る思いがします。 その上、主キリストはご自身が民の罪の償いの犠牲となりつつ、その犠牲を献げて祈る大祭司の務めをも果たしてくださったのです。その「憐れみ深い、忠実な大祭司」(ヘブ2章17節)の務めは今も続いています。それは私たちにとって、どれほどの大きな慰めであり、支えでしょうか。 【祈り】 永遠の大牧者である主イエスが、御心を行うために、すべての良いものを私たちに備えてくださいますように。 Thu, 21 Nov 2024 00:10:00 +0000 奴隷の解放を宣言する神(エレミヤ書 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241121 no 2024 「お前たちは皆、隣人に解放を宣言し、わたしの名で呼ばれる神殿において、わたしの前に契約を結んだ。」 (エレミヤ書34章15節) 時は少し遡ってエレミヤがまだ拘留中のことでした。エルサレムの都は崩壊寸前でしたが、ゼデキヤ王は住民と共に奴隷の解放を宣言しました。「二つに切り裂いた子牛の間を通」る厳粛な誓約の儀式を経ての解放であったようです(19節)。この時期にエジプトの援軍が到着して、バビロニア軍が一時撤退。事態が好転したかに思えたところで、王と住民は解放の宣言を反故にして、再び奴隷たちを拘束したのでした。 主の神殿で行われた契約を覆したエルサレムに対して、神は怒りを発して、撤退したバビロニア軍を再び戻すと言われます(22節)。切り裂いた子牛の間を通るとは、約束を破ったら自分がこうなっても構わないとの誓い方です。それを承知で平気で契約を破るひどい振る舞いは、神を愚弄するものです。 「奴隷の解放」は主の御旨にかなう正しい判断であり、それによって民は「心を入れ替え」たように見えました(15節)。しかし、それが嘘であったとは残念極まりないことです。かつてイスラエルをエジプトから解放した神は、罪の虜囚となった人間を解放するために御子を世界に送ります。神は人間の善意に頼ってではなく、ご自分の決定によって解放を推進されます。 【祈り】 真の解放者である御神、今も抑圧のもとにある人びとを、あなたの愛と知恵によって解放してください。 Wed, 20 Nov 2024 00:10:00 +0000 その名は「主は我らの救い」(エレミヤ書 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241120 no 2024 「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。」 (エレミヤ書33章15節) 戦争による被害は悲惨でした。神殿も宮殿も焼かれて城壁は破壊され、都には死体が累々と横たわっていました。「そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない」(10節)ほどとなった廃墟に、人の目に見える希望はありません。 しかし、イスラエルにご自身をあらわした神は「創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方」です(2節)。天地万物が創造された初めに、闇に覆われて混沌としていた地上に光を与え、秩序をもたらしたのは唯一の創造者である主なる神です。ですから、すべてが終わったと思われる絶望の中で、なおも神を信じるならばそこから始まる希望があります。エレミヤが聞いた主の言葉は「いやしと治癒と回復」の約束です(6節)。 イスラエルの民は、神に背いた罪のために自分の栄光のすべてを失いました。けれども、神はその罪を清めてすべての反逆と罪を赦すとお告げになります。さらに、国の繁栄を取り戻し、再び活気の満ちた世界を再現してくださると言います。神が定めておられるその日、その時には、ダビデの若枝による支配によって公平と正義が実現する。この約束に期待をかけた真の信仰者がイエス・キリストの内に預言の成就を見たのでした。 【祈り】 預言者に真実をお告げになった創造主なる御神、主のご支配による真の平和を世界に実現してください。 Tue, 19 Nov 2024 00:10:00 +0000 主に従う一つの心一つの道(エレミヤ書 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241119 no 2024 「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。」 (エレミヤ書32章39節) バビロニア帝国の軍隊に包囲されて、エルサレムが陥落するのは時間の問題となったとき、神の裁きを告げていた預言者エレミヤは王の獄舎に拘留されていました。不信仰を悔い改めない王と民に対する裁きは決定的でした。そこでエレミヤが主から受け取った言葉は、故郷の畑を買い取れとの不思議なメッセージでした。 国の敗戦が決定して預言の通りに捕囚が起これば、土地はバビロニアの手に陥るはずです。それを買い取ることにどんな意味があるのでしょうか。それは、預言者が身をもって神の言葉を体現するという御言葉の告知の仕方です。つまり、エレミヤが土地を買い取ることには、将来神がイスラエルの土地を改めて買い取り、囚われた民をそこに連れ戻す約束が込められていたのです。 偶像崇拝の不信仰に国民を陥れ、主なる神を怒らせた罪は、ついにバビロニアの手によって国を亡ぼします。結果として、神はイスラエルを御自身の民として再生するためにこの裁きを実行されたのでした。時が来れば再び彼らは一つに集められて、主が約束された新しい「永遠の契約」のもとで、一つの心で一つの道を歩むようになると告げられます。この約束の成就を聖霊によって受け取ったのがキリストの教会です。 【祈り】 私たちに恵みを与えてやまない御神、聖霊によって新しくされた一つの心で御前を歩ませてください。 Mon, 18 Nov 2024 00:10:00 +0000 揺るぎない主の約束に憩う幸い(エレミヤ書 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241118 no 2024 これらの定めが わたしの前から退くことがあろうともと 主は言われる。 イスラエルの子孫は 永遠に絶えることなく、わたしの民である。 (エレミヤ書31章36節) 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と主は言われました(31節)。動物の犠牲による古い契約ではなく、キリストの血による新しい契約を結ぶ日が来ることの預言です。出エジプトの後、モーセを通して結ばれた古い契約は、主の民によって破られ続けました。生まれながらの罪人である民は罪へと傾いていて、石の板に刻まれた律法を守ることはできません。それゆえ主は、新しい契約を結ぶ日が来ることを約束されました。 私たちは、御子キリストを信じる信仰によって救われ、新しい契約の民とされました。そして、きょうの聖句のように、「永遠に絶えることなく、わたしの民である」という確かな約束を与えられています。 「太陽を置いて昼の光とし、月と星の軌道を定めて夜の光とし、海をかき立て、波を騒がせる方、その御名は万軍の主」(35節)。この言葉の後、きょうの聖句が続きます。 主が定められた宇宙の法則は天地創造以来、狂いなく運行されています。それほど確かな宇宙の定めよりも、主の民への約束は、はるかに揺るぎのないものです。罪深い私たちがキリストによる新しい契約によって主の民とされていることはそれほど確かなことなのです。 【祈り】 あなたの民とされ、その揺るぎない約束に信頼できることを感謝します。 Sun, 17 Nov 2024 00:10:00 +0000 最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マルコによる福音書 13章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241117 no 2024 「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 (マルコによる福音書13章13節) 主イエスは、弟子たちとのやり取りの中で「終末」について予告されました。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わし、戦争や地震、飢饉が起こり、さらに兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう(6~12節)。また、キリスト者の迫害についても言及され、世の終わりが来るまでに何が起こるのか、そのとき私たちはどのように歩まなければならないのかについて語られました。 「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われます(10節)。いろいろなことが起きる。悲しいこと、苦しいこともある。けれども、終末が来る前に、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならないと、主は言われます。 もちろん、それは人間の業ではありません。「教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と言われるように(11節)、それは聖霊なる神の働きです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という十字架と復活によって示してくださった救いの約束の御言葉に固く立って、聖霊の働きに身を委ねつつ、私たちを通して、生ける神の御言葉が伝えられていくことを祈り求めていきましょう。 【祈り】 どんなことがあっても聖霊の働きに信頼して、御言葉に固く立って最後まで耐え忍ぶことができるように助け導いてください。 Sat, 16 Nov 2024 00:10:00 +0000 裁きを思い同時に救いを覚える(ゼファニヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241116 no 2024 その日は憤りの日 苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日 闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。 (ゼファニヤ書1章15節) ゼファニヤは、ヨシヤ王という善い王の治世に登場しながらも、厳しい裁きを語った預言者です。そのため、ゼファニヤが活動したのは、本当はヨシヤ王の宗教改革が行われる前か、あるいは後だったのではないかと考えられることがあります。けれども聖書は「ヨシヤ王の時代に」とはっきり語っています。そして、そのような良い時代にゼファニヤが裁きを語ったという事実の中に、大きな意味があると思われます。 善い王とはいえど、あくまで王は王であり神ではありません。そのことを告げるかのように、ヨシヤ王は突如あっけなく戦死してしまいます。そして時代はバビロン捕囚という谷底へと向かうのです。目に見える現実の先を見通す目こそ、神の言葉を預かる者が持ちうる視野です。 15節は、そのゼファニヤの視野をさらに超えたかたちで、主イエス・キリストの十字架において成就しました。15節は、果たしてこれほどの闇と絶望が起こりうるのかと思わせられる御言葉です。まさに十字架の時、明るい昼間だったはずの世界が突如暗闇に包まれ、罪の苦しみ悩みが、神の憤りと共に重く主イエスにのしかかるという裁きがなされました。しかし、その裁きこそが救いの入口でもあり、罪の赦しと復活の命への道だったのです。 【祈り】 私たちは、良き時代にこそ裁きを、闇の中にこそ光を見て歩みます。 Fri, 15 Nov 2024 00:10:00 +0000 聖別された者の権利と義務(レビ記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241115 no 2024 神に属する聖なる者であるように、神の名を汚さないようにしなければならない。 (レビ記21章6節) 21、22章は、主がモーセを通して祭司に求められる特殊な律法が記されます。しかし、その目的は、「イスラエルのすべての人々」(21章24節、22章31~33節)が聖なる主に相応しい者となるためです。 人としての権利を声高に主張できる現代です。他者の人権・所有権を侵してはならないのは当然のことです。しかし、対人関係の権利を対神関係の権利と混同することはできません。私たちの神に対する義務より、神が私たちに与えてくださる恵み(権利)が、遙かに凌駕しているのは明らかです。神は、現代とは異なる価値観の社会に生きる者たちに、当時の社会とその価値観を用いて神の聖さを教えられたのです。 そして、同時にまた、時代や社会を超えて、神に聖別された者としてのより高い倫理性が求められます。たとえば、葬りの際に表れる哀しみにまで、神は心の奥底に潜む汚れを察知されます(1~15節)。また、神は仕える祭司の身体的特徴にまで言及されます(17~23節)。 けれども、そのような垣根を取り去るべく聖所と至聖所の「垂れ幕」(23節)を引き裂いて、神に「近づ」く(同)道を開いてくださったのは、主イエス・キリストの十字架にほかなりません。 【祈り】 わたしのような者を神の子としてくださった不思議と光栄を覚えて感謝いたします。 Thu, 14 Nov 2024 00:10:00 +0000 主の正しい懲らしめ(エレミヤ書 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241114 no 2024 お前が散らされていた国々を わたしは滅ぼし尽くす。 しかし、お前を滅ぼし尽くすことはない。 わたしはお前を正しく懲らしめる。 (エレミヤ書30章11節) 主の言葉がエレミヤに臨みました。「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」(2、3節)。 主はエレミヤを通して主の民に恵み深い約束を与えられました。どん底に沈み、希望の光が見えなかった捕囚の民に、主は祖国への帰還と繁栄の回復を約束されたのです。 捕囚は主の民にとって最大の試練です。他国に支配され、移住させられる屈辱的な出来事でした。主の民でありながら、彼らが主と主の律法を捨てたためでした。主が預言者を遣わされ繰り返し警告されたにもかかわらず、彼らは悔い改めを拒み、ついに捕囚を経験することになりました。 きょうの聖句は、彼らの苦難の意味を明確に語っています。彼らの苦難は、彼らが主の民であるがゆえに与えられる主の懲らしめです。主は罪を憎まれる正しいお方であり、それゆえ、彼らに捕囚という試練を与えられました。しかし、それは彼らを滅ぼし尽くすためのものではありません。むしろ、霊の父としての愛に基づく懲らしめであり、ご自分の神聖さにあずからせ、義という平和に満ちた実を結ばせるためのものだったのです(ヘブ12章11節)。 【祈り】 あなたが与えられる霊の父としての鍛錬に感謝します。あなたの子どもとして成長させてください。 Wed, 13 Nov 2024 00:10:00 +0000 将来と希望を与える計画(エレミヤ書 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241113 no 2024 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている…。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」 (エレミヤ書29章11節) バビロンへ連れ去られたユダの人びとにエレミヤは手紙を送り、主の言葉を告げました。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ…」と、バビロンで落ち着いた生活をするようにと言っています。なぜなら主ご自身が捕囚の期間を70年と定められたからです。だから、偽りの預言によって希望を抱かせる偽預言者たちに欺かれないようにと警告し、次のように語っています。「バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」。このあとすぐ上記の御言葉が続きます。 捕囚の人びとにとって異国での生活は辛く苦しいものでした。当然、一刻でも早くその環境から抜け出したいという思いに支配され、落ち着かない生活だったでしょう。しかし、そのような中で、主はエレミヤを通して恵みに満ちた約束を与えられました。それが「きょうの聖句」です。 私たちも試練のなかで将来を見通せないとき不安になります。しかし、ユダの民がエレミヤを通して恵みの約束を聞いたように、私たちもまた聖書を通して、将来と希望を与える約束を聞くことができるのです。私たちの神は、神を愛する者たちには、万事を働かせて益とされるお方です。 【祈り】 将来と希望を与える人生を約束されている恵みに感謝します。 Tue, 12 Nov 2024 00:10:00 +0000 ご自身の約束に真実な主(エレミヤ書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241112 no 2024 そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。 (エレミヤ書28章5節) このときエレミヤが対決したハナンヤは、彼より恐らくはるか年長の預言者でした。ハナンヤは、祭司とすべての民の前で「万軍の主はこう言われる。…2年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる」と、偽りの預言をし、人びとを安心させました(2、3節)。そのときエレミヤは毅然と対決し、彼に告げました。「主はお前を遣わされていない。…お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ」(15、16節)。ハナンヤはその言葉どおりに2ヶ月後に死にました。主はこのことを通してエレミヤが主の預言者であることを人びとに証明されました。 エレミヤが預言者として召されたとき、彼は「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(1章6節)としり込みしました。しかし主は、「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」(同8節)と約束されました。主は真実な方です。対決者を前にした孤独なエレミヤと共におられ、救い出してくださいました。 主は無力な私たちをもご自身の証人として召してくださり、そのために必要な勇気と知恵と力を与えてくださるお方です。主に全幅の信頼を寄せ、仕えてまいりましょう。 【祈り】 あなたに信頼し、あなたの召しに従う、生きた信仰を与えてください。 Mon, 11 Nov 2024 00:10:00 +0000 すべてを主の御心と受け止める(エレミヤ書 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241111 no 2024 「わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。」 (エレミヤ書27章5節) 年若い預言者エレミヤに与えられた使命は、実に過酷なものでした。彼の預言はユダの政治的支配者や宗教的指導者、また民にとっては受け入れがたいものでした。バビロンの王ネブカドネツァルに完全に降伏するように、というものだったからです。 このときすでに神殿の祭具の一部はバビロンに持ち去られていました。そして偽預言者たちは、「主の神殿の祭具は今すぐにも…戻って来る」と楽観的な預言をしました(16節)。 エレミヤはその中で、彼らに主の厳しい言葉を告げました。「今やわたしは、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、…諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかし、彼の国にも終わりの時が来」る(6節)。 主は、バビロンの王ネブカドネツァルを「わたしの僕」と呼ばれます。主は、ご自分の聖なる目的を果たすための器として、異教徒である彼を選び、用いようとされていたのです。 主はご自身の選びの民をご自分に似た聖い者とするために、すべての被造物をご自由に用いられるお方です。計り知れない全知の主の摂理の中で起こるすべてのことには、主の聖い目的があるのです。今、理解できないことも、万事を働かせて益としてくださる主に信頼し、一切をゆだねることができる信仰者は幸いです。 【祈り】 すべてのことの中にあなたの御手を見ることができますように。 Sun, 10 Nov 2024 00:10:00 +0000 こころから主を愛する信仰者に(マルコによる福音書 12章38-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241110 no 2024 「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 (マルコによる福音書12章40節) 主イエスは、「見せかけの信仰」を警戒されます。自分の信仰を見せびらかすために、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること」を好み、「見せかけの長い祈り」をする当時の律法学者たちに対して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われました。彼らの信仰は、神ではなく人に認められるための偽りのものなのだと強く批判されたのです。 そのような彼らと正反対の立場にいたのが、「やもめ」でした。「やもめ」は、聖書の中で社会的弱者の代表です。自分を守ってくれる夫を失い、後ろ盾は誰もいない存在でした。だからこそ、彼女らは神にのみ頼って生きるしかありません。そこで、主イエスは、貧しいやもめの少ない献金を褒められ、彼女の信仰を認めてくださったのです(41~44節)。 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」お方です(サム上16章7節)。献金にしろ、祈りにしろ、神の愛と憐れみ、その応答としての感謝と喜びから献げることを望まれます。人に認められるための「見せかけの信仰」ではなく「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛」することを望んでおられるのです(30節)。 【祈り】 人を意識する見せかけの信仰ではなく、真心から主を愛する信仰者として成長させてください。 Sat, 09 Nov 2024 00:10:00 +0000 恵み潤す神と共にいる幸い(詩編 65編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241109 no 2024 いかに幸いなことでしょう あなたに選ばれ、近づけられ あなたの庭に宿る人は。 (詩編65編5節) キリスト者は善人と思われているかもしれません。しかし、私たちの誰もが知っていることですが、善人だから教会にきているのではありません。いや、正反対に神に逆らい背く者でありました。それにもかかわらず神は私たちを贖ってくださったのです。神に罪の赦しを与えられたので、神のもとに来ることができます。 そもそも赦しは、私たちがどれだけのことを神に対して為したかによるのではありません。神の一方的な恵みによるものであり、それは選びに基づくものだと言うことができます。神が近づくことのできるようにしてくださったからです。ゆえに礼拝は神の祝福と約束が充ち満ちている場で、そこにいることは無上の喜びとなるのです。 パレスチナのように乾いた土地では水がとても大切です。中でも春に降る雨がとりわけ重要だと言われます。それは土を柔らかにし、作物に実りを与えます。「あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています」と表現するほど豊かで恵みに満ちています。 宗教は搾り取るものという感覚が増えていると言われます。しかし、本当はそうではありません。神のそばにいることは、満たされ、潤されることなのです。その恵みを思い巡らしましょう。 【祈り】 生ける神よ。あなたのそば近くにいることができ、礼拝ができる幸いを心から感謝いたします。 Fri, 08 Nov 2024 00:10:00 +0000 神の掟と法を忠実に守る(レビ記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241108 no 2024 わたしのすべての掟と法を忠実に守りなさい。そうすれば、わたしがあなたたちを住まわせるために導き入れる国から吐き出されることはない。 (レビ記20章22節) 聖にして義なる神は、イスラエルの民の聖さと神への服従を守り保つために、犯罪に対して刑法を定められました。なかでも、この章の死刑の規定は、容赦なき苛酷さが感じられるかもしれません。しかし、ここでは、罪人の矯正や改善に焦点が置かれているのではありません。犯された神の聖と義に対する償いとして、また、聖い民をないがしろにし、神の秩序を覆した罰としての死刑の規定です。 とくに偶像崇拝、そして姦淫の罪、父母を呪う罪に対して死をもって罰せられる刑を科していることに、現代を生きる者として驚きすら覚えます。しかし、性の純潔と、親への尊敬と従順が、どれほど社会の秩序にとって基礎となるかを教えられます。 神の命じられる掟に従順であることは、共に生きる社会の規範としての道徳を守ることと結びついています。神の秩序と社会の秩序の重なり合う人の道を乱す者は、神の法に従って、あるいは、社会の法に従って、当然の罰を受けなければなりません。 けれども、たとえ死刑にならなければならないとしても、死刑の前に無意味な拷問を与えてはならないことも、神は命じられるのです。 厳格な教えの中に、公平な神の深い愛に基づく深慮を覚えます。 【祈り】 罪に囚われていた私たちを贖うために、代わりに尊い御子の血が流されたことの深い意味を、いつも覚え続けることができますように。 Thu, 07 Nov 2024 00:10:00 +0000 霊と真理をもって礼拝する(エレミヤ書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241107 no 2024 「主の神殿の庭に立って語れ。ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、…ひと言も減らしてはならない。」 (エレミヤ書26章2節) 背信のユダの民の罪を指摘し、悔い改めを迫った預言者エレミヤの任務は、実に困難なものでした。語るようにと主に遣わされた場所は、ほかでもない神殿でした。神殿は神礼拝の中心地です。また、神殿は神に特別な召しを与えられた祭司やレビ人が日夜仕えている場所です。 ソロモンは神殿の奉献式で、「昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です」と祈りました(代下6章20節)。神殿は契約の民が主を主として礼拝し、主のご臨在に接し、主に全き献身を表す場所です。主の民にとって神殿での礼拝は霊的な生命線でした。 しかし、このときエレミヤに託された使命は、その神殿の庭で民の罪を指摘し、裁きを予告し、悔い改めを促すことでした。それは、民の心が主から離れ、神殿での礼拝が霊と真理をもって献げる礼拝(ヨハ4章23節)とは程遠いものだったからでした。人びとは律法で定められていた宗教的行事を滞りなく行ってはいましたが、形骸化していました。その結果、主なる神との交わりを失いました。そして偶像礼拝が入り込み、不道徳がはびこりました。彼らを立ち帰らせるためにエレミヤが神殿の庭に遣わされたのは、民を愛する主の恵み以外のなにものでもありません。 【祈り】 御心にかなう礼拝をささげることができるよう聖霊が導いてください。 Wed, 06 Nov 2024 00:10:00 +0000 荒れ野を超えて永遠の命へと入れられる(民数記 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241106 no 2024 以上は、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主がモーセを通してイスラエルの人々に命じられた命令と法である。 (民数記36章13節) 神の戒めは、十戒に代表されるように、命令であることが多いです。「してはならない」、「するように」と命じられます。神の戒めは、私たちを縛るためにあるのでしょうか。 神は私たちに自由を得させてくださいます。イスラエルの民はこれから入って行こうとする約束の地を前にして、神から戒めを与えられます。戒めは約束の地にあって身を汚すことなく、聖なる者であるために与えられます。すなわち、命を得るためにあります。神は御自身の民を聖く保つことを願っておられます。この世の汚れに染まり、罪に引きずられることがないように願っておられます。 約束の地に来るまでに、イスラエルは荒れ野を40年間も彷徨いました。イスラエルには厳しい時であり、裁きの時であったと言うべきでしょう。しかし、荒れ野の40年は、神が共におられた40年です。それは神にとっても厳しい時であったはずです。なぜなら、イスラエルは神が願うように進まなかったからです。しかし、この40年を経て、約束の地に到ります。いよいよ本番です。 私たちの生涯も、神の国へと到るための訓練の時です。この地上の生涯を、神が共にいてくださる時として過ごします。私たちを待つのは、神の国であり、永遠の命です。 【祈り】 神がいかなる時も共にいてくださることを信じ、喜びをもって生涯を送らせてください。アーメン Tue, 05 Nov 2024 00:10:00 +0000 命を尊ぶ神が御子を十字架につけ(民数記 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241105 no 2024 人を殺した者については、…一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない。 (民数記35章30節) 神は、目には目を歯には歯を、命には命を求められます。人を殺してしまうような者は、然るべき裁きを受けなければなりません。神は命を尊いものと見ておられます。神は厳正な裁きをなさいます。義なる神であり、公平の神だからです。そして義しい裁きを求められるので、一人の証言のみで死刑を宣告されることはありません。誰の命も軽々しく扱われてはなりません。命は神に由来しているからです。 命の重さを思うとき、キリストの裁判を思います。キリストは人の裁きによって死刑にされました。あの時、複数の証人が立てられましたが、彼らの証言は互いに合いませんでした。キリストを死に定めることはできなかったのです。しかしながら、キリストは十字架にかけられることとなりました。神が、キリストの命を罪人の手に渡すことを良しとされたからです。私たちの救いのために、キリストは私たちの手に渡されたのです。 キリストの裁きの特異なことを思わされます。キリストは律法に従って裁かれながら、律法によっては罪ありと定めることができませんでした。ですから、人々は律法を無視して、キリストを死に定めました。このキリストの死によって、私たちには永遠の命が与えられています。 【祈り】 主よ、罪深いわたしのためにキリストの命が差し出されました。驚くべきこの事実に感謝いたします。 Mon, 04 Nov 2024 00:10:00 +0000 神を信じて自分を御前に投げる(民数記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241104 no 2024 …嗣業としてあなたたちのものになる土地は、それぞれ境で囲まれたカナンの土地であって、それは次のとおりである。 (民数記34章2節) イスラエルの民は神の祝福を、長寿、子孫、土地であると考えました。神は生きて働かれる現実的な御方です。そして、神が与えてくださる祝福もまた具体的なことです。 イスラエルがカナンの土地を見る前から、神は彼らに与える土地を備えておられました。それらの土地は、くじによって分け与えられます。どの土地が自分たちに与えられるのか、イスラエル諸部族には分かりません。人には分かりませんが、神が備えておられます。人がくじを投げますが、それを定められるのは主です。これはまさに、私たちの人生そのものではありませんか。 神が、すべてのことを治めておられます。神のなさることはいつも最善です。神の御心の最善であることを信じるとき、未知なる人生を進む勇気をいただくことができます。 私たちには予期せぬことも多いのです。しかし神は知っておられます。神が私たちに与えてくださるのは、神の約束に基づくことです。その境は、神が定めておられます。つまり、神のご支配の下にあります。ですから、私たちに与えられる幸いはもとより、災いと思えることも神の支配を超えて起こることはありません。神は善きことを備えておられます。 【祈り】 すべてを治めておられる主よ、あなたが祝福してくださることをいつも信じることができますように。アーメン Sun, 03 Nov 2024 00:10:00 +0000 いちばんたいせつな掟は何ですか(マルコによる福音書 12章28-34節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241103 no 2024 「『…あなたの神である主を愛しなさい。』…『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコによる福音書12章30節~31節) 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の問いに対して、主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とお答えになりました。最善を尽くして神を愛することこそが神の民としての生活の中心なのです。 そして、「第二の掟は、…『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と続いています。神を愛することと隣人を愛することは切り離せない、本質的には一つのものだということです。神は愛するのに隣人は愛せないということはあり得ません。つまり、目に見える隣人をどう愛しているかに、目に見えない神に対する私たちの愛が表されるのです。 主イエスは、自らの人生と命をもって、その「愛の模範」を示されました。神に対しては十字架の死に至るまで従順であられ、私たちのすべての罪を背負って十字架の上で死んでくださることによって、私たちに対する愛を示してくださいました。 主は私たち一人ひとりが、そのようなご自分の愛の模範に従って、神を愛し、神に愛されている自分と、自分と同じように神に愛されている隣人を愛して生きる信仰者であることを望んでおられます。 【祈り】 あなたに愛されている私たちが、あなたを愛し、隣人を愛することができるようにしてください。 Sat, 02 Nov 2024 00:10:00 +0000 誹謗中傷の言葉に囲まれていても(詩編 64編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241102 no 2024 わたしを隠してください さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。 (詩編64編3節) どこの世界でも言葉の持つ暴力性を警告することわざがあります。「人を呪わば穴二つ」などがその代表です。ここで詩人は、危険なまでの中傷を受けていたようです。傷口は小さいようでも深い所にダメージを与える鋭い剣とか、かすったぐらいでも致命的になる毒矢でたとえられています。 彼らが集団で謀議をすると言っていますから、社会で生きていけないと思えるほどの孤立無援さを感じても当然でありましょう。スマホの利便性が高まり、自覚なく行われる中傷や悪口の問題が、近年、顕在化しています。自分に対する悪口が気になりますし、自分自身も知らないうちに人を傷つけてしまっているのかもしれません。 このような人間の罪に、神がただちに報いると読むのは、おそらく正しくありません。しかし、神は決して罪を放置なさるお方ではありません。ただそれは、今のことか将来のことかは分かりません。 もちろん、そういう人たちが神の御業を知って悔い改めてくれたらもっと良いのですが、そうでなくても神はすべてをご存じです。ですから、自暴自棄にならず、神に信頼し続けましょう。神のもとに逃れるとき、神は私たちを支えてくださいます。 【祈り】 生ける神よ。人びとが相謀って悪口を言うときでも、神のみわざを思い、そこに希望を託せますように。 Fri, 01 Nov 2024 00:10:00 +0000 聖なる者となることを切望される主(レビ記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241101 no 2024 あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。 (レビ記19章2節) 神は、その聖さをご自分の民に求められます。この教えは、モーセや共同体が生み出したのではなく、聖なる神ご自身から発せられたのです。もし、戒めや命令が神に由来しないなら、「聖なる者となる」動機と目標は定まらず逸れてしまうでしょう。 だから、民の心に刻み込むように、「わたしは主である」「わたしはあなたたちの神、主である」という言葉が、前の章も含めて約20回も繰り返されるのです。子どもに教え込むように、何度もご自分を啓き示してくださるのです。そして、神と共にいることのできる道を教えられます。 私たちは罪深く、罪ゆえに弱いかもしれません。しかし、じわりじわりと蝕んでくる、まことの神を神と認めない世俗的な考えや慣習を、軽く考えて、罪と妥協してはなりません。 「聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。…この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。…あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(1ペト1章15~19)。 【祈り】 罪深い私どもに、恵みの約束を誠実に果たしてくださる主なる神の御名を崇め、その憐れみに心から感謝いたします。 Thu, 31 Oct 2024 00:10:00 +0000 絶えざる不断の悔い改めを(ガラテヤの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241031 no 2024 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたが…、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 (ガラテヤの信徒への手紙1章6節) 今はローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の戦いなどはなく、両教会で協力して聖書翻訳をする時代です。しかし、宗教改革はルターやカルヴァンの宗教改革運動だけではありません。宗教改革は歴史のある時期の出来事ではありません。いつも私たちは信仰と生活を問い直し、改革され続けていくのです。 宗教は必ず腐敗します。世の権威に媚びへつらい、権威の上にアグラをかき、律法主義に陥り、間違った方向に走り出す危険性を持っています。パウロは「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と記します。ガラテヤ教会では、伝道開始直後から多くの人が「ほかの福音に乗り換えよう」とする事態が起こりました。ガラテヤ教会はパウロの第二次伝道旅行の際に建てられた教会ですが、数年の間に大きく変質したのです。 キリスト教は聖書の宗教です。いつの時代であっても、聖書に立ち戻って神の言葉を聞き直していく。これが宗教改革です。聖書に立ち戻って、信仰と教会の在り方を問い直し改革していくのです。宗教改革は永遠の課題です。ルターが「絶えざる不断の悔い改め」を語る理由です。 【祈り】 主イエスよ。古いしがらみに捕らわれることなく、御言葉に新しく聞き直す勇気をお与えください。 Wed, 30 Oct 2024 00:10:00 +0000 誤りやすい私たちと共に神はおられる(民数記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241030 no 2024 モーセは主の命令により、出発した地点を旅程に従って書き留めた。 (民数記33章2節) エジプトを脱出したイスラエルは、神に導かれて荒れ野を進みます。その道行きは困難を極めました。いや、荒れ野という道程そのものが厳しかったのではありません。この道を行くときに、しばしば神につぶやいたことが、彼らの歩みを厳しくしたのです。荒れ野ですから、エジプトにいた頃に比べればさまざまな物に不足したでしょう。しかし、エジプトから助け出してくださった主が共におられます。驚くべき救いの御業を体験したのに、どうして主に信頼し続けることができなかったのでしょう。 荒れ野の旅は、神が共におられることの記録です。旅程の一つひとつは単なる記録かもしれません。特別な恵みが思い出されるのではない地点もあるでしょう。しかし、これは紛れもなく神が共にいてくださったことの記録です。イスラエルには、約束の地へと行くために遠回りさせられた記録です。しかし神にとっては、恵みをもって彼らを導かれた記録です。 私たちの信仰の歩みを振り返ると、順風満帆だったとは言いがたいでしょう。むしろ、神に従うことに失敗したことの方が多いぐらいです。そうであればこそ、神が支えてくださって、きょうがあることを思います。神が共にいてくださる。これだけが、神の国へと到るための確かな保証です。 【祈り】 主はわたしの歩みをきょうまで導き、明日の歩みも導いてくださいます。主に栄光がありますように。 Tue, 29 Oct 2024 00:10:00 +0000 ヨルダン川を共に渡り行く私たち(民数記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241029 no 2024 「戦いのために武装した僕どもは皆、わが主の命令に従い、主の御前に渡って行きます。」 (民数記32章27節) ルベンとガドの人びとは、牧畜に適したヨルダン川の手前(東岸)の土地を割り当ててほしいとモーセに願い出ました。彼らは、自分たちに特に役立つこの地域は既に獲得できたのだから、それを自分たちに割り当ててもらえたなら、もう自分たちはヨルダン川を渡って戦いを続けたくはないと考えたようです。 彼らの願い出を聞いたモーセは、約40年前に起こった同様の事件を思い出しました(13、14章)。そして、同じ失敗を繰り返さないために彼らを叱責しました。すると彼らは、カナン全域の征服の業はイスラエル全体の業であることを悟って、戦いへの参加を誓ったのでした。 モーセが叱責した最大の理由は、ルベンとガドの人びとが、自分たちのことしか考えていなかったということでした(6節)。 公同の教会全体に主から命じられている業があります。どの教会も、自分たちに限定的な教会形成のための必要を満たせばそれで良いというものではありません。すべての教会が、すべての他の教会の業から受けている益があるのであり、神の国が完成に至るその時まで、唯一のキリストの体のために相互に協働する務めを担っているのです。その務めを誠実に果たしてこそ、私たちは終末の祝福に豊かにあずかる者となるでしょう。 【祈り】 主よ、あなたの約束に信頼し、公同の教会の形成に励ませてください。 Mon, 28 Oct 2024 00:10:00 +0000 「皆殺し」をどのように受けとめるか(民数記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241028 no 2024 彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。 (民数記31章7節) ここで「皆殺し」が行われた背景には、ミディアン人がイスラエルの民を誘惑して罪に陥れ、神の罰を招き、多くのイスラエルの民を死に至らせた事件がありました(25章)。注解者によって解釈は一様ではありませんが、ここでは、本当に「皆殺し」にすることが主の御心にかなっていた、との前提でお話しします。 「皆殺し」というのは、武器を捨てて投降し、命乞いをする者がいても容赦なく殺す、という意味の言葉です。そのような殺戮行為は現代の戦時国際法に照らせば、明らかに戦争犯罪に該当します。もし現代において、どこかの国が大義を掲げて同様のことを行っているなら、それは国際法違反であるのみならず、主の御前にも重罪を犯しているのです。旧約聖書は、旧約時代の文脈を読み、新約の光のもとで解釈しなければ、キリスト教の解釈にはなりません。 ここで「皆殺し」という言葉からは、ただ一つの厳粛な真実を読み取るべきです。それは、いかに反省し謝罪して赦しを乞い求める態度を人が示したとしても、神の御前に犯した罪がそれだけで赦されるものでは決してない、ということです。「皆殺し」という言葉は私たちの心に罪への戦慄を引き起し、イエス・キリストの恵みの大きさに圧倒され、その感謝を新たに深くさせるものです。 【祈り】 世界のすべての信じる者のために贖い主をお与えくださり感謝します。 Sun, 27 Oct 2024 00:10:00 +0000 主の憐れみを熱心に求め続けよう(マルコによる福音書 10章46-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241027 no 2024 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 (マルコによる福音書10章48節) 目の見えないバルティマイという人がいました。彼は道端に座り、物乞いをしていました。その近くを主イエスの一行が通ったとき、彼は主イエスに向かって叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。「ダビデの子」とは、メシア・救い主に対する称号です。バルティマイは、イエスがメシアであることを信じて期待しました。目がいやされて見えるようになることを願って、叫ぶのです。 周囲にいた多くの人びとは、彼を叱りつけて黙らせようとします。目の見えない物乞いが叫ぶ姿というのは、多くの人にとっては醜いものに見えたことでしょう。 しかし、彼はくじけずにますます叫び続けます。そして、主イエスが自分を呼んでいると知ると、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってその喜びを表現するのです。彼の熱心がここに現れています。 主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言って、彼の目をいやしてくださいました。バルティマイの外見ではなく、救い主の憐れみ、救いを熱心に求め続ける心を見てくださったのです。 主イエス・キリストは、外面ではなく、心をみてくださる方です。主の救いを求める私たちの熱心に豊かに応えてくださる方なのです。 【祈り】 神よ、あなたの憐れみを求める熱心な心をいつもあたえてください。 Sat, 26 Oct 2024 00:10:00 +0000 怒りのうちにも憐れみを(ハバクク書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241026 no 2024 怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。 (ハバクク書3章2節) ハバククのとりなしの祈りです。ユダの民はカルデア人(バビロニア)の来襲から助かる見込みはありません。神の裁きだからです。しかし、ハバククはなお助かる道を神に祈り、「神に従う人は信仰によって生きる」と示されました。これだけが助かる道です。なお、ハバククは祈ります。自分の生きている「数年のうちにも」「生き返らせ」、回復してくださいと求めます。 「怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください」と言います。これが、ハバククの祈りの根拠です。カルデア人の来襲は神の怒りの結果で、ユダの罪に対する正当な裁きで取り消されません。しかし、その正当な裁きの中でも、主よ「憐れみを忘れないでください」「生き返らせ」てくださいと祈るのです。 ハバククが指摘するのは過去に示された神の憐れみの御業です。神よ、忘れないでくださいと祈ります。「あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた」。シナイで律法を与えられた直後、子牛の像を造ったイスラエルを見捨てずに、イスラエルと共に上られた神の行動を指しています。この神の憐れみの御業を根拠に回復を祈り求めているのです。神は救いの神です。人となられたイエス・キリストにおいて、罪人を憐れむ神が来てくださり、贖いをしてくださいました。 【祈り】 私たちの国も混乱しています。憐れみをもって裁いてください。 Fri, 25 Oct 2024 00:10:00 +0000 神の秩序を違えずに歩む(レビ記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241025 no 2024 これまで行われてきたいとうべき風習の一つでも行って、身を汚してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。 (レビ記18章30節) 神はエジプトで奴隷とされていた民を救い出し、シナイ山で律法を与えられました。そして、アブラハムに約束された地カナンに入る前に、その地に住む人々の避けるべき慣習に染まることがないように、おごそかに教えられます。それは、神ご自身が「わたしはあなたたちの神、主である」、「わたしは主である」と繰り返されることに表れています。 決して、神の民イスラエルのために、ただ先住民を追い出そうとされているのではありません。「恥ずべき行為」や「秩序を乱す行為」は「身を汚す」だけでなく、これらの行為によって汚された地は、「そこに住む者を吐き出した」と言われます。神は罪の結果を知らしめ、民は追放されるだけでなく、神の民として断たれることのないように警告されるのです。 「かつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない」(3節)。このことの核心は、「エジプトの偶像」(エゼ20章7節)と「彼らの神々にひれ伏し仕えてはならない」(出23章24節)にあります。「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」(5節)。このことに尽きるのではないでしょうか。 【祈り】 聖なる神に従う者として、昔も今も変わらない秩序を貫き、身を汚すことのないようにお守りください。 Thu, 24 Oct 2024 00:10:00 +0000 恐れるわたしを誰よりもご存じの方(マタイによる福音書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241024 no 2024 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 (マタイによる福音書28章8節) マリアたちが墓に来たとき、主イエスのお体はそこにありませんでした。恐れる婦人たちに、かねて言われていた通り主イエスが復活したことを告げた天使は、さらに彼女たちに、復活の主イエスがガリラヤに先に行かれる、そこでお会いできると弟子たちに告げなさいと命じます。 婦人たちは大いに喜び、急いで弟子たちのもとに走り出しました。しかし、喜んでいただけではありません。「恐れながらも」大いに喜んでいたと聖書は語ります(8節)。 何を恐れていたのでしょう。主イエスの復活の事実を、まだ受けとめることができなかったのでしょうか。いくら主イエスが復活したと語ろうと、弟子たちが信じてくれるはずがないと恐れていたのでしょうか。 そんな彼女たちの恐れを誰よりもご存じの主イエスが、婦人たちを待っていました。さらに主イエスから「恐れることはない」と声をかけてくださいました。その主イエスの言葉に押されるように、婦人たちは再び走りだしました。 私たちもまた、さまざまな恐れの中で生きています。そんな私たちのことを、誰よりもご存じで、共におられる主イエスが、「恐れることはない」と私たちに声をかけ続けてくださっています。そして再び歩みださせてくださいます。 【祈り】 主よ、さまざまな恐れの中に生きる私たちをきょうも支えてください。 Wed, 23 Oct 2024 00:10:00 +0000 このわたしが「わが父」と呼べる幸い(マタイによる福音書 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241023 no 2024 イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章46節) 主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、呪われ、見捨てられる苦しみの中で死んでくださいました。 神の御子であるイエスは、神を「わが父」と親しく呼ぶことのできるお方です。その主イエスが、「わが神」と父なる神を呼ぶのは、この場面だけです。すなわち、神を「わが父」と親しく呼べるお方が、神を「わが父」などと決して呼べない私たちと同じものとなってくださいました。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ御子イエスの姿は、どんなに「わが神、わが神、わたしを見捨てないでください」と叫ぼうとも、神に呪われ、滅んでいくしかなかった私たちの姿です。主イエスは、その私たちの罪をすべて負い、神に呪われ、自らの命を神の御前に差し出し、神の望むことをすべて成し遂げてくださいました(イザ53章10、11節)。 私たちは、この主イエスの十字架の贖いのゆえに神の御前に正しい者とされました。もう決して神に呪われることのない者、罪赦されて主イエスのように「父よ」と神を呼べる神の子とされました。「父よ」と呼びかける祈りが、すべて聞きあげられる者とされました。 【祈り】 父なる神よ、あなたを「父よ」と親しく呼べる、主イエスの命によって与えられた恵みを深く心に刻み、あなたを呼び続ける者としてください。 Tue, 22 Oct 2024 00:10:00 +0000 弱く、苦しむ私たちのために(マタイによる福音書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241022 no 2024 「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイによる福音書26章26節) 主イエスは、「取って食べなさい」と言って、弟子たちにパンを与えられました。これから自分を見捨てることになる弟子たちに対してです。しかも、「よかったら食べてください」ではありません。「取って食べなさい」と命令する強い言葉で、パンを裂き、一人ひとりに手渡したのです。 復活の主イエスと出会い、赦された弟子たちは、生き方が変わりました。命がけで十字架と復活の福音を伝え続ける者とされました。 そんな彼らも福音宣教の歩みの中で何度も心折れる経験をしたに違いありません。そのとき、彼らを支えたのが最後の晩餐の記憶です。主イエスから手渡されたパンの重み、ぶどう酒の色、口に広がる甘味と苦み、喉を通って体に入っていく感覚、そのような五感に刻まれた主イエスの記憶が、彼らを励まし、再び歩み出させたことでしょう。 私たちもまた、福音を伝えようとして心が折れる経験を何度もします。主イエスは、そんな私たちの弱さを、苦しみを、誰よりもご存じの方です。そんな私たちに聖餐を守るように、主イエスは命じてくださいました。主イエスは聖餐を通して、今も、救いの確かさを、揺るがない希望を、堅い守りを、私たちに繰り返し、思い起こさせ続けてくださっています。 【祈り】 主よ、聖餐にあずかるごとに、十字架と復活による救いと守りの確かさを、ますます確信させてください。 Mon, 21 Oct 2024 00:10:00 +0000 主は家庭の平和を大切にされる(民数記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241021 no 2024 しかし、父がそれを聞いた日に、それを禁じる場合、彼女の誓願も物断ちの誓いもすべて無効となる。…主は彼女を赦されるであろう。 (民数記30章6節) 主に誓願を立てること自体は律法の命令による義務ではありませんでした。誓願は、自分が持っている何かを自由な意思で主に献げたり、自分の生活行動に自由な意思で制約を加えたりすることを誓うものです。 自由な意思による誓願においては、信仰熱心のゆえに「軽はずみな」(9節)献げ物をしたことにより家庭を破壊してしまう、ということが起こり得ました。しかし、献げ物のゆえに家庭の平和を犠牲にすることは主の御心ではありませんでした。 ひとたび自由な意思で誓願を立てたなら、それを果たす義務を負うのが原則ではありました(3節)。しかし、その誓願が家庭の平和を脅かす場合には、家庭内の責任者としての立場にあった者の意思表示によって、誓願において果たすべき義務が免除されることがあったのでした。 現代においても、高額な献げ物をしたことにより家庭が破壊されてしまった、まさにそのような数多くのケースが露見した偽キリスト教の宗教団体が近年問題になりました。霊感商法とは無縁の正統的なキリスト教では、こうした問題は起こりにくいかも知れません。しかし、「主のために!」という熱い思いが、家庭の平和を破壊することがあり得ることを心に留めて、御心を慎重に祈り求めることは大切でしょう。 【祈り】 主が立てられた家庭の平和の秩序を大切にする者であらせてください。 Sun, 20 Oct 2024 00:10:00 +0000 主イエスは自分の命を献げるために(マルコによる福音書 10章35-45節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241020 no 2024 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (マルコによる福音書10章45節) 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。このように願い出た弟子のヤコブとヨハネ。彼らに腹を立てた他の弟子たち。そのような弟子たちに主イエスは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられました。 「偉くなる」「いちばん上になる」と聞くと、自分にはそんな願望はないと思う人もいるかもしれません。しかし、「栄誉を受けたい」「ほめられたい」となるとどうでしょう。そういう思いは、誰の心にも少なからずあるものです。それが神からの栄誉であるなら、なおさらです。 そのような私たちに、主イエスは、神からの栄誉は、へりくだって僕となって仕える者にこそあること、神の子であるご自身がその模範であることを示されます。 ここで主イエスが示されたご自身の姿は、旧約の預言者イザヤが示した「苦難の僕」の預言の成就です(イザ53章)。父なる神の御心に従って、私たちの罪の贖いのための身代金としてご自分の命を献げるために、主イエスはこの世に来てくださいました。それほどまでに徹底したへりくだり、それがキリストの十字架です。 【祈り】 独り子を遣わしてくださった父なる神よ、御子キリストの模範にならって仕える者とならせてください。 Sat, 19 Oct 2024 00:10:00 +0000 救いは信仰のみによる(ハバクク書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241019 no 2024 「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 (ハバクク書2章4節) バビロニアの軍勢が押し寄せてくるとの声を聞いて、ユダの人びとは右往左往します。ハバククは、この事態が神の裁きであることを告発します。しかし、彼は神の裁きの彼方に神の救いを望み見ています。「神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」と。彼は物見の歩哨のように神の救いの告知を待ちます。すると神は「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ」と語ります。 救いの道がある。恐怖で右往左往する者でも見えるように、読み間違えないように「板の上にはっきりと記せ」と命じられます。「定められた時のために、もうひとつの幻がある」。それが神が与える救いの道で「必ず来る、遅れることはない」。「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。これが板に大きく書くべき言葉です。 不真実なユダは滅ぼされる。多くの人が殺され捕囚になる。人間的な救いが断たれた中での救いの告知です。生きる道がある。それは「信仰による人は生きる」道です。「信仰によって」とは神信頼です。敵の襲来は迫り、助かる術はない。しかし、「神を信じる者は生きる」と語られます。 生きる道は「信仰」以外ありません。徹底して神に固着することこそ、危機の中で生きる、ただ一つの救いの道なのです。 【祈り】 あなたに信頼する者とさせてください。あなたこそ、私たちの希望です。 Fri, 18 Oct 2024 00:10:00 +0000 血の中の命による罪の贖い(レビ記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241018 no 2024 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。 (レビ記17章11節) 神を神として礼拝するため、そして、神の民としての聖さを保つための教えが17章から続きます。 まず、血が何なのか。命が血の中にあることが教えられます。その命は神が与えられるものです。その命を失い、神との交わりをなくすならば、その回復のために血が必要となります。贖罪の献げ物として、犠牲のいけにえの血が祭壇に注がれて、代わりに民は清められます。しかも、この命の血による贖いの儀式は、神が与えられた手段です。なぜなら、罪の赦しは罪のない犠牲の血が流されなければならない、という神のおごそかな真理にいつも気付くように、神は望んでおられるからです。 ヘブライ人への手紙9章は次のように言います。「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。…永遠の〝霊〟によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。…血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(12、14、22節)。このキリストこそ、「二度目には…御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(同28節)。 【祈り】 私たちのために十字架に架かり、流された命の血を感謝します。 Thu, 17 Oct 2024 00:10:00 +0000 ただお独りで全世界を贖われる主(民数記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241017 no 2024 8日目には、…雄牛1頭、雄羊1匹、無傷の1歳の羊7匹を焼き尽くす献げ物として主にささげ、燃やして宥めの香りとする。 (民数記29章35節~36節) 第7の月の15日から7日間(後には8日間)行われた「主の祝い」(12節)というのは、仮庵祭のことです。この祭りでは、かなり多くの数のいけにえが求められ、過越祭の約2倍でした。ことに最も高価な雄牛が7日目までで70頭も屠られたことから、この祭りの大切さを窺い知ることができます。なお、加えて8日目にはさらに1頭が屠られました。 ユダヤの伝承によれば、初日から7日間で献げられた70頭の雄牛は、世界のすべての国々を表していて、全世界がイスラエルの神に回心するために犠牲として献げられたと言われているようです。 雄牛の献げられ方にも注目しましょう。初日から7日目に至るまで日を追うごとに、求められる雄牛の数が徐々に少なくされて、8日目にはついに1頭だけになるのです。 毎年欠かさず、こんなにたくさんのいけにえを献げてきたにもかかわらず、なおも不十分であることを感じて義を渇望していた人びとに、主イエスが、「わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハ7章37節)と大声で言われたのは、仮庵祭の終わりの日、すなわち8日目のことでした。主イエスこそ、ただお独りで「全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハ2章2節)となられたお方です。 【祈り】 私たちの内から生きた水が川となって全世界に流れ出るまでに、私たちを満たしてください。 Wed, 16 Oct 2024 00:10:00 +0000 献げ物をわたしの食物と呼ばれる神(民数記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241016 no 2024 あなたたちは、わたしの食物である献げ物を、燃やしてささげる宥めの香りとして、定められた時に忠実にわたしにささげなさい。 (民数記28章2節) かつてイスラエルの人びとは出エジプトに先立ち、神のご命令に従って小羊を屠りました。その血によって神の裁きの災いが自分たちの家を過ぎ越していく、「主の過越」(16節)の幸いを得るためでした。そして出エジプト後、神である主はシナイ山でイスラエルの民に契約をお与えくださいました。やがてその契約は、主イエスによって更新されました。主イエスが十字架上で肉を裂かれ、血を流されたので、私たち罪人は贖われて、神との交わりが回復されたのです。 ところで、本来的に霊であられる神が、肉の糧を食されることはありません。にもかかわらず神は、動物や穀物の献げ物のことを、「わたしの食物」(2節)と呼んでおられます。神がご自身のことを、あたかも人間であるかのような表現で親しくご提示なさるへりくだりと、そのような神のヘリくだりの中で成り立つ神礼拝の交わりの尊さが読み取れます。 主イエスが、「わたしの血による新しい契約」と言われて制定された聖餐式の交わりは、現在では多くの教会で毎月の第1主日に行われています。イスラエルには「毎月の1日」(11節)に献げるべき特別な献げ物の規定が与えられていましたが、私たちも毎月の第1主日の交わりを特別に覚えることは、意義深いでしょう。 【祈り】 礼拝の交わりにお招きくださる恵みを、心新たに覚えさせてください。 Tue, 15 Oct 2024 00:10:00 +0000 最後まで隣人に仕えた偉大なモーセ(民数記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241015 no 2024 あなたの権威を彼に分け与え、イスラエルの人々の共同体全体を彼に従わせなさい。 (民数記27章20節) もう後のことは知らないよ…。ふて腐れた気持ちでモーセがこうつぶやいたとしても、不思議ではありません。40年もの間、力を尽くして御民を導いて来たのにもかかわらず、目の前にしている約束の地に入ることが許されないからです。しかも、その理由が重大な違反行為とは思えない、たった一つの背きの罪であったからです(民27章14節)。さらにここで、もう間もなく死ななくてはならないことが改めて告げられます。 それでも、モーセは投げやりな態度を取りませんでした。自分とは関係のないツェロフハドの娘たちの申し出に誠実に応じます。また、自分が去った後の御民を心配し、自ら申し出てもいます。「主よ、…どうかこの共同体を指揮する人を任命し、…主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」(16節17節)。このモーセの求めに答えて、主はヨシュアを任命するように命じ、そしてモーセは命じられたとおりに、彼を職に任じたのでした。 このモーセの姿は、十字架の時を前にして弟子たちをこの上なく愛し抜かれた主イエスの御姿と重なり合います(ヨハ13章1節) 私たちも置かれたところで、腐らずに主に仕え、隣人のために尽くしましょう。 【祈り】 主よ、自分のことばかりを求める者ではなく、隣人の必要に心を向けられる者としてください。 Mon, 14 Oct 2024 00:10:00 +0000 次世代に望みを託して(民数記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241014 no 2024 その中には、モーセと祭司アロンがシナイの荒れ野でイスラエルの人々を登録したときに登録された者は一人もいなかった。 (民数記26章64節) 人口調査が命じられたのは、これが二度目でした。一回目は38年前、シナイ山のふもとで幕屋を建て上げた、その翌月のことでした。この時に登録された者の総数は60万3,550人でした(民数記1章46節)。今回の総数は60万1,730人です。 この二つの数字を比べると、人の生存を拒否するような過酷な荒れ野を放浪し続けていながら、ほんのわずかしか減少していないのが分かります。 さて、この38年間で、世代はすっかり変わりました。カレブとヨシュアを除いて、かつて登録された者は皆、世を去ったからです。彼らはみな、自らの背信のゆえに、この荒れ野で必ず死ぬと告げられた一人ひとりでした(14章)。 しかし、この荒れ野の中で、新しい命を生み育てていく、その一人ひとりがいなければ、新しい世代が揃うことはありませんでした。もちろん、主の憐れみと助けがあったからこその話です。けれども、約束の地に入ることは許されないと分かっていてなお、次の世代に望みを託し、生み育てていった彼らを忘れてはならないと思うのです。 主の憐れみと支えに感謝して、私たちも一人ひとり、与えられている使命を果たしてまいりましょう。 【祈り】 荒れ野の中でも、一人ひとりを用いてくださった主よ。私たちにも力を与え、使命を全うさせてください。 Sun, 13 Oct 2024 00:10:00 +0000 神にこそ心を向け、永遠の命を求めよう(マルコによる福音書 10章17-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241013 no 2024 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 (マルコによる福音書10章25節) 主イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と教えられました。これは、弟子たちにとって驚きでした。財産が多くある者は、神から祝福されていると思われていたからです。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」との主イエスの言葉にますます驚いた弟子たちが、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのも、そのためです。神から祝福されている者が神の国に入るのが難しいのならば、いったいだれが入れるだろうか、というわけです。 確かに、私たちのこの世の財産も神からの恵みです。しかし、多くある財産への執着こそが、人の心を神から離れさせてしまうのです 実際、永遠の命について主イエスに教えを請いに来たはずの人が、主イエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいます。彼もたくさんある財産への執着を捨てることができなかったのです。 私たちは、神からの恵みに感謝しつつ、それも神のものとして、私たちが執着するべきものではないことをわきまえていなくてはなりません。私たちが求めるべきは、イエス・キリストが与えてくださる永遠の命なのです。 【祈り】 神よ、この世の財産でなく、いつもあなたへと心を向けさせてください。 Sat, 12 Oct 2024 00:10:00 +0000 神は神の民を叩きのめす(ハバクク書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241012 no 2024 律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。 神に逆らう者が正しい人を取り囲む。 たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。 (ハバクク書1章4節) ハバククは紀元前7世紀に生きた預言者です。ユダの民の悲惨と不条理を神に激しく告発する言葉から始まります。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」。 この時代のユダの人びとの心は神を離れ、「律法の民」とは言えない状況でした。暴虐と不義が横行し、貧しい者はかすめられ、富む者は富み栄え、為政者は顧みることはない。今日の我が国の惨状と似ています。 それに対する神の応えがこれです。「大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。見よ、わたしはカルデア人を起こす」。神は信じがたい裁きを行うとの宣言です。「カルデア人を起こす」。カルデア人とは北の強国バビロンを意味します。バビロンは近隣諸国を略奪して巨大な帝国になりました。神はこのカルデア人を用いて神の民を徹底的に叩きのめすと言われました。 ハバククの視線は社会の底辺で苦しみもがく人たちに注がれています。律法が無力化し、正義がないがしろにされる事態に憤っているのです。私たちもこの時代に対して厳しく祈る責任があります。 【祈り】 主よ、あなたは生きておられます。立ち上がってください。苦しみ悩む者たちの叫びを聞いてください。 Fri, 11 Oct 2024 00:10:00 +0000 年に一度の贖罪日の規定(レビ記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241011 no 2024 これはあなたたちの不変の定めである。年に一度、イスラエルの人々のためにそのすべての罪の贖いの儀式を行うためである。 (レビ記16章34節) きょうの箇所には、年に一度行われる贖罪日の規定、つまり、大祭司と至聖所、臨在の幕屋、祭壇の汚れを清める儀式が細やかに規定されています。この儀式によって、主なる神とイスラエルの民とをつなぐ人と場所が清められ、それによって神と民との関係を維持することが目的です。また、これを掟として与えられたということは、神ご自身の側から民との関係を保証されたことを意味しています。きっとこの儀式を行うことを通して、イスラエルの民は神の民として歩む自覚が与えられ、同時に神の民とされている安心が与えられたことでしょう。このように、この規定には神の民に対する主なる神の愛と憐れみが溢れています。 さらに、私たちにはもっと確かな贖いが与えられています。ヘブライ人への手紙9章11、12節には、きょうの箇所を引用して、キリストが私たちの恵みの大祭司として、この世のものではない完全な幕屋を通り、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いをなされたと記されています。私たちはすでにキリストによって完全な贖いをいただいています。その信仰によって、キリストの十字架のもとに集まる私たちには、神の民とされている平安と自覚がいつも与えられているのです。 【祈り】 聖なる神さま。キリストの十字架の贖いによって、きょうもあなたの民として歩ませてください。 Thu, 10 Oct 2024 00:10:00 +0000 主の御怒りを去らせる熱情(民数記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241010 no 2024 「祭司アロンの孫…ピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。」 (民数記25章11節) 絶望と、なおそこに輝いていた希望、25章はその二つを教えています。一つ目の絶望は、祝福の基として選ばれている(24章9節)のにもかかわらず、目を覆いたくなるほどの御民の背信です。 モアブの娘たちの誘いにすっかり乗せられ、ペオルのバアルを拝むことにさえ、ためらいがありません。主の御怒りは大きく、避けられない処罰の死を前に、共同体全体は幕屋の入り口に集まり、嘆き泣きます。ところが、その人びとの目の前に、入ることが許されるはずのないミディアン人の女をあろうことか連れて入ってくる者までいたのです。この災害によって死んだ者の数は2万4千人を数えました。 しかし、この絶望の中に輝いていた希望がありました。それは、主の御怒りを去らせたピネハスの熱情です。それでは、主が抱いていたのと同じその熱情、それは、何に対するものであったのでしょうか。それはきっと、我らは決して汚れた者になってはならず、常に、主に喜ばれる聖なる民でなければならない!この志に対する熱情であったことでしょう。 主の御怒りを去らせたピネハスの熱情に私たちも倣わなくてはなりません。 【祈り】 主よ、くすぶる灯心であるこのわたしを憐れんでください。わたしも熱情をもってあなたに仕える者としてください。 Wed, 09 Oct 2024 00:10:00 +0000 祝福のゆえにへりくだった心を(民数記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241009 no 2024 エジプトから彼らを導き出された神は 彼らにとって野牛の角のようだ。 彼らは、敵対する国を食らい尽くし 骨を砕き、矢で刺し通す。 (民数記24章8節) バラクは怒り心頭でした。何しろ、イスラエルを呪うために呼び寄せた占い師バラムが、呪うどころか三回も繰り返して祝福の託宣をしたからです。 「自分の所に逃げ帰るがよい!」とバラクは命じます。バラムも負けてはいません。「すでに前もって言っておいたではないか!」と言い返します。両者は決裂です。このように、主の御手にかかれば、人の企みは木端微塵です。 なるほど、悪者がとっちめられるのは痛快です。しかし、浮かれていてはなりません。「敵が倒れても喜んではならない」が主の御心だからです(箴言24章17節)。そこで、次の御言葉を聞きましょう。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って1年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコ4章13~15節)。 御業を成し遂げられる主の御手に信頼しつつ、へりくだった心で進んでまいりましょう。 【祈り】 やがて消えていく霧にすぎない私たちを御心に留めてくださり、感謝します。 Tue, 08 Oct 2024 00:10:00 +0000 獅子のように身を起こし立ち上がれ(民数記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241008 no 2024 見よ、祝福の命令をわたしは受けた。 神の祝福されたものを わたしが取り消すことはできない。 (民数記23章20節) 「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に」とイザヤ書2章22節は私たちに教えています。 さて、バラムは超一流の占い師として頼られる人でした。しかし、彼も鼻で息をしているだけの者に過ぎません。彼に賭けたモアブの王バラクの期待は裏切られるばかりです。 バラムは、一回目の託宣を述べて言いました。「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう」。さらに二回目の託宣では、イスラエルが立ち上がる雄獅子にたとえられています(23章24節)。これほどに力を与えられ祝福されているのなら、もはや向かうところ敵なしです。それでもバラクは三度目の託宣を求めるのでした。 さて、この23章から私たちは何を学び取ったらよいのでしょうか。第一に、人に頼ってはならないということです。第二に、取り消されることのない主の祝福の約束に信頼するということです。御民イスラエルは、荒れ野の40年の間、主に逆らい通しでした(申9章7節)。それでも、バラムを用いて主が告げられるのは、御民に対する祝福の約束でした。 私たちも祝福を受継ぐために召されました(1ペト3章9節)。それゆえ、私たちも立ち上がる獅子たちなのです。 【祈り】 主よ、あなたの祝福の約束を感謝します。私たちも力を得て進む者としてください。 Mon, 07 Oct 2024 00:10:00 +0000 バラムも主の御手の中(民数記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241007 no 2024 主の御使いはバラムに言った。「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」 (民数記22章35節) 主イエスは、ご自分の弟子たちを宣教に遣わされるとき、告げられました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(マタ10章16節)。これでは助かりようがありません。 さて、民数記22章の御民イスラエルも同じでした。モアブの王バラクによって名の知れた占い師バラムが招かれて、呪いがかけられようとしていたからです。 バラムは従順な主のしもべであるかのような態度を取り、バラクの家臣に答えます。「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」。しかし、これは、より大きな報酬を得るための偽りの言葉でした。彼は不義のもうけを得ようとしていたからです(2ペト2章15、16節)。 そこで、神の燃える怒りがバラムに向かいます。そしてこのとき、バラムを助けたのは彼のろばでした。バラムはろばに説得され、さらに目が開かれて抜身の剣を手にした御使いを見ます。恐れおののいてバラムは言いました。「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」。 この後、彼は主の言葉を忠実に託宣する人として用いられました。主は大いなるお方です。それゆえ、狼の群れの中の羊である私たちも安心です。 【祈り】 主よ、あなたの不思議な守りの中に常に置かれていることを感謝いたします。 Sun, 06 Oct 2024 00:10:00 +0000 子供たちを祝福される主イエス(マルコによる福音書 10章1-16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241006 no 2024 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 (マルコによる福音書10章16節) 人びとに教えを語る主イエスのもとに子どもたちが連れて来られましたが、弟子たちは子どもたちを連れてきた人びとを叱りました。弟子たちは、子どもたちのことを、先生が教えを語るのを邪魔する存在であると考えたのかもしれません。当時の子どもの扱いを考えると、そのような弟子たちの態度は、大人としては常識的なものだったのでしょう。しかし、主イエスは、この世の常識ではなく、父なる神の御心を示されます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。 マルコによる福音書は、このとき主イエスが「憤った」と伝えています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マコ9章37節)とすでに教えておられたにもかかわらず、弟子たちがこの世の常識を優先したからでしょう。 子どもに限らず、社会での立場がどのようであったとしても、主イエスのもとに来るならば、すべての人が主の祝福の対象です。私たちは世の常識を振りかざすことなく、どのような人も共に主の祝福にあずかれることを喜ぶ者でいましょう。私たち自身も、主のもとで祝福にあずからせていただいているのですから。 【祈り】 神よ、あなたの祝福にあずかれる喜びを、あなたのもとに来るすべての人と分かち合うことができますように。 Sat, 05 Oct 2024 00:10:00 +0000 神が共におられる人の喜び(詩編 63編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241005 no 2024 わたしの魂は満ち足りました 乳と髄のもてなしを受けたように。 わたしの唇は喜びの歌をうたい わたしの口は賛美の声をあげます。 (詩編63編6節) この詩人は、水を求めてあえぐ人のように、神を求めて渇いていました。絶えず逃げ回るような状況にいて、平安を得ることができなかったようです。それを渇いていると表現するのは、神がおられないように感じたからでしょう。脱水を起こしているような表現ですから、孤独感も強かったようです。 聖書に対する印象として、とくに旧約聖書において、神が厳しい、怖いと思えてしまうということがあります。そのような質問をよく受けます。しかしながら、実はそうではありません。神はご自分の民を大切になさるからです。厳しさはあっても慈愛に満ちた神なのです。 突然、6節で、「わたしの魂は満ち足りました」と、詩人の心境が大きく変化するのですが、これはどこから生じたのでしょうか。一晩祈りを口ずさんだ結果の安らぎなのでしょうか。そうではありません。自分の考える救いではなく、御心を思うことによって神の愛を知ったということです。神はいないのでなく、いつもそばにいてくださいます。神が支えてくださるので倒れないのです。 たとえ何が起こっても、それは神の愛が離れているからではありません。神はご自分の民といつも共におられます。もちろん、きょうも。 【祈り】 天の神よ。私たちがあなたの支えを心から信じ、委ねることができるように導いてください。 Fri, 04 Oct 2024 00:10:00 +0000 性的な事柄への神の配慮と癒し(レビ記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241004 no 2024 あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、…彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい。 (レビ記15章31節) 今、子どもたちに体の性的な部分について教えるときには、「プライベートな部分」という言い方を用い、性的な事柄はもっとも個人的で大切にされなければならないと教えられます。人のもっともプライベートな事柄に関して律法で規定されているということは、そこに「汚れ」が入ってくる恐れがあるということ、プライベートな事柄まで神は配慮してくださっているということです。 内容は、男女の正常漏出による汚れと、病的な異常漏出による汚れについてです。いずれもある一定の期間「汚れている」者として節度ある行動が求められ、その後、正常漏出については水で洗うことによって、異常漏出については贖いの儀式をおこなうことで清められるとされています。 異常漏出については、新約聖書の「長血の女」の出来事が有名です。主イエスは背後から服の房を触れて癒しを求めるその女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われ、贖い主イエスを通して汚れを清めてくださる主なる神の御心が示されました。 このように、性的な事柄については、主を畏れつつ秩序と慎みをもって営まれることが求められていると同時に、そこにも主イエスの癒しが与えられていることを感謝します。 【祈り】 聖なる神さま。性的な事柄についても汚れを受けないように、きょうもわたしをお守りください。 Thu, 03 Oct 2024 00:10:00 +0000 どんなに欠けだらけであっても(マタイによる福音書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241003 no 2024 「『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」 (マタイによる福音書25章40節) 主イエスは、終わりの時に備えるよう教え、御国を受け継ぐ者とされた人たちに語りかけます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。しかし、救われた人びとは驚きます。そんな記憶がないからです。 そんな彼らに、主イエスはおっしゃいます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。 聖書は、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(1ヨハ4章21節)と語ります。主イエスが命を懸けて私たちを愛してくださったように、私たちも御言葉に従い、私たちの隣人を愛し、仕えたいと願います。しかし、私たちの業は欠けだらけで、思うようにいかないことばかりです。 けれども主イエスは、主イエスに仕えようとする、どんなに小さな業も決して空しく終わらせません。そこに主イエスがおられるからです。記憶にも残らないような小さな愛の業すら、主イエスは驚くほどに喜んで受け取ってくださるのです。 【祈り】 主よ、きょうも、あなたが与えてくださった目の前の方に、愛をもって仕える者としてください。あなたがまずわたしを愛してくださったように。愛する主イエスに仕えるように。 Wed, 02 Oct 2024 00:10:00 +0000 決して滅びない言葉に従う(マタイによる福音書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241002 no 2024 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 (マタイによる福音書24章35節) 「飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。…偽預言者も大勢現れ、…不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と主イエスは弟子たちに語られました。主イエスの言葉に怯える弟子たち、そして弟子たちと同じように怯える私たちに、主イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語りかけられます(13節)。 しかし、いくら「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われても、心が揺れます。いったい、こんな弱いわたしが、主イエスのおっしゃる苦難を耐え忍ぶことなどできるのだろうかと。そのとおりです。私たちの中には、この苦難を耐え忍ぶ力など、どこにもありません。 そのような私たちの弱さを、主イエスは誰よりもご存じです。主イエスは怯える私たちと世の終わりまで、片時も離れることなく共にいてくださいます(28章20節)。 私たちに大切なことは、共におられる主イエスよりも前に出ないことです。自分の力や知恵に頼らず、目を覚まして、決して滅びない主イエスの言葉の後に従って歩むことです。 いかに悪がはびころうと、決して滅びることのない言葉そのものである主イエスが、私たちを堅く守りぬいてくださいます。 【祈り】 主よ、心揺れる私たちを顧みてください。決して滅びないあなたの言葉に従う者としてください。 Tue, 01 Oct 2024 00:10:00 +0000 時が過ぎ去る前に(マタイによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20241001 no 2024 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」 (マタイによる福音書23章37節) 神はイスラエルの民を救い出そうと、これまで幾度となく御手を差し伸べて来られました。しかし、ユダヤ人たちはその度にその手を払いのけ、神の救いを拒み続けました。そして今、天から遣わされた神の御子をも十字架に架けて殺そうとしています。 主イエスは、その彼らの不信仰を嘆かれ、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と告げられました。雛はめん鳥の庇護が無ければ、生きていくことはできません。人間もまた神の助けと守りがなければ、倒れるしかありません。そこで主イエスは、神の救いを拒み続ける人びとに、「見よ、お前たちの家は見捨てられ…る」と告げられました。しかしそれは、もうお前たちは滅びてしまえばよい、という死刑宣告ではなく、そうなる前に神に立ち帰れという呼びかけなのです。 神はきょうも私たちに、あなたがたは滅びてはならない、時が過ぎ去る前にわたしのもとに帰れ、我が翼の下に入り生きよ、と呼びかけておられます。その神の御声を聞くことのできる今は、恵みの時です。きょう、この神の御声に「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と答えて、イエスを主として心に迎えることができる者は幸いです。 【祈り】 愛する神よ、時が過ぎ去る前に、あなたの呼びかけに答えることができますように。 Mon, 30 Sep 2024 00:10:00 +0000 神の銘をこの身に刻まれて(マタイによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240930 no 2024 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章21節) 主イエスのもとを訪ねたファリサイ派の人びとは、ローマ帝国に税金を納めることは正しいかどうかを尋ねます。ここで主イエスが納税を正しいと言えば、ローマ帝国に反感を持つ民衆の支持を損なわせることができますし、反対に否定すれば、ローマ帝国に反逆する者として主イエスを訴える口実となります。 しかし主イエスは、政治的な議論ではなく、日常の生活から彼らの質問に答えられます。彼らが持っているデナリオン銀貨を取り出させて、そこに刻印されている皇帝の肖像と銘を確認させた上で、「皇帝のものは皇帝に…返しなさい」と答えられます。そして、彼らは普段はそこに皇帝の像が刻まれているかどうかを気にせずに、お金や利益を得ることに夢中になっているのに、なぜ税金を払う時に限って敬虔な振りをするのかと、主イエスは問い掛け、彼らの偽善的な態度を指摘されます。 そして、最後に主イエスは「神のものは神に」と付け加えられます。ローマ銀貨に皇帝の像と銘が刻まれているように、人は神の像に似せて造られた神のかたちです。そして信仰者の心には、神の言葉が刻み込まれているのです。私たちはこの神のものであり、私たちの日常のどの場面においても、神がその中心におられます。 【祈り】 愛する神よ、きょう私たちが遣わされる日常のどの場面においても、神がその中心におられますように。 Sun, 29 Sep 2024 00:10:00 +0000 主イエスが教える味方の姿(マルコによる福音書 9章38-50節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240929 no 2024 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」 (マルコによる福音書9章40節) ヨハネは主イエスの弟子として、このお方の近くで仕えていた人です。それゆえに、誰よりも主イエスの立派な弟子であろうと熱心に努力していたことでしょう。その熱心さのゆえに、主イエスの近くで仕える自分こそが、救い主の代弁者であるかのように思ってしまったのでしょう。その結果、自らの意に沿った働きをしない人びとを、主イエスを含む自分たちの敵とみなしたのでした。 それに対して主イエスは、逆らわない者は味方であると言われます。このお方は、ご自分の弟子に1杯の水を飲ませるような小さな業をも、自らに味方する者の大切な働きとして認めてくださいます。それどころか、十字架において自らを殺そうとしている敵をも赦して、味方になるように招いてくださいました。 私たちはどうでしょうか。ヨハネのように、わずかでも自らの意に沿わない人を敵とみなしていないでしょうか。その人を、神に逆らう極悪人として裁いてはいないでしょうか。こうしてすぐに敵を作りたがる私たちに、主イエスは、逆らわない者は味方なのだと教えられます。自らの意に沿わない人びとを敵とみなすのではなく、その人びとと共に神に仕えるようにと、主イエスはきょうも招いておられます。 【祈り】 自らを殺そうとする敵をも愛し、味方に招かれる主イエスの愛を、私たちにも与えてください。 Sat, 28 Sep 2024 00:10:00 +0000 愛ゆえの熱心な諭し(箴言 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240928 no 2024 鞭を控えるものは自分の子を憎む者。 子を愛する人は熱心に諭しを与える。 (箴言13章24節) 箴言13章は、父の諭しを受け入れることによって、子が知恵を得ると語り始めます。そして、「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」(24節)との言葉に行きつきます。「愛の鞭」という言葉が思い起こされますが、本来、「諭し」とは思慮深い言葉をもってするものですので、鞭を振り回すわけではありません。ただ、我が子を愛していればこそ、しっかり戒めるということもあるのです。 神も、私たちを子としてご覧になるがゆえに、しっかりした戒めを与えることがあります。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘブ12章7節)。鍛錬のための試練があり、それは、愛する子であるが故なのです。親から諭されない子がいるとしたら、その子ほど不幸な子はありません。今、不幸であるだけでなく、その子の行く末はどうなるでしょうか。 ただ、この章を読んで思います。自分はこのように諭しの言葉を立て板に水のごとく語ることができるだろうか、と。まず親に、子としての、諭しが必要です。 【祈り】 父が私たちを諭してくださいますように。ふさわしい知恵をいただいて、ふさわしく子を諭すことができますように。 Fri, 27 Sep 2024 00:10:00 +0000 主が成就した清めの儀式と犠牲の血(レビ記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240927 no 2024 祭司は焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を祭壇で燃やしてささげる。祭司がこうして、彼のために贖いの儀式を行うと、彼は清くなる。 (レビ記14章20節) きょうの箇所には、重い皮膚病を患った人が祭司によって清めの儀式を受けるときの規定が記されています。この儀式は8日間にわたって行われるもので、前半の清めの儀式と後半の贖罪の儀式がセットで行われます。その間の7日間は、「清くなった」状態となり、宿営に戻ることができますが、引き続き自分の天幕の外にいなければならず、8日目の儀式の備えをしながら待ちます。 汚れた者として隔離されていた困難の時を思い起こしながら、あらためて、そこにも神の御手があったこと、祈りが聞かれたことを感謝し、救われた喜びを心に刻む期間となったことでしょう。 そして8日目に贖罪の儀式を献げますが、そこで屠った雄羊の血を清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗ります。この儀式を経て、彼は全く清くされたものとして再び神の民として生きることができるのです。 この犠牲の血は、やがて来られる主イエスの十字架の贖いを予表しています。そして清めの儀式は、主イエスが来られた後の教会では、洗礼へと引き継がれます。私たちも受洗の時のことを思い起こし、主イエスの十字架の犠牲によって救われた喜びを改めて噛み締めたいと思います。 【祈り】 聖なる神よ。主イエスの十字架の血潮によって清められ神の民とされたわたしを受け入れてください。 Thu, 26 Sep 2024 00:10:00 +0000 主がわたしと共におられるから(民数記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240926 no 2024 イスラエルは主に誓いを立てて、「この民をわたしの手に渡してくださるならば、必ず彼らの町を絶滅させます」と言った。 (民数記21章2節) 主の民イスラエルは、かつて、約束の地に強い民族が住んでいると聞き、おじけづいて、カナンに攻め上ることをためらいました。(13、14章)。その後、自分たちの過ちに気づいた民の中から、カナンに攻め上ろうと立ち上がる者たちも出ましたが、そのときには神が共におられなかったので、彼らは逆にカナン人に撃退されてしまいました(14章40~45節)。 そのような出来事から40年ほどが経過し、再び主の民がカナンと戦うときが訪れました。今度は、40年前の過ちを繰り返さないよう、民は神に誓いを立てました。その誓いは、神が民と共におられ、神がカナン人を主の民の手に渡してくださるならば、という条件付きです。自力で戦い、自力で勝利しようとは考えない、謙虚な誓いです。そしてそれは、「必ず…絶滅させます」という誓いでした。絶滅とは、戦利品を手元に残さずにすべてを神にささげ尽くすことです。神はこの言葉を聞き入れ、主の民を勝利に導かれました。民はその勝利を、神にささげました。 私たちの今日の営みも、主が共におられればこそ、首尾よく進みます。きょうの実りは、主の恵みによる成果です。主に感謝して受けましょう。 【祈り】 わたしがきょう受け取るものによって、わたし自身を誇るのでなく、主をほめたたえることができますように。 Wed, 25 Sep 2024 00:10:00 +0000 渇きをいやし罪を記念するメリバの水(民数記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240925 no 2024 これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。 (民数記20章13節) 神の導きによって出エジプトの旅を続けていた主の民イスラエルは、道中たびたび「水がない、食糧がない」と不平を漏らしました。ツィンの荒れ野に入ったときにも、民は「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」(3、4節)と不平を漏らし、預言者モーセ、祭司アロンと言い争いました。 神から「岩に向かって、水を出せと命じなさい」との指示を受けたモーセは、預言者として、神が水を出してくださったことを民に示す必要がありました。それにもかかわらず、苛立っていたのか、彼はまるで自分が水を出してやったかのように民の前で振る舞いました。神はその態度を「わたしの聖なることを示さなかった」罪だと指摘なさいました。その泉は「メリバの水」と呼ばれるようになりましたが、それはこの一連の出来事を民の記憶にとどめるためでした。 主の民はメリバの水を想起するたび、自らの罪と、神により渇きがいやされたことを思い出しました。私たちも主イエスが処刑された十字架を見るたび、自らの罪を覚えると同時に、主から命の水が与えられたことをも思い出します。 【祈り】 神よ、主の十字架によって、きょうも私たちを、罪の悔い改めと救いの恵みの喜びに導いてください。 Tue, 24 Sep 2024 00:10:00 +0000 きよめに与るための障壁は低い(民数記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240924 no 2024 3日目と7日目に、身の清い人が汚れた者に振りかける。汚れた者は、7日目に身を清め、衣服を洗い、体に水を浴びると、夕方には清くなる。 (民数記19章19節) 人の死は、罪によってもたらされたゆえに、神礼拝にふさわしくない「汚れ」と結びついています。人間の共同体にとって死は遠い存在ではありません。礼拝祭儀を執り行う祭司は汚れを聖所に持ち込まないよう、日常生活において細心の注意を払いました。その他の人たちもまた、死体に近づいて汚れたことが明らかであるときは、主の幕屋から距離を取るために、宿営から出されました(5章2、3節)。汚れた状態でうっかり聖所に近づき、聖所を汚してしまうことがないようにするためです。 汚れを放置なさらない神は、汚れた民が宿営に復帰できるようにと、清めを象徴する赤毛の雌牛とその血、杉の枝、ヒソプ、緋糸を原料とした灰を製造するよう、民に指示なさいました。規定通りに製造された灰を水にまぜて振りかければ、祭司以外の人でも清めの儀式を執り行えます。こうして、汚れた人もスムーズに宿営に戻ることができるのです。 私たちは罪に汚れた身でありながら、罪赦され、礼拝共同体に復帰するようにと招かれています。主イエスの十字架の犠牲による清めが私たちを復帰させますが、その清めにあずかるのは難しいことではありません。仰々しい儀式でなく、信仰によってあずかるのです。 【祈り】 神よ、わたしがあなたへの礼拝にいつも向かえるように、救い主キリストをお与えくださり感謝します。 Mon, 23 Sep 2024 00:10:00 +0000 神と隣人のために仕える祭司(民数記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240923 no 2024 主はアロンに言われた。「あなたとあなたの子ら、ならびにあなたの父祖の家の者らは、共に聖所に関する罪責を負わねばならない。…」 (民数記18章1節) 主なる神は目に見えない存在ですが、そのご存在を民に示すために、あえて一つの幕屋をご自身の住まいとしてお定めになりました。主の幕屋を他と区別するため、神は、主の民イスラエルのうちレビ族でない「一般の人」が主の幕屋に近づくことを禁止なさいました。主の幕屋に近づく一般の人は命を取られます。民はそのことを通して、神のご存在に対する健全な畏れを抱くようになります。 しかし、主の幕屋に近づくことが許されていない一般の人たちは、決して神礼拝から退けられているわけではありません。神はイスラエルの人々の中から、主の民を代表して主の幕屋に入り、祭儀を執行する祭司と、祭司の職務を補佐するレビ族の奉仕者とをそれぞれお選びになりました。主の幕屋に入ることが特別に許された彼らの働きが、一般の人たちを含む主の民イスラエル全体と神との間を執り成します。一般の人は、神に選ばれた祭司とレビ族の働きを通して、神礼拝に参与できるのです。 私たちは、永遠の大祭司イエスの執り成しによって罪を赦され、主イエスの御名によって神を礼拝するようにと招かれた主の民です。礼拝への招きに応え、礼拝において神と隣人とに仕える幸いが、私たちには与えられています。 【祈り】 神よ、わたしのような罪人が礼拝に招かれたことを感謝します。畏れをもって主の前に立てますように。 Sun, 22 Sep 2024 00:10:00 +0000 すべての人に仕える者が先になる(マルコによる福音書 9章30-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240922 no 2024 イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 (マルコによる福音書9章35節) 弟子たちは、誰がいちばん偉いかを論じ合っていました。自らの偉さを、互いに主張しあっていたのでしょう。この議論がほめられたものでないことは、彼ら自身も分かっていたようです。それでもなお、自らが他者よりも偉いことを主張せずにはいられなかったのです。自らが偉い者であることに固執する傲慢さは、弟子たちだけでなく誰もが持っています。この傲慢さの裏側には、自らが他者より劣っていることへの恐怖があります。この恐れが、弟子たちに無益な議論をさせたのです。 そのような彼らに教えられた主イエスの言葉が35節です。常識的に考えるならば、他者を思いのままに仕えさせる者こそが偉いのです。しかし主イエスは、皆に仕える者こそが弟子のなかでいちばん先になると言われます。この秩序においては、もはや自らと他者のどちらが偉いかを気にする必要はありません。 教会は、主イエスが教えられたこの秩序が実現する場所です。ここでこそ私たちは、自らが他者より劣ることへの恐怖から解放されます。普段私たちは、偉い人が称賛され劣った人が軽んじられる世の中を生きています。しかし、きょうは主の日です。教会で、誰かと比べる必要のない自由を謳歌しようではありませんか! 【祈り】 自らが他の人びとより劣っていることを恐れる私たちに、互いに仕えあう自由を与えてください。 Sat, 21 Sep 2024 00:10:00 +0000 諭し懲らしめを受け入れる(箴言 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240921 no 2024 諭しを愛する人は知識を愛する。 懲らしめを憎む者は愚かだ。 (箴言12章1節) 箴言12章は、神に従う者と逆らう者の違いを語っています。「神に従う人は苦難から逃れ出る」と言われていますが(13節)、これは苦難がないということではなく、苦難に打ち倒されないようにしてくださるということです。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリ10章13節)。人を打ち倒すことが目的ではありませんから、逃れる道も備えられています。ただ、人を鍛え、高め、罪人を神の御前に立つ者とするために、神が人を懲らしめることはあります。 その結果、神に従う人と逆らう人の違いは、語る言葉の違いとなって現れるとされています。その根底にあるのが、後半で繰り返される「無知」です。人間はそれに気づきにくい者でもあります。聖書を熱心に研究していた人たちは、自分たちは物事が分かっていると思っていました(ヨハ9章41節)。しかし、自分は分かっていると思うなら、苦難はおろか、自分と異なるものを受け入れることはできません。そのような「罪」(同)のためにも、キリストは神に従って、御心に適う言葉を語り、十字架にかかってくださったのです。 【祈り】 苦難の中にあっても神に従うことができますように。 Fri, 20 Sep 2024 00:10:00 +0000 神が与えた特別な病の中で(レビ記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240920 no 2024 祭司が調べて、確かに患部が白くなっているならば、「患者は清い」と言い渡す。その人は清いのである。 (レビ記13章17節) きょうの箇所は、重い皮膚病についての規定が記されています。この病は聖書によく出てきますが、この病の特別さは、疑いがあるとき、その診断と判定を医者ではなく祭司が行うという点です。つまり、この病は医学的な病というよりも、宗教的な意味合いが強い病であると言えます。また、この病は神のしるしという側面がありました。モーセやミリアムも、神の御業として重い皮膚病にかかっています。それゆえ、この病にかかったら、「あなたは汚れている」と公式に宣言され、病が治っても清めの儀式を経て「あなたは清い」と宣言されるまで、慎重に取り扱われます。また、病の期間は厳重に共同体から隔離されていました。 この病を治す方法はありません。祭司も治療するのではなく、診断をするだけです。ですから患者は、ただ神によって清められることを待ち望むしかありませんでした。しかも神殿に行くこともできず、同じ境遇の人たちと隔離された場所で、孤独と絶望の淵でただひたすら神に癒されることを祈るしかないのです。 主イエスは、この病を清める方として来られました(ルカ7章22節参照)。神は病める者の祈りを聞かれ、汚れを清めて救われるために、御子を遣わされたのです。 【祈り】 聖なる神よ。きょうも、主イエスによって汚れを清められた者として、清い生活を送らせてください。 Thu, 19 Sep 2024 00:10:00 +0000 神が任命した祭司だけが本当の祭司(民数記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240919 no 2024 「アロンの杖を…反逆した者たちに対する警告のしるしとして保管しなさい。そうすれば、わたしに対する不平がやみ、彼らが死ぬことはない。」 (民数記17章25節) 神礼拝にふさわしい「神に属する聖なる者」(15章40節)となるために選ばれた主の民イスラエルであっても、実際には罪人であり、聖所をけがす恐れがありました。それゆえ神は、聖所に入って祭儀を執行できるのは祭司だけだとお定めになり、アロンとその子らを祭司として任命なさいました。 そのことに反発した者たちは神の裁きによって滅ぼされましたが(16章)、その後もアロンに逆らう者が後を絶たず、神は民を滅ぼそうと災害を起こされました。そのとき、祭司アロンが香をたいて罪を贖う儀式を行うと、神は災害をお止めになりました。祭司だけが、神と民との間を執り成す祭儀を執行することができるのです。 神は御自身がお選びになった祭司を改めて示すため、十二部族の代表者の杖のうち、アロンの杖にだけアーモンドの花と実を結ばれました。やはり神によって指名されたアロンとその子孫たちだけが、祭司としての任務を果たすことができるのです。 アロンの祭司職は、のちの主イエスの職務を指し示すものでした(ヘブ5章1~5節)。主の民を救う主イエス以外に、神と民との間を執り成すものはありません。 【祈り】 神よ、わたしがきょうも他の何ものにも頼らず、主イエスの執り成しにのみ依り頼みつつ歩めるように、お導きください。 Wed, 18 Sep 2024 00:10:00 +0000 神は裁きをもって民に教える(民数記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240918 no 2024 彼らと彼らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして、会衆の間から滅び去った。 (民数記16章33節) 神とその御言葉を常に思い起こす、神との誠実な関係に招かれていた主の民イスラエルの中にも、その招きに反発する者たちがいました。彼らは神が立てた民の指導者モーセとアロンに逆らい、また御言葉にも逆らったために、神の怒りを買いました。神はモーセを通して民に「この神に逆らう者どもの天幕から離れなさい。彼らの持ち物には一切触れてはならない。さもないと、彼らの罪のために、あなたたちは滅びる」とお告げになり(26節)、多くの民はそれに従いました。しかし、反逆者たちはこの警告の言葉を信じず、その指示に従いませんでした。 神はモーセを通して「彼らが生きたまま陰府に落ちるならば、この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは知るであろう」とおっしゃいました(30節)。神は、招きを拒む不誠実な者を滅ぼすことによって、民に、神に対して誠実であるべきことをお示しになったのです。 神に誠実であることは、自己を神より低い位置に置くことです。私たちはときに自己正当化のため、御言葉に背く態度をとり、神より優位に立とうとしてしまいます。神は、それはいけないと、厳しい裁きを見せて主の民を諭されます。それは民に神との健やかな関係を教えるためです。 【祈り】 神よ、きょうもわたしが、あなたに対して誠実で、身を低くしていられるように、御言葉で諭してください。 Tue, 17 Sep 2024 00:10:00 +0000 神による礼拝への招き(民数記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240917 no 2024 あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。 (民数記15章40節) 神は、主の民イスラエルに「代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい」と命じられました(38節)。神を象徴する青いひもによって、その房は神とその御言葉を民に思い起こさせる房となります。民は、46時中、身に付けている房を見ては御言葉を思い起こし、それを守るということを求められたのです。 衣服に房を縫い付ける理由として、神は「あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」とおっしゃいました(39節)。ここでの「みだらな行い」とは、結婚関係を破壊する不品行だけでなく、人間と神の関係を破壊する偶像礼拝をも意味します。青いひもを付けた房を身に付けた民は、結婚指輪をはめた夫と妻のように、エジプトから救い出してくださった神に対して誠実であろうとします。 大切なことは房そのものではなく、神に対して誠実であることです。神は「あなたたちは…あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい」とお告げになりました(40節)。神に対して誠実であれという指示は、神による、神礼拝への招きです。神に対して日々罪を犯す民も、悔い改めて、神との関係を再構築し、礼拝するようにと招かれています。 【祈り】 神よ、私たちの罪をキリストのゆえに赦し、あなたとの関係の再構築に日々招かれることに感謝します。 Mon, 16 Sep 2024 00:10:00 +0000 長寿はまことの神の賜物である(コヘレトの言葉 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240916 no 2024 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。 しかし、長生きしながら、… 死んで葬儀もしてもらえなかったなら 流産の子の方が好運だと…。 (コヘレトの言葉6章3節) 敬老の日に相応しく、長寿についての御言葉を聞きたいと思います。 長寿の幸いとは、何によって決まるのでしょうか。申命記4章40節で、神は、「今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる」と言われます。神がおっしゃる長寿の幸いは、「主の掟と戒めを守」ることによると教えられています。 逆に、コヘレトの言葉6章では、この世で富を築き、「百人の子を持ち、長寿を全うした」としても、「財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だ」と、長寿が幸いであるとは言いません。なぜなら、私たちの長寿は、神からの賜物であり、まことの神の御言葉である聖書の中に記された「主の掟と戒め」を守り生きるとき、本当の長寿の喜びが与えられるからです。 主からいただく命の長さはさまざまです。この世に生を与えられなかった「流産の子」であっても、「主の掟と戒め」に生きる両親の信仰によって育まれた命は、両親の誠実な信仰の故に祝福されるのです。真の長寿の幸いとは、この世での命の長短ではなく、神への忠実な信仰に生きる者たちに与えられる神の賜物です。 【祈り】 神よ。人の命はあなたの御手の内にあります。そのことを覚え、幸いな人生を歩むことができますように。 Sun, 15 Sep 2024 00:10:00 +0000 排斥され殺される救い主(マルコによる福音書 8章27-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240915 no 2024 イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、…排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 (マルコによる福音書8章31節) 主イエスは、自らが多くの苦しみを受け、排斥されて殺されて、3日目に復活することを弟子たちに教え始められます。するとペトロは主イエスをいさめ始めます。この行動は、一見すると主イエスを守ろうとする信仰的な姿に映ります。けれども、その心にある人間的な思いを、主イエスは厳しく指摘されます。 弟子の評価は、その人の従う先生の評価に強く依存します。それゆえ、主イエスが排斥されて殺さるのでは、ペトロにとって不都合です。自らが人生をかけて従う救い主だからこそ、誰よりも立派であってほしい。それが主イエスをいさめたペトロの心の中にあったことでした。 私たちにとっても、弱さの中にある主イエスをわたしの主として受け入れることは簡単ではありません。それよりは、自分の評価を高めてくれる強くて理想的な救い主像を、主イエスに投影しようとします。しかし、そのようなご都合主義の救い主に、人の命を救う力はありません。 御言葉に示された救い主。それは、私たちの理想とはほど遠い、十字架上で死なれた弱々しい救い主です。しかし、排斥されて殺されたこのお方こそ、死に打ち勝って復活された救い主です。このお方にこそ、人の命を救う確かな力があります。 【祈り】 自分勝手に望む救い主ではなく、あなたが与えてくださった真の救い主を受け入れさせてください。 Sat, 14 Sep 2024 00:10:00 +0000 慈善は死から救う(箴言 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240914 no 2024 怒りの日には、富は頼りにならない。 慈善は死から救う。 (箴言11章4節) 箴言11章は、「神に従う生き方」と「神に逆らう生き方」を対比して、前者を選ぶように勧めています。その中で注目されているのが経済的な事柄についてであり、そこにおいて、「慈善」が勧められます。 神の御前に生きる人は富を頼りにしません。裁きの日には、富は何の役にも立たないことを知っているからです。キリストも同じことを言われます。「愚かな金持ちのたとえ」(ルカ12章16~21節)において、自分のために蓄財することだけを考えていた金持ちが不意に命を取られることとなり、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と神に突き放されるのです。 ここで、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われています。その人のものでなくなるのは間違いありません。それを自分から進んでするのが慈善です。 英語の「チャリティー」が日本語で「慈善」と訳されますが、「チャリティー」は神の恵みを意味するギリシャ語の「カリタス」から来ています。富は誰のものか。神のものです。だからこそ、自分のためにため込むのではなく神に返すのが御心にかなうことですし、「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う」のです(25節)。 【祈り】 恵みを受けた者にふさわしくあることができますように。 Fri, 13 Sep 2024 00:10:00 +0000 新しい命の誕生に関わる汚れと清め(レビ記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240913 no 2024 祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。 (レビ記12章8節) きょうの箇所は、出産に関わる汚れと清めについての規定が記されています。出産が汚れていると聞くと、新しい命の誕生は喜ばしいことなのになぜ「汚れ」とされているのかと疑問に思います。もちろん、「出産」自体が汚れたものと考えられていたわけではないでしょう。創世記1章に「産めよ、増えよ」とありますから、出産は神のご命令であり祝福であります。しかし、今もそうですが、当時の出産は死と隣り合わせでした。聖書にはヤコブの妻ラケルなど女性たちが出産時に亡くなったことを伝えています。また、出産後の女性の回復の期間も必要です。いずれにしても、主は出産後を特別に配慮を必要とする期間として定められました。 定められた清めの期間が終わると、女性は礼拝を献げることを通して再び共同体に復帰することが認められています。この期間、汚れた者としての自覚と、その汚れが主によって贖われることを経験しますから、この礼拝は出産した女性にとって特別な礼拝となるでしょう。私たちもまた、自らの罪を自覚し、主イエスの十字架によって罪が贖われた喜びと感謝のうちに新しい命を生きる者として礼拝を献げています。きょうも、主イエスによって与えられた新しい命を喜ぶ者として歩んでまいりましょう。 【祈り】 聖なる神よ。きょうも、主イエスの十字架の贖いによって与えられた新しい命に生かしてください。 Thu, 12 Sep 2024 00:10:00 +0000 まことの王が来られる(マタイによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240912 no 2024 「ダビデの子にホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」 (マタイによる福音書21章9節) いよいよエルサレムへ到着した主イエスは、ろばの子に乗って町に入られました。すると人びとは、「ダビデの子にホサナ」と口々に叫びながら、自分が着ている衣服や木の枝を道に敷いて、歓喜をもって主イエスを迎え入れました。さらに、主イエスが神殿にいた目の見えない人や足の不自由な人を癒されると、そこにいた子どもたちまでが「ダビデの子にホサナ」と口々に叫び始めました。 主イエスはこれまで、誰かの病を癒されたときに、このことを誰にも告げてはならないと、たびたび戒められました。しかし主イエスはこのとき、人びとの賛美の声を遮ろうとはされませんでした。罪人の救いを成し遂げるためにこのエルサレムに来られた主イエスは、約束のメシアとして公然と人びとの前に立たれたのです。もはや、このお方が救い主であることを人びとに隠す必要はありません。私たちはむしろ大声で喜びの叫びをあげて、キリストをほめたたえ、まことの王が来られたことを、人びとに告げ知らせるのです。 そして、十字架の死と復活によって罪人の救いを成し遂げられたキリストは、もう一度私たちのもとにやって来られます。今度は、新しいエルサレムにご自分の民を迎え入れるために、ろばの子ではなく、雲に乗って。 【祈り】 愛する主よ、私たちはきょうも、まことの王が再び来られる日を待ち望み、主の御名を賛美します。 Wed, 11 Sep 2024 00:10:00 +0000 仕えるために来られた王(マタイによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240911 no 2024 「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 (マタイによる福音書20章27節~28節) 主イエスは、三度目の受難予告をされましたが、弟子たちはその真意を悟ることができませんでした。それどころか、来たるべきキリストの王国において他人よりも高い地位や報酬を得ようとして、仲間の弟子たちをも出し抜こうと画策します。 そこで主イエスは、彼らの思い違いを戒めて、新しいキリストの王国においては偉いとされる者は、皆に仕える僕となる者であると教えられました。なぜなら、この王国を支配する王ご自身が、人を支配し仕えさせるためにではなく、人に仕え、隣人のためにご自分の命を棄てる謙遜な王だからです。キリストが神の御子の栄光を捨てて仕える者となられ、最後には強盗と共に十字架に架けられるほどにご自分を低くしてくださったからこそ、私たちは今、神の子どもとされるという素晴らしい報酬をいただくことができるのです。 もし私たちがこのお方のように自らを低くして、互いに仕えあうことができたなら、そこはきっとキリストの愛が支配する素晴らしい場所になるでしょう。それこそが神の国なのです。きょう私たちがそれぞれに遣わされていく場所で、自分を低くして人に仕える僕となって生きるときに、そこはキリストの愛の支配が実現する神の国となるのです。 【祈り】 愛する主よ、私たちがきょう、遣わされていく場所で、人に仕える者とならせてください。 Tue, 10 Sep 2024 00:10:00 +0000 人間にできなくても神にはできる(マタイによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240910 no 2024 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 (マタイによる福音書19章26節) 一人の青年が主イエスを訪れて、「永遠の命を得る」方法について尋ねました。この青年は、これまで律法の教えは「みな守ってきました」と断言できるほど、真面目に生きてきました。しかし、そのようにいくら努力を重ねても、この青年の心には、自分は永遠の命を得ることができるという確信がありませんでした。そこで彼は途方にくれて問いかけるのです。「まだ何か欠けているでしょうか」。 律法に従おうと懸命に努力してきたこの青年でさえ、そのままでは永遠の命には届かないと言われます。だとすれば、なおさらのこと、私たちが永遠の命を得るためには、一体どれほどの欠けを埋めなければならないことでしょうか。そして、その多くの欠けを、自分の努力や善行で埋めなければならないのだとしたら、私たちもまた途方に暮れて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と呟くほかありません。 しかし主イエスは、その欠けだらけの私たちに、慈しみ深いまなざしを向けてこう言われるのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」、この神の権威と愛に信頼すること、それこそが、欠け多い私たちが永遠の命を得ることができるただ一つの方法なのです。 【祈り】 愛する主よ、欠け多い私たちにも、永遠の命をお与えになることができるあなたの御力を賛美いたします。 Mon, 09 Sep 2024 00:10:00 +0000 後になって悔いてみせる身勝手さ(民数記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240909 no 2024 「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」 (民数記14章19節) 約束の地の入り口まで到着したイスラエルの民でしたが、偵察隊の報告に恐れをなし、泣き言を言い、「エジプトへ帰ろう」とまで言い出します。神は神を信頼しない民に憤られます。もう何度も、イスラエルは神を試み、その声に聞き従おうとしませんでした。神は、この民を捨て、モーセをもってイスラエルよりも強大な国民としようと言われます。しかし、今回もモーセの執り成しによって、神は直ちに民を滅ぼすことはなさいませんでした。 ただし彼らの不信の報いは小さくありませんでした。神は、民が荒れ野に進み、40年、罪を負って荒れ野に留まり、不信仰な世代が皆滅びなければならないと宣告します。 宣告を聞いた民は深く嘆きました。そして彼らは自分たちの誤りを認め、今からでも神の意志に従って約束の地に攻め入ろうと言い出すのです。 しかし、それもまた神の御心に背くことでした。神は時に応じて相応しく民を導きます。時にはその導きは裁きとなり、私たちに厳しいものと感じられることもあります。しかし、たとえそのとき苦難と感じても、神が共に進んでくださるところに進むのが神の民の進む道なのです。自分の思いではなく、神の御心の実現を願いましょう。 【祈り】 主よ、あなたの御心を示してください。私たちがきょう、その御心に従う者となれるようにしてください。 Sun, 08 Sep 2024 00:10:00 +0000 望み続けたその先に(マルコによる福音書 7章24-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240908 no 2024 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 (マルコによる福音書7章28節) 熱心に主イエスに願った女性に対する主イエスの最初のお答えは、そっけないものでした。それを聞いたこの女性は戸惑ったはずです。それでも彼女は、主イエスに対して、なおパン屑を求めます。自らが期待した反応が主イエスから得られなくても、彼女は失望せず主イエスに求め続けました。ここに彼女の信仰があります。その姿を主イエスはお認めになり、この女性の願いを聞き入れてくださいました。 頑張った人の願いが真っ先にかなえられるべきである。それが世の中の常識なのかもしれません。その常識に基づいた計らいを、どこかで私たちも神に期待してしまうことがあるのです。身を粉にして神に仕えた自分の願いこそ、神は真っ先にかなえてくださるはずだ、と。しかし、その期待はしばしば裏切られます。それゆえに私たちは、戸惑うのです。 自らの願いがかなえられることを神に期待するのがいけないのではありません。大切なことは、自らの期待とは違ってもなお、失望せずに求め続けることです。期待して、主イエスに求め続けることです。たとえあなたが期待するような結果が得られないときがあったとしても、神は御言葉をとおして、あなたを十分に満たしてくださいます。 【祈り】 あなたの言葉に私たちが期待し続けることができますようお守りください。 Sat, 07 Sep 2024 00:10:00 +0000 神に従う者は祝福される(箴言 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240907 no 2024 神に従う人の名は祝福され 神に逆らう者の名は朽ちる。 (箴言10章7節) 箴言は10章から本論に入ります。10章のテーマは、「神に従う者は祝福され、神に逆らう者は呪われる」です。イスラエルの賢者たちは、「知恵のある正しい行いが報われ、愚かで悪い行いが罰せられる」と信じていました。神がこの世を支配するのは、因果応報による、と考えていたのです。しかし、善人と思われる者が苦しみを受けて倒され、悪人と思われる者が満たされて栄える不条理が、私たちの生きる現実にはあります。 主イエスは、因果応報を否定されます。神殿でいけにえをささげようとしていた人がローマ帝国の総督の命でその場で殺害されたことを伝えられた際、主イエスは言います。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13章3節)。神の目に善人などいません。善行をしているときに命を落としても、不思議ではありません。だからこそ、神の子が人の罪を肩代わりして、十字架でいけにえとならなければならなかったのです。 そして、十字架によってこそ、「知恵のある正しい行いが報われ、愚かで悪い行いが罰せられる」ことになります。「知恵のある正しい行い」とは、自分の罪を認め、救いに至る唯一の道であるキリストを信じて救われることです。そこに祝福があります。 【祈り】 私たちの救い主が、私たちの思いを新しくし、私たちが神の御心に適って祝福されますように。 Fri, 06 Sep 2024 00:10:00 +0000 汚れから守ってくださる聖なる神(レビ記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240906 no 2024 わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。 (レビ記11章44節) 本日の箇所には、動物や魚などの生き物に関して、主なる神がイスラエルの民に与えられた食物規定が記されています。食物規定というのは、民の健康のことを気遣って与えられた規定ではありません。「汚れたもの」として区別されたものを食べないことを通して、民を神の民として区別され、交わりを持つことを約束された規定です。また、民のほうも、その区別を尊重することを通して、自分が神の民であることを自覚し、証ししているのです。その意味で、「汚れ」とは聖なる神との交わりを妨げることであり、「汚れ」を意識することは神の言葉を生活の中で実践することなのです。 新約時代に入り、この食物規定は主イエスによって廃止されました。使徒言行録10章でペトロに幻が示され、本日の箇所で「汚れている」とされた物を食べるように神は言われました。ペトロは律法に従って今まで口にしたことはないと拒否しますが、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」との神の声が聞こえました。神は旧約時代においては律法を通して民を「汚れ」から守ろうとされましたが、主イエスの十字架によって「汚れ」を洗い清め、主との交わりに入れられたことを教えられたのでした。 【祈り】 聖なる神よ。きょうも一日、食べることを通しても神さまの栄光をあらわす者でいさせてください。 Thu, 05 Sep 2024 00:10:00 +0000 主が共に居てくださる確信と自信(民数記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240905 no 2024 カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」 (民数記13章30節) エジプトからシナイ半島南側を回って約束の地カナンの入口ベエル・シェバまでの出エジプトの旅程は、およそ9百キロ程です。途中の宿営期間を含めても、数ヶ月でイスラエルの陣営は約束の地の入り口に到達したことでしょう。モーセはこれから侵入する地について各部族の指導者を遣わして偵察させます。 確かにその地はとても豊かな地でした。実っていたぶどうは二人がかりで担がなければならないほどでした。しかし、十二部族の代表のうち十人は、その地の住民に恐れを抱き、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ」と悪い情報を流します。 ただ二人、モーセの従者でもあったヌンの子ヨシュアとユダ族のエフネの子カレブは「断然上って行くべきです」と進言します。カレブの自信はどこから来るのでしょう。彼はその土地の住民たちの力強さを侮っているのでしょうか。 もちろんカレブも土地の住民が巨人のように恐ろしいことを見なかったはずがありません。しかし、カレブは自分たちの先頭に立って戦ってくださる神を信頼していました。十人の偵察者は、自分たちの力だけで事態を解決しようとして絶望してしまったのです。私たちは神と共に進むのですから恐れるものはありません。 【祈り】 主よ、あなたが私たちと共にいてくださるから私たちは恐れません。あなたの約束を実現させてください。 Wed, 04 Sep 2024 00:10:00 +0000 兄弟の持つ賜物を妬まない(民数記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240904 no 2024 モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。 (民数記12章3節) 昨日の聖書箇所で、神がモーセに授けていた霊の一部を取って70人の長老に授けられたとき、モーセの従者ヌンの子ヨシュアは、長老たちが預言状態になるのを止めさせようとしました。しかし、モーセは自分の霊が他の人に分け与えられることを妬むのではなく、むしろ「主の民すべてが預言者になればよいと切望している」と言っていました(11章29節)。 ところが、モーセの最も身近な兄姉であるアロンとミリアムがモーセに対して妬みを起こしてしまいました。2人は、神がモーセを通してのみ語ることを妬み、弟モーセを批判したのでした。 神の怒りは激しいものでした。モーセ自身の執り成しにも関わらず、ミリアムは重い皮膚病となり、7日間宿営の外に隔離されなくてはなりませんでした。 神は、私たちにそれぞれに応じた務めと賜物を与えてくださいます。共に生きる人たちが神の霊に満たされ、神の言葉を語ることができるように願うのは大切なことです。隣人の持つ賜物を羨んだり妬んだりすることはありません。神が自分に与えてくださる賜物を感謝し、務めを誠実に担う。そのようにして神の民は建て上げられるのです。 【祈り】 主よ、きょうわたしに与えてくださる務めを確かに教えてください。必要な賜物を十分に与え、務めを担わせてください。 Tue, 03 Sep 2024 00:10:00 +0000 主は必要な恵みをくださる(民数記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240903 no 2024 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」 (民数記11章23節) 荒れ野の旅を始めたイスラエルの民は、すぐに毎日の食事が天からのマナばかりであることに不満を言い始めます。神は憤られますが、モーセの執り成しによって怒りを鎮めます。 しかし、今度はモーセが悲鳴を上げます。民の不満は大きく、モーセ一人が執り成し宥めるには重すぎたのです。神はモーセを補助するために70人の長老たちを立てるように命じます。彼らには神から霊が注がれ、一時的にですが預言状態になります。神は神の民を治める務めに任じられた者に霊を注ぎ、力を与えてくださるのです。 その後、海風に乗ってうずらが宿営の周りに落ちてきます。驚くべきことに、見渡す限り1メートルほどの高さにうずらが積もります。民は2日がかりで山ほどのうずらを集めます。 民がその肉を貪り食べ始めると直ちに、「肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに」、神は疫病によって民を打ち倒されました。私たち人間の貪欲、欲望が、はかりしれないことを思います。山ほどの鳥の肉を手に入れることよりも、ふさわしい時にふさわしいだけ糧を与えてくださる主の力を信頼することこそが、信仰者の誠実さなのです。 【祈り】 主よ、きょうも私たちに日毎の糧を与え、肉体においても、霊においても必要な恵みで満たしてください。 Mon, 02 Sep 2024 00:10:00 +0000 神の民が荒れ野を進んでいく(民数記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240902 no 2024 その箱がとどまるときには、こう言った。 「主よ、帰って来てください イスラエルの幾千幾万の民のもとに。」 (民数記10章36節) エジプトを脱出し、シナイ山の麓でひと月遅れの過越祭を祝ったイスラエルの民は、いよいよ約束の地に向かって出発します。共同体を集める時も、出立する時も、祭司が銀のラッパを吹き鳴らし、民は一団となって進みました。民が滞在する時は、その中心に臨在の幕屋が置かれ、民が進む時は、契約の箱がその先頭を行きました。契約の箱を中心に民の配置や順番、役割が決められていました。イスラエルの民は、神に導かれて整然と秩序正しく進むのでした。 この後イスラエルの民が進むのは、荒れ野の道です。水や食べ物に事欠き、木陰すら稀な厳しい地域を何万という民が進まなければなりません。民の中には高齢者や子どもたちがいました。また、たくさんの家畜もいます。家財道具もそれぞれ運ばなければなりません。その旅は決して簡単なものではありません。支えがなければ乗り越えることができないでしょう。 そのような困難な道行きの中で、彼らが頼るべきなのは神以外にありません。エジプトの奴隷の家から彼らを救い出してくださった神は、約束の地へと向かうその道でも絶えず民と共に居てくださるのです。 神を先頭に進む信仰者の歩みを整然と進んでまいりましょう。 【祈り】 主よ、あなたが私たちの中心に、また私たちの先頭に居てくださることを感謝します。 Sun, 01 Sep 2024 00:10:00 +0000 神の掟か人間の言い伝えか(マルコによる福音書 7章1-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240901 no 2024 「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 (マルコによる福音書7章8節) あらゆる規則には、それを守ることによって実現したい目的があります。法律も、人と人との約束も、そして聖書に記された神の掟も同じです。しかし、本来の目的が無視されて、規則を守ることが目的化してしまうことがあります。すると、その規則は単なる重荷になってしまいます。 神の掟の目的とは何でしょうか。それは神に救われた民が神と共に生きることです。しかし、ファリサイ派の人びとと律法学者たちは、神の掟を形式的に守ることが目的化し、細かい手順ばかりが重んじられました。その結果、彼らは、親に代表されるような、神の御心において大切にされるべき人びとを無視していました。そのような彼らの心は神から遠く離れていると、主イエスは6節で指摘されます。神と共に生きるという神の掟の目的が無視されると、それは神から遠く離れた人間の言い伝えになってしまいます。それは人を救うどころか、かえって人の重荷とさえなってしまいます。 神の掟をはじめとする御言葉も、本来の目的が大切です。それは、キリストの十字架によって私たちの重荷を担い、救ってくださった神と共に生きることです。きょう私たちが礼拝で聞く御言葉をとおして、私たちの重荷を負ってくださる神が確かに私たちと共にいてくださいます。 【祈り】 あなたの言葉によって、私たちの重荷を取り去ってください。 Sat, 31 Aug 2024 00:10:00 +0000 絶望の淵(哀歌 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240831 no 2024 あなたは激しく憤り わたしたちをまったく見捨てられました。 (哀歌5:22) 哀歌は深い哀しみにいろどられた歌ですが、その中には罪の告白の言葉があり、悔い改めと立ち帰りを表明する言葉があり、さらには神を待ち望む歌もあります。 しかし、哀歌の全編は「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」との言葉をもってしめくくられます。この歌は絶望の極みの中で終えられるのでしょうか。もはやいっさいの希望が絶たれたということなのでしょうか。 私たちは、主の民にあってはこのような絶望の深き淵さえも乗り超えられているということを知っています。「3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタ27章46節)。主イエスこそイスラエルと全人類の罪と絶望の淵を知り抜いておられた方です。その方が私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださったのです。十字架上で、御父に見捨てられてくださったのです。世を審判する権威と力をお持ちである方、真の審判者である御子が、私たちを滅びから救い出すために、御父に裁かれてくださったのです。 哀歌が語り示す絶望の深き淵。すでにそこに、イエス・キリストの十字架の光がさし始めているのです。 【祈り】 私たちの救い主、贖いとよみがえりの主を、心からほめたたえます。 Fri, 30 Aug 2024 00:10:00 +0000 聖なる神の聖なる民となる(レビ記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240830 no 2024 あなたたちのなすべきことは、聖と俗…を区別すること、…主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。 (レビ記10章10節~11節) 10、11節は、レビ記の要点です。主の願いは、「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(11章45節)に要約されます。「聖」とは、神の絶対的な尊厳を表す表現で、私たち人間を含むあらゆる被造物とかけ離れた、永遠なる創造主なる神の御性質を表しています。 人類の始祖アダムが神に背いたために、人間も他の被造物も堕落し、人間の考えや在り方も、神中心から人間中心、自己中心に堕落しました。そういう意味では、被造物はすべて、神から離れた俗なるものになってしまったのです。 そこで、神はアブラハムを選び、イサク、ヤコブ、その12人の子どもたちによる十二部族の中からレビ族を選び、御自身と民との仲介者である祭司をお立てになったのです。 けれども本章にあるように、残念ながら、神の民は、最初から神に従うことができませんでした。そんな私たち人間に、神は真の大祭司、イエス・キリストをお与えくださったのです。「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」(へブ13章12節)。 【祈り】 主よ、あなたに従いきれない弱くて罪深い私たちが、イエスによって聖なる者とされたことを感謝します。 Thu, 29 Aug 2024 00:10:00 +0000 主の時に合わせて進むもとどまるも(民数記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240829 no 2024 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。 (民数記9章23節) イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、主に導かれる旅の始まりでもありました。主が離れることなく共におられるしるしとして、昼は雲の柱が先立って進み、夜は火の柱が照らしました。(出13章21節、40章38節)。 「幕屋を建てた日」は、エジプトを出てからすでに一年が経っています。約束の地、安住の地にはもっと早く着けると考えていた人は少なくなかったことでしょう。それでもイスラエルの人々は主の言いつけを守り続け、神の御心に従って進もうとします。雲の柱の動きによって、旅立ちと宿営を繰り返しました。雲が長くとどまれば、「二日でも、一か月でも、何日でも」とどまり続け、「わずかな日数しか」とどまらなければすぐにでも出発しました。 この章の前半でも、過越の規定に救済措置を求める声に対して、モーセは「主が何とお命じになるか聞いてみよう」と神の御心を伺おうとします。自らの経験則や感覚によって判断するのでなく、主が語られることを待ち、示されたことに委ねるのです。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16章9節)。 進みゆくも、とどまるも、私たちの思いを超えて導いてくださる主の時に合わせて歩んでまいりましょう。 【祈り】 わたしの進むべき道を示してください、主の導きに委ねます。 Wed, 28 Aug 2024 00:10:00 +0000 主に仕える者とされる幸い(民数記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240828 no 2024 次に、アロンはイスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする。 (民数記8章11節) レビ人はイスラエルの他の部族と区別され、特別な務めが任されました。その任務については、3、4章にかけて詳細に記されていたように、臨在の幕屋の警護や祭具の管理など、幕屋の仕事をする祭司職でした。 そのレビ人が作業に従事するにあたり、清めの儀式を行うようにと定められています。それは個人的身体的な洗い清めから始まり、自ら献げ物を用意し、共同体全体が呼び集められた中で按手を受けます。そして、主に仕える者とされるのですが、この章全体で繰り返されるのは、「彼らを奉納物として主の前に差し出す」という表現です。このようにしてレビ人は、主のものとされて、職務に就きました。 教会においても、按手を受けて、特別な務めを担う奉仕者(教会役員)がいます。任職されるにあたっては、誰しもが畏れをもって身をかがめ、厳粛な思いで献身の決意をしたことでしょう。改めて思い起こし、主に仕える者とされている幸いに感謝があふれます。 また、その務めに任期が設けられることにより、世代交代を意識させられます。主に仕えることが許されている光栄に与りつつ、次代の担い手に受け継がれていくように、心を砕いていきたいものです。 【祈り】 神と教会に仕える喜びが与えられ感謝します。その務めにふさわしい賜物をお与えください。 Tue, 27 Aug 2024 00:10:00 +0000 臨在の主が目に留めてくださる(民数記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240827 no 2024 指導者は祭壇奉献のための献げ物を携えて来た。…主はモーセに言われた。 指導者は祭壇奉献のための献げ物を、一日に一人ずつささげなさい。 (民数記7章10節~11節) モーセに率いられた神の民イスラエルは、主が命じられたとおりに幕屋を建てました。それは「臨在の幕屋」と呼ばれ、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」(出33章11節)主が語られる場所です。 幕屋を建て終わった日に、そこで礼拝をするため、礼拝に用いるすべてのものが聖別されました。そして、礼拝をする場として整えるため、作業の分担が割り当てられました。 礼拝を始めるにあたり、各部族の代表者がささげものを携えて来ました。12~83節までにはそのリストが記されており、同じ物が同じ数だけささげられています。印象的なのは、省略されることなく、集計結果だけが記されるのでもなく、一日ごとのささげものが丁寧に記されていることです。 主は、それぞれのささげもの一つひとつを喜んで受け入れてくださる方です。私たちが生きる社会では、効率性が最優先にされたり、成果だけで評価が下されたり、時短がますます求められる風潮もあるでしょう。しかし、聖書が貴重な紙面をこのように用いることから、私たちのささげものや奉仕に、そして礼拝を重んじる信仰に、主は確かに目を留められているのだ、と覚えることができます。 【祈り】 主よ、きょう一日の、一つひとつの業を祝福してくださいますように。 Mon, 26 Aug 2024 00:10:00 +0000 御名を知り御顔を仰ぎ神の祝福を(民数記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240826 no 2024 彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。 (民数記6章27) 祭司が神の御名において民を祝福するとき、神は民を祝福してくださる。これは、神御自身の全能と真実によって約束されたことです。この祝福は、神の御名を知り、神を求め続けて知る祝福です。「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む」(詩9編11節)。大切なのは、いろいろな試練の中でも、神を尋ね求めて、その御顔を仰いで、そこに浮かぶ神の御心を見るほどに知ることです。そこに慰めや励ましを得るなら、祈り続けることもできるでしょう。 そのような人びとにとって、「御顔こそ、わたしの救い」です(詩42編6節)。主が御顔を向けてくださるなら、祝福の中にあることを疑ってはなりません。時が良くても悪くても、ただ待つしかないようなときにも、神の祝福を求めて祈ることをやめてはなりません。 今、私たちには、「キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」が与えられています(2コリ4章6節)。かつての時代にまさって、神の御顔を私たちの心に示し続ける光です。どのようなときにも、御顔を仰いでまいりましょう。 「主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」(25、26節)。 【祈り】 いつも御顔を向けて、祝福にあずからせてください。 Sun, 25 Aug 2024 00:10:00 +0000 主イエスの真理へ戻りなさい(ヨハネによる福音書 6章52-71節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240825 no 2024 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」 (ヨハネによる福音書6章68節) 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。ペトロのキリスト告白です。 主イエスは、永遠の命を得るためには、主イエスの体を食べ、血を飲まなければならない、と人々に教えられました。そのとき、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と言って弟子たちの多くが離れ去ってしまいました。主イエスは残った弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と言われます。悲しみと痛みの言葉です。それを聞いたペトロが弟子たちを代表して、このような告白をしました。危機的な状況の中、この信仰告白が主イエスと弟子たちとを結び合わせるものとなったのです。 この告白は、今日の教会、私たちの告白でもあります。今日も、多くの人たちが主イエスから離れてしまう現実があります。そのことは私たちにとっても悲しみであり、痛みです。しかし、そのような中でこそ、私たちはこの信仰の告白に立ち続けます。 主イエスから離れてしまった方々が戻って来られるように祈り続けて、愛と忍耐をもって仕えていきましょう。 【祈り】 主イエスの真理へ戻ることができますように、また、留まることができますように。 Sat, 24 Aug 2024 00:10:00 +0000 金の器から土の器へ(哀歌 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240824 no 2024 貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が なにゆえ、土の器とみなされ 陶工の手になるものとみなされるのか。 (哀歌4章2節) エルサレムの都が栄華をきわめていたとき、そこに住む人びとは黄金のように輝いていた。しかし、今その人びとは土くれのように価値のないものと見なされている。都は荒れ果て、人間も堕ちるところまで堕ちてしまった。そう歌い手は嘆きます。 しかし、人間が輝きを放つのだとすれば、それは神が共におられるゆえです。パウロは言います。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(2コリ4章7節)。人間は本来、もろく弱き土の器です。そこに宝が、復活のキリストの命が納められることによって、土の器は土の器のままで、永遠の命の光を照り返して生きるのです。 「どの街角にも聖所の石が打ち捨てられている」(哀4章1節)。これこそ、エルサレムの都における深刻な事態です。人の目に価値なきものと映るものが、神の御目には価高い。霊の目を開かれた者たちには「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」(詩118編22節)、この偉大な救いの真理が見えるのです。十字架上で見捨てられたキリストこそ、命の君です。この御方に立ち帰るとき、人間は真の輝きを取り戻すのです。 【祈り】 私たちが被造物としての栄光に生きることができるよう、どうかキリストに立ち帰らせてください。 Fri, 23 Aug 2024 00:10:00 +0000 神の命令に従うときに現れる主の栄光(レビ記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240823 no 2024 モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。 (レビ記9:23) アロンが手を上げて民を祝福し、献げ物をささげ終えて壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入りました。二人が出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れたのです。すると、主の御前から炎が出て、祭壇の焼き尽くす献げ物はなめ尽くされました。これを見た民は一人残らず喜びの声をあげ、主の御前にひれ伏しました(22~24節)。6節で、「これは主があなたたちに命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである」と約束されていたとおりでした。 しかし、この約束が実現して、主の栄光が現れるには、主がモーセやアロン、神の民に命じられたことを聞くだけでなく、心に留め、実際に行うことが必要でした。彼らは主の指示に従って働いたのです。すると約束どおり、主の栄光が現れたのです。 私たちは、日々、与えられた持ち場で、主にお仕えしているでしょうか。主が命じられたことを行うことを避けて、ただ神の栄光の現れを待つだけであれば、神を知らない異邦人と同じではないでしょうか。 作曲家バッハは、苦しみを経て生まれ出た楽譜の最後に、「ソリ・デオ・グロリア(ただ神にのみ栄光)」とサインをしたのです。 【祈り】 神様、私たちが、きょう、為すべき務めを行えるように、どうか力をお与えください。 Thu, 22 Aug 2024 00:10:00 +0000 終わりまで聖霊により祈りなさい(ユダの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240822 no 2024 しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。 (ユダの手紙20節) パウロ書簡にも、この手紙にも、新約聖書には、偽教師についての警告があちらこちらに記されています。これらの問題は、使徒時代の初期の教会にはびこる重大な問題でした。 最近、イエス・キリストの処女降誕や復活を信じないという神学に基づいた見解を持つ教師たちがいることを知り、驚きました。また、彼らの主張を認めている教会で信仰生活を送っている者たちがいるという事実に直面しました。そのとき、パウロの指摘が俄然具体的に迫ってきました。彼らの主張は、処女降誕や復活という、一見、信じがたい難解な事実を受け入れなくても受洗できるという、入りやすいための動機のようです。 しかし、パウロが、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリ15章19節)というように、復活こそ私たちの信仰の確信です。キリストの十字架に結ばれて、その復活にあずかる希望が私たちの原点です。 復活ぬきの信仰ならば、罪の赦しの確信すらないでしょう。そのような信仰のために命がけで福音を伝えることも無意味です。道を間違えている彼らが復活信仰に立ち帰ることができるように祈るだけです。ただ主イエス・キリストの憐れみにより、聖霊の導きのもとに祈り続けます。 【祈り】 虚しい教えから抜け出し、命に結び付く正しい道をお示しください。 Wed, 21 Aug 2024 00:10:00 +0000 神に近く仕える幸いを学びながら(民数記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240821 no 2024 主はモーセに仰せになった。 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。 (民数記5章11節~12節) 主はまず、モーセに仰せになりました。民の生活のあらゆることについて、モーセを通して告げられました。それは、民自身が望んだことでもありました(出20章19節)。また、神を畏れて聞き、心を尽くして理解しながら従う律法の目的にふさわしいことでした。恐怖が先立つ服従は、求められていません。また、従えば万事がうまくいくかのような、都合の良い服従でもありません。 告げられたことは、しばしば十分に理解も納得もできなかったかもしれません。しかし、神を畏れることを学びながら従い続けます。そのようにして神を知ることが、彼らの生活の喜びとなるなら、その服従に心が伴います。民の歩みが整えられ、互いの関係も整えられ、その中で神を畏れて生きることの幸いを味わい知っていくからです。神を喜ぶ知恵が、人の心に宿ります。「知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり…」(箴言2章10節)。 荒れ野での日々は、神からすべてを受けて、神にすべての望みをかけて重ねる旅です。神のご存在がすべてであり、決定的です。しかし、神への恐怖ではなく、喜びへと至る畏れを学ぶために、モーセを通して仰せの数々を受けました。神の深い憐れみによって。 【祈り】 主よ、あなたの憐れみに満ちた御言葉をたたえます。 Tue, 20 Aug 2024 00:10:00 +0000 神に近く仕える光栄を学べるように(民数記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240820 no 2024 ケハトの子らの仕事は、臨在の幕屋と神聖なものにかかわる。 (民数記4章4節) ケハトの子らは、聖所とそのすべての聖なる祭具を運搬する務めに召されました。最も聖なる掟の箱も、彼らが運びます。聖なる神に触れるほどに近く仕えて汗を流します。それゆえ、神に仕えるほどに、神への畏れを学び続けるように、すべてが整えられました。 神聖なものに直接触れてはなりません。「アロンとその子らが…聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後」、運搬に取りかかります。「聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない」からです(15節)。また、神聖なものを直接に見てもなりません。垣間見ることは、死を招くことだと警告されます(20節)。このような畏れを失ったなら、まず彼ら自身が主の言葉を正しく聞けなくなっていったでしょう。人が奉仕しなければ、移動もできない偶像との違いが曖昧になり始めるかもしれません。神に近く仕えて、汗を流すからこそ生じる誘惑です。そのような死へと導かれてはなりません。 神は自ら語り、成し遂げるお方です。神に近く仕えるほどに、神を畏れて、その口から出る一つ一つの御言葉によって、生きる命が保たれなくてはなりません。神に近く仕える光栄と、祝福にふさわしい畏れとへりくだりをもって。 【祈り】 あなたに仕える光栄と喜びを学びつづけさせてください。 Mon, 19 Aug 2024 00:10:00 +0000 神に近づく畏れと幸いを学びつつ(民数記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240819 no 2024 彼ら(モーセおよびアロンとその子ら)は…聖所を守る。ほかの者がその務めをしようとするならば、死刑に処せられる。 (民数記3章38節) 荒れ野では、神が共におられることの幸いを学び続けます。だから、すべてが良いのです。同時に、神に近づく畏れを学び続けます。神が定めた仕方に従って、神に近づかなくてはなりません。臨在の幕屋のすぐそばには、レビ人が宿営し、彼らに囲まれて行進します(2章17節)。臨在の幕屋のすべてに仕えることができるのは、彼らだけです。 とくに祭司に召されたアロンとその子らが、聖所を守ります。レビ人がさらにその働きを助けます。それ以外の者が近づくことは、死をもって禁じられました。この畏れを知ってこそ、恵みを喜ぶことを知っていきます。 神を畏れて近づき、神の恵みにあずかりながら、旅を重ねます。謙遜な指導者であるモーセを通して語られた主の御言葉に導かれながら、そのように進みます。 そして今、私たちにとって、さらにすべてが明瞭です。魂の監督者、牧者であるキリストが導いてくださいます。キリストの十字架の死は、神に近づくことの畏れと幸いを示し続けています。そして、復活の主が神の右に座して、さらに近づくように招いておられます。謙遜と畏れを学びつつ、どのようなときも大胆に神に近づいてまいりましょう(ヘブ4章16節参照)。 【祈り】 神に近づく道が開かれていることに感謝申し上げます。 Sun, 18 Aug 2024 00:10:00 +0000 主イエスは天からの生きたパン(ヨハネによる福音書 6章34-51節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240818 no 2024 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 (ヨハネによる福音書6章51節) 主イエスは、ご自分が「天から降ってきたパンである」と、ユダヤ人たちに真理をお語りになられました。しかし、それを聞いたユダヤ人たちはこう言います。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』」などと言うのか」とつぶやいたのです。 このユダヤ人のつぶやきの言葉で気になるのは、「天から降ってきた」というだけで、「パン」が抜けていることです。なぜなのでしょうか。このことはユダヤ人たちの関心が、主イエスの本質ではなく、出生だけに向けられていることを示しているように思われます。つまり、ユダヤ人たちは、自分はもう知っている、わかっていると思い、そこから先には進もうとしないのです。そのために主イエスの本性、この方がどういう方かということがわからないのです。 しかし、主イエスは少しもひるむことなくお語りになられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と。私たちもそれぞれに自分の経験や知識を持ち、それに囚われやすいものです。固定観念や自分の知識を超えて、主イエスの御言葉に聞き、養われて歩ませていただきましょう。 【祈り】 主イエスが永遠の命を与えるパンであることを、まっすぐに受け入れて信じさせてください。 Sat, 17 Aug 2024 00:10:00 +0000 赦しと憐れみの神を仰ぐ(哀歌 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240817 no 2024 主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。 (哀歌3章32編) 歌い手はなお、廃墟と化したエルサレムの都に座しています。国の滅びと都の荒廃。この出来事がなにゆえ起こったのかを彼はわきまえています。これは背信の民に対する、義の神の正当な審判です。彼は今、主の怒りの杖に打たれています。主の御手が彼を責め続けています。 しかし、驚くべきことに、彼はこのようにうたうのです。「わたしの生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう」(18節)。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(22節)。 主の御手に打たれながら、彼は主を待ち望むのです。なぜなら神が慈しみ深き方、愛する民をいつまでも捨て置かれはしない方であることを知っているからです。審判の時が満ちたなら、大いなる憐れみをもって愛する民の傷を包み、再び御自身のふところに迎え入れてくださることを知っているからです。義の神は同時に赦しの神、憐れみの神であられるのです。 そのことを知る時、主の民のなすべきことは悔い改めて主に立ち帰ることです。彼はイスラエルに呼びかけます。「わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう」(40節)。主を仰ぎ、主に立ち帰る時、闇の中に光が射しそめるのです。 【祈り】 あなたの驚くべき愛と憐れみを知らされて、私たちはひたすらに御名をほめたたえます。 Fri, 16 Aug 2024 00:10:00 +0000 破れ口に立つ大祭司の憐れみ(レビ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240816 no 2024 アロンとその子らに、…携えて来させなさい。また共同体全員を臨在の幕屋の入り口に召集しなさい。 (レビ記8章2節~3節) 8章には、「祭司の聖別の任職式」という見出しが付いています。「主はモーセに仰せになった」(1節)で始まり、「アロンとその子らは、モーセを通して主が命じられたことすべてを、そのとおり実施した」(36節)で締められる間に、この任職式が主の命令であり、モーセとアロンたちがすべてそのとおりに行ったことが書かれています(4、5、9、13、17、21、29、34、35節)。 神が祭司を立てられた理由は、アダムの堕落に由来します。アダムが神に背き、罪によって神から離れてしまったために、人間は、罪の赦しを神からいただくために、仲介者が必要となったのです。神は、アロンの子孫を祭司として立て、民に仕えるようにさせました。罪のゆえに、個人としても民としても、もはや神の御前に出て、親しく交わることのできなくなった者たちを、神ご自身が憐れんでくださったのです。 しかし、神が定めた多くの規定から成るこの制度は、神ご自身により、新しくされました。今や、真の大祭司、私たちの主イエス・キリストにより、私たちの罪はすべて赦され、一切の規定から解放されて、すべての信者がキリストを通して、神に近づき、交わることができるようになったのです(ヨハネ14章6節)。 【祈り】 神様、真の大祭司イエス・キリストによって、きょうも私たちの罪をお赦しください。 Thu, 15 Aug 2024 00:10:00 +0000 思い起こすは過ぎ去らない遠い昔の日々(申命記 32章1-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240815 no 2024 遠い昔の日々を思い起こし 代々の年を顧みよ。 あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。 長老に尋ねれば、話してくれるだろう。 (申命記32:7) 最期の日を見据えるモーセに、神は一つの歌を与えられます。荒れ野の40年を思い起こす歌です。告発の言葉が並びます。「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない」(5節)、「お前は自分を産み出した岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた」(18節)、「彼らは逆らう世代、真実のない子らだ」(20節)。 胸が苦しくなる民の罪が列挙されています。それは、その歴史を後の世代が記憶し続けるためです。あの日々が遠ざかるほどに心に刻むことは重要さを増します。罪の記憶を思い起こすことは耐えがたいことですから、民は忘れようとします。事実を改ざんしようとします。そうして、民を「囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」という神の憐れみも無かったことにします。 「お前は…造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った」(15節)。そのような過ちを繰り返さないために、罪を記憶する歌が与えられました。罪の歴史に目をふさぐとき、罪は猛威をふるい、民の前から神の憐れみを、隣人との平和をはぎ取っていきます。 きょう、思い起こすべき歴史があります。過ぎ去らない過去の責任から、赦しと憐れみとを請い続けることから、私たちは逃げません。 【祈り】 主よ、遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みることができるように、勇気と誠実さをお与えください。 Wed, 14 Aug 2024 00:10:00 +0000 臨在の幕屋を中心に宿営し旅を重ねた(民数記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240814 no 2024 イスラエルの人々は、…臨在の幕屋の周りに、距離を置いて宿営する。 (民数記2章2節) 荒れ野で、どうして日々の生活が成り立つでしょうか。それぞれの人にも、いろいろな思いがあったでしょう。しかし、一族ごとに民の生活はまとめられました。それは民の心を一つにするように導きます。そして、臨在の幕屋を中心にして宿営し、旅を重ねました(34節)。これは、生活を整えると共に、彼らの心と思いが守られたということでもあります。 彼らの中心におられる神は、もの言わぬ偶像ではありません。すべてを導いて、成し遂げるお方です。その御言葉に従って、彼らの日々は成り立っています。荒れ野は、そのことがこの上なく明瞭になる場所でもあります。神から受けなければ、その日の生活自体が成り立ちません。神を疑うなら、好きなところへ行こうという思いも浮かぶでしょう。あるいは、互いの間の争いも収まることがないでしょう。しかし、彼らの中心に神がおられ、神は語られます。そして、その御言葉に従ってこそ、すべては良いのだということを経験し続けます。主をほめたたえよ。 幕屋を中心に宿営し、旅を続けるこのかたちは、人の心と思いを守るためのものでもあります。その中で、信仰によって神への喜び、感謝、祈りが守られます。(1テサ5章16~18節参照)。 【祈り】 きょうも、我らの心と生活をお守りください。 Tue, 13 Aug 2024 00:10:00 +0000 荒れ野で主の民として受けた祝福(民数記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240813 no 2024 シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。 (民数記1章1節) 主の民の歴史を大きく見るならば、荒れ野は豊かで自由な場所です。奴隷の地であるエジプトにいたとき、ファラオに逆らう自由はありませんでした。主の御言葉を守ることは、ファラオによって決定的に妨げられていました。実際、ファラオを恐れつつ、生活の道を探るような有様だったでしょう。 しかし、荒れ野では違います。主の仰せに従って、民の秩序が整えられます。そこには、主の御言葉に従う自由があります。主は羊飼いのように、一人一人の名を呼んで、民を整えてくださいました。 「氏族ごとに、家系に従って、男子全員を一人一人点呼し、…兵役に就くことのできる20歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい」(2、3節)。この民が召された戦いは、主にあって特別なものです。神を信頼することによって勝利を得続ける戦いです。まず民自身の迷う心が敵なのです(詩95編10節参照)。 その戦いでは、望みの確信の中で、見えない事実を見ます。アブラハムは、一人のイサクを見て、天の星のように増える民の未来に確証を得ました。さらに今は、民を数えながら、神の言葉が指し示す未来を見ます。神の言葉こそが現実であることを確認しながら。 【祈り】 私たちを養い導かれる主の真実をほめたたえます。 Mon, 12 Aug 2024 00:10:00 +0000 裁きよりも憐れみをもたらす神(エレミヤ書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240812 no 2024 「わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。」 (エレミヤ書25章14節) エレミヤは、ヨシヤ王の第13年から23年間、主の預言者としてユダとエルサレムの人びとに語り続けました。「悪の道と悪事を捨てよ」、「他の神々に従っていくな」と。 しかし、エレミヤの言葉は彼らには届きませんでした。そしてついに神の裁きが始まりました。「見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる」(9節)。 バビロンの攻撃は偶然ではありません。歴史を支配しておられる神がご自身の民を懲らしめるために敵を用いられたのです。 しかし、そこにも神の憐れみが残されていました。神はこれを永遠の裁きとせず、70年という期限を設けられたのです。「70年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる」(12節)。 捕囚の地で惨めに生きてきた者たちが、エレミヤの言葉に従って、悔い改め主に立ち帰るなら、「先祖に与えられた地に」再び住むことができると神は約束しておられます。 【祈り】 あなたを見失い、罪の道に迷い込んだとき、わたしを見捨てず、見つけ出して、あなたのもとへ立ち帰らせてください。 Sun, 11 Aug 2024 00:10:00 +0000 永遠の命に至るために働く(ヨハネによる福音書 6章22-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240811 no 2024 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」 (ヨハネによる福音書6章27節) 主イエスがパンと魚を5千人以上もの人たちに分け与えた翌日、多くの人びとが主イエスをさがして湖の向こう岸までやってきました。主イエスから、食べ物を満腹するほどもらえたことを体験した人、また聞いた人たちが駆けつけて来ました。しかし、彼らの求める食べ物はこの世の一時的な食べ物であり、すぐに朽ちてしまうものでした。それに対して主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とお語りになられました。 私たちは永遠の命に至る食べ物のために働いているでしょうか。日常生活における食べ物を得るために働くことは誰にとっても重要です。しかし、キリスト者は究極的には、決してただ朽ちてしまう食べ物、もっと言えば朽ちてしまうこの世の富を追い求めてそのために働くのではありません。変わることのない永遠の神のために働き、主イエスを信じ、その御心を行って働くのです。 主のために働くことに伴い、この世の収入を心配されるかもしれません。この世の食べ物や富は一時的なものなら、同じこの世での不足や窮乏もまた一時的なものです。主イエスを信じ、永遠の命のためにきょうもそれぞれの場で働きましょう。 【祈り】 永遠の命のために働く志をきょうも大切にできますように。 Sat, 10 Aug 2024 00:10:00 +0000 この出来事を正しく理解せよ(哀歌 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240810 no 2024 主はまことに敵となられた。 (哀歌2章5節) 廃墟と化し、バビロンに包囲された都エルサレムの惨状を、2章は1章にもまして深刻に描写しています。荒れ果てた都。敵にはずかしめられる民。飢えに苦しむ乳飲み子。歌い手の目は涙でかすみ、胸は張り裂け、はらわたは溶けて流れ出します。 しかし、哀歌はたんに国の滅びと都の荒廃を嘆き悲しむ歌にはとどまりません。ここにも「なにゆえ」という言葉が響いていますが、歌い手はこのことが神の民イスラエルに対する神の審判として起こされたことを理解しているのです。これはイスラエルのたび重なる背信に対する、神の正当な審判である。これまで味わったことのないような悲しみと痛みの最中にあっても、敵に嘲笑される屈辱のただ中にあっても、なぜこのようなことが起こったのか、その根本的な事柄が忘れられてはならない。 神は義なる方です。神の義と人の罪とは水と油のようにはじき合います。それゆえ、神には人の罪を見過ごすことがおできになれません。愛する選びの民を悔い改めに導き、御自身に立ち帰らせるために、神は長い間、繰り返し愛をもって呼びかけられました。けれども、イスラエルは立ち帰らなかった。神の忍耐は限界に達した。愛する民を打たれた時、神の御手もまた痛んでいたのです。 【祈り】 私たちの罪の深さを教えてくださるのは主よ、あなたです。どうか御許に立ち帰らせてください。 Fri, 09 Aug 2024 00:10:00 +0000 感謝を自分の手で自ら献げる(レビ記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240809 no 2024 和解の献げ物を主にささげる者は、その中から次のものを主にささげよ。 (レビ記7章29節) 和解の献げ物は、感謝の献げ物(12節)として、あるいは、満願の献げ物や随意の献げ物(16節)として、祈りが応えられたことや、予期せぬ恵みが与えられたことに感謝して、個人的に、また自発的に献げるものでした。「彼は燃やして主にささげる物を自分の手にささげ持つ」(30節)とあるように、自らの手でその献げ物を持って来るように、神は命じられます。 彼らは、いけにえの動物の他に、焼いたパンも献げるように、命じられたのです。(12節) 神は私たちにキリストによる救いの恵みを与えてくださいました。祈りに応えてもくださいました。私たちが願う以上の恵みをお与えくださったこの神に、感謝の気持ちを表しましょう。与えられた時間や体力、気力を使うことを、惜しんではなりません。神への感謝を自分の口で祈り、ささげる時を、日常生活の中に、意識して設けようではありませんか。 誰かに助けていただいたなら、その人に感謝を表すのを、他の人に任せるわけにはいきません。それならばあなたを助け、祝福してくださった神にあなた自身が感謝を表すほかありません。 さらに周囲の人たちに、自ら進んで、自発的に感謝を表しましょう。 【祈り】 神様、怠らず、あなたに感謝を表すことができますように、きょうを生きる私たちに力をお与えください。 Thu, 08 Aug 2024 00:10:00 +0000 彼らはわたし の民、わたし は彼らの神(エレミヤ書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240808 no 2024 わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。 (エレミヤ書24章7節) 主なる神は、良いいちじくと悪いいちじくを用いて、エレミヤに新しいことを示されました。神は、バビロンに捕囚となった民を「良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう」と語られます(5節)。「良いいちじくのように見な」すという言葉が重要です。 捕囚の民のほうが優れているということではありません。神がそう見なして、恵みを与えるというのです。 さらに神の言葉は続きます。「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ 帰って来る」(7節)。やがてエレミヤによって語られる「新しい契約」を指し示す御言葉です(31章)。人は皆、神の前に罪人ですが、神がその心に働きかけることによって、人は神を知り、神に従うようにされます。 私たちがまことの神と出会い、罪を示され、そしてイエス・キリストを信じる信仰と罪の赦ゆるしが与えられたことも同じです。私たちの側に見るべき優れた点はなく、ただ神が聖霊を私たちの心に与えて、救いに招き入れてくださったのです。 今や、私たちは神の民とされ、神は私たちの神となってくださいました。主なる神が私たちの人生の歩みを導いておられます。 【祈り】 神よ、私たちが真心をもってあなたに仕え、あなたの恵みの中を歩ませてください。 Wed, 07 Aug 2024 00:10:00 +0000 偽りの預言者のメッセージ(エレミヤ書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240807 no 2024 お前たちに預言する預言者たちの 言葉を聞いてはならない。 彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ 主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。 (エレミヤ書23章16節) エレミヤの時代、宗教指導者たちの堕落は大きな問題でした。「預言者も祭司も汚れ…」とあります(11節)。彼らは「姦淫を行い、偽りに歩」み、「悪を行う者の手を強め」る始末。さらに彼らは民にへつらい、自分の心の幻を語りました。神を侮る者や神に背を向け、頑なな心で歩む者に向かっても、罪を指摘せず、悔い改めを求めず「平和が…臨む」「災いが…来ることはない」と告げたのです。 しかし、主はそのような偽りの預言者に対して「わたしはお前たちを全く退け、…お前たちをわたしの前から捨て去る」とおっしゃいます(39節)。 ところで今の教会はどうでしょうか。罪が指摘され、罪からの悔い改めと立ち帰りがはっきりと語られているでしょうか。もし、慰めの言葉や、神の愛と憐れみだけが語られているとしたら、結果はエレミヤの時代と大差ないのでは、と恐れます。 「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないと言うのか」(23、24節)。神は、私たちの心の奥に深く隠している罪までも見通すことのできるお方です。 【祈り】 神よ、わたしの心には罪があり、御前に立つことができません。しかし、イエス・キリストを通して赦しを与えてくださることを感謝します。 Tue, 06 Aug 2024 00:10:00 +0000 正義と恵みの業を行え(エレミヤ書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240806 no 2024 主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。 (エレミヤ書22章3節) 主なる神は、国の政治をつかさどるユダの王や家臣たち、王国の豊かな人びとに対して、弱い立場の人びとを思いやり、配慮するよう命じています。とくに寄留の外国人、保護する者のいない子どもたち、夫がなく経済的に苦しい婦人たちを守るよう教えます。しかし、宮殿で優雅な生活を送る王をはじめ、財と権力ある者たちは、自分の生活、自分の楽しみにふける日々でした。 主は言われます。「もしこれらの言葉に聞き従わないならば、…この宮殿は必ず廃虚となる」(5節)。 今、私たちの周囲にも、さまざまな環境、状況のもとで厳しい日々を送っている人がいます。もちろん私たち個人に政治を変える力があるわけではなく、教会に大きな力があるわけでもありません。しかし主は、かつてエレミヤの口を通して語られた言葉を、私たちに対しても語っておられます。弱い立場に置かれた人びとを思いやり、配慮し、共に生きるようにと。それが「わたしを知ることではないか」と主は言われます(16節)。 災害に遭われた方、一人暮らしの高齢者、ひとり親家庭の子どもたち、外国人や難民の方々。示された隣人に対して、それぞれが手を差し伸べ、可能な形で愛を示すこと、共に生きる努力が、私たちにも求められています。 【祈り】 神よ、隣人を愛しあなたの恵みを共有することができますように。 Mon, 05 Aug 2024 00:10:00 +0000 命の道を選び取るために(エレミヤ書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240805 no 2024 見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。 (エレミヤ書21章8節) エレミヤ書21章では、大国バビロンに迫られたユダの王ゼデキヤが、預言者エレミヤに使者を遣わして主の意向を問うています。王は自らの不信仰を棚に上げ、神が「驚くべき御業」によって助けを与えてくれることを期待しています。しかし、時すでに遅し。神は、悔い改めない王とユダの人びとに対して、バビロンを用いた裁きを決めておられたのです。 それでも主の憐れみは尽きることがありません。このときにも「命の道と死の道」を用意して、彼らの命が助かる道を備えておられました。「この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」(9節)。 人びとは大きな選択を迫られました。エレミヤの言葉に従って捕囚となった者は、異教の地で辛苦をなめながらも、命は救われました。さらに彼らの子孫には、故郷へと帰還する希望の約束が与えられました。 私たちの人生にも、選択のときがあります。そのとき、何を大切に考えればいいでしょうか。昔々、選択で悩み牧師に相談したとき、「神と共に歩めるか、そうでないかを考えなさい」とアドバイスされました。神と共に、神を礼拝して歩めるかどうか。それが「命の道」を選び取る基準です。 【祈り】 神よ、わたしが人生の選択をするとき、あなたに近く歩む道、命の道を選ばせてください。 Sun, 04 Aug 2024 00:10:00 +0000 主イエスへの信頼をさらに深める(ヨハネによる福音書 6章16-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240804 no 2024 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 (ヨハネによる福音書6章20節) 主イエスは、私たちが主イエスへの信頼をますます深められるように働いておられます。ですから、この主イエスの言葉と力を、きょうも信頼しましょう。 ある日の夕方、主イエスは後から行くからということで、先に弟子たちは船で湖の向こう岸へ向けて出発しました。やがて暗くなり、強い風が吹いて湖は荒れだしました。にもかかわらず、主イエスはまだ来られません。暗くなり、強い風も吹いて、さすがに主イエスは来られないと弟子たちは思い込んでしまっていました。主イエスが湖の上を歩いてこられると、弟子たちは「恐れた」とあるのがその証拠です。弟子たちは喜んで主イエスを迎え入れて、「主よ、お待ちしていました」と言うことはできなかったのです。主に信頼することができなかったのです。 主イエスは、私たちにも再び来られるとの約束を与えていてくださいます。しかし、自然の猛威やさまざまな苦難の中で私たちも恐れに囚われてしまうことがあります。主イエスはそんな私たちのことをよくご存知です。私たちにご自身を現され、「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。主に信頼して生きることに導いてくださいます。主イエスはきょうも真実なお方です。 【祈り】 力ある主イエスの言葉とお働きをきょうも信頼することができますように。 Sat, 03 Aug 2024 00:10:00 +0000 なにゆえこれが起こったか(哀歌 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240803 no 2024 なにゆえ、独りで座っているのか 人に溢れていたこの都が。 (哀歌1章1節) 哀歌。哀しみの歌です。その哀しみは、国の滅びの哀しみです。紀元前587年、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚となって引いて行かれました。イスラエルの歴史における最も悲惨な出来事です。 今、歌い手の目に映っているのは、敵の攻撃をこうむって荒れ果てた、見るかげもない都エルサレムの光景です。都は廃墟と化し、神の宮も破壊されて瓦礫の山と化しています。生き残った民は敵に包囲され、嘲笑されています。多くの人々が飢え、パンを求めて呻いています。目を覆うばかりの惨状を目の当たりにして、歌い手の目からはとめどなく涙が流れるのです。 哀歌は「なにゆえ」という言葉から始まります。この言葉が1章、2章、4章の冒頭に繰り返されます。歌い手は問わずにはおれません。なにゆえ、このような悲惨な出来事が起こったのか。この問いは、そのまま主なる神への問いとなります。主よ、なぜあなたは選びの民に、このようなことをなさったのですか。 そのように問いつつ、歌い手はすでに答えを得ています。これはイスラエルの背信の結果なのです。主御自身がイスラエルを懲らしめるため、「高い天から火を送」られたのです(13節)。 【祈り】 あなたに背く私たちの罪があなたを悲しませるのだということ、その事実をさとらせてください。 Fri, 02 Aug 2024 00:10:00 +0000 変わることのない神の恵みの契約(レビ記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240802 no 2024 祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続ける。 (レビ記6章6節) 主はモーセに、焼き尽くす献げ物について、指示を出されました。それは、毎日、朝と夕に献げられるものでした。「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。…わたしは彼らの神、主である」(出29章42~46節)とあるように、それは、神の民全体のための献げ物で、なくてはならないものでした。 「祭壇の火を燃やし続ける」(2節)、「祭壇の上の火は絶やさず燃やし続ける」(5、6節)と、繰り返し命じられているのは、主が常に神の民と共におられる事実と、主が神の民と結ばれた契約は変わることがないことを、祭壇の火が表していたからです。 いけにえ自体に効力はありません。神の憐れみ深い契約があってこそ、いけにえが受け入れられます。燃え続ける火を見るたびに、彼らは神の臨在を覚え、神に従って歩む喜びと感謝を献げることができたのです。 新約の時代を生きる私たちに、主は聖霊をお与えくださいました。「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェ4章30節)。 変わることのない主の憐れみに信頼して、きょうも赦しと御力を求めて、主の御前に出ましょう。 【祈り】 神様、きょうもあなたが私たちと共にいてくださり、私たちの主として私たちをお導きくださることを感謝いたします。 Thu, 01 Aug 2024 00:10:00 +0000 あなたがわたしを惑わした(エレミヤ書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240801 no 2024 主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。 あなたの勝ちです。 (エレミヤ書20章7節) 聖書の中で最も衝撃的な一言。それは、人間が神に向かって語る、極めて冒涜的な一言でありつつ、極めて宗教的な一言でもあります。人間エレミヤの絶望的な魂の叫びでありつつ、神の預言者の情熱的な愛の告白でもあります。 エレミヤは、主よ、あなたがわたしを「惑わし」たと言います。決定的に魅惑し、徹底的に誘惑したということです。ゆえに、わたしはあなたに「捕らえられ」た、力づくで支配されたのだ、と告白します。あなたはわたしに勝った、わたしを征服した、と。このお方こそ、わたしの神、わたしの愛する主なのだ、と。 エレミヤが預言者として体験したことは、神に対する愛と憎しみ、主への愛の甘さと苦さ、その両方を含むアンビバレントな体験でした。神の熱情がエレミヤを誘惑し、預言者の使命に服従させたのも神の強制力でした。預言者は神の説得に感化されてそれに応じ、神の威圧力に為す術もなく、身柄を引き渡されてしまったのです。 神は御自分の民を、嫉妬するほどの熱情で愛されます。神の民は、その愛に征服される中で、民としての愛と献身を告白できるのです。壮絶なる愛の葛藤の真っ只中で。 【祈り】 神よ、わたしの嘆きと断食とを終わらせ、喜びを味わわせたまえ。 Wed, 31 Jul 2024 00:10:00 +0000 聞く者は皆耳鳴りを起こす(エレミヤ書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240731 no 2024 主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしは災いをこのところにもたらす。それを聞く者は耳鳴りがする。 (エレミヤ書19章3節) 紀元前7世紀、北イスラエルを滅ぼし、南ユダを脅かしたアッシリアが衰退したため、ユダの王族とエルサレムの市民は束の間の平和を得ます。人びとは、城壁内では神殿祭儀をささげながら、城壁外では罪なき者を処刑し、無辜の人びとを殺戮し、子どもの人身御供というおぞましき異教行事を続けました。 エレミヤは神に命じられるまま、壺を買い、預言者と行動を共にする民の長老たちを連れ、人身御供の場所、ベン・ヒノムの谷に赴き、壺を砕いて、主の言葉を告げます。「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く」(11節)。 エレミヤは壺を粉々に叩き割りました。これは預言者の象徴行為です。エルサレムの都と民を砕くと語る「わたし」は、御自身を陶工にたとえ、手ずから粘土を整形し、窯で焼き上げた陶器を、粉々に叩き割るとおっしゃいます。預言者の告げる言葉は、王族と市民にとって恐ろしい知らせ、不愉快で耳がきりきり痛む言葉でした。 人びとが耳を塞ぐ中、孤軍奮闘するエレミヤに同行する理解者たちが幾人か残っていました。真実な神は、契約の祝福に与かる人びとを、このように残しておられます。 【祈り】 主よ、あなたのために孤軍奮闘する僕らに、仲間を得させたまえ。 Tue, 30 Jul 2024 00:10:00 +0000 立って陶工の家に下って行け(エレミヤ書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240730 no 2024 主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」 (エレミヤ書18章1節~2節) 陶工は土から器を形造る働き人。作業場で粘土を踏みこね、その塊を切り分け、ろくろに乗せます。両足でろくろを回し、両手で器の形に整えます。出来損なったら、粘土に戻して練り直し、満足いくまで何度でも器を整形し続けます。満足のいく器の生地が出来たら、窯で焼いて陶器に仕上げます。 エレミヤは神に命じられるまま陶工の家に下り、陶工の所作を見ました。そのとき、主の言葉が彼に臨みます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、…お前たちはわたしの手の中にある」(6節)。 神は御自分の民を粘土にたとえ、御自身を陶工にたとえられました。これは主のへりくだりと僕への愛の表明です。イスラエルの神、万軍の主は、特定の国家の守り神でも、防衛軍の主でもありません。そうではなく、天地万物の創造主なる神です。愛のゆえに民の不従順に憤り、裁きを計画なさる神です。僕が邪悪を離れて立ち帰るなら、祝福を約束なさる主です。陶工が出来損ないの粘土を練り直し、満足いくまで器を整形し続けるとは、アイロニー(皮肉)ではなく、ユーモア(瑞々しい愛の言葉)です。 【祈り】 主よ、あなたに倣ってへりくだります。わたしにも愛の言葉を聞かせたまえ。 Mon, 29 Jul 2024 00:10:00 +0000 人間ではなく神に信頼する(エレミヤ書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240729 no 2024 祝福されよ、主に信頼する人は。 主がその人のよりどころとなられる。 彼は水のほとりに植えられた木。 (エレミヤ書17章7節~8節) 捕囚の裁きを知らされたエレミヤは、預言者の務めに苦悩しながらも、神の真実な言葉を語り続けました。 ここには2種類の人間が対比されています。人間に信頼を置く者と、主なる神に信頼を置く者です。ユダの民は、神の代わりに、偽りの神々と軍事同盟に信頼を置いていたため、不毛の地となり、実を結びませんでした。「恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地」(6節)となってしまったのです。これは、イスラエルの不信仰の結果でした。 これとは対照的に、主に信頼を置く者は、「水のほとりに植えられた木」(8節)のように繁る、と言われています。なぜなら、神こそが生ける水の源だからです。 ここに示されるように、主に信頼を置く人は、たっぷりと水を与えられた木のように、危機においても力があり、たとえ暑さが襲っても必ず実を結びます。つまり、神に信頼して心を明け渡す人からは希望が失われることがないのです。これが信仰者の姿です。 人の心はとらえ難く病んでいて、罪を重ね、滅びをその身に招いています。けれども、人の心をすべてご存じの主に心を開いて、イエス・キリストによる贖いを受け止める人からは希望が失われることがありません。 【祈り】 神よ、わたしの心を究め、あなたからの祝福をたっぷりと受け止められるように導いてください。 Sun, 28 Jul 2024 00:10:00 +0000 信仰の成長と主イエスのテスト(ヨハネによる福音書 6章1-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240728 no 2024 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 (ヨハネによる福音書6章11節) 主イエスは、私たちの信仰を成長させるために試みること、つまりテストをなさいます。そして、「主イエスならできます」、という信仰へますます深められるように導かれます。 あるとき、男だけで五千人の大勢の人たちが主イエスのもとに集まってきました。やがて、主イエスは弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。フィリポは、あまりにも多くのパンを買うためのお金を気にしていました。 ここで、主イエスが期待された答えは、「主よ、あなたなら彼らを養うことができます」でしょう。素晴らしい導き手は、導かれる者を成長させます。水をぶどう酒に変えた主イエスを見ていたのだから思い出せばいいのです。五つのパンと二匹の魚というわずかの食料を持ってきた少年の姿を通して、主イエスを信頼するメッセージを私たちに伝えています。こうして、人びとは主イエスを通して、欲しいだけ食べることができたのです。 確かに、難しいことを自分たちの力だけで解決できてしまう人たちもいるでしょう。しかし、むしろ主イエスに信頼するとき、はるかに知恵に満ちた仕方で解決でき、主イエスをほめたたえることになるでしょう。 【祈り】 主イエスの力を、ますます信頼して信仰を深めることができますように。 Sat, 27 Jul 2024 00:10:00 +0000 沈黙してただ神に向かう(詩編 62編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240727 no 2024 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。 神にのみ、わたしは希望をおいている。 (詩編62編6節) この詩を作ったダビデを取り巻く状況は、「亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う」(4、5節)というものでした。 そのとき、ダビデの心は、不安や怒りに揺れ動いていたと思いますが、そのような状況でも、相手に反論したり、復讐したりせずに、「沈黙して、ただ神に向かう」(2節)だけでした。それは、神に祈ることによって心の動揺がおさまり、沈黙してすべてを神の御手に委ねることができたからです。 そのことを彼は、3節でこのように歌っています。「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」。そして7節でも「わたしは動揺しない」と繰り返しています。それは、「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」(9節)と歌っているように、神だけに信頼し、希望を置いていたからです。 ピラトから裁判を受けた主イエスもまた、そのように沈黙されました。私たちも、誤解されたり、批判されたりすることがあります。そのときに、沈黙して、ただ神に向かいましょう。 【祈り】 わたしの心が不安や怒りで揺れ動くとき、沈黙して、すべてをあなたに委ねることができますように。 Fri, 26 Jul 2024 00:10:00 +0000 すべての罪が赦される賠償の献げ物(レビ記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240726 no 2024 祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる。 (レビ記5章26節) レビ記5章14節から、賠償の献げ物について記されます。神に対して罪を犯したときは、罪の償いとして動物の犠牲をささげ、隣人に対して罪を犯したときは物質的な償いをすることが定められています。それも、五分の一の割り増し分を加えて償いなさいと命じています(16、24節)。二割増しで償いなさいという規定です。罪に対する厳しさが教えられています。 主イエスは、罪を借金に喩えて教えました。借金は簡単に水に流すことができません。「ごめんなさい」と言えばそれで解決する話ではなく、返済されねばなりません。罪から生じた痛みや傷、損失がすべて癒されることを主は願っておられるのです。 犯した罪を償うに足る献げ物など本来はありませんが、神が賠償の献げ物を定めてくださり、「罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」のです。この賠償の献げ物は、キリストの犠牲を指し示しています。 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハ4章10節)。キリストのうちにこそ、まことの赦しと愛があります。 【祈り】 このようなわたしが赦され生きている恵みを感謝します。この福音を宣べ伝えることができますように。 Thu, 25 Jul 2024 00:10:00 +0000 神は私たちのすべての罪をご覧になって(エレミヤ書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240725 no 2024 わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。 (エレミヤ書16章17節) 神はエレミヤに、結婚すること、葬儀へ参加すること、宴会へ列席することの三つを禁じられました(1~8節)。つまり、喜ぶことも、悲しむことも禁止されたのです。それは、これから訪れるイスラエルの破滅と、その破滅による虚しい世界を体現するためです。このように、預言者には、言葉だけでなく預言者自身の行為や生活を通しても、神の御旨を示すよう求められることがありました。 民は、迫り来る裁きに際して、神から身を隠すことがかないません。彼らは自分たちの罪深さには目をつぶっていましたが、彼らの罪は神の目から隠されていなかったのです。 すべてをご覧になる神は、罪を見逃されることがありません。どれほど上手に隠したつもりでも、神が騙されることはありません。人の目に見えなくても、神の目には見えているからです。まずは、神がわたしの罪を知っておられる、と認識することが悔い改めの第一歩でしょう。 神は、私たちの罪を知った上で、イエス・キリストにすべてを負わせられました。主イエスが十字架にかけられたのは、神が私たちの罪を見ておられたからです。罪を負ってくださったイエス・キリストの贖いに身を委ねるとき、喜びと活力の伴った新しい命の生活が訪れます。 【祈り】 神よ、わたしを新しい命に生きる喜びで満たし、福音を体現する者とならせてください。 Wed, 24 Jul 2024 00:10:00 +0000 神の真実の御言葉が実現するために(エレミヤ書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240724 no 2024 なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。 (エレミヤ書15章18節) 背信のイスラエルに対する神の拒絶はいよいよ厳しさを増し、もはやどのような偉大な神の人が祈っても、ご自分は民を顧みない(1節)、とまで言われます。真実の言葉に敵意を抱く民衆と、神の厳しい責めの板挟みにあって、エレミヤは自分の生まれた日を呪うほど苦しみ、神を訴え始めるのです。 エレミヤがこのように苦しむことになったのは、預言者の務めのゆえです。エレミヤは民衆とは互いに顔の知れた間柄だったと思われます。ところが、神の言葉を語ったために、親しかった人びとから孤立し、それどころか迫害を受けるようになったのです。彼は、預言者だからと言って特別に精神力が優れていたわけではありません。疲れを覚え、嫌気がさし、神に嘆きを訴えかけているのです。 これに対して、神は「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」(19節)と告げます。御言葉を聞かない人びとのところにエレミヤが帰るのではなく、人びとこそエレミヤのもとに帰るのが本来の姿なのだというのです。 預言者の使命は過酷ですが、その苦難を通して神の真実が世に現されていきます。神の真実の御言葉が実現するように祈り求めましょう。 【祈り】 神よ、あなたの御言葉が実現するように、わたしを用いてください。 Tue, 23 Jul 2024 00:10:00 +0000 真理と愛を証しして歩みなさい(ヨハネの手紙三 1-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240723 no 2024 愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。 (ヨハネの手紙三2節) ヨハネの手紙二のように、ヨハネの手紙三も、初代教会の歴史的な背景の理解を求めています。当時、教会内には分裂を起こし、人を惑わす者たちがいました。それゆえ、使徒ヨハネは、そのような教会のために巡回教師を遣わす必要がありました。 このような状況の中、ヨハネはガイオにこの手紙を書き送りながら、彼のキリスト者としての歩みを励まします。ガイオは真理に献身し、愛の業に励んでいました。また、彼は巡回教師たちを快く受け入れ、真理と愛をもって実質的な助けをしてくれました。彼の愛の行いは真の弟子のしるしでした(ヨハ13章35節)。 しかし、ディオトレフェスという人物は指導者になりたがる者で、悪意に満ちた言葉で兄弟たちをそしるだけでなく、巡回教師を受け入れもしませんでした。さらに、彼は巡回教師を受け入れる人たちを教会から追い出しました。それゆえ、ヨハネはガイオに、「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください」と勧めています。 それから、ヨハネはもう一人、デメトリオの生き方を、「あらゆる人と真理そのものの証し」として要約しています。 このように、教会の一致は互いに愛し合うことにあります。 【祈り】 真理に基づいて愛の業に励み、教会の一致に力を入れていく私たちにならせてください。 Mon, 22 Jul 2024 00:10:00 +0000 真理と愛キリストの教え(ヨハネの手紙二 1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240722 no 2024 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。 (ヨハネの手紙二3節) きょうの箇所で、使徒ヨハネは初代教会が置かれている状況を踏まえて信徒たちに必要な勧めをしています。そこには、偽りの教えを助長する異端者から教会を守ろうとする牧会的な配慮が含まれています。当時、信仰から離脱した者たちは、間違ったキリスト論をまき散らしながら歩き回っていました。 それゆえ、ヨハネは挨拶のところで、真理という単語を繰り返しつつ、愛の必要性を強調しています。このように、「真理」と「愛」は異端者の偽りの教えに対抗する盾です。それから、ヨハネは信徒たちに真理に基づいて愛に歩むように勧めます(4~6節)。彼は、「互いに愛し合いなさい」というキリストの言葉を伝えます(ヨハ13章34節参照)。厳しい状況の中でも、相互の愛は共同体の結束を強化してくれます。 ヨハネは、初代教会の信徒たちに異端者、すなわち偽りの教師を警戒するように促しています(7~11節)。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを拒み、人を惑わします。いわば彼らは反キリストです。彼らはキリストにある交わりを破るだけでなく、教会共同体を分裂させてしまいます。それゆえ、ヨハネは「キリストの教え」にとどまりなさいと励ますのです。 【祈り】 私たちをあわれみ、私たちを真理と愛に歩ませ、私たちをキリストの教えにとどまらせてください。 Sun, 21 Jul 2024 00:10:00 +0000 飼い主のいない羊を憐れまれる主(マルコによる福音書 6章30-34,53-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240721 no 2024 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 (マルコによる福音書6章34節) 舟で出発した主イエスを追いかけて、大勢の群衆が湖の向こう岸までやってきました。後から追いかけて来たのではなく、先回りをして待ち構えていました。この群衆を、イエスは「飼い主のいない羊のようだ」と形容されました。 飼い主のいない羊は、自分で草も水も見つけることはできません。すぐ迷子になって群れから離れ、簡単に狼や獅子の餌食にされてしまいます。主イエスを待ち構えていた人たちも、貧しくて明日食べるものにも困っていました。病に倒れ、周囲の人との交流も断たれていました。強い立場の人から喰い物にされていた、その群衆を、主イエスは深く憐れまれたのです。 その有様は、私たちも同じです。明日の食べ物、着る物といった経済的な不安を抱いてしまいます。多くの病気に効果的な治療が施されるようになりましたが、病に罹ることのつらさは同じです。周囲の人とのコミュニケーションは困難を極めます。マウントを取り合い、暴力の支配が人間関係を縛り付けます。そのような私たちを、主イエスは深く憐れまれ、いろいろと教えてくだるのです。 主の言葉に耳を傾け、偉大な業に目を見張りましょう。この素晴らしい方に私たちは愛されているのです。 【祈り】 私たちのつらさを知って憐れんでくださる主に、すべてのことを打ち明け願うことができますように。 Sat, 20 Jul 2024 00:10:00 +0000 心が挫けるときあなたを呼ぶ(詩編 61編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240720 no 2024 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。 (詩編61編5節) 3節で「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」と歌っているように、この詩を作ったダビデは、多くの苦難と試練を経験した人でした。何度も心が挫けるときがありました。 ダビデは、サウル王の側近として、イスラエルを攻めてくる敵との戦いに何度も出て行きました。神の助けによって敵に勝つことができましたが、イスラエルの人びとから称賛されたことから、サウル王に妬まれ、命を狙われるようになってしまいました。 また、イスラエルの王となった後にも、自分の息子アブサロムから王位を狙われました。ダビデは宮殿から逃げ出し、洞窟に隠れたり、幾度となく殺されかけたのです。 そのような状況でも、ダビデは、確信をもって、こう歌っています。「あなたは常にわたしの避けどころ、敵に対する力強い塔となってくださいます。あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます」(4、5節)。 あなたにも心が挫けるときがあるでしょうか。そのとき、きっと神があなたの力強い塔となってくださいます。そして、あなたを神の翼のもとに守ってくださいます。 【祈り】 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください。 Fri, 19 Jul 2024 00:10:00 +0000 過ったときのための贖罪の献げ物(レビ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240719 no 2024 これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である。 (レビ記4章2節) レビ記4章は、贖罪の献げ物についてです。聖書協会共同訳聖書では「清めのいけにえ」と訳されています。罪の清めに関係する献げ物です。 2節にこうあります。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である」。つまり、ここで扱われているのは、わざと犯した罪ではなく、不注意で、あるいは知らないで犯してしまった罪です。 祭司が過って罪を犯した場合、民全体が過って罪を犯した場合、共同体の代表者が過って罪を犯した場合、一般の人のだれかが過って罪を犯した場合。それぞれの場合にどのようにすればよいか、神は細かく決めておられます。それは、わざとでなく悪気がなくても、私たちの罪が、神との関係にも、隣人との関係にもさまざまな影響を及ぼしてしまうからでしょう。罪のゆえに損なわれた関係を回復するための道が贖罪の献げ物でした。 神は、人間の罪によって損なわれた関係を回復するために、御子キリストを贖罪の献げ物としてお与えくださいました。気づけば、いつも曇りがちな神との関係も、隣人との関係も、キリストの恵みにより清めていただけるのです。 【祈り】 昨日までの罪や過ちをおゆるしください。神との関係、隣人との関係が晴れていきますように。 Thu, 18 Jul 2024 00:10:00 +0000 真実の言葉に人を生かす命がある(エレミヤ書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240718 no 2024 「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『…わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と。」 (エレミヤ書14章13節) 神に背くイスラエルの民は、真実の神の言葉ではなく、聞いて心地よい言葉にばかり耳を傾けていました。 偽預言者たちは、「お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える」(13節)と言って、神の言葉をもっともらしく語っていたのです。 確かにこのようなことを、神の言葉として語ってもらえたら、そのときは明るい気持ちになり、将来に期待がもてるのかもしれません。けれども、これは決して主が語る希望ではなく、聞いて心地よくなってもらうだけの偽りの預言でした。結局のところ、見せかけの希望は人びとを神から遠ざけるだけだったのです。 それゆえ、偽預言者の言葉はその身にはね返り、「飢饉と剣に遭い、葬る者もなくエルサレムの巷に投げ捨てられる」(16節)のです。 真実の言葉に耳を傾けなければなりません。神の言葉は、人を永遠の滅びから救い出すために語られます。罪を指摘されると、そのときには痛みを伴いますが、その罪の痛みが大きいほど、神の恵みがいかに大きなものであるかがわかります。 神が預言者を通して語る真実の御言葉のうちに、人を生かす命があります。 【祈り】 神よ、あなたの御言葉に対してわたしの心を開き、救いの恵みを注いでください。 Wed, 17 Jul 2024 00:10:00 +0000 闇が襲わぬうちに栄光を神に(エレミヤ書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240717 no 2024 あなたたちの神、主に栄光を帰せよ 闇が襲わぬうちに 足が夕闇の山でつまずかぬうちに。 (エレミヤ書13章16節) 民に対する神の裁きは差し迫っていました。夕暮れ時に山路に入ると、日が暮れて途端に足元が見えなくなります。今はまだ明るいと思っていても、すぐに暗闇に包まれて辺りが見渡せなくなるものです。 同じように、エレミヤの見たところでは、この時代は夕暮れ時でした。暗黒の支配はもうすぐそこまで来ていたのです。それゆえ、エレミヤは「あなたたちの神、主に栄光を帰せよ、闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに」と懸命に呼びかけます。もし同胞の民たちが神の御声に聞き従わなければ、捕囚という裁きをまぬがれることができないからです。 主イエスは、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と言われました(ヨハ12章36節)。今の時代においても、神はすべての人が神のみもとに立ち帰るように忍耐して待っておられます。私たちのもとにはイエス・キリストの光が与えられています。暗闇から光へと、死の支配から命の恵みへと招いておられるのです。 主の再臨はまだ来ていません。けれども、いつ来るのかは誰にも知らされていません。今この時、立ち帰りを求める主の御声に真摯に耳を傾けましょう。 【祈り】 神よ、あなたに栄光がありますように。きょうもあなたの光を見つめて歩むことができますように。 Tue, 16 Jul 2024 00:10:00 +0000 将来を見通す神に信頼して祈り続ける(エレミヤ書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240716 no 2024 あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら どうして馬で行く者と争えようか。 (エレミヤ書12章5節) 神への愛と従順にもかかわらず、エレミヤを取り巻く状況は非常に難しいものでした。エレミヤが語る神の言葉は厳しい批判の言葉だったので、それを聞きたくない故郷の人びとは彼の命をねらうほどでした。 エレミヤが神に助けを求めたとき、神からの返答は「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか」でした(5節)。これは、今の試練も、将来待ち構えていることに比べれば、些細なことに過ぎないということです。神は事実上、「今の状況が悪いと思うならば、これからさらに厳しい状態になったときにどう対応するつもりだ」と問い返しておられるのです。 祈りに対する神からの返答は、常に簡単な解決を与えるものとは限りません。しかし、神は人間の視野を遥かに超えた将来の見通しをもっておられます。人間の目には神の義に反するような事態にあっても、静かに神の導きを信じることが求められます。 厳しい状況の中でも、助けを求める祈りがすぐにかなえられないときでも、将来に見通しをもっておられる主に信頼して祈り続ける。それこそが、現実を突破する唯一の方法です。神は最も良いときに、必要な助けを与えてくださる方です。 【祈り】 神よ、最もふさわしいときに、最もよい方法で、わたしに必要な助けを与えてください。 Mon, 15 Jul 2024 00:10:00 +0000 正しい裁きを神に求めて神に委ねる(エレミヤ書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240715 no 2024 わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。 わたしは訴えをあなたに打ち明け お任せします。 (エレミヤ書11章20節) エレミヤのメッセージは、民の罪を糾弾する厳しいものでした。そのため、民からの怒りを買い、彼は次第に孤立していきます。 主が知らせてくださったので(18節)、エレミヤは故郷アナトトの人びとが自分の命をねらっていることを知りました(21節)。エレミヤは驚いたことでしょう。神に従って預言者の使命を果たしたばかりに、命をねらわれるほどの迫害をその身に受けるのです。 エレミヤは「わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを」と祈ります。これは復讐を祈っていますが、彼は決して怒りに身を任せて語ってはいません。復讐のための力を求めているのではありませんし、また、人の力によって報復できるものとも考えていません。 エレミヤはただ、万軍の主に裁きを委ねています。預言者の言葉は包み隠さず神の御旨を語るものであるゆえに、時に孤立を招きます。彼はこの事態に動揺したかもしれませんが、しかし希望を見失うことはありません。神が共におられるからです。 個人の激情に突き動かされるのではなく、正しい裁きを神に求めて、神の言葉に命を預ける。主を信じる人は、どのような事態にあっても、すべてを委ね切ることができます。 【祈り】 神よ、わたしの心を究め、訴えを聞き上げてください。あなたの正義をこの世界に現してください。 Sun, 14 Jul 2024 00:10:00 +0000 その教えに喜んで耳を傾ける(マルコによる福音書 6章14-29節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240714 no 2024 ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた…。 (マルコによる福音書6章20節) ヘロデ王は、神の言葉に逆らう生活をしていましたが、ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていました。「非常に当惑しながらも、なお」という表現から、ヘロデ王の複雑な心情が伝わります。ヘロデ王ほどではなくても、私たちも神の言葉に心を刺されて、辛いときがあると思います。聖書を読んで、また説教を聞いて、自分の罪を指摘され、悔い改めに導かれる。その過程で、「でも」「だって」と自己弁護したくなることもあるでしょう。「そんなこと言われても、この状況でどうしたらいいんだ」と、責任転嫁したくなるときもあるでしょう。 それでもなお、喜んで耳を傾ける。神の言葉は、命を与える救いの言葉です。 結局ヘロデ王は、自分の立場や見栄を優先し、ヨハネの首を切り落としてしまいます。喜んで耳を傾けていた神の言葉は、もはやヨハネの口から語られることはありません。そのとき、それしか道はなかったのだとヘロデ王は思ったかも知れません。 私たちはどうでしょう。主イエスが救ってくださいました。ですから、ヘロデ王のようになるかもと怯える必要はありません。ただ主を信頼しましょう。神の言葉に、その教えに、喜んで耳を傾けましょう。そのとき、命に至る悔い改めに導かれます。 【祈り】 御言葉に心が痛むとき、その痛みも主がご存じであることを覚えさせてください。 Sat, 13 Jul 2024 00:10:00 +0000 神と共に我らは力を振るいます(詩編 60編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240713 no 2024 どうか我らを助け、敵からお救いください。 人間の与える救いはむなしいものです。 (詩編60編13節) イスラエルの王となったダビデは、まわりの国々との戦いに勝つたびに、その支配を広げていきました。それはサム下8章6節に「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた」と書かれているように、神が助けてくださったからでした。 ところが、北から攻めてきたアラムに勝って帰り、次いで南からエドムがやってきてユダを攻撃されました。この詩は、2節に「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」と書かれているように、その時に歌った詩です。 結果としては、このときもまた神の助けによってダビデはエドムに勝つことができましたが、ダビデの本拠地であるユダを攻撃されたことは大きな痛手となりました。 これらの経験でダビデが学んだことは、「人間の与える救いはむなしい」(13節)ということでした。敵の攻撃に勝つことができた回数や経験は、次の攻撃に勝つ保証とはなりません。戦士の数や力の強さも、人間の与える救いはむなしいのです。 同様に、私たちが自分の罪やこの世の誘惑と戦うときも、人の与える救いではなく、神の力によることをおぼえて、神に依り頼むのです。 【祈り】 どうか、自分の知恵や経験ではなく、人の助けや力でもなく、あなたの力で、罪や誘惑に勝たせてください。 Fri, 12 Jul 2024 00:10:00 +0000 神との親しいまじわりへ(レビ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240712 no 2024 祭司はこれを祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる食物である。 (レビ記3章11節) レビ記3章に記される和解の献げ物には、牛、羊、山羊が用いられました。動物の脂肪、および腎臓と肝臓の尾状葉は、燃やして主にささげられます。「これが燃やして主にささげる食物である」と記されます。残りの部分を、奉納者とその家族が主の御前で食べました。このように、この献げ物の特徴は、神との食事が伴うところにあります。聖書における食事は、平和の象徴であり、親しい交わりを表します。 主イエスは、当時のユダヤにおいて罪深く汚れた人たちだと思われていた徴税人や罪人たちと一緒に食事をされました。それは、主イエスと彼らの間に親しい交わりがあったことを表します。だからこそ、「どうしてイエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしているのか」と疑問を感じる人たちがいたのです。 私たちと主なる神との関係も、食事を共にする関係であることを改めて覚えましょう。聖餐において、その関係性が鮮やかに示されます。主はご自分の食卓に私たちを招き、私たちを養ってくださるのです。「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事を」する(黙3章20節)。きょうも、親しく関わってくださる主の眼差しを覚えて歩みましょう。 【祈り】 きょうもあなたに心を開き、あなたの養いをいただいて歩むことができますように。 Thu, 11 Jul 2024 00:10:00 +0000 人は恐れに捕らえられやすい存在(エレミヤ書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240711 no 2024 天に現れるしるしを恐れるな。 それらを恐れるのは異国の民のすることだ。 (エレミヤ書10章2節) 預言者エレミヤの時代のイスラエルの民の最大の問題は、経済的な困難でも社会的な困難でもありません。偶像礼拝をする信仰の問題でした。 当時の人びとの生活は、恐れと不安の中にありました。農業技術が発達していなかったため、凶作の年には家族全員が飢え死にする恐れがありました。隣国がいつ攻めてくるかわからない戦争の不安もありました。人びとはそのような恐れのゆえに偶像をつくり、偶像に助けを求めて礼拝しました。しかし、主なる神は、そのような偶像はただの木や金銀に過ぎないと言われます(8節)。 また、異邦人は、天の日や月、星のしるしを見て占いをし、特定の日を縁起が悪いなどと言い、恐れました。人は信じるものに縛られます。天のしるしを信じれば、それに支配されます。ここにも偶像礼拝の危険があります。主なる神は、異邦人は天のしるしを恐れるが、あなたがたはそれらを恐れるなとおっしゃいます。 人は恐れに捕らえられやすい存在です。 死に対する恐れ、失敗に対する恐れ、疎外される恐れなどに捕らえられてしまいます。それらの恐れは、天地創造の神を畏れることによってのみ解決されます。創造主なる神がわたしの父であり、わたしの保護者であることを覚えて、ただ神を畏れ、神に仕えることを願います。 【祈り】 天地創造の神を畏れ、主なる神に真実に仕える者であらせてください。 Wed, 10 Jul 2024 00:10:00 +0000 愛の神正義の神十字架の神(エレミヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240710 no 2024 わたしこそ主。 この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。 (エレミヤ書9章23節) 主なる神は、偶像を礼拝するイスラエルの民に「剣を送って彼らを滅ぼし尽くす」と言って、裁きの言葉を告げられます(15節)。神は、御言葉に逆らうばかりのイスラエルの民に多くの預言者を遣わして、神の御前に立ち帰るよう求めておられました。しかし、民は立ち帰るどころか聞こうともせず、かえって神の言葉を伝える預言者たちを迫害し、しりぞけました。そのような彼らに、主なる神は審判の言葉を語られます。 主なる神は愛の神ですが、正義の神でもあられます。愛と正義はどちらも神の代表的な御性質です。神は私たちを愛されますが、正義を貫いて罪を裁くお方でもあられます。ですから、主なる神は、御自分の民を愛して、彼らが悔い改めることを涙ながらに求められるのです(17節)。 この神の愛と正義が十字架においてもっとも明確に示されました。神は独り子を与えて十字架につけるほどにこの世を愛されました。十字架には神の愛があらわされています。同時に、私たちの代わりに主イエスが罪の代価を支払ってくださり、すなわち十字架は刑罰の場所、神の正義が貫かれたところでもあります。 愛は正義に基づくときに真の愛となり、正義は愛によって行われるときに初めて真の正義になります。 【祈り】 神の愛と正義が十字架において示されました。正義の神を畏れ、神の愛の中に生きる者としてください。 Tue, 09 Jul 2024 00:10:00 +0000 主なる神が与えてくださった(エレミヤ書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240709 no 2024 彼らを集めようとしたが… ぶどうの木にぶどうはなく いちじくの木にいちじくはない。 葉はしおれ、わたしが与えたものは 彼らから失われていた。 (エレミヤ書8章13節) 「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない」。これは、神の民イスラエルが失われていたということです。主なる神は、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか」と嘆いておられます(2章21節)。 当時、イスラエルの民は、バアルやアシェラがぶどうやいちじくなど農作物の豊作を与えると考えて、まことの神に背いて偶像崇拝をしていました。主なる神は、それらすべては造り主であるまことの神がお与えになるものだと示して、御自分の御前に立ち帰るように求めておられます。 私たちのすべては主なる神から与えられたものです。自分が努力して得たのでも、運が良くて、あるいは偶然に得られたというのでもありません。神が摂理の御手により、垣を巡らせて私たちを保護しておられるから(イザ5章5節)、私たちの歩みと日常が平穏に守られているのです。 私たちは、コロナ禍を経験する中で、当たり前に思っていた日常がどれだけ貴重なものだったのかを知りました。それは、主なる神が御自身の御手で私たちを守ってくださっているのです。この神の御前に立ち帰るところに信仰者の幸いがあります。 【祈り】 日常のすべてが神から与えられ、神の御手によって守られている幸いを感謝いたします。 Mon, 08 Jul 2024 00:10:00 +0000 強盗の巣窟と見えるのか(エレミヤ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240708 no 2024 「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」 (エレミヤ書7章11節) 主なる神は、神殿で礼拝をささげるイスラエルの人びとに、この神殿がお前たちの目に強盗の巣窟に見えるのかと叱責されました。神の神殿がまるで強盗の巣窟のようになっているということです。強盗の巣窟とは、強盗たちが強盗の仕事から帰って来て安息する場所です。日常生活の中では神の御言葉に逆らって不法を働き、隣人から騙し取る強盗のように生きているにもかかわらず、神殿ではいけにえをささげて自分は救われたと言い、安息を得ようとしているという指摘です(10節)。 日常生活が神礼拝から分離していたと言えるでしょう。神の民の生活は神を礼拝することと一つのものとして営まれます。信仰者にとって、日々の生活は礼拝する生活にほかなりません。そして、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(1ヨハ4章20節)とあるとおり、私たちは、日毎の隣人を愛する生活を通して神を愛する愛を表すのです。 「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2章16節)とおっしゃった主イエスこそ、私たちの神への愛と隣人への愛を回復してくださるお方です。日々の生活が神を礼拝する生活として整えられるように祈り求めて参りましょう。 【祈り】 私たちの礼拝が強盗の巣窟ではなく、神への愛と隣人愛を実践するまことの礼拝になりますように。 Sun, 07 Jul 2024 00:10:00 +0000 主が導いてくださる宣教の旅へ(マルコによる福音書 6章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240707 no 2024 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、… (マルコによる福音書6章8節) 主イエスは、十二弟子を宣教の旅に派遣されました。一本の杖のほかは何も持たなくても大丈夫、と送り出してくださいました。この十二弟子の派遣の前に、主イエスが故郷で人びとの不信仰に驚かれた話が記されています。 主イエスが驚かれる、あきれるほどの不信仰。その不信仰な人びとのゆえに、「奇跡を行うことがおできにならなかった」と記されています。そのような状況でも、主イエスは、わずかですがいやしの奇跡を行われました。十二弟子の旅の先にも不信仰な人びとがいます。それを承知の上で、宣教に派遣されたのです。そして彼らは、主イエスの言葉どおり、何も持たずに出かけ、多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやしました。 今、私たちの社会は、「あきれるほどの不信仰」といってもいい社会でしょう。キリスト教が異国の宗教であると警戒されていた時代がありました。偏狭な宗教であると警戒されていた時代がありました。そして今は、宗教であるというだけで警戒される時代です。それでも、私たちは、主から派遣され、この時代に、社会の中で生活しています。この生活そのものが、宣教の旅です。何も持たず、安心して出かけましょう。主が導いてくださる宣教の旅へ。 【祈り】 どのような状況でも、それを乗り越えて恵みを施してくださる主に、心から信頼できますように。 Sat, 06 Jul 2024 00:10:00 +0000 あなたはわたしの砦の塔(詩編 59編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240706 no 2024 わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。 あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。 (詩編59編17節) 表題(1節)に「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」とあるように、この詩は、サウル王から命を狙われていたダビデが、神の助けと守りを願い求めている詩です。 サウル王は、ダビデの家に使者を遣わし、彼を見張らせ、翌朝には殺させようとしました。その夜、ダビデの妻ミカルはダビデに言いました。「今夜中に避難して自分の命を守らなければ、明日は殺されます」(サム上19章11節)。そうして、ミカルは、ダビデを窓からつり降ろし、彼は逃げて難を免れることができました。 サウル王の使者たちは、うろうろ探し回る犬のように(詩59編7節、15節)ダビデを付け狙っていました。その夜、ダビデの心は、不安と恐れでいっぱいになったことでしょう。しかし、そのような状況でも、ダビデは希望を持ち、こう言うことができました。「わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います」と(17節)。 なぜならダビデは、神が自分の「砦の塔、苦難の日の逃れ場」だと信じていたからです。私たちも、どんなに不安と恐れにおびえる夜でも、神が共にいてくださり、守ってくださるので、平安と希望を持ちつづけることができるのです。 【祈り】 どのような不安と恐れの中でも、あなたが共にいてくださり、心に平安と希望を満たしてください。 Fri, 05 Jul 2024 00:10:00 +0000 しるしとしてささげる穀物の献げ物(レビ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240705 no 2024 祭司はこの穀物の献げ物から一部を取り分け、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである。 (レビ記2章9節) 穀物の献げ物は、焼き尽くす献げ物をささげたあとに続けてささげられたものです。小麦粉にオリーブ油を注ぎ、乳香を載せて祭司のもとに持っていくと、「祭司の1人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである」(2節)。 この穀物の献げ物は「しるしとして」祭壇で燃やされたと、3回繰り返して語られます(2、9、16節)。「しるしとして」という言葉は、もともと「覚えられる」という意味です。つまり、主なる神に覚えられていることの記念として、人びとは穀物の献げ物をささげたのでした。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」と主は言われます(エレ1章5節)。母の胎にいたときも、赤ん坊のときも、わたしは神を知りませんでしたが、神はわたしを知っていてくださいました。老いとともに、もしかしたら私たちは神のことが分からなくなるかもしれません。しかし、神が私たちをお忘れになることは決してありません。 神の民は、赤ん坊からお年寄りまで、みな神に覚えられている者たちです。そのことを互いに喜び、感謝して、皆で礼拝をささげましょう。 【祈り】 たとえわたしがあなたを忘れることがあっても、わたしを覚えていてくださいますように。 Thu, 04 Jul 2024 00:10:00 +0000 民の中の金を試す預言者(エレミヤ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240704 no 2024 わたしはあなたをわが民の中に 金を試す者として立てた。 彼らの道を試し、知るがよい。 (エレミヤ書6章27節) 前の2つの章に引き続き、迫り来る裁きを記します。主なる神は嘆いています。「誰に向かって語り、警告すれば、聞き入れるのだろうか。…見よ、主の言葉が彼らに臨んでも、それを侮り、受け入れようとしない」(10節)。ある旧約学者は、神に背き続け、契約を破り続けるイスラエルを「契約破棄のプロ」と呼んでいます。何かのプロになるのには血のにじむような努力が必要ですが、これなら誰でもプロになれそうです。しかし、その結果は主の裁きです。 この裁きを行うために主なる神は外国の軍隊を用います。6節などで「万軍の主」という呼称が用いられていますが、神は諸外国をも治めておられるお方なのです。 27節から30節は、預言者の働きを「試す者」としている興味深い箇所です。エレミヤは自らの働きを金の精錬士に召されたと思っていたのです。金から不純物を取り除くのがその仕事です。預言の火は金を練り清めることはできませんでした。そこでわかったのは金がいかに不純であるかということでした。 時代が降り、神は救い主を地上に送られます。主イエスの血によりこの不純物だらけの者を聖なるものとしてくださったのです。 【祈り】 主よ、不純物だらけのこのわたしを聖なる者としてくださり、感謝します。 Wed, 03 Jul 2024 00:10:00 +0000 正義を行い真実を求める者(エレミヤ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240703 no 2024 エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。 …ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。 いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 (エレミヤ書5章1節) 神はエルサレムを救うために、ただ一人の正しい者を探されます。「ひとりでも」と1節にあるように、神はたった一人でも正しい人がいれば救おうと思われていたのです。神はどこまでも人びとの罪を赦そうとなさるお方ですが、人びとはこの神の恵みに気付くことはありませんでした。身分の低い人も高い人も、誰もが神の道を離れていました。預言者の言葉を無視したのです。 罪には必ず結果が伴います。この章に登場する猛獣や遠くの国は、エルサレムやイスラエルを襲う国のたとえです。こうした国々を通して神は裁きをもたらします。 このように罪に対する神の裁きは徹底しています。しかし、同時に、神は完全に滅ぼすことはなく、赦しの可能性を残されています。「わたしはお前たちを滅ぼし尽くしはしない」と(18節)。 この神の赦しは、救い主、イエス・キリストにおいてより具体的な姿になりました。私たちは自分の力では神の裁きを招くものですが、キリストにあって滅ぼされはしないのです。 この神のキリストを通しての憐れみに感謝し、罪人でありながら神を崇める者は幸いです。なぜなら、そのような私たちを神は正義を行い真実を求めるものだ、と言ってくださるのですから。 【祈り】 主よ、キリストにある恵みと幸いに心から感謝します。 Tue, 02 Jul 2024 00:10:00 +0000 わたしはあなたを滅ぼさない(エレミヤ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240702 no 2024 まことに、主はこう言われる。 「大地はすべて荒れ果てる。 しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」 (エレミヤ書4章27節) エレミヤ書4章には深く激しい描写がみられます。イメージと感情に富んだこの箇所は、主との契約を破ることの重大さと、それに続く悲惨な結末を厳粛に思い起こさせるものです。冒頭は悔い改めへの呼びかけです。主はイスラエルに対し、主のみもとに立ち帰るよう招いています。この呼びかけは、表面的な変化ではなく、心に「割礼を受けて主のものとな」ることを求めるものです。真の悔い改めと、あらゆる形の偶像礼拝と罪の拒絶を訴えています。 この切なる訴えをイスラエルの民は聞き入れません。節が進むにつれて、トーンは差し迫った災いへの憂慮に満ちた描写に移っていきます。獅子にたとえられた敵は北から迫り、大きな破壊をもたらす。このイメージは、ユダとエルサレムの人びとに対する、彼らの不従順がもたらす結果についての厳しい警告となっているのです。預言者エレミヤは、そのメッセージを聞いて苦悩します。10節の、神が人びとを欺いているとの非難は、イスラエルに対する彼の深い共感と状況の激しさの反映です。 しかし、絶望の中にも希望はあります。主はイスラエルの民を「滅ぼし尽くしはしない」とおっしゃいます。ここにかすかな希望があります。この希望の灯に神の憐れみを見るのです。 【祈り】 主よ、滅びても仕方がないこの世界をあなたが守り導かれている恵みを覚えて感謝します。 Mon, 01 Jul 2024 00:10:00 +0000 背いた者をいやす神(エレミヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240701 no 2024 背信の女イスラエルよ、立ち帰れと 主は言われる。 (エレミヤ書3章12節) 預言者エレミヤは、南ユダの神に対する霊的な姦淫を説明するために、夫婦の不貞という痛ましいイメージで語ります。申命記24章1~4節によれば、離婚した女性が他の人と結婚した後、最初の夫のもとに戻ることは禁じられていました。すなわち、本来であればもう神の元に帰ることはできません。 6節以降にあるように、ユダは北イスラエルの歴史を知っていました。イスラエルの歴史は警告ですが、ユダは反省せず偶像崇拝にふけります。このようなユダに対して主はエレミヤを通して非難の言葉を語られます。 しかし、エレミヤを通して語られる主のメッセージは、非難ばかりではありません。12節と13節は、執拗な反逆に直面しても赦そうとなさる神のご意志と、ゆるぎない憐れみを見ることができます。悔い改めの呼びかけは、ユダだけでなく、すでに滅びた北イスラエル王国にも象徴的に拡大されています。悔い改める者を赦してくださるのが神なのです。 この悔い改めの呼びかけは、単に外面的な行事や儀式への回帰を意味するものではありません。エレミヤは、神が牧者を与え、民を新しい契約に導くという贖いを預言しています。この新しい契約を完全に成就させ、可能にし、神の民の心を変えるキリストの到来を示しているのです。 【祈り】 主よ、キリストの恵みにより私たちをいやしてくださり、感謝します。 Sun, 30 Jun 2024 00:10:00 +0000 あなたの信仰があなたを救った(マルコによる福音書 5章21-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240630 no 2024 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 (マルコによる福音書5章34節) 主イエスは湖の向こう岸に渡られると、群衆がそばに集まってきました。その中に十二年間も出血の止まらない女性がいました。この女性は、この病気を治そうと多くの医者にかかりました。しかし、全財産を使い果たしても治らず、しかもその病気はますます悪くなる一方でした。 この女性はどこからか主イエスのことを聞きました。そして、藁にもすがる思いで、主イエスのところにやって来たのです。なぜなら、主イエスの「服にでも触れればいやしていただける」という一縷の望みを主イエスに置いたからです。そして、群衆の中で、主イエスの後ろからその服に触れました。すると、出血はすぐに全く癒されました。 主イエスは、ご自分から力が出て行ったことに気づき、誰かが服に触れたことがわかりました。主イエスは自分の服に触れた者を捜そうとされます。それは、その人と顔を合わせた交わりを望んでおられたからです。この女性は勇気を出して、群衆から一歩出て、すべてをありのまま話しました。そして、主イエスはこの女性に「あなたの信仰があなたを救った」と優しく声をかけられ、彼女の信仰を見出されました。 「服にでも触れればいやしていただける」とのこの女性の信仰が、主イエスの御手を動かしたのです。 【祈り】 主よ、私たちが真心からの信仰を持てるようにしてください。 Sat, 29 Jun 2024 00:10:00 +0000 主なる神に今こそ信頼し祈り続ける(詩編 58編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240629 no 2024 人は言う。 「神に従う人は必ず実を結ぶ。 神はいます。 神はこの地を裁かれる。」 (詩編58編12節) 今月最後の準備の日に与えられた詩編58編は、神を無視し、不正が横行するこの世のただ中でなお、信仰者の希望を謳ったものです。 ここでは、「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」(10節)のように、十字架の福音に立つ現代の私たちにとって、好ましくないように思われる表現が続きます。 しかし、今、この世の中の現実に目を向けますとき、むしろ、これらの御言葉は立ち上がってくるのではないでしょうか。この世界の至る所で、「不正に満ちた心をもって」(3節)振る舞う一握りの権力者が、無益な争いを続けていて、そこでは、主イエスの愛された貧しい者、弱い者、子どもたちの命が簡単に奪われているからです。今や、大切な命が数字で報道され処理されているのです。 この理不尽な状況にあって、わたしたちは、祈り続けていますが、状況はますます深刻になっていきます。 しかし、「神はいます。神はこの地を裁かれる」(12節)と御言葉が宣言する以上、主なる神は、最も賢く、最も聖なる摂理の御業によって常にこの世を支配し、導いておられます。 そして、キリストの日には、その全てが必ず明らかにされます。私たちは、今がどのような状況にあっても、全能かつ現実の神の力に信頼し、忍耐と希望を持って祈り続けましょう。 【祈り】 主なる神よ、今こそあなたに信頼し祈り続けることができますように。 Fri, 28 Jun 2024 00:10:00 +0000 私のためにささげられたいのち(レビ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240628 no 2024 奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。 (レビ記1章5節) 臨在の幕屋の完成を伝えて、出エジプト記は結ばれます。礼拝の場所がいよいよ整えられて、次はレビ記です。レビ記は、ユダヤ教の伝統によれば「祭司のための規定」という名で呼ばれます。幕屋が完成し、今度は、そこで礼拝する者たちのあり方・生き方が教えられるのです。神に礼拝をささげて生きる者たちのために記された「礼拝指針」「生活指針」がレビ記なのです。 1章では、焼き尽くす献げ物について記されます。牛や羊や山羊を献げる場合は、家畜の中から無傷の雄を連れてきて、その家畜の頭に手を置きます。「これは私たちの身代わりです」というしるしです。そして、屠ります。礼拝の場には、私たちが赦され、神のものとされるための血が流れます。 イエス・キリストが、完全ないけにえとして献げられました。私たちは、礼拝堂に動物を引いて行くことも、屠ることもありません。旧約の幕屋のように、血が飛び散ることはもうありません。しかし、新約の礼拝にも確かにイエス・キリストの血が流れているのです。私たちを神のものとするために流された十字架の血です。 神のものとされていること。これこそ、礼拝をささげて生きる者たちに与えられた大いなる慰めです。 【祈り】 きょうも、神のものとされている慰めの中で生きることができますように。 Thu, 27 Jun 2024 00:10:00 +0000 初めの愛に留まる(エレミヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240627 no 2024 主はこう言われる。 わたしは、あなたの若いときの真心 花嫁のときの愛 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。 (エレミヤ書2章2節) 2章では初めの頃の愛が語られます。イスラエルは主なる神に対して純粋な信仰を持っていました。これは出エジプトのことだと考えられています。イスラエルは花嫁のように描かれ、夫である神と深く愛し合っていました。荒れ野を忠実に歩んだイスラエルの姿。こうしたエレミヤ書の書き方に疑問を覚える方もおられるでしょう。イスラエルは不平不満を言い、決して従順ではなかったのです。しかしそのようなイスラエルを神は「従順」だったと言われます。神の眼差しがいかに慈愛に満ちているかわかります。その神からイスラエルは離れたのです。 神から離れたイスラエルが行ったのが13節にある二つの悪です。それは「神を捨てること」と「こわれた水溜を掘った」ことだと言われています。神は生ける水の源といわれているように、このお方から私たちは信仰の潤いを得るのです。こわれた水溜は偶像礼拝のことです。人間が造り出したものから恵みを得ようとする愚かさを表現しています。 このようなイスラエルの罪を嘆きつつ、神は初めの愛に立ち帰るようにと迫ります。厳しい裁きの言葉は立ち帰れという主の情熱の裏返しです。この主の情熱を受け止め、初めの愛に留まるのです。 【祈り】 主よ、私たちが初めに抱いた熱き思いを忘れることがありませんように守り導いてください。 Wed, 26 Jun 2024 00:10:00 +0000 あなたを堅固な壁とする(エレミヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240626 no 2024 「彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた。 (エレミヤ書1章8節) エレミヤは激動の時代を生きた預言者です。ユダ王国のヨシヤ王の時代に預言者として召命を受けましたが、紀元前587年、ユダ王国が滅亡して多くの人びとが捕囚の民となるのを目の当たりにするのです 激動の時代の中でエレミヤは預言者として神の言葉を語ります。彼を支えたのは神からの召命でした。神は若かったエレミヤを召し出しました。それは、召し出した神ご自身がその主権を持ってエレミヤを守る。その神からの約束です。神はご自分の民を見捨てることはありません。だからこそ、「恐れるな」(8節)と言われます。わたしがあなたと共にいる、と。 11節から16節には二つの幻が記されています。アーモンドの木は、神の注意深さと迅速な行動を象徴しています(11、12節)。こぼれる煮えたぎる鍋は、北から迫り来る裁きを表しています(13~16節)。神はこの幻によって、神の言葉の確かさと南ユダの将来を伝えています。 こうした激動の時代にあって、神はエレミヤを堅固な町とするといわれます。どのような敵も勝つことができない堅固な壁です(19節)。エレミヤと同様、私たちも激動の時代の中にいます。神は私たちをも救い、堅固な壁にしてくださいます。 【祈り】 主よ、あなたの守りに感謝をします。崩れゆく時代において今にも崩れそうな私たちを堅固な壁としてください。 Tue, 25 Jun 2024 00:10:00 +0000 神の御言葉と聖霊によって生かされる(ヨハネによる福音書 4章7-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240625 no 2024 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネによる福音書4章14節) 水は私たちの命を養い潤すために欠かせません。私たちの体重のおよそ6~7割は水分で、私たちの体の大部分は水でできています。その一方で、地球は、その表面の7割が水に覆われていますが、その97.5%は塩水で、私たちが飲むことのできる淡水はたった2.5%しかありません。貴重なものですから、水を大切に使わねばと思わせられます。 出エジプトへと導かれたイスラエルの民は、荒れ野の旅の中で飲み水に困り、モーセに向かって不平を述べました。そのとき、主に命じられてモーセが岩を打つと水が出て、民は水を飲むことができました。主なる神は私たちに水を与えて命を養ってくださるお方です(出17章)。 時満ちて来られた救い主は、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。神の御言葉と聖霊を指し示すしるしとして水が用いられています。私たちは今や、御言葉と聖霊によって内側から造り変えられて永遠の命に生かされ、養われます。 「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩42編2節)。水を求めるように神の御言葉と聖霊を祈り求め、神に養われて歩んで参りましょう。 【祈り】 主よ、魂の渇きをもって御言葉と聖霊を求めさせてください。 Mon, 24 Jun 2024 00:10:00 +0000 水をも支配する主なる神(マタイによる福音書 8章23-27節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240624 no 2024 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。 (マタイによる福音書8章26節) 水はとても不思議な物質です。〇度で凍り、百度で沸騰する。ちょうどキリがよい数字で不思議だなと思いますが、水の凝固点と沸点を基準にして温度(摂氏)を決めているのですね。それほどに水は私たちの生活に身近で、不可欠なものです。しかし同時に、水はとても恐ろしいものでもあります。今年の初めにも大きな地震により津波の被害が起こりました。水は津波や洪水を引き起こして、しばしば私たちの生活を脅かします。 主なる神は、そのような水をも造り、支配しておられるお方です。天地創造の初め、地は混沌で闇が深淵の面にあったとき、すでに神の霊が水の面を動いていて、神のご支配は混沌や闇に及んでいました。神は大空と大地、海の境界を定めて、秩序を与えられました。また、第五の日に、大きな怪物が造られたとあります。これは、海には大きな怪物がいて大波を起こし、船をのみ込むと考えられていて、しかし、そのような怪物も神の被造物に過ぎず、神のご支配のもとに置かれているということです。 時満ちて来られた救い主も、激しい嵐で舟が波にのまれそうになったとき、風と湖を静める御力をお示しくださいました。たとえ災いに苦しめられる中でも、私たちは神の子である救い主に支えられ、主なる神に信頼して、平安であれるのです。 【祈り】 天地を統べ治めておられる主なる神への信頼を増し加えてください。 Sun, 23 Jun 2024 00:10:00 +0000 風も湖さえも従わせる主イエス(マルコによる福音書 4章35-41節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240623 no 2024 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 (マルコによる福音書4章40節) 湖のほとりで教えておられた主イエスは弟子を伴って、湖の向こう岸に渡ろうとされました。主イエスを乗せた舟は向こう岸に向けて漕ぎ出し、岸を離れました。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶり、水浸しになるほどでした。しかし、主イエスは、難破を防ごうと必死になっている弟子たちのすぐそばで眠っておられました。その主イエスの姿を見た時、弟子たちは、主イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と不安を訴え、主イエスに助けを叫び求めました。 主イエスが起き上がり、湖に向かって、「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪となりました。これは、主イエスが自然界をも支配されることのしるしです。 湖をも従わせる主イエスを目の当たりにした弟子たちは、大きな恐れを抱き、「いったい、この方はどなたなのだろう」と、これまで従ってきた主イエスを、この機に見つめ直すのです。主イエスは、ご自分と同じ舟に乗りながらも嵐に動揺する弟子たちを、「なぜ信じないのか」と叱責されました。 教会は嵐の中を進む舟です。しかし、主イエスがその教会という舟に同乗されているのです。ですから、どのような激しい嵐の中でも主イエスに頼ることができるのです。 【祈り】 主よ、どうか逆境の中でもあなたを信頼できるようにしてください。 Sat, 22 Jun 2024 00:10:00 +0000 一寸先は闇を一寸先は光に変える(詩編 57編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240622 no 2024 目覚めよ、わたしの誉よ、 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。 わたしは曙を呼び覚まそう。 (詩編57編9節) 昨今は異常気象が常態化し、梅雨時でありながら、真夏のような日々が続いたり、そうかと思えば、局所的に豪雨に襲われたりと、日々空模様を観察しながらの生活を余儀なくされています。また、世界中で争いが絶えずに「お先真っ暗」と思えるような時代です。この詩編が謳われている背景も暗闇で、「わたしの魂は獅子の中に、火を吐く人の子らの中に伏しています」(5節)と、その八方塞がりの状況が説明されています。 しかし、信仰者は、決してまわりが明るく、喜びが絶えない時だけに賛美するのではありません。その「お先真っ暗」のただ中で、「魂が屈み込んで」(7節)いる現実の中でなお、「神よ、わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」(8節)、と神を賛美するのです。それは、どのような空模様であっても、どのような世界情勢であっても、信仰の目で見上げれば、「あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います」(11節)と、神の御支配が天に満ち溢れているからです。 「わたしは曙を呼び覚まそう」と、この詩人は謳います。 暗闇のただ中にあって今、これほど響き渡る信仰の詩がありましょうか。私たちキリスト者は「一寸先は闇」を「一寸先は光」に変えるためにキリストの光をこの世に輝かせるのです。 【祈り】 「神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください」(6節)。 Fri, 21 Jun 2024 00:10:00 +0000 あなたは生活を聖別しなさい(出エジプト記 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240621 no 2024 第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた。 (出エジプト記40章17節) 12章2節で「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と言われた、出エジプト開始のときを起点としての「第二年」です。しかしその起点よりも、ここでは「第二年の一月一日」という節目だけが強調されています(2、17節)。 当初から民は幕屋建設を命じられていましたが(25章)、民の罪ゆえに最初の「掟の板」は砕かれてしまいました。その後、掟の再授与にあたって改めて真っ先に幕屋建設が再び命じられました(35章)。 私たち神の民にとって重要なのは、神が臨在される幕屋を、生活を通して建設することです。毎日の仕事を主への献げ物として「進んで心からする」生活を一年間送り終わったちょうどその翌日、「第二年の一月一日」に神の幕屋が完成します。 私たちの人生は、神の幕屋を完成させてゆく一年の積み重ねです。それは、一つ一つの手のわざによって神の聖所のための調度品をこつこつと作っていく日々です。一年また一年と、私たちは神の幕屋を作っていきます。一年の節目ごと、一月一日が巡ってくるごとに、神はそれを見届けていてくださるのです。 神の眼差しは、私たちの一年の生活全体を聖別してくださっています。 【祈り】 一年の節目ごとに私たちの幕屋建設を聖別して喜んでくださることを感謝します。み栄えが世々とこしえにあなたにありますように。 Thu, 20 Jun 2024 00:10:00 +0000 私たちの「祭服」を作る(出エジプト記 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240620 no 2024 モーセがそのすべての仕事を見たところ、彼らは主が命じられたとおり、そのとおり行っていたので、モーセは彼らを祝福した。 (出エジプト記39章43節) すでに28章で「祭服」が作られていたはずのアロンは、32章で「金の子牛」を鋳造した張本人となり、神に嘘をつきさえしましたが、34章「戒めの再授与」をへて、改めて「祭服」を作ってもらいます。それは、かつての罪に再び陥ることなく、これからは「主がモーセに命じられたとおりに仕えるため」(26節)の、身を引き締める正装となりました。それによって神の幕屋は完成されるのです。 神が豊かにご臨在くださる幕屋として、自分の生き方全体への見晴らしを得る。その中に「きょう」という日が神への献げ物としてあります。それは幕屋を形づくる一つ一つの調度品、小さな一つ一つの手のわざとしてあります。日々の手のわざを主への献げ物として「進んで心からする」という「知恵を心に授けられた」とき、私たちの毎日の生活と「そのすべての仕事」が祝福され、輝いてきます(43節)。そのような一週間の生活そのものが、宝石を散りばめられて織りなされたアロンの祭服です。 散りばめられた宝石は12個、つまり神の民を表す数です(14節)。私たちは神の民の一員に加えられている喜びを胸に、この祭服を着て礼拝に集うのです。 【祈り】  毎日の生活とすべての仕事を祝福してくださっている主よ、感謝と喜びの祭服を身に着けて次の礼拝に集うことができますように。 Wed, 19 Jun 2024 00:10:00 +0000 命の中心と人生の風景を思い描く(出エジプト記 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240619 no 2024 その祭壇の四隅にそれぞれ角を作って、祭壇から生えているようにし、全体を青銅で覆った。 (出エジプト記38章2節) 38章では、「焼き尽くす献げ物の祭壇」つまり旧約の礼拝生活にとって最も重要ともいえる中心点が作られます。 「焼き尽くす献げ物の祭壇」の四隅の「角」は、屠られる動物の血を塗ったり、自分の命の危険が迫ったときにはこの角にすがるといったように、命のもといの象徴と見られています。何をもって信仰の人生の中心・自分の命の中心と考えるか、そこに思いをひそめてみましょう。それを明確にしていくこと、それが目には見えない「焼き尽くす献げ物の祭壇」を「作る」ことです。 次に「幕屋を囲む庭」の風景を作ります。信仰の中心点の周囲に広がるあなたの人生の庭は、どんな眺めでしょうか。信仰を中心としたあなたの一生は、どんな豊かな風景でしょうか。庭師のようにそれを思い描いてみてください。それは神とともに歩んでいるあなたの人生の大きな見取り図です。そこには喜びと楽しみがあります。そして無限の可能性を秘めた空白部分もあります。あなたの人生全体の風景と、あなたの命の中心とをきょう、この機会にゆっくりと思い描いてみましょう。それは「命の書」に「記録」(21節)されることになるあなたの人生全体の祝福を垣間見ることになるはずです。 【祈り】 わたしの命の中心点と、その周囲に広がる豊かな風景を見渡して、主よ、あなたに感謝をささげます。 Tue, 18 Jun 2024 00:10:00 +0000 虚しい生活からの「出エジプト」(出エジプト記 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240618 no 2024 アカシヤ材で机を作り、寸法は縦二アンマ、横一アンマ、高さ一・五アンマとした。 (出エジプト記37章10節) 37章では、掟の箱、贖いの座、机、燭台、香をたく祭壇など、幕屋内部の一つ一つの調度品を作ることが命じられています。その一つ一つの素材や寸法もすべて懇切丁寧に教えられています。 神は、きょうあなたがなすべき一つ一つの小さな作業についても教えてくださっているはずです。さあ、主のしもべとしての具体的な作業の開始です。心を込めて一つ一つの小さな手のわざにあたりましょう。私たち「心に知恵を授けられた」主のしもべにとって、生活の細々としたことがらにも意味と充実感が与えられています。このことこそ、私たちの生活に対する神の祝福です。「わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください」(詩90編17節)と楽しく祈りながら、一つ一つの手仕事を神の幕屋の調度品にしていただきましょう。与えられている一つ一つの素材、一つ一つの寸法をなおざりにしないで、大切に心を込めて向かい合ってみましょう。 実はそこに、虚しい生活からの「出エジプト」があります。その日の労働や一つ一つの作業が「確かさ」を帯びます。「進んで心からするなら」生活の取るに足らない一つ一つが、神の幕屋の調度品として尊さを帯びます。 【祈り】 主よ、生活や仕事のこまごまとした細部を大切にする知恵を授けてください。虚しさという奴隷の家から導き出してください。 Mon, 17 Jun 2024 00:10:00 +0000 主から心に知恵を授けられたなら(出エジプト記 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240617 no 2024 「知恵と英知を主から授けられ、…心に知恵のある者は、すべて主が命じられたとおり、作業に当たらねばならない。」 (出エジプト記36章1節) 35章で「進んで心から」された献げ物を用いて、36章ではまず幕屋を覆う幕、壁板と横木、至聖所の垂れ幕、入り口の幕など、神の幕屋の大枠を作る建設作業が始められていきます。その際、「心に知恵を授けられた者」「心に知恵のある者」という言葉が何度も繰り返されています(1、2、4、8節)。 その「知恵」とは具体的な一つ一つの技術のことであると同時に、神のために働くという、神の民の生き方の土台となるような根本的な「知恵」です。毎日の生活を神への献げ物と考えるという根本的な知恵を心に授けられた私たちは、幕屋の大枠を作るという具体的な仕事を始めるために「呼び集め」られています。 自分の人生の全体、あるいは一定の期間、あるいはきょうという一日の過ごし方も、神の幕屋の大枠と考えて良いかもしれません。今というときを神のために生きるという「知恵」を授けられているあなたは、「きょう」一日をどう作っていきますか。そしてこれからの年月をどう作っていきますか。「その仕事に従事するために」あなたは神に召されているのです。 それは神の幕屋を建設することへの「召し」です。 【祈り】 主から心に知恵を授けられた者らしく、主に命じられているとおり、自分の仕事に心を込めて当たることができますように。 Sun, 16 Jun 2024 00:10:00 +0000 神の国とはからし種のようなもの(マルコによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240616 no 2024 「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。」 (マルコによる福音書4章30節~31節) 主イエスは弟子たちに神の国についてたとえを用いて話されました。この直前の箇所では、人が知らぬ間に成長する種のたとえを用いられました。この箇所では、からし種をたとえとして用いて説明されています。 主イエスは、神の国とはからし種のようなものであると言われます。からし種はとても小さな種で、〇・五ミリほどの大きさです。こんなにも小さな種ですが、土に蒔くと、成長して、どんな野菜より大木になります。また、枝を張って、その陰には鳥が巣を作るようになります。 はじめは主イエスを中心とした小さな集まりであった神の国が、やがて時代を超え、文化を超えて、増え広がっていきました。そして、多くの主イエスを信じる者たちが起こされ、神を求め主イエスを信じる者たちが次々と集められてきました。 主イエス一人から始められた福音宣教は、弟子たちにより継続されて、21世紀の現在は世界中に広がり、信徒の数は23億人以上と言われています。一粒のからし種のような福音の種の中にはあふれるばかりの生命が宿っていました。神は、順境の時にも逆境の時にも恵み与え、主を信じる者たちを生み出し、その信徒たちを通して神の国を社会の隅々にさまざまな形態により顕されました。これからも神の国は進展していきます。 【祈り】 主よ、どうかこの世を神の国となすために私たちを用いてください。 Sat, 15 Jun 2024 00:10:00 +0000 私たちの一粒の涙さえも(詩編 56編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240615 no 2024 あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。 (詩編56章9節) 明日の主の日に向けて、今週もこの準備の日に、詩編の御言葉に聞き、私たちの信仰を整えましょう。 この詩編は、「神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者がわたしに何をなしえましょう」という信仰告白が繰り返され(5、12節)、創造者の強さと被造物の弱さが対比されています。さらに大切なのは、この信仰告白の直前に、「神の御言葉を賛美します」(5節)、「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します」(11節)、と御言葉に対する賛美も繰り返されていることです。「命を奪おうとして後をうかがいます」と謳われていて(7節)、この信仰者を取り巻く状況は絶体絶命といえます。しかし、それが決定的な問題ではないと理解されているわけです。 そればかりではありません。この信仰者は、「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と謳います。これは、地に落ちてすぐ消えてしまうような涙の一粒まで、主なる神が忘れられることはない、という神の慈しみに対する絶対的な信頼です。 涙を流しながら、この週ここまで歩んで来られた方もおられましょう。しかし、その涙の一粒さえ私たちの主が忘れられることはないのです。「神の御言葉を賛美します」と告白しながら晴れやかに主の日の礼拝に備えましょう。 【祈り】 主なる神様、あなたの慈しみに感謝し、「主の御言葉を賛美します」。 Fri, 14 Jun 2024 00:10:00 +0000 心動かされ進んで心からするなら(出エジプト記 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240614 no 2024 心動かされ、進んで心からする者は皆、…主への献納物を携えて来た。 (出エジプト記35章21節) 一度目の律法授与の時は最初から「幕屋建設の指示」がされていました(25章)。けれども、それが砕かれてしまった後、再授与される時には、35章4節以下の「幕屋建設の準備」という段階が加わり、幕屋のために「進んで心からする献げ物」がまず最初に求められます(5節)。「進んで心からする」という言葉が何度も繰り返されています(5、21、22、29節)。 再び御言葉が砕かれないために、下準備として求められているのは、毎日を「進んで心からする献げ物」として神に献げる心の態度です。毎日の生活を神への献げ物として生きる心がけこそ、私たちの人生全体を、今度こそ本当に神の幕屋とするための下準備なのです。 私たちが毎日の生活を「心動かされ、進んで心から」神への献げ物とする心の準備があるなら、私たちの一日一日やすべての労働は神の幕屋建設のために用いていただけます。私たちの献げ物やすべての労働が神の幕屋建設のために用いていただけるのは「心動かされ、進んで心からする」ときだけです。生活の中の小さな一つ一つのことでも「進んで心からするなら」、それらはすべて、神への献げ物となるでしょう。 【祈り】 主よ、きょうという日を進んで心からあなたへの献げ物とすることによって、きょう一日を輝かせてください。 Thu, 13 Jun 2024 00:10:00 +0000 大丈夫!何度でもやり直せる(出エジプト記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240613 no 2024 「わたしが、今日命じることを守りなさい。」 (出エジプト記34章11節) 砕かれてしまった最初の石の板は神御自身が作ってくださったものでしたが(32章16節)、二度目からは、私たちが自分で板を用意する必要があります(1節)。 石の板ではない、新しい心の板を用意しましょう。失敗や落胆のあとで新しい心の板を用意して、そこにあなたのための新しい御言葉を刻んでいただくこと。それがあなたの新しい旅立ちになります。また失敗したらどうしよう?大丈夫!そのときはまた新しい心の板を用意して、そこに主の指であなたのための命の言葉を書き込んでいただきましょう。そして祈りましょう。「主よ、確かにかたくななわたしですが、わたしの罪と過ちを赦し、わたしの中にあって進んでください」(9節参照)。そのとき主は言われるでしょう。「わたしが、今日命じることを守りなさい」。 神の無限の忍耐の中で、私たちは何度でも「やり直す」ことができます。大切なのは、そのつど新しい板を心に用意することです。そして神にそれを差し出すことです。今度、主の指はどんな御言葉を書き込んでくださるでしょうか。そのとき再びあなたの顔は「光を放っている」でしょう(29節)。 【祈り】 主よ、失望や落胆の中にあるとき、あなたに新しい心の板を差し出すことができるように。そこにわたしのための新しい言葉を書き込んでください。 Wed, 12 Jun 2024 00:10:00 +0000 飾りを取り去りなさい(出エジプト記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240612 no 2024 「わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す」 (出エジプト記33章12節) 「あなたはかたくなな民である」(3節)と主に言われて民は嘆き悲しみました。そのとき民が「一人も飾りを身に着けなかった」(4節)、「身に着けている飾りを取り去りなさい」(5節)、「人々は…飾りをはずした」(6節)と、飾りをはずすことが繰り返されていることは象徴的です。 私たちは主から「あなたはかたくなである」と指摘されることがしばしばあります。それは往々にして、嘆きや悲しみといった、つらい体験を伴いもします。それは私たちがどんな「飾り」を身に着けていたか、それがどんな「かたくなさ」に結びついていたか、その都度、主が教えてくださっているのです。そのような無用なもののために私たちが滅びに至らないためです。そのとき主は、「わたしはあなたと共に行くことはしない」と厳しく言われもしますが、それによって私たちに「無用な飾り」を取り去らせてくださるのです。 それは「わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す」という約束の一環です。その都度私たちが「どうか今、あなたの道をお示しください」と、無用な飾りをはずして謙虚に求めるなら、主は改めて「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」(14節)と言われて、行くべき道を教えてくださいます。 【祈り】 主よ、わたしに同行してください。わたしにとって何が無用な飾りなのか、気づかせてください。 Tue, 11 Jun 2024 00:10:00 +0000 偽りによって砕かれた神の言葉(出エジプト記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240611 no 2024 モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 (出エジプト記32章19節) 「モーセが山からなかなか下りて来ない…どうなってしまったのか分からない」(1節)という不安の中で、民は目に見える像を欲しがりました。先が見えない不安の中で、目に見えるものにすがりたいと思うこと。そこに偶像の起源があります。それが自分たちを「エジプトの国から導き上った」本当の神とすり替えられてしまいます。先が見えない不安の中で、目に見えるしるしによって安心したいと思う誘惑を警戒しましょう。 その誘惑に取り込まれてしまったとき、アロンの「雄弁」(4章)は「嘘」と化してしまいました。民に供出させた金の耳輪について、アロンは「わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです」と嘘をつきました(24節)。しかし聖書は、アロン自身が「のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った」という事実をはっきりと見据えています(4節)。 主の御名を呼ぶ心の中に、安心できる目に見えるしるしを欲しがる思いが忍び込むとき、私たちの心にもすり替えが起こり、偽りが生まれます。それは御言葉が砕かれてしまうことに直結します。不安なとき私たちの心が鋳造してしまいがちな、身近な子牛像に注意しましょう。 【祈り】 先が見えない不安の中にあるときも、目に見えるしるしを欲しがることなく、御言葉そのものに信頼することができますように。 Mon, 10 Jun 2024 00:10:00 +0000 神は安息日を聖別なさる(出エジプト記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240610 no 2024 それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。 (出エジプト記31章13節) 幕屋建設に関連する指示は、安息日順守の命令で終わりを迎えます。幕屋を造る目的は安息日に礼拝を守るためであり、この箇所は幕屋建設の頂点とも言えます。 ここでは、安息日を守ることが厳しく命じられています。14節に「それを汚す者は必ず死刑に処せられる」と言われているのです。だからといって、安息日は決して恐れや義務感から守るものではありません。神は「わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのもの」(13節)と言われました。神はこれまで幕屋建設の指示に際して、ご自身が聖なる存在であることを繰り返し強調されました。そして、本来神の聖さに与ることなどできない人間を聖別し、ご自分のものとするために、さまざまな掟を与えて、安息日を備えてくださったのです。 神が約束なさる安息とは、一時的な気晴らしではなく、体も魂も解放されて平安のうちに神の祝福に与ることです。それは礼拝を通して神を賛美し、自分の業や思いをすべて神に委ね、神の働きに自分を明け渡すことによって得られます。古い自分を脱ぎ捨てて、全力でその幸いを受け取ることが求められるのです。そこで神が真実の安息を与えてくださるお方だと知るのです。 【祈り】 あなたを信じ、従うことによって、あなたの憐れみによる安息に真実に与ることができますように。 Sun, 09 Jun 2024 00:10:00 +0000 神の御心を行う人が神の家族(マルコによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240609 no 2024 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マルコによる福音書3章35節) 主イエスは三十歳ごろから公生涯、つまり福音宣教の生活へと入られました。それ以来、母マリアや兄弟たちとは離れた生活となっていたはずです。そんなある日に、母マリアと兄弟たちが、主イエスのところに会いにやって来ました。大勢の人が主イエスを取り囲んでいましたから、彼らは人に頼んで主イエスを呼ぼうとしました。その人が主イエスの所へと行き、母と兄弟たちが捜していることを伝えます。すると、主イエスは、自分の母や兄弟とは自分の周りにいる人びとであると言われたのです。 33節の「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」との主イエスの言葉ですが、せっかく会いに来た家族に対してどこか突き放しているように聞こえ、冷たい感じさえ受けます。 しかし、主イエスがここで言いたいことは血縁ではなく、主を信じる信仰こそが神の家族としてのしるしであるということなのです。 主イエスこそが、神の家族、神の国の中心です。その周りにはこの場面のように御言葉を聞き、それに従う人びとが集まってきます。まさしく、教会がそこにあるのです。教会こそが神の家族です。誰でも、主により救われた人は神の家族であり、キリストのからだなる教会の一員なのです。 【祈り】 主よ、どうかきょうもあなたの御心を行うことができるようにしてください。 Sat, 08 Jun 2024 00:10:00 +0000 逃げないで重荷を主に委ねる(詩編 55編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240608 no 2024 あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。 (詩編55編23節) 明日の主の日に備えて与えられたこの詩編は、「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください」という嘆きから始まります(2節)。祈っても祈っても、事態が変わらない、その悶えがここにあります。この詩編の著者とされるダビデは、神に逆らう敵が襲い掛かってくるという不安と悩みの中にあって狼狽えています(3~5節)。しかもそれはただの敵ではありません。「だが、それはお前なのだ」(14節)、とその正体が示されているように、それは、過去、共に主なる神に仕えた信仰の友でありました(15節)。ダビデは、この非情さに、たとい辿り着く場所が荒れ野であっても逃げ出したい、と自問自答しています(7~9節)。 しかし、ダビデが、この祈りの中で与えられた最終的な回答は、「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる」であったのです。私たち信仰者にとって大切なことは、重荷を残して逃げ出すことではなくて、その重荷を主に委ねることなのです。そのとき、重荷は重荷ではなくなるからです。 そればかりか、「主はあなたを支えてくださる」と御言葉がいうとき、重荷だけでなく、その重荷に苦しむこのわたし自身が、主なる神に支えられている、担われている、と約束されているのです。 【祈り】 主なる神様、すべての重荷をあなたに委ねる信仰者に変えてください。 Fri, 07 Jun 2024 00:10:00 +0000 良い香りを放つ者として生きる(出エジプト記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240607 no 2024 この掟の箱の上の贖いの座の前でわたしはあなたと会う。アロンはその祭壇で香草の香をたく。 (出エジプト記30章6節~7節) 「わたしはあなたと会う」という言葉が29章に一回、30章に二回出てきます。30章では、「掟の箱の上の贖いの座の前で」(5節)、「臨在の幕屋の中の掟の箱の前」(36節)で、神は「わたしはあなたと会う」とおっしゃいます。人は罪に汚れています。そのままで聖なる神の前に出るならば死を免れません。けれども神は、私たちと会うことを祝福として約束してくださいました。神と会っても死ぬことがないばかりか、むしろ神と出会うことによって喜びのうちに生きることができるのです。 その驚くべき恵みの出来事が起こる場所には香をたく祭壇が造られました。礼拝において香がたかれ、その良い香りを天に向かって立ち上がらせることで神への献身の思いを表しました。ここでは、香の材料や配分や作り方の手順が細かく定められています。同時に、規定に反したものであってはならず、また私用に使ってもならないと命じられています。人間の勝手な好みや自己都合が入り込まないようにする必要があるのです。 神に出会い、信仰によってキリストに結ばれた私たちは、神に献げられる良い香りとされました(2コリ2章15節)。その恵みにふさわしく、神に喜んで受け入れられる歩みをしたいと願います。 【祈り】 私たちはあなたの憐れみに感謝し、天に向かって祈ります。どうぞ良い香りとして受け入れてください。 Thu, 06 Jun 2024 00:10:00 +0000 犠牲の血による和解(出エジプト記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240606 no 2024 わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。 (出エジプト記29章42節) 神は祭司をその職に任命する任職式をお定めになりました。その式では、一頭の雄牛と二匹の小羊をいけにえとしてささげるようにと指示されました。雄牛には手を置きます。この動作は雄牛と自分とを一体化するという意味があります。その上で雄牛を燃やして煙にします。これが罪を償う贖罪の献げ物です。 雄羊にも同じように手を置き、祭壇の上で全部を燃やします。これは焼き尽くす献げ物と言われ、自分のすべてを神に献げる決意を示します。もう一匹の雄羊にも手を置いた上で屠り、その血の一部を祭司の体につけます。これは和解の献げ物と言われ、罪人である祭司が神の聖い務めを果たす者となるためです。 いずれも動物の命がささげられ、血が注がれます。このような儀式を私たちはもはや必要としません。イエス・キリストが完全な献げ物となってくださったことによって、神との和解をいただいたからです。 目の前で生きた動物が殺され、血が流れる。こうした光景に拒否感を覚える人も少なくないかもしれません。しかし、キリストが血を流して命をささげてくださったところに私たちの救いがあります。キリストのリアルな犠牲に、私たちの救いの確かさがあるのです。 【祈り】 イエス・キリストが私たちのための献げ物となってくださったことを真実に受け止められますように。 Wed, 05 Jun 2024 00:10:00 +0000 神の民にふさわしい装い(出エジプト記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240605 no 2024 これらの衣服を兄弟アロンとその子らに着せ、彼らに油を注いで祭司の職に就かせ、彼らを聖別してわたしに仕えさせなさい。 (出エジプト記28章41節) 神は、アロンとその子らを祭司としてお立てになりました。祭司は、神と人との間に立ち、とりなしをする役目を担います。その祭司の服装について、神は具体的な規定をお与えになりました。2節に「威厳と美しさを添える聖なる祭服を作らねばならない」とあるように、かなり豪華で手の込んだ衣装を指定されました。 この世で王となろうとする者は、自らの権威や栄光を見せつけるために、煌びやかな衣装を身に付けます。けれども、神が祭司の衣装を具体的に定められた意図はそれとは異なります。ここには「祭司としてわたしに仕えるときの聖なる祭服」(4節)、「それを身に着けていれば…罪を負って死を招くことがない」(43節)といった表現が出てきます。威厳と美しさを帯び、永遠の命であられる神に仕える働きをするためなのです。アロンもその子らもやがて神の前に大きな罪を犯すことになります。弱さと欠けのある罪人に過ぎない彼らを祭司に任職するために、神はその装いを念入りに定められたのです。 イエス・キリストによって、すべての信仰者は祭司とされました。私たちもまた弱く欠けの多い罪人ですが、もはや特別な服装は必要ありません。キリストを着る者とされ、神の栄光を周りに表しながら生きるのです。 【祈り】 キリストの救いを帯びた者として神の装いを与えてくださり、神の栄光を表すことができますように。 Tue, 04 Jun 2024 00:10:00 +0000 暗闇の中でも神は共にいてくださる(出エジプト記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240604 no 2024 あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。 (出エジプト記27章20節) 27章では、幕屋の庭と祭壇の作り方が記されます。祭壇は犠牲の動物を献げるための場所で、その四隅に角を設置するよう指示されました。角は神の力強さの象徴と考えられます。当時、罪を犯した者は天幕に逃げ込み、祭壇の角にしがみつきました。神に必死で助けを求めたのです。角は神から祝福をいただくための格闘の道具と言えます。 20節からは、垂れ幕の手前に置く常夜灯についての指示です。いつまで続くか分からない荒れ野での旅の間、イスラエルの民は心細さを感じたことでしょう。暗闇が支配する夜はなおさらだったのではないでしょうか。私たちにも、先の見えない不安や怖れが夜には一層大きくなる、という経験があります。そのような中で、神はともし火を常夜灯としてともさせなさい、と命じられました。これを「代々にわたって守るべき不変の定め」とまでおっしゃるのです。 ともし火が照らし出すのは、幕屋全体です。絶えることなく燃え続けるともし火は、どんな暗闇の中でも神がいつも共におられること、そして神に助けを求めて祈るとき、必ず救い出してくださることを思い起こさせてくれます。そのことを決して忘れないよう心を留めるようにと神は促しておられるのです。 【祈り】 あなたは救い主として共にいてくださいますから、真実にあなたを祈り求める者とならせてください。 Mon, 03 Jun 2024 00:10:00 +0000 至聖所の垂れ幕の意味すること(出エジプト記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240603 no 2024 その垂れ幕は留め金の下に掛け、その垂れ幕の奥に掟の箱を置く。この垂れ幕はあなたたちに対して聖所と至聖所とを分けるものとなる。 (出エジプト記26章33節) 幕屋の本体は、何枚もの幕を綴り合せた幕で覆われ、更にその外側に天幕、さらにその外側には覆いが被せられました。幕屋を支える壁板と横木にはアカシヤ材が使われました。相当な重さと大きさであり、荒れ野の中を持ち運ぶのは大変だったはずです。それでもイスラエルの民は神の指示どおりに幕屋を建設し、そこで礼拝を献げ続けました。 幕屋の中は垂れ幕によって聖所と至聖所とが仕切られていました。掟の箱が置かれた至聖所には、年に一度、大祭司だけが、献げ物の動物を携えて入ることができました。そこで、神は「わたしはあなたがたの中に住む」と約束してくださいました。けれども私たちは、時を選ばず勝手な方法で神の領域に踏み込むことは許されません。そのことを厳格に示しているのが聖所と至聖所とを分ける垂れ幕です。同時に、厚く高い壁ではなく、垂れ幕であるということは誰もが至聖所に入り得る可能性も示唆しています。ですから至聖所は、そこに入りゆく日を待ち望むべき所でした。 この垂れ幕はキリストが十字架の上で息を引き取られたとき、真っ二つに裂けました。キリストがただ一度、ご自身を犠牲のいけにえとして献げてくださって、私たちは神に近づくことができるようにされました。 【祈り】 御子の犠牲によってあなたに近づくことができますから、その恵み深さを想わせてください。 Sun, 02 Jun 2024 00:10:00 +0000 人の子は安息日の主である(マルコによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240602 no 2024 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 (マルコによる福音書2章27節~28節) ある安息日に、ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んでいる姿を見ました。すると、彼らは主イエスに、弟子たちがしている穂を摘むことは安息日には禁じられている労働にあたると訴えました。そこで、主イエスは、祭司以外は食べてはならない供えのパンをダビデとその従者たちが食べたことを引き合いにだされました。また、彼らが重視している安息日のための細則は律法の精神に反し人を縛るものであること、そして、安息日は人が喜んで神に仕える日として神により定められたことを、彼らに教えようとされました。 主イエスが言われているとおり、安息日に関する細則は安息日を人のためにお定めになった神の意図に反するものであり、人を苦しめ、縛るものとなっていたのです。 そして、主イエスは彼らに決定打として「人の子は安息日の主である」と宣言されました。これは、ご自身が律法に先立ち、伝統に先立つ、最高権威の持ち主であるとの宣言です。 安息日は、人が自ら進んで喜んで神を礼拝するための日、また、この世の働きを休み、七日の内の一日を主にささげて仕える日です。さらに、安息日は人が主と兄弟姉妹との交わりの中で憩う日でもあります。 【祈り】 主よ、私たちが安息日を正しく知り、この日をあなたにささげることができるようにしてください。 Sat, 01 Jun 2024 00:10:00 +0000 御名に始まり御名に終わる歩み(詩編 54編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240601 no 2024 見よ、神はわたしを助けてくださる。 主はわたしの魂を支えてくださる。 (詩編54編6節) 今月与えられた詩編54~58編は、敵に囲まれ命さえ保証されない状況で謳われた旧約の信仰者の詩が続きます。その一つ一つが、一週間信仰の戦いを続けてきた私たちの心に響くはずです。 今朝、私たちに与えられた詩編の御言葉は、「神よ、御名によってわたしを救い」からはじまります(3節)。そして、「恵み深いあなたの御名に感謝します」と終わっていきます(8節)。最初と最後に神の御名が呼ばれ、神の御名がこの信仰者の中心にあって、この詩を支配していることがわかります。 実にこれが、私たちキリスト者の歩みではないでしょうか。週の最初の主日礼拝に「御名によって」招かれ、週の最後の日に「恵み深いあなたの御名に感謝します」、と一週の歩みを振り返る。そのとき、「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」。この御言葉が、一週間のあらゆる場面で響いていたことに気が付きます。キリスト者である以上、「暴虐な者がわたしの命をねらっています」(5節)とあるように、激しいサタンの攻撃に晒されますが、十字架の主イエスの御名に依り頼む私たちにとって、それがいったい何でしょう。 苦難の時こそ、主はそこにおられ、救いだしてくださいます。(9節)。 【祈り】 主の御名がわたしの中心にあって、わたしを支えてくださいますように。 Fri, 31 May 2024 00:10:00 +0000 わたしは彼らの中に住むであろう(出エジプト記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240531 no 2024 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。 (出エジプト記25章8節) 神はモーセにシナイ山に登るようにと命じ、移動式の礼拝所である幕屋を建設するようにとの指示をお与えになりました。 この幕屋建設に関する具体的な定めが25章から続き、材料・寸法・形・工法など細かい指定が記されています。今日の私たちにはもはや意味がないのではないかと戸惑うような内容です。実際、聖書通読の決意をして創世記から読み始めたものの、この箇所で挫折してしまったという方もおられるのではないでしょうか。 けれども、この実に細かい指示の中に、人間に対する神の熱い思いが込められているのです。人にはすべて罪があり、礼拝すら神に受け入れられるようにはできません。イスラエルの民は、エジプトから救い出してくださった神への感謝を忘れ、不平不満をあらわにしました。神の怒りの対象だったのです。けれどもそのような彼らに対し、神の方から驚くべき恵みを差し出してくださいました。幕屋建設の指示を通して、神との関係回復の道を示してくださったのです。 「彼らの中に住む」。この神の約束は、主イエス・キリストへの信仰によって現実のものとなりました。神との関係回復という神の恵みにあずかれるように、神はその御計画を示してくださっていたのです。 【祈り】 あなたの御言葉に真実に愛を覚え、応答する者とならせてください。 Thu, 30 May 2024 00:10:00 +0000 民と契約を結んでくださる神(出エジプト記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240530 no 2024 「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」 (出エジプト記24章7節) 主は、契約の言葉をモーセに与え、イスラエルの民との間に正式な契約を締結するために、祭司の代表と民の代表であるイスラエルの70人の長老を連れて御自分のもとに登るように命じられました。しかし、主に近づくことができるのはモーセだけです。モーセは、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせました。イスラエルの民は皆、定めに従うことに同意しました。 モーセは、山の麓に祭壇を築いてイスラエルの十二部族のために石の柱を建てました。祭壇は主の臨在の象徴です。モーセは焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を献げさせ、犠牲の血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に、すなわち主に振りかけました。民は、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と誓います。モーセは、服従を誓う民に残りの血を振りかけました。主と民の両方に血が振りかけられて、契約が正式に成立しました。動物犠牲の血で贖われ清められたイスラエルの民は、主の聖なる民となり、彼らは神を見て食べ、また飲みました。契約の食卓に加えられたのです。 主イエス・キリストは動物の血によらずに御自身の血によって完全かつ永遠の贖いを成し遂げてくださいました。聖餐式の杯は、主イエスの血潮による新しい契約を現しています。 【祈り】 キリストの尊い血による贖いと新しい契約に感謝します。 Wed, 29 May 2024 00:10:00 +0000 安息の日安息の年に造り主を思う(出エジプト記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240529 no 2024 しかし、7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。 (出エジプト記23章11節) 人が、6日間働いて7日目に仕事を休むのと同様に、6年間耕作をした土地にも7年目には全き安息を与えて休ませなければなりません。7年目は、債務者や奴隷、土地にとって休みの年、解放の年です。 レビ記25章4~7節によると、その年は、畑に種を蒔くこと、畑の手入れをすること、収穫すること、畑から自然に生じた穀物を収穫することも禁じられました。畑に生じたものは、奴隷や雇い人、寄留者、家畜や野生の動物に与えられます。すべて土地は主のものであり、主の御心に従って使用しなければなりません。 主が安息の年を定められたのは、安息日と同じように、主の創造の業を覚えて、主との契約を「心に留め」、収穫の主に日々の感謝と賛美をささげるためです。奴隷と使用人を酷使することを止めることで、人としての尊厳を守る意味もありました。この安息年によって、民はかつてエジプトの国で奴隷としての過酷な状態から主が救い出してくださったことを想い起こします。主は、その間も、人びとが生活に事欠くことなく暮らすことができると言われました。 私たちにも主イエスは次のように約束しておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6章33節)。 【祈り】 私たちに必要なすべてを備えてくださる主なる神に感謝します。 Tue, 28 May 2024 00:10:00 +0000 唯一の憐れみ深い神のもとで(出エジプト記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240528 no 2024 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 (出エジプト記22章20節) 寄留者を苦しめたり虐げたりしてはならない。イスラエルの民も、かつてはエジプトにおいて在留異国人として虐待され、苦しめられたからです。社会正義と社会福祉を実践することは律法の精神です。 貧しい者に金を貸す場合、利子を取ることは禁じられました。むしろ貧しい同胞に対して必要とするものを十分に貸し与えるように勧められます(申15章8節)。隣人の上着を質に取る場合も、日没までには返さなければなりませんでした。当時の上着は、掛け布団でもあったからです。人が生きていく上での必要最小限度の権利が保障されていました。神は唯一であり、憐れみ深く、ユダヤ人だけでなく異邦人にとっても、すべての人にとって神であられます。 キリスト教会は、老若男女を問わず、同じ主を信じ、主の名のもとに集う者の共同体です。お互いが主の憐れみと赦しのもとにあることを覚えて、互いに祈り、支え合い、手を差し伸べることが主の御心です。 主イエスは、御子として栄光に満ちておられたのに、私たちのために人となられ、貧しくなられました(2コリ8章9節)。主は、生涯を通じて私たちのために仕える者となられ、自らその身に罪を担ってくださいました。私たちは、恵みに感謝しつつ御あとに従って行きたいと思います。 【祈り】 主の憐れみを覚えて、御あとに従うものとならせてください。 Mon, 27 May 2024 00:10:00 +0000 7年目には自由の身となる(出エジプト記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240527 no 2024 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は6年間奴隷として働かねばならないが、7年目には無償で自由の身となることができる。 (出エジプト記21章2節) 古代の近東諸国において奴隷制度は一般的にみられる習慣でした。奴隷となる理由は、労働力不足を補うために他国より輸入される場合、戦勝国の捕虜が奴隷にされる場合、借金のかたに身売りをした場合などがありました。 イスラエルの奴隷に対する扱いは寛容であり、他国と異なり、永続的なものではありませんでした。かつてイスラエルの民がエジプトの国で奴隷であり、過酷な労働を強いられていたときに、神はその嘆きを聞き、憐れんでくださり、民は解放されました。神はイスラエルの民に、このことを思い起こして奴隷に対して慈悲深くあることを教えます。すなわち、男女を問わず、奴隷も主の安息日の恵みにあずかるなど、人格が尊重されていました。同胞のイスラエル人が身売りされても、7年目には無償で自由の身となることができました。さらに50年目のヨベルの年の規定もありました(レビ25章参照)。 かつて私たちは、罪と悪に縛られて奴隷でしたが、主イエス・キリストの贖いの血により罪から解放されて、神の子とされました。そして今や、私たちのために天に蓄えられている「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者と」されているのです(1ペト1章4節)。 【祈り】 罪の奴隷であった私たちを、キリストの贖いにより解き放ってくださった恵みに感謝します。 Sun, 26 May 2024 00:10:00 +0000 三位一体の神から来る救い(ヨハネによる福音書 3章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240526 no 2024 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネによる福音書3章16節) ペンテコステから一週間後の本日は、教会暦で「三位一体の主日」と呼ばれます。天の父なる神、イエス・キリスト、そして聖霊が別個の存在ではなく、三位一体となって救いのため行動なさることを覚える時です。 父なる神が治める神の国についてニコデモから質問された主イエスは、神の国に入るには聖霊による生まれ変わりが必要とお答えになりました(3~8節)。主イエスが父なる神のことも聖霊のこともよく知っておられることが分かります。主イエスはさらに御自身を「天から降って来た者、すなわち人の子」(13節)、信じる者に永遠の命を得させる者(15節)と言い表しました。 何より16節は、主イエスが父なる神の独り子、と述べています。主イエスはただの人間ではなく、父なる神と深い関係にある子なる神なのです。主イエスを神の独り子、救い主と信じる者は父なる神によって裁かれることはありません(18節)。 イエスを救い主と信じ、神の国に入ることができるよう人を生まれ変わらせるのは聖霊です。人が救われるのは、父・子・聖霊の三位一体の神が役割を分担しつつ救いの始めから完成まで一体的に働いてくださるゆえなのです。三位一体の神による救いを改めて感謝しましょう。 【祈り】 人の救いのために、父・子・聖霊のすべてを動員して働いてくださるあなたの愛の深さに感謝いたします。 Sat, 25 May 2024 00:10:00 +0000 人生を転換してくださる神(詩編 53編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240525 no 2024 だれもかれも背き去った。 皆ともに、汚れている。 善を行う者はいない。ひとりもいない。 (詩編53編4節) この詩編は、パウロが人類の罪の告発に続いて、神に背いたすべての人間が腐敗し、善を行う者は一人もいないということの論証に引用した詩編です(ロマ3章10~12節)。 2節の「神を知らぬ者」とは「愚か者」という言葉です。ここで言う「神などない」とは、熟慮の末、意図的に自分の人生哲学、信念として神を無視し冒涜し、神の御心に背いて生きるということです。高慢にも自分の生活を裁く「神などいない」として、何事でも神を無視して悪をたくらむ者のことです(詩10編4節参照)。 パンを食べるように民を食い者にする者たち(5節)とは、神の民を虐げる支配階級の人びと、主の御名を呼ばない宗教的指導者たち(サム上2章12節)、民を搾取して生活している者たちです。彼らの末路は、辱められ、骨がまき散らされるように、徹底的な神の裁きによって神から捨てられると語られます(6節)。神に背いた人は、「皆ともに、汚れ」、捨てられるしかない存在です。 罪人を回復することができるお方は神だけです。神はキリストにあって罪の力を打ち破り、「捕われ人を連れ帰られる」ように私たちの人生を新しく転換してくださいました(7節)。ですから、きょうもキリストにあって、この神ご自身を喜びとして歩もうではありませんか。 【祈り】 万事を益としてくださる神よ、わたしの人生を転換してください。 Fri, 24 May 2024 00:10:00 +0000 神の贖いの恵みに応えて生きるために(出エジプト記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240524 no 2024 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」 (出エジプト記20章2節) 神はアブラハムとの契約を覚えておられ、その契約に基づいてイスラエルの民をエジプトの国から導き出されました。神はシナイ山でイスラエルと新たな契約を結ばれます。 シナイ契約の中心は、十戒です。主はまず御自身のことを「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と語られます。主なる神は、人格を持った生ける真の神です。神はイスラエルを選ばれ、愛して御自分の民とされ、エジプトの奴隷の状態から解放してくださいました。 十戒は、神の贖いの恵みを前提として与えられたもので、道徳律法の要約です。道徳律法は、神の民が、如何にして神を喜び、神に栄光を帰して生きることができるかという人生の指針です。初めの四つの戒めは神に対する人間の義務と責任、後の六つの戒めは人間の人間に対する義務と責任が語られます。 かつて神に逆らい罪に縛られ奴隷として生きていた私たちは、御子イエス・キリストの血潮による贖いによって罪を赦され、死から命へと贖い出されました。私たちは、この恵みに応えて、全身全霊をあげて神を愛すること、隣人を自分のように愛することによって、神の栄光を現わして生きたいと思います。 【祈り】 御子の尊い血によってわたしを罪から贖ってくださった神よ、その恵みに応える者とならせてください。 Thu, 23 May 2024 00:10:00 +0000 祭司の王国聖なる国民となる(出エジプト記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240523 no 2024 「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」 (出エジプト記19章6節) エジプトの国を出発したイスラエルの民は、三月目にシナイの荒れ野に到着し、山に向かって宿営しました。モーセはシナイ山に登って行きました。かつて神はアブラハムと契約を結ばれましたが、今、新たにシナイ山でイスラエルの民と契約を結び、律法を与えてくださるのです。 イスラエルとの契約締結に先立ち、主はモーセに、イスラエルの民に語るべき言葉を示されました。「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを」(4節)。イスラエルは、主がエジプトで行った十の奇跡のすべてを目の当たりにし、荒れ野の旅における主の導きと臨在を経験しました。これらの主の愛と慈しみに応えて「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」、イスラエルの民は主にとって大切な宝の民となり、祭司の王国、聖なる国民となるのです。祭司は神と人との間に立ち、執り成しの祈りをささげる者です。イスラエルは神の御旨を行うためにこの世から区別されて主のものとされました。さらに、全世界に主の臨在を証しする使命を与えられました。 私たちも新しいイスラエルとしてキリストの贖いの血によって神のために聖別され、神の祭司の王国の一員とされるのです。 【祈り】 地の塩、世の光としてキリストの福音を証しする者とならせてください。 Wed, 22 May 2024 00:10:00 +0000 聖書を日本語で読める恵み(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240522 no 2024 人々は驚き怪しんで言った。「…どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」 (使徒言行録2章7節~8節) ペンテコステは、「宣教する教会の誕生日」とも言われます。キリストのもとに集う「教会」それ自体は、もっと前からありました。しかし、聖霊を受けて、証人となる力をいただいて(使1章8節)、地の果てにまで福音を伝えていく「宣教する教会」が、この時誕生したのです。 弟子たちが炎のような舌を受けて、ほかの国々の言葉で福音を語り出したという不思議な出来事が、そういう大宣教時代の幕開けを象徴しています。 この時から今日に至るまで、世界の各地に宣教師が派遣され、さまざまな言語に聖書が翻訳されてきました。私たちが日本語で聖書を読むことができるというのは、どれほどに大きな恵みであるかということも、きょうは想い起したいのです。 三浦綾子の『海嶺』という小説にも、最初の日本語訳をもたらした人びとの物語が描かれています。 今も、日本語というのは世界でも難しい言語のひとつとされていて、宣教師の方々は、言葉を覚えるのに大変な苦労をされています。 私たちの手元に、分かりやすい翻訳聖書が届けられているのは、聖霊の導きのもとに膨大に積み重ねられた、先人たちの血と汗と労苦のたまものなのです。 【祈り】 主よ、先人たちが、なんとしてもと届けようとしてくれた、この命の御言葉を大切にいたします。 Tue, 21 May 2024 00:10:00 +0000 天のいのちの熱い思いに燃やされて(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240521 no 2024 炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。…一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに…話しだした。 (使徒言行録2章3節~4節) 偉大な伝道者スポルジョンの著した『説教学入門』の中に、「熱心さ」という項があります。牧師たちに熱心であれとまっすぐに迫る言葉の数々です。その熱心は、罪人の救いを願う「キリストの愛の炎」「天のいのちの熱い思い」によってこそかきたてられ、大きな炎となります。 「われわれの熱心は不滅の炎によって灯され続けなければならない。そして私は、それをただひとつ知っている。キリストの愛の炎である。それはどんなに水をかけても消すことができないのである。もしそれを獲得することができるならば、そうだ、それを持つことができるならば、どんなに激しく試みを受けようが、勇気を失うどんなにたくさんの理由があろうが、常に熱い思いに満ち続けていくであろう。いのちのための熱い心を持ち続けるために、それを始めるために、われわれは天のいのちの熱い思いを手に入れなければならないのである」(『説教学入門』より)。 思えばあの聖霊降臨の日に降ってきた炎のような舌。あれは炎のように熱い熱い神の救いのメッセージのしるしです。この罪の世界にイエス・キリストの福音を宣べ伝え、一人でも多くの者をご自身のもとに取り戻そうとされる神の救いの情熱が、私たちを燃やそうとしています。 【祈り】 主よ、あなたの情熱に圧倒されています。今願います。ただひとつ、キリストの愛の炎を獲得したいのです。 Mon, 20 May 2024 00:10:00 +0000 聖霊の風よ希望の灯を燃やしたまえ(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240520 no 2024 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 (使徒言行録2章1節~2節) ペンテコステは、キリストの教会の誕生日です。私たちにとっての洗礼記念日ともよく似た、大切なメモリアルです。あの日、まさに教会そのものが聖霊による洗礼を授けられました(使徒1章5節)。そしてそれは、弟子たちが聖霊によって心を燃やされた日でありました。あの弱虫だったペトロが堂々と、復活のイエス・キリストにある救いを人びとに証ししたことに代表されるように、弟子たちはみんな心燃やされて、外の世界に飛び出していきました。 あの日、弟子たちは心を合わせて祈っていました。暗く沈んでいたわけではありません。すでにしっかりと主イエスの復活を知っていたからです。それゆえ、希望の火はもう確かに心の中に灯っていました。しかし、まだそれは大きく燃え広がる炎にはなっていませんでした。希望の火を大きくしたのは、聖霊の風です。 私たちの心の中にも、すでに復活の希望の灯があるはずです。それはまだあまりに小さくて、自分でも見失いそうになっているかもしれません。しかし、これは決して消えない火です。私たちが見失おうが見落とそうが見損なおうが、復活の希望の灯は決して消えません。天からの風が吹くなら、それは大きな炎となって世界の絶望を焼き尽くします。 【祈り】 今私たちも心を合わせて祈ります。聖霊の風を送ってください。すべての聖徒らの心を燃やしてください。 Sun, 19 May 2024 00:10:00 +0000 神の真理を伝える聖霊(ヨハネによる福音書 16章4節後半-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240519 no 2024 「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、…」 (ヨハネによる福音書16章13節) 聖霊降臨を記念するペンテコステの主日に、主イエス自らが聖霊の働きについて語られた言葉を聞きましょう。 主イエスが昇天された後、聖霊が弟子たちに降りました。聖霊は世の誤りを明らかにして、私たちの信じる真理こそ正しいと弁護してくださいます(7、8節)。加えて、私たちを導いて神からの真理をことごとく悟らせてくださるのです(13節)。 聖霊は父なる神や御子イエスと無関係に語るのではありません。まず父なる神のものがすべて御子イエスのものでもあります(15節)。その御子イエスから聞いて聖霊は語るのです(13節)。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル3章1節)との旧約の約束は、こうして実現するのです。 ですから、父なる神と御子イエスが天におられる現代でも、聖霊が弁護者、真理の霊として地上で私たちと共にいてくださいますから、私たちは聖霊の導きに従って生きてゆけばよいのです。聖霊は聖書の御言葉と共に働いて神の真理を知らせ、祈りを導いてくださいます。日々聖書に親しみ、祈りをささげてゆきましょう。 【祈り】 聖霊よ、私たちが神からの真理を十分に知り、従っていくことができるよう導いてください。 Sat, 18 May 2024 00:10:00 +0000 何を頼みとして生きるのか(詩編 52編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240518 no 2024 わたしは生い茂るオリーブの木。 神の家にとどまります。 世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。 (詩編52編10節) ここには、神を力とせず、自分の悪事を誇り、莫大な富に依り頼む者(3、9節)と、神の慈しみに依り頼む人(10、11節)との違いが対照的に語られています。 2節に記されているアヒメレクは祭司で、サウル王に追われ、逃亡生活をおくるダビデに、備えのパンとゴリアトの剣を与えて助けました。これをサウルに告げたのがドエグです。サウルに命じられてでしたが、ドエグは祭司ら85人とその家族、町の住民を皆殺しにする残虐さを露わにしました(サム上21、22章)。 「力ある者」の罪は、人を欺き破滅に落とす刃物、カミソリのように鋭い舌、言葉となって表れます(4~6節)。これはいつの世においても事実です。自分を滅ぼすものを力と頼む者は、やがて神によって倒され、根こそぎにされ、永久に滅ぼされます。 一方、神に従う人は、このような神の裁きの現れを見て、神を畏れます(7、8節)。この世にあっても、神はご計画による裁きをもって、神の正義の栄光を輝かせてくださいます。 神の慈しみに生きる人とは誰を指すのでしょうか。神の契約の真実に依り頼み、神の完全な正義が明らかになる日を望みつつ、神の家にとどまり続ける礼拝の民こそ、その人です(10節)。キリストにあって、あなたもそのひとりなのです。 【祈り】 神よ、あなたの計らいは確かです。わたしは御名に望みをおきます。 Fri, 17 May 2024 00:10:00 +0000 神の恵みのもとに十字架の愛を現す信徒(コリントの信徒への手紙二 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240517 no 2024 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。 (コリントの信徒への手紙二13章13節) 13節は、祝福の祈りをするときによく用いられる箇所です。パウロが、問題多く、悩み多く、さらには自分の使徒権に反対するコリント教会に対する切なる愛を示す箇所です。 コリント教会の信徒たちは、「あなたがイエス・キリストによって語っている証拠を示しなさい」とパウロに求めました。そのような失礼な要求にも、パウロはコリントの信徒たちが正しい信仰を持つように真心をもって神の御言葉を伝えたのでした。 パウロが強調して教えているのは、第一に、キリストは弱い方でなく、あなたがたの間で強い方であること。第二に、信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味すること、第三に、善を行うことです。 私たちは主イエス・キリストと共にあるとき、決して弱い者ではなく、強い者です。信仰を顧み、自分自身を吟味し、確認しながら生きる存在です。そして悪を行わず、善を行なわなければならない者であることを覚えて生きる存在です。しかし、このすべてのことが可能なのは、主の力強い御手を信頼し、主の御手が私たちを支えてくださっているからです。 神は私たちが切実な愛の実践者になって、十字架の愛を現す者になることを願われます。「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(11節)。 【祈り】 主イエスの恵みと神の愛と聖霊の交わりが豊かにありますように。 Thu, 16 May 2024 00:10:00 +0000 わたしの力が弱いところから完全になる(コリントの信徒への手紙二 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240516 no 2024 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。 (コリントの信徒への手紙二12章9節) パウロは、「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」を「離れ去らせてくださるように」三度神に願いました。しかし、神はパウロが望む通りではなく、ご自身の御心に従って答えてくださいます。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。キリストの御力はわたしの弱さのなかで完全なものとして現されます。パウロが弱ければ弱いほど、無力であれば無力であるほど、その中におられる主イエス・キリストがより完全に働いてくださるという約束です。 私たちの祈りに神はいつも「Yes」だけで答えてくださるわけではありません。時には「No」と言われることもあり、また時には私たちが待つことを望まれ、何の応答も与えてくださらないことがあります。しかし、「Yes」ではないからといって失望する必要がないのは、神がご自身の愛する民に最も良いものを与えてくださるお方であるからです。その神を信頼するために、きょうも私たちは御言葉に基づいて聖霊の助けを求めなければなりません。 パウロが誇ろうとしたのは、まさにこれでした。切実な心で祈ったとか、ある神秘的な力で病気が癒やされたということではなく、自分の弱さによって現される神の力を誇ろうとしたのです。 【祈り】 わたしの願いではなく神の御心が成し遂げられる祈りの生活ができますように。 Wed, 15 May 2024 00:10:00 +0000 キリストのために苦しむことを誇る(コリントの信徒への手紙二 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240515 no 2024 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。 (コリントの信徒への手紙二11章30節) コリント教会の信徒たちは自分のことを誇り、高ぶる偽りの教師に従っていました。不思議なことに、偽りの教師たちによって自分たちが奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、コリントの教会の信徒は我慢して彼らを歓迎し、受け入れたということです(20節)。人びとは人間的な華やかさや何かありそうなものに漠然と頼る傾向があるからです。 パウロも人間的な事柄を誇りとせず、自分がユダヤ人であり、アブラハムの子孫であり、しかし、それ以上にキリストの働き人であることを誇りとしました。彼が誇るのは、異邦人を救うために多くの苦労をしたことです(22~27節)。海で死にかけた危険に直面したことや、ユダヤ人から迫害されたことを誇ります。教会が弱かったとき、彼らの魂のために心配し、心が苦しめられることを誇ります(28節)。教会が罪に惑わされると、パウロの心は苦しみます。それでもパウロはどうしても誇らなければならないなら、「わたしの弱さにかかわることを誇る」と語りました。 なぜ弱さを誇るのでしょうか。キリストの強い力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからです。そこでこそキリストの御力を仰げるからです。 【祈り】 自分自身のことを誇らずイエス・キリストの福音を誇る私たちになるように導いてください。 Tue, 14 May 2024 00:10:00 +0000 私たちの戦いの武器は神由来の力(コリントの信徒への手紙二 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240514 no 2024 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。 (コリントの信徒への手紙二10章4節) おそらくパウロほど多くの非難を受けた人もいないでしょう。パウロが非難された理由は福音を伝えようとする彼の情熱のためでした。1節を見ると、パウロは「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だ」と思われていたことが分かります。パウロはコリント教会の信徒たちの前で、権威的ではなく、優しく柔和に行動したようです。しかし、そのような姿が弱く無気力だと言われる原因になったのです。10節によると、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と批判する者たちがいました。 パウロは彼らの誹謗中傷に対して意外な言葉で対応します。3節で「肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません」と言います。むしろ自分の武器は「神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります」と言います。それは神の強い力を意味します。パウロは弱そうに見えますが、パウロの武器は肉体的な力ではなく、神の霊的な力です。その力は強い。すべての理論を打ち砕き、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせます。 その力が自分を誇るためではなく、主を誇るためにパウロに与えられました。この力をもって、私たちも成長することができるよう祈りましょう。 【祈り】 肉の力ではなく、神に由来する力に頼る私たちへと導いてください。 Mon, 13 May 2024 00:10:00 +0000 感謝と喜びをもって献げる献金(コリントの信徒への手紙二 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240513 no 2024 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 (コリントの信徒への手紙二9章7節) 8章に続き、9章でも信徒が献金を献げるときと施しを行うときの姿勢について教えられています。使徒パウロは、コリント教会がエルサレム教会のために献金を献げたことは、物質的な必要を助ける以上の意味があると語ります。実際的な愛の奉仕は、牧師が御言葉を語ることと同じく神からの賜物をもってなされる重要な奉仕です。献金とは、三位一体の神の愛のお働きを現す手段であり、神に感謝する信仰生活と、神の栄光を現す方法でもあります。 パウロは、コリント教会の信徒たちが聖なる者たちに仕えるために献金を献げたことに対して「わたしはあなたがたの熱意を知っているので」と言いました。熱意とは、喜びをもって献げる心を現す言葉です。信徒が献金を献げるときに求められる姿勢は、感謝と喜びの心です。「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6節)。 私たちが喜びをもって惜しみなく献金を献げると、神はそれを豊かに用いてくださいます。そして、私たちの人生においてさまざまな豊かな実を結ぶことができるように恵みを注いでくださいます。神は喜んで与える人を愛してくださるお方です。 【祈り】 喜びと感謝をもって献金を献げることができるように、私たちが献げる献金を通して救い主イエス・キリストの救いの御業を豊かにあらわせるように導いてください。 Sun, 12 May 2024 00:10:00 +0000 昇天にあたり主イエスが願ったこと(ヨハネによる福音書 17章6-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240512 no 2024 「彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」 (ヨハネによる福音書17章11節) 主イエスは十字架にかかる直前、御自身が昇天することをも弟子たちに予告されました(14章3節)。その上で、世に残される弟子たちを守ってくださるように、と祈り願いました(11、15節)。 弟子たちは天の父のものであり、神に逆らう世に属していません。そのため、世から憎まれますが、この弟子たちが守られることで、主イエスは栄光を受け、父なる神と子なる主イエスが一つであるように彼らも一つとなることができます。 「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれる」(13節)ことを望む主イエスは、弟子たちを見捨てて天に去ってしまうのでは決してありません。そもそも主イエスは地上にある間、弟子たちを守ってこられました(12節)。そしてこの先も「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」と宣言され(19節)、十字架においてご自身をささげられました。主イエスが天に昇られるのも、助け主として聖霊を送ってくださるためでした(14章、16章)。 今、主イエスは天におられますが、この地を神の国へと造り変えるために地上の私たちを守り、用いてくださいます。「真理によってささげられた者」(19節)として、きょう一日も主のために励んでいきましょう。 【祈り】 主よ、この地に神の栄光を表してゆくことができるよう、きょうも上より私たちを守り導いてください。 Sat, 11 May 2024 00:10:00 +0000 わたしを罪から清めてください(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240511 no 2024 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。 (詩編51編12節) 王であり預言者であるダビデもその生涯において大きな罪を犯しました。忠実な家来ウリヤが戦いに出ている最中に、その妻バト・シェバと通じ、バト・シェバは子を宿します。最後にはダビデはウリヤ殺害の命を下します。戦死に見せかけての殺人です。 この詩編は、いくつもの加重的な罪を犯したダビデが悔い改めたときに詠んだ詩です。罪を隠すことに全精力を傾けたダビデでしたが、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」(6節)と告白します。罪とは本質的に神に対して犯されるものです。 この罪深さは、「母がわたしを身ごもったとき」(7節)から始まりました。つまり、生まれながらなのです。存在そのものが、あらゆる部分が罪に染まっているのです。ここに人間の悲惨さがあります。 罪が神に対するものであるならば、犯した罪を赦すことができるお方は神のみです。ダビデは神による清い心の創造、新しく確かな霊を授けてくださいと祈り求めます。単なる心の回復ではないのです。神によって清められ、新しくされた人は、誠実な謝罪と償いをもって隣人に向き合うようになります。 きょうも、悲惨な罪を打ち砕き罪人を救うために来てくださった主イエスに従い、聖霊によって清い心を授けていただこうではありませんか。 【祈り】 神よ、罪深いわたしを憐れみ、清い心を与えてください。 Fri, 10 May 2024 00:10:00 +0000 主の貧しさによって豊かにされて(コリントの信徒への手紙二 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240510 no 2024 主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 (コリントの信徒への手紙二8章9節) 8章では、神の恵みによって救われた信徒がどのように献金を献げ、施しを行う必要があるかが教えられています。また、御言葉を語る奉仕と信徒が献金を献げる奉仕はそれぞれ二つとも神からの恵みと賜物で、神の栄光を現す尊い奉仕であることが教えられています。 パウロは、8節で施しの業のために献げる献金を勧めていますが、これは「命令」ではない、「わたしの意見を述べておきます」と語っています。新約時代の献金については、旧約時代の十分の一献金のように具体的な金額が示されているわけではありません。パウロがここで語ることは、信徒が献金を献げるときの持つべき姿勢、愛の純粋さです。その純粋さは「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」ということを知ることから生まれます。主から与えられた豊かなものを感謝と共に分かち合いましょう。 聖霊は、信徒が喜びをもって献金を献げることができるようにイエス・キリストが成し遂げられた救いの恵みと天の豊かさを私たちに注いでくださいました。そのことが心のなかに納まるとき、信徒は感謝をもって献金を献げることができます。 【祈り】 私たちを豊かにし、喜びを持って献金を献げる恵みを与えてくださり、感謝いたします。 Thu, 09 May 2024 00:10:00 +0000 神の御心に適った悲しみ(コリントの信徒への手紙二 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240509 no 2024 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 (コリントの信徒への手紙二7章10節) あらゆる悲しみをマイナス価値とする考えは、聖書の信仰からは遠いものです。悲しみの中にも、神の御心に適った悲しみがあります。それは悔い改めにともなう悲しみです。 ルカによる福音書15章に「放蕩息子」のたとえがあります。父のもとを離れた息子が「我に返っ」たとき(17節)、彼の心は父に背いた罪に責められ、激しく痛んだにちがいありません。しかし、その悲しみや痛みがどれほど大きく、強いものであっても、それが悔い改めに結びつく、神の御心に適うものであるなら、それは幸いなる痛みであり、悲しみです。やがては神の赦しと命にあずかる、真の喜びと祝福に至る痛みであり、悲しみです。 それに対して「世の悲しみ」はついに神と結ばれることのない悲しみであるゆえに「死をもたらします」。 悔い改めとはきびすを返して、神の側に方向転換をすることです。そこに大いなる恵みが備えられています。コリント教会の信徒たちは偽使徒たちに迷わされてパウロが使徒であることを否定し、パウロを教会から締め出そうとしました。しかし、パウロが涙ながらにしたためたこの手紙により、悔い改めに導かれたのです。10節の言葉を、パウロは大きな喜びに満たされつつ語るのです。 【祈り】 私たちを悔い改めに導き、私たちの悲しみを喜びに変えてくださるあなたの恵みに感謝いたします。 Wed, 08 May 2024 00:10:00 +0000 生ける神の神殿であるわたしたち(コリントの信徒への手紙二 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240508 no 2024 わたしたちは生ける神の神殿なのです。 (コリントの信徒への手紙二6章16節) 「わたしたちは生ける神の神殿なのです」。これは偶像礼拝や異教的習慣とのたたかいということを考える上で、注目すべき言葉です。キリスト者が個人として聖霊の住まわれる宮であることは言うまでもありません。しかし、パウロはここで「わたしたち」と、複数形で語ります。つまり、教会共同体としての聖化ということが考えられているのです。 パウロはコリントの信徒への手紙一でも、聖餐の食卓と偶像の食卓の両方につくふるまいを、不釣り合いな軛をともにする霊的姦淫としてきびしく戒めています。なぜなら、それは聖なるキリストの体を汚すことだからです。この点において信仰は厳然としてあれか、これかの事柄です。正義と不法、光と闇、キリストとベリアル(サタンの意)との間には何のかかわりもないのです(14、15節)。 キリストの体を分け合う教会共同体は、新しい命の場です。人間的な血筋や打算、仲間意識といったものによらず、聖霊の絆に結ばれ、キリストの命を生きる共同体です。主の食卓はキリストの愛と命の支配する場です。ここに集い、キリストの恵みの力を受けて、古いものを後ろに投げ捨てる。そのたたかいを聖徒らはともに担うことができるのです。大きな励ましです。 【祈り】 主の体を分け合う恵みのうちに、キリストにある霊のたたかいを担わせてください。 Tue, 07 May 2024 00:10:00 +0000 聖霊により新しく創造される(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240507 no 2024 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 (コリントの信徒への手紙二5章17節) 創世記には神の無からの創造、御言葉による創造が記されています。神が光あれと仰せになると、闇から光が輝き出た(創1章3節)。それとまったく同じことが、すなわち再創造の御業が、キリストと結ばれた人間にも起こされるのです。 日本人になじみ深い思想に「みそぎ」がありますが、聖書の救いは時々水をかぶって表面を洗い流せば、中身は変わらないままやっていけるというようなものではありません。人間の根本的な変革です。聖霊のみがなし得ることです。 新しい創造のためには「古いものは過ぎ去」らねばなりません。キリストを着ることによって古い罪の人は過ぎ去り、新しい人が生まれます。聖霊によってキリストに結合され、キリストとひとつにされる。そのことによって人はまるごと新しくされるのです。それまで朽ちゆくものをもっぱら追い求めていた者が「見えないものに目を注」いで生きる者とされるのです(2コリ4章18節)。 創造は命を生み出す業です。創造主にのみなし得る業です。死んでいた者が生かされる。死を恐れていた者が「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(1コリ15章55節)と叫ぶ者とされる。死から命に移される。大いなる恵みです。 【祈り】 あなたは私たちをも新しい人としてくださいました。この大いなる御業を心から喜びます。 Mon, 06 May 2024 00:10:00 +0000 土の器に命の宝を納める(コリントの信徒への手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240506 no 2024 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。 (コリントの信徒への手紙二4章7節) キリストの命の力は、人の死を命に変える「並外れて偉大な力」です(7節)。そして、その力が人間から出たものではなく、神の賜物であることがあきらかにされるためにこそ、それは土の器に納められています。器と中身とは混じりようがありません。どこまでも区別されます。金銀は金銀、土は土です。 そして、土は土に徹することによって金銀の輝きを際立たせます。人がある種、神がかることで福音が証しされるというのではありません。そうではなく、人が人に徹して生きることで、つまり死を帯びた弱くもろいすがたのままで、しかしその弱さが神の力によって支えられ、もちこたえ、自身の死によっていっそう神の命が浮き彫りにされるというしかたで、私たちは神の命の輝きを、身をもって映し出すのです。 あらゆる人間は死に至る道筋をたどります。しかし、私たちの死はキリストにあって命に変えられています。キリストが私たちの罪のために死なれ、私たちを生かすためによみがえられた以上、死のとげはすでに私たちから取り除かれているのです。死は勝利にのまれているのです(1コリ15章54節)。土の器は土の器であるままで、神の朽ちることのない命に生かされるのです。 【祈り】 主よ、私たちを土の器の光栄に生かしてくださるあなたの恵みに感謝します。 Sun, 05 May 2024 00:10:00 +0000 主イエスの友とされて愛し合う(ヨハネによる福音書 15章9-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240505 no 2024 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 (ヨハネによる福音書15章15節) 主イエスは私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じておられます(12、17節)。 主イエスはこの命令を一方的に言うだけでは済ませませんでした。この命令に先立って、主イエスというぶどうの木につながることで私たちは実を結ぶことができる、と示されました(4、5節)。そして、実際に命令と共に、愛の実を結べるよう私たちに養分をも送ってくださいました。主イエスは父なる神から聞いたことを私たちにすべて知らせ、私たちを「僕」とは呼ばず「友」と呼んでくださったのです(15節)。 聖書に登場する「僕」は「奴隷」とも訳され、主人の命令に従うことが義務付けられていました。しかし、主イエスは人間とは何者か、なぜ愛を行えず悪を行ってしまうかなど、人を愛するために必要なすべてを父なる神から聞いて知らせてくださいました。そして知らせるだけにとどまらず、実際に愛の行動をお見せになりました。「友のために自分の命を捨てる」という最上の愛(13節)を十字架で表してくださいました。 主イエスが私たちを選ばれたのは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残る」ようになるためです。そのために必要なものは主が与えてくださいます。 【祈り】 父よ、互いに愛し合う生き方ができるよう、必要な知恵と力とを、豊かにわたしに注いでください。 Sat, 04 May 2024 00:10:00 +0000 神が求めるまことの礼拝とは何か(詩編 50編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240504 no 2024 告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。 …わたしをお前に似たものと見なすのか。 (詩編50編14節、21節) 神は、天と地を証人として、ご自分の民を告発しておられます(1、4節)。この詩編は十戒の詩編と呼ばれることがあります。 第一は、神への服従と感謝の伴わない献げ物や礼拝への警告(7~15節)です。神は全被造物の所有者であって、本来、犠牲の献げ物を必要とするお方ではありません。「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」とあるとおり(サム上15章22節)、神が求めておられるのは、心からの服従と感謝を伴う礼拝です。 第二は、神の掟を唱えながら生活では隣人を顧みず、神の約束の律法を無視する生き方に対する警告(16~21節)です。盗みや姦淫、中傷といった罪の数々に対して、神は「わたしはお前を責める」と言われます。 神を私たち罪人と似たものと見なして侮ってはなりません(21節)。真実な礼拝と隣人への健全で温かい関わりは、神を神とするところでしか成り立たないのです。 かつては神の怒りとのろいのもとにあった私たちです。それが今やキリストにあって、神への感謝の告白をささげ、神の御前に自らを正す者とされています。御子が真実な方を知る力を与えてくださったのですから、この方にあって神をあがめながら歩もうではありませんか。 【祈り】 砕かれた心と感謝をもって、礼拝をささげる者とならせてください。 Fri, 03 May 2024 00:10:00 +0000 神の掟に結び合わされ赦され生きる(ヨハネの手紙一 2章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240503 no 2024 神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。…神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。 (ヨハネの手紙一2章3節~5節) 法や掟は一つの目的に人間を結び合わせます。「神の掟」は、私たちを何に結び合わせるでしょうか。 ヨハネの手紙は「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」と教えます(2章10節)。「神の掟」が私たちを縛りつけようとするもの、それは愛です。愛し合うことです。しかも、それは愛し続けるという継続的で不断の行為としてです。一度きりであるならば、愛は美しいかたちを保てるかもしれません。しかし、愛し続けようとするならば破れが生じます。ボロがでます。が、そのとき、私たちは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(3章1節)という御言葉のありがたさを聞き直すでしょう。「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」(2章12節)という神の赦しの偉大さに気づき直すでしょう。 私たちを愛に繋ぎ留める「神の掟」は。自分の破れも隣人の欠けも、それは神に赦されうるものとして、絶望しないことを求めます。神の愛の中に活きよ、と私たちの生き方を正します。そのうえに小さな愛を積み重ね続けよ、と私たちを励まします。 この日、「神の掟」の光のもとに、この世にある法を見つめ直します。 【祈り】 主よ、私たちを愛と赦しに結び合わせてくださいました。赦し合うことをあきらめることがないよう、あなたの光の中を歩ませてください。 Thu, 02 May 2024 00:10:00 +0000 主と同じ姿にかえられる(コリントの信徒への手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240502 no 2024 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。 (コリントの信徒への手紙二3章18節) パウロはここで、聖化の祝福について語ります。「主の霊のおられるところに自由があります」(17節)。罪と死の縄目を解いて永遠の命に甦られたキリストの霊こそ、地上の何者にも縛られず、支配されない真の自由の霊です。この自由の霊が、罪と死の法則に、あるいは朽ちゆくもろもろの偽りの霊に支配され、がんじがらめにされていた人間のうちに住まわれるなら、人間もまた真の自由へと解き放たれます。聖霊を受けることによって、救われた人間の新しい生が、キリストにある歩みが始まりを告げるのです。 新しい人間の歩みは「栄光から栄光へと」「主と同じ姿に造りかえられて」いく歩みです。聖霊に生かされているすべての者が「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出し」ます。一人ひとりのキリスト者の顔に、主の御顔の輝きがくもりなく照り返されます。そして「主と同じ姿に造りかえられ」ていくのです。 「主と同じ姿に造りかえられ」ていくプロセスを、ある神学者は病が徐々に癒やされていく道筋になぞらえています。聖化は瞬時にして完成するのではありません。その途上にはたたかいも試みもあるでしょう。しかし、私たちのうちに生きて働く聖霊の恵みは確かです。 【祈り】 私たちをも主と同じ姿に造りかえてくださる、この大いなる恵みに感謝し、この身を聖霊に委ねます。 Wed, 01 May 2024 00:10:00 +0000 キリストの香りを放つ(コリントの信徒への手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240501 no 2024 わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 (コリントの信徒への手紙二2章15節) パウロは、「わたしたちは…神の言葉を売り物にせず…語っています」と述べます(17節)。「売り物にする」とは、たとえば商人がぶどう酒を水で薄めて売るようなことです。いつの時代にも神の言葉を水で薄める誘惑が存在します。神の言葉をいかに忠実に語るかということよりも、人が喜ぶ耳に心地よい言葉を語ることの誘惑です。 十字架の言葉が水で薄められて売られるとき、見かけは魅力的で、耳に心地よく、人びとを惹きつけるかのように見えることがあるかもしれません。しかし、もはやそこには人の命と死を分かつ神の権威は失われています。人を死から命へと至らせるキリストのよき香り(16節)は薄れています。 神の言葉が人間の手によっておとしめられることがあってはなりません。当然、そこでは教会は神の力に生き得ません。神の言葉が混じりけのないしかたで語られるなら、御言葉は人を喜ばせるよりも、まずそこに集まる一人ひとりの存在の根本を問う言葉となるでしょう。 神の言葉とは本来そのような言葉です。救いの言葉は審判の言葉でもあります。説教者の務めは、キリストの口となってキリストを忠実に語ることです。 【祈り】 キリストの言葉をキリストの言葉として語り、聞くことへと私たちをうながしてください。 Tue, 30 Apr 2024 00:10:00 +0000 恵みにより聖とされた者たち(コリントの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240430 no 2024 …コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。 (コリントの信徒への手紙二1章1節) 「コリントの信徒への手紙二」の宛先の部分で、著者である使徒パウロはコリント教会の信徒たちに「聖なる者たち」と呼びかけています。「聖」という言葉は、聖書においては神とのかかわりにおける区分、分離を表す語です。 すなわち「聖なる者」とは聖なる神に属する者、神の所有としてこの世から区別され、分離されている者を言います。この罪の世にあって神の憐れみを受けて救いへと選ばれ、世にある者とは別に取り分けられた者が聖徒です。その者の実質がどうかということ以前に、神が彼らを聖なる者とされたという事実が先立つのです。 コリント教会の人びとは、自力でみずからを神の求める水準にまで高めることができるゆえに聖徒と呼ばれるのではありません。またこれから努力して、聖徒と呼ばれるにふさわしい実質を築き上げていかなければならないというのでもありません。パウロは彼らについて、今すでに神にあって聖なる者だと言うのです。 この教会が異教世界から贖い出されてきたばかりの弱い、乳飲み子のような教会であったとしても、彼らをご自分の宝の民とされた神の選びの恵みは変わることも、揺らぐこともないのです。 【祈り】 ただひたすらなる恵みにより、私たちをも聖なる者としてくださったことを感謝いたします。 Mon, 29 Apr 2024 00:10:00 +0000 神よ願くば汝の栄光を仰がしめ給へ(ローマの信徒への手紙 11章36節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240429 no 2024 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 (ローマの信徒への手紙11章36節) 78年前のきょう、日本キリスト改革派教会は「神よ願くば汝の栄光を仰がしめ給へ。我等与へられし一切を汝に捧ぐれば、汝のみを我等の神、我等の希望と仰がせ給へ。汝が我等の衷に肇め給ひし大なる聖業を完遂せしめ給へ」との「創立宣言」をもって、神の御前にその歩みを始めました。きょうまでの歳月を、神が先輩たちの賜物を豊かに用いてくださり、福音が宣べ伝えられてきたこと、その導きに心からの感謝をささげます。 きょう、「有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の確なる基礎なりとは、日本基督改革派教会の主張の第一点にして、我らの熱心此処に在り」との情熱に心を打たれながら、「世界は将に転換しつゝあり」との認識を、私たちは私たちに与えられたこの時代において再確認します。「新たなる世代は最早胎動を開始せり」との自覚に背中を押されます。 神は、罪にうずくまる人間への救いを永遠の御旨による御計画のもとに、「御子イエス・キリストの歴史的贖罪事業を以て歴史の中に実現」してくださいました。教会は主イエス・キリストの言葉と聖霊の御業それ自体が罪人を救ってくださることを信じ、託された福音伝道の使命に励みます。終末的栄光に向かいつつあることを目覚めて見つめながら。 【祈り】 「神よ、願わくはあなたの栄光を仰がせてください」(「創立宣言」公認現代語訳)。 Sun, 28 Apr 2024 00:10:00 +0000 わたしにつながっていなさい(ヨハネによる福音書 15章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240428 no 2024 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」 (ヨハネによる福音書15章4節) きょうは、主イエスがご自身をまことのぶどう木に譬えられたお話からです。この木と枝との関係を通して、主イエスとのつながりによって私たちは確かに活かされ、確かな命を得ていることがダイナミックに示されます。そのような中に「きょうの聖句」があります。この言葉は元の言い回しでは、「わたしの中にいなさい。わたしもあなたがたの中にいる」というシンプルな文章です。 私たちは生活していますと、主イエスを見失ったかのようになるときがあります。不安や試練や苦しみのなかにありますと、なおさら主イエスの存在が遠く感じてしまいがちです。しかしきょうの言葉では、「わたしも」と、主イエスからのつながりが語られます。たとえ、主とのつながりが時として希薄に思えることがあったとしても主イエスはしっかりとそのような私たちを捕らえて離さないことを表す、慰めに満ちた言葉です。 この主イエスの確かな御言葉を聞いて、つながっていたいのです。時に見失い、不安なことがあるかもしれません。しかし主イエスがあなたに「つながっている」と確かに言われたのであれば、つながっているのです。そして、この御言葉の先には「その人は豊かに実を結ぶ」(5節)という約束の言葉が待っています。 【祈り】 主イエスという木につながり続け、主の約束を信じて、実を結ぶ楽しみに生きることができますように。 Sat, 27 Apr 2024 00:10:00 +0000 エルサレムと共に喜び祝え(イザヤ書 66章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240427 no 2024 母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める。 エルサレムであなたたちは慰めを受ける。 (イザヤ書66章13節) イザヤ書の後半部分は、バビロン捕囚の出来事によってイスラエルの国が失われ、神殿が破壊されたことが背景にあると考えられています。66章で、主は、エルサレムに訪れる救いを約束します。エルサレムは神を礼拝する場所でした。たとえ荒廃した中であったとしても、エルサレムに訪れる救いの事実を共に喜ぶように呼びかけています。 エルサレムに訪れる救いは、見せかけのものではありません。母が子を慰めるように神から慰めを受け、人間の骨は青草のように育ちます(13、14節)。さらに、「国々の栄えを洪水の流れのように」(12節)と言われるように、主の恵みはエルサレムだけに留まるものではなく、世界にも向けられています。 事実、主の恵みはエルサレムに留まらず、私たちも主の御業によって救われました。私たちも、教会の礼拝の場において、主の救いを喜ぶように召されているのです。 主イエスの御業を通して、私たちの骨は生気を取り戻し、青草のように育つものとされました。罪の内に死ぬしかない私たちに命がもたらされたのです。この喜びを、自分の内にだけ留めることは許されません。与えられた救いを、教会と共に喜ぶ一日となりますように。 【祈り】 主よ。あなたの御業を通して私たちに命が与えられました。その事実を共に喜ぶことができますように。 Fri, 26 Apr 2024 00:10:00 +0000 神が造られる新しい世界の希望(イザヤ書 65章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240426 no 2024 狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、…わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。 (イザヤ書65章25節) イスラエルの民が神を求めなくとも、神は救いの手を差し伸べ続けてきました。1、2節は、実に慰めに満ちた神の愛が語られています。神に背く民に、「わたしはここにいる、ここにいる」と神は言い続けてくださったのです。 13~16節は、神に従う敬虔な「僕ら」と、神に逆らう不敬虔な「お前たち」が比較されています。勘違いしてはならないのは、神は不敬虔な者たちにも手を差し伸べ続けておられることです。それでも、民は神を裏切り続けました。そうであるならば、その報いがあるはずです。彼らは真の神を捨てたからです。 神は罪を裁かれるお方です。しかし、罪を悔い改め、神に立ち帰る者たちに豊かな祝福をお与えになります。 17節以下に「新しい創造」としての神の救いが語られています。神は確かに、背き続ける者を裁くお方です。しかし、イスラエルを、また、この世界を見捨てられるお方ではありません。神はこの世界を素晴らしい世界へと造り変えて完成してくださいます。その世界は「狼と小羊が共に草をはむ」(25節)平和な世界です。 私たちの希望もここにあるのではないでしょうか。争いが絶えない現実を生きる私たちにとって、ただ一つの希望は、神が完成される世界なのです。 【祈り】 あなたがやがて完成される世界をきょうも待ち望ませてください。 Thu, 25 Apr 2024 00:10:00 +0000 私たちを救い出す創造主(イザヤ書 64章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240425 no 2024 しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。 (イザヤ書64章7節) 63章に引き続き、預言者の祈りの言葉が続きます。預言者は民たちの罪を告白しています。「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった」(5節)。ここの「汚れ」は、律法が指し示す汚れを意味しています。つまり、神との交わりにふさわしくなく、主の民から排除されなければならない「汚れ」です。イスラエルの民は、自分たちの罪のゆえに神との交わりを失っていました。神にすがる者もおらず、神ご自身も民から御顔を隠されます(6節)。 そのような悲惨な状況の中で、預言者は人間がどのような存在であるのかを思い起こします。「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」。 人間は神に造られたものに過ぎません。そうであるならば、私たちを救い出すお方は神しかおられません。預言者はそのことを覚えながら、「いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民であるわたしたちすべてに目を留めてくださるように」と切なる祈りをささげています(8節)。私たちは神に練り上げられる粘土です。私たちを救い出し、新たに造り変えられるお方は神のみです。 きょうも、偉大なる神の御業を心から仰ぐ一日となりますように。 【祈り】 主よ。あなたの御業によって私たちはとこしえに救われます。 Wed, 24 Apr 2024 00:10:00 +0000 私たちの希望は父なる神のみ(イザヤ書 63章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240424 no 2024 アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。 (イザヤ書63章16節) 「そのとき、主の民は思い起こした」と言われています(11節)。神の裁きを経験し、神の怒りを目の当たりにした彼らは、その嘆きの中で、かつてのイスラエルが受けてきた主の憐れみを思い出しました。11節から14節では、主なる神によってエジプトの奴隷から解放されたことが思い起こされています。 それゆえ、預言者は今の状況に苦しみます(15節)。かつての祖先たちは、主の御業によって救われました。しかし、今、民たちの前には悲惨な現実があり、神の憐れみが失われているかのような状況の中を歩んでいたからです。 それでも預言者は告白します。「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です」(16節)。祖先から認められないという状況が起ころうとも、神が自分たちを見捨てたかもしれないという現実の中でも、父である主に呼び掛け続け、神に顔を向ける信仰を持って、神を「わたしたちの父」と告白しています。どのような状況においても、私たちの希望は父なる神にしかありません。 きょうも、私たちは自分たちの罪を悔い改めつつ、父なる神に向かって顔を上げたいと思います。 【祈り】 天の父よ、私たちの希望はあなただけです。きょうもあなたに向かって顔を上げさせてください。 Tue, 23 Apr 2024 00:10:00 +0000 わたしは決して黙さない(イザヤ書 62章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240423 no 2024 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず エルサレムのために、わたしは決して黙さない。 (イザヤ書62章1節) 預言者はエルサレムのために「決して黙さない」と宣言します。預言者は、黙ることなく、メッセージを語り続けます。「彼女の救いが松明のように燃え上がるまで」(1節)と言われているように、絶望の中にある人びとに、主の光が照らされ、救いが与えられる「まで」です。 その救いの時、エルサレムは「夫を持つもの」と呼ばれると宣言されています(4節)。聖書の中で、神とエルサレムの関係を「結婚」にたとえる箇所がいくつかありますが、本日の箇所もその一つです。 11節で、「見よ、あなたの救いが進んで来る」と言われます。エルサレムに救いがやってくる。その事実を見上げ、礼拝するエルサレムに諸国の人びとが集まることを呼び掛けています。新約聖書の光に照らせば、エルサレムを教会にたとえることができます。救いの喜びを分かち合う場所、それが教会です。 私たち一人ひとりに3節の御言葉が与えられています。「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる」。私たちは神の御手の中の冠なのです。だから私たちも黙していることはできません。主の恵みを証ししないではいられないのです。私たちは主の喜びを分かち合う者として召されています。 【祈り】 神様。あなたの恵みがきょうも私たちに差し込みます。あなたの恵みを分かち合う者とさせてください。 Mon, 22 Apr 2024 00:10:00 +0000 主は賛美の衣をまとわせる(イザヤ書 61章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240422 no 2024 シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。 (イザヤ書61章3節) 61章は、福音を告げ知らせるメシアの存在が預言されています。預言者は、悲惨の中にある人びとに対して、具体的に分かる言葉で、希望を語りました。貧しい者には福音が語られる。打ち砕かれた心が包まれる。捕らわれた者、つながれている者には自由と解放が与えられる。福音は、ただの漠然としたメッセージではありません。主に油注がれた存在によって人びとの嘆きが喜びに変わるのです。主イエスは、この言葉はご自身において実現したのだとおっしゃいました(ルカ4章16~21節参照)。私たちが信じるメシアは、嘆きを喜びへと変えられる救い主です。 さて、3節には「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と記されています。嘆きの中にある者たちの心に喜びの香油が注がれ、彼らは賛美の衣をまとわせられます。彼らは、また顔を上げて、神を賛美することができるように導かれるのです。 私たちも、今、聖書を通して、主にある恵みのメッセージを聞いています。たとえ嘆きの中にあろうとも、聖書は、私たちに福音を告げ知らせます。私たちは救い主によって、罪から解き放たれました。賛美の衣をまとわされた存在として、与えられた救いに感謝しつつ、きょうも主を賛美して歩んでいきましょう。 【祈り】 主よ。きょうも、あなたの救いに感謝しつつ、賛美して歩めますように。 Sun, 21 Apr 2024 00:10:00 +0000 主の御声を聞き分け主に導かれる(ヨハネによる福音書 10章7-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240421 no 2024 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。」 (ヨハネによる福音書) この章は、主イエスが羊の門や羊飼いに、そして私たちが羊に譬えられている箇所です。9節ではご自身を「門」に譬えられて、「わたしを通って入る者は救われる」、豊かな命を得ることになると言われて、主の門をくぐった者たちの幸いと励ましが語られています。 そのような関係性の中で、キーワードのように繰り返されているのが「聞き分ける」という言葉です(3、16節)。当時、主イエスの真実の御声以外にも、ファリサイ派やユダヤ人の声など、ほかにもたくさんのまことしやかな声、或いは恐れを抱かせるような声があったようです。 私たちも人生を歩んでいれば、主イエスとは違う声、主義主張に出会います。世界からも日本の中からもまことしやかな発言が聞こえてきます。或いは、自身の内側からも聞こえてくる声があります。そのような中、イースターを経た私たちは、主イエスの御声に聞き従う歩みを心に留めたいと思います。 さらに16節では、これから主の群れに加わるであろう羊のことも語られています。主が一つに集めようとされている群れを邪魔することなく、主の御声のみに導かれる群れでありたいと願います。 【祈り】 主の御声を聴くことの出来る幸いに感謝します。外と内から聞こえてくる誘惑の声に陥らないように、御声にこそ従えますように。 Sat, 20 Apr 2024 00:10:00 +0000 だれでも立ち寄るがよい(箴言 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240420 no 2024 はしためを町の高い所に遣わして 呼びかけさせた。 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」 (箴言9章3節~4節) 9章には二つの招きが語られています。一つは1節から6節の知恵の招きで、もう一つは13節から18節の愚かさという女の招きです。どちらも同じ言葉で人びとを招きます。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」と。しかし、その招き方と招きに応じた結果はまったく異なります。 愚かな女の招き方から見てみましょう。自ら通りに出て、その姿を見せて、声をかけて道行く人びとに呼びかけます。当時の遊女の姿を連想させます。直接的でわかりやすい、だから惹かれる人も多くなるでしょう。 一方、「知恵」は直接、その姿を人の前にはあらわしません。家を建てて、食卓を用意して待っています。そして、「はしため」を遣わして呼びかけます。人が目にするのは「はしため」の姿であり、その声です。用意されている食卓も直接見ることはできません。「知恵」の呼びかけは、「愚かさ」の呼びかけのようにわかりやすくなく、魅力的にも思えないかもしれません。使いの声を聞き、冷静に自分でその家に赴くほかありません。 結果を見てみましょう。愚かさの招きは「深い陰府」に、知恵の招きは「命」に至ります。キリストの招きはこの知恵の招きです。遣わされた者が御言葉をもって招きます。それは一見、愚かな手段ですが、実はここに深い神の知恵があります。 【祈り】 主イエスよ、広い門ではなく、狭い門から入って命に至らせてください。 Fri, 19 Apr 2024 00:10:00 +0000 主の栄光はあなたの上に輝く(イザヤ書 60章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240419 no 2024 起きよ、光を放て。 あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。 (イザヤ書60章1節) イザヤは、直接的にはバビロンに捕らえられているイスラエルが解放され、エルサレムに帰還することを預言しています。そして、新約の時代に、この預言がメシアである御子イエス・キリストの到来のことをも告げ知らせるものであることが示されました(エフェ5章14節参照)。 旧約の時代、メシアがどのようなかたちで現れるか、おぼろげでした。そのため、この聖句が、メシアを預言したことであることを、はっきりと理解することはできなかったかもしれません。しかし、新約の現在に生きる私たちは、私たちを照らす光として御子イエス・キリストが来られたことを知っています(ヨハ1章9節)。そして、光であるキリストは、私たちを闇から光の世界に導くために、私たちの身代わりとなって十字架で死に、私たちの初穂として死からの復活を成し遂げてくださいました。やがてこのキリストが再臨され、最後の審判と神の国の完成がもたらされます。 イスラエルの民が捕囚からの解放を夢見たように、新約に生きる私たちはこの幻を見て歩みます。主は、イスラエルだけでなく、異邦人を照らす啓示の光として来られました(ルカ2章32節参照)。その主の光に照らされて、歩みましょう。 【祈り】 キリストの再臨によりもたらされる神の国の希望に、私たちも生きることができるようにしてください。 Thu, 18 Apr 2024 00:10:00 +0000 罪を悔い改める者のもとに主は来られる(イザヤ書 59章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240418 no 2024 主は贖う者として、シオンに来られる。 ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると 主は言われる。 (イザヤ書59:20) イスラエルの民が主の御前に罪を重ねた結果、イスラエル王国は南北に分断され、その後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。南ユダ王国もバビロンによって滅ぼされて、捕囚の民とされました。そこに至るまでにも、主なる神は繰り返し預言者を遣わし、イスラエルの民に悔い改めを求めておられました。しかし、イスラエルの民は、預言者の言葉に耳を貸さず、その結果、ついに滅ぼされるに至りました。 人は、他者から罪や弱さを指摘されても、それを認めたくありません。それは、その結果、蔑まれたり、虐げられたりするからです。しかし、主なる神が人に罪を指摘するのは、人が救われることを願っておられるからです。人は罪の結果、死を迎え、滅びを避けることができません。そして、人は自分の努力によって、罪を帳消しにすることはできません。そのため神は、主に自らの救いを委ねるようお語りになります。自らの罪を認めて、悔い改めることが私たちに求められています。 主は、罪人の罪を贖う者として救い主イエス・キリストを預言し、やがてお遣わしくださいました。キリストが私たちに代わって罪の刑罰を十字架で受けてくださることにより、私たちの罪はすでに贖われています。 【祈り】 神さま、罪のゆえ滅び行く私たちに救い主イエス・キリストをお与えくださり、ありがとうございます。 Wed, 17 Apr 2024 00:10:00 +0000 主の御業は渇きをいやし力を与える(イザヤ書 58章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240417 no 2024 主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。 (イザヤ書58章11節) 主なる神は、私たちに、主なる神を信じ、主を礼拝することを望んでおられます。そして、神の御言葉に聞き従うことが求められています。 イスラエルの民は、主を信じ、断食を行っていました。しかし、主なる神は「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない」と語ります(4節)。主が求めておられるのは形において主に断食することではありません。断食を行うことにより、心が動かされ、自らの弱さを知り、主の御前にへりくだり、同胞の苦しみを覚え、助けを求める者に施しを惜しまないことです。 同様に、私たちが主を礼拝するとき、主は私たちに、御言葉を語りかけ、私たちの渇いた魂に命の水をお与えくださいます。そのとき私たちは、自らの内にある闇である罪が明らかにされます。そして、私たちは自らの罪の悔い改めへと導かれ、主への信仰が新たにされます。 だからこそ、私たちは主の御言葉を聴くことができるように心の準備をもって礼拝に出席しなければなりません。そして、主の御前に頭を垂れて主がお語りになる御言葉に聴くことが求められています。 【祈り】 神さま、礼拝で語られる主の御言葉に耳を傾けて聴くことができるように、お導きください。 Tue, 16 Apr 2024 00:10:00 +0000 生きて働いておられる主なる神(イザヤ書 57章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240416 no 2024 わたしがとこしえに沈黙していると思って わたしを畏れないのか。 (イザヤ書57章11節) 主なる神が全世界を支配しておられ、主の御力が私たちに及んでいます。このことは私たちキリスト者の確信です。しかし、この世の人たちは神の存在などに関係なく、世界は自然の秩序と世の権威において動いていると考えています。このような考えは、巧妙にもキリスト者の考えに入り込もうと忍び寄ります。 主なる神が私たちのただ中にあって働いておられることを、私たちは主の日の礼拝において確認します。御言葉である聖書を解き明かした説教において、主は私たちに語りかけてくださいます。主の晩餐の礼典にあずかることにより、キリストの十字架の御業が、私たちの救いのためであることが示されます。そして、天国が完成したとき、私たちは、キリストの御前で主の食卓にあずかることにより、救われていることが明らかになります。 主が沈黙されているのではなく、主が私たちに語りかけてくださっているのに、人間の側が耳を閉ざしているのです。主は、「へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させ」てくださいます(15節)。神は、神を信じようとしない周囲の人たちにではなく、あなたが神の御前で主の御言葉に聴き、神を畏れて歩むことを求めておられます。 【祈り】 主なる神よ、礼拝をとおして生きて働く主なる神と出会うことができるよう、お導きください。 Mon, 15 Apr 2024 00:10:00 +0000 神による救いは実現する(イザヤ書 56章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240415 no 2024 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え … わたしの家、わたしの城壁に刻む。 その名は決して消し去られることがない。 (イザヤ書56章5節) イスラエルの民は、自らの罪の結果、主なる神の裁きとして国をバビロンに滅ぼされ、捕囚の民とされました。このとき、多くのイスラエルの民は、生きる希望を失ったのではないでしょうか。神の存在が見えないとき、人は神を信じることができず、自己中心の生活となっていきます。 しかし、主なる神は、捕囚の民となったイスラエルを見捨てることがありません。そして、このように語りかけてくださいます。「正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(1節)。 やがてイスラエルは捕囚から解放され、エルサレムに帰還することが許されます。主なる神は、いつもイスラエルの民と共にいてくださいます。そして主の恵み、主による救いがあることを忘れないように、預言者をとおしてお語りくださいます。 イスラエルの民がとこしえの名を与えられたように(5節)、今、私たちキリスト者にも、神による救いが約束され、神の僕としての刻印が押されています(黙7章3節参照)。 「神などいない」、「天国などない」と思われている現代ですが、主なる神による救いと、神の国の完成に希望をもって、歩み続けましょう。 【祈り】 神さま、私たちを忘れることなく、私たちの名を天国に書き記してくださり、ありがとうございます。 Sun, 14 Apr 2024 00:10:00 +0000 主イエスをいつも見ながら(ルカによる福音書 24章36-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240414 no 2024 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。 (ルカによる福音書24章45節~46節) きょうはルカによる福音書の最後の場面からです。このとき、平和ではなかったであろう弟子たちの前に、復活の主が現れて言われます。「あなたがたに平和があるように」。この方が平和をもたらし、平和はこの方によって実現されることを確信させられる、そのような箇所です。 44節からの場面では、旧約聖書に書かれたことはすべて主イエスによって実現すると前から言っておいたではないかと言われて、昇天日(イースターから40日後)まで、旧約聖書を弟子たちにみっちり教えられたことが記されています。そして興味深いのは、その理由です。それは「聖書を悟らせるため」そして「彼らの心の目を開く」ためです。昇天日までに主イエスは、「聖書を悟らせるため」、また、肉の目ではなく「心の目を開く」ためにそのことをされたのでした。 私たちはペンテコステまでの期間、聖書を悟るため、心の目を開かれるための歩みに導かれたいと思います。まるで主イエスがおられないかのように、亡霊のように主イエスを見るのではなく、実生活の中で、具体的な人との関わりのなかで、目の前に復活の主イエスをいつも見ながら生活したいと思います。これがペンテコステへと繋がる歩みだからです。 【祈り】 地上の歩みの中で主イエスに出会わせてください。主イエスを見るように、人と接することができますように。 Sat, 13 Apr 2024 00:10:00 +0000 造られた人すべて主を賛えよ(箴言 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240413 no 2024 わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し… (箴言8章30節~31節) 繰り返されている「わたし」とは誰のことなのでしょうか。「わたしは知恵」(12節)と名乗っていますから「わたし」は「知恵」のことだとわかります。 「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵も、まだ造られていなかった」(25、26節)。創世記は、人間は塵から造られたと言っていますが、その塵すらまだ造られてはいません。しかし、その時すでに存在していたのですから、人間ではありません。 27節には、天地創造のはじめの時に、「わたしはそこにいた」とも語られています。「そこにいた」というのはただ存在していたということだけではなく、関わっていた、参与していたということを意味しています。 ここで語られている「わたし」、「知恵」とは、主イエス・キリストのことです。確かに主イエスこそ、神の深き知恵の現れであります。 知恵は造り主なる神の御前で楽を奏でます。ひとりではありません。「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し」ます。主の関心は、神の民だけに向けられているのではありません。神に造られたすべての人間に向けられています。およそすべての人が主を知り、賛美に招かれています。 【祈り】 日々出会う人たちを、神に造られた人間として見出させてください。 Fri, 12 Apr 2024 00:10:00 +0000 真実の神、永遠の命なるキリスト(ヨハネの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240412 no 2024 わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。 (ヨハネの手紙一5章20節) ヨハネは、第一の手紙を結ぶにあたって、今一度、「子たちよ」と呼びかけます。そしてその最後の一言が「偶像を避けなさい」です。このように言わなければならないほど、偶像の力は大きなものです。偶像は目に見えるものを神として拝んでしまうだけではありません。コロサイの信徒への手紙が記すように、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(3章5節)など、地上的なものすべてを指します。キリストを退けようとするすべてのものと言ってよいでしょう。 その偶像を避けるためにも、私たちが「御子イエス・キリストの内にいる」ことが許されていることは大きな喜びです。なぜなら、私たちは「神に属する者」(19節)だからです。何もわたしの力によって偶像を避け、神に属しているわけではありません。「この世全体が悪い者の支配下にある」のですから、キリストを離れてはたちまち偶像の力に飲み込まれてしまいます。 だからこそ、聖霊の導きによって御言葉が御言葉として、しっかりと語られ、日々、その知らされている御言葉の約束にとどまり続けることは欠かせません。私たちはその実践を、『リジョイス』を通して与えられています。 【祈り】 毎日、『リジョイス』によって御言葉をいただいている恵みをありがとうございます。 Thu, 11 Apr 2024 00:10:00 +0000 霊によって公にキリストを言い表す(ヨハネの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240411 no 2024 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。 (ヨハネの手紙一4章2節) ヨハネの手紙一は、後半に入って特に「公に言い表す」(2、3、15節)こと、「信じる」(1、16節、5章1、5、10、13節)ことが繰り返して語られています。これらの言葉によって、私たちがイエス・キリストがまことの神でありつつまことの人であると、正しく信仰を言い表すこと、告白することが強調されています。しかし、そのような告白、また信じることが、私たちにどうしてできるのでしょうか。それは「神から出た霊」によって可能とされることだとヨハネは語っています。つまり、信仰の告白も信じることも神ご自身の御業です。 ローマの信徒への手紙10章9節には、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とあります。主イエスが肉となって来られたからこそ、死者の中からの復活が起こりました。そのことを信じ、イエスを主と告白したのは、ほかでもない「わたし」がしたことですが、そこに「神から出た霊」が働いてくださったからこそ告白できました。それを神はわたしがしたこととして喜んで受け入れてくださいます。イエスを主と告白するのは、まさにわたしの喜びであり、神の喜びです。 【祈り】 イエスを主と告白する信仰を与えられ、あなたからの霊により確かなものとしてくださったことを感謝します。 Wed, 10 Apr 2024 00:10:00 +0000 わたしたちが神の子と呼ばれる確かさ(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240410 no 2024 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。 (ヨハネの手紙一3章1節) 「わたしたちが神の子と呼ばれる」とは、何とおどろくべきことでしょうか。このことは私たちが神を愛したからではありません。神が私たちを愛してくださったからです(4章10節)。 それでは、これからのことはどうなのでしょうか。「今既に神の子」(2節)と言われていることは確かなのですが、どのようになるかはまだ示されていないと語られています。確かに私たちは皆、自らの将来について多くのことを知ることはできません。しかし、はっきりしていることがあります。それは、「御子が現れるとき、御子に似た者となるということ」です。 「御子に似た者となる」とは同じ者になるということです。主イエスは今、栄光の姿で父なる神の右に座しておられます。私たちはその主イエスが再び来られる日に、「顔と顔とを合わせて」お会いします。そのとき、私たちは御子と似た者、同じ者としていただけます。それは全くの恵み、御子イエスの救いの御業によるものです。 今、私たちはその途上にありますが、導かれることは、はっきりと見せていただいています。それこそが神の子と呼ばれている者の確かさです。 【祈り】 私たちを「神の子」と呼んでくださり、感謝します。そこにあなたの愛をいただき、ありがとうございます。 Tue, 09 Apr 2024 00:10:00 +0000 弁護者キリストがおられます(ヨハネの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240409 no 2024 …書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 (ヨハネの手紙一2章1節) ヨハネが願っていることは、「あなたがたが罪を犯さないようになる」ことです。ところが、「たとえ罪を犯しても」と言われなければならないように、罪との戦いに敗れてしまうことがあるのが私たちの現実です。 けれども、犯してしまったら終わりなのではありません。なぜなら、そこにこそ「弁護者キリスト」がおられるからです。 「弁護者」については、ヨハネによる福音書14章16節でも語られています。そこでは、「わたし」である主イエスが、別の弁護者として真理の霊を父が送ってくださると約束されています。それに対して、きょうのところでは、父のもとにおられるイエス・キリストご自身が弁護者として語られています。 私たちの罪に対する神のさばきはまことに厳しく、それは死に値するものです。だからこそ、その負い切れない罪に対する神の怒りを執り成す弁護者が、父のもとにおいても、私たちのところにおいても共におられます。弁護者であるイエス・キリスト、この方は十字架にかかって私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださったお方です。 罪を犯し、最も神から遠いと思われるところに、弁護者はきょうも働き、執り成してくださっています。 【祈り】 弁護者なるキリストが私たちを忘れることなく、いつも共におられることを感謝します。 Mon, 08 Apr 2024 00:10:00 +0000 わたしたちに現れた永遠の命を知る(ヨハネの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240408 no 2024 御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。 (ヨハネの手紙一1章2節) ヨハネがこの手紙によってぜひ伝えたかったこと、それは私たちに現れた永遠の命です。 永遠の命、それは神が人となり現れてくださった方、イエス・キリストです。この方は初めからあった方、すなわち天地創造の時におられた方ですが、私たちに現れてくださいました。それは、私たちに知ってほしかったからです。 「永遠の命とは」と問うとき、ヨハネによる福音書17章3節は「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語っています。その「知ること」ができるために、「命の言」として現れてくださいました。その言をいただき、直接出会うことのできたヨハネは、何としてもこの方を直接見ていない「あなたがた」に伝えたいとの思いでいっぱいです。 なぜなら、そこに大きな喜びがあることをヨハネは知っていました。ですから、なんとか喜びを共にしたいのです。だからこそ、キリストとの「交わり」(共有するという意味)に、キリストの命を共有して生きることに、人びとを招きます。招きに応えて聖書によって永遠の命の恵みにあずかり、喜びを共にしましょう。 【祈り】 私たちが「永遠の命」をいただくことが許され感謝します。この喜びにきょうも生かされますように。 Sun, 07 Apr 2024 00:10:00 +0000 主の約束を信じて生きる幸い(ヨハネによる福音書 20章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240407 no 2024 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、…信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネによる福音書20:31) ここに、福音書の書かれた目的が端的に表されています。それは「信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。「信じる」という言葉がここで重ねられています。まるで信じることのなかに、命が約束されていると伝えたいかの如くです。私たちは先週イースターを迎えましたが、19節の弟子たちのように、未だ「信じること」を見失っているかもしれません。そのことに気づかされる御言葉です。 この箇所の前には二つの話があります。一つは、未だイエスの復活を信じておらず、「ユダヤ人を恐れて、…家の戸に鍵をかけて」主日をひっそりと過ごす弟子たちの姿から始まります。このとき、恐れと不安のなかで平和を見失っていたであろう弟子たちに対し、復活の主は「平和があるように」とおっしゃいました。また後半の話では弟子のトマスに対して主イエスが「見ないのに信じる人は、幸いである」と説かれます。 私たちは、真の意味で今年のイースターを迎えたでしょうか。見ずして信じる幸い、平和を、そして命を生きているでしょうか。肉の目では見えない復活の主イエスを見、信じて、主にある平和を生きることへと、リフォームされたいと思います。新しくされ続けたいと願います。 【祈り】 平和を損なう強い現実の生活から守られ、主を信じて生きる幸い、そして平和、命へと導かれますように。 Sat, 06 Apr 2024 00:10:00 +0000 どうしたら誘惑に陥らない?(箴言 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240406 no 2024 戒めを守って、命を得よ。 わたしの教えを瞳のように守れ。 それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。 (箴言7章2節~3節) 7章では、罪の誘惑に陥ることの恐ろしさが赤裸々に描かれています。ここでは特に男性に対してだけ語られているように見えます。しかし、罪の誘惑は性別、年齢を問わず、誰にでも襲いかかります。そして、私たちは自分自身で誘惑に立ち向かうことはできません。私たちは、誘惑に陥ったことに気づかないことがあると、ここでは語られています。どうしたらよいのでしょうか。どうすれば私たちは誘惑から身を守ることができるのでしょうか。 きょうの聖書は、そのような私たちに語りかけています。鍵は「戒め」、「教え」、つまり神の「御言葉」にあります。御言葉に生きることです。「わたしの教えを瞳のように守れ」と言われます。また「指」や「心の中」についても語られます。 ルターは悪魔の誘惑への最も有効な手段は「笑い」だと言いました。ルターが言った「笑い」とは主イエスの十字架と復活の福音の喜びのことです。御言葉に生きるとは福音に生きることです。御言葉は、神の愛、主イエスの愛を示します。わたしの瞳、指、心まで恵みに満たされます。繰り返し、繰り返し、そのように御言葉を味わい、福音の恵みにあずかっていきます。キリストの愛と平和、そして恵みが刻まれていきます。そのとき、恐ろしい誘惑からも必ず守られます。 【祈り】 主イエスの愛によって、私たちをあらゆる誘惑から守ってください。 Fri, 05 Apr 2024 00:10:00 +0000 主の恵みにあずかる者が多くいる(出エジプト記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240405 no 2024 モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、二人の息子を連れて…神の山に宿営しているモーセのところに行った。 (出エジプト記18章2節~5節) モーセの妻ツィポラと二人の息子たちは、モーセのしゅうとエトロのもとに送り返されていました。おそらくエジプトとの戦いに巻き込まないようにするためだったのでしょう。このとき、出エジプトが一区切りついたことを聞き(1節)、妻子がモーセのところに連れ戻されたのです。 モーセの息子は、一人はゲルショム、もう一人はエリエゼルです。ゲルショムは、モーセがエジプトからの逃亡場所であったミディアンにいるとき、「わたしは異国にいる寄留者だ」(3節)と言って名付けられました。自分は祖国エジプトを追われて異国の地ミディアンに仮住まいしていると思ったからです。エリエゼルは、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って名付けられました。エジプトが母国ではなく他にあると確信したのです。モーセは、真の故郷は約束の地、乳と蜜の流れるカナンの地にあることを知っていました。その地に一緒に向かわせるため、モーセの家族は連れ戻されたのです。 私たちの国籍は天にあります。復活の主イエスは、私たちの住む場所を用意すると約束してくださいました。その言葉を信じ、私たちも約束の地を目指して進んで行きましょう。 【祈り】 天の父なる神よ、あなたの約束された恵みと祝福にあずかる生活を、たくさんの人びとと経験できますように。 Thu, 04 Apr 2024 00:10:00 +0000 どんな時でも主はあなたを見放さない(出エジプト記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240404 no 2024 「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」 (出エジプト記17章6節) 荒れ野におけるイスラエルの民の旅路が進むにつれ、また一つの問題が生じました。飲み水がないために、民はモーセに「我々に飲み水を与えよ」と争い始めます(2節)。彼らの渇きはひどくなり、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」とモーセを責めます(3節)。以前にも飲み水に困ったことはあったのですが(15章)、今回は子供や家畜にまで死の危険が迫っていたために、彼らの不平は更に大きくなったのです。 モーセは彼らの申し出を単なる不平と見なしませんでした。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と(2節)。民がモーセに対して争っているのは、その実、主と争い、主を試すことと同じことでした。彼らはまったく主を信頼していないのです。 けれども、主はホレブの岩を杖で打つように命じ、そこから水を溢れさせ、渇きをいやしてくださいました。主は、ご自分の民を見放さないし、この出来事を通して彼らを訓練し、成長させようとしておられます。それは主の約束が保たれているからなのです。 主の約束は今の私たちにも有効であることを思い出し、主と共に生きる人生の旅路を進んでいきましょう。 【祈り】 天の父なる神よ、困難に直面してあなたへの信頼を失ってしまうときにもわたしを放さないでください。 Wed, 03 Apr 2024 00:10:00 +0000 主から与えられた糧がわたしを生かす(出エジプト記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240403 no 2024 主はモーセに言われた。 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。…彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」 (出エジプト記16章4節) イスラエルの民は、エジプト軍の手から逃れた後、本格的に荒れ野の旅へと入りました。荒れ野には砂漠地帯や岩が無造作に転がっている場所もあり、生命を感じさせない雰囲気が広がっています。いや、死を予感させる環境と言えるでしょう。旅を続ければ手持ちの食料は無くなります。イスラエルの民は、エジプトから助け出され、荒れ野を旅していることに不平を言い始めました。 すると、主はその彼らに天からのパン(マナ)を与えると約束されるのです。その際、主からの指示がありました。毎日一人当たりの配分だけを集めること。6日目だけは2倍の配分を集めて7日目の安息日は休息のうちに主に感謝するようにと。 そして主は、「彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」と言われました。主が備えてくださったマナは、イスラエルの民が再び主を頼る心を取り戻すことができるようになるための視覚教材です。このときの出来事は、人間の生計や食生活の一切を、安息日を中心として試すものでした。「日ごとの糧をきょうも与えてください」と主に祈るか否かの試みだったのです。 主を信じて、日毎の糧を主に求めて任せていく。そこで与えられていく糧こそがあなたを生かす真のマナとなるでしょう。 【祈り】 天の父なる神よ、私たちに必要な糧をきょうも与えてください。 Tue, 02 Apr 2024 00:10:00 +0000 あなたの賛美と祈りは主に届く(出エジプト記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240402 no 2024 主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。 この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。 (出エジプト記15章2節) エジプトに寄留していたイスラエルの民は、主によって奴隷生活の苦しみから救い出されました。 イスラエルの民は、エジプトを脱出する際、主の御業を目の当たりにしました。主がエジプトのファラオの軍勢と戦ってくださったこと、主の力の前にはどのような敵も打ち砕かれること、この事実が諸国民にも伝わっていくことを。彼らは自分たちを全力で守り導いてくださる主の愛を感じ取ります。するとどうでしょう。モーセとイスラエルの民は主を賛美してほめ歌をささげました。彼らは主の力、自分たちに対する主の誠実さ、主の目に高価な者とされていること、前途にあるゴールの素晴らしさを歌います。これらのゆえに主への賛美が湧き出てくるのです。 主への賛美は祈りでもあります(詩42編9節)。祈りがささげられるところに、必ず主はご自身の約束に基づいて、その力と慈しみと愛で祝福を注いでくださいます。なぜなら、賛美や祈りがささげられるとき、私たちは必ず主の御業を思い起こして感謝できるからです。あなたが主の救いの御業に気付いて感謝する日々には、賛美と祈りが溢れていき、主との豊かな交わりがもたらされるでしょう。あなたの人生は主の祝福によって最も美しく、最も快い時間となるのです(詩147編1~3節)。 【祈り】 天の父なる神よ、心からの賛美と祈りをささげさせてください。 Mon, 01 Apr 2024 00:10:00 +0000 恐れるな主の救いを見よ(出エジプト記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240401 no 2024 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 (出エジプト記14章13節) 主は、エジプトの国で奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を解放されました。彼らは主が導かれるまま葦の海(紅海)に通じる荒れ野の道を進みます。 ところが、エジプトの王ファラオは、イスラエルの民を解放したにもかかわらず心を一変させます。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」。ファラオは戦車と騎兵たちを引き連れて追いかけます。イスラエルの民は迫りくるファラオの軍勢を見て恐れ、動揺し、冷静さを失いました。そしてエジプトを出たことを後悔してしまうのです。しかし、主は葦の海を二つに分けて道を用意し、イスラエルの民を前進させます。そして、追いかけてきたファラオの軍勢が葦の海を渡っているときに水を元に戻して滅ぼされました。 聖書は、ファラオが考えを一変させたことを「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされた」(8節)からだと言います。エジプトでの災いも葦の海の奇跡も、そしてファラオの心変わりさえも、すべて主のご計画の中に取り込んだ上で救いの御業は進んでいったのです。 私たちの救いの人生は、いつも主が共にいて戦ってくださる救いの御業で溢れています。 【祈り】 天の父なる神よ、日々あなたの救いの御業を見て安心させてください。 Sun, 31 Mar 2024 00:10:00 +0000 心の目で見るキリストのよみがえり(ヨハネによる福音書 20章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240331 no 2024 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 (ヨハネによる福音書20章8節) このイエス復活物語に「見る」という言葉が4回登場します。1回目の「見た」(1節)と2回目の「のぞく」(5節)は原語のギリシャ語で「肉眼で普通に見る」という意味の単語が使われています。ですから、まだ何も悟っていません。3回目のペトロが墓の中で「見た」(6節)という単語は、「注意深く見る」とか「観察する」という意味を持つ動詞です。 ところが4回目(8節)は、ただ「見た」だけではなく、「見て」、「信じた」となっています。ここでの「見て」は、「心の目で真理を悟る」という意味の言葉が使われています。つまり、科学的に証明や論証できる証拠のような目に見えるものによって信じたのではなく、心の目で、目に見えない真理を悟ったことを意味します。 あの復活の朝、自分はそこに主イエスの遺体がないことを墓の外から「ただ肉眼で普通に見た」が、やがて自分の心の目が開かれて、主イエスが確かに復活されたという事実を「心の目で見て真理として悟る」ことができたとヨハネは語っています。 私たちが「キリストの復活」を信じることができるのは、この朝よみがえられた主イエスが今も生きておられ、天から聖霊を遣わして、私たちが心の目で見て真理として悟るように導いてくださるからです。 【祈り】 きょうも生きておられる主よ、あなたの復活を確信できるよう、わたしの心の目を開き悟らせてください。 Sat, 30 Mar 2024 00:10:00 +0000 いつまでも神の救いを忘れずに(出エジプト記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240330 no 2024 「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて…主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。」 (出エジプト記13章9節) 主はモーセを通してイスラエルの民に除酵祭、すなわち、酵母を入れないパンの祭りを守るようにとお命じになりました。正月の14日の夕方から21日の夕方までの7日間(12章18節)、酵母を入れないパンを食べ、最初の日と第7日には聖なる集会を開くようにと定められました。イスラエルの民がエジプトを出るときは速やかに出発しなければならず、酵母やその他の物品をたくさん持ち出すことはできませんでした。だから除酵祭を行うことは、奴隷の家であったエジプトからの解放、ひいてはエジプト脱出の記念となります。そのために約束の地カナンに入国したら行うようにと命じられたのです(13章5節)。 カナンは乳と蜜の流れる土地と呼ばれるほど豊かな恵みに溢れています。潤った土地に入ったイスラエルの民が入国後の贅沢と繁栄に酔いしれ、過去の神の恵みを忘れてしまうこともあり得ます。だからこそ、神の救いの御業を語り伝えていくことは大切なのです。 私たちも神がしてくださった救いの御業をすぐに忘れてしまう罪をもっています。だからこそ、神の救いの御業を御言葉から思い起こしましょう。主イエスは、私たちを新しく造り変えるために十字架の死からよみがえってくださったのですから。 【祈り】 天の父なる神よ、あなたの救いの御業をいつも覚えさせてください。 Fri, 29 Mar 2024 00:10:00 +0000 過越によるエジプト脱出(出エジプト記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240329 no 2024 「『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」 (出エジプト記12章27節) ジプトの初子が撃たれるという決定的な神の御業によって、ついにイスラエルの民はエジプトの奴隷の家から解放されます。 これまで民を去らせようとせず、頑なで強気だったファラオは、完全に打ちのめされました。彼はモーセとアロンに出て行くように告げます。これはモーセやアロンの力でできることではありません。すべては神の御力によることです。イスラエルの人びとも、ファラオとエジプト人も、モーセをお遣わしになった神こそがまことの神であられることを知らされたのです。ファラオが最初に言った「わたしは主など知らない」という言葉に、主はその驚くべき御業をもってお答えになり、ご自身をお示しくださいました。 このとき、小羊の血が流され、主の過越があり、食事がありました。イスラエルの人びとにとって、この体験が救済の原点となりました。それは子孫に語り伝えられ、過越の食事として受け継がれていきます。 この過越の小羊が十字架の贖い主キリストを指し示しています。ここにはキリストによる罪と死からの解放を指し示す、神の壮大な救いの御業が描かれています。私たちの救いは、神の小羊キリスの十字架と復活の恵みによるのです。 【祈り】 主よ、私たちを、あなたの驚くべき救いの恵みを信頼して生きる者としてください。 Thu, 28 Mar 2024 00:10:00 +0000 救いの時を満たす神のご計画(出エジプト記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240328 no 2024 「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。」 (出エジプト記11章1節) 暗闇の災いを受けてファラオはモーセを呼び、「行って、主に仕えるがよい」と伝えます。しかし、それは条件つきでした。そして主がまたファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとしませんでした。ファラオはモーセに「今度会ったら、生かしてはおかない」と告げ、モーセは「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません」と答えます(10章29節)。交渉決裂が決定的になったやりとりです。もはや交渉の余地はありません。 いよいよ最後の、そして決定的な災いが行われる時が満ちたと言えます。モーセは神から告げられた言葉をファラオに伝え、最後に「…わたしは出て行きます」と一方的に宣告して「憤然としてファラオのもとから退出した」のです(11章8節)。 最後のしるしは、エジプトの国中の初子が皆死ぬというものでした。ファラオ自身もその災いを逃れることはできません。神が頑ななファラオを屈服させ、ご自身の民を救う時が満ちたことが示されています。それはモーセたちの理解を超えた神の救いのご計画です。主がご自身の民の救いのために、すべてを整え、実行してくださるのです。 主は、私たちのためにも尊い神の小羊を備えてくださっています。 【祈り】 主がふさわしいときを備え、私たちの救いのためにすべてを整えてくださることを信じます。 Wed, 27 Mar 2024 00:10:00 +0000 神の民に差し込む神からの光(出エジプト記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240327 no 2024 人々は、3日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。 (出エジプト記10章23節) この章では、いなごの災いと暗闇の災いが記されます。11、12章で記される最後の決定的な災い、過越に至る前の災いです。 主はモーセに、ファラオとその家臣の心を頑迷にしたのは「わたし自身である」と言われます。これまでモーセは繰り返しファラオと交渉してきましたが、いまだエジプトを出るには至っていません。ファラオが頑なだったからです。しかし、それも神の御支配によることが改めて明示されました。 それは、神がエジプト人のただ中でこれらのしるしを行うためであり、また、イスラエルの人々がその出来事を子孫に語り伝えるためでした。ファラオが頑なであることによって、最初に示された、モーセを遣わされた神こそまことの神であられることが、知られていきます。それは同時に、神の民の救いと、その救いが語り継がれるためだったのです。 度重なるファラオとの交渉が難航する中ですぐに解放されないモーセと民にとって、これは大きな支えになることでした。長引く試練もまた主の御手の中にあります。頑ななファラオとエジプトは、いなごによってこれまで以上に甚大な被害を受け、闇に包まれます。しかし、神の民にはどこにでも光が差し込みます。 【祈り】 試練が長く続くときも、主を信じる私たちの歩みにはどこにでも光があることを感謝します。 Tue, 26 Mar 2024 00:10:00 +0000 神の主権と救いの深まり(出エジプト記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240326 no 2024 「しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。」 (出エジプト記9章16節) 9章には、家畜の疫病、はれ物、雹という三つの災いが記されています。はれ物の災いでは魔術師たちにもはれ物ができ、ファラオの前に立てなくなります。こうしてエジプトの魔術師たちへの神の勝利が決定的なものとして示されました。また、はれ物の災いでは、エジプト人に身体的な被害が及びます。こうして神の審判も深まっていくのです。 雹の災いでは、ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させました。神の御力が、ファラオの家臣にも知られるようになったのです。さらに神は、ファラオを生かしておいたのはご自身の力を示して主の名を全地に語り告げさせるためだと言われます。こうして神の御力と勝利がますます明らかにされていきます。 同時に、家畜の疫病、雹の災いでもエジプト人とイスラエル人の区別が明言されます。イスラエルを主がご自分の民として区別して贖う(8章19節)という、神の民への救いも、さらに明確になります。 このようにファラオのかたくなさと共にエジプトに対する神の審判が深まっていき、同時に神の民への救いが進行していきます。主の名が知られるようになり、神の勝利の中で主の民は守られ、贖われるのです。 【祈り】 主よ、あなたに敵対する闇が深まる時も、私たちへの救いの恵みが深まることを感謝します。 Mon, 25 Mar 2024 00:10:00 +0000 エジプトに手を下されるまことの神(出エジプト記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240325 no 2024 …ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。 (出エジプト記8章15節) 7章から8章にかけて、最初の四つの災いが記されています。ナイル川の水が血に変る災い、蛙、ぶよ、そしてあぶの災いです。神による災いが続く中で、ファラオの心は頑なです。主が言われたとおりでした。同時に神の審判の御業は、エジプトの魔術師たちに追いつけないものとなっていきます。 最初の血の災いの時、魔術師たちも同じことを行ったのを見て、ファラオは頑なになりました。蛙の災いの時には、魔術師たちも同じことを行いましたが、神は、決められた時に蛙を死滅させることで、魔術師たちにはできないことをご自身がなさっておられることを示されました。 さらに、ぶよの災いからは、魔術師たちにはできなくなっています。この時、魔術師はファラオに「これは神の指の働きでございます」と言います。モーセを遣わされた神がまことの神であられることが、こうしてエジプトの魔術師たちにも明らかになっていきます。しかし、それに従ってファラオの心は逆に頑なになります。あぶの災いの時には、エジプトとイスラエルの人びとが住んでいる場所とがはっきり区別されます。 こうして神は、「主とは一体何者なのか」というファラオの問いへの答えを、次第に明らかにしていかれたのです。 【祈り】 主よ、時と共に進む、救いの御業を見る信仰の目を開いてください。 Sun, 24 Mar 2024 00:10:00 +0000 神殿の垂れ幕除く主イエスの死(マルコによる福音書 15章1-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240324 no 2024 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 (マルコによる福音書15章37節~38節) 主イエスは十字架での御業を成し遂げられて、大声を出して息を引き取られました。そのとき、大変不思議なことが起りました。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。 当時、エルサレムの神殿の奥には一つの部屋があり、聖所とその奥の至聖所とに分かれていました。そして、聖所と至聖所を隔てていたのが「神殿の垂れ幕」でした。聖所には神を礼拝する人たちが入ることができましたが、至聖所は神がご臨在される最も聖い場所でしたので、通常、人が立ち入ることは許されませんでした。ただ年に一度だけ大贖罪の日に、その年の大祭司だけが入り、民の罪のために贖いの儀式をすることが許されていました。このように旧約の時代では、人々が直接神に近づくことはできませんでした。 ところが、主イエスが息を引き取られたちょうどその時、神が臨在される聖なる場所と罪だらけの世とを隔てていたあの幕を、神が破り捨てられたのです。それは、神の御子イエス・キリストが、全人類の大祭司として全人類の罪を取り除く贖いの供え物として、ご自身を神に献げてくださったからです。主イエスにあって、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるようにされたのです。 【祈り】 主イエスが尊いお命と引き換えに与えてくださった神との交わりの中に、きょうも憩わせてください。 Sat, 23 Mar 2024 00:10:00 +0000 メメント・モリ死を覚えよ(詩編 49編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240323 no 2024 しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。 (詩編49編16節) 詩人は最初に「諸国の民よ」と呼びかけ、そして言います。「耳を傾けよ」。詩人は、今から人生と世界の知恵を語り、その謎を解くというのです。 人は必ず死ぬこと、そして人はそれを知らないかのように生きているということが一貫して語られます。誰も「死」に抗することはできません。死を延ばすことはできても、死に打ち勝つことはできないのです。 中世以来の教会が大切にしている言葉に「メメント・モリ」というラテン語があります。「死を覚えよ」「死を忘れるな」という意味です。人はこの世のことに熱心ですが、死への備えには不熱心だからです。やがては死ぬことを知るとき、二つの反応があります。ひとつは「人生は何と空しいのか、すべてが消えてしまう」、もう一つは「どうせ死ぬのだ、思いきり今を楽しもう」。しかしどちらにも「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」という神への希望が欠けています。 9節に「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」とあります。それはだれにもできません。しかし、ただ一人、神であり人であるお方がそれをしてくださいました。そのお方こそ主イエス・キリストです!この方だけが罪の赦しを与え、死に打ち勝たせてくださいます。 【祈り】 主イエスよ、あなたが罪と死に勝利してくださったことを心から感謝します。 Fri, 22 Mar 2024 00:10:00 +0000 奴隷からの解放の始まり(出エジプト記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240322 no 2024 「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」 (出エジプト記7章5節) モーセとアロンが最初にファラオと交渉したとき、ファラオは「わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えました(5章2節)。再度始まるファラオとの交渉を前にして、主なる神はこれからの見通しをモーセとアロンに示してくださいました。 まず神はファラオの心をかたくなにするので、神が奇跡を繰り返してもファラオは言うことを聞きません。しかし、神はエジプトに手を下し、大いなる審判によって、イスラエルを導き出してくださるというのです。そのときエジプト人は、モーセとアロンを遣わされた神が主であることを知るようになります。これが最初の交渉でファラオが言った言葉に対する答えで、そこに向かって神の御業が行われます。 アロンの杖が蛇に変わり、エジプトの魔術師たちも同じことをします。そのときアロンの杖が彼らの杖を呑み込んだことが、神の解放の御業の始まりでした。これから十の災いを通して、神の言葉どおりになっていきます。こうして主は、自分たちではファラオの意志を動かすことのできないモーセとアロンを、解放に至る主の御業の出発点に立たせてくださいました。すべては主の御計画の中にあるのです。 【祈り】 見通しの立たない困難も、主が手を下して道を開いてくださることを信じさせてください。 Thu, 21 Mar 2024 00:10:00 +0000 主よ御心を為したまえ(出エジプト記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240321 no 2024 「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。」 (出エジプト記6章2節~3節) 主なる神は、主体的にモーセと共にあろうとして彼に臨まれます(3章12節)。主はモーセに宣言されました。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」と。 主は、イスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブには「全能の神」として現れました。それは、恵みの契約を結ぶ神です。主は彼らと子孫にカナンの地を所有の地として与えると約束しておられました(4節)。 それに対して、「主」という御名で顕現されたのは、モーセが初めてでした。主は、モーセを通して民をエジプトの奴隷の身分から救い出し、先祖に与えると誓ったカナンの地に導き出すと宣言されました(6~8節)。 こうして主はモーセに召命と派遣を確認し、励ましておられます。王のもとに行って説得せよと言われて(11節)、モーセは主に答えます。イスラエルの人びとでさえわたしの言うことを聞かないのに、どうして口下手なわたしが王を説得できましょうかと。しかしなお主は忍耐強くモーセを励まし、民と王を説得するよう彼とアロンに命じます。出エジプトは主の不動の決意だったからです。私たちを救い出す主の決意は変わることがありません。 【祈り】 主なる神よ、あなたは私たちの思いに左右されることはありません。主よ、御心を行ってください。 Wed, 20 Mar 2024 00:10:00 +0000 モーセとアロンファラオと交渉する(出エジプト記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240320 no 2024 「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、3日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。」 (出エジプト記5章3節) 5章では、モーセとアロンがエジプトの王、ファラオのもとに行き、イスラエル人の出国を交渉します。荒れ野で神に犠牲をささげに行かせてくださいと言って交渉しました。 王はモーセとアロンが告げる神に反発し、イスラエル人を去らせないと言います。二人は、「ヘブライ人の神が出現されました。荒れ野に行かせて、主を礼拝させてください。さもないとエジプトに災いがくだるでしょう」と王に答えました。 この最初の交渉で王が反発して、イスラエル人は苦境に陥りました。王がイスラエル人の労働をさらに苛酷にしたからです。わらを与えないようエジプト人の監督たちに命じて、自分たちでわらの切り株を集めてレンガ作りをさせるようにしました。ノルマを達成できないので、エジプト人の監督は彼らを鞭打ち、虐げました。それを王に抗議しましたが、王は「お前たちは怠け者なのだ」と言って、命令を撤回しません。 こうしてイスラエル人はモーセとアロンを非難し、モーセは主に訴えます。どうして民に災いをくだされるのかと。6章に入り、主は彼に答えられます。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見る」。主の強い手によってファラオはついにイスラエルの民を去らせるに至るのです。 【祈り】 主なる神よ、今の事態を悪くすると見えても、主なる神を信じて、あなたの御心を行わせてください。 Tue, 19 Mar 2024 00:10:00 +0000 モーセ、主を信じる(出エジプト記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240319 no 2024 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」 (出エジプト記4章1節) 4章を理解する鍵の言葉は、「信用(信じる)」です。モーセは、主の派遣命令を固辞しました。エジプトの同胞たちが彼を主が遣わされた者と信用しないだろうと言います。 そこで主はモーセに二つのしるしを与えられました。杖を蛇に変える奇跡と、モーセの手を重い皮膚病にし、それを癒す奇跡です。それでも同胞が信じなければ、ナイル川の水を血に変える奇跡を行う力をモーセに与えると、主は約束されました。 しかし、モーセは主を信じませんでした。今度は、自分が口下手であると言って、固辞しました。そこで主はモーセに「わたしは主ではないか」と宣言し、「一体、誰が人間に口を与えたのか」と言われました。しかし、モーセは固辞し続けました。主は、お怒りになりながらも、へりくだられ、忍耐強くモーセを説得し続けます。彼の兄アロンが彼の口となり、彼に代わって語ると告げられます。 こうしてついにモーセは主を信じてエジプトに帰ります。すると、彼の命を求めていた者たちは皆、死んでいました。また、アロンが彼の口となり、彼がイスラエルの民の前でしるしを行なうと、それを見て彼らはモーセを信じました。主なる神こそが信じる心を与えてくださるお方です。 【祈り】 主なる神よ、あなたはモーセを遣わすだけではなく、彼に信仰を与え、使命を果たせるようにしてくださいました。感謝します。 Mon, 18 Mar 2024 00:10:00 +0000 わたしはあるわたしはあるという神(出エジプト記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240318 no 2024 また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 (出エジプト記3章14節) 成人したモーセは、同胞を助けるためにエジプト人を殺したため、ミディアンの荒れ野へと逃げました。その地で彼はミディアンの祭司の娘と結婚し、40年を過ごしました。 3章にはモーセの召命が記されています。主なる神はホレブの山でモーセに命じました。エジプトで強制労働を強いられているイスラエル人を、エジプトの王の支配から解放せよと。そして、主なる神は、モーセを派遣するしるしとして、主は必ずモーセと共にいると約束されます。また、エジプトから導き出されたイスラエル人はやがてホレブの山で主なる神を礼拝するのです(12節)。 モーセは神に尋ねました。エジプトにいる同胞たちが彼に、彼を遣わされた神とはいったい何者かと問うならば、何と答えるべきかと。神は答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。神は御自身を「あるもの」として答えられました。主はモーセと共に生きて働く神として、御自身の揺るぎない意志と決断をお示しになりました。こうして御自身をお示しくださって、モーセを通してイスラエル人の救いを実現させようとされたのです。 今、インマヌエルである主イエス・キリストにあって、主なる神は、私たちと共にいてくださるお方です。 【祈り】 主なる神よ、あなたの御名こそが私たちの救いの保証です。主イエスの御名に感謝します。 Sun, 17 Mar 2024 00:10:00 +0000 御名の栄光イエスの選択によって現る(ヨハネによる福音書 12章20-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240317 no 2024 「今、わたしは心騒ぐ。…しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」 (ヨハネによる福音書12章27節~28節) 主イエスは公的宣教の最後にエルサレムに入られました。時は過越祭。ご自身が栄光を受けられる時が来たのを悟った主イエスは言われます。「今、わたしは心騒ぐ」。ここに、主イエスが心に一瞬の動揺を覚えられたことが表されています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」。十字架の受難を目前にして、この道をできるなら避けて通りたいという思いが頭をよぎります。しかし、次の瞬間には、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と、ご自身に与えられた使命を全うするために、再び十字架に向き直られます。 十字架は、人が編み出した死刑の中で最も苦しみが大きいと言われる極刑です。できるなら避けたいと願うのは当然です。しかし、主イエスは、ご自身の苦しみを避けるよりも、信じるすべての人を救いに導くための十字架の道を選択なさいました。 ユダヤ人たちは十字架に付けられた主イエスの姿を見たとき、それは神に見捨てられた無様な人間の最期と考えました。しかし、主イエスの死は、父なる神との豊かな交わりの中に実現した、神の大いなる御業の結果です。そして神の栄光は、主イエスの死を通して現されました。 【祈り】 御子が選ばれた十字架の道によってすべての人を救いへと導く中で現される神の栄光をほめたたえます。 Sat, 16 Mar 2024 00:10:00 +0000 新しいエルサレムの希望(詩編 48編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240316 no 2024 大いなる主、限りなく賛美される主。 わたしたちの神の都にある聖なる山は 高く美しく、全地の喜び。 (詩編48編2節~3節) 46編から続いて来た「賛美の詩編三部作」の最後の詩編です。48編は、シオンの山と呼ばれる神の都エルサレムに焦点を当てています。エルサレムは聖なる神の神殿が築かれている特別な都なのです。 城壁で囲まれた街に神殿や王の宮殿、大祭司の屋敷などがひしめいています。詩人は歌います。「シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ、…城郭に分け入って見よ」。ここは神ご自身が住まわれるので、敵の王たちといえども決して征服することはできないのです。 やがて時は流れ、神の民の不信仰のゆえに南王国も北王国も滅ぼされ、エルサレムは破壊されてしまいます。その後、捕囚から帰還した人びとによってエルサレムの町と神殿は再建されました。しかし、エルサレムに入城された主イエスは、神に背くエルサレムと神の民のために嘆き、この都の荒廃を告げ知らせたのです。 主イエスは、城壁の外にあるゴルゴタの丘で十字架にお架かりになり、3日目に復活されました。新約聖書の最後の書、ヨハネの黙示録21章には、天から下る新しいエルサレムの姿が告げられています。主イエスこそが神の神殿です。私たちは、新しい神殿である主イエスにこそ目を向けて、礼拝して歩みます。 【祈り】 目に見える地上の都ではなく、天の都、新しいエルサレムに住む幸いを覚えさせてください。 Fri, 15 Mar 2024 00:10:00 +0000 男の子の名はモーセ(出エジプト記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240315 no 2024 その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」 (出エジプト記2章10節) 主なる神は、どのようにイスラエル人の出エジプトを備えられたのでしょうか。主は一人の幼子を備えられました。その子の名はモーセです。 エジプトの王がイスラエル人の男児をナイル川に捨てよと命令する状況のもと、一人のレビ族の男が同じレビ族の娘と結婚し、男の子が生まれました。母は、3か月の間、隠して育てました。それ以上は隠しきれなかったので、防水加工を施したパピルスの籠の中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの間に置きました。 男の子には姉がいました。姉が弟を見守っていると、王の娘が水浴びのためにナイル川に下りて来ます。娘は葦の茂みの間にある籠を見つけ、侍女に取って来させます。王の娘はその籠に男の子を見つけました。彼女はヘブライ人の子であることに気づいて、ふびんに思いました。 そのとき、女の子の声が聞こえました。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の女を呼んで参りましょうか」。すると、王の娘は「そうしておくれ」と応えます。女の子は男の子の母を彼女のもとに連れて来ました。 こうしてモーセは母に引き取られて、王女の子として育てられました。主なる神は、不思議な仕方でモーセの生きる道を開き、イスラエルの指導者として備えてくださったのです。 【祈り】 主よ、私たちはこの世に生まれ、この世に生きます。そのすべてにあなたの導きがあることを感謝します。 Thu, 14 Mar 2024 00:10:00 +0000 エジプトで強制労働に服する(出エジプト記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240314 no 2024 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。 (出エジプト記1章8節~9節) 出エジプト記を学びましょう。この書は、イスラエルのエジプト脱出の物語です。族長ヤコブと彼の家族70人は、カナンの飢饉を逃れて、エジプトに避難しました。ヤコブの息子ヨセフがエジプトで宰相となっており、一族をゴシェンの地に住まわせました。彼らは主の恵みによって増え続け、エジプトで「イスラエル人」と呼ばれました(9節)。 新しい王がエジプトを支配するようになりました。彼はヨセフを知らず、イスラエル人の人口の増加を恐れました。他国との戦争になれば、彼らが敵側について、エジプトを奪うと思ったからです。彼はエジプト国民に警告し、イスラエル人を抑圧し、強制労働をさせました。ピトムとラメセスの町の建設に彼らを従事させ(11節)、苛酷な労働を課しました。 王とエジプト人はイスラエル人の増加を恐れ、嫌悪しました。そこで、王は生まれてくる男の子の殺害をイスラエル人の助産婦たちに命じました。しかし、助産婦たちは神を畏れて、王の命令を実行しませんでした。主は、彼女たちを祝福されました。 1章は、主なる神がイスラエル人の苦難を通して彼らの出エジプトを備えられたことを記しています。苦難の中にも主の備えがあることを心に留めましょう。 【祈り】 主なる神よ、私たちにこの世の苦難の中であなたの御救いを待ち望ませてください。 Wed, 13 Mar 2024 00:10:00 +0000 天の国でいちばん大いなる者(マタイによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240313 no 2024 「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」 (マタイによる福音書18章4節) あるとき、弟子たちが、主イエスのところに来て、こう尋ねました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。すると、主イエスは、一人の子供を呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせて、こう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。 当時のユダヤ社会において、子供は取るに足らない、小さな者でした。しかし、主イエスは、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできないと言われます。心を入れ替えるとは、自分を低くすることです。続けて主イエスはこう言われます。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。この世では子供は小さな者です。しかし、天の国では子供のように自分を低くする人が大いなる者であるのです。 このことは、ほかならない主イエス御自身に当てはまります。主イエスは、自分を低くして、神と人とに仕えられました。その主イエスを、神は天の国でいちばん大いなる者とされたのです。自分を低くして、神と人に仕え、小さな者を主イエスの御名によって受け入れる人が、天の国でいちばん大いなる者であるのです。 【祈り】 主イエス・キリストよ。私たちがあなたに倣って、自分を低くして、神と人とに仕えることができますように。 Tue, 12 Mar 2024 00:10:00 +0000 高い山での神からの啓示(マタイによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240312 no 2024 すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 (マタイによる福音書17章5節) ペトロの信仰告白から6日の後、主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られました。 弟子たちの前で、主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。弟子たちは、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っている光景を目にします。ペトロは感激して、こう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロは、少しでも長く、このすばらしい光景を見ていたかったのでしょう。それで、仮小屋を三つ建てることを提案するのです。ここで、ペトロは、主イエスとモーセとエリヤを同等なものと見なしています。 そのようなペトロに、神は光輝く雲の中からこう言われます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。弟子たちは、非常に恐れ、ひれ伏しました。そして、弟子たちが顔を上げると、主イエスだけがおられました。 主イエスこそ、神の愛する子であり、神の御心を行う僕であり、私たちが聞き従うべき御方であるのです。 【祈り】 私たちが、神の御子であり、主の僕であるイエス・キリストに聞き従うことができますように。 Mon, 11 Mar 2024 00:10:00 +0000 天の父からいただいた幸い(マタイによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240311 no 2024 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」 (マタイによる福音書16章17節) 主イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちにこうお尋ねになりました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。すると、主イエスは、弟子たちにこう言われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。弟子たちを代表して、シモン・ペトロはこう答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。 主イエスは、ペトロの信仰告白を喜ばれて、こう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。「イエスはメシアであり、生ける神の子である」という信仰告白は人間の内から出てきたものではありません。父なる神が私たちに現してくださった真理であるのです。 私たちは、父なる神から現されて、「イエスはメシアであり、生ける神の子である」と告白することができたのです。主イエスは、そのような私たち一人ひとりに、「あなたは幸いだ」と言われます。主イエスを信じる私たちは、確かに幸せ者であるのです。 【祈り】 天の父なる神よ。「イエスはメシアであり、生ける神の子である」と告白することのできる幸いを感謝いたします。 Sun, 10 Mar 2024 00:10:00 +0000 上げられて永遠の命を得させる主(ヨハネによる福音書 3章14-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240310 no 2024 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 (ヨハネによる福音書3章14節~15節) 主イエスは、ご自身の死の重大な意義を説明するために、かつてイスラエルの民が荒れ野を旅していたときの出来事を引用されます。彼らは指導者モーセに逆らって罪を犯したため、炎の蛇に噛まれて苦しみました。そのときモーセは、神の憐れみの指示によって一つの青銅の蛇を作り、すべての人に見えるように、それを旗竿の先に掲げました。その青銅の蛇を仰ぐ者たちは皆死の刑罰を逃れて命を得ました(民21章4~9節)。 この物語に出て来る青銅の蛇のように、「人の子」である主イエスも、すべての人に見られるように「上げられねばならない」と主イエスは言われます。ここで「上げられる」とは十字架につけられることを意味します。それはまた、復活して天に上げられることをも含んでいます。それゆえ、十字架につけられるときこそ、主イエスが栄光を受けられるときなのです。 きょうの通読箇所の16節以下の言葉が明らかにしているように、主イエスの十字架の死こそ、神が罪人に対する真実な愛を現わすために選ばれた方法でした。十字架に上げられたイエスを自分の救い主として信じて仰ぎ見る者は、誰でも罪の支払う報酬である死から解放され、永遠の命を得ることができるのです。 【祈り】 主よ、罪人のわたしを死の刑罰から解放し永遠の命を与えるために十字架にかかってくださり感謝します。 Sat, 09 Mar 2024 00:10:00 +0000 民よ手を打ち鳴らせ(詩編 47編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240309 no 2024 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。 神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。 (詩編47編2節) ジュネーブ詩編歌に親しんでおられる方は、詩編47編の御言葉を読むとき、詩編歌のメロディが自然と心に浮かんでくるのではないでしょうか。「民よ、手を打ちならせ!」 詩人は、エルサレム神殿完成の情景を心に描いていたと言われます。神の契約の箱が、生きておられる主の御臨在のしるしとして神殿に運び入れられるのです。壊され荒れ果てていた神殿、しかしそこに神の御臨在のしるし、契約の箱が今まさに入ろうとしています。人びとは喜び歌い、手を打ち鳴らして神に感謝します。角笛、手拍子、歓呼の声、聖歌隊と共にすべての民が神を賛美します。 「歌え」と5回も繰り返されています。中世の教会では会衆は歌うことを禁止されました。しかし、ジュネーブのカルヴァンが司式する礼拝では、会衆は大きな声で詩編の言葉で神を賛美しました。生ける神がここにおられるからです。 私たちが賛美する神は、天地の創り主です。地上の王たち、権力者たちのさらに上におられます。教会はそのことを告げ知らせます。「神は、聖なる王座に着いておられる」(9節)。そしてその右の座には、復活の主、救い主イエス・キリストがおられます。この方が、父なる神から天地を治める権能を委託され、私たちを救い、最後まで守り導いてくださるのです。 【祈り】 主よ、私たちの礼拝に臨在される、あなたを力強く賛美させてください。 Fri, 08 Mar 2024 00:10:00 +0000 カナンの女の立派な信仰(マタイによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240308 no 2024 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」 (マタイによる福音書15章28節) 主イエスは、弟子たちと一緒にティルスとシドンの地方へ行きました。すると、カナンの女が来て叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。しかし、主イエスは何もお答えになりません。弟子たちは、うるさくてかなわないと思ったのでしょう。主イエスに、「この女を追い払ってください」と頼みます。すると、主イエスは、こう言われました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。主イエスの福音宣教の対象は、第一に約束の民であるイスラエルであったのです。 しかし、カナンの女は、主イエスの前にひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と願います。主イエスは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになります。ここでの「子供たち」はイスラエルの民を、「小犬」はカナンの女に代表される異邦人を指しています。ここまで言われれば諦めそうなものですが、カナンの女は言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。カナンの女は、自分が小犬であることを認めたうえで、主の恵みは、食卓からこぼれ落ちるほど豊かであると言い表したのです。 【祈り】 主イエス・キリストよ。あなたの恵みは、食卓からこぼれ落ちるほど豊かであることを私たちも信じます。 Thu, 07 Mar 2024 00:10:00 +0000 食べ物を与え養われる主イエス(マタイによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240307 no 2024 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 (マタイによる福音書14章16節) 洗礼者ヨハネが殺されたことを伝え聞いた主イエスは、人里離れた所に退かれました。しかし、群衆が主イエスの後を追って集まって来たため、一人になることはできませんでした。主イエスが舟から上がると、大勢の群衆が主イエスを待っていました。主イエスは、その群衆を見て、深く憐れみ、病気で苦しんでいる人をお癒しになりました。主イエスは、確かに「いつくしみ深き友なるイエス」であるのです(讃美歌312番)。 夕暮れになったので、弟子たちが主イエスのそばに来て、こう言いました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。すると、主イエスはこう言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。この群衆は、女と子供を別にして、男が5千人ほどでした。そのような大群衆に、食べ物を与えることなどできるでしょうか。弟子たちは、自分たちの御弁当を指さしてこう言います。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」。しかし、主イエスは、5つのパンと2匹の魚を用いて、群衆を満腹させられました。主イエス・キリストは、人に食べ物を与え、養われる神であられるのです。 【祈り】 主イエス・キリストよ。あなたが、私たちに食べ物を与え、養ってくださることを感謝いたします。 Wed, 06 Mar 2024 00:10:00 +0000 心に良い土地を用意する(マタイによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240306 no 2024 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである。」 (マタイによる福音書13章23節) マタイによる福音書13章1~23節には、主イエスの「種を蒔く人のたとえ」が語られています。主はこのたとえを通して、私たちの心という土地の有り様によって、蒔かれた御言葉の種が成長し、豊かな実を結ぶか否かが決まることを語るのです。 第一の土地は道端です。それは、私たちの心が自分の常識や考えで踏み固められ、御言葉を聞いても、理解しない心の状態を表しています。 第二の土地は石だらけの所です。それは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れますが、根を張ることはないので、しばらく続いても、苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう心を指しています。 第三の土地は茨の中です。それは、御言葉を聞いても、世の思い煩いや富の誘惑という茨によって、御言葉の成長を塞いでしまう心の状態を表しています。 それでは第四の「良い土地」とは何でしょうか。それは、何か特別に豊かな土壌のことではなく、道端のように固められておらず、石や茨のない、柔らかな土地のことを指していると思います。「御言葉を聞いて悟る人」、つまり、私たちが心にある石や茨を取り除き、柔らかな心を用意して、御言葉を聞いて、それを理解するならば、神の言葉は成長し、豊かな実を結ぶことが約束されているのです。 【祈り】 神よ、私たちの心を柔らかくし、御言葉の真理を悟らせてください。 Tue, 05 Mar 2024 00:10:00 +0000 私たちの心の倉から出る言葉(マタイによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240305 no 2024 「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」 (マタイによる福音書12章35節) マタイによる福音書12章33~37節には、二つのたとえを通して人を傷つける言葉を戒める、主イエスの説教が語られています。 一つ目は「木とその実のたとえ」です。主は「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(33節)と、人間の良し悪しは、その人が発する言葉によって分かることをお語りになります。 二つ目は「倉のたとえ」です。倉は人間の心を、そこに入っているものは言葉をそれぞれ指しています。主はここで、善い人は、良い心から良い言葉を発するのに対し、悪い人は、悪い心から悪い言葉しか発することができない、とお語りになるのです。 そして結論として、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(36節)と、言葉による罪に対して警告されるのです。 言葉によるハラスメントは依然としてなくなりません。私たちも言葉で誰かを傷つけてしまうことがあると思います。主が言われるように、上辺だけ取り繕っても、「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」からです(34節)。私たちが良い言葉を語り、隣人を愛するためには、主の御前に悔い改め、聖霊によって心をきよめていただくほかないのです。 【祈り】 神よ、私たちの心をきよめて、良い言葉を語る者としてください。 Mon, 04 Mar 2024 00:10:00 +0000 疲れた者重荷を負う者へ(マタイによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240304 no 2024 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 (マタイによる福音書11章28節) 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの言葉は、礼拝のはじめの「招きの言葉」でも読まれる有名な聖書箇所です。 この主の言葉で大事な点は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(29節)と続くところです。軛とは、牛などの家畜が農作業の荷車を引くために首にかけられる木の枠のことで、おもに2頭の家畜の首に1セットで付けられるものでした。また、その軛がまだ働いたことのない若い牛に付けられるときには、先輩の牛が対になって重荷を担い、若い牛に農作業の仕事を教えたそうです。つまり、主はそのようなイメージで「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と語っておられるのです。 「柔和で謙遜な」主は、私たちの傍らに来て、私たちの背負っている人生の軛を共に担い、その負い方を教えてくださいます。主イエスが共に軛を担われると聞くと、私たちはなお半分の重荷を負わなければならないと思うかもしれません。しかし、主は私たちのすべての罪の重荷を背負って、十字架に架かって死んでくださった御方です。その主イエスが、きょうもあなたの傍らで、あなたの重荷をすべて背負って「休ませてあげよう」と語りかけておられるのです。 【祈り】 主よ、あなたが共におられ、重荷を担ってくださることを感謝します。 Sun, 03 Mar 2024 00:10:00 +0000 主イエスはまことの過越の小羊(ヨハネによる福音書 2章13-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240303 no 2024 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」 (ヨハネによる福音書2章19節) 過越祭が近づくと、地中海世界に離散していたユダヤ人もエルサレムの都に上り、動物の犠牲を献げました。その際、ローマ貨幣をユダヤ貨幣に両替し、犠牲に献げる動物を買うための商人がどうしても必要でした。しかし、両替人や犠牲の動物を売る者たちは、神殿の境内で商売をし、神殿礼拝を汚していたようです。 エルサレムに上られた主イエスは、直ちに神殿に入り宮きよめを行われました。このとき主イエスは、当時の腐敗した神殿礼拝をただ改革しようとしたのではなく、律法に込められた御心を成就しようとされたのです。 そこでユダヤ人たちは主イエスに、宮きよめをする権威があることを示す「しるし」を求めました(18節)。それに対して、主イエスはご自身の死と復活を預言する言葉をもってお答えになりました。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる」。 主イエスが来られたのは、ご自分のからだを神に受け入れられる供え物として献げる純粋な霊的礼拝によって、人びとが直接神に近づくことのできる道を開くためでした。そして主イエスは3日目に死人のうちからよみがえられ、御自分の体である新しい霊の神殿を建設されます。それは、そのうちに聖霊なる神が宿るキリスト者の交わりである教会です。 【祈り】 主イエスがまことの過越の小羊として十字架につけられ、私たちの救いを完成してくださり感謝 Sat, 02 Mar 2024 00:10:00 +0000 ヤコブの神はわたしたちの砦(詩編 46編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240302 no 2024 「力を捨てよ、知れ わたしは神。 国々にあがめられ、この地であがめられる。」 (詩編46編11節) 宗教改革者マルティン・ルターが作詞作曲した讃美歌267番は、「神はわがやぐら、わがつよき盾」という、力強い神への賛美告白から始まります。ルターは、命がけの教会改革の苦闘の中、きょうの御言葉である詩編46編によってこの讃美歌をつくったと言われます。 エルサレムの神殿でこの詩編46編を歌った神の民イスラエルもまた、戦いの中にありました。戦いに勝利をもたらす最後の鍵は何でしょうか。それは人間の知恵や策略、軍隊の強大さではありません。神に依り頼み、絶えず神に立ち帰る信仰こそが私たちの真の拠り所なのです。 3、4節の「山々が揺ら」ぎ「海の水が騒」ぐという天変地異の描写は、神の民に戦いを挑む敵の高ぶりを表します。それにもかかわらず神の都エルサレムに流れる命の川は決して絶えることがなく、人びとは守られるのです。 新共同訳聖書は、11節を「力を捨てよ」と大胆に意訳しました。元のヘブライ語は「やめる、捨てる、静まる」という動詞の命令形です。新しい翻訳の聖書協会共同訳は「静まれ」という伝統的な訳に戻しています。 「汝等しづまりて我の神たるをしれ」(文語訳)という御言葉は、混乱、不安に心騒がせる多くの信仰者に励ましを与えてきました。 【祈り】 明けない夜はなく、あなたは必ず助けてくださることを信じます。 Fri, 01 Mar 2024 00:10:00 +0000 人を恐れてはならない(マタイによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240301 no 2024 「人々を恐れてはならない。…体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」 (マタイによる福音書10章26節~28節) マタイによる福音書10章には、主イエスが12人の弟子たちを選び、福音宣教へと派遣されるシーンが描かれています。その中で、主は弟子たちに「人々を恐れてはならない」と言われました。 私たちには、人前に出るときや初対面の人と話すときなど、いろんな場面で人を恐れることがあると思いますが、ここでの「人への恐れ」とは、主に、弟子たちがキリストの証人として生き、苦難や迫害に向き合う中で感じる恐れのことを指しています。私たちにもキリスト者として、置かれた場所で福音を証し、神の掟に従う道を歩む中で、多かれ少なかれ迫害に遭い、人を恐れることがあると思います。 けれども、主はそのような私たちに「人々を恐れてはならない。…体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と励まされるのです。 この言葉は少しゾッとするかもしれません。しかし、理不尽な迫害を受けている人にとっては、慰めと希望に満ちた言葉だと思います。 私たちが本当に恐れるべき御方は神であって、人間ではありません。きょうもすべての出来事を見ておられ、統べ治めておられる私たちの主に望みを置いて歩んで参りましょう。 【祈り】 神よ、人を恐れることなく、あなたの道を歩むことができますように。 Thu, 29 Feb 2024 00:10:00 +0000 12年の絶望から希望へ(マタイによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240229 no 2024 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。 (マタイによる福音書9章22節) 9章18~26節には二つの物語が組み込まれています。一つは指導者の娘が生き返る物語で、もう一つは12年間も出血の病が続いている女性の癒しの物語です。 二つの物語の共通点は、12年という年月です。並行箇所に、指導者の娘は「12歳になっていた」と記されています(マコ5章42節)。つまり、一方では、一人の子どもが生まれて12歳になるという重みの中で、その死を悲しむ親の姿が描かれ、もう一方では、同じ12年という長い年月の間、病気に苦しんできた女性の姿が描かれています。主イエスはそのような絶望の淵に立たされた人びとに出会われ、それぞれに救いを与えられたのです。 二つの物語の共通点はまた、イエス・キリストへの信仰です。指導者も、病気の女性も、キリストの御力を信じ、キリストにのみ依りすがり、恵みをいただきました。 私たちが、指導者のように主のもとに行き、主にのみひれ伏し、「助けてください」と救いを求めるならば、また、女性のようにキリストにのみ依りすがり、一歩踏み出して、キリストに触れるならば、私たちの主は恵みをもって、救いの御手を差し伸べてくださるのです。 「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」。 【祈り】 神さま、私たちを憐れんでください。絶望を希望に変えてください。 Wed, 28 Feb 2024 00:10:00 +0000 神のかたちの自分を取り戻す(マタイによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240228 no 2024 悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。 (マタイによる福音書8章28節) マタイによる福音書8、9章には、主イエス・キリストの奇跡物語が記されています。 あるとき、主イエスがガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた二人に出会いました。彼らは人びとから離れて墓場を住まいとし、とても狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであったようです。 主イエスは、彼らに悪霊が取りついていることを見抜かれ、「行け」と命じられると(32節)、悪霊は彼らから出て行きました。主イエスは神の子、救い主として、悪霊を追い出す権威と力をお持ちなのです。 並行箇所には、彼らが悪霊を追い出されると、服を着て、正気に戻ったことが記されています(マコ5章15節参照)。彼らは悪の力に心を支配され、神のかたちに似せて造られた人間本来の良き姿を見失っていましたが、主イエスの御力によって、それを取り戻すことができたのです。 私たちも時に、悪の力に心を支配され、自分で自分を見失ってしまうことがあるかもしれません。心穏やかではなくなり、罪を犯してしまうことがあるかもしれません。主イエスは、そのような私たちに出会い、悪の力から解放し、神のかたちとして造られた、あなたの本来の姿を取り戻してくださるお方なのです。 【祈り】 神さま、きょうも私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 Tue, 27 Feb 2024 00:10:00 +0000 主の御言葉に忠実に生きる(マタイによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240227 no 2024 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」 (マタイによる福音書7章24節) 岩の上に家を建てる賢い人と砂の上に家を建てる愚かな人が対比されています。岩の上に建てた家は大雨・大風にびくともしない一方で、砂の上に建てた家は倒れてしまいます。 このたとえにおいて賢さと愚かさが意味しているのは、教えられた御言葉を行うか否かです。きわめて単純明快でそこに誤解の余地はありません。しかし、言うまでもないことですが、聞くことと行うことは別の次元の話です。 よい家を建てるためにはしっかりした土台が重要だということは、皆知っていることです。しかし、それでもなお「倒れ方がひどい」家をしばしば目にします。いわゆる偽装建築にはしなければならないことをせず、してはならないことをする人間の罪や弱さ、愚かさが隠されています。 このたとえをふさわしく理解するためには、これが置かれている文脈に注目する必要があります。主イエスは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は…」と言われました。そこで含意されているのは5章以下の山上の説教で主イエスが語られたすべての教えであって、一部のお気に入りの教えだけということではありません。主の語られるすべての言葉が私たちの人生の土台となるのです。 【祈り】 父なる神よ、主イエスの御言葉を忠実に行い、堅固な人生の土台を築くことができるように助けてください。 Mon, 26 Feb 2024 00:10:00 +0000 隠れたことを見ておられる神に(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240226 no 2024 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」 (マタイによる福音書6章1節) 主イエスは「殺してはならない」から「隣人を愛しなさい」までモーセ律法の文言を取り上げて説明された後、ギアを変えるようにして善い行いについて語られます。具体的には施し、祈り、断食が取り上げられています。 ここで主イエスが強調しておられるのは、周囲の人びとからの賞賛を得るためにそれを行ってはならないということです。繰り返し「偽善者」たちのそのようなふるまいを俎上に上げて、彼らのようであってはならないと主イエスは警告されます。 善い行いというのは、一筋縄ではいきません。損得勘定なしに、純粋に誰かのためを思ってアクションを起こしたつもりだったけれども、結果的にその人のためにならず、かえって別の問題を引き起こしてしまった、という経験はないでしょうか。 善い行いは究極的には人によるものではなく神によるものです。それは霊の結ぶ実として生じるものであって、人間の思いや計画によって作り出されるものではありません。 そこで主イエスは、周囲の人びとの評価ではなく神の評価を気にしなさいと言われます。隠れたことを見ておられる父に心を向けて、何が父の御心であるかを尋ね求めることを通してのみ、私たちは善い行いを実践することができるのです。 【祈り】 隠れたことを見ておられる神よ、私たちが霊の実を豊かに結ぶことができるように整え、導いてください。 Sun, 25 Feb 2024 00:10:00 +0000 わたしの愛する子これに聞け(マルコによる福音書 9章2-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240225 no 2024 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 (マルコによる福音書9章7節) 服が真っ白に輝いた主イエスが、そこに現れたモーセとエリヤと語り合います。その光景を三人の弟子たちが目撃します。そして、「あなたは、メシアです」と告白したペトロは、恐れながらもイエスに向かって、主イエスとモーセとエリヤのために仮小屋を建てましょうと言います。 そこに雲が現れ、彼らの周りを覆います。雲は神の臨在のしるしです。そして、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この言葉は、主イエスの洗礼を思い起こさせます。 神は「これに聞け」とおっしゃいます。これは、唯一の神の御子イエスの言葉を聞けという意味です。神がそう言われる理由は、モーセやエリヤたち旧約の預言者たちが語ってきた言葉が成就し、彼らが指し示してきたメシアである主イエスが現れたからです。最高の預言者、神の愛する御子イエスが現れました。 神は、この主イエスから聞きなさいと私たちに言われます。今やこの御子は天におられますが、主を礼拝する主の日に、聖霊を通して、私たち一人ひとりに必要な霊の糧となる言葉を語られるのです。新しい週も主イエスを証する聖書の言葉から恵みをいただき、喜びと感謝をもって歩みたいと願います。 【祈り】 父なる神よ、聖書の言葉を心の中心において、生きることができるように強めてください。 Sat, 24 Feb 2024 00:10:00 +0000 王座は世々限りなく(詩編 45編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240224 no 2024 神よ、あなたの王座は世々限りなく あなたの王権の笏は公平の笏。 (詩編45編7節) 詩編45編は、前半、王の美しさが語られています。後半では、この美しい王と結婚する王妃もまた美しいことが語られています。このような王の美しさは、王を召した神が王を通して働いているからこそあらわされています。もし王が神に従うことをやめてしまったなら、その美しさは、あっと言う間に消えてしまいます。残念ながら、旧約の神の民イスラエルは、神に従うことができない王によって混乱してしまうことが多くありました。このように地上の王は、必ずしも美しいものではありません。 本当に美しく、永遠に続くのは、神の王座だけです。神の王座だけが究極の美しさを持ち、光り輝いています。神は、その王座を示すために、御子イエス・キリストをまことの王としてこの世界に遣わしてくださいました。ヘブライ人への手紙は、きょうの詩編の御言葉がイエス・キリストに向けられた神の言葉であることを記しています(1章8節)。 イエス・キリストは、神の美しさをもって私たちを救い、愛をもって守り導いてくださいます。私たちは、このイエス・キリストに結びつけられ生きていくとき、美しく生きていくことができます。まことの王であるイエス・キリストに従って生きていきたいと願います。 【祈り】 神よ、私たちがまことの王であるイエス・キリストにいつも従って生きていくことができますように。 Fri, 23 Feb 2024 00:10:00 +0000 律法の完成者主イエス・キリスト(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240223 no 2024 「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 (マタイによる福音書5章18節) マタイは、主イエスの語られた言葉を、おそらくモーセ五書に倣い、五つにわけて配置しています。5章以下の山上の説教はその一番目で、律法に関する教えを中心に主イエスの言葉がまとめられています。 もともと律法は主なる神がご自身の民に与えられた言葉であり、善いに違いありません。しかし、本来善いものである律法が無視され、誤って用いられた事例は、旧約・新約ともに枚挙にいとまがありません。主イエスは山上の説教において、誤った律法理解と解釈をただし、これが律法の本来の姿なのだと語っておられるのです。 主イエスは、「殺してはならない」「姦淫してはならない」など個々の律法を説明する前に、律法が決してなくならないと明言し、律法を廃止するためではなく完成するためにわたしは来たのだとおっしゃいます。 新約には律法への批判的な表現がみられます。しかし、それは律法学者やファリサイ派らによる歪められた律法観に対する批判であって、律法そのものへの批判ではありません。 大切なことは、主イエス・キリストを通して律法を理解しようと努めることです。律法の本質は愛であり、それはすなわちイエス・キリストだからです。 【祈り】 義なる神よ、律法の完成者キリスト・イエスに従って、律法を理解し、行う者とならせてください。 Thu, 22 Feb 2024 00:10:00 +0000 悪魔の誘惑に勝利する御言葉(マタイによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240222 no 2024 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 (マタイによる福音書4章10節) 洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスは、悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれます。 そこで悪魔はあの手この手を使って、主イエスを試そうとします。断食で空腹の状態であることを狙ったり、神の子としての力を自分のために使わせようとしたり、富と権力を餌にしたりして、主イエスをなんとか誘惑しようとするのですが、主イエスはそれらをすべて退けられます。 ここで注目すべきことは、主イエスが御言葉によって悪魔の試みに勝利されていることです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申8章3節)、「あなたの神である主を試してはならない」(同6章16節)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(同13節)。悪魔はこれらの御言葉に対してなす術がありません。 しかし、悪魔もまた御言葉を使っていることに注意を払う必要があります。悪魔はここで詩編91編の御言葉を自分に都合のいいように利用しています。 御言葉は悪魔の誘惑に勝利するための霊の剣です(エフェ6章17節)。謙遜に聞き従えるように、日々御言葉に触れながら歩みましょう。 【祈り】 勝利者なる主よ、神の御言葉を感謝します。ふさわしく用いて、この世の誘惑に打ち勝たせてください。 Wed, 21 Feb 2024 00:10:00 +0000 主がわたしに用意しておられる道(マタイによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240221 no 2024 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 (マタイによる福音書3章1節~2節) クリスマス物語に続いて、洗礼者ヨハネが登場します。祭司ザカリアとエリサベトの息子として生まれた洗礼者ヨハネは、おそらく父親と同じく神殿で主に仕える祭司になることが期待されていたでしょう。しかし、主はヨハネに別の人生を用意しておられました。 それはやがて来られる主イエス・キリストの道を整えるためのものでした。ヨハネは、ヨルダン川で人びとに悔い改めの洗礼を授けながら、これから自分より優れた方が来られることを伝えます。 主イエスがヨハネのところに、洗礼を受けるために来られました。自分の方が主イエスから洗礼を受けるべき存在であることを知っているヨハネは、主イエスの申し出に困惑しますが、結局、言われるとおりにします。そしてそれはまさにヨハネのなすべきことでした。 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。王の即位に用いられる詩編の言葉が天から聞こえます。このとき主の道を準備する洗礼者ヨハネの司式によって主イエスがまことの救い主として立てられました。 さて、主なる神は、私たちにもそれぞれに歩むべき道を用意しておられます。主の定められた道をまっすぐに歩む人は幸いです。 【祈り】 主よ、私たちが主の御声に聴き従い、主が示される道を歩めるように信仰を増し加えてください。 Tue, 20 Feb 2024 00:10:00 +0000 旧約に示された救いの歴史とクリスマス(マタイによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240220 no 2024 それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 (マタイによる福音書2章15節) 本章では、主イエスがお生まれになった後のクリスマス物語が描かれます。ただし多くの人が抱くような、心温まるクリスマス物語のイメージとは異なり、痛みや悲しみを引き起こす暗いエピソードが多く含まれています。 東方の占星術の学者たちの来訪の後、主の天使がヨセフに現れ、幼子イエスを連れて、妻マリアとともに急いでエジプトに逃れるように伝えます。ヘロデ王による、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を殺害せよとの命令が出されようとしていたときでした。やがてイエスがその名を冠して呼ばれることになるガリラヤのナザレに行くことになるのは、ヘロデ王の死後のことです。 出エジプトやバビロン捕囚の出来事を背景に、イザヤ、エレミヤ、ホセア、ミカなど数多くの預言を引用して描かれるマタイのクリスマス物語の道程は、あたかも旧約聖書のダイジェストのようです。そこで繰り返し現れるのは、ご自身の民への神の深い憐れみとそれに反抗する神の民の頑なさです。 ここに主イエスがお生まれになった理由があります。クリスマスには、どれほど頑なであろうともご自身の民を決して捨て置かれない主なる神の究極の愛が示されています。 【祈り】 憐れみ深い主よ、改めて主イエスの御降誕が素晴らしい神の救いの御業であることを覚えて感謝します。 Mon, 19 Feb 2024 00:10:00 +0000 旧約と新約をつなぐもの(マタイによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240219 no 2024 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 (マタイによる福音書1章1節) 旧約聖書と新約聖書は、全体でひとつの聖書を構成しており、互いになくてはならない存在として、有機的につながっています。きょうから読み進めていくマタイによる福音書は、新約の最初に配置されるにふさわしく、旧約とのつながりを明確に示している書物です。 マタイは、アブラハムからダビデ、そしてバビロン捕囚を経てイエス・キリストに至る系図から語り始め、預言の成就としての救い主イエスの誕生物語が続きます。主なる神がその救いの御業を旧約の時代から計画しておられたことを、マタイは冒頭から明らかにします。 信仰の父アブラハムを大いなる国民の父とするとの約束、偉大な王ダビデの王座をとこしえに堅く据えるとの誓い、そして「神は我々と共におられる」を意味するイザヤ書のインマヌエル預言は、すべて時満ちてイエス・キリストの誕生によって実現したのだと、マタイは語ります。 そしてマタイが示す旧約とのつながりは、今を生きるすべての信仰者とのつながりをも示しています。神の御子、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、私たちの名前もアブラハムやダビデと同じように神の救いの系図に加えられているのです。 【祈り】 主よ、神の御子イエス・キリストを信じる信仰により、私たちもまた神の子とされていることを感謝します。 Sun, 18 Feb 2024 00:10:00 +0000 イエスは神の御心に適う者(詩編 1章9-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240218 no 2024 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (詩編1章11節) 洗礼とは罪が洗い清められたキリスト者であることをあらわす印です。 罪がない主イエスが洗礼を受ける必要はありません。しかし、「正しいことをすべて行う」(マタ3章15節)ため、ヨルダン川で主は洗礼をお受けになります。 洗礼を受けると、天が開き、鳩のような形で聖霊が主イエスに降ります。そして、父なる神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃいます。人として主イエスは洗礼をお受けになりますが、父なる神と聖霊は主イエスが神であり愛する御子であることを証します。 「愛する」と訳されているギリシア語は、御父が御子に対して用いるとき、愛するかけがえのない独り子という意味合いを持ちます。この後、唯一の神の御子イエスは、人の罪を贖うための十字架の道へと真っ直ぐ向かわれます。人びとに虐げられ、罵られながら、十字架の上で、主イエスは命を献げ、神の御心を成し遂げられました。唯一の御子の命が、死せる者を生きる者へと生き返らせる道を開いたのです。 きょう、私たちは愛する神の独り子、御心に適う者である主へと礼拝を献げます。そこで新しい命の恵みをいただき、神から愛される子として御心に適う歩みをなしたいと願います。 【祈り】 父なる神よ。私たちが、あなたから愛されている子として御心に適う歩みをなせるように強めてください。 Sat, 17 Feb 2024 00:10:00 +0000 屠るための羊と見なされています(詩編 44編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240217 no 2024 我らはあなたゆえに、絶えることなく 殺される者となり 屠るための羊と見なされています。 (詩編44編23節) 私たちは、神にどのようなことでも祈ることができます。神に対するどんな訴えも、神は必ず聞いてくださいます。私たちは、この世界で起こっていることすべてが神の御手の中で起こっていることを知っています。ですから、うれしいことが起こったときには神に感謝し、実現してほしいことがあるときには神にお願いをします。そして、自分の頭では理解できない苦しみが襲ってきて弱ってしまったときには、神に苦しみを素直に訴えることができます。 詩編44編は、前半、自分たちの先祖に対する神の偉大な御業をほめたたえて、「我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささげます」と祈っています(9節)。ところが、その直後に「しかし、あなたは我らを見放されました」(10節)と神への訴えを叫びはじめます。この神に対する不満はさらに激しくなり、「我らはあなたゆえに、絶えることなく殺される者となり、屠るための羊と見なされています」(23節)と深刻な状況を正直に訴えています。 不信仰のゆえに神に文句を言っているのではありません。神への深い信頼があるからこそ、今抱えている苦しみを神に正直に訴えることができます。私たちもどのようなことでも神に祈りたいと思います。 【祈り】 神よ、自分の力ではどうすることもできない苦しみの中でも、あなたに信頼して歩めますように。 Fri, 16 Feb 2024 00:10:00 +0000 無償で恵みを受けなさい(イザヤ書 55章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240216 no 2024 来て、銀を払うことなく穀物を求め …。 わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 (イザヤ書55章1節~2節) 乾燥地帯では、水も穀物もぶどう酒や乳も高価なものです。それなのにお金を出さずに買い求めなさいと言われるのですから、不思議な招きです。ただでもらえるのです。 招かれているのは、努力してこの世のものを得ている人たちです。招きの理由は神が私たちの現実をご存じだからです。努力して得ても心が満たされず、最後には空しい裁きとしての死の予感がするからです。 それにしても、なぜ、ただなのでしょうか。既に、約束の救い主によって代価が支払われているからです。ただより高いものはないと戸惑う私たちに、預言者は言葉を変えて語ります。それは悔い改めの勧めです。悔い改めはもっと理解しがたいことでしょう。けれども、招きに応じる人たちは幸いです。 悔い改めは人生の方向転換です。神とキリストに向かうのです。私たちの罪の解決のためにキリストの尊い命が支払われています。どんなに大きな問題を抱えていても、「わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(7節)のです。 それだけではありません。聖書を通してご自身を啓示しておられる主の思いは人間とは全く違うのです。主は、ご自身の望まれることを必ず実現されるお方です(9~13節)。 【祈り】 神の壮大な歴史の支配に感謝し、神の栄光のために生きる者とならせてください。 Thu, 15 Feb 2024 00:10:00 +0000 私たちの根本的な安全保障(イザヤ書 54章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240215 no 2024 どのような武器があなたに対して作られても 何一つ役に立つことはない。 … これが主の僕らの嗣業 わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。 (イザヤ書54章17節) 罪の世です。悪魔の誘惑もあります。主の僕による驚くべき贖いの御業によって救われた私たちも、惑わされてしまうことがあります。ですから、神は私たちを目覚めさせようとしておられます。 神が私たちに呼びかけておられます。「喜び歌え、…歓声をあげ、喜び歌え」(1節)。喜び歌う理由は、神がこう言われるからです。「わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」(10節)。神の慈しみ、神の愛は、神の民から離れないのです。 そして、約束されている三つのことに注目しましょう。第一は外面的なこと、物質的繁栄です(11、12節)。第二は内面的なこと、信仰的な祝福です(13、14節)。特に覚えたいのは、第三の安全保障です(15~17節)。神の民を攻撃するどのような敵も勝つことはない、どれほど厳しく罪が糾弾されても、倒されることはない、と言われます。創造主であるとともに贖い主である神が共におられるからです。 使徒パウロがこう言っているとおりです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ロマ8章31節)。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(同37節)。 【祈り】 一人でも多くの人たちが、この根本的な安全保障の中へ招かれるように、私たちを用いてください。 Wed, 14 Feb 2024 00:10:00 +0000 彼の受けた傷によって癒やされた(イザヤ書 53章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240214 no 2024 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。 … 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。 (イザヤ書53章10節) 主の御腕の力、主の力、恵みの力、主の救いの力は、どこに示されているのでしょうか。 一人の苦難の僕の姿が描きだされています。人びとは、彼のことを理解できません。軽蔑し、無視し、そして、こう考えます。あの人が苦しみを負っているのは、自分の罪の結果であり、神に打たれている。けれども、真実には、彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みでした。 この「僕」は誰のことでしょうか。誕生と生育、人びとに忌み嫌われること、病、苦役と裁きも語られています。命を奪われること、葬りも語られています。驚くべきは、それが主の御旨であったこと、主の目的であり、主が望まれたことだということです。 この僕こそ、十字架の上で裁かれたナザレのイエスです。主イエスの復活の後、このイザヤ53章により、受難と死が何のためであったのか分かったのです(ルカ24章27節、使8章35節)。主イエスは、私たちの「罪」と「死」を負われました。十字架の死は私たちの身代わりでした。 「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペト2章24節)。受難の主を仰いで受難節を過ごしましょう。 【祈り】 病や死によっても、キリストの愛から引き離されることがないことを確信させてください。 Tue, 13 Feb 2024 00:10:00 +0000 平和と救いの良い知らせ(イザヤ書 52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240213 no 2024 いかに美しいことか …良い知らせを伝える者の足は。 彼は平和を告げ、… 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。 (イザヤ書52章7節) 「奮い立て、奮い立て、…輝く衣をまとえ、エルサレムよ」(1節)。神の御前で礼拝者として生きるようにと促されています。 バビロン捕囚も経験しました。エジプトでの苦難、アッシリアによる迫害も経験しました。神の民を懲らしめるために神は異教の国々を用いられたのです。 けれども、驚くべきことに、神はご自身の民との関係を断ち切ることをされません。「わたしの民はわたしの名を知るであろう」。どのような神でしょうか。「見よ、ここにいる」(6節)。どのような困難があっても、神の民と共にいてくださる神、インマヌエルです(7章14節)。そして、何よりも「あなたの神は王となられ」るのです。罪の力、悪魔の力、死の力に敗北するしかない私たちに、解決が約束されています。こうして、神はイザヤを通して救い主を約束してくださいました(マタ1章21~23節)。これが福音です。 聖霊の助けを祈りつつ、隣人に伝えましょう。世界の根本的な問題は神との関係です。罪の問題です。けれども、福音があります。主イエスこそ本当の意味で良い知らせです。真実の平和と救いです。一切の罪を赦し、ご自身の民として迎えて守り続けてくださいます。信じる者と共にいて、悪しき力と戦ってくださるのです。 【祈り】 私たちを、良き知らせを伝える足、喜びの使者として用いてください。 Mon, 12 Feb 2024 00:10:00 +0000 目覚めよ目覚めよエルサレム(イザヤ書 51章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240212 no 2024 わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。 なぜ、あなたは恐れるのか 死ぬべき人、草にも等しい人の子を。 (イザヤ書51章12節) 神の民は、偶像礼拝に陥ったため、バビロン捕囚という神からの裁きを受けなければなりませんでした。17節から20節には、その裁きの様子が記されます。激しい裁きのゆえに、神の民は望みを失い、絶望的な思いにかられたに違いありません。 しかし、裁かれたまま終わるのではありません。神御自身が裁きを終わらせ、神の民を回復してくださるのです。51章は、その慰めのメッセージなのです。「わたしに聞け」で始まる1節から3節は、神の民を慰める神の呼びかけになっています。 慰めるにあたり、過去の神の恵みの御業を思い起こさせます。2節では神の民の父である「アブラハム」を思い出すように言い、3節ではエデンの園に触れます。10節には出エジプトの出来事も言われています。そして12節で「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」と力強く言われるのです。 神の民は、罪の裁きで終わるのではありません。絶望で終わるのではありません。たとえ裁きがあっても、赦しと救いと慰め、希望へと導かれるのです。しかも、神御自身の憐れみと恵みによってです。そのことが、旧約にある神の民の歴史によって示されます。 【祈り】 イスラエルの民を慰めたまことの神よ、あなたが赦しと救いと慰め、希望を与えてくださることを信じて、感謝いたします。 Sun, 11 Feb 2024 00:10:00 +0000 私たちは神を王とたたえる(詩編 68編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240211 no 2024 主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。 この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神。 (詩編68編20節~21節) 「神よ、あなたの行進が見える。わたしの神、わたしの王は聖所に行進される」(25節)。この詩編が、信仰の眼差しで捉える本当の王のお姿を、私たちは仰ぎます。 きょう2月11日を、わたしの手帳は「建国記念の日」と記しています。1945年の敗戦以前には「紀元節」という祝日でした。以来、名は変われど、最初の天皇が即位したとされる日を国の始まり、基として記念し続ける社会に、私たちは身を置いています。かつての天皇制国家主義は柔らかく、穏やかな表情を装いながら、社会の隅々にまで張った根を枯らすことなく、より強靭な力でもって人の心を捉える努力を怠っていません。 その力に抗するように、わたしの部屋のカレンダーは、この日を「信教の自由を守る日」と記しています。この日、キリスト教会は問われます。 あなたの王は誰か、と。 神ではない人間を神と崇めた歴史を教会は背負っています。かつて呑み込まれ、今も抗いきれない嵐に身をさらしながら、教会はこの日、終わりの日を目指す行進の中にあって告白を新たに重ねます。たゆむことなく、大胆に重ねます。「この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神」。 【祈り】 私たちの王でいてくださる神よ、日々は険しく、困難で、しかしいつもあなたの御手のうちに守られていることがうれしく感謝いたします。 Sat, 10 Feb 2024 00:10:00 +0000 わたしの魂よ神を待ち望め(詩編 43編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240210 no 2024 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。 神を待ち望め。 (詩編43編5節) 私たちの魂を本当にうるおすことができる方は、まことの神以外にありません。私たちは、誰しも自分の魂をうるおしてくださるまことの神を探し求めながら生きているのではないでしょうか。人間が持っている苦しみがさまざまにあったとしても、苦しみの根源は、まことの神が共にいないということにあるのではないでしょうか。 ですから、人間は誰しも、まことの神が共にいないという魂の渇きを持ちながら生きていることを自覚する必要があります。私たちがまことの神を探し求めたことによって、まことの神へと導かれ、その神を礼拝することができたとき、大きな「喜び」と深い「感謝」が湧き起こります。 礼拝において、そこに招かれた者たちが「喜び」と「感謝」を神の前であらわすことは、とても大切なことです。4節では、「神の祭壇にわたしは近づき、わたしの神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます」(4節)と素直にまことの神への「喜び」と「感謝」が表現されています。 神は、ご自身を探し求める者と必ず共にいて、魂の渇きを自覚しつつ祈り求める者の祈りを必ず聞き上げ、魂をうるおしてくださいます。まことの神を待ち望みたいと願います。 【祈り】 神よ。苦しみの中で、あなたの救いを祈り求めている私たちといつも共にいて、私たちを守り導いてください。 Fri, 09 Feb 2024 00:10:00 +0000 闇の中でも主の僕に聞き従う(イザヤ書 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240209 no 2024 お前たちのうちにいるであろうか 主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。 闇の中を歩くときも、光のないときも 主の御名に信頼…する者が。 (イザヤ書50章10節) 神の民が捕囚という憂き目にあったのは、罪に対する神の裁きによります。しかし、なおイスラエルの民は自らの罪に向き合おうとしません。主は言われます。「お前たちの罪によってお前たちは売り渡され」たのだと(1節)。さらに神の呼びかけにも答えようとしません。「何故、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか」(2節)。出エジプトの出来事を思い出させつつ、神は訴えます(2、3節)。 そこに主の僕が登場します。神と神の民の間を取り持つ役割を担います。ところが神の民は、その僕さえも迫害します。僕の言葉です。「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(6節)。その僕に聞き従い、主を畏れるならば、贖いがあり、救いがあるのです。しかし、神の民は頑なで、自分たちの力に頼り、勝手な道を歩み続けるのでした。 この僕こそイエス・キリストです。このお方が語るべき言葉を呼び覚まし、従うようにと耳を呼び覚ましてくださいます。暗闇の中を歩くときも主を信頼するようにと導いてくださいます。このお方を受け入れるならば、贖いと救いがあります。主の僕に聞き従い続けましょう。 【祈り】 昔も今も変わることなく語りかける神よ、主の僕、イエス・キリストが与えられている恵みを感謝します。 Thu, 08 Feb 2024 00:10:00 +0000 神の光救いは地の果てまで(イザヤ書 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240208 no 2024 わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。 (イザヤ書49章6節) イザヤ書には、バビロン捕囚からの解放と神の民の回復の希望が記されています。神の民は、確かに一時は裁きを受けなければなりませんでした。その中にあって、「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」(14節)という思いにかられます。しかし、神は決して見捨てることなく、神の民を回復してくださるのです。それは、想像を越えるようなすばらしい回復となります(21節)。 49章は、そのような神の民の回復の意味が世界的な広がりを持っていることを教えています。1節では「遠い国々よ、耳を傾けよ」と呼びかけられます。神の民に現わされた神の御業を知らされるのです。それを知らされて、世界から人びとが集まってくるかのようなイメージが示されます(11、12節)。ただ、知らされ、集まってくるだけではありません。神の民に与えられた恵みは、世界に広がっていくというのです。そのために一人の僕が立てられます。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」。 その預言どおり、主イエス・キリストが立てられ、今も救いが全世界に広がり続けているのです。 【祈り】 イザヤ書の預言どおり、今や救い主イエス・キリストによって、救いが全世界に広がり続けていることを感謝します。 Wed, 07 Feb 2024 00:10:00 +0000 主があなたを罪から贖った(イザヤ書 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240207 no 2024 あなたを贖う主はこう言われる。 わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。 (イザヤ書48章17節) かつてイスラエルの民は、出エジプトという、神の大きな恵みの御業を経験しました。その出来事でさえ、金の子牛事件のように(出32章)、偶像のおかげだとする愚かさを、神の民は示してしまいました。 このとき、神の民はバビロン捕囚の状態にありました。それも偶像礼拝に対する神の罰でした。憐れみ深い神は、これから第二の出エジプトとも言える、バビロンからの解放を成し遂げようとされます。歴史を支配する神は、そのためにペルシアの王キュロスを用いられます。 今回も、偶像のおかげだと言わせないために、神はあらかじめ神の民に預言者を通して警告なさいます。それゆえに、民のほうも信じて応答していかなければなりません。主は言われます。「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え」(20節)。 神が贖ってくださるのです。出エジプトの出来事も、バビロンからの解放の出来事も、罪の奴隷状態から贖い出されることを象徴する出来事でした。まことの神は、御子イエス・キリストによって、私たちを罪の奴隷状態から、確かに贖ってくださるのです。 【祈り】 主イエス・キリストによって罪が贖われる恵みを感謝します。それを喜び、宣べ伝える者としてください。 Tue, 06 Feb 2024 00:10:00 +0000 人を救う神の知恵キリスト(イザヤ書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240206 no 2024 お前の知恵と知識がお前を誤らせ お前は心に言っていた わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と。 (イザヤ書47章10節) 信のユダの民を懲らしめるため、神はバビロンを用いられました。あくまでバビロンは、懲らしめの道具として、神の御計画の中で用いられたに過ぎません。ところが、バビロンはあまりに残虐で、ユダの民に「憐れみをかけず、老人にも軛を負わせ、甚だしく重くし」ました(6節)。また、傲慢になり、「わたしは永遠に女王だ」と言います(7節)。ついには、「わたしだけ、わたしのほかにはだれもいない」と(8、10節)、あたかも神であるかのように言うのでした。 47章は、そのようなバビロンに対する神の裁きが語られます。神は言われます。「お前は裸にされ、恥はあらわになる。わたしは報復し、ひとりも容赦しない」(3節)。 バビロンが高慢になった原因の一つは、「お前の知恵と知識がお前を誤らせ」たとあるように、当時の高度な文明だったようです。13節に天体のことが言われていますが、天文学も進んでいたようです。文明は大事ですが、神であるかのように傲慢になってしまうなら、それは神への反逆です。しかも、この世の知恵と知識では、人を救うことはできないのです。 あらためて「神の知恵であるキリスト」(1コリ1章24節)に、目を向けさせられます。 【祈り】 神の知恵であるキリストが、宣べ伝えられ、知らされている恵みを、心から感謝します。 Mon, 05 Feb 2024 00:10:00 +0000 担い背負い救い出す神(イザヤ書 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240205 no 2024 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。 わたしが担い、背負い、救い出す。 (イザヤ書46章4節) 背信の罪のために、イスラエルの民は、バビロン捕囚の憂き目にあっています。バビロンの地は、偶像が満ちています。新年ごとに偶像の神々が担がれて、行列になって行進する行事もあったようです。偶像は動物や人に担がれ、担われて移動します。もちろん、自ら動くことはできません。まして人を救うことなどできようはずがありません。「据え付ければそれは立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」のです(7節)。 それに対して、まことの神は、人に担われるのではなく、人を担う神であられます。悩みから救えないのではなく、人を救う神なのです。「遅れることなく救いをもたらす」神なのです(13節)。 神はここで、「わたしに聞け、ヤコブの家よ」と呼びかけ(3節)、「思い起こせ、初めからのことを」と訴えます(9節)。神に聞き、神の民のこれまでの歴史を思い起こすなら、分かるはずだと諭すのです。 私たちは、このときのイスラエルから、さらにその後の神の御業を知ることが許されています。とりわけ、主イエス・キリストの救いの御業を示されています。確かに神は、私たちを担い、背負い、救い出す神です。 【祈り】 生きて働かれるまことの神よ。きょうも私たちを担い、背負い、救ってくださることを感謝いたします。 Sun, 04 Feb 2024 00:10:00 +0000 神と過ごす時間を取り分ける(マルコによる福音書 1章29-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240204 no 2024 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 (マルコによる福音書1章35節) 私たちにとって祈りとはどのようなものでしょうか。主なる神に罪を告白し、憐れみへの感謝と自分の願いを伝える、神との交わりの大切な時間であるとわたしは考えます。しかし、祈りが大切なものと考えていながらも、しばしば祈りの時間を十分に取り分けることができないことがあります。 きょうの箇所で、主イエスは悪霊を追い出し、多くの病人を癒されます。その後、早朝に、お一人で人里離れたところへ向かい、そこで父なる神に祈られます。主イエスが父なる神にどのような祈りをしたのかは定かではありません。しかし、この主イエスのお姿から神へ祈りの時を持つ重要さを私たちは教えられます。 日々、私たちは忙しさの中で、神に祈るよりも別なものを優先してしまいがちです。厳しい世を生きるためには神との交わりである祈りが必要不可欠です。何故なら、私たちが神へと心を向け、その交わりによって私たちに恵みが注がれるからです。 そして、それは私たちの心と魂の平安をもたらし、厳しい世を生きる力を私たちに与えます。それゆえに、私たちの生活と祈りは切り離すことはできないのです。今週も神との交わりである祈りの時を大切にする歩みをなしていきたいと思います。 【祈り】 父なる神よ、私たちが、どのような時もあなたへの祈りの時間を取り分けられるようにしてください。 Sat, 03 Feb 2024 00:10:00 +0000 主なる神の善き計画は変わらない(イザヤ書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240203 no 2024 わたしは自分にかけて誓う。 わたしの口から恵みの言葉が出されたならば その言葉は決して取り消されない。 (イザヤ書45章23節) 人は自分よりも大きなものにかけて誓います。しかし、神は御自身以上に偉大な存在がないので、御自身にかけて誓われます。神がきょう、誓われるのは、私たちから恵みを取り去らないということです。神の口から恵みの言葉が出てきます。その恵みが取り消されることはありません。 主なる神においては、言葉と出来事とは一つです。神は御自身が意志されたとおりのことを行われます。神は善きことを計画されます。その計画が覆されることはありません。 神は最初から、私たちにとって恵みとなることを計画しておられます。神が第一に願っておられることは、私たちの幸いだからです。 思えば私たちの言葉は、しばしば裏切ります。口にされた約束が守られないことがあります。心にもないことを口にすることがあります。心と言葉とが一致していません。しかし、神はなんと誠実なお方でしょう。その口から出たことが取り消されることはありません。 いや、神は「滅ぼす」と言いながら思い直されることがあります。神の恵みが取り消されることはないからです。神は裁きや災いについては、思い直されます。しかし、恵みに関して、神は少しも変わることがありません。いつも最善をなさるからです。 【祈り】 御前にふた心なき者であることができますように、心と唇とを聖別してください。 Fri, 02 Feb 2024 00:10:00 +0000 大きな犠牲をいとわずに(イザヤ書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240202 no 2024 わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 (イザヤ書44章22節) 明らかにイスラエルは罪を犯しました。空しい偶像を造り、それに頼ることさえしました。神に創られた人間は神を求めます。しかし、神を正しくあがめることができず、神ならぬ物を作ってしまいます。 イスラエルに限らず、誰もが罪を持っています。しかし、神は罪を雲や霧のように吹き払うと言われます。これは比喩的な表現であり、罪を吹き払うようなことは、神には造作も無いということでしょう。しかし、果たして本当にそうでしょうか。 神にできないことはありません。とは言え、罪を取り除くことはあたかも物を右から左へ動かすようなことでしょうか。私たちの罪のために、キリストの命が献げられました。罪の赦しの御業を軽々しく考えることはできません。 私たちの罪を、何か取るに足りない物のように考えてはなりません。神は私たちの罪を贖うためには、いかなる犠牲も惜しまれないのです。赦しのためには、キリストの命が差し出されなければならないほどです。 立ち帰る人が起こされるために支払われた犠牲は、神には惜しくないことでした。神の大いなる犠牲に見合うものと、私たちが思われています。神の目には、私たちが尊い者と映っています。 【祈り】 神よ、このわたしを尊い者と見てくださることを感謝します。わたしにも主をほめたたえさせてください。 Thu, 01 Feb 2024 00:10:00 +0000 わたしのことを知られる神の贖い(イザヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240201 no 2024 ヤコブよ、あなたを創造された主は … 今、こう言われる。 恐れるな、わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。 (イザヤ書43章1節) 神は世界の創造主です。この方が、「ヤコブよ」「イスラエルよ」と特にイスラエルだけを名指しで呼ばれます。神がイスラエルを特別に選び出しておられるのが分かります。 創造主である方は、贖い主でもあられます。「わたしはあなたを贖う」と宣言されるのは、イスラエルが罪に囚われているからでしょう。神はイスラエルに向かい「なぜ罪を犯したのか。どのように立ち帰るつもりか」などとは聞かれません。何も問わずに「贖う」と言われます。全く無条件に神の赦しがなされます。「ヤコブよ」と呼ばれた神が、改めて「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言われることで、神との関係が強固にされます。イスラエルは神に属する神のものであるのです。 神に創られたとは、存在へと呼び出される前から神に知られていたということです。私たちは神について知らない時がありましたが、神は初めからわたしのことを知っておられます。神を知らずに過ごしてきた日々を思えば、罪の中にあったと言わざるを得ません。だから、神の贖いを必要としています。いや、キリストを信じた後でも、罪を犯しますから、やはり神の贖いを必要としています。わたしの罪を神はよくご存じなので、今も贖いの御手を伸ばしておられます。 【祈り】 憐れみ深い主の贖いを感謝します。主のもとに生涯留まらせてください。 Wed, 31 Jan 2024 00:10:00 +0000 そのままに彼はわたしを受け止める(イザヤ書 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240131 no 2024 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。 (イザヤ書42章2節~3節 ) 神から遣わされた僕は叫びをあげません。この人は自分が顧みられることを求めず、静かに神を指し示します。なぜでしょうか。不当な裁きを受けているにもかかわらず。 彼は強く自己主張をしません。自分が立つよりも、弱くされている者を立ち上がらせることを願うからです。もちろん、弱くされている人を立ち上がらせるには力が必要です。ですから、彼は無力ではありません。ただ自分の力を、自分のためには使おうとされません。 私たちは誰もが傷ついた葦のように弱さを抱えています。心に光を失っています。ろうそくのように、自分を使い果たしています。自分の働きが正しく評価されているだろうかと、思い悩んでいます。 彼はそんなわたしに寄り添ってくださいます。誤りもあるわたしの働きを、憐れみをもって受け止めてくださいます。人は理解してくれず、評価してもくれないでしょう。しかし彼は違います。わたしの弱った心を支えて、力を与えてくださる。あなたの労苦を知っているよと、言ってくださる。この方自身が傷つけられ、深い悲しみを知っておられるからです。 彼が導き出す裁きは、わたしを義とする裁きです。こうしてわたしは、彼の前で息をつくことができます。わたしは赦されているからです。 【祈り】 憐れみの主よ、あなたがわたしを知ってくださることを感謝します。 Tue, 30 Jan 2024 00:10:00 +0000 無に等しき者に親しく神は呼びかける(イザヤ書 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240130 no 2024 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。 恐れるな、虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。 (イザヤ書41章14節) 「わたしがあなたの神である」と、主が名乗りを挙げておられます。神とわたしとが向かい合わされています。イスラエルを安心させるために、繰り返し「わたしだ、恐れることはない」と言われます。 神は聖なる贖い主です。神の力と権威の絶大なことを心に留めましょう。片やイスラエルは、小さく非力です。神がイスラエルを御心に留める必要はなく、助ける筋合いもありません。それなのに、神はイスラエルを全力で支えると言われます。それだけの価値があるのかといえば、無いのです。神は全く割に合わないことをなさいます。 神にとってわたしは、明らかに虫けらのように思われます。それにもかかわらず、神はわたしを助けてくださいます。これは全くの恩寵としか言いようがありません。 それでも言えることは、神がわたしの主であることです。わたしが居なくなったとしても、やはり神は主です。わたしが何も知らないときから、神はわたしの主であられたのです。それが今や、「わたしは主、あなたの神」と名乗り出られました。こうしてわたしは初めて自分の存在の意味を知りました。神は、わたしという存在を、貴い者とみてくださっているのです。 【祈り】 神が御心に留めてくださるとは、わたしは一体何者でしょう。神に生かされていることを感謝いたします。 Mon, 29 Jan 2024 00:10:00 +0000 主なる神の慰めは驚くほど(イザヤ書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240129 no 2024 エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。 (イザヤ書40章2節) 神が語りかけておられます。「わたしの民」と呼んでくださいます。神の言葉を聞きながらも、何度も従わなかったのです。それなのに神はなおも、「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は、私たちに対して失望なさらないようです。 神はイスラエルの現状を知っておられます。傷つき倒れ、頭の上からつま先まで無傷なところはありません。そして彼らに何が必要かをご存じです。イスラエルは無条件で愛される必要があります。今までの不従順を度外視するようにして、主に受け入れられることを必要としています。 罪の償いが終わったかのように言われます。果たして本当に、人に罪の償いなどできるのかと思います。 よく考えれば、イスラエルが裁きに耐えたので償いが終わったのではありません。神がイスラエルと共におられて、神に支えられて、裁きの時を過ごしてきたのです。 罪に対して2倍の裁きを受けたというよりは、罪のために受けるべき罰の、2倍の恵みを受けたということではないでしょうか。罪を犯した者に対して、罰ではなく、その罪をはるかに圧倒する恵みによって、神が顧みてくださったということです。わたしの罪は、圧倒的な神の恵みによって覆われているのです。 【祈り】 恵み深い神よ、あなたの慈しみはわたしの罪をすっかり覆ってくださいました。貴き救いを感謝します。 Sun, 28 Jan 2024 00:10:00 +0000 キリストの権威ある言葉に立つ(コリントの信徒への手紙一 1章21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240128 no 2024 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 (コリントの信徒への手紙一1章27節) カファルナウムの会堂に、悪霊に取りつかれている男がいました。彼はキリストを見ると、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びました(24節)。キリストが悪霊に対して「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその人を混乱状態に陥れながら、出て行きました。人間が悪霊に取りつかれるとき、なすすべのない弱い存在であることを痛感します。 しかし、神の子キリストが、神の権威によって「黙れ。この人から出て行け」と命じられたとき、悪霊は神の言葉の前になすすべのない存在であることをも教えられるのです。 キリストの弟子である私たちもまた、悪霊からの攻撃にさらされます。時には神のことを忘れ、人間の論理に浸りきっている自分がいます。神のことを忘れた私たちの心は、次第に重く暗くなります。そして自分の心を神に向けようとしても、制御できなくなります。しかしキリストは、そのような私たちに近づいて来られます。そして「黙れ。この人から出て行け」との権威ある神の言葉で悪霊に向かって命じられるのです。 弱い私たちですが、権威あるキリストの言葉を武具として身に付けているならば、必ず悪霊の攻撃に対して勝利することが約束されています。 【祈り】 神よ、キリストの権威ある御言葉の上に固く立たせてください。 Sat, 27 Jan 2024 00:10:00 +0000 命の神にわたしの魂は渇く(詩編 42編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240127 no 2024 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。 いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。 (詩編42編3節) 人間は、本来、造り主である神と共に生き、神を礼拝するものとして造られました。ですから、人間は、神と共にいて神を礼拝し続けなければ、本当に人間らしく生きていくことはできません。 もし人間が神を無視して自分勝手に生きていくならば、涸れた谷で、鹿が水を求めてさ迷い歩くような魂の渇いた状態に陥ってしまいます。魂の渇いた状態とは、魂が満たされないため、神を探し求めてあてどもなく生きている状態です。実は、人間は、誰もが魂の渇きの中で造り主である神を探し求めながら生きています。 また、人間は、たとえ神を信じて生きていたとしても、苦難が襲うと、たちまち神を見出せなくなってしまいます。苦難の中で、魂の渇きを自覚して神の助けを祈り求めることは、私たちにとって何よりも大切なことです。6節と12節で、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め」と語られています。 神は、苦難の中で神を探し求める人を必ず救い、魂の渇きをいやし、命を与えてくださいます。ですから、鹿が渇きをいやすために水を探し求めるように、私たちも、神がいつも共にいて命を与え、魂を満たしてくださるように、神を探し求めて祈りたいと願います。 【祈り】 神よ。きょうも私たちと共にいて、私たちの魂の渇きをいやし、私たちに命を与えてください。 Fri, 26 Jan 2024 00:10:00 +0000 聖書的で健全な献金の方法(コリントの信徒への手紙一 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240126 no 2024 …週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。 (コリントの信徒への手紙一16章2節) 聖書的で健全な献金の方法を確認しておきましょう。 まずおぼえたいのは、主なる神は、天地を造り、今もすべての所有者であられることです。私たちは、神からあらゆるものをお預かりしているだけですから、お返しする必要があります。また、天の父が、私たち罪人の救いのために、御子イエス・キリストをくださったことです。さらに御子は、天の父の御心に完全に服従なさり、ご自分の命を十字架で献げて、復活なさり、罪の赦しと永遠の命とを得てくださいました。 それで、献金は、主なる神への感謝の応答となります。「感謝のしるし」とも言われます。主なる神からお預かりしたお金をお返しするのです。主の御業のためにです。 具体的に、どのように献金するのでしょうか。「各自収入に応じて、幾らかずつでも」です。金額は各自に任されています(2コリ9章6節以下参照)。「週の初めの日にはいつも」、また「幾らかずつでも手もとに取って置」いてです。自分の分を取って残った分ではありません。まず神にお返しする分を取り分けて置きます。主なる神への感謝をもって喜んで献金するならば、神からの祝福があります。 【祈り】 主よ、あなたに感謝し、あなたの御業のために喜んでお献げすることができますように。 Thu, 25 Jan 2024 00:10:00 +0000 十字架神の恵みの現れ(コリントの信徒への手紙一 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240125 no 2024 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。…しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 (コリントの信徒への手紙一15章10節) 10節に「神の恵み」という表現が3回使われています。動詞の「恵む」を国語辞書で引くと、「情けをかける。かわいそうに思って、金や物を与える」(新明解)とあります。また、この辞書には「表記」として「『恤む』とも書く」とあります。漢字研究者の白川静博士の編集した辞典によれば、立心偏に血と書く「恤む」は、「仲間となる誓いをして神に祈る姿」を表している漢字に由来します(字統)。最も大切な福音が書いてある15章の文脈でこの漢字の成り立ちを想い巡らすと、この漢字が十字架に磔にされた主イエスの御姿と重なって来ます。ご自分を十字架に磔にした敵なのに、かえって仲間となって寄り添い、神に赦しを祈り求められた主イエスの御姿こそ、「恤む」という漢字そのものではないか!と。 主なる神は、私たち罪人をかわいそうに思って、独り子イエスをお与えになったのではありません。高き天におられるままで恵んでくださるのでもありません。10節でパウロは、「わたしと共にある神の恵み」と言っています。神の恵みは共にあり、仲間となって寄り添います。何よりも、神の恵みの現れが、主イエス・キリストの十字架にほかなりません。神の恵みは主イエス・キリストを通して現れたのです。 【祈り】 天の父よ、あなたの豊かな恵みにより、きょうのわたしがあることを感謝します。 Wed, 24 Jan 2024 00:10:00 +0000 「イエスは主である」との預言に生きる(コリントの信徒への手紙一 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240124 no 2024 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。 (コリントの信徒への手紙一14章1節) 主イエスは最高の預言者です。キリスト者は、最高の預言者イエスに聖霊により結ばれて、小さな預言者とされています。そして、主日の礼拝毎に、その1週に生きるべき預言である聖書の御言葉を与えられ、預言に生きるための賜物、何より聖霊を注がれて、主イエスによってこの世のさまざまな領域に派遣されます。 それでは、主イエスによって世に派遣されて何をするのでしょうか。もちろん、日常生活を過ごすわけです。学生ならば勉強し、社会人ならば仕事をし、家事、育児、日常のさまざまなことを行います。その点、未信者の方々と同じですが、決定的に違う点があります。それは「イエスは主である」(12章3節)との最も基本となる預言に生きることです。「イエスは主である」との預言にいつも生かされている点で、未信者の方々とは過ごし方が決定的に違います。 十字架の死から復活なさったイエスを「わたしの主」と信じ従う生活自体が、未信者が圧倒的多数の世の中で、福音の告白を飾ることになります。全能の主の助けなしには、何もできない弱い私たちです。主イエスは宣言くださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)。主イエスの助けを祈り求めましょう。 【祈り】 主イエスよ、あなたが主であるとの預言に生きることができるように聖霊により助けてください。 Tue, 23 Jan 2024 00:10:00 +0000 主イエスにこそある愛を追い求めよう(コリントの信徒への手紙一 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240123 no 2024 愛は忍耐強い。愛は情け深い。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 (コリントの信徒への手紙一13章4節~7節) きょうの聖句で最も中心となるのは、4節の前半です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い」。原文では「忍耐強い」と「情け深い」とが「愛」で挟まれています。7節の「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」も、「忍」ぶで始まり、「耐える」で終わっています。つまり、愛は、ただ忍耐に尽きるということです。 ところで、日本語の「忍耐」は、国語辞書を引くと、「つらさ・苦しさ・怒りを、じっと我慢すること。たえしのぶこと」(岩波)とあります。しかし、4節の「忍耐」は寛容のことで、ひどいことを言われたりされたりして、カッとなって爆発するのでなく、まず冷静に対応できることです。さらに7節の「忍」ぶは、「屋根のように覆うこと、かばうこと」で、結局は隣人を赦すこと(1ペト4:8)、「耐える」は、将来にわたって赦し続けることです。 以上の意味での忍耐に尽きる愛が私たち罪人にないことは明らかです。しかし、主イエスはこの愛で溢れています。そして、幸いなことに、私たちキリスト者は、聖霊によって主イエスと結ばれているがゆえに、追い求めるならば、主イエスの愛にあずかることができます。主イエスの愛を追い求め、きょうも隣人愛に生きることができますように。 【祈り】 主イエスよ、貧しい私たちが、あなたに溢れている愛にあずかることができますように。 Mon, 22 Jan 2024 00:10:00 +0000 イエスを主と告白できるのは(コリントの信徒への手紙一 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240122 no 2024 …また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 (コリントの信徒への手紙一12章3節) 12章を読むと、わたしはかつての罪深い自分の姿を想い起こします。悪霊に「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれ」ていたことを、です(2節)。しかし、悪霊の配下にあった罪深いわたしが悔い改めて「イエスは主である」と告白できたのは、ひとえに永遠の神であられる聖霊の働きによることでした(3節)。 特に十字架刑に処せられたイエスを主であると告白することは、聖霊によらなければ、誰もできないことです。古代ローマ世界では、十字架は、犯罪人に対する最も残酷な処刑法でした。今ではアクセサリーとして用いられることがありますが、当時は処刑の道具でした。 そのような十字架刑に処せられたイエスを主と告白できる。それは、イエスの十字架の死の真相、つまり、主イエスが私たちの罪の償いのための身代わりとして神から罰を受けてくださったことを何より聖書が教えてくれているからです。そして、うなじがとても硬く、聖書の真理に対して「アーメン」と肯くことのできない私たち罪人が、その真理を受け入れることができるのは、聖霊の働きが確かにあるからです(参照ヨハ16章13節)。人知をはるかに越える聖霊のくすしい働きに感謝します。 【祈り】 聖霊なる神よ、罪深く弱いわたしを主イエスのもとに導き続けてください。 Sun, 21 Jan 2024 00:10:00 +0000 福音の言葉で満たされ遣わされる(マルコによる福音書 1章14-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240121 no 2024 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。 (マルコによる福音書1章17節~18節) キリストは、シモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になりました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、二人はすぐに網を捨てて従いました。人間をとる漁師、すなわち悔い改めの福音を宣教する者(14、15節)への召しに対して、二人は網を捨てて、すぐに従ったのでした。 しかし、この二人には、弟子となる準備の段階があったことをヨハネによる福音書が記しています。キリストに従ったアンデレともう一人の弟子が、キリストのところに泊まりました(ヨハ1章39節)。キリストからの福音の言葉に満たされたアンデレは、「わたしたちはメシアに出会った」と告白したのです(41節)。そして兄弟シモンをも、キリストのところに連れて行きました(42節)。このようにしてキリストに従う弟子とされたシモンとアンデレに、キリストは時を定めて、福音宣教者への召しを語られたのでした。 同じようにキリストは、私たちをご自身のもとに泊まらせ、福音の言葉で満たしてくださいます。この言葉が私たちの内に蓄えられたとき、キリストから福音を証しする召しが語られます。そのとき私たちは、躊躇することなく従う準備ができていることを教えられます。 【祈り】 神よ、わたしを福音の言葉で満たし、証し人として遣わしてください。 Sat, 20 Jan 2024 00:10:00 +0000 弱いものに思いやりのある人(コリントの信徒への手紙一 41編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240120 no 2024 いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。 (コリントの信徒への手紙一41編2節) 私たちは、この世界では、「強いもの」がたくさんの利益を得て、「弱いもの」が損をしているように思える時があります。もし「弱いもの」が損をする世界であれば、「弱いもの」は、最終的に見捨てられ、「強いもの」だけが生き残っていきます。生き残りたければ、「強いもの」になって、自分の力で生きる道を勝ち取っていかなければなりません。このように「強いもの」しか生き残れない世界であるならば、これほど悲しいことはありません。主なる神は、「強いもの」しか生き残ることができない世界を望んでおられるのでしょうか。 詩編41編では、冒頭で「弱いものに思いやりのある人」が祝福されています。この世界を造り動かしておられる主なる神は、決して「強いもの」だけが生き残る世界を望んではおられません。むしろ神は、「弱いもの」に思いやりをもって接することを望んでおられます。 私たちは、神の助けがなければ一瞬たりとも生きていくことはできません。その意味で、私たちも「弱いもの」です。私たちは、自分自身も「弱いもの」であることを自覚したいと思います。その上で、「弱いものに思いやりのある人」として生きていきたいと願います。 【祈り】 神よ。きょうも「弱いもの」に目を向けて、自分にも隣人にも思いやりをもって生きていくことができますように。 Fri, 19 Jan 2024 00:10:00 +0000 わたしの記念として行いなさい(コリントの信徒への手紙一 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240119 no 2024 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 (コリントの信徒への手紙一11章24節) 11章1節で、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と言われます。これはパウロが自分を誇って言うのではありません。自分の弱さを認めて神の憐れみを切実に求めるパウロのように、聖霊に導かれて生きる信仰の営みを見倣いなさいということです。 ここでは、神に喜ばれる、秩序ある礼拝がどのようなものであるかが示されています。男女のあり方や女性は頭にヴェールやかぶりものをすべきだということは、当時の社会の風習に配慮して言われていることです。神に喜ばれ、また周囲の世界にも良い証しとなる礼拝をささげることが大切なことです。私たちの時代にも、世に妥協するのではありませんが、私たちの生きる時代に相応しい礼拝のあり方があるはずです。 この礼拝についての教えの中で、17節から、主の晩餐のことが語られています。聖餐式は、パンとぶどう酒をいただくことにより、キリストの臨在にあずかることです。「わたしの記念としてこのように行いなさい」との主の御言葉は、単に思い出すということではありません。聖霊によって神との交わりに導かれて、キリストの十字架の恵みの力にあずかることなのです。 【祈り】 私たちがいつも聖霊に導かれ、キリストに倣う者として生きることができますように。 Thu, 18 Jan 2024 00:10:00 +0000 逃れる道をも備えられる真実な神(コリントの信徒への手紙一 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240118 no 2024 神は…あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (コリントの信徒への手紙一10章13節) 神は、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を救うためにモーセを遣わし、エジプトに十の災いを下して、民をエジプトから救い出されました。しかし、エジプトから救われた民は、すぐには乳と蜜の流れる約束の地に入ることはできませんでした。むしろ40年間も荒れ野をさまようことになり、ほとんどの人はそこで死に絶えてしまったのです。 コリントの教会には、偶像礼拝に影響された人たちがいたようです。この世と調子を合わせて生きようとする人たちもいましたが、そのような人たちにパウロは、「出エジプトを導かれた神を思い起こすとともに、神に背いて滅ぼされてしまった人たちのことを思い起こしなさい」というのです。 神はかつて天からマナを降らせ、彼らが生きるために必要なあらゆるものを備えて、守り導いてくださいました。私たちにも同じように、すべての必要を満たして、守り導いてくださいます。ですから、神と共に生きる者は恐れることはありません。 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。 【祈り】 主なる御神よ、今も生きて働いておられるあなたの恵みを覚えて、御心に従って生きることができますように。 Wed, 17 Jan 2024 00:10:00 +0000 キリスト者の自由とは何か(コリントの信徒への手紙一 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240117 no 2024 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 (コリントの信徒への手紙一9章19節) コリントの教会には、パウロを使徒として認めようとせず、彼の言動を批判する人たちがいました。そうした人たちに対して、彼は「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と語ります(1節)。事実、パウロは復活のキリストに出会い、キリスト者を迫害する者から、キリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。 この章では、パウロが「信者である妻を連れて歩く権利」や「生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利」がありながらも、「できるだけ多くの人を得るため」にその権利を用いなかったと述べています。 現代社会は、人びとが自分の権利や自由を声高に叫ぶ時代です。厳しい言い方をすれば、私たちは自分たちが果たすべき義務よりも権利の方に目が行きがちです。そのような時代にあって、使徒パウロの生き方から、キリスト者にとっての自由とは何かという問題を改めて考えさせられます。世界中の人たちが自分の欲望の命ずるままに自由に振る舞ったら、私たちの生きる世界は自由な世界とはほど遠いものになります。自分が神のようになろうという思い上がりを捨てて、真実に神を神とする生き方の中に真の自由はあるのです。 【祈り】 真の自由をもたらす神と共に生きることができますように。 Tue, 16 Jan 2024 00:10:00 +0000 躓きを与えないための配慮(コリントの信徒への手紙一 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240116 no 2024 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 (コリントの信徒への手紙一8章9節) 当時、食卓に並べられる肉の中には、異教の神殿で神々への供え物としてささげられた後に市場へ移されたものがたくさんありました。コリント教会の中では、これを気づかって、「偶像にささげられた肉は食べてはならない」と考える人たちがおり、その一方で、「偶像などない。肉を恐れる必要はない」と主張する人もいて、教会は混乱していました。 そこでパウロは、自由に肉を食べている人たちに対して、9節で、「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と語りました。配慮を求めたのです。 使徒言行録15章に、エルサレム会議において決められたことが記されています。「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」(20節)。このとき教会は、異邦人でイエス・キリストを信じるようになった人たちを受け入れて、異邦人の改宗者たちに割礼や儀式律法を行う義務を負わせないことを決めました。それと共に、偶像に備えられた肉を避けるようにということを確認したのです。それは、信仰の弱い人たちへの配慮としてそのようにすることを勧めているのです。 隣人をつまずかせないよう、互いへの配慮をもって歩みましょう。 【祈り】 私たちが互いに愛と配慮をもって歩むことができますように。 Mon, 15 Jan 2024 00:10:00 +0000 キリストのものとして生きる(コリントの信徒への手紙一 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240115 no 2024 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。 (コリントの信徒への手紙一7章23節) この書物が書かれた当時のギリシア・ローマの社会では、妻は夫の所有物のようにみなされていました。しかし、ここでパウロは、男性と女性が神の前に等しいものであると教えています。独身については、主に仕えるために一人でいると決め、それができる人はそうすればよいと教えるように、必ず結婚しなければならないということではありませんでした。また、未信者同士の夫婦の一方が信仰に入った場合には、その結婚関係が続けられるべきだと教えています。これは神が定めた結婚という制度を重んじる、現実的な教えです。 けれども、その教えに注意深く丁寧に聞くことが必要です。例えば、8、9節の「…皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい」は、パウロ自身の経験に基づいた教えであると言えるでしょう。 ここでパウロが語る何より大切なことは、23節の「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」という御言葉です。その人が独身であるか既婚者であるかにかかわらず、私たちは皆、キリストのものとされています。主に召されるままに、キリストのものとして生きること、それを人生の前提とすることです。 【祈り】 天の父なる神様、あなたがお遣わしになったキリストと共に歩むことができますように。 Sun, 14 Jan 2024 00:10:00 +0000 キリストが天からの力で励ます(ヨハネによる福音書 1章43-51節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240114 no 2024 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。 (ヨハネによる福音書1章51節) キリストに出会ったフィリポは、ナタナエルに出会って言いました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」(45節)。すなわちメシア、キリストに出会ったと。キリストがナザレの人であることに偏見を持ったナタナエルに、フィリポは「来て、見なさい」と励ましました。 キリストのところに来たナタナエルに、キリストは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました(48節)。自分の認識をはるかに超えて、キリストが既に自分のことを知っておられたことに驚いたナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰を告白しました。 そのナタナエルにキリストは、信仰者の恵みを語ります。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と。信仰者は、どのような時にもキリストを通して天とつながり、天からの力で励まされるのだと語られたのです。 失意の中にあったヤコブがベテルで、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びている夢を見たように、地にあって失意の中にある時にこそ、キリストはその信仰者に近づき、天からの力で励ましてくださるのです。 【祈り】 神よ、失意の中にあるわたしに、キリストを通して天を仰がせてください。 Sat, 13 Jan 2024 00:10:00 +0000 急いで助けてください(詩編 40編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240113 no 2024 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。 主よ、急いでわたしを助けてください。 (詩編40編14節) 信仰者は、本当に信頼すべきお方を知っています。詩編40編は、「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」と語りはじめます(2節)。そして、「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人」とも語ります(5節)。私たちは、たとえ望みのないと思える時であっても、主なる神に信頼することができます。どのような時でも信頼すべき方を知っていることは、これ以上ない幸いなことです。 信仰者は、信頼すべき唯一のお方を知っているからこそ、主なる神に向かって、苦しい時に遠慮なく、「主よ、急いでわたしを助けてください」(14節)と願うことができます。 私たちは、主なる神に遠慮する必要は全くありません。私たちは、主なる神にどんなことを祈ってもよいのです。神は、私たちのことをいつも顧みてくださいます。そして、神は、私たちを最良の道へと導いてくださいます。 詩編40編は、「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください」という願いで閉じられます。うれしい時は、神に感謝し、苦しい時、悲しい時は、真っ先に神に助けをもとめて歩んでいきましょう。 【祈り】 神よ。きょうもあなたがわたしを助けてください。あなたに望みをおいて歩んでいくことができますように。 Fri, 12 Jan 2024 00:10:00 +0000 わたしの体は誰のもの(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240112 no 2024 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 (コリントの信徒への手紙一6章19節) 「わたしには、すべてのことが許されている」(12節)。これはおそらくコリント教会のスローガンです。霊に満たされたなら何でも自由だと信じていました。しかし、彼らは自由と放縦を履き違えていたのです。 何と教会のメンバーが「娼婦と交わ」っていました。コリントの教会はギリシア文化の中にあり、霊肉二元論で考える人が教会の中にもいたようです。その文化では、魂は尊いと見なされ、体は卑しいと考えられていました。彼らは、不品行は体だけの行為であって、魂には影響はないと切り離して考えました。これでは欲望が止められません。 みだらな行いは「体に対して罪を犯」す(18節)とは、その人の中心まで罪の影響が及ぶことを意味します。この罪はキリストと信仰者との交わりを壊す深刻なものです。 パウロは二つのことを命じます。まず誘惑を避けてみだらなことから「逃げる」(18節・直訳)ようにということです。積極的には「自分の体で神の栄光を現しなさい」とも命じます(20節)。体も含む人間全体を神は良いものとして創造されました。さらにこの体をキリストが十字架の犠牲で贖ってくださいました。わたしの体の主人がキリストに代わったのです。 【祈り】 神よ、わたしの体も心もあなたのものです。誘惑の声ではなく、あなたの声に従えますように Thu, 11 Jan 2024 00:10:00 +0000 罪に気づき離れるために(コリントの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240111 no 2024 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。 (コリントの信徒への手紙一5章7節) 5章から、パウロはコリント教会の具体的な問題と取り組みます。性的な不品行が起きていました。それは「父の妻をわがものと」するほどで、異邦人の間でもまれなことでした。 パウロは、教会の陥っているこの状態を「パン生地」にたとえます。大きなパン生地であってもほんの少しのパン種で全体がふくらみます。パウロは教会の中に「悪意と邪悪のパン種」があると言うのです(8節)。 深刻なのは、これほどの問題がありながら問題として誰も認識していないことです。どうして鈍感なのでしょうか。それは「高ぶり」のためです(2節)。高慢さは罪を罪として知ることを妨げるからです。教会員は罪を知って悲しむべきでした。 そこでパウロは、問題の人を教会から切り離すように命じます。「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです」(5節)。この命令の目的は、教会の中に罪が広がらないため、キリストの御名が汚されないためです。さらに「主の日に彼の霊が救われるためです」とある通り、罪を犯した人が罪を悔いて戻ってくることが最終目標です。 キリストは十字架により、私たちを贖ってくださいました。私たちの内に残る古いパン種を取り除きましょう。 【祈り】 神よ、高ぶりによって曇った目をきれいにしてください。わたしの内に残る罪から解き放ってください。 Wed, 10 Jan 2024 00:10:00 +0000 管理者に求められることは(コリントの信徒への手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240110 no 2024 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 (コリントの信徒への手紙一4章1節) パウロは言いました。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」(3節)。振り返って落ち込まない、すっきりとした生き方です。 パウロは自分のことを「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と考えていました。ただし、この管理者は、警備員のように神の神秘を守るのではありません。むしろツアーガイドのように神の恵みの中へと一緒に旅をするのが彼の仕事でした。 パウロは、コリント教会の人たちから裁かれても問題にしません。それは彼が無責任だからではありません。パウロの働きは人間によって判断されないのです。 揺るがないパウロのこの生き方は、「主が来られる」時を物差しにしていたからです。キリストが再び来られるとき、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」(5節)。 求められているのは、成功ではなく、神への「忠実」であることを、パウロは知っていました。私たちも同じです。タラントンのたとえでも、与えられた賜物をそれぞれが忠実に用いることが問われています(マタ25章)。終わりの日に「おのおのは神からおほめにあずかります」(1コリ4章5節)。 【祈り】 神よ、わたしを救ってくださったキリストに出会う時が近づきます。きょうという日を誠実に生きられますように。 Tue, 09 Jan 2024 00:10:00 +0000 目標をしっかりと見つめて(コリントの信徒への手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240109 no 2024 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。 (コリントの信徒への手紙一3章10節) パウロは教会を建物にたとえます。コリント教会はパウロの開拓伝道に始まったのですから、彼は設計図を書いて建物の土台を据えた人です。続くアポロは、建物の骨格を組み立てた人と言えるでしょう。 ただしパウロの注目点は、建てた人ではなく、どこに建っているかです。教会が立つべき土台が大事だからです。教会の土台とはキリストです。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(11節)。次にパウロは、その土台の上に建てられる教会の素材を挙げています。「金、銀、宝石、木、草、わら」(12節)。先の三つは高価な素材で、残る三つは粗末な物です。 欠陥住宅でも一見立派に見える。でも災害が起きると問題が露呈するときがあります。教会はどうでしょうか。「かの日」、つまり終末の時に、建築家の用いた素材が問われます。「かの日」に「その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」(13節)。「金、銀、宝石」とは土台に釣り合う福音のことで、終末の火を越えて残ります。他の三つは消えて無くなる「世の知恵」です。 パウロのこの警告は、同時に希望の言葉です。神が私たちを永遠に残る本当に価値あるもののために召し出してくださったからです。 【祈り】 神よ、あなたの約束してくださる確かな報いを信じ真っすぐ従います。 Mon, 08 Jan 2024 00:10:00 +0000 わたしにも恵みが恵みが(コリントの信徒への手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240108 no 2024 「目が見もせず、耳が聞きもせず、 人の心に思い浮かびもしなかったことを、 神は御自分を愛する者たちに準備された」 と書いてあるとおりです。 (コリントの信徒への手紙一2章9節) 誰も思いつかなかったこと。私たちの想像を遥かに超える、「世界の始まる前から定めておられた」(7節)よい計画を神はお持ちです。 私たちは、自分が救われているか、不安になることがあります。しかし、救いの保証が永遠からあるのです。神が計画し実行してくださる。だから私たちは安心してよいのです。 しかし、神からのこの素晴らしい救いを「この世の支配者たち」は誰も理解できませんでした。中には一流の教育を受けた人もいたはずです。「この世の知恵」は「神の知恵」を理解できない。罪ある心は恵みを嫌うからです。キリストを十字架に付ける罪を犯しながら、彼らは自分のしていることが理解できませんでした。 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(12節)。聖霊が、自分で自分を救えないことを教えます。聖霊が頑なな心を柔らかくし、聖霊が罪で真っ暗な人の心を御言葉で照らします。 パウロは自分の救いの経験を、「闇から光が輝き出よ」と、神による天地創造の言葉を引用して語ります(2コリ4章6節)。わたしの心に御言葉が光り始める。その人に圧倒的な神の力が働いているのです。 【祈り】 神よ、聖霊を与えてくださった恵みに感謝します。御言葉に照らされて信仰の道をきょうも歩めますように。 Sun, 07 Jan 2024 00:10:00 +0000 神の子が私のために死なれた(マルコによる福音書 1章4-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240107 no 2024 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (マルコによる福音書1章11節) 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(4節)。ヨハネは、キリストの到来を預言する使者として、神から遣わされた人でした。彼は自身について、「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と語りました(7節)。自分はキリストに比べるならば、まったく取るに足りない僕だと語ったのです。 しかし、キリストはそのヨハネから洗礼を受けられました。罪のない神の子が、なぜ罪を悔い改めることのしるしである洗礼を、人から受けるほどに、へりくだられたのでしょうか。洗礼を受けて水から上がられたキリストに、天から神の声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。キリストは神の愛する子でありながら、人の罪を償うために、神の御心にかなう僕となって、限りなくへりくだられたのです。「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2章8節)。 聖霊を豊かに注がれたキリストから、私たちに聖霊が注がれるとき、キリストの十字架の死による罪の赦しが私自身のためであったことを、「アーメン」と受け入れ、信じることができるようになるのです。 【祈り】 神よ、キリストからの聖霊によって罪の赦しを確信させてください。 Sat, 06 Jan 2024 00:10:00 +0000 この人生も無に等しいのです(詩編 39編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240106 no 2024 御前には、この人生も無に等しいのです。 ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。 (詩編39編6節) 「人生も無に等しい」という言葉は、人生に対する否定的な言葉に思えるかもしれません。しかし、「御前には、この人生も無に等しいのです」と語っていることに注目したいと思います。人生の空しさ、はかなさを正しい意味で理解することは、永遠からおられる神に対する信仰があって初めてできることです。 私たちは、自分が行ってきたことが空しいと思えるからこそ、「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう」と問いかけることができます。そして、「わたしはあなたを待ち望みます」と、思いを神に向けるようになります(8節)。私たちは、神に対する信仰があるからこそ、神の前では自分が行ってきたことが無に等しいということを思い知らされます。 ですから、「人生も無に等しい」とは、人生を否定した言葉ではありません。神の前で、人生のはかなさ、自分の無力さを正しく知ることによって、私たちは、前向きに人生を歩んでいくことができます。 たとえ私たちの人生があまりに小さくて無意味なものに思えたとしても、この人生を神が導いてくださり、意味あるものにしてくださいます。きょうも神に信頼して歩んでいきましょう。 【祈り】 神よ。きょうもあなたがわたしを導いてくださいますことを心から感謝いたします。 Fri, 05 Jan 2024 00:10:00 +0000 十字架の前に立つ者として(コリントの信徒への手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240105 no 2024 皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 (コリントの信徒への手紙一1章10節) パウロが開拓伝道をした教会が混乱していました。パウロは、人づてにコリント教会の中に「争い」があることを聞きます(11節)。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と、教会の中に何と分派の争いが起きてしまったのです。パウロはどれほど心を痛めたことでしょうか。 分派が生まれた理由の一つに立地条件が考えられます。教会のあるコリントは交通の要所であり、そのため貿易や観光で栄えた町でした。そのため町の人びとの気質は競争的で上昇志向だったと言われます。つまり町の雰囲気がそのまま教会に持ち込まれたのではないでしょうか。 教会は多様な人たちが集まることができる場所です。教会が素晴らしいのは多様でありつつ一致できるからです。しかし、コリント教会は、この一致が曖昧になりました。 だからパウロは一致を心から呼びかけます。「皆、勝手なことを言わず…心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。 パウロは一致点をはっきりと示します。キリストの十字架です。キリストの十字架を軽んじることから争いが生まれるからです。十字架というゼロ地点にともに頭を垂れて立つ。教会の一致はそこから生まれます。 【祈り】 神よ、心の刃を折ってください。人と教会を建て上げることができる愛の言葉を与えてください。 Thu, 04 Jan 2024 00:10:00 +0000 これからも神の御業を思い起こす(詩編 143編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240104 no 2024 わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し 御手の業を思いめぐらします。 (詩編143編5節) 新しい年も早いもので4日となりました。昨年1年の日々を振り返りながら年を越しましたが、今年もすでにこうして一日一日を積み重ねています。始まったばかりのこの年の歩みも、すぐに振り返られる過去の日々になっていきます。 聖書は、「いにしえの日々を思い起こし」と、過去の日々に向き合う信仰者の心を描きます。もちろん、すべての日が喜ばしいものであったとは限りません。「わたしの霊は絶え入りそうです」(7節)と告白せざるを得ない日もあり、むしろそうした日々の方が多かったかもしれません。しかし、神が働かれなかった日はありません。私たちは、神の「なさったことをひとつひとつ思い返し」ます。遠い昔の日々から今に至るまで、そしてこれからも、神は御業をなし続けてくださいます。ただ楽しかったことを思い起こすというのではなく、神がなしてくださったことを思い返し、苦しいときにこそ神が働いてくださったことを、感謝をもって思い起こすのです。 きょうという日も、やがて振り返って思い起こされるときが来ます。苦しい一日と感じていても、神の御業がなされた日として振り返られるはずです。そのことを信じて、きょうという日を大切に過ごしましょう。 【祈り】 神よ、きょうも、そしてこれからも、あなたの御業を思い起こすことができますように。 Wed, 03 Jan 2024 00:10:00 +0000 神の御顔を見ることの大切さ(詩編 105編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240103 no 2024 主を、主の御力を尋ね求め 常に御顔を求めよ。 (詩編105編4節) お正月には、普段なかなか会えない親戚や旧友と久しぶりに顔を合わせるという人も多いでしょう。顔を見ることで、元気な様子が分かって安心したりします。 聖書は、「常に御顔を求めよ」と命じ、神の顔を見ることの大切さを教えています。もちろん、神に人間のような顔があるわけではありませんし、神が元気かどうかを確認するわけでもありません。御顔を求めるとは、神がわたしを見てくださっていると信じ、その神の前に生きるということです。人の顔を見るのもいいですが、人に対してはしばしば顔色をうかがうということがあり、その変化を気にして不安を感じたりすることになります。しかし、神は、変わることのない愛をもって私たちを見ていてくださるお方です。人の顔色ではなく、神の御顔を求め、平安のうちに生きたいと思います。 また、神は語られる方ですから、御顔を求めるとは、御言葉を聞くということでもあります。アウグスティヌスは、聖書を「この世での神の御顔」と言いました。聖書の言葉を読むとき、私たちは神の御顔を見るのです。そして、その御顔を「常に」求めるように教えられています。お正月だけでなく、毎日聖書を読み、神の御顔を求めましょう。 【祈り】 神よ、常に御顔を求め、あなたのまなざしのなかで、あなたの言葉を聞きつつ歩めますように。 Tue, 02 Jan 2024 00:10:00 +0000 心に広い道を見る幸い(詩編 84編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240102 no 2024 いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。 (詩編84編6節) 新しい年、どのような道が備えられているでしょうか。希望している道が開かれるのを願っている人、険しい道を覚悟している人、思い描いている道はさまざまでしょうが、聖書は「心に広い道を見ている人」は幸いであると教えています。 この広い道とは、「シオンで神にまみえる」(8節)とあるとおり、エルサレムでの神への礼拝に向かう道です。それは、私たちにとっては、教会の礼拝へと向かう道です。道の広さは祝福の大きさをあらわしているでしょう。広い道をイメージして、今年も喜んで教会に足を運びたいと思います。もちろん、病気などのために教会に行けないこともあります。しかし、心に神ご自身へと向かう広い道を見ているならば、どこにいても神を礼拝することができます。 この礼拝への広い道を知る人は、人生の道がどのようなものであっても力強く歩んでいくことができます。「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」(7節)と言われています。谷は深いほど多くの水で満たされます。私たちの人生の道も、嘆きや悲しみが深いほど、神が慰めと希望で満たし、祝福で覆ってくださいます。そのような恵みの神を、私たちは礼拝するのです。 【祈り】 神よ、今年も心に広い道を見てあなたに礼拝をささげ、祝福にあずかることができますように。 Mon, 01 Jan 2024 00:10:00 +0000 口を開けて神の恵みを求めよ(詩編 81編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20240101 no 2024 わたしが、あなたの神、主。 あなたをエジプトの地から導き上った神。 口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 (詩編81編11節) 新しい年、神に向かって大きく口を開きたいと思います。神は私たちを恵みで満たしてくださいます。エジプトの地から解放されたイスラエルの民の口にマナを与えて養ってくださったように、今も私たちに日ごとの糧や必要なものをすべて与えてくださいます。 そして、神は何よりも霊の糧である御言葉によって、私たちの魂を満たしてくださいます。今年も毎日聖書を開き、口を広く開けるようにして御言葉を求めたいと思います。知らなかった御言葉を初めて口にすることもあるでしょう。すでによく知っていたはずの御言葉でも、あらためて口にして、その味を新たに知ることもあるかもしれません。聖書には、甘い蜜のような慰めの言葉もあれば、苦く感じるような厳しい教えもありますが、そのすべてを受け取りたいと思います。 そのために、口を開けるというイメージが大切です。手を出して受け取るのであれば、気に入らないものは口には入れないということもあるかもしれません。しかし、ただ口を広く開けて、神が与えてくださるままに御言葉を受け取り、味わうのです。そのとき、この開いた口から、感謝と賛美の言葉もまたあふれてくることでしょう。  【祈り】 神よ、新しい年の歩みを祝福してくださり、この口を御言葉の恵みで満たしてください。 Sun, 31 Dec 2023 00:10:00 +0000 主と出会い安らぎ救われる(ルカによる福音書 2章22-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231231 no 2023 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」 (ルカによる福音書2章29節~30節) シメオンとアンナは、生涯を通じて、救い主を待ち望んでいました。その時代、シメオンやアンナのように、神が求める仕方で救い主を待ち望む者はごくわずかでした。神を信じてはいても、救いの実現を小さく見たり、諦めていたりしたのです。 ここで驚くことは、シメオンとアンナは、幼子イエスを見ただけで、喜びにあふれ、神を賛美したことです。彼らは主イエスから福音を聞いたのではなく、十字架と復活を目の当たりにしたのでもありません。幼子イエスを見た、ただそれだけで、彼らは神の救いを確信しました。霊に導かれて歩んでいたからこそ、主イエスとの一瞬の出会いにも、彼らは人生の安らぎを見出したのです。 信仰の道を歩みつつも、時に横道に逸れてしまったり、立ち止まってしまったり、後ろを振り返ってしまったりすることがあるでしょう。その度に自分のふがいなさを悔やむところです。しかし、そのような私たちに真の安らぎを与えてくださるために、主イエスは私たちと出会ってくださいました。 その主イエスを知り、主イエスを思い、主イエスを信じ、主イエスを待ち望みましょう。主は霊によって導いてくださいます。やがて御国で主イエスと相まみえるとき、この上ない安らぎに包まれることでしょう。 【祈り】 イエス様、あなたこそ私たちの救い。あなたこそ私たちの安らぎです。あなたを待ち望みます。 Sat, 30 Dec 2023 00:10:00 +0000 主に信頼し依り頼み待ち望む信仰(詩編 38編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231230 no 2023 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり 嘆きもあなたには隠されていません。 (詩編38編10節) 多くの場合、病気は人生における一時的な経験です。しかし、長い間病気を患う時に伴う危険は、肉体的苦痛から出発したことが次第に心と魂の苦難、ひいては神との関係と周りの人との関係における苦難につながることもあるということです。 詩人は病気に関する問題に対して直接的な解決策が見えないという絶望的な状況でも祈り続けていきます。なかなか解決されない病気を抱えたまま祈り続ける行為は、論理や当面の状況に目を向けているのではなく、神への信頼が、詩人の中に深く根付いていることを示しています。 病気にかかったり人間関係に問題が生じたりするのは、何か罪を犯したためではありません。 明らかなことは、神は聖徒のすべての願いと嘆きを聞いておられるということです。ですから、「すぐにわたしを助けてください」と祈ります(23節)。詩人は自分が置かれている状況が神の主権のもとにあり、自分を救ってくださるのはただ主なる神のみと信じて懇願しています。苦難の中で、神を恨んだり、他人を責めたりするのではなく、神に自分のすべての願いと苦しみをことごとく注ぎ出しましょう。 苦難と逆境の中でも主を待ち望む者の、主に信頼して生きる姿こそまことの信仰の姿です。 【祈り】 苦難の中にいる時も主に信頼し、主の助けを求め、主を待ち望みます。 Fri, 29 Dec 2023 00:10:00 +0000 相働きて益とする神の憐れみ(創世記 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231229 no 2023 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」 (創世記50章20節) 創世記も最後の章となりました。ヤコブの息子たちは、遺言に従って、父の遺体をカナンのマクペラの墓地に葬りました。ヨセフの兄弟たちは父ヤコブが亡くなったので、ヨセフが過去の自分たちの悪事に仕返しするのではないかと不安になりました。 ヤコブの寵愛を受けたヨセフが兄たちに夢の話をしたことも兄たちの憎しみを買いました。兄たちはねたみましたが、だからといってヨセフを殺そうとして穴に落としたことは問題です。その結果、ヨセフはエジプトに売られ、行方不明となりました。しかし、神のご計画の中で、エジプトで宰相とされたヨセフはヤコブとその一族をエジプトに招き、飢饉から彼等を助け出しました。 兄たちは、ヨセフに父ヤコブが兄たちの咎を赦すようにと言っていたと人を介してヨセフに伝えました。そして、ヨセフの前に来て、ひれ伏して「私どもはあなたの僕です」と告白しました。ヨセフは兄たちに、神が悪を善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったと語り、兄たちを慰めました。 神は、悪をも善に変えることができ、また傲慢な者にも訓練を与え、救いに導かれます。ただ神の憐れみがすべてを益としてくださるのです。 【祈り】 主なる神様。私たちの罪を赦し、あなたのご計画を導いてください。主の御名により祈ります。アーメン Thu, 28 Dec 2023 00:10:00 +0000 ヤコブの祝福ユダへの約束王笏は離れず(創世記 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231228 no 2023 「王笏はユダから離れず 統治の杖は足の間から離れない。 ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」 (創世記49章10節) ヤコブは、最後に息子たちを呼び寄せて、「わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい」と語りました。そして、ルベン、シメオンとレビ、ユダ、ゼブルン、イサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの12人の息子たちの将来の預言と祝福を語りました。息子たちの子孫の将来を思いますと、厳しい言葉を聞いた息子もありますが、思いがけない祝福と預言を聞いた息子もありました。 厳しい言葉を聞いた息子は、この言葉を受けて子孫たちに神から離れないように勧めることができたでしょう。他方、ユダにはその子孫から王が立てられると語られています。まだ、少数に過ぎない家族集団であったヤコブの一族が神の約束に従い、子孫繁栄と土地取得に続き、王国を与えられるとの預言です。その王はユダの子孫に生まれます。サムエル記を見ると、最初の王はベニヤミン族のサウルでしたが、ユダ族のダビデに油が注がれ、サウルが戦死した後にダビデが王として即位します。 ヤコブの祝福はダビデを預言し、クリスマスに至ります。クリスマスの光の中にある私たちを、王笏を手にされた救い主が命の光で照らしてくださいます。 【祈り】 主なる神様。ヤコブの祝福の言葉が、クリスマスに成就しました。御名を崇めます。主の御名により祈ります。アーメン Wed, 27 Dec 2023 00:10:00 +0000 ヨセフに対するヤコブの配慮(創世記 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231227 no 2023 「わたしはラケルを、エフラト、つまり今のベツレヘムへ向かう道のほとりに葬った。」 (創世記48章7節) ヤコブの死期が近づいたときのことです。ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れてヤコブを見舞いました。ヤコブは神に祝福されて子孫の繁栄と土地取得の約束を与えられたことをヨセフに語りました。そして、ヨセフの二人の子をヤコブの養子とすることを伝えました。 それは、将来、約束の土地をヨセフの子らに与えるためです。そのところでヤコブはヨセフの母であるラケルの埋葬地に言及します。その場所は、今のベツレヘムへ向かう道のほとりでした。なぜ、ヤコブはラケルの死と埋葬地をヨセフと息子たちに語ったのでしょうか。愛する妻との別れはヤコブにとっては、忘れることのできない悲しみであったのでしょう。しかし、神はラケルの子であるヨセフを祝福し苦難の中でもエジプトの宰相へと導き、ヤコブとの再会の恵みを与えてくださいました。ヤコブは、ヨセフの二人の息子を養子にして、労苦したヨセフに2倍の祝福を与えました。彼らは、後に部族となって、約束の土地を受け継ぎます。こうして、ヤコブに受け継がれた子孫の繁栄と土地の取得の約束が彼の息子たちへと引き継がれていきます。 それは、その約束の土地に諸国の民を祝福に招く救い主を遣わすためなのです。 【祈り】 主なる神様。主イエスによりわたしたちと共にいてくださり感謝します。主の御名により祈ります。アーメン Tue, 26 Dec 2023 00:10:00 +0000 良い羊飼いとして生まれた方(ルカによる福音書 2章8-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231226 no 2023 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 (ルカによる福音書2章20節) 世にお生まれになったイエス・キリストは、野宿していた羊飼いに代表されるような、寄る辺なき者の救い主です。「貧しい人に良い知らせを伝え」るために、主イエスはお生まれになりました(イザ61章1節)。 当時、羊飼いという仕事は、世から疎まれていたと考えられています。主イエスはその羊飼いと同一視されることを良しとされました。そして、疎まれている者と苦楽を共にされたのです。 そして、この羊飼いの礼拝と賛美を通して、主イエスが良い羊飼いであることが明らかにされます。良い羊飼いは、羊をほったらかしにはしません。羊と寝起きや苦楽を共にします。羊に降りかかる危険を、身を挺して守り、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」のです(詩23編2、3節)。 主イエスは良い羊飼いとして、罪の世にお生まれくださいました。それは、人生にさまよう私たちを、あらゆる危険や誘惑から守り、豊かに養い、私たちと共に生きてくださるためなのです。そして、主イエスは、今の時代にも、寄る辺なき者の救い主として、私たちの最も身近なところへおいでくださいました。このお方を礼拝しましょう。 【祈り】 良い羊飼いであるイエス様。私たちのところへおいでになり、共にいてくださりありがとうございます。 Mon, 25 Dec 2023 00:10:00 +0000 大きな喜びそれは真の平和(ルカによる福音書 2章8-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231225 no 2023 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 (ルカによる福音書2章11節) 世はローマ帝国の支配する時代。ローマ皇帝が「ローマの平和」を唱え、暴力と抑圧によって民を支配し、それを「平和」と呼ぶ時代です。ユダヤの民は、その支配に疲弊していました。誰もが、この苦しみからの解放を願い、メシアの到来を待ち焦がれていました。 そういう時代に、主の天使が羊飼いたちに現れ、メシアの誕生を告げます。それは「大きな喜び」でした(10節)。単なる喜びではなく、「大きな」喜びです。これまで見たことも、聞いたことも、体験したこともないほどの喜びの知らせです。 なぜなら、いよいよ真の平和が訪れるからです。それは、暴力や抑圧による見せかけの平和ではありません。また、貧しい者や弱い者を踏み台として成り立つ、一部の者の安全保障のための平和でもありません。むしろ、貧しい者や弱い者が生き生きと、伸び伸びとできる平和です。 主イエスの誕生により、真の救い主による支配と平和が幕を開けました。見せかけの平和に苦しむ者たちへ、真の平和がもたらされました。私たちもそこに入れられています。これは大きな喜びです。今、私たちが抱える悩み、苦しみ、不満、悲しみ、すべてを包みこんでまだ余りある大きな喜びなのです。 【祈り】 天使が告げた喜びは、どれほど大きなものでしょう。どうか、私たちにその全貌をお見せください。 Sun, 24 Dec 2023 00:10:00 +0000 安堵ほほえみ平和(ルカによる福音書 2章1-7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231224 no 2023 彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 (ルカによる福音書2章6節~7節) 3年前のこの時期、わたしと妻の間に子どもが生まれました。そのころ、出産間近の妻の体調を心配し、階段の昇り降りや、あらゆることに気を遣いました。クリスマスの度にそのことを思い出し、なんとなくヨセフの心の内を想像しています。最初のクリスマスのとき、ヨセフはどれほどマリアのことを心配していたでしょうか。ナザレからベツレヘムまで徒歩の旅を妊婦にさせるなど、現代では到底考えられないことです。 ヨセフは妻マリアの体調を案じ、マリアは胎の中の主を案じていたでしょう。ベツレヘムで腰をおろすことができたとき、またそこで無事に出産を終えられたとき、二人の心はどれほど安堵したことでしょうか。 主イエスの誕生は、洗礼者ヨハネのときとは違い、神殿も奇跡も預言も群衆もありません。それは神の子の誕生とは思えないほど、とても簡素で、みすぼらしいものでした。しかし、私たちはその誕生の場面で微笑む家族を見出します。そして、その家族に平和を発見します。 主イエスは過酷な現実にお生まれになりました。その現実に平和をもたらし、疲労困憊する者に安らぎを与えるために。きょう、私たちのために救い主がお生まれになりました。クリスマスおめでとうございます。 【祈り】 イエス様、あなたのお誕生に、私たちは平和と安らぎをいただきました。ありがとうございます。 Sat, 23 Dec 2023 00:10:00 +0000 主に望みをおき主の道を守る(詩編 37編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231223 no 2023 あなたの道を主にまかせよ。 信頼せよ、主は計らい あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを 真昼の光のように輝かせてくださる。 (詩編37編5節~6節) 主はすべてを見ておられ、知っておられ、私たちの目に見えなくて、たとえ私たちが完全に理解できなくても正義を行われます。そして主は正義を愛され、主の慈しみに生きる人をお見捨てになりません。 この事実は、私たちが悪から離れ、善を行う根拠であり、主に従って生きることは、神の民として正しい生き方です。 人の口は心からあふれ出ることを語ります(ルカ6章45節)。主に従う人は口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語ります。主の教えを心に抱き、よろめくことなく歩きます。 主の教えを心に抱くということは、神の言葉を常に黙想し従順に従うことです。そのような人の歩みは、正しい道から抜け出ることはありません。またその人を主に逆らう者が傷つけようとしても決してうまくはいきません。なぜなら正義の主は、決して悪人の企みが貫徹されるように放っておかれず、主に従う者を永遠に助け守ってくださるからです。 主に望みをおき、善なる主の道を守り、自分の道と自らを主にゆだねるならば、主は計らい、その人の義を光のように輝かせ、心の願いをかなえてくださいます。何より、主ご自身が私たちの内に、また私たちの間に光のように輝いてくださいます。その主の御光に信頼して歩みましょう。 【祈り】 主よ、悪を避け、主に信頼し、善を行う者にしてください。 Fri, 22 Dec 2023 00:10:00 +0000 先祖の墓への葬りを願うヤコブ(創世記 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231222 no 2023 「わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」 (創世記47章30節) ヤコブがエジプトに来て17年が経とうとしています。高齢となったヤコブは死期の近いことを悟り、ヨセフを呼んで、遺言を語りました。それは、ヤコブの死後、遺体はエジプトに埋葬するのではなく、祖父アブラハム、父イサクが埋葬された墓に葬ることです。 神はアブラハムに子孫の繁栄と土地取得を約束しましたが、契約の子孫はイサク一人、土地はアブラハムがサラを埋葬するために買い取った墓だけでした。その先祖の墓にヤコブを葬ることをヨセフは承知して誓いました。 神の約束の土地へのつながりがヨセフに刻まれ、ヤコブの死後、ヨセフは遺言どおりヤコブの遺体をカナンの墓に葬り、その後エジプトに戻りました。そして、後にヨセフも自分の死後、遺体を約束の土地に埋葬するように遺言します。 ヨセフの遺骨は、ヤコブが購入した土地の一画に埋葬されました。この墓地だけであった約束の土地は、ヨシュアの時代にはカナン全土となり、長い歴史を経て救い主の誕生の地となります。クリスマスの礼拝が間近に迫っています。主イエス降誕の舞台はこのように歴史の中で備えられていたのです。 【祈り】 主なる神様。約束の地に救い主が降誕され、救いの道が開かれたことを感謝します。主の御名により祈ります。アーメン Thu, 21 Dec 2023 00:10:00 +0000 涙の再会と背後にある神のご計画(創世記 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231221 no 2023 神は言われた。 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。」 (創世記46章3節) 愛する息子のヨセフが生きているとの知らせに、父ヤコブは気を失いそうになりました。しかし、気を取り直して一族全員がエジプトへと旅立ちました。ヤコブは道中で神にいけにえをささげて礼拝しました。すると、その夜、神が幻の中でヤコブに「わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」とお語りになりました。 ヤコブがヨセフとエジプトで再会することの背後に、神がアブラハムに約束した子孫の繁栄と土地取得の約束がありました。ヨセフとの別れの原因は、ヤコブの偏愛と他の兄弟たちの妬み、そしてヨセフ自身の傲慢と、重なり合う人間の罪がありました。しかし、神は、それらの悪をも用いてアブラハムとの契約を果たされます。エジプトに行くヤコブの一族は70名でした。この一族が再び、約束の地カナンに戻る日が来ます。 その前に、ヤコブにはヨセフとの再会が用意されています。ヨセフは父ヤコブと再会し、首に抱きつき、しばらく泣き続けました。ヤコブもあまりのうれしさに「わたしはもう死んでもよい」と語りました。悲しみが癒され、神の愛のご計画が進みます。 【祈り】 主なる神様。悪をも用いて、救いの道を開かれる御力を賛美します。主の御名により祈ります。アーメン Wed, 20 Dec 2023 00:10:00 +0000 隠された神の御心が明らかに(創世記 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231220 no 2023 ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。 (創世記45章15節) ヨセフは、エジプトに奴隷として売られて以来、常に労苦と共に、神からの助けによって生かされてきました。そして、王に次ぐ最高の地位に引き上げられ、妻を得、二人の子どもに恵まれました。その二人の名前は、兄がマナセ(忘れさせる)、弟はエフライム(増やす)でした。「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」との思いが込められていました(41章参照)。 神の守りの中で、良きもので満たされていたヨセフの中に、なお兄たちに追いやられた先での苦しい過去の記憶から解放されたいとの願いがありました。そして今、彼の目の前で、兄のユダが心から家族を思いやって語る言葉に触れたときに、ヨセフの心は本当の意味で自由にされたのです。 彼はとうとう心の仮面を投げ捨て、兄たちの前で身を明かして、激しく泣いたのでした。そのとき、ヨセフの目は開かれて、自分がなぜ、このような運命をたどったのか、そこに働く神の御心を悟りました。 そして、このようにして自分が先にエジプトに遣わされたことには意味があった、それは神による救いが実現するためだった、と兄たちを赦し、慰め、和解したのです。 【祈り】 父なる神よ。あなたは地に平和を実現し、私たちの愛を豊かにしてくださいますから感謝します。 Tue, 19 Dec 2023 00:10:00 +0000 誠実な言葉を引き出される神(創世記 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231219 no 2023 「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」 (創世記44章33節) ヨセフは執事に命じて、自らの兄弟たちに、可能な限りの食糧と銀とを持ち帰らせようとします。そのうえで、一つのわなを仕掛けました。それは、ベニヤミンの袋の中に愛用の銀の杯をしのばせる、というものでした。彼がなぜこのようなことをしたのか、はっきりとは書かれていません。ただ、その意図するところは、他の兄弟ではなく、同じ母から生まれた弟であるベニヤミンだけを手元に置きたい、という複雑な愛憎の現れであるように見えます。 その後、執事は命じられたとおりにしたうえで、彼らの持ち物を検査します。銀の杯が出てきたことで、兄弟たちはベニヤミンと引き離されそうになりました。 そのとき、ユダがヨセフの前に進み出て、勇敢な交渉を始めました。彼はこれまでの経緯を振り返りつつ、父親にとっていかにベニヤミンが大切な存在であるかを切々と訴えていきます。 そして最後に、このまま帰るのなら「僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです」と告げます。さらに、自分自身をベニヤミンの代わりに奴隷とするようにと願うのです。このようにして神はユダに言葉を与えて、ヨセフの心に和解に向けた変化を迫ります。 【祈り】 父なる神よ。あなたはご自身の深い御旨を実現するために、人の口を用いられますから感謝します。 Mon, 18 Dec 2023 00:10:00 +0000 神の憐れみによって導かれる(創世記 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231218 no 2023 「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。…」 (創世記43章14節) 行かせるべきか、止めるべきか、ヤコブは深く悩んでいました。飢饉は続き、以前手に入れた食糧は尽きかけています。何とかしなくてはらないのは目に見えていました。 もし息子たちをエジプトに買い出しに行かせたなら、どうなるか。エジプトの高官の厳しい命令がありました。ベニヤミンを連れて行かなければ、人質として取られたシメオンに危険が及びます。連れて行けば、ベニヤミンがどうなるか分かりません。 ヤコブには、かつて愛する息子ヨセフを失ったという苦い記憶が深く胸の奥にうずいていました。これ以上の悲しみには耐えられない。そのように悩むヤコブにユダが説得を試みます。「我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます」(8節)。「あの子のことはわたしが保障します。…もしも…無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば…生涯その罪を負い続けます」(9節)。ヤコブはユダの言葉を無視できませんでした。 そこでヤコブは、犠牲覚悟で兄弟たちを送り出すことを決意します。しかし、その決断の真ん中には、全能の神の憐れみへの信頼がありました。 彼は祈りと共に皆を送り出し、その祈りが神に聞かれ、やがてヨセフの心の仮面を溶かしていくのです。 【祈り】 父なる神よ。あなたは憐れみの神です。そして確かに求めるものに憐れみの御手を置いてくださいます。 Sun, 17 Dec 2023 00:10:00 +0000 証しするとは主イエスを指し示すこと(ヨハネによる福音書 1章6-8,19-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231217 no 2023 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 (ヨハネによる福音書1章7節) マティアス・グリューネヴァルト作『イーゼンハイム祭壇画』を御覧になったことはありますか。十字架上の主イエスが中心におられ、その横に洗礼者ヨハネが立っています。ヨハネは片手に聖書を持ち、もう一方の手で主イエスを指差しています。ヨハネの背後には赤い血で「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3章30節)と書かれています。 洗礼者ヨハネの使命は、自分を証しすることではなく、主イエスを証しすることです。だからヨハネは主イエスを指し示します。このお方こそ、混沌とした世において、闇に打ち勝つ唯一の光だからです。 私たちは、キリストを証ししようとするとき、立派なキリスト者であろうとしがちです。しかし、私たちの内には輝く光がなく、かえって徒労に終わることも多いでしょう。そのとき考えたいのは、私たちも、自分自身ではなく、主イエスへ心の焦点を合わせ、キリストを証しするということです。そうしてこそ、私たちは真にキリストを証しすることができ、また私たちの内にも光が輝きます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(2コリ4章6節) 【祈り】 わたしたちは主イエスへ心の焦点を合わせます。私たちも世も、あなたを見上げ、信じますように。 Sat, 16 Dec 2023 00:10:00 +0000 主の翼の陰に身を寄せる者(詩編 36編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231216 no 2023 神よ、慈しみはいかに貴いことか。 あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 (詩編36編8節~9節) 罪の本質は、傲慢になることです。主なる神を恐れず、被造物であることを忘れ、創造主なる神の主権を否定することです。神を救い主、裁き主とは認めず、自らが自分の救い主、裁き主になることです。そして、自分のことや他人のこと、いろいろな物事を自分勝手に裁いて生きることです。 神に逆らう者は罪を分別することができず、むしろ罪を愛し、その口は悪事、欺きを語ります。そして、常にその身を自発的に不正の道に置き、悪を退けようとしません(2、3節)。そこに自由と喜びがあると思っているからです。 しかし、神の民は神の慈しみと恵みがなければ決して生きていけないことを知り、告白します。神こそが命の泉であるので、主からだけ命と救いを与えられ、たとえ暗い世の中であろうとも、神の光だけで善と悪の分別ができることを知って感謝する人びとです。 自分はいつも神の御前にあることを覚え、謙遜に生きていきましょう。心身に、また信仰の試練にあった時には、神の翼の陰を避け所にしてそこに身を寄せましょう。御言葉を通して神の慈しみと恵みがどれほど尊いことかを知り、神をほめたたえましょう。神に感謝する者を神は喜び、御心のままに助けてくださいます。 【祈り】 最も安全な避けところである主の翼の陰に身を寄せられる恵みを感謝します。 Fri, 15 Dec 2023 00:10:00 +0000 決して苦しみでは終わらない(創世記 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231215 no 2023 「…弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」 (創世記42章21節) このとき、ヤコブの息子たちはとんでもないことに見舞われたと思っていました。飢饉のために食物を買い出しに来たところ、エジプトの高官から、スパイだと疑いをかけらました。その上、一番下の弟ベニヤミンを連れてくること、それまでの間、兄弟の一人を人質として差し出すよう約束させられてしまいました。それで、「これは、きっと我々が神から罰を受けているのだ」とお互いに言い合ったのです。 長男のルベンは、「あのときわたしは…言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった」と言い、悪いことが起こったのは他の兄弟たちのせい、そして、そのために神から報いをうけたのだと責めました。 しかし、このような神に対する見方は、物事の一面だけを見た判断です。なぜなら、このとき兄弟たちが体験しているのは、確かに神のご計画の中で実現してきたことですが、その一部でしかないからです。 彼らを問い詰める、目の前にいる高官が弟ヨセフであることも、兄弟たちにはわかりませんでした。そのヨセフを用いて、神が計画されている未来もわかりませんでした。しかし、神は彼らに、想像を超えた良いものを用意されていたのです。 【祈り】 父なる神よ。あなたは恵みの神です。御手によって思いを超えた導きがあると覚えさせてください。 Thu, 14 Dec 2023 00:10:00 +0000 主なる神への信頼に立つヨセフ(創世記 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231214 no 2023 「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」 (創世記41章38節) エジプトのファラオに夢の解き明かしを求められ、ヨセフは、ファラオの見た夢がどのように実現するかをファラオに告げました。ファラオとその家来たちは、ヨセフの明確な解き明かしに圧倒されたに違いありません。それゆえ、彼らはヨセフを賞賛し、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言って、主なる神の御力を認めました。 ヨセフは、こうしてファラオに忘れることのできない印象を与えました。ヨセフをとおして神の知恵が知らされたのだと感じて(39節)、ファラオはヨセフをエジプト全国の上に立てました。 ヨセフは、多くの試練の中で、神への忠誠を貫きました。人生の絶頂のようなこの時も、主は彼と共におられます。ヨセフはそのことを認めて告白します。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(16節)。この確信がヨセフを貫いていました。 給仕役の長に忘れられたという失望の中でも、ヨセフの神への信頼は磨かれ、深まっていました。ヨセフは、夢に示された神の御心の実現を信じて、神を中心として歩みます。ついにヨセフは人生の大仕事に臨む準備が整えられました。彼は牢獄から宮殿に来て、主に仕えます。 【祈り】 主よ、人生の潮の満ち引きにおいて、私たちがいつもあなたを中心とすることができるよう助けてください。 Wed, 13 Dec 2023 00:10:00 +0000 夢を与えてヨセフを導く主なる神(創世記 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231213 no 2023 ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。 (創世記40章8節) ヨセフの父ヤコブは、カナンを離れてハランに向かう途中、天まで達する階段を神の御使いたちが上り下りする夢を見ました(創28章)。主なる神が夢を用いてヤコブを励まされたのです。ヨセフにとっても、夢は主なる神から与えられるものでした。神は、夢を解釈させることで、ヨセフの信仰を励ましておられます。 古代のエジプトやバビロニアでは、夢とその解釈の鍵を記した「夢の書」が作られていたそうです。神々が夢を通してコミュニケーションをとると信じられており、専門家の知恵で夢の意味を明らかにしたのです。 しかし、ヨセフは、夢の解き明かしは「神がなさること」だと言います(8節)。主なる神が摂理の御手をもってすべての出来事を導いておられます。信仰をもって神の御心に聞くことなしに解き明かすことはできないということでしょう。果たして、ヨセフの解き明かしのとおり、給仕役の長は職に復帰し、料理役の長は木にかけられました。 ヨセフが自分の夢を兄弟や父に語ってから11年、エジプト人の中で、エジプト人の言葉を話して、波乱に満ちた年月が過ぎていきました。その中で、ヨセフは、主なる神が与えてくださった夢を心に留めて、神の御心の実現を待ち望んでいたのです。 【祈り】 主よ、あなたは私たちにも夢を与えてくださいます。あなたの御心を求めて歩むことができますように。 Tue, 12 Dec 2023 00:10:00 +0000 エジプトで主がヨセフと共におられた(創世記 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231212 no 2023 主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。 (創世記39章23節) 39章では、エジプトに売られたヨセフがポティファルの家で誘惑にさらされます。試みを通してヨセフが成長していく様子が示されます。 ヨセフには、人間不信に陥っても仕方がない理由がありました。人間的に考えれば、ヨセフが復讐の念を抱き、それを増幅させてしまったとしても仕方ないでしょう。しかし、ヨセフの人格はもっと堅実なものでした。奴隷とされても腐ることなく、主人ポティファルに誠実に仕えました。主人の妻の誘惑にも耳を貸さず、拒みます。罠にはめられ、監獄に入れられてなお、ヨセフの誠実な姿は変わりません。それは、2節、3節、21節、23節で繰り返されるように「主がヨセフと共におられ」たからです。主人ポティファルや看守長が見て、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計ら」っておられると悟るほどでした(3、23節)。 創世記は、ヨセフの心の中について語りません。誘惑にあい、無実の罪を着せられ、決して平穏な心ではいられなかったでしょう。しかし、それを凌駕する神の恵みがありました。「主がヨセフと共におられた」。主の支えのゆえに、ヨセフはその心を守られ、誘惑を耐え忍び、成長することへと導かれました。主なる神の臨在、そして神の愛と導きこそが、私たちの人生の土台となるのです。 【祈り】 主よ、揺るぎない神の臨在と愛が与えられていることを感謝します。 Mon, 11 Dec 2023 00:10:00 +0000 神の正義が正義として貫かれる(創世記 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231211 no 2023 ユダは調べて言った。 「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」 (創世記38章26節) ヤコブの息子の一人であるユダが、自分がないがしろにした女性タマルによって救われます。これが彼の人生の転機となっています。タマルが身ごもった子どもの父親を示す持ち物を示したとき、ユダは自分が罪人であることに気づきました。息子の妻であるタマルと性的関係を持ったことだけでなく、タマルをどのように扱ってきたかについても、です。 非難されるべきはユダであって、タマルではありません。むしろ、彼女がしたことによって、ユダは自分がいかに神の御心から遠く離れてしまったかを悟り、謙遜にされました。それゆえ、彼は「わたしよりも彼女の方が正しい」という、驚くべき結論を口にします。正義が正義として貫かれました。 ユダは、神と家族から離れて生きていた(1節)ところから、悔い改めて生きる者へと神によって造り変えられました。それだけでなく、ベニヤミンの身代わりとなることを申し出て(創44章16節以下を参照)、神の贖いの御業を指し示す器とされました。こうして、主なる神は、不思議な仕方でユダとタマルを導かれました。タマルは、自分と生まれてくる子どもの命を守るだけでなく、やがてメシアの系図に名を連ねることにもなりました(マタ1章3節参照)。 【祈り】 主よ、罪の悲惨に失望する中でも、どうか私たちを御自分のものとしてお導きください。 Sun, 10 Dec 2023 00:10:00 +0000 主をお迎えする準備(マルコによる福音書 1章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231210 no 2023 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』」 (マルコによる福音書1章3節) 教会はクリスマスの準備で大忙しです。礼拝の順序を確認したり、祝会の内容について話し合ったり、このクリスマスに洗礼や信仰告白する方もおられたりと。どれも大切なことばかりですが、最も大切なことを忘れてはなりません。私たちがクリスマスをお祝いするのは、イエス・キリストをお迎えするためであるということを。「何を当たり前のことを!」と言われてしまいそうですが、準備することがたくさんある中で、一番大切な準備に心を向けたいのです。 洗礼者ヨハネは、主イエスの宣教の道備えとして、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました(4節)。そして、主イエスをお迎えする準備として、人びとに罪の告白を迫り、罪と決別して生きる洗礼を授けました。 この時期、私たちの心はいっぱいいっぱいになりがちです。しかし、立ち止まって、最も大切な準備に心を向けましょう。ヨハネと共に、世に向かって悔い改めを宣べ伝えるのです。そして、それだけでなく、自分自身も同じ悔い改めに生きるのです。主は悔い改める私たちの罪を赦すために、私たちのもとへ来てくださいます。悔い改めの心によって、主のおいでになる場所を準備しましょう。主はそこへおいでになります。 【祈り】 慌ただしい心を静めてください。あなたをお迎えする準備をするために。どうかここにおいでください。 Sat, 09 Dec 2023 00:10:00 +0000 主の御救いを喜び楽しもう(詩編 35編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231209 no 2023 わたしの魂は主によって喜び躍り 御救いを喜び楽しみます。 (詩編35編9節) 敵の滅びと自分の救いのために主に祈った詩人ダビデは、「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます」と歌います。これは、既に自分の願いと祈りが成し遂げられたというものではありません。相変わらず周りの状況は良くありません。にもかかわらずダビデが「主の御救いを喜び楽しみます」と歌えたのは、信仰の目で未来にもたらされる主の救いを現在のものとして見つめたためです。 聖書の多くの信仰の言葉が、このような先取りをもって、苦難の中でも主の救いを信じ、喜び歌います。「信頼(信仰)」という言葉の中には「先に」という意味が含まれています。私たちは自分の目の前に置かれた多くの問題や、自分の願いをもったまま、主の前に進み、祈ります。心配や悲しみを、喜びと感謝に変える最も確実な方法は、それらのものを主にゆだねることです。しかし、苦難の時間が長くなると主に対する不信仰と不満が生じたりもします。自分が願うタイミングと違う主のタイミングを待つのは難しいことです。 そのようなとき、いつになるかは分からないけれども、必ずあるはずの主の助けを信じて待つ者を主は喜び、主が定めた、あのタイミングで助け、その者が喜びと感謝の賛美を歌うようにしてくださいます。 【祈り】 すべてを主に委ねて、主の助けと救いを喜び楽しむ者にしてください。 Fri, 08 Dec 2023 00:10:00 +0000 主なる神の不思議な摂理(創世記 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231208 no 2023 ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。 (創世記37章34節) 創世記37章から、イスラエル民族の契約の歴史の非常に重要な局面が始まります。ヤコブの家族の歴史ですが、ヨセフが重要な役割を果たすのでヨセフ物語と呼ばれます。 ヨセフと兄弟たちの物語は、親の寵愛と兄弟の対立という、時代を超えた物語です。劇的な変化、復讐と赦しの物語です。しかし、それ以上に重要なことは、この物語全体を通して、神が人間の罪と苦しみを善いものに造り変えようと、不思議で摂理的なお働きをしておられることです。 37章はその始まりで、ヨセフは不思議な夢を見ます。夢を通して主なる神が働いておられるのです。 その後、ヨセフはエジプトに連れ去られ、父ヤコブには「野獣に食われた」と思わせる話が伝えられ、それによって父ヤコブは大いに嘆き悲しみました(34節)。 主なる神が兄弟を暴力につながる憎しみに駆り立てたわけではありません。人間の悪を超えて、神がそれを善へと造り変えようと、この世界に働いておられることを示唆しています(50章19~21節を参照)。夢という形で隠されて、目には見えませんが、それは契約の主である神の不思議な働きなのです。 今も、主なる神は聖霊によって私たちと共におられます。摂理の神が今の私たちにも働いておられます。 【祈り】 主よ、あなたの思いは我々の思いを高く超えることに感謝いたします。 Thu, 07 Dec 2023 00:10:00 +0000 深い慈しみをいただいてまた祈りゆく(詩編 5編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231207 no 2023 わたしは、深い慈しみをいただいて あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し あなたを畏れ敬います。 (詩編5編8節) 「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」(4節)。朝、目覚めるたびに、神と隣人とを思う祈りを、私たちは献げ物として神の御前に置きます。一日の始まりを告げる、小さく、静かな、礼拝です。 しかし、その静けさはいつも喧騒にさらされています。一日が物憂げに見えると、また、「悪人」、「欺く者」の顔がちらつくと、祈りは容易に挽きつぶされてしまいます。いや、何を隠そう、自分自身が「誇り高い者」で、祈りを献げる時間と自由を惜しんでいます。何かに、誰かに奪われる前に、自分で手離しています。「聖なる宮」はなんと遠いことか。なんと愚かにも遠ざけていることか。 その者に、しかし、神は、贈り物として、深い慈しみを、主イエス・キリストを与えてくださる、そのような朝があります。聖なる宮に招き入れるようにして、私たちの愚かさを叩き割り、私たちの誇りに勝利してくださる、そのような朝、私たちの心に紡がれる祈りを献げましょう。「主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます」、その感謝と喜びとを(13節)。 クリスマスが一日、一日、近づいてきます。主イエス・キリストの祝福が日々、迫ります。その慈しみをこそ誇りに、私たちは立ち上がり歩みます。 【祈り】 愛する御神よ、私たちの祈りは、あなたが与えてくださったものです。なんと深い慈しみでしょうか。 Wed, 06 Dec 2023 00:10:00 +0000 闇の中でも主こそわが光!(ミカ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231206 no 2023 わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。 たとえ倒れても、わたしは起き上がる。 たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光。 (ミカ書7章8節) 主の恵みに応えないイスラエルの腐敗を糾弾したミカは、自分自身の目に映る惨状を語ります。 まるで収穫後の果実を探すように、まともな人など一人もいない。私利私欲による騙し合いが蔓延し、家族でさえも信用できない。ミカはただ一人、天を仰ぐほかありません。が、それでも主は必ず願いを聞いてくださると信じるのです。 その祈りの確信をミカは、エルサレムと自分を重ねつつ、力強く語り始めます。主に罪を犯した者は、主の怒りを負わねばならない。しかし、「たとえ倒れても、わたしは起き上がる…主こそわが光」「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る」と。 ミカの祈りは続きます。主が羊飼いとなって、私たちを牧してください。そうして、主が再び出エジプトの時のような御業を為してくださるなら、諸国の民はあなたを畏れ敬うでしょう。罪に対しては怒りを発するが、御自分の民をどこまでも赦す神。慈しみを喜ばれる神。父祖に誓われた契約に誠実な神。このような神がほかにあろうか!これがミカ書の結論です。 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハ1章9節、口語訳)。この方こそ「わが光」です。この光の誕生を祝いましょう! 【祈り】 主よ、あなたのような神はほかにいません。ハレルヤ! Tue, 05 Dec 2023 00:10:00 +0000 主が人に求めておられること(ミカ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231205 no 2023 人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと…である。 (ミカ書6章8節) 諸国の民とイスラエルの指導者たちに向かって呼びかけたミカは、今や、偽りの礼拝がささげられてきた山々に呼びかけます。御自分の民を訴える主の告発を「聞け」と。 主がイスラエルを訴えるのは、彼らと結んだ契約のゆえです。主は、イスラエルの神として、エジプトで奴隷であった御自分の民を贖い出し、モーセたちを通して荒れ野の日々を支え続け、彼らに対するバラムの呪いを祝福に変え、約束の地に至るまで「恵みの御業」をもって支え続けました。いったい主のどこに落ち度があったでしょうか。 このような主の誠実さに相応しい応答は、形だけの献げ物をすることではありません。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」です。 ところが、それらをことごとく踏みにじった神の民に向かって、主の御声が呼びかけます。高慢にも神に逆らい、不正や偽りや欺きによって私腹を肥やす人びとをいつまで忍ばねばならないのか、と。そうして、契約に背いたイスラエル、とりわけオムリの悪事(王上16章25節)やアハブに従った人々に、疫病と飢饉と剣と恥がもたらされる、と。 主なる神は誠実な方です。だからこそ、誠実な心をこそ求めるのです。 【祈り】 私たちが謙遜かつ誠実に、あなたと共に歩む心を与えてください。 Mon, 04 Dec 2023 00:10:00 +0000 永遠の王のもとで安らかに住まう(ミカ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231204 no 2023 彼は立って、群れを養う 主の力、…主の御名の威厳をもって。 彼らは安らかに住まう。 今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。 (ミカ書5章3節) 差し迫ったエルサレム滅亡の「今」(4章14節)の中で、ミカは偉大な王の下で復興するイスラエルの未来を預言します。 この王は、まるでダビデの再来のようにベツレヘムから出ますが、その出生は「永遠の昔にさかのぼる」と言われます。羊飼いのように群れをいたわり養いますが、主の力と威厳を持ち、その力は地の果てに及ぶと言われます。 この方こそが「平和」です。たとい神の敵がイスラエルを襲っても、この王のもとで労する指導者たちによって国は守られます。 こうして治められる「ヤコブの残りの者」は、多くの民の中にあって麗しい露のようです。人の力に望みをおかず、ただ主を頼りとするからです。若獅子のように天下無敵となりますが、彼ら自身が優れているからではありません。むしろ主は、彼らから力を奪い取り、一切の異教的偶像崇拝を除き去ります。主への信頼を失ったからこそ招いた審判を、繰り返さないためです。 ミカが預言したとおり、ベツレヘムでお生まれになった神の御子イエス・キリストこそ「永遠の王・真の羊飼い・平和の君」です。ただこの主のもとで、心安んじて生きる。これこそが、私たち神の民の幸いです。 【祈り】 まことの王である主イエスよ、あなたのもとで安らかに住まわせてください。 Sun, 03 Dec 2023 00:10:00 +0000 決して滅びない約束の言葉(マルコによる福音書 13章24-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231203 no 2023 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」 (マルコによる福音書13章33節) 主の弟子の一人が神殿の立派なたたずまいを見て、安心しきった感嘆の声をあげました。神殿がありさえすれば、自分たちの生活は安泰だと考えていたのでしょう。その考えに対して、主は鋭い刃を突きつけます。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と(2節)。 そして、主は終末の教えを語り始め、「目を覚ましていなさい」と締めくくります。終末は思いがけない時にやってきます。だから私たちは、いつ終末が来て、主がおいでになってもよいように、備えて過ごします。 「目を覚ましていなさい」との主の教えは、信仰の目を覚ましていなさいと、主への信頼に生きることを求める言葉です。それは信仰の目を覚ますことの困難な者にとっては難しいことのように思えます。かえって心苦しさが残る言葉かもしれません。しかし、主は終末の教えのなかで、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とも約束されました(31節)。たとえ天地が滅び、神殿が崩れさろうとも、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)という主の約束は決して滅びないのです。 ですから、この決して滅びない主の約束を、信仰の目を覚まして待ち望みましょう。主のおいでになるそのときまで。 【祈り】 わたしはきょう、あなたの救いの約束に立って歩みます。その約束は滅びないと信じているからです。 Sat, 02 Dec 2023 00:10:00 +0000 主を畏れ敬う人の幸い(詩編 34編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231202 no 2023 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。 主を畏れる人には何も欠けることがない。 (詩編34編10節) この詩編は、「主を畏れ敬う」ことの奥深さを教えています。主を畏れ敬うことは、人生の基盤であり、「喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者」に主は救いの輝きをまとわせてくださいます。 しかし、主を畏れ敬うとき、人生が必ず楽になり、また苦しみの味わいがなくなるというわけではありません。貧しくなることも、苦難に遭遇することもあります。覚えておきたいことは、そのような状況でも主はご自身を畏れ敬う者を見ておられ、その叫びを聞き、御もとに身を寄せる者をご自分が定めたタイミングで助け、救ってくださるという約束です。 「主を畏れ敬う」とは、決して抽象的な概念ではありません。これは偽りの言葉と悪い言葉を遠ざけ、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めることです(14、15節)。そして、これは人との関係において表わされます。偽りと悪の言葉は、人と人とが共に生きる関係を破り、平和を壊してしまいます。 反面、喜びをもって生き、善を行い、平和を追求する者たちの思いと言葉と行いは、主を畏れ敬う者たちの特徴であり、共通点です。その人たちは主の喜びであり、主が欠けることがないように助けてくださいます(10、11節)。 【祈り】 主よ、いつ、何があっても主を畏れ敬うことができる信仰をお与えください。 Fri, 01 Dec 2023 00:10:00 +0000 ご自分の民を回復する「主の思い」(ミカ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231201 no 2023 だが、彼らは主の思いを知らず その謀を悟らない。 (ミカ書4章12節) エルサレムの絶望的な滅亡を預言したミカは、今や「終わりの日」におけるエルサレムの輝かしい栄光の姿を幻のうちに描きます。 その日、高く上げられた神殿の山へとあらゆる人びとが「主の教え」を尋ね求めてやって来ます。彼らに対する主の教えとは、争いを止め、武器を農具に変えて平和に生きることです。こうして人びとは、心安らかに生活し「主の御名によって歩む」のです。 さらに、主の審判のゆえに足の萎えた者や遠い国に追いやられた者も、エルサレムへと呼び戻され、神の都の主権は回復します。主が王となられるからです。 しかし、その「終わりの日」に至るまで、主の民はなお、「今」という苦難の時を経なければなりません。 エルサレムから王も指導者たちも滅び去り、遠いバビロンの地へと移される嘆きの時が来ます。しかし、それも産みの苦しみであり、主は彼の地でもご自分の民を贖ってくださいます。また、多くの国々(の民)がエルサレムに敵対しますが、かえって彼らの富を取り返し、「全世界の主」にささげる時がくるのです。 「今」の苦難もやがて終わります。あらゆる困難からご自分の民が回復されること、それが「主の思い」なのです。 【祈り】 主よ、あなたの思いに心を寄せて、今の苦しみに耐えさせてください。 Thu, 30 Nov 2023 00:10:00 +0000 不正な指導者たちと迷わす預言者(ミカ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231130 no 2023 しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ち ヤコブに咎を イスラエルに罪を告げる。 (ミカ書3章8節) 先に庶民を直接に搾取する者たちの罪を暴いたミカは、イスラエルの指導者たちのより大きな罪を指摘します。 「ヤコブの頭たち」の罪は、正義の欠如です。「善を憎み、悪を愛する」彼らの政治は、国民を食い物にしているだけだと、ミカはリアルに描写します。そのような者たちが国家的危機に直面して助けを求めても、主はもはや答えてはくれません。 「わが民を迷わす預言者たち」の罪は、貪欲と偽りです。賄賂の有無によって預言の内容を勝手に変える者たちには、もはや預言も幻も与えられず、彼らはただあわてふためくことになるでしょう。 このような、流血と不正と賄賂がまかりとおる「頭たち・祭司たち・預言者たち」の根本的な罪は、主への恐れの欠如です。散々罪を働きながら、彼らはなお、主が共におられるのだから「災いが我々に及ぶことはない」とうそぶきます。しかし、そのような彼らの不信仰ゆえにこそ、主の審判はエルサレムに下るのだと、ミカは預言するのです。 主の民を正しく導くために立てられたはずの指導者たちの罪の影響は、甚大です。彼らが罪に気づくためには、いつの時代でも、「力と主の霊、正義と勇気」に満ちた真の預言者が必要なのです。 【祈り】 主よ、国や教会の指導者たちが、自分の罪に気づきますように。 Wed, 29 Nov 2023 00:10:00 +0000 安住の地へと導く言葉(ミカ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231129 no 2023 わたしの言葉は正しく歩む者に 益とならないだろうか。 (ミカ書2章7節) 主なる神の審判が臨むとき、災いなのは、富と力によって人びとに横暴を働いている人びとです。彼らは欲望のままに悪をたくらみ、人びとの土地や住いを容赦なく奪います。それゆえ、主もまた彼らを容赦しません。土地は敵に奪われ、再び彼らに分け前が与えられることはないからです。 このような主の審判を語るミカに対して、「たわごとを言うな。そんなことを主がなさるはずがない」と人びとは反論するのですが、そのこと自体が「たわごと」だとミカは言います。 8~11節が何について言われているのか、よくわかりません。「わが民」であったにもかかわらず「敵」となる人びとが、イスラエルを滅ぼす人びとのことであれば、引き続き主の審判を語っていることになります。 しかし、もしその「敵」が前半に登場した土地を収奪する人びとのことであれば、「ここは安住の地ではない」という言葉は、偽預言によって土地を奪おうとする彼らの常套手段ということになります。 いずれにせよ、人間の欲望と暴力が支配している所は、安住の地とは言えません。「たわごと」ではなく、「正しく歩む者に益となる」主の言葉に従うことこそが、私たちを真の安住の地へと導くのです。 【祈り】 主よ、私たちに正しく歩む道を教えてください。 Tue, 28 Nov 2023 00:10:00 +0000 悲しみの声をあげる預言者(ミカ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231128 no 2023 このため、わたしは悲しみの声をあげ 泣き叫び、裸、はだしで歩き回り 山犬のように悲しみの声をあげ 駝鳥のように嘆く。 (ミカ書1章8節) 紀元前8世紀、神の民イスラエルが南北二つの王国に分裂しておよそ200年後、南のユダ王国に次々と預言者が現れました。アモスやホセアやイザヤ、そしてミカです。 「預言」という漢字が示すとおり、彼らは自分の言葉ではなく、自分に臨んだ「主の言葉」を預かり語った人びとです。 ミカは、エルサレムの南西にあるモレシェト出身の村人でした。ところが、その彼が、突如として諸国の民や被造世界全体に対して、「皆聞け、耳を傾けよ!」と語り始めました。天地の主なる神が、ご自分の民に、今や大いなる御業をなさる時が近づいているからです。 それは「ヤコブ(イスラエル民族)の罪」に対する審判であり、具体的には、北イスラエル王国の首都サマリア陥落の幻でした。それだけではありません。この神の審判は、やがて南のユダ王国とエルサレムに及び、ミカの故郷の町々村々をもなめ尽くすというのです。 ミカは、この預言と幻に身もだえし、「裸、はだしで歩き回り」、ひたすら泣き叫ぶほかありません。何も知らない人びとからは奇異の目で見られたことでしょう。しかし、滅び行く同胞のことを、どうして嘆かずにおれましょうか。パウロも同胞のために嘆きました。(ロマ9章2節)。 【祈り】 主よ、同胞のための私たちの嘆きに耳を傾けてください。 Mon, 27 Nov 2023 00:10:00 +0000 繰り返し御使いを遣わす神(歴代誌下 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231127 no 2023 先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、…愚弄した。 (歴代誌下36章15節~16節) 歴代誌下36章には、南ユダ王国が滅亡する内容が記されています。北イスラエルとは違って、南ユダは神の御心にかなった何人かの王が与えられ、礼拝改革がなされるなど、神の民として相応しい姿もありました。けれども、ヨシヤ王の死後四代にわたり、主の目に悪とされることを行いました。特に最後の王ゼデキヤは、神の言葉を語る預言者をないがしろにし、その王のもとで祭司長たちのすべても民と共に諸外国の忌むべき行いに倣って罪に罪を重ねました。 神は、そのような罪を重ねる王とその民を憐れみ、繰り返し御使いを彼らのために遣わされましたが、彼らはその神の憐れみを受け入れませんでした。この書物は、ユダの滅亡が不信仰によることを指摘するばかりでなく、このような裁きを通して地が安息を取り戻したと語っています。 神は忍耐強い方です。罪人が神の前に立ち帰るように何度も繰り返して神の御使いを遣わされる方です。そして、最後は神の愛する独り子イエス・キリストを遣わし、十字架の死を通して罪を贖ってくださる方です。その神の深い愛と恵みを、私たちは心から受け入れたいと願います。 きょうもそのような愛と憐れみ豊かな神に、すべてを委ねて生きる一日となりますように。 【祈り】 罪を犯し、悔いてはまた犯す愚かな者である私たちのために救いを与えてくださった神に感謝します。 Sun, 26 Nov 2023 00:10:00 +0000 主に仕えることとして人に仕える愛(マタイによる福音書 25章31-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231126 no 2023 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 (マタイによる福音書25章40節) 私たちが持っている時間、命、才能、財産、信仰は、元をただすと、すべて神から与えられたものです。ですから、世の終わりの日に私たちは、「あなたは神からいただいたものを、どのように用いたか」と、主イエスから問われます。そのとき、私たちはそれぞれ、答えなければなりません。 私たちが神からいただいたものをどのように用いるとよいのか、主イエスは具体的に教えてくださいました。それは「人に仕える愛」です。お腹がすいている人には食べさせ、のどが渇いている人には飲ませ、旅人には宿を貸し、着物のない者には自分の着物をわけ、病気の者や牢獄の者を訪ねる。主イエスは、迫害されて牢獄にいる人を訪問する勇気のある行為から、水1杯を人に差し出す小さな行為まで、全部覚えていてくださり、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われます。私たちが日々行なっているような小さな業まで主は覚えてくださり、終わりの日に、主は私たちに「ありがとう」と言われ、神の国に迎え入れてくださるのです。 この時を楽しみにしながら、私たちは神の救いの恵みに応えて歩みます。主の御声に励まされて、人に仕える愛の業に励みましょう。 【祈り】 すべてを主からいただいた私たちが、きょうも謙虚に人に仕えることができますように。 Sat, 25 Nov 2023 00:10:00 +0000 賛美は正しい人にふさわしい(歴代誌下 33編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231125 no 2023 主に従う人よ、主によって喜び歌え。 主を賛美することは正しい人にふさわしい。 (歴代誌下33章1節) 神を賛美する喜びから始まる詩編です。神への礼拝において、賛美は大切な要素の一つです。ただ、歌うことが苦手な方もいらっしゃいます。それゆえに、神を賛美するなど自分にはふさわしくないと感じる方もおられるでしょう。しかし、きょうの詩編によれば、主を賛美することにふさわしいのは上手に歌える人ではなく正しい人です。 では、正しい人とはどのような人でしょうか。4節には「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実」とあります。それゆえ、正しさは御言葉と御業に深く結びついています。主は御言葉によって世界を創造されました(6節)。また、御言葉によって世界を治めておられます(9節)。正しく世界を造られ、正しく世界を治めておられる主は、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に御目を注いでくださいます(18節)。 このようにして示されている主の正しい御言葉と正しい御業を、歌い手は待ち望んでいます。なぜなら、自らの内に正しさがなく、自らの力で立つことができないからです。このように、自らの弱さを知り、それゆえに御言葉と御業を求める人こそ正しい人です。主はそのような人に御目を注ぎ、神を賛美する喜びを与えてくださいます。 【祈り】 主よ、自らの弱さのなかで御言葉と御業を待ち望む我らに、あなたを賛美する喜びを与えてください。 Fri, 24 Nov 2023 00:10:00 +0000 聖書はなぜ必要なのか(歴代誌下 34-35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231124 no 2023 王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守…ることを誓った。 (歴代誌下34章31節) 34、35章は、南ユダ王国の中でヒゼキヤ王と同様に礼拝改革を行った王として知られるヨシヤ王の統治の記事です。 ヨシヤ王の礼拝改革は、偶像の一掃、神殿の修復、祭儀の再開など、ヒゼキヤの改革と似ていますが、その中で目を引くのは神殿修復工事の際に律法の書が発見されたことです。 ヨシヤ王は、この律法の書の言葉を聞き、衣を裂くほど悲しみと恐れを感じました。どれだけ自分たちが神の律法から離れて勝手に生きてきたのかを悟ったからです。そして、ヨシヤ王は、この律法の書を基にして礼拝改革を行いました。 聖書は、私たちに神の御心がどこにあるのかを教えています。信仰者は、何が信仰者としての生き方であり、何が神に喜ばれることかを、聖書を通して確認することができます。聖書は最も客観的に神の御旨を知ることのできる神の言葉です。 私たちは今、自分たちの言葉で聖書を読むことができます。そして、参考になるような本を手にすることもできます。そのような環境の中で神の御旨を知ることができることを感謝し、より聖書の御言葉に親しく生きることができるように励みたいと思います。 【祈り】 いつも聖書の御言葉に親しみ、神の御旨がどこにあるのか知ることができますようにお祈りします。 Thu, 23 Nov 2023 00:10:00 +0000 神はその祈りを聞き入れた(歴代誌下 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231123 no 2023 神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。 (歴代誌下33章13節) 12歳で王となったマナセは、父親のヒゼキヤが死の病から奇跡的に回復して15年の命を延ばされたので、おそらくその間に生まれた子です。神から恵みをいただいて与えられた子ですが、なぜかこの子は父に倣うことがありませんでした。 彼は主の目に悪とされたことを行いました。それは、何と神を礼拝する神殿の中で偶像の祭壇を建てたことです。さらに、マナセは自分の子らに「火の中を通らせる」という異教の宗教儀式まで持ち込みました。 神が、このマナセとユダを放っておかれるはずがありません。マナセによって惑わされて神の前に罪を犯した南ユダは、神の裁きとしてアッシリアの攻撃を受けました。マナセ自身も、バビロンに捕虜として連れて行かれます。そこでマナセは苦悩の中で神に助けを求めます。神は、それまで背き続けていた王の祈りを聞き入れて、彼を南王国に戻してくださいました。そのことでマナセはまことの神を悟ることになります。 私たちはいつも罪を犯し、悔いてはまた罪を犯す本当にけがれた者です。しかし、神はそのような私たちの祈りを聞き入れてくださる方です。どうか、そのような神に感謝し、いつも祈り求めることができるような一日となりますように。 【祈り】 愛と憐れみ豊かな神に感謝し、いつも祈り求めることができるように聖霊の助けをお与えください。 Wed, 22 Nov 2023 00:10:00 +0000 神が我々のために戦ってくださる(歴代誌下 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231122 no 2023 「敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる。」 (歴代誌下32章8節) 分裂王国時代の南ユダにおいて、ヒゼキヤ王の礼拝改革が記されるなか、32章では、信仰による勝利が書き留められています。 当時、北のアッシリアはとても強い国でした。アッシリアの王センナケリブは、その勢力を広げるためにユダに侵入してきて、ユダの多くの町がアッシリアに占領されました。8節の言葉は、厳しい戦いのなかで、ヒゼキヤ王が指揮官たちを激励する言葉です。ヒゼキヤのこのような言葉は、その場を凌ぐためだけの言葉ではありません。それは彼の強い信仰の中から出てきた、確信に満ちた言葉です。そして、神はこのようなヒゼキヤの確信に満ちた信仰と彼の切なる祈りを聞き入れて、勝利を与えてくださいました。 私たちは、この世の中で多くの戦いを強いられています。特に信仰者として霊的な戦いをすることも多くあります。信仰の戦いを強いられたとき覚えたいことは、弱いわたしのような者を救いに導いてくださった神の恵みです。その神が自分の味方となって、自分のために戦ってくださり、さらに戦う勇気をも与えてくださいます。 きょうも、神がわたしと共にいてくださることを信じて、勇気を持って生きる一日となりますように。 【祈り】 いつもわたしと共にいてくださり、共に戦ってくださる神を信じることができるようにお祈りします。 Tue, 21 Nov 2023 00:10:00 +0000 恵みと憐れみに満ちておられる神(歴代誌下 30-31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231121 no 2023 「あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、御顔を背けられることはない。」 (歴代誌下30章9節) ヒゼキヤ王が神殿をきよめ、祭儀を行った29章に続き、30章は過越祭を再開する場面です。かつて主なる神は、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を、モーセを通して導き出してくださいました。過越祭の再開は、その神の救いの御業をあらためて思い起こさせる営みでした。 しかし、過越祭の再開に当たってすべてが整えられていたわけではありません。時期をずらす必要があり、十分な祭司の数もなく、民のすべてが集まることもできませんでした。本来の規定どおりの過越祭ではありませんでしたが、ヒゼキヤ王はこの過越祭の再開を通してイスラエルの信仰の回復を願い求めたのです。 この過越祭を再開するにあたって、ヒゼキヤ王は民の全体に向けて手紙を出しました。その手紙の内容が6節から9節まで記されています。それはイスラエルの民の信仰の回復を促す内容です。「神は恵みと憐れみに満ちておられるお方である。あなたがたが神のもとに立ち帰るなら、神は御顔を背けられることはない」。 このヒゼキヤ王のメッセージは、今の私たちにも向けられるメッセージです。この恵みと憐れみに満ちた神を覚えて、罪を悔い改めて心を新たにする一日となりますように。 【祈り】 どうか、私たちが素直に自分の罪を告白し、神の豊かな赦しをいただくことができるようにお祈りします。 Mon, 20 Nov 2023 00:10:00 +0000 主の目にかなう正しいこと(歴代誌下 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231120 no 2023 彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。 (歴代誌下29章2節) 南北に分裂したイスラエルの中で、北王国イスラエルの王は、そのほとんどが神の目に悪とされることを行った王でしたが、南王国ユダの王の中には神の目に正しいと評価された王もいます。29章から登場するヒゼキヤもその一人です。 しかし、ヒゼキヤの父親であったアハズは主の目にかなう正しいことを行いませんでした。ヒゼキヤはその息子として生まれた人ですが、父親に倣うことはしませんでした。彼がそのような信仰を持つようになったのは、母親の影響があったと言われています。 彼は、父親とは正反対に、神の目にかなう正しい人として、他の王たちと違って、国中に残っていた異教の祭壇である「聖なる高台」を徹底して取り壊し、主の神殿を再建することに力を尽くしました。また、さまざまな祭儀とそのために働くレビ人たちの奉仕を回復させ、神がイスラエルの民のためになさった御業を喜び祝ったのです。それこそ、父祖ダビデが神に対して行った信仰の姿であり、主の目にかなう正しいことでした。 人の信仰は必ずしもその出身や環境によりません。私たちもそのような徹底した信仰者になりますように聖霊の助けを求めましょう。 【祈り】 どうか私たちがさまざまなことに妥協することなく、徹底的な信仰に生きることができるようにお祈りします。 Sun, 19 Nov 2023 00:10:00 +0000 主人に喜ばれる忠実な良い僕(マタイによる福音書 25章14-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231119 no 2023 「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」 (マタイによる福音書25章21節) 主人は3人の僕たちに、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出ました。1タラントンは当時の労働者が20年間働いてようやく稼ぐことができる金額と言われ、決して少ないものではありません。僕たちは、旅から帰って来た主人にそれぞれ報告をします。このたとえでは、主人からタラントンを預けられ、たくさんもうけたかどうかが重要ではありません。なぜなら、5タラントンをもうけた僕も2タラントンをもうけた僕も、主人から全く同じ評価を受けるからです。「忠実な良い僕だ。よくやった」(21節、23節)。主人に対する忠実さが評価されています。 英語のタレント(才能)という言葉はタラントンに由来する言葉です。私たちが神から与えられたものは、才能だけでなく、命も時間も、財産も信仰も、すべてです。パウロは「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」と言いました(1コリ4章7節)。 私たちは神のものを管理する管理人です。管理人に求められるのは主人に対する忠実さです。私たちは、終わりの時に、神から預かったものをどのように用いたかが問われます。神の国のために、私たちはすべてのものを忠実に用いる良い僕でありたいと願います。 【祈り】 神の国のための忠実な良い管理人として生きることができますように。 Sat, 18 Nov 2023 00:10:00 +0000 罪赦された人こそが幸いな者(詩編 32編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231118 no 2023 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 (詩編32編1節~2節) あなたの周りには、「主に信頼する者」(10節)や「神に従う人」、「心の正しい人」(11節)はいるでしょうか。このような人びとは、あたかも罪とは無縁の歩みをしているように見えるかもしれません。若いころのわたしは、神から責められる点のない完璧な信仰者こそ幸いで、自らもそうありたいと願っていました。しかし、この詩編が語る幸いな人とは、背きがない人ではなく、それを赦され罪を覆っていただいた者です。 誰もが罪から離れて歩む者でありたいと願います。それゆえ、誰かと比べながら、自分の罪はそれほどではないと思おうとします。しかし、主イエスを除いて、主の御前に正しい者はいません(詩14編3節など)。誰もが例外なく、神を愛さず背き続ける罪人です。それを認めて自らの罪を真摯に告白する人こそ、心に欺きのない人であり心の正しい人です。その人の罪を、神はキリストの十字架のゆえに赦してくださいます。 この赦しの愛に駆り立てられて、人は主に信頼し、神に従うのです。結局のところ、神に従う正しい信仰者とは、多く罪赦された人です。そして主を信じるあなたもまた例外なく、神に多くの罪を赦された幸いな者なのです。神はその幸いな者に、喜びの声をあげさせてくださいます。 【祈り】 あなたと隣人を愛しえないわたしの罪を告白します。わたしの罪を赦してくださる主の愛に感謝します。 Fri, 17 Nov 2023 00:10:00 +0000 神の家族の子孫に招く主なる神(創世記 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231117 no 2023 エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。 (創世記36章1節) 神の祝福はアブラハム、イサク、そして父の祝福を得たヤコブへと受け継がれていきます。ヤコブとエサウの父イサクは、満ち足りて死に、2人の息子によって葬られました(35章29節)。神の祝福は、ヤコブの子孫を通して受け継がれていきます。しかし、主なる神はエサウもまた、御心に留めておられました。エサウの系図は、読者である私たちにそのことを教えています。 エサウは、カナンの地の出身の、3人の娘を妻とします。妻たちはそれぞれ息子を産み、弟ヤコブたちと共に住むことができないほどに、恵みを与えられます。彼らはヤコブたちから離れ、セイルの山地に住むようになり、彼はのちのエドム人の祖として讃えられます。 エサウの子孫から、首長たちの名前が連なり、エサウの住んだセイルの山地に住む人びとの歴史と交わります。主が示したとおり、後の歴史において、エドム人とイスラエルの民は、争いを続けます(25章23節)。しかし、主なる神の御心は、彼らをいとうことにはありません。むしろ彼らを主の会衆として礼拝へと招くことが、神の御心でした(申23章8、9節)。異邦人を神の家族へと招く希望が、彼の系図には込められています。 【祈り】 主なる神よ、祝福の外にいた私たちを、神の家族の子孫として招いてくださり、感謝します。 Thu, 16 Nov 2023 00:10:00 +0000 神の家に招く主なる神(創世記 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231116 no 2023 神は彼に言われた。 「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」 (創世記35章10節) 娘ディナが受けた陵辱、息子たちによる報復の連鎖。ヤコブと家族たちはさまざまな試みを経験し、疲れ果てていました。主なる神が、再びヤコブに語りかけられます。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。…あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい」(1節)。それは、神がご自身を表された場所に帰りなさい、という招きの言葉でした。 ヤコブは家の者全員に語りかけます。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」(2節)。ヤコブの家族は、外国の神々を、それぞれが身に着けていました。ヤコブは家族と共に、ベテルへと旅立ちます。 主なる神は、ベテルで祭壇を築いたヤコブを祝福します。「イスラエルがあなたの名となる」。それは、ペヌエルにて神と戦い、勝利を与えられたことを意味する名です。その名は苦難を経た今、新しい勇気をヤコブに与えたことでしょう。ヤコブは、神が語られた場所を「ベテル(神の家)」と名付け、再び旅立ちます。 主イエスは弟子たちに苦難を予告された後で、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語られました(ヨハ16章33節)。神の御支配のうちを歩む平安を覚えて、きょうも歩んでまいりましょう。 【祈り】 主なる神よ、試みを前にするとき、勝利されたキリストの御支配を、私たちに覚えさせてください。 Wed, 15 Nov 2023 00:10:00 +0000 試みの中で問われる主なる神(創世記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231115 no 2023 シケムの父ハモルがヤコブと話し合うためにやって来たとき、ヤコブの息子たちが野から帰って来てこの事を聞き、皆、互いに嘆き、また激しく憤った。 (創世記34章6節~7節) ヤコブは兄エサウと和解し、カナン地方にあるシケムの町に天幕を張って住みます。しかし、彼はここで新たな信仰の試みを経験します。 ヤコブの娘ディナが、その土地の首長ヒビ人ハモルの息子シケムによって辱めを受けたのです。ヤコブもこのとき、心に深い傷を負い、帰ってきた息子たちと共に嘆きます。 ハモルとシケムは、ディナを嫁として迎えたいこと、結納金や贈り物を望むままに差し上げること、ヤコブ一行をその土地に迎えることを提案します。一見、誠実な対応に見えるかもしれません。しかし、ハモルの提案には、自分たちのしたことへの罪の悔い改めはありませんでした。 ハモルとその一族は、ヤコブの息子たちの謀略によって殺されます。しかし、今度は息子たちの報復が止まりません。平和のうちにいた町の人びとにも手をかけます。父の言葉も届かないほどに、息子たちは憎しみに囚われていました。 赦しの連鎖は難しく、憎しみだけが強く連鎖していきます。今も世界を覆う罪の悲し現実です。その中にあって、私たちの拠り所は、神の憐れみです。試みの中で負った心の傷も、悲しみも、すべてを受け止めてくださる神の憐れみこそが、罪の連鎖を断ち切る希望です。 【祈り】 試みの中で、主イエスを通して示してくださった、あなたの憐れみを思い起こさせてください。 Tue, 14 Nov 2023 00:10:00 +0000 憐れみ深い主なる神の眼差し(創世記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231114 no 2023 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。 (創世記33章3節) ヤコブはペヌエルでの格闘を経て、主に信頼する者とされました。彼は主に一切の不安を委ね、赦しを乞うため、一族を連れて兄エサウのもとを訪ねます。ヤコブは一族の先頭に立ち、兄エサウのもとに着くまで七度、地にひれ伏します。古くから伝わる、礼儀にかなった服従の意を示す儀式を通して、ヤコブは兄への敬意と、慈悲を求める思いを示します。 ヤコブの心の奥で、死への覚悟もあったかもしれません。ところが、その不安とは裏腹に、兄は弟の姿を見て走り寄り、迎え入れて抱きしめ、共に泣きます。人の思いを超えて、主なる神は人の心に働きかけます。ヤコブは、自分を慈しみ深く迎える兄の顔の奥に、主なる神の慈しみを見ます(10節)。 ヤコブはシケムの町に行き、祭壇を建てて、「エル・エロへ・イスラエル」と呼びます。それは「イスラエルの神である神」を意味します。多くの言葉を通してご自身を示してくださった神を礼拝するためでした。 試みの中で、主なる神は私たちにご自身を示されます。主イエスは今も私たちを見守り、執り成しておられます(ヘブ7章25節)。私たちは、神の憐れみの眼差しのもとにある平安を覚えて、きょうという日を歩みたいと願います。 【祈り】 慈しみ深い主なる神よ。憐れみ深い眼差しで見守り、導いてくださるあなたを、私たちは賛美します。 Mon, 13 Nov 2023 00:10:00 +0000 祈りの格闘に答えてくださる主なる神(創世記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231113 no 2023 ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 (創世記32章27節) 長子の特権を奪ったことをきっかけに、ヤコブは兄エサウとの関係を拗らせていました。その兄との再会を前に、彼の心は不安で満ちていました。どうすれば相手に赦してもらえるか。彼は、主なる神に自分の心を打ち明けます。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです」(12節)。 ヤコブは、和解のために、兄の怒りを宥める備えを入念に行います。ヤコブは自分の財産のうちから、贈り物を選び、家族一行の先頭に行かせました「自分は本当に赦されるのだろうか」。その疑問は拭えないまま、ヤコブは独り佇みます。 拭えない不安の中で、ヤコブは何者かに襲われます。夜明け前にヤコブは腿の関節を外されます。自分では立てなくされながら、ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」と祝福を求めます。格闘の最中に腿の関節を外された彼は、後の生涯、足を引きずって歩む者とされました。それは自分の力ではなく、神に依り頼む者とされたことを意味します。 試みの中にある私たちに、主なる神は主に依り頼むことを教えられます。私たちの夜明け前にも祈りの格闘があるでしょう。立てないとき、それは神に依り頼むことで立ち上がる祝福のときです。 【祈り】 主よ、試みを前に、不安や恐れに揺さぶられる私たちに、あなたに信頼する平安をお与えください。 Sun, 12 Nov 2023 00:10:00 +0000 目を覚まして主を迎える準備をする(マタイによる福音書 25章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231112 no 2023 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 (マタイによる福音書25章13節) 主イエスは、世の終わりに再び来られるご自分を花婿にたとえられました。そして、私たち信仰者が花婿を迎える十人のおとめにたとえられています。そのところで、花婿を迎えるためのともし火の油を用意して、花婿と一緒に婚宴の席に入ることができた賢いおとめと、油が底をつき、途中で油を買いに出かけたため婚宴に間に合わなかった愚かなおとめとが、対照的に示されています。 主イエスがこのたとえ話をされたのは、私たちが賢いおとめになるためです。主イエスがいつ来られてもお迎えする準備ができているように、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われます。「目を覚ましている」とは、いつでも主イエスに会うことができるよう準備ができているということです。 たとえのおとめたちは、皆眠気が差して眠り込んでしまいました。壺に油を用意していたおとめたちも眠ったのですが、賢いおとめたちと言われます。それは、油を用意して、いつ来られてもよいように備えていることが必要だということでしょう。 いつ主イエスが来られても喜びをもって主を迎えるために、聖霊に導かれて祈り、主の御言葉に聞き従う生活が大切です。目を覚まして、私たちの日々の歩みを整えましょう。 【祈り】 主を迎えるために備えて、目を覚ましていることができますように。 Sat, 11 Nov 2023 00:10:00 +0000 自らを神にゆだねる安心(詩編 31編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231111 no 2023 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。 わたしを贖ってください。 (詩編31編6節) 詩人は大変な苦しみを受けています。敵だけでなく、隣人からも嘲られています。親しい人びとから恐れられ、避けられています。周囲の人びとからは死者のようにみなされています。 現代社会を生きる私たちもまた、何かを間違えればたちまち炎上してしまいます。そして、周囲の人びとから排斥されてしまいます。詩人の悲惨は、まさに今を生きる私たちの悲惨でもあります。 この悲惨のなかで、彼は語ります。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(6節)。彼が自らの霊を神にゆだねた理由。それは自分の命が神のものだからです。神こそが、命の価値の源なのです。 6節の詩人の言葉は、十字架の死を前にして、主イエスが語られた言葉でもあります(ルカ23章46節)。詩人の苦しみは、主イエスの十字架の苦しみと重なります。詩人自身の苦しみと、それをもたらした周囲の人びとの罪。これらに打ち勝って、神はキリストを復活させられました。それゆえ、私たちは、たとえ周囲の人びとから見放されようとも、キリストを死から復活させられた神に信頼して、自らをゆだねることができるのです。 【祈り】 父なる神よ、死を超えてキリストを復活させてくださったあなたの御手に、わたしの霊をゆだねます。 Fri, 10 Nov 2023 00:10:00 +0000 永遠に変わらない主がおられる(創世記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231110 no 2023 「あなたたちのお父さんは、わたしに対して以前とは態度が変わった。しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。」 (創世記31章5節) ヤコブの2人の妻ラケルとレアの父ラバンは、はじめの内は親族であるヤコブが2人の娘を妻としてくれて、しかもよく働くので喜んでいたと思われます。しかし、ヤコブが故郷に帰りたいと言い出した頃からラバンの思いは変わってきたようです。 ヤコブがますます豊かになると、ラバンはヤコブのことを快く思わなくなり、自分の財産を全部奪ってしまったと言うほどになって、ヤコブに対する態度も変わってしまいました。 私たちはこの世で、人の態度がその関係の変化によって変わることをいろいろな場面で見ます。ラバンは自分の分が侵されるのでヤコブを快く思わなくなり態度を変えました。 しかし、主なる神は変わらずヤコブと共にいてくださったのでした。神が私たちの行いに対して懲らしめたり罰を与えたりすることはあります。しかしそれは、神が御自分の民を成長させるためのものです。愛する子どもを養い、訓練する父としての御心によるものです(ヘブ12章10節)。 私たちの主は、永遠に変わることなく(同13章8節)、私たちの救い主としての態度を変えてしまうことはありません。そして、いつも共にいると約束してくださいました。 【祈り】 永遠に変わらない主イエスよ、私たちの救い主としていつも共にいてくださることを感謝します。 Thu, 09 Nov 2023 00:10:00 +0000 命の主の御心によって生きる(創世記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231109 no 2023 「わたしが神に代われるというのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」 (創世記30章2節) 骨肉に会えたヤコブは、ラケルとレアの2人を妻とします。しかし、すぐに2人の妻の間にそれこそ骨肉の争いが起こります。 時代的な背景もあり、ヤコブが2人の妻を持ったこと自体は問題にされていませんが、やはり家庭内に問題が起こるのです。子どもを授からないラケルは激しく姉のレアを妬み、夫のヤコブに怒りをぶつけます。子供を授けるのは主だと分かっていても、その気持ちを吐き出したのでした。 ヤコブの怒りも当然かもしれません。このヤコブの言葉をきっかけに、ラケルとレアそれぞれの召し使いが側女としてヤコブに与えられて、彼女たちも子を産みます。 旧約聖書の歴史を示されている私たちは、ヤコブからイスラエルの十二部族が出たことを知っています。多くの子らを4人の女性が産みました。そこには私たちには隠されている主のお考えがあったと言えます。 この章では、レアとラケルの必死さが伝わってきます。その中で神はレアとラケルの願いも聞き入れ、御心に留められました。 今日は、子どもが与えられることを願わないことも、また願っても子を授からないこともあります。しかし、どのような状況にあっても、主こそが、命の主です。 【祈り】 命の主である神の御心によってこの世に生かされていることを、感謝して生きる者とならせてください。 Wed, 08 Nov 2023 00:10:00 +0000 骨肉のつながりがある幸い(創世記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231108 no 2023 ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。」 (創世記29章14節) 故郷を離れて旅を続け、おじのラバンが住む土地に着いたとき、ヤコブはその娘のラケルに会い、ラバンの家に迎え入れられました。ヤコブが事の次第を話すと、ラバンはヤコブが親族の者であることを認めたのでした。 心細かったであろうヤコブは、ラケルに会ったときに声をあげて泣きました。初めて会う若い女性の前で憚ることなく泣いたのは、よほど安心したからでしょう。 ヤコブが送り出されたとき、ラバンの娘の中から結婚相手を見つけるように言われていたこともあるでしょうが、親族に会えて心からほっとしたことがよくわかります。 親族の間では、何となくなじみやすいことはありますが、時には人を悩ませる骨肉の争いもあります。まさにヤコブはエサウとの間でそれを味わいました。しかし、旅先で頼ったのもまた骨肉でした。 家族のことは、時に私たちにも大きな痛みをもたらすことがあります。しかし、必ずそこにはまた主の慰めも備えられています。骨肉と言える肉親がほとんどおらず、付き合いもないという人もおられるかもしれません。しかし、主にある兄弟姉妹が私たちに与えられています。主が共にいてくださいます。 【祈り】 主がこの世で与えてくださる人との関係を、感謝して受け入れられるように助けてください。 Tue, 07 Nov 2023 00:10:00 +0000 主はここにもいてくださる(創世記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231107 no 2023 ヤコブは眠りから覚めて言った。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 (創世記28章16節) ヤコブは、エサウの手を逃れて、母リベカの兄、ラバンのもとへ旅立ちました。家族を離れ、ただ一人知らぬ地へ向かうのは、大きな不安が伴ったことでしょう。 彼は、とある場所で一夜を過ごし、夢を見ます。天からの階段が地に向かって伸び、神の御使いたちがそれを上り下りしている夢でした。夢から覚めたヤコブは、孤独な旅の途上にも主が共にいてくださることを味わい知ったのでした。ここには素朴な驚きと喜びが感じられます。 私たちは、主は天地の主であり、どこにでもおられると知っています。しかし、現実のさまざまな出来事に振り回されていると、目の前の状況に心を奪われて落ち着かず、不安な日々を過ごすことがあるでしょう。 或いはそれこそヤコブのように、住み慣れた家を離れ、家族から旅立つときもあります。そこには必ず不安がつきまといます。しかし、必ず共にいるとヤコブに約束された同じ主は、きょうも共にいてくださいます。 そのことを、主は実際に何かの出来事や、誰か助けになる人を通してでも示し、御自身を現してくださいます。 信仰をもって歩む者に、主は必ず御自身の約束が真実であることを示してくださると信じましょう。 【祈り】 主よ、あなたが近くにいてくださることを忘れずに歩めるように、私たちに御自身を現してください。 Mon, 06 Nov 2023 00:10:00 +0000 主の計らいをへりくだって信じる(創世記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231106 no 2023 ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」 (創世記27章20節) 神が私たちのために計らってくださる。これは真の神を信じる者の信仰です。しかし、ここでヤコブと母リベカが企てたことは、神の計らいだと言い張るわけにはいきません。 神はリベカに対して、「兄が弟に仕えるようになる」と告げておられました(創25章23節)。それ故、リベカは弟のヤコブが祝福を受け継ぐべきだと思って焦ったのでしょう。 そうは言っても、リベカがイサクの言葉を耳にしてエサウより先に料理を用意できたことを、神の計らいだと正当化することはできません。 神の御心はヤコブが祝福を受け継ぐことでしたが、人間的画策により、しかもイサクを騙して実現しようとしたのは、神の御心に適いませんでした。それでヤコブはエサウを逃れて故郷を離れざるを得なくなります。 神は人の画策によらずに約束を実現することはできますが、イサクを騙したヤコブへの祝福はそのまま保たれ、長子の権利を軽んじたエサウは祝福を受けられなかったのです。 人の画策にもかかわらず神の約束は実現に至りますが、私たちは自分の勝手な行動を棚に上げて主の計らいだと言い張ることはできません。 主イエスによる救いの約束を信じる者は、へりくだって主の計らいを心から信じて歩むのです。 【祈り】 主よ、深い御心をもって計らってくださるあなたを信じて、へりくだって歩めるように導いてください。 Sun, 05 Nov 2023 00:10:00 +0000 主イエスに倣って人に仕える(マタイによる福音書 23章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231105 no 2023 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」 (マタイによる福音書23章11節) 律法学者やファリサイ派の人びとは神を信じていました。しかし、彼らは神よりも人に褒められたいと願っていたようです。たとえば、「聖句の入った小箱」と「衣服の房」(5節)は、神の教えや救いの恵みを思い起こすために身に着けるものです。彼らは自分たちの信仰深さを人に見せようとして、その小箱を大きく、また房を長くしていました。また、「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み」(6節)、「広場で挨拶され」ることを好みました(7節)。彼らは人からの名誉を喜びとしていたのです。 主イエスは彼らに見倣ってはならないとおっしゃいました。彼らの過ちは、神の愛と赦しから目を離したときに、生活の中に現れてきます。主イエスはこの過ちを克服するために、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と教えられました。人に仕える謙遜です。主イエスはご自分が「仕えられるためではなく仕えるために…来た」(20章28節)、また、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われました(11章29節)。主イエスは柔和で謙遜な教師であられます。 私たちは主イエスに学びながら、謙遜に人に仕えます。具体的に人に仕えることによって、神と人への愛を実行するのです。 【祈り】 主イエスに倣って私たちが神と人に仕えることができますように。 Sat, 04 Nov 2023 00:10:00 +0000 わたしの嘆きを踊りに変える(詩編 30編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231104 no 2023 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。 (詩編30編12節) この詩編は、喜びと賛美に満ちています。しかし、この喜びと賛美は、神の守りによる平穏の内に生み出されたものではありません。 詩人は平穏なとき、言いました。「わたしはとこしえに揺らぐことがない」(7節)。もはや神に頼らず自分の力で歩めるかのような言葉です。しかし神が御顔を隠されると、彼はたちまち恐怖に陥りました。敵が迫り、今にも墓穴に下らんばかりのところまで追い詰められました。そこから彼は、神を呼び始めます。自らの叫びに主が耳を傾け、憐れみ、助けてくださることを切に求めました(11節)。こうして、彼は絶望的な状況から救い出されました。その体験こそが、喜びと賛美に満ちたこの詩編を彼に歌わせています。こうして彼の嘆きは喜びの踊りに変わったのでした。彼の喜びの源は、自らが平穏であることにではなく、自らの叫びに神が応えてくださったことにこそあります。 今日の私たちの生活にも、さまざまな恐怖や嘆きがあるでしょう。声にならない叫びをあげることになるかもしれません。そのような私たちの叫びに神は耳を傾け、憐れみ、助けてくださいます。私たちの嘆きを賛美に変えてくださいます。ここにこそ、私たちの喜びの源があります。 【祈り】 主よ、私たちの叫びに耳を傾け、あなたを賛美する喜びへと変えてください。 Fri, 03 Nov 2023 00:10:00 +0000 聖書のみ ―宗教改革の三大原理―(テモテへの手紙二 3章16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231103 no 2023 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 (テモテへの手紙二3章16節) 宗教改革の三大原理のうちで最も基本的なものは、と問われると、わたしは「聖書のみ」を挙げたいと思います。これは「聖書の規範性」と言い換えてもよいと思います。聖書信仰は聖書という書物が尊ばれるだけに留まるものではありません。聖書は信仰と生活の規範として読まれ、研究されなければなりません。 今日、私たちはさまざまな考え方が並存する時代に生きています。しかし、それはまた混乱の時代の特徴です。多様性は個性を生かしますが、また、主体性をもって生きていくことを困難とします。何を規範にして生きていくべきか、あまりにも多くの情報が飛び交っています。私たちの人生に必要な価値観を確保することが困難と見られるほどです。このような時代に私たちは神の言葉であり、神の意志を明確に語る聖書を取り戻していく必要があります。聖書こそ、この時代、いかに生きるかを示す貴重な、価値ある書物です。 教会は講壇から聖書を教えています。それが「説教!」です。また、聖書について書かれてある書物から多くを学ぶことが求められています。信徒の聖書に対する研究熱心は日本のキリスト教会のよき伝統でした。聖書から絶えず神の御心を汲み取るという作業こそ宗教改革の原点であり、私たちの道しるべです。 【祈り】 あなたの御言葉を重んじ、御言葉に従うことができますように。 Thu, 02 Nov 2023 00:10:00 +0000 恵みのみ ―宗教改革の三大原理―(ローマの信徒への手紙 3章23-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231102 no 2023 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 (ローマの信徒への手紙3章23節~24節) 「信仰のみ」と「恵みのみ」はコインの裏表の関係のように切り離すことができません。宗教改革の三大原理ではひとつと見なされています。 ローマの信徒への手紙といわず、パウロの書簡を熟読すると、パウロの神学の中心は、信仰と恩寵であることが分かります。私たちは(わたしの個人的な感想かも知れませんが)福音書の主イエスの御言葉には関心を寄せますが、パウロの書簡となると難解だとして敬遠する傾向があるように思います。 私たちの側からいえば、つまり主観的には救いは信仰によってもたらされますが、キリストの側からみれば私たちの救いに関しては神の恵みによります。 神は私たちを救おうとされます。私たちの何らかの理由、たとえば功績や熱心、敬虔や信心の有無や強弱によって私たちを救いに選び出されたのではありません。ただ神の恩寵、慈しみが動機です。私たちは何の代価も支払わず、フリーに(つまり1円も支払わず)救いに入れられ、永遠の御国に入れられます。 宗教改革は神が全く恵みの神であることを私たちに思い知らせます。この神の恵みの深さ、広さ、大きさを想起することを日常生活の根本において生きていくことこそ求められていると断言できます。 【祈り】 救いの恵みを福音においてはっきりと知ることができますように。 Wed, 01 Nov 2023 00:10:00 +0000 信仰のみ ―宗教改革の三大原理―(ローマの信徒への手紙 1章16-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231101 no 2023 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。 (ローマの信徒への手紙1章17節) 宗教改革の三大原理といわれるものは、「聖書のみ、信仰のみ(恵みのみ)、万人祭司」です。このうち、「信仰のみ」が改革派でもルーテル派でも強調されています。実際、ルターの改革運動は、ローマの信徒への手紙1章16、17節の聖書研究から引き出されたものです。 ローマ・カトリック教会では、よきわざが救いの条件として重視されていました。よきわざは多種多様で、小さな善行、禁欲、修道生活、教会への奉献、社会的弱者への慈善、あるいは贖宥状(免罪符)の購入(ローマのバチカン聖堂の改築費用捻出が名目)、さらに十字軍参加まで含まれていました。このようなよきわざによって、死後しばらく滞在する煉獄の期間が決まるという、死後の世界のシステムまで、教会が決めていました。 宗教改革は、このような救済方法の体系に挑戦するものでした。ただ、心の内面の、キリストの贖罪による罪の赦しによって永遠の生命を獲得できるという信仰に復帰することが核心部分でした。 この信仰のあり方を失い、信仰そのものが自覚されなくなり、単なる気分の問題にされてしまいかねないならば、私たちは、深刻に信仰そのものを反省しなければなりません。信仰が魂を救うのだという、その原点に戻りたいものです。 【祈り】 キリストの贖罪の果実を信仰によって受け取ることができますように。 Tue, 31 Oct 2023 00:10:00 +0000 万人祭司 ― その意味とその恵みと(コリントの信徒への手紙一 4章16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231031 no 2023 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 (コリントの信徒への手紙一4章16節) 改革されるべき16世紀の教会は、教会のあらゆる営みを聖職者たちが独占していました。教会は二層に分かれていました。上の層は聖職者で、下の層が聖職者以外の信者です。いわゆる俗人(非聖職者)は、教会において、特にミサにおいて、そこに臨在されるキリストに近づくことができない、また、それは許されていないと考えられていました。神に近づけるのは祭司(聖職者)だけだとされていたのです。 宗教改革者、特にカルヴァンは、旧約聖書の信仰を取り戻すことに傾注していました。その詩編の註解を読めば分かりますが、旧約の信心深い人たちは、神殿の聖所に神が臨在してくださると確信し、祭儀を見守りました。祭司だけがその臨在にあずかる特権を享受していたのではなく、近くにいた信徒たちも同じ祝福を期待し、信じたのです。 新約に目を向けると、ルカによる福音書1章10節に記されるザカリアと民衆は、聖所で祈る祈りが特に神に聞かれるという信仰をもって神殿に集まっていたことがわかります。 私たちも公的な礼拝において(むろん家庭礼拝のような私的な礼拝においても)、神に接近し、その礼拝が受け入れられているという思いを強くしながら会堂に向かいたいと、心から願います。 【祈り】 礼拝において臨在されるあなたに、憚ることなく近づけますように。 Mon, 30 Oct 2023 00:10:00 +0000 宗教改革 ― それは聖餐改革(コリントの信徒への手紙一 11章23-34節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231030 no 2023 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。 (コリントの信徒への手紙一11章28節) 宗教改革の「改革」は、元の健全な状態に戻すことを意味します。「宗教」全般の改革を意味しますが、厳密に表現するならば、「教会改革」を指します。当時のローマ・カトリック教会の現状を憂い、批判し、改革を目指す大きな流れ、運動を意味します。その中で、宗教改革者が多大の関心を払ったのは「聖餐」、すなわち「主の晩餐の礼典」の改革でした。 ローマ・カトリック教会の教会活動の中心はそのミサ典礼にありました。司祭たちが民衆の理解できないラテン語の式文を朗読し、ミサを全く理解しないままで、ことあるごとにミサが執り行われました。ミサは教会の権力や維持のためにも乱用されました。本来の聖餐に戻すことこそ教会改革の眼目となったのは当然です。本来の聖餐、初代教会が守った礼典を取り戻すことこそ宗教改革が目指した「改革」でした。 私たちもまた、聖餐を単なる儀式、意味のない象徴的な儀礼として、聖餐の礼典を軽んじているならば、宗教改革の伝統を継承する教会とは言えません。また、聖餐において約束されている贖い主、生けるキリストとの現実(リアル)の臨在とその贖罪の恵みにあずかる約束を明瞭に自覚して、心を燃やして聖餐にあずかっているかどうか、吟味しなければなりません。 【祈り】 私たちの教会が、ふさわしく聖餐の礼典を守ることができますように。 Sun, 29 Oct 2023 00:10:00 +0000 復活をもたらす神の力(マタイによる福音書 22章23-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231029 no 2023 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」 (マタイによる福音書22章29節) 神殿での主イエスと宗教的指導者たちの議論は熾烈になりました。7人の兄弟と次々と結婚した女性が復活の時には誰の妻になるのかと、サドカイ派の人びとが質問をしたときのことです。主イエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と、この議論を一刀両断にされたのです。 サドカイ派の人びとの誤解は、彼らが復活を現世の延長と考えていたことにあります。あるいは、もともと復活も天使も霊もないと言っていた彼らのことですから、主イエスを論破するために、こうした議論を持ちかけたのかもしれません。 しかし、私たちが復活した暁には、私たちの体は全き変容を遂げることになります。それは主イエスが「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われたとおりです。その日に私たちは永遠の命にあずかりますから、もはや子孫を残すための結婚や出産などの営みからは解放されます。こうして私たちは天の御使いのような存在になります。 老いて朽ち果てるしかない私たちに届けられた神の言葉が、終わりの日に私たちを輝かしい体に復活させるのです。これが聖書の証しする神の力です。 【祈り】 キリストが復活された主の日に、私たちも復活の希望にあずかっていることをおぼえさせてください。 Sat, 28 Oct 2023 00:10:00 +0000 今も響き続ける主の御声(詩編 29編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231028 no 2023 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。 (詩編29編4節) 29編は、7回も「主の御声」「主の御声」と繰り返されています。 「主の御声」は輝きをもって響き、レバノンの杉を砕きます(5節)。「輝き」とは近寄りがたい権威を、「レバノン杉」とは地上の権力や富を象徴する言葉です。主の御声は、あらゆる地上の権力を砕く、近寄りがたい権威ある力なのです。 「主の御声」が響き渡るとき、大地もそのままではいられません。もだえるほどに揺れ動くのです(8節)。これほどの力ある方が、無秩序な洪水の上に王として御座を置き、この世に秩序を与え、とこしえに治めてくださっています(10節)。 この圧倒的な主の力を前に、作者は、地上の民だけでなく、天上の神の子らにまで叫ぶのです。「栄光と力を主に帰せよ」(1節)、「主にひれ伏せ」(2節)と。 作者は、この栄光と力の主に願います。「主が民を祝福して平和をお与えになるように」と(11節)。 平和を求める作者の願いは、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」方(ルカ1章79節)、主イエスによって真に実現していきます。 主の御声は、この主イエスを通して、ますます輝きを増し、栄光と力をもってこの世に響き続けています。 【祈り】 主よ、私たちを、主イエスの栄光と力を響かせる道具としてください。この世を平和の道に導くために。 Fri, 27 Oct 2023 00:10:00 +0000 神への感謝と執着からの解放(創世記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231027 no 2023 「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」 (創世記26章28節) イサクはペリシテ人の王アビメレクのところに寄留していましたが、井戸を埋められるという嫌がらせを受け、出て行くように言われてしまいます。 出て行った先でイサクは井戸を掘ります。しかし、その地の人びとは井戸の所有権を主張します。別の井戸を掘り当てましたが、それについても争いが生じます。そこでイサクはそこから移って、さらにもう一つの井戸を掘り当てました。これについては争いが起こらず、イサクは神に感謝しました。度重なる争いについては不平を言うことなく、与えられた井戸については感謝したのです。 そのイサクをアビメレクが訪ねて来ます。イサクは自分を追い出しておいて、なぜ自分のところに来たのかといぶかりますが、アビメレクはこたえます。「主があなたと共におられることがよく分かったからです」。それは、井戸をめぐってのイサクの振る舞いを見てのことでしょう。イサクは、自分の力で手に入れたものによって自分の力で生きているのではなく、神から与えられるものによって生かされています。それがために、この世のものである自分の権利に執着しなくてよいのです。そして、その姿に、世の人は、まことの信仰者を見るのです。 【祈り】 わたしもこの世のものへの執着から解放されますように、神への感謝を増し加えてください。 Thu, 26 Oct 2023 00:10:00 +0000 神の時を待ちながら祈りつづける(創世記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231026 no 2023 イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。 (創世記25章21節) 結婚したイサクでしたが、なかなか子どもが与えられませんでした。そのため、イサクは妻のために主に祈りました。その祈りは聞き入れられ、妻は身ごもりました。 26節には、リベカが子を産んだとき、イサクは60歳であったと書かれています。40歳でリベカと結婚したイサクに、60歳になって初めて子どもが与えられたのです。子どもが与えられるように祈りはじめてから、この祈りが聞き入れられ、実現するまでに、どれほどの年月がかかったでしょうか。 私たちも、日々さまざまなことを祈ります。中には、ずっと祈りつづけていることもあります。しかし、祈ることを止めてしまったことも一度ならずあるのではないでしょうか。聞き入れられ、実現するまで、期限を考えずに祈りつづけることは、容易ではありません。 私たちは性急に祈りの結果を求めることがあります。しかし、神は、神のタイミングで祈りに応えてくださいます。その時は何十年後かもしれないし、祈り終わる前かもしれません。いずれにしても、神はすべてをご存じの上で、最もふさわしい時に、答えを与えてくださいます。そのことを信じて祈りつづけるのが、私たちにふさわしいのです。 【祈り】 わたしが神の時を待ちながら祈りつづけることができるようにならせてください。 Wed, 25 Oct 2023 00:10:00 +0000 思慮を尽くして神に委ねる(創世記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231025 no 2023 僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。 (創世記24章15節) アブラハムは息子イサクを結婚させようと考え、息子にふさわしい相手を選ぶために、僕を遣わしました。 僕は、ある町で、ふさわしい人を探し始めます。しかし、それは、町中を歩き回り、情報を集め、面談するような方法ではありませんでした。彼は、ふさわしい人を自分で探し回るのではなく、神が示してくださることを求めて、井戸の傍らで祈ったのです。まず、水をくみに来た娘に、彼が水を飲ませてください、と願ったときに、その娘がそのとおりにしてくれること。その上で、自分から、彼の連れていたらくだの群れにも水を飲ませてくれること。その条件を満たした場合、神が選んでくださった人であるとさせてください、と祈ったのです。 私たちは、このように二重に条件を付けた上で、すべてお任せして祈ることに慣れていないかもしれません。しかし、この祈りには、彼の思慮深さがにじみでています。十頭のらくだに水を飲ませるのは楽なことではありません。彼は難しい条件を突き付けて神にクリアさせようというつもりではなく、主人の息子のために、自分から労をいとわず奉仕することのできる人を神に求め、そのための条件を挙げたのです。 果たしてその祈りは御心に適うものでした。祈り終わる前に、まさにふさわしい娘がやってきたのです。 【祈り】 わたしにも思慮を尽くして神に委ねる祈りをお与えください。 Tue, 24 Oct 2023 00:10:00 +0000 神とこの世に対して誠実に生きる(創世記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231024 no 2023 「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。」 (創世記23章13節) アブラハムの妻、サラが死にました。しかし、アブラハムは墓にするべき土地を所有していません。アブラハムは「寄留者」(4節)です。アブラハムは、この地上を旅人として生きているのです。 アブラハムはここで土地を得ようとしますが、それは、旅人として生きることを放棄してのことではありません。土地の人びとは、「わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください」(6節)と提案してくれましたが、この提案には、この土地の人になってくださいという含みがあります。これに対してアブラハムは、土地の人びとに対し、慎重に礼を尽くしつつ、証人の前に正当な手続きを踏んで、代価を支払って土地を手に入れました。代金は不当に高いと言えるものだったにもかかわらず、です。 信仰者はこの地上において、神に対してと、この世に対しての両者を同時に生きていると言えます。わたしたちは、この両者のどちらか片方をないがしろにしてしまうことなく、どちらに対しても誠実に生きることが求められています。たとえ、そのために犠牲を払うことがあったとしても、です。それが、この地上においては寄留者、旅人である信仰者の生き方なのです。 【祈り】 わたしが神に対しても、この世に対しても、誠実に生きることができるようにならせてください。 Mon, 23 Oct 2023 00:10:00 +0000 自分を退け神に委ねたアブラハム(創世記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231023 no 2023 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」 (創世記22章12節) アブラハムに試練が与えられます。神が与えてくださった愛する一人息子イサクを、自分の手で殺していけにえとして献げよ、と神ご自身がお命じになったのです。それだけでも耐えがたいことですが、これでは、そもそも最初にアブラハムに与えられていた、子孫がすべての民の祝福の源となるという神の約束も、ここで潰えてしまうことになります。 これまでにもアブラハムに試練が与えられることはありました。そこでは、困難の中でも神の約束を信じて歩むことが求められていたと言えます。しかしここでは、その約束そのものが神ご自身によって覆されているのです。 しかし、アブラハムは神の言葉に従います。もしアブラハムが、約束が反故にされてしまったと考えたなら、従うことはなかったでしょう。アブラハムは、自分には分からない御心を前にしても、なお約束の実現を信じ、分からないままにすべてを委ねたのです。それは、神の約束がどのように実現するのか、その道筋を自分で想定することをやめたということです。これこそがアブラハムの信仰です。 それは御心に適うことでした。神は神ご自身にかけて誓い、約束を確かなものとしてくださったのです。 【祈り】 わたしにもアブラハムのような、自分の思いを退けて神に委ねる信仰をお与えください。 Sun, 22 Oct 2023 00:10:00 +0000 神の像をもつわたしたちは神のもの(マタイによる福音書 22章15-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231022 no 2023 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章21節) 主イエスが彼の言葉じりをとらえようとする人に言い放ったのが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉でした。これは人びとの意表を突く言葉でした。 ファリサイ派の弟子たちは、律法に照らして皇帝に税金を納めるのは、妥当であるのか、否かという質問をしました。これは主イエスを窮地に陥れるものでした。もし彼が納税を否定すればローマへの反乱分子という烙印が押されたことでしょう。反対に彼が納税を肯定すれば民衆の信望を失うことになったでしょう。しかし、主イエスは驚くような答えによって窮地を逃れます。 今日では、人びとに選ばれた為政者が政府で働いています。彼らは、人びとのために政治や経済、安全の確保など多くの責任を引き受けているのです。私たちには、こうした重責を負っている為政者の働く政府に税金を納める義務があります。 しかし、私たちは為政者のもとにあることにまさって、自分たちが神のものとされたことを忘れてはなりません。デナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が刻まれていたように、私たちには神の像が刻まれています。キリストによって贖われた現在ではなおさらのことです。私たちが自分の主として告白するのは、このお方だけなのです。 【祈り】 この主の日にあなたこそが真の主であることを覚えさせてください。 Sat, 21 Oct 2023 00:10:00 +0000 主はわたしの声を聞いてくださった(詩編 28編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231021 no 2023 主をたたえよ。 嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。 (詩編28編6節) 作者は、「神に逆らう者、悪を行う者」(3節)に、攻撃され続けていました。 絶えることのない攻撃の中で作者は、「わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます」と、主に訴えます(1節)。墓に下るとは死ぬということです。それほど追い込まれているのに、主は黙しておられる。 しかし、作者はあきらめません。主に「救いを求めて叫び」続けました(2節)。「救いを求めて叫び」続ける作者を、主は、そのままにはしておかれません。作者の祈りを聞きあげ、「主はわたしの力、わたしの盾」と喜び躍り、歌をささげて感謝する者としてくださいました(7節)。 しかし、主の救いの御業は、それだけで終わりませんでした。最初作者は、「嘆き祈るわたしの声を聞いてください」と、自分のことだけを祈る者でした。しかし、祈りに応えてくださる主の御業は、「お救いください、あなたの民を」(9節)と、人のために祈る者へと作者を変えていきました。 祈り求め続ける者に主が与えてくださる救いの喜びは、その人の中にとどまっていません。泉のように溢れ出て、他の人のために祈らずにはいられなくなるほどの喜びなのです。 【祈り】 わたしの祈りを聞いてくださる主よ。あなたにたゆまず祈り続ける者にしてください。 Fri, 20 Oct 2023 00:10:00 +0000 感謝と喜びの笑い(創世記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231020 no 2023 サラは言った。 「神はわたしに笑いをお与えになった。 聞く者は皆、わたしと笑い (イサク)を 共にしてくれるでしょう。」 (創世記21章6節) 子どもが生まれることが考えられないほど高齢のアブラハムとサラに、男の子が与えられました。アブラハムは子どもをイサク(笑い)と名付けました。それは神から示されていた名前です。妻サラは自分の喜びを「神はわたしに笑いをお与えになった」と表現しました。 かつて、アブラハムとサラは、17章と18章で、イサク誕生の約束を神から告げられたとき、それを笑い飛ばしたのでした。その彼らに、感謝と喜びの笑いが与えられたのです。 信じられないことを聞いたとき、人は、かつてのアブラハムとサラのように失笑するものなのでしょう。しかし、そのような笑いの中でも、神の約束は取り消されず、神は約束の実現をもって、その笑いを、感謝と喜びに満ちた健やかな笑いに変えてくださるのです。 私たちも健やかに笑うことができます。最も大きな神の約束が、神の子イエス・キリストを通して私たちに与えられており、神の子の犠牲のゆえに、いつか私たちが神のみもとに引き上げられることは確実であるからです。目の前の現実がどのようなものであっても、私たちは心の中心に健やかな笑いをもって生きることができるのです。 【祈り】 どのようなときも神の約束を思い起こさせてくださり、わたしに健やかな笑いをお与えください。 Thu, 19 Oct 2023 00:10:00 +0000 祈りを疎かにした結果おかす過ち(イザヤ書 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231019 no 2023 「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。」 (イザヤ書39章6節) アッシリアの包囲を受けていたユダのヒゼキヤ王にとって、アッシリアに対抗し得るバビロンの王からの見舞いは、とても心強いことでした。バビロンの王の使者から手紙と贈り物を受け取ったとき、ヒゼキヤ王は宝物庫、武器庫、倉庫にある一切のものを使者に見せてしまいました。これは、ユダ王国中の機密情報を含むすべてを開示したのと等しいことです。ヒゼキヤ王がすべてを開示したのは、バビロンとの同盟関係構築を期待したからでありましょう。 しかし、イザヤの預言によれば、ヒゼキヤ王が使者たちに見せた「先祖が今日まで蓄えてきた」長年の遺産は、バビロンへ運び去られます。それはユダとバビロンの対等な同盟関係でなく、バビロンによるユダ支配を意味します。この預言はのちに、バビロン捕囚として現実になってしまいます。預言が指摘したのは、ヒゼキヤ王の過ちです。祈りをもって神に問うことなく軍事同盟への期待に飛びついてしまったヒゼキヤ王の判断が、過ちだったのです。 目の前に千載一遇のチャンスが現れると、私たちは往々にして欲に目が眩みます。しかし、安易に飛びつく前に、それが主の御心に適うか、祈りつつ吟味しましょう。すべてを支配し主の民を導かれる主を信頼し、導きが与えられるのを待ちましょう。 【祈り】 チャンスに飛びつかず、祈りつつ導きを待つ忍耐力を与えてください。 Wed, 18 Oct 2023 00:10:00 +0000 神が共にいます時本当に生きる(イザヤ書 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231018 no 2023 命ある者、命ある者のみが、今日の、わたしのようにあなたに感謝し 父は子にあなたのまことを知らせるのです。 (イザヤ書38章19節) ユダのヒゼキヤ王は死の病にかかり、今にも、というような状況になりました。彼は預言者イザヤを通して、神から遺言をするよう勧告されます。しかし、死を受け入れられないヒゼキヤ王は涙を流して大いに泣きながら、神に対して真剣に祈ります。祈りの内容は、信仰的に立派な内容ではありません。にもかかわらず神は、その祈りをお聞きになり、ヒゼキヤ王の寿命を15年延ばすと約束してくださいました。 神の約束、また「日時計に落ちた影を、十度後戻りさせる」というしるし(8節)によって、死の病からの解放を実感したヒゼキヤ王の口からは、賛美の歌が溢れました。死の淵で真剣に祈った彼は、神に祈ることができたことに喜びを覚えました。「祈ることができた」ことに、主なる神が近くにいますという命の事実を見いだしたからです。神に祈ることこそが、ヒゼキヤ王が自身の命を実感するきっかけとなったのです。 すべての人が真剣に祈れば寿命を延ばしていただける、というわけではありません。しかし、寿命こそ延ばされなくても「復活であり、命である」(ヨハ11章25節)キリストと結び合わされた人は、キリストと共に生きる命に生かされます。人は祈るとき、主が共におられる命を実感し、喜びに満たされるのです。 【祈り】 主よ、わたしと共にいまし、生かしてくださることを感謝します。 Tue, 17 Oct 2023 00:10:00 +0000 主なる神の御力のみに依り頼む(イザヤ書 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231017 no 2023 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神…、あなたこそ天と地をお造りになった方…。」 (イザヤ書37章16節) ユダのヒゼキヤ王は衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行きました。それは、アッシリアに対抗するにあたって、主なる神にではなくエジプトの軍事力に依り頼んだこと(36章9節)に対する悔い改めでした。彼が頼るべきは、主の民に対して誠実な主なる神の御力なのです。 アッシリアはなおも主を冒涜し、諸国の神々よりもアッシリアの軍事力の方が強いのだと誇りますが、悔い改めたヒゼキヤ王は、祈りの始めに主に呼びかけます、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です」と。この呼びかけは、自分の力にも、他の人間にも、また人間が作り出した偶像の神々にも依り頼まず、ただ主なる神にのみ依り頼むという、ヒゼキヤ王の信仰告白です。 主なる神はヒゼキヤ王の祈りに応え、アッシリアに対して「おとめである、娘シオンは、お前を辱め、お前を嘲る。娘エルサレムは、お前に背を向け、頭を振る」とおっしゃいます(22節)。そしてアッシリアの王は主によって退却させられました(37節)。実に主の御力は主の民である私たちを信仰から引き離そうとするいかなる勢力よりも強いのです。 【祈り】 私たちが、あらゆる事柄に対処するにあたり、誠実な主の御力にのみ依り頼むことができますように。 Mon, 16 Oct 2023 00:10:00 +0000 挑発にも誘惑にも惑わされない(イザヤ書 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231016 no 2023 しかし彼らは、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった。 (イザヤ書36章21節) アッシリアの長官ラブ・シャケは、ユダのヒゼキヤ王が依り頼んでいた主なる神に対する冒涜の言葉を、民に語ります。「神なんかよりも、アッシリアの軍事力の方が強い」と言わんばかりに。そして、「神に頼ってアッシリアと戦争を起こすよりも、アッシリアの支配下ででも平安に暮らせるほうが魅力的でしょう」と民を誘惑します。 しかし、ユダの民は誰一人として、ラブ・シャケの演説に反応しませんでした。ユダの民は、誘惑になびいてアッシリアにいい顔をすることなく、じっと、押し黙りました。ユダの民は、ヒゼキヤ王の「主が必ず我々を救い出してくださる」という言葉を信じて、その戒めのとおりに、主なる神に依り頼むことにしたのです。「神に依り頼む」というのは、言い換えるならば、信仰です。結果として、神はアッシリアを撃退されました。 ラブ・シャケがユダの民に対してそうしたように、世の中のさまざまなものが、巧みな言葉や見せかけの喜び、見せかけの楽しみをもって、私たちを主なる神への信仰から引き離そうとしてきます。しかし、私たちは、聖霊の御力によって主イエスの福音を信じ、信仰に踏みとどまります。惑わされる必要はありません。 【祈り】 私たちがあらゆるものに惑わされず、信仰にとどまることができますように。 Sun, 15 Oct 2023 00:10:00 +0000 華やかな婚宴が催された陰で(マタイによる福音書 22章1-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231015 no 2023 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 (マタイによる福音書22章14節) 主イエスのたとえは、私たちのイメージを掻き立てるとともに、私たちの心に刺さるメッセージを含んでいます。 ある王が王子のために婚宴を催しました。王は息子の晴れの舞台である婚宴に多くの客を招こうと考えます。ところが招いておいた人びとは、呼びかけに応じません。さらに家来を呼びにやっても、彼らは自分の仕事や都合を理由にして婚宴に来ないばかりか、家来に暴力を振るうことさえしました。このような仕打ちにあっても王は諦めません。今度は家来たちを町の大通りにやって、見かけた者をだれでも連れてこさせます。 ところが、王が客でいっぱいになった婚宴の部屋に入ってみると、礼服を着ていない一人の人がいました。王はそのことを厳しく咎めて、彼を外の暗闇にほうり出してしまいます。礼服とはイエス・キリストの恵みのことであり、その恵みのもたらす感謝の実りを指します。信仰者は「キリストを着ている」(ガラテヤ3章27節)からです。 神の熱意によって多くの人びとが神の国に招かれます。しかし、彼らのすべてが神の国の住人になるのではないようです。私たちに求められているのは、主イエスの恵みに生きる本物の信仰者になることです。 【祈り】 私たちが、あなたを「主よ、主よ」と呼ばわるだけでなく、あなたの御心を行う者となりますように。 Sat, 14 Oct 2023 00:10:00 +0000 ただ一つのことを求める(詩編 27編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231014 no 2023 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。 (詩編27編4節) 詩編27編の作者は、「貪欲な敵」により窮地に追い込まれていました。12節に「わたしに逆らって立ち」とあります。以前は従順であった部下や身内が態度を一変させ、「偽りの証人」「不法を言い広める者」を使って作者を陥れようとしていたようです。 そんな窮地の中にある作者がただ求めたこと。それが4節にある「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」でした。「仰ぐ」とは顔を上げるということです。ただ顔を上げただけではありません。作者は「主を仰ぎ望」みました。顔を上げた視線の先には主がおられました。 私たちは問題を前にすると、そのことばかりに目が行き、顔を上げなくなります。昼も夜も問題のことで心が一杯になり、他のことが見えなくなります。しかし、作者は違いました。窮地の中でも顔を上げ、視線の先にある主に望みをおき、朝を迎える。そのことを求め続けたのです。 私たちも作者のように、顔を上げ主を仰ぎ望み続けたいと願います。 主は、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望」む者の「わたしの光」、「わたしの救い」、「わたしの命の砦」となってくださいます(1節)。「喜びを得させ」、「主の恵みを見る」者としてくださいます(13節)。 【祈り】 主よ、この弱いわたしを、どのようなときでも顔を上げ、あなたを仰ぎ望む者としてください Fri, 13 Oct 2023 00:10:00 +0000 神の憐れみによる救いに感謝して(テトスへの手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231013 no 2023 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。 (テトスへの手紙3章5節) 使徒パウロは、「すべての善い業を行う用意がなければならないこと」を思い起こすようにと言って、「きょうの聖句」の御言葉を語っています。 私たちが救われたのは、私たちが行った義の業によってではなく、神ご自身の憐れみによってでした。救いの根拠は、私たちの業ではなく、神の憐れみにあるのです。だから、私たちは、すべての善い業を行う用意がなければなりません。 生まれながら罪人である私たちは、神の前に義とされる業を行うことはできません。主イエスは地上の生涯で、神の前に義とされる行いをすべてしてくださいました。その主イエスの義が私たちに与えられています。ですから、どんなに拙い業でも、神の愛に根ざす善い業を、私たちは行うことができるのです。失敗を恐れることもありません。聖霊なる神が私たちに、善い業を行わせてくださるのです。 自分の力で救われようと思ったら、自分の足りなさは絶望でしかありません。しかし、私たちは神ご自身の憐れみによって救われました。この喜びを思い起こし、聖霊の導きに感謝しつつ、善い業を行う用意を整え、きょう一日を過ごして参りましょう。 【祈り】 神の憐れみによる救いに感謝して、その愛に根ざす善い行いを、今日もなしていくことができますように。 Thu, 12 Oct 2023 00:10:00 +0000 待ち望みつつ自らの役割を果たす(テトスへの手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231012 no 2023 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 (テトスへの手紙2章13節) 年老いた男、年老いた女と若い女、若い男、奴隷に対して、それぞれへの勧めが記されます。こうして、老若男女、さまざまな立場にある信徒が、「救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かす」のです(10節)。 これらは、パウロの時代にテトスに対して送られた言葉です。現代のさまざまな立場の人とは異なるかもしれません。また、これらの言葉をその時代に適応して語られた、過去の解釈と、現代の解釈とは異なるかもしれません。時代と共に変わるものは何なのか、時代と共に変わらないものは何なのか。御言葉によって常に改革され続ける私たちの教会も、この難問と取り組み続けています。 「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」という事実こそは変わりません(11節)。この事実から目をそらすことなく、難問に取り組んで参りましょう。 一人ひとりが神の前に静まって取り組む場合もあります。親しい信仰の友や家族と話し合って取り組むこともできます。また、テトスのように、群れを任された御言葉の説教者と教会役員は、難問に取り組む信徒に正しい勧めをする役割を担っています。それぞれの立場で、祝福に満ちた希望、栄光の現れを待ち望みながら、自らの役割を果たして参りましょう。 【祈り】 祝福の希望を見上げつつ、神の栄光を現す毎日を送ることができますように。 Wed, 11 Oct 2023 00:10:00 +0000 信頼すべき言葉をしっかり守る(テトスへの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231011 no 2023 そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。 (テトスへの手紙1章9節) この手紙は、パウロから教会の若い指導者テトスへの手紙です。テトスはクレタ島で、町ごとに長老たちを立てる務めを果たしています。パウロは、長老がどのような人であるべきかをテトスに書き送ります。「そうでないと」、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破することが十分にできないからです。 「健全な教えに従って勧める」とは、主イエスが教え、使徒たちが伝えた教えを、健全に保つということです。教会には、しばしば健全ではない教えが入り込みます。この手紙が書かれた当時もそうでしたし、その後の教会の歴史の中でも繰り返し起こってきました。現代も同じです。 現代は、「反対者の主張を論破する」ことがはばかられる風潮があると言えるかもしれません。わたしも、「言えます」でも「言えるでしょう」でもなく、「言えるかもしれません」という言葉を選んでしまいました。 断定を避ける。いろいろな意見があることを尊重する。相手の主張を論破するのではなく、共感して受け入れる。現代では、こういったことが求められます。これらは大切なことです。しかし、論破すべき反対者の主張を、そのままにしてよいのではありません。信頼すべき言葉をしっかり守る者でありましょう。 【祈り】 さまざまな反対者の主張に出会っても、主よ、あなたの憐れみに信頼し、あなたの言葉に生かされますように。 Tue, 10 Oct 2023 00:10:00 +0000 その時は来たそしてその途上に(イザヤ書 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231010 no 2023 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。 そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 (イザヤ書35章5節~6節) 「そのとき」とは、キリストが来られた「今」です。キリストを信じる人びとは、それを知ります。洗礼者ヨハネは、主イエスに「ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねました。それへの答えは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…耳の聞こえない人は聞こえ、…貧しい人は福音を告げ知らされている」でした(ルカ7章20~22節)。イザヤが預言した「そのとき」はそこに来ていました。 しかし、すべてが成就しているわけではありません。完全な成就は、望みの中にあります。また見えない事実を見るようにして進まなければなりません。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、…人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」(イザ35章1、2節)。今は、神の言葉に導かれながら見えないものにこそ目を注ぐべき時です。いろいろなことに試されながらも、聖霊の恵みに謙虚に信頼して、そのように主を仰ぎます。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。…『神は来て、あなたたちを救われる』」(3、4節)。 なおも途上ですから、信仰の歩みには忍耐が求められます。しかし、主は慰めを満たし続けてくださいます。「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(10節)。 【祈り】 主イエスよ、あなたと共に生きるこのときを感謝します。 Mon, 09 Oct 2023 00:10:00 +0000 近づいて聞け耳を傾けよ聞き分けよ(イザヤ書 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231009 no 2023 もろもろの国よ、近づいて聞け もろもろの民よ、耳を傾けよ。 聞け、大地とそこに満ちるすべてのもの 世界とそこに生ずるすべてのものよ。 (イザヤ書34章1節) 近づいて聞くべきことは、神の報復の日についての言葉です。「まことに、主は報復の日を定められる、シオンにかかわる争いを正すための年を」(8節)。その日は、たとえ見たとしても信じられないような裁きが成し遂げられる日です。だから、預言者の言葉は侮られます。悔い改めて立ち帰る道を示してくれる人もいません。 しかし、望みが一つ示されます。「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない」(16節)。そこには、聞く者の心を守り導く言葉があります。神を信じて、その口から出た言葉として、その一つ一つによって生きることです。それに従って進むなら希望があり、目指すべきところがあります。「主は彼らの分をくじによって定め、御手の測り縄によって土地を分け、とこしえに彼らの所有とされる。代々にわたって、彼らはそこに住む」(17節)。 イザヤの時代にも、信じる人びとに神の言葉は希望を与えたでしょう。そして、今はいっそう親しく身近に神の言葉が希望を満たします。魂の牧者であり、監督者であるキリストが、その身をもって示され、成就された言葉によって導いてくださるからです。羊はその声を聞き分けます(ヨハ10章3、4節)。 【祈り】 主よ、日ごとにあなたの声を聞き分けさせてください。 Sun, 08 Oct 2023 00:10:00 +0000 神に反抗し続けたあげくに(マタイによる福音書 21章33-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231008 no 2023 「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」 (マタイによる福音書21章43節) ある家の主人が立派なぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して旅に出ました。ところが彼らは、収穫を得るためにやってきた主人の僕たちをさんざんな目に遭わせます。主人が自分の息子なら敬ってくれるだろうと考えて送った、その息子を彼らはぶどう園の外で殺してしまいます。彼らは何としても収穫を自分たちのものにしようとしたのです。 この「ぶどう園と農夫」のたとえに登場する主人は神を、農夫たちはイスラエルの宗教指導者を、僕たちは預言者を指します。そして、主人の息子はイエス・キリストです。読む者の想像力を掻き立てるたとえではありますが、その意味は深刻です。それはイスラエルが主なる神に繰り返して反抗したあげくに破綻に至ることを告げているからです。 しかしこの破綻を通して大どんでん返しが起こります。神はイスラエルから神の国を取り上げて、ふさわしい実を結ぶ民族に与えられます。なんとイスラエルの破綻を経て、新しい神の民である教会が起こされるというのです。そして肉のイスラエルに代わって、真のイスラエルたる教会が神の国の宣教を担うことになります。こうして、神の国は一つの民族の枠を越えて、広く宣べ伝えられて、証しされることになるのです。 【祈り】 私たちの罪と不信仰を越えて、神の国を広めようとされるあなたの宣教の熱意をおぼえます。 Sat, 07 Oct 2023 00:10:00 +0000 主のまっすぐな道に立てる(詩編 26編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231007 no 2023 主よ、あなたの裁きを望みます。 わたしは完全な道を歩いてきました。 主に信頼して、よろめいたことはありません。 (詩編26編1節) 「わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」。26編は、作者が自らの正当性を訴える強い言葉で始まります。どうして作者は、こんな強い言葉で主に訴えるのでしょう。 9節で作者は、「わたしの魂を罪ある者の魂と共に、わたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください」と訴えています。作者は罪ある者らと共に不当に裁かれる場に立たされていたようです。 新改訳聖書は「裁きを望みます」という言葉を「弁護してください」と訳しています。 主こそすべてをご存じのお方です。その主に作者は、不当な裁判の法廷で弁護人に必死に助けを求める被告のように、弁護してくださいと助けを求め、叫んでいたのです。 叫ぶ者を主はそのままにしておかれません。作者を憐れみ、「わたしの足はまっすぐな道に立っています」と証しし、「主をたたえ」る者としてくださいました(11、12節)。 私たちは絶えずよろめき、完全な道を歩くことなど到底できない者です。しかし、そのような私たちを、完全な道を歩き通された主イエスが弁護し続けてくださっています。ですから、私たちも「まっすぐな道に立っています」と証しできるのです。 【祈り】 主よ、悔いてはまた罪を犯す私を絶えず弁護してくださる主イエスに、ますます依り頼む者としてください。 Fri, 06 Oct 2023 00:10:00 +0000 主を畏れる人の目は見る(イザヤ書 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231006 no 2023 あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ 遠く隔たった地を見る。 (イザヤ書33章17節) 誰の目が麗しく装った王を見るのでしょうか。神が与えてくださる知恵と知識を持つ人の心は見ます。心のあるところに確かな宝を持つ人の目は、いろいろなことで試されながらも、望みをかけるべき御方を見ます。また、その御方によって実現される地を見ます。主が、その人を支えてくださるからです。「主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である」(6節)。 神を畏れる宝を持つ人は、恐怖に捕らえられません。恐怖が襲わないとは言えませんが、そこから常に逃れます。望みの中で王を仰ぎながら、約束の地を目指して進みます。「シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい、移されることのない天幕」(20節)。 新約の今、私たちが見るまことの王とは主イエス・キリストです。約束の地とは、神がすべてにおいてご支配なさる神の御国です。今は、信仰によって、主の言葉を心と行いにおいて守りつつ、主を畏れることを喜びとしながら、生きるべき時です。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハ14章23節)。 【祈り】 主よ、日ごとに主を畏れる宝を増し加えてください。 Thu, 05 Oct 2023 00:10:00 +0000 正義によって一人の王が統治し(イザヤ書 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231005 no 2023 見よ、正義によって 一人の王が統治し 高官たちは、公平をもって支配する。 (イザヤ書32章1節) 王は一人です。その王がご自身の正義をもって統治なさいます。その統治は、この世の王たちのようなものではありません。力づくでなされるものではなく、また巧妙に人の心に取り入るようなものでもありません。徹底した正義の統治であり、幸いに満ちています。 その統治のもとに生きる人びとは、混乱した秩序の中でも、すべてを見分けるように導かれます。「見る者の目は曇らされず、聞く者の耳は良く聞き分ける」(3節)。「高貴な人は高貴なことをはかり、高貴なことを擁護する」(8節)。王の統治は、そのように新たな人びとを生み出すことによって進展していきます。 「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。…そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう」(15、16節)。人が見たことも聞いたこともないような深く確かな統治です。そのようにしてもたらされる正義にこそ幸いがあります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(17節)。 しばらくの間は試される正義です。しかし、信仰によって得られる喜びと平和があります。「わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう」(18節)。 【祈り】 主よ、日ごとに私たちをあなたの喜びと平和のもとに治めてください。 Wed, 04 Oct 2023 00:10:00 +0000 立ち帰れ神の言葉を学び直して(イザヤ書 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231004 no 2023 イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。 (イザヤ書31章:6節) 「あなたがたが背き続けてきた」と言われても、それを自覚することは難しかったでしょう。しかし実際に、背き続けた心が、助けを求めてエジプトへと下るという決断に至らせています。確かにエジプトから助けが与えられることもあるでしょう。しかし、助けを求めてエジプトへと下るのは、それとは別のことです。 急に起きたことではありません。人を恐れ、人を頼みとするように歩みを重ねてしまいました。「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない」(3節)。霊である神の助けを受けて歩むことを学び直す必要があります。その助けによって、主の民の歴史があります。 「翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる」(5節)。そのような神の権威と力を見続けてきたはずです。「主は知恵に富む方。災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない」(2節)。 神に立ち帰る道を進むほどに「背き続けてきた」と知るのかもしれません。「立ち帰れ」となおも呼びかけてくださる神の愛を知るように、神の言葉を学び直せたなら、幸いです。キリストを知る私たちにふさわしいことです。 【祈り】 主よ、日々、立ち帰る道へと導いてください。 Tue, 03 Oct 2023 00:10:00 +0000 恵みを与えようと待っておられる主(イザヤ書 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231003 no 2023 それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。 (イザヤ書30章18節)  エルサレムを都とするユダ王国は、このとき、アッシリア帝国の脅威にさらされていました。アッシリアは、まともに戦っては勝ち目のない相手です。そこでユダの国はエジプトに助けを求めました。しかし、このことが預言者によって、「災いだ」と言われます(1節)。  イスラエルの民に求められることは、どこまでも信じることです。ただこのことが、教会にも必要です。  ユダの国にとっては、このような危機のときに別の国に頼ることは当然のことかもしれません。しかし、たとえどのような問題に直面しても、恵みと憐れみを与えようとされる主に期待し、待ち望むことが第一のことです。信仰こそ幸いであり、そうでなければ災いなのです。  私たちはきょうI日も、主との関係を新たにされたいと願います。わたしが主に叫ぶとき、この方は、その叫びを聞かれる唯一のお方です。そして、わたしが主に目を向けるとき、この方はわたしの行くべき道を指し示し、導いてくださいます。  主ご自身が、私たち罪人を待っておられるお方です。預言者によって自らの罪が露わにされたときに、心からこの方に立ち帰る。そのような私たち一人ひとりを主はご自身の喜びとされるのです。  【祈り】 あなたが罪人の私たちを待っておられますから、私たちも心から立ち帰ることができますように。 Mon, 02 Oct 2023 00:10:00 +0000 立ち返って神を畏れる者にされる(イザヤ書 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231002 no 2023 彼らはヤコブの聖なる者を聖とし イスラエルの神を畏るべきものとする。 心の迷った者も知ることを得 つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。(イザヤ29:23-24) (イザヤ書29章23節~24節)  きょうの箇所では都エルサレムがアリエル(祭壇の炉)と呼ばれて、エルサレムへの激しい裁きが語られています。  預言者の厳しい言葉を前に、私たちは神の前での人間の罪の深さを覚えざるを得ません。「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」(13節)。こう語られるときに、普段礼拝をしながらも、自分の心は決して主から離れていないと、自信を持って言える者ではありません。  また、主を避けて自らの謀を隠し、「誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか」と言う(15節)。私たちは、ただ自分の謀を喜び、それに生きようとしてしまうのです。  主なる神が預言者を通して求められることは、私たち一人ひとりが心から主に立ち帰ることです。苦しんでへりくだらされる中でも、そこで主を喜ぶようになり、貧しさの中でも、イスラエルの聖なる方を楽しむようになることです(19節)。  主は、そのために真の苦しみの人であり、貧しさの中を歩まれた救い主イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。私たちのきょう一日も、この生涯も、ただ主イエスにあって、神の聖なる御顔を仰ぎ見ることが許されています。  【祈り】 天の父よ、私たちを心から立ち帰らせ、あなたの御顔を仰がせてください。 Sun, 01 Oct 2023 00:10:00 +0000 主イエスの権威をめぐって(マタイによる福音書 21章23~32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20231001 no 2023 何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。 (マタイによる福音書21章23-32節)  神殿の境内で教えておられた主イエスに、祭司長と民の長老たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と詰め寄りました。主イエスは彼らの問いに答えずに、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と問い返されます。  主イエスの問いかけに祭司長たちは立ち往生します。「天からのものだ」と言えば、その不信仰をなじられるし、「人からのものだ」と言えば、群衆の反応が恐かったからです。  しかし、祭司長たちは天からの権威について知らなかったわけではありません。主イエスは、「二人の息子」のたとえの中に、父の命令を拒みながら最後には従う兄と、父の言うことを受け流して最後まで従わない弟を登場させます。主が「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」とお尋ねになると、彼らは「兄の方です」と答えたのです。彼らは父親が表わしている神の権威に従うべきことを知っていたのです。  ところが、祭司長たちは自分たちの体面と保身にこだわって、ヨハネの権威を認めようとはしませんでした。自分の体面や保身のために、神の権威を閉め出してしまう彼らの姿に、私たちは人間の罪の深淵を見る思いがいたします。その罪はやがて主イエスを十字架の死に追いやるのです。  【祈り】 あなたを頑なに拒む私たちの罪をお赦しください。 Sat, 30 Sep 2023 00:10:00 +0000 慈しみ深い神を信頼せよ(詩編 25編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230930 no 2023 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。 (詩編詩編25編7節) 本日の詩編は、信仰告白(8~15節)と、それを囲む祈り(1~7、16~22節)で構成されています。詩人は、「神は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます」(8節)と告白します。それは、ダビデがこれまでの歩みの中で体験してきた神に対する告白です。神は罪人に主の道を示し(8節)、貧しい人に主の道を教えられます(9節)が、その主の道はすべて、慈しみとまこと(10節)です。 ダビデにとって、その人生の歩みの中で示されたもっとも大切なことはこのこと、罪の赦しであり、主なる神の恵みと慈しみであったのです。それは私たちにとっても同じではないでしょうか。 信仰告白とは、信仰の対象について悟ったことを語ることでもあります。主観的ではなく、客観的です。つまり、過去・現在・未来の主の群れ(教会)の告白でもあるのです。信仰の先祖の一人であるダビデは神が必ず応答してくださると信じました。神はそのとおりにしてくださり、慈しみ深く、恵みに豊かな神御自身を示してくださいます(6節参照)。神は罪深い人間を救うため、愛を示してくださり、裁きで終わらず、救ってくださいました。聖霊のお働きによって悔い改めに導かれ、罪の赦しを得させてくださいます。 【祈り】 主よ、私たちが主の御心にかなう日々を過ごせますように。 Fri, 29 Sep 2023 00:10:00 +0000 苦難の中で主のすばらしさを味わう(イザヤ書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230929 no 2023 これもまた万軍の主から出たことである。 主の計らいは驚くべきもので 大いなることを成し遂げられる。 (イザヤ書28章29節) イスラエルの民の歩みが厳しく問われています。民の宗教を司る預言者と祭司が強い酒に酔っていると言われます。都エルサレムでも神との契約が全く失われてしまったような現実が述べられるのです(15節)。 しかし、その中で預言者は、民が信頼すべき「試みを経た石」、「貴い隅の石」について語っています(16節)。石とは主なる神ご自身を指し、新約では十字架の死から復活されたイエス・キリスト御自身として明らかにされています(使徒4章11節)。 イスラエルの民が経験させられたように、主は私たち信仰者にも時に厳しい試練をお与えになります。しかしそれは、決して私たちを砕き尽くすためではありません(28節)。試練の中で私たちが問われているのは、自分たちに先立って十字架の試みを受けて、それに打ち勝たれた1つの石であるキリストに信頼するかどうかです。ただこの方に、疲れた者にとっての休息と憩いがあるからです(12節)。 「主の計らいは驚くべきもので 大いなることを成し遂げられる」(29節)。主なる神のご計画は私たちの思いをはるかに超えています。試練の中でキリストという土台の石に逃れる一人一人に、この救いを味わうことが許されています。 【祈り】 わたしに苦しみや痛みが与えられるときも、どうかあなたを仰がせてくださり、信頼へと導いてください。 Thu, 28 Sep 2023 00:10:00 +0000 終わりの日に向けて主を待ち望む(イザヤ書 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230928 no 2023 その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、… エジプトの地に追いやられた者も来て 聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す。 (イザヤ書27章13節) 「その日」という言葉がきょうの箇所で繰り返されています。「その日」とは、主が決定的な御業をなさる日です。終わりの日を思わせる表現です。 「その日」、主に激しく刃向かってきたレビヤタンや海にいる竜も完全に倒されます。そして主は、わたしはもはや憤っていないと言われ(4節)、苦難の中を歩んだ信仰者に繰り返しご自身との和解を呼びかけられます(5節)。 イスラエルの民はそこに至るまで、その罪の故に数多くの苦しみを経験させられることになります。もし自分たちの都が荒れ野になれば、民は力なく呆然と立ち尽くすほかはないでしょう。 しかし、そのような苦難を経た中でも、「その日」、民は一人ひとりが主によって拾い集められると言われます。そして新しいエルサレムで主を喜び礼拝すると言われるのです。 イザヤは、「その日」を待ち望むようにと民に語っています。神の救いの業を待ち望めと言うのです。 今や私たちはイエス・キリストにあって、日々神の救いの業を期待することができます。神はイエスにあって、きょう、罪の弱さのある私たち一人ひとりに和解の手を差し伸べられ、主に心からひれ伏す導きをお与えになるのです。 【祈り】 天の父よ。今日も恵みによってあなたにひれ伏す者にさせてください。 Wed, 27 Sep 2023 00:10:00 +0000 苦難の中で命の平和を与える神(イザヤ書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230927 no 2023 あなたの死者が命を得 わたしのしかばねが立ち上がりますように。 …あなたの送られる露は光の露。 あなたは死霊の地にそれを降らせられます。 (イザヤ書26章19節) 当時のイスラエルは、アッシリアやバビロンといった他国からの圧迫を受けていました。「あなた以外の支配者が我らを支配しています」と言われる現実です(13節)。 イザヤは、そのような国々への主の罰と滅びを語ります。彼らは死者、死の霊と言われています。それらは再び生きることもなく、立ち上がりよみがえることもありません。神を真実に知ることがないからです。 では、神を信じる一人ひとりはどうでしょうか。彼らも、神を知らない国々の支配の中で苦しんでいて、それが産みの苦しみにたとえられています。信仰の民であっても主からの苦難と懲らしめを受けると言われているのです。 しかしその中で、この世の支配者とは対照的に、主にある死者は命を得て、死の霊が生きると言われます。信仰の民は、苦難と懲らしめに向き合わされることがあっても、その中で、神との豊かな命の交わりに生きることが許されているのです。 神から与えられた救い主は、復活のイエス・キリストです。私たちはたとえこの世の悲惨や支配の中にあっても、それを超えた平和と命に生きることが許されています。 【祈り】 人間の罪ゆえに、地上での戦いと悲惨があります。しかし、そこにもあるあなたの恵みを確かに見させてください。 Tue, 26 Sep 2023 00:10:00 +0000 死を永久に滅ぼす圧倒的な喜び(イザヤ書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230926 no 2023 主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。 (イザヤ書25章7節~8節) 主の厳しい裁きを語ったイザヤは、ここで一転して主を喜びほめたたえています。 当時のユダの国は、周辺の力のある国々から攻め込まれる中にありました。しかし、それでも彼が主を喜んでいるのは、地上で力を持つ都や城壁のある町が主の前では全く無力であることを覚えているからです。 イザヤは終わりの日にシオンの山で開かれる、主による完全な喜びの祝宴を見ています。それは、罪ある人類を覆う死を永久に飲み込んでしまうほどの圧倒的な喜びでした。 地上の堅固な城壁や砦ではなく、ただ主だけに真の力があり喜びがある。危機の中にあるイザヤが見ていたのは、すべての人間にとっての喜びであり、待ち望まれていた救いの神でした。 私たちも同じ救いの神を仰ぎ見ることに招かれています。主なる神は救い主イエス・キリストをよみがえらせられて、その復活において死を完全に滅ぼされた、力あるお方なのです(1コリ15章26節)。 私たちの地上での歩みはとても小さく、弱いものです。しかし、たとえどのような状況にあっても、天を仰ぎ、神の限りない力と命の喜びに生きる導きが、きょう一日にもあるのです。 【祈り】 天の父よ。キリストによって明らかにされた、死をも滅ぼす神の偉大な力を、喜ぶ者にならせてください。 Mon, 25 Sep 2023 00:10:00 +0000 裁きを恐れ栄光の神を仰ぐ(イザヤ書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230925 no 2023 月は辱められ、太陽は恥じる 万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり 長老たちの前に、主の栄光が現されるとき。 (イザヤ書24章23節) イザヤはユダの民に、厳しい神の裁きの預言を語ります。 きょうの箇所で繰り返し語られるのは、地上の荒廃です。民も祭司も、僕も主人も同じ運命と言われ(2節)、地上の高貴な民が弱り(4節)、地上の喜びや楽しみは取り去られると言われます。まるでこの世の終わりの光景が示されているかのようです。 イザヤによれば、その原因はあくまでも地上に住む人間にあります。彼らが地を汚し、律法を犯し、神との契約を棄てたからです(5節)。 このイザヤの預言は、当時のユダの民の現実を超えた内容に思えます。神がないがしろにされ、地が汚され、神との契約が棄てられたような今の世にも語られていて、終わりの日についての警告と言えます。 月や太陽といった天体までがその日に恥じると言われる時に、私たちは神の激しい罰に震えおののくほかはありません。しかし、その日、「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり」と言われるのです。地の荒廃の中で、ただこの方の栄光が輝くと言われます。 神の御心は、きょうこの日、私たちがそれぞれ置かれた場所で、この神を仰ぐことにあります。この方が私たちにとっての唯一の光であり、魂の喜びなのです。 【祈り】 あなたの裁きの時を恐れつつ、唯一の光である栄光の主を、きょうわたしに仰がせてください。 Sun, 24 Sep 2023 00:10:00 +0000 後にいる者が先になる(マタイによる福音書 20章1-16) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230924 no 2023 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 (マタイによる福音書20章16節) あるぶどう園の主人が、労働者を雇うために夜明けに広場に行き、そこにいた人びとを1日1デナリオンの賃金で雇いました。そして、その後も、9時、12時、3時、5時に広場にいた人びとを前と同じ賃金で雇ってぶどう園に行かせました。そして一日の労働が終わると、最後に雇われた者から順に同じ額だけ賃金を支払うように命じました。しかし、最初に雇われた者は、最後に雇われた者と同じ賃金しか払われないのに腹を立てて不平を言います。 一日中働いた彼らは、1デナリオンは労働に対する正当な「報酬」であると考えました。しかし、最後に雇われた者にとって、もはやそれは「報酬」ではなく「贈り物」です。 ペトロは主イエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問いかけました(19章27節)。 そのように自分の忠誠心や犠牲を誇り、それらによって神から何かを「報酬」として受けようとするなら、神は私たちを「後の者」にされます。しかし、幼子のようになって、自分がただ神の憐れみをいただくしかない「後の者」であることを知るときに、何も持たない私に注がれている神の愛に目が開かれるのです。 【祈り】 自分が、ただあなたの恵みによってのみ生かされている者であることに気づかせてください。 Sat, 23 Sep 2023 00:10:00 +0000 摂理の神に導かれて歩む人生(使徒言行録 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230923 no 2023 パウロは、自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、…教え続けた。 (使徒言行録28章30節~31節) パウロたちの乗った船は難破しましたが、神の約束のとおり全員無事にマルタ島に上陸できました。島の住民は彼らを親切にもてなしてくれました。滞在中、島の長官プブリウスの父親が熱病と下痢で苦しんでいるのを知り、その家に行き、祈り、手を置いて癒しました。それにより、島のほかの住民たちも癒してもらうことになったのです。難破という試練は、思いをはるかに超えて主の御業が豊かに現れる機会となりました。 3ヶ月後、再びローマに向けて出航し、遂に彼らはローマに到着しました。主にある兄弟たちが迎えに来てくれたのを知ったパウロは神に感謝し、大いに勇気づけられました。 ローマでの2年間は「きょうの聖句」が示すように、軟禁状態であるとはいえ、訪問する人びとをだれかれとなく歓迎し、全く自由に神の国を宣べ伝え、イエス・キリストについて教え続けることができる、実に豊かな福音宣教のときとなりました。「ローマでも証しをしなければならない」との主の御言葉は、このようにして完全に成就したのです。 私たちが信じる神は、主の召しに従う者の歩みを導いてくださるだけでなく、その過程で、私たちの思いをはるかに超えた恵みを待たせておられる、生きておられる摂理の神です。 【祈り】 主よ、私たちもあなたの導きに従順に従うことができるように、御言葉によって導いてください。 Fri, 22 Sep 2023 00:10:00 +0000 絶望のなかで希望を語る信仰(使徒言行録 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230922 no 2023 「『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」 (使徒言行録27章24節) 待ち望んでいたローマへの旅が、遂に実現することになりました。パウロや他の囚人たちは百人隊長ユリウスに引き渡され、ローマに向かい船出しました。しばらくの期間、「良い港」に停泊した後、再び船出しました。パウロはその航海が季節柄、危険なものになると言いましたが、大多数の者の意見に従い出航しました。 間もなく暴風が島の方から吹き降ろしてきて、船は巻き込まれ、遂には流されるままになりました。暴風はますますひどくなり、ついに助かる望みも全く消えうせようとしていたとき、パウロは彼らの中に立って言いました。「元気を出しなさい。船は失うが、…だれ一人として命を失うものはないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました」。その言葉が「きょうの聖句」です。 主はすでにローマでの証しについてパウロに約束されていました(23章11節)。そして再び絶望的な状況の中で語られた御言葉を彼は堅く信じ、同船の者たちを励まし、彼らに生への確かな希望を与えることができました。そうできたのは、「わたしが仕え礼拝している神」という言葉が示すように、パウロの絶えざる神礼拝と神への献身があったからにほかなりません。 【祈り】 御言葉に固く立ち、どのような状況の中でも人びとに希望を与えることができる信仰を与えてください。 Thu, 21 Sep 2023 00:10:00 +0000 キリストのために生きる最高の人生(使徒言行録 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230921 no 2023 「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」 (使徒言行録26章29節) アグリッパ王とベルニケが、カイサリアのフェストゥスを表敬訪問したとき、パウロのことが話題に上りました。アグリッパ王がパウロの話を聞いてみたいと言ったため、再びパウロに証しの機会が与えられました。 熱心なユダヤ教徒で最も厳格なファリサイ派に属し、キリスト者を迫害することに人一倍熱心だった彼が、どのように主イエスに出会い、主の証人として召され、その働きに専念してきたかを話していたとき、フェストゥスは大声で言いました。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のし過ぎでおかしくなったのだ」。これを聞いて、パウロが応えた言葉が上記の「きょうの聖句」です。 将来を有望視されていたパウロが主に出会ったことにより、人生は一変しました。激しい反対者たちからの迫害に遭いながら苦難の中で多くの教会を広域に建てました。その後、エルサレムで逮捕され、今カイサリアで2年にも及ぶ軟禁生活を強いられています。フェストゥスは、パウロは何と愚かで損な人生を選択したのだろう、学問のし過ぎで頭がおかしくなってしまった、と思ったようです。 しかし、パウロにとってキリストは最高の価値あるお方であり、キリストを得、キリストのために生きる人生に彼は最高の価値を見出していたのです(フィリ3章8節参照)。 【祈り】 主よ、わたしにもそのような価値ある人生を歩ませてください。 Wed, 20 Sep 2023 00:10:00 +0000 信仰の旅路 ― 満ち足りて死に(創世記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230920 no 2023 アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。 (創世記25章7節~8節) アブラハムの長い信仰の旅路の終わりです。息子のイサクとイシュマエルによってサラが葬られているマクペラの洞穴の墓所に葬られました。長寿を全うしただけでなく、神が彼のために計画していたことが満たされ「充足して」御許に召されました。 しかし、アブラハムの生涯を顧みる時、満ち足りたものだったでしょうか。故郷を旅立つ時「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束されました。カナンの地に入った時「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。この子孫と土地の約束は、どうなったのでしょう。 「満ち足りて」とは、ほど遠いものでした。妻のサラからはイサクが一人生まれただけです。土地についてはマクペラの洞穴を墓地として確保しただけです。一握りの地を得たに過ぎません。子孫の約束も土地の約束も未完の状態ですが、これでよいのです。アブラハムに始まった神の御業は、イサク、ヤコブ、ヨセフ…と世代を超えて継承されていきます。 私たちの人生も未完なのではないでしょうか。信仰の働きとミッションは一代で完了しません。世代を超えて担われるのです。私たちは希望において満ち足りて召されるのです。 【祈り】 主なる神よ。わたしも今、人生の旅路の終わりにさしかかっています。思い煩いを、あなたに委ねて終わりを全うさせてください。 Tue, 19 Sep 2023 00:10:00 +0000 信仰の旅路 ― 回復してくださる神(創世記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230919 no 2023 主は彼を外に連れ出して言われた。 「天を仰いで、星を…数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 (創世記15章5節) 信仰の旅路は、安易でも平坦でもありません。アブラム(アブラハム)も失敗と挫折を繰り返し経験しました。飢饉を避けてエジプトに逃れ、信仰者として恥ずかしい経験もした。いつまで待っても子が与えられない。 今、アブラムは失望の淵に立っています。神から「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われても虚しく響きます。「あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」。出るのはため息です。私たちも経験しているのではないでしょうか。 神の導きを信じて歩み始めても失望することばかりです。課題を抱えて悩み、先が見えず不安に押しつぶされ、神への信頼が揺らぎます。しかし、神は信仰的な危機に立つ人の傍らにあって神への信頼を取り戻してくださるお方です。俯いてため息をつくアブラムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言います。 下ばかり見ていた彼の目を上に向けさせます。満天の星空です。主は「あなたの子孫はこのようになる」と言われます。まさか、無理だろう。しかし、アブラムは自分の理性に抗って、神が全能であることを受け入れたのです。神はアブラムのこの信仰を「義と認めて」くださいました。 【祈り】 主なる神よ。わたしが失望し、不信仰になるとき、わたしを支えて、あなたに信頼する者とさせてください。 Mon, 18 Sep 2023 00:10:00 +0000 信仰の旅路 ― 信仰への旅立ち(創世記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230918 no 2023 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 …アブラムは、主の言葉に従って旅立った。 (創世記12章1節、4節) きょうから3回、「信仰の旅路」という主題でお話しします。アブラム(アブラハム)の信仰の旅路は、主なる神がアブラムに語りかけるところから始まりました。アブラムだけでなく、私たちの信仰への旅立ちも神の言葉を聴くところから始まります。主なる神は「あなたは…」と、私たちの心にいつも語りかけてくださいます。心を澄ませて聴きましょう。 信仰への旅立ちは分離から始まります。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて」と命じられます。「生まれ故郷」も「父の家」も、今までアブラムを育み支えてきたものです。しかし、神に従って生きるためには離れねばならないものがあることを受け止めねばなりません。 主は「わたしが示す地に行きなさい」と命じます。行くべき目的地は明示されていません。具体的には見えていません。「わたしが示す地」です。アブラムは行く先を知らずに「主の言葉に従って旅立」ちました。冒険です。この冒険の根底にあるのは神への信頼です。主なる神は一歩一歩を導いてくださいます。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(2コリ5章7節)。私たちも神の導きの御手に信頼して信仰への旅立ちを始めてみようではありませんか。 【祈り】 主なる神よ。あなたの御言葉に耳を傾ける者とさせてください。そして、あなたの御言葉に従って生きる者とさせてください。 Sun, 17 Sep 2023 00:10:00 +0000 「義務」ではなく「心から」(マタイによる福音書 18章21-35) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230917 no 2023 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 (マタイによる福音書18章35節) ある家来が、王に対して1万タラントンの借金をしていました。その家来が返済の猶予を願い出ると、王はこの家来を憐れに思って彼の借金を帳消しにしてやりました。なぜ王は、この家来の願いを聞き届けてやったのでしょうか。それは、王が膨大な額の負債を自分が損害として背負ってでも、この家来との関係を失いたくないと考えたからです。 ところが今度はその家来が、自分に100デナリオン(1万タラントンの60万分の1)を借りている仲間に厳しい取り立てを行いました。この家来にとって、自分の王に対する借金と、仲間との間の貸し借りは全く無関係でした。ところが王にとってはそうではありませんでした。事の次第を知った王は、激しく怒って家来を牢役人に引き渡しました。 誰かの罪や過ちを「自分と相手」という二者の関係で捉えるなら、相手の罪を赦すことは私たちにとって「損」でしかありません。しかし、私たちを赦すために、ご自分の御子をさえ惜しまずお与えになった「神」との関係において誰かの罪を見るなら、赦すことは私たちにとって「損」ではなく「恵み」となるのです。そしてこの愛の神を見上げる時に、「義務」ではなく「心から」相手を赦すことができる道が開かれるのです。 【祈り】 主よ、私たちが「義務」としてではなく、「心から」誰かを赦すことができる道を開いてください。 Sat, 16 Sep 2023 00:10:00 +0000 礼拝者に求めることは(詩編 24編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230916 no 2023 どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。 (詩編24編3節) 「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」と、問いかけられています。「主の山」と「聖所」を契約の箱が置かれている所だとすれば、神の臨在と深く関連があり、それと関係ある「主の山」に上る人や「聖所」に立つ人は、礼拝者であることが分かります。それならば、神を礼拝する人は誰か、と問いかけられていることに気づきます。 著者はそれについて、「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」だと答えています(4節)。神に選ばれた魂であるなら、その全員が礼拝者であり、礼拝者の心構えや姿勢を求められていることではないかと推測できます。神はそのような人を「祝福し、…恵みをお与えになる」と約束してくださいます(5節)。信仰の先祖であるダビデはそれを悟ったでしょう。 私たちは週の初めの日に共に集い、神への礼拝を守ります。その前の1週間の歩みがこの世との戦いであり、キリスト者としての信仰を清く守る戦いであります。 自らの力では潔白な手と清い心を持ち得ない私たちですが、主の憐れみによって、ひたすら「御顔を尋ね求める」者でありたいと思います(6節)。 【祈り】 私たちより先に立って戦ってくださる神よ、憐れんでください。 Fri, 15 Sep 2023 00:10:00 +0000 幻の実現に向けて前進する(使徒言行録 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230915 no 2023 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。 (使徒言行録25章12節) 2年もの間、パウロは総督フェリクスによってカイサリアで軟禁されていましたが、ようやく事態は進展し、ローマで証しするという幻の実現に一歩近づいていきます。 きっかけになったのがフェリクスの後任としてフェストゥスが赴任したことでした。着任後、彼がエルサレムへ上ったとき、祭司長やユダヤ人のおもだった人びとはパウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう依頼しました。途中でパウロを殺そうとたくらんでいたのです。しかしフェストゥスがその訴えを退けたため、彼らはカイサリアへ来てパウロの罪状を告発しましたが、立証することはできませんでした。 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、エルサレムで、彼の前で裁判を受けたいかとパウロに尋ねました。ローマで証しすることを待ち望んでいたパウロにとって、再びエルサレムへ戻ることはあり得ないことでした。後退を意味するからです。直ちに、彼がもっているローマの市民権を行使し、皇帝に上訴しました。止まっていたかのような事態が動き出した瞬間でした。 幻の実現を堅く信じ、今か今かと待ち望んでいたからこそ主の時が来たことを知ったとき、その機会を逃さず直ちに正しく行動できたのです。 【祈り】 主よ、幻の実現を待ち望んでいる者が、その時を正しく知り、行動に移せる知恵を与えてください。 Thu, 14 Sep 2023 00:10:00 +0000 抱いている希望について伝える(使徒言行録 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230914 no 2023 数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。 (使徒言行録24章24節) パウロはユダヤ人たちの陰謀によってエルサレムで命の危険にさらされますが、その計画が実行される直前に千人隊長に報告されました。ただちにその夜、彼はカイサリアにいたローマの総督フェリクスのもとに送り届けられました(23章)。 その5日後、大祭司アナニアの一行はカイサリアに来て総督にパウロを訴え出、「彼は『ナザレ人の分派』の首謀者であり非常に危険な人物です」と告発しました。その後、パウロに弁明の機会が与えられたとき、彼は聖書を信じ、復活の希望を神に対して抱いていることなど確信をもってフェリクスに語りました。 その数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラと来て、キリストへの信仰についてさらに聞くためにパウロを呼び出しました。彼が先の弁明で述べたことから興味を抱いたのでしょう。しかしパウロが正義や来るべき裁きについて話すと彼は恐怖を抱き、そこでやめさせました。 結果はどうであっても、パウロは要求する人に対して、常に彼が抱いている希望について、確信をもって伝える備えをしていた信仰者でした。 「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(1ペト3章15節)。 【祈り】 主よ、私たちが抱いている希望について、確信をもって伝えることのできる知恵と勇気をお与えください。 Wed, 13 Sep 2023 00:10:00 +0000 主の導きに従順に従うことによって(使徒言行録 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230913 no 2023 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 (使徒言行録23章11節) パウロを逮捕した千人隊長は、なぜ彼がユダヤ人から訴えられているかを知るために、祭司長たちと最高法院全体の招集を命じ、パウロを彼らの前に立たせました。死者の復活があるかないかについてファリサイ派とサドカイ派との間に激しい論争が生じ、最高法院は分裂しました。パウロに危害が及ぶことを案じた千人隊長は兵士たちに命じ、彼を連れ出し、兵営に連れて行きました。 その夜、主はパウロのそばに立って言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。 パウロは第3回伝道旅行の中で、エルサレムで待ち受けている苦難について聖霊によって予告されていました。しかし、それはエルサレムで神の恵みの福音を証しする機会であり、主に与えられた任務であると確信し、エルサレムへ来ました。待っていたのは、逮捕と監禁でしたが、それこそ摂理によって起きたことであり、同胞であるユダヤ人たちに力強く証しをする絶好の機会になったのです。一見、不遇と思われる出来事のなかで、主の御心は完全に成就していたことを知ります。計り知れない知恵によって万事を益とされるお方に私たちも信頼できる幸いを覚えます。 【祈り】 主よ、私たちの歩むべき道を導いてくださり、あなたのご栄光を現すことができるようにしてください。 Tue, 12 Sep 2023 00:10:00 +0000 的を射た人生を生きるために(使徒言行録 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230912 no 2023 「『主よ、どうしたらよいでしょうか』…主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。」 (使徒言行録22章10節) 聖霊によって告げられていたとおり、エルサレム神殿の境内でユダヤ人たちによって暴行を受けたパウロは、その後、千人隊長に引き渡されました。そのとき同胞であるユダヤ人たちに、彼がどのようにキリストと出会い、回心し、人生を変えられたかを証しする機会が与えられました。 パウロはガマリエルのもとで厳しい教育を受けて熱心に神に仕える者でした。その確信に基づきキリスト者たちを激しく迫害し、獄に投じ、死に至らせました。そしてさらなる迫害を計画し、ダマスコへ向かっていたとき、天からの強い光に照らされ、復活の主イエスと劇的に出会いました。 「主よ、あなたはどなたですか」という彼の問いに、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と主は答えられました。次に、彼が発した問いは「主よ、どうしたらよいでしょうか」、直訳すると「主よ、何をなすべきでしょうか」でした。それまで、キリスト者を迫害することが律法にかなうことだと考え、全力で迫害してきました。しかし、それは、全く的外れの行為であり、むしろ反対に主を迫害していたことに気づかされた瞬間でした。私たちの限られた人生が的を射たものになるために、主は私たちにもご自身を現してくださいました。 【祈り】 あなたは救い主、主です。あなたに、なすべきことを日々問いつつ歩む信仰を与えてください。 Mon, 11 Sep 2023 00:10:00 +0000 共に祈り励まし合う信仰の友によって(使徒言行録 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230911 no 2023 彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、…戻って行った。 (使徒言行録21章5節~6節) 使徒パウロと一行はエルサレムに向けて旅を続けていました。エフェソの教会の長老たちに別れを告げる説教のなかで、彼を待ち受ける苦難と決められた道を走り通す決意について語りました。彼らは非常に悲しみながらも共にひざまずいて祈り、主の御心にゆだねました(20章)。 その後、一行の船がティルス港に1週間停泊したとき、パウロたちは直ちに主の弟子たちを探し出し、宿泊し、交わりをもちました。初対面でも、すぐ気持ちが通じ合い、深い交わりができる兄弟姉妹の存在は貴重です。彼らは苦難がパウロを待ち受けていることを知り、エルサレムへ行かないようにと繰り返し言いました。しかし、パウロにとってそれは主の御心であり、福音を証しする使命をそこでも果たさなければならないという強い決意がありました。 1週間後、パウロの一行が乗船するとき、彼らは、妻や子供を連れて町外れまで見送りに来ました。「共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わした」とあります。深く熱心な祈りがささげられたのです。 使徒パウロが苦難の予告にも屈することなく、主の御心に従い通す姿に驚かされます。その背後に彼と共に、また彼のために熱心に祈り支えた多くの人々がいたことを知ります。 【祈り】 共に祈り、励まし支え合いながら、主の道を歩み続ける信仰の友を与えられていることを感謝します。 Sun, 10 Sep 2023 00:10:00 +0000 兄弟を得るために(マタイによる福音書 18章15-20) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230910 no 2023 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」 (マタイによる福音書18章15節) もし教会の誰かがあなたに対して罪を犯したとしたら、あなたはどのように対処するでしょうか。事を荒立てないようにして、その人とは距離を置こうとするでしょうか。それとも、その相手に復讐しようとするでしょうか。 主イエスは言われます。「行って二人だけのところで忠告しなさい。もしその人が忠告を聞き入れないなら、別の第三者と一緒に行って忠告しなさい。それでも聞き入れなければ教会に申し出なさい」と。そして、もしその人が忠告を聞き入れて罪を悔い改めるのなら、私たちは「兄弟を得たことになる」のです。ここに書かれているのは、罪人を断罪して刑に定めるための「規則」ではありません。罪を犯した人を戒めて悔い改めへと導き、「兄弟として得るための方法」です。教会の交わりは、報復や断罪のために与えられているのではなく、和解のために与えられています。 もし教会の二人以上の人が、罪を犯した人が悔い改めへと導かれるように心をあわせて祈るなら、その祈りの輪の中には主イエスも共におられるのです。そして、「わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束しておられます。教会には、あなたの罪のためにも祈ってくれる真実の友がいるのです。 【祈り】 主よ、罪を犯した兄弟姉妹が悔い改めに導かれるように祈る私たちの祈りを、どうか聞き届けてください。 Sat, 09 Sep 2023 00:10:00 +0000 神はわたしを力づける(詩編 23編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230909 no 2023 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖、 それがわたしを力づける。 (詩編23編4節) 詩編23編はよく知られている有名な詩編の一つです。これを暗唱する人も多くいるでしょう。また、ある国では、私たちが知っている「詩編歌」以外の別の曲をつけて、たびたび賛美します。この詩編の表題―「賛歌」―そのものです。 私たちにいつ歌を歌うのかと問いかけられたら、喜びが溢れるとき、希望に満たされるとき、平穏なときなどだと言えるでしょう。しかし、著者であるダビデは、「死の陰の谷を行くとき」と記されているとおり、死ぬほど厳しい状況の中で歌っていることが分かります。事情を詳しく説明しなくても、そのとき歌えることは、人間的に見ればありえない状況だったと思います。しかし、ダビデは違いました。自分の置かれている環境より、神に対する信頼は厚く、神を賛美しています。そんなことがどうしてできるのでしょうか。神に対する信頼があるとしても災いがなくなることはないでしょう。災いを目の前にしても恐れないダビデの信仰に憧れます。それができる理由は何でしょうか。何があっても、どのような状況であっても、ダビデにとっては神だけが拠り所であり、力づけてくださるお方です。私たちと同じ人間であるダビデが神を近くに感じてきたように、私たちも力づけてくださる神を信頼しましょう。 【祈り】 主よ、あなたを信頼し、その信仰によって生かしてください。 Fri, 08 Sep 2023 00:10:00 +0000 「70年」をどのように受け取るか(イザヤ書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230908 no 2023 ティルスは王冠を戴き…世界に重んじられていた。 それを定められたのは万軍の主である。 ティルスの誇る美しさをことごとく汚し…。 (イザヤ書23章8節~9節) 現在は遺跡と化しているティルスは、かつては地中海交易によって大きな繁栄を享受した都市国家でした。このティルスの繁栄は確かに主なる神によって与えられた繁栄でした。しかし、気をつけてください。聖書は、主の祝福としての繁栄を教えている一方で、繁栄が祝福の証拠であるとは限らないこともまた教えているからです。 主は人に辱めを与えるために、それに先立って誉れを与えることがおありです。主は聖なる御心により、人を高い所にまで引き上げてから没落させることもなさるのです。それからしばらくの後に、主が憐れみ深く顧みてくださって繁栄が回復されることもあります。しかし、それが主への信仰と悔い改めの伴わない繁栄である限り、その益は人にとって空しいものとされるでしょう。 ティルスが主から「忘れられている」期間は「70年」とされ、バビロン捕囚の期間と同じでしたが、ティルスにはイスラエルのような悔い改めはありませんでした。誉れや繁栄が与えられ、あるいは回復されたとき、ある人は、「これはラッキーだ」と根拠なく喜び、またある人は、人間の能力の高さをほめたたえるのでしょう。しかし、私たちは神に栄光を帰して祝福を受け継ぐ民です。 【祈り】 誉れも繁栄もあなたのご支配の中にあることを知り、御前にひれ伏す者とならせてください。 Thu, 07 Sep 2023 00:10:00 +0000 無信仰の古い喜びにとどまるな(イザヤ書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230907 no 2023 その日には、お前たちは 森の家の武器に目を向けた。 … しかし、お前たちは…遠い昔に都を形づくられた方を 見ようとしなかった。 (イザヤ書22章8節、11節) このエルサレムについての託宣は、「どうしたのか」という、驚きあきれるイザヤの言葉で始まります。「騒音に満たされ、どよめく都、喜びに浮かれた町」、それはイザヤにとって異様な光景でした。敵襲を受けても滅ぼされずに持ちこたえた都で、「やっぱりこの都は滅びない」との思い込みを深めて祝杯をあげていたのでしょうか。彼らはまた、「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」とも言うのですが、彼らには、本当に「明日は死ぬ」つもりなどありません。だから彼らは宮殿に配備されていた立派な武器を頼みとし、城壁の防備を固めるのです。 私たち人間は、いずれは確かに死を迎える時が来ますが、それはいつのことかは分かりません。それでどうするのでしょうか。主には目を向けず、危機対策を講じることで安心を積み上げつつ、いつ死んでも思い残すことがないように今を楽しく生きる、という人生の選択も現実にはあります。でも、そうした無信仰の生き方の末に訪れるのは、呪いのもとに置かれたままの、死の悲惨です。 しかし、私たちはそのような死の悲惨から決別しました。私たちは、私たちを造られた主、贖い主である主に目を向け、悔い改めて新しい喜びに生きる者です。 【祈り】 ただ主を賛美して主を喜び祝う人生へと導いてください。主を喜ぶことこそ私たちの力ですから。 Wed, 06 Sep 2023 00:10:00 +0000 預言者イザヤの痛み(イザヤ書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230906 no 2023 厳しい幻が、わたしに示された。… それゆえ、わたしの腰は激しくもだえ 産婦の痛みのような痛みにとらえられた。 (イザヤ書21章2節~3節) 主は預言者イザヤに、バビロンについての恐ろしい一つの幻を示されました。その幻はイザヤの目には、バビロンを襲ういくつかの破滅的な出来事が重なり合うように見えていたのではないかとわたしは思います。だとしたら、それは現実に見る光景よりもさらに強烈な映像だったかもしれません。イザヤはこの幻を見て、あたかも自分自身に襲いかかる恐ろしい出来事を予示されたかのように、「腰は激しくもだえ」「産婦の痛みのような痛みにとらえられ」「心は乱れ」「打ちのめ」されたのでした。 他者の滅びに自分を同一化させて、ここまで激情的に熱く深く心を揺さぶられてしまうことは、ごく普通の人の精神(メンタル)には耐えがたい負担かもしれません。このイザヤの痛みは、「災いだ。わたしは滅ぼされる」(6章4節)という、あの一連の特別な召命体験を伴って、特別な働きに召されたことに由来するものと考えられます。誰もがイザヤのようになることが求められているのではありません。 この預言者の痛みは、滅びに向かう私たちへの「憐れみに胸を焼かれ」た(ホセ11章8節)御父の痛みを暗示しています。さらには、時至って私たちの救いのためにご自身をお与えくださることになる御子の痛みを暗示するものでもありました。 【祈り】 一人も滅びることを喜ばれない御心を、わたしにも悟らせてください。 Tue, 05 Sep 2023 00:10:00 +0000 世の勢力に望みを置くな(イザヤ書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230905 no 2023 この海辺の住民は言う。 「見よ、アッシリアの王から救われようと…望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」 (イザヤ書20章6節) 自分たちの力では対抗できない軍事大国の支配・脅威の中で、中小の国々は同盟を結ぼうとします。 イザヤの時代には、アッシリアの支配・脅威に対して同盟を結んで対抗しようとした国々がありました。それはここで「海辺の住民」と呼ばれている地中海沿岸地域の国々です。そして、彼らにとっての頼もしい盟主は「エジプトとクシュ」でした。 そこで主は、彼ら「海辺の住民」が「助けを求め」「望みをかけていた」エジプトとクシュの行く末を予示しました。それは、エジプトとクシュの人びとが、見るも哀れな姿で「恥をさらしつつ」囚われ人となって引かれて行く様を表すものでした(4節)。それを表す役割を担った預言者イザヤは、哀れな囚われ人の姿を自分自身のいでたちで表すことに召されたのでした。裸の恥辱をさらしながら3年間も歩き回ったイザヤの姿は、見る者たちに強烈な印象を与えたことでしょう。その行為をイザヤに命じられたのは主でした。 しかし、残念ながら、それでも悟ることがない「海辺の住民」は、絶望の嘆きで終わることが預言されています。ユダもまた「海辺の住民」であり、この世の勢力を頼みとしてきたことを、ここで悔い改めるべきでした。悔い改めて、主に信頼することが求められています。 【祈り】 主よ、あなたに立ち帰って安らかに信頼する信仰をお与えください。 Mon, 04 Sep 2023 00:10:00 +0000 裁きの恵みを受けて(イザヤ書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230904 no 2023 主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。 (イザヤ書19章22節) 刑罰は、犯した罪への報いという一面を持つとともに、人を悔い改めへと導く教育的な面も備え持っています。 私が保護司をしていて出会った受刑者の中に、仮釈放を希望しないという人がいました。多くの前科のある累犯者だった彼は、ついに更生への決意を固めたことによって、刑期満了まで懲役を務め上げることを自ら希望したのでした。それは保護司の立場から見れば愚かですが、私は彼の気持ちを尊重することにしました。彼は釈放されると、もはや義務もないのに訪ねて来てくれました。 悔い改めの途上にある人は、刑罰さえも恵みとして受け入れ、そこには感謝さえあるのです。救いの途上にある人にとって、裁きは決して裁きのままでは終わりません。 イザヤの時代のエジプトでは、次々に王朝が立っては倒れ、争乱が起こっていました。そのような中で不安に陥った人びとは偶像崇拝や降霊術に依存しました。これらの悲惨な状況の背後には、じつは主の裁きがありました。自然環境にさえも及ぶ主の裁きですが、16節以下では裁きの後のいやしと祝福へと論調が転じます。「主に立ち帰」るとき、きっとエジプトもまた、主の裁きの恵みに目が開かれることでしょう。 【祈り】 私たちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめに感謝します。 Sun, 03 Sep 2023 00:10:00 +0000 自分の十字架を背負って(マタイによる福音書 16章21-28) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230903 no 2023 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 (マタイによる福音書16章24節) いよいよエルサレムへ向かうことを決意された主イエスは、これからご自分が多くの苦しみを受けて殺されること、そして3日目に復活することを弟子たちに打ち明け始められました。ところが、その言葉を聞いた弟子のペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、主イエスを諫めました。 自分の思いと神の示す道が異なるときに、このペトロの言葉は私たち自身の呟きになります。しかし、そのような呟きに主イエスは「あなたは…神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。そして、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じられます。「自分の十字架を背負う」とは、人生の重荷や苦しみを背負うことだけではありません。最も大切なことは、自分を捨てて、十字架の死に至るまで主イエスに従っていくことです。主イエスに従う道において背負う十字架は、苦しみと死の予告だけでなく、「3日目の復活」を約束された主イエスの「復活の命」へと私たちを導く命の十字架なのです。そして、その自分の十字架を背負って歩く私たちの前にはいつも、私たちの罪と死の十字架を私たちの代わりに背負って歩く主イエスの後ろ姿があります。 【祈り】 主よ、私たちを、自分の十字架を背負って主の後ろに従っていく者とならせてください。 Sat, 02 Sep 2023 00:10:00 +0000 神の憐れみと契約のゆえに(イザヤ書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230902 no 2023 そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。 … 万軍の主の名が置かれた場所 シオンの山へもたらされる。 (イザヤ書18章7節) これは、ヒゼキヤ王の時代に与えられた預言で(王下19、20章)、クシュとはエチオピアのことです。 アッシリアの軍隊が、自国に向かって南下していると聞いたクシュの王は、近隣諸国と同盟を組むために使者を送りました。そしてユダも、この同盟に加わるように求められます。 イザヤは使者に、メッセージを託して送り返しました(3節以下)。なぜなら、ユダがアッシリアを追い払うのに必要だったのは、神の助けのみだったからです。 アッシリアは、その時が来れば破壊される(37章21~38節)、「わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために」(37章35節)とイザヤは預言しました。 神に対する不信仰と高慢の罪は、近隣諸国のみならず、神の民も同じでした。神の民を悔い改めに導くために、諸外国による侵略という苦難を、神は御自身の民に許されたのです。 けれども時が来ると、神は御自身の民を救い出し、「そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされ」(18章7節)ます。それは、神の民が義しいからではなく、神がご自身の民、主の名が置かれた民を憐れんでくださるからです。ここに、私たちの救いの基と確かさがあります。 【祈り】 神様、あなたの変わらぬ憐れみと真実に感謝いたします。聖なる御名に栄光がありますように。 Fri, 01 Sep 2023 00:10:00 +0000 真の神を仰ぎ信頼しなさい(イザヤ書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230901 no 2023 その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。 (イザヤ書17章7節) ダマスコは完全に破壊される。これが、ダマスコに対する神の託宣でした。彼らは、真の神に信頼する代わりに、偶像や自らの力に頼ったのです。ダマスコの成功と繁栄は一時的なもので、神の裁きの前には、何の役にも立ちませんでした。 時として、私たちも、目に見える豊かさに心を奪われることはないでしょうか。高級な持ち物や住まい、娯楽など、成功のもたらすものの中に、充足感を求めようとします。そして、それらをお与えくださった神御自身から、目を離してしまうのです。 豊かであることは恵みです。けれども、それらの事物の中に、永遠の安息や変わることのない安全を求めるならば、的外れです。比較や競争、果てしない欲求に疲れ、空しさを覚えることでしょう。 また、彼らが拝んでいたアシェラ神は、バアル神の妻で、この偶像礼拝は不品行を助長しました。 現代の日本に、文字どおりのバアル礼拝はなくても、不自然な性的欲求を掻き立てるマスメディアや娯楽産業は、私たちの社会と生活に入り込み、魂や心身の健康を蝕もうとしています。 真実な愛と平和をキリストにおいてお与えくださった父なる神にこそ、信頼して歩みましょう。 【祈り】 神様、さまざまな豊かさが宣伝される社会で、祝福の源であるあなたを仰ぐことができますように。 Thu, 31 Aug 2023 00:10:00 +0000 イザヤの預言とモアブの滅びから学ぶ(イザヤ書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230831 no 2023 更に今、主は言われる。 「雇い人の年期のように3年たてば、多くの民を持つモアブの栄光は必ず終わり、わずかな者だけが残され、力はうせる。」 (イザヤ書16章14節) 「雇い人の年期のように」とは、辛い仕事に従事する労働者や傭兵が、契約期間の満了を心待ちにするように、その時が来ると、速やかに、そして確実に、行動が起こされる様子を表しています。 「モアブが幾たび聖なる高台にもうで、その神殿を訪れて、祈っても、何の役にも立たない」(12節)と言われたとおり、モアブの偶像が彼らを助けることはなく、彼らの傲慢は、イスラエルの神、生けるまことの神を怒らせるばかりでした。こうして遂にアッシリア帝国を用いて、神はモアブを裁き、滅ぼされます。 神の民イスラエルは、預言が、つまり、神がイザヤにお与えになった御言葉が成就するのを、目の当たりにしました。以前から語られていた主の警告を無視し続けると、どれほど悲惨な結果を招くことになるか、モアブの滅亡を通して、神の民は知ることになったのです。 ところが、彼らは、本当の意味で悟ることをしませんでした。イザヤを通して自分たちに向けて語られた神の言葉を真摯に受け止め、信じて従うことをせずに、滅びの道を突き進んだのです。倣ってはいけない神の民の姿、私たちへの大切な教訓がここにあります。 【祈り】 神様、わたしはあなたの御言葉に、耳を傾け、従っているでしょうか。どうかわたしをまことの神の民に変え続けてください。 Wed, 30 Aug 2023 00:10:00 +0000 モアブへの神の裁きと憐れみ(イザヤ書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230830 no 2023 わが心は、モアブのために叫ぶ。 … 彼らは、ルヒトの坂を泣きながら上り ホロナイムへの道で、絶望の叫びをあげる。 (イザヤ書15章5節) モアブ人は、アブラハムの甥ロトと、その長女の間に生まれた男児の子孫です(創19章30~37節)。エジプトを出たイスラエルがモアブの領土の通行許可を求めたとき、モアブ人はそれを拒否し(士11章17節)、バラムを用いて神の民を呪わせようとしました(民22章)。 モアブ人ルツがボアズと結婚し(ルツ記)、ダビデは要害に立てこもっている間、両親をモアブ王に託しました(サム上22章3節)。このような例外を除いては、モアブは常にイスラエルに敵対しており、申命記において、「モアブ人は、主の会衆に加わることはできない」(申23章4節)と書かれています。 神の御前に高慢であること、これは、神がもっとも忌み嫌われる罪です。そもそも私たち人間の堕落は、「神のようになれる」と、蛇に誘惑されて被造物の分を超え、神の戒めに背いたところから始まっています。ですから、神は、預言者イザヤを通してモアブの高慢を批判し、主の厳しい裁きを宣告しておられます。 しかし同時に、「わが心は、モアブのために叫ぶ」と言って、イザヤは心からの悲しみをも表します。彼の心は憐れみで満ちていました。そして、それは、イザヤを遣わした神から出た憐れみでした。 【祈り】 憐れみ深い神様、高慢の罪を示されたときに悔い改め、あなたの赦しをいただくことができますように。 Tue, 29 Aug 2023 00:10:00 +0000 全世界に及ぶ神の憐れみ(イザヤ書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230829 no 2023 まことに、主はヤコブを憐れみ 再びイスラエルを選び 彼らの土地に置いてくださる。 寄留の民は彼らに加わり ヤコブの家に結び付く。 (イザヤ書14章1節) 「まことに、主はヤコブを憐れみ、再びイスラエルを選び、彼らの土地に置いてくださる」。これは、神の民が捕囚後に帰還するという喜ばしい預言です。 しかし、イザヤの預言は、神の民の帰還に留まりません。「寄留の民は彼らに加わり、ヤコブの家に結び付く」と、イスラエル以外の民も、共に歩むようになることを告げています。 イザヤ書56章6、7節にも、このように書かれています。「また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。…わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。 主はアブラハムに、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と言われました(創12章3節)。神は、神の民を通して、全世界に恵みが及ぶことを願っておられるのです。そうして、イエス・キリストが私たちに与えられたのです。神の愛と恵みを独り占めしてはならないことを、もう一度、教えられます。 【祈り】 神様、あなたの願いをわたしの願いとして、キリストによる救いを伝えることができますように助けてください。 Mon, 28 Aug 2023 00:10:00 +0000 生ける真の神に信頼する(イザヤ書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230828 no 2023 バビロンは国々の中で最も麗しく カルデア人の誇りであり栄光であったが 神がソドムとゴモラを 覆されたときのようになる。 (イザヤ書13章19節) イザヤ書13章から、イスラエル周辺の異教の国々に対する神の裁きが語られます。13章は、バビロンに対する神の託宣です。 イザヤはここで、「バビロンは国々の中で最も麗しく、カルデア人の誇りであり栄光であった」と語っていますが、実は、この時点では、バビロンは、まだアッシリア帝国の一部にすぎませんでした。しかし、やがてバビロンは世界の強国となり、ユダを脅かすようになるのです。 イザヤは神の民に、やがて大国バビロンによって厳しい試練がもたらされること、しかし、そのバビロンも、「神がソドムとゴモラを、覆されたときのようになる」ことを告げました。 「立ち並ぶ館の中で、山犬が、華やかだった宮殿で、ジャッカルがほえる。今や、都に終わりの時が迫る。その日が遅れることは決してない」(22節)。バビロンに神の裁きが下ります。その有様もその時も、すべては主の御手の中にあります。ですからイザヤは、「泣き叫べ、主の日が近づく」「見よ、主の日が来る」と告げていました(6、9節)。苦難の日に信頼を寄せることができるお方は、大いなる主、生ける真の神のみなのです。 試練に遭うとき、他の誰よりも主に信頼し、主の御翼の陰に身を避けて祈りたいと思います。 【祈り】 神様、きょうも明日も、すべてをご存じで治めておられる大いなるあなたに、信頼して歩ませてください。 Sun, 27 Aug 2023 00:10:00 +0000 あなたがたは何者だと言うのか(マタイによる福音書 16章13-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230827 no 2023 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 (マタイによる福音書16章15節~16節) 主イエスは、ご自身の弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけるお方です。 このとき、主イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方に滞在していました。フィリポ・カイサリアは、パレスチナの北方、ヘルモン山の麓の水が豊かな避暑地で、多くの神々が祭られているローマ風の華麗な町でした。ローマ総督が駐留し、ヘロデ家の館のある町でもあります。一つには、異教の神々が祭られ、権力者の建物が並ぶ中で、主イエスは私たちの信仰の告白を求めておられます。 二つには、主イエスはまず「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問いかけられました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます」と答えます。そこで主はさらに「それでは、あなたがたは」と言って、問いかけられます。常識的な答え、この世の人びとの答えがあるだろう。その中で、あなたがた自身はどう答えるのか、ということです。主イエスは、私たち自身の真実な告白を求めるお方です。 この主の前に「あなたこそ生ける神の子、まことの救い主です」と告白する人は幸いです。まさにその信仰は天の御父からの賜物にほかなりません。この信仰告白の上に、主はご自身の教会を固く建てて、陰府の力にも打ち勝つものとしてくださいます。 【祈り】 主イエスを神の子と告白する信仰をいよいよ確かにしてください。 Sat, 26 Aug 2023 00:10:00 +0000 どんな状況でも神をほめたたえよ(詩編 22編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230826 no 2023 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。 (詩編22編23節) 主によって救われたキリスト者は、どのような状況にあっても神を心からほめたたえたいと願います。しかし、苦難の中にあって神を賛美し続けるに至るまでには、時間がかかることもあります。 詩編22編はダビデの祈りの姿を伝えています。神に対する彼の信仰は堅いものであったことがわかります。彼は、決して平穏無事な状況にいたわけではありませんが、神を求めています。厳しい状況に陥っていても、神のことについて語り伝え、賛美しています。 私たちも、ダビデのようにどんな状況にあっても神をほめたたえたいと願います。しかし、できるでしょうか。もし私たちが孤独でなければ、できるかもしれません。 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)、「助けてくれる者はいない」(12節)と嘆いています。しかし、その時もひとりぼっちであったのではありません。彼は共にいる「兄弟たち」について、「集会」について語っているではありませんか。主は貧しい人の苦しみを侮らず、助けを求める叫びを聞いていてくださいます。主に選ばれた魂が集められ、主を賛美するところこそ教会です。今の私たちも、聖霊の働きによって、苦難のなかでも、慰められ、支えられます。 【祈り】 主よ、まことの信仰に至らせ、主をほめたたえさせてください。 Fri, 25 Aug 2023 00:10:00 +0000 折が良くても悪くても伝道する(テモテへの手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230825 no 2023 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 (テモテへの手紙二4章2節) 手紙は4章まで来ますと遺言書めいてきます。パウロは走るべき行程を走り尽くし、後は後輩に託します。テモテに対しても、後輩を訓練して彼らに託するように命じています。 ここまで用意された道なら、さぞかし楽かと言えば、とんでもありません。テモテも、その同輩も後輩たちも、彼らがまじめであればあるほど迫害を受けると予告されます。では大変なときは何もしなくても良いのでしょうか。いえ。「折が良くても悪くても」伝道するのです。 ここには驚くような予告があります。3節で、「健全な教えを聞こうとしない」人々は教会の外の人ではありません。教会の中から「自分に都合の良いこと」を求めて、「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」人が出ます。ある意味、作った話の方がおもしろいのでしょう。ドキュメンタリーは時として退屈です。ただ、ここで言っているのは、福音からかけ離れたことに逸れ、罪とその救いに直面させないことのようです。「とがめ、戒め」る要素を嫌います。 しかしながら、罪を認めること、そこからの解放を切に願うこと、その救い主としてキリストを信じることはキリスト教信仰の大前提です。そこからの救いが私たちを励ますことを忘れないようにしましょう。 【祈り】 天の神よ。キリストにある福音の大切さを思います。絶えず伝道できるように導いてください。 Thu, 24 Aug 2023 00:10:00 +0000 救いに導く知恵である福音(テモテへの手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230824 no 2023 この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 (テモテへの手紙二3章15節) 悲観的になりたくなるほどの暗い未来です。多くの人の心から、最低限と思える公共性も道徳性も失われるのですから、こうなると誰を信じてよいのか分からなくなります。 どうすればよいのでしょうか。声の大きな人、あるいは大言壮語する人についていけばよいのでしょうか。その人がどんなに偉くても、人間である以上、不安定さがあります。だからこそ確実で安定したものでなくてはなりません。キリスト者にとってそれは神の言葉である聖書です。 テモテは母親と祖母がユダヤ人で、小さい時から聖書教育を受けてきました。パウロが第二次伝道旅行をしたとき、リストラで出会い、連れて行くようになりました。パウロはテモテが幼い日々、誰から学んだのか、何を学んだのかと問いかけます。そして聖書について語る有名な聖句に至ります。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、…義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)。 聖書から何を学ぶのでしょうか。最も大切なことは「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」です。この知恵こそ宝です。この宝を得て救いにあずかることで、生き方が決まります。大切なものを見失わずに聖書を読む人は豊かな幸いを得ます。 【祈り】 天の神よ。キリストにある福音に心から感謝します。何があっても手放さないように導いてください。 Wed, 23 Aug 2023 00:10:00 +0000 福音宣教者に必要な態度(テモテへの手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230823 no 2023 若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。 (テモテへの手紙二2章22節) パウロが自分のもとに愛弟子テモテを呼び寄せるために書かれた手紙ですが、福音宣教者としての指南書のような内容になっています。こうしたところから、昨日の「涙」は牧会に関わることと考えられるわけです。 ここで少し難しいのが「若いころの情欲」という言葉です。性的なことと考える人も多いでしょうが、この言葉は意味内容が広くて、訳しにくい言葉です。「青春の情」と言っているだけですが、「若さゆえの短気さ」「青二才的な生意気さ」という意味もあると言われます。 当時のギリシア・ローマ社会も、年功序列が幅をきかせ、若い人の意見はなかなか聞いてもらえなかったようです。テモテはこの点で苦労していたようですが、直後に「愚かで無知な議論を避けなさい」と続きますから、思弁的な論証だけの論証に走る傾向があったのかも知れません。しかし、福音宣教者に必要なことは「清い心で主を呼び求める人々」つまり教会員と共に「正義と信仰と愛と平和」を追い求めることなのです。 これらは「キリスト者的態度」のことで、「柔和に教える」ことの言い換えと理解すると良いのです。ムキになって激しく語ってもまず説得できません。温和に福音を語ることが大切です。 【祈り】 天の神よ。どうか私たちが福音を語るとき、優しく教え導くことができますように整えてください。 Tue, 22 Aug 2023 00:10:00 +0000 会って喜びで満たされたいと思う人(テモテへの手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230822 no 2023 わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。 (テモテへの手紙二1章4節) 使徒パウロがエフェソで牧師をしているテモテに宛てて送った手紙です。パウロは裁判のためにローマにいましたが、予想される結果が良くなかったのでしょう。処刑される可能性が強かったため、急いで来てくれるように要請しています。 この手紙には、パウロの弟子に対する愛情が溢れています。前回会った時にテモテが流した涙については幾つか意見があります。別れを惜しんで泣いた涙だとする人もいますが、感傷的な涙のゆえにまた会いたいというのは奇妙です。会って互いに励まし合いたい、そのことで喜びに満たされたいほどのことですから、主に仕える同労者としての涙でしょう。 この手紙には福音に背いたり、パウロのもとを去ったり、福音をゆがめて踏み外した人の名前が何人も出てきます。こうした人々がパウロの心を引き裂きました。テモテもエフェソで似た体験をしていたようです。 この涙のゆえにテモテは気が弱かったと言われますが、そうではありません。パウロは「テモテに会って励まされたい」と言っています。彼の信仰の純粋さを見ることが励みになり慰められます。こんな評価を得られるのですから、彼は信仰に一途な人でした。信仰を貫く純粋さは大きな美徳だということを覚えましょう。 【祈り】 天の神よ。どうか私たちを、信仰の純粋さで、人を慰め励ます者とならせてくださいますように。 Mon, 21 Aug 2023 00:10:00 +0000 主の道こそが真理の道命の道(ホセア書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230821 no 2023 知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。 … 主の道は正しい。 神に従う者はその道に歩み 神に背く者はその道につまずく。 (ホセア書14章10節) 14章10節はホセア書の結論です。知恵ある者は、この書の言葉を「わきまえ」「悟る」ことが大切です。 「主の道は正しい」と主は言われます。そして人は、その主の道を歩むか、それともつまずいて他の道に行くか、二つに一つしかありません。「神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道につまずく」とあるとおりです。 たくさんの道があるのではありません。主の道を歩むか、それ以外の道を歩むか、道は二つだけです。主イエスご自身も「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハ14章6節)。主イエスという道を通らなければ「だれも父のもとに行くことが」できません。すなわち、主の道は一つです。真理と命の道は一つです。 主の道ではなく、他の道を歩んだイスラエルの民がどんな歩みになったかをホセア書は描き、繰り返して警告してきました。私たちはその警告をしっかりと受け止める必要があります。そして、ただ一つの道である、イエス・キリストの道を、まっすぐに共に歩んで行きましょう。主は、「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と、私たちを招き続けてくださっています(2節)。 【祈り】 主なる神よ。ただ一つの命の道である主の道を、まっすぐに歩むことができるように助けてください。 Sun, 20 Aug 2023 00:10:00 +0000 食卓から落ちるほど豊かな恵み(マタイによる福音書 15章21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230820 no 2023 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 (マタイによる福音書15章27節) 主イエスがティルスとシドンの地方に行かれたとき、一人の女性が娘のいやしを主に願い求めました。彼女は「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。「この地に生まれたカナンの女」すなわち異邦人でしたが、主イエスを救い主として知る信仰者とされていたものと思われます。 しかし、主イエスは何も答えず、弟子たちも「この女を追い払ってください」と言います。熱心に求める女性に対してとても冷たい仕打ちに思えます。主イエスはその理由を示して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃいます。救いの御業には順序があり、異邦人に示される時はまだ来ていないということです。 女性は、なお「主よ、どうかお助けください」と言います。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」との主の言葉を逆手にとって、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と続けます。女性は、自らが小犬と呼ばれる異邦人だと謙そんに認め、しかしまた、神の恵みは食卓からこぼれ落ちるほど豊かであり、異邦人にも必ず分け与えられるのだと確信しているのです。 主イエスは「あなたの信仰は立派だ」と言って、娘をおいやしになりました。神の恵みは、確かに異邦人にも分け与えられるほど豊かなのです。 【祈り】 異邦人の私たちにも分け与えられる豊かな恵みに感謝を申し上げます。 Sat, 19 Aug 2023 00:10:00 +0000 満ち足りても決して主を忘れない(ホセア書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230819 no 2023 荒れ野で、乾ききった地で わたしはあなたを顧みた。 養われて、彼らは腹を満たし 満ち足りると、高慢になり ついには、わたしを忘れた。 (ホセア書13章5節~6節) 13章では、改めてイスラエルの罪が告発され、滅びが宣言されています。四つの罪が告発されています。一つは偶像礼拝、二つ目は神の恵みに対する忘恩、三つ目が神よりも王を信用したこと、そして四つ目が神の時を逃したことです。 出エジプトの荒れ野において、神はイスラエルを顧みてくださいました。しかしイスラエルは、その神の恵みを忘れました。「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた」。 神は、約束どおり、イスラエルをカナンの地に導き入れてくださいました。しかし、神が約束を果たされると、神の民イスラエルはその神を忘れるようになりました。「腹を満たし、満ち足りると、高慢に」なりました。 いわゆる文化的で豊かな生活自体は悪いものではありません。しかし、そこには落とし穴があります。生活が満たされたとき、しばしば人は神から離れます。私たちは、自分の生活が満ち足りることを求める傾向がありますが、満ち足りたときに、自分が神に依存していることを忘れる傾向があることを覚えておく必要があります。主が言われたように、人は神と富とに兼ね仕えることはできません。 「わたしのほかに、救いうる者はない」(4節)。この真実に仕えます。 【祈り】 主なる神よ。豊かな生活の中で満ち足りても、高慢にならず、決して主を忘れないように憐れんでください。 Fri, 18 Aug 2023 00:10:00 +0000 生ける神を待ち望んで生きる(ホセア書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230818 no 2023 神のもとに立ち帰れ。 愛と正義を保ち 常にあなたの神を待ち望め。 (ホセア書12章7節) イスラエルの民は、ヤコブの子孫であることを誇りとしていました。しかし、ホセアはこの章で、ヤコブの多くの欠点を指摘しています。ですから、イスラエルの民はヤコブの子孫であることに安住してはなりません。そのイスラエルへの訓戒が7節の御言葉です。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」。 三つの命令がされています。第一は、神に立ち帰ることです。悔い改めること、罪を避けることです。 第二が、愛と正義を保つことです。偽りや欺きに生きないことです。この世の力に依り頼まないことです。愛と正義の上に生活を形づくることです。 第三が、常に神を待ち望むことです。常に神を待ち望むという、持続性を持つことです。 ヤコブは確かに偉大な先祖でした。しかし、私たちは人間的な過去の遺産に依り頼んで生きるべきではありません。自分自身が、生ける神の御前に立ち帰り、神を待ち望んで、神に依り頼んで生きることが大切です。 人間的な過去の遺産に安住してはなりません。神の民は、常にその歴史を、新たに始めなければなりません。そのために、生ける神に立ち帰ることが求められています。 【祈り】 主なる神よ。いつも神のもとに立ち帰り、神を待ち望んで歩ませてください。 Thu, 17 Aug 2023 00:10:00 +0000 神は心の向きを変えられた(ホセア書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230817 no 2023 ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。 … わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。 (ホセア書11章8節) ホセア書は、罪を犯し続けるイスラエルに対する神の裁きを語ってきました。しかし、ここで主は、「エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と自問しておられます。主ご自身の心の中で戦いがあります。罪に対する怒りと、憐れみとの葛藤です。そして憐れみが打ち勝ちます。8節の「わたしは激しく心を動かされ」は、「わたしの心は向きを変えた」という意味です。決定的な裁きが不可避の状態になっていました。そのぎりぎりの所で、神の側が心の向きを変えられました。 神はイスラエルの民を愛してきました。愛をもって叱責し、導こうとされました。しかし、イスラエルは変わりませんでした。そこで、「お前を見捨てることができようか」と憐れみの心に胸を焼かれる神は、惨めなイスラエルをも「再び滅ぼすことはしない」と決意されます(9節)。イスラエルの回心を待ってもらちがあきません。そこで、心を動かされる神の側が考えを変えられました。それが、ここに描かれている神の愛です。 イエス・キリストによって私たちに注がれている愛が、まさにその愛です。神は、罪の奴隷であった者たちを救うために御子を送られました。ここに愛があります。 【祈り】 主なる神よ。あなたが罪人の私たちを見捨てず、救いへと心の向きを変えてくださったことに感謝します。 Wed, 16 Aug 2023 00:10:00 +0000 正義と愛の実を刈り入れる(ホセア書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230816 no 2023 恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。 新しい土地を耕せ。 主を求める時が来た。 ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように。 (ホセア書10章12節) イスラエルの民に対して、主は「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ」と命じられました。この「恵みの業」とは「正義」のことです。それゆえ、主がイスラエルに求められたのは、「正義の種を蒔き、愛の実を刈り入れること」です。新しい土地を耕して、正義の種を蒔き、愛の実りの収穫を多く得ることが求められました。それが契約の神の民に求められていたことです。 私たちキリスト者は、新しいイスラエルと呼ばれる契約の民です。その私たちに求められていることも同じです。正義の種を蒔き、愛の実りを刈り入れることです。 イスラエルはこの主の委託に応えることができませんでした。それゆえ、滅びに定められます。このイスラエルの歩みは、まさに私たちへの警告です。イスラエルと同様、私たちにも多くの恵みが神から与えられています。この神の恵みに誠実に応えるのでなければ、私たちも裁きを免れることはできません。 イスラエルは「偽る心」「ふたごころ」を持ちました(2節)。私たちはそうであってはなりません。主なる神の誠実に対して、真実にお応えしていくことが何より求められています。「ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」と願いつつ。 【祈り】 主なる神よ。偽る心を持たず、神の誠実に真実にお応えして歩んでいかせてください。 Tue, 15 Aug 2023 00:10:00 +0000 争いの根源をいやす神との和解(マタイによる福音書 5章9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230815 no 2023 「平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。」 (マタイによる福音書5章9節) 「平和を実現する」という課題は、私たちにとって切実なことです。現在も戦争によって多くの人の命が奪われています。私たちは、世の中で起こっている現実に無関心に留まってはなりません。 主イエスは、平和を実現する人びとを幸いな人と呼ばれました。これは、主イエスによる平和を受けて、その平和を隣人にもたらす人びとのことです。主イエスによる平和とは、父なる神との和解です。つまり、神との和解に基づいて、人と人との平和を回復するために労することです。そのような人たちが「神の子」と呼ばれます。 神との和解は、人の争いの根源である罪を問題にしています。人の争いの根源は罪にあります。この世の悲惨は罪の結果です。しかし、主イエスに出会い、神との和解が与えられたキリスト者は、すべての争いと悲惨の根源である罪の赦しを福音として経験しています。 罪の赦しと和解の恵みをいただいた者であるからこそ、私たちは福音の種を蒔いていきます。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(ヤコ3章18節)。神との和解をもたらす主イエスの御業を宣べ伝えることが、平和を実現する道です。 【祈り】 世界の苦しみに寄り添い、その痛みを取り除いてください。平和の実現のために私たちを用いてください。 Mon, 14 Aug 2023 00:10:00 +0000 神の国の平和を覚えて(イザヤ書 11章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230814 no 2023 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 (イザヤ書11章6節) 狼や豹、若獅子のような肉食動物が、小羊や子山羊、子牛のような草食動物と一緒に過ごしています。もはや何ものも害を加えず、滅ぼすこともありません。通常は考えられない光景に思われますが、このような世界を思い巡らすと、わたしには、とても美しい光景に思えます。 私たちが主キリストと共に歩み、主に仕えて歩いていく、その先の世界がここに示されています。肉食動物のキバは、もはや誰かを傷つけることがありません。ここはすでに、神の愛を知り、神の愛に生かされている世界があります。私たちは、神の愛が満たされた平和の実現へ向かって、きょうも確かに歩むのです。 私たちにはキバがあります。それらが触れ合い、ぶつかるときに、互いに傷つけ合うことがあります。しかし、私たちがキリストを知る知識で満たされるときに、この愛と平和の神の国が実現します。それは、誰かを傷つけ、傷つけられることからの解放を意味するのです。 神の国が真実に実現するのは終末の時です。まずは神が約束されている平和の光景を心に留めましょう。その時に向かって、聖霊の働きを祈り求めて、キリストと共に歩みましょう。そうして、私たちは平和の実現に向かって歩み始めます。 【祈り】 愛する主よ。互いに傷つけ合う痛みから私たちを解放してください。あなたの愛で満たしてください。 Sun, 13 Aug 2023 00:10:00 +0000 安心しなさいわたしだ恐れるな(マタイによる福音書 14章22-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230813 no 2023 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 (マタイによる福音書14章31節~32節) 主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせます。しかし、弟子たちの乗った舟は逆風のため、波に悩まされ、漕ぎ進めることができません。夜の間中、弟子たちは不安な思いで湖の上をさまよったでしょう。主イエスに放り出されたように感じたかもしれません。けれども、真実には彼らは孤独ではありません。主は山の上で彼らのために祈っておられたに違いないからです。 夜が明けるころ、おそらく漕ぎ疲れて、もっとも助けが必要とされたとき、主イエスは弟子たちのところに行かれます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃって、弟子たちを励まされます。 湖の上を歩く主イエスのそばに行きたいと思ったのでしょう、ペトロは「主よ、あなたでしたら、…水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願います。「来なさい」との主の答えで、ペトロは水の上を歩いて主のもとに向かいます。主を見つめているとき、ペトロは歩いて進むことができました。けれども、強い風に気を取られると、沈みかけました。 私たちも、周りのことに気を取られて、主イエスから目をそらしてしまうことがあります。主は、すぐに手を伸ばして捕まえ、疑うことから信じることへと私たちを立ち帰らせてくださるお方なのです。 【祈り】 主イエスに目を注ぎ、主に助けを求めて歩む者であらせてください。 Sat, 12 Aug 2023 00:10:00 +0000 主に依り頼むことこそ勝利の秘訣(詩編 21編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230812 no 2023 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び躍る。 (詩編21編2節) すべてのことには秘訣というものがあります。一生懸命取り組みさえすれば、すべてうまくいくというものではないでしょう。ビジネスをするにも、スポーツをするにも、みな秘訣があります。適切な方法で練習をし、実戦に臨むときにこそ、勝利や成功をすることができます。 詩編21編は、ダビデがアラムとアンモンの連合軍と戦って勝ったのち、帰りに歌った歌だと言われます。ダビデは、生きて帰って来られるだろうかという恐れの中で、戦争に出たでしょう。しかし、神が共にいてくださり、戦争に勝利し、凱旋歌を歌いながら帰ってきます。ダビデは、自分が戦争で勝利した秘訣を、2節でこう歌います。「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び躍る」。主の御力に依り頼むことが勝利の秘訣であり、主に信頼して依り頼むダビデに主なる神が勝利を与えて応えてくださったからです。 私たちにも戦いがあります。霊的で信仰的な戦いです。信仰者の霊的な戦いは、主の御力に依り頼むことに立つ戦いです。私たちが主を信頼して、御力を祈り求めるとき、主は勝利の御救いで応えてくださいます。 私たちの勝利の源である主の御力に依り頼み、主の力ある御業をたたえて、賛美の歌をうたいましょう。 【祈り】 主の御力に依り頼み、信仰の戦いの勝利を得て、主を賛美できるよう、お導きください。アーメン Fri, 11 Aug 2023 00:10:00 +0000 主が望まれる純粋な礼拝(ホセア書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230811 no 2023 イスラエルよ、喜び祝うな。 …喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し どこの麦打ち場においても 姦淫の報酬を慕い求めた。 (ホセア書9章1節) イスラエルには三大祭があり、その際には、多くの人々が全土から聖所のある町に集まってきました。その集まった人たちに向かって、ホセアは語りかけました。「イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場においても、姦淫の報酬を慕い求めた」。 祭りを喜んでいるイスラエルの民に向かって、ホセアは「喜び祝うな。喜び躍るな」と語りました。なぜ喜んではいけないのでしょうか。それはイスラエルが「自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場においても、姦淫の報酬を慕い求め」ていたからです。つまり、その祭りは、主が望まれるような純粋な祭りではありませんでした。「自分の神を離れて姦淫し」とあるように、異教的な礼拝の形が混在していました。「麦打ち場」とはバアルの祭儀でよく用いられた場所です。バアル礼拝では淫らなことが行われましたが、主の祭りでも行われるようになっていました。 主への礼拝とバアル礼拝が混在していました。異教的要素が入り込んでも、主への礼拝が行われていればそれで良い、と主は言われません。 信仰の熱心が、主を愛し、主の御言葉を聞く純粋な礼拝として現れることを、主は望んでおられます。 【祈り】 主なる神よ。御言葉に従った、純粋で熱心な礼拝をささげる者たちとならせてください。 Thu, 10 Aug 2023 00:10:00 +0000 神の言葉に従った純粋な神礼拝(ホセア書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230810 no 2023 エフライムは罪を償う祭壇を増やした。 しかし、それは罪を犯す祭壇となった。 (ホセア書8章11節) ホセア書8章には、イスラエルに対する神の裁きの言葉が記されています。彼らの罪は、第一に、神の契約を破り、神の律法に背いたことでした(1節)。口先では「わが神よ、我々はあなたに従っています」と言っていました(2節)。しかし、実際は、「神の恵みを退け」、神を無視して行動していました。 イスラエルの第二の罪は、偶像礼拝です。彼らは、神の名を用いて、金銀の偶像を作りました(4節)。 第三の罪は、宗教的欺瞞です。ホセアの時代、イスラエルの人々は熱心にいけにえをささげました。「罪を償う祭壇を増やし」ました。しかし、神の戒めを離れ、異教化した祭儀が神を喜ばせるはずがありません。神の律法は祭儀について教えていますが、12節にあるように、「彼らはそれを無縁のものと見なし」ました。神の律法を離れた、神礼拝になっていました。イスラエルは神に聞こうとせず、自分たちの判断で、また自分の願望を反映させて、神礼拝を行いました。自分たちの思いを中心にした礼拝でした。そのような礼拝を主は喜ばれません。13節にあるように、「主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる」のです。 主が求めておられるのは、御言葉に従った純粋な神礼拝です。 【祈り】 主なる神よ。自分の満足ではなく、主の御心に従った礼拝をささげさせてください。 Wed, 09 Aug 2023 00:10:00 +0000 高慢さは霊的視力を奪う(ホセア書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230809 no 2023 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。 彼らは神なる主に帰らず これらすべてのことがあっても 主を尋ね求めようとしない。 (ホセア書7章10節) 北イスラエル王国の最後の王となるホシェアは、王位につくとアッシリアに服従を示し、多くの貢物を送りました。それによって、イスラエルの滅亡を免れようとしました。しかし、それによってイスラエルの国力は奪われて行きました。けれども、「他国の人々が彼の力を食い尽くしても、彼はそれに気づかない」(9節)とあるように、イスラエルの人たちはそれに気づきませんでした。大国アッシリアに依り頼んでいることに安心し、徐々に身の破滅を招いていることがわかりませんでした。 なぜ、気づかなかったのでしょうか。それは、イスラエルの高慢さのゆえです。ホセアは語ります。「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である」と。国の存続さえ危うくなっているにも関わらず、イスラエルの支配者も民も「高慢さ」を失いませんでした。高慢さのゆえに、現実を現実として見つめ、受け止めることができませんでした。何が起きているのかが分かりませんでした。力が衰えても、なぜそうなったのかを謙虚に考えることができませんでした。高慢であるがゆえに、自分たちの問題を真摯に問うことができませんでした。 高慢さこそが、霊的視力を失わせるものです。自らの高ぶりを警戒しましょう。 【祈り】 主なる神よ。私たちを高慢さからお守りくださり、見るべきものを見る力を与えてください。 Wed, 09 Aug 2023 00:10:00 +0000 高慢さは霊的視力を奪う(ホセア書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230809 no 2023 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。 彼らは神なる主に帰らず これらすべてのことがあっても 主を尋ね求めようとしない。 (ホセア書7章10節) 北イスラエル王国の最後の王となるホシェアは、王位につくとアッシリアに服従を示し、多くの貢物を送りました。それによって、イスラエルの滅亡を免れようとしました。しかし、それによってイスラエルの国力は奪われて行きました。けれども、「他国の人々が彼の力を食い尽くしても、彼はそれに気づかない」(9節)とあるように、イスラエルの人たちはそれに気づきませんでした。大国アッシリアに依り頼んでいることに安心し、徐々に身の破滅を招いていることがわかりませんでした。 なぜ、気づかなかったのでしょうか。それは、イスラエルの高慢さのゆえです。ホセアは語ります。「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である」と。国の存続さえ危うくなっているにも関わらず、イスラエルの支配者も民も「高慢さ」を失いませんでした。高慢さのゆえに、現実を現実として見つめ、受け止めることができませんでした。何が起きているのかが分かりませんでした。力が衰えても、なぜそうなったのかを謙虚に考えることができませんでした。高慢であるがゆえに、自分たちの問題を真摯に問うことができませんでした。 高慢さこそが、霊的視力を失わせるものです。自らの高ぶりを警戒しましょう。 【祈り】 主なる神よ。私たちを高慢さからお守りくださり、見るべきものを見る力を与えてください。 Tue, 08 Aug 2023 00:10:00 +0000 主が喜ばれる愛と真実を伴う礼拝(ホセア書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230808 no 2023 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。 (ホセア書6章6節) 6節に、神が私たちに求めておられるものが何であるかが端的に記されています。神が喜ばれるのは「神への愛」と「神を知ること」です。神を知るとは、知識として知ることではありません。神との関係に生きることです。神が求められるのは、契約の民としての神への真実だと言えます。 それがなければ、どんなに動物のいけにえをささげても、神は喜ばれません。神が私たちに求めておられるのは、神への真っすぐな愛と全き献身であって、いけにえではありません。愛を伴わない儀式や信心深い装いによって、神を満足させることはできません。 犠牲をささげるなどの宗教的祭儀は、本来、神と出会うために与えられた恵みの手段でした。それが、本来の意味を忘れ、神への真実とかけ離れてしまえば、祭儀に対するどんな熱心も神を喜ばすことはありません。むしろ、神に悲しみと怒りとをもたらしてしまうことになります。 私たちに第一に求められているのは、生ける神に対する真実です。生ける神を愛をもって知ることです。その神の御前に、真実に生きることです。神が喜んでくださるのは、神への愛と真実を伴う礼拝です。そのような礼拝へと、神は私たちを招いておられます。 【祈り】 主なる神よ。あなたが喜ばれる、生ける神に対する真実な礼拝をささげる者たちとならせてください。 Mon, 07 Aug 2023 00:10:00 +0000 いつも神の御前に生きる(ホセア書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230807 no 2023 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。 (ホセア書5章5節) イスラエルの民は「淫行の霊」に支配されていました(4節)。その霊と一体なのが高慢さです。5節に、「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ」とあります。高慢とは、神を知らず、自分を正しいと考えることです。神の前に自分を省みて、自らの罪と欠けを嘆くのではなく、自分をよしとし、自分を正当化することです。 ホセアが活動を始めたヤロブアム二世の時代は、繁栄の時代でした。社会が繁栄するとき、人びともまた高ぶるようになります。社会の繁栄と高揚感の中で、神の民もまた驕り高ぶり、自分を見失っていきました。罪が見えなくなり、高慢に陥りました。 しかし、高慢な者は、5節後半にあるように、いずれつまずきます。高慢さが結局、自らをつまずかせることになります。 神の民も時代と共に生きる者ですが、時代精神に支配されてはなりません。経済成長と共に、教会の成長を期待して高揚感に満たされ、逆に、社会が閉塞感に覆われると、教会もまた閉塞感に覆われるようになる。それではいけません。私たちはいつも、時代を見つめて責任を負いながら生きますが、時代精神に支配されてはなりません。常にすべてを支配しておられるお方を見上げて、その方の御前に生きるのが神の民の責任です。 【祈り】 主なる神よ。どんな時代であっても、神の御前に責任を負って生きる者とならせてください。 Sun, 06 Aug 2023 00:10:00 +0000 あなたがたが彼らに与えなさい(マタイによる福音書 14章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230806 no 2023 弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった。 (マタイによる福音書14章19節~20節) 主イエスは、ご自身を追って集まる多くの人びとを見て、深く憐れみ、人びとを教え、いやしておられました。そこで行われたのが、この5千人養いです。主イエスは、この御業を通して弟子たちを励ましておられます。 夕暮れが近づいて、弟子たちは人びとの食事の心配をして、群衆を解散させるよう主イエスに勧めます。主は弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」とおっしゃいます。弟子たちは、「パン5つと魚2匹しかありません」と答えます。マルコ福音書によると、集まっていた人びとに食べさせるには200デナリオンが必要だったようです。とうていそのようなお金はなく、パン5つと魚2匹があるだけでした。 「…しかありません」「…できません」「わたしには無理です」。私たちはしばしば消極的、否定的に考えがちです。自分の小さく無力な姿を考えるからです。けれども、信仰は自分たちの姿から考えることではなく、主に信頼することから始まります。 主は、パン5つと魚2匹を取って天を仰いで祈り、祝福して裂かれます。弟子たちがそれを配ると、すべての人が食べて満腹し、有り余るほどでした。弟子たちは、主のくすしき御業に驚いたでしょう。主の御手にゆだねて、主に仕えるとき、この豊かな祝福にあずかることができるのです。 【祈り】 主に信頼して、自らを主にささげて歩む者であらせてください。 Sat, 05 Aug 2023 00:10:00 +0000 生ける神に真実に応えて生きる(ホセア書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230805 no 2023 主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。 主はこの国の住民を告発される。 この国には、誠実さも慈しみも 神を知ることもないからだ。 (ホセア書4章1節) ホセア書は4章以下で、北イスラエル王国に対する預言の言葉を記しています。冒頭に「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される」とあります。主が、イスラエルの民を訴え出ます。 告訴の対象は、北イスラエルという国家ではなく「イスラエルの人々」でした。神によって選ばれ、契約の民とされ、カナンの地を与えられ、律法に従って生きるように召された人々です。神の恵みを与えられた特別な民、その民を主は訴えると言われています。 では、イスラエルの民が訴えられる理由は何でしょうか。1節後半に「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ」とあります。イスラエルの民には、神の真実に応える「誠実さ」がありませんでした。神の愛に応える「慈しみ」もありませんでした。これらの言葉は、関係概念です。神の具体的な恵みに対して、民は不誠実に応答したのです。 つまり、イスラエルの民は、本当の意味で神を知りませんでした。神を知るとは、生ける神、人格的な神を知ることです。知識として知ることではありません。そして生ける神を人格的に知る者は、その方との関係に生きることになります。神の真実に応えるのが信仰の歩みです。 【祈り】 主なる神よ。生けるあなたの真実を知り、それに応えて生きる者とならせてください。 Fri, 04 Aug 2023 00:10:00 +0000 代価を払って買い取られた私たち(ホセア書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230804 no 2023 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」 (ホセア書3章1節) 預言者ホセアは、主の命令によって「淫行の女」であったゴメルと結婚しました(1章)。しかし、彼女はホセアを捨てて、淫行の生活に戻ってしまいました。そのホセアに、主は再び「姦淫する女を愛せよ」と命じられました。厳しい命令です。 この命令は姦淫を犯し続けるイスラエルを、主がなお愛しておられることを示すためでした。イスラエルは「他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛して」いました。この「干しぶどうの菓子」は、豊穣の女神アシェラにささげる供え物のことです。つまり、イスラエルは偶像崇拝にふけっていました。霊的姦淫です。 しかし、そのイスラエルを、主なる神は愛されました。その神の愛を、ホセアは、姦淫の妻を愛し、連れ戻すことで、具体的に示すことを求められたのです。 ホセアは主の命令に従いました。彼はゴメルを買い取ります。その値は、ほぼ奴隷1人の代価に当たります。ゴメルは堕落して身を売っていたのでしょう。ホセアは、代価を払って彼女を取り戻しました。愛は、必要な犠牲を払うことを伴います。 主の私たちに対する愛もそうです。私たちの代価は十字架につけられたイエス・キリストです。私たちは代価を払って買い取られたのです。 【祈り】 主なる神よ。何の値もない私たちを、主の尊い犠牲によって買い取ってくださり、感謝いたします。 Thu, 03 Aug 2023 00:10:00 +0000 民は主を忘れても主は忘れない(ホセア書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230803 no 2023 わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。 あなたは主を知るようになる。 (ホセア書2章22節) ホセア書2章前半には、背信のイスラエルに対する告発の言葉が記されています。「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(4節)。神はイスラエルに対して、離縁を宣告されます。主なる神とイスラエルとの関係は、結婚に喩えられる契約関係ですが、その結婚は、イスラエルの民の罪のゆえに破綻します。イスラエルの罪は偶像礼拝、バアル礼拝でした。偶像礼拝こそが霊的な「淫行」「姦淫」です。それゆえ主は、イスラエルに裁きを宣告されます。「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する」と言われます(15節)。イスラエルは愛人である偶像の後についていき、主を忘れ去りました。 しかし、その主がイスラエルの救いを約束されます。「その日が来れば」(18節)、すなわち神の裁きが終わった日に、神の救いが与えられます。これはただ主の恵みによるものです。 主なる神はイスラエルの民と新たに契約を結んでくださいます。破られることのない新しい契約です。そして民は「主を知るように」なります。民は主を忘れましたが、主は彼らを忘れず、再び神の民として回復してくださいます。これが神の恵みによる救いです。 【祈り】 主なる神よ。罪深い私たちを忘れることなく、恵みによって救ってくださったことに感謝いたします。 Wed, 02 Aug 2023 00:10:00 +0000 生きた言葉で神を伝える(ホセア書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230802 no 2023 主はホセアに言われた。 「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。 この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 (ホセア書1章2節) 「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」。これがホセアに対する主の命令でした。その行為を通して、主から離れて淫行にふけっているイスラエルに神のメッセージを伝えるのです。ホセアは、自らの結婚生活を象徴的行為とすることが求められました。それゆえ、ホセアには、職務と家庭の区別がありませんでした。神が、御自身の民のゆえに味わわれた苦悩を、自らのものとして抱えて苦しむのです。そうして、ホセアは自らの苦悩を通して、神の御心を伝えていくことになります。 神がホセアに求められたように、神の言葉は、それを語る者の生き様や生活と無関係に語れるものではありません。切り離して語ることを、神は許されません。 このことは、牧師・伝道者だけに当てはまることではありません。キリスト者はすべて、神によって立てられた福音の証人です。そして福音は、語る者の生き様や生活と切り離されません。成功物語を伝えることが伝道ではありません。むしろ、神に従うがゆえの苦悩の中で、語るべき言葉が与えられていきます。 キリスト者こそが、現代の預言者です。私たちは改めて、自らの信仰のあり方、生活のあり方を問うことが求められています。 【祈り】 主なる神よ。自分の生き様と結びついた言葉を通して、キリストを伝える者とならせてください。 Tue, 01 Aug 2023 00:10:00 +0000 永遠の命を目指す信仰の戦い(テモテへの手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230801 no 2023 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 (テモテへの手紙一6章12節) パウロはテモテに命じました。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と。「戦い」には「競技」という意味もあります。「信仰の戦い」とは、信仰を守り抜くための戦いであり、信仰の道を最後まで走り抜く競技でもあります。その戦いを立派に戦い抜いた者には、どんな賞金にも勝る「永遠の命」が与えられます。それゆえ、「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道」なのです(6節)。 ただし、信仰の戦いには、さまざまな誘惑や罠があります。何より気をつけ、避けたいのは「金銭の欲」です。金銭欲こそ、あらゆる悪の根であり、人びとを滅びへと突き落とすものだからです。「金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」しまうことも起こります。 私たちは「満ち足りることを知る」ことへと召されています。この世では「食べる物と着る物があれば」、「それで満足すべき」なのです。私たちが本当に追い求めたいのは金銭ではなく、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」です。そうして信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命という栄冠を手に入れましょう。そのためにこそ、神は私たちを召し、信仰告白へと導いてくださったのですから。 【祈り】 神よ、私たちがあなたの召しに従い、信仰の戦いを戦い抜き、永遠の命を手に入れることができるよう守り導いてください。 Mon, 31 Jul 2023 00:10:00 +0000 やもめと自分の家族を大切にする(テモテへの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230731 no 2023 やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。 (テモテへの手紙一5章4節) 夫に先立たれた「やもめ」は、経済的・社会的に弱い立場に置かれています。それゆえ初代教会は、やもめの世話を行っていました。パウロも「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」と命じています。ただし、「やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです」とも言われます。「大切にする」とは「敬う」という意味もあります。教会は「身寄りのないやもめ」を敬い大切にすべきですが、身寄りがいる場合は、子どもや孫が自分の家族を敬い、親や祖父母に恩返しをすべきなのです。なぜなら、「それは神に喜ばれることだからです」。それにもかかわらず、もし「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」と、厳しく警告されています。 もちろん、さまざまな事情で十分家族の世話ができない状況もあるでしょう。その際、他の人の助けを借りることも、神が備えてくださった手段です。ただ基本的には、神を信じ敬うことと、自分の家族を敬い大切にすることとは深く結び付いています。私たちは神を信じるがゆえに、自分にできる仕方で自分の家族を大切にしていきたいと思います。 【祈り】 神よ、私たちがまず、自分の家族を敬い、大切にすることを学ぶことができますように。 Sun, 30 Jul 2023 00:10:00 +0000 神の国は畑に隠された宝(マタイによる福音書 13章31-33,44-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230730 no 2023 「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」 (マタイによる福音書13章44節) からし種のたとえとパン種のたとえに共通することは、その開始が取るに足らないものであっても、やがて想像もできないほど大きく成長することです。神の国もこれと同じで、初めから仰々しく臨んだということではなく、むしろ隠された姿で到来しました。畑に隠された宝や良い真珠のたとえでも、同じことが語られています。人目にははっきりとは分からない。多くの人は気づかず、その上を歩き、素通りしているということです。しかし、多くの人が知らないでいるからと言って、それがそこにあるのかないのか、不確かであるということにはなりません。畑の中に確かに宝があるように、神の国も現実にこの世にある。主イエスの到来と共に来ているのです。これが第一に重要な事実です。 第二に重要な事実は、神の国とは宝であり、それを見出だした人は大喜びするということです。人間は罪を犯し、神との交わりが断たれてしまい、さまざまな苦しみと悲惨の中に置かれてしまいました。そんな私たちのところに、主イエスと共に神の国が到来しました。これを信じる者は、主イエスによって神と和解され、罪と死の支配から解放され、主イエスが統治する神の国で、永遠に生きる恵みが与えられているのです。 【祈り】 主よ、福音によって提示された宝を何よりも優先し、何よりも追い求める者とさせてください。 Sat, 29 Jul 2023 00:10:00 +0000 戦車を誇る者、主の御名を誇る者(詩編 20編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230729 no 2023 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。 (詩編20編8節) 詩編20編は、サムエル記下10章のアラムとアンモンの連合軍との戦争を背景にしています。当時、周辺国は、イスラエルにはない戦車や馬などの優秀な武器を持っていました。戦車や馬は、ソロモンの時代になってようやくイスラエルにもたらされたとされます。軍事力では大きな違いがあり、イスラエルには勝ち目がないと思われました。 しかし、ダビデは、神を信頼して戦いに出ます。戦いの勝敗は軍事力にあるのではなく、神にあることをよく知っていたからでした。そこでこう歌います。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」。「主の御名を唱える」とあります。旧約のユダヤ人は、主なる神は天におられ、主の御名がシオン(エルサレム)に置かれる、そして主の御名があるところに神のご臨在があると信じました。申命記の思想から由来する信仰です(申12章11節参照)。ダビデの軍隊は、その主の御名の旗を高く掲げて戦いに出たのです。 私たちにも同じ戦いがあります。霊的な戦いです。ダビデがそうしたように、私たちも聖霊を通して与えられたインマヌエルの主の御名に依り頼んで、敵陣に向かって走り、霊的な戦いを戦って歩みましょう。 【祈り】 主の御名を誇る者として、その御名に依り頼み、信仰の戦いを戦うことができますように。アーメン Fri, 28 Jul 2023 00:10:00 +0000 信心のために自分を鍛える(テモテへの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230728 no 2023 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。 (テモテへの手紙一4章8節) あなたは普段、運動をされているでしょうか(わたしはほとんどしていません)。パウロは「体の鍛錬も多少は役に立ちます」と言っています。確かに体を鍛えることは健康に生きるために多少役立つでしょう。またアスリートであれば、競技で勝利し、賞を得るために体を鍛えます。 しかし、パウロがテモテに本気で勧めていることは、「信心のために自分を鍛えなさい」ということです。「信心」とは「敬虔」とも訳されます。神を畏れ敬い、敬虔に生きるために自己を鍛えよ、ということです。そちらの方が、体を鍛えるよりも役に立ち、「すべての点で益となる」と言われます。なぜなら、「信心」もしくは「敬虔」は、「この世と来るべき世での命を約束する」からです。単にこの世での健康な生活ではなく、永遠の命が約束されているのです。しかもその約束は、「すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神」によるものですので、確かです。 私たちも、永遠の命という約束された賞を目指して、敬虔のために自分を鍛えていきましょう。そして、「キリスト・イエスの立派な奉仕者」として、共に「労苦し、奮闘」していきましょう。生ける神に希望を置いているなら、その労苦が無駄になることはありません。 【祈り】 生ける神よ、あなたに希望を置きつつ、敬虔のために自分を鍛え、永遠の命を得ることができますように。 Thu, 27 Jul 2023 00:10:00 +0000 教会役員にふさわしい人物とは(テモテへの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230727 no 2023 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。…清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。 (テモテへの手紙一3章8節~9節) パウロは、教会の「監督」や「奉仕者」にふさわしい人物について、さまざまな点から教えています。私たちの教会では長老(牧師を含む)や執事に当てはまることでしょう。 二つの職務には求められることに違いもありますが、多くは共通しています。結婚している場合、その「一人の」相手に誠実であり続けること。自分の家庭と子どもたちをよく治めていること。寛容で争いを好まず、人の悪口を言わないこと。「節制」、すなわち自分を制し、冷静でいられること。酒におぼれないこと。金銭を愛さないこと。品位があり、尊敬に値する人物であること。以上のような点において非難される点がないこと。つまり教会役員は、ただ教会で具体的な奉仕ができればそれでよいわけではありません。家庭生活を含めた普段の生活全体、その人柄全体が問われます。 これらは厳しい基準と言えるでしょう。とても自分はふさわしくないと思えるかもしれません。しかし、すでに教会役員になっている者は、教会による「審査」を経て、その務めに就かせられました。教会はこれからもそうしていくべきです。もちろん誰にでも欠けはありますから、神の憐れみと助けを共に祈り求めましょう。 【祈り】 神よ、あなたの教会にふさわしい役員が立てられ、仕えていくことができますよう助けてください。 Wed, 26 Jul 2023 00:10:00 +0000 すべての人のために祈る(テモテへの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230726 no 2023 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 (テモテへの手紙一2章4節) 私たちは普段、誰のために祈っているでしょうか。自分や家族、教会の兄弟姉妹のために祈ることがあるでしょう。それは大切な祈りです。しかしパウロは、それにとどまらず、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と勧めています。 そのような祈りは、「わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれること」、受け入れられることです。なぜなら、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ」るからです。そのような神の御心は、唯一の仲保者であるイエス・キリストが、すべての人びとのために御自身を贖いの代価としてささげられたことによって証しされました(5、6節)。キリストの十字架の死には、全世界の罪を償ってなお余りある価値と効力があります。そして、神は選ばれた者たちを悔い改めと信仰に導き、確実に救ってくださいます。 私たちは祈るとき、自分たちのことだけでなく、すべての人びとのために祈るよう、視野を広げたいと思います。私たちの救い主なる神がすべての人びとの救いを望んでおられるがゆえに、そのような祈りは御心にかない、受け入れられるのです。 【祈り】 私たちの救い主なる神よ、すべての人びとがキリストによって救われ、真理を知ることができますように。 Tue, 25 Jul 2023 00:10:00 +0000 信仰から生じる愛を目指して(テモテへの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230725 no 2023 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」 (テモテへの手紙一1章5節) パウロはエフェソの教会を牧会させるために、テモテをそこに残してきました。そのテモテに宛てて書かれたのが、この手紙です。 パウロには具体的な心配がありました。それは、教会の「ある人々」が「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたり」していたことです。しかも、彼らは「律法の教師でありたい」と思っていました。彼らは旧約聖書に出てくる系図に対し、根拠のない思弁的・伝説的な解釈を施していたようです。パウロはそのような教えが教会にとって無益で、むしろ有害なものだとわかっていました。なぜなら、それは「信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こ」すからです。一方、パウロの命令は、「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すもの」でした。しかし、ある人びとはその目的からそれて、「無益な議論」の中に迷い込んでしまったのでした。 たとえ聖書を解釈した教えであっても、「無益な議論」しかもたらさないことがあります。その聖書の読み方が、あるべき目標からそれてしまっているからです。信仰から生じる愛、この目標に向かう「健全な教え」(10節)にとどまり、聞き続けてまいりましょう。 【祈り】 主よ、あなたへの信仰から生じる愛を目指して、御言葉を読み、聞き続けていくことができますように。 Mon, 24 Jul 2023 00:10:00 +0000 回復以上の恵みの約束(アモス書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230724 no 2023 その日には …廃虚を復興して 昔の日のように建て直す。 こうして、… わが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。 (アモス書9章11節~12節) アモスの見た最後の幻では、偶像に汚された聖所の祭壇に立つ主なる神が、「罪に染まった」「小石ひとつ」こぼれることなく徹底的な裁きを下すと告げられます。背教と不正がはびこり、虚しい繁栄と平和を享受するイスラエルは、神の怒りの裁きを避けることは決してできません。 なぜイスラエルは自らを恵まれた民として自惚れてきたのでしょうか。神の目には他の国や民族と何の区別もありません。ただ神がその主権をもってイスラエルを選ばれたことだけが恵みの根拠です。その恵みを忘れ、神をも忘れ、偶像に支配され、罪に支配され続けた結果の審判です。罪に相応しい裁きは必ず起こります。 けれども、神は民を憐れみ、その後の回復と祝福を約束されるのです。 11、12節は、使徒言行録15章で、初代教会から始まろうとする異邦人伝道を励ます言葉として引用されます。旧約の裁きの預言者アモスの言葉が、新約のキリスト信仰の光を通して再解釈されます。アモスの預言が単にイスラエルの回復だけでなく、その回復したイスラエルを用いて世界宣教につながる異邦人伝道の幻を与える、という神の恵みがあったことを、再発見したからです。 【祈り】 「しかし、わたしは…信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)という主イエスの祈りにすがります。 Sun, 23 Jul 2023 00:10:00 +0000 父の国で太陽のように輝く日(マタイによる福音書 13章24-30,36-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230723 no 2023 「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 (マタイによる福音書13章43節) 主イエスが神の国をこの地上に本当にもたらしてくれるなら、その支配はもっとはっきりと現れるべきではないか。そうでないなら、この世の人びとと同じように生きる方が得策ではないか。このような問いは、誰でも持ったことがあると思います。 たとえの中で、僕たちは主人に毒麦の報告をし、毒麦を「抜き集めておきましょうか」と尋ねました。ところが主人は「麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えます。ここに、神の国に、善と悪が同居し続ける訳が述べられています。私たちは、さっさと悪にさばきを下そうとしますが、神のように善悪を明確に判断できるほど賢くはありません。だから、「両方とも育つままにしておきなさい」と言われるのです。 しかし、そのような状態がいつまでも続くのではありません。やがて良い麦と毒麦に分けられ、毒麦は火に投げ込まれ、良い麦は、父の国で太陽のように輝くのです。キリストは、再びこの世に来られ、その日、良い麦と毒麦に分けられ、良い麦に真の自由と解放が与えられるのです。洗礼者ヨハネも獄中において自分がいつまでも解放されなかったため、来るべき方は本当にあなたなのでしょうかと問いました。 【祈り】 主よ、この世で歩み続ける私たちに忍耐と希望を与えて、やがて来る御国の栄光を仰がせてください。 Sat, 22 Jul 2023 00:10:00 +0000 信仰の目で神のご栄光を見る(詩編 19編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230722 no 2023 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。 (詩編19編2節) 人類初の宇宙飛行に成功し、地球の大気圏外を一周したソビエト連邦(当時)の宇宙飛行士ガガーリンが、「神はどこにもいなかった」と言ったとされます。一方、アポロ15号に乗って月を探査したアメリカのアーウィンは、こう言いました。「月にいる間、わたしは神をとても身近に体験した」。 同じように宇宙で地球を見ても、その感想と告白は全く異なります。世界を見る心の目が違うからです。信仰者は小部屋の中でも神を感じられますが、神を信じない者は宇宙全体を回っても神を感じることができません。自己中心的な存在である人間は、自分の目に見えなければ存在しないと言います。しかし、可視光線の範囲外にある赤外線や紫外線などは確かに存在しますが、私たちの目には見えません。私たちの目に見えないからと言って、存在しないわけではありません。自己中心の眼鏡を外し、信仰の目で見れば、小部屋でも大自然の中でも神の栄光を見ることができます。 そこで、詩人はこう歌いました。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」。信仰の目をもって天と地のこの世界に満ちている神の栄光を見て、主を讃美する私たちの日々の歩みになることを願います。 【祈り】 信仰の目で、この世界に満ちておられる神のご栄光を見ることができるようにしてください。アーメン Fri, 21 Jul 2023 00:10:00 +0000 生きるために最も必要なものは何か(アモス書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230721 no 2023 このために、大地は揺れ動かないだろうか。 そこに住む者は皆、嘆き悲しまないだろうか。 大地はことごとく…押し上げられ また、沈まないだろうか。 (アモス書8章8節) アモスは偶像の虜になっているイスラエルに警告するため、神によって「あの地震の二年前に」召された預言者でした(1章1節)。それで、その言葉にこれから来る地震とその様子が印象的に予告されます。 天変地異は、最初の人が罪を犯し、「土は呪われるものとなった」(創3章17節)ので、その罪の悲惨から人間を襲うだけではありません。神を無視した人間の傲慢さと不正に「主の怒りは燃え上がり…山々の基は震え、揺らぐ」(詩18編8節)のです。「その日が来ると」自然の異変と、それに伴う悲しみと嘆きと、飢えと渇きで「気を失い」、「倒れて再び立ち上がることはない」徹底的な報いを受けることになると告げるのです。すべて「サマリアの罪」すなわち偶像礼拝が招いた結果です。 真の神の民であるなら、ここまで聞かされて、本当は何が最も恐ろしいことか、言い換えれば、生きるために欠くことのできないものは何か、をわきまえ知らなければなりません。 11節に「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」とあります。御言葉こそまことのパン、まことの水です。これなしに命を生きることはできません。神がいつも共にいてその御言葉で養ってくださる幸いを覚え直したいと願います。 【祈り】 キリストを主と呼ぶ者にとって、生きるために最も必要なことを、心に留めることができますように。 Thu, 20 Jul 2023 00:10:00 +0000 人を恐れず神のみを畏れる信仰(アモス書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230720 no 2023 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、「行って、わが民イスラエルに預言せよ」と言われた。 (アモス書7章15節) アモスは北王国にありながら、罪を犯し続けるイスラエルに真っ直ぐ神の裁きを告げます。そのようなアモスに、アマツヤは「ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな」と勧告しました(12、13節)。それは、後に聖霊降臨が起こって間もないときに、ペトロとヨハネに「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」大祭司らの言葉と重なります(使徒4章18節)。ベテルの祭司アマツヤは自分の勧告の中で、自ら神を軽んじる偽祭司であることをさらけ出したのです。 それに比して、裁きの幻を見せられた神に、アモスは、イスラエルへの裁きの執行をやめてくださるよう懇願しました。しかし、神は依然として悔い改めない民に、「見よ、わたしはわが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない」(8節)と御怒りをあらわにされるのです。 けれども、私たちは神の御心に気付かなければなりません。怒りの中でも消すことのできない熱情で、「わが民イスラエル」と呼ばれるのです。この神の変わることのない慈愛が私たちにいつも注がれていることを、決して忘れてはなりません。 【祈り】 十字架の上でなお、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた主イエスの御心を感謝します。 Wed, 19 Jul 2023 00:10:00 +0000 空虚を喜ぶ者らの末路(アモス書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230719 no 2023 主なる神は御自分を指して誓われる。 万軍の神なる主は言われる。 わたしはヤコブの誇る神殿を忌み嫌い その城郭を憎む。 (アモス書6章8節) アモスは12小預言書の中で、まだ滅亡の兆しもない時に、特定の日に神の裁きの「災いの日」(3節)が来ることを最初に告げた預言者です。 神に背き続けるイスラエルに災いをもたらす「一つの国を興」されること、神が忌み嫌い、憎まれるサマリアの神殿と城郭のある「都とその中のすべてのものを敵に渡す」こと、そして「レボ・ハマトからアラバの谷に至るまで」すなわち北王国の全領域が侵攻されることを予告したのです(8、14節)。アモスは、その「災いの日」が現実になれば、あれほど神を無視し傲慢に振る舞ったサマリアの人びとも、嘆きと恐ろしさで「主の名を唱える」こともなくなると警告します。 ただ淡々と罪の罰を述べるのではありません。「主なる神は御自分を指して誓われる」のです。「御自分」に相当するヘブライ語の「ネフェシュ」は、飲みこむ器官である「のど」という意味です。約束を破った時には、命をも辞さない真剣さを表わすために「のど」を指して約束する昔の人の表現です。御自分の民をどれほど愛して止まないか、神の本気の度合を突き付けられます。そしてこの熱情は、私たちを罪から贖うために、神の独り子をお送りくださるほどであったことに気づくはずです。 【祈り】 主イエスの尊い十字架の出来事をどれほどの思いで成し遂げてくださったかを覚えて御前にひれ伏します。 Tue, 18 Jul 2023 00:10:00 +0000 偶像を礼拝する誤りの本質(アモス書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230718 no 2023 イスラエルの家よ かつて40年の間、荒れ野にいたとき お前たちはわたしに いけにえや献げ物をささげただろうか。 (アモス書5章25節) 聖書の信仰は、神の言葉を聞くことから始まります。モーセに導かれた荒れ野の40年、食べる物もなく、羊の群れはいても神に献げることもできない民に、神は「天からパンを降らせ」て養い(出エジ16章4節)、人は神の口から出る御言葉をいただいて生きることを教えられました。しかし、それでも民は不安を埋めるため、御言葉の代わりに人の手による形を拝んだのです。この致命的な誤りである偶像礼拝がイスラエルから除かれることはありませんでした。 では、偶像を造らず拝まなければ、それでよいのでしょうか。物質的に恵まれた時代になり、いけにえと献げものを祭壇に並べ立てても、敬虔さを装い行う祭事は神を悲しませる虚しいものでしかありません。 この信仰の本質を民に理解させるために、戒めを教え説き明かす務めを担ったのが預言者でした。そらんじるほどに知られている神の御言葉であっても、民が皆よく理解していたとは限りません。そこに命をかけた預言者の説教がなければ、民に命の御言葉が響くことはありません。 偶像との闘いは、生ける御言葉のための闘いなのです。また、偶像は、何気ない日常のどこにでも潜んでいます。神を見失わないように、生きた御言葉に心を注ぎたいと願います。 【祈り】 神の御言葉をとりつぐ者と心を注いで聴く者が、真の礼拝にあずかり、また、つくることができますように。 Mon, 17 Jul 2023 00:10:00 +0000 疑うことなく信じてゆだねよ(アモス書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230717 no 2023 それゆえ、イスラエルよ わたしはお前にこのようにする。 わたしがこのことを行うゆえに イスラエルよ お前は自分の神と出会う備えをせよ。 (アモス書4章12節) 神に背き続けるイスラエルに、神は災いをくだされます。それでも偶像を拝む民の強情さは変わらず、神の怒りと嘆きは募るばかりです。かつて、奴隷であった民を去らせないエジプトでさえ最後の災いの前に屈したのに、イスラエルは「硫黄の火を降らせ…全住民、地の草木もろとも滅ぼ」(創世19:24-25)されたソドムとゴモラと同じように懲らしめられても、「お前たちはわたしに帰らなかったと、主は言われ」ます。 そうして、神の忍耐はついに切れたのでしょうか。「わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行う」と言われたのは、神の諦めを示されたのでしょうか。 確かに、北イスラエルの滅亡は近づいていました。そして、しばらく後に南ユダも滅びます。しかし、告げられた言葉は「自分の神と出会う備えをせよ」でした。まったくの裁きの宣告なら、「自分の神」という言葉を選ばれるでしょうか。慈しみ深い神は、たとえ国が滅びても、悔い改めて「自分の神」と会う民を期待しておられるに違いありません。聖なる審判と同時に恵みの約束を成就する決意を告げておられるのではないでしょうか。だからこそ、創造主なる神は、「その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙と」されたのです(13節)。 【祈り】 いかなるときも主をのみ見上げることができますように。そのわたしの主の御名は主イエス・キリスト。 Sun, 16 Jul 2023 00:10:00 +0000 御言葉の種をまかれる主イエス(マタイによる福音書 13章1-9,18-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230716 no 2023 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである。」 (マタイによる福音書13章23節) たとえ話は好きでしょうか。おそらく多くの人は、たとえ話が好きだと思います。分かりやすく、楽しんでその話を聞くことができるからです。 しかし、主イエスがたとえ話を語られた理由は、真に聞こうとする人びとと、そうでない人びとを分けるためのものだったのです。話を分かりやすくするためではありませんでした。反対に、はっきり語らないことによって、人びとに分からなくさせるためでもありませんでした。主イエスのたとえは、聞く気があり、心開かれている人は、たとえを通してますます豊かに持つ者とされます。そうでない人はますます真理が分からない者とされるのです。 どうしてそのような違いが生じるのでしょうか。それは、たとえ話を理解できない人びとには神がたとえを悟ることを許しておられないからだ、と主イエスは語ります。神は人びとの頑なな心さえも用いて御心を実現されるお方です。そういう意味では、たとえ話の理解には「神の主権」が深くかかわっています。 主イエスは9節で、「耳のある者は聞きなさい」と、たとえを結んでおられます。私たちは聞く耳のある者であり、心開かれた良い畑として、日々、聖書の御言葉によって養われる者とさせていただきましょう。 【祈り】 主よ、あなたが土の器のような弱い私たちに神の光輝く真理を現わしてくださいましたことを感謝します。 Sat, 15 Jul 2023 00:10:00 +0000 主なる神の切実なる呼びかけ(アモス書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230715 no 2023 万軍の神、主なる神は言われる。 聞け、ヤコブの家に警告せよ。 わたしがイスラエルの罪を罰する日に ベテルの祭壇に罰を下す。 (アモス書3章13節~14節) ソロモン王のあと、王国は分裂し、北王国はエルサレム神殿に対抗して、ベテルに金の子牛を拝む神殿を建てました。以来、王が代わっても、滅亡するまで200年にわたり、北王国はこの虚しい偶像のために勝手に定めた祭りとその祭壇の香を絶やすことはなかったのです。輝かしい出エジプトの恵みの出来事に汚点として刻まれた偶像崇拝は、罪の現れとして北王国で再燃し続けました。時代が代わっても、拭いきれない人の罪はなんと根深いものでしょうか。 しかし、真の権威者である神は、きよい義なる審判を決してなおざりにはされず、必ず執行することを宣告なさったのです。アモスは神の名を重ねて厳かに、民に襟を正して主なる神に耳を傾けるよう、そして、裁きまでの猶予の時にこそ、悔い改めて神に立ち帰るよう訴えます。 サマリアに滅亡をもたらすのは、敵国ではありません。神以外のものを拝み、神を拒んで無視し続けた結果、滅びを招くのはイスラエル自身である。そのことに気付け、と神は民に訴えられました。 自ら選び愛する民に、身を切られるような酷い仕打ちを受け続けられたのは神のほうです。それでもなお、神は私どもが主に立ち帰ることを切に願い待っておられるのです。 【祈り】 罪人を贖うために神自ら犠牲となって、十字架に架かり血を流してくださった主イエスをあがめます。 Fri, 14 Jul 2023 00:10:00 +0000 神の救いの出来事を思い起こせ(アモス書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230714 no 2023 お前たちをエジプトの地から上らせ 40年の間、導いて荒れ野を行かせ アモリ人の地を得させたのはわたしだ。 (アモス書2章10節) 神と神の民イスラエル、また神の民どうしの関わりを規定するすべての土台は、かつて神がエジプトで奴隷であった民を救い出されたという出来事です。神の民がエジプトから救い出され、荒れ野を導き、約束の地カナンを与えられたことは、神の民イスラエルの確かな存在理由です。そうであるのに、南のユダは「主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖も後を追った偽りの神によって惑わされ」(4節)、北のイスラエルは主によって立てられた「預言者に、預言するなと命じた」(12節)のです。 ユダとイスラエルの繁栄の絶頂期に、物質的な豊かさからの思い上がりが霊的な著しい衰弱を招きました。お約束にご自身、誠実な神のほうこそ、どこまでも愛し恵もうとする民に理不尽に踏みにじられたのです。偽りの神を拝む近隣の諸国諸族はもとより神の民の裏切りと背きの罪が、聖にして義なる神に裁きの「その日」を宣告させました。「お前たちの足もとの地を裂く。そのときは、素早い者も逃げ遅れ、…勇者も自分を救いえない。…勇者の中の雄々しい者も、その日には裸で逃げる、と主は言われる」(13、14、16節)。 しかし、主の恵みを思い起こすならいつでも、悔い改めて立ち帰ることを拒まれる神ではありません。 【祈り】 順境のときにも逆境のときにも、変わることのない主の愛を思い起こす静かな心をお与えください。 Thu, 13 Jul 2023 00:10:00 +0000 愛ゆえの神の警告に耳を傾けよ(アモス書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230713 no 2023 主はシオンからほえたけり エルサレムから声をとどろかされる。 羊飼いの牧草地は乾き カルメルの頂は枯れる。 (アモス書1章2節) 神の民イスラエルの信仰の根本は、神である主はただおひとりであるということです。この真理から少しでも離れるとどうなるのか。それを証しするのがイスラエルの歴史です。 時は、繁栄の頂点にありながら、北王国では唯一の神の真理から離れ、権力者や裕福な者たちによる貧しい人びとからの搾取が横行する時代でした。しかし、数十年後には滅亡が迫っていました。神を神としない民が、神の祝福を失うことは当然の成り行きですが、憐れみ深い神は民の悔い改めを求め、警告を発する預言者としてアモスを立てられたのです。 これまで「聞け、イスラエルよ」(申6章4節ほか)と信仰を育んでくださった神は、今いてくださる神殿からイスラエル全体に、獅子のように「ほえたけり…声をとどろかされる」のです。肥沃な地は乾き、カルメル山の豊かな樹木も枯れるような滅びの裁きが近いことを警告し、宣告されるのです。 この地上で、自分だけの生き残りをかけて醜い椅子取りゲームをしているような今の世界にあって、だれがひとりの神を信じて疑わず、神の御言葉にのみ依り頼み、義なる道を歩み得るでしょうか。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2テモ4章2節)。 【祈り】 どんなときにも従順に主の御言葉に聞き、身を慎み、宣教の業を果たせるようにさせてください。 Wed, 12 Jul 2023 00:10:00 +0000 悲劇から希望へと生きる(使徒言行録 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230712 no 2023 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。 (使徒言行録20章12節) この世の生活では、うまくいかないことがいろいろとあるかもしれませんが、神はそれらを神の栄光を現わす機会にお使いになります。きょうも、落ち着いて主の御手を信頼しましょう。 聖書を見ますと、パウロの福音宣教を邪魔するいろいろなものがありました。占いの霊や悪霊だったり、ユダヤ教徒たちだったり、お金に固執する人が町全体を巻き込んで暴動を起こしたりしました。しかし、神はそれらに勝る力によって、その都度御自身の栄光を現わされました。 そしてきょうの箇所では、死がパウロを邪魔しようとします。エフェソでのこれまでの宣教を締めくくるような大事な雰囲気の中で、パウロは夜中まで語り続けます。パウロの宣教によって信仰を得た人びとが集まり、パウロが語っていた最中に、一人の若者が落ちて死にました。この悲しみが、これまでのパウロの働きに傷をつけそうに思われます。しかし、ここでも神は栄光を現わされ、この若者を復活させました。悲劇は信仰をますます深める機会に変えられました。これが福音の力です。 罪の世界ではいろいろな悲劇が起こりえます。神はそれらを、ますます大きな希望を持てる機会へと変えてくださいます。この神がきょうもあなたと共におられます。 【祈り】 何が起きても、希望を与えてくださるあなたを賛美します。 Tue, 11 Jul 2023 00:10:00 +0000 へりくだってキリストの名で祈る(使徒言行録 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230711 no 2023 悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって…ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。 (使徒言行録19章16節) 主イエスの名を用いるとき、本当に主イエスの力を信じ、御前にへりくだる姿勢が私たちに求められます。私たちがへりくだって主イエスの名を用いるかどうか、神はご覧になっています。 パウロがエフェソで主イエスの名による洗礼を教え、授けたところ、特別なしるしが与えられることがありました。その頃、魔術を行う人たちがいて、パウロの不思議な業を見ました。彼らは、信じてもいない主イエスの名を使って悪霊を追いだしてみようとしたところ、逆に自分たちが悪霊によって痛めつけられ追い出されてしまったのです。主イエスの名の力はどこにいったのでしょうか。いえ、確かに働いているのです。神の摂理の中で、悪霊は魔術を行う者たちをへりくだらせるようにさせたのです。 この者たちは、着ている上着を剥ぎ取られて裸で逃げていきました。上着をぬぐとか、裸にさせられるとは、身を低くされる表現です(サム上19章24節参照)。 主イエスの名によって祈るなら、本当に心から主イエスを信頼し、御前に自ら低くへりくだり、神に従うように心がけましょう。そのような人を神は祝福し、豊かに用いてくださいます。 【祈り】 あなたの御前で、本当に相応しくへりくだって、主イエスの名によって祈れるようにしてください。 Mon, 10 Jul 2023 00:10:00 +0000 主の召命に応えて主に委ねる(使徒言行録 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230710 no 2023 アポロは…既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し…たからである。 (使徒言行録18章27節~28節) 主の召命に誠実に応え、今後の心配事を主に委ねましょう。主はそれに応えることができるお方です。 パウロが宣教旅行中、エフェソで御言葉を語り、大きな励ましを与えました。エフェソの教会はパウロにもっと長くいてほしいと願いましたが、パウロは主の召命を果たすために、このときはエルサレムに向かうことを決めました。もちろんパウロはエフェソ教会の人たちのことを心にかけて、自分が去った後に主が支えてくださるように祈ったことでしょう。そこで、福音を受け入れて回心したプリスキラとアキラをエフェソに留まらせました。 その後、雄弁な説教家アポロがエフェソに来ました。予想もしないことですが、これも主の尊い摂理です。アポロは大胆に御言葉を語り、エフェソの地を超えて教会を支えていきます。ただ、ヨハネの洗礼しか知らないことにプリスキラとアキラが気付き、彼を招いて神の道を教えました。ますますアポロは豊かな働きをするようになりました。パウロの後、このように人を備えてくださった神はいかに素晴らしいお方でしょうか。 皆さんが今置かれているところで、主の召命に応えましょう。心配事に思いもよらない仕方で主は応え、栄光を現してくださいます。 【祈り】 あなたの召命に応えるなら、あなたがすべてのことを満たしてくださると、確信できますように。 Sun, 09 Jul 2023 00:10:00 +0000 幼子のような者にお示しになった(マタイによる福音書 11章25-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230709 no 2023 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」 (マタイによる福音書11章25節) 主イエスはガリラヤで福音を語りましたが、ある人びとは福音を拒絶しました。わたしは間に合っています、結構ですということです。このような反応は、人間的に考えれば大変残念ですが、これも神の深いご計画の中にあります。 主イエスは、神を賛美しています。知恵ある者たちに真理が隠され、幼子たちに真理が現わされるという、神の御心が成就されたからです。25節の「知恵ある者や賢い者に隠して」とは、高い知性を持つ人は誰であれ、神の国に入れないということではありません。自分をそのような者として自負し、高ぶっている人のことです。また「幼子のような者にお示しになった」とは、神の国に入るために、子どものような人になるということでありません。自分を知恵ある者であるかのような誤った自負を持たないということです。 他人との比較はどうであれ、神の御前で私たちは小さな存在です。知っていることはごくわずかです。いや、ほとんど何も分かっていない、罪深い存在です。しかし、賢さや知恵など人間的に優れていると思われる点は、救われるために、何の役にも立ちません。救いとは無償の恵みです。幼子のように神に信頼し、心開く者に、神は救いを現わしてくださるのです。 【祈り】 主よ、あなたの招きに応じて、素直に主の御許に行く者とさせてください。 Sat, 08 Jul 2023 00:10:00 +0000 主はわたしの岩、わたしの砦(詩編 18編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230708 no 2023 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 (詩編18編3節) 砦とは、敵の攻撃に備えて都市や部隊を守るために造った要塞のことです。古代の要塞はとても堅固な石壁で建てられました。敵軍がたやすく攻撃できない安全な場所です。けれども、倒すことが全く不可能なわけでもありません。アッシリアは、要塞化されたイスラエルの城を、土で堡塁を築いて攻略したと言われます。このように、いくら堅固な要塞でも崩されてしまうため、詩人は3節で、ただ神だけがわたしのまことの砦、岩、避けどころだと歌います。 私たちのまことの砦は、主なる神です。ところが、まことの砦である神から離れた人間は、自分を守ってくれる砦を自ら建てようとします。ある人は、勤める会社が自分を守ってくれる砦だと思い、出勤して会社の大きなビルを見上げながら安心感を得ます。ある人は通帳のお金が、ある人は学歴が、ある人は人脈が、自分を守ってくれる砦だと考えます。しかし、堅固だったイスラエルの城が簡単に崩されたように、人間が造ったこの世の砦は、結局、崩れてしまうのです。本当の意味で私たちを守ることはできません。 詩編18編が語っているように、私たちのまことの砦は、ただ神だけです。その神を私たちの砦とし、私たちの人生をゆだねて歩みましょう。 【祈り】 主お一人を私たちを守るまことの砦とするようにならせてください。アーメン Fri, 07 Jul 2023 00:10:00 +0000 熱心に聖書を調べる(使徒言行録 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230707 no 2023 ここのユダヤ人たちは、…素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 (使徒言行録17章11節) 教えられたことを聖書全体から熱心に確かめましょう。そうすることで、皆さんの信仰はますますしっかりとします。 パウロの宣教活動は、喜びと困難の連続でした。テサロニケで宣教した際には、キリスト者が与えられましたが、暴動が起こり、迫害されることになりました。次の町で何が起こるのかわからない中で、ベレアへやってくると、そこの人たちの信仰がひときわ輝いていたのです。「ここのユダヤ人たちは、…素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」。他の町の多くのユダヤ人はパウロの教えに頑なであったのに対して、ベレアの人は素直に御言葉を受け入れました。さらに、それを確かめるために毎日聖書を熱心に調べていました。このベレアの人たちの取り組みは、そのまま今日の私たちの聖書の学びに活かせます。私たちの信仰は御言葉の明確な土台をもてばもつほど確かにされます。 新約聖書のある教えが、旧約聖書のあちこちに基づいているということを、一つ一つ引きながら確かめる。この作業によって、聖書全体からの理解をもって、誤った教えを正し、信仰理解をはっきりと持つことができ、正しく兄弟姉妹を励ますことができるでしょう。 【祈り】 聖書全体から御言葉を知る熱意をきょうも与えてください。 Thu, 06 Jul 2023 00:10:00 +0000 新しい地へ出て行って主に仕える(使徒言行録 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230706 no 2023 「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」…。パウロがこの幻を見たとき、…すぐにマケドニアへ向けて出発することにした。 (使徒言行録16章9節~10節) 世界へ御言葉が宣べ伝えられるため、神は皆さんを新しい地へ召し出すことのできるお方です。 パウロはテモテと出会い、主の導きの中で強力な弟子を得ました。ところが、この嬉しい出会いの後、聖霊によって、アジア州で御言葉を語ることを禁じられました。この困惑する出来事の意味が、マケドニア人の幻によって明らかにされます。「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください」。それまでパウロはアジア州で伝道していました。なおも同じアジア州で伝道しようとしていたところ、聖霊に禁じられ、海の向こうのヨーロッパへ伝道するように示されたのです。神がこう勧めておられるのでしょう。「新しい地へ出て行きなさい。そこでわたしの福音を宣べ伝えなさい」と。 きょうの御言葉は、昨今の伝道の困難にあっても、新しい地での宣教、また開拓伝道の大切さを思うきっかけになるのではないでしょうか。あるいは、思っているよりずっと遠くの地で、それこそ海の向こうで、あなたの宣教や何かの活動の召しが主に備えられているのかもしれません。地の果てに至るまで、宣教することを神は求めておられます。その意味で、新しい地での働きのため、主の導きを尋ねて祈り求めましょう。 【祈り】 あなたが新しい地へ出て行く召命をくださるとき、応える勇気をお与えください。 Wed, 05 Jul 2023 00:10:00 +0000 救われた確かな平安(使徒言行録 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230705 no 2023 「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、…何の差別をもなさいませんでした。」 (使徒言行録15章8節~9節) キリスト者は、神に受け入れられて救われました。神による救いなのですから、誰もクレームを付けることはできないのです。 パウロやバルナバの宣教活動において、異邦人が次々と救われました。このことをキリスト者は大いに喜びました。しかし、異邦人も割礼を受けるべきだと、ファリサイ派から回心した人たちがクレームをつけたのです。彼らと使徒たち両者は神の言葉を根拠にしていたので、激しい議論になってしまいました。旧約時代であれば、神が定めた割礼が必要なのは明らかです。割礼の廃止は、旧約聖書で明文化されていません。ところが、律法を定めた神御自身が、割礼のない異邦人をキリストへの信仰によって受け入れてくださいました。その事実やその預言を、パウロやペトロ、ヤコブが述べたことで、割礼不要ということが神の御心だと、みな理解できたのです。 ですから、神が受け入れてくださったという事実は慰め深いのです。キリストへの信仰によって、神が皆さんを受け入れてくださったという事実にクレームをつけられる人は誰一人いないのです。キリストによって、確かに救われる平安をもって歩んでください。 【祈り】 神さま、あなたが御子を通して、このわたしを救ってくださったことが確かなことを感謝します。 Tue, 04 Jul 2023 00:10:00 +0000 試練を通して神の子として証しされる(使徒言行録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230704 no 2023 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 (使徒言行録14章22節) 自分の思いではなく神に従っているのに困難が続くことがあったとしても、なお御言葉を信頼しましょう。このようにして皆さんが神の子として本物であることが証しされます。 13章で、最初の宣教地で成功を収めたパウロですが、その後、暴動や迫害と隣り合わせで宣教が続きます。平穏な宣教旅行ではなく、多くの反対者の中での宣教旅行です。その中で福音を信じる者が起こされていきます。彼らの存在がキラキラと光ります。信じ始めた者は、なんと直ちに暴動や迫害の対象となるにも関わらず、彼らは信仰を守っていきました。霊的な戦いと信仰者の歩みとを同時に始めなければならないことも、彼らは神の計画の中にあることを理解しました。 パウロはこう語ります。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。喜ばしいことに、多くの苦しみを経ることは、御国へ入る者のしるし、神の子のしるしなのです。苦しみの中で神さまは共にいてくださいます。 神は、きょうも生きておられ、皆さんに、思いもよらない困難や試練を経験させるかもしれません。その中でも信仰から離れず、しっかりと主につながっていることで、皆さんを見る人は知ることになるでしょう、この人の神こそまことの神だと。 【祈り】 試練の中で、あなたを証しできるよう、きょうも支えてください。 Mon, 03 Jul 2023 00:10:00 +0000 神のご計画と御言葉の力(使徒言行録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230703 no 2023 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。 (使徒言行録13章12節) 異邦人への宣教は神のご計画です。この神のご計画にそって御言葉を語り、また行うことは、誰よりも神御自身が支えてくださいます。自分の思いや能力より、神の力と導きを信頼しましょう。 パウロたちが異邦人世界へ宣教に行き、最初の地における成功は、その後の出来事全体を象徴するものでした。そこではある魔術師がパウロの邪魔をしました。いわば神の計画を邪魔する者です。そこでパウロは、自分の知恵ではなく、御言葉の権威を全く信頼して魔術師に向かって宣言します。「主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(11節)。こうして魔術師は退けられ、また、パウロを通して主の教えに心を打たれたその地の責任者である総督が信仰に入りました。神のご計画にそった働きには主が共にいて支えてくださいます。 日本は異教世界で、キリスト教への理解が実に浅い世界です。それゆえに風当たりの厳しい時は少なくないでしょう。しかし、神のご計画は何でしょうか。それはこの異教世界でも御言葉を受け入れ、行う人が起こされてゆくことです。色々な仕方での邪魔があっても、それすらも伝道の機会に用いる力を神はお持ちです。神の力と導きを信頼しましょう。 【祈り】 あなたのご計画と大いなる力を今日も信頼させてください。 Sun, 02 Jul 2023 00:10:00 +0000 福音に仕える者たちへの励まし(マタイによる福音書 10章40-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230702 no 2023 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水1杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」 (マタイによる福音書10章42節) 神を最優先にして人生を歩もうとするとき、どうしても周囲との摩擦を感じるものです。あなたにも経験があるかと思いますが、例えば「日曜日は礼拝を献げるため、仕事に出ることができない」などと言ったときに、周りから白い目で見られることがあるでしょう。場合によっては、この世の権威や秩序と対立したり、血縁関係にある親族と対立することが起こります。 しかし、主イエスのゆえに、そのような人生の苦難を甘んじる人に対する励ましの御言葉が、ここには書かれています。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた方を受け入れる」とは、私たちが、実は、キリストの代弁者、キリストの大使として立てられているという意味です。「この小さな者の一人に」とは、神の福音のために働く人であれば誰であれという意味です。神の福音を信じ、主イエスの後に従って十字架の道を進むことを、どうして恥ずかしく思うでしょうか。 他の人びとが何と言おうと、私たちは、十字架の福音こそ誇りとし、感謝し、福音に仕えていきます。私たちと共に苦難を担い、私たちに水1杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。それほど福音に仕えることが尊いと言われるのです。 【祈り】 主よ、私たちを、あなたと共に神の国を広げるために、福音に仕える小さき者たちとさせてください。 Sat, 01 Jul 2023 00:10:00 +0000 御姿を見るだけで満ち足りる(詩編 17編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230701 no 2023 わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 目覚めるときには御姿を拝して 満ち足りることができるでしょう。 (詩編17編15節) 1節と15節に「正しい」という言葉が繰り返されています。普通、正しいという言葉は、道徳的な意味で使われますが、聖書では神との関係を言い表します。神こそ真実に正しいお方であり、その神との関係がよければ正しい、そうでなければ正しくないと言われます。人間は、創造主なる神の御前に立ち、神と向かい合って初めて正しくあれるのです。 詩編17編の詩人は、創造主なる神と親密でよい関係を結んでいたようです。彼は厳しい苦難の中でも、自分を敵の攻撃から守ってくださるように、何よりもまず、神に祈っています。そして、最後にこう告白して祈りを終えます。敵の悪人は、世の中の物を求め、それで自分を満足させようとしますが、わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、御姿を拝することで満ち足りると言います。 祈りが叶えられるかどうかには関心がないように見えます。ただ祈りを通して神と出会い、御姿を拝することにもっと関心があり、それで満足します!神お一人で満足します!と告白しているのです。これこそ、神と親密な関係を結んでいる正しい人の祈りであり、告白です。 この告白をもって正しい人として神お一人で満足する私たちの歩みになることを願います。 【祈り】 神と親密な関係を結び、御姿を拝するだけで満ち足りる歩みになるようにしてください。アーメン Fri, 30 Jun 2023 00:10:00 +0000 賛美を共にし御国に送る(サムエル記下 30編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230630 no 2023 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。 泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 (サムエル記下30章6節) パンデミックが始まってもう3年。このパンデミック中、わたくしどもの教会では4名の現住陪餐会員を地上から見送りました。4名とも最後は、ご自宅でご家族に見守られながら地上の生涯を走り切られました。 ある方は教会のご近所だったので、ほぼ毎日と言ってよいほどお訪ねしました。そのとき、もちろん聖書も読みますが、わたくしがおもに用いたのは賛美歌です。「○○さん、お好きな賛美歌は? 何を今日、ご一緒に歌いましょうか?」とお尋ねすると、力を振り絞り噛みしめるように、「わたしのすきな さんびかは…『わかばの…さと…』」。「『みどりもふかき、わかばのさと…』ですね」。 「緑も深き若葉のさと、ナザレの村よ、汝がちまたを心清らに行きかいつつ、育ちたまいし人を知るや」(讃美歌122)。亡くなった4人中3人が、この賛美歌が愛唱賛美歌でした。 死を目前にした病床をお訪ねしつつ、毎回、いくつかの賛美をささげ、地上から天の領域に移される準備を共にいたしました。 「かいぬし わが主よ」(354) 「安かれ わが心よ」(298) まだ地上に共に居ながら、天の住まいを思いつつ、飼い主わが主イエスに祈りつつ、歌いつつ、賛美によって備えの時を共に過ごしました。 【祈り】 神様。わたくしどもが地上を離れる間際まで、あなたをたたえ歌う心をわたくしどもにお与えください。 Thu, 29 Jun 2023 00:10:00 +0000 鹿の涸れ谷に喘ぐがごとく(詩編 42編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230629 no 2023 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。 … わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を… (詩編42編2節~5節) 20年近く前、わたくしは、世界の改革派教会が集う協議会にカルヴィン神学校・大学賛美メンバーの一員として参加しました。朝に夕に協議会では礼拝がささげられ、カルヴィン賛美チームが礼拝を導きました。ある礼拝でジュネーヴ詩編歌42編を歌ったとき、ある節をわたくしが日本語で独唱しました。数名の日本人以外、みな日本語がわかりません。 しかし、その礼拝の後、一人の南アフリカ・オランダ改革派教会の牧師が、こう語りかけました。「あなたの言語はわからない。でも、我が教会でも改革派教会の伝統であるジュネーヴ詩編歌を歌っている。だから、あなたの賛美によって心が動かされた」と。 ジュネーヴ詩編歌は、改革派教会と呼ばれる多くの教会で伝統的賛美として数百年にわたって歌われ続けています。わたくしどもがジュネーヴ詩編歌を歌う時、時代と空間を超えて、この改革派教会に連なる数えきれない兄弟姉妹たちと一緒に、詩編を歌い、神への叫びを共有しています。そのことを実感させられた懐かしい、よき思い出です。 ジュネーヴ詩編歌を歌うとき思い出してください。多くの改革派伝統に立つ兄弟姉妹と共に霊的遺産である賛美を神にささげている事実を。 【祈り】 神様。時空を超えて、多くの民と共に賛美をささげている事実に思いを向けさせてください。 Wed, 28 Jun 2023 00:10:00 +0000 賛美の喜び -力のかぎり喜び踊る-(サムエル記下 6章12-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230628 no 2023 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。 (サムエル記下6章14節) この原稿を書いている今もなお、新型コロナウィルス蔓延の勢いは衰えることがありません。あなたがこれを読んでくださっている今、ウィルス蔓延がかなり収まっているといいのですが。 新型コロナウィルスが蔓延し始めた2020年初めから、2022年6月まで、新浦安教会では、オンラインによる礼拝出席者が全体の7~8割でした。だんだんと規制を解除していきましたが、最後まで、礼拝室では出席できず、家庭でオンラインで出席することを余儀なくされていたのが、小さな子どもたちのいるご家庭でした。教会の子どもたちに会えない寂しさは、たとえようのないものでした。 2年数か月ぶりに、子どもたちが戻って来て、喜びの賛美を共にささげるようになったとき、詩編126編のように、「わたしたちは夢を見ている人のように」なりました。礼拝で、小さな子どもたちが、コロナ前と同じように踊りながら歌うのです。コロナ直後に生まれた子どもも、オンラインによる礼拝で覚えた教会の賛美歌を自分で立って歌うようになっていました。「♪主よ、あなたの子どもらが♪」と。子どもも大人も、一緒に賛美できる喜びをダビデのごとく、喜び踊りながら祝いました。 【祈り】 父・子・聖霊なる神様。ダビデのごとく、あなたをたたえるために喜び踊らせてください。 Tue, 27 Jun 2023 00:10:00 +0000 全世界にその御業を示せ(イザヤ書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230627 no 2023 その日には、あなたたちは言うであろう。 「… 主にほめ歌をうたえ。 主は威厳を示された。 全世界にその御業を示せ。」 (イザヤ書12章4節~5節) 11章で預言されたように、ダビデの血筋から出る救い主によって神を知ることが全地に行き渡った時のことです。人びとは言いました。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです」(1節)。神は激しく怒っておられたのに、救い主のゆえに怒りを静め、慰めの言葉をかけてくださった、と言うのです。 私たちもキリストを信じた時に、同じような赦しの恵みを体験したのではないでしょうか。神の怒りによって滅ぼし尽くされても何も文句が言えないような私たちが、神の一方的な憐れみによって救われたのです。これはまさしく奇跡でしょう。 人びとはさらに言いました。「主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ」と。赦され、心に深い喜びを持つ人びとは、自分が受けた恵みを全世界に知らせようとするのです。私たちも同じではないでしょうか。キリストの十字架の赦しの恵みを体験した者は、あえてこの喜びを告げ知らせよと言われなくても、この喜びの知らせを、あの人にも、この人にも知ってもらいたいと切に願うものでしょう。そしてこの喜びの体験を、喜びと感謝をもって人びとに告げ知らせていくのです。 【祈り】 キリストの赦しの恵みを常に心に刻みつつ、喜びをもって福音を告げ知らせる者とならせてください。 Mon, 26 Jun 2023 00:10:00 +0000 平和への道は全地が主を知ること(イザヤ書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230626 no 2023 水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。 (イザヤ書11章9節) イザヤは、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育」つと預言しました(1節)。エッサイとはダビデの父のことです。その根からひとつの若枝が育つというのは、ダビデの血筋から救い主が生まれる、ということです。 また6節には、「狼は小羊とともに宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と言われています。ここには、猛獣と羊や幼子がいっしょに遊び、かみつくことも争うこともないような、とても平和な光景が描かれているのです。これは、救い主によってもたらされる真の平和を言い表しています。そのような平和が実現するのは、「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」、つまり、まことの救い主によって、神を知ることが全地に行き渡るからなのです。 主イエスは、「わたしを見た者は、父を見た」と言われました(ヨハ14章9節)。キリストを通して神のことを知ることは、まだ全世界に行き渡っていません。ですから、この平和はまだ完全には実現していないのです。けれども、その実現が約束されています。私たちの使命は、この平和を実現させるために、身近な人びとに福音を携えて行くことです。 【祈り】 キリストの福音を身近な人びとに宣べ伝えることによって、平和を実現する者とならせてください。 Sun, 25 Jun 2023 00:10:00 +0000 恐れるな神の摂理に信頼せよ(マタイによる福音書 10章26-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230625 no 2023 「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 (マタイによる福音書10章31節) 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(34節)。 もちろん主イエスは平和をもたらすお方です。神との関係を回復させて平和を実現してくださいます。しかしそれは、争いのない穏やかな状態を意味するものではありません。すべての人がただちに神との平和を受け入れるわけではないため、摩擦やあつれき、衝突や迫害が生じます。 ここで主イエスは、そのような衝突や迫害を恐れることはないとおっしゃいます。主イエスによって真実の平和、神との平和の土台が築かれているからです。弟子たちは神の御手によって守られているのです。 「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。「アサリオン」は当時のいちばん小さな貨幣単位で、これ以上細かくできません。そのため2羽まとめ売りで1アサリオンです。そのような小さな雀さえ、神はご自身の摂理の対象として守っておられます。ましてあなたがたはなおさらである。「あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている」とおっしゃいます。 たとえ争いの中でも、「恐れることはない」と主は言われます。平和は確かだからです。主に信頼して、平和を創り出して歩みましょう。 【祈り】 神よ、迫害の中でも、神の御手に信頼して、神の平和を宣べ伝えます。 Sat, 24 Jun 2023 00:10:00 +0000 神のみもとにある喜び(詩編 16編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230624 no 2023 主に申します。 「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 (詩編16編2節) ダビデは、彼を妬んでさまざまな陰謀を企てて彼を殺そうとするサウル王から逃亡し、ユダの荒野を逃げ回らなければなりませんでした。軍略に長けていたダビデも、希望を奪い絶望させようとする力にいつも翻弄されていたことでしょう。しかし、神に愛され神が共に歩んでくださっているという確信こそは、ダビデを支える力の源でした。 後に彼は王となり、イスラエル統一王国が誕生します。権力、軍事力の頂点に達したダビデでしたが、それにも増して、人類最終の敵である死を滅ぼし、復活の命への希望を示してくださる神を喜びたたえています。神の私たちへの愛は、この世を生きている間だけのものではなく、死の先までも、その御手の内に守っていてくださるものなのです。 私たちの肉体は、衰え、弱り、病気になり、やがては死を迎えなければなりません。しかし私たちと同じ体をもって生き、死の苦しみのすべてを担ってくださった主イエスによって、神は私たちの体をも復活させ、永遠の命を生きる新しい体を約束してくださいました。 どのような境遇に置かれても、「あなたのほかにわたしの幸いはありません」とのダビデの告白は、また私たちの告白でもあります。 【祈り】 主イエスの復活によって命の道を知らせ、その命に生きるよう招いてくださり、感謝いたします。 Fri, 23 Jun 2023 00:10:00 +0000 神を恐れぬ者を恐れるな(イザヤ書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230623 no 2023 それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。 「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。」 (イザヤ書10章24節) 神は、「災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。…神を無視する国に向かってわたしはそれを遣わ」すと言われます(5、6節)。アッシリアは、その強大な力によって、やりたい放題のことをしていた国であり、イスラエルの南北両王国を脅かしていた敵でした。しかし、そのアッシリアが「神の怒りの杖」、つまり神がご自身を敬わない国を打つために用いられる道具になったのです。 しかし、たとえ神の道具であったとしても、それ自体が神を敬わず、高ぶっているならば、決して裁きを免れることはできません。神は「斧がそれを振るう者に対して自分を誇り、のこぎりがそれを使う者に向かって、高ぶることができるだろうか」と言い(15節)、裁きを予告なさいます。他方、神を敬う人びとに対しては、「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。…やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る」と言われます(24、25節)。神を愛する人は何も恐れる必要がないのです。 ときには神を恐れない者たちを通して災いを被ることがあるかもしれません。しかし、それは、私たちを愛するがゆえの懲らしめであり、訓練であって、根本的な神の裁きは、キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちを通り過ぎていくからです。 【祈り】 神を恐れぬ者たちからの攻撃を恐れることなく、神のみを畏れる者とならせてください。 Thu, 22 Jun 2023 00:10:00 +0000 暗闇の中に輝く光キリスト(イザヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230622 no 2023 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 (イザヤ書9章1節) イザヤの預言どおり、北王国がアッシリアの侵略を受け、ガリラヤ地方は異邦人に支配され、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。ところがイザヤは、その地の人々について、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と語ります。 ここでイザヤは、「光が輝いた」、「人々は御前に喜び祝った」、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」という具合に、まるで既に起こった出来事であるかのように語っています。これは「預言者的過去形」と言われるものです。預言者は、神を信頼することで、その預言の成就を確信し、将来のことをまるで既に起こったことのように語りました。目の前にある現実は真っ暗闇で、どう見ても希望など見いだせません。ところがイザヤは、そのような真っ暗闇の現実の中で、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(6節)と信じ、やがて与えられる救い主イエス・キリストの到来を大胆に預言したのでした。 幸いなことに私たちには、既にイエス・キリストの救いの光が輝いています。たとえ目の前には暗闇の現実が横たわっていたとしても、まことの救い主に信頼することができます。私たちはキリストと共に希望の中を歩んでいきましょう。 【祈り】 たとえ暗闇の中にあっても、神の御手の中にあることを信じ、希望をもって歩ませてください。 Wed, 21 Jun 2023 00:10:00 +0000 神の恵みはゆるやかな流れ(イザヤ書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230621 no 2023 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み … それゆえ、見よ、主は大河の激流を 彼らの上に襲いかからせようとしておられる。」 (イザヤ書8章6節~7節) 「シロアの水」とはエルサレムの近くの泉から引いた水道のことで、神がエルサレムに注いでおられる恵みを指し示しています。シロアの水は、たとえゆるやかな流れであっても、エルサレムの住民の命をしっかりと支えていました。それと同様に、神の恵みも、たとえゆるやかに注がれているかのように思えても、確かにエルサレムの住民の命を支えていたのです。ところが、ゆるやかで静かなものは、とかく目を引くことが少なく、ないがしろにされやすいものです。エルサレムの住民も、この過ちを犯してしまいました。神の恵みが、絶え間なく注がれているというのに、それがゆるやかに注がれているために、当たり前のことと受け止めてしまい、それをないがしろにしてしまいました。それゆえに神は、アッシリアの軍隊を強く水かさの多いユーフラテス川の水のように襲来させ、ご自身の力を示される、と言われます。 私たちも、日々、当たり前のように与えられている神の恵みに気づかず、ぼんやりと過ごしていることが多いのではないでしょうか。気づかないほどにゆるやかに、しかし絶え間なく注がれている神の恵みを決してみくびってはなりません。それにいち早く気づき、感謝する者でありたいと思います。 【祈り】 どうか私たちに、絶え間なく、ゆるやかな仕方で注がれるあなたの恵みに気づかせてください。 Tue, 20 Jun 2023 00:10:00 +0000 落ち着いて静かにしていなさい(イザヤ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230620 no 2023 「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」 (イザヤ書7章4節) 南王国のアハズ王の時代に、アラムが北王国と共謀して攻めて来るという情報が入りました。そのときに、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と言われます(2節)。そのとき、神は預言者イザヤを通して、王にこう告げました。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と。 実はこのとき、アラムも北王国もアッシリアに滅ぼされる寸前で、あたかも燃え残ってくすぶる切り株のようでした。ところがアハズ王も、民も、そのようなものを恐れてうろたえていたのです。本当は、王も民も、じたばたせずに、静かにし、全能の神の御手の中にあることを信じて、祈り、神の御心を尋ね求めるべきでした。ところがアハズ王は、自分の思いを優先し、性急にアッシリアと同盟を組んでしまいます。その結果、目先の戦いには勝利したものの、後にアッシリアによって滅ぼされてしまったのでした。 私たちも不意に大変なことが起こると、ついついうろたえ、性急な判断をしがちではないかと思います。けれども、そのようなときこそ落ち着いて、静かにしていることが大切です。全能の神の御手の中にあることを信じつつ、祈るものでありたいと思います。 【祈り】 大変なときにこそ、全能の神の御手の中にあることを信じ、落ち着いて祈ることができますように。 Mon, 19 Jun 2023 00:10:00 +0000 このようなわたしを召してくださる主(イザヤ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230619 no 2023 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。 「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 (イザヤ書6章7節) 6章では、イザヤの召命の場面が描かれ、あらためてイザヤの預言者としての使命が語られます。 彼は幻の中で主なる神の神殿にいます。そこは主の栄光と威厳が満ち、彼は戸惑って災いだと告げます。彼は自らの罪に汚れた姿を自覚したのでした。 そのような彼に主の使いが飛んできて、彼の口に燃える炭火を触れさせ、あなたの咎は消され、罪は赦されたと告げます。その上で主は、誰を主に代わってご自分の民に遣わすべきかと問われました。彼は答えます、「わたしを遣わしてください」と。それまで自分の罪と汚れに戸惑っていたイザヤでしたが、自分の清さや力や誠実さではなく、主がこのわたしを清め、力づけてくださったゆえに、そして主が誠実であるゆえに、この務めに献身することを願ったのでした。 主の御用をなす者に必要なのは、自らの無力さや罪深さ、不誠実さを自覚することです。そして、このようなわたしを主が召してくださったゆえに、主の力によって、主の清さによって、主の誠実さによって御用をなしていくことを決意する者こそ、主が用いられる器となるのです。すべての教会に、主の御用をなすすべての者にきょうも主は告げておられます、「行け、わたしが遣わす」と。 【祈り】 主なる神よ。罪深く弱いわたしですが、罪赦され力を与えて、きょうも世に遣わしてください。 Sun, 18 Jun 2023 00:10:00 +0000 賢く素直に福音を宣べ伝える(マタイによる福音書 9章35節-10章25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230618 no 2023 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」 (マタイによる福音書10章16節) 主イエスは、町や村を回って神の国の福音を宣べ伝え、病気を癒やされました。また、重要なお働きは、「弟子を召す」ことでした。主イエスはご自身のあとに従って福音を述べ伝える弟子を召され、主の力と権能を授けて、お遣わしになりました。 派遣に際して、主イエスは「狼の群れに羊を送り込むようだ」とおっしゃいます。伝道の対象が狼なのではありません。弟子たちは「飼い主のいない羊のように弱り果て」ている人びとに遣わされます(9章36節)。しかし、狼のように人びとを食い物にする悪質な指導者がいて、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるような迫害が起こるかもしれません。弟子たちには地上の力は何もありませんから、彼らの前では弱い羊のようなものに過ぎないのです。 そこで主イエスは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とおっしゃいます。蛇は知恵と賢さを象徴し、鳩は素直さ、純粋さを象徴します。それは、遣わしたお方から来る知恵と賢さであり、遣わしたお方への素直さ、純粋さです。「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(20節)とある通りです。 地上の力はなくても、天からの力が与えられています。主イエスに仕えて、忍耐強く福音を宣べ伝えます。 【祈り】 蛇のように賢く、鳩のように素直な心を与えてください。アーメン Sat, 17 Jun 2023 00:10:00 +0000 主の幕屋に宿る人(詩編 15編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230617 no 2023 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。 (詩編15編1節) 主の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができる人とは、「完全な道を歩き、正しいことを行う人…」とあります。そのような人が神の救いにあずかることができると言うのです。救われるためには、それに相応しく節制し、正しい生活を守らなければならない。それはその通りでしょう。しかし、私たちは神の御前に正しく生きることのできない罪人です。どうしたら完全な道を歩くことができるのでしょうか。 罪の中にある私たちのために御子イエス・キリストが与えられました。私たちは、何かをしっかり守ったから救われるのではなく、ただ神の恵みと憐れみによって救われます。神の独り子であるお方が私たちと同じ人間となって、私たちの罪をすべて背負って十字架に死んでくださいました。主イエスは、ご自分を無にして、十字架の死に至るまで父なる神に服従してくださいました。このお方の徹底した服従によって、私たちに救いがもたらされたのです。 この主イエスの道を歩むときに、私たちも完全な道を歩む者とされます。私たちに与えられた救いの完成は、主イエスが私たちを父なる神の家に招き迎えてくださり、主イエスがおられるところに私たちもいるようにしてくださるということです。 【祈り】 主イエスによってもたらされた救いの恵みを信じ、それに信頼して自由に生きることができますように。 Fri, 16 Jun 2023 00:10:00 +0000 裁きの決定と歴史を支配される万軍の主(イザヤ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230616 no 2023 主は旗を揚げて、遠くの民に合図し 口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。 見よ、彼らは速やかに、足も軽くやって来る。 (イザヤ書5章26節) 5章では、イザヤが置かれていた当時のユダの民の現実とそれに対する神の裁きを語ります。 はじめに主は問われます。わたしが愛し、植え付け、守り育ててきたあなたがたに、わたしがしなかったことが「何か」あるのかと。もちろんありません、すべてを与えてくださいました。次に、では、「なぜ」お前たちは悪にまみれてしまっているのかと。返す言葉もありません。代わりに主なる神はユダの罪を具体的に並べた後、こう告げられます、それはあなたがたが「主の教えを拒み、イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ」と。逃れようのない罪が明らかにされ、こうして神の裁きとしての滅亡は確定的なこととなったのでした。 ここで主は「遠くの民」を呼ばわって、ユダの裁きをなそうと言われます。アッシリアやバビロニアは、主なる神が遣わされたものであると告げられているのです。それは、神は歴史と世界の主権者であって、迫り来る悲惨や滅びもまた神のご計画であること、そしてどんなことがあっても神を忘れず、絶えず見上げて救いを待ち望むこと、そこに希望があることを告げるのでした。 私たちも歴史や社会の状況に容易に翻弄される者ですが、それでも主の下に立ち帰り、そのご支配に依り頼んで歩んでいきましょう。 【祈り】 主よ。あなたの御前にある私たちに救いの言葉をお与えください。 Thu, 15 Jun 2023 00:10:00 +0000 裁きの先にある神の祝福(イザヤ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230615 no 2023 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。 (イザヤ書4章2節) この4章で、2章から続いてきた「その日」、つまり神の裁きの日の幻の預言が締めくくられます。ここではこれまでのエルサレムの罪や傲慢に対する激しい神の断罪とはうって変わって、神の裁きの先に「生き残った者」に対する祝福が告げられます。 ここにきて神の裁きの目的がはっきりします。神の裁きは、けっして罪に汚れたイスラエルの民を罰して切り捨ててしまうためではなく、裁きの先に洗い清められ練り清められた真の神の民を残して祝福するためでありました。そして、主なる神は、けっして罪や汚れをそのままにしておかれる方ではなく、大切な民を内側から根本的に洗い清めてくださるお方であり、清められ新しくされた者に祝福を与えてくださる方なのです。 新しい民に与えられる祝福はどれも私たちに与えられた祝福でもあります。「主の若枝」である主イエス・キリストを栄光として仰ぎ見る者とされ(イザ11章、53章参照)、主イエス・キリストの十字架によって罪が贖われた「聖なる者」とされ(ヘブ13章12節ほか)、そして主イエス・キリストの「命の書に名が書いてある者」として救われる(黙21章27節)。そういう希望と祝福に私たちはきょうも生かされています。 【祈り】 義なる神さま。罪と汚れにあったこのわたしを清め、聖なる者としてくださったキリストの恵みに感謝します。 Wed, 14 Jun 2023 00:10:00 +0000 主は裁きに臨まれる(イザヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230614 no 2023 しかし言え、主に従う人は幸い、と。 彼らは自分の行いの実を食べることができる。 (イザヤ書3章10節) エルサレムとユダに対する厳しい審判が預言されます。「その日」には、エルサレムの人々に必要な食糧も水も、頼りにする指導者や優れた戦士も、そして先をよむ魔術師たちも取り去られ、戦いで多くの者が殺され、街が略奪と徹底的な破壊にあう、と告げられています。ここにはやがて来るエルサレムの包囲と捕囚、そして陥落が預言されています。 彼らがそれほどまでに裁かれなければならない理由は、主に敵対したこと、貧しい者たちを虐げたこと、そして指導者たちの傲慢である、と告げられています。どれほど権力を持ち、財力で囲まれ、美しさで身を装うとも、主なる神は不義や高慢に対して徹底的に裁かれるお方です。そして、その裁きからは誰も逃れることはできないのです。 そのような激しい裁きと悲惨なエルサレムの描写の真ん中に、唯一幸いが語られるのが、10節の主に従う人の幸いです。それはまるで、処刑場に立つ唯一の救いの柱に見えます。 神の裁きは確かに徹底しています。しかし、その目的は、主の民が世の権力や富を求めるのではなく、この「幸い」を告げる神の言葉のもとに立ち帰り、義を行って幸いを得ることなのです。きょうも主に従う人の幸いに集まりましょう。 【祈り】 裁き主であられる主よ。罪と悲惨の中にあってキリストのもとに集う私たちに幸いを与えてください。 Tue, 13 Jun 2023 00:10:00 +0000 ただひとり高く上げられる主(イザヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230613 no 2023 その日には、誇る者は卑しめられ 傲慢な者は低くされ 主はただひとり、高く上げられる。 (イザヤ書2章17節) イザヤは、終末の出来事の二つの側面について預言します。一つは平和です。「その日」には、世界中の関心がエルサレムに集められ、人々は主の言葉を聴きます。それは、すべての争いは主によって止み、まったくの平和が訪れるというものでした。当時アッシリアの圧政に苦しみ、迫り来る武力に怯えていたユダの人々にとって、この預言はどれほど希望を与えるものであったでしょうか。 しかし、ユダの民はこの預言を聴こうとはせず、むしろ占いや魔術に心奪われます。また主なる神に頼るのではなく、お金や軍馬という経済力や軍事力によって国を守ろうとします。さらに神への信仰に心を注ぐのではなく、虚しい偶像で心を満たそうとしました。そのような彼らに、イザヤはもう一つの裁きを告げます。主はヤコブを捨てられた、その時、地上の高ぶる者は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、偶像はことごとく破壊される、そして、「主はただひとり、高く上げられる」と。 人の目には力あるように思える人も財力も武力も、主なる神の御前にはただ滅びさるものです。頼ることができるのはただ主、おひとりです。きょうも自らの力を捨て神の言葉を求めて集まる者にこそ、まことの平和があるのです。 【祈り】 ただひとり高く上げられる主よ、あなたのみを慕い、御言葉によって希望と平和を固くしてください。 Mon, 12 Jun 2023 00:10:00 +0000 反抗する者に呼びかけられる主の赦し(イザヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230612 no 2023 論じ合おうではないか、と主は言われる。 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。 … 主の口がこう宣言される。 (イザヤ書1章18節~20節) 神はイザヤへの幻を通して、ユダの支配者と民を告発されます。これまで愛情をかけて養い育ててきたにもかかわらず、あなたがたは主を軽んじ、平気で悪を重ね、神に背を向けた。それゆえ、自らに破滅を招き、民は傷つき、国は荒れ果てているのだ、と。ここに現れているのは、ユダの民と国の絶望的な姿と、罪に対する神のまっすぐな姿勢です。同時に、神が罪深いユダに対してなおも愛をもってエルサレムを残し、希望を未来へと繋ぐ方であることを告げています。 続けて神は、礼拝についても告発されます。彼らの礼拝は真実の伴わない形式的なものとなっており、汚れた心と神を畏れない心で、神に従うことを拒む彼らの礼拝を受け入れないと拒絶されます。しかし、神は民に呼びかけます、「論じ合おうではないか」と。どれほど神の民が罪を犯して神をないがしろにしても、神は開かれた方として民に赦しの道を差し出され、悔い改めを迫ります。ここに人を赦そうとされる神の忍耐と愛があります。そしてキリストにおいて成就した完全な赦しの道が今、私たちにも開かれています。 神の裁きは、苛烈に民を責めますが、同時に赦しをもって悔い改めを迫ります。神の望みは滅びではなく、悔い改めて命を得ることだからです。 【祈り】 神よ、わたしの罪をお赦しください。主イエス・キリストの血によって雪より白くしてください。 Sun, 11 Jun 2023 00:10:00 +0000 罪人を憐れむ主イエス(マタイによる福音書 9章9-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230611 no 2023 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」 (マタイによる福音書9章13節) 主イエスは、収税所に座っているマタイを見て、「わたしに従いなさい」とおっしゃって、マタイを弟子にしました。ただちに立ち上がって主に従うマタイの姿が印象的です。 その後、主イエスはマタイの家で食事をされました。そのとき、徴税人や罪人が同席していたことが問題となりました。ファリサイ派の人びとが、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったのです。徴税人の多くは罪人とみなされる異邦人であり、彼らと一緒に食事をすることは律法にかなわないと考えられたからです。 そこで主イエスは、ホセア書を引用して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とおっしゃいます。律法が本当に求めているのは憐れみなのです。主イエスがこの世に来られた目的も、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」で、罪人を憐れむためです。彼らと一緒に食事をすることは、律法にかなわないのではなく、むしろ律法を成し遂げることでした。 主イエスは私たち罪人を憐れみ、食事を共にしてくださるお方です。そのことによって私たちの重荷を背負い、罪を償うために十字架にさえつけられてくださいました。その主に従う弟子とされて、私たちは互いを憐れむ者として用いられるのです。 【祈り】 神よ、神を愛し、隣人を憐れむ心を私たちにお与えください。 Sat, 10 Jun 2023 00:10:00 +0000 何に依り頼んで生きるのか(詩編 14編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230610 no 2023 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。 人々は腐敗している。 忌むべき行いをする。 善を行う者はいない。 (詩編14編1節) 言葉では「神などない」と、言わないかもしれません。しかし、どこかで自分の力や持っているもので生きていけると思ってはいませんか。神の言葉よりも、自分の思いや判断を優先することはないでしょうか。 「神を知らぬ者」(1節)は、聖書協会共同訳では「愚か者」となっています。主イエスのたとえ話に、「愚かな者」と言われた金持ちの話があります(ルカ12章13節以下)。彼は、それまでの倉を壊してもっと大きな倉を建てなければならないほどの豊かな収穫が与えられました。一生懸命に働いて幸運にも獲得できた財産によって、彼は人生を謳歌できると安心します。しかし、神は言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と。彼がこのように呼ばれたのは、神を抜きにして人生の計画を立てたからです。そこに、彼の「愚かさ」がありました。 それでは、賢く生きるとはどういうことなのでしょう。それは私たちに命を与え、人生を守り導いておられる神を知ることです。私たちを愛してやまない神は、御子イエスをこの世に遣わして、神に背き腐敗している私たちの罪をすべて赦してくださいました。そればかりではなく、復活という新しい命をも約束してくださったのです。 【祈り】 きょうも、父なる神の計り知れない大きな恵みに信頼して生きることができますよう助けてください。 Fri, 09 Jun 2023 00:10:00 +0000 主の守りと裁きの中で広がる宣教(使徒言行録 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230609 no 2023 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。 (使徒言行録12章23節) ヘロデによって、ヨハネの兄弟ヤコブが殺され、更にペトロも投獄されながら、主の天使に助けられて、ペトロは牢から脱出し、主の遣わされる所で福音を伝え続けます。 他方、ヘロデがティルスとシドンの住民に立腹していたのは、両者がこのヘロデ王の国から食糧を得ており、何らかの貿易上の問題が生じたためと思われます。いずれにしても、王の怒りは、戦争を企てるほどにその敵対心をあらわにするものでした。歴史的に興亡を繰り返しながら、互に競い合ってきたティルスとシドンの住民たちは、戦争を回避するために心を合わせて、侍従ブラストを説得して王を訪ねて、和解を求めなければなりませんでした。 ヘロデ王の服は、銀で作られた衣装で、太陽に照らされ輝いたと伝えられています。集まった人びとは、神々しい王の服を着けたヘロデの声を聞いて「神の声だ」と叫びました。これは、たんなる拍手喝采ではなく、王を神とする偶像礼拝でした。このとき、主の天使は、即刻、ヘロデを蛆虫に内蔵を荒らされる苦痛をもって裁かれるのです。「神に栄光を帰さなかったから」でした。主の裁きは真実です。迫害と試練の中でも、主の守りと裁きの中で、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」のです。 【祈り】 主よ、世界の国々と地域の為政者たちが、偶像礼拝の罪を避け、神に栄光を帰すことができますように。 Thu, 08 Jun 2023 00:10:00 +0000 キリストの恵みを見た教会の誓い(使徒言行録 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230608 no 2023 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。 (使徒言行録11章23節) 異邦人の救いを見たペトロでしたが、エルサレムの教会では、それを見ていない人たちに、どうして彼が異邦人と律法で禁止されている食事をしたのかを説明しなければなりませんでした。ペトロは、不思議な幻を見たことを中心に、一連の出来事すべてが神の恵みの業であったことを真剣に訴えます。ペトロの報告を聞いて人びとは静まります。そして、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったことを喜び、神をほめたたえたのでした。 一方、アンティオキアに派遣されたバルナバは、そこで神の恵みが与えられた有様を見て喜び、固い決意をもって主から離れることのないように、皆に勧めました。罪人が救われて洗礼を受け、教会の一員とされるとき、そこで求められることは、主から離れないことです。 「固い決意」の言葉が「臨在のパン」(レビ24章5節)を意味するように、決意は神の御前に献げられるものです。主イエスの制定された二つの礼典、洗礼と聖餐において、私たちは命のパンであるキリストの臨在において、一つの固い誓約を新たにします。割礼を受けていた人たちも、主のもとに来るとき、この一つの固い誓いを共にします。ここに神の栄光を現す教会の誓いがあります。 【祈り】 主よ、恵みの契約のしるしとして与えられている礼典を御心に適って正しく用いることができますように。 Wed, 07 Jun 2023 00:10:00 +0000 異邦人とユダヤ人の内に実現する救い(使徒言行録 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230607 no 2023 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がした。 (使徒言行録10章12節~13節) 9章の後半から、場面はペトロの行動に変わります。ペトロがリダとヤッファでそれぞれいやしの奇跡を行い、ペトロはヤッファでシモンの家に滞在しました。 このペトロの滞在の間に、コルネリウスのもとに神の使いが来て、ヤッファに人を送ってペトロを招くように命じるのです。3人の使いがヤッファの町に近づいたころ、ペトロは、天が開いてあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入った、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来る幻を見ました。そして、空腹を覚えていたペトロに身を起こして食べるように、主は命じます。その言葉は、ユダヤ人に異邦人と同じ食べ物を食べるように、解放されたことを意味するものでした。ここに汚れた者とされた異邦人とユダヤ人とを隔てていた壁は完全に取り除かれました。ここに、十字架の上にその身を唯一の完全な犠牲としてささげられたキリストの血によって清められた、異邦人とユダヤ人の平和があります(エフェソ2:14)。 このキリストにある命の交わりのもとに、世界の人々は、救いと祈りを一つにされます。コルネリウス一家の救いは、混沌とした世界の中に、十字架の主において、真の和解を見る聖なる救いとその光を指し示します。 【祈り】 主よ、世界の国々と人々の中に、あらゆる隔ての壁を超えて余りある、福音の光と和解を与えてください。 Tue, 06 Jun 2023 00:10:00 +0000 迫害していたイエスからの絶対的な召命(使徒言行録 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230606 no 2023 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 (使徒言行録9章3節) サウロの回心は、聖霊降臨の日におけるエルサレムの人びとや、サマリヤや各地の人びとの回心とそのあり方が随分異なります。それは、栄光の座におられる主イエスご自身からの光に照らされるなかで、直接、その声を聞いた点においてです。この場面は、ステファノがその生涯の終わりに、天を見つめ、キリストの栄光を証ししながら、その生涯を閉じたのに対して、サウロは、ここから、新しく福音宣教者としての生涯が始まったことが証しされるものです。 サウロ自身、ステファノを人びとが襲撃している間、証人たちの着物が自分の足もとに置かれたのを見ています(7章58節)。また、最高法院による殺害に賛成していました(8章1節)。サウロ自身、主イエス・キリストとその道に従う者たちを公然と殺害するからには、その理由と確信があったことは間違いないことです。とすれば、サウロはすでに使徒たちの証を通して、十字架にかけられた「ナザレの人イエス」のことを聞き、その人の復活も、神が約束された救い主であることも、絶対にあり得ないと確信していたということです。 しかし、そのサウロに主イエスはご自身の光とその声をもって臨まれ、絶対的な招きをもって、主の使徒の一人に加えてくださるのです。 【祈り】 主よ、私たちの救いは、あなたのものです。いつもあなたの召しに応えて生きる者とならせてください Mon, 05 Jun 2023 00:10:00 +0000 苦境の中で主の最善の道を歩む(使徒言行録 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230605 no 2023 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。 (使徒言行録8章2節) ステファノが殉教した日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行きました。しかし、「信仰深い人々」は、エルサレムに留まり、ステファノを葬ることを選びます。彼のことを思い、胸を打つほどの悲しみを表しました。ここに、勇気ある行動とともに、迫害下で恐れることなく、神の御前にある者としてなすべき事に徹した態度を見ることができます。聖霊に満たされて最高法院の罪を明るみに出し、受難の主を証ししながら、ステファノは、最高法院に即刻、石打の刑に処された人物です。その葬りには余程の勇気と決意を要したことでしょう。その葬りを行った「信仰深い人々」とは、必ずしもキリスト者だけではなく、ステファノの殺害を認めないユダヤ人も含まれていたと思われます。迫害下で、地方に散って行った人が間違っていたのでもありません。いずれも、御心に適った事でした。 聖霊に導かれたフィリポは、サマリアでキリストを宣べ伝え、そこで、多くの人々が救われて、洗礼を受けました。更に、エルサレムからガザへ向かう道に遣わされ、そこで馬車に乗ったエチオピアの女王カンダケの高官が救われます。苦境の中で、主の最善の道を見ることができます。 【祈り】 主よ、どのような境遇の中に置かれても、あなたの備えておられる最善の道を共に歩ませてください Sun, 04 Jun 2023 00:10:00 +0000 「わたしの弟子にしなさい」(マタイによる福音書 28章16-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230604 no 2023 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。…あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 (マタイによる福音書28章19節~20節) 主イエスは地上での最後の命令として、弟子たちに「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられました。「教えなさい」とも命じられていて、弟子にするとはまず「教える」ことです。 27章まで、教えることは主イエスのおもなお働きであって、弟子たちにこの動詞が使われたことはありません。しかし、このときから「教える」という動詞の主語は弟子たちです。それはもちろん、自分の考えを教えるのではありません。主イエスが一切の権能をお持ちであり、主によって遣わされ、主に仕えて、主が「あなたがたに命じておいたこと」を教えるということです。 また、「すべて守るように」教えるのであり、弟子にするとは、主イエスの御言葉に従って生きることを目指すものです。御言葉の種を蒔くことだけでなく、御言葉が根を下ろし、実を結ぶように導き、見守ること、そこまでが弟子にすることです。 先週の主の日、聖霊降臨を喜び祝いました。主イエスは聖霊を与えて、いつも私たちと共にいてくださいます。聖霊に導かれて、私たち自身、主イエスに教えられて、御言葉を教え伝える者とされます。福音を宣べ伝える器として整えられ、よく用いられるよう、祈り求めましょう。 【祈り】 神よ、すべての人に主イエスの御言葉を教えて弟子とする器として、私たちを整え、励ましてください。 Sat, 03 Jun 2023 00:10:00 +0000 嘆きは感謝の祈りへ(詩編 13編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230603 no 2023 あなたの慈しみに依り頼みます。 わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向かって歌います 「主はわたしに報いてくださった」と。 (詩編13編6節) この詩編の作者ダビデは、長く続く試練の中で、「いつまで」という嘆きの言葉を4回も繰り返しています。 私たちの人生にも、どこまで行ったら抜け出ることができるのか、長いトンネルの中にいるような日々を過ごす時があります。私たちは、命や身体に関わる悩み、仕事の心配、老後の不安、人間関係のストレスなど、人には分かってもらえない深刻な思いを抱えています。新型コロナが生活に及ぼす影響や、一日も早く終わってほしい戦争も、見通しが定かではありません。心を騒がせる不安な問題が次々に起こってきます。 しかし、神は悪や苦しみを野放しにしておられるのでしょうか。私たちのために行動を起こすことをためらっておられるのでしょうか。そうではありません。神は最善の時に、最もふさわしい仕方で働かれるお方なのです。 嘆きに始まるこの詩編は、主への感謝と喜びで結ばれています。神はダビデの苦しみを忘れてはおられませんでした。 明日はどうなるのか、私たちには分からなくても、空しさや絶望に陥ることなく、信じる者たちを顧みていてくださる神の恵みに感謝して、きょうを力いっぱい生きることができるのです 【祈り】 わたしのすべての時は、あなたの御手の中にあります。心安らかに歩ませてください。 Fri, 02 Jun 2023 00:10:00 +0000 栄光の神天上のイエスを証しする(使徒言行録 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230602 no 2023 「兄弟であり父である皆さん、…わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、…」 (使徒言行録7章2節) 最高法院に引いて行かれたステファノの姿は、十字架を前にして同じように最高法院で裁判を受けられたとき、ご自身のことを忠実に証しされた主イエスの姿に重なります。 不当な裁判でも、ステファノは相手に敬意を払い、同胞を思いやる心をもって語りだします。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と。そして、アブラハムに現れた神を「栄光の神」と呼びます。この「栄光の神」とは、背後にある壮麗な神殿の栄光を意識した言葉です。ステファノは、主の霊に満たされて、当時の宗教的指導者たちが誇っていた信仰の父アブラハム、律法を与えられたモーセについて物語ります。しかし、あくまでも、ステファノが思い起こしているのは、「栄光の神」が信仰の父祖たちに現れ、一つひとつの出来事を通してイスラエルの民に注がれた、神の約束の実現です。ヨセフもまたあらゆる苦難から助け出されました。ステファノの説教は絶えず神に導かれた民と自分、そして主イエスの苦難から栄光への道を訴えています。 ステファノは、説教を聞いた人びとの激しい怒りの中で、主イエスが神の右の座に立っておられるのを見ながら、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈りました。十字架の主こそ、真の「栄光の神」です。 【祈り】 主よ、あなたの霊に満たされて、説教者と教会の兄弟姉妹たちが、あなたの栄光を現す者としてください。 Thu, 01 Jun 2023 00:10:00 +0000 分け隔てすることなく恵みを分かち合う(使徒言行録 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230601 no 2023 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。 (使徒言行録6章1節) 使徒たちに対する迫害の中でも、主イエスに従う弟子たちの数は増えていきました。その一方で、エルサレムの教会の内部で、ギリシア語を話すユダヤ人から、やもめについて苦情が出ました。それは見過ごされていた貧しいやもめについての苦情でした。やもめたちのために毎日食事の世話をする必要があったのです。 このやもめたちは、決して故意に無視された人たちではなく、むしろ、いつのまにか置き去りにされた人たちでした。それは、いつの時代でも教会と社会の課題であるかもしれません。多くの場合、少数者の声としてそれは明らかになります。 使徒たちが、聖霊と知恵に満ちた良い証し人7人を選んだとき、「わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念する」と言いました。しかし、それはただ教会の中で役割分担を明確にしたことによって万事がうまくいくようになったということではありません。どの言葉を話すユダヤ人であれ、生い立ち、貧富、身分等の違いがあったとしても、互いに分け隔てすることなく、日々、恵みを分かち合って生きる用意を与えられたことを意味します。 霊の糧も、肉の糧も、日々適切に分かち合う愛の奉仕が、いつの時代にも教会に求められています。 【祈り】 主よ、あなたは人を分け隔てなさいません。主の正義と公平が、教会と社会の隅々に行き渡りますように。 Wed, 31 May 2023 00:10:00 +0000 神から出た束縛されない命の言葉(使徒言行録 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230531 no 2023 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 (使徒言行録5章20節) 現代人の1日の情報量は江戸時代の人たちの1年分、平安時代の人たちの一生分と言われます。現代は人から出る多くの言葉が溢れかえっています。ある言葉は人を傷つけ、多くの言葉は消えて行きます。 多くの人びとをいやした使徒たちは、ねたまれて牢に入れられます。しかし、彼らは聖霊において託された言葉を語らなければなりませんでした。現れた天使はこう告げます。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」。 使徒たちに託された主イエスの福音は「命の言葉」です。人を傷つけ、時には死に追いやるような言葉ではありません。主イエスが陰府から起き上がられたように、人を起き上がらせる言葉。死に向かうのではなく死に勝利する言葉です。 人間から出た言葉はやがて消えていきます。しかし、命の言葉は消えることがありません。それは、命の源である神から出た言葉だからです。 この言葉を人間が束縛することはできません。使徒たちを鞭打って牢獄に入れても「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき」ました(使徒6章7節)。主イエスの命の言葉は、あらゆるしがらみを越えてきょうも人びとを命に導きます。 【祈り】 人から出た言葉ではなく神から出た命の言葉を与えてくださり、ありがとうございます。 Tue, 30 May 2023 00:10:00 +0000 わたしたちが救われるべき唯一の名(使徒言行録 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230530 no 2023 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録4章12節) 毎日あらゆる広告が目の前を飛び交います。「これを食べて健康になろう!」、「これに入会して人間関係を広げよう!」、「老後の蓄えのためにこれをしよう!」、「仕事がうまくいくためにこれを買おう!」。それらしいデータや芸能人が登場したりしながら私たちを刺激します。「より良く生きるためにあなたにはこれが必要だ!」と。 しかし、それらが根本的な人生の問題を解決するわけではありません。 聖霊に満たされたペトロは大祭司一族らを前にして大胆に言います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。 大祭司一族らは当時の特権階級にある人たちです。それに対してペトロらは「無学な普通の人」だと評されます。しかし、彼らは人間を罪と滅びから救い出す唯一の名を知っていました。 神は世の知恵を愚かなものにされました。そして、世の無学な者を選ばれました(1コリ1章)。 今を「より良く生きる」のではなく、罪と滅びから救い出し永遠に「生きる」ための最も重要な知識。聖霊がそれを示し、この知識の尊さを悟らせてくださいますように。 【祈り】 聖霊において、救われるべき唯一の名が私たちに示されていることを感謝します。 Mon, 29 May 2023 00:10:00 +0000 主イエスの名による視点(使徒言行録 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230529 no 2023 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 (使徒言行録3章4節) 彼はどんな思いでその眼差しを向けていたのでしょうか。神殿の門のそばに「置かれた」生まれつき足の不自由な男は神殿の境内に入ろうとするペトロとヨハネを見ます。 ペトロとヨハネは反対に「彼をじっと見て」「わたしたちを見なさい」と言います。その言葉のとおり、この男は二人を「見つめ」ます。 神の視線はイザヤ書で「わたしの目にあなたは価高く、貴く」(43章4節)と記されます。その視線は神の独り子主イエスの十字架によって明らかにされました。神の視線は独り子を与えるほどの愛の視線です。 主イエスから約束の聖霊が注がれたペトロとヨハネは「じっと見て」こう告げます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。 この名は「命への導き手」(15節)の名です。地上のすべての民族を祝福へ至らせる名です(25節)。金や銀に勝る名です(6節)。男は躍り上がって神を賛美しました。私たちにもこの「イエス・キリストの名」が与えられています。 そしてペトロは言葉と共に彼の右手を取りました。主イエスの名が与えられている者には、神の視線で隣人を「見る目」と共に、隣人に「差し出す手」が与えられています。 【祈り】 金や銀に勝る名を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。隣人への目と手を聖めてください。 Sun, 28 May 2023 00:10:00 +0000 渇いている人は主イエスのもとに(ヨハネによる福音書 7章37-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230528 no 2023 イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」 (ヨハネによる福音書7章37節) 主イエスは、「御自分の時」、すなわち、十字架の死と復活によって神の栄光を現す時がまだ来ていないことを知っておられました。それゆえ、仮庵祭が近づいてもガリラヤにとどまっておられました。しかし、このとき、人目を避け、隠れるようにしてエルサレムへ上って行かれます。 仮庵祭はユダヤの三大祭りの一つです。エジプトからの解放が記念され、終末の救いが待望され、祭りの期間中には、祭司が祭壇に水を注ぐ儀式が行われました。かつて、荒野で渇きを覚えたイスラエルの民のために、神がモーセを用いて、岩から水を湧き出でさせ、民の渇きが癒された出来事を覚えるためです 祭りが盛大に祝われる最終日に主イエスは、立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。主イエスは、魂が渇いている人間の心の奥底に命の泉を湧き出させると言われました。人間の渇きを一時的に潤すのではなく、主を信じる者の心に聖霊が注がれて信仰、希望、愛が尽きることなく湧き出で、新しい命、永遠の命にあずからせられます。 聖霊は、主イエスの霊であり、今も信じる者一人ひとりの心だけでなく、教会の中に臨在され、主の御業を続けておられます。教会において、命の水にあずかりましょう。 【祈り】 主イエスのくださる命の水、聖霊の恵みに感謝します。 Sat, 27 May 2023 00:10:00 +0000 教会の熱心に仲間が加えられる(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230527 no 2023 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 (使徒言行録2章42節) 「酒に酔っているのではありません」(15節)という言葉から始まるペンテコステの日のペトロの説教。約束された聖霊が注がれたその日に洗礼を受けた人は、3千人という驚くべき数にのぼりました。 そして「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」でした。御言葉に聞くこと、単純な人間同士の交わりではなく主イエスが中に立っておられる交わり、主イエスの体と血にあずかる聖餐式、神への語りかけである祈り。彼らはこれら四つのことに熱心でした。そのような姿の教会に「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」のでした(47節)。 外野から見れば理解できない熱心さ。それもまた「酒に酔っている」ような姿だったのかもしれません。 聖霊が降り、信仰が与えられ熱心が与えられました。私たちにもまた聖霊が与えられています。それは自分たちのためだけではありません。 聖霊によって与えられる御言葉、交わり、聖餐式、祈りへの姿勢が仲間を呼び集めます。 聖霊は「主が招いてくださる者ならだれにでも」与えられています。仲間は今も呼び集められています。 【祈り】 聖霊の働きによって私たちに熱心を与え、あなたがこの仲間を増し加えてください。 Fri, 26 May 2023 00:10:00 +0000 主イエスの証人は地の果てへ(使徒言行録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230526 no 2023 「あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒言行録1章8節) 使徒言行録の著者ルカは第1巻としてルカによる福音書を記しました。主イエスの降誕が最初に告げられたのは野宿をしていた羊飼いです。そしてこの時、復活の主イエスご自身が「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と弟子たちに告げられます。天に上げられる直前の主イエスの言葉は、弟子たちにとってどれほど衝撃的だったでしょうか。 エルサレムとは主イエスが十字架にかかられた場所です。ユダヤで主イエスは拒否されました。そしてユダヤ人とサマリア人は良い関係ではありません。しかし、聖霊が降ると主イエスの福音は、それらの場所を越えて地の果てに至ると言われます。 当時の弟子たちの頭の中の世界地図はせいぜいローマ帝国の周辺までだったでしょう。しかし、当時の「地の果てを越えた」ここ日本で、私たちは主イエスの福音を聞いています。聖霊のお働きが確かにあり続け、証人が起こされ続け、弟子たちの思いを遥かに越えて、主イエスの言葉が実現しています。 この聖霊の働きは主イエスが再び来られ神の国が完成する時まで止むことがありません。 【祈り】 聖霊の働きによって主イエスの福音が広がり、私たちへと至っていることを感謝します。 Thu, 25 May 2023 00:10:00 +0000 どこまでも人を愛される主(ヨナ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230525 no 2023 「わたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」 (ヨナ書4章11節) ヨナは神のご命令どおりにニネベの町に行って、悔い改めのメッセージをしました。するとニネベの人たちはヨナのことばを神のことばとして受け止めて、悔い改めたのでした。すると、ヨナはこのことが大いに不満でした。イスラエルの民を憐れむのが神であり、異邦人であり敵であるアッシリアの都ニネベの人たちを神が深く憐れまれるのをよく思わなかったのではないかと思います。 しかし、このとき神は、不満を抱くヨナを直ちにさばくこともせず、また見捨てることもされませんでした。むしろヨナに問いを発するのでした。「お前は怒るが、それは正しいことか」と。ヨナはこの問いに答えようとしません。神は、ヨナのためにとうごまの木を生えさせ、生活を快適にされましたが、次の日にはとうごまの木を枯れさせます。神は、1本のとうごまを惜しむヨナに、大勢の人たちの命を惜しむことは当然のことではないか、とヨナを諭します。 私たちの神は、命を尊んでくださるお方です。そして、悔い改める者らを愛し、救い出すお方です。私たちの神は、どんな人でも神のことばに聞き従って生きる人たちを喜ばれ、愛されるのです。 神に愛されている私たちは愛なる神をほめたたえましょう。 【祈り】 主よ、神の深い愛を感謝いたします。どうか、私たちにもあなたの愛をさらに注いでください。 Wed, 24 May 2023 00:10:00 +0000 思い直される憐れみ深い神(ヨナ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230524 no 2023 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。 (ヨナ書3章10節) ヨナは神のご命令に背きますが、神はヨナをご自身の道へと戻されます。それがニネベでの宣教でした。ヨナは神の命令どおりに直ちにニネベに行き、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と教え、「粗布をまとい、ひたすら神に祈願し、悪の道から離れなさい」という、王の悔い改めのメッセージを生み出しました。まさにこの時、ニネベの町は、あのソドムとゴモラの町であるかのようにヨナは民たちに伝えています。すると、ニネベの町の人たちは、ヨナの悔い改めを迫るメッセージを聞いて、そのことを信じ、聞き従いました。1日にして、ヨナの悔い改めの説教は、驚くべき効果をあらわすのでした。 すると、神は、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直されて、宣告した災いを下すのをおやめになったのでした。 ここでは、劇的にニネベの町の人たちが悔い改め、滅ぼされなかったということになっていますが、それ以上に、私たちの神は忍耐深い、憐れみと愛に富んでいるお方であることを伝えています。ソドムとゴモラのような町ニネベであっても、神のことばを神のことばとして素直に受け入れることで、神は彼らに憐れみを注がれたのです。この神の忍耐と愛に感謝いたしましょう。 【祈り】 主よ、あなたの深い愛と憐れみを感謝します。私たちをさらに憐れんでください。 Tue, 23 May 2023 00:10:00 +0000 暗闇と絶望のなかに光は必ずある(ヨナ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230523 no 2023 わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。 救いは、主にこそある。 (ヨナ書2章10節) ヨナは神の命令に背き、その結果、海に放り込まれてしまいました。しかし神は、ヨナをそのまま放置することなく、巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられました。そして、ヨナは一命をとりとめたのでした。 ヨナは、三日三晩、魚の腹の中にいました。そのとき、自分は本当に滅びると思ったのではないでしょうか。魚の腹の中は暗闇でした。この暗闇は、神との関係が一切断たれている状態をさします。その暗闇の状態のなかでヨナは神に祈ります。その暗闇の絶望のなかで、ヨナが必死で祈り助けを求めると、神はその祈りに応えてくださいます。ヨナは確信します。神がわたしを滅びの穴から引き上げてくださると。ヨナは神の働きを感じて、自分が救われたことを主に感謝し、「救いは、主にこそある」と主をほめたたえるのでした。そして、ヨナは陸地に吐き出され、命が助かったのでした。 こうして話はふりだしに戻ります。いや、神の御心の道がスタートします。この間、ヨナの死の危機と救出の体験がありました。暗闇と絶望のなかでヨナは必死に祈りました。神はその祈りを聞き、助けてくださいました。ここに主の憐れみがあります。この憐れみを信じて、きょうを生きて前に進みましょう。 【祈り】 主よ、どうか、わたしの祈りを聞き、助け導き、憐れんでください。 Mon, 22 May 2023 00:10:00 +0000 それでも神の御心が為されていく(ヨナ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230522 no 2023 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」 (ヨナ書1章2節) 神は、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」と預言者ヨナに言われました。神はニネベの町の人たちが悔い改めるようにヨナを遣わされたのでした。しかし、ヨナは神の命令に従わず、タルシシュ行きの船に乗ってしまいました。この時のヨナの心境は、これから先を読んでいくと分かるのですが、神があの大都市ニネベの町に憐れみ深く振舞われるのがどうしても嫌だったようです。自分は、神が憐れむニネベの町にいたくない、というヨナのエゴが強くありました。それでヨナは、神の命令に従わず、タルシシュの町に向かって逃げてしまうのでした。 ヨナが船に乗ると、神は大風を起こされます。そこで、乗組員たちとくじを引くことになり、それがヨナに当たってしまいます。ヨナは、神の前から逃げてきたことを白状し、自分の手足を縛って海に投げ込めば、海は穏やかになる、と言います。そして、ヨナを海に放り込むと、荒れ狂っていた海は静まりました。 ヨナは神の御心に逆らいましたが、神が自らの力でご自身の御心の道へとヨナを導かれていきます。私たちの思いが成るのではなく、神の御心が必ず成るということを心に留めて、主に従い、主をほめたたえて生きていきましょう。 【祈り】 どうか、主よ。私たちの生きる道を示してくださり、私たちがそれに従えますように。 Sun, 21 May 2023 00:10:00 +0000 主イエスの祈りに支えられて(ヨハネによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230521 no 2023 「彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」 (ヨハネによる福音書17章11節) 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16章33節)と言われた後に主イエスは、天を仰いで祈られました。この祈りは、大祭司の祈りと呼ばれています。主イエスは、大祭司として父なる神と弟子たちの間に立たれて祈られました。 主イエスは、祈りのなかで父なる神のご計画の実現として十字架の苦難を受ける時が来たことを告白されました。受難の死が父の栄光を現わし、御自分の栄光を現す機会となるようにと祈られました。主イエスの復活は、私たちの救いを達成する栄光と勝利の時です。神が主イエスに与えられた権能により、主は、御自分を信じる者すべてに永遠の命を与えることがおできになります。 次に、主イエスは、地上に残していく弟子たちのために祈られます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。弟子たちが、この世の悪に打ち勝つためには、御名によって一つの群れとして一致し、愛の共同体を作ることです。御父の愛を確信して御父の御心に従って歩むことによって真の一致は与えられます。それが、この世にあって悪に立ち向かうための唯一の道であり、勝利の秘訣です。 【祈り】 私たちを世に遣わされた主イエスご自身が、私たちのために祈っていてくださることに感謝します。 Sat, 20 May 2023 00:10:00 +0000 私はひたすら神の言葉に依り頼みます(詩編 12編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230520 no 2023 主は言われます。 「虐げに苦しむ者と 呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」 (詩編12編6節) 詩人は深い苦しみの中にあります。親しい信仰の友は消え、もはや友とは呼べない人が苦しめてきます。神を認めない者らは尊大に振る舞い、それでも平気です。神への畏れはなく、自分こそが主人だからです。 神への畏れが無いために、世界には悪がはびこっています。本来、神をほめたたえるために与えられた唇からも、聞こえてくるのは偽りばかり。尊大な者の言葉は人を生かすことなく、死に至らしめます。 このような有り様を神が見過ごしにされるはずがありません。神の言葉は真実です。神は、人とは異なり、御自分を偽ることができません。二枚舌を使うこともされません。神が語られたとおりのことが成ります。私たちは苦難においても、神の真実の言葉に依り頼むだけです。そこにはまことに憩いがあります。 逆らう者は、なおその悪しき行いを改めようとはしません。それでも私たちは神のもとに留まり続けなければなりません。私たちは神の言葉の真実によって救いを得るからです。 御言葉に対して「アーメン」と唱えましょう。神は、私たちのために天より助けを与えてくださいます。神があなたのために立ち上がってくださいます。神の助けはすぐそこまで来ています。 【祈り】 神よ、あなたを求める人に助けをお与えください。神に望みを置く人を御心に留めてください。アーメン Fri, 19 May 2023 00:10:00 +0000 わたしの魂は救い主なる神を仰ぐ(詩編 11編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230519 no 2023 主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 (詩編11編7節) わたしは果たして神の御前に正しくあると言えるでしょうか。悪者どもが攻撃を仕掛けようとしています。これに、耐えることができるでしょうか。最後まで神への信仰を守り通すことができるでしょうか。 いえ、自分の力を頼りとするなら、滅びるばかりです。自分で自分の正しさを保証することはできないからです。ですから、ただ神にこのままの自分を差し出すしかありません。破れ口に立ちながら、神の御前へと進んでいきましょう。 神の裁きは義しいのです。神は不法の者も、従う人もお調べになります。神の御目はすべてを正しく見抜かれます。誰がその眼差しから逃れることができるでしょうか。わたしは神の御前に自らの愚かさを告白しなければなりません。 神は、このように自らの愚かさを告白した者をどのように扱われるでしょうか。愚かさに従ってお裁きになるでしょうか。 わたしは、さながら矢を射られた鳥のようになっています。傷を受けて、神の御前に逃れてきました。神がこのような者に御顔を向けてくださると信じるのです。神は、罪を悔いる魂を軽んじられることはないからです。神の御もとにのみ、真の逃れ場があると信じているからです。 【祈り】 神よ、傷つき倒れそうな者に御手を差し伸べ、お支えくださることを感謝いたします。アーメン Thu, 18 May 2023 00:10:00 +0000 手を上げて祝福している主イエス(ルカによる福音書 24章44-53節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230518 no 2023 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 (ルカによる福音書24章50節~51節) きょうは、主イエスが天に上げられた昇天日です。よみがえられた主イエスは、40日にわたって弟子たちに現れ、御自分の復活を示し、神の国について教えられました。そして天に上げられ、その10日後の五旬祭の日、一つ所に集まって祈っていた弟子たちの群れに聖霊が降りました。弟子たちが全世界に福音を宣べ伝え始めた、ペンテコステの出来事です。 ルカ福音書は、主イエスが弟子たちを「祝福しながら」天に上げられたと言います。それを受けて使徒言行録は、「天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」という御使いたちの言葉を書き留めます(使徒1章11節)。主イエスは祝福するお姿で再び来られるということですが、これはすなわち、天に上げられた主が今も天にあって私たちを祝福してくださっているということです。この主が、聖霊によって世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださいます(マタ28章20節)。 私たち自身は小さく無力で、罪深く愚かな者にほかなりません。けれども、この主が共にいてくださって、罪赦され、力を与えられて、福音を宣べ伝えることができます。私たちは、主の祝福に支えられて、主の復活の証人として罪の赦しを得させる悔い改めの福音を宣べ伝えます。 【祈り】 天にあって祝福しておられる主を仰いで歩む日々であらせてください。 Wed, 17 May 2023 00:10:00 +0000 主が誓われた契約を継承する(創世記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230517 no 2023 「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、…あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。」 (創世記26章3節) 26章は、イサクが主人公として描かれる唯一の章です。三つのエピソードが記されます。妻を妹だと偽る出来事、井戸をめぐる争い、ゲラルの王アビメレクとの契約締結の三つです。たいへん興味深いことに、そのいずれも、かつてアブラハムが経験したことです。それらのエピソードの中で、かつてアブラハムに与えられた約束が、イサクにも与えられます。「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」(4節、他に24節)。イサクこそアブラハムに与えられた主の契約の継承者であることが動かし難い事実として示されています。 アブラハムとイサクはよく似た経験をしましたが、それぞれの個性も現れています。アブラハムの場合、井戸をめぐる争いを収めるのに相手の王と誓いを交わしました(21章25~31節)。イサクの場合、争いを避けて繰り返し別の井戸を掘ります。 主が彼らに与えられた約束には彼らの子孫による諸国民の祝福が含まれます。そのとおり私たちは彼らの子孫であるキリストによって祝福を得て契約を受け継ぎました。それぞれの個性を生かしつつ、主の契約の祝福を受け継いでいきましょう。 【祈り】 主よ、キリストを通して私たちにも与えてくださった恵みの契約を次の世代にも受け継がせてください。 Tue, 16 May 2023 00:10:00 +0000 それでもなお主の約束が受け継がれる(創世記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230516 no 2023 「二つの国民があなたの胎内に宿っており 二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。 … 兄が弟に仕えるようになる。」 (創世記25章23節) アブラハムが死に、サラのために買い取った洞穴に葬られます。主の約束によれば、彼らが葬られたカナンの地は、やがて子孫に与えられます。息子イサクはアブラハムの全財産を受け継ぎ、アブラハムと同様に神に祝福されました。主の約束は次の世代に受け継がれます。 「大いなる国民」(12章2節)になるという約束がアブラハムに与えられていました。イサクの子どもを妊娠した妻リベカの胎内には「二つの国民」が宿っていると主は告げられます。確かに約束が受け継がれています。ただし、二つの民は争っており、「兄が弟に仕えるようになる」と言われます。弟の子孫が約束を受け継ぐ民となるわけです。 生まれた双子の性格は対照的です。イサクは狩りの獲物が好物だったので、巧みな狩人である兄エサウを愛しました。リベカは弟ヤコブを愛しますが、その理由は記されません。主の約束を受け継ぐのが弟であることを意識していたのかもしれません。 主の言葉は、兄がわずか一時の空腹を満たすために「長子の権利」を弟に譲ってしまうことで実現し始めます。道徳的に立派とは言えないやり取りをする兄弟です。それでもなおご計画を進展させられる主の憐れみに驚きを禁じ得ません。 【祈り】 主よ、救いの約束を受け継ぐ、欠け多き私たちの間で、なお救いのご計画を進展してくださり、感謝します。 Mon, 15 May 2023 00:10:00 +0000 信仰と祈りを用いて進展する主の約束(創世記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230515 no 2023 僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。 (創世記24章15節) 子孫を増やし、カナンの地を子孫に与えると、主がアブラハムに約束してくださいました。その約束の実現には、息子イサクのために妻を迎える必要があります。ただし、カナンの娘を妻として迎えれば、やがてカナン人と同化して、約束の実現はうやむやになってしまうでしょう。一族の住む故郷のナホルの町にいるアブラハムの一族から妻となる人を連れて来ることが、最善の方法です。アブラハムが全財産を任せるほどに信頼する年配の僕が、この重大な任務を帯びて遣わされました。 しかし、イサクの妻としてふさわしい女性をどうやって見つけ出したらよいでしょうか。僕は祈ります。「水を自分にも、らくだにも飲ませてくれた娘こそ、あなたがイサクの妻となる人としてお決めになったものとさせてください」。驚くべきことに、僕がまだ祈り終わらないうちに、リベカがやってきて、僕にもらくだにも水を飲ませます。彼女は一族の娘でした。家族もリベカ自身も、彼女がイサクの妻となることに同意します。「このことは主の御意志ですから」(50節)と言って、彼らも主の御心に従うのです。 こうして、アブラハムへの約束が前進します。僕の信仰と祈りを用いながら。 【祈り】 主よ、あなたの御国の完成を待ち望みます。約束の進展に私たちの信仰と祈りを用いてください。 Sun, 14 May 2023 00:10:00 +0000 いつも共にいてくださる主イエス(ヨハネによる福音書 14章15-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230514 no 2023 「父は別の弁護者を遣わして…くださる。…この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」 (ヨハネによる福音書14章16節~17節) 主イエスは、去っていく御自分の代わりに「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と約束されました。「弁護者」は、法廷で弁護を必要とする人の相談相手として、いつも傍らに呼ばれる人のことです。弁護者、すなわち聖霊は、イエス・キリストを信じる者の傍らにあってその人を助け、励ましてくださいます。 また、この聖霊は「慰め主」とも呼ばれます。聖霊は、私たちの心の内に住んで、慰めを与え、真理へと導き、これまでに主イエスが語られた言葉、行われた御業のすべてを理解させ、真理の内に歩ませてくださいます。かつては主イエス御自身が弟子たちにとって弁護者であり慰め主でした。いつでも、彼らが呼び求めれば助けの御手を差し伸べてくださいました。 「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(19節)。主イエスは、これからは聖霊をとおして共にいてくださると約束されました。主イエスは、聖霊によって私たちの心の目を開いて、復活の主を見ることができるようにしてくださいます。主イエスによるインマヌエル(神は我々と共にいます)の約束は聖霊なる神によって実現していきます。 【祈り】 きょうも聖霊において共にいてくださる主イエスの恵みに感謝します。 Sat, 13 May 2023 00:10:00 +0000 小さい者を神が忘れることはない(詩編 10編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230513 no 2023 立ち上がってください、主よ。 神よ、御手を上げてください。 貧しい人を忘れないでください。 (詩編10編12節) 神の正義が問われています。神に望みをかけている人が失われようとしています。敵の力が強大なときに、貧しい人には何ができるでしょうか。「神はお忘れになった」と嘆くしかないのでしょうか。それとも、「神は必ず顧みてくださる」と信仰を告白するのでしょうか。 貧しいわたしが忘れられることがあったとしても、それも仕方のないことかもしれません。そもそも「わたしは神に顧みていただくに値しないのです」と言わざるを得ないからです。それでも弱いわたしは神に望みをかけます。「すべてをあなたに委ねます」と告白するばかりです。詩人は叫びます。「貧しい者を忘れないでください」。わたしには神の顧みに値するものがないとしても、そのために神がお忘れになるとは考えられません。神の正義が問われているのです。貧しい者が虐げられ、神を認めない者が栄えることは、神の御心ではありません。神は弱くされている者を御心に留められます。 貧しい人のために叫びましょう。わたしもまた、貧しく小さな者だから。神の顧みに値するものを、わたしは持っていないから。神はそのような、小さく貧しい者に対して憐れみ深い方と信じているから。神の御手は、小さくされた魂に向かって開かれます。 【祈り】 神よ、弱く小さなわたしを御心に留めてくださることを感謝します。主の御名により、アーメン。 Fri, 12 May 2023 00:10:00 +0000 主の約束が必ず実現することを知る者(創世記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230512 no 2023 その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。 (創世記23章20節) サラは127年の地上での生涯を終えました。長年にわたって彼女と連れ添ったアブラハムは、胸を打ち、嘆き悲しみました。二人は主の約束の実現を待ち望み、サラが90歳という高齢でイサクを産むという奇跡を共に経験しました。主の約束の確かさを知る決定的な経験でした。 アブラハムは、サラを葬るために墓地を手に入れます。子孫にカナンの地を与えるという主の約束がありましたが、彼自身が自分の土地を所有することはこれまでありませんでした。かつて1年後にイサクが生まれることを予告された場所、マムレの前にあるマクペラの畑と洞穴を購入します。持ち主エフロンは差し上げると申し出ますが、アブラハムは代金を払って正式な手続きを踏みます。そこに住んでいたヘトの人々が手続きに立ち会いましたので、この土地はアブラハムの所有として保護されることでしょう。 アブラハムとサラに与えられた約束によれば、カナンの地は彼らの子孫に与えられます。彼らが生きている間にその約束が実現することはないでしょう。しかし、その約束がやがて実現することを前提にして、彼らはカナンの地に墓を残すのです。主の約束が必ず実現することを知る者として。 【祈り】 主よ、あなたの御言葉は確かなものです。それが真実であることを前提にした歩みをさせてください。 Thu, 11 May 2023 00:10:00 +0000 主が備えた小羊と祝福の約束(創世記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230511 no 2023 アブラハムは答えた。 「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」 (創世記22章8節) イサクが誕生したことで、アブラハムの子孫が海辺の砂のように増えるという約束が、実現に向けて動き出しました。ところが、神は独り子イサクを焼き尽くす献げ物とするようにお命じになります。 かつてアブラハムは、子孫を増やすという主の約束が実現するように、女奴隷ハガルとの間に子どもをもうけました。主の約束を信じられず、割り引いて実現させようとしたのです。しかし、年老いた妻が子どもを産むという奇跡を経験したアブラハムは、約束を実現する主への信仰を強められていました。翌朝早く、イサクをささげるために出発します。 イサクを祭壇の上に載せ、刃物を取って屠ろうとした時、主の御使いがアブラハムを止めます。代わりに主が備えてくださった雄羊をささげました。こうして主の約束は失われませんでした。主は改めて、約束の言葉を繰り返されます。子孫を海辺の砂のように増やす約束、地上の諸国民がアブラハムの子孫によって祝福される約束を繰り返します。 後にソロモンが、イサクが祭壇に載せられたモリヤの地にエルサレム神殿を建てます。このエルサレムで、アブラハムの子孫として生まれるイエス・キリストが小羊としてささげられ、諸国民に祝福を得させます。 【祈り】 主よ、あなたが備えてくださった小羊キリストによって祝福を得ました。約束の実現を感謝します。 Wed, 10 May 2023 00:10:00 +0000 主の御業を経験し強められる(創世記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230510 no 2023 主は、約束されたとおりサラを顧み…彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。 (創世記21章1節~2節) かつてアブラハムもサラも、息子が生まれることを信じられずに笑いましたが、今やイサク(「彼は笑う」という意味)が生まれて、彼らに喜びの笑いが与えられました。 ところが、女奴隷であったハガルとアブラハムの間に生まれたイシュマエルがイサクをからかう(「笑う」という言葉の変化形)ことで、笑う場面から泣く場面に変わります。アブラハムのもとを出たハガルとイシュマエルは渇きのために死を目前にし、声をあげて泣きました。しかし主は、この声を聞き、彼らに水を与え、イシュマエルを一つの国民の父とします。 イサクの誕生も、イシュマエルを大きな国民とすることも、かねてよりアブラハムに与えられていた約束(17章19、20節)の実現でした。 このことがあってから、アビメレクが軍隊の長ピコルを伴ってやって来ます。軍隊の長がいるということは軍隊もいたのでしょう。友好的な態度をとる誓いを立てるよう、アブラハムに迫ります。かつて彼はアビメレクを恐れて、サラが自分の妻であることを隠しました。しかし、今は軍隊の圧力を前にしても、自分たちの井戸を取り戻すための誓いを要求します。イサクが生まれ、約束の実現を経験し、主への信頼を強めて人への恐れがなくなっていたのです。 【祈り】 主よ、あなたの御業を経験することで、あなたへの信頼が強められますことを感謝します。 Tue, 09 May 2023 00:10:00 +0000 春を告げるアーモンドの花(エレミヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230509 no 2023 主の言葉がわたしに臨んだ。 「エレミヤよ、何が見えるか。」 わたしは答えた。 「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 (エレミヤ書1章11節) 薄紅をまとったアーモンドの白い花は、どの木よりも早く開花して春を告げます。しかし、若き預言者エレミヤが見ていたアーモンドの枝には、まだ花は咲いていなかったのではないでしょうか。凍てつく冬の寒さの中で凍える枝は、暗黒の時代にまもなくもたらされる裁きを暗示する、恐るべきしるしでした。 ここでは語呂合わせを通して、エレミヤは主の使信を受け取ります。アーモンドはヘブライ語で「シャーケード」。それは発音の仕方一つで「ショーケード(見張っている)」とも聞こえる言葉です。そしてエレミヤは悟ります、神が反逆する民への裁きの御計画を成し遂げるために、目覚めて見張っておられると(12節)。 神が見張っておられる、こんなに恐ろしいことはありません。しかしその神の目は、悲惨な罪の世界を凝視して目を逸らされることない、深い愛の眼差しでもあります。エレミヤの時代は人びとの心が凍りついてしまった冬の時代です。私たちの時代もまた同じかもしれません。しかし、すべての者が寒さに絶望して目を閉じる中で、神だけは目を瞠って、熱い眼差しを注ぎ続けておられます。凍えるアーモンドの枝にも、やがて必ず花は咲きます。だからこそ、私たちも目を覚ましていたいのです。 【祈り】 主よ、満開のアーモンドの幻を私たちにください。いつもどんなときも、希望を失うことがないように。 Mon, 08 May 2023 00:10:00 +0000 えにしだの木の下での休息(列王記上 19章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230508 no 2023 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」 (列王記上19章5節) ここはエリヤの生涯の中でも最も暗い失意と絶望の時です。この直前の18章に、有名なバアルの預言者たちとの対決の場面があります。それは圧倒的な勝利に終わるものの、イゼベルの恐るべき追撃を招くことになりました。 怒りに燃える敵に対し、エリヤは実に弱々しく逃亡せざるを得ません。逃亡の果てに彼はユダの荒れ野に入り、1本のえにしだの木の下に座って言います。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。もうここで死なせてくださいとの願いです。もうこれ以上無理です。わたしはそんなに強くない、と。 えにしだは、今日でもユダの荒れ野に自生する3メートル程の木で、ほうきのように細かい枝を広げます。春には黄色い花をびっしりとつけ、たいそう美しいものです。実は、私たちの教会でも育てています。 エリヤはこのえにしだの木の下で、十分な休息をいただきました。疲れてしまった者には、休息が必要です。神は言われます。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。旅はまだ続くとは、なんと厳しい言葉かと思います。でも、その旅を導き、歩き続ける勇気を与えてくださる神が、生きておられます。 【祈り】 主よ、どうぞ一人ひとりに十分な休息と、命のパンと命の水を与え、人生の旅路を歩み通させてください。 Sun, 07 May 2023 00:10:00 +0000 生ける神への道である主イエス(ヨハネによる福音書 14章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230507 no 2023 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (ヨハネによる福音書14章6節) 主イエスは、御自分の最後が近いことを知り、弟子たちと最後の食事をされました。イエスは、弟子の一人であるイスカリオテのユダが自分を裏切るであろうこと、それによって自分は世を去るであろうということ、弟子の筆頭であるペトロが自分を否認するであろうことなどを話されました。主イエス・キリストが弟子たちから離れていくことは、彼らに大きな不安と動揺を与えます。主イエスは、弟子たちを励まされます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。 主イエスが、彼らから離れて行くことは、彼らのためでした。主が、去ることは落胆すべきことではなく、彼らが神と共に住み、神を永遠に喜ぶために場所を用意するためでした。その用意ができれば彼らを迎え入れると約束されます。主イエスの言葉は大きな希望と勇気を与えます。 「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」との言葉に、トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と言いました。主イエスは、ご自身が父のみもとへ至る唯一の道であり、主イエス以外に父に至る道、父を知る道はないと言われます。 私たちは受肉された永遠の言である主イエスによってのみ神の栄光と真理を理解することができます。 【祈り】 私たちのために、命の道となってくださった主の御業に感謝します。 Sat, 06 May 2023 00:10:00 +0000 わたしの神はどこまでも憐れみ深い神(詩編 9編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230506 no 2023 虐げられている人に 主が砦の塔となってくださるように 苦難の時の砦の塔となってくださるように。 (詩編9章10編) 神を第一としない者がふくれあがっています。神を信じていなくても、案外不自由なく事が運ばれていきます。それどころか、主を信じる人が心を責められ、落ち着き無く過ごすのです。「主よいつまでですか」の叫びは、主の助けを待ち焦がれる人の叫びです。主を信じる人にとって、この世の有り様は真実とは思われないのです。 しかし、それでも信仰者の第一声は主への感謝です(2節)。神を信じることは、感謝に始まります。そして自分の有り様を嘆くよりは、隣人へと思いが向くのです。私が隣人へと心を向けるとするなら、なおさら、私たちの主が隣人のことをお忘れになるはずがありません。神は必ず、弱った手を強くしてくださるに違いないのです。 しかし、ここに至って、主を求めることなく弱くされている人をも、神が顧みてくださるのだろうかと考えてしまいます。神は、主を知らず、迷いの中にある人の救いを願っておられると信じて良いのでしょうか。 神は、主を知らずにさまよう人を憐れんでくださいます。神は、弱くされている人を顧みてくださるに違いありません。神はどこまでも、打ちひしがれている魂を支えてくださる憐れみの神だからです。 【祈り】 神よ、あなたのことを知らずに苦しんでいる人にも、憐れみを注いでください。アーメン Fri, 05 May 2023 00:10:00 +0000 人の弱さを超える主の憐れみ(創世記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230505 no 2023 アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。 (創世記20章17節) 寄留者としてカナンの地に滞在していたアブラハムは、土地の人々を恐れて、「どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか」と妻のサラに頼んでいました(13節)。それが身を守る手段と考えていたのでしょう。結果として、大切な妻を、滞在したゲラルで王アビメレクに差し出してしまいました。1年後に自分の息子を産むと約束されていた主の約束(18章10節)を台無しにする行為です。 そこで主が介入されます。アビメレクとその妻、侍女たちは、性病の類にかかったのかもしれません。性的な関係を持てなくなった様子です。それは、アビメレクがサラに触れないために、主がなさったことでした(6節)。アビメレクに対して、夢の中で死を宣告します(3節)。彼は「あなたは正しい者でも殺されるのですか」と訴えます。滅ぼされたソドムの人びとと違い、彼は正しい人でした。アブラハムは殺されると思う必要などなかったのです。主は、サラを返し、アブラハムに祈ってもらうなら命が救われると告げます。 アブラハムの恐怖心が、この問題を引き起こしました。それでもなお、主は彼との約束が失われないように守り、アビメレクのために執り成して祈る者として彼を用いられます。 【祈り】 主よ、私たちに弱さがあっても、救いの約束を維持し、執り成す者として用いてくださることを感謝します。 Thu, 04 May 2023 00:10:00 +0000 罪の混沌でなおも主が憐れむ(創世記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230504 no 2023 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。 (創世記19章16節) 家畜の財産が増えてアブラハムと共に住むことができなくなったロトは、よく潤った低地の町ソドムに住むようになっていました。契約が結ばれる公の場である町の門の所に座り、娘を町の男に嫁がせるなど、ロトはソドムでの市民権を得ていました。 そこに二人の御使いが訪れます。町の男たちが押しかけて二人を出すように迫ると、ロトはまだ男を知らない自分の娘を代わりに差し出すと申し出ます。ロトは客人への誠意のつもりだったのでしょうが、娘たちはどのように感じたでしょうか。 町が滅ぼされるので、早く逃げるようにせきたてられますが、ロトはためらいます。御使いが手をとって連れ出さなければならないほどです。多くの財産や町で築いた人間関係に未練があったのかもしれません。ロトの妻にも未練が見られます。振り返るなと言われたのに振り向いて塩の柱になりました。さらにその後、娘たちは、父に酒を飲ませて、床を共にし、父親の子どもを産みます。 あまりにも罪が蔓延し、混沌としています。それでもなお、主は、世界のすべての国民を祝福に入れるという約束を担う(18章18節参照)アブラハムを御心に留め、ロトを救い(29節)、娘たちの子孫を増やして二つの国民にするのです。 【祈り】 主よ、罪が蔓延した世界に生きる私たちですが、あなたがなおも憐れんでくださることを感謝します。 Wed, 03 May 2023 00:10:00 +0000 約束の祝福をもたらす大胆な執り成し(創世記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230503 no 2023 「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」 (創世記18章18節) 18章には二つのエピソードが記されています。ひとつは、アブラハムとサラのもとに3人の人がやって来て、来年の今ごろサラに男の子が生まれていると告げるものです。89歳になっていたサラには信じられず、ひそかに笑ってしまう言葉でした。人の信仰は弱くとも、「主に不可能なことがあろうか」と言って、主はこのことを確約されます。 アブラハムとサラの間に子どもが生まれることで、彼らの子孫が増えて「大きな強い国民」になるという、これまでにも繰り返されて来た約束の実現が前進します。その約束には「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」という約束が伴っています。その祝福はアブラハムが子孫に「正義と公正」(協会共同訳19節)を行うように命じて実現します。 二つ目のエピソードは、ソドムにおいて「正義」を行う「正しい人」が悪い人と共に滅ぼされないように「公正」を求めるアブラハムの執り成しです(同25節)。最初、50人の正しい人のために町全部を赦すという主の約束を取り付けますが、最後にはたった十人のためにさえも町を滅ぼさないという主の憐れみを引き出します。「すべての国民は彼によって祝福に入る」という約束を鳴り響かせる大胆な執り成しです。 【祈り】 主よ、不可能なことがないあなたの祝福をもたらすために、私たちも憐れみを求めて執り成します。 Tue, 02 May 2023 00:10:00 +0000 諸国に広がる永遠の契約のしるし(創世記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230502 no 2023 アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷も皆、共に割礼を受けた。 (創世記17章27節) 15章でアブラムは、主を信じて義と認められました。すでに義と認められたアブラムに、きょうの箇所では契約のしるしとして割礼を受けるように命じられます。 この時、アブラムは99歳です。多くの子孫を与えると約束されてカナンの地に来てから24年が経っていました。依然としてサライとの間に子どもが生まれないアブラムに、主は「あなたを諸国民の父とする」ので、アブラハムと名乗るように命じます。妻サライについても「サラと呼びなさい」、「彼女を諸国民の母とする」と言います。12章では、子孫が増えて一つの「大いなる国民」になるとの約束でしたが、ここではその約束がさらに大きなものになり、諸国民の父・母になると言われるのです。 アブラハムは受け入れることができず、笑ってしまいます。主を信じて義とされたアブラハムにも信じられなかったのです。しかし主は、サラとの間に生まれる息子と「永遠の契約」を立てると言われます。人間の信仰の弱さにもかかわらず、主は揺るぎない契約を与えられるのです。 その契約のしるしとして、割礼が施されます。アブラハムと血のつながる者だけでなく、外国人の奴隷にも施され、主の契約に入れられる者たちが諸国民に広がり始めるのです。 【祈り】 主よ、信仰の弱い私たちに、契約のしるしである洗礼を与えて契約を確信させてくださり、感謝します。 Mon, 01 May 2023 00:10:00 +0000 人の愚かさを超えた主のご計画(創世記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230501 no 2023 「やがてあなたは男の子を産む。 その子をイシュマエルと名付けなさい 主があなたの悩みをお聞きになられたから。」 (創世記16章11節) あなたの子孫を増やして大いなる国民にするとの約束を与えられて、カナンの地にやって来てから、アブラムは10年待ちました。しかし、約束の実現に不可欠な子どもが生まれません。サライは自分の女奴隷ハガルにアブラムの子を産ませて、自分の子とする方法を提案します。これで主の約束が実現するのでしょうか。 結果は散々なものです。ハガルが女主人サライを軽んじ、サライはアブラムのせいにします。「好きなようにするがいい」とアブラムが言うと、サライはハガルが逃げ出すほどにつらく当たります。問題を解決しようとする人間の知恵は、あまりにも愚かです。 しかし主は、それでもなお、憐れみを表してくださいます。ハガルに御使いを送り、彼女の子孫をも数多くすることを約束し、サライのもとに帰らせます。ハガルは、主が自分を顧みてくださるお方であることを知るのです。 「あなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい」と御使いに告げられて生まれたハガルの息子も、ひとつの民族の父祖となります。アブラムの信仰の弱さと愚かさのゆえに生まれた子ですが、主は彼のためにも偉大な計画を実行してくださいます。 【祈り】 主よ、「イエスと名付けなさい」と御使いに告げられて生まれた救い主による罪の赦しの計画を感謝します。 Sun, 30 Apr 2023 00:10:00 +0000 「羊の囲い」と「良い羊飼い」のたとえ(ヨハネによる福音書 10章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230430 no 2023 「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。…わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 (ヨハネによる福音書10章7節、11節) 「羊の囲い」のたとえで、主イエスはご自身を「羊の門」と宣言されます。また、その門を避ける人は盗人であり、強盗であると主イエスは厳しく指摘されます。これは、当時の宗教的指導者をはじめとするユダヤ人に対する警告でした。彼らは、羊の門である主イエスを拒否して、受け入れようとしなかったからです。 旧約聖書には、神がご自分を羊飼いに、イスラエルの民をその羊の群れにたとえている御言葉があります(詩23編1節、80編2節、イザ40章11節など)。まことの神は羊を養う良い羊飼いであられ、イスラエルの民はその羊の群れです。 主イエスは「良い羊飼い」のたとえを通して、2回、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃいました。主イエスは、羊に命を与えるため、しかも豊かに与えるため来られた方です。私たちは、この良い羊飼いである主イエスを通して、まことの救いに入れられます。 「この囲いに入っていないほかの羊もいる」。こうおっしゃって、主イエスは、旧約の神の民である人びとだけでなく、私たち異邦人をもこの囲いの中へと招かれます。まことの羊の門はただ主イエス・キリストお一人です。すべての人がこの門から入るよう招かれています。 【祈り】 羊の門から入り、良い羊飼いである主イエスに依り頼み、福音を全世界に広める者とならせてください。 Sat, 29 Apr 2023 00:10:00 +0000 わたしの罪の赦しのための保証人(箴言 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230429 no 2023 あなたの口の言葉によって罠に陥り あなたの口の言葉によって罠にかかったなら わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。 (箴言6章2節~3節) 箴言は、隣人の保証人になることについて、非常に慎重に考えるべきであることを教えています。「あなたの口の言葉によって」と二度繰り返されていますように、特に友人に対して軽々しく約束してしまう弱さがあります。 しかし、保証人になるということは、こちらもその責任を負うことになってしまいます。ましてや負債を負ってしまった場合、すべての返済を負う義務が生じてしまいます。それはまさに身代わりになることです。それだけの覚悟がなければ、とても保証人になることはできません。 だからこそ、イエス・キリストはその覚悟をもって、私たちの保証人となられました。なぜなら、私たちが自分では決して返済することのできない罪という負債を負っているからです。そのことを知りながら、いや、知っているからこそ、私たちの保証人となってくださいました。誰も引き受けたいとは思わない罪を主イエスが受けてくださったからこそ、今日の私たちがあります。 「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロ2章13、14節)。 【祈り】 主よ、わたしの罪の赦しのための保証人となってくださり感謝します。きょうも十字架を見上げて歩みます。 Fri, 28 Apr 2023 00:10:00 +0000 義とされた信仰を強める主(創世記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230428 no 2023 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 (創世記15章6節) 主はアブラムを父の家から呼び出し、カナンの地へ向かわせたとき、子孫を増やして大きな国民にすることや彼の子孫にカナンの土地を与える約束をされました(12章)。しかしアブラムに子どもは生まれず、この地域の習慣に従って、家の僕が財産を受け継ぐ見通しでした。主は約束を忘れてしまわれたのでしょうか。 不満を口にするアブラムに主は空の星を見せます。当時の夜空は無数の星に埋め尽くされていたことでしょう。「あなたの子孫はこのようになる」と言われる主をアブラムは信じました。まだ存在していない命を存在させる主を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。 さらに主は、土地を与える約束を繰り返されます。信じたはずのアブラムでしたが、約束が実現するしるしを求めます。彼の信仰はそれほど強くないようです。驚くべきことに、主は二つに裂かれた動物を用意させ、その間を「煙を吐く炉と燃える松明」が通ることでご自身が通ったこととし、誓いを立てられます。契約を守らなければ、裂かれてもかまわないという誓いです。しかも、この誓いを立てたのは主とアブラム双方でなく、主だけです。自らを賭して約束の確かさを示してくださる主の姿は、アブラムの信仰を強めたことでしょう。 【祈り】 主よ、私たちもキリストを復活させたあなたを信じます。私たちを義とし、信仰を強めてください。 Thu, 27 Apr 2023 00:10:00 +0000 勝利を与える神から祝福を受ける(創世記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230427 no 2023 「天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。 敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように。」 (創世記14章19節~20節) シンアル、エラサル、エラム、ゴイムの王たちが、カナンの地に攻め込んできます。彼らは現在で言うところのイラク、イラン、トルコの各地を支配していた王たちです。迎え撃つのは、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイム、ツォアルといったカナン地方の各町に立てられた王たちです。戦いが始まれば勝ち目はありません。各町の王たちは逃げ出し、ソドムとゴモラの町が略奪され、ソドムに住んでいたロトも連れ去られました。 この知らせがアブラムに届き、彼は仲間と共に、カナン地方の北の果てダンまで追いかけます。彼らは二手に分かれて夜襲をかけ、連れ去られた人々と財産を取り戻しました。 勝利したアブラムを二人の王が出迎えます。一人はソドムの王です。彼は取り返してくれた財産をアブラムに提供しようとしますが、アブラムは断ります。「『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」という理由です。もう一人の王はメルキゼデクです。彼はアブラムを祝福し、勝利を与えたのは「いと高き神」であることを告げます。アブラムは戦利品の十分の一をささげ、彼を真の祭司として受け入れます。祝福を受けるべきなのは「いと高き神」からであり、ソドムの王からではないのです。 【祈り】 主よ、私たちは、メルキゼデクのような祭司であるイエス・キリストによってあなたに近づきます。 Wed, 26 Apr 2023 00:10:00 +0000 私たちの視野を超えて進む主の約束(創世記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230426 no 2023 「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」 (創世記13章16節) アブラムが多くの財産を携えてエジプトからカナンの地に戻ったことが、新たな問題を引き起こします。甥のロトも多くの家畜を持っており、牧草が足りなくなったのです。乾燥して岩場が多いカナン地方の高地では、牧草が岩陰のわずかに湿ったところにしか生えませんので、羊の数が多すぎれば十分に食べさせることができません。羊飼いの間で争いが起こるのは無理もありません。 人間の目から見ると、アブラムとロトの一族が共に栄えて、子孫が増えいくように見えました。そうして「大いなる国民」になるという主の約束が実現しそうです(12章2節)。ところが、アブラムはこの争いを解決するためにロトの家族と別れて暮らす決断をします。主の約束の実現は遠ざかったのでしょうか。 ロトがヨルダン川流域の良く潤った低地に移動して行くと、主は再び約束の言葉を与えられます。アブラムとその子孫にカナンの土地を与え、子孫を大地の砂粒のように増やすという約束です。主はロトの子孫に別の計画を用意しておられます(19章)。アブラムへの約束はあくまでもアブラムとサラとの間に生まれる子孫によって実現するのです。一族を二つに分けることで、むしろ主のご計画が前進したのです。 【祈り】 主よ、私たちも目の前の課題で精いっぱいです。それでもなお前進させられる最善の御計画に信頼します。 Tue, 25 Apr 2023 00:10:00 +0000 弱い信仰者の歩みを通してでも(創世記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230425 no 2023 「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」 (創世記12章3節) これまで、極めて良いものとして造られた世界に人間の罪が蔓延する様子が語られてきました。12章から語られるのは、罪によって祝福を失った世界に対する主の応答です。 主はアブラム(後のアブラハム)を呼び出し、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束されました。ここから語られ始めるのは、アブラムを父祖とするイスラエルの歴史です。やがてアブラハムの子孫としてイエス・キリストがお生まれになり、「罪の赦しを得させる悔い改めが…あらゆる国の人々に宣べ伝えられ」(ルカ24章47節)、世界が祝福を回復していきます。世界規模で進められる主の壮大な救いのご計画がここから始まるのです。 ところが、ここには世界規模の救いを予感させる力強さがありません。アブラムは生まれ故郷を離れて、在留外国人として不安定な立場での生活を始めました。10節以下にはアブラムが寄留先の人びとを恐れて、妻サライに自分の妹であると嘘をつくように頼む姿さえ記されています。 ただしアブラムは主に召されるままに旅立ち(4節)、行く先々で祭壇を築いて礼拝する(7、8節)信仰の歩みを続けています。弱さある信仰者の歩みを通してでも、主は世界規模の救いを進展させられるのです。 【祈り】 主よ、私たちの信仰の歩みは危ういのです。それでもなお世界規模の救いを進展させる御業をたたえます。 Mon, 24 Apr 2023 00:10:00 +0000 世界が異なる言葉で話すのは?(創世記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230424 no 2023 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」 (創世記11章4節) ここで人間が一致して企てたことは、4節の言葉の中に表されています。「散らされることのないようにしよう」とは、文明の中心に留まっていたい、という一つの思いを表します。そのために具体的に計画されたことは、町を造ること、そして天まで届く塔を建てることでした。その目的は「名を残す」ことです。 人は文明の力によって、驚くばかりの技術力を手にして、人類の統一を図るかもしれません。地上にユートピアを造ることは人間にとって可能でしょうか。教会はこの地上でいかなる場所として姿を表し得るでしょうか。聖書は科学技術を否定してはいませんが、天へ通じる道は、バベルの塔に象徴される文明の技術力によっては決して開かれないものです。 神の御旨に則ってキリストが辿られた十字架の道が、人をそこへと導きます。そして、地上で生き永らえるのとは違う、神と共に生きる永遠の命が約束され、世の終わりに人間の手に拠らない神の都が与えられます。その時、人類が一つの民として真の一致をみることができます。 その終わりを目指す一つの民とされた教会において私たちが今、見ることができるのは、民族は異なり、言葉は異なっていても、神の御業をほめたたえる賛美における一致です。 【祈り】 あなたへの賛美における一致という聖霊の御業が世界全体に広がりますように。 Sun, 23 Apr 2023 00:10:00 +0000 エマオの途上で現れる(ルカによる福音書 24章13-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230423 no 2023 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 (ルカによる福音書24章27節) 二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かいながら、エルサレムで起こっていた主イエスに関する一切の出来事を話し合っていました。二人は、復活の主イエスご自身が近づいて一緒に歩いておられるにもかかわらず、暗い顔をしていました。彼らは、主イエスの十字架の意味が分からず、「イエスは生きておられる」との天使の言葉(23節)を信じることもできていませんでした。主の復活の日であったのに、失望と絶望で心がいっぱいでした。 そこで復活の主は、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と二人を諭されます。そして、十字架の苦しみを受けて栄光に入れられることは旧約聖書の預言の成就なのだと説明して、二人を力づけます。 ここに福音の真髄があります。イエスは死んだお方ではなく、よみがえられたお方です。死に打ち勝たれた主イエスは、二人の弟子だけでなく今日の私たちにも、慰めと勇気を与えてくださるお方です。 それで、目が開け、主イエスだと分かった二人は、「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた」と語り合います。きょうも、聖霊が聖書を通して私たちに復活の主イエスを信じさせてくださいます。 【祈り】 まことの神よ、私たちの目を開いて、神の御言葉によって復活の主イエスを信じる者にしてください。 Sat, 22 Apr 2023 00:10:00 +0000 主の言葉からそれる悲しみ(箴言 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230422 no 2023 それゆえ、子らよ、わたしに聞き従え。 わたしの口の言葉からそれてはならない。 あなたの道を彼女から遠ざけよ。 (箴言5章7節~8節) この章には性についての率直な教えが語られています。それは結婚関係以外の性の営みを厳しく戒めているものです。 ここには不道徳な性関係が至るところで描かれています。不道徳な言葉は蜜を滴らせるように滑らかに感じられるかもしれませんが、その結果は、「苦よもぎよりも苦く」、「両刃の剣のように鋭くなる」ものです(3、4節)。そのように教えられているのは、「さもなければ後になって、肉も筋も消耗し、あなたは呻き、言わなければならない」からです(11、12節)。こうして、不道徳な性関係が結果として、自分の命を奪うものとなることを警告しています。 だからこそ「若いときからの妻に喜びを抱け」と勧めています(18節)。すなわち、結婚するまで純潔を保ち、性関係は生涯配偶者に限って楽しむようにということです。それが「わたしの口の言葉からそれてはならない」ことです。 「それてはならない」、「遠ざけよ」と聞きますと、消極的な感じがしないわけではありません。しかし、主が願っておられることは「わたしに聞き従え」です。聖書と『リジョイス』によって主に聞き従う日々が守られますように祈ります。 【祈り】 主よ、あなたとの交わりが豊かでありますように。そのために、日々御言葉に耳を傾ける者としてください。 Fri, 21 Apr 2023 00:10:00 +0000 神の祝福の具現として広がる世界(創世記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230421 no 2023 ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。 (創世記10章32節) 10章は「民族表」と呼ばれますが、ここには古代の世界観に従って民族の分布が綿密に調査され、互いに関係付けて記されています。ここに至ると聖書の世界がとても現実味を帯びてきます。示されるのは、こうした歴史的現実の中に、神の祝福を受ける部族が位置付けられていることです。洪水後の世界は、このように神の祝福の具現として広がります。 他方、その世界地図からはノアの家族にまつわる忌まわしい罪の呪いが立ち現れて来ます。中には罪のゆえに滅びてしまう、ソドムとゴモラのような町も含まれています。また、ハム族のエジプトが世界を制圧するかに見えた時代がやがて訪れます。そこでイスラエルはファラオの奴隷として、長い期間、虐待されます。やがてアッシリアが立ち、バビロニアが立ち、ペルシアが登場し、という具合に、互いに互いを奴隷とするための絶えざる争いが、兄弟同士の間で延々と、この地図上で繰り広げられます。その背後に、それでも人間が滅びてしまわないようにと支えておられる神がおられ、神の祝福が一つの系図の中で生きてゆきます。 世界は、ただ繁栄によって再生が目指されたのではなく、信仰を通して、神との正しい関係の内に再生されることが目指されています。 【祈り】 災いを幸福に変え、呪いを祝福に変えるその御手の力を、私たちの歩みの内にあらわしてください。 Thu, 20 Apr 2023 00:10:00 +0000 生き物の命は神のもの(創世記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230420 no 2023 「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。…人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。」 (創世記9章5節) 洪水後の、自然の秩序の制定は、かねてからの創造の保持として位置付けられますが、新しい時代を特徴付ける変化が与えられます。 第一に、肉食の開始です。神の憐れみのもとに人間はあらゆる生き物を食物とすることができるようになりました。しかし、「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」という規定では、依然として生き物の命は神のものであることが明記されます。血を人間が採ることは禁じられ、それを神のものとして、神に返さねばならない。肉を取るためには、血を大地に注ぎだして(申12章16節)、生き物が造られたその最初の場所へと返すことが命じられます。ですから、人間はこれを無作為に殺したり、血を流したりして食用にすることを禁じられます。「肉を食べる」ときには、神の御手に命をお返ししながら食するという謹厳さが加わります。 「血を流す」ことと関連して、第二に、人間の命の尊厳がここで明らかにされます。人間の命の尊厳は神に置かれています。人間には神のかたちが与えられていることに最高の尊厳があります。命の価値が社会秩序に基礎を置くのではなく、信仰によって神に置かれます。殺人は神のかたちを汚す、神への反逆行為として、被造物全体に向けて禁止されます。 【祈り】 あなたが祝福された命を大切にしてその尊厳を最大限に尊ぶことができるように私たちを導いてください。 Wed, 19 Apr 2023 00:10:00 +0000 空の虹を見て神は想い起こす(創世記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230419 no 2023 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」 (創世記8章21節) 暴力や絶望を目にして、神はいったい何をしているのだろうかと、人はよく問います。しかし、聖書がそこで明かしてくれるのは、人間の悪行の背後で神が世界を滅びから守っておられるということです。ですから、私たちは、まず神の責任に向かう前に、人に問うてみる必要があるのではないでしょうか。自分はいったい何をしているのか、と。人間は武器を取り、命の尊厳を踏みにじり、創造の破壊へと奔走します。罪は人間にあり、神から来るのではありません。 かつて古代に洪水が起こったとき、罪が神の創造を徹底的に蝕んでしまった世界がありました。それが洪水を引き起こしました。この記事を見て、ではもう一度、世界は滅ぼされてしまうのだろうかと考えてみますと、たぶん滅ぼすのは我々でしょう。 きょうの御言葉は、神はもう滅ぼすことはしないと誓った、と告げています。そしてひたすらに人の罪を担いつづける側に回って、世界を保持することに全力を傾けておられることが知らされます。 私たちの社会にとって今必要なことは、おそらく自分の心にあるものを静かに見つめて、天を仰いで虹の出現を祈ることではないでしょうか。空の虹を仰いで、世界を担っておられる神を、心に宿すことです。 【祈り】 世界の苦悩を目の当たりにしても、その背後であなたのお支えがあることを忘れませんように。 Tue, 18 Apr 2023 00:10:00 +0000 箱舟によって終末を生き延びる(創世記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230418 no 2023 主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた (創世記7章16節) 人間社会の堕落から洪水に至る世界の破局の時代に、信仰によって結ばれた神と人との絆がノアの箱舟によって保たれました。その始まりには「契約」がありました。神はノアに向かって、「わたしはあなたと契約を立てる」と告げました。この神の約束が、洪水の最中にあっても、ノアとその家族を支えました。ノアはその約束を信じて、すべて命じられたことを忠実に行いました。一言も口をきかずに、それを実行していく姿が印象的です。そうしてすべての準備が整った時、神が最後に箱舟の扉を閉めてくださいます。ノアが入ったのを見届けて、その後ろで、神が戸を閉じて、洪水の中に送り出されます。すべてのものが水によって押し流されていく中で、神の約束によって支えられている信仰者の家族が、箱舟の中、じっと時を待っていました。 この箱舟はよく教会に喩えられますが、それは正当な聖書の解釈でしょう。教会もまた、神が御言葉によって立ててくださった救いの器です。 「見よ、不法が満ちている」という世界は私たちの社会の現実でもあります。きょう、示された御言葉に忠実であったノアの姿には、キリストによる救いを願い、教会を建て上げていく私たちにふさわしい姿が映し出されているように思います。 【祈り】 御言葉に聴き従う忍耐を私たちに与え、主にあって世界の救いを待ち望ませてください。 Mon, 17 Apr 2023 00:10:00 +0000 神は心を痛められた(創世記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230417 no 2023 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 (創世記6章5節~6節) ノアの時代についに洪水が引き起こされます。地上に増え広がった人間の堕落ぶりがあまりにひどかったので、神は人間を創造したことを後悔し、これを滅ぼす決意をされました。私たちは今でも、この「神の後悔」を恐れます。こんなひどい世の中なんて滅びた方が良いと考える人も少なくない時代です。私たちの時代を見て、きっと神はまた心を痛めておられるのではないか、と私たちは想像します。 しかし、その時、ノアがいました。ノアはエノクと同じように神と共に歩んだ信仰者で、純粋な心で神に従う人でした。ノアはその名のとおり、心を痛める神の慰めである人間でした(5章29節)。そこで神はノアと契約を結んで箱舟を造るよう命じました。ノアの真っ直ぐな信仰を見込んでのことです。その箱舟によって神は御自身の創造した命を救う道を備えられたのでした。 堕落した世界の中にあって、神に従い通すことは愚かに見えるかもしれません。しかし、それが神の怒りに対して人類が生き延びる道であることを洪水物語は語っています。ノアに託された箱舟を造る仕事は、この現代世界にあっては、教会を建てる私たちの今日の仕事です。 【祈り】 御子の死によって心を引き裂かれた御神、どうかこの世界が滅びないように主の教会を用いてください。 Sun, 16 Apr 2023 00:10:00 +0000 「わたしの主わたしの神」と告白する(ヨハネによる福音書 20章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230416 no 2023 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 (ヨハネによる福音書20章28節) 復活なさった主イエスは、弟子たちの前に直接現れてくださいました。 弟子たちは、「わたしは主を見ました」と告げるマグダラのマリアの言葉を聞いていました(18節)。けれども、家の戸に鍵をかけて、閉じこもっていました。いまだ主イエスの復活を信じることができず、ユダヤ人を恐れていたからです。まさにそのとき、復活の主イエスが彼らに現れ、ご自身の手とわき腹とをお見せになります。弟子たちは主を見て復活を信じ、大いに喜びました。 疑い深いトマス(14章5節)は、そのとき、そこにいませんでした。そのため、ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」と証ししますが、トマスは断固として認めません。 その後、主イエスは、トマスも一緒にいるときに改めて現れてくださいました。トマスにご自分の手とわき腹を見せて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られます。主イエスは、彼の疑い、恐れ、不信仰を乗り越えさせられるのです。 こうして、疑っていたトマスは、主イエスの復活を信じて、「わたしの主、わたしの神よ」と、信仰を告白することへと導かれました。復活された主こそ、まことの神の子メシアです(31節)。復活の主を信じる信仰に固く立って歩みましょう。 【祈り】 復活の主を信じて、日々、主イエスを神の子メシアと告白する私たちとならせてください。 Sat, 15 Apr 2023 00:10:00 +0000 主の言葉に耳を傾けて心に納める(箴言 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230415 no 2023 わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。 わたしの言うことに耳を向けよ。 見失うことなく、心に納めて守れ。 (箴言4章20節~21節) 小見出しに「父の諭し」とあります。いつの時代でも親の教えは必ずしも子どもにとって好ましいものではありません。それでも箴言では、子どもたちを教える者が、自分も受けてきた教えを説き、「耳を傾けよ」と語ります。なぜなら、その語り伝えられてきたものこそ「わたし」も受けてきた神の言葉だからです。 その「耳を傾けよ」が繰り返されなければならないほど、私たちの回りには曲がった言葉、ひねくれた言葉が満ちています。それは自分の回りにあるというよりもまず、わたしの口から、わたしの唇から出てしまうものです。それが自らと隣人を傷つけ、諭しの言葉から遠くしてしまいます。 ですから、箴言は、「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」と語ります(23節)。聞いたものが一朝一夕にわたしのものとはならないからこそ、繰り返し耳を傾ける必要があります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10章17節)。 きょうもまた、わたしの命の源であるキリストの言葉と共に歩み出してまいりましょう。 【祈り】 主よ、きょうもあなたの言葉をいただける幸いに感謝します。その言葉によってわたしを支えてください。 Fri, 14 Apr 2023 00:10:00 +0000 神が取られたのでいなくなった(創世記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230414 no 2023 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。 (創世記5章24節) アダムからノアまでの系図が示すのは、洪水以前の人類の歩みです。神が創造した人間は、その重い罪にも関わらず、地上で歴史を生きながらえました。千年近い寿命をみると普通の人間とはとても思えません。しかし、古代の人びとは洪水以前を神々の時代と捉え、神に似た英雄たちの長寿をたたえました。今日知られている古代中東の「王名表」によれば、それらの英雄たちは、ほぼ永遠に等しい数万年の寿命を誇ります。 それに比べると、ここにある系図の人物たちは遥かに短い生涯を送り、最後は「死んだ」と報告されます。つまり、洪水以前の人物たちもまた神ではなく被造物である人間に過ぎないことをこの系図は示しています。 このリストの中で、エノクについての記述だけが異彩を放っています。彼だけ「死んだ」とは書かれずに、「神が取られたのでいなくなった」とされます。これが生きたまま天に昇ったと受け取られましたが(ヘブ11章5節ほか)、大切なことは、神と共に歩んだ人の人生は単に塵に返るのではなく、最後には「神が取られる」と言われることです。長生きして神々として讃えられることではなく、罪を赦されて神のもとに引き取られた人の人生こそが本当に幸せではないでしょうか。 【祈り】 わたしは終わりまで主イエスと共に歩みたいと願っています。信仰の内にわたしの魂を守ってください。 Thu, 13 Apr 2023 00:10:00 +0000 わたしの罪は重すぎて負いきれない(創世記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230413 no 2023 カインは主に言った。 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」 (創世記4章13節) 園から追放されたアダムとエバには二人の男の子が与えられました。苦労して育てる甲斐のある子どもたちですが、死ぬべき定めに人間を落とし込んだ罪は、その子どもたちの間で恐ろしい暗闇をもたらします。神を礼拝する家族でしたが、兄のカインは弟のアベルに嫉妬して、野原で殺してしまいます。知らぬ顔をして済まそうとしましたが、神はそれをご覧になってカインに語りかけ、罪の重さを悟らせました。 罪が熟して兄弟殺しにまで至るのは、罪の深刻さの証です。エデンの外で始まった人類の歴史は、罪の故に堕落した世界の只中を重い十字架を背負って進みます。「何ということをしたのか」との神による叱責の言葉はカインを通して人類全体に臨みます。取り返しのつかない罪に気づかされて「わたしの罪は重すぎて負いきれません」とカインは率直に告白します。この後、人類は文明を築くとさらに暴虐を深め、復讐が復讐を呼ぶ世代を招きます。 しかし、神はカインの上から復讐の呪いを取り去り、アダムとエバの間に新しい子を与えます。やがて神の子が人類の重すぎる十字架を引き受けるために地上に来られるまで、神の憐れみは罪を背負った人類の上に注がれ続けます。 【祈り】 自分を第一とするあまりに隣人を傷つけてやまない私たちの罪を、どうかわたしから取り去ってください。 Wed, 12 Apr 2023 00:10:00 +0000 塵にすぎないお前は塵に返る(創世記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230412 no 2023 「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。 お前がそこから取られた土に。 塵にすぎないお前は塵に返る。」 (創世記3章19節) 二人の人間が暮らし始めた神の庭で、蛇と女との間で知恵のやりとりがなされました。蛇は女をそそのかして神の言葉を疑うように仕向けます。徐々に疑い始めた女は、最後は自分の目を信じて、賢くなりたいとの誘惑に負けてしまいます。こうして「善悪を知るようになった」人間は大人になりますが、神の言葉に背いて罪を犯してしまいました。 エデンの園には生きて行くのに必要なものはすべて用意されていて、園を管理する仕事もあり、神に守られて不自由はありませんでした。蛇に騙されたとはいえ、神に背いた人間には、汗水たらして労働に勤しみ、苦労して子どもを育てて行かねばならない厳しい人生が待っていました。こうして、罪によって堕落した人間は死んで土に還る定めとなりました。 「塵にすぎないお前は塵に返る」とは、葬儀の際や墓前で唱えられることの多い聖句です。土から造られた人間が土に還るのは自然なことに見えますが、聖書はそれを自然とは言いません。神の言葉を信じなかったことの罰なのです。だから、人は信じて救われることが必要です。罪ある自分はやがて塵に返るのですが、イエス・キリストを信じる者たちは塵に返ってもなお復活することを約束されたのです。 【祈り】 私たちは死ぬべき定めを負った罪人です。憐れんでくださって、主の復活を信じさせてください。 Tue, 11 Apr 2023 00:10:00 +0000 人が独りでいるのは良くない(創世記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230411 no 2023 主なる神は言われた。 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 (創世記2章18節) 天地創造の最後の段階で、神は一対の人間を造り、男と女に創造されました。そして御自身の園を管理させるためにエデンの園に連れて来られました。人は土から造られたはかない存在です。しかし、神はそこに命の息を吹き入れて、人を生きる者にしてくださいました。 最初の人間はエデンの園で孤独でした。地上に造られた他の生き物は人間に相応しい助け手にはなりませんでした。そこで神はもう一人の人間をつくることにされて、人のもとに連れて来られました。こうして初めの人間は、男と女として、互いに助け合いながら、神の御前を生きるようになりました。 「人が独りでいるのは良くない」と言われた神の御旨を思うとき、イエスのように独りで生きる特別な召しを受けた人のことを思い起こします。そのように独身で生きる人が神の定めを信じることができるなら幸いです。それでも人が誰と生きるようになるのかは神が定めておられます。ですから、神が引き合わせてくださる真のパートナーを祈り求めたいと思います。また、独身であっても「互いに愛し合いなさい」とお命じになった主は、私たちに愛する隣人を引き合わせてくださいます。私たちは決して独りで生きてはいません。 【祈り】 主よ、あなたを信じて、変わらない喜びと平安をもって誰かの隣人になることができますように。 Mon, 10 Apr 2023 00:10:00 +0000 初めに神は天地を創造された(創世記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230410 no 2023 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。 (創世記1章31節) この宇宙に存在するすべてのものは、神の創造により始まります。神はすべてのものを御自分の意図するままに、御自分の言葉によって創造されました。そこで、一つ一つ生じたものをご覧になって「良し、良し」と承認してゆかれます。6日間にわたる創造の働きの最後に、神は一対の人間を創造されます。人間には神ご自身のかたちが与えられ、人間には神に代わってすべての命を治める使命が託されます。そうして初めに創造された世界は、人間を含めて、神の目から見て「極めて良い」世界でした(31節)。 私たちは人間の悪と災いに満ちた酷い世界に生きている、と感じている人も少なくない時代です。しかし、こんな世界になる前の素晴らしい神の創造について、聖書は私たちに教えてくれます。良い神からは良いものしか生まれません。そして人間をも含めて世界の大もとは極めて良い、素晴らしい存在として造られました。 後に人間と共に世界は堕落するのですが、神の創造に起源がある命の尊厳と素晴らしさは、キリストの救いによる創造の完成を待ちつつ、今もなお保たれています。どんなに自分や世界に幻滅しても、神が良いと言ってくださる命ですから、大切にしましょう。 【祈り】 創造者なる御神、あなたが創造した世界の素晴らしさを私たちが少しでも味わうことができますように。 Sun, 09 Apr 2023 00:10:00 +0000 主の復活を証しする空のお墓(マタイによる福音書 28章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230409 no 2023 「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」 (マタイによる福音書28章6節) 安息日が終わり、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアがお墓を見に行きました。この二人は、主イエスのお体に油を塗るための香料を用意していました(マコ16章1節)。死んで葬られた主イエスが復活なさるとは到底思えなかったからです。 そのとき、大きな地震が起こり、主の天使が現れます。神が天から御手をもって介入されたのです。天使は、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさった」と告げます。主イエスご自身が「3日目に復活する」とおっしゃっていたのであり(マタ16章21節など)、その成就であることを説明して、主イエスの復活を信じるように婦人たちを説得します。 主イエス・キリストの復活は、私たちの罪の赦しと新しい命の土台です。主に結ばれて、私たちは死に打ち勝つ復活の命を生きる者とされます。 復活の主イエスは、この婦人たちの前に現れ、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」と命じられます(10節)。主イエスの復活の福音はあらゆる人に告げ知らされるべきです。私たちもキリストの復活の証人です。この「主イエスの復活」こそ、キリスト教信仰の土台であり、始まりです。 【祈り】 主イエス・キリストの復活の喜びと希望を多くの人に告げ知らせる私たちとならせてください。 Sat, 08 Apr 2023 00:10:00 +0000 見えようが見えまいが共にいる主(ルカによる福音書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230408 no 2023 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。…二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 (ルカによる福音書24章15節~16節) 主イエスが十字架で死なれて3日目の夕方、二人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって歩いていました。何か目的があって歩いていたのではありません。むしろ、彼らは大きな目的を失い、落胆して神の都を立ち去ろうとしていたのです。彼らは主イエスに期待していました。新しい時代が来るのではないか。強い王国が築かれるのではないか。そのような期待をもって主イエスに従ってきました。しかし、主は十字架につけられ、墓に葬られ、3日も経ってしまったのです。 「すべては終わったのだ」という深い絶望が、彼らの目を暗くしていたのでしょうか。なんと、隣に来て一緒に歩いてくださっているお方が主イエスであると、彼らには分からなかったというのです。まるで、落胆の道を歩く私たち自身の姿を見せられているかのようです。絶望する時、深く落ち込む時、私たちも自分の思い込みや自分の考えで目の前が遮られ、まさか主イエスが共に歩いてくださっているとは思えないのです。 しかし、彼らに見えていようが見えていまいが、復活の主は彼らと共におられます。やがて、彼らの目は開かれ、心が再び燃え始めたのです。今も、主は生きておられ、私たちと共に歩んでくださっています。 【祈り】 復活の主よ。私たちの目を開き、もう一度希望をもって歩きはじめることができますように。 Fri, 07 Apr 2023 00:10:00 +0000 わたしを思い出してください(ルカによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230407 no 2023 するとイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカによる福音書23章43節) 主イエスと一緒に二人の犯罪人が、一人は右に一人は左に十字架につけられました。この二人が、十字架の上で対照的な言葉を語ります。一人はイエスへの憤りと不満。もう一人はイエスへの謙遜な祈りでした。私たちの中に、この対照的とも思える二人が、共に存在しているのではないでしょうか。 私たちは神の民だからこそ、王であるイエスに期待します。時に切実な願いを祈ります。しかし、王がそれを叶えてくださらないと思うとき、私たちはがっかりし、憤りを覚えることさえあります。「数々の奇跡を起こし、多くの人たちを救ってきたお方なのに、どうしてわたしには何もしてくださらないのか。あなたはメシアではないですか。わたしを救う力があるじゃないですか。ならばわたしを救ってみてください」と叫びます。 しかし、「お前は神をも恐れないのか」とたしなめるもう一人の自分も私たちの中にいるのではないでしょうか。十字架のイエスを御国の王であると信じ、「主よ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈ります。 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。葛藤を覚えながらも、神を恐れる者たちには、十字架が御国の入り口となるのです。 【祈り】 主よ。御国においでになるとき、わたしを忘れないでください。そこでわたしも生きていきたいのです。 Thu, 06 Apr 2023 00:10:00 +0000 憐れみに満ちた主の眼差し(ルカによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230406 no 2023 ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。 (ルカによる福音書22章60節~61節) 捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて行かれた主イエスのあとを、ペトロは追いかけました。屋敷の中庭に座っていると、「あなたもイエスと一緒にいましたね」と指摘され、ペトロはとっさに「わたしはあの人を知らない」と答えてしまいます(57節)。反射的に出た言葉だったのかもしれません。しかし、二度目、三度目の否認の言葉は、決して反射的に出た言葉ではないでしょう。自分の言葉で「わたしはイエスの仲間ではない」と否定したのです。 その時、突然鶏が鳴き、「主は振り向いてペトロを見つめられた」と記されます。主イエスはどのような眼差しをペトロに向けたのでしょうか。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と予め語っておられた主イエスです(32節)。ペトロを責めるような眼差しではなかったはずです。「お前はここから立ち直るんだぞ。他の兄弟たちを頼んだぞ」。そういう憐れみに満ちた眼差しではなかったでしょうか。ペトロは泣き崩れたのでした。 「どん底に大地あり」。長崎で被爆した医師、永井隆の言葉です。どん底に落ちて、主の憐れみを知った者だけが、ようやく始めることのできる地に足をつけた歩みがあります。どん底こそ、新しい夜明けなのです。 【祈り】 いつも自分の弱さに倒れる者たちです。主の憐れみがきょうのわたしを支えてくださいますように。 Wed, 05 Apr 2023 00:10:00 +0000 主と共に忍耐する時、逃げ出す時(ルカによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230405 no 2023 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 (ルカによる福音書21章20節~21節) 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら…ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。この予告が語られた約40年後、エルサレムはティトゥス率いるローマ軍によって包囲され、滅ぼされました。その際、多くのユダヤ人たちはエルサレムを守るため城壁内に立てこもり、最後まで戦いました。百十万人ものユダヤ人が命を落とし、9万7千人が捕虜となったという記録があります。しかし、主イエスの御言葉に従って、エルサレムからヨルダン川の東にあるペレア地方に逃れたキリスト者たちは、生き延びてそこで信仰を守ったのです。 大きな苦しみや試練に直面するとき、耐え忍ぶことの大切さを聖書は教えています(19節)。しかし、信仰をもって逃げるという道もあるのです。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。置かれている場所で、忍耐し、感謝し、咲くことができるならば、なんと幸いなことでしょうか。しかし、置かれた場所から逃げるしかない人もいます。逃げた先で咲けるなら、それもまた幸いなのです。 忍耐する時も、逃げ出すしかない時も、主イエスの御言葉にとどまりましょう。御言葉にとどまるならば、私たちがどこにいても、そこが神の栄光の舞台なのです。 【祈り】 主よ。御言葉にとどまることができますように。忍耐する力と、逃げ出す勇気をお与えください。 Tue, 04 Apr 2023 00:10:00 +0000 神によって生きている人たち(ルカによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230404 no 2023 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 (ルカによる福音書20章38節) 「人は死んだらどうなるのだろうか」。「愛するあの人と天国で再会できるだろうか」。古今東西、さまざまに議論され憶測がなされてきた問いです。誰もが直面する人間の生と死の問題を、私たちは神抜きに考えることはできません。「すべての人は、神によって生きているからである」とあるとおりです。 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と主イエスはおっしゃいました。その神が、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われるのは、彼らは決して死んだ者ではなく、御前に生きている者たちであるということを教えています。 大切な独り子を十字架にかけてまでも、私たちをご自分の子どもにしようとされた父なる神の愛を、私たちはどれほどわかっているのでしょうか。イエス・キリストの十字架の愛という太い糸で、私たちは神と結ばれているのです。何かに失敗したからといって切れてしまうような糸ではありません。私たちの肉体の死をもってしても切れることのない愛の糸です。神と結ばれている者は、「死んでも生きる」のです(ヨハ11章25節)。永遠なる神は滅びることなく、私たちも生き続ける。これが、神と結ばれて生きる者たちの幸いです。 【祈り】 主よ。死の恐怖、死の悲しみにたびたび直面する私たちです。復活の希望に生きることができますように。 Mon, 03 Apr 2023 00:10:00 +0000 失われていた者を救う主イエス(ルカによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230403 no 2023 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカによる福音書19章9節~10節) ザアカイは金持ちでした。徴税人として規定以上に取り立て、ローマ政府に納めた後の手元に残ったお金で財を成しました。彼がなぜ徴税人となったのかはわかりませんが、おそらく金儲けをすること、財産を築くことは、彼にとって、唯一の生きがいであったでしょう。人から嫌われ、友だちもいない彼です。お金儲け以外には自分をアピールすることはできなかったのではないかと思います。お金が彼のすべてでした。 彼にとってはお金が最も大切なものとなっていたのでしょう。お金を信じていたのです。それは彼の背が低いことや人から嫌われているというコンプレックスの裏返しでもありました。欲求不満のはけ口でもあったでしょう。お金さえあれば、自分は生きていけると考えていたのです。 そのザアカイが、主イエスによって見つけ出され、救われました。主イエスの方から「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられたのです。主イエスはザアカイの名前を知っておられました。このことを彼はとても喜んだはずです。 そして、ザアカイはその財産の半分を貧しい人たちに施します。彼にとってお金以上に大切なものに出会ったのです。それが、救い主イエスだったのです。 【祈り】 主よ、失われている私たちを捜し出して、救ってください。アーメン Sun, 02 Apr 2023 00:10:00 +0000 キリストの受難と死による正義と愛(マタイによる福音書 27章11-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230402 no 2023 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章46節) 受難週に入ります。この箇所は、主イエスがピラトから尋問され、十字架につけられて処刑されたことを語っています。主イエスの処刑に関わった人物として、既得権益に執着していた宗教指導者たち、頑なな群衆、そして優柔不断で巧妙なピラトという、3種類の人びとが登場します。彼らの姿は私たち自身の内にある罪の姿にほかなりません。私たち皆が取り返しのつかない罪を犯して、主を十字架につけているのです。 マタイは主イエス・キリストの受難と死の出来事を詳しく記しています。兵士たちによる侮辱(27~31節)、十字架による処刑(32~44節)、イエスの死(45~56節)、そして葬り(57~61節)です。この「キリストの受難と死」は、決して偶然ではなく、旧約聖書の預言の成就です。具体的には、35節、39節、43節、46節などが詩編22編の成就であると指摘されます。キリストは旧約の完成者です。 生けるまことの神は、私たちの罪を黙って見過ごしにするお方ではありません。けれども、その罪を私たちに負わせるのではなく、キリストに負わせられました。キリストの受難と死によって、神は、約束されていたご自身の正義と愛を私たちに示してくださいました。 【祈り】 キリストの受難と死を通して、十字架に示された正義と愛を知り、悔い改めることへとお導きください。 Sat, 01 Apr 2023 00:10:00 +0000 神により義とされるとは(ルカによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230401 no 2023 「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」 (ルカによる福音書18章13節) 対照的な二人を比較したたとえ話が、主イエスによって語られています。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。この二人が祈るために神殿に上って行きました。この二人は同じ時刻に同じく神殿で祈りを献げました。 しかし、この二人の祈りの内容は全く異なっていました。ファリサイ派の人の祈りは、自分のことを自慢げに、そして誇らしげにアピールをしているようです。自分で自分のことを正しい人間である、義人であると宣言しています。さらに、彼は自分の横で祈る徴税人を蔑んでいます。 一方で徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っています。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず」祈っています。徴税人は、自分が神の御前に進み出る資格などない者であることを知っています。さらに彼は、「胸を打ちながら」自らの罪を自覚し、罪を悔い改めて、すべてを神に委ねて祈っています。 私たちはみな罪人です。自分の力や功績では神の御前に出る資格を手に入れることができない者です。たとえどんなに小さな罪でも神からの赦しが必要です。私たちはただ神の憐みにすがるしかない存在なのです。 【祈り】 主よ、罪人のこのわたしを憐れんでください。主よ、わたしの祈りを聞き、悔い改めと信仰とを与えてください。アーメン Fri, 31 Mar 2023 00:10:00 +0000 神に仕えるとは(ルカによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230331 no 2023 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 (ルカによる福音書17章10節) このたとえで登場する僕とは主イエスの弟子たちのことです。弟子たちばかりでなく私たちも主イエスの僕です。主イエスと私たちクリスチャンは「主人」と「僕」の関係です。 「取るに足りない」は「価値のない」と同じ意味です。ですから、僕が主人にした畑仕事、家畜の世話、夕食を作ったことに対して、主人はあえて感謝の言葉をかけることもありません。するべきことをしただけにすぎないのです。それはなぜでしょうか。 それは、私たちの「主人」である主イエスが私たちにとってどのようなお方なのかを考えてみると分かると思います。主イエスは私たちの救い主です。私たちの罪の贖い主です。十字架にかかり、死んで、3日目によみがえり、私たちを罪の支配から救ってくださいました。私たちの罪責の一切を私たちに代わって支払ってくださった方、私たちを贖い出してくださった方です。 私たちは、私たちを罪の支配から贖い出してくださった主イエスに対する感謝があります。その感謝の応答として私たちは、主イエスの僕として喜んで奉仕することができるのです。主イエスの十字架による救いに比べたら、私たちの奉仕は取るに足りないものです。しかし、この奉仕こそが、主への感謝の応答なのです。 【祈り】 主よ、あなたは私たちを罪から救ってくださいました。その恵みへの感謝として、喜んで仕えます。 Thu, 30 Mar 2023 00:10:00 +0000 私たちの心を知る神(ルカによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230330 no 2023 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 (ルカによる福音書16章13節) 神はその人の心を見ておられると、主イエスは言われています。その人の心の底にある思いを神は見抜いておられるのです。ですから、人がたとえ他人から知られないよう、どんなに巧妙に本心を隠していたとしても、神には知られています。 人は目に映る表面的なことで評価を下します。どれほどの富や財産を持っているか、どれほどの社会的地位にあるか、どれほどの善行を行っているか、どれほど美しい容姿をしているか、そんなことが人には大切なのです。 しかし、神はそのようなことを求めてはおられません。神は心からその人が神に信頼することを求めておられるのです。また、神は心からその人が隣人を愛することを求めておられるのです。 主イエスは、有り余る中から献金した金持ちより、生活費のすべてであるレプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめを評価され、だれよりも多くをささげたと言われました。 もし私たちが神に忠実に仕えようとするならば、神は必要なものをすべて与えてくださる方です。神は私たちの経済的な必要も助け手も与えてくださいます。 【祈り】 主よ、心からあなたに信頼し、あなたに仕えます。あなたは、私たちの必要の一切を与えてくださいます。頼るべきは富ではなくあなたです。 Wed, 29 Mar 2023 00:10:00 +0000 見失った羊を見つけ出す主イエス(ルカによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230329 no 2023 「100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」 (ルカによる福音書15章4節) 羊ほど弱い家畜はいません。他の家畜とは違い、羊は身を守るものを何一つ持っていません。速く走って敵から逃れることもできず、自分のもと居た場所に戻ることができる本能が弱いので、すぐに迷い出てしまいます。聖書の言う「見失った羊」は文字どおりのことです。ですから、羊飼いは、1匹でも羊を見失ったときには捜し回ります。そして、見つけたらその羊を担いで家に帰るのです。 このたとえから、主イエスは、何を伝えたいのでしょうか。羊とは私たちのことです。その羊を神の御許に連れて帰るのが主イエスであるということです。主イエスにとって、私たちは大切な羊です。主を信じる者は、誰一人失われてはならないのです。主イエスは、私たち一人ひとりのことをその名前と顔、すべてを知っていてくださいます。いつも気にかけていてくださるのです。 私たちは羊のように弱い存在ですから迷い出てしまえば、もうどうすることもできません。そのような私たちを主イエスが守り、捜し出して、また神の御許に連れて帰ってくださいます。私たちが天の御国へと行き着くまで羊飼いとして導いてくださるのです。そして、天では、神が私たちを喜んで迎え入れてくださいます。 【祈り】 主よ、私たちは道から迷い出て、あなたから離れてしまいます。私たちを神の御許に連れ戻してください。 Tue, 28 Mar 2023 00:10:00 +0000 キリストの弟子となる覚悟(ルカによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230328 no 2023 「…わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」 (ルカによる福音書14章26節) 25節から33節までに「わたしの弟子ではありえない」が3回繰り返されています。キリストの弟子にはキリストの弟子らしさが求められるのです。後をついてきた大勢の人に対して、主イエスは弟子とはどのように生きるものであるかを教えます。 キリストの弟子としてまず求められているのは「憎むこと」です。これは自分の命も含まれます。自己否定です。自分の中にある罪を憎み、ひたすら赦しを願うことです。 次に主イエスは塔の建設を引き合いに出して、計算することの大切さを教えます。行き当たりばったり、勢いでなく計画的に歩むのが主の弟子です。信仰があれば大丈夫、という態度ではダメなのです。 最後に主イエスは戦いを例にしながら、弟子として生きるときには冷静な判断が求められていることを明らかにしています。 このように弟子としての歩みは自己を否定し、計画的に行い、冷静沈着であることが求められます。非常に厳しい道です。しかし、それくらいの犠牲を払ったとしても、価値のある生き方なのです。持ち物を一切捨てた(33節)としても惜しくない。持ち物よりもはるかにまさる恵みを主は約束してくださっているのです。 【祈り】 主よ。あなたの道を歩ませてください。ただひたすらに歩ませてください。 Mon, 27 Mar 2023 00:10:00 +0000 神の国はからし種のごとく(ルカによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230327 no 2023 「それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」 (ルカによる福音書13章19節) 以前、アメリカに滞在したときに夕食会に招かれました。そこにはアメリカ人の牧師もおられたのですが、ある先生がこのように言ってくださいました。「日本の教会はからし種のようかもしれません。でも安心してください。神が成長させてくださいます!」 主イエスは神の国をからし種にたとえられました。からし種は非常に小さな種ですが、成長すると数メートルにもなるそうです。空の鳥が巣を作ることができるのです。鳥が巣に憩うように、神の国は神の民が憩います。 また、主イエスは神の国をパン種にたとえられました。パンが膨らむのはパン種があるからです。わずかな菌が全体を膨らませるのです。 種が木になり、小さな種が全体を膨らます。これが神の国なのです。神の国は成長します。木にたとえられているように生命力あふれるものなのです。それは、木が外に伸びるようにこの世界に広がり、種がパンをふくらませるように私たちの中に広がるのです。 神の国の成長に信頼するものでありたい。成長は約束されています。あせらず、その時を待ちましょう。神の国の伸展を邪魔することが無いように祈り求めます。 【祈り】 主よ。神の国がこの世界に、またわたしの中に広がりますように。 Sun, 26 Mar 2023 00:10:00 +0000 わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハネによる福音書 11章1-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230326 no 2023 「わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 (ヨハネによる福音書11章42節) 次週から受難週に入ります。その後、教会はイースターを迎えます。イースターは、十字架の上で死なれた主イエスが、3日目によみがえられたことを記念する教会の祝日です。しかしそれだけではなく、私たちもまたイエス・キリストの復活の命にあずかる者とされ、死んでも生きるという恵みを覚える日でもあります。その先駆けとして、主イエスは重い病で死んだラザロという若者を墓から呼び出してくださいました。 ラザロとその姉妹のマリアとマルタの三人は、エルサレムに近いベタニア村で暮らしており、主イエスは度々そこを訪れました。ラザロが重い病気にかかったとき、姉妹たちは遠くまで人をやって主イエスに癒しを願いました。主イエスはユダヤに行くのは危険だと止める弟子たちを制し、ベタニア村に向かいます。しかし、主イエスが着いたとき、すでにラザロは死んで墓に葬られていました。主イエスは、ベタニア村に向かう道中、「わたしは彼を起こしに行く」と言われました。 葬られて4日後、まだ葬儀が続く中で主イエスは到着し、「あなたがたが信じるようになるため」と言われ、墓に向かわれました。「ラザロ、出て来なさい」と呼ぶと、ラザロはよみがえりました。私たちが復活の主イエスを信じるようになるために! 【祈り】 復活であり命である主イエスを信じます。アーメン Sat, 25 Mar 2023 00:10:00 +0000 思い悩みからの解放(ルカによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230325 no 2023 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」 (ルカによる福音書12章22節) 夜遅くまで起きていることが多いので朝ご飯を食べることはあまりありません。そうなると昼前にはお腹が減ります。そこで、何を食べようかいろいろと考えます。食べたら食べたで甘いものを食べたいなぁと思う始末。食欲があるのは健康な証拠、と自己弁護したところで「何を食べようか…思い悩むな」という言葉にドキっとさせられます。 もちろん、天の父なる神は私たちに食べることや着るものが必要なのはご存じなのです(30節)。要するに、これは優先順位の問題なのです。食事や衣服のような身体的なことを軽んじるというのではありません。 それでは、何を求めるようにと言われているのでしょうか。それは「神の国」(31節)です。神の国は神の御支配。神がすべてのすべてとなること。このわたしの中に、神の国が広がるのです。神の御支配、神の国が広がるように。そのように願いなさい、と主イエスは言われるのです。 真に愛であるお方の御支配が神の国なのです。この神の国がわたしの中でしみこむとき、神は必要なものをすべて備えてくださいます。そして、この神の国を神は喜んで与えてくださると約束してくださいました。何にもまして、まず、神の国を求めましょう。 【祈り】 主よ。神の国をまず求めることができますように。 Fri, 24 Mar 2023 00:10:00 +0000 求めて探してたたく(ルカによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230324 no 2023 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」 (ルカによる福音書11章9節) 根性論やスポ根は古い時代の価値観のように思われて久しいのですが、何かを一生懸命に行うということは決して悪いことではありません。私たちの救いは神から一方的に与えられるものですが、救いに入った私たちが懸命に何かを求めることは間違った信仰的な態度とは言えないでしょう。 11章で描かれるのは懸命に祈り求める者の姿です。この人の家に友達が来ました。夜中です。家には何もなかったのでしょう、友達は近所の友人のところに行き、パンを3つ貸して欲しいと頼みます。この友人は夜も遅いし勘弁して欲しいと邪険に扱います。 主イエスはこのお話を通して懸命に求めることを教えています。そうすれば、友達だからという理由ではなく、しつこいからという理由で与えてくれるというのです。主イエスは言われます。求めなさい、と。そうすれば与えられるから。もっと大胆に、もっと素直に。かっこつけることなく、天の父に求めるように。その時、父は良いものを与えてくださる。 天の父が与えてくださる良いもの。それは聖霊です。それは神の御心をわからせていただくことです(ヨハ14章26節)。この聖霊に励まされて私たちはきょうも大胆に祈ります。 【祈り】 主よ、聖霊をあたえてくださり感謝します。もっと大胆にあなたに祈ることができますように。 Thu, 23 Mar 2023 00:10:00 +0000 主の足もとに座って(ルカによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230323 no 2023 「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10章42節) 主イエスはベタニア村にお入りになりました。そこにいるある家族を訪ねるためです。住人のマルタはさっそく、主イエスを家に迎え入れました。 マルタには妹のマリアがいました。主イエスを迎え入れた二人の様子は対照的です。もてなすマルタ。マリアはというと、主イエスの足もとに座っています。マルタは当然、おもしろくありません。「わたしがこんなに一生懸命やっているのに!どうしてマリアは何にもしてくれないのかしら?イエス様もイエス様よ。一言、手伝ってくれるように言ってくれればよいのに!」。 マルタは主イエスとその一行をもてなしました。客人をもてなすことはふさわしいことです。正しいことです。良いことです。そのことを主イエスはご存じでした。そこで、主イエスは言われたのです。「必要なことはただ一つだけである」(42節)。ただ、一つだけ。必要なことが強調されています。それではこのところで主イエスが必要としているのは何でしょうか。温かいスープや良く焼けた肉ではないのです。それは、このお方のところに、近くにきて話を聞く。このお方の声を聞く。これこそ、イエス・キリストが必要としておられ、私たちにとっても必要なことなのです。 【祈り】 主よ、心騒がせることなく、本当に大切なことに思いを向けることができますように。 Wed, 22 Mar 2023 00:10:00 +0000 神の国の伸展に仕える(ルカによる福音書 9章46-48節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230322 no 2023 「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」 (ルカによる福音書9章48節) 主イエスの弟子たちはしばしば「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」ということを議論しました。この世では偉い人たちが権力を振るって民を支配するということが起こりがちですが、主イエスの弟子たちでさえ、そのようなこの世の価値観と秩序の影響を受けていたのです。ですから主イエスはあえて一人の子どもをご自分のそばに立たせて言われました。この小さな一人の子どもを受け入れることはご自身を受け入れることであり、さらにはご自身をお遣わしになった父なる神を受け入れることになるのだと。この世とは正反対の、「神の国」の価値観と秩序に生きることを教えられたのです。 悪魔的な力が支配するこの世では、人間の価値が能力や生産性によってはかられ、強い者が弱い者を力で支配し、抑圧し、搾取するということが起こりがちです。 「神の国」が来れば、その逆のことが起こるはずです。そこでは強い者、偉い者こそが、弱い者、小さな者に仕えることが求められます。ここにディアコニアの目的があります。教会は「キリストの体」として悪魔の暗闇の支配に立ち向かいます。そして犠牲になりやすい小さな弱い立場の人びとに愛をもって仕えることを通して、神の国の伸展に仕えるのです。 【祈り】 主よ、この世の価値観と秩序に流されず、神の国の価値観と秩序の中に生きることができますように。 Tue, 21 Mar 2023 00:10:00 +0000 主イエスの深い憐れみに動かされる(ルカによる福音書 10章25-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230321 no 2023 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 (ルカによる福音書10章37節) 律法の実行を命じられた律法学者は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いました。彼は愛の対象である隣人と、愛さなくてもよい敵を区別して、自分を正当化しようとしたのです。そのときに主イエスが語られたたとえ話が、この「善いサマリア人」のたとえです。 このサマリア人は追いはぎに襲われた旅人を見て「憐れに思い」ました。この言葉は、新約聖書では主イエス御自身と「神の愛を教えるたとえ話」だけに用いられる「はらわた」を意味する強い言葉です。すなわち、はらわたが震えるほどの深い憐れみをもって傷ついた旅人を助けたこのサマリア人の姿には、罪人を深く憐れんでくださる主イエスのお姿が映し出されていると言えます。 そしてそうであるなら、私たちは助ける側の人間である以前に、まず瀕死の旅人の姿に自分自身を重ねるべきではないでしょうか。私たちは皆、自力では救われない、瀕死の罪人です。主はそのような私たちをはらわたが震えるほど深く憐れみ、十字架の上で命をささげてくださいました。ですから罪深い私たちも、この主イエスの憐れみを共有するキリストの体として、「行って…同じように」することが出来るのです。ここにディアコニアの動機があります。 【祈り】 主よ、はらわたが震えるほどの深い憐れみを共有するあなたの体として、私たちを用いてください。 Mon, 20 Mar 2023 00:10:00 +0000 仕えて下さる神のかたちとして(創世記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230320 no 2023 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 (創世記2章8節) 神は6日間にわたって天地を創造され、最後に人間を造ってくださいました。そのこと自体が神の人間への愛の奉仕と言えます。「神の国」は神が人間に愛をもって仕えてくださることをもって始まりました。そして人間は「神のかたち」として、神に倣って、神と人と世界に対して愛をもって仕える僕としての役割が与えられました。ここにディアコニアの起源を見ることが出来ます。 人間は仕えてくださる神のかたちとして、本来的にディアコニア的存在と言えますし、「神の国」は人間のディアコニアによって実現してゆくはずでした。しかし人間は罪を犯して堕落し、愛をもって仕えるのではなく、強い者が弱い者を力で支配して仕えさせるようになってしまいました。つまり「神の国」は人間の反逆によってその実現を妨げられてしまったのです。 しかし神は、この世を罪と死の支配から解放する救いのご計画を立て、神の民を起こし、その歴史を導き、ついにご自身の独り子をこの世に送ってくださいました。イエス・キリストは仕えられるためではなく仕えるために来られました。ですから、私たちもキリストに倣って、神のかたちとして、愛をもって仕える者となることが求められているのです。 【祈り】 神様、まずあなたが私たちに愛をもって仕えてくださいましたから、私たちも仕える者とならせてください。 Sun, 19 Mar 2023 00:10:00 +0000 霊の目を開いてくださる主イエス(ヨハネによる福音書 9章1-41節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230319 no 2023 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 (ヨハネによる福音書9章39節) 主イエスは39節で言われます。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。 愛の神がおられること、この神が私たちを救うために主イエスを世に遣わされたことを知るならば、世界の見方が変わります。神を正しく知ることは、私たち自身を正しく知ることにつながるのです。日本キリスト改革派教会創立宣言は、これを「有神的人生観・世界観」と言い表しました(1946年4月)。 主イエスは生まれつき目の見えない人の目に、唾でこねた土を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼は主イエスの言われたとおりにしました。この人は見えるようになり、主イエスに出会います。そして、「主よ、信じます」と信仰を告白しました。 主イエスに敵対するファリサイ派の人びとは彼を呼び出し、主イエスを否定するよう迫りました。しかし、彼は断固として応じません。この人は、主イエスによって肉の目だけでなく、霊の目も開かれたのです。 神はおられず、世を愛しておられない、救い主を遣わすこともない、と信じる人は、真実の世界を見ていません。神の愛に背を向ける罪は裁かれます。しかし、主イエスは私たちの霊の目を開いてくださいます。 【祈り】 見えると言い張る者ではなく、真実にこの世界が見える者としてください。 Sat, 18 Mar 2023 00:10:00 +0000 クリスチャンの信仰は異口同音(箴言 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230318 no 2023 自分自身を知恵ある者と見るな。 主を畏れ、悪を避けよ。 (箴言3章7節) 親の宗教の影響下に生まれ育ち、親の信仰を無批判に受け入れてきた子らが、勇気をもって「宗教二世、信仰二世」を名乗り、市民に理解と救済を求めています。その窮状はさまざまですが、信教の自由について、深刻な問いが投げかけられています。ジャーナリズムによって理解が深められ、弁護によって救済が拡げられるよう、願ってやみません。 私たちもけっして他人事ではありません。似たような被害者に、あるいは加害者にさえ成り得るからです。宗教に限らず、あらゆる反社会的勢力によって自由を束縛され、人権を蹂躙された人は大勢います。愛をもってその声に耳を傾け、良き理解者となり、救済のために奉仕することが、クリスチャンに期待されます。 愛と自由のディアコニアを可能にするのは、クリスチャンの信仰です。私たちの信仰は、「異口同音」の信仰です。イエスという方への愛と信頼に基づく「人格的信仰」です。イエスの僕となることへの同意に基づく「契約的信仰」です。イエスを主と呼ぶ聖書の知識に基づく「理性的信仰」です。「心を尽くして主に信頼し、…どのような道を歩むときにも主を知れ。…それはあなたの体の癒やしとなり、あなたの骨の潤いとなる」(3章5~8節、聖書協会共同訳)。 【祈り】 家族のいる家、神のいます聖所から引き離された人を癒やしたもう主よ、あなたの救いのわざに信頼します。 Fri, 17 Mar 2023 00:10:00 +0000 主の憐れみを受けたアハズ王(歴代誌下 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230317 no 2023 アハズは主の神殿、王宮、高官の家の財産を一部アッシリアの王に差し出したが、何の助けにもならなかった。 (歴代誌下28章21節) 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と御言葉は教えています(エレ17章9節)。祝福の源である主に徹底して背き、破滅をもたらすものでしかない神々に助けを求め続けたアハズ王に、この御言葉が重なります。 憐れみ深い主は、アハズ王を立ち帰らせるために、御怒りを示し、近隣諸国を用いてユダの国を打たれました。このため、襲い来たアラム、エドム、ペリシテにユダはなすすべなく打ち負かされます。さらに、兄弟の国イスラエルからも攻め込まれて大敗し、20万もの婦女子が捕虜として連れ去られてしまいました。アハズ王も悲嘆にくれます。しかし数日後、アハズ王を驚かせ、喜びで満たす知らせが届きました。何と、あの20万の人びとが全員釈放され、手当てともてなしを受けて戻ってきたのです。起こり得ないことを主が成し遂げてくださいました。それでも、アハズは悔い改めませんでした。 このアハズだけではありません。私たちには、とらえ難く病んでいるこの心を癒してくださるお方が必要です。私たちのために十字架の御業を成し遂げてくださった主イエス・キリストこそ、私たちの心を癒し、悔い改めの恵みをお与えくださる、ただ一人のお方です。 【祈り】 主よ。常に差し伸べてくださっているあなたの救いの御手を、忘れることのない者としてください。 Thu, 16 Mar 2023 00:10:00 +0000 主の御前をたゆまず歩き続ける(歴代誌下 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230316 no 2023 ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。 (歴代誌下27章6節) 2節に「民は依然として堕落していた」とあります。その堕落の深刻さは、同時代に生きた預言者イザヤの言葉から知ることができます。「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない」(イザ1章23節)。 この背き去った民の王として立てられたヨタム、その統治は困難を極め、孤独に悩む日々もあったことでしょう。それでも、ヨタム王は、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、生涯の間、右にも左にもそれることがなかったのです。6節に「ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた」とあります。 私たちも、困難な働きに召され、孤独な日々を送る、そのような時があります。主の目にかなう正しいことを選び取って行くことに勇気と決心が求められる時もあります。 しかし、恐れることはありません。ヨタム王の労苦を忘れることなく、生涯の間支え続け、祝福してくださった主が、私たちをも祝福してくださるからです。そして、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されているからです(1コリ15章58節)。 【祈り】 主よ。たとえ見渡す限り敵ばかりであっても、あなたの目にかなうことを行うことができますように。 Wed, 15 Mar 2023 00:10:00 +0000 その名声は遠くにまで及んだ(歴代誌下 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230315 no 2023 神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、彼も主を求めるように努めた。彼が主を求めている間、神は彼を繁栄させられた。 (歴代誌下26章5節) ウジヤ王はたいへん優れた王でした。外に向かっては、近隣諸国を平定し、貢ぎ物を献上させます。内に対しては、荒れ野の開拓をはじめ農業生産を飛躍的に向上させ、また、国の守りを強固にしました。 勢力を増し加えた彼の名声は、いつしか遠くにまで鳴り響くようになります。そして、これらすべての祝福は、彼が主の目にかなう正しいことを行っていたからこそ与えられていたものでした。 ところがウジヤ王も、主に背く大失敗をしてしまいます。その原因は父アマツヤと同じく傲慢の罪でした。ウジヤは御怒りを受け、重い皮膚病によって打たれます。そしてこの病のゆえに、彼は王宮を出て、隔離された家に住まなくてはなりません。 痛ましいことですが、主は彼を生涯癒されませんでした。しかし、この後の彼への評価はまことに温かいのです。ウジヤは「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」(27章2節、26章4節)。 地上にある間、やってしまったことの責任は負わなければなりません。しかし、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ8章1節)。主の赦しの恵みに感謝し、御声に従って参りましょう。 【祈り】 主よ。私たちを思い上がりの罪からお守りくださり、祝福の道を歩む者としてください。 Tue, 14 Mar 2023 00:10:00 +0000 心をかたくなにしてはならない(歴代誌下 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230314 no 2023 主はそのアマツヤに対して怒りに燃え、預言者を遣わされ…言った。「あなたの手から自分の民を救えなかった神々を、どうしてあなたは求めるのか。」 (歴代誌下25章15節) 箴言6章に、主が「心からいとわれるものが七つある」と列挙されているものがあります(16~19節)。その第一に挙げられているのが「驕り高ぶる目」です。 アマツヤ王は、嘆かわしいことにこの驕り高ぶる目の持ち主でした。彼は預言者に言い放ちます。「お前を王の顧問にした覚えはない。もうよい。打ち殺されてもよいのか」。そして、何の力もないエドム人の神々の前にひれ伏すことをやめなかったのです。このように、驕り高ぶる目は人の判断をすっかり狂わせてしまいます。イスラエルの王ヨアシュの忠告を無視して無謀な戦いを仕掛け、そして、惨敗したのもそのせいでした。 憐れみ深い主は、この惨敗の後、なお15年以上アマツヤの命を永らえさせ、悔い改めの時を備えてくださいました。しかし、アマツヤ王は悔い改めることをしなかったのです。そして、父王と同じく家臣たちによって殺害されるのでした。 主の御前にふさわしいものは何でしょうか。それは、砕かれた悔いた心であり、主の教えを喜びとする柔らかな心です。そして主イエスは、信じる一人ひとりにその心を与えてくださっています。 【祈り】 主よ。傲慢の罪から私たちをお守りくださり、へりくだった心であなたに喜び仕える者としてください。 Mon, 13 Mar 2023 00:10:00 +0000 へりくだり悔い改めて生きよ(歴代誌下 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230313 no 2023 彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。 (歴代誌下24章19節) 7歳で王となったヨアシュは、彼の助言者であり、養父とも言うべき祭司ヨヤダが生きている間は、主の目にかなう正しいことを行いました。40年にわたる治世の前半では、神殿修復という特筆すべき事業を成し遂げてもいます。 ところが、ヨヤダが世を去って後、誘惑が忍び寄ると、ヨアシュ王はそれに安々と乗せられてしまうのでした。「ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した」。あがめ立てまつられてすっかり上機嫌の王、彼は、手のひらを返すように主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕える人に変わってしまうのでした。 憐れみ深い主は、彼らの悔い改めを求めて預言者たちを次々遣わされます。しかし、彼らは聞こうとしません。そればかりか、同じように声を上げた恩義あるヨヤダの子ゼカルヤを捕らえ、殺してしまうのでした。 正しい主は、少数のアラムの兵士たちを用いてユダの人びとを裁き、ヨアシュ王は重傷の床で家来たちに暗殺され、世を去るのでした。 このように、悲惨な結末の始まりは思い上がりの罪でした。それゆえ、私たちは傲慢の心を捨て去り、へりくだった心をもって、真実な助言者としていつも共にいてくださる聖霊の声に聴いていきましょう。 【祈り】 主よ。思い上がりの罪から私たちをお守りくださり、聖霊の声に聴き従う者としてください。 Sun, 12 Mar 2023 00:10:00 +0000 女は水瓶を置いたまま町へ―奇跡の伝道(ヨハネによる福音書 4章1-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230312 no 2023 「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。」 (ヨハネによる福音書4章35節~36節) この章は、主イエスのサマリア伝道の物語です。当時、ユダヤ人はサマリア人を蔑んでいました。ユダヤ人にとって、サマリア人は純粋なイスラエルの血統ではなく、正しい信仰を失っていると思われたのです。ユダヤ人はサマリア人とは決して交際しませんでした。 しかし主イエスは、そのサマリアの町はずれの井戸の傍らで一人の女性を待っておられました。女性は、敢えて暑い日中に水を汲みに来ます。彼女には、かつて五人の夫があり、今は夫ではない男性と暮らしています。そのため人目を避け、多くの人が井戸に集まる早朝や夕方ではなくて、昼間に水を汲みに来たのです。 主イエスは、女性に語りかけました。「水を飲ませてください」。 主イエスは、この女性をサマリア伝道の器となさいました。主イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。 女性は、水がめを置いたまま町に走りました。彼女は主イエスについて人びとに証しし、その言葉を聞いた多くのサマリア人が主イエスを世の救い主と信じました。伝道は神による奇跡の御業です。私たちは、神が実らせてくださる畑で、その実を刈り入れるのです。 【祈り】 神さま、色づいて刈り入れを待つ畑で私たちを働かせてください。 Sat, 11 Mar 2023 00:10:00 +0000 公正な判断基準で自らを省察する(箴言 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230311 no 2023 また、あなたは悟るであろう 正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。 (箴言2章9節) 正統的で公同的なキリスト教。その信徒を自負する人びとは、私たちも含めて、反社会的集団とは関係がないと公言してきました。ならば、自らの内にも有り得る反社会性に無自覚であることは許されません。 牧会に関する特別委員会は、ミニストリー・リーダーの行動規範を、大会役員(牧師と長老)に提示しました。それが禁じている諸々の事柄は、世に言う反社会性に近似しています。公正な判断基準で、自らを省察し、改善を怠らない。これは、宗教法人である日本キリスト改革派教会の果たすべき社会的責務です。 公正(ミシュパト)は義(ツァディーク)と密接不可分です。神の義において行われる裁き(ミシュパト)は、救いをもたらします。神の裁きは、義という世界秩序に対する阻害を除去し、またその阻害によって脅かされた人を救う、社会的行為です。弱い人、孤独な人、貧しい人、困窮する人は、反社会的行為者の手から救済されねばなりません。「主は正しい人には良い考えを、完全な道を歩む人には盾を備える。裁きの道筋に従い、忠実な人の道を守るために。その時、あなたは見極められるようになる。正義と公正と公平が、幸いに至る唯一の道のりであることを」(2章7~9節、聖書協会共同訳)。 【祈り】 罪なき者が裁きの石を投げよと仰せになり、罪ある人を救われた主よ、あなたの義しい裁きを称えます。 Fri, 10 Mar 2023 00:10:00 +0000 7年目、固められた決意の実行(歴代誌下 22-23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230310 no 2023 こうして、国の民は皆喜び祝った。アタルヤが剣で殺された後、町は平穏であった。 (歴代誌下23章21節) 箴言12章3節に「神に逆らえば、固く立つことはできない。神に従う人の根は揺らぐことがない」と約束されています。そのとおりに、アハズヤの母アタルヤは、しばらくの間、王の座を手に入れていましたが、惨めな最期を迎えます。息子の死後直ちに、ユダの家の王族を皆殺しにして手に入れた王座であったからです。 これに対して、神に従う祭司ヨヤダ、その妻ヨシェバ、そして5人の百人隊の長たちは違いました。揺るがない根からやがてよき実が結ばれていくように、7年の後、彼らは準備を整えて、たった一人助け出され生き残っていた幼子ヨアシュを王座に就けたのです。 一つ間違えれば、アタルヤの手にかかって、皆首をはねられてしまうかもしれません。それでも、彼らは決意を固めてこれを行い、王座奪還を成し遂げたのでした。これこそが、御旨にかなうことと確信していたからです。 そして、町は平穏を得ることができました。 さて、彼らがこの良きことのために7年の時を待つ必要があったように、私たちも長く待たなければならないことがあるでしょう。しかし、心配はいりません。神に従う人の根は揺らぐことがないからです。 【祈り】 主よ。暗闇の時代が続いたとしても、なお望みを持って、あなたに従い行く者としてください。 Thu, 09 Mar 2023 00:10:00 +0000 主の約束は永遠である(歴代誌下 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230309 no 2023 主は、…、ダビデの家を滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである。 (歴代誌下21章7節) ヨシャファトは、主の御心に適う善い政治を行い、彼が王の時代、ユダの国は安定し、繁栄していました。しかし、ヨシャファトの死後、長男のヨラムが王となるとユダの国は殺戮と混乱の時代に突入します。 ヨラムは、権力が安定すると、兄弟をひとり残らず剣にかけて殺し、気に入らない高官も同様に殺しました(4節)。また、彼の妻がイスラエルの王アハブの娘であったため、ヨラムはアハブの家が行っていた偶像礼拝を行うようになり、ユダの山々にバアル信仰の高台を作り、人びとにも偶像礼拝を行わせました(11節)。 神の律法を無視したヨラムの独裁政治と偶像礼拝は、主の御心に反する大きな罪です。そのため預言者エリヤは彼に手紙を書き、彼の罪を指摘し、主の裁きを預言します。そして預言どおり、ユダの国は外国から侵略され、ヨラム自身も悪質な病にかかり、苦しみながら死にました。 しかし、ヨラムが主の目に悪とされる大きな罪を犯したにもかかわらず、主は彼の家を滅ぼされませんでした。それはひとえに、主がダビデと結ばれた契約のゆえです。主はどんなに私たちが契約に不誠実であっても、常に真実であられます。その約束は永遠です。そこにこそ、罪人が主に立ち帰り得る希望があります。 【祈り】 主の真実こそ、私たちの救いであり、希望です。私たちもまた主に誠実であることができますように。 Wed, 08 Mar 2023 00:10:00 +0000 主を仰ぐことこそわたしの力(歴代誌下 19-20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230308 no 2023 「神よ、…わたしたちには、攻めてくるこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」 (歴代誌下20章12節) アラムとの戦いによって、イスラエルの王アハブは死にましたが、ユダの王ヨシャファトは主に助けを求めて、無事にエルサレムに戻ることができました。ただ、アハブ王との同盟は主の御心に適うことではありませんでした。ヨシャファトは先見者イエフからその罪を批判され、主の怒りが下ることが宣告されます。 一方、主はヨシャファトがユダから「アシェラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求め」たことは評価されました(19章3節)。また、ヨシャファトも主の御心に適う公正な政治を行い、主に依り頼んだため、周辺諸国の軍事的脅威に悩みながらも、主によって勝利を与えられました。 アンモン人、モアブ人らの大軍を前に、ユダの国は大きな危機を迎えます。ユダには、侵略者の大軍を迎え撃つ力はなく、もはや為す術はありませんでした。しかし、それでもヨシャファトは、主を仰ぎ、主に祈り、自分たちの無力を主に告白しました。すると主は、その祈りを聞かれ、言われました。「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」(20章15節)。 主は自らの弱さを認め、主を仰ぐ者にこそ力を与えてくださいます。主が戦ってくださるからです。 【祈り】 どのようなときも、主を仰ぎ、恐れることなく、主に信頼して生きることができますように。 Tue, 07 Mar 2023 00:10:00 +0000 忖度せず災いを預言する勇気(歴代誌下 17-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230307 no 2023 「彼はわたしに幸運を預言することがなく、いつも災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」 (歴代誌下18章7節) ユダの国では、アサの後を継いで、その子ヨシャファトが王となりました。彼もアサと同様、主の戒めに従って歩み、主は、ヨシャファトを祝福し、彼を富み栄えさせました。 彼の失敗は、主から離れたイスラエルと同盟を結び、アハブ王の家と姻戚関係を結んだことです。その結果、ユダはイスラエルと共にアラムと戦争することになってしまいます。ただ、ヨシャファトは、アハブに対して、「まず主の言葉を求めてください」と言いました(18章4節)。それで、多くの預言者が召集されましたが、彼らは皆、アハブに忖度し、王が戦争に勝利することを預言しました。 しかし、その中でも一人、主に従う預言者がいました。それがイムラの子ミカヤです。彼は、常に主の御心にのみ従い、王に対する災いをも預言しました。それで、アハブはミカヤを憎んでいました。今回もミカヤが、この戦争を批判し、アハブが倒れることを預言したため、アハブはミカヤを投獄します。しかし、結果はミカヤの預言どおりになりました。 主は、私たち信仰者を、主の預言者として立てられ、この世に遣わされています。たとえ、力ある者たちに耳の痛いことであっても、主の御心にのみ聞き従い、預言の言葉を大胆に語ることが求められています。 【祈り】 どのようなときも、忖度することなく、主の御心に聞き、主の言葉を語る勇気を与えてください。 Mon, 06 Mar 2023 00:10:00 +0000 主と心を一つにする者は力づけられる(歴代誌下 14-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230306 no 2023 「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」 (歴代誌下16章9節) ユダの国ではアビヤの死後、アサが王となりました。アサもまた父アビヤのように、主の目にかなう正しく善い政治を行いました。彼はユダの国から偶像礼拝の祭壇を取り除き、「ユダの人々に先祖の神、主を求め、律法と戒めを実行するように命じ」ました(14章3節)。そこで主はアサとユダの国に平和をお与えになり、その時代は戦争がありませんでした。 もちろん、クシュ人やリビア人など多くの軍隊を持つ周りの国々は、ユダの国を脅かそうとしました。けれども、アサは預言者の言葉に従い、主に依り頼みました。「アサの心はその生涯を通じて主と一つ」でした(15章17節)。それゆえ、主はアサ王、また、ユダとベニヤミンの人びとを力づけ、彼らを守られたのです。 ただ残念ですが、アサは晩年、イスラエルの王バシャの脅威に対して、アラム王の力に頼ってしまいました。そして、それを批判した先見者ハナニを投獄してしまいます(16章10節)。そのため、アサの死後、再びユダは戦争に巻き込まれていきます。 歴史の中で人間はいつも相手より優位に立とうと軍備を競ってきました。しかし、力では決して真の平和は実現しません。どのようなときも主に依り頼み、主と心を一つにすることこそ、真の力であり、真の平和です。 【祈り】 どのようなときも、目に見える力に頼るのではなく、主に頼り、主と心を一つにすることができますように。 Sun, 05 Mar 2023 00:10:00 +0000 信じる者が永遠の命を得るために(ヨハネによる福音書 3章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230305 no 2023 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネによる福音書3章16節)  ニコデモは夜の訪問者です。ユダヤ教ファリサイ派の教師であり律法評議会の議員でしたが、その頃、ファリサイ派は次第に主イエスに敵対するようになりつつありました。彼は、同僚や人びとの目を恐れ、堂々と昼間に来ることができなかったのです。しかしある夜、彼は主イエスのもとに来ました。この方には神が共におられると信じたからです。  主イエスは、ニコデモに言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。  ファリサイ派は、礼拝や安息日、食物の規定などの律法を忠実に守ることによって救われると信じていました。しかし、救われるために必要なことは、「水と霊とによって」、「新しく生まれること」です。人は風のように自由に吹く聖霊の恵みによって新しく生まれ、そのしるしとして水の洗礼をうけます。  ニコデモは、ユダヤ人の会議で主イエスを擁護します(7章)。そして、最後には弟子たちに代わって主イエスを墓に葬りました(19章)。  主イエスは、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため神から遣わされました。人の熱心ではなく、十字架の上に挙げられた主イエスの血潮が人を救います。  【祈り】 神さま、独り子である主イエスを与えてくださったあなたの愛に感謝します。 Sat, 04 Mar 2023 00:10:00 +0000 何をもって社会正義とするか(箴言 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230304 no 2023 諭しを受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため。 (箴言1章3節)  特定の団体と無関係であることが、社会正義であるかのように語られます。その団体を反社会的と見るからです。公正な判断基準が定まらない場合、社会は混迷を深めます。何をもって社会正義とするか。これを見極めることが必要です。  政治的な主権者である国民は、日本国憲法に則り、基本的人権の尊重を国家に義務付けます。これが社会正義の共通基盤です。同時に、キリストを主権者とする神の国の民は、信仰と生活の唯一の規準である聖書に聴き従い、義の規範を遵守します。これこそクリスチャンの義務、愛と自由のディアコニアです。  人対人の横関係の正義と、神対人の縦関係の義を、聖書は区別せず、ツァディークと表記して、世界秩序を表現します。世界秩序としての義は、知恵と結びつきます。神の側からすれば、それは創造の計画と秩序を意味し、人の側からすれば、その秩序の認識と受容を意味します。義の創始者は神であり、創造主はまさに正しい方です。クリスチャンは、主なる神の義をもって社会正義とします。  「箴言。これは知恵と諭しを知り、分別ある言葉を見極めるため。見識ある諭しと、正義と公正と公平を受け入れるため」(1章1~3節、聖書協会共同訳)。  【祈り】 義の太陽として来臨された主よ、神を愛し、隣人を愛せよとの仰せに、喜んで従う僕と成らせたまえ。 Fri, 03 Mar 2023 00:10:00 +0000 主に寄り頼む者の勝利(歴代誌下 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230303 no 2023 「イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない。」 (歴代誌下13章12節)  南ユダの国ではレハブアムが死に、その子アビヤが王になりました。しかし、レハブアムの時代から続いているヤロブアムとの戦いは続きました。そして、ヤロブアムが王となった北イスラエルの方が、兵士も多く、より強い軍事力を持っていました。  けれども、ヤロブアムが主を捨て、金の子牛のような偶像を礼拝し、偶像に仕えていたのに対し、アビヤは、「我々にとっては、主が我々の神であり、我々は、その主を捨てはしない」と信仰を宣言します(10節)。そして、アビヤは主なる神が、自分たちの頭となって共にいてくださるからこそ、ヤロブアムがどんなに多くの兵を持っていたとしても、我々は必ず勝利すると確信していたのです。  アビヤはこうした主への信頼に立って、戦ってはならないとイスラエルの人びとに警告します。しかし、ヤロブアムはその警告を無視し、ユダに攻撃を仕掛けました。その結果、ヤロブアムとイスラエルの軍隊を主が打たれたため、イスラエルの軍隊は敗北します。最後はヤロブアム自身も主に打たれて命を落とします。  私たちはつい目に見える力に頼りがちです。しかし、本当の意味で私たちを守られるのは主です。主に依り頼む者にこそ、主は勝利を与えてくださいます。  【祈り】 万軍の主よ、どのようなときも、自らの力に頼るのではなく、主に依り頼むことができますように。 Thu, 02 Mar 2023 00:10:00 +0000 主の言葉に聞き従う幸い(歴代誌下 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230302 no 2023 「主はこう言われる。上って行くな。あなたたちの兄弟に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのはわたしだ。」 (歴代誌下11章4節)  ヤロブアムとイスラエルの部族が反乱を起こしたことに激怒したレハブアム王は、「ユダとベニヤミンの家からえり抜きの戦士18万を召集し、イスラエルに戦いを挑み、王国を奪還して自分のものにしようと」しました(1節)。  レハブアムにすれば、父ソロモン王から受け継いだ王国全体が自分のものであり、他の部族が反乱を起こすことなど許されない。彼は当初、そのような思いに支配され、兵を召集し、同胞であるイスラエルの部族と戦争を始めようとしました。しかし、主はレハブアムに、預言者シェマヤを通して、兄弟であるイスラエルの部族と戦ってはならない、と語られました。そして、その理由を、「こうなるように計らったのはわたしだ」と言われたのです。  王国分裂の原因を作ったのは、民の声を正しく聞こうとしなかったレハブアムの責任です。しかし、主はそのような人間の過ちさえも用いて、ご計画を遂行されます。このとき、レハブアムは主の御言葉に聞き、戦争を中止しました。やがて国が安定するとレハブアムは再び傲慢になって主に逆らいます。けれども、失敗しても、その過ちに気づき、悔い改めて従うならば、主は必ず救いを与えてくださいます。  【祈り】 平和の君である主よ、どのようなときも、悔い改め、主の御言葉に素直に聞き、従う勇気を与えてください。 Wed, 01 Mar 2023 00:10:00 +0000 真の王である主の軛を負う幸い(歴代誌下 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230301 no 2023 「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。」 (歴代誌下10章4節)  ソロモン王の後を継いで、その子レハブアムが王となりました。そのため、ソロモンの過酷な労役に反旗を翻し、エジプトに亡命していたヤロブアムも王の下に戻ってきました。王が変われば、政治が良くなると期待したのでしょう。ヤロブアムは、レハブアムに対して、ソロモンが負わせた苛酷な労働を軽くしてくれるよう訴え、もしそれが適うなら、自分たちは王に仕えると言いました。  しかし、レハブアムは民に優しい態度を示すよう進言した長老たちの意見を退け、自分と共に育ってきた仲間の若者たちの意見に同調し、民の願いを聞き入れませんでした。それどころか、自分の権威を示すため、今まで以上に重い軛を負わせると言ったのです。その結果、ダビデの家であるユダ族とベニヤミン族を除く他のイスラエルの部族は、レハブアムに反旗を翻し、ついにイスラエルは分裂してしまうことになります。  民を思い、民の声を公平に聞き、正しい判断を下すことができない王は、民を苦しめ、国に大きな危険をもたらします。すべての王、すべての民は、真の王である主を畏れ敬って、主に仕えることが大切です。主イエスは言われました。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタ11章30節)。  【祈り】 真の王である主よ、どのようなときも、あなたの軛を負って、歩む者とならせてください。 Tue, 28 Feb 2023 00:10:00 +0000 ソロモンに主の働きを見た女王(歴代誌下 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230228 no 2023 「あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。」 (歴代誌下9章8節) ソロモンの名声はイスラエルの周辺国にまで広まり、シェバの女王がソロモンに会いに来ました。女王は難問をぶつけますが、ソロモンはすべてに解答します。女王はソロモンの知恵に感心しつつもソロモンという一人の人間への賞賛で終わらせませんでした。女王はソロモンを「主のための王」と呼び、ソロモンを王位につけた主なる神への賛美を口にします。さらに女王は「あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです」と述べ、主がソロモンに生きて働いておられることを認めたのです。 新約の時代に、神の力を示す奇跡的なしるしを求めた人びとに対して、キリストは、よこしまで神に背いた時代の者たちにはヨナのしるしのほか与えられないと戒める一方、主を認めたシェバの女王を評価されました(マタ12章42節)。このキリストは、ヨナのしるしが指し示す十字架と復活によって、神の力を十全に表してくださいました。 私たちはキリストの御言葉と御業を知る中で、天の父なる神がキリストを通して働かれることを悟ります。そして、キリストをソロモンにまさって公正と正義を行わせるために神が立てた王と認めるよう導かれます。 【祈り】 世の人びとがキリストを、天の父なる神から送られた救い主、まことの王と認めることができますように。 Mon, 27 Feb 2023 00:10:00 +0000 何をするにもまずは主への信仰(歴代誌下 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230227 no 2023 ソロモンは、20年を費やして主の神殿と王宮を建て終わると、フラムから贈られた町を次々と再建し、そこにイスラエル人を住まわせた。 (歴代誌下8章1節) ソロモン王は就任から20年を神殿と王宮建設に費やし、それから町の建設など国土統治の事業にあたりました。そしてソロモンは、「彼の支配下にある全地域に、築こうと望んだ町々をすべて築きあげ」る(6節)など、大きな成果を上げました。 加えて礼拝に関する定めを何一つおろそかにせず行ったところ、大量の金を手にすることになりました(18節)。主なる神に関することを第一にするソロモンの姿勢は、王に即位した際にも富や名誉より主からの知恵を求めるという形で現れ、主に喜ばれました(1章)。ソロモンは個人生活にとどまらず、共同体形成でも主を第一として取り組み、主の祝福を得たと、歴代誌は伝えます。 この地上世界が、主を一番の支配者とする神の国となることを主は望まれます。現代では政教分離の定めにより政府がキリスト教会を直接支援できない、日本にはキリスト者が多数を占める地域や集団がほぼないなど、ソロモン王の時代と違う状況にあることはわきまえる必要があります。それでも、「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ、自分の住む地域や所属する共同体にも主のご支配が広まることを目指してゆくことが主の御心にかなうことです。そのために一日一日励んでまいりましょう。 【祈り】 主よ、わたしが住む地域、所属する共同体にも神の国、神のご支配がよりいっそう行き渡りますように。 Sun, 26 Feb 2023 00:10:00 +0000 荒れ野でサタンに勝利される主(マタイによる福音書 4章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230226 no 2023 イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 (マタイによる福音書4章10節) サタンは荒れ野で主イエスを試みます。一回目は、石をパンに変えてみよと唆します。主は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という御言葉によって、退けられました。 二回目は、神殿の屋根の端に主イエスを立たせ、ここから飛び降りて神の子であることのしるしを見せてみよ、と試します。主はそれを「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉によって退けられます。 三回目は、高い山の上で、世の繁栄を眺めつつ、サタンは自分をひれ伏し拝むなら、これらをみな与えようと誘惑します。主はこれを「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という御言葉によって退けました。 まことの人となられた神の子イエスが荒れ野で試みに遭われたのには、意味があります。「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブ2章17節)。 私たちの救いのためです。「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4章15節)。 人生の荒れ野において試みられ怖じ気づく私たちの傍らで、勝利の主がお語りになります。「退け、サタン!」 【祈り】 主よ、サタンの誘惑に勝利してくださったあなたが、きょうも共にいて、救いに導いてください。 Sat, 25 Feb 2023 00:10:00 +0000 主に立ち帰り主の憐れみを祈り願う(歴代誌下 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230225 no 2023 「…わたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」 (歴代誌下7章14節) 神殿の完成にあたって、ソロモンは、神の民が罪を犯してしまっても、主の憐れみを乞うなら罪を赦してくださるよう、主に願いました。主は、悪の道を捨てて立ち帰るなら罪を赦すとソロモンに返答し、その祈りを聞き入れられました。その根拠は、主がダビデと交わした「あなたにはイスラエルを支配する者が絶たれることはない」(18節)との契約です(歴上17章参照)。そこではソロモンから慈しみを取り去らないとも約束されました。 同時に、神の民が主に背き続けるなら「与えた土地から彼らを抜き取り、…神殿もわたしの前から投げ捨てる」と警告なさいました。罪は罰せられるべきとの筋を主が曲げられるのではないのです。後に背きを重ねたイスラエルは、この警告どおり罰を受けました。 それでも悪の道を捨て主に立ち帰るなら罪の赦し、および罪で荒廃した大地の回復をも約束してくださいます。バビロン捕囚からの解放はその一つの実現と言えます。更にこの赦しの約束は、ダビデの子孫でまことの王キリストにより神の民とされた私たちにも適用されます。罪を犯し、大地を荒らしてしまう私たちですが、主に立ち帰り、ひざまずいて主の憐れみを祈るとき、主は罪を赦し、大地をもいやしてくださるのです。 【祈り】 主よ、憐れんでください。わたしの罪をお赦しくださり、この荒れ果てた大地をおいやしください。 Fri, 24 Feb 2023 00:10:00 +0000 すべての民が主を畏れ敬うため(歴代誌下 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230224 no 2023 「あなたはお住まいである天から耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。…地上のすべての民は御名を知り…」 (歴代誌下6章33節) 神殿完成にあたり、ソロモンは、神殿で人びとがささげる祈りを主が聞き届けてくださるよう切に祈りました。注目すべきは、イスラエル以外の異国人の祈りをもかなえてくださるよう、ソロモンが願ったことです。主が生きてその祈りに応えることを通して、地上のすべての民が主を畏れ敬うようになることを、その理由に挙げます。主自らも、後に神殿について、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザ56章7節)とおっしゃいました。 ただ神殿が「すべての民の祈りの家」であることが見失われることもありました。主イエスも神殿の関係者が商人と結託し、礼拝に来た人びとを食い物にしたことを厳しく咎められました。「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(マコ11章17節)。主イエスは、人の罪を贖い、神への祈りを可能にするという神殿が担ってきた役割を、自らの十字架の贖いによって果たされました。そして、イスラエル人か否かを問わず、主イエスを信じる者が神の子とされ、天の父なる神に祈りをささげ、聞き届けられるようにしてくださいました。ソロモンの願いは主イエスによって真の実現をみたのです。 【祈り】 主よ、わたしの祈りを聞き入れ、わたしの周りの人びとが主を畏れるきっかけとしてくださいますように。 Thu, 23 Feb 2023 00:10:00 +0000 主は恵み深くその慈しみはとこしえに(歴代誌下 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230223 no 2023 ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて…「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。 (歴代誌下5章13節) 神殿建築が完了したことを受け、イスラエル中の人を集めて、主の契約の箱のみならず臨在の幕屋を神殿に運び入れる儀式が行われました。契約の箱は、主が憐れみ深く恵み深い主としてイスラエルと共にいる、との契約を結ばれたしるしとして作られました。その箱には十戒を記した2枚の板が納められました。それ以来、主はイスラエルと共にい続けてくださいました。イスラエルは主に対して何回も罪を犯したのですが、主はその罪を償うための儀式律法を定めて罪の赦しを与えるなど、憐れみと慈しみを示し続けてくださいました。 契約の箱が神殿の至聖所に運び入れられると、ソロモンなどイスラエルの民を代表して詠唱者たちは、楽の音に合わせて、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と、主を賛美しました。詩編でも何度も登場する(詩編100編5節、118編1節、136編1節など)この賛美を聞かれた主は、臨在を人びとに示す雲を神殿に満たして栄光を表し、この賛美を喜ばれました。 今日の私たちも、これまでに主がしてくださったこと、特にキリストによる罪の赦しを思うとき、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美せずにおれなくなります。 【祈り】 主よ、今までと同様これからも恵み深く、とこしえに慈しみ深い方として共にいてくださいますように。 Wed, 22 Feb 2023 00:10:00 +0000 悔い改めから始まる新しい創造(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230222 no 2023 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。 深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。 (詩編51編3節) きょうから、主イエス・キリストの十字架の御苦しみを思い巡らすレント(四旬節・受難節)に入ります。その最初の日が「灰の水曜日」です。 アメリカの教会で灰の水曜日の礼拝に出席したことがあります。御言葉と祈りに続いて、司式者の前に一人ひとり進み出ます。司式者は、「あなたは塵から生まれ、塵に返る」と告げて、進み出た人の額に灰で十字を描きます。そうして、私たちの心を悔い改めへと方向付けるのです。 人間は死んで灰と塵に返ります。灰は死すべき人間の罪と無力を象徴します。人は自らの力で生きることができず、神に立ち帰ることもできません。旧約の信仰者は、その象徴である灰に座し、灰をかぶって、神の御前に自らの罪を告白し、悔い改めを言い表しました。 詩編51編はダビデの悔い改めの詩です。神の御前に罪を悔いて赦しを求めています。そのことが「清い心を創造し」(12節)と言われる点が特徴的です。悔い改めは神の新しい人間創造の始まりにほかなりません。 悔い改めから私たちの新しい人生が始まります。私たちも、キリストの十字架を自らの心にはっきりと刻みましょう。私たちの罪と咎を背負って、主キリストが十字架につけられてくださいました。その十字架に罪の赦しの確かな土台があります。 【祈り】 わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。 Tue, 21 Feb 2023 00:10:00 +0000 神の前に立つために罪の洗いを(歴代誌下 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230221 no 2023 ソロモンはこれらすべての祭具を作ったが、それはあまりにも多く、その青銅の重さは量ることもできないほどであった。 (歴代誌下4章18節) ソロモンの神殿にはたいへん多くの祭具が設置されました。そのうち青銅製の祭具は罪や汚れのある人間が主なる神を礼拝できるようにするためのものです。礼拝一回ごとに人の罪や汚れを清める儀式が必要だからです。動物犠牲をささげる祭壇、数々の祭具を洗い清める洗盤、いけにえをささげる作業にあたる祭司が身を洗い清める「海」という鋳物のプールも作られました。「あまりにも多く、その青銅の重さは量ることもできない」ほどの祭具を駆使して罪や汚れを洗い清めることで、ようやく一回の礼拝が可能となりました。 また、19節以下の、備えのパンを置く聖卓、火をともす燭台など金製の祭具は、神殿に臨在される主との関係で作られたものです。 このように多くの祭具とそれを納める大きな神殿はエルサレム以外に建てるのが困難で、神礼拝の場所を制約することになりました。普段エルサレム以外の所に住んでいた人は、旅をしてエルサレムに上り、礼拝することを求められたのです。 やがてキリストが罪の贖いを完全に成し遂げられたことで、神礼拝は多くの祭具や神殿がいらなくなり、場所的な制約から解放されました。おかげで私たちは世界中どこででも主を礼拝できるのです。 【祈り】 キリストの十字架により、どこでも主を礼拝できるようにされたことを心から感謝します。 Mon, 20 Feb 2023 00:10:00 +0000 またしても主の山に備えあり(歴代誌下 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230220 no 2023 ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で… (歴代誌下3章1節) ソロモンのもとで神殿建築が始まります。建物を建てるにあたっては場所を選び、設計図を書き、大量の材料を用意し、と多くの準備作業が必要です。ただ、神殿建築についてはソロモンが王となる前から準備されていました。場所はかつて主がダビデに現れたエルサレムのモリヤ山と定められ、材料の入手などの準備が行われていました(歴代上21、22章)。神殿の設計図は部屋の大きさから祭具に至るまで、ダビデのときに書き上げられていました(歴代上28章11節以下)。開始までに必要な準備は十分備えられていたのです。 モリヤ山は、アブラハムがイサクをささげようとしたとき、主が身代わりの雄羊を備えておられた場所でもあり、それ以来人びとは「主の山に、備えあり」と言い伝えてきました(創22章)。神殿建築はそれを再確認する時となりました。 そして主は、モリヤ山でキリストへの備えもなさいました。創世記の身代わりの雄羊は罪を贖う神の小羊キリストを指し示します。キリストが十字架で死なれると、聖なる神と罪の世界を隔てる神殿の垂れ幕(歴代下3章14節)は真っ二つに裂け、罪の贖いが実現したことを示しました。ここから私たちも「主の山に、備えあり」との信仰告白に導かれます。 【祈り】 主よ、私にとって本当に必要なものを備えてくださると信じ、主のご用に励むことができますように。 Sun, 19 Feb 2023 00:10:00 +0000 栄光の主に赦され、遣わされる(マタイによる福音書 17章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230219 no 2023 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 (マタイによる福音書17:2) この日、主イエスは三人の弟子たちを連れて山に登られました。すると、主イエスのお姿が彼らの目の前で変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」のです。主イエスが全く別人になられたわけではありません。むしろ、ここでは主イエスの隠されていた栄光の本質があらわされたのです。主イエス、この方は十字架にかけられて死なれるお方である(16章21節以下)と共に、復活の主であり(17章9節)、終わりの日の完成をもたらす再臨の主(16章27節)でもあります。 三人の弟子たちは主イエスのお姿を見ると共に、雲の中から語られた神の声を聞きます。その時、彼らは「ひれ伏し、非常に恐れ」ました。しかし、主イエスは、彼らに近づき、手を触れて言われます。「起きなさい。恐れることはない」と。 私たちは、栄光の主の御前に立つことはできません。しかし、このお方は私たちの罪のために十字架にかかり、復活してくださったお方です。このお方によって罪は赦され、和解の道が開かれました。だから恐れることはなく立つことができます。それだけではなく、主の御用のために生きることができます。弟子たちは、山を下りて、悩みのある人たちのところに向かいます。 【祈り】 栄光の主よ、私たちの罪を赦し、あなたの御用を果たして生きる者としてください。 Sat, 18 Feb 2023 00:10:00 +0000 全地に満ちる主の御名をたたえよう(詩編 8編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230218 no 2023 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。 天に輝くあなたの威光をたたえます (詩編8編2節) 満天の星空を眺めていると、この大宇宙の中でいかに自分の存在が小さなものであるのか、気づかされます。この詩編の作者もそれに似た経験をします。しかし、この詩編は単に宇宙の広さや大きさに圧倒されているのではありません。この詩編の作者が見ているのは、月や星の背後におられる創造者であり救い主であられる神です。 この詩編は冒頭と結びで全く同じフレーズが繰り返されます。そこに歌われているのは、宇宙の大きさではなく、神の偉大さです。作者の心は紛れもなくこの神に向けられています。その偉大な神がお造りになった月も星も、またそれが置かれている天空も、人間と比較にならないほど大きな存在です。けれども、神の関心はその広大な宇宙ではなく、一人の小さな人間に向けられています。 それは、この詩編の作者にとって栄誉でもあり、驚きでもあります。人間が神のかたちを持つものとして造られ、万物を治める権能を与えられていることに畏れの気持ちさえ感じています。アダムの堕落以来、完全には神のかたちを持ち合わせていないにもかかわらず、なお人間を御心に留めてくださる神への驚きです。この驚きを前に、口から出るのはただ神ヘの賛美よりほかはありません。 【祈り】 主よ、小さなわたしに今も目を留めてくださり感謝します。あなたの御心に添う者へと造り変えてください。 Fri, 17 Feb 2023 00:10:00 +0000 イスラエルの外の人も主を認め(歴代誌下 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230217 no 2023 彼(ティルスの王フラム)はまたこう言った。「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように。…」 (歴代誌下2章11節) ソロモンは神殿を建築するにあたり、父ダビデの時代にも王宮建設に協力してくれたティルスの王フラムに協力を依頼します。輝かしく偉容を誇る神殿を建てるために必要となる人や物はイスラエル国内だけでは不十分で、レバノン杉などフラムの領土に生える木々やレバノンの技術者たちも必要となったからです。 フラムはソロモンの願いを受け入れると返答し、その冒頭で「イスラエルの神なる主」をたたえました。この時代の王としては極めて異例な反応です。当時は国ごとにそれぞれ神がいると思われていました。ペリシテにはダゴン、ティルスやシドンにはアシュトレト(王下23章13節)という具合です。しかし、フラムは主なる神が全世界を造られた神、国の枠を超える神であると告白し、主の神殿建築に協力したのです。 現代でも日々の信仰生活において信仰の異なる人びととの協力が必要な場面が出てきます。主はこの地上に神の御心が実現されることを望まれますから、これらの人びとをも主の御用に協力する味方とすることがおできになります。私たちは単独では力足らずですが、主が人の心を動かされるお方であることに信頼し、主の御心の実現に向け励んでいきましょう。 【祈り】 主の御心が実現するために、信仰の異なる方々とも必要に応じて助け合うことができますように。 Thu, 16 Feb 2023 00:10:00 +0000 まず主に祈り求めたものとは(歴代誌下 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230216 no 2023 「民を裁くために、知恵と識見を求めたのだから、あなたに知恵と識見が授けられる。またわたしは富と財宝、名誉もあなたに与える。」 (歴代誌下1章11節~12節) 歴代誌下は、ソロモンが父ダビデから王位を継承したところから始まります。主はソロモンに現れ、何事でも願ってよいと促されました。普通に考えれば自分自身や国民が満足に生活できるための富や名誉、国を守る力といったものを願いたくなります。しかし、ソロモンは主からの知恵と識見を求めました。それは、王の座やイスラエルの民が自分のものでなく主からいただいたとソロモンがわきまえていたからです(9、10節)。主を第一とするソロモンの姿勢を主は高く評価され、富と財宝、名誉もソロモンに与えると約束し、そのとおり与えられました(14節以下)。 後に主イエスは、日々の生活の諸課題にあれこれ思い悩む人びとに、天の父はあなたがたの必要をみなご存じなので、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6章33節)とお語りになりました。 この世界は主なる神が私たちの天の父として治めておられます。このことを認め、主の祈りにもあるとおり、まず神の国と神の義を祈り願いましょう。主はそうした祈りを喜ばれ、私たちの必要の数々についても加えて与えてくださると信じます。 【祈り】 主よ、この地をあなたが支配し、主の御心が全うされる神の国を来たらせてください。 Wed, 15 Feb 2023 00:10:00 +0000 神の三大賜物(3)愛(コリントの信徒への手紙一 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230215 no 2023 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 (コリントの信徒への手紙一13章13節) きょうは、最も大きな賜物である愛について思い巡らしましょう。 信仰(信頼)と、希望(期待)と、愛の賜物とは、将来、終わりの日に復活の体を与えられ、最後の審判を経て神の国に入れられても、私たちに残っています。 ところで、愛の実践は、主イエスに聖霊によって結ばれて与えられる賜物であり、主イエスへの信頼に基づくものです(ガラ5章5節)。すると、主イエスへの信頼こそが最も大いなるもののように思います。しかし、愛が聖霊の結ぶ実の中でも筆頭にあげられているように(同22節)、愛は最も大いなるものです。それは、愛が主なる神の本質そのものだからでしょう(1ヨハ4章8節)。ですから、決して滅びません(1コリ13章8節)。また、愛なくして、神からの他の賜物はすべて無に等しく、私たちに何の益もないからでしょう。それゆえにパウロは、コロサイの信徒への手紙の中では「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」(3章14節、聖書協会共同訳)とも記しています。 主イエスに結ばれて与えられる愛によってこそ、私たちの実践は、帯が衣服を整えるように整えられて、教会や世界に役立つものとされます。この愛をこそ主イエスに祈り求めましょう。主イエスこそ愛の無尽蔵の源泉ですから。 【祈り】 主イエスよ、愛のない私たちに、あなたの愛をください。アーメン Tue, 14 Feb 2023 00:10:00 +0000 神の三大賜物(2)希望(コリントの信徒への手紙一 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230214 no 2023 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 (コリントの信徒への手紙一13章13節) 神の三つの大きな賜物、信仰と希望と愛のうち、きょうは、希望について思い巡らしましょう。 希望は、聖霊によって主イエス・キリストに結ばれて与えられる賜物であり、神への信仰、つまり、信頼に基づくものです(ガラ5章5節)。 ところで、「希望」は、国語辞典によると、「未来に望みをかけること」(岩波国語辞典)です。しかし、私たちキリスト者の場合は、未来ではなく、神に望みをかけることです。そして、私たちの希望は、何よりも主イエスが父なる神にかけておられる望みであり、期待です。 主イエスは、父なる神に絶大な信頼を寄せ、神に大いに期待して、恥をもいとわないで十字架の死を忍耐されて、復活なさり、神の玉座の右にお着きになりました(ヘブ12章2節)。私たちの信仰による希望は、この復活の主イエスにかける望みであり、期待ともなります。 十字架の死からの復活によって、死の力を打ち破られ、永遠の命に復活なさった主イエスに結ばれるならば、私たちの復活も確実です。私たちの復活は、主イエスにおいて既に実現しています。この意味でも、未だ来ない「未来」ではなく、将に来たらんとする主イエスにおける「将来」に望みをかけるのです。 【祈り】 主イエスよ、あなたの復活のゆえにわたしの復活も確実であることを確信させてください。 Mon, 13 Feb 2023 00:10:00 +0000 神の三大賜物(1)信仰(コリントの信徒への手紙一 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230213 no 2023 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 (コリントの信徒への手紙一13章13節) 神の三つの大きな賜物、信仰と希望と愛のうち、きょうは、信仰について思い巡らしましょう。 パウロは次のように記しています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊“により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラ5章5、6節)。 信仰は、主イエス・キリストに聖霊によって結ばれて与えられる賜物です。この信仰が、希望、そして愛の土台となります。信仰は信頼と置き換えることができます。すると、主イエス・キリストに聖霊によって結ばれて与えられる信頼は、主イエスが父なる神に対して抱いている揺るぎない信頼であり、それは本来、山をも動かすほどの完全な信仰です(2節)。 ところが、私たちの現実は、罪のゆえにその神信頼がなんと弱まってしまっていることでしょうか。完全どころか、不完全極まりない信仰です。試練の中で、神信頼が右に左に揺れ動き、時にはなくなってしまいそうです。 しかし、安心しましょう。私たちの先頭で、神の国を共に目指しておられる主イエスは、神への信頼が決して揺らぐことはありません。 【祈り】 主イエスよ、きょうも、信仰の弱いわたしを神の国へと確実に守り導いてください。 Sun, 12 Feb 2023 00:10:00 +0000 礼拝からはじまる和解の心(マタイによる福音書 5章21-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230212 no 2023 「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」 (マタイによる福音書5章24節) 主イエスは、礼拝者に和解の心を求められます。礼拝でいけにえをささげる前に、反感を覚える誰かと仲直りをするように、和解をするように、とおっしゃいます。 しかし、礼拝をささげるときになっても、まだ誰かに対して怒りを覚えていたり、誰かから反感を抱かれていることを思い起こすかもしれません。和解できてから礼拝をささげることができたらよいのですが、なかなかそうはいかないことの方が多いのではないでしょうか。 主イエスは、そういう私たちに礼拝をささげてはならないとおっしゃるのではなく、和解の望みを信じて礼拝をささげるよう求められます。 礼拝をささげる私たちは、神の御前に罪を認め、赦しを祈り求め、主イエスの十字架によって罪赦された者として生き始めます。 罪赦された私たちは、神の赦しを携えながら、人に対しても、自分の罪を認め、赦しを願い、和解を望み、人の罪を赦すよう努める者とされています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(2コリ5章18節)。難しい現実もあります。しかし、きょうも礼拝の中心に和解の源であるキリストがおられます。 【祈り】 主よ、あなたの御前に罪を認め、あなたの赦しに生き、和解の道へと導いてくださいますように。 Sat, 11 Feb 2023 00:10:00 +0000 信教の自由のために祈ろう(ペトロの手紙一 3章13-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230211 no 2023 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 (ペトロの手紙一3章15節) 明治憲法下の1873年のこと、2月11日が日本国が成立した日として、「紀元節」と呼ばれる祝日とされました。日本神話に由来する天皇制国家の形成のためでした。やがて第二次世界大戦時には天皇を「現人神」として崇拝することがすべての人びとに強要されました。キリスト教会をはじめ他の宗教にも迫害と弾圧が続きました。著しく信教の自由が侵されてしまったのです。 敗戦後、「紀元節」は廃止されました。しかし、1966年に「建国記念の日」が制定され、事実上復活しました。危惧の念を覚えた日本のキリスト教界は、教派の枠を超えて、2月11日を「信教の自由を守る日」と呼んで大切にするようになりました。 きょうも各地の教会で信教の自由を覚えて、講演会などが行われることでしょう。歴史を振り返り、信教の自由の意味を信仰において深く考えるときとしたいものです。 また同時に、アジア、中近東、アフリカなどで、抑圧的な政治によって、個人の自由や信教の自由が強い力で踏みにじられていることを覚えます。ミャンマー、中国などの教会は、日本の戦時下が再現されるような迫害の中にあります。きょうのこの日、私たちは、そのような世界の国々のためにも祈りをささげます。 【祈り】 主よ、この国とこの世界を、心に留めてください。信教の自由を御力によってお守りください。 Fri, 10 Feb 2023 00:10:00 +0000 神の裁き、それは世界の平和の礎(詩編 7編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230210 no 2023 諸国をあなたの周りに集わせ 彼らを超えて高い御座に再び就いてください。 主よ、諸国の民を裁いてください。 (詩編7編8節~9節) 神が世界の審判者であるという信仰は、諸刃の剣です。なぜなら神の正義と公平は、敵にもわたしにも向かうからです。自分に都合の良い裁きだけを期待することはできません。そのことを理解している人だけが、神を世界の審判者として正しく信じることのできる人です。 きょうの詩編の作者はまさにそのことを理解しています。神の裁きに訴えるとき、まず自分自身の身の潔白を点検しています。もっとも自分で自分が潔白だと思うことほど、危ういものはありません。この詩編の作者の場合も、独りよがりの自己判断かもしれません。たとえそうであったとしても、自分への裁きをも含めて、覚悟をこめた訴えであることは間違いありません。 個人間の争いもそうですが、国と国との争いともなると、非難の応酬と、どこまでが真実なのかわからない情報が飛び交います。しかし、神だけが真実をご存じのお方です。「心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」(10節)。だからこそ、公平な審判者として立つことがおできになるのです。この正しい神の裁きに自分の主張を委ねることこそ世界の平和の礎です。自分自身が審判者として立つのではありません。主が裁きの御座についてくださいます。 【祈り】 他人と争うとき、自分の正しさしか目に入らない愚かな罪人です。主よ、あなたが正しく裁いてください。 Thu, 09 Feb 2023 00:10:00 +0000 全き正しい心をもって(歴代誌上 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230209 no 2023 「わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。また今、ここにいるあなたの民が寄進するのを、わたしは喜びながら見ました。」 (歴代誌上29章17節) 神の祝福の内に歩むためには、神に対する真実な礼拝が大切であるというのがダビデの確信でした。そのためにダビデは多くの犠牲を払ってでも神殿建築の準備をしようと決意し、実行しました。それに促されるようにして多くの民も献げ物をしました。 私たちは、献げ物の豪華さや量など、外面的なことに目を奪われがちです。しかし、神はささげる者の心を見られます。強いられたり脅されたりして渋々ささげるのか、神の栄光のためにささげるかを見られるのです。 イスラエルは恵みによって神の民とされたにも関わらず、異教の神々に心惹かれて何度も神に背きました。外面的には真っ当な信仰者のようであっても、心は神に逆らっていました。いかなる献げ物によっても自らの罪を償いえず、神に受け入れられません。そのイスラエルの民に希望を語るのが歴代誌です。 歴代誌は、イスラエルの民が「全き心」、「正しい心」をもって献げ物をしたと記します。それは、神が愛と恩寵の眼差しで見てくださっているということにほかなりません。私たち一人ひとりもまた、神の愛と恵みの眼差しによって見られています。神の恵みの業に仕えるところに私たちの希望はあるのです。 【祈り】 あなたは罪人の心に全き心を与えてくださいます。あなたの救いの御計画に献身できますように。 Wed, 08 Feb 2023 00:10:00 +0000 主を求めて生きる(歴代誌上 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230208 no 2023 「もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたをとこしえに拒み続けられる。」 (歴代誌上28章9節) 神殿建築の準備を整えた後、ダビデは、国のおもだった人びとを集めて、神がソロモンを次の王として立てられたことを宣言しました。そして、神のすべての戒めに心を留め、それを求めることによって、恵みの土地を子孫にとこしえに受け継がせるようにと語りました。 生涯の終わりを前にしたダビデが改めてイスラエルの民に伝えたのは、神の選びとご計画でした。神はイスラエルの民を愛し、とこしえの契約を結ばれました。ダビデが王とされたのは神に選ばれたからであり、罪によって生まれたソロモンを後継者として選ばれたのも神でした。度重なるイスラエルの背きにも関わらず、「わたしはあなたと共にいる」と言い続けてくださる、そこにイスラエルとの契約に忠実な神の真実があります。ですから、ダビデは全イスラエルに対して、神を求めて生きることの大切さを語ります。それは単に神の存在を意識するということにとどまらず、全き心と喜びの魂をもって神に仕えて生きるという姿勢です。 すべての心を探り、奥底まで見抜かれる神の前に立つのは恐ろしいことです。人には罪があるからです。しかし、神は真実な方です。自らの罪を悔いて懸命に神を求める心を、神は喜び祝福してくださいます。 【祈り】 厳粛なあなたの中に真実の愛のまなざしを見出すことができます。あなたを真実に求めさせてください。 Tue, 07 Feb 2023 00:10:00 +0000 与えられた務めを喜んで果たす(歴代誌上 26-27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230207 no 2023 雌ろばの責任はメロノト人イエフデヤ。羊の群れの責任はハガル人ヤジズ。以上のすべてが、ダビデ王の財産の責任を負った長官であった。 (歴代誌上27章30節~31節) 確固とした信仰共同体を形成するためには、何よりも神を真実に礼拝することが大切です。同時に秩序を維持し体制を整えることも必要です。ダビデはそのためにも知恵と力を尽くして取り組みます。彼は門衛の組分けを行ない、軍隊を組織しました。国全体を外部の敵から守るためです。しかし、それだけで共同体が成り立つわけではなく、日々の生活を支える食料も欠かせません。そのためには農作業をする人、家畜を飼育する人、収穫物を加工する人、貯蔵庫に納めて管理する人、そうしたさまざまな働き手や責任者が必要です。 この世にはさまざまな仕事や奉仕があります。いかにも勇ましく重要だと思われる職務もある一方で、地味で見劣りするとして軽んじられる仕事もあるでしょう。私たちは与えられた状況や職務に不満を抱き、どうせ自分にはたいしたことはできないとふてくされる思いが湧いてくることがあるかも知れません。 しかし、きょうの箇所で描かれているのは、皆がそれぞれの賜物を活かして、神から与えられた責任を忠実に、喜びをもって果たそうとする姿です。神の前では職務の優劣はありません。皆が誇りを持って神のために働くとき、神はそれを喜んで用いてくださるのです。 【祈り】 あなたは私たちの日々の営みを用いてくださいます。喜んですべてをささげることができますように。 Mon, 06 Feb 2023 00:10:00 +0000 賛美と預言による奉仕(歴代誌上 24-25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230206 no 2023 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。 (歴代誌上25章1節) ダビデは神殿建築のための材料と労働者を準備すると同時に、神殿で奉仕をする者たちを集め、組織しました。神に対する礼拝で大切なのは建物以上に心です。霊と真理をもって礼拝するためには、ふさわしい奉仕者が必要なのです。祭司やレビ人に続いて、25章では詠唱者が編成された様子が記されます。アサフ、ヘマン、エドトンは、詩編50編などの作者として名前が挙げられている人たちです。その子どもたちを中心に、複数の聖歌隊が作られたのです。ダビデが礼拝において賛美をいかに重んじていたかが分かります。 キリスト教会の礼拝でも、歌や楽器による賛美が大切にされてきました。讃美歌をきっかけに教会に来られたという方もあるでしょう。一方で、ともすると音楽の心地よさに重きが置かれてしまいかねません。 しかし、ここでは「彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した」と記されています。詠唱者たちはあくまでも御言葉の奉仕者だったのです。3節には「竪琴を奏でながら主に感謝し」とあります。神の言葉を聞く、神を賛美する、感謝をする、これらは礼拝において一体のことなのです。神の言葉に促されて、神を心から喜び、その恵みに集中するところに礼拝の心があります。 【祈り】 あなたの御言葉はあなたへの感謝と賛美を生み出します。あなたの恵み深さを喜ばせてください。 Sun, 05 Feb 2023 00:10:00 +0000 あなたがたは世の光である(マタイによる福音書 5章13-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230205 no 2023 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」 (マタイによる福音書5章14節) 主イエスは、主を信じ従う者に、あなたがたは「世の光になれるだろう」ではなく、「世の光である」とおっしゃいます。「人間を照らす光」(ヨハ1章4節)である主イエスが、その人の内側におられるからです。 私たち自身が、光り輝くのではありません。神が、光であられる主イエスという宝を土の器である私たちに与えてくださっています(2コリ4章7節参照)。それゆえ、私たちが光を放つものとされているのです。 その光は、山の上にある町のように、暗闇の中で燦燦と煌めいています。闇の深まりの中でこそ、光は鮮やかにされます。 主イエスは、世の光の輝き方について、「~は幸いである」という言葉でお示しになります。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人は幸いである、と主はおっしゃいます。心砕かれつつ神に寄りすがる人、神の愛のゆえに他人の弱さを認め、真の平和に生きようとする人は、幸いな人であり、世の光としての輝きを放つのです。 拍手喝采を浴びる立派な行いではなく、主イエスの愛に生かされ、へりくだって歩む、その小さな一つ一つが、闇に輝く光となるのです。 【祈り】 主よ、欠けの多い土の器ですが、命の光を放つ世の光として歩むことができますように。 Sat, 04 Feb 2023 00:10:00 +0000 眠るときにも神の平和が共にある(詩編 4編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230204 no 2023 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。 主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。 (詩編4編9節) 悶々として眠れない夜を過ごした経験は誰にでもあるでしょう。悔しい思いが過去の記憶を鮮明に呼び覚まし、目の前の現実には無力を感じ、将来を案じれば不安が頭の中をぐるぐると回り始めます。 きょうの詩編の作者も、苦難の中から神に助けを求めて祈っています。むなしさを愛し、偽りを求める人たちから名誉が辱められています。嗚呼、この人もまた眠れない夜を過ごす一人なのでしょうか。そう思い、この詩編を読み進めると、作者は平安のうちに身を横たえて眠りについてしまいます。いったいこの安らかな思いはどこから来るのでしょう。 この詩編の作者には、主がその慈しみに生きる人を見分けてくださるという確信があります。主に依り頼む者を、神は罪のはびこる世界に埋もれたままにはしておかれないという信頼です。 新しい翻訳の『聖書協会共同訳』は5節をこう翻訳します。「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。床の上で心に語り、そして鎮まれ」と。怒りに震えたら、罪の暴走を止めるのは難しいでしょう。床の上で心に語りだしたら、鎮まるどころではなくなるでしょう。しかし、この作者には神への深い信頼があります。その信頼が、怒りにも悶々とした思いにもほどほどの限度を与えてくれるのです。 【祈り】 主よ、きょうも平安な心で一日を過ごせますようにお守りください。 Fri, 03 Feb 2023 00:10:00 +0000 神の宮を建てる志と備え(歴代誌上 22-23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230203 no 2023 「あなたは、主がイスラエルのために、モーセにお授けになった掟と法を行うよう心掛けるなら、そのとき成し遂げることができる。」 (歴代誌上22章13節) ダビデは、自分が立派な家に住んでいるのに、神の箱が天幕の下に置かれたままになっていることに心を痛めていました。そして神の憐れみによって重い罪を赦された感謝に突き動かされて、神のために神殿を建てることを願います。しかし、神は言われました。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない」(22章8節)。 神のためにとの思いが大きければ大きいほど、それを拒絶されたときの絶望や悲しみも深いはずです。気持ちが萎えてしまっても不思議ではありません。しかし、ダビデの思いが冷めることはありませんでした。 息子のソロモンが神殿を建てるとの神の約束を聞いたダビデは、必要な材料を大量に集め、優れた人材を用意しました。そして、ソロモンと彼を支える高官たちに向かって、神の宮の建築に立ち上がるよう激励しました。その際に、神の掟と法を守り、心と魂を傾けて主を求めるならば、主が必ず共にいて成し遂げるようにしてくださる、と伝えました。 このダビデの姿勢に、神への信頼と感謝に生きる信仰者の姿を見ることができます。 【祈り】 いつも共にいてくださるあなたに信頼し、主を求めることを第一とする歩みをさせてください。 Thu, 02 Feb 2023 00:10:00 +0000 罪を告白し神の憐れみにすがる(歴代誌上 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230202 no 2023 「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。」 (歴代誌上21章13節) イスラエルは周辺諸外国との戦いに勝ち、力を得ていきました。王であるダビデの気持ちは高揚していたことでしょう。その機会を「サタン」は用います。ダビデにイスラエルの人口を数えさせるのです。 国の状態を把握することは妥当なことです。神ご自身がモーセに人口調査を命じられたこともありました。しかし、ダビデの行なったこの人口調査は「悪」でした。彼の心のうちに神ではなく自分に栄光を帰そうとする高ぶりがあったのでしょう。 そのことを示されたダビデは「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました」と告白しますが、神から、3年間の飢饉か、3か月間の敵による蹂躙か、3日間の疫病の後の破滅か、その内のひとつを選ぶようにと迫られます。そのとき、彼はこう言いました。「主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい」。 ダビデが自らの罪の大きさにおののいているうちに、主の御手によって疫病がもたらされ、多くの人が倒れました。しかし、次に御使いが滅びの手を伸ばすのを神はご覧になって、それを制止なさいました。神は、イスラエルとの契約に忠実であろうとされたのです。ダビデが叫んだように「神の慈悲は大きい」のです。 【祈り】 日々罪を犯す私たちですが、その罪を真摯に告白し、あなたの憐れみにすがる者とならせてください。 Wed, 01 Feb 2023 00:10:00 +0000 行く先々で勝利を与える神(歴代誌上 18-20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230201 no 2023 主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。 (歴代誌上18章6節) 18章からは、ダビデが周辺諸国との戦いに勝利を重ねる様子が記されています。ダビデはペリシテ人を討って征服し、モアブ人を隷属させました。脅威だったツォバの王ハダドエゼルを打ち破り、大量の戦利品を奪い取りました。さらにアラム人、エドム人、アンモン人との戦いにも勝利し、次々に周囲の国々を支配していきました。預言者ナタンを通して神が約束されたとおりでした。 こうした征服や略奪は正しいことなのか、と戸惑いを覚えるかもしれません。ダビデ自身にも、血縁的に近い関係であったモアブ人やエドム人を討つことへの躊躇が全くなかったとは思えません。 しかし、「主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた」とあるように、神がダビデに勝利を与えることを良しとなさったのです。その背後には、約束の地にイスラエル王国を建て、ダビデの子孫の一人によって救いと平和への道を開くという神の計画がありました。これは神の戦いであり、そのために人を用いられるのです。 現代に生きる私たちの戦いは血肉を相手にするものではなく、サタンとの戦いです。この世の力は圧倒的ですが、神はご自身の計画のために戦い、私たちにイエス・キリストにおいて勝利を与えてくださるのです。 【祈り】 この世での勝敗に振り回されずに、主にあって勝利者とされた歩みをすることができますように。 Tue, 31 Jan 2023 00:10:00 +0000 小さき者を顧みる主(歴代誌上 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230131 no 2023 「神なる主よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。」 (歴代誌上17章16節) 神はご自身のために神殿を建てようと願うダビデの思いに対して、ナタンを通して語られました。それは、「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない」(4節)、「主が、あなたのために家を建てる」(10節)という約束です。さらに、「あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える」とも語られます(11、12節)。 この主の言葉はダビデ王朝の永続を約束する「ダビデ契約」と呼ばれています。キリスト教会は歴史を通して、この約束の中に、ダビデの子孫としてお生まれになったイエス・キリストの姿を見出してきました。 ダビデはこの約束を受け、主の御前にひざまずき、祈りました。「神なる主よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか」(16節)。ダビデは自分が小さき者であることを自覚していました。小さき者が、ただ神の憐れみによって導かれた。ダビデはそう覚え、神の御前にひざまずくのです。 神は、主イエスを通して、私たちをも救いへと導いてくださいました。私たちが優れていたわけではありません。ただ神の憐れみによるのです。主の大きな約束の前に、きょうもひざまずくことができますように。 【祈り】 神様。私たちをあなたの大きな約束に招いてくださり感謝します。 Mon, 30 Jan 2023 00:10:00 +0000 喜びと奉仕を分かち合う(歴代誌上 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230130 no 2023 ダビデは主の御名によって民を祝福し、イスラエル人のすべてに、男にも女にも、パン1個となつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた。 (歴代誌上16章2節~3節) 神の箱が無事に運び込まれ、ダビデの張った天幕の中に安置されました。前の章でダビデは神の箱の帰還を心から喜び、踊りました。しかし、彼は自分が喜ぶだけではなく、神の箱を安置するために労した人たちとの分かち合いを忘れてはいません。「ダビデは主の御名によって民を祝福し、イスラエル人のすべてに、男にも女にも、パン1個となつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた」のです。 さらにダビデは、喜びだけでなく奉仕の業も分かち合っています。7節に「ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した」と記されています。彼が今まで担っていた奉仕を後継者たちに引き継いでいます。こうしてアサフたちのリードによって始まった賛美が8節以降に記されており、詩編の中にも納められています(105、96、106編)。 「驚くべき御業をことごとく歌え」(9節)という賛美に注目しましょう。私たちは礼拝で何を喜んでいるのか。何を分かち合っているのか。何のために奉仕を担い合うのか。それはすべて主の驚くべき御業に基づいています。主の救いを思い起こすとき、私たちは共に喜び、共に奉仕を分かち合うことができるのです。 【祈り】 主よ。あなたの救いに感謝いたします。きょうも友と共にあなたに仕え、あなたを賛美させてください。 Sun, 29 Jan 2023 00:10:00 +0000 貧しさゆえの幸い(マタイによる福音書 5章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230129 no 2023 「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」 (マタイによる福音書5章3節) 神の支配の到来を目の当たりにした大勢の群衆は、「御国の福音」、また癒しの数々を目の当たりにして主イエスに従って来ました(4章23~25節)。その彼らに、主イエスがされたことは、「説教」することでした。主の弟子たちが主イエスを囲み、その周りを群衆が囲んだのでしょう(5章1節、7章28節)。 その中で主イエスは開口一番、「幸いな者」について語り始められます。特に、3節の御言葉から聞きたいと思います。幸いについて語られるこの箇所で、全体の基調とも考えられる「貧しい人々」の「貧しさ」とは、単に物質的な貧しさを意味する言葉ではありません。「心の貧しい人々」と言われていますので、それよりももっと深い意味の言葉です。生きる上で拠りどころがない、力に出来るものが自分にはない、或いは自分の心には何もないという意味での「貧しさ」のことです。それ故に、ただ神の力に依り頼むしかない。全面的に御言葉によりすがるよりほかない。こういう状態の人のことなのです。 主イエスはそのような群衆を目の前にして、そして弟子たちに、そのようなあなたは幸いだと言われました。この箇所から、自らの貧しさはどこなのかを思い巡らすと同時に、そのような貧しい自分が主に在ることの幸いを覚えたく思います。 【祈り】 自分の想像を超えて、今主に在る幸いに入れられていることへの感謝。 Sat, 28 Jan 2023 00:10:00 +0000 神への信頼が心に平安をもたらす(詩編 3編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230128 no 2023 主よ、それでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え わたしの頭を高くあげてくださる方。 (詩編3編4節) 『ハイデルベルク信仰問答』問21は、まことの信仰について「…確かな認識のことだけでなく、…心からの信頼のことでもあります」と述べています。神ヘの信頼がなければ、どんなに神の言葉の正しさを理解しても、それだけでは信仰とは言えません。きょうの詩編はまさに神ヘの心からの信頼を告白した詩編です。 この詩編の表題には「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあります。ダビデ王の三男アブサロムは父親に対して謀反を企てました。アブサロムにつく者の数は増し、ダビデは裸足で都エルサレムを出て、泣きながら荒れ野に逃れます(サム下15章12節、30節)。多くの者がダビデに対して「彼に神の救いなどあるものか」と悲観的な言葉をぶつけます。しかし、それでもダビデは神への信頼を口にします。「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方」。 この告白は、キリストを信じる私たちの告白でもあります。使徒パウロは言いました。「…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8章39節)。 【祈り】 キリストによって示されたあなたの愛からわたしを引き離すものはありません。あなたに信頼して心安らかに朝を迎えさせてください。 Fri, 27 Jan 2023 00:10:00 +0000 人にさげすまれようとも(歴代誌上 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230127 no 2023 サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、喜び踊るダビデを見て、心のうちにさげすんだ。 (歴代誌上15章29節) 神の箱は、イスラエルが特に大事にした神の臨在の象徴です。ウザが打たれた事件の後、神の箱は3ヵ月、オベド・エドムの家に置かれていました。15章では神の箱を再びエルサレムへ運ぶ様子が記されています。前回の失敗(13章)があるため、ダビデは祭司とレビ人を呼び集め、準備を十分に整えた上で神の箱を運び出しました。ダビデは運び出された箱と同行しながら、亜麻布の上着を身に着け、喜び祝いながら、神を賛美しました。 しかし、サウルの娘ミカルはこのダビデの姿が気に入りません。「喜び踊るダビデを見て、心のうちにさげすんだ」とあります。ミカルは、人目もはばからず、神の前でひたすら踊るダビデの姿が王の姿として相応しくないと思ったのでしょう。ここで注目したい点は、ミカルがダビデを侮辱しただけでなく、神の箱に対して何の感情も示さなかったということです。しかし、ダビデは違いました。神の箱の帰還を心から喜びました。主の御前でダビデは力のかぎり踊ったのです。神が共にいるしるしを喜ばずにはおれなかったからです。 私たちの歩みにも主が共にいてくださいます。この事実は私たちに喜びを与えます。たとえ、その姿をさげすまれたとしても、主を喜ぶ人生こそ、もっとも祝福された人生です。 【祈り】 主よ、人にさげすまれようとも、あなたを喜び、賛美させてください。 Thu, 26 Jan 2023 00:10:00 +0000 主を尋ね求める王(歴代誌上 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230126 no 2023 ダビデは神に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。…」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。あなたの手に渡す。」 (歴代誌上14章10節) ティルスの王ヒラムはダビデのもとに使節を派遣し、王宮建築のための材料を送ってきました。この出来事はダビデ王が異邦の町の王からも尊敬を受ける王であったことを明らかにしています。しかし、すべての国がダビデ王の即位を喜んだわけではありません。ペリシテはダビデがイスラエルの王になった知らせを受けると、ダビデの命を狙おうと攻め上ってきました。ダビデはこれを聞いてすぐに出陣しました。敵がレファイムの谷に侵入したとき、ダビデは迎え撃つべきか主に託宣を求めます。 歴代誌は、以前、サウルがなぜ王位から退けられ、死を迎えたかについて説明していました(10章)。それは、「主に尋ねようとしなかった」ゆえです。それに対して、新しい王は、サウルと違い、主に託宣を求めて戦いに臨みます。ここがサウルと明確に違います。神は託宣を求めるダビデに応え、勝利を与えました。 私たちも困難に遭遇するとき、主を求め生きていきたいと思います。主を求めても、明確な答えが与えられないときもあります。しかし、主があなたの求めを確かに聞いておられることに間違いはありません。主が共にいてくださるならば、必ず主の目にふさわしい良き方向へと導かれるはずです。 【祈り】 主よ。私たちの求めを聞いてくださいますように。きょうも私たちと共にいてください。 Wed, 25 Jan 2023 00:10:00 +0000 罪を重く受け止め恐れる心(歴代誌上 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230125 no 2023 その日、ダビデは神を恐れ、「どうして神の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言って、ダビデの町、自分のもとに箱を移さなかった。 (歴代誌上13章12節~13節) 神の箱は、神の臨在の象徴としてイスラエルが特に大事にした箱です。しかし、長い期間、箱はキルヤト・エアリムのアビナダブの家に置かれたままでした。ダビデはこの状況に問題意識を持ち、神の箱をエルサレムへ移すことを決意します。ダビデは大勢の人びとと共に、キルヤト・エアリムまで行き、神の箱を車に乗せ、牛で引かせて運び出しました。しかし、麦打ち場にさしかかった時、牛がよろめいたのです。近くにいたアビナダブ家のウザは慌てて箱に手を伸ばしました。すると、主は怒りを発し、ウザは打たれて死んでしまいました。 ウザは神の箱を守るために、手を伸ばしただけであるのに、神に打たれてしまうのは、なんだか理不尽に思えます。ひょっとすると運び方に問題があったのかもしれません。もともと神の箱は、担ぎ棒を作り、資格ある者の肩で運ぶことが命じられていました。このように注意して運ぶならば、慌てて手で支えるようなこともありません。神の御前で不誠実だったことが巻き起こした事件です。 ダビデはこの過ちを自覚し、神を恐れました。神は私たちを愛してくださるお方ですが、私たちが好き勝手に生きていいわけではありません。きょうも、神を恐れつつ、神の御前で誠実に生きていきましょう。 【祈り】 神様。あなたは聖なるお方です。あなたの御前に誠実に歩むことができるようにお導きください。 Tue, 24 Jan 2023 00:10:00 +0000 武勲が三勇士に及ばなくとも(歴代誌上 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230124 no 2023 30人の中でも重んじられたが、武勲は三勇士に及ばなかった。ダビデは彼を護衛兵の長に任じた。 (歴代誌上11章25節) サウル王が退けられ、新しい王としてダビデが即位します。ダビデは主の御前でイスラエルの長老たちと契約を結び、油注がれました。イスラエルの新しい王の誕生です。その後、ダビデはエブスの町に向かい、この地を陥れることになりました。この地こそこれからイスラエル統一王国の都となるエルサレムです。これまでの歴史の中で度々、エブスの攻略は試みられましたが、成功しませんでした。ダビデが成功したのは、決して彼の力ではなく、主が共におられたからです(9節)。ダビデはそのような主の導きの中で着実に勢力を伸ばしていきます。 この章は11節からダビデの勇士たちのリストが記載されています。ここで分かることは、「三勇士」という立派な存在がいたこと、そして「三勇士」には及ばなかった勇士たちがいたということです。 私たちも尊敬する信仰の先輩方を思い浮かべることができます。その方々と比べて自分を卑下してしまうことがあるかもしれません。しかし、ダビデ王国は、三勇士には及ばない人びとの働きによっても支えられ、守られました。自分が取るに足りない器だと思っていても、神はご自身の御国の発展のためにあなたを用いてくださいます。きょう一日もあなたの器が主にささげられますように。 【祈り】 主よ、取るに足らないこのしもべをきょうもお用いください。 Mon, 23 Jan 2023 00:10:00 +0000 主を尋ね求める幸いと主を求めない罪(歴代誌上 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230123 no 2023 彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。 (歴代誌上10章14節) 歴代誌はここから、ダビデ、ソロモン、南ユダ王国に焦点を合わせて記述しています。そのため、サウルの物語はサムエル記と比べ、簡略化され、この10章にのみ記されています。 サウルはペリシテとの戦いで傷を負いました。このまま、ペリシテになぶり殺されたくないため、従卒に「わたしを刺し殺してくれ」と命じます。しかし、従卒は主が油を注がれた王を殺すことを恐れ、そうすることができません。このため、サウルは自ら剣の上に倒れ伏し、死にました。 歴代誌は興味深いことに、サウルの死について、独自の神学的な視点を記述しています。「サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された」(13、14節)。サウルの死の原因は彼の不信仰にありました。その不信仰が具体的に記されています。それは主に背き、主の言葉を守らず、主に尋ねようとしなかったということです。これは主に油注がれた者として相応しい姿ではありませんでした。 主に背き、主の御言葉から離れ、主を求めない人生ほど、悲しいことはありません。きょうも主に目を向けることから一日を始めることができますように。 【祈り】 主よ、あなたを尋ね求めて生きることができるようにお導きください。 Sun, 22 Jan 2023 00:10:00 +0000 わたしについてきなさい(マタイによる福音書 4章12-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230122 no 2023 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 (マタイによる福音書4章19節) サタンの誘惑を受け、退けられた主イエスは、伝道を開始されました。その手始めとして、弟子たちを召して教会を招集されます。主イエスは弟子となる人びとの生活の場まで来て、御声を掛けました。「わたしについて来なさい」。直訳では「わたしの後ろから(ついて来なさい)」です。すなわち弟子とは主イエスを、自分の前に見ながら御あとについて生きる者のことです。自らを先立て、主イエスを後ろに追いやるような生き方では、キリストの教会を建てることはできません(16章21~23節)。 家族や隣人との関係においてもそうです。自分を捨て、まず主イエスの御言葉へ服従することなしに、救いの広がりもありません。弟子たちも舟や父親を置いて主イエスに従いながら、必ずしも仕事や家族を捨てたわけではありません。主イエスはその後ペトロの家でしゅうとめの病を癒しておられます(8章14節以下)。 地上の歩みの中で、主イエスの後についていく歩みは、むしろその信仰のゆえにサタンの試みを受ける歩みです。しかしその歩みの先には復活の命が必ず待っています。なぜなら主イエスが復活への道を切り開いてくださったからです。この主の御あとについて行きたく思います。 【祈り】 御あとについて行くことでどんな世界が開けるか。教会に連なる方々と共に、その世界を見ることができますように。 Sat, 21 Jan 2023 00:10:00 +0000 神を畏れ敬うことこそ人の幸い(詩編 2編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230121 no 2023 すべての王よ、今や目覚めよ。 地を治める者よ、諭しを受けよ。 畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ。 (詩編2編10節~11節) きょうの詩編では、結束して神に逆らう地上の王たちと、神が油注いで立てたまことの王とが対照的に描かれています。新約聖書はこの詩編に描かれるまことの王をイエス・キリストだと証ししています(使徒4章25、26節ほか)。 地上の王たちとは誰でしょう、文字通りにとれば、国を治める統治者です。しかし、人をお造りになった神は、人を祝福して「…地に満ちて地を従わせよ。…生き物をすべて支配せよ」とおっしゃっています(創1章28節)。その意味で、すべての人間は被造物を治める責任ある王です。ところが、罪ある人間は「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と創造者である神に謀反を企てます。神から解放されて生きることが、幸福の始まりだと倒錯した考えを抱いています。神はその人間の愚かさを天からご覧になって嘲笑い、憤りさえ抱いておられます。その人間を憐れみ、ついにはまことの王であるイエス・キリストをお遣わしになりました。 真の幸福は神からの解放にはありません。神との交わりの中で神と共に生きることにこそ、人間の幸福があります。キリストは愚かな罪人の企てを打ち砕き、私たちを再び神のもとへと連れ戻してくださいます。 【祈り】 神よ、あなたを畏れ敬い、主イエスと共に歩ませてください。あなたにこそわたしの幸いがあります。 Fri, 20 Jan 2023 00:10:00 +0000 神が創造される礼拝に心を込めて与かる(歴代誌上 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230120 no 2023 …レビ人であった。彼らは神殿の周囲で夜を過ごした。神殿を警備し、毎朝その扉を開くことが彼らの責任であった。 (歴代誌上9章26節~27節) 9章には、バビロン捕囚から帰還した後の新しい共同体の姿が記されています。「最初に自分たちの町の所有地に帰って住んだのは、イスラエルの人々、祭司、レビ人、神殿の使用人であった」と記されています(2節)。「最初に」という言葉は、創世記冒頭の「初めに」と同じですから襟を正される思いがします。天地を創造された神が、バビロン捕囚後の世界に創造されるのは、新しい礼拝です。神礼拝を見失ったところに、国が滅んだ原因がありましたから、最初にやり直すべきは神を真心から礼拝することでした。そのための役割を果たす人たちが最初にエルサレムへの帰還をゆるされていきます。 礼拝に心を込めるということは、御言葉を、祈りを、賛美を整えることに留まりません。その前の備えが大切です。9章のリストには、神殿の門の警備を託された人たち、礼拝で用いる祭具や麦粉、ぶどう酒、オリーブ油、香料の責任を持った人たち、供え物のパンを安息日ごとに準備する責任を負った人たち、そのような陰に日向に礼拝を支える人たちのことが記されています。 礼拝を礼拝たらしめる一つひとつのことを疎かにせず、心を込めていくこと。その心が共同体の新しい歴史の扉を開いていきます。その心と神が共にいてくださるからです。 【祈り】 主よ、最初に、あなたを礼拝することからすべてを始めさせてください。 Thu, 19 Jan 2023 00:10:00 +0000 神の民の歴史に刻まれた良きものの継承(歴代誌上 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230119 no 2023 ネルにはキシュが生まれ、キシュにはサウルが生まれ、サウルにはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルが生まれた。 (歴代誌上8章33節) 7章には、イサカル、ベニヤミン、ナフタリ、マナセ、エフライム、アシェルの部族の系図が記され、8章にはベニヤミン族の系図がもう一度、より詳しく記されています。そのベニヤミン族からイスラエル最初の王サウルが誕生することになります。 サウルは神に選ばれ、王の職務に召し出された人でした。その期待に応えるべくサウルは、イスラエルの地を狙う国々との戦いに明け暮れます。しかし、アマレクとの戦いに勝利したときのこと、ふとした気のゆるみからか、神の戒めに背いてしまい、以来、悪霊に苛まれ、台頭するダビデへの嫉妬に狂い、最期はペリシテとの戦いに敗れ、非業の死を遂げることになりました。 しかし、サウルの系譜は、ダビデと麗しい友情を結んだヨナタンから豊かに広がっていったことが知らされます。系図には「ウラムの子らは、弓を引く勇士となり」という記述もあります(8章40節)。そういえば、ヨナタンは弓の名手で、ダビデが詠んだサウルとヨナタンへの哀悼の歌は「弓」と題されていました(サム下1章18節)。人の歩みには上手くいくこと、いかないことがありますが、その時々に懸命になしたことを、神は世代を越えて残してくださることをこの系図は教えてくれます。 【祈り】 主よ、あなたに背く愚かな私たちですが、良きものだけを選び取り、次の世代に残してください。 Wed, 18 Jan 2023 00:10:00 +0000 神が与えてくださるものがわたしの喜び(歴代誌上 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230118 no 2023 また東はユーフラテス川から荒れ野の入り口に及ぶ地にも住んだ。彼らの家畜がギレアドの地で増えたからである。 (歴代誌上5章9節) 5章には、ルベン、ガド、マナセの半部族という、ヨルダン川の東側に生きた人たちの系図が記されています。 エルサレムから見れば、「向こう側」とも言える土地に彼らが生きたのはその場所を彼らが愛したからでした。それはまだ荒れ野の40年の旅を続けていた時のこと、おびただしい数の家畜を持っていたルベンとガドの部族は、ヨルダン川の東側に留まることをモーセに願い出ます。「群れのために羊の石囲いを作り、子供たちのために町を作ります」(民数32章16節)、「わたしたちの嗣業の土地はヨルダン川のこちら側、東側にあるからです」(同19節)。たとえ、モーセと旅を続けるにしてもやがてはその土地に生きること、そこに彼らの召命がありました。彼らは戦いに強いという賜物を活かし、神に信頼することで勝利を重ね、その土地に根を生やし生きることになりました。 他方、5章の後半から6章にかけて記されるレビ族には嗣業の土地が与えられませんでした。「イスラエルの神、主に燃やしてささげる献げ物が彼の嗣業であった」(ヨシュア13章14節)と言われるとおりに、礼拝に身を献げ、イスラエル各地に点在して生きることになります。 それぞれの召命と賜物があります。神が与えてくださる時と場所とが私たちの喜びとなりますように。 【祈り】 主よ、あなたが与えてくださるものを大切に受け止めたいと願います。 Tue, 17 Jan 2023 00:10:00 +0000 神の民は祈り、神は聞かれ、歴史は連なる(歴代誌上 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230117 no 2023 ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。 (歴代誌上4章9節) 3章にはダビデの子どもたちとその子孫の名前が連ねられています。4章に記されているのはダビデ王家を支えた人たちの系図です。 その記述のなかで目を引くのは、ヤベツという人物についてのものです。苦しみを意味するその名と共に、その生き様が短いながらに記されているからです。その名にヤベツは自分の生涯の不吉を思ったでしょうか。しかし、彼は祈る人でした。「御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」(4章10節)と祈ることで宿命とも言うべき重荷を乗り越え、ついには兄弟たちを支えるに至った人でした。彼が祈ったのはイスラエルの神です。イスラエルたるヤコブもまた「神がわたしと共におられ」ると苦しみのなかで祈り、試練を乗り越えていった人でした(創28章20節)。ダビデも「わたしを憐れんでください」と祈り(詩51編3節)、ソロモンも「この僕に聞き分ける心をお与えください」と祈り(列王上3章9節)、彼らは祈ることで自身に課せられたものを乗り越え、人びとと共に生きる道へと結ばれてゆきました。 神の民の歴史は、神への祈りを継承していく歴史であり、神がその祈りを聞いてくださることによって積み重ねられた歴史です。 【祈り】 主よ、あなたが与えてくださる祈りがあって、きょうも私たちは共に生きることができ、感謝いたします。 Mon, 16 Jan 2023 00:10:00 +0000 神の民の名前が語る赦しと憐れみの歴史(歴代誌上 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230116 no 2023 セム、アルパクシャド、シェラ、エベル、ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラム、これがアブラハムである。 (歴代誌上1章24節~27節) 神学生のときに初めてヘブライ語の聖書を手にして驚いたことは、その文字の不可思議さもさることながら、書物の順番がいつも目にしている旧約聖書とは違うということでした。歴代誌は一番後ろに置かれています。それは、歴代誌が旧約聖書全体の「まとめ」という役割を担っているから、とのことです。その性格を1章から9章までが端的にあらわしています。そこには、アダムに始まり、バビロン捕囚からの帰還に至る歴史が、神の民の名前によって記されています。それが歴代誌全体の取り扱う歴史の範囲、すなわち旧約聖書の歴史の範囲ということになります。 アダムの名前(1章1節)を見るとき、私たちはアダムのことだけでなく、系図には記されていないエバや蛇のことを思い出します。神から食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまった二人は、楽園を追放されながらも、その命を神に守られました。 アブラハムの名前を見つけるときには、彼が永遠の契約を授けられたこと、信仰によって義とされたこと、それから、サラやハガルやその子たちのことを思い出します。 一人ひとりの名前に、神の赦しと憐れみが刻まれています。それが神の民の歴史を形づくったものです。 【祈り】 主よ、それぞれの人を通して、赦しと憐れみをこの世界に刻んでくださってきたことを感謝いたします。 Sun, 15 Jan 2023 00:10:00 +0000 罪を取り除く主イエス(ヨハネによる福音書 1章29-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230115 no 2023 ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」 (ヨハネによる福音書1章29節) 先週に引き続き、洗礼者ヨハネと主イエスとの場面からです。ここでヨハネは、主イエスのことを的確に言い表しました。「世の罪を取り除く神の小羊」。私たちの罪を取り除く贖い主としての姿がこの言葉によく表現されています。 私たちの罪はどこに表われるでしょうか。私たちが取り除いてほしい罪、それは思いと言葉と行いという具体的なところに表れます。神を礼拝する民イスラエルも、神への不平不満から、思いと言葉と行いにおいて罪を犯し続けました。私たちも、もしかすると不平不満の中で、今生活しているかもしれません。そこに私たちの罪が表れ出てくるのです。 毎週の礼拝の中で、御言葉と聖霊によって、思いと言葉と行いとを新たに造り変えていただく。罪が取り除かれるには主イエスの霊が天から降って私たちの内に留まることが不可欠です。日々外側の衰えを感じる中で、内側が日々新たにされるためには御言葉と聖霊の力こそ必要です。 世の罪の奴隷ではない生き方があるということ。日々力をいただいて、日々新たにされて主イエスの御栄えに生きる。過去に縛られるのとは違う生き方があることを証しする民でありたく思います。 【祈り】 (1)贖い主が罪を取り除いてくださったことへの感謝。 (2)新たにされた者として、思いと言葉と行いとが主にあって整えられますように。 Sat, 14 Jan 2023 00:10:00 +0000 主の教えを愛する人の祝福(詩編 1編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230114 no 2023 その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 (詩編1編3節) 幸せでありたい。これは誰もが追及してやまない目標です。けれども、「何が幸せなのか」と改めて考えると、答えは思うほど簡単ではありません。生活に困らないお金があること、健康であること、仲間や家族がいること、事業に成功すること、いろいろな幸せの形はありますが、それらをすべて手に入れても、なお幸せを感じないということもあります。 きょうの詩編は「いかに幸いなことか」と始まります。「歩まず」「とどまらず」「座らず」と否定の形で、祝福から遠ざかる生き方をまず戒めます。神に逆らう者の計らいに従って歩まないこと、罪ある者の道にとどまらないこと、傲慢なものと共に座らないこと、これは神の祝福にあずかって幸いを得る基本です。悪に歩んでいた者がその場にとどまり、ついには座り込んでしまう様子が目に浮かびます。しかし、何かをしないこと以上に大切なのは、主の教えを積極的に愛し、覚えるほどに口ずさみ、心にその教えを刻むことです。 私たちは神の御心を完全には行うことができない罪人です。しかし、この罪人がどう神に立ち帰るかをも神は教えてくださいます。神に受け入れられて、そのもとで過ごすとき、他では手に入れることができない祝福を手に入れることができるのです。 【祈り】 あなたの教えに心を留めさせてください。あなたの祝福によって繁栄を楽しませてください。アーメン Fri, 13 Jan 2023 00:10:00 +0000 キリストに遣わされて生きる(ルカによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230113 no 2023 12人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。 (ルカによる福音書9章6節) 本日の聖書箇所は主イエスが弟子たちを派遣された場面です。 どうして主イエスは弟子たちを派遣なさったのでしょうか。それは神の国が広がるためです。人びとがこの恵みを味わうためです。 主イエスは派遣するにあたり、弟子たちに力と権能をお与えになりました。弟子たちは主イエスの代理人です。神の国の広がりはあくまでも主イエスが与えてくださるものであり、弟子たちは与えられた賜物によって奉仕します。 主イエスは、遣わされた弟子たちが直面するであろうさまざまな心配にも触れています。必要はすべて満たされる。それが主イエスの約束です。 派遣された弟子たちは、病をいやし、福音を伝えました。ところが、悪霊に取りつかれた子どものいやしに弟子たちは失敗しました(37~43節)。弟子たちは、主イエスへの信頼ではなく、自らの力を過信していたのかもしれません。力を与えてくださるのは主イエスです。この方への信頼が問われます。 福音宣教、神の国の広がりは主イエスから派遣された一人ひとりによって行われます。私たちもまた主イエスからそれぞれの場に派遣されるのです。必要をすべて与えてくださる主に信頼しましょう。 【祈り】 主よ、御国が広がりますように。このわたしをお遣わしください。 Thu, 12 Jan 2023 00:10:00 +0000 健全さを取り戻して生きる(ルカによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230112 no 2023 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。 (ルカによる福音書8章30節) ルカによる福音書8章は主イエスの力がどれほど偉大かを記します。主イエスが弟子たちを伴い、船に乗っていた時のことです。湖に突風が吹き荒れました。しかし、この突風を主イエスは一喝されたのです。こうして、風はやみました。 その後、主イエスとその一行は船でゲラサ人の住む地域に向かいます。その時にレギオンという人物に出会います。レギオンとは、「たくさん」という意味。もともとは軍隊用語で4千人から6千人規模の部隊を指します。それくらいたくさんの悪霊にこの人は取りつかれていたのです。 服を着ないで墓場に住むレギオン。この人は健全さを失っていました。死の世界にいたのです。そこで主イエスはこの人を悪霊から解放されました。それは死から生への転換です。 レギオン。たくさんの悪霊。このレギオンはほかでもない、この私の姿です。私たちは死にとらわれています。たくさんのものに心が縛られています。いつの間にか、健全さを失っているのです。そのような私たちが健やかに生きることができるようにと、主イエスは招いておられます。このお方は突風を静める力をお持ちです。この世界を治める真の神です。このお方が私たちの生涯を治めてくださるのです。 【祈り】 主よ、あらゆる死の力から解き放ち、生の力に私たちを招いてくださり、感謝します。 Wed, 11 Jan 2023 00:10:00 +0000 キリストの権威ある言葉(ルカによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230111 no 2023 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。 (ルカによる福音書7章10節) 6章20節から始まった平地の説教の後には、権威者としてのキリストの姿が描かれます。権威とは上に立つ力です。そして、究極的な権威は神にのみ帰されます。この権威をルカは百人隊長のエピソードで語ります。 彼は軍人でした。そのことから彼が権威を重んじる者であることがわかります。そんな彼の部下が病で瀕死状態になったのです。なんとか助けたい。でもどうすることもできない。その時に、この町にイエスというお方がいることを知りました。百人隊長はこのお方だったら何とかしてくださるに違いないと考えました。しかし、自分はローマ人です。そこで彼は、知り合いのユダヤ人に仲介をお願いします。こうして主イエスが向かわれたのです。 ところが、その道中、この百人隊長はさらに友達を使いにやって主イエスに伝えました。ご足労には及びません、ただ言葉だけで十分です、と。 キリストはこの百人隊長をお褒めになりました。キリストの言葉に信頼したからです。このお方の力をもってすればわざわざ来ていただく必要すらない。これがキリストの権威です。力なのです。このキリストの権威ある言葉に耳を傾けましょう。 【祈り】 主よ、権威あるあなたの言葉によって、このわたしを縛るものからの解放を与えてください。アーメン Tue, 10 Jan 2023 00:10:00 +0000 確固たる土台の上に立つ(ルカによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230110 no 2023 「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」 (ルカによる福音書6章48節) ルカ福音書6章には「平地の説教」と呼ばれる一連の教えが記されています。46~49節はこの説教の締めくくりに当たる場面です。 この説教はだれに対して語られたのでしょうか。イエス・キリストは、目を上げて弟子たちにお語りになりました(20節)。イエス・キリストの周りにはたくさんの群衆がいたでしょうから、弟子たちのみがこの説教を聞いたというわけではないでしょう。しかしながら、弟子たち、つまりキリストに従う人びとを、主のまなざしは捉えていたのです。 いろいろな教えをお語りになられた後、主イエスは弟子たちに問われました。何を土台にして生きるのか。今、語られた教えをあなたの土台にするのか。それとも、他のものを土台にするのか。主イエスの願いは言うまでもありません。神の御言葉、キリストの教えをその土台にせよ、ということです。 イエス・キリストに従う人は固い岩の上に建てられた家のようです。どのような困難があっても、倒れることはありません。傷つき、揺らぐことがあっても、土台から崩れることはないのです。神の教え、聖書を中心とする。そこに、人生の土台があります。一人ひとりがこの土台の上に立つことができますように。 【祈り】 主よ、あなたの御言葉を我が人生の土台とすることができますように。アーメン Mon, 09 Jan 2023 00:10:00 +0000 キリストの御業の目撃者(ルカによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230109 no 2023 すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 (ルカによる福音書5章10節) 主イエスの周りに人が集まってきました。群衆が多かったので、主イエスは湖上からお語りになろうと思い立ち、漁師たちに船を出すようにお願いします。この時に声をかけたのがシモン(後のペトロ)です。 話が終わったとき、主イエスはペトロに沖にこぎ出すように命じます。漁をするようにというのです。ペトロたちは夜通し漁をしていましたがその日は何もとれずじまい。それでも先生がおっしゃるのだから、と半信半疑で網を投げた。その結果、網にはたくさんの魚がかかります。船は沈みそうになるほどです。 魚がたくさんとれて、喜ぶかと思いきや、ペトロは恐ろしくなりました。自分の目の前にいる方は、ただ者ではない。自然をも司るお方。それは神です。その神が自分の前におられる。この時、ペトロが感じたのは、主の前にふさわしくない自分です。罪がある。神の大いなる恵みを前にしての恐れです。 そのようなペトロに対して主イエスはなおもご自分のもとに招かれます。ペトロが罪人であることも、不十分なこともわかっている。それでも、ペトロを主イエスは愛していた。このお方の愛は罪の赦しを含みます。罪人を罪の赦しへと招いてくださるのです。キリストはあなたを罪の赦しへと招いておられるのです。 【祈り】 主よ、このわたしの罪を赦してくださり、感謝します。 Sun, 08 Jan 2023 00:10:00 +0000 主の洗礼によって(マタイによる福音書 3章13-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230108 no 2023 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 (マタイによる福音書3章17節) 主イエスが洗礼を受けられるこの箇所で、一つ特徴的な点があります。それは主が受洗されることを洗礼者ヨハネが思いとどまらせようとしていることです。主はこれに対して、ヨハネの思いを覚えると同時に、父なる神の御心を覚えられて、「今は、止めないでほしい」と言われ、神の御前に正しいことを行ったのでした。 罪なき方が洗礼をお受けになる。このことによって、罪に苛まれる私たちの救いの扉が開いたことを覚えたく思います。主の今回の行動は、罪に苦しみ傷ついている私たちのため、私たちをその罪より救い出したいとの神の御心の表れだったのです。 この正しいことを行ったときに、天が主イエスに向かって開きます。そして、今正しいことが成立したその宣言であるかのように、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との御声が天から聞こえます。これらはすべて主の御あとに従う私たちを救うためでした。 私たちは、礼拝をささげるたびに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の御声を、自分への御声として聴きながら、喜んで、礼拝の場へと体を運びたいと思います。私たちは一回一回の礼拝を心から喜んで、イエス・キリストに従って行きたいと願います。 【祈り】 (1)主が私たちの罪を覚えて洗礼を受けられたことへの感謝。 (2)主の御あとに従うことができますように。 Sat, 07 Jan 2023 00:10:00 +0000 解放、回復、自由(ルカによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230107 no 2023 「… 主がわたしを遣わされたのは、 … 主の恵みの年を告げるためである。」 (ルカによる福音書4章18節~19節) ナザレの会堂で主イエスは言われます。わたしは解放と回復と自由を与えるために神から遣わされたのだ、と(18、19節)。これはイザヤ書61章に記されていることでした。キリストはこのイザヤ書を実現するためにこの地上に来られました。 主イエスはイザヤ書を朗読し、この約束が実現したと宣言します(21節)。これは大いなる喜びです。しかしながら、人びとはこの言葉に驚きながらも素直に信じることができませんでした。「この人はヨセフの子ではないか」と。かつてこの地で育った主イエスを信じることができなかったのです。そこで、主イエスはこの地を離れられました。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)という主イエスの言葉は悲しみに満ちています。 主イエスはその後も巡回され、人びとを汚れた霊から解放し、多くの病人を癒やされました。解放と自由を与える主イエスの姿を福音書は伝えるのです。こうして、主イエスのうわさは一帯に広まりました。 まさに、イザヤ書の預言はこのお方によって実現しました。このお方を信じる私たちにも、解放と回復と自由が与えられています。このお方を受け入れる者は幸いです。 【祈り】 主よ。心の目を開いてくださり、罪の鎖から解き放ってくださり、自由を与えてくださり、感謝します。 Fri, 06 Jan 2023 00:10:00 +0000 まことに優れたるメシア(ルカによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230106 no 2023 「悔い改めにふさわしい実を結べ。…言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」 (ルカによる福音書3章8節) 救い主イエス・キリスト。このお方の到来を告げる一人の人物が荒れ野に登場します。洗礼者ヨハネです。この人は新約聖書に登場しますが、旧約最後の人物といってもよい。旧約とイエス・キリストを結びつけるのです。この人に「神の言葉が…降った」(2節)。旧約の最後からおよそ400年。神の物語は新しい時代に突入するのです。 時は、ローマによる支配の時代。ユダヤは分裂状態。二人の大祭司がいたことによる混乱。徴税人は規定以上の税金を取り立て、兵士もゆすりをする時代。その時代に、荒れ野で声がした。悔い改めよ。この声が響いた。荒れ野は都からは遠い。聞いた人は決して多くはなかったかもしれない。声も決して大きくはなかったかもしれない。それでも、神の声は荒れ野の一人の人物によってこの世界にもたらされたのです。 ヨハネは悔い改めの洗礼を授けました。それは人びとに罪を自覚させました。そしてヨハネの後にこられた主イエスこそ、ヨハネより優れた洗礼をもたらしました。罪の指摘だけでなく、罪の赦しをもたらす洗礼。罪の赦しはキリストの十字架の御業によって与えられます。キリストの名による洗礼はこの罪の赦しの中にいることの証明です。 【祈り】 主よ。洗礼の恵みに感謝します。多くの人びとがこの恵みにあずかることができますように。 Thu, 05 Jan 2023 00:10:00 +0000 神と人とに愛される(ルカによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230105 no 2023 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。 (ルカによる福音書2章52節) ルカによる福音書2章は主イエスの誕生と幼少時代を記します。 主イエスはベツレヘムでお生まれになりました。宿屋には泊まる場所がなかったので家畜小屋でうまれたのです。その主イエスの誕生を最初に喜んだのは低い立場にあった羊飼いたちでした。 主イエスは献げられるために両親に連れられ、神殿に向かいます。そこでシメオンとアンナという、主を待ち望む人びとと出会いました。彼らは救い主の誕生を待ちわびていました。その後、主イエスは故郷のあるナザレにお帰りになるのです。 主イエスが12歳になったとき、慣例にしたがい神殿で神を礼拝します。この時すでに主イエスは周りのおとなが驚くほどの知識を有していたようです。この主イエスの姿は、両親の信仰教育の賜物と言えるでしょう。キリストは御言葉に親しみながら育ちました。 このように主イエスの成長する姿を聖書は記しています。主イエスは知恵が増し、背丈も伸びました。しかし、何よりもこのお方は神と人に愛されたのです。ただ知識が増えただけ、背が伸びただけではない。神の愛は恵み、という意味ですから、主イエスは神の恵みによって成長したのです。私たちの成長もまた、神の恵みによるのです。 【祈り】 主よ、恵みによって成長をあたえてくださり感謝します。 Wed, 04 Jan 2023 00:10:00 +0000 神の偉大な物語(ルカによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230104 no 2023 わたしたちの間で実現した事柄について、…物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 (ルカによる福音書1章1節~2節) ルカは主イエス・キリストのすばらしさを何とかして伝えたいと願うようになりました。そこで彼は自分で主イエスの救いの物語を書こうと思い立ちます。こうして書きあがったのがルカによる福音書です。 ルカは福音書を書くために、さまざまな資料を集めます。彼はパウロやペトロとつながりがありました。パウロやペトロ以外の名もなき証言者たちからもいろいろと主イエスについて聞いたはずです。ルカは地上の主イエスと会ったことはありませんでした。しかし、主イエスの言葉を人から聞くごとに、その深さに心打たれたのです。その不思議な御業を聞くごとに、このお方の偉大さに心奪われたのです。ルカはまるで、主イエスと共に生活をしているかのように思えたでしょう。その息遣いすら感じていたかもしれません。 そのような主イエスの物語を、ルカは一人の名を挙げてその宛先としています。「テオフィロさま」。この人は皇帝ですが、神を愛する人、という意味の名前です。今、御言葉の前にとどまり、神の愛を感じている私たちもまた、このテオフィロなのです。神の偉大な物語。それは最初の教会から今を生きる私たちに伝えられた救いの物語です。あなたに、この物語が語られています。 【祈り】 主よ、福音書を通してイエス・キリストを知り、救いにあずかることができて、感謝します。 Tue, 03 Jan 2023 00:10:00 +0000 光はどこにあるのか(ヨハネによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230103 no 2023 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (ヨハネによる福音書8章12節) きょうの御言葉はエルサレムの仮庵祭の時に主イエスがお語りになった御言葉です。仮庵の祭りは、イスラエルの民の荒れ野の40年の旅を記念する祭りです。この祭りの間、夜になると神殿に4本の塔が建てられて、火がともされました。荒れ野の旅で神が「雲の柱、火の柱」をもって導かれたことを思い起こし感謝したのです。 この祭りの時に主イエスは人びとに語られました。「わたしは世の光である」と。この光は、かつての荒れ野の旅の光を超える光です。主イエスは、御自身をイスラエルの光と呼ばれたのではありません。「世の光である」と言われます。今、あなたがたは暗闇の中を生きなければならないけれども死んで天国に行ったら光の恵みにあずかれるようになる。そのように言われたのでもありません。「止まない雨はない」という言葉は確かに私たちを慰めてくれますが、異なることを主は語られます。 今、私たちが生きるこの世には暗闇がある、主イエスはそのことをご存じです。しかし、わたしを信じてわたしと共に歩むなら、もう暗闇の中を歩むことはないと言われます。かつてないほどに闇を身近に感じながら、日々私たちは生活をしているかもしれません。しかし、光は未来にあるのではなく、今ここにおられる主イエスにあります。 【祈り】 主よ、新しいこの年、光の中を歩ませてください。 Mon, 02 Jan 2023 00:10:00 +0000 一歩前に踏み出すために(イザヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230102 no 2023 初めからのことを思い出すな。 昔のことを思いめぐらすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 (イザヤ書43章18節~19節) 「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と語られます。「初めからのこと」、「昔のこと」とは出エジプトの出来事のことです(16、17節参照)。出エジプトは、イスラエルの民にとって神の最大の救いの御業です。神の民の原点であり出発点です。繰り返し思い出すことは信仰の根幹に関わることでしょう。しかし、ここではそのことを思い出すな、思いめぐらすなと語られます。なぜでしょうか。 この御言葉は、バビロン捕囚の時代に語られました。長く続く捕囚生活の中でイスラエルの民の魂は傷つき深く病んでいたのです。昔、生ける神はお働きになったが、今はもう何もしてくださらない。昔はよかった、しかし、今はもう未来への希望を持つことができない、彼らはそう思い込んでいました。 今の現実と向き合うことができず過去の栄光にすがり、望みをもって未来への道を歩み出すことができない。それは私たちにも起こることです。昔の教会は良かった、活気があった。礼拝にもたくさんの人たちが集っていた。しかし、今はもう…。 しかし、そこで主なる神はお語りになります。「見よ、新しいことをわたしは行う」と。人が膝を屈したところで生ける神はお働きになります。 【祈り】 生ける神よ、信仰の望みのゆえに一歩前に踏み出させてください。 Sun, 01 Jan 2023 00:10:00 +0000 過去も未来も主の御手に(ヨハネの黙示録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20230101 no 2023 「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。」 (ヨハネの黙示録1章17節~18節) 「聖書は読むものではなく聴くものである」と言われます。読むことと聴くことには違いがあります。読むことには「目」、聴くことには「耳」が用いられます。また「読む」はこちらから向こう側に、「聴く」は向こうからこちら側に方向性があります。 わたしは聖書を声に出して読むことがあります。ひとりになって小さな声で口ずさんでみます。向こう側から来る神の御言葉に聴くことを願ってそのようにします。 きょうの御言葉は、主イエス・キリストが幻の中で語り掛けられた御言葉です。新しい年を迎えたこの日曜日、この御言葉を小さな声で何度も口ずさんでみたいのです。 キリストは「わたしは最初の者にして最後の者」とお語りになります。このキリストの故に恐れることはありません。私たちの過ぎた日々も、未来も、主の支え、支配の中にあるからです。過ぎた日々の数多くの失敗や罪、それを自分ではとても支えられません。その重さにたちまちつぶれてしまうことでしょう。未来のこともまた私たちが支えなければならないとすれば、そこには絶望しかありません。しかし、キリストは語りかけられます。「『わたしは最初の者にして最後の者』。このわたしが支える。わたしは生きている。だから恐れることはない」。 【祈り】 主よ、あなたに頼る人は幸いです。あなたに希望を置く人は幸いです。 Sat, 31 Dec 2022 00:10:00 +0000 新しい天と地夫のために着飾った花嫁(ヨハネの黙示録 21-22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221231 no 2022 神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。 (ヨハネの黙示録21章3節~4節) ヨハネの黙示録は、新しい天と地という最後の幻をもって終わります。天使はヨハネに、夫のために着飾った花嫁を見せます。それは神と契約の民が永遠に結ばれることを表しています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。このような美しい言葉をもって、小羊であるキリストと、その花嫁である教会との永遠の婚宴が描かれます。神と選ばれた民との永遠の交わりは、この上なく親密なものであり、神は彼らと共に一つの幕屋に住まわれます。 そして、特筆すべきは、この新しい天と地の都の中に神殿がないことです。この都の住民は、もはや神と交わるために神殿に出かけて行く必要はありません。なぜなら、神の臨在は、今や新しい世界の隅々にまで満ち満ちているからです。 「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(21章7節)。聖書の初めから終わりまでを一本の糸のように貫いているこの約束は、完全な形においては、来るべき世において成就されますが、今の世においても既に実現されています。今を生きる私たちも、その神との親密な交わりにあずかれるのです。 【祈り】 主よ、今年流した涙もあなたによってぬぐわれています。望みをもって新しい年を迎えさせてください。 Fri, 30 Dec 2022 00:10:00 +0000 小羊の婚礼の日に備える花嫁(ヨハネの黙示録 15-19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221230 no 2022 「わたしたちは喜び、大いに喜び、 神の栄光をたたえよう。 小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。」 (ヨハネの黙示録19章7節) 「バビロン」が滅亡すると、ヨハネは天使と人から成る群衆の大歓声を聞きます。「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」。 へブライ人の結婚では、婚約すると、花嫁花婿は法的に夫婦となります。婚約と結婚式との間に、花婿は花嫁の父に結納金を持参します。その後、結婚の行列が行われます。花嫁はそのために準備をし、美しく着飾ります。花婿は、友人たちを伴って花嫁の家まで行進し、花嫁を自分の家に連れて帰ります。それから、結婚の祝宴が行われます。 黙示録19章は、教会がキリストと婚約したことを示します。離れて住む期間が、キリストの昇天から再臨までの新約時代です。この間に花嫁が身に纏う純白の麻布は、彼女の聖化された姿を表します。 この期間が終わると、御子は天使たちを従えて、花嫁である教会を迎えに来られ、結婚の祝宴が始まります。そして、その祝宴は永遠です。 この婚姻は、旧約の全期間を通して告げ知らされていました。御子が受肉されたとき、婚約がなされていました。その代価は十字架で支払われました。そして、この期間の後に、花婿は来られ、私たちは永遠にキリストと共に住まうのです。聖なる祝福された永遠の交わりです。 【祈り】 主よ。今、この私たちの時代にあって、すでに小羊の婚宴に招かれている私たちは、なんと幸いでしょう。 Thu, 29 Dec 2022 00:10:00 +0000 終わりのときの刈り入れと救いと裁き(ヨハネの黙示録 12-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221229 no 2022 そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。 (ヨハネの黙示録14章16節) 12章からは、竜とその味方に対するキリストと教会の勝利の場面が描写されます。教会とこの世の戦いは、実はキリストとサタン(竜)の戦いであることが分かってきます。 まず、竜がキリストを滅ぼそうと試みますが失敗し、さらには戦いに敗れます。その結果、神がキリストにあってなさる救いが完成し、神の権威が明らかにされます(10節)。 14章に入ると、終わりの日の裁きが二重の鎌入れという象徴によって描かれます。ヨハネが見ていると、白い雲が見え、その上に「人の子のような方」が座しておられます。頭に金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持ち、刈り入れに取りかかられます。刈り取られるのは、主ご自身の民です。 他方、手に鋭い鎌を持った天使に、もう一人の天使が「地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している」と言うと、天使は地に鎌を投げ入れ、地のぶどうを取り入れます。地のぶどうとは、すべての悪しきものの象徴です。ちょうどぶどうの実が踏まれ、つぶされるように、悪は神の怒りによって永遠に滅ぼされます。神の激しい怒りは恐ろしいものです。しかし、その怒りを含めた御心が主の民に正義を見せてくださるものであることに安らぎを得ます。 【祈り】 主よ。地上での激しい霊の闘いの中にあって小羊の血を信じる私たちに正しい裁きをなさり、勝利を与えてくださることを感謝いたします。 Wed, 28 Dec 2022 00:10:00 +0000 この世の国は我らの主とメシアのもの(ヨハネの黙示録 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221228 no 2022 「この世の国は、我らの主と、 そのメシアのものとなった。 主は世々限りなく統治される。」 (ヨハネの黙示録11章15節) 11章には二人の証人が登場します。ヨハネはこの二人を燭台と呼びます。これは、ヨハネが全世界の諸教会を表すときに使う言葉です。つまりこの幻は、偶像礼拝をする国々に唯一のまことの神に立ち帰れと呼びかけ、人びとを悔い改めに導く真の教会を表していると考えられます。 ところが突然、恐ろしい獣が底なしの淵から上って来て、証人たちと戦い、殺してしまいます。そして、その亡き骸が都の大通りに晒されます。これは、反キリストが教会に戦いを挑んでそれを滅ぼすことを表しています。このように、キリストの再臨前になると、教会の証言がこの世によって沈黙させられ、教会が強力な宣教の組織としてはもはや存在しなくなってしまいます。それを見て、地上の人びとは大いに喜び、互いに贈り物をします。 しかし、喜ぶのはまだ早いのです。キリストが再臨されるとき、神は彼らをよみがえらせ、立派な証人として迫害者の前に立たせます。裁きの日に教会が再び命と誉れと力と栄光を受けるのを見て、この世は恐怖のあまり身動きできなくなります。本当に勝利を収めるのは信仰者なのです。この世の国は、私たちの主とキリストのものとなります。そして、主は、世々限りなく統治なさいます。 【祈り】 主よ。悪との闘いの絶えない私たちに、勝利を得させてくださるとの力強いお約束に感謝します。 Tue, 27 Dec 2022 00:10:00 +0000 巻物を受け取って食べてしまえ(ヨハネの黙示録 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221227 no 2022 すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」 (ヨハネの黙示録10章9節) 著者ヨハネは、「天使の手にある、開かれた巻物」を「受け取って、食べてしまえ」という天からの声を聞きます。「食べてしまえ」とは、「完全に消化して自分のものとせよ」という意味です。ちょうど食べ物がその人に入って彼の体の一部となるように、神の言葉が彼の中に入れられ、彼の言葉となるようにという意味です。 その巻物を食べると、「あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」と告げられます。これは何を意味しているのでしょうか。 神の言葉は、一方では「恵まれた」と言って感動し、喜ぶことができるものですが、食べるようにして黙想し、自分の日常生活に適用し、神に喜ばれる生き方をしようとするとき、腹に苦みを覚えることがあります。なぜなら、聖書は、神と出会い、神を知るためのものであると同時に、自分がそれによって変えられるためのものなのだからです。 神は、私たちを天の国に住む者としてくださいました。そして、それは終わりの日に完成しますが、それまでの間、神は、聖書の言葉によって、私たちキリスト者を天の国に入るのに相応しい者へと近づけてくださいます。日々御言葉をいただいて、聖化の道を歩ませていただきましょう。 【祈り】 主よ。御言葉をただ受け取るだけでなく、深く味わい、日々あなたの御言葉によって内側から造り変えられるようにしてください。 Mon, 26 Dec 2022 00:10:00 +0000 人を悔い改めに導く神と小羊の憐れみ(ヨハネの黙示録 7-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221226 no 2022 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」 (ヨハネの黙示録7章10節) 8章から11章の中心主題は、この世を震撼させる7つのラッパです。最初の5つのラッパは、エジプトに下された災いを彷彿とさせます。また、6つ目のラッパが鳴ると、4人の天使が放たれ、人間の3分の1が殺戮されます。しかし、出エジプト記でファラオが頑迷であったように、これだけ過酷な災いに遭ったにもかかわらず、生き残った人間は悔い改めませんでした(9章20、21節)。神の裁きに身をさらしても、人の心は頑なでへりくだることをしません。 7章で、ヨハネは輝かしい幻を見ていました。それは、玉座の前と小羊の前に永遠に住む勝利の教会です。あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、数えきれないほどの大群衆が白い衣を身につけて、神を賛美しています。玉座と小羊の前に立つとは、小羊と人格的な交わりを持ち、小羊に仕え、その誉れにあずかることを意味します。群衆が身につけている白い衣は喜びや祝福を、白い色は義と聖を象徴します。彼らは、「救いは玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と叫んで、神を賛美します。 裁きによっては悔い改めがたい私たちを小羊はなお愛し、自らの命を献げてくださいました。そこに小羊の勝利があります。 【祈り】 神よ。あなただけが私たちに白い衣を着せてくださいます。憐れみ深いあなたの救いに感謝いたします。 Sun, 25 Dec 2022 00:10:00 +0000 神に期待し信じて待ち続ける(ルカによる福音書 2章22-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221225 no 2022 「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」 (ルカによる福音書2章30節) クリスマスおめでとうございます。きょう、多くの教会でクリスマスの礼拝が献げられることでしょう。 幼子イエスがお生まれになった頃、神の神殿でメシアの誕生を待ち焦がれ、祈っている人がいました。ルカはシメオンとアンナを紹介しています。シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という聖霊のお告げを受け、そのときを待ち続けていました。アンナは女預言者。彼女も神殿で神に仕え、メシアの誕生を待っていました。二人とも、神の言葉を信じ、神に期待して、礼拝しながらメシアの誕生を待ち続けていたのです。 ところで、私たちには、彼ら以上のことが示されています。それはメシアの誕生、十字架と復活によって救いの御業が完成したということです。その意味では、私たちは待つ必要がありません。必要なのは、成し遂げられた救いが私のためと信じ、受け入れることです。 そして、神の御業は、御国の完成を目指してさらに続いています。ですから私たちもまた、神に期待して待つ必要があります。やがて完成する神の国の祝福にあずかるその日まで、私たちも、神の教会で、神と隣人に仕え、待つことが求められています。 【祈り】 神よ、感謝します。救いの御業が完成していることを。やがて御国が完成することを。今、あなたが共にいてくださることを。 Sat, 24 Dec 2022 00:10:00 +0000 平和の王の誕生(イザヤ書 11章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221224 no 2022 その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。 そのとどまるところは栄光に輝く。 (イザヤ書11章10節) 今年は本当に辛い一年でした。コロナ禍、気候変動、政治の腐敗、ウクライナにおける戦争。心を痛めずにおれない、辛い出来事が続いています。人間の罪深さ、平和の尊さ、そして平和を実現することの難しさを今、痛感しています。 イザヤ書11章は救い主誕生の預言であり、平和と希望のメッセージです。当時世界で圧倒的な力を誇り、周辺諸国を支配していたのはアッシリア帝国。イスラエルはその力の前になすすべもなく、絶望的な状況でした。そのようなとき神は、イザヤを通してエッサイの子孫、ダビデの家系から出る若枝、メシアの誕生を予告します。この方こそダビデの末から誕生する救い主キリストです。 6節から9節には、考えられないような状況で、動物たちが平和に共存する姿が描かれています。ここから、神の国の完成の姿、この方の実現する平和がどのようなものであるか想像することができます。 絶望的な状況の中で悩まされていた当時の人びとにとっても、また今、この時代を生き悩んでいる私たちにとっても、これは希望のメッセージです。「その日が来れば…」、「その日」は神の御子の誕生と共に実現し始めています。 【祈り】 神よ、感謝します。平和の主であるキリストが来てくださったことを。今、苦しんでいる人びとの上に、主の憐れみを願い、祈ります。 Fri, 23 Dec 2022 00:10:00 +0000 人間の存続を願う神の愛(創世記 3章1-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221223 no 2022 「彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」 (創世記3章15節) きょうの聖書箇所は、クリスマスにそぐわないと思われるかもしれません。しかし、クリスマスにぜひ読みたい御言葉です。神の御子が地上にお生まれになったのは、私たち人間を「罪」から救うためだからです。 最初の人アダムとエバが神に背を向けたとき、神は人間を救う方法をお定めになりました。それが創世記3章15節、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」です。女の子孫からサタンを倒すものを与えるという約束です。神は人間が神から離れたそのときに、救い主の誕生と十字架による救いの道を備えられたのです。 それから長い時を経て実現したのがクリスマスの出来事、神の御子の誕生です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)。神から離れ、罪に苦しむ私たちのために、神は、御子を世に送ってくださいました。 以前、ある青年に「神は背を向けた人間を何故リセットしなかったのか」という質問を受けたことがあります。私たちはいろんなことを簡単に諦めます。しかし神はそうではありません。ご自身がお造りになった人間を、忍耐をもって愛し続け、再び神と共に生きる道を備えられたのです。 【祈り】 神よ、感謝します。私があなたに背を向けても、愛を注ぎ続け、御子を送ってくださったことを。 Thu, 22 Dec 2022 00:10:00 +0000 聖徒の祈りは確かに聞き届けられる(ヨハネの黙示録 6章-8章5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221222 no 2022 …この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。 (ヨハネの黙示録8章3節) 6章からは、7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢について記されています。そのどれもが、正義に溢れる神の国が、天にあるように、この地上にも到来することを描いています。 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殉教した聖徒の魂を、ヨハネは祭壇の下に見ました。彼らは「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と大声で叫びました(6章10節)。彼らの祈りは聞かれないかのようです。 しかし、小羊が第七の封印を開いたとき、金の香炉を持った天使が祭壇のそばに立つと、香の煙は天使の手からすべての聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上りました(8章1~4節)。この香の煙は、地上で迫害を受けているご自身の教会のための、救い主による天上での執り成しを意味します。その執り成しによって彼らの祈りを聞き入れられ、神は地に裁きを下されます。 迫害と艱難のただ中で祈る聖徒たちの祈りは、救い主の執り成しをいただいて、天において確かに聞かれます。私たちの祈りも必ず聞かれます。そのことを確信して、きょうも祈りを篤くする一日となりますように。 【祈り】 主よ。聞かれているか分からないと思える祈りも、あなたが確かに聞き届けてくださっていることを感謝します。 Wed, 21 Dec 2022 00:10:00 +0000 冠を御前に投げ出してささげる礼拝(ヨハネの黙示録 4-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221221 no 2022 24人の長老は、…世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。 (ヨハネの黙示録4章10節) 著者ヨハネは、神の声を聞くと、霊に満たされて、開かれた天に玉座が設けられ、神がそこに座っておられるのを見ました。これは、万物が御座におられる主によって支配されていることを象徴します。その万物の中に、私たちの試練や苦難も含まれます。教会がこの地上で味わわなければならない試練や苦難について預言される前に、まず全宇宙を支配しておられる真実なる神、全能者なる神の御座が描写されます。 その玉座の周りに白い衣を着て金の冠をかぶった24人の長老が座っていました。この長老たちは、贖われた人たちすべてを象徴しています。玉座に着いておられる方の前に彼らはひれ伏し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して神を賛美します。 この長老たちは、生涯にわたり主イエスへの信仰を貫き通し、御国に入れられたとき、栄冠をいただきました。彼らはその冠を主イエスの前に投げ出して言います。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。 私たちも、深い謙遜の思いをもって神を崇め、御前にひれ伏す者とならせていただきましょう。 【祈り】 主よ。あなたの気高い御旨こそ、万物が存在するための究極的な根拠であることを、分からせてください。 Tue, 20 Dec 2022 00:10:00 +0000 キリストとの食事によって熱くされる(ヨハネの黙示録 2-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221220 no 2022 「見よ、…だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 (ヨハネの黙示録3章20節) 主イエスは、ラオディキアにある教会に「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15、16節)と言われます。 そのなまぬるさの原因はどこにあるのでしょう。彼らは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言って、自分たちの裕福さを誇っていました。それが、霊的な豊かさでもあると錯覚し、キリストさえ必要としない「なまぬるさ」に陥っていたのでした。 私たちはどうでしょう。生活に困っているときには毎日熱心に祈るのに、祈りが聞かれて経済的に満たされ続けると、安心しきって祈らなくなるということはないでしょうか。 私たちを本当の意味で豊かにすることができるのはキリストのみです。キリストの恵みでいっぱいになるように、御言葉によって罪に気づかされ、謙遜になれるように「わたしから買うがよい」と言ってくださいます。 キリストとの交わりを回復するとき、私たちの心は再び燃え上がり、神に対して熱心になることができます。キリストがあなたの戸をたたいてくださいます。心の扉を開いて、キリストと共に食事をしましょう。 【祈り】 主よ。あなたに心の扉を開きます。私のうちに入ってあなたの霊で満たし、熱い心をお与えください。 Mon, 19 Dec 2022 00:10:00 +0000 中央におられるキリスト(ヨハネの黙示録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221219 no 2022 わたしは、語りかける声の主を見ようとして…振り向くと、7つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、… (ヨハネの黙示録1章12節~13節) ヨハネは、神の言葉と主イエスの証しのゆえに流刑にされたパトモス島で、よみがえりのイエスが王として高く上げられている幻を見ました。 ヨハネが振り向くと、7つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおられました。それは、ヨハネに大きな喜びをもたらしました。かつて、その胸もとに寄りかかったことのある主イエス、まぎれもなくあの主イエスです。しかも、地上で辱めを忍ばれた日々の主イエスではなく、荘厳なお姿でおられます(12~16節)。だから「人の子のような方」と書かれています。 7つの金の燭台は7つの教会を指します(20節)。7は完全を象徴するので、7つの燭台は、世の終わりに至るまでの全教会を指すと考えられます。その中央に主イエスがおられます。主は、いつも私たちと共におられます。 ヨハネの黙示録は、いつ世界が終わるかについての秘密の暗号めいた予言ではありません。世の歴史、とりわけ教会の歴史に関わる神のご計画の啓示です。それを、主イエスがヨハネを通して教会にお示しになりました。黙示録によって、主イエスは、悪の力と戦っている教会、迫害を受けて苦しんでいる私たちキリスト者に助けと慰めを与えてくださいます。 【祈り】 主よ。あなたを慕いあなたにお従いする私たちに、黙示録の言葉を通して慰めと励ましをお与えください。 Sun, 18 Dec 2022 00:10:00 +0000 勇み歌わん、主を愛する、愛をば愛をば(雅歌 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221218 no 2022 大水も愛を消すことはできない … 愛を支配しようと 財宝などを差し出す人があれば その人は必ずさげすまれる。 (雅歌8章7節) 愛が自由なる翼を広げて、人間を包むとき、この世界がいかなる悪に覆われていても、生きるに値するものであることを教えてくれます。しかし、ひと度、愛を自らの手のひらに囲おうとするとき、愛はその人から見えなくなり、ゆえに、この世界を物憂いものとしてのみ映し出します。 恋しい人を待つおとめの愛の歌に心を寄せてきました。おとめの愛は炎が燃え上がるような情熱と、不安を煽り立てる衝動を含み持っていました。愛が遠くにしか見えないとき、寂しさがおとめを死へと誘ったこともありました(6章11節)。愛と価値を等しくするものは何もないから、その身をかけようとしたのでした。 愛は歓びも哀しみもそれらをより鮮明に現わす強い力を持っています。そして、その偉大な力をもって、人間が本当に見つめるべきものを教えてくれます。恋しい人イエスです。 私たちの日々には、「大水が喉元に達しました」(詩69編2節)というような生き地獄、死を思う過酷さがあるにも関わらず、私たちは天を見上げることをやめません。主イエスと共に歩み続けます。愛は決して滅びないからです。愛が私たちを導くからです。今を越えて永遠へと、地上を越えて天へと。さあ、クリスマスが近づいてきました。恋しい人の到来に、共に愛の歌をささげましょう。 【祈り】 主よ、あなたの愛を歌いながら、天に続く道のりを歩ませてください。 Sat, 17 Dec 2022 00:10:00 +0000 御言葉を信じて命を受ける(ヨハネによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221217 no 2022 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネによる福音書20章31節) ヨハネによる福音書は、七つのしるしを軸にして、主イエス・キリストのこと、この方が神の子メシアであることを証ししています。30節には、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」とあります。つまり、著者のヨハネはここまで語ってきた七つのしるしのほかにも、主イエスが多くのしるしをなさったことを知っています。 ヨハネは七つのしるしと共に、主イエスの十字架と復活を証ししています。十字架と復活はしるしではなく、神の大いなる救いの御業そのものです。 ヨハネがこれらのことを書き記したのには、はっきりとした目的がありました。それはこれを読む人たちが、イエスは神の子メシアであると信じるようになるためです。御言葉によって信じることができ、ただ信じることによって「イエスの名により命を受ける」ことができます。この命が永遠の命です。 ですから、教会は聖書から御言葉を語り続けます。こうして、この『リジョイス』を通して、御言葉に聞き続けているのもこのためです。間もなく訪れるクリスマスの時が御言葉を聞いて信じて命を受ける時となりますように。 【祈り】 主イエスのしるしと十字架と復活の御業を見た人たちの言葉を通して、信じて命を受ける者としてください。 Fri, 16 Dec 2022 00:10:00 +0000 見ないで信じる幸い(ヨハネによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221216 no 2022 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネによる福音書20章29節) 復活された主イエスはトマスに最後に言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と。主イエスは、「あなたは、本当は見ないで信じるべきだった」と、トマスの不信仰を責めておられるのでしょうか。そうではありません。実は他の弟子たちもみんな見るまでは信じませんでした。彼らは「わたしたちは主を見た」と証言しています。ヨハネ福音書そのものが、主イエスを見て信じた人たちの証しとして記されているのです。 ヨハネ福音書は、主イエスを見て信じた人たちの証しを聞いて、主イエスを信じる人たちのことを知っています。彼らは主イエスを見ていません。その人たちは、主イエスを見た人たちの証しを聞くことによって、主イエスをこの肉の目で見ることなく、信じます。主は十字架の死の前に、「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と祈っておられます(17章20節)。 ここで御言葉を聞いて信じる人たちとは誰でしょうか。それは教会に生きる人たち、私たちのことです。私たちは証しの言葉である聖書、礼拝で御言葉の説教を聞いて信じています。それは本当に幸いなことなのです。この幸いを生きましょう。 【祈り】 神よ。御言葉を聞いて、主イエスを信じて歩む幸いを生き続けることができますように。 Thu, 15 Dec 2022 00:10:00 +0000 十字架のキリストを見るために(ヨハネによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221215 no 2022 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。」…ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 (ヨハネによる福音書19章4節~5節) 主イエスは十字架にかけられる前に、ポンテオ・ピラトのもとで裁判にかけられます。ピラトは、主イエスが無罪であることに気づいていました。主イエスをなんとか釈放しようと試みますが、うまくいきません。そこで主イエスを群衆たちの前に引き出します。主イエスは、茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せられて、群衆たちの前に立たせられます。ユダヤ人の王の格好をさせられて嘲笑されたのです。ピラトは、群衆たちの前に出て来てこう呼びかけます。「見よ、この男を」。ピラトは「この人は、無力で弱い人ではないか。死刑にする必要などない」と言ったのです。 「見よ、この男を」。これは「エッケ・ホモ(見よ、この人を)」というラテン語の言葉で知られています。この言葉は戯曲の題になり、書物の題になり、また讃美歌にもなった不思議な言葉です。「まぶねの中に、うぶごえあげ…、この人を見よ」(讃美歌121番)は由木康牧師が作詞された讃美歌です。 ピラトはこの時の自らの口から出た言葉が、このようになるとは思ってもいなかったでしょう。しかし、神はこのピラトの口を通してもお語りになられました。神は私たちにもきょう、新しく語りかけられています。「見よ、この人を」と。 【祈り】 神よ、十字架のイエスを私たちが御言葉に従って本当に見ることができるように目を開いてください。 Wed, 14 Dec 2022 00:10:00 +0000 独り子主イエスが上げられる(ヨハネによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221214 no 2022 「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 (ヨハネによる福音書12章31節~32節) ヨハネ福音書は12章から主イエスが十字架にかけられ、復活される1週間の出来事を語っています。十字架と復活は神の救いの御業そのものであり、しるしではありません。しるしが指し示していたものです。 主イエスはここまで何度も「わたしの時はまだ来ていない」と語られてきましたが、主イエスは今こそ時が来たと語り始められます。 主イエスと父なる神の支配がこの世において確立されるようになります。神の支配が実現することをとおして、私たちの救いが実現します。そのために神の独り子主イエスは「地上から上げられる」のです。 主イエスが「地上から上げられる」とは、十字架にかけられ復活されることを意味しています。ヨハネ福音書では、キリストは復活され、天に昇られて、はじめて地上から上げられるのではありません。十字架においてすでに神の栄光があらわされ、そこで地上から上げられます。そして、上げられたキリストは、私たちを引き寄せられます。 英国の説教者スポルジョンは、この御言葉からの説教に「マーベラス・マグネット」、「すばらしい不思議な磁石」という題をつけました。この私もあなたも、この磁石によって引き寄せられて信じる者とされました。 【祈り】 主イエスは地上から上げられました。そして、私たちを引き寄せられます。そのことを感謝します。 Tue, 13 Dec 2022 00:10:00 +0000 最後にして最大のしるし(ヨハネによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221213 no 2022 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 (ヨハネによる福音書11章43節) 主イエスは、この福音書で七つのしるしを行われました。そのクライマックスがこのラザロの復活です。このしるしは、最後の七つ目のしるしであり、また最大のしるしです。 ラザロが重い病気にかかっていることが、その姉妹であるマルタとマリアによって主イエスに伝えられ、主イエスはラザロのところに行かれます。しかし、彼はすでに死に、墓に葬られて4日もたっていました。主イエスは人びとの悲しみを受け止められ「心に憤りを覚え」られ、「涙を流され」ます。ラザロが葬られている墓に来られ、そこで父なる神に祈りをささげられます。そして、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれます。 このときの主イエスの大声をある人は「神の愛の大声」と呼んでいます。私たちを支配し、恐れと不安に陥れ、絶望させようとする死の力への激しい憤りがこの大声です。その声によってラザロは生き返り、墓から出てきました。しかし、ヨハネ福音書はラザロが墓から出てきたと言うのではなく、「死んでいた人が」出てきたと言います。主イエスが来られて、死の力と戦うことによって、死んでいた人が復活し、新しい命を生き始めました。主イエスは、私たちを愛して同じようにしてくださいます。死の力に勝利される主をたたえます。 【祈り】 父なる神、あなたは愛なるお方です。そのことを主イエスにおいて示してくださったことを感謝します。 Mon, 12 Dec 2022 00:10:00 +0000 過去でなく未来を見て生きる(ヨハネによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221212 no 2022 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (ヨハネによる福音書9章3節) 主イエスは、生まれつき目が見えなかった人をいやされ、その目を見えるようにされました。それが主イエスのなさった六つ目のしるしです。 主は生まれつき目の見えない人をじっと見つめられます。そのとき、弟子たちは尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と。病気や生まれながらの障がいは、罪への罰であると当時の人びとは考えていました。 今の私たちは病気や障がいをそのようには考えていません。けれども、今の私たちは誰が罪を犯したかを問わなくても、別の問いを抱きます。それは「どうしてこうなったか」という問いです。特に自分や自分の家族、親しい人のことになると、どうしてかと原因を問うのです。なぜこんな目に合わなくてはならないのかと不条理な現実に苦しみ悩み、その原因を問います。 主イエスは私たちのこの問いに対しては答えられません。ただ「神の業がこの人に現れるため」とだけ言われます。ここで主は、原因ではなく、私たちの目をこれから行われる神の御業に向けられます。過去ではなく、これから、未来に向けてくださいます。主がおられ、善き導きを与えてくださるからです。 【祈り】 主よ、あなたは私たちの目を、過去ではなく未来に向けてくださいます。希望に生きる者としてくださいます。 Sun, 11 Dec 2022 00:10:00 +0000 歩みを一つ経るたびに愛を信じて(雅歌 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221211 no 2022 エルサレムのおとめたちよ、誓ってください 愛がそれを望むまでは 愛を呼びさまさないと。 (雅歌8章4節) おとめは「愛がそれを望むまでは」と、これまでに二度繰り返した言葉を最後にもう一度、発します。同じ言葉は発せられるたびに、その意味を深め、ここに辿り着きました。 最初に、その言葉が発せられたとき(2章7節)、おとめの心は恋しい人を待ち望む期待と不安を織り交ぜながら、周囲に騒ぎ立てないことを求めました。無邪気な冷やかしに愛が壊れてしまうことを恐れたのです。 2回目に、その言葉が発せられたとき(3章5節)、おとめの心は現実感のない勇気に背中を押され、自分の力で愛を成就させてみせるという気迫に満ち満ちていました。愛はもう目の前にあるようにさえ思えて。 しかし、愛を意のままに手にできないという挫折の先に、3回目、その言葉が発せられたとき、おとめの心に残されていたのは、愛それ自体の力を信じることだけでした。恐れることも、根拠のない安心に破れることも経験して、おとめの心は今、愛が自ら望み、成就へと動き出す時を見つめます。愛は手繰り寄せるものでも、ただ待つものでもなくて、信頼するものであることを知ったからです。 そんなふうに主を待つ私たちの心も、歩みを一つ経るたびに余計なものがはぎ取られ、澄んだ信頼だけが残されればいいのにと願わされます。 【祈り】 主よ、あなたを待つことで、自分のいろいろな心を知りました。そして、今はただ、あなたの愛を信じます。 Sat, 10 Dec 2022 00:10:00 +0000 恐れから解き放たれて生きる(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221210 no 2022 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 (ヨハネによる福音書6章20節) パンの奇跡の後、弟子たちは舟に乗ってカファルナウムに向かいます。この時は、弟子たちだけで舟に乗り込み、対岸に向かいました。そこへ強い風が吹いて来て、湖が荒れ始めました。すると主イエスが湖の上を歩いて近づいて来られます。そのとき「彼らは恐れた」と語られています。弟子たちが恐れたのは何故でしょうか。主イエスが、漕ぎ悩んでいた彼らのところに近づいて来られたのです。喜んでもよかったと思いますが彼らは恐れました。 主イエスはここで「わたしだ。恐れることはない」と言われます。この御言葉こそ、第五のしるしの中心です。「わたしである」という言葉は、ヨハネ福音書では特別な言葉です。「わたしは命のパンである」、「わたしはよい羊飼いである」など、「わたしは~である」という言い方で主イエスはご自身のことを証ししておられます。「わたしである」は、モーセが神に召されたとき、神の名を問うたときの神の答えでもあります(出3章14節)。つまり、このとき、主はご自分が神であることを、ご自身の本来の姿を示されました。だから恐れたのです。 しかし、主は「恐れることはない」と語られます。主イエスが私たちを恐れから解き放ち、神の前に立たせせてくださいます。 【祈り】 聖なる神よ。主イエスのゆえに、恐れることなく、あなたにお仕えすることができますように。 Fri, 09 Dec 2022 00:10:00 +0000 驚くべき豊かなみ恵み(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221209 no 2022 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 (ヨハネによる福音書6章11節) 主イエスはガリラヤ湖の向こう岸で、男だけで5千人の人びとをわずか5つのパンと2匹の魚で養われます。これが四つ目のしるしです。このしるしもまた、主イエスが、神の独り子であり、私たちの救い主であることを示しています。そして、このしるしは、主イエスがどのような救い主であるのかをも示しています。 主イエスはご自分の方へ大勢の群衆が来るのを見て、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われます。群衆は男だけで5千人、女性や子どもたちを入れたら数倍の人数であったでしょう。フィリポはすぐに算盤をはじいて「足りないでしょう」と結論します。もう一人のアンデレはストックを計算し、これだけでは「何の役にも立たない」と語ります。これが人間の判断でした。しかし、主イエスは違います。「分け与え」、「欲しいだけ分け与え」られます。 主イエス、この方は、私たちが真に必要とするものは豊かに分かち与えようとされます。主イエスの豊かさ、その恵み深さは驚くばかりです。限界はありません。 主イエス、この方は私たちの魂に必要な霊の糧を与えてくださるお方です。またこの方は、日々私たちの必要な肉の糧をお与えくださいます。 【祈り】 救い主イエスよ。日々、私たちの霊肉に必要なものを与えてくださることをきょうも感謝します。 Thu, 08 Dec 2022 00:10:00 +0000 十字架の死を指し示す(ヨハネによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221208 no 2022 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。 (ヨハネによる福音書5章18節) エルサレムに上られた主イエスは、ベトザタの池で38年もの間、病気のために横たわり続けていた人をいやされます。「起き上がり、床を担いで歩きなさい」と命じられると、この人は床を担いで歩きだしました。これが三つ目のしるしです。このしるしで大切なことは、いやしそのものだけではなく、その後のことです。 主がこの人をいやされたのは安息日でした。そのためにユダヤ人の指導者たちは、このことを問題にします。安息日に、床を担いで歩くことは、労働に当たり、律法違反だとみなして、このいやされた人を尋問します。この人は、もう一度、主イエスと出会った後、主イエスのことを指導者たちに話してしまいます。16節にはそのために「迫害」が始まったとあります。さらに主イエスは、安息日にいやしの業を行うことについてこう言われます。「わたしの父は今なお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と。続いて「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」とあります。 イエスは罪を背負って十字架にかかって死なれる救い主です。そのことが見え始めています。この三つ目のしるしが行われたベトザタの池は「羊の門」の傍らにありました。羊の門は犠牲の羊が犠牲になるときに通っていく門なのです。 【祈り】 主の十字架の死によって罪の赦しの道が拓かれました。感謝します。 Wed, 07 Dec 2022 00:10:00 +0000 御言葉を信じて生きる(ヨハネによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221207 no 2022 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 (ヨハネによる福音書4章50節) カナで息子のいやしを求めてやって来た父親に主イエスは言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見ないと信じない」と。主イエスはこの父親の願いを拒まれるかのようです。しかし、父親はなおも「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願います。すると主イエスは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と御言葉のみを与えられます。 その御言葉を聞いて父親はどうしたでしょうか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」というのです。すると、帰り道で息子のいやしの知らせが届きました。熱が下がり、いやされた時刻は、主が御言葉をお与えになった時刻と同じでした。これが二つ目のしるしです。 主イエスはしるしを繰り返しお示しくださいましたが、しるしを見て信じるあり方には批判的でした。ここでは「しるしや不思議な業を見たら信じる」というのとは全く違うことが起こっています。父親は主イエスから御言葉が与えられ、その御言葉を信じて従っています。これが救いにあずかる信仰です。見て信じるのではなく、御言葉を聞いて信じる信仰です。主は私たちをきょうも御言葉を聞いて信じる信仰に招かれています。「見ないのに信じる人は、幸いである」と(20章29節)。 【祈り】 しるしや不思議な業を見てではなく、御言葉を聞いて信じて従う者としてください。 Tue, 06 Dec 2022 00:10:00 +0000 最初のしるし「喜び」(ヨハネによる福音書 2-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221206 no 2022 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 (ヨハネによる福音書2章11節) 主イエスが弟子たちを連れて始められた伝道の働きの最初の出来事です。主イエスは弟子たちを連れて、ガリラヤのカナで結婚式に出席されました。そこで、振る舞われるはずのぶどう酒が足りなくなってしまいましたが、主イエスは水をぶどう酒に変えられます。 ヨハネ福音書は、この主イエスの御業を「最初のしるし」と呼んでいます。神がこれから行おうとなさっている救いの御業、神の栄光がどのようなものなのかが、この最初のしるしによって示されています。 病人をいやし、死者を生き返らせる、というような人の目を惹くような大きなしるしではありません。主イエスが行われたしるしの中ではとても小さなしるしでしょう。しかし、このような御業が最初のしるしとして行われたことに心惹かれます。 カナの婚礼の出来事は結婚式の式文の祈りでも触れられています。結婚という極めて人間的な出来事、そこで最初のしるしが行われたのです。主の救いは私たちの生活と深く関わっていることを示しています。また何よりも結婚式は「喜び」をあらわします。このことによってこれから主がなさる御業の中心にあることが何よりも「喜び」であることが示されています。ハレルヤ 【祈り】 主イエスよ、感謝します。あなたの救いの御業は、私たちにこの上ない喜びを与えるものだからです。 Mon, 05 Dec 2022 00:10:00 +0000 しるしをとおして見るもの(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221205 no 2022 「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」 (ヨハネによる福音書1章51節) ヨハネによる福音書は、主イエスのなさった奇跡を奇跡とは呼ばずに「しるし」と呼びます。これはこの福音書にだけ見られる独特な表現で、合わせて七つのしるしが語られていて、これらの「しるし」が軸となって、主イエスのご生涯が語られています。 「しるし」は示しているものがあるということを意味しています。ですから、「しるし」そのものではなく、それを超えて、それが指し示しているものを見なければなりません。それは何なのでしょうか。 43節以下にはフィリポが、イエスをメシアとは信じようとしないナタナエルにこう語りかけます。「来て、見なさい」と。そして、1章の最後で主イエスは「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われます。 主イエスを信じる者たちは、その旅路の中で天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見るようになります。人の子とは、主イエスのことです。主イエスこそ、天の門であり、天と地、神と人間をつなぐ階段であることをこの福音書を通して私たちは見ることができます。なんとすばらしいことでしょうか。主イエスのもとに来て神の偉大な救いの御業を見ようではありませんか。 【祈り】 神の独り子イエスよ。私たちが、あなたのもとに行き、あなたの救いの御業を見ることができますように。 Sun, 04 Dec 2022 00:10:00 +0000 夜ごと求めて探してでもきっと(雅歌 3-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221204 no 2022 夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても 求めても、見つかりません。 起き出して町をめぐり 通りや広場をめぐって 恋い慕う人を求めよう。 (雅歌3章1節~2節) 幾つの夜を越えてゆけば、恋しい人は再び来てくれるだろう。おとめの焦がれる思いに祈りを合わせます。 過去の甘美な記憶は、あの人が今いないという辛さを突きつけもします。待つことは痛く苦しいことでもありました。疲れ果て、床に伏し、気づけば夢の世界に落ちてゆく、そんな夜がありました。そこでようやく恋しい人を見つけられます。「もう離しません」と夢の中のおとめは悲しいほど大胆にその愛を表すことができます(3章4節)。「愛する者よ、愛に酔え」という招きに素直に応えることもできます。けれども、人は夢の中に留まり続けることはできません。いつか目覚めなければいけない。歓喜の中で意識を覚醒させてゆくおとめは家の戸を叩く音に気づくのでした(5章2節)。それが新たな夢であるのか現であるのか。見極めることができないままに、おとめはやっぱり臆病になって、ためらい、そうしているうち、恋しい人は去ってしまいます(同6節)。それから、また、「わたしは恋しいあの人のもの」という言葉だけを胸に、長い夜を越えてゆくのです(6章3節)。 私たちの日々にも、主を見つけられない、そんな夜があります。そんな夜があってもいいことを、私たちは朝が来た時にきっと教えられます。 【祈り】 主よ、あなたを求めて、探して、見つけられなくて、でも今もきっと共にいてくださることを信じています。 Sat, 03 Dec 2022 00:10:00 +0000 罪がもたらす土地の荒廃と真の安息(歴代誌下 10-36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221203 no 2022 こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、…その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、70年の年月が満ちた。 (歴代誌下36章21節) ソロモン王の死後、王国は南北に分裂し、ソロモン王が神殿奉献のときに祈りの中で列挙した罪が現実となってしまいます。正しい王の治世も束の間、神への誠実な生き方は失われ、とうとう罪は極みに達します。ついには新バビロニア帝国のネブカドネツァルによって神殿は破壊され、エルサレムは荒廃してしまいました。ペルシア王キュロスによって解放されるまで、エルサレム住民の主だった人びとはバビロンに連れていかれてしまいます。 この出来事について、歴代誌は「その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、70年の年月が満ちた」と表現しています。土地は戦火によって荒廃したにもかかわらず、それまでそこを治めていた人びとがいなくなって、地は安息を得たというのです。何と皮肉なことでしょう。 使徒パウロは、被造物が抱く希望について、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」と述べています(ロマ8章21節)。一時の安息ではなく、被造物全体が味わう真の安息は、イエス・キリストを通して実現します。 待降節を過ごす今、このキリストを通して神の子とされた恵みの持つ意味の大きさを思います。 【祈り】 主よ、私たちを罪から解放し、あなたの子として受け入れてください。被造物全体に安息がありますように。 Fri, 02 Dec 2022 00:10:00 +0000 神殿は罪を告白し赦される場所(歴代誌下 1-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221202 no 2022 僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。…天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。 (歴代誌下6章21節) 歴代誌下の最初の9章は、ソロモン王の業績が記されています。その中でも神殿建築に関わる記事がこれらの章のほとんどを占めています。 神殿が完成し、神にこの神殿を奉献するにあたってソロモンは長い祈りを神にささげます。その祈りの中で繰り返し出てくる言葉は「罪を赦してください」という願いです。これから自分たちが陥るかもしれない罪を数え上げ、自分たちがその罪を認めて主に立ち帰り、神殿に向かって祈るなら、赦してくださいと祈ります。神が約束を忠実に守り、実現してくださるお方であるのに対して、人はこの神に対して不誠実を繰り返す欠けと弱さをもった存在であることをソロモンは見抜いています。 ソロモンは立派な神殿を完成させますが、この建物の存在が自動的に人びとの罪を拭い去るとは少しも考えていません。人びとがいつでも自発的にこの神殿に来て罪を告白し、神に立ち帰って赦されることを願っています。 ソロモンの時代から何世代も後に活躍した預言者エレミヤは、形骸化したイスラエルの宗教を批判してこう言いました。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(エレ7章4節)。心からの礼拝だけが、罪の赦しの確信をもたらすことができるのです。 【祈り】 神よ、打ち砕かれ悔いる心をお与えください。 Thu, 01 Dec 2022 00:10:00 +0000 王が発する一言の重みと罪深さ(歴代誌上 10-29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221201 no 2022 ダビデは、「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに」と切望した。 (歴代誌上11章17節) 歴代誌上10章以下にはダビデ王の功績が記されています。数あるダビデの話の中で、地味ではあるものの注目に値する逸話があります。 あるとき、ダビデは「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに」と、深く考えもせずに自分の願いを口にします。ダビデに仕える3名の勇者は、命がけで敵陣を突破し、ダビデが所望する水を汲んできます。これにはさすがのダビデもこの水を飲むことができませんでした。「わが神よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません」と言って、自分の軽率な発言が部下の命を危険に晒したことを悔います。上に立つ者の言葉の重みを知ったダビデでした。 ところが、同じダビデはバト・シェバとの不倫が発覚しそうになったとき、熟慮の末、夫のウリヤを戦いの最前線に追いやり、戦死させてしまいます(サム下11章)。一方では命の尊厳を知るダビデであると同時に、他方ではそれを軽視するダビデです。罪ある人間は、まさにそのような矛盾を抱えて生きています。そういう罪の問題に先ず気が付くことが大切です。それと同時に、それだからこそ、私たちには罪を解決してくださる救い主が必要なのです。 【祈り】 主よ、矛盾を抱えた罪深いわたしを憐れんでください。あなたの救いにあずからせてください。アーメン Wed, 30 Nov 2022 00:10:00 +0000 系図に見える人間の罪と救いの恵み(歴代誌上 1-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221130 no 2022 アダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラルエル、イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、ヤフェト。 (歴代誌上1章1節~4節) 歴代誌上は長々とした系図で始まります。私たちにとっては記号のように見えるこの名前も、本人やその周りに生きた人たちにとっては、この地上に生を受けた証です。 神が人をお造りになったとき、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と神は人を祝福されました。しかし、罪を犯した人類は、全地に満ちて広がるよりも、一つのところに結集し、天まで届く塔を建てようと試みました。神はこの人間の計画を打ち砕かれ、人間を全地に散らされました。人が全地に満ちるようになったのは、皮肉にも神の祝福の結果ではなく、強制的に散らされていったからでした。しかも、その行く先々で罪もまた蔓延していきます。 けれども、アダムから始まるこの系図は、人間の罪を思い起こさせるだけではありません。広がって行く系図は、やがてアブラハム、ダビデ、さらにはその子孫へと集中していきます。さらに時代を降ると、その末裔から救い主イエス・キリストが誕生します。そして、散らされていった人びとの子孫たちもまたこのお方によって神の救いの恵みにあずかります。 深い傷跡を残した罪の歴史は、神の恵みによって克服されていきます。この系図の延長線上にあなたがいてわたしがいるのです。 【祈り】 神よ、あなたの恵みを感謝します。あなたの救いの系図にわたしの名前も加えてください。アーメン Tue, 29 Nov 2022 00:10:00 +0000 主の御心は決して変わることはない(マラキ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221129 no 2022 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 (マラキ書3章23節) 主がくださった掟を離れ、罪のただ中を生きていると、心も行いも悪くなるばかりです。主は、そのようなイスラエルの民をよくご存じでした。彼らの心にある主に対する不信感。また、どのような言葉でご自分に反論してくるのかを。主は彼らの罪に対して毅然と対処するため審判があることを隠さずに伝えました。 なぜ、厳しい審判の現実を伝えるのでしょうか。イスラエルの民を懲らしめるためでしょうか。もう彼らは主との交わりの内に歩めないのでしょうか。そうではありませんでした。主は常に、イスラエルの民が立ち帰るように願っておられます。だから、「恐るべき主の日が来る前に」主の御心を伝える預言者を遣わすと約束されるのです。主の御心は、「立ち帰れ、わたしに」(7節)、「必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(10節)、「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」(12節)によく表れています。主は私たちの神となり、自分の民を愛するという約束を今も果たされるのです。 「まことに、主であるわたしは変わることがない」(6節)と言われる神こそ賛美されるべきお方です。 【祈り】 主よ、私たちの神となり、変わらずに私たちを愛してくださるあなたを見失わないようにさせてください。 Mon, 28 Nov 2022 00:10:00 +0000 主はあなたを愛しておられた(マラキ書 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221128 no 2022 わたしはあなたたちを愛してきたと 主は言われる。 しかし、あなたたちは言う どのように愛を示してくださったのか、と。 (マラキ書1章2節) 主を信じて信仰生活を送り始めてから今日に至るまで、自分が思い描く理想の姿と離れていることに嫌気がさしたことはありませんか。初めて主の愛と救いの恵みを知って洗礼を受けた。主への信頼から信仰告白をした。それにもかかわらず、全く変わっていないように思える。信仰生活が惰性的に進んでいるように思えて仕方ないこともあります。 イスラエルの民も、エルサレム神殿再建時に聞いた約束が少しも実現せず、思い通りにならない経験をしました。そのため信仰生活に陰りが生じます。次第に主への不満が強くなり、信仰生活が堕落したのです。祭司は腐敗し、主への献げ物にも心が伴わない。異教徒との関わりから聖書の掟を忘れ、主が与えてくださった家族を裏切るまでに堕ちてしまいました。「主の約束はどうなってしまったのか」との疑問は、やがて主に対する反論を生じさせ、主の語りかけに対しても論争的で聞く耳を持とうともしなくなります。「どのように愛を示してくださったのか」と。 主は預言者マラキを通して、ご自分から離れて罪に留まり続ける民の姿を指摘しつつも、「わたしはあなたを愛してきた」と語りかけます。私たちに対する主の愛は、これまで途切れることなく注がれていたのです。 【祈り】 主よ、あなたの約束が実現していないように思える時にも、あなたの愛を思い出せるようにしてください。 Sun, 27 Nov 2022 00:10:00 +0000 恋しい人その声を胸に歌を奏で待つ(雅歌 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221127 no 2022 ソロモンの雅歌。 どうかあの方が、その口のくちづけをもって わたしにくちづけしてくださるように。 (雅歌1章1節~2節) 主を待ち望む季節の中で雅歌から聞こえてくる歌に耳を澄ませます。 主旋律を奏でるおとめの声もまた「恋しい人」の到来を待っています。「かもしかのように、若い雄鹿のように、深い山へ帰って来てください」(2章17節)。おとめには予感があります。山を越え、丘を跳んで、今すぐにでも恋しい人が自分のところへ戻ってきてくれると。その姿は未だ見えないのだけれども、「恋人よ、あなたは美しい」(1章15節)という、かつての優しい囁きが胸を埋め尽くしていて、ときめきはやみません。 待つことは想うこと。脳裏によぎるのは、ぶどう畑での語らい、木の陰での休息、宴のような華やかなひと時のこと。恋しい人が自分のことを大切に思ってくれる理由は未だに見つけられません。むしろ自信の無さばかりが気になります(同6節)。けれども、美しい記憶の断片と、その隙間から聞こえてくる囁きの数々がおとめに願わせます。「どうかあの方が、その口のくちづけをもって、わたしにくちづけしてくださいますように」。二人の愛はその時、新しく始まり、完成するはずなのです。 帰って来てください。私たちも今、切実に主を求めます。既に愛された記憶を抱きしめながら、御言葉との歩みに胸をときめかせながら。 【祈り】 恋しい人イエスよ、あなたの愛が嬉しくて、心には歌が奏でられます。そして、あなたを待ち続けています。 Sat, 26 Nov 2022 00:10:00 +0000 聖なる信仰に自分自身を築き上げる(ユダの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221126 no 2022 しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。 (ユダの手紙20節) 日常生活を送る中で、私たちはさまざまな「勧め」を耳にします。「こうした方が得をする」、「こうした方が楽しく暮らせる」、「信仰など生活に何の意味もないから関わらない方が身のため」。この手紙が書かれた初代教会の兄弟姉妹も同じ試みの中にありました。教会において、福音の意味を歪めたり、信仰生活から引き離そうとしたりする、耳に心地よいささやきが溢れていました。 手紙の著者のユダは、教会の兄弟姉妹に、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦う」ことを勧めるべく、この手紙を書きます。ユダは、使徒を通して伝えられた福音を聞いたときの喜びを思い起こさせ、「最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい」と勧めます。新改訳聖書は、「自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい」と訳します。私たちの歩みは、耳に心地よい勧めではなく、罪のうちにあった私たちに示された神の憐れみの上に築き上げられる歩みです。 明日は主の日です。私たちがどんなささやきに囲まれたとしても、神からの語りかけは変わりません。礼拝で語られる御言葉と説き明かしは、私たちの信仰の歩みの拠り所です。聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げていきましょう。 【祈り】 試みの世にあって、私たちが聖なる信仰の上に、しっかりと立つことができるよう、支えてください。 Fri, 25 Nov 2022 00:10:00 +0000 善を行う人とは神に属する人(ヨハネの手紙三 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221125 no 2022 愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。 (ヨハネの手紙三11節) ヨハネは、ガイオという人物にこの手紙を書き送りました。ガイオがいる教会には、ディオトレフェスという非常に問題のある人物がいました。彼は、自分が教会の指導者となって主導権を握ろうとし、ガイオやヨハネのことを悪意に満ちた言葉でそしっていました。そして、恐らく自分の気にいらない兄弟姉妹を教会から追い出していました。このことから彼がとても傲慢な人物であることがわかります。もちろん、彼には、彼なりの正当な理由があるのかもしれませんが。ガイオは、この教会で起こった問題に心を痛めて、ヨハネに助けを求めたのだと思われます。 教会において大切なことは、そこに集められた者たちが謙遜であるということです。教会は、決して主導権争いの場ではありません。「善を行う人」とは、へりくだって人と接することができる人のことです。イエス・キリストは、まさにへりくだって、私のところまできてくださいました。ディオトレフェスには、へりくだる心が欠けていたように思います。 私たちもイエス・キリストを見倣って、謙遜な心で人に接したいと思います。自分の正当性を主張するのではなく、へりくだって人の言葉に耳を傾ける者でありたいと願います。 【祈り】 どうか謙遜な心をもって神と教会に仕えていくことができますように守り導いてください。 Thu, 24 Nov 2022 00:10:00 +0000 キリストは肉となって来られた(ヨハネの手紙二 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221124 no 2022 彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。 (ヨハネの手紙二7節) イエス・キリストは、神の子でありながら、私たちと同じように肉をとって、この世界に生まれました。この出来事を「受肉」と言います。この「受肉」の出来事は、主イエスが私たちと同じ人間であることを意味しています。このことを、私たちが論理的に理解しようとしても無理なことです。「受肉」の出来事は、それほどまでに不思議なことだからです。そのため、古代教会において、「神の子が私たちと同じ人間として生まれてくるわけがない」と考えた人たちがいました。確かに、そのように考える方が普通かもしれません。 しかし、ヨハネは、この「受肉」を否定する者たちを「反キリスト」と語りました。主イエスが私たちと同じ人間としてこの世界に生まれることは、私たちが罪から救われるために、必要なことだからです。 このように主イエスには、神の性質と人の性質の両方があります。古代教会は、主イエスが神であり、人であることを「二性一人格」と言い表しました。その後、「二性一人格」の信仰を告白することは、正しい教会のしるしとなりました。神の子イエスがほかでもないこの私を罪から救うために、私のところまで来てくださいました。このことは、真理です。 【祈り】 神の子であるイエスが私たちを罪から救うために、この世界に生まれてくださり、ありがとうございます。 Wed, 23 Nov 2022 00:10:00 +0000 だれが世に打ち勝つか(ヨハネの手紙一 4-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221123 no 2022 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 (ヨハネの手紙一5賞5節) 勝ち組と負け組。あなたはどちらになりたいですか。多くの人が勝ち組になるために一生懸命努力しています。しかし、私たちはどういう勝利を目指しているのでしょうか。ここを間違えてしまうと、努力が無駄になってしまうかもしれません。 世の中に「勝ち組」と呼ばれる人はたくさんいます。学歴が高い人、偉大なことを成し遂げた人、幸せな家庭を持つ人。このような人になることができれば勝ち組で、そうでなければ負け組。そのような暗黙の了解の中で、私たちは生きています。 一方で、聖書は、イエスが神の子であると信じる者こそ勝利者だと教えます。信仰は何の力もないように思えます。けれども信仰による勝利には十字架に示された神の愛があり、主にある兄弟姉妹がその愛に基づいて互いに愛し合う教会があります。 勝ち組と呼ばれる人びとが、一時的に絶大な力を持つことはあるでしょう。しかし、その力は、いずれは死のゆえに消えていきます。その中で、弱々しく見える教会に神の力が働いて、滅ぼされることなく残り続けてきました。そして、これからも残り続けるでしょう。イエスが神の子であると信じる者にこそ、時代を超えて揺らぐことのない確かな勝利が与えられています。 【祈り】 主よ、イエスが神の子であると信じる者に確かな勝利を与えてくださりありがとうございます。 Tue, 22 Nov 2022 00:10:00 +0000 神は真実で正しい方(ヨハネの手紙一 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221122 no 2022 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (ヨハネの手紙一1章9節) 真実に生きることは、なんと難しいことでしょうか。もし自らに都合のよい事実のみならば、真実に生きることは簡単なのです。しかし世の中には、自らに都合の悪い事実がたくさんあります。誰しも自分の落ち度は認めたくないですから、都合の悪い事実は隠そうとします。 分かりやすいのが戦争です。近代の戦争は、情報戦が戦況に大きく影響するとされています。そのために自らの落ち度を徹底的に隠し、相手の悪を事実以上に誇張するのです。自分には罪はない。相手が悪い。これが戦争における常套句です。そこに真実はありません。これは遠くの国だけの出来事ではありません。私たちの日常もまた、自分の落ち度を隠して誰かの罪を誇張しなければ生きられない、小さな戦争の中にあるのです。 聖書は私たちの罪を露わにします。私には罪がある。これが真実なる神から見た、私たちの真実の姿です。それゆえにキリストは十字架にかからねばなりませんでした。私たちがこの真実に生きようとするならば、「自らには罪がない」という自らへの欺きを捨て、自分の罪を告白することになるでしょう。そのとき、真実で正しい神が成し遂げてくださったキリストの十字架の御業が、私たちのものとなるのです。 【祈り】 主よ、私たちをあなたの真実の内に生きる者とならせてください。 Mon, 21 Nov 2022 00:10:00 +0000 神の忍耐に応えて福音を伝える(ペトロの手紙二 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221121 no 2022 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は…一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 (ペトロの手紙二3章9節) 教会の最初の頃、信徒たちは、キリストの再臨の日がすぐに来ると考えていました。しかし、なかなか再臨が実現しないのを見て、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」と言う人たちが出てきました。再臨を遅いと考える人たち、再臨を疑う人たちがいたのです。 今日に至るまでキリストの再臨は来ていませんから、この問題は私たちにとっても無視できません。しかし、時間を支配しておられるのは神です。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(3章8節)とあるとおりです。早いとか遅いとか、人間の時間の尺度ではかることがそもそも間違っています。 神は再臨を遅らせておられるのではなく、皆が悔い改めるようにと、私たちのために忍耐しておられるのです。ここで「忍耐」は「寛大」という意味の言葉です。皆に悔い改めて救われてほしいという神の熱心、忍耐・寛大な愛のゆえに、まだ再臨が来ていないということです。 私たちにとって今は、再臨の時を推し測る期間ではありません。そうではなく、主の忍耐に応えて、周囲の人たちに福音を伝えるために、主の御業に参加していく大切な期間なのです。 【祈り】 主よ、あなたの忍耐によって今の時があることを感謝します。この時に精一杯あなたに仕えさせてください。 Sun, 20 Nov 2022 00:10:00 +0000 主の家に生きることの喜び(詩編 122編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221120 no 2022 主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。 (詩編122編1節) しばらくの間、日曜日ごとに詩編の言葉を読み続けてきましたが、今日が最終回となります。 きょうの詩編の言葉は、次のように言い換えることができるでしょう。「主の家に行こうと誘われたとき、わたしはうれしかった」と。主の家とは、神の家、祈りの家である神殿です。キリストの教会、教会の礼拝のことです。 この詩編は、二つの喜びを伝えています。一つは行く教会がある喜びです。二つ目は、誘ってくれる信仰の仲間がいることの喜びです。 自分が行く教会があることは喜びです。その理由は、神礼拝と祈りをささげる場所をもう他のどこにも探さなくてもよいからです。自分が行く主の家の場所が決まっていることは、それだけで安心と喜びをもたらします。 「主の家に行こう」と誘ってくれる信仰の仲間がいることも喜びです。信仰が弱ってしまうときにも信仰の仲間が「教会に行こう」と声をかけてくれます。同じ神を礼拝し、共に祈り合う喜びを分かち合う仲間がいることはうれしいことです。 愛する兄弟姉妹のためにあなたにできることがきっとあります。信仰の仲間のために祈ること、「教会で主の御言葉に聞いて礼拝しよう」と、呼びかけることもできます。 【祈り】 主よ、私たちを共にあなたの教会に導いてくださったことを感謝します。 Sat, 19 Nov 2022 00:10:00 +0000 信仰にしっかり踏みとどまって(ペトロの手紙一 4-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221119 no 2022 悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。 (ペトロの手紙一5賞8節~9節) この手紙は、各地に散らばって信仰生活を送る信徒に送られました。ペトロはここで、迫害という試練の中で、悪魔がほえたける獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っていると言います。 日本では「迫害」という形ではなくても、キリスト者になることによって、周囲の人たちとの間に緊張関係が生まれます。家族など身近な人たちの理解を得られないこともあります。そのような中で気をつかいながら信仰生活をしなければならないことが多いのです。ですから私たちには絶えず信仰の戦いがあります。疲れを覚えることもあるでしょう。悪魔は、私たちを主イエスから引き離そうとします。そのような私たちキリスト者に、この手紙は力強い励ましとなります。 ここでは目を覚まし、信仰にしっかり踏みとどまって悪魔に抵抗することが勧められます。代々の聖徒たちも、この世で同じ苦しみを経験してきました。しかし、その苦しみは永遠ではありません。私たちにとっては長い年月でも、永遠に比べれば「しばらくの間」です。永遠なのは、キリストにおける生ける望みです。 神ご自身が、しばらくの間苦しんだキリスト者たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 【祈り】 主よ、私たちを力づけ、信仰に踏みとどまって、目を覚まして悪魔に抵抗できるようにしてください。 Fri, 18 Nov 2022 00:10:00 +0000 試練の中で証明される信仰(ペトロの手紙一 1章(2章11節-3章)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221118 no 2022 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、…イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 (ペトロの手紙一1章7節) 私たちの人生には、いろいろな試練があります。試練による悩みで心がいっぱいになってしまうこともあるでしょう。しかし、神は私たちを、キリストによって新たに生まれさせ、朽ちることのない天の財産を受け継ぐ者としてくださいました。 天の財産は、今の私たちの知恵では表現しきれないほど素晴らしいものです。私たちはそれをまだ見ていないけれども信じて喜ぶことができます。試練による悩みも、私たちからこの喜びを奪い去ることはできません。主が私たちを試練の中で慰め、支え、導いてくださいます。私たちは試練によって神による支えを強く経験し、天の財産を見つめることができます。このようにして私たちの信仰が本物であることが、試練によって証明されていきます。私たちの信仰は、火で精錬されても朽ちるほかない金よりはるかに尊く、やがてキリスト再臨の日には、神から称賛と光栄と誉れをいただくのです。 これは素晴らしい約束です。この約束がありますから、試練はもはやただの災難や不幸ではありません。これは試練を避けられない人生を歩む私たちに、神がくださった約束です。私たちにとって言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びです。 【祈り】 主よ、試練の中で本物と証明される信仰、そしてあなたがくださる誉れを心から待ち望み、喜び感謝します。 Thu, 17 Nov 2022 00:10:00 +0000 復活による生き生きとした希望(ペトロの手紙一 1章-2章10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221117 no 2022 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、… (ペトロの手紙一1章3節) 私たちは皆、この世に命を与えられて誕生しました。しかし、この命はいつまでも続くものではありません。私たちは、赤ちゃんから成長して大人になり、年齢を重ねて長生きしたとしても、やがて最後には「死」を迎えます。誰もこれから逃れることはできません。ですから、私たちは、その誕生の時から「死を宿した命」を授かって生まれてきたと言わざるを得ません。その「命」は「朽ちる命」です。 ところがペトロは、もうひとつの誕生があると語ります。それは、神の豊かな憐れみによる新しい誕生です。これは、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力が私たちに働いて起こる、新しい命の誕生です。 新たに生まれさせられた私たちは、「死」によって終わらない新しい命に生かされています。そして、神は私たちを、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」としてくださいました。私たちは、死で終わらない命を授かり、神の愛の御手の中で祝福されて、永遠に生きる者とされました。今も、世を去った後も、神が私たちを愛し、私たちと共にいてくださいます。そして私たちに天の御国を受け継がせてくださいます。ここに、私たちの生き生きとした希望があるのです。 【祈り】 主よ、きょうも、朽ちることのない新たな命に生かされていることを喜んで過ごす一日としてください。 Wed, 16 Nov 2022 00:10:00 +0000 神に近づきなさいそうすれば(ヤコブの手紙 3-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221116 no 2022 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。 (ヤコブの手紙4章8節) 私たちは普通、罪というものをある具体的な行為、すなわち、神に禁じられたことをしてしまう、過ちをおかす、といったことに制限しようとする傾向があります。戦いや争い、殺人などしなければ、兄弟の悪口を言ったり、裁いたりしなければ、自分は罪を犯していないと思います(4章1~12節)。 しかし、ヤコブは、そのような考え方を真っ向からひっくり返して、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」と言います(17節)。兄弟の悪口を言うのも、裁くのも罪ですが、それが良くないことを知っているにもかかわらず、ただ見ているのも罪になる。助けが必要な人が近くにいるのに、頼まれていないからと言って、手を差し伸べないことも罪である、というのです。 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。そもそも生まれながらに罪人である人間は、自分の力で善を行うことができる存在ではありません。神の愛と憐れみなしでは何もできない無力な存在です。ですから、神に近づき、神の恵みと助けを求め、依り頼む。それ以外に、私たちが罪から自由になり、善を知り行う手立てはないのです。 【祈り】 善を知りながらも行うことのできない弱いわたしですが、だからこそ、あなたの恵みに一歩でも近づくことができるように助け導いてください。 Tue, 15 Nov 2022 00:10:00 +0000 人を分け隔てしてはならない(ヤコブの手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221115 no 2022 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 (ヤコブの手紙2章1節) ヤコブの時代、教会は、貧富の差が大きかったようです。金持ち、この世の権力者という理由で、その人に特別な配慮をする、世俗的な価値観が入り、それがまかり通る懸念がありました(2~4節)。そこで、彼は「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはな」らない、と訴えたのです。 「分け隔て」と訳されたギリシア語の単語は、「顔で判断する」という意味です。社会的地位や経済的状況、人種など、外見に基づいて、人の軽重を判断するということです。キリスト者であっても、無意識のうちに相手に対する偏見や先入観を持つことがあります。「隣人を自分のように愛する」ことができず、かえって差別することもあります(8、9節)。 しかし、「神は人を分け隔てなさいません」(ロマ2章11節)。金持ちであれ、貧しい人であれ、神の前ではすべての人間が罪人です。同時に、神はすべての者を愛しておられます。その愛のゆえに、御子イエス・キリストは十字架にかかり、救いの業を成し遂げられました。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」てくださいました(エフェ2章14節)。だからこそ、主イエス・キリストを信じる私たちに、分け隔てなどあってはならないのです。 【祈り】 人を分け隔てなく愛しておられる主よ。私たちも分け隔てなく人を愛することができますように。 Mon, 14 Nov 2022 00:10:00 +0000 いろいろな試練に出会うときは(ヤコブの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221114 no 2022 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 (ヤコブの手紙1章2節) 信仰を持てば苦しいことがなくなると期待する人がいます。人生におけるさまざまな苦しみや悩みから解放されたくて教会に来たという人もいれば、キリスト者になっても依然として苦しみがなくならないと悩む人もいます。 しかし、聖書は、信仰を持てば、その結果として試練がなくなるとは教えていません。むしろ、使徒ヤコブは、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と語ります。 「試練」とは、字のごとく「試して練る」という意味です。「信仰が試されることで忍耐が生じ」、そのことによって、「私たちは完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人にな」る、と聖書は約束しています(3、4節)。つまり、試練とは、神が私たちの信仰を完全なものへと導くための手段なのです。 主イエスが地上で多くの試練に苦しまれたと同様に、キリスト者の人生にもさまざまな試練や苦しみがあります。しかし、「イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられた」ように(ヘブ2章9節)、喜びと忍耐をもって耐え忍ぶなら、いつか私たちも「神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」ことになります(ヤコ1章12節)。 【祈り】 主のように、苦しみを耐え忍び、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない者にならせてください。 Sun, 13 Nov 2022 00:10:00 +0000 神が助けに来てくださる(詩編 121編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221113 no 2022 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 わたしの助けはどこから来るのか。 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。 (詩編121編1節~2節) 詩編121編は、エルサレムへの巡礼の旅の際に歌われた「都上り」の歌とされます。しかし、ただの巡礼の歌ではなかったようです。長く苦しいバビロン捕囚の後、再びエルサレムに帰還し、巡礼への道が開かれました。人びとはバビロンからエルサレムに帰還します。そのときに歓喜の中で歌われたのがこの詩編121編ではないでしょうか。 「わたしの助けは来るのか」という問いかけの言葉にこう答えられます。「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」。バビロンからの長い旅を経て、ようやくエルサレムが見えてきます。そのとき、民の中の一人が問いかけ、それに対して神の民らが答えます。助けは「山々」から来るのではありません。山々をはるかに超えて「天地を造られた主のもとから」来ると歌われます。 バビロン捕囚は神の民に絶望をもたらしました。しかし、天地を造られた神は人間の絶望をはるかに超えて助けを与えてくださいました。やがて神は、主イエス・キリストこの方において私たちまったくの罪人に救いの道を開かれました。主イエスは私たちの罪のために十字架にかかり、復活してくださいました。 ですから、私たちも「わたしの助けは来る」と感謝して歌うことができます。主を賛美しましょう。 【祈り】 主よ、あなたを賛美します。あなたに信頼してきょうも歩みます。 Sat, 12 Nov 2022 00:10:00 +0000 「その日」平和を打ち立てる主(ゼカリヤ書 12-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221112 no 2022 その日、主は御足をもって エルサレムの東にある オリーブ山の上に立たれる。 (ゼカリヤ書14章4節) ゼカリヤ書の最後の区分も「託宣」という言葉から始まっています。前段に比べて具体的状況への言及が減り、「その日」について言及されます。それは、神が最終的に神の民の勝利を確定し、平和を打ち立てる日です。失われていた「ダビデの家」の再栄光化が宣言され(12章8節)、イスラエルを滅びに至らせた偶像礼拝は取り除かれ(13章2節)、偽りの預言者は恥を受けます(同4節)。 ユダが繁栄するだけでなく、自然界も揺り動かされ、変えられます。これは、「その日」が人間世界だけではなく、神が造られた世界全体が揺り動かされ、精錬され、完成される出来事であることを示します。 ゼカリヤ書でよく知られた聖句が「主は…オリーブ山の上に立たれる」です。オリーブ山の地名は旧約聖書中にはここともう一箇所しか出てきません。しかし、キリスト者には馴染みの地名です。主イエスはオリーブ山によく通っておられました。使徒言行録によれば、主イエスが天に昇られたのは「『オリーブ畑』と呼ばれる山」であり、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と言われます(1章11、12節)。主イエスがおいでになる時、私たちの究極の平和が実現するのです。 【祈り】 神さま、私たちに究極の平和を実現してください。主イエスがおいでくださいますように。 Fri, 11 Nov 2022 00:10:00 +0000 真の平和の王が到来する(ゼカリヤ書 9-11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221111 no 2022 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。 (ゼカリヤ書9章9節) 9章の冒頭には「託宣」と記されていますが、1章などと違って具体的な年代は記されていません。9章以降では、神殿は既に再建された様子で、神殿への言及はわずかです。再建期は終わり、捕囚後のイスラエルの生活は安定してきています。 その一方で、主は「(羊を顧みない)羊飼いたちに対して、わたしの怒りは燃える」(10章3節)、「わたしは1月のうちに3人の羊飼いを退けた」(11章8節)と言って、神の民が正しく治められていないことを批判されます。そしてこの状況に対して、預言者は9章9節の有名な聖句で「王」の登場を預言するのです。 登場する王は、軍に頼る者ではありません。王は神に従う者であり、勝利は神が王に与えます。王自身は軍馬や弓を絶ち、平和を告げる者です(9章10節)。 平和を打ち立て、民を公正に治める真の王の到来は、民の願いでした。統治者が立つたびに民はこの理想の王の姿を望み見ました。しかし、どの統治者も平和を告げるどころか、不正と苦しみを生むだけでした。 この預言の情景は、エルサレムに入城される主イエスによって実現しました。預言者が望み見た平和が私たちには既に告げられているのです。 【祈り】 主よ、私たちがあなたに従う者となり、あなたの平和を享受する者となれるようにしてください。 Thu, 10 Nov 2022 00:10:00 +0000 断食の日が喜びの日となる(ゼカリヤ書 6-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221110 no 2022 あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。 (ゼカリヤ書7章6節) 6章後半からは「主の言葉」による預言です。7章には「ダレイオス王の第4年」と1章の2年後であることが記されます。神殿はまだ建設途上であり、忍耐が続いています(エズラ6章15節参照)。 6章後半で神は、引き続き指導者を祝福し、神殿再建を約束します。しかし続く7章では、イスラエルの欠けを指摘します。それは信仰生活の形骸化です。捕囚以来、民は断食日を定めていました。神殿が破壊された5月(王下25章8節)、総督ゲダルヤが暗殺された7月(同25節)。さらに8章には、城壁が破られた4月(エレ39章2節)と、バビロンが都を包囲した十月(王下25章1節)にも断食をしていたとあります。みな捕囚を振り返り、悔い改めを表す日でした。しかし、ゼカリヤは、その断食が自分自身のためになっていると指摘します。形として守っているものの、思いが神にも隣人にも向かっていないのです。 神にも隣人にも誠実ならば、断食の日は悲しみの日ではありません。「喜び祝う楽しい祝祭の時となる」(ゼカ8章18、19節)。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリ10章31節)。 【祈り】 私たちが礼拝においても日々の生活においてもあなたに心を向け、隣人に仕えることができますように。 Wed, 09 Nov 2022 00:10:00 +0000 神は、民を励まし続けてくださる(ゼカリヤ書 1-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221109 no 2022 「再び、呼びかけて言え。 万軍の主はこう言われる。 わたしの町々は再び恵みで溢れ、 主はシオンを再び慰め エルサレムを再び選ばれる。」 (ゼカリヤ書1章17節) ゼカリヤは、バビロン捕囚から解放されたのちの預言者です。その最初の預言は「ダレイオスの第2年8月」になされたとあります。預言者ハガイの預言と同年です。両者は互いを知っていて協力していたようです。歴史書で言うとエズラ記5章の時代です。捕囚の解放から20年近く経っていますが、周辺民族の妨害(エズラ4章23節)や民の無関心(ハガイ1章2節)から神殿の再建は遅々として進みません。民たちも指導者である総督ゼルバベルや大祭司ヨシュアにも無力感が漂っていたことでしょう。そんな状況に、神は二人の預言者を立てて民を励ましたのです。 ゼカリヤは第2年の11月(現在の暦では1月後半頃)のある晩に8つの幻を見ます。幻は一貫したメッセージを伝えます。神の民の苦難が訴えられ、それに対して神さまは、救いの宣言を語っています。 ゼカリヤはこの救いを幻を通して受け取ります。神の民はなお汚れた者です。しかし、神さまはその汚れた衣を脱がせ、冠を被せてくださいます(3章4、5節)。指導者を任じてくださいます(4章14節)。罪を滅ぼし(5章4節)、追放してくださいます(5章11節)。神の確かな約束はいつも私たちを励まし、力付けるのです。 【祈り】 神さま、苦難の中にある私たちを忘れず、励ましてください。あなたの約束を確信させてください。 Tue, 08 Nov 2022 00:10:00 +0000 神の思いを第一にして生きていく(ハガイ書 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221108 no 2022 「神殿を 廃墟のままにしておきながら 自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。 …主はこう言われる。 お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。」 (ハガイ書1章4節~5節) ペルシア王ダレイオスの治世、捕囚の民となっていたユダヤの民たちは、エルサレムに帰還することが許され、帰還しました。このとき、捕囚から解放された民たちの意識は大きく変化していました。信仰に基づく故郷の再建という希望は忘れられ、神殿に対しては無関心、無頓着になり、さらに経済的にも厳しいことから、自分の家を第一にするという生活に陥っていました。彼らは、神殿を建て直すのに消極的でした。そこでハガイは、民たちを奮い立たせて、神殿再建を実現させようとします。 ハガイは、民たちの怠慢と自己中心を指摘し、民たちに反省を促し、今自分の置かれている現状を見つめさせます。「このままでよいのか」と。そして、自分たちの歩むべき道、神の思いである神殿再建へと導きます。更に神殿再建には、神の豊かな祝福があることを約束します。この約束において、民たちは神殿再建に取り組むことになります。 神は私たちに今置かれている現状をよく考えてみなさい、と言われます。自分中心ではなく、神の思いを第一にするように、と語りかけてくださいます。この思いに生き続けることが、私たちであることを覚え、希望をもって信じ続けてまいりましょう。 【祈り】 主よ、どうか、私たちがあなたの思いを第一にして生きていくことができますように、私たちの心を開いてください。アーメン Mon, 07 Nov 2022 00:10:00 +0000 神のさばきの真意とは(ゼファニヤ書 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221107 no 2022 わたしは地の面から すべてのものを一掃する、と主は言われる。 (ゼファニヤ書1章2節) 「すべてのものを一掃する」。これは、神のさばきのことばです。とても恐ろしいことばです。 ゼファニヤの時代は、とても暗い時代でした。南ユダ王国に異教の宗教が導入され、上流階級の堕落があり、商人による異教世界への巻き込みがあり、といった諸悪がエルサレムに満ちていました。ゼファニヤは、悪に対する神のさばきがあることを徹底的に語りかけ、エルサレムのさばき、全世界のさばきを語ります。けれども、ゼファニヤの預言はこれで終わりません。さばきのことばのあとに、希望と繁栄のメッセージを語ります。諸国民は、回心して真の礼拝をするようになり、喜びの歌が歌われると言って預言を結びます。 神のさばきは、単なる刑罰ではありません。また、すべてを滅ぼすためにさばきがあるのでもありません。神がきよめることにおいて救い出すことが、さばきの目的です。それゆえ、私たちの神は審判者であると同時に救いの神でもあられます。 神のさばきは、キリストの上に置かれました。人間はキリストの十字架の贖いの死を受け入れるだけで、神のさばきから赦され、きよめられ、神の祝福を受けるのです。主の十字架を通して、罪の赦しを心から願い、主の十字架によりすがりましょう。 【祈り】 主よ、どうか、あなたの十字架において、わたしの罪を赦し、きよめてください。アーメン Sun, 06 Nov 2022 00:10:00 +0000 ひと足またひと足導きたまえ(詩編 119編57-176節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221106 no 2022 あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。 (詩編119編105節) 今、私たちは苦難の時を生きています。戦争、気候変動による自然災害や飢餓、疫病、腐敗した政治などのニュースが毎日のように私たちに届けられています。これらのことは私たちの家計のこと、家族のこと、仕事にまでさまざまな影響を及ぼしています。「この先どうなるのか、わからない」と私たちは心の中で呟きながら生きていることがあります。このような時を私たちはどのように生きれば良いのでしょうか。 このような私たちに、きょうの詩編の御言葉は、神の御言葉、聖書こそが「わたしの道の光」と語ります。歩む道は、どうやら明るい昼間の道ではありません。漆黒の闇に覆われてしまった夜の道です。しかし、この行く道を照らす光が与えられていると言うのです。 ところで、この光は、どのような光なのでしょうか。遥か遠くを照らすサーチライトのような光ではありません。「灯」、わずかな光でしかありません。しかし、この光があれば、一歩一歩、歩みを続けることはできるのです。いや、私たちは、この聖霊と御言葉の光に導かれて、終わりまで歩むことができます。 「行くすえ遠く見るを、願わず。よろめくわが歩みを守りて、ひと足、またひと足、導き、行かせたまえ」(讃美歌21・460番)。 【祈り】 神よ、きょうも行くべき道を御言葉の光によって照らしてください。 Sat, 05 Nov 2022 00:10:00 +0000 賛美のいけにえを神に献げよ(ヘブライ人への手紙 12-13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221105 no 2022 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。 (ヘブライ人への手紙13:15) イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です(13章8節)。 時代や場所が変わっても、若い時だけでなく、中年の時も、老齢の時も、いつも変わりなく、同じ愛と憐れみの方として、私たちと共にいてくださいます。何をしてくださったのでしょうか。罪人である私たちが解決不可能な罪と死と滅びからの救いです。主イエスはゴルゴタの丘で私たち罪人のために辱めを担い、ご自身を献げてくださいました。主イエスの血により私たちを聖なる者、神のものとするためでした。 ですから、私たちも自分の十字架を背負い天の御国を目指して歩みましょう。御国を目指す旅人の特徴の一つは賛美です。御名をたたえる唇の実です。礼拝だけが賛美の時ではありません。神がよくしてくださったことを何一つ忘れない生活も賛美です(詩103編1~5節)。もう一つは隣人愛に生きること、善い行いと施しとを忘れないこと、このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです(ヘブ13章16節)。 平和の神が「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように」(21節)。 【祈り】 聖霊を注いでください。自分自身を神に喜ばれる生けるいけにえとして献げさせてください。 Fri, 04 Nov 2022 00:10:00 +0000 必要なのは主イエスを見つめる忍耐(ヘブライ人への手紙 10-11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221104 no 2022 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 (ヘブライ人への手紙10章36節) キリスト教が弾圧され、ローマ帝国内で認められていたユダヤ教に戻ろうとする背教の危機がありました。そのため、ヘブライ書は、真理の知識を受けた後に、故意に罪を犯し続けるなら滅びしか残らないと明言します(10章26、27節)。 キリスト者は数々の試練や戦いを経験します。戦前戦中の日本の教会も同様でした。試練や誘惑の中で勝利の秘訣を覚えましょう。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」。日本の教会の多くは小さな群れです。心細くなりやすい私たちに、勝利の信仰に生き抜いた無数の証人たちが紹介されています。アブラハム、ヤコブ、モーセ、ギデオン、ダビデ、サムエル、預言者等を語るなら時間が足りません(11章)。中間時代にも試練や戦いがありました。約束の救い主はまだおいでになっていませんでしたが、彼らは約束のメシアを信じて天の故郷へ迎え入れられました。 忍耐の中で見つめましょう。信仰の創始者また完成者であるイエスをいつも見つめるのです(12章2節)。キリストこそ、選びの確かさの根拠、私たちが自分の選びを見つめる選びの鏡です。この主イエス・キリストのゆえに、私たちは終末の希望に生きることができます。 【祈り】 神様、信仰の先輩たちのように、主イエス様から決して目を離さないで歩ませてください。 Thu, 03 Nov 2022 00:10:00 +0000 ただ一度の決定的な救い(ヘブライ人への手紙 7-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221103 no 2022 ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 (ヘブライ人への手紙9章26節) 人間は「ただ一度死ぬ」と定められています(9章27節)。死を恐れるのは、死の後に裁きがあることを予感しているからです。第一のアダムと共に神に罪を犯したからです。解決の道はあるのでしょうか。罪の赦しと清めのためには血を流さなければなりません。神は天におられますが、祭司はひな型としての地上の聖所で身代わりの動物の血を繰り返し神に献げてきました。しかし、動物の血は根本的な解決に至りません。 愛深い神は、第二のアダムであるキリストを仲介者として与えてくださいました(8章6節)。罪を取り去るためです。キリストは天にある本物の聖所に、永遠の大祭司として、十字架の上で流された御自身の血を携えられました。死人の中から復活し、天の父なる神の前に出て受け入れられたのです。繰り返し血を携えて地上の聖所に入る大祭司とは違います。「義の王、平和の王」と呼ばれるメルキゼデクと同じような永遠の大祭司キリストは、御自身を傷のないものとして、ただ一度献げられたのです(9章28節)。 ただ一度御自身を献げられることで新しい救いの時代が始まりました。十字架の死は、過去・現在・未来にわたる人びとの死の唯一の解決です。決定的な救いです。 【祈り】 神様、死の解決が与えられて感謝します。喜んで福音に生きる者になれますように。 Wed, 02 Nov 2022 00:10:00 +0000 神の安息にあずかるように(ヘブライ人への手紙 3-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221102 no 2022 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 (ヘブライ人への手紙4章11節) 厳しい言葉は嫌われます。それを知りつつ語る理由があります。 昔、神の民は神の憐れみを受け、約束の地を目指して出エジプトしました。けれども荒れ野の途上で神に反逆した人たちは約束の地に入れませんでした。カナンの地より遙かに優る安息がキリスト者に約束されています。厳しく語るのは、昔の不従順の例に倣って堕落する危険があったからです。幸いにも、神の安息にあずかる約束は続いています。ですから、この安息にあずかるように努力しようと招きます。 第一の勧めは、神の言葉を畏れをもって聴くことです。神の御前にはすべてのものが裸です。神の言葉は福音です。第二の勧めは、大胆に恵みの座に近づくことです(4章16節)。本当に幸いな招きです。 私たちには栄光の大祭司が与えられています。同情なんか要らない、だれも私の苦しみを分からない、と思わないでください。主イエスは私たちと同じように試練に遭われたからです。私たちの弱さ、欠け、罪もご存じです。私たちの罪の解決のために、十字架という極限の試みを耐え忍ばれ、勝利して、死者の中から復活されました。私たちを真実に思いやる大祭司イエスです。 【祈り】 素直な心で御言葉に聞き、主にすべてを打ち明けて生きる者とならせてください。 Tue, 01 Nov 2022 00:10:00 +0000 神の御子の声に聞こう(ヘブライ人への手紙 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221101 no 2022 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。 (ヘブライ人への手紙1章2節) この手紙の著者名も、受信者たちがどこの誰なのかもわかりません。教会の内外に困難があった時代に、神は第1級の神学者を用いて福音の素晴らしさを明らかにされます。説教のような手紙です。 神はかつて預言者たちを通し、多くのかたち、多くのしかたで語られました。「かつて」とは旧約時代のことで、今はどうでしょうか。「この終わりの時代」とは新約時代です。神は御子によって私たちに語られました。ご自身の完全なかたちである御子により、究極的なことばを語られました。いかなる預言者より偉大であり、御使いよりも偉大な御方。預言者たちが待ちに待った預言(1ペト1章10~12節)が、御子イエス・キリストにより成就したのです。 御子は十字架において死なれ、葬られましたが、3日目に死人の中から復活されました。天の父なる神の右に座しておられます。万物を永遠にわたって統治される御方、私たちを限りなく愛し続けていてくださる御子です。 この手紙は、御子が、どんなに素晴らしい救い主であるのかを明らかにしています。御子は今も生きておられ、聖霊と御言葉により語り続けておられます。 神の御子の声に聞こう。 【祈り】 神様、神の御子が比類のない救い主であることを、試練の中でこそわからせてください。 Mon, 31 Oct 2022 00:10:00 +0000 主なる神こそ我が力我が喜び(ハバクク書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221031 no 2022 しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。 わたしの主なる神は、わが力。 (ハバクク書3章18節~19節) 主なる神は、神の幻に信頼して、忍耐強く神の御業を待つように告げられました。ハバククは、暴虐と不法に満ちた有様を「災いだ」となお嘆きますが、次第に神の御前に沈黙することを学びます(2章)。そして、やがて主の御業を待ち望む信仰の確信に立って、主をほめたたえることへと導かれました。3章には、神殿で聖歌隊によって歌われる賛美の歌として、ハバククの詩が収められています。 ハバククは、「あなたの御業に畏れを抱きます」と告白し、天と地に満ちている神の栄光に目を向けて、主をほめたたえます(2~6節)。ハバククのまなざしは、地上の災いにではなく、主なる神を仰ぎ見ることに向かいます。また、出エジプト以来、イスラエルの民に示されてきた主の救いの御業を思い起こして、「わたしは静かに待つ」と告白します(7~16節)。そして、「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず」(17節)、災いがなお続こうとも、主によって喜び、「主なる神は、わが力」と告白するのです。ここにハバククの信仰的応答が示されています。 主なる神は、ご自身の民を「信仰によって生きる」ことへと導き、信仰に固く立たせてくださるお方です。今、私たちも、主なる神こそ我が力、我が喜びとして、主に依り頼む信仰によって生きる民とされています。 【祈り】 私たちの歩みを「信仰によって生きる」ことへとお導きください。 Sun, 30 Oct 2022 00:10:00 +0000 良い日とは神を知ることができた日(詩編 119編1-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221030 no 2022 主よ、夜ともなれば御名を唱え あなたの律法を守ります。 (詩編119編55節) 私たちは夜になると床に就きます。私たちにとって夜はしばしば思い悩む時でもあります。昼間の間にあったことの記憶がよみがえり、痛みを覚えることもあります。失敗が重くのしかかってくることもあるかもしれません。 しかし、私たちにとっての良い日とは、昨日より少しは、神のことを知ることができたと思える日です。 きょうは神を知ることにおいて前進したと思いながら床に就くことができたなら、その日は成功です。たとえ、いやなことがあった日でも、トラブルに巻き込まれてしまった日でも、昨日より神を知ることができたら、良い日です。 けれども、反対にすべてがうまくいったと思える日でも、神を知ることがなければ、その日は、良くない日になります。 ですから、詩人は夜、床に就くところで、主の御名を唱え、祈ります。長く祈るのではありません。「主よ」と、ただ御名を唱えます。そして、「律法」すなわち主の御言葉を思い巡らします。うまくいった、あるいはいかなかったという自分の思いではなく、主の御言葉、主の御心に心を向けます。その時、はじめて私たちは平安を与えられて、眠りに就くことができます。悪しき思いは去り、へりくだる心が与えられます。 【祈り】 神よ、きょうもあなたのことを深く知ることができますように Sat, 29 Oct 2022 00:10:00 +0000 神に従う人は信仰によって生きる(ハバクク書 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221029 no 2022 「それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 (ハバクク書2章3節~4節) ハバククは、南ユダ王国の末期の時代に遣わされた預言者です。ヨシヤ王によって神殿から偶像が取り除かれ、宗教改革が行われました(列王下23章)。けれども、ユダ王国の罪と腐敗は甚だしく、主の激しい怒りの炎はおさまりません(同23章26節)。ハバククは、「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」と嘆きます(ハバ1章2節)。主なる神がイスラエルを覆う暴虐と不法を見過ごしにしておられるのではないかと訴えるのです。 主の答えは、「大いに驚くがよい。…見よ、わたしはカルデア人を起こす」というものでした(同5、6節)。カルデア人、すなわちバビロンを用いて、ユダ王国に神の裁きがもたらされます。バビロン捕囚の苦難が与えられるというのです。 カルデア人は冷酷で強暴なことで知られていました。納得できないハバククに、主は告げられます。「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。ローマ書に引用され、ルターの宗教改革の原動力となった御言葉です。主なる神は、神の幻、御計画があるとおっしゃいます。その実現を信じて、神の御業に依り頼むことに固く立つことが求められます。 神の民はいつの時代も、苦難の中で信仰によって生きる民なのです。 【祈り】 神の御計画の実現を待ち望む信仰の確信を豊かにお与えください。 Fri, 28 Oct 2022 00:10:00 +0000 神の前に人は無力である(ナホム書 2-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221028 no 2022 ニネベは、建てられたときから 水を集める池のようであった。 しかし、水は流れ出して 「止まれ、止まれ」と言っても、だれも振り返らない。 (ナホム書2章9節) 2章、3章には、アッシリア帝国の首都ニネベが外国の軍隊によって攻め落とされ、滅亡するときの混乱状態が描かれています。「ニネベは、建てられたときから水を集める池のようであった」とは、全世界から人と財宝が集まってきたということです。しかし、その水は流れ出してもはや止めようがなく、だれも振り返らない有様です。たとえ人間的には力と繁栄を誇ろうとも、神の裁きの前にそれらには何の力もありません。 ナホムの預言から20年もたたない紀元前612年、ニネベが陥落し、アッシリアは滅亡しました。その破壊は徹底的なもので、ニネベは、その場所も忘れ去られ、伝説上の町だと長く考えられていたそうです。その後、19世紀に廃墟が発見され、図書館が発掘され、今日、聖書の知識を補うことができるまでになりました。 宗教改革者のルターは、ナホム書についてこう書いています。「この書は、我々に神を信頼すること、とりわけ我々が人間の助け、人間の力と忠告のすべてに対して絶望しているときに、神がご自身の民の傍らにおられ、敵がどれほど力に満ちていても彼らのあらゆる攻撃からご自身の民を保護されるのだと信じることを教えている」。ナホム書は、神の裁きを告げると同時に神の憐れみの大きさを私たちに示しています。 【祈り】 ただ主の憐れみに依り頼み、あなたの御前に立ち帰らせてください。 Thu, 27 Oct 2022 00:10:00 +0000 主は熱情の神、主は報復し、主は忍耐強い(ナホム書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221027 no 2022 主は熱情の神、報復を行われる方。 主は報復し、激しく怒られる。 … 主は忍耐強く、その力は大きい。 (ナホム書1章2節~3節) ナホム書は、アッシリア帝国の首都ニネベに対する神の怒りと報復を告げています。ニネベは、預言者ヨナが遣わされて神の裁きが伝えられたことで知られています。そのとき、神の裁きの宣告を受けて、ニネベの人びとは神を信じ、悔い改めました。主なる神は、「この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」とおっしゃって、ニネベの町に災いをくだすことを思い直されたのです。 その後、世代が変わると、ニネベは主なる神を忘れてしまいました。北イスラエル王国の裁きに際して神の器として用いられることもありましたが、アッシリアの残虐さは甚だしく、ついに神の忍耐が終わり、神の怒りと報復が宣告されました。 主なる神は「熱情の神」です。「熱情」とは神の強く激しい愛を表しています。愛のゆえに主は忍耐強く、また愛のゆえに主は報復し激しく怒られます。それは、「主に身を寄せる者を御心に留め」て(7節)、ご自身の民を惜しむからにほかなりません。 神の憐れみをいただきながら滅ぼされることになったニネベのようになってはなりません。主なる神は十字架の救い主イエス・キリストを与えてくださいました。神の忍耐が終わる前に、主イエス・キリストに依り頼み、悔い改めて立ち帰りましょう。 【祈り】 あなたの憐れみと忍耐に感謝します。どうかあなたの御前に悔い改めて、立ち帰ることができますように。 Wed, 26 Oct 2022 00:10:00 +0000 聞け主の言われることを(ミカ書 6-7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221026 no 2022 人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。 (ミカ書6章8節) 最後の「聞け」は、「主の言われること」(6章1節)であり、神の民イスラエルに対して神がなされてきた数々の恵みです(6章4、5節)。 しかし、イスラエルは、その恵みを形式的信仰にすり替えて、献げ物の質や量で、主なる神を喜ばせようと試みました。仕舞いには、「わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか」と人身御供にまでエスカレートする始末で、これは、神が最も嫌われる異教徒の祭儀でした(6章7節)。実に、形式的信仰の結末は、忌むべき偶像崇拝なのです。 神が神の民に求められていることは、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と明確に示されています。ところが、私たちもこのような信仰生活を願いつつ、たった1日でさえ、満足に歩むことができないのです。 しかし、一人だけ、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩んだ方がおられます。それが私たちの主イエスです。この主イエスが私たちを罪から救い出し、共にいてくださるのです。 ミカは最後に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」と謳います(7章19節)。確かにこれは主イエスの十字架によって実現しました。 【祈り】 どうかきょう、へりくだって主イエスと共に歩ませてください。 Tue, 25 Oct 2022 00:10:00 +0000 聞けヤコブの頭たち(ミカ書 3-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221025 no 2022 ヤコブの残りの者は 多くの民のただ中にいて 主から降りる露のよう 草の上に降る雨のようだ。 彼らは人の力に望みをおかず 人の子らを頼りとしない。 (ミカ書5賞6節) 次の「聞け」は、ヤコブの頭たち、すなわち、為政者、祭司階級、そして預言者、といった民の上に立つイスラエルの指導者たちに向けられたものです。彼らは、「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる」ところまで堕落していました(3章11節)。それゆえに、この指導者たちの惨めな末路が示されます。「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」(4章14節)。 しかし、その直後、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」(5章1節)。この救い主の出現が約束されるのです。 そして、この救い主に依り頼む者が、「ヤコブの残りの者」と謳われています。残りの者なのですから、指導者たちとは逆の立場であり、名もない力もない、取るに足らない文字どおり残り者です。しかし、神が選ばれたのは彼らなのです。 残り者であろうが、半端者であろうが、それはたいした問題ではない。大切なのは、「彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない」、この神だけに頼る愚直な信仰なのです。 【祈り】 周りを見渡すのではなく、ただキリストを仰ぐ信仰を与えてください。 Mon, 24 Oct 2022 00:10:00 +0000 諸国の民よ皆聞け(ミカ書 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221024 no 2022 「ヤコブの家は呪われているのか。 主は気短な方だろうか。 これが主のなされる業だろうか」と言う。 (ミカ書2章7節) ミカ書は、「聞け」、という言葉から本文が始まり(1章2節)、その後、「聞け」が繰り返されて(3章1節、6章1節)文脈が構成されていきます。今回は、この文脈に従って3回に分けて教えられたいと思います。 最初の「聞け」は、地上のすべての民に向けて、神の民であるはずの北イスラエルと南ユダの罪が告発されています。ミカは、北イスラエルと南ユダがアッシリアの脅威にさらされた時、悔い改めを促すために神に遣わされた預言者だからです。「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う」(2章1節)。これが、ミカを通して明らかにされた両国の姿でした。しかし、彼らは、「ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と、神が常に味方であると勘違いし、悔い改めなかったのです。神の愛ばかり強調して、神の御心ではなく、自分たちの都合を優先する、それが堕落した神の民の姿でした。 しかし、これは私たちとも無関係ではありません。私たちもまた、神の御心ではなくて、自分たちの都合を優先してしまうからです。 私たちは、きょう、十字架上で神の怒りすべてを引き受けられた主イエスを仰いでいるでしょうか。 【祈り】 御言葉を自分の都合に合わせてしまうわたしを憐れんでください。 Sun, 23 Oct 2022 00:10:00 +0000 すべての民よ主をほめたたえよ(詩編 117編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221023 no 2022 すべての国よ、主を賛美せよ。 すべての民よ、主をほめたたえよ。 (詩編117編1節) 詩編117編は最も短い詩編です。この詩編ではこの世界のすべての国が神の支配と導きの中にあることが覚えられ、主が賛美されています。 この詩編は、ローマの信徒への手紙の中で引用されています。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」(15章11節)。詩編では「すべての国よ」と呼びかけられていますが、「すべての異邦人よ」と言い換えられています。その理由は、ユダヤ人に約束された救いが、今や異邦人にも与えられたからです。 主イエスが十字架にかけられ、復活されたことによって、すべての異邦人が救いの恵みに招かれています。異邦人とはこの私たちのことであり、また世界の諸国に生きる多くの人びとのことでもあります。すべての人は賛美することに招かれています。 ヨハネの黙示録では、この詩編の言葉が天上での賛美として引用されています。今、この地上では民族や国家の壁のためにすべての人が共に賛美することは妨げられてしまっています。しかし、キリストが再臨される終わりの日には、まさにすべての人が壁を越えて共に賛美することが実現すると言われています。 教会に生きる私たちキリスト者は、この神の恵みの約束を信じて、主イエス・キリストの福音を全世界で伝え続けます。主なる神を賛美しつつ。 【祈り】 あなたをほめたたえます。福音を伝え生きることをなさせてください。 Sat, 22 Oct 2022 00:10:00 +0000 ニネべの悔い改めしるしは一つ(ヨナ書 1-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221022 no 2022 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。 (ヨナ書3章5節) ニネべの人びとは、ヨナを通して示された神のしるしを信じて、悔い改めました。三日三晩大魚の腹にいた人が、神から遣わされて、伝えたこと。これがしるしでした。 ニネべの人びとの単純さは、あまりに不思議です。ある程度調べたり疑ったりして、やがて無視していくのが自然の成り行きのように思われます。しかし、そのようなしるしと御言葉が、自分たちの悪を悔いる彼らの心に触れました。 このニネべの人びとの単純さこそ、悔い改めて福音を信じる信仰になくてはならないものです。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタ12章39節)。 ニネべの人びとがヨナのしるしを信じたように、イエス・キリストを信じる人びとにとっても、しるしは一つです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(同40節)。 十字架で死なれ、3日目に復活されたことが決定的なしるしです。その御方を信じて悔い改めます。この御方に心の目を注いで歩んでまいりましょう。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。 【祈り】 主よ、心の目を開いて、どのような栄光の希望が与えられているか、日ごとに見させてください。 Fri, 21 Oct 2022 00:10:00 +0000 ヨナの悔い改め恵みによって(ヨナ書 1-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221021 no 2022 どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。 (ヨナ書4章11節) ヨナは、神からニネべの町に行って「彼らの悪はわたしの前に届いている」と呼びかけるようにと遣わされました。しかし、それに反抗して、違う方へと向かう船に乗り込み、海に投げ込まれます。そして、大きな魚に呑み込まれました。ヨナは、その腹の中で悔い改めて、ニネべへと向かいます。 悔い改めをもたらす御言葉を伝えるヨナ自身の心に神の御心に反抗するものが宿っていました。しかし、神は大きな御力によってヨナを導きながら、御心を成し遂げられました。ニネべの人びとも悔い改めて、神は宣告していた災いをくだすのをやめられました。ここに神の憐れみがあります。 それでもなおヨナは神の御心が理解できませんでした。心の底には、神に反抗するものがあり続けました。さらに神はヨナに親しく語りかけ、身近に事をなさって、わからせてくださいました。罪人である私たちが神への従順を学ぶ道筋でもあります。 今も、神はそのように私たちの心を導いてくださいます。キリストが私たちと共におられるからです。キリストは、はじめから神と心を一つにする御方として、人の弱さの中で従順を学ぶ道筋を歩み抜かれた御方です(ヘブ5章8、9節参照)。 【祈り】 主イエスよ、信仰の従順へと、日々、導いてください。 Thu, 20 Oct 2022 00:10:00 +0000 兄弟姉妹の不幸を眺めていてはならない(オバデヤ書 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221020 no 2022 兄弟が不幸に見舞われる日に お前は眺めていてはならない。 … その災いの日に 苦しみを眺めていてはならない。 (オバデヤ書12節~13節) オバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い預言書で、イスラエルの隣国エドムに対する神の裁きの言葉が語られています。 エドムが糾弾されるのは、イスラエルに対して不法を行ったからです。南ユダ王国はイスラエルの民の背信ゆえに滅亡することとなりましたが、エドムはその機に乗じて、南ユダに攻め込み、暴虐を働いたのでした。 エドムはイスラエルの隣国であり、民族の起源を辿れば双子の兄弟です。イスラエルはヤコブの子孫、エドムはエサウの子孫です。「兄弟ヤコブ」と言われるのはそのためです。それにも関わらず、エドムは兄弟に不法を働き、その不幸と苦しみを傍観しもしました。それゆえに神はエドムに対する裁きを告げながらも、「兄弟が不幸に見舞われる日に、お前は眺めていてはならない」と、隣人である兄弟に対する責任を求めたのです。 主イエス・キリストは聖書の最も重要な第二の掟として「隣人を自分のように愛しなさい」とお命じになりました(マタ22章39節)。私たちは隣人である兄弟姉妹の苦しみの時に、ただ眺めているだけではなく、隣人のために祈り、支える者となりたいと思います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ15章12節)。 【祈り】 主よ、私たちの隣人を愛することができますように。イエス・キリストの愛を与えてください。 Wed, 19 Oct 2022 00:10:00 +0000 キリストによって等しい者(フィレモンへの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221019 no 2022 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。 (フィレモンへの手紙11節) 多くの損害を負わされ、裏切った相手を赦すことは、簡単なことではありません。その裏切り者が自分の奴隷だとすれば、今すぐにでも処刑するほどの怒りの対象となるでしょう。主人であるフィレモンから逃げた奴隷のオネシモを、パウロはフィレモンに送り返します。そして、パウロは、生まれ変わったオネシモを赦し、オネシモと協力して働きたいと切に願います。 罪の奴隷だった私たち人間は、イエス・キリストによって兄弟姉妹となりました。これが福音の力です。パウロは、イエス・キリストが人間のために十字架の上でなさったことに従い、フィレモンとオネシモとの崩れた関係を回復してくださいました。そして、イエス・キリストによって生まれ変わったオネシモを「役立つ者となった」と言います。なぜなら、パウロ自身も経験したように、イエス・キリストによって生まれ変わった人は、教会に欠かせない存在であり、主にある交わりの中で互いに役立つ人となるからです。 このようにイエス・キリストによって生まれ変わった私たちも以前はそうではありませんが、主イエスの中でお互いに役立つ者となるのです。 【祈り】 イエス・キリストの赦しの恵みによって役立つ者となった私たちが、この世で尊く用いられますように。 Tue, 18 Oct 2022 00:10:00 +0000 神の愛と憐れみの現れ(テトスへの手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221018 no 2022 わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は…御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。 (テトスへの手紙3章4節~5節) 主なる神の愛は、私たち人間の悪意やさまざまな罪の中においても惜しみなく発揮されます。その愛の救済行為は、救ってやろうというようなお心ではありません。神の愛とは抑えきれないほとばしりの表明です。 神は自由と尊厳の中で「わたしたちの救い主である神」であることを欲しておられたのです。そのことは、イエス・キリストが人間としてお生れになられたことで分かります。私たちが少しでも良いことができるならば、私たち人間の良さや素質とは一切関係なく、ただ創造者の慈しみによることを知ります。 この愛と慈しみの行為において、キリスト者は罪の諸悪から解放されて、その神の自由において御国へと移されるのです。このことは決して逆転できない方向性を持っています。その救いにあずかった者は、神の人間に対する愛に促されて自らの生き様を通して証しするほかありません。 讃美歌262番の1節に「神の義と愛のあえるところ」という歌詞があります。神の憐れみは私たちの罪の赦しのために御子を十字架に架けられる義と愛となりました。 パウロの宣教の言葉は神の愛の命令です。後輩のテトスを、「父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和」(1章4節)に委ねて、祝福しています。 【祈り】 礼拝の終わりの派遣と祝福において、神の恵みと平和を祈ります。 Mon, 17 Oct 2022 00:10:00 +0000 神の義と愛のあえるところ(テトスへの手紙 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221017 no 2022 キリストが…御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 (テトスへの手紙2章14節) 神はまことに恵み深い方です。と同時に恵みを示した私たちにご自分を強く主張されます。そのとき、私たちの内にあるさまざまな抵抗は打ち砕かれます。それは神を心から恐れることによって知り得ます。神の恵みが深ければ深いほど、私たちの内に抑えておけないさまざまな悪や欲望や抵抗があぶりだされます。 神の啓示はまさに神の愛の啓示です。それゆえに反対する私たち人間に対して立ち上がる啓示となります。そうです、信じられないことですが、そのような私たちの反対の中でさえ、神が本質的に愛であり恵みであるお方として一層認識されます。 その愛の啓示は、御子イエス・キリストの十字架の場面に刻み込まれました。そこにおいて敵対者の悪と神の義と愛が交差しました。私たちの生活は十字架の前で完全に覆いを取られました。そのようにして、私たちがどのような罪深い者であることかがえぐりだされました。しかし、主キリストの十字架により、あらゆる悪があぶりだされたからこそ、それらの罪が贖われ、私たちは救い出され清められたのです。 パウロは若いテトスを遣わすにあたり、十分な権威をもって語り、勧め、戒め、侮られないようにと諭します。 【祈り】 ここは教師任職式を思い出す重たい言葉です。尊い務めであるがゆえに、キリストが仕えてくださったように、用いたいものです。 Sun, 16 Oct 2022 00:10:00 +0000 惜しみない心で差し出す(詩編 112編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221016 no 2022 貧しい人々にはふるまい与え その善い業は永遠に堪える。 (詩編112編9節) 詩編112編は、この前の111編と対になっています。111編の結びには、「主を畏れることは知恵の初め」とあり、112編の冒頭には、「いかに幸いなことか、主を畏れる人」(1節)とあります。111編ではひたすら主なる神が賛美されているのに対して、112編ではこの恵みの主を畏れて生きる人の幸いが歌われています。彼の子孫は祝福され、彼自身も多くの富に恵まれます。さらに、彼は闇の中にあっても光を与えられます。 しかし、彼はこのような神の祝福、幸いを自分のためには決して用いようとはしません。彼は「貧しい人々にふるまい与え」ます。決して彼はこのことで誇ったり、また貧しい人をさげすんだりもしません。 きょうの9節の御言葉はコリントの信徒への手紙二で引用されています。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」(9章9節)。カルヴァンは詩編注解の中でこう説明しています。「豊かな財貨をわれわれに与えることは、神にとって容易であり、したがってわれわれは気前の良さを正しく用いなければならない」と。 つまり、神ご自身が気前よく私たちに恵みをくださったのだから、私たちもそうするのだ、と。 【祈り】 あなたがそうしてくださったように惜しみない心と喜びの心で私たちも与えることができますように。 Sat, 15 Oct 2022 00:10:00 +0000 祭壇の傍らに立つ主を畏れよ(アモス書 6-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221015 no 2022 わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。 「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。 すべての者の頭上で砕け。」 (アモス書9章1節) アモスが見る五つの幻は、回を追うごとに厳しさを増します。9章が描く第五の幻は、一切の希望を根底から打ち砕く容赦ない審判をもって読者に迫ります。この厳しさの背後には、イスラエル宗教の虚飾と崩壊、そしてイスラエル社会を覆う不義と分断があります。 主が聖所の傍らにお立ちくださる。それは本来なら最も祝福に満ちた情景です。祭壇はイスラエルの信仰と生活の中心です。祭壇から神の恵みが溢れ、人間生活の公正がそこで保証されるはずです。けれどもアモスの時代、祭壇は礼拝と社会生活の歪みと腐敗の源でした。神はそのような祭壇を揺り動かし、礼拝する者らの頭上に瓦礫が降り注ぐよう命じておられます。神を畏れることを止めた「宗教」の末路がここにあります。 けれども、霊と真理の礼拝を失った人間と世界に、神は独り子イエスを賜りました。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる」とイエスは言われます(ヨハ2章19節)。十字架と復活の主こそまことの祭壇です。主イエスが実現された祭壇は、赦しと和解の礼拝を生み出す源です。この祭壇に集う共同体は、福音の宣教と神の国実現のため、世界に向けて派遣されます。礼拝が義と公正の源となる。それが、祭壇の傍らに立つ主から託された教会の使命です。 【祈り】 感謝と喜びをもって、主イエスが築かれた祭壇に集います。 Fri, 14 Oct 2022 00:10:00 +0000 「求めよ」と神は招いてくださる(アモス書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221014 no 2022 まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。 わたしを求めよ、そして生きよ。 しかし、ベテルに助けを求めるな ギルガルに行くな (アモス書5賞4節~5節) 神を求めることは聖書の信仰の生命です。主イエスも命じておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタ7章7節)。 けれども、預言者アモスの鋭い観察眼に映るのは、明るく誠実な神への求めを失ったイスラエルの現実です。5章冒頭の部分では、イスラエルの家のために「悲しみの歌」が奏でられます(1~3節)。イスラエルを覆うのは、希望の光でなく、失意と死の匂いです。救いを求める切なる祈りは絶え、高慢と自己過信、偽りの礼拝と空騒ぎが悪臭を放つのみです。 一方で神は、真実な求めには命が約束されると語られます。「求めよ、そして生きよ」という力強い招きが繰り返されています(4、6節)。ベテルやギルガルへの賑やかな巡礼が命を生むのではない。生ける神は「わたしを求めよ」と迫っておられます。求めることに前のめりになることを神は願われます。 私たちが主を求めるより先に、主が私たちを求めておられます。神は私たちから遠い方ではないからです。神は独り子を与えるほどに世を愛し、御子を十字架にまで送られました。世界と人間の悲惨から身を引かない決意が、独り子の派遣によって実現しました。キリストこそ、主の近さのしるし、その実現です。ためらわずに主を求め、命の道を進みましょう。 【祈り】 御子を通して実現した神の招きに、今日も従えますように。 Thu, 13 Oct 2022 00:10:00 +0000 神に会う備えはありますか?(アモス書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221013 no 2022 それゆえ、イスラエルよ わたしはお前にこのようにする。 わたしがこのことを行うゆえに イスラエルよ お前は自分の神と出会う備えをせよ。 (アモス書4章12節) 預言者アモスは、イスラエル社会に沈殿する霊的な不真実を、厳しく問い詰めています。見たところ華々しい宗教生活が、その実、自己宣伝の匂いを漂わせていることを預言者は見抜きます(5節)。 預言者は、イスラエル社会のすべての階層に神への真実な応答が失われていることを、広範囲で精妙な観察によって描き出しています。何よりも重大な問題。それは「立ち帰れ」と叫ぶ神の招きに耳を傾けない霊的なかたくなさです。「わたしに帰らなかった」という神の失意と嘆きが5回も繰り返されています(4章6、8節ほか)。神の忍耐と寛容を試しているイスラエルは、世界と人間の霊的不毛の象徴でもあります。 ですから、「自分の神に出会う備えをせよ」という神の呼びかけは、一方で裁きの厳しさを宿しています。胸を打ち叩く悔いと嘆きが、まず私たちの魂の底に湧きおこることを神は待っておられます。 うわべの信心の装いをはぎ取り、真実な出会いを備えるため、独り子イエスは十字架を負われました。十字架に示された神の愛から、私たちを引き離すものはどこにもありません。十字架は神の誠実さの極み、神の真剣な挑戦です。十字架の尊厳と低さに示された神の愛に出会うこと、そこに教会と世界の希望があります。 【祈り】 十字架のもとで実現する神との出会いに信頼します。 Wed, 12 Oct 2022 00:10:00 +0000 選ばれて生きる民の責任(アモス書 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221012 no 2022 地上の全部族の中からわたしが選んだのは お前たちだけだ。 それゆえ、わたしはお前たちを すべての罪のゆえに罰する。 (アモス書3章2節) 預言者アモスは、紀元前8世紀前半の限られた期間、神に召されてイスラエルの預言者とされました。家畜を飼い、いちじく桑を栽培する農民であり(7章14節)、職業的な預言者でも祭司の家系でもありません。 知識人でも都会人でもないアモスは、しかし、広い国際的な視野と深い社会的な洞察を備えた預言者でした。当時のイスラエルは、経済が安定し、近隣の強国からの圧迫もなく、平穏を享受していました。けれどもアモスは、その繁栄と安定が表面的で、社会の深層では分断と崩壊のきざしが芽生えていることを見逃しません。 イスラエルの自己過信は、自らの選びを誇る霊的な高慢と一体でした。地上のどの民族と比べても、小さく卑しい民、それがイスラエルです。 教会とキリスト者の選びも同様です。選びの根源は神の自由な愛と憐れみです。よって、そこには御言葉に従い、御業に励む責任が生じます。「選びの自覚と確信は、決してわたしたちを傲慢にしたり、主の業に励むことを怠らせはしません」(創立50周年「予定についての信仰の宣言」)。神は、イエス・キリストを通してイスラエルと教会をお選びになりました。選び出された主の民は、神の国実現に仕える僕として光栄ある務めを託されています。小さき者の献身を用いる主に栄光がありますよう。 【祈り】 選びの愛に信頼し、骨惜しみせず仕える僕としてください。 Tue, 11 Oct 2022 00:10:00 +0000 十字架の闇を光に変える主の日を仰ぐ(ヨエル書 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221011 no 2022 その日が来ると 山々にはぶどう酒が滴り もろもろの丘には乳が流れ …谷には水が流れる。 泉が主の神殿から湧き出て シティムの川を潤す。 (ヨエル書4章18節) 主の憐れみを契機として、大災害からの回復という転換を迎えるとき、そこで求められることは、心からの悔い改めです。いなごに食い尽くされた大地で祭司たちに命じられたことは、主に向かって嘆きの叫びをあげることでした。それは、「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」(2章13節)と命じられるように、口先だけの外面的な悔い改めではなく、真心からの悔い改めであり、神に立ち帰ることです。 私たちは、さまざまな災禍に直面して、大きな不安や恐れを抱くことがあります。しかし、そのような中で、心から神を恐れることを教えられます。また、万物が神によって造られたことを覚えて、すべての日が神の御手の中にあることを改めて認めることへと導かれるのです。 ヨエル書において告げられる「主の日」は、恐るべき神の裁きの日です。しかし、その神の裁きを御子が十字架の上で背負ってくださいました。悔い改めるべき罪人は、その十字架においてのみ、闇を照らす永遠の救いの光、キリストを仰ぎ見ることができます。このキリストが与える水が私たちの内で泉となるとき、私たちは永遠の救いの実りを共に喜ぶ者とされるのです。 【祈り】 主よ、あなたの十字架の愛をすべての人が信じて、あなたを呼び求める者となるようお導きください。 Mon, 10 Oct 2022 00:10:00 +0000 主の強い愛と憐れみによる災いの転換(ヨエル書 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221010 no 2022 そのとき 主は御自分の国を強く愛し その民を深く憐れまれた。 (ヨエル書2章18節) 預言者ヨエルと言えば、聖霊降臨の日に、使徒たちがエルサレムで立ち上がって、説教を語り始めたとき、ペトロが最初に引用した預言を告げた人として知られます(使徒2章)。それは、老若男女を問わず、主の霊が降ることを預言するものです。しかしながら、主の言葉がヨエルに臨んだ頃、主の霊が降ることは、ごく限られた真の預言者たちのみでした。 ヨエル書には時代を示す用語がないため、背景の理解が分かれます。伝統的には、ヨエルは最初期の預言者の一人であると言われます。そう考えるなら、ヨエルは若い頃、干ばつの終わりを告げたエリヤ(列王上18章41節)や、主の飢饉を告げたエリシャ(列王下8章1節)を知っていたかもしれません。とすれば、いなごの災いによる飢饉の預言は、ヨエル自身が幾度となく伝え聞いた災いにまさる大災害とも理解されます。また、バビロン捕囚後の預言者と見れば、いなごの災いは、何らかの外敵の侵入という強大な脅威と解されます。 いずれの理解でも、この大災害からの回復を告げる契機は、ただ、主のねたむほどの「強い愛」と「深い憐れみ」です。ここからヨエル書は災いからの回復に転換し、主の成し遂げられる豊かな祝福を告げます。 【祈り】 主よ、あなたの強い愛と憐れみによって、すべての人をあらゆる災いから救い出してください。アーメン Sun, 09 Oct 2022 00:10:00 +0000 世界の支配者主イエス(詩編 110編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221009 no 2022 わが主に賜った主の御言葉。 「わたしの右の座に就くがよい。 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 (詩編110編1節) この御言葉は、もともと王の即位式で用いられてきたものです。しかし、やがて、神の右に座す勝利と栄光のメシアを証し、賛美する言葉として読まれるようになりました。 主なる神ご自身が栄光のうちに王を即位させ、ご自分の右の座に座らせられます。右の座は、絶対的な権威を表すしるしです。王は神の右に座し、神の支配を実行し、民のための仲介者となります。この王の支配は、敵への勝利においても表されます。神は敵を、王の足元に置かれます。敵に対して勝利されるのは神ご自身ですが、王もまたこの勝利にあずかり、神の力と栄光があらわされます。 ペトロは聖霊降臨における説教で、この御言葉を引用しています。彼はキリストの復活によってこの王の即位が実現し、これからはキリストが神の右の座に着き、世を支配されることを告げ知らせました(使2章29節~35節)。 このことは私たちに生きる力と望みを与えます。主イエスが天地万物を治めておられます。どんなに神に逆らう悪しき力が働いていても、この方こそが勝利者です。主イエスは私たちの救い主として今も救いのためにお働きになっておられます。賜物と恵みを与え、執り成しの祈りをしてくださっています。 【祈り】 天にいまし、全能の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストを仰ぎ見させてください。 Sat, 08 Oct 2022 00:10:00 +0000 壊れているけど捨てられない(ホセア書 11-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221008 no 2022 ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。 イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。 … わたしは… 憐れみに胸を焼かれる。 (ホセア書11章8節) 皆さんの腕時計は正確ですか?時計の役割は、正確な時間を示すことです。もし自分の腕時計が壊れてしまい、これ以上時計としての機能を果たさないとなれば、やがて捨てるでしょう。 しかし、もしその腕時計が、あなたにとってただの時計ではなく、婚約式の日に愛する人と交換した時計だったとしたらどうでしょう。10年目や20年目の結婚記念日に愛する人とお揃いで買った時計だったとしたらどうでしょう。それでも、正確な時間を示さなくなったら、もう用はないと言って捨てますか?高い修理代を払ってでも、大事に持っておきたいのではないでしょうか。 神は、イスラエルの民が役に立つ存在だから愛されるのではありません。お利口さんだから導かれるのでもありません。「エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ」(3節)。エフライムとは北イスラエルのことです。親が幼い我が子の両手をもって、あとずさりしながら一歩一歩、歩くのを教えるように、神はエフライムを育てました。特別な我が子だから、神はエフライムを見捨てることはなさいません。イスラエルを引き渡すなどできません。 あなたも神の特別な「我が子」です。どのようなあなたでも、神はあなたを見捨てることができません。 【祈り】 主よ。神の子どもとして生きる幸いを、もっと深く教えてください。 Fri, 07 Oct 2022 00:10:00 +0000 希望の畑に種を蒔こう(ホセア書 8-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221007 no 2022 恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。 新しい土地を耕せ。 主を求める時が来た。 ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように。 (ホセア書10章12節) 「新しい土地を耕せ」。やがて愛の実を刈り取ることができるように、新しい土地を耕して、種を蒔きなさい、という主からのメッセージです。 イスラエルでの農業は、11月頃の「秋の雨」を待って土が柔らかくなると、畑を耕し始めます。そして種を蒔き、そこに主が、穀物を実らせるための恵みの雨を降らせてくださることを信頼して待ちます。 主の恵みを信じて、今まで耕していなかったところを耕してみなさいと主は呼びかけておられます。神に背いて偶像崇拝に陥っていた北イスラエルの民にとって、それは、まことの神さまに立ち帰ることであり、心から悔い改めることを意味しました。そして、「恵みの業をもたらす種を蒔け」と主はおっしゃるのです。 私たちが、これまで耕してこなかった「新しい土地」とは何でしょうか。信仰の鋤と鍬を手にして、耕すべき新しい土地とは何でしょうか。ある人にとっては新しい奉仕を始めることかもしれません。あるいは家庭礼拝を始めること。教会に来なくなったあの人に手紙を書いてみること。 信仰をもって鍬を入れてみましょう。主が、やがて恵みの雨を注いでくださることを信じて、始めてみてはいかがでしょうか。天はすでに雨雲がおおっているかもしれません。 【祈り】 主よ。信仰をもって、新しい土地を耕し種を蒔いてみます。恵みの雨を注いでください。 Thu, 06 Oct 2022 00:10:00 +0000 神を知り自分を知る「自分探し」(ホセア書 4-7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221006 no 2022 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。 (ホセア書6章6節) 神に背き続けた北イスラエル王国は、いよいよ国家滅亡の危機を迎えます。厳しい現実に直面したイスラエルの人々は、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし」てくださるだろうと、期待を込めて語ります(1節)。とにかく神の御怒りを避けるために、うわべだけの悔い改めの儀式を行ったのでした。 しかし、神は、これが心からの悔い改めでないことをよくご存じでした。神が喜ばれるのは、愛であって、いけにえではない。神を知ることであって、形だけの献げ物ではないのです。 もし、イスラエルの民が神と向き合い、神からの御言葉を真剣に聞いていたならば、自分たちがいかに神から遠く離れたところを歩んでいたのか分かったでしょう。イスラエルは、神を見失い、自分自身を見失っていました。 「自分探し」という言葉があります。「本当の自分とは何か」、「自分の存在の意味は何か」を問うのです。この問いの答えは、私たち一人ひとりをお造りになった神との出会いなしには与えられません。このお方と出会うときに、私たちは自分が何のために存在し、何をなすべきかを知るのです。「自分探し」とは、創造者なる神に帰り、神を知ることなのです。 【祈り】 わたしをお造りになった神様、あなたを知り、自分自身のことをもっと知ることができますように。 Wed, 05 Oct 2022 00:10:00 +0000 愛は正しさを超えていく(ホセア書 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221005 no 2022 主がホセアに語られたことの初め。 主はホセアに言われた。 「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。」 (ホセア書1章2節) ホセアは、神に背き続けたイスラエルの民に向かって、やがて来る神の裁きを語りました。しかし、それ以上に、それでもご自分の民を見捨てることのない神の愛を、言葉と行いにおいて示し続けた愛の預言者でした。神は、ホセアを通してご自身の愛を語っておられます。「主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ』」。 ホセアは耳を疑ったのではないでしょうか。姦淫した者は、「男も女も必ず死刑に処せられる」(レビ20章10節)。これが神の律法だからです。「姦淫の女を裁きなさい」なら理解できますが、「姦淫の女をめとりなさい」と、神は語られたのです。神の正しさの根底には、どこまでも深い愛があることが教えられています。 私たちは、「自分の正しさ」を主張し、相手を受け入れることができず、裁いてばかりいる時がないでしょうか。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主イエスはおっしゃいました(マコ2章17節)。私たちが、「自分の正しさ」から少し離れるとき、そこに、主イエスの十字架の血潮が流れます。それは、わたしのためにも、あの人のためにも流された尊い十字架の血潮です。 【祈り】 受け入れることの難しい人を、きょうは愛することができますように。 Tue, 04 Oct 2022 00:10:00 +0000 折が良くても悪くても宣べ伝えなさい(テモテへの手紙二 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221004 no 2022 御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。 (テモテへの手紙二4章2節) 伝道者パウロの遺筆と呼ばれるテモテへの第二の手紙の最後の勧めです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」。 たとえ周囲の状況が好ましくなくても、内側の体制が十分に整えられていなくても、伝道者がなすべきことはこれ以外にはありません。 このことをパウロが命じる理由は、次第にローマ帝国による教会への迫害の激しさが迫っているからですし、人びとが神の真理に耳を傾けるよりも自分の好みや世の関心にだけ注意を払っていたからです。しかし、パウロは、テモテが幼い頃から聖書に親しみ、聖書に養われ、聖書が救いの恵みと伝道者として立たしめる原動力であることをよく知っていました。神の言葉だけが困難を打ち破る力と知恵を持っているからです。 牧師の務めは、未だ福音を聞いたことがない人に告げ知らせること、救われてキリストのものとされた神の羊たちの魂を配慮すること、そしてそれらを通してキリストの体なる教会を建て上げることにあります。改革派教会の伝道の特色は、教育的伝道と呼ばれるものです。聖書を熱心に教えること、家庭において信仰が継承されることを基本としています。この基本が大事にされることを教会あげて祈り求めたいのです。 【祈り】 どうか御言葉が慕い求められ、神の真理が力強く豊かに解き明かされますように。 Mon, 03 Oct 2022 00:10:00 +0000 キリストの立派な兵士として(テモテへの手紙二 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221003 no 2022 キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。 (テモテへの手紙二2章3節) パウロが著した書簡の中で最後の手紙がテモテへの第二の手紙です。ここでは、先輩から後輩へ語り継ぐ厳しい調子ではなく、父がわが子に親しく語りかけるような深い愛情に満ちた面持ちが深く感じられます。 何よりもパウロは、テモテに対しキリストの僕として良き働き人となるように勧めます。その一つのあり方が「キリストの立派な兵士」にたとえられています。ローマ帝国を支えたローマ兵士たち。しかも、その兵士たちは、エフェソ書6章に出てくる重装備のいでたちでなく、街角でよく見かける一般の兵士になぞらえられて語られています。 当時の兵士の心得として、完全な服従・徹底した献身・勇壮な自己犠牲・死をも恐れない行動の堅持が求められました。 どうしてこんなに厳しい態度をパウロが求めたのか。それは私たちが戦うのは、最も手ごわい敵サタンだからです。このサタンとの闘いは、キリストによる恵みによって支えられなければ太刀打ちできません。 私たちを伝道者として召してくださった真の指揮官は、イエス・キリストです。罪の奴隷から御国の奉仕者とされた光栄と責任をしっかり受け止め、神の栄光のためによく戦う者とされたく願います。 【祈り】 どうか無牧の群れに伝道者が遣わされ、御国の進展と完成のために奉仕する者とされますように。 Sun, 02 Oct 2022 00:10:00 +0000 反抗する民を救われる神の憐れみ(詩編 106編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221002 no 2022 ハレルヤ。 恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。 (詩編106編1節) 詩人は、ハレルヤと語り始め、同じ言葉で結び、神を賛美しています。しかし、賛美と賛美の間に、先祖たちの神への反抗の歴史を語ります。先祖たちは、紅海をわたり、エジプトを脱出できた神からの恵みを忘れて、欲望のままに神を試みました(6~14節)。ホレブで金の子牛の像を造り、拝みました(19、20節)。異教の偶像にのめり込み、息子や娘を偶像にささげて、国を血で汚しました(34~38節)。捕囚によって国が滅びるまでの、神への反抗の歴史が語られています。 それにもかかわらず、今、詩人が救いの御業を賛美できるのはなぜでしょうか。それは、神が救いの契約をご自身の民のために思い起こされることを知っているからです(45節)。先祖たちを罪から救うという神の契約は変わることがありません。反抗する先祖たちに厳しい裁きを実行しながらも、その子孫を確実に救いへと導かれます。 この契約は、詩人たちに受け継がれ、キリストをとおして今を生きる私たちに受け継がれています。神に反抗する気持ちを捨てきれないのに赦されている私たちは、「主をほめたたえよ」と高らかに賛美しながら、恵みと憐れみと赦しのなかで生かされているキリスト者なのです。 【祈り】 神よ、あなたに反抗することの多い私たちを憐れみ、赦し、救いの恵みを賛美させてください。 Sat, 01 Oct 2022 00:10:00 +0000 お前の道を行き憩いに入る(ダニエル書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20221001 no 2022 「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。」 (ダニエル書12章13節) 燃え盛る炎、獅子の洞窟。異国の地での命を懸けた信仰の戦いがダニエル書には記されていました。それらの戦いを経て、ダニエル書の最後には、世界の「終わりの時」のことが記されています。ダニエルはそれを聞きますが、十分に理解することができません。すると、「もう行きなさい」と告げられます。「終わりの時」のことがすべて人間に明らかにされているわけではありません。しかし、ダニエルに対して神の言葉が最後に次のように告げられます。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい」。ダニエルが憩いに入る道を歩むことが神の御心でした。 旧約聖書に登場する信仰の先達たちは、長い道のりを旅しました。アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ。彼らは何も期待できないような道の中で神の祝福を経験しました。問われるのはどこにいるかではありません。何をするかでもありません。それよりも大事なことはどなたと一緒に歩んでいるかです。 主イエスは「わたしは道である」とおっしゃいました(ヨハ14章6節)。この方自身が「憩い」へと繋がる道です。どこであれ、どんな仕事であれ、どんな人間であれ、この方に繋がっているならば、その先には「憩い」が約束されています。 【祈り】 キリストと共に、憩いへと至る道を一歩ずつ踏み締めて歩んでいけますように。 Fri, 30 Sep 2022 00:10:00 +0000 人びとの荒廃と罪を見つめて(ダニエル書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220930 no 2022 わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も、近隣の民すべてから嘲られています。 (ダニエル書9章16節) キレイな店、キレイな道、キレイな駅。日本は「世界で一番キレイな国」と評されることが少なくありません。 しかし、そこに住む人びとの心はどうでしょうか。外見が整っていても、心が「荒れ」、心が「廃れ」てしまうことが少なくありません。 ダニエルは荒廃したエルサレムのために祈ります。彼は何度も何度も「罪」という言葉を重ねます。荒廃をもたらしたバビロンの罪を問うているのではありません。自分たちの罪を見つめ、告白しているのです。 人間は神に造られました。罪は神の怒りと憤りを受けます。だからこそ、罪が解決されないなら本当の意味での荒廃からの再建はありえません。人びとがエルサレムに帰り、神殿が立ち、家々が並んだとしても。 残念ながら、「わたしたちの正しさ」(18節)に訴えて、罪の解決を期待することはできません。主の「深い憐れみ」にすがるしかありません。 祈り続けるダニエルのもとに、天使ガブリエルがやってきます。彼はダニエルに「最も聖なる者に油が注がれる」と告げました(24節)。この天使が時を経て、マリアのもとに現れます。その方の誕生を告げるために。主の深い憐れみはこの方を通して示されました。この方のもとに罪の解決があります。 【祈り】 主イエス・キリストの十字架が罪を赦し、あなたとの関係を再建してくださいましたことを感謝します。 Thu, 29 Sep 2022 00:10:00 +0000 風と波と獣と「人の子」の支配(ダニエル書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220929 no 2022 見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。 (ダニエル書7章13節~14節) この世の権力は時として獣のように襲ってきます。ダニエルが見た幻はその様子を指し示していました。 風が吹き、波が立ち、4頭の獣が現れます。獅子のような、熊のような、豹のような獣が、さらにその3頭よりも恐ろしい第四の獣が現れます。獣は神の民である聖者に容赦なく襲い掛かります。獣は勝ち、獣は悩まし、獣は聖者を手中に治めます。そして、「一時期、二時期、半時期」の時が流れます。聖者らの過酷な戦いがなおしばらく続くことを暗示させます。 しかし、ダニエルはもう一方で、「権威、威光、王権」を受けた「人の子」の存在を見ていました。獣は定められた時までしか生きることはできません。それに対して、「人の子」の支配は永遠に続き、その統治は滅びることがありません。主イエスは裁判の席でこの箇所を引用されました。ご自身がまさに「人の子」であることを示されました。 風が吹き、波が立ち、獣が襲ってくるような信仰生活です。しかし、私たちが信仰によって見るべき真実の幻は人の子である主イエスの御力です。この方の言葉の御力です。 「主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(マコ4章39節)。 【祈り】 風も、波も、獣をも治めるイエス様の御力を信仰の目をもって見つめることができますように。 Wed, 28 Sep 2022 00:10:00 +0000 いつも通りの変わらない祈り(ダニエル書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220928 no 2022 家に帰るといつものとおり2階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。 (ダニエル書6章11節) 地上での戦いにおいて私たちにはいろいろな声が聞こえてきます。だからこそ私たちは、神の声を聞く習慣を身につける必要があります。 ダニエルは異国で絶大な信頼を得ました。周囲の人びとはダニエルを妬み、陥れる口実を探しますが、何も咎める点を見出すことができません。そこで、彼らは罠を仕掛けます。ダニエルが真の神を礼拝することを見込んで、30日間「王以外への祈り」を禁じます。この禁令を破る者は獅子の洞窟に投げ込まれると。ダニエルを標的とした罠が発動しました。 その禁令を知りながらも、ダニエルは「いつものとおり」神を礼拝します。誰にも見られないように、あるいは祈っていないように見せかけて祈ることもできたはずです。しかし、彼は「いつものとおり」祈るのです。家の窓がエルサレムに向かって開かれていたように、ダニエルの心は神に向かって開かれていました。 主イエスもまた、いつも通りの祈りを大切にされました。十字架を前に、「いつものように」、「いつもの場所で」祈られました(ルカ22章39、40節)。 いつも通りの祈りが神への信頼を築きます。いつも通りの祈りが神の栄光を現します。いつも通りの祈りが地上の戦いに祝福をもたらします。 【祈り】 神様に向かう、いつも通りの祈りのルーティーンをお与えくださり、その時間を祝福してください。 Tue, 27 Sep 2022 00:10:00 +0000 燃え盛る炎を越えて(ダニエル書 3-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220927 no 2022 「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」 (ダニエル書3章18節) 出エジプトにおけるアロン、王国時代におけるヤロブアム。イスラエルは、金の像を拝み神の裁きが下される悲惨な歴史を経験してきました。 ユダヤ人の3人の若者は、バビロンの王を通して同じ試練の前に立たされます。拒むことは、燃え盛る炎に投げ込まれることを意味しました。 燃え盛る炎を前にした彼らの答えは二重の響きを持っています。一方で彼らは、神がそこから救い出してくださる方であることを疑いません。しかしもう一方で彼らは、「そうでなくとも」、と祈ります。たとえこの状況から救い出されなかったとしても、「金の像を拝むことはない」、と言うのです。 神は全能です。しかし、人の思いは必ずしも神の御心と同じではありません。彼らはそれを踏まえた上で、神の導かれることが最善であると委ねます。燃え盛る炎に投げ込まれてすべてが終わる、ではなく、その向こう側を見ているからこその言葉です。 バビロンの王は、炎の中に「神の子のような姿」を見ます。それは「御使い」だったと語られます。そして、私たちには、死をも越えるまことの神の子がはっきりと示されています。この方が共におられるがゆえに、燃え盛る炎を越える、神の最善を求める祈りが私たちにも与えられます。 【祈り】 神様の偉大な力を信じつつ、あなたの御心に一切を委ねる祈りをお与えください。 Mon, 26 Sep 2022 00:10:00 +0000 天の糧に養われる神の民(ダニエル書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220926 no 2022 ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。 (ダニエル書1章8節) キリスト者が極めて少ない日本。この国に生きる私たちに、信仰の戦いについて多くのことを教えてくれる、それがダニエル書です。 バビロンの王ネブカドネツァルは、目を付けたイスラエルの少年の全身を染めようとします。バビロンの言葉と文書、バビロンの食べ物と飲み物。バビロンの神々に由来する名前。彼らは「自分は一体誰なのか」、と自分を見失ってしまうような境遇におかれます。その中にダニエルら4人がいました。 しかし、彼らは無批判にバビロンに埋没することなく、「決心し」行動を起こします。律法や神の民の良心に反する飲食を拒否しました。 キリスト者は、一方では何を食べるのも自由です。地上のすべてのものを神との関係において受け取ります。ですが、同時に、私たちはこの世のものだけで、「パンだけで」生きていくのではありません。天に本国を置く存在として、天のものに養われる必要があります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6章35節)。 本国である天からの養いを受ける神の民は、自分を見失うことはありません。 【祈り】 地上の国に埋没することなく、天を見上げさせ、天からの糧によって私たちを養ってください。 Sun, 25 Sep 2022 00:10:00 +0000 神の恵みを一つひとつ思い起こす(詩編 105編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220925 no 2022 それゆえ彼らは主の掟を守り 主の教えに従わなければならない。 ハレルヤ。 (詩編105章45節) 詩人は、「主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ」と語ります(5節)。イスラエルの救いの歴史とその恵みを思い起こしています。 アブラハム、イサク、ヤコブへと受け継がれた神の契約の恵み、ヨセフをエジプトの宰相として立て、イスラエルの民を繁栄させられた神の恵み、モーセを用いて成し遂げられた出エジプトの神の恵み、荒れ野の旅からカナン入国までに示された神の恵みです。そして最後の45節で、「それゆえ彼らは主の掟を守り、主の教えに従わなければならない。ハレルヤ」と結びます。 神の救いを経験した民が、その恵みを数えるようにして思い起こすのは、今から、「主の掟を守り、主の教えに従う」ためです。神の恵みを思い起こさなくなるとき、私たちは主の掟を守り、主の教えに従うことが難しくなります。 「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサ5章18節)。キリストからの恵みを一つひとつ思い起こし、感謝をささげ、ハレルヤと主を賛美しながら、主の掟を守り、主の教えに従う日々を積み重ねていきましょう。 【祈り】 神よ、あなたの恵みを忘れることなく、一つひとつを思い起こすことのできる一日でありますように。 Sat, 24 Sep 2022 00:10:00 +0000 神の命の恵みと水の流れ(エゼキエル書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220924 no 2022 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、…月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。 (エゼキエル書47章12節) 40章から、新しい神殿の幻が示されます。都エルサレムは陥落し、見える神殿は破壊されました。その中でエゼキエルは、全く新しい主の神殿の幻を見せられるのです。 きょうの箇所は、その神殿から流れ出る水の流れに焦点が当てられています。この水はとめどなく増え広がって海に流れ込み、海の水を汚れのないものとします。魚の種類は豊富になり、塩が取れ、果樹が絶えることなく実ると言われます。 主なる神の命の恵みが水の流れを通して明らかにされています。世界の初めにあったエデンの園も水の流れが豊かな場所でした。その後イスラエルの民は歴史の中で、水のない荒れ野で主に背き、王国ができても滅びてしまいました。しかし、その中で聖書は人が心から生ける神に立ち帰り、ただこの命を受けるようにと語ります。救い主イエスが与えるのもこの豊かな命の恵みです。そして、終わりの日においても川の流れが語られています。私たちはこの天の都に向けて信仰の旅をしていいます。 「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。…その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる」(黙22章1、2節)。 【祈り】 天の父よ、あなたが終わりの日に私たちのために備えてくださる恵みを感謝いたします。 Fri, 23 Sep 2022 00:10:00 +0000 主の熱い思いによって(エゼキエル書 38-39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220923 no 2022 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。 (エゼキエル書39章25節) 38章から39章には総首長ゴグという人物が登場し、ゴグが主に命じられて大軍勢と共に終わりの日にイスラエルを攻める様子が記されます。このゴグが何者なのか、私たちにははっきりと分かりませんが、恐らく終わりの日に信仰者を苦しめ敵対する勢力のことと思われます。 39章では一転して主御自身がゴグに立ち向かわれ、その武器は落とされ、彼らは完全に葬られることになります。彼らの死骸が猛禽や獣によって食べられる祝宴の様子まで語られています。 そのようなゴグの軍勢への主の完全な裁きがなされる時に、イスラエルの民は自らの咎の故に捕囚となったことを知り、民は一つとなって主を知るとの回復が語られます。これは、やがてイスラエルの民の捕囚からの帰還に止まらず、信仰の民の終末的な回復をも示すものです。 預言者は敵であるゴグに焦点を当てて語り続けてきました。しかし最後には、自分たちの咎から回復される民のことを語ります。それは、主が信仰の民に熱い思いを持っておられるからです。 私たち主の民の歩みも終わりの日に苦難からの栄光が約束されている歩みです。それは旧約時代から変わることのない信仰者の歩みなのです。 【祈り】 終わりの日の苦難の中でも堅く信仰に立たせてくださり、栄光に至らせてください。 Thu, 22 Sep 2022 00:10:00 +0000 これらの骨は生き返ることができるか(エゼキエル書 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220922 no 2022 「主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 (エゼキエル書37章9節) 主からエゼキエルに示された枯れた骨の幻は、エゼキエル書の中で最も有名な箇所と言われます。この幻に出る多くの骨は甚だしく枯れており、これらの骨はイスラエルの全家であり、希望の無い状況にあることが明らかにされます(11節)。エゼキエルがこの幻で見せられたのは、このような干からびた骨で満ちた絶望的な光景です。 しかし、このような状況から主が霊を吹き込まれると、骨はかたかたと音を立てて生き返ります。初めに塵に過ぎなかった人間が主からの命の息を吹き込まれて生きる者となった(創2章7節)こととも重なります。しかし、ここでは罪の悲惨の中で死んだに等しい人を生かす主の霊(息)の業が語られています。初めに人を創造された主は、人が罪の悲惨に陥ってからは、新しく創造するために力を働かせられるのです。 神の救いは、お前たちの墓を開きお前たちを墓から引き上げると言われるように(13節)、人を全く新たによみがえらせるものです。人は、この神を知って生きる者にされるのです。この神の救いは、やがて救い主キリストによって罪人が死からの復活に至ることをも示します。神の救いこそ、私たちを全く新たに造り変える絶望の中の唯一の希望です。 【祈り】 あなたは私たちに確かな希望を示してくださいました。それによって、私たちを新たなものとしてください。 Wed, 21 Sep 2022 00:10:00 +0000 わが聖なる名のため(エゼキエル書 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220921 no 2022 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。 (エゼキエル書36章23節) イスラエルの民の歩みが御前に汚れたものであったために、主の憤りが民に注がれます。その結果、民は他の国々に散らされ、裁きを受けることになりました(16~19節)。にもかかわらず民は、散らされた先の国々で、さらに主の聖なる名を汚します。しかし、主はその民に対してこう言われます。「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」と。 エゼキエル書では、あくまでも主の名こそが聖とされるべきことが繰り返し述べられています。お前たちのためではなく民に汚されたわが聖なる名のために、と繰り返し語られます(22節、32節)。私たちのためではなく、主の聖なる名のためにと聞くとき、私たちは自分たちが軽視されているように思うでしょうか。 しかしむしろ、主の名が聖とされるときにこそ、民に新しい心と霊が与えられ(26節)、掟に従って歩み、自らの悪い行いを嫌悪し(31節)、恥じる、と語られます。「御名が崇められますように」(マタ6章9節)と主の名を祈り願う私たちに、主は必ず応えてくださいます。主の名を願うときにこそ、私たちの心と霊も新しくされ、心からの悔い改めと新しい服従へと導かれるのです。 【祈り】 天の父よ、人間ではなく、あなたご自身を第一とする新しい心と霊を私たちの内に与えてください。 Tue, 20 Sep 2022 00:10:00 +0000 羊のために労する真の羊飼い(エゼキエル書 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220920 no 2022 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。 (エゼキエル書34章23節) きょうの箇所では、「イスラエルの牧者たち」と言われるユダ王国の指導者たちが問われています。これらの牧者たちは羊の群れである民を養うのではなく、かえって自分自身を肥え太らせ、過酷に群れを支配します。挙句の果てに、哀れな羊は散らされ、野の獣の餌食にされてしまいます。 しかし、羊には良い羊飼いがいなければなりません。そこで主は、「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と言われます(11節)。真の羊飼いである主は、群れの養いと憩いのため、群れを尋ね求め、連れ戻し、包み、強くする働きにその身を惜しまず献げます。 また同時に、その羊飼いは「一人の牧者」、「僕ダビデ」と呼ばれて、ただ一人の人が群れに真の憩いを与えることも明らかにされています。 主と等しい方であられ、ダビデ家の子孫であられるイエス・キリストこそ、過酷な世で生きる私たち罪人をご自身の平安の内に憩わせてくださる方です。この方こそ、群れの養いのために、その身を捨てられた真の牧者です。 主イエスが次のようにお語りになられます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10章11節)。 【祈り】 あなたがお遣わしくださった真の羊飼いによって、私たちの魂に真の憩いと平安を与えてください。 Mon, 19 Sep 2022 00:10:00 +0000 罪と裁きの果てにある主の救い(エゼキエル書 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220919 no 2022 我々の捕囚の第12年10月5日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。「都は陥落した」と。 (エゼキエル書33章21節) 捕囚の地であるバビロンに連行されたエゼキエルは、そこで主から預言者として見張りの務めを与えられます。彼は主の裁きがエルサレムに迫っていることをイスラエルの民に告げます。さらに悪人が立ち帰ること、ただこの一つのことが主の求めておられることだと語ります。 しかし、エルサレムから逃れた者によって、「都は陥落した」との決定的な知らせがエゼキエルにもたらされることになりました。 23節からは、もはや廃墟となったイスラエルに住む民の誤った誇りと都の荒廃が語られ、30節以降でもエゼキエルの警告は民に真剣に届いていない様子です。 このような惨憺たる神の民の状況がある中で、しかしエゼキエル書では都の占領という決定的出来事をきっかけに、これ以降主の救済が語られることになります。 民の罪が明らかにされ、主の裁きさえなされる時に、その向こうに広がる主の救済が明らかにされます。それは、あくまでも悪人であり裁きに値する人間を救う主の救済です。 私たちは、私たち罪人の裁きを十字架上で全て引き受けられ、復活によって罪と死に輝かしい勝利をされたイエス・キリストの神をただ仰ぐほかはないのです。 【祈り】 主よ、私たちの背きや過ちさえも明らかにされる中で、あなたの御救いに豊かに与らせてください。 Sun, 18 Sep 2022 00:10:00 +0000 罪を赦し秩序を回復される神(詩編 104編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220918 no 2022 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。 (詩編104編35節) 104編は、「わたしの魂よ、主をたたえよ」で始まり、神によって創造されたことを賛美する「ハレルヤ」で閉じられています。詩人は、神の天地創造と摂理の御業を細やかに描きながら賛美しています。光、天、雲、風を自由に用いられる、大いなる神の御業を賛美しています。 人には押し寄せる水を制御できませんが、神はその水に境を超えることを禁じられる、一方で、それを泉として湧き上がらせ、生き物の命を養われる、天の配剤を用いて、そこに生きる人を養われる、朝から夕まで人が働き、夜になると猛獣が動き出すという秩序を定めておられる、などなどです。 しかし、詩人は最後に「罪ある者」、「主に逆らう者」が跡を絶つようにと願っています(35節)。人の心の中に湧き上がる罪によって、人対人、人対被造物の秩序が壊されていることを知っています。そして、神だけが人の罪を取り除き、秩序を回復できるお方であることを信じているのです。 キリストによって罪赦された私たちもまた、秩序が壊されているという現実の中で、新しい天と新しい地の完成を待ち望みながら、礼拝をとおして、「ハレルヤ」と賛美し続けるキリスト者なのです。 【祈り】 わたしのためにキリストを遣わし、キリストにあって新しく創造してくださった恵みを感謝いたします。 Sat, 17 Sep 2022 00:10:00 +0000 罪のゆえに衰え嘆く(エゼキエル書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220917 no 2022 「頭にターバンを巻き、足に靴を履け。また、嘆いてはならない。泣いてはならない。お前たちは自分の罪のゆえに衰え、互いに嘆くようになる。」 (エゼキエル書24章23節) エゼキエルは、エルサレムの滅びとその結果であるバビロンへの捕囚を象徴する行為をするよう主から繰り返し命じられますが、ここで彼は、最も辛いことに直面させられる中でその行為を命じられます。 それは、「あなたの目の喜び」である妻(15節)が主によって取られることです。その時に「嘆いてはならない、泣いてはならない」と命じられます。ターバンを頭に巻き足に履き物をすること、また口ひげを覆わず嘆きのパンを食べないこと等、喪に服することを主から禁じられるのです。 妻が死んだ時、実際にその通りのことを行うエゼキエルを不思議に思って尋ねる人びとに、エゼキエルは、やがて民にとっての目の喜びであり誇りであるエルサレム神殿が汚され破壊される時に、民はもはやそのこと自体を嘆くのではなく、反対にそれをもたらした自分たちの罪を嘆くことになると言います(23節)。 私たちの内側には、何よりも嘆くべき自分の罪の問題があります。知らず知らずの内にその人の誇りとなり、目の喜び、心の慕うものになっていたものが砕かれ自分の罪に弱り衰える時、そのような破滅の向こうにこそ広がる神の救いを、この書は私たちに教えています。 【祈り】 あなたが必要とされる時、私たちの心さえも砕いてくださり、あなたの救いを真実に受け取る者とさせてください。 Fri, 16 Sep 2022 00:10:00 +0000 ただわが名のゆえに(エゼキエル書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220916 no 2022 「わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる。 (エゼキエル書20章44節) エゼキエルは民に、なぜ自分たちが攻められ国を追われて、今バビロンの地で捕囚となっているかを、これまでのイスラエルの歴史を語ることで明らかにします。 出エジプト、その後の荒れ野、そこからの約束の地での歩みが語られますが、そこで繰り返されるのは、主の命令→民の背き→主の怒り→主の名のための憐れみ、です。つまり、エゼキエルにおいては、出エジプト以来、イスラエルの歩みには主の前に良いところがなかったことになります。自分たちの父祖からの歩みが主の怒りと憤りの対象であったことが、預言者を通して捕囚の民に明らかにされるのです。 しかし、主は激しく怒りながらも、主の名の故にその伸ばした手を引き戻されます。その中でエゼキエルは、32節以降で主による救済をも語るのです。 鍵は、主に導かれて民が再びイスラエルの土地に導かれる時、民はわたしが主であることを知るようになり、その時に自らの悪を嫌悪すると言われることです(42、43節)。 神を知る時に、私たちは真実の自分の姿を知ります。「わが名のゆえに」、私たちも救い主キリストにおいて神を知る者にされたのです。 【祈り】 私たちがさまざまな困難の中にあっても、ただあなたを知る思いで私たちを満たしてください。 Thu, 15 Sep 2022 00:10:00 +0000 お前たちは立ち帰って生きよ(エゼキエル書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220915 no 2022 「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 (エゼキエル書18章32節) 今日の箇所には、イスラエルの民の間でもてはやされていた一つのことわざが出てきます(2節)。先祖の善悪の行いに応じて、その子孫に報いが生じることを意味しています。 確かに、主を否む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うと言われます(出20章5節)。しかし、このことわざからも、民は結局自分のすべての罪を先祖の責任とし、肝心の自らの罪に向き合うことがなかったのかもしれません。 その中で、エゼキエル書は個人の責任を明確にします。もしある人が正しく生きるならその人は正しい人であり(5~9節)、その息子が乱暴者であるならその罪故に彼は死に(10~13節)、さらにその子が父の行為を見て反省するならその子は彼自身が立ち帰った故に生きることになるのです(14~20節)。 ここで述べられている主の御心は、あくまでも自分自身がすべての背きから立ち帰ることにあります。そのように主に向けられた心こそ、「新しい心と新しい霊」です(31節)。 「お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われる主は、私たちのような者をも立ち帰らせてくださり、その心と霊を新たにすることがおできになる方です。この主に応えて、私たちは生きる者でありたいと思います。 【祈り】 私たちに自分の罪に向き合わせ、心からあなたに立ち帰って生きる者とさせてください。 Wed, 14 Sep 2022 00:10:00 +0000 わたしはお前に生きよと言った(エゼキエル書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220914 no 2022 しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、「生きよ」と言った。 (エゼキエル書16章6節) エルサレムへのこの預言は、エゼキエル書の中で最も長い預言です。 ここでは、エルサレムが望まれずに出生し捨てられた一人の少女として描かれ、その子を生かすために主が裸の彼女を十分に装わせ、愛される年頃になるまで育み、ついには女王のようになったことが記されています。また、主が衣の裾を広げて彼女を覆い契約を結んだことから(8節)、主とエルサレムとが婚姻関係となったことも明らかにされます。主に造られた人間にとっては、これ以上ない幸いです。 しかし、あろうことか彼女はその美しさを用いて、主以外のものと激しく姦淫を行うようになります。その相手は、偶像、さらには、エジプト人、アシュル人と広がり、もはや収拾がつかなくなってしまいます。主は激しく怒り、エルサレムへの裁きと滅びを宣告されました。しかし、このような滅亡的な都の状況がある中で主は、もはや人間の罪によって破れることのない永遠の契約を示されました(60節)。 人間の欲望は、止まるところを知らない恐ろしいものと言えます。私たちは、同じように血まみれで道に倒れていた私たち罪人に、唯一救いの手を差し伸べてくださったキリストに立ち帰るほかはありません。 【祈り】 私たち罪人に唯一手を差し伸べてくださったキリストを、心から喜ぶ者とさせてください。 Tue, 13 Sep 2022 00:10:00 +0000 神の民を覆う深刻な罪(エゼキエル書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220913 no 2022 「大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。」 (エゼキエル書4章12節) イスラエルの民に主の言葉を語るように召されたエゼキエルは、不思議なことにれんがの上に都エルサレムを刻むように命じられます(1節)。これを包囲し、陣営を設けて、城壁を崩すための破城槌を配備するようにと言われるのです(2節)。 これらはすべて、主がエルサレムに敵対しており、その結果実際にこの都が敵によって包囲され、攻め滅ぼされることを示しています。エゼキエルという預言者は、ただ主の言葉を語るだけではなく、このような象徴的な行為を繰り返し主から命じられた預言者でした。 彼は、イスラエルとユダの罪をそれぞれの期間身を横たえて負わねばならず、縄がかけられるためその期間寝返りを打つことも許されません。その間彼には僅かな食糧しか許されず(9~11節)、しかもそれらを人糞で焼いて食べるようにと命じられるのです。このように、やがて民は敵に攻められる中で水や食料に欠乏し、追いやられた先の国々で汚れたパンを食べることになります。 ここでエゼキエルに命じられた行為の内容の厳しさからも、民の罪がどれほど醜いものであったかを突きつけられます。私たちに必要なことも、自らの罪深さの中で、悔い改めて心から主に立ち返ることです。 【祈り】 神よ、あなたに反逆する愚かな罪人を心からあなたに立ち帰らせてください。 Mon, 12 Sep 2022 00:10:00 +0000 御言葉を真に味わおう(エゼキエル書 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220912 no 2022 「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。 (エゼキエル書3章3節) エゼキエルはユダ王国の滅びが迫っている時代に、捕囚の地バビロンで、同胞であるイスラエルに主の言葉を語る預言者として召されました。 しかし同胞とはいえ、エゼキエルが遣わされるのは、神への「反逆の民」、「恥知らずで、強情な人々」でした(2章3、4節)。このエゼキエルに主は繰り返し、「恐れてはならない」とお語りになられます(同6節)。 さらに彼は、主からの巻物を食べるようにという不思議な命令を受けました。そこに書かれてあったのは、「哀歌と呻きと嘆き」(同10節)という滅びゆくユダが陥っている罪の現実を告げる言葉です。これからそのような現状を民に警告するエゼキエルに、自らそれを食べて味わうことが求められます。しかし、その巻物を主から食べさせられたとき、エゼキエルが経験したのは蜜のような甘さでありました。 御言葉は人の罪の悲惨を明らかにします。しかし、それを味わい、腹で満たす者に「あなたの仰せを味わえばわたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」(詩119編103節)という満たしを約束します。神は御言葉に聞く者に、「蜜」という地上の豊かさに優る霊の恵みを豊かに味わわせてくださいます。エゼキエルもそのことを味わいました。 【祈り】 天の父よ、私たちにあなたの言葉への思いを与えてくださり、それを真に味わう者とさせてください。 Sun, 11 Sep 2022 00:10:00 +0000 わたしの魂よ主をたたえよ(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220911 no 2022 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。 (詩編103編8節) 「わたしの魂よ、主をたたえよ」で始まる103編は、捕囚期以降の作品と言われています。「主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」(7節)と語る詩人は、モーセの出エジプトと捕囚からの解放という救いを重ね合わせています。そして、解放を実現してくださった神に対して、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」とほめたたえています。 神に背き、偶像崇拝の罪に堕落したイスラエルの民でした。しかし、神はその罪に応じてあしらわれることなく(10節)、70年の時を経て、解放という救いの恵みを、イスラエルの子らに来たらせてくださいました。「主を畏れる人」(11、13、17節)、「イスラエルの子ら」そして「主の契約を守る人」(18節)とは、主を信じる人です。 出エジプト、捕囚からの解放へと受け継がれた罪からの救いの契約は、神の憐れみと慈しみと忍耐を経て、時満ちて、世へと遣わされた神の子キリストによって成就しました。キリストを信じている私たちは、その信仰によって、「わたしの魂よ、主をたたえよ」と神を賛美することのできるキリスト者です。神の恵みの中で生かされている者として、新しい一日を始めましょう。 【祈り】 永遠の救いの契約の中へとわたしを入れてくださった主よ、きょうもキリストの御名をほめたたえます。 Sat, 10 Sep 2022 00:10:00 +0000 長老たちによる按手の賜物(テモテへの手紙一 3-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220910 no 2022 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。 (テモテへの手紙一4章14節) 改革派教会では、新しく教師が誕生するとき、中会で教師と長老たちによる按手という儀式が執り行われます。この教師を聖霊によって守り導き、その務めを忠実に果たすことができるよう助けてくださいと、主に委ねるためです。わたしもそのようにしていただき、大勢の長老たちの手の重さをずっしりと受けとめました。そうして各教会・伝道所へ派遣され奉仕の業に当たることが許されます。大先輩のパウロもそのようにして使徒の務めに就き、そしてテモテもまた伝道者の務めに就いたのです。 ここには、伝道者の働きが個人的・自分都合によるのではなく、キリストの委託を受けての共同的・健徳的な教会の業なのだということが表されています。頭であるキリストの御旨に適い、主の求めに従ってでなければ何の意味もありません。 牧師の説教について、以前は孤独な辛い修養のように受け止めていました。しかし、例えば説教塾での共同研鑽の機会を与えられ、同労者、仲間と励むことで、共同体の言葉に気づかされていきました。共に祈り、共に奉仕し、共に仕え合うことを通して、キリストの御業は豊かに確かに実現していきます。中会の働きと各個教会の働きが一つに結ばれて、聖霊の豊かな実を結びますように。 【祈り】 どうか私たちを助け励まし、諸教会・伝道所を強めてください。中会が良き支えとなりますように。 Fri, 09 Sep 2022 00:10:00 +0000 罪人の頭である「わたし」が召された(テモテへの手紙一 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220909 no 2022 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、…わたしは、その罪人の中で最たる者です。 (テモテへの手紙一1章15節) キリスト教最大の伝道者パウロから訓練を受け、良き協力者であった若いテモテに書き送った手紙を読んでいきます。テモテは、パウロが第2回伝道旅行でリストラに立ち寄った時に見出した人物です。母と祖母の信仰に育まれた信仰熱心な若者で、パウロが伝道者として育て、彼の右腕となりました。そのテモテが、今、エフェソで苦労して伝道牧会していると聞き、彼を励まし立派な奉仕者とするべく書いたのです。 わたしも母教会の牧師から、「牧師学」を授けると言われ、牧師とはどんな働きをするのか、またどのような家庭を作るのかを神学生のときに丁寧に教わりました。40年以上も昔のことです。 パウロとテモテは、導かれ方も賜物も器も異なる奉仕者ですが、共通する点がただ一つあります。それは、キリストの僕であり、福音に仕える者なのです。その原点は、自分は取るに足らない罪人の頭であることです。これまでのパウロの奉仕を根底で支えたのは、まさにそのことであり、そのような「わたし」を主は憐れみ召してくださったからです、何の功もない、すべては教会の頭なる主の恵みの業なのです。 何も他の奉仕者と比べる必要はありません。一切を主に委ね、喜びと感謝をもって仕えていくことです。 【祈り】 教会の伝道牧会のために労苦するあなたの僕たちをお守りください。 Thu, 08 Sep 2022 00:10:00 +0000 動揺しないでしっかり立とう(テサロニケの信徒への手紙二 2-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220908 no 2022 主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。 (テサロニケの信徒への手紙二2章2節) パウロがテサロニケの人びとに宛てた手紙には、いずれもキリストの再臨について書かれています。2節では、キリストの再臨について広まっている偽りのニュースを正面から取り上げています。この噂は、テサロニケの若い群れの信仰の基盤を揺るがしました。心に疑いと恐れを与えてしまったのです。そこでパウロは彼らの注意を神の御業に向けさせて、励ましています。 「動揺」と訳された言葉は「揺り動かされる」という意味で、地震や津波のような激しい動きを指します。テサロニケの群れで起こっていたことは、物事がうまくいくかどうかについての穏やかな疑問ではありません。信仰的な確信を揺るがす疑念の地震であり、その結果、群れに大きな破壊をもたらしていたのです。 パウロは、神への信頼を揺るがされたり、キリストによる救いの確信を惑わされたりしないように勧めます。「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(3章5節)。神の愛とキリストの忍耐を思い起こして、固く立つよう励まします。 私たちも、救いの岩の上にしっかりと立ち、希望を将来に持って歩み続けましょう。 【祈り】 主よ、終末の不安に捕らえられることなく、キリストにある真実と希望に固く立てるよう、私たちを力づけてください。アーメン Wed, 07 Sep 2022 00:10:00 +0000 苦難の中で忍耐と信仰を示す(テサロニケの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220907 no 2022 …あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。 (テサロニケの信徒への手紙二1章4節) 使徒パウロは、テサロニケの信徒たちの信仰と愛がとてつもなく高まっているのを見ています。文字どおり、3節にあるように「信仰が大いに成長し」、非常に豊かになったのです。希望を持って忍耐した(1テサ1章3節)、彼らの最初の従順さは、厳しい迫害や苦しみの只中で、彼らをキリスト者として成長させました。 これは、危機的な時代に「教会が教会となる」という、非常にチャレンジングな課題です。これは、共同体の「決心」と「信仰」にかかっています。それもまた神の賜物であり、信仰共同体の中で維持される祈りに応えてもたらされるものです。これは、パウロがテサロニケの若い信仰共同体のために祈ってきたことです(11、12節)。 キリストを信じる者としてのアイデンティティを揺るぎなく保ち、信仰が大いに成長させられるよう励み、神の栄光のために尽くしましょう。また、苦難と不安の中で、神への信仰を強めるために、熱心に祈り、お互いに支えあっていきましょう。 私たち自身の苦しみや葛藤が意味のある成長の種となり、キリストにあって忍耐強い希望に満ちた人生を歩むことにつながりますように。試練によって成熟した信仰が示されますように。 【祈り】 主よ、御力により、善を求める信仰の働きを成就させてくださるように。アーメン Tue, 06 Sep 2022 00:10:00 +0000 主の再臨を待ち望む姿勢(テサロニケの信徒への手紙一 4-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220906 no 2022 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 (テサロニケの信徒への手紙一5章16節~18節) テサロニケの信徒への手紙一が各章ごとに「主の再臨」について述べているほど、当時、主の再臨は大きな話題でした。もちろん、テサロニケの教会の信徒は、再臨信仰を持っていました。しかし、主の再臨のときに、眠っている人びとが果たして復活するのかという問題で、大きく混乱していました。そこで、パウロは「主はわたしたちのために死なれましたが、それはわたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と語ります(5章10節)。つまり、主の再臨の前に死んだ、眠っている人びとも、キリストの再臨のとき、復活し、共に永遠に生きるということです。 では、目覚めている私たちは主の再臨をどのように待ち望むべきでしょうか。パウロは「いつも、喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」と勧めます。 私たちが持つべき姿勢は、何か非日常的で、非常識なことではありません。主の再臨を待ち望んでいる私たちに求められるのは、極めて日常的なことであり、極めて落ち着いた生活です。主の再臨を正しく理解しつつ、喜び、祈り、感謝するという普通の生活を営むこと、これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が私たちに望んでおられることなのです。 【祈り】 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しつつ、再び来られる主イエスを待ち望みます。アーメン Mon, 05 Sep 2022 00:10:00 +0000 信仰の働き愛の労苦希望の忍耐(テサロニケの信徒への手紙一 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220905 no 2022 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを… (テサロニケの信徒への手紙一1章3節) テサロニケの教会には「信仰」と「愛」と「希望」、この三つを基にした実がありました。それゆえ、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信徒の模範となりました(1章7節)。 まず「信仰」ですが、彼らの信仰は、偶像から離れて、神に立ち帰るという具体的な働き、つまり、行為を通して現れました(同9節)。また「愛」を持っていた彼らは、同胞のユダヤ人たちから苦しめられましたが、神を愛するがゆえに、様々な苦労を拒みませんでした。三つ目に「希望」ですが、テサロニケの教会の信徒は、希望をも持っていました(同10節)。パウロが「わたしたちが労苦し、奮闘するのは…救い主である生ける神に希望を置いているからです」と語ったように(1テモ4章10節)、彼らは、主イエス・キリストに対する希望のゆえに忍耐していました。こうして、テサロニケの教会には「信仰の働き」と「愛の労苦」と「希望の忍耐」がありました。 「教会とはこうあるべきだ」と、それぞれ持っている理想があると思います。伝道のため、教会継承のため、いろいろなことが求められていますが、教会において究極的に求められることは、信仰と希望と愛です。この三つは、いつまでも残るからです(1コリ13章13節)。 【祈り】 神様、私たちの教会が、信仰と希望と愛に、絶えず立ち帰ることができますよう導いてください。アーメン Sun, 04 Sep 2022 00:10:00 +0000 わたしは新しく創造されました(詩編 102編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220904 no 2022 後の世代のために このことは書き記されねばならない。 「主を賛美するために民は創造された。」 (詩編102編19節) 詩人は、「主よ、わたしの祈りを聞いてください」(1節)と神に呼びかけ、自身の病の苦しみを語ります。「骨は炉のように焼ける」、「心は草のように乾く」、さらに「わたしは呻き、骨は肉にすがりつき」(4~6節)と続け、パンをすら食べることができない病状であることを語ります。病に罹り、骨と肉がくっついてしまうほどに衰弱している厳しい状況です。 しかし、詩人は自分自身をシオンの回復に重ね合わせるようにして語ります。「主はまことにシオンを再建し、栄光のうちに顕現されます」(17節)。シオンの民が捕囚から解放され、やがてエルサレムに帰還して、主の御名を唱え、主を賛美することを望み見ています(22節)。それゆえに、後の世代に託する言葉を語ることができました。「主を賛美するために民は創造された」。たとえ病のために人生の半ばで取り去られたとしても、主を信じる後の世代が、主を賛美する新しい民として創造されるとの希望です。 きょうという一日、私たちもまた、後の世代の民として、キリストに結ばれて生かされています。どんな状況の中でも、神を賛美するために新しく創造された教会の民であることを改めて思い起こします。 【祈り】 神よ、わたしはキリストに結ばれて新しく創造されました。どうかこのわたしを用いてください。 Sat, 03 Sep 2022 00:10:00 +0000 神への望みが道を照らし出す(哀歌 3-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220903 no 2022 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。 (哀歌3章33節) 「助けを求めて叫びをあげても、わたしの訴えはだれにも届かない」と、哀歌の著者は言います(3章8節)。「助けて」と言うだけでも勇気がいることなのに、その声が無視され、見捨てられた状態です。 こうした現実に直面して、著者は、「わたしの生きる力は絶えた」と声を絞り出します(3章18節)。しかし、その言葉で終わりませんでした。そのすぐ後で、「ただ主を待ち望もう」と、なお神を求める言葉を出します。 人の生きる力が絶えたときに、その向こうに見えた神への望み。それは記憶でした。この哀歌の著者は思い出して言います。「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ、わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(3章19~22節)。この欠乏と貧しさの記憶が、神への望みを形作りました。 もちろん、貧しさそのものは、目的ではありません。それは哀しみ同様、旅の道具であって、神との交わりが目的地です。哀歌は歌います。「わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう」(3章40節)。 私たち一人ひとりに与えられた道には、確かな目的地があります。 【祈り】 神様。わたしの望みが絶えてしまうとき、あなたへの望みに道があることをおぼえさせてください。 Fri, 02 Sep 2022 00:10:00 +0000 哀しみから知りえる神に帰る道(哀歌 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220902 no 2022 主の御前に出て 水のようにあなたの心を注ぎだせ。 (哀歌2章19節) 哀歌は、古くは「エレミヤの哀歌」とも言われました。七十人訳ギリシア語訳聖書では序文があり、「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃して後、エレミヤは座して泣き…」という言葉で始まります。 「夜もすがら」(1章2節)泣いていた詠い手は、立つ力を失っていました。すべてが終わってしまった、という現状を目の前にしているからです。 絶望は、死に至る病と言われます。それは、私たちを日に日に「病み衰えさせ」ます(1章13節)。 しかし、人には命に至る悔い改めが残されています。神に帰る道です。この詠い手は言います。「主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ」(1章18節)。荒廃した現実は、神から離れた、という罪を思い起こさせます。 町が崩壊し、「育てた子を食い物にしている」(2章20節)とまで言われる悲惨な状態。それは他人ごとでは済まされません。だからこそ「シオンの城壁よ」と町全体に呼びかけます。「昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ」(2章18節)。今は哀しむ時だ、と。 哀しむことによってしか知りえない神に帰る道。それをこの哀歌は私たちに教えてくれます。 【祈り】 神様。涙を忘れてしまうことがあります。どうか、痛み、哀しむことのできる真心を与えてください。 Thu, 01 Sep 2022 00:10:00 +0000 罪が赦される神の時は必ず来る(エレミヤ書 46-52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220901 no 2022 その日、その時には、…ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。 (エレミヤ書50章20節) エレミヤは、かつて神から呼びかけられたとおり(1章10節)、諸国民に向けてもその言葉を残しました。 エレミヤ書だけでなく、イザヤ書やエゼキエル書などの預言書にも諸国民への預言はあります。なぜなら、神はイスラエルの神だけでなく、全世界の主であるからです。 神は歴史を導きます。神のご支配には国境がありません。大国も小国もそれらは滅びる時があり、建てられる時がある。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」、との言葉を思い起こします(コヘ3章11節)。 ユダを滅ぼしたバビロンも神が用いられる国であり、その役割を超えて自ら神となることは許されていません。その偶像は滅ぼされます。ですからその中にいるイスラエルに、「おのおの自分の命を救え。バビロンの悪のゆえに滅びるな」と神は語りかけます(51章6節)。 神の時は来ます。そして「その日、その時には」、「罪も見いだされない」神の国が完成します。 主イエスは言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1章15節)。 【祈り】 神様。しばしば時を見誤る私たちです。しかしあなたのもとには罪の赦しがあります。感謝いたします。 Wed, 31 Aug 2022 00:10:00 +0000 どこに行っても与えられる神の守り(エレミヤ書 40-45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220831 no 2022 「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」 (エレミヤ書45章5節) エレミヤの言葉を巻物にまとめたバルクはかつて言いました。「ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない」(45章3節)。 エレミヤの口から語られる神の言葉を書き留めることは、彼と共にその言葉に生きることでした。それは、神の御心を知るための苦しみであり悲しみでした。語っても聞かれない言葉を書き留めることに何か意味があるのか。苦しみが募ります。 神はエレミヤを通してバルクに「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか」と問います。自分への期待から自由にするためです。そして神が裁きをくだす「全世界」に期待するのでもなく、ただあなたに対する神の「守り」を見よ、と語ります。それは「どこへ行っても」与えるもの。エレミヤもこの言葉をバルクに取り次ぎながら、聞いていました。 やがて国は滅びます。残された貧しい民は、それでも神に刃向かい、エジプトの神々に頼ります。エレミヤも洪水のようにエジプトに向かった民と共にいてその地で命を落としたと言われます。神の言葉を受け入れない民と共にいたエレミヤは、かつて自らに語りかけられ、そしてバルクに語った神の守りの証人でした。 【祈り】 神様。数多くのあなたの証人を与えて、そこにあなたの守りを見ることができます。感謝いたします。 Tue, 30 Aug 2022 00:10:00 +0000 その日に神はあなたを救い出す(エレミヤ書 34-39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220830 no 2022 「しかし、その日に、わたしはあなたを救い出す、と主は言われる。あなたが恐れている人々の手に渡されることはない。」 (エレミヤ書39章17節) 南ユダの最後の王ゼデキヤは、「主の目に悪とされることをことごとく行った」(王下24章19節)と言われる王ですが、一方でエレミヤを保護した王でもありました。 エレミヤが、バビロンに降伏しないとこの国は滅びると言って人びとの怒りを買い、死の危険に晒されたとき、王は、彼を監視の庭に拘留しました。 拘留という形で、エレミヤは保護されますが、そこでも彼は役人たちから命を狙われ、水溜めに投げ込まれます。そんなときに、クシュ人の宦官エベド・メレクは、その状況を王に報告します。それを聞いた王は、エベド・メレクにエレミヤを助けるように命じます。エレミヤは、こうしてこのクシュ人の宦官によって助けられました。 やがて国が滅ぼされるときが来ます。しかしそのとき、征服者であるバビロンの王ネブカドネツァルは、エレミヤを「連れ出し、よく世話をするように」と言って、彼を解放します。 このように不思議にエレミヤは守られました。それは神の言葉が保存されるためであり、聞かれるためです。「わたしがあなたと共にいて、救い出す」とかつてエレミヤは神に語りかけられました。エレミヤは、この真理を身をもって経験したのです。 【祈り】 神様。私たちも今、あなたの歴史を貫く言葉に生かされていることを感謝いたします。 Mon, 29 Aug 2022 00:10:00 +0000 神の恵みは罪の根深さより深い(エレミヤ書 30-33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220829 no 2022 わたしは、彼らと永遠の契約を結び、…わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。 (エレミヤ書32章40節) イスラエルとユダの歩みは、「建てられた日から今日に至るまで、わたしを怒らせ憤らせてきた」(32章31節)と神から言われるほどに、罪に罪を重ねてきた歴史でもありました。それが選びの民と呼ばれていたのは、皮肉でさえあります。しかし、これは他人ごとではなく、まさに私たちの姿を現す鏡そのものです。 使徒パウロは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と自らの内に見る人間の罪の根深さを語りました(ロマ7章19、24節)。 人は自らの力で神に近づくことはできません。むしろその力は、ますます神から遠ざけます。 しかし、神は「ひとりの指導者」を立てると、エレミヤは語ります。彼に連れられて、私たちは神に近づけられます。そして、人には守ることのできなかった律法そのものを心に記すという、全く新しい契約のあり方を示します(31章31~34節)。それは罪の赦しという、神にしかできない新しい命を私たちに与えることを意味しました。 この罪の赦しを与えるために、あの指導者は、私たちに注がれるはずの神の怒りを十字架でひとり受けられたのです。 【祈り】 神様。自分がしていることさえわからないような、この惨めなわたしを救ってくださって感謝いたします。 Sun, 28 Aug 2022 00:10:00 +0000 後になって知るのだからあきらめるな(コヘレトの言葉 3章1-17節、11章1-6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220828 no 2022 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。 実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから。 (コヘレトの言葉11章6節) コヘレトを賢者として有名にした「時の詩」は、生まれる時から死ぬ時までの人生全体を視野に入れます。戦いの時と平和の時という人生究極の否定と肯定を描き、そう色分けされる諸々の時を歌います。「生まれるに時があり」と語り出し、「平和の時がある」と締め括る。初めと終わりは否定ではなく肯定です。これこそ彼の人生観です。誰の人生にも避けがたい戦いがあり、嘆きがあり、死があります。にもかかわらず、「すべての出来事には時があり」、人生を決定づける神の時が充満しています。 神が人の心に与えた「永遠」こそ、神秘の賜物です。これは空間的な永遠ではなく、あるいは未来永劫でもありません。「人生を初めから終わりまで見渡す視野」です。ただし未来は隠されますから、見渡せるのは現在と過去のみです。人の生と死を支配する神の諸々の時が充満していた。それらは神の突然の直接介入だった。その度に、自分は恐れおののき、ひれ伏すほかなかった。これを後になって知るのです。これこそ、人を生かす神の知恵です。 何が人生を決定づけるかは、後になって知る。だから、自分の人生に種を蒔く営みをやめてはならない。今を生きること、誰かを愛することをあきらめてはいけない。 【祈り】 愛なる主よ、あなたが共にいてくださった諸々の時の充満を知り、賛美と感謝を献げさせたまえ。 Sat, 27 Aug 2022 00:10:00 +0000 祈り求めることから始まる神の平和(エレミヤ書 26-29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220827 no 2022 …その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。 (エレミヤ書29章7節) 当時、多くの者が、「バビロンの王に仕えるべきではない」と語り、あるいは聞いていました(27章9節)。しかし、エレミヤは、バビロンに仕えて生きる道を自らに軛をかけて語りました。それに対してハナンヤは、エレミヤの軛を打ち砕き、「このように、先に捕らわれた者たちは、2年もすればまたこの場所へ連れ戻される」と力強く語りました。早く逃れられる道を示すハナンヤに人気があることは容易に想像できます。 もちろんエレミヤも「恵みの約束」、「将来と希望を与える」「平和の計画」をバビロンで苦しんでいる人びとに手紙で語ります(29章11節)。しかし、その約束の実現には70年という気の遠くなる時間が必要でした。 将来の希望に生きるためには、今という生活の平安が必要です。そのため、エレミヤは、「平安を求め、その町のために主に祈りなさい」と神の言葉を人びとに取り次ぎます。それは不自由な生活を強いられているこのバビロンの町にも神の平和が注がれる約束でした。今すぐには実感できず、見えなくても足もとでは神のご計画が確かに進んでいたのです。 ユダだけではなく、世界の主である神に祈ることから平和は始まります。祈りは、神からの恵みの賜物です。 【祈り】 神様。あなたは祈ることへの幸いを教えてくださいました。どうかあなたの平安をこの町に与えてください。 Fri, 26 Aug 2022 00:10:00 +0000 神の怒りによって見える立ち帰る道(エレミヤ書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220826 no 2022 お前たちは貴い器のように砕かれて倒れる。 (エレミヤ書25章34節) 20年以上も、エレミヤが語る主の言葉は、ユダの民に聞かれませんでした(3節)。神に造られた彼らは、ただ「自分の手で造った物」を大切にしていました(7節)。神をも所有する感覚が、自由だと思っていたのです。 神の言葉に聞き従わないことで、ユダの民は神の怒りを招きます。それは70年にも及ぶバビロンの支配というかたちでした。しかし、時が来ると、そのバビロンも荒れ地となると、エレミヤは預言します。 これは、ユダの民、バビロンだけの物語ではありません。「主は、諸国民と争い、肉なるものをすべて裁」くと言われます(31節)。主に逆らう者がことごとく滅ぼされると言うのです。「その日には、主に刺し貫かれた者が地の果てから地の果てまで、嘆くこともなく横たわる」(33節)と。 もちろん、神の目的は、人を滅ぼすことではありません。人が神のもとに立ち帰って共に歩むことです。その道のりは決して平たんなものではありません。苦しみがあります。砕かれて倒れるときもあります。しかしその一つ一つが、神の御計画の中では無駄にはならず、むしろ用いられます。主はときに激しい怒りをもってのぞまれますが、それほどに人に無関心ではいられないのです。 【祈り】 主よ、誰があなたの御怒りに耐え得るでしょうか。主イエスのほか、誰もいません。感謝いたします。 Thu, 25 Aug 2022 00:10:00 +0000 神が引き抜くとき植えるとき(エレミヤ書 18-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220825 no 2022 彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを…植えて、抜くことはない。…彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。 (エレミヤ書24章6節~7節) 「悪をもって善に報いてもよいでしょうか」(18章20節)。思わずそう神に訴えたくなるような現実がエレミヤの目の前に広がっています。 生活の腐敗が礼拝を歪めるのか、あるいは礼拝の腐敗が生活を歪めるのか、どちらが先とは言えません。いずれにせよ、神の目にはどちらもいびつな形として映ります。 神に召されたエレミヤは、この同じ神の視点を与えられるだけでなく、その痛みをも負わされます。人びとからは、エレミヤこそがいびつな存在として見られました。国の滅亡という不安ばかりあおっていると。 神に対しても、これからやって来るバビロンという大国に対しても、負けを認めることこそが「命の道」であることをエレミヤは民に示します(21章8節)。それは、自分たちが蔑ろにしてきた「貧しい人」になることへの道でした。彼らの訴えを聞くことこそ、神を知る道であったのに(22章16節)、王は自分の家を広げることに専心し、預言者は神の言葉を盗み合って、それを曲げたのです(23章30節以下)。 罪の痛みが麻痺すると、自らの充足感を神とします。そしてそれは大抵行き過ぎます。人はそこから引き抜かれます。神のもとへと帰る真心を、神御自身が植えるためです。 【祈り】 神様。自分自身のことで精一杯です。あなたに帰る真心をください。そして隣の人への思いをください。 Wed, 24 Aug 2022 00:10:00 +0000 主よ、あなたがいやしてくださるなら(エレミヤ書 9-17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220824 no 2022 主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。 あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。 (エレミヤ書17章14節) 見向きもされない神の言葉を一人抱え込んでいるエレミヤは、自分の命を呪います。エレミヤは言います。「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」と(15章10節)。故郷アナトトの人びとからは、「死にたくなければ」もうこれ以上語るなと脅され(11章21節)、「兄弟ですら信用してはならない」(9章3節)と神から言われる世にあって、彼の望みが絶たれるのは無理もありません。 さらに「この民のために祈り、幸いを求めてはならない」とまで神に言われたならば(14章11節)、一体何を求めればよいのでしょうか。「とらえ難く病んでいる」(17章9節)人の心と神の滅びの預言を前にして、何かを求める力さえ失われてしまいます。死を待つだけ。破滅を待つだけ。そこには声にならないような呻きがあり、とめどもなく溢れる涙があります。しかし、神はその「悲しみを表すな」とも言われます(16章5節)。 生きる力そのものを削がれるような環境で、なおも神を信じることができるのは、奇跡であり、神の業そのものです。エレミヤはひとり、神に言います。「主よ、あなたがいやしてくださるならわたしはいやされます。あなたが救ってくださるならわたしは救われます」(17章14節)。 【祈り】 神様。あなたのみが、いやし主です。救い主です。きょうもあなたを信じる心を与えてください。 Tue, 23 Aug 2022 00:10:00 +0000 滅びに向かう世界で見える神の憐れみ(エレミヤ書 2-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220823 no 2022 「そのときですら」と主は言われる。「わたしはお前たちを滅ぼし尽くしはしない。」 (エレミヤ書5章18節) 神の言葉を授けられたエレミヤは、浅はかな希望ではなく、深い悲しみを味わいます。祭司や預言者を含めて多くの人が、自分のことしか考えられなくなっているからです。 誰もが神への最初の真心を忘れ、その自覚すらありません。むしろ、「わたしには罪がない」(2章35節)と言って、平気で悪を重ねています。破滅に対しても、大丈夫、平和だ、と言って、簡単に自分を慰めているのです。 安易な希望では慰められない、誠実に生きようとしている人ほど、失望は深まります。 この現状を生み出したのは、礼拝と生活が結びつかなくなってしまった人間でした。一方で「主の神殿」と高らかに語り、他方で「外国人、孤児、寡婦」に見向きもしないという無関心(7章1~11節)。「主に立ち帰れ」という神の言葉をまっすぐ聞くことができない生活です。 そのため、神は「一つの国をお前たちの上に襲いかからせる」(5章15節)と、破滅を予感させる言葉を投げ入れます。しかし、「そのときですら…わたしはお前たちを滅ぼし尽くしはしない」と、この滅びの痛みと、それ以上にその痛みを自らのものとする神の憐れみがここに指し示されています。 【祈り】 神様。滅ぼされてもおかしくない私たちとこの世界を憐れんでくださり、ありがとうございます。 Mon, 22 Aug 2022 00:10:00 +0000 神の言葉は御手によって動き出す(エレミヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220822 no 2022 「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」 … 「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。」 (エレミヤ書1章8節~9節) エレミヤは怖気づいていました。彼は、祭司の町とも言われるアナトトで育ちました。彼の父も祭司で、自分もいずれその道を、と思っていたかもしれません。しかし、神からの呼びかけは思いがけないものでした。神は、彼を「生まれる前」から「聖別し」、ユダの民だけでなく、「諸国民の預言者として立てた」と言うのです。 この神のあまりにも一方的な決定に、エレミヤの口からは思わず、「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」という言葉がこぼれ落ちます(6節)。エレミヤが後退りするのも無理はありません。自分の無力さだけでなく、この当時大国にはさまれて翻弄されていたユダには、まことの神を礼拝している者が少なくなっていたからです。 しかし、神はそのエレミヤの恐れに、「手を伸ばして」彼の「口に触れ」、ご自身の言葉をお授けになります。それは、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」という、神の約束でした。幼いときから聞いているシンプルな神の約束。彼の中に蓄えられていたこの神の言葉は、突然の呼びかけと神の御手に触れられた、そのとき、動き出します。神が共にいて救い出す。その約束のもとで、彼は人の滅びと救いを語り出します。 【祈り】 神様。私たちは自分や周りを見て恐れます。私たちに触れてくださっている御手を見させてください。 Sun, 21 Aug 2022 00:10:00 +0000 若さと働きそのものを楽しめ(コヘレトの言葉 1章12節-2章26節、11章7節-12章2節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220821 no 2022 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。 青年時代を楽しく過ごせ。 心にかなう道を、目に映るところに従って行け。 (コヘレトの言葉11章9節) ソロモン王のごとくふるまったコヘレトは、新たな知恵の境地に至ります。それは善悪二元論と因果応報を説く伝統的知恵とは異なります。神の御前に自分が良しとされるか否かは、神のみぞ知る。まして自分以外の誰かが良しとされるか否かなど知るよしもない。神が人を自由に裁量なさるなら、人も因果応報の呪縛から解放されて生きることができる。 コヘレトは、神からの賜物として「知恵と知識」を集めました。彼が特別に良い信仰と従順を示したからではなく、神からの自由な恵みを享受しただけです。彼はまた、神からのつらい務めとして「無知と愚か」を集めねばなりませんでした。彼が特別に罪深い人だったからではなく、神からの自由な召しに応えただけです。 自分の死後、労苦の結果や労働の業績が誰の手に渡るかも、神のみぞ知る。自分に知る権利はないし、未来を懸念する必要もない。むしろ自分には、神からの恵みの賜物を味わい、楽しむ自由がある。労苦そのものを味わい、労働そのものを楽しむ自由がある。これはすべての人に与えられる。だから若者よ、若さそのものを喜んで、働きそのものを楽しむがよい。 【祈り】 愛なる主よ、苦難の後に光を知り満足された方よ、あなたと共に労苦する喜びを味わわせたまえ。 Sat, 20 Aug 2022 00:10:00 +0000 キリストの福音はローマまで(使徒言行録 25-28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220820 no 2022 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。 (使徒言行録28章31節) パウロは3回の伝道旅行を通して、ギリシア世界まで福音宣教の働きを広げていきました。そのパウロの働きの外で、福音は都ローマにまで届いていました。パウロはローマにいる信徒たちへ、いずれローマに行きたいという思いを手紙で伝えています(ロマ1章12節)。ローマの先にあるイスパニアを見据えていたパウロは、ローマが次の伝道の拠点となることを願っていたようです。ローマに行くことはパウロの夢への一歩でした。その一歩が、パウロの計画とは全く異なる仕方で実現することになります。パウロは囚人となり、皇帝に上訴するために、ローマに足を踏み入れることになったのです。 ローマの信者たちはローマに向かっていたパウロを出迎え、彼を勇気づけます。「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」(ロマ1章12節)というかつてのパウロの願いがかないました。 パウロは、自費で借りた家で丸2年の間、「全く自由に何の妨げもなく」伝道することができました。パウロが囚人であったことに間違いはありません。しかし、神の御言葉は広がっていきます。迫害を受けても、捕らえられても、苦しめられても、福音はローマにまで辿り着きました。福音の灯が消え去ることなどありません! 【祈り】 神様。私たちの願いと異なる形でも確実にあなたの国は広がります。きょうもあなたを仰がせてください。 Fri, 19 Aug 2022 00:10:00 +0000 先が見えない中でも(使徒言行録 21-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220819 no 2022 「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 (使徒言行録23章11節) 使徒言行録は21章から怒涛の展開を迎えます。第三次伝道旅行からエルサレムに戻ってきたパウロはユダヤ人に捕らえられ、最高法院で取り調べを受けました。そこでの論争が激しくなり、最高法院の中のファリサイ派とサドカイ派が分裂したほどです。この激論の中、千人隊長はパウロがユダヤ人たちに引き裂かれてしまうことを心配し助け出しました。 しかし、その背後で、40人以上の者が「パウロを殺すまでは飲み食いしない」という誓願を立て、パウロを暗殺する計画を進めていました。 パウロは今、先の見えない暗闇の中にいます。命を狙われ、希望がありません。自分の力では打開することのできない状況に置かれていました。そのような夜に、主はパウロに語りかけられました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。 人間の目線で見るならば、先が見えない状況と言わざるを得ません。しかし、神の目線は違いました。神はパウロがローマに行って主を力強く証しすることを見据えていました。 私たちは時に先が見えない状況に陥ります。しかし、神はあなたの将来を見据え、勇気を与えてくださいます。 【祈り】 主よ。私たちの目線で分からないことも、あなたはご存じです。どうか、私たちに勇気をお与えください。 Thu, 18 Aug 2022 00:10:00 +0000 伝道旅行(3)祈りに励まされ(使徒言行録 19-20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220818 no 2022 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。 (使徒言行録20章36節~37節) パウロは第三次伝道旅行の最中、エフェソに3年間、滞在しました。その期間、ユダヤ人の会堂や、ティラノという人の講堂で御言葉を語り続け、また、主はパウロの手を通して奇跡を行われました。その奇跡によって、神の力がエフェソの人びとに示されたのです。エフェソの後、パウロはギリシア世界に渡り、最終的にエルサレムに行くことを決心します。 聖霊のお告げによって、エルサレムで苦難が待ち受けていることをパウロは知っていました(20章23節)。しかし、彼にはエルサレムに行かないという選択肢がありませんでした。それは、いずれローマに行って福音を宣べ伝えるという強い確信があったからです(19章21節)。 確信だけでなく、イエスの名を証しすることさえできれば命を落としても構わないという強い覚悟も持ち合わせていました(20章24節)。 パウロはエフェソ教会の長老たちを呼び寄せ、お互い涙を流しながら、共に祈りました。使徒言行録は主にある交わりを丁寧に書き留めています。パウロという大伝道者も、祈りと交わりによって支えられました。これこそが私たちに力を与えます。祈りに励まされ、パウロはいざローマを見据えて、エルサレムへ出発します!たとえ大きな苦難があろうとも。 【祈り】 神様。あなたは私たちに主にある交わりを与えてくださいました。友のために祈る信仰をお与えください。 Wed, 17 Aug 2022 00:10:00 +0000 伝道旅行(2)恐れるな語り続けよ(使徒言行録 16-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220817 no 2022 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」 (使徒言行録18章9節~10節) 使徒言行録はエルサレムの使徒会議の後、パウロとシラスによる伝道旅行を18章に至るまで記しています。パウロたちは、主の不思議な導きによってギリシア世界に足を踏み入れることになり、伝道の幅を広げていきます。 パウロがコリントで伝道していたときのことです。パウロは幻の中で主から「恐れるな、語り続けよ。黙っているな」と励ましを受けました。パウロは何を恐れていたのでしょうか。福音を語り続けていたパウロの勇敢な姿を見ると、本当に恐れなどあったのかと疑ってしまいます。しかし、パウロには恐れがありました。恐れを覚えてしまうほどの厳しい迫害が彼に迫っていたからです。また、語る福音がなかなか受け入れてもらえないという苦しみもありました。 それでもパウロは1年半もの長い期間、コリントで腰を据えて伝道することができました。パウロがこのように語り続けることができたのは、「恐れるな」という神からの励ましがあったからです。神の励ましがなければ、パウロであっても長い期間、福音を語り続けることはできなかったと思われます。 神の御言葉だけが私たちに力を与えます。きょうも、私たちに主の力が確かに注がれています。 【祈り】 主よ。私たちは時に恐れを覚えます。あなたの言葉によって、私たちに勇気と力をお与えください。 Tue, 16 Aug 2022 00:10:00 +0000 ただ主の恵みによって(使徒言行録 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220816 no 2022 「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」 (使徒言行録15章11節) パウロたちはアンティオキア教会に戻り、旅を通して得た異邦人伝道の実りを報告しました。しばらくして、ユダヤ人の信者たちがエルサレムから訪れ、異邦人の救いの条件について、パウロたちと激しい論争をします。この問題を使徒たちと協議し、解決するために、パウロたちはエルサレムに向かいます。 そこで開かれたのがエルサレムにおける使徒会議です。ファリサイ派から信者になった人びとはイエス・キリストを信じるだけではなく、律法を守り、割礼を受けることも救いの必要条件であると主張しました。 パウロたちにとって、この主張は福音の根幹を打ち崩すものでした。パウロたちは厳しく反論します。最終的に会議の中でペトロは次のように発言しました。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。これが会議の結論と言えるでしょう。ユダヤ人も異邦人も人はすべて、律法の実行では救われず、ただ主イエスの恵みを信じることによって救われるのです。 救いのために必要な条件はありません。すべての者が差別なく招かれ、主イエスの恵みを受けることができる日が訪れています。この主の愛に心を向けて飛び込む人こそ幸いです。 【祈り】 主よ。あなたはすべての人を救いへ招いておられます。きょうもあなたの愛に心を向けさせてください。 Mon, 15 Aug 2022 00:10:00 +0000 赦すことこそ平和への第一歩(マタイによる福音書 5章38-48節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220815 no 2022 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」 (マタイによる福音書5章39節) わたしは、足を踏まれると、痛いと感じます。そのとき、謝っていただければ、その怒りも静めることもできますが、何もなかったように通り過ぎて行かれたものならば、怒りが残ってしまいます。旧約聖書により「目には目を、歯には歯を」という制限を与えられながら(申19章21節等)、それさえも実行したいと思ってしまいます。 しかし、主イエスは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と語り、「求める者には与えなさい」(42節)ともお語りになります。主の命令を形式的に実行したとしても、心の中では怒りがおさまったわけではありません。 主イエスが求めていることを理解し、実行するためには、わたし自身がその人を愛すること、話し合い、その人を受け入れ和解すること、自分自身の罪が主によって赦されたようにその人の罪を赦すことが求められます。 きょうは8月15日、日本が最後に戦争を終えてから77年になります。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)とお語りになります。私たちが世界の平和を願うとき、近くにいる人を愛することから始めることが求められているのではないでしょうか。 【祈り】 隣人を愛し和解することができるようにさせてください。そして世界の苦しむ者の苦しみが取り除かれ、主による平和が実現しますように。 Sun, 14 Aug 2022 00:10:00 +0000 大地に帰り神のもとに帰る(コヘレトの言葉 1章3-11節、12章3-7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220814 no 2022 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。 (コヘレトの言葉12章7節) 太陽の下なされるあらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか。そう問いかけたコヘレトは、自然の営みの持続、山河の水の循環を歌います。それとは対照的に、人の営みの限界、後の世代との断絶も歌います。労苦の結果が山河の水のように循環することはなく、労働の業績が自然の営みのように持続することもない。 彼が述べるのは、ノアの洪水後の世界における神の摂理です。「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(創8章22節)。しかしなお人は「顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで」(創3章19節)。土から取られ、塵にすぎない人は、塵に返る定めです。 コヘレトと同時代を生きる人びとは、戦時下にあって、善人が早死にし、悪人が長生きする秩序の混乱を見ています。伝統的な因果応報思想では説明がつきません。生きることも愛することもあきらめかけている同胞に、コヘレトは神の摂理を想い起こさせます。自然の営みに比べれば、人生は瞬く間に過ぎ去る。あらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか。土の塵が元の大地に帰り、命の息がそれを与えた神のもとに帰る。その日はすべての人に訪れる。これこそ労苦のもたらす益なのだと。 【祈り】 愛なる主よ、荒れ野で飢え渇き、死を見つめ労苦された方よ、あなたに訪れた益を見させたまえ。 Sat, 13 Aug 2022 00:10:00 +0000 伝道旅行(1)生ける神に立ち帰る(使徒言行録 13-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220813 no 2022 「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」 (使徒言行録14章15節) 主は異邦人をも救いへ導いていかれました。神の大きな御心を悟った人びとは、異邦人に福音を語り、アンティオキア教会を設立しました(11章20節)。設立されたアンティオキア教会は礼拝をしている中で聖霊の促しを受け、バルナバとパウロを送り出します。これがいわゆる「第一次伝道旅行」と呼ばれる旅です。 この旅で、パウロとバルナバは異教の地ならではの難しさに直面します。リストラという町に訪れたときのことでした。パウロよって足の不自由な男が癒されました。その光景を見て、群衆は声を張り上げ、パウロとバルナバを「ヘルメス」、「ゼウス」というギリシアの神々とみなし、拝もうとしたのです。パウロとバルナバは憤りながら彼らに訴えかけました。「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(14章15節)。 人を神格化することはよく起こります。神を礼拝するために造られた私たちの心が歪められているからです。生ける神に立ち帰りましょう。私たちに救いを与えてくださるのは、天地の造り主である生ける神お一人だけです。 【祈り】 神様。この世はあらゆる偶像で満ちています。私たちを導き、生けるあなたへと立ち帰らせてください。 Fri, 12 Aug 2022 00:10:00 +0000 主は異邦人にも賜物を(使徒言行録 10-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220812 no 2022 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。 (使徒言行録11章18節) 使徒言行録10、11章に記されている物語は、私たちに主の福音の広がりと大きさを教えています。 ペトロもヨハネも、エルサレム教会の人びとも、ユダヤ人だけに福音を伝えていました。まさか主イエスの救いが異邦人にもあてはまるとは思っていなかったことでしょう。この閉ざされていた扉が、主によって開かれました。主はペトロと異邦人コルネリウスを幻によって引き合わせられました。それはペトロを通して、異邦人コルネリウスと彼の家族、友人たちに福音を伝えるためです。ペトロはこれが主の御心であると確信し、彼らに福音を語り、洗礼を授けました。当然、エルサレム教会の人びとはペトロを非難します。しかし、ペトロは雄弁に答えました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(11章17節)。 救いは、異邦人をも包み込む。これは神の御心でした。神の御心を拒む道はありません。福音はきょうも私たちを包み込みます。私たちは今、確かに主の救いの中に入れられているのです。 【祈り】 主よ。あなたの救いは異邦人をも包み込みます。あなたの救いの大きさをきょうも仰がせてください。 Thu, 11 Aug 2022 00:10:00 +0000 主の選びの器として(使徒言行録 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220811 no 2022 「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」 (使徒言行録9章15節) キリスト教会を迫害していた一人にサウロという人物がいました。彼はキリスト者を縛り上げ、エルサレムへ連行するため、ダマスコへ向かっていました。 その旅の途上、天からの強い光の中で、主イエスはサウロに語りかけられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)。主イエスは「わたし」とおっしゃいました。教会の痛みは、主イエスご自身の痛みとなっていたのです。幻を見たサウロは3日間、目が見えず、食事をすることができませんでした。 サウロにとってこの出来事は自身と向き合う時間でした。ひたすら主に祈り、砕かれたのです。主はこの後、サウロのもとに遣わされるアナニアに彼のことをこのように語りました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。 サウロは教会を迫害していた人です。そのような彼が神の器として選ばれました。それは主イエスの名を伝えるためです。神に選ばれた器は、神の働きをするために用いられます。私たちも、主の深い御心によって信仰者にされました。その選びに基づいて、神は確かにあなたを用いてくださいます。 【祈り】 神様。わたしのようなものをお選びくださり、感謝いたします。あなたの働きのためにどうぞ用いてください。 Wed, 10 Aug 2022 00:10:00 +0000 福音はユダヤとサマリアへ(使徒言行録 6-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220810 no 2022 使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。 …さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。 (使徒言行録8章1節、4節) 聖霊降臨によって出発したキリスト教会は、主の言葉を恐れずに語り続け、主を信じる多くの者たちが起こされました(5章14節)。このことは大きな喜びでしたが、信徒の数が増えたことにより、使徒たちだけで多くの信徒を支えるのには限界がありました。一部の信者から不満の声があがったのです(6章1節)。そのため、信徒たちが見過ごされることがないために、新しい奉仕者が7名任命されることになりました(6章5節)。使徒言行録はここから8章にかけて新奉仕者のステファノとフィリポに焦点を当てています。 ステファノの弁論と、その後の石打ち刑が引き金となり、エルサレム教会に対する激しい迫害が始まりました。これまでの迫害はおもに使徒たちに向けられていましたが、今回は信徒も含まれていました。そのため、信徒たちはエルサレムから散らされてしまいます(8章1節)。このことは出発したばかりのエルサレム教会にとって大きな試練でした。 しかし、神の御心は計り知れません。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」。この大迫害がきっかけとなって福音がユダヤ・サマリア地方へ広がることになりました。主の約束(1章8節)は必ず実現します。 【祈り】 主よ。あなたの御心は計り知れません。この世界をあなたの福音で満たしてください。 Tue, 09 Aug 2022 00:10:00 +0000 人か神か従うべきお方はだれか(使徒言行録 3-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220809 no 2022 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」 (使徒言行録4章19節) 聖霊の力を受けて、キリストの教会は出発しました。ペトロとヨハネは力強く民衆に神の言葉を語っていましたが、そこにユダヤの権力者たちがやってきて、二人は捕らえられてしまいます。こうして早くもキリスト教会への迫害が現実となりました。二人はユダヤの権力者たちの前に立たされ、今後、イエスの名によって教えたりしないようにと厳しく戒められました。そのとき、二人は答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。 一つ思い出す出来事があります。宗教改革者マルティン・ルターもヴォルムス帝国議会で自説の撤回を要求されたとき、居並ぶ権力者たちの前で「我、ここに立つ!」と宣言しました。神の言葉に立っているからこそ、撤回することはできないと。 「語るな!」と言われても、「話さないではいられない」。それはペトロとヨハネが人ではなく、神に従っていたからです。福音を語ることは神の御心でした。御心への熱意がペトロとヨハネに黙ることを許しません。 人間の言葉に揺さぶられようとも、私たちが立つべきは神の御言葉の上です。 【祈り】 神様。人の言葉に揺さぶられようとも、あなたの御言葉に従っていく信仰をお与えください。 Mon, 08 Aug 2022 00:10:00 +0000 聖霊が降ると力を受ける(使徒言行録 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220808 no 2022 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。…また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒言行録1章8節) 新約聖書5番目の書物「使徒言行録」を11回で学びます。主イエスは天に昇られる前、弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃいました。そのお言葉どおり、2章において聖霊降臨の出来事が起こりました。聖霊が注がれたことによって、使徒たちは力に満たされ、ここから使徒たちは主イエスの復活の証人として歩んでいくことになります。 使徒たちは聖霊に満たされ、さまざまな言語で神の偉大な御業を語りました。主イエスが「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたように、この奇跡はこれから神の言葉がさまざまな言語で語られ、広められていくことを示していました。 120人ほどの人びとが一つとなって集まっているときに、聖霊は降りました。初代教会は人間の思惑によって生み出されたのではありません。聖霊が降ったことによって、主の力を受けて、出発したのです。主から与えられる力がなければ何もできません。私たちそれぞれの歩みも、教会の働きも主の力が必要です。聖霊を求めて祈るとき、主はあなたを確かに用いてくださいます。 【祈り】 主よ。あなたの復活の証人として歩んでいくために、どうか聖霊の力によって私たちを導いてください。 Sun, 07 Aug 2022 00:10:00 +0000 空としか言いようがない(コヘレトの言葉 1章1-2節,12章8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220807 no 2022 なんと空しいことか、とコヘレトは言う。 すべては空しい、と。 (コヘレトの言葉12章8節) コヘレトを名乗る人物は、どんな時代を生きたのか。諸説ありますが、紀元前2世紀の、ユダヤ民族と大国シリアとの攻防戦(マカベア戦争)真っただ中だとする見方があります。ユダ・マカバイと兄弟たちの武勇伝の影には、子どもを生み育てながらも戦死者を出し続ける悲惨な現実と、終わりの見えない苦しみがありました。多くのユダヤ人がダニエル書の黙示思想に感化されて、今を生きることも、誰かを愛することもあきらめ、死んだ先の命に目覚めることを望むようになりました。そのような人の生と死を、コヘレトは「空」と呼んで、同胞たちの涙に寄り添います。しかし自らは、死ぬまで生き抜くことにこだわり続けます。 一昨年1月、新型コロナウイルス感染症が日本にも襲来、幾度も感染爆発と医療危機をもたらしました。今年1月末までに全世界で560万人を越える方々の命が失われました。そこにさらに、2月末、ウクライナでの戦争勃発です。悲しみが深く大きいのは、愛が深く大きいからです。悲しみがなくならないのは、愛がなくならないからです。悲しみは愛だからです。愛する人のあまりに短く儚い人生を、「空の空、一切は空」(聖書協会共同訳)としか、言いようがないではありませんか。 【祈り】 愛なる主よ、兄弟ラザロの死に憤り、心を騒がせ、涙された方よ、あなたと共に悲しみに留まらせたまえ。 Sat, 06 Aug 2022 00:10:00 +0000 異邦人を清い器として用いられる主(イザヤ書 66章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220806 no 2022 更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 (イザヤ書66章19節) これまでイザヤ書の中で、主なる神が地の果てからご自身の民を集められることは幾度も語られてきました。しかし、最後の章では、これまでとは全く異なる次元での異邦人の救いと働きが語られます。主の栄光を国々に伝えるために遠い島々に遣わされるだけでなく、ユダヤ人を主への献げものとして聖なるエルサレムに連れ帰ることが起こるのです。 それだけではありません。遣わされた異邦人が「清い器」として用いられ、主なる神が異邦人の中から「祭司やレビ人を立てる」ときが来る(20、21節)と語られます。すべてのキリスト者が大祭司であるキリストの祭司職の働きにあずかるという万人祭司の教えの先取りと言える預言です。 その目的は、主の「栄光を国々に伝える」(19節)ためです。旧約聖書において、異邦人の受ける栄誉を最も高く明確に預言しているところです(18~23節)。聖書において啓示されている宗教は、選民と異邦人との区別を取り除く普遍的宗教であることが、すでにここに明確に示されています。 かつては汚れた器であった私たちです。それが今やキリストの恵みのゆえに「清い器」とされたのですから、「すべての肉なる者」(23節)の一人として、主の栄光を伝えようではありませんか。 【祈り】 神よ、このわたしを主の器として、あなたのご用にお用いください。 Fri, 05 Aug 2022 00:10:00 +0000 神があなたの輝きとなられる(イザヤ書 60章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220805 no 2022 主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。 … 主があなたの永遠の光となり あなたの嘆きの日々は終わる。 (イザヤ書60章19節~20節) 60章から62章は、捕囚から帰国して神殿の礎と祭壇が設置された頃の回復の歌、慰めの歌です。 主の都シオン、エルサレムの変貌のさまが語られます。シオンの住民となる者たちが遠くから帰り、国々の富と献げものはシオンの神に集中し、異邦人が破壊した神殿を、今度は異邦の王たちが再建するというのです。神の民を卑しめた者たちがシオンの神に身をかがめるときが訪れます。 かつて捨てられ、憎まれた民を、神は、わたしのとこしえの誇りとすると言ってくださいます。シオンの神が、神の民のとこしえの光、輝きとなられるとき、どんなに苦しい嘆きの日々も終わるのです。神の民には、とこしえの光であるキリストにあって、もはや死も悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21章4節)、主なる神がすべてにおいて、すべてのすべてとなられる、新天新地の到来という大変貌が約束されているからです。シオンの神だけがなしうる御業がここにあります。 神のこの御業は、キリストの再臨の日に向けて今も前進しています。 それゆえ私たちは、私たちの輝きであるキリストにあって、その日を目指して、主の光を輝かせる者として歩み続けることができるのです。 【祈り】 神よ、異なる場で生きている私たちですが、一つあなたの栄光をあらわすことができますように。 Thu, 04 Aug 2022 00:10:00 +0000 御言葉の力の確かさに立つ(イザヤ書 55章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220804 no 2022 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。 (イザヤ書55章11節) 40章から始まる捕囚からの解放の約束は55章で結びを迎えます。 主に立ち帰るなら、「豊かに赦してくださる」(7節)。だからわたしのもとに来て命を得よ(3節)と、神は逆らう民に繰り返し悔い改めを呼びかけられます。神は悔い改める者を喜んで受け入れると言われます。 しかし、その根拠は、どこにあるのでしょうか。神がダビデと結ばれた「とこしえの契約」(3節)、すなわち、ダビデに約束された変わらない恵みこそが、その根拠です。ダビデを代表として民との間に結ばれた契約に基づく罪の赦しは、御言葉の力の確かさによって裏づけられます。雨や雪がひとたび天から降るならば、それらがむなしく天に戻ることは決してありません。地を潤し、芽を出させ、食べる人に糧を与えるという神の使命を必ず果たします。そのように神が語られた言葉は、「むなしくは、わたしのもとに戻らない」(10節)。必ず神の望まれる使命を成し遂げるのです。「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く」(12節)という解放の告知は、キリストにある罪からの解放の確かさと喜びの先取りなのです。 それゆえ、きょうも御言葉の力に信頼して、神の国を目指して歩み続けようではありませんか。 【祈り】 神よ、御言葉の確かな力と約束に支えられて、悔い改めの恵みにあずかることができますように。 Wed, 03 Aug 2022 00:10:00 +0000 今あるのはキリストのおかげです(イザヤ書 53章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220803 no 2022 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 (イザヤ書53章7節) バビロン捕囚末期、紀元前6世紀後半、不思議な預言の言葉が語られます。500年後、この預言はイエス・キリストにおいて成就しました。憎まれて捨てられていく苦難の生涯を、神の啓示の言葉と神の霊に導かれてたどるとき、イエスこそ、イザヤ書53章が語っていた「彼」であったと理解することができます。主イエスご自身もこのイザヤ書の御言葉をもってご自分について証しをされました(ルカ4章16~21節)。 神の御子が、屠り場に引かれる小羊のように、捕らえられても抵抗せず、裁判の場でも自己弁護をせず、磔刑すなわち十字架刑をお受けになられました。全人類のための罪の贖いという父の御心を果たすためです。このお方は人びとから軽蔑され、見捨てられ、私たちの罪を負って神から呪われた者となってくださいました。この方の受けられた苦難こそ私たちの罪の身代わりであり、ここに罪の赦しと癒しがあります。 私たちは、地に落ちたキリストの一粒の麦によって生かされ、新しく生まれた者です(ヨハ12章24節)。私たちは彼の受けた傷によって癒されました。ですから、きょうも一日、キリストの癒しの恵みに感謝し、神の栄光のために生きるのです。 【祈り】 主なる神よ、私たちが今あるのはキリストのおかげです。生涯、キリストのもとにとどまることができますように。 Tue, 02 Aug 2022 00:10:00 +0000 私たちは神の栄誉を語る(イザヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220802 no 2022 わたしはこの民をわたしのために造った。 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。 (イザヤ書43章21節) 主なる神は、その昔、イスラエルの人びとをエジプトから救い出し、シナイ山で契約を結んで神の民とされました。神はここで「わたしはあなたを贖う」と、第二の出エジプトとして、バビロン捕囚からの解放を約束されます。その目的は「わたしの栄光のため」でした。 にもかかわらず、民は主を求めることをせず、真実な礼拝をささげませんでした。かえって神を重荷とし、罪と悪を神に被せ、神を自分に仕えさせる生き方をしていたのです。 このような中で、驚くべき言葉が語られます。「わたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」(25節)。罪の大きさに従って罰するという正義の法則を適用しないと神は言われます。ここに聖書が語る福音があります。 罪の赦しの福音とは、正義の神にとっては不合理なものです。罪のない神の御子が私たちに代わって罪の刑罰を受けてくださったことを考えるならばよく理解できます。これが神の恵みです。 その目的は、神の栄誉を語る(21節)ことにあります。それゆえ私たちは、きょうも罪の赦しの福音におおわれて、託された使命を御前に果たす歩みを続けるのです。 【祈り】 神よ、キリストにあって、御名の栄光をあらわす民へと、新たに創造してくださり感謝いたします。 Mon, 01 Aug 2022 00:10:00 +0000 主なる神がくださる神の力で(イザヤ書 40章12-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220801 no 2022 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。 (イザヤ書40章31節) 神の慰めを失った捕囚の民は、「わたしの道は主に隠されている」(27節)、神は私たちとの契約をお忘れになったと、神の恵みさえ疑うような絶望と失意の中にありました。 そのような神の民を御もとに立ち帰らせるために、神は力強く働き始められます。かつて真の神知識によって養われてきた契約の民に向かって、神は激しい言葉で、彼らの神知識に訴えかけられます(28節)。 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえの神、万物の造り主、疲れることなく、その英知は極めがたいと。そして、捕囚という苦しい旅路の中で疲れ果て、打ちひしがれている民の目を、神へと引き上げてくださるのです。 若者もやがては疲れて力尽き、勇士もやがてはつまずき倒れます(30節)。しかし、とこしえの神、万物の造り主である神から来る力は、走っても弱らない、歩いても疲れない、鷲のように翼を張って上ることのできる力なのです。主に望みを置く人が得る新たな力とは、まさに主なる神がくださる神の力です。 それゆえ、今日も主に望みをおいて、罪と悪に満ちたこの世にあって、走っても弱ることなく、歩いても疲れない神の力におおわれ、励まされて歩み続けようではありませんか。 【祈り】 ご自身の力をキリストの内に働かせたもう神よ、倒れた心を御力によって立て直してください。 Sun, 31 Jul 2022 00:10:00 +0000 幻がなければ民は堕落する(箴言 29-31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220731 no 2022 幻がなければ民は堕落する。 教えを守る者は幸いである。 (箴言29章18節) 幻と訳されている言葉は、啓示、預言などとも訳されます。英語ではビジョンです。「見る」という言葉から来ています。預言者イザヤはユダとエルサレムについての幻を見ました(イザ1章1節)。他の預言者たちも幻を見ています。預言者たちの見た幻は主からのものです。これから起こることを映像という形で示されたもので、時には預言者自身もその説明を必要としました。 今日、各個教会で将来計画としてのビジョンを描くことがあります。教会形成においてはそういう「幻」を抱くことは大事ですが、ここで言われている幻は神からの確かな啓示または預言としてのものです。 それでは、今の教会に共通の確かな「幻」は何かと言えば、栄光の神の国の完成ではないでしょうか。 私たちも、この確かな幻を見失ってしまえば道を踏み外して堕落してしまいます。この場合の堕落とは、掟から外れて緩んでしまった状態です。そういう状態に陥らないように、主は今日の私たちに明確な文書としての聖書を与えてくださいました。 私たちを命の道に導く主の御言葉を共に聞き、命の道から外れて堕落しないように互いに励まし、主の確かな救いの約束を信じて、きょうの主の日も礼拝を献げましょう。 【祈り】 聖霊なる神様、主の確かな御言葉にしっかりと目を向け、命の道を歩き通せるように助けてください。 Sat, 30 Jul 2022 00:10:00 +0000 慰めよ慰めよわたしの民を(イザヤ書 40章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220730 no 2022 慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。 (イザヤ書40章1節) イザヤ書40章から55章は、捕囚の民に、解放と慰め、終末的栄光について告知します。預言者は神の玉座の前に開かれた天の会議に引き入れられ、主の御使いたちの声を聴きます。 預言者の第一声は「慰めよ、わたしの民をなぐさめよ」で始まります。絶望的な悲しみの中にある捕囚の民を慰めてくれる者が誰もいないのです。神の民が神の慰めを失ってしまったのです。神の民にとって、それは主なる神を失うことにほかなりません。 この民に向かって神は、己が罪のための苦役の期間はもう終わるのだ。十分な罰を主から受けたからだ。その咎はもう赦されるのだと語られます。神は再び「わたしの民」と呼びかけてくださるのです。 神の民の捕囚からの解放は、神からの慰めであると同時に、やがて来る救いの時の象徴でもあります。人は罪深く、砂漠の熱風にたちまち枯れ、しぼむ草花のようにはかない存在です。罪人は、神の吹きつける裁きの風に耐えることができません。 真の慰めは、人からではなく、とこしえに立つ神の言葉からやってきます。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。ここに神の慰めがあるのです。 【祈り】 主なる神よ、私たちの抱える深い傷が、真の大牧者なるイエス・キリストの中で癒されますように。 Fri, 29 Jul 2022 00:10:00 +0000 その道は聖なる道と呼ばれる(イザヤ書 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220729 no 2022 そこに大路が敷かれる。 その道は聖なる道と呼ばれ 汚れた者がその道を通ることはない。 主御自身がその民に先だって歩まれ …。 (イザヤ書35章8節) 神の裁きと呪いが宣告されるならば、いかに繁栄する国々といえども廃墟となると34章は語ります。35章では、今度はどんなに国民が砂漠や荒れ野となり果てても、神の祝福をいただくならば、エデンの園のような豊かで麗しい地に変わると語られます。かつてイザヤに「民の心をかたくなにせよ」(6章10節)と命じられた神ご自身が、神の民を贖うために「来られる」からです。 「そのとき」何が起こるのでしょうか。荒れ地に川が流れ、砂漠に花は咲き、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うというのです。自然界も変貌を遂げ、人は癒され、終末的な神の栄光と恵みの支配のうちに神の救いは完成します。 そこに敷かれる聖なる道は、神を認め、畏れ、感謝し、敬う者だけが通ることのできる道です。この特権は、彼らの正しさのゆえではなく、ご自身の契約を忠実に守られる神の一方的な恩恵による贖いによるものなのです。 この大路のゴールは、シオンで神と相まみえ、神を礼拝することにあります。私たちは主の日の礼拝において、この恵みに主イエスのゆえにあずかる者とされているのです。 【祈り】 主なる神よ。主イエスが開いてくださった聖なる道を感謝しつつ、歩み続ける者とならせてください。 Thu, 28 Jul 2022 00:10:00 +0000 大地は主を知る知識で満たされる(イザヤ書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220728 no 2022 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。 (イザヤ書11章9節) 南王国は、最後はバビロンによって滅ぼされますが、この預言が語られたとき、南王国はアッシリアの脅威にさらされていました。こうした状況の中で、ダビデ王朝が切り倒された後に、エッサイの株から再び芽が出るという預言が語られます。この若枝に、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊が宿ります。主の霊が恒久的に宿るお方、それがメシアのしるしです。 このメシアである王によって、「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」(8節)新しい世界が完成します。堕落後、女の子孫と蛇の子孫との間に神が置かれた敵意(創3章15節)と罪の結果である呪いと悲惨が、「主を知る知識で満たされ」(9節)ることによって完全に取り除かれるからです。この王は、人間の尺度によらず、神の正義と公平をもって弱い人や貧しい人のために正しい裁判を行います(4節)。 罪の腐敗と汚染、罪の力は、この世のすべての領域に及んでいます。しかし、神はキリストの到来によって罪からの回復の御業に着手され、今もその御業を遂行し続けておられます。やがて必ず大地は必ず主を知る知識で満たされるのですから、望みを抱いて福音を宣べ伝え、神の国の完成の日を目指して歩み続けようではありませんか。 【祈り】 神よ、私たちの働きが、主を知る知識に基づくものでありますように。 Wed, 27 Jul 2022 00:10:00 +0000 その名は平和の君と唱えられる(イザヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220727 no 2022 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 (イザヤ書9章5節) この預言が語られた紀元前8世紀後半、北イスラエル王国はアラムと同盟を結び、南ユダ王国を脅かしていました。これをよしとしないアッシリアは、北王国のガリラヤ、ナフタリを占領し、その民を捕囚としました。そのとき、「闇の中」「死の陰の地」の状態にあったガリラヤに光が輝くという、慰めに満ちた希望が語られます。武器は焼き尽くされ、戦争は放棄され、平和の日が訪れるというのです。 それは、どのようにして実現するのでしょうか。ダビデの王座に座する「ひとりの男の子」によってです。その身は四重の称号を帯びており、その一つは「力ある神」です。これはイスラエルのまことの神そのものをあらわす言葉です(10章21節)。 またこのお方は「平和の君」とも呼ばれます。聖書が語る平和とは、同盟という人間的な手段によってではなく、万軍の主の熱意によって成し遂げられる神の賜物としての平和です。この預言は、神の御子イエス・キリストにおいて成就しました。 キリストこそ私たちの平和です(エフェ2章14節)。人の邪悪さがますます大きくなっていくこの世です。キリストが打ち立てられた十字架による平和と和解を本気で追い求め、宣べ伝えようではありませんか。 【祈り】 力ある神、平和の主よ、世が欲しても得られないあなたの平和をこの世にお与えください。 Tue, 26 Jul 2022 00:10:00 +0000 わたしを遣わしてください(イザヤ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220726 no 2022 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。 「誰を遣わすべきか。…」 … 「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください。」 (イザヤ書6章8節) イザヤは、神殿礼拝において、幻の中で天に座する栄光の主を見ます。御使いセラフィムによる賛美が響き渡り、神殿は栄光の煙で満たされました。絶対的な神の聖さを前にして、災いだ、わたしは滅ぼされる、とイザヤは恐れおののきます。ここに罪ある者と聖なる神との根本的な違いがあらわにされます。 祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせるという神の一方的な働きかけによって罪の赦しを体験したイザヤは、「誰を遣わすべきか」という主の御声に、直ちに「わたしを遣わしてください」と献身の応答をします。 しかし、イザヤに語られた主の言葉は過酷なものでした。悔い改めて癒されることのないために語れというのです。 誰がこのような厳しい働きに耐えることができるでしょうか。神の恵みによる赦しにあずかった者だけが持ちこたえることができるのです。なぜなら、神の民がどんなに焼き尽くされ、切り倒されても、神は聖なる種子としての切り株(13節)を残してくださると約束しておられるからです。 それゆえ、きょうも主が新しく芽生えさせてくださる聖なる種子の現われを待ち望みつつ、頑なな世に向かって、託された神の言葉を語り続けようではありませんか。 【祈り】 主なる神よ、キリストのゆえに、語る者を御名の力によって強めてください。 Mon, 25 Jul 2022 00:10:00 +0000 キリストに進んで従うなら(イザヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220725 no 2022 お前たちが進んで従うなら 大地の実りを食べることができる。 (イザヤ書1章19節) イザヤ書は、主に背き、神を捨てた選びの民の罪深さを徹底的にえぐるところから始まります。 「罪」は律法への違反を、「咎」はゆがみを意味する言葉です。神から離れた人間は、神という的から外れ、ひねくれてゆがんだ者となってしまいました。頭から足の先まですべて、健やかなところはなく傷だらけだというのです。全体的堕落です。 神の民が献げる熱心な礼拝、たくさんの献げ物に対して、主は、重荷でしかない、飽いた、と退けられます。聖さと不義が同居している、真の悔い改めが伴っていない礼拝だったからです。血にまみれた手を洗って清くせよ、悪い行いを取り除け、と主は言われます。 どうすれば清くすることができるのでしょうか。そこに驚くべき神の言葉が語られます。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら」(18、19節)と。 罪を洗い、清めることができるのは主キリストの血潮だけです。神に敵対し、罪人であった私たちのためにキリストは死んでくださいました。このキリストに進んで従うところに真の悔い改めがあります。 【祈り】 主なる神よ、私たちの悔い改めが、キリストにある真の悔い改めとなりますように。 Sun, 24 Jul 2022 00:10:00 +0000 羊の群れにあなたの心を向けよ(箴言 25-28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220724 no 2022 あなたの羊の様子をよく知っておけ。 群れに心を向けよ。 (箴言27章23) 箴言は未熟な者や若者に、熟慮や知識と慎重さを教えるためだけではなく、賢人には説得力、聡明な人には指導力を増し加えるためのものでもあります(1章4、5節)。そうであるならば、若者に教えるだけではなく、壮年の者も、老年に入った者も、指導する立場にある者も、皆が聞くべき教えであることは当然です。 箴言は、持ち物管理にも未熟な者に羊の世話のことから教えているので、ここでの羊は、文字通り動物の羊のことです。しかし、旧約聖書では、主の民がしばしば羊に、主が羊飼いにたとえられており、そして指導者たちも羊飼いにたとえられます。 ですから、ここを読む牧師たちは10人中10人が、自分にゆだねられた羊の群れとしての信徒たちのことを思い起こすでしょう。教会では、牧師も長老たちも、ゆだねられた羊たちに心を向けているはずですが、いつも自らの至らなさを思い知らされます。若者の未熟さだけを嘆いている余裕はありません。 「羊飼いを撃て」(ゼカ13章7節)と言われた主御自身が実は私たちのために撃たれたのでした。そういう大牧者がおられることを感謝して、指導する者も、若者も、老年にある者も、共に主イエスを仰ぎ、へりくだって礼拝を献げましょう。 【祈り】 主イエス様、罪深い者のために自ら撃たれてくださったことを感謝します。羊の群れを導いてください。 Sat, 23 Jul 2022 00:10:00 +0000 主が共にいてくださる幸い(ヨブ記 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220723 no 2022 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 (ヨブ記42章6節) この世界を創造され、これを支配し、動物たちを守り養い、怪物さえも屈服させる生ける神に直面したヨブは、驚きひれ伏し、このお方に抗弁しようとした自分の高慢を思い知らされて、自らの罪を告白しました。しかし、この時のヨブは恐怖に打ち震えていたのではなく、清い畏れと共に主に出会うことができた喜びに打ち震えていたのではないでしょうか。 ヨブの苦難の理由については何の説明もありません。しかし、自分が味わって来た傷みも苦しみも、悲しみも悔しさも、神のご支配の中で起こっていたのだ。神がこのわたしのことを覚えていてくださったのだということを知るだけで、ヨブは満足しました。そして神の御前に喜んでひれ伏し、自らの罪を悔い改めたのです。そして神は、そんなヨブがご自身に対して正しく語った者と認めてくださいました。そしてヨブが友人たちのためにとりなし祈ったときに彼らをも赦してくださり、ヨブの繁栄を回復してくださいました。 全能の主なる神との関係が回復するときに、自分自身との関係も、他人との関係も、世界との関係も回復に向かって行くのです。主なる神との関係を整えることが、対人、対世界との関係回復への第一歩なのです。 【祈り】 主よ、どこまでもあなたを信頼し、あなたとの関係を壊そうとするサタンの誘惑に勝たせてください。 Fri, 22 Jul 2022 00:10:00 +0000 たとえ今光が見えなくても(ヨブ記 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220722 no 2022 今、光は見えないが それは雲のかなたで輝いている。 (ヨブ記37章21節) ヨブが嘆きの言葉を語りつくした後、突然もう1人の友人エリフが語り始めます。彼は年少者であるため発言を控えていましたが、3人の友人たちがヨブを説得できないのを見て語り始めたのです。特にエリフは「神よりも自分の方が正しい」と主張するヨブに対して怒りを覚えたのです。エリフは神の計り知れない知恵による自然支配の前でヨブの知恵の限界に気付かせ、神と対等に論じ合う力は人間にはないということを悟らせようとします。自分の小さな知恵で神を理解しつくしたと思って、神の正しさを否定してはならないのです。けれども、それは神を全く不可解な方として恐怖することとは違います。厚い雲を突き抜ければ上空には太陽が輝いています。同様に、苦難の雲に隠れて神のお姿が見えなくても、やがて真実は明らかになり、神の栄光が黄金のように輝くのです。人間がなすべきことは、高ぶることなく自らを低くし、何があっても神を信頼することです。 私たちはこの神の栄光が主イエス・キリストの十字架の死と復活に現わされたことを知っています。最も大切な御子の命をすでに私たちのために与えてくださった神が、それ以外のものを与えることを惜しまれるはずがありません。 【祈り】 神よ、御子の命を与えてくださったあなたの愛と真実を、どこまでも信頼することを学ばせてください。 Thu, 21 Jul 2022 00:10:00 +0000 悲しみに表される信仰(ヨブ記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220721 no 2022 あのころ、全能者はわたしと共におられ わたしの子らはわたしの周りにいた。 (ヨブ記29章5節) 3人の友人との対話を終えたヨブは、過去の幸福と栄光を振り返ります。そして現在の悲惨を嘆き(30章)、神に向かって潔白を主張します(31章)。ヨブの過去の幸福の中心には神との親しい交わりがありました。彼は常に神に守られ、神の御光に導かれて歩みました。そのような神との親しい交わりの喪失が、ヨブの嘆きの中心だったのです。かつて受けた人びとからの敬愛も、財力や権力によるものではなく、身寄りのない子らを助け、やもめの心をなぐさめ、障害のある人や貧しい人たちを助ける愛の実践によるものでした。ヨブが嘆くのは、世俗的な栄光を失ったからではなく、神の僕として隣人愛に生きた、充実した人生を失ったからなのです。つまりヨブの信仰はサタンが訴えたようなご利益信仰ではなく、何よりも神と共にいることを喜ぶ信仰だったということです。このヨブの悲しみに彼の信仰がよく表れています。だからこそ、神に挑戦するという信仰の危機を通りながらも、最終的にヨブは「神と共にいる」という幸いなゴールに導かれるのです。 私たちも日々の歩みの中で、順境の時も逆境の時も、御言葉をもって語り掛けてくださるインマヌエルなる主が共にいてくださることを、何よりの喜びとしたいと思います。 【祈り】 主よ、富や権力や人からの称賛ではなく、あなたとの生ける交わりを喜ぶ者とならせてください。 Wed, 20 Jul 2022 00:10:00 +0000 主を畏れ敬う知恵(ヨブ記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220720 no 2022 そして、人間に言われた。 「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別。」 (ヨブ記28章28節) ヨブと3人の友人との討論は終わり、28章にはヨブ記著者の言葉が記されています。人間は、金・銀・宝石などを採掘する優れた技術を持っていますが、真の知恵、すなわちこの世界と人生の謎を解く知恵を得るという点においては無力です。この真の知恵の道は創造者なる神のみが知っておられます。従って、そのような神を畏れ敬い、主が嫌われる悪を避けて生きることこそが、真の知恵と分別ある生き方なのです。ですから、応報思想に基づきヨブを批判する友人たちと、神の仕打ちに納得できないヨブとの討論は、実を結びませんでした。真の解決は神がヨブに語り掛けてくださり、ヨブが神の知恵を認めて御前にひれ伏す時まで待たなければなりません。 この世はさまざまな知恵を提供します。そしてその多くは、何かをつかみ取るための知恵です。しかし、神の言葉である聖書は、つかみ取るのではなくむしろ手放すこと、奪い合うのではなく分かち合うこと、競い合うのではなく、むしろ助け合うことの豊かさを教えてくれています。上り詰めるところにではなく主イエスに倣って降りて行く。そこに神にかたどって造られた人間が、本当の意味で人間らしく生きることができる場があるのではないでしょうか。 【祈り】 主よ、私たちがこの世の価値観に流されず、主イエスに倣って真に知恵ある人生を歩めますように。 Tue, 19 Jul 2022 00:10:00 +0000 贖う方を求める信仰(ヨブ記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220719 no 2022 わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。 (ヨブ記19章25節) 因果応報の思想に基づいてヨブを責め、悔い改めを迫る友人たちの無理解な言葉に対して、ヨブは激しく反発し強く抗議をします。そして神の仕打ちを非道で不法であると訴え、深く嘆くのです。しかしそんなヨブが、やがて自分を贖う方すなわち神が、「塵の上に立たれるであろう」ことを知っていると述べています。「塵の上に立つ」とは、17章16節から考えますと、「陰府において立つ」ということでしょう。すなわち、ヨブは自分が死んで陰府に降った後に、神が贖う方として自分のことを弁護してくださることを知っていると、確信をもって述べているのです。また「贖う方」とは「近親者」を表しますから、自分を見捨てた家族に代わって、神ご自身が自分の近親者として自分の無実を証言してくださるという確信であるとも言えるでしょう。 ヨブは自分に対する神の不当な扱いを嘆き訴えつつ、同時にこの自分のことを本当に理解して弁護してくださるお方は、神だけであると確信しているのです。この一見理屈に合わないヨブの信仰の確信は、いまや仲保者イエス・キリストにおいて成就しました。この主イエス・キリストの贖いのゆえに、罪深い私たちがきょうもすべての罪を赦されて、主に従い生きることができるのです。 【祈り】 主イエスよ、どんなときも贖い主なるあなたの執り成しに感謝して、あなたに従わせてください。 Mon, 18 Jul 2022 00:10:00 +0000 「なぜ」と神に叫ぶ信仰(ヨブ記 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220718 no 2022 なぜ、労苦する者に光を賜り 悩み嘆く者を生かしておかれるのか。(ヨブ3:20) (ヨブ記3章20節) 神との正しい関係にある義人、ヨブの苦難の物語が始まります。ヨブの苦難は神が彼の信仰の真実さを信じておられるからこそ起こりましたが、ヨブがその理由を知る由もありません。財産と子どもたちを失った上に、ひどい皮膚病にかかったヨブは、それでも唇をもって罪を犯すことはありませんでした。愚かなことを言う妻をたしなめ、どこまでも栄光を神に帰しました。しかしその内心は、引き裂かれるような激しい苦悩と戦っていたのです。 ヨブを見舞いに来た3人の友は、かける言葉も失い、衣を引き裂き、塵を振りまき、ただ7日7晩ヨブと共に地面に座るしかありませんでした。その後にヨブは口を開いたのです。ヨブは自分が生まれた日を呪い、自分の存在自体を根底から否定します。そして死が訪れないことを深く嘆くのです。しかし、ヨブは自ら死を選ぶことはしません。自分自身が神によって生かされていることを信じているからです(20節)。ですから、繰り返されるヨブの「なぜ」は、神に向けられています。 苦難の中でなお「なぜ」と、神に向かって叫ぶ信仰を失わない人は幸いです。その人は何よりも神の答えを待ち望む人であり、その人の叫びを、神は必ず聞いておられるからです。 【祈り】 主よ、苦難の中で「だから神などいない」と諦めるのではなく、「主よ、なぜですか!」と叫ばせてください。 Sun, 17 Jul 2022 00:10:00 +0000 主に信頼する者となるように(箴言 22章17節-24章34節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220717 no 2022 あなたが主に信頼する者となるように 今日、あなたに教えを与えよう。 (箴言22章19節) 「箴言」というこの書物の題を他の言語で十分に訳すことは難しいと、ある注解者は書いています。確かに、単なる格言集という枠には収まりきらないことが箴言には書かれています。しかし、その目的ははっきりしており、まことの知恵と諭しを与え、未熟な者に熟慮を教え、主を畏れることを学ばせるものです(1章冒頭)。 きょうの箇所は、「賢人たちの言葉を聞け」という書き出しで始まる部分の冒頭にあります。ここでも社会生活上の様々な格言や教訓が語られますが、弱く貧しい人に代わって争われる主がおられることを示しています(23節)。 賢人たちの賢さは、主を畏れ、主に信頼するところにこそあります。彼らの語る多くの格言は、それらの一つひとつが主を畏れることにつながっているものです。読者は、それを悟り、主を畏れつつ信頼することを学ぶのです。 そして、自分も実は貧しく弱い者であることを知り、そのような者に代わって命を贖ってくださる主に信頼する道を歩くことを教えられます(23章11節)。 私たちも貧しく弱い罪人です。その私たちに代わって罪を贖ってくださる主を信頼して、きょうもまた共に主を仰ぎましょう。 【祈り】 父なる神様、私たちも自分の貧しさと弱さを知り、主に心から信頼する者とならせてください。 Sat, 16 Jul 2022 00:10:00 +0000 同じ信仰をもつ神の教会(コロサイの信徒への手紙 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220716 no 2022 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。 (コロサイの信徒への手紙4章18節) 11節には「ユストと呼ばれるイエス」という人物が紹介されています。その後、割礼を受けた者では、この3人だけがパウロと共に働いたと記されています。「アリスタルコとマルコ、また、ユストと呼ばれるイエス」という3人です。割礼を受けたということは、彼らがユダヤ人であることを意味します。彼らもまたパウロと共に挨拶を、コロサイ教会の信徒たちに伝えています。 さらに12節から14節にはユダヤ人ではない人びとが紹介されています。「エパフラス」はコロサイ教会出身の牧師です。コロサイ人で、ユダヤ人ではない異邦人です。14節には、「医者ルカ」と「デマス」が登場します。すなわち、ルカもデマスも異邦人でしたが救われて、キリスト者になった人たちです。 このようにしてユダヤ人と異邦人がコロサイ教会に挨拶をしているのは彼らが同じ信仰を持っているという意味です。教会とは地域的にいくら遠く離れていても、人種と文化が異なっても、生きて来た歴史が異なっても、一つの信仰告白と、三位一体の神によってつながっています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。 【祈り】 さまざまな隔ての壁を越えて、私たちが一つの信仰を与えられ、神の教会に属することが許されていますことを心から感謝します。 Fri, 15 Jul 2022 00:10:00 +0000 兄弟姉妹に対する愛の労苦をする教会(コロサイの信徒への手紙 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220715 no 2022 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 (コロサイの信徒への手紙1章4節) パウロは3節で「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について聞いた」と言って、神に感謝しています。不思議な言葉ではないでしょうか。パウロはコロサイの教会の人たちのすべての人たちに対しての愛を感謝しているのではありません。「すべての聖なる者たち」に対して抱いている愛への感謝を述べます。すなわち、兄弟姉妹に対する愛なのです。どうして、すべての人たちに対してではなく、兄弟姉妹への愛について感謝しているのでしょうか。 他の聖書の箇所でパウロは「愛のために労苦し」と語っています(1テサ1章3節)。「労苦」は、「打つ」という言葉から来て、「むやみに殴られる」「むち打たれる」という意味です。それで、聖書の「労苦」という言葉は「苦痛」「苦しみ」を表します。 教会で兄弟姉妹への愛に生きることは当たり前のことではありません。そこには愛の労苦が必要です。私たちが神からいただいた愛をもって兄弟姉妹を愛するとき、神は、「あなたたちには愛の労苦がありますよ」と言ってくださいます。愛の労苦は教会を教会らしくする一番基礎的なものです。自分のためではなく兄弟姉妹のために、共に「愛の労苦」をし、高ぶることなく、忍耐し、神の栄光を表す信仰生活をしたいと思います。 【祈り】教会に生かして、兄弟姉妹を愛することに召していてくださることを心から感謝します。 Thu, 14 Jul 2022 00:10:00 +0000 嘆きの日を喜びの日に変える神(エステル記 8-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220714 no 2022 悩みが喜びに、嘆きが祭りに変わった月として、この月の両日を宴会と祝祭の日とし、贈り物を交換し、貧しい人に施しをすることとした。 (エステル記9章22節) 第12の月、すなわちアダルの月の13日は、敵がユダヤ人を征伐しようとしていた日でした。しかし、エステルの願いにより、事態は逆転します。その日は、ユダヤ人が仇敵を征伐する日となったのです。ユダヤ人は、この日を祝宴と喜びの日としました。ユダヤ人は今でも、この日をプリムの祭りとして祝っています。プリムの祭りの由来については、9章24節から26節にこう記されています。「全ユダヤ人の敵アガグ人ハメダタの子ハマンはユダヤ人絶滅をたくらみ、プルと呼ばれるくじを投げ、ユダヤ人を滅ぼそうとした。ところが王に知らされると、王は文書をもってハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪いたくらみはハマン自身の頭上にふりかかり、彼は息子らと共に木につるされるよう命じられた。それゆえ、この両日はプルにちなんで、プリムと呼ばれる」。 エステル記には、神という言葉が一度も記されていません。しかし、この物語の中で働かれているのは、イスラエルの神、主です。主は、モルデカイやエステルを用いて、更には、ペルシアの王クセルクセスを用いて、御自分の民を救い、嘆きの日を喜びの日に変えてくださったのです。 【祈り】 神よ、あなたは、さまざまな人を用いて、御自分の民を救い、嘆きの日を喜びの日へと変えてくださいます。感謝いたします。 Wed, 13 Jul 2022 00:10:00 +0000 柱につるされたハマン(エステル記 5-7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220713 no 2022 こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。 (エステル記7章10節) ハマンは、モルデカイをつるすために、22メートルもある高い柱を自分の家に立てました。そして、そのことを進言するために、王のもとに行きます。ちょうどその時、王は宮廷日誌を読んでおり、モルデカイに何か褒美を与えようと考えていました。王はハマンに「王が栄誉を与えることを望む者には、何をすればよいか」と尋ねます。ハマンは、自分のことだと考えて、その者に王の服を着せ、王の馬に乗せて広場で触れ回るようにと進言します。しかし、それはハマンのことではなく、モルデカイのことでした。王は、ハマンに、その言葉どおり、モルデカイにするようにと命じます。ハマンは、自分の口で、モルデカイが王から栄誉を与えられた者であると宣言するのです。 エステルは、2回目の酒宴の席にも王とハマンを招きました。そして、「私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます」と王に願い出ます。エステルは王の前で、自分の命と自分の民族の命が滅ぼされそうになっていること、そして、そのことを企てたのがハマンであることを訴えます。これによって、ハマンは王の怒りを買い、モルデカイをつるすために立てた柱に、自分がつるされることになるのです。 【祈り】 神よ。あなたは、ふさわしい時に信仰ある者を用いて、私たちを敵の手から救ってくださいます。感謝いたします。 Tue, 12 Jul 2022 00:10:00 +0000 神に従うエステルの覚悟(エステル記 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220712 no 2022 「定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」 (エステル記4章16節) 第3章には、王によって高い位につけられたアガグ人ハマンの策略が記されています。ハマンは、モルデカイが自分にひざまずいて敬礼しないことに腹を立て、モルデカイの民であるユダヤ人を滅ぼすことにします。その日はくじによって第12の月の13日に決まりました。この日、ユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、その持ち物は没収されることになったのです。 第4章には、ハマンの策略を知ったモルデカイの反応が記されています。モルデカイは、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、苦悩に満ちた叫び声をあげました。そして、エステルに、王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝えるのです。この伝言に対して、エステルは、お召しがないのに近づくことはできないと消極的に答えます。そのようなエステルに、モルデカイはこう言います。「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」。このモルデカイの言葉を、エステルは信仰をもって受け入れます。エステルは、自分の民を救うために、死ぬことさえ覚悟するのです。このエステルの覚悟に、私たちは、主イエス・キリストの覚悟を見ることができるのです。 【祈り】 主イエスよ。あなたは、御自分の民である私たちを救うために、命を捨ててくださいました。感謝いたします。 Mon, 11 Jul 2022 00:10:00 +0000 エステルを王妃にした神の御計画(エステル記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220711 no 2022 王はどの女にもましてエステルを愛し、エステルは娘たちの中で王の厚意と愛に最も恵まれることとなった。 (エステル記2章17節) エステル記は、ユダヤ人のエステルがペルシアの王クセルクセスの王妃になった物語です。 第1章には、クセルクセス王が盛大な宴会を催したこと、酒で上機嫌になった王が王妃ワシュティの美しさを高官たちに見せるために召し出したが、王妃が拒んで来なかったことが記されています。このことは、王と高官たちにとって大問題でした。王妃が王の命令に従わないならば、そのことを聞いた女たちが、自分の夫を敬わないようになるかも知れないと言うのです。そのようなことがないように、ワシュティを王妃の位から退け、より優れた他の女に与えることが王の勅令として発布されます。 第2章には、新しい王妃を選ぶために国中の美しいおとめが集められたことが記されています。ベニヤミン族のモルデカイの養女であるエステルも強制的に連れて行かれます。国中の美しいおとめたちが、12か月の美容の期間を過ごして、さらに美しさに磨きをかけて、王の前に立ちます。王は他の誰にもまさってエステルを愛しました。王は、エステルの頭に王妃の冠を置き、ワシュティに代わる王妃にしました。そして、そこには、エステルがまだ知らない神の御計画があったのです。 【祈り】 神よ。私たちの人生には、私たちの知らないあなたの御計画があることを感謝いたします。 Sun, 10 Jul 2022 00:10:00 +0000 歩むべき道の初めに教えよ(箴言 22章1-16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220710 no 2022 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。 年老いてもそこからそれることがないであろう。 (箴言22章6節) 自らの歩むべき道について、何も理解していない私たち罪人は、放っておけば自分の行きたい方へ勝手に歩み出してしまいます。箴言はそれを知っているので、特に若者に主を畏れることを教えるように強く命じます(1章7節、23章13節等)。 若者たちが大人たちの世代を厳しく批判するのは常のことで、それは若者の特権かもしれません。そこには大人たちが聞かねばならないことももちろんあります。 しかし、それなりの年齢に達してきて自分の若い時代を振り返ると、十分な知識と経験もないまま調子に乗って羽目を外したり、偉そうに大人を批判したり、分別のないことをしたものだと、恥ずかしくなることがあります。 箴言が教育せよ、というのは、ただ物わかりの良い、分別くさい若者を生み出したいからではありません。若者が自由な発想で世を動かしていくこともあり得ますが、それでも常に主を畏れる姿勢を持っていなければならない、ということです。 それにより、主の前に自分の小ささや愚かさも知ることになり、周りの人を尊ぶことにもなるからです。若者も大人も、共に主を畏れつつ御前にへりくだって歩む道を祈り求めましょう。 【祈り】 主よ、若者も大人も主を畏れて共に礼拝しつつ歩めるように、御言葉によって導いてください。 Sat, 09 Jul 2022 00:10:00 +0000 神に対する悔い改めと罪の告白(ネヘミヤ記 9-13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220709 no 2022 他の4分の1の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。 (ネヘミヤ記9章3節) 御言葉の礼拝と愛餐を共にし、祖国への帰還と神殿再建という神からの恵みと祝福に感謝した人びとは、続けて仮庵の祭を祝い、そして罪の告白と悔い改めの時を持ちました。 それは7月24日のことと記されています。その日の4分の1の時間は、主の律法の書を朗読して過ごし、他の4分の1の時間は、主に罪の告白をしてひれ伏しました。この時、彼らは断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけて悔い改めと罪の告白を外的にも示しました。 罪の告白の祈りにおいて、神の教えに逆らい続け、戒めに従わなかった先祖の罪と自分たちの罪を告白します。プロテスタントの教会は、罪の告白を礼典として残しませんでした。ですから、懺悔・告解室のようなものも教会にありません。 しかし、私たちは礼拝の度毎に、罪を告白し、罪の赦しにあずかっています。今も私たちは先祖の罪と自分たちの罪に苦しんでいます。神の教えに聞き、御言葉を理解すると私たちは罪を知らされます。 教会は、神に対する罪を赦す唯一のところです。悔い改めと罪の告白を礼拝の度毎になして、主イエスによる罪の赦しを心に刻みましょう。 【祈り】 主なる神様。私たちと先祖の罪を赦し、御言葉に相応しく生きる者としてください。主の御名により祈ります。 Fri, 08 Jul 2022 00:10:00 +0000 御言葉の理解愛餐の喜び礼拝の祝福(ネヘミヤ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220708 no 2022 民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。 (ネヘミヤ記8章12節) 夜明けから正午まで、人びとは律法の朗読と翻訳を聞きました。さらに説明されたので人びとは朗読を理解することができました。こうして祭司は律法学者としての役割を担い、説教者にもなりました。 礼拝において大切なことは語られた御言葉が理解されることです。深い理解により人びとは「皆、律法の言葉を聞いて泣いて」いました。神の力強い御手に触れ、裁きと恵みを与える大いなる神の導きに、人びとは心揺さぶられて涙が溢れました。 その人びとにエズラたちは泣くことを止めて、食卓の祝いを続け、相互に食べ物、飲み物を分かち合うことを命じます。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と語られています(10節)。そこで、人びとは皆帰って、食卓を囲み、備えのない者と分かち合い、神の救いの恵みを喜び祝いました。「教えられたことを理解したからである」と語られています。 御言葉の説き明かしによる礼拝に続き、食卓の祝いがなされました。それらは御言葉の理解の結果です。 神の救いを知らされ、感謝し、その祝福を食卓を囲んで分かち合い、喜びました。御言葉と聖餐につながる礼拝がここに示されています。 【祈り】 主なる神様。御言葉による神との交わりと隣人との愛の交わりを祝福してください。主の御名により祈ります。 Thu, 07 Jul 2022 00:10:00 +0000 御言葉が読まれ聞かれる礼拝(ネヘミヤ記 8章(※1-7章も合わせて通読ください)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220707 no 2022 エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。 (ネヘミヤ記8章5節) 捕囚から解放されて祖国に戻ったユダヤの人びとは、困難の中にも神の導きにより神殿を再建しました。 さらにネヘミヤ記にはエルサレムの城壁が再建され、第7の月に感謝の礼拝が行われた様子が記されています。人びとは、水の門の前にある広場に集まり一人の人のようになりました。帰還した人びとの心が一つとされている姿が示されています。 人びとは祭司エズラにモーセの律法の書を持ってくるように求めました。夜明けから正午まで、エズラはそれを人びとに読み聞かせました。旧約聖書の創世記から申命記だと思われます。人びとは皆、その律法の書の朗読に耳を傾けました。 この時、エズラは皆からよく見えるように木の壇の上に立ちました。律法の書が朗読されると人びとは立ち上がりました。エズラが神をたたえると人びとは「アーメン、アーメン」と唱和してひざまずいて神を礼拝しました。さらにレビ人が朗読された律法を人びとに説明しました。それは聴衆から見える位置での律法の書の朗読と翻訳と解説です。 ここに私たちの教会の礼拝の原型があります。人びとは御言葉を聞いて礼拝したのです。 【祈り】 主なる神様。主の日毎に語られるあなたの御言葉を聞いて理解できるように導いてください。主の御名により祈ります。アーメン Wed, 06 Jul 2022 00:10:00 +0000 神によって心動かされた神の民(エズラ記 1章(※7-10章も合わせて通読ください)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220706 no 2022 そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。 (エズラ記1章5節) ペルシア王による祖国帰還と神殿再建の布告を聞いたときに、捕囚の民として連れてこられたユダヤ人たちはどのように応答したのでしょうか。半信半疑であったかも知れません。いきなりそのように言われても、既にバビロンでの自分たちの生活がありました。長い旅を続けて荒れ果てた祖国に戻ったとしても、どのように生活をしていったらよいか戸惑う者たちもいたかも知れません。 しかし、神はペルシアの王の心を動かされただけでなく、ユダヤ人たちの心をも動かされました。さらに、王は帰還する者たちに銀、金、家財、家畜、エルサレム神殿への随意の献げ物をも持たせるようにしました。そうでなければ、困難な状況の中で勇気を持って神に従うことはできなかったでしょう。 さらに、キュロス王はバビロンによって奪われたエルサレム神殿の祭具類も返還して帰還する者たちに持たせました。こうしてユダとベニヤミンの人びとの中で神に心動かされた者は皆、エルサレムの神殿を建てるために上って行きました。 信仰の応答は心を動かされることで生み出されていきます。 【祈り】 主なる神。私たちの心をも動かしてください。あなたへの献身と歩みを導いてください。主の御名により祈ります。アーメン Tue, 05 Jul 2022 00:10:00 +0000 神殿再建を布告するペルシア王(エズラ記 1章(※3-5章も合わせて通読ください)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220705 no 2022 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。 (エズラ記1章3節) 神に心を動かされたペルシア王キュロスは捕囚として連れてこられたユダヤの人びとを祖国に帰すことにしました。そしてイスラエルの神のために神殿を再建することを布告します。エルサレムの神殿はバビロンによって破壊され、瓦礫になっています。 捕囚としてバビロンの地に連れて来られたユダヤの人びとは自分たちで集まり、律法を朗読して神を礼拝して信仰生活を続けました。そのユダヤ人たちにキュロス王は祖国に戻り神殿を再建することを許可します。 キュロスは「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った」と語っています。ペルシア王国には翼を持つ太陽を模した光の神がいました。それは人間が考え出した偶像です。キュロスは聖書の神を語っていますが、自分たちの主護神にイスラエルの神も加えて、自分の権威を高めようとしたのでしょう。そしてバビロンによって捕囚として連れて来られた人びとを解放することで、ユダヤの人びとの歓心を買うことにしました。それは王の統治上の政策でしたが、そこに生ける神の導きがあります。 【祈り】 主なる御神。あなたは異教徒であれ、どのような者であれ、豊かに用いてくださり、御自身の計画を実行されます。あなたの御心が今も大胆に示されますように。主の御名により祈ります。アーメン Mon, 04 Jul 2022 00:10:00 +0000 ペルシア王の心を動かされる神(エズラ記 1章(※2章も合わせて通読ください)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220704 no 2022 ペルシアの王キュロスの第1年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、…キュロスの心を動かされた。 (エズラ記1章1節) 聖書の神は歴史を支配され、ご自身の計画を実行されます。神は、エバの子孫に悪魔の頭を砕く方を送ると宣言されました。そのためにアブラハムを選び、その子孫をユダヤ民族として導かれ、イスラエル王国を建国されます。 しかし、神の民として神に仕えてきたユダヤの人びとは周辺諸国の偶像の神々に心奪われ、神の裁きを受けました。王国は南北に分かれ、サマリアを拠点としていた北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、後の時代に南ユダ王国がバビロンに侵略され神殿は破壊されます。南ユダ王国の人々の多くは捕囚としてバビロンに連行されました。その時代に遣わされた預言者エレミヤは、再び神がユダヤの人びとを祖国に連れ戻すと預言していました。 その時が来たとエズラは記します。その時、「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされ」ました。キュロスは南ユダを滅ぼしたバビロンを打ち破り、バビロンに捕囚とされていた人びとの解放を告げました。このキュロスの政策の背後に王の心を動かされた神の力強い御手があります。 【祈り】 主なる神様。今も生きて働かれ、私たちを守り導いてくださる御力をあがめ賛美します。主の御名により祈ります。アーメン Sun, 03 Jul 2022 00:10:00 +0000 一歩一歩を主が定めておられる(箴言 20-21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220703 no 2022 人の一歩一歩を定めるのは主である。 人は自らの道について何を理解していようか。 (箴言20章24節) ここで言う道とは何でしょう。どのような人生を歩むかという大きな面と、きょう何が起こるか、という日常的な面があります。 どちらにしても、私たちは自らの道について何を理解しているでしょうか。きょう一日だけでも、予想外のことが起こり得ます。世の中には、綿密な人生計画を立てて、それに沿って歩んでいるように思える人もいるかもしれません。しかし、自分の寿命すら、私たちは自分で決められません。ましてこの世を去った後に何が待っているかを、生まれながらの罪人は何も知らないのです。 神のように、あるいは神よりも偉くなろうとして堕落した人間は、神の御前にへりくだって自らの道をゆだねるよりも、自分で切り開こうとしてしまいます。そうではなく、一日一日を主なる神にゆだねて生きることを箴言は教えています。人を創造し、命の息を与えてくださった主は、私たちが歩むべき道を知っておられます。自分がこの世で歩む一歩一歩をすら主が定めてくださっているなら、その主にゆだねることが何より確実であるはずです。 きょう、この主の日に、「わたしは道である」と言われた主イエスを仰ぎ、新たな一週間を歩ませていただきましょう。 【祈り】 主よ、私たちの歩みを導いてください。私たちが主イエス・キリストという道を歩み通せますように。 Sat, 02 Jul 2022 00:10:00 +0000 わたしの前に差し出される十字架(ルカによる福音書 23-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220702 no 2022 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 (ルカによる福音書23章26節) ここで唐突に、前後の文脈も何もなく、突然、キレネ人シモンが登場します。彼は、無理やり主イエスの十字架を背負わされて、主イエスのあとを歩ませられました。 なぜこの大事な場面でキレネ人シモンなのかと思いますし、わたしは以前、彼はなんと気の毒な人なのかと思っていました。しかしこれは、シモンに降りかかった不運であるどころか、彼への救いです。 今で言えばリビアというエジプトの西隣の、当時の地図の最西端に生まれた彼は、しかし十字架へと引き寄せられ、イエスの弟子たちや家族でさえ近づくことができなかった主イエスの十字架に、直接触れるところまで引き寄せられました。さらに、その十字架を背負って主イエスの背中に従って歩みました。 十字架は誰のためのものなのかがここに表われています。十字架の救いは、距離を超え、国境を越え、人種を超えて、キレネ人シモンを深く捕らえ、さらに彼を通して世界に広がるのです。つまり、シモンに起こった十字架との触れ合いは、どこに住んでいる誰に対しても、遠い隔たりなどお構いなしに、力強く起こり得ることなのです。 キレネ人シモンの姿は、この私たちの姿でもあります。 【祈り】 わたしも主イエスの十字架の前に近く招かれています。きょうもこの救いの十字架に触れさせてください。 Fri, 01 Jul 2022 00:10:00 +0000 信仰の告白、賛美としての献金(ルカによる福音書 21-22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220701 no 2022 「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 (ルカによる福音書21章4節) 一人のやもめがレプトン銅貨2枚をささげた行為と、それをささげたやもめの心は、誰にも見えず、分かりません。しかし、それを受け取ってくださる神の目には、よく見えていました。神は、私たちのたった1回の献金さえもお忘れにならずに、永遠に覚えていてくださいます。 やもめは、財布を逆さにして、生活費すべてを献金箱(賽銭箱)に入れたのですが、彼女はやけになって、生活に対しても投げやりになって、生きることを放棄したのではありません。 どんな顔で、彼女は献金をしていたのでしょうか。彼女には、苦労の多い自分の人生を恨む気持ちは無かったのではないかと思います。 その彼女にとっての2レプトンの献金は、「わたしを生かし支えているのは、お金ではなく、主なる神です」という、信仰の告白であり、神への強い賛美でした。 献金とは、財布を通しての信仰の告白であり、生活を通しての神賛美です。そして、献金の時は、私たちの心が、ささげることによってさらに満たされる時間です。 そして、このやもめの献金を見ていてくださった主イエスは、その信仰と献身に、十字架を通して、自らの命で返してくださるのです。 【祈り】 わたしのお金や時間や体力、信仰や祈りを、神にささげることが許されていますことを感謝します。 Thu, 30 Jun 2022 00:10:00 +0000 主イエスの涙はあなたのために(ルカによる福音書 19-20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220630 no 2022 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。 (ルカによる福音書19章41節~42節) 人びとがヒーローのように祭り上げようとする中、主イエスがロバに乗ってエルサレムに入城されたことの意味は、主イエスは、ロバに乗ってやってくるぐらいの、優しい王であるということです。人が歩く速度より遅い、拍子抜けするゆっくりさと、子どもでも手を伸ばせば届くような低さで、この主イエスという王は、一番遅い人のスピードに合わせて、一番弱い人の弱さに合わせてくださる王として、私たちのところに来てくださいます。 そこで主イエスは泣かれました。御自身のために泣かれたのではありません。この涙は、自分たちの願いに沿わない神に対しては途端に苛立ち抗う、熱しやすく冷めやすい群衆のための涙であり、そのようなこの私たちのための涙でした。 主イエスの力と奇跡を見て神を賛美した弟子たちが、この1週間後に目にしたものは、力とは反対の神の無力であり、十字架で息絶える主イエスの姿でした。救いのために命を差し出してくださった主イエスのその姿こそが、本当の感謝と賛美に値するものです。私たちのために涙を流してくださる主イエス・キリストは、手を伸ばせば触れられる近さと親しさで、きょうのあなたのためにおられます。 【祈り】 主イエスの涙を誘ってしまうようなわたしにさえも、主が寄り添って歩んでくださることを感謝します。 Wed, 29 Jun 2022 00:10:00 +0000 なぜ教会に行くのか(ルカによる福音書 17-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220629 no 2022 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 (ルカによる福音書17章19節) 主イエスのこの言葉は、「あなたは死から復活して、あなたの人生を生きていきなさい。あなたの信仰が、あなたを生かす」と訳し変えることができます。 この言葉は、主イエスから声を掛けられる前の、異邦人であったサマリア人の姿を示しています。彼は、他の神を礼拝し、重い皮膚病に侵され、自分の人生を踏み出していくことができずにいました。彼は神からも人からも、自分自身の人生からも遠く隔たったところで孤独に隔離されていた、癒しを必要とし、賛美さえも知らない人でした。けれどもそこから、主イエスとの出会いによって、彼のすべてが変えられました。 不要不急の外出が禁止される中、なぜ教会に行くのでしょうか。それは主イエスにつながり、信仰により立ち上がるためです。そして、ただ癒され、恵みをいただいたというだけでは終わらずに、主イエスのところにちゃんと戻って行き、主イエスと共に、神に与えられた自分の人生を生きられるようになるためです。 ここでは癒された10名のうちのたった1人しか戻って来ませんでしたが、信仰者として生きていくため、私たちがそこに戻りつながるべき場所は、キリストの教会のほかにありません。 【祈り】 教会につながり、主イエスにつながり、きょうも信仰を与えられて歩める恵みに心から感謝します。 Tue, 28 Jun 2022 00:10:00 +0000 神の大きな優しさに心を開く(ルカによる福音書 15-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220628 no 2022 「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」 (ルカによる福音書15章31節) 兄は、弟を赦してしまう父の常識外れの愛をありえないと非難します。しかし父は、わたしの愛は普通ではありえない愛なのだと返します。さらに父は、「わたしはそのありえない愛で、今、お前のことも愛している」と両腕を開いて、兄を招くのです。「わたしは前から、近くにいたお前のことを実は待っていたのだ。まだ遅くはない、さあ」と言って、父は、弟を抱きしめたその腕を、今度はもっと力を込めて、同様に失われていた兄に開きます。 放蕩息子のたとえ話には結論がありません。父親の両腕は、「さあ来なさい」と兄に向かって開かれたままで、そこで話が終わっています。これはオープンエンドという終わり方です。その意味するところは、父のこの手は今も、この御言葉を読む読者のすべてに向かって開かれたままだということなのです。 あなたは愛されている。神は今、兄弟姉妹同士や、他の人との比較でではない、あなたそのものを愛してくださっている。神は、「このわたしの愛を信じて、安心して帰ってきなさい。この優しさに、あなたの心を開きなさい」と招かれます。神を知るということは、あなたを包むこの大きな優しさに心を開くことにほかなりません。 【祈り】 きょうも広げられている神の招きの手を認め、その優しい御手に心と身を委ねて歩めますように。 Mon, 27 Jun 2022 00:10:00 +0000 霊的生活とは絶えざる悔い改め(ルカによる福音書 13-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220627 no 2022 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 (ルカによる福音書13章3節) コロナ禍もそうですが、人災や天災が起きたとき、世界規模また個人規模で、不測の事態が起きたとき、それを単にたまたま起こった不幸なニュースだと流してしまわずに、むしろそれを自分に関係させ、自分の悔い改めの機会として受け取るようにと、主イエスはおっしゃいました。 物事を霊的に捉えるということは、論理や理性のいたずらな否定ではありません。それは周りで起こっている事物をよく観察し、その上で自分自身にとっての霊的な問題として捉えて悔い改めることです。疫病を医学的に解釈することは教会の仕事ではありません。旧約聖書の預言者や詩人たちは、疫病を神の怒りの発露として捉えて、その事実に打たれて苦しみました。そのように、私たちは、それを神との関係の中で悔い改めへの問いかけと招きとして、自らの霊的次元における問題として捉えていくのです。 悔い改めとは希望であり、方向転換をして神に向き直る私たちが、神の光を浴びることができるための命綱です。この神に対しての霊的な方向転換が、それぞれの人生と教会に、このとき本当に起こるなら、それこそが、コロナ禍にさいなまれている私たちに求められている大切なことではないでしょうか。 【祈り】 新聞やニュースを機会として、私たちを絶えざる悔い改めへと導いて、新しくしてください。 Sun, 26 Jun 2022 00:10:00 +0000 今日という日を正しく数える(詩編 90編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220626 no 2022 生涯の日を正しく数えるように教えてください。 知恵ある心を得ることができますように。 (詩編90編12節) 詩人は、捕囚の苦しみの中で、人のはかなさを「人は草のように移ろう」(5節)、「人は花のようにしおれ、枯れていく」(6節)と嘆いています。同時に、詩人は神の怒りと憤りを恐れています(7節)。その根底には、詩人を含めたイスラエルの民が神に背を向け続けた罪があることを自覚しています(8節)。さらに、人間の人生が70年、80年を数えても、永遠の存在である神を忘れ、神から離れてしまって、労苦と災いに過ぎない、そして瞬く間に飛び去ってしまうむなしいものだと語るのです。 しかし、その流れが大きく変わります。生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように(12節)との言葉です。詩編39編5節には、「教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように」とあります。 神に背を向けるという罪の中にある人間に、人生のはかなさ、むなしさが襲いかかります。しかし、永遠に生きておられる神へと悔い改めの方向転換をするならば、神を畏れるという知恵が与えられます。そして、きょうという一日が神から与えられた、わたしのための尊い一日であることを数えることができるのです。 【祈り】 神よ、きょうもあなたを見上げて礼拝します。永遠のご存在であるあなたを喜び賛美させてください。 Sat, 25 Jun 2022 00:10:00 +0000 祈りを盾とし矛として進む(ルカによる福音書 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220625 no 2022 「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 (ルカによる福音書11章13節) 執拗に頼めば、必要なものは何でも与えられる。それが祈りの秘訣であると主イエスは教えられます。けれども、「執拗に」という言葉は、慎みに欠けている、いろいろとあれこれ考えずに、という意味合いのある言葉です。ですから、「大胆に」や「遠慮せず」という訳がより良く当てはまります。大切なことは相手への信頼の度合いです。 神は、信頼に足る私たちの父親として、私たちの前に立ってくださっています。父親にとって、私たち子どもは喜びです。さらに、親は子どもが本当に必要とするものを知っていますから、子どもが必要とするものを、必要なときに必要な分だけ与えるのです。神がそのような人間の父以上であることは間違いのないことだと、主イエスは約束してくださいます。 神は、夜中にたたき起こされて憤慨する友人とは違います。どんなに常識外れの、無遠慮な祈りを大胆にささげても、神は決して驚かれることなく、聞いてくださいます。 そして、神は、祈りの霊である聖霊をくださることによって、私たちをさらなる祈りへと導かれます。祈り求めれば聖霊が与えられ、そのことによって、私たちはさらに大胆な神への信頼と祈りに導かれるのです。 【祈り】 コロナ禍の今こそ、私たちは霊に満たされて、この世界の救いを大胆に祈ります。 Fri, 24 Jun 2022 00:10:00 +0000 主によってすべての事に不足なし(ルカによる福音書 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220624 no 2022 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12籠もあった。 (ルカによる福音書9章17節) 私たちは何かにつけて、足りない、不足していると思いがちです。しかし、主にあって、私たちには不足なし。主イエス・キリストに依り頼む限り、私たちには不足なしと言われています。 弟子たちが、パンの配分に直面しています。男が5千人ですから、実際には1万人を優に超える人びとの中に弟子たちは入っていき、彼らは自分の手でパンを配ったのです。弟子たちは、実際に自分の手でこの奇跡を体験し、この豊かさを経験しました。自分の手の中で、どれだけ取って配っても、主イエスから受けたパンはなくならない。それどころか、しまいには足りないのではなくて、残ったパン屑を集めると12の籠にもなった。ですから、ここに居た数え切れない人びとを満ち足らせたパンは、さらに豊かに増え広がって、そこに居ないさらに多くの人の不足にまでも及ぶのです。 聖書の時代から始まった教会は、神を信じて生きることの中で、この奇跡を体験し続け、この恵みの体験の中を教会は生きてきました。そして、これからの私たちの教会も、今朝の御言葉によって建て上げられ、支えられながら、歴代の教会に続く歩みを、不足を満たしてくださる神と共に豊かに歩んでいくのです。 【祈り】 私たちが、今も進行中のこの奇跡をきょうも体験し、その証人となることができますように。 Thu, 23 Jun 2022 00:10:00 +0000 涙は必ず拭われる(ルカによる福音書 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220623 no 2022 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 (ルカによる福音書7章13節) ここには葬儀の列がありました。ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。母親はおそらく、崩れるようにして泣いていたのでしょう。泣くこと以外、できることはありません。そのような母親を見て、主イエスは憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と声を掛けてくださいました。 主イエスは、死んだ息子を見て行動されたのではなく、何よりもまず泣いている母親を見てくださり、憐れに思ってくださいました。ここに、この奇跡の動機が示されています。 そして、涙が止まる。悲しみの涙が嬉し涙に変わる。失った息子を、主イエスは返してくださいます。 主イエスは、私たちを苦しめ、閉じ込め、自分の命よりも大切な私たちの愛する家族を硬直させてしまい、動けなくしてしまう、憎き死を、涙に暮れる私たちのために突き破ってくださいます。そして死を、永遠の別れではない、愛するあの人を主イエスが返してくださり、私たちの涙が拭われる時のための、ただ一時の別れにしてくださいます。 死の力の前に涙せざるをえない私たちに肉体の死を超えた命を与え、私たちの涙を止めるために憐れみに大きく突き動かされてくださるのが、主イエスなのです。 【祈り】 「神はその民を心にかけてくださった」。人びとが叫んだこの言葉を私たちの言葉にしたいと思います。 Wed, 22 Jun 2022 00:10:00 +0000 罪を赦す方の前に共に進み出る(ルカによる福音書 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220622 no 2022 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 (ルカによる福音書5章20節) 主イエスは中風の人の信仰を見て、彼の罪を赦したのではありません。主イエスが見たのは、中風の人を寝床ごと吊り下ろした彼を囲む人びとの信仰であり、その人びとの心でした。中風の病人自身に信仰があったとは書かれていません。きっとその人は、主イエスのことをまだはっきりとは知らなかったのではないでしょうか。けれども周りの人に導かれ、周りの人の愛に支えられえて、彼は主イエスの前に引き出され、立ち上がりました。主イエスは彼に罪の赦しを与えてくださいました。 ここで起こっていることは、教会でも起きていることです。かつてこの私たちも、この中風の人のように、親によって、友人によって、またいろいろな経緯で、主イエスの前に運び込まれました。そして教会で主イエスから「あなたの罪は赦された」と宣言をいただいて、赦されました。 ですから、私たち自身も、今度は、疲れた方、悩みある方を、ファリサイ派のように批判から入る相手でも、どんな方でも、交わりの真ん中に招いて、一緒に主イエスの前に出たいと思うのです。そして、「あなたの罪は赦された」という主イエスからしか聞けない宣言を聞いて、元気に起き上がって、この一日を始めていきましょう。 【祈り】 神よ、自分の力ではどうにもならない大きな重荷を引き受けてください。わたしの罪のすべてを委ねます。 Tue, 21 Jun 2022 00:10:00 +0000 主イエスも洗礼を受けられた(ルカによる福音書 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220621 no 2022 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (ルカによる福音書3章22節) ここには目立たないかたちで、一般の民衆の人たちと同じ者であろうとされる主イエスの姿が垣間見えます。ヨルダン川は、海抜マイナス300メートル以下の世界一低い場所を流れる川です。そこに主イエスは、民衆に混じり込むようにして下って行かれて、他の人びとと同じように服を脱いで、ヨルダン川に低く身を沈めて、洗礼を受けられました。 なぜ私たちと同じ洗礼を受ける側に、主は立たれたのでしょうか。 それは、主イエスが、どこまでもこの私たちと一緒になり、私たちと具体的に一緒に生き、徹底して私たちと結び付いてくださり、罪に嘆き、救いを求める私たちの苦悩や葛藤を御自分のものにしてくださったからです。 主イエスは、全くの人間になられました。主イエスは洗礼を受けられて祈っておられるとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の父からの声を受けて、大きな励ましと慰めを受け取られたのではないでしょうか。そして、主イエスへのこの父なる神からの言葉は、同じく洗礼へと招かれ、神の愛する子どもとされている、今日のこの私たちを力づける神からの言葉でもあるのです。 【祈り】 共に歩んでくださる主イエス・キリストが、父の心を私たちに、私たちの心を父なる神に、向けさせてくださいます。 Mon, 20 Jun 2022 00:10:00 +0000 福音を聞きそして祈ることへ(ルカによる福音書 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220620 no 2022 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 (ルカによる福音書1章5節) この始まりは、この福音書が誰のためのものなのかということを示しています。ザカリアとエリサベトの老夫婦は、決して私たちから遠いところにいる人ではありません。いずれは誰もがこの二人のように年老いていきます。 聖書は彼らについて、子どもがなく、既に年をとっていたと語ります。これはいわば彼らの人生の影の部分です。こういう影の部分があるということも、この夫婦と私たちとを結び付けています。なぜ自分には他の人には当たり前に与えられているような祝福がないのだろうかと、ふと思ったり、また長きにわたって考え悩むことがあります。こういう私たちの、そのままの現実が、福音書のスタートです。 年をとり、子どもも与えられず、その中で、ひっそりと自分の人生を終えようとしていたザカリアは、口を閉ざされました。それは、閉じてしまった心を再び神に向かって開くため、また自分でそのゴールを据えていた人生を、神が与えてくださる新しい道へと変更させるためでした。 自分の口から出る言葉ではなく、神から与えられる言葉を受け取るために、今朝も福音の御言葉から聞き、心から出る神への声としての祈りを、天に向けたいと思います。 【祈り】 あなたに心を開き、福音の喜びを受け取り、きょうも神を見上げることができるようにさせてください。 Sun, 19 Jun 2022 00:10:00 +0000 神を畏れ敬う一筋の心を求めよう(詩編 86編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220619 no 2022 主よ、あなたの道をお教えください。 わたしはあなたのまことの中を歩みます。 御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください (詩編86編11節) 詩人は命を狙われています(14節)。誰でも、必死に助けを求めるはずです。ところが、彼は単に窮状を訴えるだけではありません。 まず、「わたしは貧しく、身を屈めています」と、主の前に謙遜な者とされた恵みを告げます。だからこそ「あなたの慈しみに生きる者」「あなたに依り頼む者」「絶えることなく神を呼ぶ者」とされたのです。こうして「慕い求めるのはただ神のみ」と究極の思いを告白します。すでに勝利は明らかです。 その秘訣は、詩人が困難な人生のただ中で神によく知られ、神をよく知っているからです。「あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります」。「ただあなたひとり、神」「あなたは必ずわたしを助け、力づけてくださる」と。生きた真の神知識の圧倒的力が示されます。 詩人と共にこの詩をもって神に向かいましょう。「一筋の心」、まっすぐな心を求め続けましょう。私たちもまた詩人のような神を畏れ敬う霊性へ必ず引き上げられます。 【祈り】 主なる唯一の神よ。あなたは常に私のために御心を集中し、恵みと憐れみとをもって顧みてくださいます。わたしもまた一筋の心をもってあなたをあがめます。今朝、その心を一つに集めて礼拝を献げさせてください。善き証しを立てて、御国の支配を地に映し出させてください。 Sat, 18 Jun 2022 00:10:00 +0000 死の床にあって祈るヒゼキヤ(列王記下 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220618 no 2022 「『わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、3日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。』」 (列王記下20章5節) さまざまな国家的な危機を、ひたすら全能なる主への信仰によって乗り越えてきたヒゼキヤ王ですが、あるとき、死の病にかかりました。預言者イザヤは彼に「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい」と宣告します。ユダ王国の王が死の病の中にあることは、王個人だけの問題ではなく、国を揺るがす重大事件です。そこへさらに突き付けられた死の宣告は、大きなショックを与えたことでしょう。ヒゼキヤは、ただ主に憐れみを求めて祈りました。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起してください」(3節)。 ヒゼキヤの祈りは聞かれ、3日目には神殿に上ることができ、寿命は15年延ばされ、アッシリア王の手から救い出される、との約束が与えられました。嘆きのどん底から一転して喜びにあふれたヒゼキヤは、見舞いに来たバビロンの使者に王宮の隅々まで見せて歓迎し、後のユダ王国滅亡の種をまいてしまいます。 地上の命の終わりをいつ迎えるかは、命の源である主のみがご存じです。私たちも「生涯の日々を正しく数えることができるように」と祈り願います(詩90編12節)。 【祈り】 主イエス・キリストを信じる者にとっては、死は絶望ではありません。復活と永遠の命の約束を感謝します。 Fri, 17 Jun 2022 00:10:00 +0000 唯一の生ける神、わが主(列王記下 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220617 no 2022 「わたしはこの都を守り抜いて救う。わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」 (列王記下19章34節) ユダに攻め上ったアッシリアのラブ・シャケは、神を冒涜する挑発的な言葉を大声で言い放ちました。ヒゼキヤはこれに対して心を痛め、衣を裂き、粗布を身にまとって神殿に行き、祈りました。また預言者イザヤのもとに粗布をまとった使者を送りました。ラブ・シャケの「生ける神をののしる」言葉を主はお聞きになられたであろうから、ここに残っている者のために祈ってほしい、と。 イザヤが告げた主の言葉どおりにラブ・シャケは引き返し、危機は去ったように見えました。しかし、その後もラブ・シャケは使者を通じて「諸国の神々はそれぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか」と、ヒゼキヤの信仰を愚弄し、全面降伏を求めました。ヒゼキヤはその手紙を手に神殿に上り、主の前に広げて祈りました。「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」(19節)。主は再びイザヤを通して答えられました。「あなたがわたしにささげた祈りをわたしは聞いた」(20節)。そして、エルサレムは破滅から救われました。 私たちの神は、生きておられる神、祈りを聞いてくださる神なのです。 【祈り】 天地の造り主である神、生ける神がキリストによって、私たちの神となってくださったことに感謝します。 Thu, 16 Jun 2022 00:10:00 +0000 神の御力を信じて沈黙した民(列王記下 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220616 no 2022 しかし民は、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった。 (列王記下18章36節) ユダの王ヒゼキヤは、25歳で王となり29年間王位にありました。彼はダビデのように主の目に適うことを行いました。偶像を打ち壊し、モーセの造った青銅の蛇さえも偶像化しているとして打ち壊し、イスラエルの神、主に依り頼みました。 アッシリアの王センナケリブはユダの砦の町を占領した後、ラブ・シャケを大軍と共にエルサレムに送ってこう言わせました。「お前たちは『我々の神、主に依り頼む』と言っているが、アッシリアの王とかけをせよ」。さらに彼は、諸国の神々は自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたか、と挑発します。この言葉は、「神は勝利する側にいる」という神信仰に基づいています。 これに対して民はヒゼキヤ王に命じられたとおり、沈黙を守りました。それはただ黙して何もしないのではありません。かつて主がイスラエルに代わってエジプトと戦ってくださったように、主がご自分の民を苦しめるものと戦ってくださるからです。 私たちは、信仰の目をもって、主の御業を静かに見つめることが求められます。私たちにとって最大の敵は罪と死の力ですが、イエスが私たちに代わって戦ってくださり、勝利されました。そこに目を向けるとき、おのずと感謝と喜びがあふれます。 【祈り】 私たちに代わって戦い、勝利してくださる主の御業を覚えて感謝します。 Wed, 15 Jun 2022 00:10:00 +0000 主に背いた北イスラエル王国の最後(列王記下 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220615 no 2022 「あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。」 (列王記下17章39節) ホシェアがサマリアでイスラエルの王となりました。彼もまた、かつてのイスラエル王ほどではなかったにせよ、主の目に悪とされることを行いました。アッシリアの王が攻め上ってきたとき、ホシェアは貢物を納めて事なきを得ました。しかし、後にホシェアはエジプトと手を結び、アッシリアへの貢物をやめてしまいます。アッシリア王は、ホシェアを捕えて軍を派遣し、サマリアを3年間包囲しました。サマリアの陥落後、アッシリア王は、イスラエル人を捕えてアッシリアに連行し、異民族をサマリアに住まわせます。こうしてユダヤ人と異民族とが混じり合い、生まれたのがサマリア人です。 サマリアが陥落したのは、イスラエルがかつて自分たちの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き上った神、主を捨て去ったからです。主はすべての預言者、先見者を通してイスラエルにもユダにも「あなたたちは、悪の道を離れて立ち帰らなければならない。…わたしの戒めと掟を守らなければならない」と警告していました(13節)。しかし、彼らは偶像礼拝を取り入れ、異教的風習に倣いました。サマリアの陥落は南ユダにとっても警鐘となるものでした(イザ10章10、11節)。 神は最後の最後まで、ご自分に立ち帰れ、と招いておられるのです。 【祈り】 大きな恐れを前にしても神のみを畏れる確かな信仰をお与えください。 Tue, 14 Jun 2022 00:10:00 +0000 神を畏れるナアマン将軍の悩み(列王記下 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220614 no 2022 エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。 (列王記下5章19節) アラムの軍司令官ナアマンは、勇猛果敢な戦士で、主君に重んじられていました。彼は重い皮膚病で苦しんでいましたが、ある時、イスラエルにこの病をいやせる預言者がいると聞きました。彼は早速、預言者エリシャの家を訪れましたが、エリシャは使いの者を通して「ヨルダン川に行って7度身を洗いなさい」と伝えただけでした。姿も見せず、ただ川で身を洗え、というエリシャにナアマンは怒り心頭でしたが、家来たちになだめられて、エリシャの言う通りにしました。するとたちまち彼の体はいやされ、ナアマンはこれぞまことの神の力であると悟ったのです。 改めてエリシャを訪ねた彼は、イスラエルの神こそがまことの神であると告白しますが、一つだけ心にかかることがありました。それは、主君である王の介添えとして、偶像の神殿でひれ伏さなければならない、ということでした。赦しを請うナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と送り出しました。神が彼の心の痛みをご覧になり、平安を与えてくださる、との言葉です。 私たちも礼拝から主イエスのくださる平安のうちに、異教の地へと送り出されます。そこで心の葛藤や不安に苦しんだとしても、イエスのくださる平安こそが真の慰めなのです。 【祈り】 この異教の地で信仰を貫く知恵を与えてくださる神さま、きょうも主の平安の内に歩ませてください。 Mon, 13 Jun 2022 00:10:00 +0000 神の恵みで満たされた油の壺(列王記下 1-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220613 no 2022 「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」 (列王記下4章7節) 主に忠実であった預言者が亡くなり、妻と子ども2人が残されました。そこへ債権者がやって来て、子ども2人を借金のかたに連れて行こうとしました。奴隷にしようというのです。妻はエリシャに助けを求めました。イスラエルには、たとえ貧しくなっても、同胞を奴隷として働かせてはいけない、という教えがありました(レビ25章39節)。しかし、債権者たちはこの教えを無視したのです。 エリシャはこれまで主を畏れ敬い、忠実に務めを果たしてきた預言者の家族のことを思い、「あなたの家に何があるのか言いなさい」と促しました。そこにあったのは、わずかな油を入れた油の壺一つだけでした。他の物はすべて借金のかたに持ち去られ、生活のために彼らの手元に唯一残された物でした。妻はエリシャの命じるままに、器をかき集め、家の戸を閉めて子どもと一緒に空の器に油を注ぎました。すると次から次へと油はあふれ、もう入れる器がなくなった時、油は止まりました。妻と子どもは、その油を売ったお金で負債を払い、生活することができたのです。 主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました(マタ6章33節)。確かに神はご自分を尋ね求めるこの母と子を見捨てられなかったのです。 【祈り】 私たちには絶望的に見える時にも、必要をすべて備えてくださる、主の尽きない恵みに感謝します。 Sun, 12 Jun 2022 00:10:00 +0000 主は救いを宣言し私たちは平和を告げる(詩編 85編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220612 no 2022 慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。 (詩編85編11節~12節) 劇的な詩です。信仰の現実を生き生きと表現しているからです。 詩人は、冒頭(2~4節)で、歴史の中に働かれたイスラエルの神を賛美します。それは、エジプトやバビロンからの解放のことでしょう。神が私たちの味方でいてくださることを確信し、賛美します。 ところが、詩人の現実は厳しいのです。先輩たちから聞かされてきた神は、遠い世界のことのようです。見捨てられてしまったかのような不安と悲しみを抱いて苦悩しています(5~8節)。しかし、詩人は具体的な助けを祈り求めます。集まって礼拝することを止めません。 そこに1人の人が呼びかけます。説教者です。会衆は彼の言葉に耳を傾けます。「あなたの罪は赦された。あなたは救われた。神とあなたの間のわだかまりはなくなって、今、神との平和がここにある」。主の平和の福音が告げられます(9節)。 そのとき、「愛と真理は出会い、正義と平和は口づけする」現実を見るのです。つまり、イエス・キリストを仰ぎ見るのです。しかも、日用の糧という具体的な祝福をも伴うのです。 【祈り】 信仰の創始者なる主イエスよ、信じていながら、現実の困難の前にすぐにたじろぐ、あるかなきかの信仰者です。しかし今朝、あなたの教会で告げられる主の平和の宣言を聴かせてください。そして、この平和を造り出す者としてください。 Sat, 11 Jun 2022 00:10:00 +0000 人の思いを超える神の寛大さ(列王記上 20-22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220611 no 2022 「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。」 (列王記上21章29節) エリヤとアハブ王の戦いは意外な形で終えられます。アハブ王は、妻イゼベルとともに、悪行を重ね、最後は、律法に忠実なナボトを謀殺し、彼のぶどう畑を自分のものにしようとします。当然、主は罪を見過ごされず、エリヤを遣わされます。列王記記者も、「彼のように主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった」と彼を断罪します。 読者の誰もが、ただちに彼の身に主の裁きが下ることを期待するでしょうが、ここで話は意外な方向に進みます。アハブはエリヤの告げる主の裁きの言葉を聞くと、ただちに悔い改めて打ちひしがれます。すると、そのへりくだる姿をご覧になった主は、彼の存命中は災いを下すのを思いとどまられたのでした。 聖書を読むとき、私たちはいつもこの主の寛大さに驚かされます。主の目に悪と断罪される者にも、悔い改めるなら、主は憐れみを示されます。そこには、人を救おうとされる主の情熱が溢れています。人は、主の寛大さを裏切り、罪に身をゆだねることで滅びに至ります。そして、主の寛大さは御子を罪人のために与えられるほどであり、それゆえ私たちも救われました。きょうも、罪にではなく、主の寛大さと情熱に身をゆだねる者に祝福あれ。 【祈り】 主なる神よ。罪人のために御子をお与えになったあなたの寛大さに感謝して御座に近づけさせてください。 Fri, 10 Jun 2022 00:10:00 +0000 静かにささやく声で語られる主(列王記上 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220610 no 2022 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。 (列王記上19章12節) アハブ王の目の前でバアルの預言者たちとの戦いに勝利したエリヤ。しかし王の妻イゼベルが命を狙っていることを知り、逃げ出します。さらに荒れ野を歩き続けて肉体的にも精神的にも限界を感じたエリヤは、弱り果てた姿を主の前にさらけ出します。自分で奮い立たせて頑張るのではなく、弱い自分を丸ごと主に委ねるのです。そのような彼に主は御使いを送り、主が用意された食べ物で肉体的にも精神的にも励まされます。 そうして、旅がさらに長く、困難であることを告げられたエリヤは、腹を決めたように、神の山に向けて出発し、そこで主と出会います。その時、激しい風が山や岩を砕き、地震や火が起こりますが、そこに主はおられません。主は静かにささやく声としてエリヤに語りかけ、再び主の預言者として派遣するのでした。 私たちも、力や能力の限界を突きつけられてもうだめだと思う時があります。しかし主の御手に委ねた自分を主は神の食べ物である御言葉をもって励ましてくださいます。事態が急転直下に良くなるわけではないかもしれません。でも確かに、主との静かな語らいの中で力を与えられ、小さな良き変化を見出す自分がここにいる。きょうも、御言葉によって励まされる者に祝福あれ。 【祈り】 主なる神よ。私たちの旅路も長く困難なものですが、与えられるあなたの御言葉を力とさせてください。 Thu, 09 Jun 2022 00:10:00 +0000 主なる神の勝利と民の告白(列王記上 16章23節-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220609 no 2022 「そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」 (列王記上18章37節) ソロモン以降の列王記上に出てくる有名人の筆頭は預言者エリヤでしょう。エリヤは主イエスの時代、またそれ以降も再び現れることを期待された大預言者です。そして、もう一人の有名人が彼の敵となるアハブ王でしょう。彼はバアルを拝み、徹底して主に逆らい、主の預言者を迫害した人物でした。列王記上は、きょうの箇所以降のほとんどをアハブの時代の記述に割いています。エリヤはその彼に主の使者として臨むために召し出された預言者でした。 エリヤは王に、主の裁きとしての厳しい干ばつが来ることを告げ、実際その通りになります。それから3年後、再び王の前に現れたエリヤはバアルの預言者450人と対決することになります。戦いは圧倒的なエリヤの勝利で終わりました。しかもその勝利は、徹底して人間の思いでは不可能な状況の中で、しかし神がご自身を現すことによってのみ起こることとして人びとに示されました。その結果、人びとは「主こそ神です」と告白するに至ります。 主の戦いはいつも、人びとが悔い改めて神に立ち帰るためになされます。悔い改める心こそ、主の戦いの戦果として喜ばれるものです。 きょうも、主の御前に悔い改めの実りを差し出す者に祝福あれ。 【祈り】 主なる神よ。罪の囚人であったわたしをキリストの勝利の戦果として救ってくださったことに感謝します。 Wed, 08 Jun 2022 00:10:00 +0000 ヤロブアムの罪への断罪と主の憐れみ(列王記上 11章1節-14章20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220608 no 2022 「主は、ヤロブアムが自ら犯し、またイスラエルに犯させた罪のゆえに、イスラエルを引き渡される。」 (列王記上14章16節) 列王記を貫くのは、主の祝福の約束であることをすでに見ましたが、もうひとつの流れが王たちの罪です。 その象徴が、きょうの箇所に出てきた「ヤロブアムの罪」です。これから後の歴代の北イスラエルの王たちは、「ヤロブアムの道を歩んだ」、「ヤロブアムの罪を繰り返した」と評価され、断罪されていきます。そしてついには、北イスラエル王国自体が「ヤロブアムの罪」の流れの行き着く先として滅亡していくのです。 ヤロブアム自身は、主がソロモンの罪を糾弾し、その結果として王国を分裂させるために用いられた者でした。主はヤロブアムに対して、ダビデと同じ道を歩むならイスラエルをあなたのものとすると約束を与えられますが、彼は自らの権力基盤を固めるために2体の金の子牛を造り、それらを民に拝ませました。主は祝福を与えてくださるお方ですが、主なる神を怒らせ、後ろに投げ去る者を、主は投げ去られるのです。 王国の歴史に流れる主の祝福の約束とそれに逆らう人の罪と滅びは、今の私たちの歴史でもあります。しかし、その歴史のただ中で、自らの罪によって滅んでいく人のために、主は、御子イエス・キリストを遣わされました。きょうも自らの罪を悔いて主イエスを求める者に祝福あれ。 【祈り】 主なる神よ。罪を犯し、また悔いては犯す私たちを憐れんで、御子イエスをお送りくださり、感謝します。 Tue, 07 Jun 2022 00:10:00 +0000 主の願いと一致する者の祝福(列王記上 3-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220607 no 2022 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。 (列王記上3章10節) 王位についたソロモンは、ダビデの遺言どおりに行って、その支配を確立します。そのような彼の夢の中にはじめて主が立たれて、願い事を尋ねられました。ソロモンは、主が父ダビデを祝福してくださったことを感謝し、主が自分をこの王座に据えられたことを謙虚に告白して、この務めをなすために必要と思われる善と悪とを判断する知恵と神の声を聞き分ける心を願いました。この願いは主の願いと一致し、主は喜んで神の知恵を与えられます。そればかりか、富と栄光までも与えられると告げられました。そして、そのお言葉どおりに、彼の裁きは神の知恵によってなされ、人びとは王を畏れ敬い、全世界の王侯たちが王の言葉に耳を傾けるようになります。 その支配はこれまでないほどに広がり、ユダとイスラエルのすべての民が安らかに暮らすことができました。またソロモンの富は国中を金で覆うほどに溢れ、銀は値打ちのないものとみなされるほどになりました。 そして、それらは皆、主なる神の祝福であると知るソロモンは、それらを結集して主の神殿を建設します。主からいただいたものを主に献げた彼に、再び主は現れて、彼が建てた神殿を祝福されたのです。きょうも、主の御心にかなう者に祝福あれ。 【祈り】 主なる神よ。私たちの小さな業を、御心に適って祝福し、あなたの栄光を現すものとしてください。 Mon, 06 Jun 2022 00:10:00 +0000 ダビデ王の最期と戒め(列王記上 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220606 no 2022 「『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し…イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう。」 (列王記上2章4節) 列王記上は、ダビデの最晩年から描き始めます。そこには、あの誇り高く力強いダビデの姿はなく、弱くされた一人の老人となっていました。そのような彼を見くびって、息子アドニヤが王位を狙って反乱を起こします。ダビデのもとに団結していた重臣たちも、アドニヤ側につく者と王側につく者とに分断されます。それらはすべて、ダビデの力が衰えていたことの証しでした。しかし、反乱のことを耳にしたダビデは、奮起してすぐさま行動します。消えそうな灯火の彼に再び力を与えたのは、主に忠実であろうとするダビデの信仰でした(1章30節)。結果、反乱は未然に防がれ、無事、ソロモンが王位につきました。 ダビデは、最後の力を振り絞ってソロモンを戒めます。主の掟と法を守ってその道を歩むこと、そして、「あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂をつくしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない」という主の約束が、ダビデ家の王座を支えているということを忘れてはならないと。これが、波乱に満ちた列王記を貫く主の約束なのです。そして、私たちの人生を貫く主の約束でもあるのです。きょうも、主の道を歩む者に祝福あれ。 【祈り】 主なる神よ。順境にも逆境にも、若い時も老いた時も、あなたの約束に忠実に歩ませてください。 Sun, 05 Jun 2022 00:10:00 +0000 聖霊を与えるという約束(ヨハネによる福音書 14章1-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220605 no 2022 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 (ヨハネによる福音書14章16節) 主イエスは12人の弟子と最後の晩餐を共にされたとき、弟子たちに別れを告げられました(13章33節)。そのため、弟子たちはひどく不安を覚え動揺しました。しかし、そこで主イエスはこの弟子たちに語り掛けられます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい」と(1節)。そして、さらに16節では「わたしは父にお願いしよう」とも言われます。 主イエスの語られている「お願い」とは何でしょうか。それは弟子たちに聖霊が与えられることです。主イエスは聖霊のお働きについて詳しく説明してくださいます(16章1~24節参照)。主イエスは十字架の御業を終え、昇天されます。そのときも、弟子たちに約束されたものを待ちなさいと命じられます(使徒1章4節)。120人ほどの群れは約束通りに待ちながら、心を合わせて熱心に祈ります。そして、聖霊の降臨と、それによるキリスト教会の誕生を経験します。 聖霊のお働きの特徴はキリストを信じる群れと共に永遠におられることであり、主イエスがなさった約束通りに働かれることです。聖霊はキリスト者たちを平安へと導きます。ですから、主イエスを信じる群れは聖霊の働きを待ち望みつつ、心を合わせて今も祈り続けます。 【祈り】 与えられた聖霊の働きによって教会に仕えることができますように。 Sat, 04 Jun 2022 00:10:00 +0000 平和の神が共におられる(フィリピの信徒への手紙 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220604 no 2022 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 (フィリピの信徒への手紙4章7節) かつてフィリピの町で御言葉を伝えていたパウロは、シラスと一緒に捕らえられ、牢獄に入れられてしまいました。せっかく海を渡って、アジア州からヨーロッパで最初の都市フィリピで伝道が始まった矢先のことでした。何度も鞭で打たれ、いちばん奥の牢に入れられ、足には木の足枷をはめられてしまったのです。 そのような状況に置かれたら、フィリピに来たことを悔やんだり、先行きを心配したり、心が不安でいっぱいになりそうです。ところが、パウロとシラスは、その牢獄で賛美していました(使徒16章25節)。嵐の時に舟の中で寝ておられた主イエスのように、どんな状況にも左右されない神の平和に守られていたからです。 パウロは、フィリピの信徒を励ましてこう書きました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(6、7節)。 激しい鞭も、神が心に与えてくださる神の平和(平安)を壊すことはできません。足枷で歩けなくされても、心は自由に神を賛美します。 【祈り】 平和の神よ、どのような状況でも、どのような時にも、神の平安で心を満たし、賛美をお与えください。 Fri, 03 Jun 2022 00:10:00 +0000 生きることはキリスト死ぬことも益(フィリピの信徒への手紙 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220603 no 2022 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 (フィリピの信徒への手紙1章21節) 「喜びの手紙」とも呼ばれるフィリピの信徒への手紙は、パウロがどのような状況でもイエス・キリストによって喜ぶことができることを教えています。パウロ自身、まわりの状態や環境、置かれた状況に縛られずに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することができる人でした。 パウロが、どのような状況でもいつも喜ぶことができた秘訣は、「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」というパウロの人生観によるものです(20節)。 それは、人生を自分のために生きようとするのではなく、キリストのために生きようと願うことでした。 自分の死さえも、それによってキリストがあがめられるなら、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と言うことができたのです。 人生を振り返ったときに、一日でも、自分のためではなく、キリストのために過ごしたと言える日があったとしたら、それは何とうれしいことでしょう。きょうの私たちの歩みも、キリストのために過ごしたと言える一日となりますように。 【祈り】 きょうの歩みが、キリストのために過ごせたと言える歩みとなりますように。 Thu, 02 Jun 2022 00:10:00 +0000 もはや未熟な者ではない(エフェソの信徒への手紙 4章14-16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220602 no 2022 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、…風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく… (エフェソの信徒への手紙4章14節) 神は、キリストを知った皆さんを「もはや未熟な者ではない」と言います。この「未熟な者」とは「子ども」と訳すことができる言葉です。言われたことが間違ったことでも何でもうのみにして、思いが変わりやすくて安定感のない人のことです。キリストにしっかりと結びついて確信し、揺るがないようにしましょう。 ここでは、教会が一致することを命じられています(1~10節)。一致のためにもっとも大切な事柄はキリストです(フィリピ1章21節)。これに対して、この一致が壊れる原因は、キリストではなく人の考えや、聖書とは別の間違った教えや理解をうのみにして惑わされることによって、キリスト以上に大切にすることです。私たちは、天地の造られる前から、キリストにあって選ばれ、キリストに従ってデザインされて、地上に生まれました。主であるキリストに私たちが従っていくことこそ、主の召しであり、私たちの本来の生き方です。 ある神学者は、「優しいクリスチャンはいるが、安定したクリスチャンはどれほどいるだろうか」と言います。岩であるキリストにしっかりとつながって、さまざまな価値観や噂や流行のものに揺るがされず、キリストに満たされましょう。 【祈り】 キリストにしっかり基づいて、揺るがない信仰、揺るがない生き方をさせてください。 Wed, 01 Jun 2022 00:10:00 +0000 聖霊による一致を保ちましょう(エフェソの信徒への手紙 4章1-6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220601 no 2022 愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 (エフェソの信徒への手紙4章2~3節) 異なるタイプの人たちが一致をするのは、この世では難しいものです。聖書は、自分と似た人や近いタイプの人がいれば一致せよと言うのではありません。「霊による一致を保つように努めなさい」と言われています。この「霊による一致」とはどういうことでしょうか。 エフェソの教会にはユダヤ人も異邦人もいて、さまざまなタイプの人が集まっていました。どのように一致したら、神は一致したと見てくださるのでしょうか。それは一人ひとりが高く天に上げられたまことの王であるキリストの権威に服従するときです。8節の詩編68編の引用はキリストが王であることを説明しています。まことの王は人びとからささげ物を受けるのではなく、王御自身が人びとに本当に必要なものを与えてくださいます。キリストは神の権威を持つ聖霊を与えてくださいました。 聖霊は皆さんの心の内で働いて、教会でお互いに一致に務めることを一番大事なことに思えるように、また行動できるようにさせてくださいます。一致のために犠牲を払うことがあっても、キリストは十分に報いてくださいます。お互いに、キリストを中心にして、聖霊による一致を保つように努めましょう。 【祈り】 キリストの権威に従って、お互いに一致を保てるように助けてください。 Tue, 31 May 2022 00:10:00 +0000 限りない恵みを喜ぶ(エフェソの信徒への手紙 3章14-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220531 no 2022 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 (エフェソの信徒への手紙3章21節) 神は、ご自身を信じる者に、求めることを遥かに超えてかなえてくださいます。神は限りのない大きな恵みをあなたにお与えくださいました。どこまでも限りのない恵みをくださる主をたたえ、主を喜んでください。 今日の御言葉にあるエフェソの教会には、もともと聖書と何も関係のなかった異邦人が集まっていました。人の目には神の恵みに相応しくないと思われるような彼らに、神はご自身の限りない恵みを与えることをご計画なさっていたのです。 あなたはこんなことを思ったことがありませんか。「神はこの程度まで恵みを与えてくださるが、これ以上は難しいだろう」と。自分や周囲の状況をもとにそう判断してしまうかもしれません。 驚くことに、神はあなたの「内に」(20節)、聖霊を既にお与えになり、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」たのです(17節)。あなたの内に住むキリストは、あなたを制限なしにキリストと同じ神の子として新しくし、あなたが願うところを御父は最も良い仕方でかなえ、主の栄光を輝かしてくださいます。きょうも、主をたたえ、主を喜んでください。主を喜ぶことは力です(ネヘ8章10節)。 【祈り】 神様、あなたが私たちの求めることをはるかに超えてかなえてくださることを感謝します。 Mon, 30 May 2022 00:10:00 +0000 キリストはあなたのゼロを用いる(エフェソの信徒への手紙 1章1節-3章13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220530 no 2022 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは…。…神がわたしに恵みをお与えになった…。 (エフェソの信徒への手紙3章1節~2節) パウロは福音のゆえに囚人となり、この手紙を獄中で書いています(エフェ4章1節、5章20節)。囚人とは、社会的には何のステータスもない立場です。彼は、もともとエリートで華々しい生活をしていました。学問的にも宗教的にもリーダー的な存在で、ユダヤ教社会への影響力を持っていました。しかし、キリストのあまりの素晴らしさを知って、キリストに従い、彼はこれまで自分が積み上げてきたステータスを手放しました(フィリ3章8節)。 人の目にはゼロになったようなものですが、彼の心はキリストによって無限の喜び満たされていました。ガソリンメータで言えば満タン状態のように、喜びで満たされてパウロはキリストを世界へ伝えに出かけました。神をまだ知らなかった人びとは、そのようなパウロと出会って、彼を満たしていたキリストを知りました。キリストにただ満たされていたそのパウロから、大きな励ましと希望が輝いています。 神は、たとえあなたが大きなものを失って、人生がゼロになるようなことになっても、あなたのそのゼロを大いに用いて、ご自分の栄光を現すことがおできになります。主を信頼してください。 【祈り】 神様、たとえ大きなものを失っても、恐れず、主がなお用いてくださることを信頼します。 Sun, 29 May 2022 00:10:00 +0000 慈しみとまことは罪を贖う(箴言 16-19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220529 no 2022 慈しみとまことは罪を贖う 主を畏れれば悪を避けることができる。 (箴言16章6節) 慈しみとまことは、主のものです。主が慈しみ深く、まこと、つまり真実なお方であるから、そのもとに生かされている者もそれに従って生きることが求められています。 主は律法の掟を与えて、人の罪を贖うための手段を授けてくださいました。主が慈しみとまことに満ちたお方だからこそ、罪の贖いの道を備えてくださったのでした。 なぜでしょうか。主は、御前に罪を犯した私たちに対して、大きな慈しみの御心を抱いておられ、その罪を取り除いて清くすることを望んでおられるからです。 主は人の罪を贖って赦しを与えてくださいますが、罪そのものは正しく裁かれます。その御心を知る者は主を畏れ、悪を避けようとして歩むのです。 箴言にはいろいろな社会生活上の細かい戒めがありますが、突き詰めればすべては主を畏れることに行き着きます。こうして主の前で、主を畏れる者が悪を避けて生きるように、箴言は再三にわたって主を畏れる道を私たちに示しているのです。 時至って主の慈しみとまことを身をもって現すために、神の御子が世に来てくださいました。箴言の御言葉も御子において実現していることを覚えて、主をあがめましょう。 【祈り】 主の慈しみとまことを表してくださった主イエスに心から依り頼む者とならせてください。 Sat, 28 May 2022 00:10:00 +0000 いつも主の憐れみの中にある(サムエル記下 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220528 no 2022 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」 (サムエル記下24章14節) ダビデはイスラエルの人口を数える罪を犯しました。命令を受けたヨアブが渋っていることから、これが明確な罪であったことが分かります。ダビデも、後には良心の呵責を覚えるようになります。 預言者ガドは、ダビデが受けるべき裁きを三つ示して、そこから一つを選ぶようにと告げます。ダビデの答えは賢明でした。「主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい」。神が下された裁きは疫病でした。ダビデは神の裁きに全く委ねました。 私たちが誤った道を行くとき、神はその誤りを示されます。神に罪を示されるのは辛く悲しいことです。しかし、神の裁きは私たちの救いを目指して行われます。 神の御手の憐れみ深いことを覚えましょう。どのような裁きであろうと、それは神からの裁きです。敵に追われることでさえ、神が人を用いてなさる神の裁きです。そう思えば、いかなる裁き、いかなる取り扱いも、神からのものです。 私たちは、いかなる時にも神の憐れみの中にあります。神はキリストにおいて罪を裁かれました。私たちは赦された者として、罪を悔い改めます。神が願っておられるのは、滅ぼすことではなく救うことです。 【祈り】 父なる御神、日毎に罪を犯してしまいます。あなたの憐れみが裁きの中にもあることを信じさせてください。アーメン Fri, 27 May 2022 00:10:00 +0000 主なる神の陰に隠れる(サムエル記下 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220527 no 2022 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 (サムエル記下22章2節~3節) サウル王に追われ、ペリシテ人との戦いに明け暮れ、家庭の問題も抱え、自分自身の罪にもさいなまれたダビデ。波乱万丈と呼ぶにふさわしい人生です。もしかしたら、彼にはゆっくり息つく暇もなかったのではないでしょうか。 いつも自分の命を危機にさらしていたからでしょうか。主なる神を言い表す表現には、自分の身を隠す場所を意味する表現が多いのです。砦、逃れ場、避けどころ、砦の塔。 戦いの人らしく、「盾」という表現も出てきます。しかし、「剣」のような攻撃を仕掛ける武器は出てきません。これは、神が命を守る方だからかもしれません。「万軍の主」という戦いの神を言う表現もありますが、ダビデの言い表す神がもっぱら守りを示す表現の多いことは象徴的です。 信仰者の生活には、絶えざる戦いがあります。家族の中にあって、神を信じているのが自分だけという人もあります。いくら証の言葉を述べても届かないことがあります。罪へと誘う力も働きます。神を信じるが故の戦いです。 しかし、神が必ずあなたを支えてくださいます。何しろ、イエス・キリストが私たちの罪のために戦ってくださったからです。そして、罪に勝利を得てくださったからです。 【祈り】 主なる神様、あなたこそがわたしの砦です。どうか、わたしをお守りください。アーメン Thu, 26 May 2022 00:10:00 +0000 裁きを超える神の愛(サムエル記下 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220526 no 2022 バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され…た。 (サムエル記下12章24節~25節) 預言者ナタンによってダビデに自分の罪が示されます。ダビデの子が打たれたのは、ダビデに対する裁きです。 子どもが苦しんでいる間、ダビデは自分の罪と向き合い、深く悔い改めさせられたに違いありません。バト・シェバの心情は一切記されませんが、彼女も苦しんだでしょう。人は自分の犯した罪に苦しめられます。 子どもが神に打たれるという悲劇を通して、ダビデとバト・シェバは真実に一つにされました。同じ苦しみ、同じ悲しみを担います。そして、神が子どもを打たれましたが、しかし彼らに新しい命をお与えになります。しかもその子が主に愛されていることがナタンを通して明らかにされます。罪をおごそかに裁かれる神が、罪を取り除いてくださるのです。神の厳粛なお取り扱いを思います。 神に対して犯した罪の報いを受けなければなりません。私たちが自分の罪深さを知るためには、裁きを受けなければなりません。そして、罪を深く悔いた後には、憐れみ深く神が赦してくださいます。 しかし、私の悔い改めを罪の赦しの源泉と考えることはできません。神の赦しの源はキリストにあります。神が、わたしの罪のためにキリストを打たれたのです。 【祈り】 父なる御神、あなたの愛の深さ、厳しさを教えてください。キリストの救いを与えてください。アーメン Wed, 25 May 2022 00:10:00 +0000 隠れた罪を主なる神の御前に出す(サムエル記下 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220525 no 2022 ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。…ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。 (サムエル記下11章27節) ダビデはウリヤの妻バト・シェバと関係を持ちました。王の権威を悪用したのです。恐ろしいことです。 ダビデの子を宿したと分かったとき、バト・シェバは何を思ったでしょう。夫にダビデとの関係を話せるはずもありません。素知らぬ顔でウリヤを迎えるつもりでしょうか。 ダビデはウリヤを戦場から連れ戻し、家に帰らせようとします。バト・シェバとの関係を隠そうとしたのです。しかし、思い通りになりません。そして、とうとうウリヤを死に追いやります。こうしてバト・シェバとの罪を隠すことができました。 ダビデはバト・シェバを妻に迎え、新しい生活を始めます。幸いな家庭を望んだはずです。望み通りに神の祝福は与えられたでしょうか。いいえ。二人の間に男の子が生まれますが、その子はすぐに亡くなってしまいました。ダビデの罪のために、神がこの子を打たれたのです。 隠れた罪の恐ろしさを思います。外からは見えなくとも、神の目に罪は明らかです。夫を失った女性を妻に迎えることは、やもめを支える行いに見えたかもしれません。しかし、神も自分の心も欺くことはできません。罪を神の御前に告白するまでは、赦しを得ることはできません。赦しを信じて、神の御前に出ましょう。 【祈り】 主なる神様、わたしにも隠れた罪が多くあります。これらの罪から救い出してください。アーメン Tue, 24 May 2022 00:10:00 +0000 心の王座に主を迎える(サムエル記下 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220524 no 2022 「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」 (サムエル記下7章16節) ダビデの地位は、神のために神殿を建てようと計画するまでに堅固なものになりました。王国内に争いがあるときには、安心して神の神殿を建てる余裕などなかったでしょう。ダビデの心に起こったことは、神の恵みによることと言ってよいのです。ダビデに平和をお与えになった神がほめたたえられますように。 しかし、人間ダビデが神のために何事かを成し遂げるというよりも、あくまでも神の恵みによって人は何事かを成すことが許されます。神のなさることはいつも、私たちの思いを遥かに超えて高いと言うべきです。 神があなたを顧みてくださいます。あなたの目の前に見えることはわずかに思えても、すべてを治めておられる神は、あなたが想像するよりも遥かに驚くべきことを成してくださいます。神の恵みの絶えざることに感謝を献げます。 神の恵みがわたしにあふれます。主をわたしの心の王座にお迎えしましょう。わたしの王座とはわたしが座る場所ではなく、わたしの主が居ます御座のことです。主がとこしえにわたしの王座に座ってくださる。これこそわたしの祝福です。主はあなたに善き計画を備えておられます。主が志を与え、成し遂げる力をも与えてくださいます。 【祈り】 天の神よ、あなたが王としてわたしの心を御座としてください。主にお委ねできますように。アーメン Mon, 23 May 2022 00:10:00 +0000 救い主との結びつきを求めよう(サムエル記下 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220523 no 2022 あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 (サムエル記下1章26節) サムエル記下は、アマレク人がサウルの死を告げる所から始まります。 サウルはダビデの命を付け狙っていました。しかしダビデは、サウルの命を取る機会があったときにも、彼に手をかけませんでした。主が油注がれた方の血を流してはならないと考えたからです。ダビデはサウルの死を求めませんでした。ダビデは今、サウルの死を悼んで歌います。もっとも、より深くダビデに悲しみを与えたのはヨナタンの死です。 ダビデとヨナタンの間には、友情という言葉では足りないほどの深い結びつきがありました。ヨナタンはサウルの息子でありながら、自分が王となることを望まず、ダビデこそ王にふさわしいと考えていました。ダビデもまた、ヨナタンを愛していました。二人のこの結びつきは、生涯にわたって続いたのでした。 あなたは今、誰と深く結びついていますか。死をも乗り越えさせてくださる救い主、イエス・キリストに結びつけられていますか。生きる時にも死ぬ時にも、真実に私たちの支えとなるのはこの世のものではありません。お金も名声も、いや肉親との結びつきさえ、私たちを罪の滅びから救うことはできません。救いはただ、キリストと結ばれていることから与えられるのです。 【祈り】 神よ、わたしをキリストに結びつけて、救ってください。この方以外に救いはありません。アーメン Sun, 22 May 2022 00:10:00 +0000 主を畏れることは命の源(箴言 14-15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220522 no 2022 主を畏れることは命の源 死の罠を避けさせる。 (箴言14章27節) 箴言の中には、時には処世術に見える教えもありますが、箴言は単に世渡り上手な人を作ろうとしているわけではありません。「主を畏れることは知恵の初め」という大事な土台があります。そして、主なる神に従うか、逆らうか、どちらに立つかで命に至るか死に至るかという大きな違いがあることを教えており、きょうの聖句はそれを改めて示します。 ここで対比される命と死は、単に現世で生きるか死ぬかの問題ではなく、神の前での命の問題です。「神に従う人は死のときにも避けどころを得る」ことができるのです(32節)。 人は堕落して以来、死を免れないものとなりました。それゆえ、この世では人を神から引き裂く死の罠が私たちを取り巻いています。神に逆らう限り、死の罠から逃れることはできません。その果ては死の道へと続いています(12節)。 しかし、私たちをまことの命に至らせるために「主を畏れる知恵」を主は示してくださいました。箴言は多くの格言を通して、主に逆らう道の行く末を見させ、人を主に従う道へ導こうとしているのです。そして、死の罠から私たちを救うために、神の知恵たるキリストが世に現れてくださいました。この主をあがめ、主を礼拝する民はまことに幸いです。 【祈り】 どうぞ死の罠から私たちを逃れさせてくださって、命の道を歩み続けられるようにしてください。 Sat, 21 May 2022 00:10:00 +0000 主を失ったサウルは平安も失い(サムエル記上 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220521 no 2022 サムエルは言った。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。」 (サムエル記上28章16節) 主がサウルを離れ去られた後、サウルの人生から平安が失われました。ペリシテ軍の接近におののいたサウルは恐れを振り払おうと主の託宣を求めましたが、サムエルは既に死に、他の手段によっても得られません。そこでサウルは、過去に主に従って追放したはずの口寄せを頼るという背きの罪に陥ってしまいます。口寄せの口からはサウル一族の死とイスラエル軍敗退が宣告され、サウルのおびえは極限に達して倒れてしまいます。その場は何とか起き上がり戦場へと向かいましたが、サウルはそこで最期を迎えました(31章)。 主が離れ去り敵対されると、人にどれほどの悲惨が待ち受けるのか、私たちに鋭く突き付けられます。 主なる神を失ったこのような悲惨から救い出してくださるのがイエス・キリストです。キリストは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、主に見捨てられた者の悲惨を味わわれました。その上で十字架の死によって人の罪を赦して主に立ち帰らせ、主と共にある平安をもたらしてくださいます。主は、キリストを信じる者を神の子として受け入れ、味方となってくださるのです。 【祈り】 キリストによって主が味方してくださいますから、恐れることなく平安のうちに過ごす者とならせてください。 Fri, 20 May 2022 00:10:00 +0000 主が味方してくださらないなら(サムエル記上 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220520 no 2022 主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。 (サムエル記上18章12節~13節) ゴリアトを倒し、ペリシテに勝利するダビデを、当初、サウルは喜んでいました。しかし、女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(7節)と称えたのをきっかけに、サウルはダビデをねたみ、命を狙うようになります。サウル自らダビデに槍を投げ、戦いの最前線に送って危険にさらします。しかし、サウルの企てはどれも成功しません。サウルから主が離れ去られたからです(16章14節)。それは、サウルが主の御言葉に忠実に聞き従わなかったからでした(15章23節)。 ダビデはますます戦果をあげ、サウルの娘ミカルの愛を得て結婚することになりました。サウルは「主がダビデと共におられること…を思い知らされ」ました(28節)。サウルはダビデへの恐れと敵意をいっそう深めるのでした。 この箇所は、主が共にいて味方してくださることの幸い、および主の嫌う罪を犯して主を遠ざけることの災いをまざまざと私たちに突き付けます。しかし、人はこうしたことを思い知らされるだけでは主に立ち帰ることができません。主が一人ひとりの心をとらえ、ねたみや恐れの罪から解放してくださることで初めて人は神と共に生きる幸いにあずかることができるのです。 【祈り】 私たちがねたみや恐れの罪から遠ざかるためにも、主よ、いつも共にいて導いてください。 Thu, 19 May 2022 00:10:00 +0000 神の霊を注がれて王となり(サムエル記上 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220519 no 2022 これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。 (サムエル記上10章7節) イスラエルで最初の王として選出されたのはサウルでした。主は任命にあたり、サウルに油を注ぐようサムエルに命じられました(9章16節)。油が注がれたその日、サウルに主の霊が降ります。「神はサウルの心を新たにされ」ました(9節)。生まれながらの神を畏れぬ心のままで王となっては、他国の王のように人びとを圧迫するだけです。そこで主はサウルに霊を注ぎ、神を畏れ民を愛する心を持つよう導かれました。 サウルの心が神によって変えられたことは二つの出来事から伺えます。一つはくじによって王を選出する手続きの際、サウルが荷物の間に隠れていたことです(22節)。このサウルに「俺様こそが一番」とのおごりは見られません。もう一つはならず者から侮られてもサウルが仕返ししなかったことです(27節)。自分を嫌う者も含め、民全体のために働くことができるようにされたのです。 今日、主イエスを救い主と信じる者に聖霊が注がれます。神の国の進展という主からの務めを担うためです。主を王と認め御心に従うこと、人々に愛をもって仕えることが求められるこの務めを全うするには、聖霊により心を新たにされることが必要なのです。主の助けを祈り願いましょう。 【祈り】 聖霊によって、私の内に主を王と認め従う心、人々を愛する心を造り出してください。 Wed, 18 May 2022 00:10:00 +0000 他と同じでありたいと願う神の民(サムエル記上 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220518 no 2022 主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。…彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」 (サムエル記上8章7節) イスラエルに士師制度に代わる「ほかのすべての国々のよう」な王制を求める声があがります(5節)。サムエルはこれを悪ととらえ(6節)、主は王として主が君臨することを退けるものと判断されました(7節)。他方、主は王を立てることはお認めになりました(7、9、22節)。 では、主は民の要求のどんな点を問題にされたのでしょうか。人間が王に就任する王制自体を問題にされたのではありません。人間の王が主を「王の王」として従いつつ行動するなら、主が王として君臨することと両立可能です。問題なのはイスラエル以外の、当時は主を王とする信仰を持たなかった国々と同じような王制を求めたことにありました。また他の国と同じようにするのがよいという、20節にも表れる民の発想にも、人の目に見えない主より、目に見える周囲の実績の方を頼りにする不信仰が垣間見えます。 主は、出エジプト以来のイスラエルの不信仰を嘆きつつ(8節)、なおもイスラエルを見捨てず、共にい続けてくださいました。主を王としない他の国々では、こうした憐れみと忍耐にあずかることはできません。私たちも他との違いにとらわれることなく、主を王とする神の国に生きてまいりましょう。 【祈り】 周囲が支持するものに同調する歩みでなく、王なる主が望まれることに従うことができますように。 Tue, 17 May 2022 00:10:00 +0000 エリによるサムエルへの訓戒(サムエル記上 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220517 no 2022 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。 (サムエル記上3章19節) エリは息子たちが神を汚す行為をしたと知りながら咎めず(13節)、息子たちは主を知ろうとしないならず者になってしまいました(2章12節)。それなのに、主はエリのもとでサムエルが育つようにされました。もっとふさわしい人はなかったのかと思うかもしれません。しかし主は、過去に弱さを見せたエリにサムエルの教育を担当させました。サムエルが主から受けた言葉を誰をも恐れないで伝える預言者となるためです。 ある夜、少年サムエルに主の言葉が告げられました。自分を育ててくれたエリとその家族に主から厳罰が下るという実に厳しい内容でした。サムエルはエリに伝えることを恐れます。エリは「お前に何が語られたのか、わたしに隠してはいけない」と、サムエルの恐れを見抜いて諭します(17節)。サムエルは恐れを振り払い、隠し立てをせず語りました。 この経験をしたサムエルが、言葉は一つたりとも地に落ちることのない、信頼するに足る主の預言者(19、20節)へと成長していきます。主はエリの弱さある過去をも、サムエルのために用いられたのです。 私たちも弱さ、欠けにより失敗してしまう者ですが、主はその失敗をも踏まえつつ、私たちをも用いてくださるのです。 【祈り】 弱さ、欠けのあるわたしですが、主が用いようとされるときには僕として従うことができますように。 Mon, 16 May 2022 00:10:00 +0000 ふさぎ込まず主に注ぎ出し(サムエル記上 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220516 no 2022 「わたしは深い悩みをもった女です。…ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」 (サムエル記上1章15節) エルカナとその家族は、毎年シロの神殿に行き、主を礼拝していました。ハンナはその度にペニナから子どものないことを責められ、苦しみを一人抱えてふさぎ込んでいました(8節)。 しかしあるとき、ハンナは神殿に行って祈りました。心に抱えた多くの訴えや苦しみを主の御前にすべて注ぎ出しました(15、16節)。主に願い、関わっていただいてこそ道が開かれる。ハンナは子が与えられたら主にささげると誓いましたが、それは、子の一生涯を主に委ね、主に関わってもらおうと意図してのものでした(28節)。 ハンナから話を聞いた祭司エリは、「安心して帰りなさい」と言いました。これは「安心して行きなさい」とも訳せる言葉で、主が共におられるから安心せよという意味です。ハンナの信仰に主の導きを見てとったのです。ハンナの表情も変わりました(18節)。主による本当の安心を得ることができたからです。 ハンナには男の子が与えられ、その名をサムエル(その名は神)と名付けました。主に願い、主が与えてくださったという信仰に基づきます。サムエルは成長すると、主の器としてイスラエルを導いてゆくことになります。 【祈り】 主よ、苦しみ悩みの時にすべてをあなたの前に注ぎ出し、あなたに委ねる者とならせてください。 Sun, 15 May 2022 00:10:00 +0000 人間を豊かにする主の祝福(箴言 10-13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220515 no 2022 人間を豊かにするのは主の祝福である。 人間が苦労しても何も加えることはできない。 (箴言10章22節) 人が豊かにされるのは主の祝福によっている。この事実を箴言は単純に述べます。人は自分の幸いを求めますが、主に求めずにいてはまことの幸いも祝福もありません。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」のです(詩127編1節)。 主が人を豊かに富ませ、祝福されることもあります(創24章35節)。けれども、それはその人が信仰によって主とつながっていることの現れなのです。まず神ご自身を求めることが何より大事です。神を求めず、富を求めて裕福になったとしても、その富は「人生の半ばで消え失せるのです」(ヤコブ1章11節)。 人の命は財産によってどうすることもできませんが、主の祝福は人を本当に豊かにすることができます。ことに、私たちにとって最大の祝福は、まことの神が自分の神となってくださり、救い主イエス・キリストによって永遠の命をくださったことです。 私たちは今日もこの主の日に、救い主イエス・キリストの御名のもとに神を礼拝します。礼拝にあずかれるということは、主の祝福の目に見える最高の現れです。このまことの祝福に、それ以上、人間が加えられるものなどありません。 【祈り】 主よ、私たちを祝福し、本当の豊かさをいただいて生涯歩んでいけるようにしてください。 Sat, 14 May 2022 00:10:00 +0000 神の御前に忠実な者の幸い(ルツ記 2-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220514 no 2022 「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたを十分に報いてくださるように。」 (ルツ記2章12節) 人を用いて伝道なさる神は、同じく人を通して、神に対して忠実な者に幸いの歩みをお与えくださいます。ルツにとって、それはボアズの存在でした。ユダヤでの新生活、ゼロからとも言える生活は、律法によって許されていた「落ち穂拾い」から始まります。その落ち穂拾いを通してルツはボアズと出会うのです。 私たちも、御言葉に従う生活の中でさまざまな人と出会います。教会では兄弟姉妹に、地域ではご近所さんに、学校や職場では友だちや先生、上司や同僚、また一緒に暮らす家族もそうです。そういう人たちとの生活の中で、神は私たちに幸いをお与えくださろうとしている、「御言葉に忠実な者として生きよ」とおっしゃっておられるのです。 私たちにも、ナオミのような信仰を共にする良き理解者の存在が在り、またボアズのような助け手がそれぞれ与えられているはずです。これらはみな、神があなたの救いのためにご用意くださった御業です。 罪と闇の色濃い世に在って、このような方々が神によって与えられていることに感謝したいと思います。このことに目を留められるあなたは既に神の国とその支配の中にいます。地上にいながら神の救いの恵みと祝福に生きているのです。 【祈り】 (1)あなたの人生を思慮深く導いておられる神への感謝。(2)神がこれまでご用意くださった隣人を覚えて。 Fri, 13 May 2022 00:10:00 +0000 ルツの信仰を通して(ルツ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220513 no 2022 「あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。」 (ルツ記1章16節) ルツにとって、神を知るきっかけとなったのは義母ナオミの存在でした。ナオミとの約十年にわたる生活の中で、ルツには神を信じる信仰が芽生え育っていました。その結実した信仰告白の言葉こそ、上記の16節の御言葉です。 神は、まるで一本釣りのように、一人びとりを召し出して信仰へと導かれます。その神は、同時に、人や家族の交わりを用いて伝道され、新たな一人を召される方でもあります。 ナオミとルツのモアブでの生活は決して喜ばしいものではありませんでした。それどころか大きな悲しみと傷みを伴うものでした。しかしその中でも、心は神へと向かうナオミの信仰に、ルツは確かなものを見ていたのです。ナオミから、わたしを離れて新たな生活を始めるよう促されたルツは、この世の損得や幸せを想像して上記の告白をしたのではないでしょう。ナオミとの生活の中で芽生え育った地上の幸福を超えた信仰から、この決断に至ったのです。 私たちにこの同じ信仰をお与えくださった神に感謝すると共に、この信仰へと至らせた周囲の信仰者に感謝を覚えたいと思います。更には、私たちが生活を送るなかで、ナオミのように主の御用に用いられますようにと祈りたく思います。 【祈り】 (1)神の大きな守りと導きの中にあることへの感謝。(2)主のご計画のために僕が用いられますように。 Thu, 12 May 2022 00:10:00 +0000 キリスト者の自由の恵み(ガラテヤの信徒への手紙 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220512 no 2022 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 (ガラテヤの信徒への手紙5章13節) 私たちは、自由というと自分の思いどおりに振る舞うことと考えます。そうした生き方は一歩間違えると放縦に陥り、私たちを罪の奴隷にしてしまいます。 パウロは、キリストに贖われた者は罪の奴隷に舞い戻ってはならないと言います。彼は、「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と勧めます。「仕える」と訳されている元の言葉には「奴隷になる」という意味があります。キリストによって罪の奴隷状態から自由にされた者は、今度は進んで隣人の奴隷となって仕えなさいと言うのです。 マルティン・ルターは、著書『キリスト者の自由』の中に「キリスト者は自分自身において生きることはなく、キリストと隣人において生きる」と記しています。信仰者は信仰によってすべてのものをキリストの内に持っているのです。 かつての私たちは、自分のために、自分の願ったとおりに生きる自由を追い求めていました。しかし、キリスト者になった現在は、自分のことは後回しにして、隣人に仕えるようになりました。キリストがもたらした自由が、私たちを大胆に、隣人のもとへ赴かせるのです。ここにキリスト者の自由の恵みがあります。 【祈り】 主よ、あなたからいただいた自由を、互いに愛をもって仕えあう機会としてください。 Wed, 11 May 2022 00:10:00 +0000 もはや奴隷ではなく神の子に(ガラテヤの信徒への手紙 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220511 no 2022 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 (ガラテヤの信徒への手紙4章5節) パウロは、イエス・キリストが来られるまで、私たちは律法の支配下にあったと言います。律法は私たちにするべきことを教えますが、それを行う力は与えません。むしろ律法は私たちの罪過を明らかにして、私たちを断罪するばかりでした。私たちはこの律法の下で罪人として苦しみ呻くよりほかありませんでした。 しかし、時が満ちると、神は御子イエスを人間の女から生まれさせ、しかも律法の下に遣わされたのです。それは律法の支配下にあった私たちを贖い出すためでした。主イエスは十字架にお架かりになり、私たちに代わってご自分の命を犠牲とされました。主イエスの命という代価によって私たちは律法の下から贖い出されたのです。 私たちは神の子とされたのですから、奴隷に舞い戻ることはできません。もはや律法も、この世の諸霊も、私たちを再び奴隷にすることはできないのです。 さらに神は、「アッバ、父よ」と呼ぶ霊を私たちに与えられました。聖霊はささやかず、「アッバ、父よ」と叫んで、私たちのために執り成してくださいます。私たちも聖霊に促されて、「アッバ、父よ」と神に呼びかけるのです。こうして私たちの祈りは父なる神に届けられます。 【祈り】 「アッバ、父よ」という私たちの祈りを聞き届けてください。 Tue, 10 May 2022 00:10:00 +0000 キリストがわたしのうちに(ガラテヤの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220510 no 2022 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。 (ガラテヤの信徒への手紙2章20節) 宗教改革者マルティン・ルターは、律法の行いによる義という考え方がわたしの骨の中に入り込んでいる、と言いました。信仰による義が宣べ伝えられても、行いによる義に引き戻されてしまうことがあるからです。 しかし、パウロは、律法の実行によってはだれ一人として義とされないとして、断固として「ほかの福音」を退けます。彼はガラテヤの教会の人びとが、律法の行いによる義に後戻りしてしまうことを何としてでも阻止しようとします。 そのために、パウロは自分を引き合いに出して、キリストを信じ、受け入れることについて語ります。神の御子であるイエス・キリストは、かつて教会を迫害した彼のために、彼に代わって十字架にお架かりになりました。このようにして神の御子が死に引き渡されることによって、律法に支配されていた彼自身も死ぬことになったのです。 そしてパウロは、今や自分は信仰において新しい生を生きていると言います。それはわたしのためにキリストが、わたしの内なるキリストとして生きておられるということです。彼は「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と記します。キリストこそが彼を生かす根源的な主体となられたのです。 【祈り】 キリストがわたしの内に生き、わたしの主となってください。 Mon, 09 May 2022 00:10:00 +0000 教会のために苦悩する伝道者(ガラテヤの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220509 no 2022 あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 (ガラテヤの信徒への手紙1章6節) ガラテヤの信徒への手紙はその論調の激しさから「戦いの手紙」と呼ばれてきました。この手紙から浮かび上がってくるのは、教会のために苦悩する一人の伝道者の姿です。 ガラテヤの教会はパウロが開拓した教会です。彼が一人びとり福音を伝え、キリストの恵みへと招きました。そして、教会ができるとパウロはガラテヤの地を離れ、彼に代わって他の伝道者が出入りするようになります。彼らの中には、パウロの伝えた福音とは異なる「ほかの福音」を説く者がいました。その教えが人びとをとらえて、瞬く間に教会の中に広がっていきました。 教会の様子を伝え聞いたパウロは、「あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と心情を吐露します。彼は驚きと落胆を隠しません。 しかし、パウロはガラテヤの教会を見放すことはしません。彼は父親のように教会に「ほかの福音」を伝えた者たちを厳しく叱責しました。その一方で、母親のような心で教会の人びとに優しく語りかけました。 パウロはなんとかしてキリストの福音から離れた者を呼び戻そうとします。そして彼らを信じる者に生まれ変わらせることを願って語りかけたのです。 【祈り】 主よ、まことの福音にとどまり、福音の喜びで満たしてください。 Sun, 08 May 2022 00:10:00 +0000 わたしは幸いを説いている(箴言 4-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220508 no 2022 子らよ、父の諭しを聞け 分別をわきまえるために、耳を傾けよ。 わたしは幸いを説いているのだ。 わたしの教えを捨ててはならない。 (箴言4章1節~2節) 新共同訳聖書はここに「父の諭し」という見出しをつけています。父親に限らず、親としてあるいは大人として子どもたちに諭しを与えるのは簡単ではありません。自分の内に確かな人生観や世界観がなければ、どうして子どもたちにこの世や人生について教えられるでしょうか。 この語り手は、自分も父親から、戒めを守り、知恵と分別を得るように教えられてきたので、それを踏まえて、子どもたちのために熱心に語ります。語ることができるのは、「幸い」とはそもそも何であるかを主のもとで教えられてきたからでした。 子どもたちは、いろいろと戒められて、時にはうるさく思うかもしれません。しかし、語る方は、主にあるまことの幸いを知っているので何度でも語るのです。財産を得ることでも、この世を上手に渡っていくことでも、名声を得ることでもなく、主にある命を得ることがまことの幸いだと知っているからです(4節)。 まことの幸いは、神に従う道にあります。さまざまな声が飛び交うこの世にあって、主からの教えの言葉を見失わないようにと、箴言は繰り返し私たちに懇ろに語りかけています。私たちがまことの幸いに至るために。 【祈り】 主イエスの後に従って、まことの幸いに至る道を歩き通すことができますように導いてください。 Sat, 07 May 2022 00:10:00 +0000 この世の希望キリストを仰ぐ(士師記 19-21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220507 no 2022 「我々のうち誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか。」主は、「ユダが最初だ」と言われた。 (士師記20章18節) 17章以降は士師の時代に起こった出来事として、嗣業の地を得ていなかったダン族の横行、ベニヤミン族の暴行事件、そのベニヤミン族への制裁、ベニヤミン族が絶滅寸前に至る等、悲惨な出来事が語られます。 ベニヤミン族の暴行事件に対して、他のイスラエル諸部族が立ち上がったとき、真っ先に戦いを挑んだのはユダ族でした(20章18節)。かつてカナン侵入の際にもユダ族は真っ先に戦いの狼煙をあげました(1章1、2節)。 士師記ではユダが先頭に立つというモチーフが一貫して記されています。それはこの後の時代にユダ族出身のダビデ王がイスラエルの先頭に立つこと、さらにユダ族出身のキリストが現れることによって、いかに混沌を極める世にあっても希望があることを思わしめます。 この時代、イエスラエルには人間の王はいませんでした。しかし、真の王である神がおられ、苦しみや嘆きの中でも彼らを守っておられました。たとえ、彼らが神を忘れ、神への信頼を捨て去り、自己流の信仰継承や礼拝を行っていても、時至った時には罪を罰し、悔い改めを求められることで、神は彼らをお見捨てにはならず、彼らの背きさえも赦し、行く道を希望で輝かしてくださるのです。 【祈り】 この世の希望であるキリストを今日も仰ぐことができますように。 Fri, 06 May 2022 00:10:00 +0000 不従順でもお見捨てにならない神(士師記 13-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220506 no 2022 サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。」 (士師記16章28節) サムソンは怪力自慢の士師でした。イスラエルがペリシテ人の支配に苦しめられているとき、サムソンはその力を振るってイスラエルを救いました。しかし、そのサムソンも士師でありながら聖人風の人ではなく、むしろ神への信仰にあぐらをかくような人物でした。サムソンは生まれる前からナジル人としてささげられていましたが、異教徒との結婚や死骸から取ったハチミツを両親へ食べさせるなど、誓約違反を繰り返し、あげくの果てに欲望と復讐にまみれて多くの人をその手にかけてしまいました。それでいて、サムソン自身は「わたしには罪がない」(15章3節)と言い張る始末です。もしかしたら、当時のイスラエルの信仰と生活はサムソン以上に退廃していたのかもしれません。けれども神は不遜な姿勢のサムソンやイスラエルを見捨ててはおかれませんでした。 サムソンが自業自得のゆえにペリシテ人に捕らえられ、怪力の秘密が暴かれてその力を失った後も、神はサムソンから離れることなく、常に共におられました。そして最後の祈りを聞き入れられます。神は、神をないがしろにした者をも決してお見捨てにはなりません。その者に再び神への従順の思いを与えられ、その使命に生きるべく力を与えられます。 【祈り】 かつて従順を捨て去った者をもお見捨てにはならない神への信仰をきょうも保つことができますように。 Thu, 05 May 2022 00:10:00 +0000 求めるは誓いではなく信頼のみ(士師記 10-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220505 no 2022 主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。 (士師記11章29節) 神がイスラエルの人びとへ士師を遣わすと、その士師の統治がなされている時代は平和が訪れました。しかし、時代を経るごとに、その士師でさえも、だんだんと神の思いを踏みにじるようになっていきます。 ギレアド人エフタはならず者たちの頭領でしたが、その猛々しさがイスラエルの救いのために求められていました。イスラエルの長老は、アンモン人の攻撃を受けて苦しんでいる時、エフタに助けを求めます。そしてエフタが士師としてイスラエルを救うという神の御旨が明らかにされます。まずエフタはアンモン人の王との交渉を持ち掛けますが、交渉は決裂し、戦いへと発展します。その際、主の霊がエフタに臨んだことにより、戦いは終始イスラエルの有利に進み、やがて勝利を収めます。 しかし、この時エフタは軽率な誓いを立てて愛娘の死という悲劇を招きます。戦いに勝利した暁には、人身のいけにえをささげると誓い、その誓いのゆえに勝利をお与えくださいと願ったのです。それは異教の文化であり、そもそも神は人身の犠牲を求めていませんでした。ただ戦いに勝利することへの信頼だけを求めておられました。神はきょう、私たちにも、誓いよりも信頼を求めておられます。 【祈り】 ただあなたが求めておられる信頼を、私たちがあなたにささげることができますように。 Wed, 04 May 2022 00:10:00 +0000 主が共にこれだけで十分です(士師記 6-7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220504 no 2022 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」 (士師記6章12節) イスラエルは主の目に悪とされることを行い、その裁きとしてミディアン人の脅威にさらされます。そこで神に向かって助けを叫び求めた結果、神は士師ギデオンを召し出し、イスラエルへ遣わします。主の御使いから「勇者」と呼ばれるほどの人物ですから、これは期待に胸が膨らみます。ところが、ギデオンは予想に反して臆病者でした。自分がいかに小さな者であるかを熱弁し、主からの召しを拒もうとしたのです。神が共におられるとの約束を受けても、その約束が確かであることの保証を求める始末です(17節以下)。 神はこの臆病なギデオンに呆れることなく、敵に立ち向かえるようになるまで付き合われます。そしてギデオンはその神の保証に励まされ、自分の使命へと向かっていくのです。 ミディアン人は13万5千人の大部隊で、対するギデオン軍は3万2千人です。明らかに多勢に無勢でしたが、神の命令により、わずか300人だけを残し、武器を持たずにミディアン人を圧倒しました。主が共にいてイスラエルに勝利をもたらされたのです。主が勝利を得られるために、「兵の数の多少は問題ではない」「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」のです(サム上14章6節、17章47節)。 【祈り】 神の救いには、ただ主が共にいてくださることだけで十分なのだと信じることができますように。 Tue, 03 May 2022 00:10:00 +0000 真の幸せはただ神からやってくる(士師記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220503 no 2022 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。 (士師記3章9節) イスラエルの人びとはカナン侵入後、神の命令に従わず、カナン人を滅ぼさず、その地を征服しませんでした。カナン人の豊かな生活を取り入れた方がより幸せな人生を送ることができると考えたのでしょう。だから、カナン人との共存の道を選び、彼らの技術を習い、彼らの信仰を受けいれました。イスラエルの人びとは、真の主を忘れ、バアルとアシェラという偶像礼拝に勤しみました。 神はイスラエルの人びとの背きに対して、怒りに燃え、彼らに裁きをくだされます。彼らをアラム・ナハライムの圧政の下に置きました。約束の地で安住するはずだったイスラエルにとって、敵の圧政を受けることは耐えられない苦しみだったでしょう。しかし、これは神に従わなかったことに対する神の応答です。 ただ、神は裁きをくだす一方で、救いの道を備えられました。主の霊を受けた士師オトニエルをイスラエルへ遣わされます。イスラエルの多くが神の命令に従わず、妥協して生きていたところで、オトニエルは勇気と信仰をもって自分の務めを果たします。その指導のもと、40年の平穏が与えられました。たとえそれが自業自得による裁きでも、神は苦しみもがく人へ必ず救いを用意されます。真の幸せはただ神から来ます。 【祈り】 必ず救いの道を備えられる神を信頼し、その神にのみ礼拝する勇気と信仰をお与えください。 Mon, 02 May 2022 00:10:00 +0000 あなたの神主を固く信頼せよ(士師記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220502 no 2022 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。 (士師記2章11節) 約束の地カナンへ侵入したイスラエルの人びとでしたが、神の命令を果たさず、約束の地を征服しませんでした。ヨシュアとその世代が絶えると、イスラエルは神の約束(ヨシュ23章4、5節)を忘れて生きるようになります。そしてカナン人を滅ぼすことなく、むしろ共存する道を選びました。 現代人の感覚では、偶像的なものを滅ぼし尽くす「聖絶」とは物騒な響きがあり、「共存」とは倫理的に良い考えに思えるかもしれません。しかし、ここでは神の約束に信頼し、神の命令に従うことが大事です。そして、神に従うことによってこそ、最も人道的な道も開かれるのです。 イスラエルはカナン人との共存の道を選び、カナン人の偶像礼拝を好み、主の目に悪とされることを行うようになりました。そして共存するどころかカナン人の影響を受け、信仰も生活も退廃したのです。 士師記は、神に背き堕落していくイスラエルの姿を描きます。神はそのイスラエルを救うべく士師を立てられます。士師がいるうちは悔い改めて平和に生きる人びとですが、しかし士師がいなくなると再び罪を犯す始末です。士師記は、そのくりかえされる過ちの歴史を通して、私たちに神の約束を信じ、神の命令に従って生きるよう呼びかけています。 【祈り】 神の約束を信頼し、神の命令に従って生きることができますように。 Sun, 01 May 2022 00:10:00 +0000 首に結び心の中の板に書き記せ(箴言 1-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220501 no 2022 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。 それらを首に結び 心の中の板に書き記すがよい。 (箴言3章3節) 「慈しみとまこと」は、主なる神のご性質そのものであり(出エ34章6節)、主が民に施してくださる素晴らしい恵みでもあります。それらが自分から離れないようにするためには、常に主を仰ぎ、御言葉に聞きつつ祈りつつ歩むしかありません。 そのため、首に結び、心の板に書き記すがよい、と命じられています。モーセが律法を民に授けたときも、主の言葉を自分の手に結び、覚えとして額に付け、門にも柱にも書き記しなさい、と命じました(申6章8、9節)。常に心に留めよ、という意味ですが、私たちも、実際にノートを作るとか、御言葉カレンダーを目につくところにかけておくなどの工夫をすることができます。 常に覚えて首に結べ、心に書き記せと命じられて、私たちの努力にかかっていると言われているだけでは、私たちは疲れてしまいます。しかし、主ご自身が私たちの心に記してくださると、後に約束してくださいました(エレ31章33節)。 その慈しみとまことに満ちた約束が、主イエス・キリストが来られ、聖霊が与えられたことによって実現したのです。その恵みに感謝して、私たちはなお一層主の御言葉に心を留め、心の板に書き記してくださる聖霊の恵みに信頼しましょう。 【祈り】 聖霊なる神様、私たちの心に主の御心を深く刻みつけ、悟らせてください。 Sat, 30 Apr 2022 00:10:00 +0000 わたしはあなたが必要なのです(マルコによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220430 no 2022 「『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 (マルコによる福音書11章3節) 主イエスの御生涯で最も大事な十字架を目指すため、エルサレムへと向かわれる時です。その時に、ある人の子ロバを必要とされました。弟子たちがそのロバを見つけて連れてこようとすると、「何でうちのロバを連れて行くのですか?」とロバの主人は止めました。けれども、「主イエスが必要なのです」と言ったら、持ち主はそのロバを貸してくれました。 主イエスは、今、私たち一人一人に、「I need you」とおっしゃっておられます。「わたしを乗せて行ってくれる人はいないのか」と。「あなたが必要なのだ」と言っておられます。 自分は何もできないと思っている人はいませんか。自分にはそんな力はないと思っている人はいませんか。けれども主イエスは、そういう何もできない人、初心者、未経験の人を求めているのです。経験を積んだ大人のロバよりも未熟なロバの方を必要としているのです。 そして大事なことは、あれができるこれができるではなく、「主よ、わたしはここにおります、何もできないわたしですが、どうぞあなたが用いてください」と祈ってみることではないでしょうか。すると必ず主は私たちを用いてくださいます。主が必要とされる働きがあなたには必ずあるのです。 【祈り】 主イエスよ、このわたしを用いてください。あなたの御用のために、わたしは今ここにいます。 Fri, 29 Apr 2022 00:10:00 +0000 自分を捨ててわたしに従って来なさい(マルコによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220429 no 2022 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「…そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 (マルコによる福音書10章21節) 私たちは、神に自分が受け入れられていることを知るまでは、自分自身を守ろうとして、なかなか心を開きません。ここに出てくる金持ちの青年も同様でした。律法を守ろうとし、むしろ、そんな自分を誇っていました。しかし、自分を神の前で謙遜にして、幼子のように素直な心で神の国を受け入れるのでなければ、神からの恵みにあずかることはできません。自分を捨てて、神からの憐れみと恵みを素直に受け入れることが救いのはじまりです。 このことを知らせるために、主イエスはこの青年に自分の頼みとしているこの世のものに望みを置かずに、一切のものを捨てて従ってくることをお命じになりました。しかし、彼にはそれができませんでした。 私たちも、彼を非難することはできません。なかなか自分を明け渡すことができないからです。しかし神は、人が自分を捨てて神に従うことができるようにおできになります。それは、御自分を捨てて人びとに仕えられ、十字架における贖いを示すことによってです。この主イエスのもとに来て、その犠牲が自分のためであることを悟るときにこそ、自分を捨て、幼子のように素直に主の恵みのなかに生き、主に従うことができるようになるのです。 【祈り】 あなたの恵みの中に生きることができますように。わたしの心をあなたに明け渡せるように助けてください。 Thu, 28 Apr 2022 00:10:00 +0000 エッファタ耳と舌を神の器に(マルコによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220428 no 2022 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 (マルコによる福音書7章33節) 耳が聞こえず舌の回らない人は、自分で主イエスのもとにやって来たわけではありません。周りの人びとが、彼をイエスのもとに連れてきました。周りの人びとの熱い思い、祈りです。その人びとの思いを、主イエスはしっかり受けとめてくださいました。 ここで癒された順序を覚えたいのです。まず耳、そして舌でした(35節)。まず神の言葉に聴くようにされました。主イエスは仰せられました。「人は、パンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と(マタ4章4節)。子どもの人格は、親の言葉の中で形づくられていきます。同様に、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉の中で形づくられていきます。 主イエスは、私たちの心の耳を開き、聖書を通し、神の言葉に聴く者へと導いてくださいます。そして、聖霊の促しの中で、この口をもって「イエスは主です」と信仰を告白し、この口をもって神を賛美し、神に祈る者へと導かれます。神の言葉に聴く中で、私たちは神の愛を知り、神の戒めを受け、整えられ、人を本当に慰め、力づける幸いな歩みへと導かれていくのです。 【祈り】 御言葉を聴くことができるように、心の耳を開いてください。信仰を告白し、賛美する舌を与えてください。 Wed, 27 Apr 2022 00:10:00 +0000 私たちを深く憐れまれる主イエス(マルコによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220427 no 2022 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 (マルコによる福音書6章34節) イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様をご覧になり、「深く憐れまれた」とあります。この「深く憐れまれた」という言葉は「思いやりのこころでいっぱいになる、深い同情を寄せる」という意味です。もともとこの言葉は内臓を意味する言葉に由来し、「はらわたを揺さぶられる」という意味があります。他者の苦しみを自分の苦しみとして深く受け止めて心を痛めるというのです。 この方は、「わたしやあなた」の罪や弱さ、痛み苦しんでいる有様をご自分の苦しみ、困窮として受け止められるお方です。そこには、主イエスがわたしのもとへ来て、わたしの存在すべてを引き受け給うという働きかけがあるのです。それは究極的には神の子のヘリくだりということです。 主イエスは、神の御子としていと高き天に父なる神と共におられました。そのお方が、まことの人として地上にお生まれになり、罪のために死に向かいつつ歩む人間存在をすべて引き受けてくださったのです。だからこの「深く憐れまれた」は、イエス・キリストの受肉と十字架の贖いという文脈の中でこそ、その深い意味に触れることができるのです。 【祈り】 主イエスよ、わたしたちを深く憐れんでください。あなたの憐れみの中に生きる者としてください。 Tue, 26 Apr 2022 00:10:00 +0000 たとえで神の国を語る主イエス(マルコによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220426 no 2022 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。 (マルコによる福音書4章20節) 主イエスは大勢の群衆を前に、たとえによって多くのことを語ります。主イエスは自分が語る神の言葉を聞く人の心の状態を、道ばた、岩地、いばらの中、良い地に落ちた種のたとえで示しました。たとえの意味は弟子たちにだけ明かされ、聞く耳のある者は聞くようにと、彼らの聞く力に応じて話しました。 また、主イエスは神の国を小さなからし種にたとえました。からし種は、はじめは小さくても驚くほど大きく育ちます。それは、神の御言葉に熱心に耳と心を傾け、信じ、喜んで従おうとする人びとのことを意味しています。 まずは祈りと聖霊の導きを信じ、「聞く耳」を与えていただきましょう。御言葉に耳を傾けること、それは一見、まことに小さなことのように思えます。しかし、御言葉に聞き続けることで、いつしか必ずや大きな結果、豊かな信仰の実となってゆくということです。 私たちは主の日ごとに礼拝に招かれ、講壇から語られる主の御言葉によって養われます。また、日々の家庭礼拝や個人の礼拝などで霊的に養われます。必ずや豊かで大きな信仰の成長へと導かれていくことを期待し、また信じましょう。 【祈り】 神よ、私たちの心に蒔かれた種を豊かな成長へと導いてください。日々、御言葉に聞く耳をお与えください。 Mon, 25 Apr 2022 00:10:00 +0000 キリストこそ神からの喜びの知らせ(マルコによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220425 no 2022 神の子イエス・キリストの福音の初め。 (マルコによる福音書1章1節) 「福音」という言葉には豊かなたくさんの意味があります。(人間にとっていろいろな福音があるでしょう。)しかし、本当の福音はただひとつであり、神から人びとへの救いの喜ばしい知らせのメッセージなのです。ナザレ人イエスがキリストであり神の御子でもある、ということです。 福音書の目的は、キリストの福音、喜ばしきメッセージについて人びとに語り伝えることです。それぞれの福音書の視点は互いに異なっていますが、すべてに共通したメッセージがあります。それは、罪深い私たち人間宛ての神からの喜びの知らせ、便りである、ということです。福音の中心はイエス・キリストです。 主イエスは洗礼者のヨハネが捕らえられたのち、ガリラヤで福音の宣教を始めます。そして漁師である弟子たちを招くと、彼らはすぐに網を置いてイエスに従いました。主イエスが会堂に入って人びとを教えると、人びとはその教えに驚きました。その後、病気の人や悪霊に憑かれた人を癒したので、評判がガリラヤ中に広まり、多くの人びとが主イエスのもとに集まって来ました。 私たちも主イエスのもとに来て救いの福音、救いの御業を見聞きさせていただきましょう。 【祈り】 神よ、主イエスの福音に耳を傾けさせてください。救いの喜びで私たちの心を満たしてください。 Sun, 24 Apr 2022 00:10:00 +0000 正しく悩むすべを身に着ける(詩編 84編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220424 no 2022 いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。 (詩編84編6節) コラの子の詩と言われています。そうであれば彼らは、主なる神に反抗した父たちの恐ろしい最後を目撃しています(民数記16章)。大地に飲み込まれ、火に焼かれたのです。嘆きの谷、死の陰の谷です。 それだけに、詩人は魂がやつれてしまうほど、主の庭で過ごす一日、つまり主日礼拝の恵みを慕い求めます。 主を求める人にも、「まさか、なぜ、今、このわたしに!」という暗黒を歩まされるときがあります。そればかりか、人生から悩みはなくなりません。だからこそ、どのようなときでも逃避するのではなく、この詩人のように正しく悩むすべを身に着けたいと思います。 主イエスは、あなたの心に神に至る広い道、祈りの道を開通させてくださいました(6節)。主イエスとの交わりの中で、主と共に悩みましょう。主のご苦難と、わたしの苦難とを重ねて、主が共にいてくださると気づけば勇気が湧くはずです。その人は、死臭漂う嘆きの谷を、神の命の泉の湧くところに変えてしまえるのです。 悩むたびに、「大丈夫!」と魂に言い聞かせましょう。 【祈り】 今朝、教会とわたしの心に泉をわかせてください。 Sat, 23 Apr 2022 00:10:00 +0000 わたしとわたしの家は主に仕える(ヨシュア記 23-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220423 no 2022 「…アモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」 (ヨシュア記24章15節) 23章、24章にはヨシュアの告別説教が語られています。そこで、ヨシュアはただ主の言葉を一方的に語っただけではなく、主に対する信仰の決断を民に求めました。 主は私たちの自由な意志を無視して、信仰を強制なさる方ではありません。たとえ自分の周りのすべての人が主を信じなくても、わたしは信じる、わたしは主に従うという信仰の決断こそ、主は喜ばれます。 さらに大切なことは、ヨシュアが、「わたしとわたしの家は主に仕えます」と告白している点です。信仰は、わたしの告白ですが、決して、わたしだけの告白ではありません。私たちは主イエスを信じることを通して、神の家族の一員となります。そういう意味で、わたしの信仰は信仰共同体の信仰でもあるのです。つまり、問われているのは、わたし自身の信仰であると同時に、神の家族の信仰であり、教会の信仰です。ヨシュアの決断に対して、イスラエルの民もまた、「わたしたちも主に仕えます」と告白しました(18節)。私たちも同じです。主イエスを信じるわたしの信仰は、主の民である教会の信仰と結びついています。 ですから、この告白は、私たちの告白でもあります。「わたしとわたしの家は主に仕えます」。 【祈り】 たとえ主を信じる人が少なくても、私たちが、主に仕えて生きることができますように。アーメン Fri, 22 Apr 2022 00:10:00 +0000 主に従いとおす恵み(ヨシュア記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220422 no 2022 『あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる。』 (ヨシュア記14章9節) カナンの地をほぼ占領したヨシュアは、主がモーセを通して命じられたように、各部族に嗣業の土地を割り当てました(2節)。 しかし、カレブには特別な土地が与えられました。それがヘブロンです。というのも、カレブはイスラエルが最初にカナンに侵入しようとした時、偵察のために遣わされた者の一人ですが、他の者がアナク人を見て侵入するのに反対した中、カレブとヨシュアだけは、主に従ってカナンに入ることを主張しました(民数13、14章)。それゆえ主は、カレブが足を踏み入れた土地をカレブと子孫に与えることを約束なさったのです。この時以来、カレブは一貫して主に従いとおしてきました。 どのような時にも主に従いとおすことは決して容易なことではありません。強い忍耐が必要です。しかし、「忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです(ロマ5章4節)。主に従いとおしたカレブの忍耐は、まさに練達と希望を生み出し、嗣業の土地を得ることができました。 約束の地を目指して、主に従いとおしたカレブの姿は、私たち信仰者のあるべき姿を表しています。私たちもまた最後まで主に従いとおす恵みのなかで、神の国と永遠の命を嗣業として与えられるのです。 【祈り】 心挫けるような試練の中でも、主の約束を信じ、最後まで従いとおすことができますように。アーメン Thu, 21 Apr 2022 00:10:00 +0000 信仰によって戦い続ける(ヨシュア記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220421 no 2022 「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は1人もいない。」 (ヨシュア記10章8節) 本日の箇所では、ヨシュアとイスラエルが5人の王たちと戦い、その戦いに勝利したことが記されています。この勝利によってヨシュアはカナンの南部地方一体を占領することができました。 しかし、ヨシュアはこの戦いを自分勝手に戦ったのではありません。主は敵をヨシュアの手に渡し、勝利を与えることを約束されました。ヨシュアもまた主の言葉を信じ、全イスラエルを率いて出陣したのです。勝利を与えてくださったのは、主ご自身です。この戦いが主の戦いであったからです。「ヨシュアがただ1回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである」(42節)。 信仰者のこの地上での歩みは戦いの連続です。多くの試練や艱難があります。もちろん、私たちの戦いは、決して血肉による戦い、剣による戦いではありません。それは神の武具による戦いであり(エフェ6章11節)、キリストの義にもとづく自由と、平和の福音とを公に証言することによる戦いです。私たちは天国に凱旋するときまで、共にその戦いを戦っていくのです。主は必ず私たちに勝利の冠を与えてくださいます。 【祈り】 どのような時代になろうとも、あなたへの信仰に堅く立って戦うことができますように。アーメン Wed, 20 Apr 2022 00:10:00 +0000 どんな壁も主が崩される(ヨシュア記 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220420 no 2022 民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。 (ヨシュア記6:省20節) エリコの町は堅固な城壁に守られた町でした。その城壁は来るものを寄せつけない、あらゆるものを拒絶する壁です。しかし、主はヨシュアに対して、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」(2節)、と言われました。 主はイスラエルに城壁を崩す強力な武器を与えたわけではありません。主が命じられたことは、6日間城壁の周りを回ること、7日目は町を7周し、角笛を吹き、鬨の声をあげることでした。そんなことであの堅固な城壁が崩れることなど考えられません。しかし、ヨシュアは主の言葉を信じ、7日間に渡って命じられたことを忠実に行いました。するとどうなったのか。7日目にイスラエルの民が鬨の声を上げると、たちまち城壁が崩れ落ち、民はエリコの町を占領することができました。主が壁を壊してくださったのです。 私たちの世界にも、また私たちの人生にも大きな壁があります。まさにエリコの町の城壁のように、自分の力ではどうすることもできない大きな壁があります。死はその中でも最大の壁です。しかし、神は主イエスの十字架と復活を通して、罪に勝利し、その壁を取り壊してくださいました。主は信じる者のために、必ず壁を壊してくださいます。 【祈り】 主はどんな城壁も崩してくださいます。いつも主を信じ、従って行くことができますように。アーメン Tue, 19 Apr 2022 00:10:00 +0000 主が行われる驚くべきこと(ヨシュア記 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220419 no 2022 ヨシュアは民に言った。 「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」 (ヨシュア記3章5節) ヨルダン川の前に野営していたイスラエルの人びとですが、いよいよ約束の地に向かってヨルダン川を渡って行くことになります。 しかし、ここで大きな問題があります。この時期、季節は春で、「ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」(15節)からです。当時イスラエルの人口は20歳以上の登録された男子だけで約60万人です(民26章)。女性や幼児、高齢者、病気の人もいたでしょう。それだけの人が、水の満ちている深い川を歩いて渡ることなど不可能です。 民の中にはヨルダン川を渡ることを恐れていた人もいたことでしょう。しかし、ヨシュアは民に、「主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」と言いました。それで、民はその言葉を信じ、まず契約の箱を担いだ祭司たちが先頭に立って、水の中に入っていったのです。するとどうでしょう。なんと祭司たちの足が水に浸ると、ヨルダン川の水が川上で堰き止められ、川床が干上がったため、民はすべてヨルダン川を渡ることができました。 人間の目には不可能であるように思えることでも、主は約束を信じ、主に従う私たちと共にあって、驚くべきことをしてくださいます。必ず深い川を越えさせてくださいます。 【祈り】 どんな困難な時も、主が道を開いてくださることを信じ、恐れず従うことができますように。アーメン Mon, 18 Apr 2022 00:10:00 +0000 主の言葉に励まされて(ヨシュア記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220418 no 2022 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。 (ヨシュア記1章6節) ヨシュアはモーセから後継者として任命されていました(申31章7節)。モーセが死んだ後、主は、あらためてヨシュアにその使命を自覚させます。 神はエジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民に、カナンの地を与えると約束されました。彼らには主の約束を信じ、約束の地に向かって前進して行くという歩みが求められます。そして、ヨシュアには、約束の地に向かって民を導くという使命が与えられていたのです。 この後、ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って行かなければなりません。その先には、イスラエルの民よりもはるかに強い力を持つカナン人たちが待っています。イスラエルはこれからそういう強大な敵と戦い、約束の地を獲得しなければならないのです。 ヨシュアは自らに課せられた使命の重さゆえに、大きな不安の中にありました。私たちも信仰生活を送って行く中で、さまざまな困難や試練に遭遇し、不安に襲われ、弱気になってしまうことがあります。しかし、主は不安の中にあるヨシュアに、「強く、雄々しくあれ」と語り、勇気と励ましを与えてくださいました。私たちもまた、主の御言葉に励まされ、この世へと遣わされて行きます。 【祈り】 どんな時も主の御言葉に耳を傾け、主から勇気と力を与えられて歩むことができますように。アーメン Sun, 17 Apr 2022 00:10:00 +0000 死に打ち勝つ勝利(テモテへの手紙二 1章9-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220417 no 2022 キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 (テモテへの手紙二1章10節) イースターおめでとうございます。主イエスは、この日、墓からよみがえられ、復活された姿を弟子たちに現わしてくださいました。 復活の主イエスが彼らの真ん中に立たれたとき、弟子たちは亡霊を見ていると思い、恐れおののきました。しかし、恐れは次第に喜びに変わり、弟子たちは復活の主イエスと夢のような40日間を過ごしたのでした。 主イエスの復活は、弟子たちと私たちにとって大きな喜びです。なぜなら、主イエスは、墓にはおられず、今も生きて天におられ、私たちの祈りを聴き、私たちを守ってくださるからです。 けれども、さらに大きな恵みがあります。主イエスの復活は、死に対する完全な勝利を現すものだからです。「死が滅ぼされる」、それはまさにあり得ないことです。マルコによる福音書はもともと、からの墓から恐れ震える婦人たちの姿を描いて閉じられていると言われます(マルコ16章8節)。主イエスの復活は、驚天動地のことであり、婦人たちは墓から逃げ去ったのです。 しかし、死は滅ぼされました。主イエスの十字架と復活の御業により、死の根本原因である人間の罪が完全に解決されたからです。主イエスを信じる者は永遠の命をいただきます。 【祈り】 神さま、イースターの素晴らしい恵みを感謝します。主の御名によって祈ります。アーメン Sat, 16 Apr 2022 00:10:00 +0000 厳重に封印された墓石と番兵(マタイによる福音書 27章62-66節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220416 no 2022 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。 (マタイによる福音書27章66節) ユダヤの暦では、一日は日没から始まります。主イエスが十字架に架けられた日の翌日はユダヤ教の安息日でした。 その日の夕方、主イエスの隠れ弟子、金持ちの議員であったアリマタヤのヨセフが勇気を出し、ローマ総督に主イエスの遺体の引き取りを願い出ました。ヨセフは日没までに遺体を十字架から降ろし、亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓に葬りました。マグダラのマリアともう一人のマリアも一緒でした。これがエルサレムに住むユダヤ人たちの冷たい視線の中でなされた、主イエスのささやかな葬りでありました。 福音書は、このあとの弟子たちの動静について全く沈黙します。ただ一行、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」(ルカ23章56節)とあるだけです。 しかし、この日、ファリサイ派の人びとは集まり、主イエスの墓を見張るため、ポンテオ・ピラトにローマ兵派遣を願いました。ピラトが拒否したので、彼ら自身の番兵が見張ることになりました。さらに墓の石は厳重に封印されました。 週の初めの日、天使が石を転がし、番兵は震え上がり、復活のイエスは婦人たちと会いました。ここから世界の新しい歴史が始まりました。 【祈り】 主イエスの復活の力は世のどんな力にも優ることを信じて感謝します。主の御名によって祈ります。アーメン Fri, 15 Apr 2022 00:10:00 +0000 いったい何が成し遂げられたのか(ヨハネによる福音書 19章28-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220415 no 2022 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 (ヨハネによる福音書19章30節) 新約聖書には主イエスが十字架の上で語られた言葉が、合わせて七つ記録されており、古代より「十字架上の七言」と呼ばれています。ヨハネによる福音書にはそのうちの三つが記されています。その三つ目が「成し遂げられた」です。 これは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章4節)と共に、十字架上の最後の言葉、そして主イエスの地上の御生涯における最後の言葉となりました。「成し遂げられた」。一体何が成し遂げられたのでしょうか。 この直前、主イエスは「渇く」と言われました。「こうして聖書の言葉が実現した」と書かれています。これは、詩編22編16節「口は渇いて上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」を指しています。 死の苦しみの中で、主イエスはご自身に委ねられた救いの業の完成を知り、安堵の中で「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。28節には「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とも書かれています。罪のない神の御子であるお方が、神のご計画により、私たちに代わって神の裁きを受けられました。こうして罪人を義とする救いの御業が成し遂げられたのです。 【祈り】 ただ恵みによって、私たちの罪を赦す神の恵みを感謝します。主の名によって祈ります。アーメン Thu, 14 Apr 2022 00:10:00 +0000 主イエスの血による新しい契約(ルカによる福音書 22章14-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220414 no 2022 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 (ルカによる福音書22章20節) 主イエスは十字架におかかりになる前の晩、弟子たちと過越の食事を共にしました。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトから脱出したとき、小羊を屠り急ごしらえの種なしパンを食べたことを覚える特別の食事です。エジプトに下された最後の災いはすべての初子の死でした。柱と鴨居に小羊の血を塗ったイスラエルの家は、神が過ぎ越され、命が守られたことを記念します。 過越の食事では、ぶどう酒は4回に分けて飲みます。ルカによる福音書は、このうちの2回を記録し、いずれも主イエスが杯を取って感謝の祈りをささげました。そしてこの時、聖餐式制定の御言葉が語られたのです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。 主イエスは、これがご自身にとって地上の御生涯最後の過越であると明言されました。そして翌朝、主は捕らえられ、十字架におかかりになりました。 聖餐式のパンは主イエスの体を、杯は主イエスの血を表します。私たちは聖餐のたびに、しみも傷もない神の小羊、主イエスの命が、信じる者すべてに罪の赦しと永遠の命を与えてくださったことを覚えます。 【祈り】 父なる神さま、あなたは愛する御子の命を私たちに与えてくださいました。心から感謝いたします。主の名によって祈ります。アーメン Wed, 13 Apr 2022 00:10:00 +0000 律法は神の愛のメッセージ(申命記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220413 no 2022 イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。 あなたのように主に救われた民があろうか。 (申命記33章29節) 33章に記されたモーセの祝福は、創世記49章に記された族長ヤコブの祝福に対応します。ヤコブの祝福は、12人の息子たちに与えられた、一家族のものに過ぎませんでした。しかし、今やヤコブの家族は一つの民族へと成長し、アブラハムに与えられた祝福がヤコブを通ってモーセに至り、そのモーセのもとで祝福はイスラエル全部族の上に注がれます。モーセはこれまで民を叱責し続けてきました。しかし、最後には祝福の言葉をもって民を送り出します。イスラエルの民は、この祝福を受け取って、新天新地での新たな歴史に向かいます。 キリスト教会において律法は福音に対立するものとして捉えられがちでした。けれども、モーセを通して神が与えた律法は、イスラエルに命をもたらすものでした。律法に示されたのは創造者なる神の慈愛、救いをもたらす神の義と憐れみです。キリストの福音は、律法に示された神の心を、より鮮明に、すべての人に開示するという点でまったく新しいものですが、聖書全体を通じて神の御旨は一貫しています。旧約の叱責さえも神の恵みであることをあなたは受け入れることができますか? 【祈り】 主よ、モーセによって語られたあなたの真実が、御子キリストによって私たちのものとなった恵みに感謝します。より確かにその言葉を理解できるように知恵をお与えください。 Tue, 12 Apr 2022 00:10:00 +0000 神の約束に支えられる信仰の戦い(申命記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220412 no 2022 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。 (申命記14章2節) 「あなたたちは主の子らである」。「あなたたちは主の聖なる民である」。「主はあなたを選んで、宝の民とされた」。これは、歴史を歩む神の民に対する永遠の語りかけです。そこには二通りの意味が含まれます。 一つは終末的な意味合いです。カナンの地とは、アブラハムとその子孫に約束された新天新地です。「乳と蜜の流れる地」と表された神の祝福が溢れる土地、神の民に約束された永遠の嗣業です。そこには神と人とが結ばれて生きる最終的な到達点があります。 それと同時に、カナンの地が指し示すもう一つの意味は、そこはまだ本当の終わりに達する前の歴史の中で始まる信仰の戦いの場所です。カナンの地に入るとき、そこで既に成就した神の約束があり、けれども未だ成就しない終わりが更に先に待っています。未だ到達しない終わりを待ちながら、既に成就した約束の恵みを受けて、神の民は信仰の歩みを続けます。そうした地上の生活でイスラエルの民が直面するさまざまな事態に備えて、モーセはここで勧めています。 イスラエルの歴史においては、律法に従って祝福を得るか、偶像崇拝に走って破滅を招くかの瀬戸際で、信仰の戦いが繰り広げられます。 【祈り】 主よ、あなたが復活の主イエスのもとに用意されている約束の地に辿り着くまで私たちをお守りください。 Mon, 11 Apr 2022 00:10:00 +0000 神の選びによって救われる真実(申命記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220411 no 2022 あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。 (申命記9章4節) 「聞け、イスラエルよ」という6章4節と同じ呼びかけが、再びモーセの口から語られます。約束の土地へいよいよ入ろうという間際に心に留めておかなくてはならない大切な教えです。 ここで訴えられているのは、イスラエルが約束の地に入るのは、徹頭徹尾神の力による、ということです。ヨルダン川を渡るという経験は、どこまでも信仰の問題です。約束の地への到達は、ひたすら神の主権のもとに行われる恵みの業です。それは、神がかつてアブラハム・イサク・ヤコブという族長たちと結ばれた祝福の契約を実現されるためでした。 イスラエルの信仰は、自分が救われたことを盾にとって、自己を誇るようなものではありません。聖書における「選び」という教理は、選ばれたものの功績やエリート意識とは何も関係がありません。それが意味するのは、むしろ人間の側には何も根拠がないということです。何故、神はイスラエルをお選びになったのか。それは、ただ神が御自身を世界に知らせるために、彼らを選んで御言葉の器とされたという神の計画によるのであって、選ばれた人間の側には何も根拠はないのです。 私たちはただ、その事実を受け入れて、神を神として仰ぎます。 【祈り】 主よ、あなたが選んでくださったから私たちは救われたとの真実を受け入れることができますように。 Sun, 10 Apr 2022 00:10:00 +0000 迫害の中の図々しい祈り(詩編 79編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220410 no 2022 御名のために、わたしたちを救い出し わたしたちの罪をお赦しください。 どうして異国の民に言わせてよいでしょうか 「彼らの神はどこにいる」と。 (詩編79編9節~10節) この詩は、神殿崩壊記念日に朗読されると言われています。遺体が動物の餌食にされ、最低限の葬りさえ望めません。恐るべき迫害、民族的苦難です。あのホロコーストの惨劇が脳裏をよぎります。 しかし、詩人はここで「何故?」とは問いません。「わたしたちの昔の悪」(8節)が原因であると悟っているからです。ですから「わたしたちの罪をお赦しください」と祈ります(9節)。何よりも神の主権、全能、摂理を信じて祈ります。ですから、「何故」ではなく、「いつまで続くのでしょう」と嘆き(5節)、その時の過ぎ去ることを願い、さらに罪の赦しを乞い求めて祈るのです。 このように詩人は自分たちの苦難が、自分たちの不従順の故の苦難であることを知っていました。しかし、それにもかかわらず13節ではこう言います。「わたしたちはあなたの民、あなたに養われる羊の群れ」。人間的にはあまりにも図々しい祈りの言葉のように思われるかもしれません。しかし、決してそうではありません。この図々しい言葉は神の契約と愛を信じるがゆえの信仰のゆえの祈りの言葉です。詩人は異国の民に「彼らの神はどこにいる」(10節)と言わせません。真の信仰に立ちつつ宣言します。ここに勝利があります。 【祈り】 どんなときにも、わたしたちを信仰に生かしてください。 Sat, 09 Apr 2022 00:10:00 +0000 御言葉のパンに養われる(申命記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220409 no 2022 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 (申命記8章3節) 荒れ野の旅は、イスラエルの心を吟味するための40年でした。苦難は試練だったのです。そして、そこには重大な教訓が込められていました(3節参照)。 荒れ野の試練が明らかにしたことは、「人はパンだけで生きるのではない」という真理です。これは新約聖書でも、主イエスがサタンの試みに遭われたときに、この言葉をもって誘惑を退けられたこととして有名です。もとの申命記の文脈からしますと、その意味はパンに加えて御言葉が必要だ、ということではありません。マナの出来事に象徴的に表されたように、たとえパンを事欠いていても、神の言葉によって生かしていただける、ということを指しています。つまり、この全体の文脈で言えば、神の約束のもとに留まっているならば、必ず祝福が実現することを教えられたのです。荒れ野の試練は、苦難の経験であったに違いありませんが、それは御言葉の真実が明かされる貴重な時期でもありました。 私たちが救いの恵みを忘れないという保証はありません。ただ、自分にはそうした罪があることを聖書が教えてくれます。その言葉に聞き続ける限り、私たちは神の約束を忘れることはありません。 【祈り】 主よ、私たちが主イエスの恵みを忘れることがないように日毎の糧で養ってください。 Fri, 08 Apr 2022 00:10:00 +0000 聞けイスラエルよ忘れるな(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220408 no 2022 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 (申命記6章4節~5節) 6章4、5節の言葉は神殿再建後のユダヤ人たちの日毎の祈りとなって、朝に晩に唱えられた文言です。律法の最も重要な掟として、主イエスがこれを引用されたことが福音書に書かれています(マコ12章30節、他)。今でもユダヤ教を信じる人びとの間では、この御言葉を入れた小さな箱を家の門柱に貼り付けたり、皮ひもで腕や額に巻き付けたりして、実践されています。御言葉への情熱がこのように表現されるのは、ある感動をも覚えます。 しかし、このような実践によって御言葉への愛が支えられなければならないのは、罪びとである人間は忘れやすいからです。イスラエルは、かつて奴隷とされたエジプトの国から解放された人びとでした。そうした救いの恵みを思い返して、契約を結んでくださった主を愛するよう求められたのでした。けれども、時間が過ぎ、世代を経ると、イスラエルはそれを忘れてしまいます。感謝を忘れ、神との契約を忘れて、時代の流れに流されて周囲の神々を拝むようになってしまいます。 だから、聞け、忘れるな、とモーセを通じて、神は私たちに絶えず語り続けます。 【祈り】 イエス・キリストの十字架によって罪の赦しと自由とを与えられたことを決して忘れることがありませんように、聖霊の助けをお与えください。 Thu, 07 Apr 2022 00:10:00 +0000 今日語られる神の言葉(申命記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220407 no 2022 主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。 (申命記5章3節) 十戒は出エジプト記20章と並行しますが、安息日の規定と両親を敬う規定には若干の補足が為されています。特に安息日については、天地創造のときに神が休まれたからという理由付けが後退して、奴隷のための休息と出エジプトの救いの想起とが命じられています。ここでは安息日の恩恵性が全面に出ています。 この十戒の告知において特徴的なのは、まず、シナイ山の出来事が神の啓示の決定的な出来事として描かれていることです。その光景は神の尊厳を表す火と煙に満たされていて、その中から語りかける神の声を、民は直接耳にしました。それが十戒であって、すべての会衆にそれが語られた後、石の板に刻まれてイスラエルの内に保管されました。 モーセはこの十戒を中心とした神の律法を、今日、ここで、全会衆を前にして、生ける神の言葉として語ります(1節)。それはかつてシナイ山で起こった荘厳な出来事ですが、その尊厳がそのままモーセの説教によって再現されます。これは第二世代にむけて呼びかけられた「今日」ですが、この「今日」は、その後の時代を一貫して、この御言葉が語られる現在において何度でも新しく語られます。 【祈り】 主よ、あなたがイスラエルに与えた契約の御言葉を今日も私たちが忠実に守ることができますように。 Wed, 06 Apr 2022 00:10:00 +0000 炎のような神の言葉に聞く(申命記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220406 no 2022 あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。 (申命記4章24節) かつて語られたモーセの言葉は、後の世代にも「今」語りかける神の言葉となります。その最後の奉仕をするために、モーセは情熱をもって民に語りかけます。4章から、モーセの説教が本格的に始まります。イスラエルの民への呼びかけは、通常「あなたたち」ですが、時々「あなた」に代わります。それは、モーセの前に集う一人ひとりの心に呼びかける言葉遣いです。誰もがモーセの言葉を聴いて、それを心に留めて、実行しなくてはなりません。 モーセはこの説教を語りながら、シナイ山での契約を思い起こしています。まるでシナイ山に立って語っているかのようです。かつて神は、前の世代に対して、天を突くような黒雲が立ちこめるホレブ(シナイ山)の、炎の中から民に語りかけました。神の姿はそこにありませんでしたけれども、神の言葉は雷鳴のようで、炎のごとき激しさで民に迫るものでした。その炎は神の激しさを表しています。 「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである」。 モーセの説教は、この熱情の神の言葉を内に宿すものであって、イスラエルの民は炎のような愛と裁きの激しい言葉をここに聴いています。 【祈り】 主よ、あなたの民に対する熱情はキリストの「今」に至るまで変わらないことに気づかせてください。 Tue, 05 Apr 2022 00:10:00 +0000 「恐れるな」主が戦ってくださる(申命記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220405 no 2022 「彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。」 (申命記3章22節) かつての荒れ野の旅を思い起こして語るモーセの説教は、これから約束の地に入ろうとしている新しい世代に向けての励ましであり、勧告です。すでに起こった過去の歴史は、主の御業として思い起こされて、これからの教訓となります。 アモリ人の王シホンとの戦い、そしてバシャンの王オグとの戦いは、イスラエルにとって輝かしい勝利の記憶となりました。それは、カナンを前にして脅えて滅びていった前の世代とは異なるイスラエルの姿です。けれども、その出来事を通してモーセが伝えるのは、イスラエルの雄姿ではなく、主の御業です。主と共にあってこそ、イスラエルには栄光が輝くのであって、そうでなければ荒れ野で滅びるほかはありません。 イスラエルの戦いを戦うのは主なる神御自身です。それを忘れたときにイスラエルは力を失い、敵を前に怖じけづきます。アモリ人の地での二つの戦いは、主がイスラエルのために戦ってくださった聖なる記憶であり、イスラエルが勇気を奮い起こす根拠です。「恐れるな」との呼びかけには、まず主が戦ってくださった、という歴史的な根拠があります。主イエスの勝利を信じる私たちは、「恐れるな」と呼びかけを、今も私たちの日々の励ましとして聞いています。 【祈り】 イスラエルの聖なる御神、私たちの信仰の戦いにも、あなたの力が及んでいることを信じさせてください。 Mon, 04 Apr 2022 00:10:00 +0000 主の力に依り頼んでこそ(申命記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220404 no 2022 「あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった…。」 (申命記1章31節) 19節から、最初のカナン偵察の出来事の顛末が想い起されています。ホレブからカナンの入り口までは11日の道のりに過ぎませんが、偵察隊の報告を聞いて民が臆したことによって、その道のりは40年にも広がってしまいました。モーセは「恐れてはならない」と度々イスラエルを励ましました。恐れるのは、主が与えると言われた約束をそのまま信じないからです。民は心が挫けて臆病の霊に取り憑かれているのですが、それを他人のせいにしました。 それでも語られるモーセの励ましの言葉は何度も聞く価値があります。モーセは主が戦ってくださると告げました。どんな相手であろうと神を相手に叶う敵はいません。モーセはそれを過去の経験に訴えて歴史を思い起こすよう促します。エジプトでどんな奇跡を見たか、荒れ野でどんな顧みにあったか。それは「父が子を背負うようであった」と言います。イスラエルの旅路を守るのは人の力ではありません。モーセはその時の事件を思い起こしながら、「この方こそ」と言って、イスラエルの先頭を進んで約束の地へ導いてくださる主のことを民に語って聞かせます。 そう、いつでも主は先頭に立って、民を約束の地に導くお方です。 【祈り】 御自分の民をこよなく愛しておられる御神、私たちが臆病であるとき、心からあなたに頼ることをどうぞ教えてください。 Sun, 03 Apr 2022 00:10:00 +0000 わたしは弱くされて強められる(詩編 77編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220403 no 2022 わたしは言います。 「いと高き神の右の御手は変わり わたしは弱くされてしまった。」 (詩編77編11節) 苦難は、誰の人生にもつきものです。しかし、詩人は、ひとりの信仰者また神の民としての苦難にあえいでいるのです。 信仰者は、苦しみの中で祈ることを知っています。いつものように神に叫びます。彼は、中途半端な慰めでは決して満足しません。神の応答を待つ忍耐を弁えています。すばらしいことです。 しかし、眠れぬ日々の中でついにうめき、つぶやきます。「もう分からない。神さまのせいでこんなに弱くされてしまった!」(11節)。 ところが、詩人はそこでなお特別の体験に頼ろうとはしません。いつもの方法で乗り越えていきます。それは、神が歴史においてなされた右の手を思いめぐらすこと。つまり、聖書の救いの物語を黙想することによってです。 こうして、神なくして生きられない弱さをむしろ感謝していくのです。いかなる苦難の中でも神の救いの約束は不変だからです。神に弱くされるほどに、強くされるのが信仰の歩みです。真の希望はそこから生まれます。 【祈り】 主よ、あなたは試練の中で弱くし、恵みの手段によって深い信頼を教え、強め、立ち上がらせてくださいます。祈り抜くことを教えてください。 Sat, 02 Apr 2022 00:10:00 +0000 力は弱さの中でこそ発揮される(コリントの信徒への手紙二 12-13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220402 no 2022 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。 (コリントの信徒への手紙二12章9節) 私たちはそれぞれに弱さを抱えています。体や心の弱さゆえに行き詰まることもしばしばあるでしょう。パウロはさまざまな苦労を数え上げた上で、「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」と語ります(7節)。この「とげ」は、私たちが想像するような小さなとげではなく、ギリシア語によると、刺し貫く鋭さをもち、落胆させるほどの痛みをもたらすものでした。ですから、「離れ去らせてくださるように」と、とげが取り除かれることを強く願いました。 しかし、そこで主が語りかけられます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と。弱さによって、自分の力ではなく、主に依り頼みながら歩む方向へと変えられます。キリストの力が発揮されるために、弱さもまた恵みとして与えられているのです。 パウロは痛みがありながらも落胆せず、「喜んで自分の弱さを誇り」、「弱いときにこそ強い」と確信していました(9、10節)。それは、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」(4章17節)を見つめていたからです。慰めを豊かに、恵みを十分に与えてくださる愛と平和の神が私たちと共にいてくださいます。 【祈り】 弱さを含めて、与えられている恵みに感謝しつつ、主の栄光に目を注ぎ続けられますように。 Fri, 01 Apr 2022 00:10:00 +0000 わたしは弱らないではいられない(コリントの信徒への手紙二 10-11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220401 no 2022 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 (コリントの信徒への手紙二11章29節) 10章から、パウロの語り口が少し変わったと感じられるかもしれません。コリントの教会に少なからず混乱があり、パウロに対して「弱々しい人で話もつまらない」と否定的な態度をとる人たちがいたようです。そのような教会と、問題についてパウロが強く説いていることが読みとれます。 パウロの使徒としての主張が述べられ、信頼回復のための弁明でもあり、キリストに仕えるがゆえの苦労の数々も細かく挙げられます。これらの一つ一つを想像すると、パウロが受けていた苦しみのすさまじさを感じます。その上に、自分の愛する群れが問題を抱え、混乱に陥っている状況に心配事が尽きません。 しかし、パウロはそれでも弱い群れに寄り添うのです。「だれかが弱っているなら、弱らないではいられない」「だれかがつまずくなら、心を燃やさないではいられない」と。「心を燃やす」とあるのは、「心を痛める」と訳すこともできます(聖書協会共同訳、新改訳2017)。弱っているだれかを想って心を痛めるパウロはこうも語ります。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。…何とかして何人かでも救うためです」(1コリ9章22節)。福音のためならどんなことでもしようと、キリストの愛に駆り立てられる姿です。 【祈り】 キリストの愛のゆえに、弱るだれかに寄り添うことができますように。 Thu, 31 Mar 2022 00:10:00 +0000 苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれる(コリントの信徒への手紙二 7-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220331 no 2022 わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。 (コリントの信徒への手紙二7章4節) 7章では、パウロとコリントの教会の人びととの関係がうかがえます。私たちは教会においても人とのかかわりに頭を悩ませることがあります。パウロも困難を感じることがあったようです。 「あなたがたを悲しませたことは知っています」(8節)と、たとえ言い過ぎて悲しませることがあっても、正しい道に立ち帰らせるために語らなければならないことがありました。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改め」(10節)が生じます。神の御言葉によって教え、戒めることは、悔い改めて、共に主イエス・キリストの十字架のもとに立つことへと導くのです。ですから、パウロは「あなたがたに厚い信頼を寄せている」(4節前半)と、臆することなく語ります。 教会の交わりはキリストの十字架に基づく交わりにほかなりません。私たちはキリストを通して神と和解させていただき、共に立って神をほめたたえる者とされました。それゆえ、たとえ一時、不穏な関係になったとしても、互いに赦し合うことによって、むしろ交わりが強められることが起こる。ただ悲しむことで終わるのではなく、慰めに満たされ、共に喜びに満ちあふれるのです。 【祈り】 悔い改め、赦し合って慰めと喜びに満たされますように。 Wed, 30 Mar 2022 00:10:00 +0000 今や恵みの時救いの日(コリントの信徒への手紙二 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220330 no 2022 なぜなら、 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」 と神は言っておられるからです。今や…。 (コリントの信徒への手紙二6章2節) この聖書箇所を読んで「恵みの時」「救いの日」はいつのことだろう?と思うことがあるかもしれません。この世に生まれた日でしょうか。聖書を読んでいる時でしょうか。洗礼を受けた日でしょうか。「恵みの時」「救いの日」は、あなたの「きょう」「いま」なのです。 6章1節で、神からいただいた恵みを無駄にしないように、と語られます。私たちは、救われてもなお日々迷い、神から離れていこうとしてしまいます。「恵み」が無い、「救い」がわからないという状態に陥ってしまうのです。そのような時、恵みを無駄にして神を悲しませています。 しかし、落ち込まなくてもよいのです。なぜなら、私たちには既にキリストによって、救いが与えられているからです。神と和解させていただいているのです。ですから、今が恵みの時であり、きょうが救いの日なのです。神から離れそうになる時、思い起こしてください。「今や、恵みの時、今こそ救いの日」、この御言葉はたいへん力強くあなたに語られています。 キリストの恵みと救いをいただいたのですから、キリストの愛に駆り立てられ(5章14節)、キリストに向かって、キリストのためにきょうも歩んで参りましょう。 【祈り】 今が恵みの時であり、救いの日であることを、いつも心に留めて生きることができますように。 Tue, 29 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の宝を納める土の器(コリントの信徒への手紙二 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220329 no 2022 わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が…わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 (コリントの信徒への手紙二4章7節) いろいろな物語に出てくる宝箱は、きらきらと輝いていて、それでいて頑丈、中に入っている宝物の期待も高まるようなものです。宝物を保管するには、美しく頑丈なものが相応しいのでしょう。 聖書が語る神の宝とは、「福音の光」(4章4節)、「神の栄光」(同6節)、「イエスの命」(同10節)などと言い換えられています。イエス・キリストの福音、慰めは、計り知れない喜びです。どんな宝よりも尊く、決して朽ちない幸いです。 その宝を入れられているのが、私たち「土の器」です。本来なら宝には相応しくない粗末な土の焼き物です。壊れやすく、歪んでいて、見た目もあまり美しくないかもしれません。そのような頑丈、美しいとは言えない私たちを、神はご自身の宝を納める器として選ばれました。 私たちは、表面的な見栄えばかりを求めてしまうこともあります。自らの弱さに落ち込み、人としての限界も痛感します。けれども、欠け多く、ヒビだらけで脆い、私たちの内に神は働かれ、神の宝は輝くのです。私たちは、足りないものを通してキリストの慰めをいただき、この世界に今も生きて働き、やがて永遠の御国を来たらせる神の御業を知るのです。 【祈り】 わたしを、あなたの宝を納めるものとして用いてください。復活の主の栄光が光り輝きますように。 Mon, 28 Mar 2022 00:10:00 +0000 苦しみを共に慰めをも共に寄り添って(コリントの信徒への手紙二 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220328 no 2022 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。 (コリントの信徒への手紙二1章5節) リントの信徒への手紙二では、先に送った手紙によって、教会の人びとを「悲しませ」てしまったことについて(7章8節参照)、パウロが弁明しようとしています。不安や心苦しさを率直に語りつつ、「慰め」という言葉が印象深く用いられています。 「慰め」は、原語では、「傍らに」と「呼ぶ」という二つの言葉で成り立っています。自分のところに誰かを呼ぶ、あるいは自分が誰かのところに呼ばれて寄り添う姿がイメージされます。 慰めを必要とするとき、それはどのようなときでしょうか。悲しい気持ちでいるとき、辛い経験をしたとき、悩み苦しむとき。さまざまな形で襲ってくる苦難…。パウロもそうだったように、私たちにも苦難があります。辛いときにはやはり誰か近くにいてほしい。そもそも、なぜ私たちには苦しみがあるのか。原因を探ろうとすると余計に苦しくなったり、結局よく分からなかったりしてしまいます。 しかし、パウロが語るのは、私たちの苦しみは、キリストの苦しみと無関係ではないということです。キリストが傍らにおられ、寄り添って共に苦しんでくださる。これが慰めです。 【祈り】 苦難の中にあるわたしを慰めてください。わたしが気付かないときも、神が共にいてくださることを感謝します。 Sun, 27 Mar 2022 00:10:00 +0000 何を幸いに歩むのか(詩編 73編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220327 no 2022 見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。 … わたしは、神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。 (詩編73編27節~28節) 仰の歩みは、神から引き離そうとする誘惑に常に付きまとわれます。 詩人は、正直に、もう一歩のところで脱線するところだったと告白します。神を信じない人びとの幸福そうな暮らしぶりを見つめたからです。やることなすこと上手くいき、健康で苦しみや悩みもないように見えます。しかも、多くの人が彼らに憧れ、彼らの言葉にこそ、まるで鹿が谷川の水を慕うかのように群がるからです。彼らは「神の知識より、わたしの教える言葉の方が幸福と成功への道だ」と言うのです。 もし脱線すれば、本人のみならず教会の仲間にも、厳しい試練となり裏切り(15節)とさえなります。 詩人は、この誘惑、危機から逃れるために、祈りに打ち込みます。神の臨在に触れ、彼らの言う幸福は滅び去ることをはっきりわきまえます。ついに、信仰に生きながらも彼らにあこがれた自分をまるで「獣のようだった」と悔い改めます。こうして、神に近くある人生こそが幸いであるとの確信を取り戻します。 欺かれませんように。真の幸いは、神にあり、兄弟姉妹と共に歩む人生にあります。 【祈り】 主イエス・キリストの父なる御神、あなたを知らない人びとが、その飢え渇きを、あなたにではなく、世の成功者の声で満たそうとしています。私たちの幸いな歩みをもって、彼らの眼を開かせてください。 Sat, 26 Mar 2022 00:10:00 +0000 逃れの町を用意してくださる神(民数記 34-36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220326 no 2022 自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。 (民数記35章11節) いよいよ約束の地カナンに入るにあたって、神はいくつかの定めを命じられました。その一つが、「逃れの町」を用意することです。それは、過って人を死なせてしまった人が、復讐しようとする者たちから逃れて、身の安全を確保するための町です。 人の命を奪うというのは重大なことです。神が与えた命を奪うことであり、また流された血は「地を汚す」からです。人類最初の「死」は、創世記に記されているように、妬みに駆られたカインが弟のアベルを殺したことによって起こりました。そのことによってアベルの血が流された大地は呪われ、カイン自身は大地よりも呪われるものとなりました。 共同体の秩序のために殺人者への裁きは厳正になされる必要があります。にもかかわらず「逃れの町」を用意するようにとの神の指示は、福音の響きを帯びています。 キリストはまさに私たちにとっての「逃れの町」です。私たちは、自分ではそれほど重大な罪を犯してはいないと思うかもしれません。しかし、主イエスは人を憎むことも殺人と同じであるとおっしゃいました。そして主イエスのもとに一目散に逃げ込むならば、私たちは神の裁きを免れることができます。神がそう定めてくださったのです。 【祈り】 重大な罪を犯してしまう私たちですが、あなたが私たちの逃れの町でいてくださることを感謝します。 Fri, 25 Mar 2022 00:10:00 +0000 神が歩みを導かれる(民数記 31-33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220325 no 2022 イスラエルの人々はラメセスを出発して、スコトに宿営し、スコトを出発して、荒れ野の端にあるエタムに宿営した。 (民数記33章5節~6節) エジプトを出て以来、モーセは旅して来た地点を順番に書き留めていました。その全行程が33章に記されています。その記述は、どこを出発し、どこに宿営した、という言葉がひたすら繰り返されて、一見しただけでは無味乾燥に思えます。しかも荒れ野という言葉が繰り返し出てきます。イスラエルの民は、荒れ野から新たな荒れ野へ、まるで迷路の中を彷徨っていたかのようです。 モーセはこれまでの旅程を振り返ったとき、多くの困難、民の間のいざこざや不信仰、そして自分自身の失敗を思い出したことでしょう。けれども、それらをはるかに凌駕する神の愛と忍耐と御守りに圧倒されたのではないでしょうか。40年もの荒れ野の旅は、無意味なまわり道でも、ただ神の罰として耐えるだけの期間でもありませんでした。いつも神が共にいて、その歩みを守り導き、また信仰を養ってくださっていたのです。 私たちの人生も同じです。振り返ってみれば、さまざまな困難や自分自身の弱さにもかかわらず、いつも神が共にいてくださったことに思い至ります。たとえ荒れ野であっても、神に導かれた歩みが一人一人にあります。 【祈り】 荒れ野を一人彷徨っているように感じられるとき、共にいて導いてくださるあなたに目を留めさせてください。 Thu, 24 Mar 2022 00:10:00 +0000 神に喜ばれる献げ物(民数記 28-30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220324 no 2022 あなたたちは、わたしの食物である献げ物を、燃やしてささげる宥めの香りとして、定められた時に忠実にわたしにささげなさい。 (民数記28章2節) 約束の地に入る前に、神はモーセを通して、さまざまな献げ物の規定を守るよう、改めてイスラエルの民にお命じになりました。荒れ野を旅する間に、初めの律法が与えられたときに生きていた人びとがいなくなり、民は新しい若い世代へと移っていたからです。また、新しい地では、聖書の神を知らない異邦人の中に入って生活することになります。その影響を受けて、神との関係を見失ってしまうことがないように、定められた時に忠実に献げ物をささげることを求められたのです。 祭りを祝い、献げ物をささげる中で民は自分の罪を告白し、神の恵みに感謝し、神との交わりを喜びました。とりわけ、いけにえの動物の血が流されるとき、その犠牲によって自分の罪が赦されることを繰り返し体験しました。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9章22節)からです。 時至って主イエスは、私たちの罪を贖うため、ただ一度、傷のない小羊として十字架の上でその血を流してくださいました。完全に贖われた私たちは、もはや旧約聖書に記されたさまざまな規定に縛られません。また主イエスと同じように、聖なるものとして自分自身を神にささげることができるようになったのです。 【祈り】 主イエスの犠牲を思い、強いられてではなく、心からの感謝と真心をもって、自分をささげさせてください。 Wed, 23 Mar 2022 00:10:00 +0000 約束の地を望み見て天の国を仰ぐ(民数記 26-27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220323 no 2022 「それを見た後、あなたもまた兄弟アロンと同じように、先祖の列に加えられるであろう。」 (民数記27章13節) イスラエルの民は約束の地を目指して40年にも及ぶ長い旅をしてきました。その間モーセは指導者として民を率いて来ましたが、いよいよゴールを目前にして神は言われました。その土地を見渡した後、あなたは死ぬと。モーセはかつてメリバで、神に命じられたとおりにせず岩を2回打ち、神の聖なることを示さなかったことがありました。そのために約束の地に入ることができないと言われていたのです(20章12節)。そのことを再度、神に告げられたことになります。 けれども、そのことは絶望的な滅びを意味しません。神は、メリバの出来事の後もモーセを用いて、ずっとイスラエルの民を導かれました。そして最後に約束の地を見せてくだったのです。それは神のお計らいでした。更に彼の求めに応じて後継者ヨシュアを立ててくださいました。神は決してモーセをお見捨てになったのではありません。彼は死によって滅ぼされるのではなく、先に天に入れられた先祖の列に加えられるのです。こうしてモーセは約束の地カナンを見て、さらに優れた約束の地である天の国を望み見たのです。 私たちも、主イエスによって導かれて、天国を仰ぎ見ることが許されています。 【祈り】 罪ある私たちに、死の彼方にある約束の地を望み見て歩むことをお許しくださり感謝します。 Tue, 22 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の言葉ははるか先を示す(民数記 22-25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220322 no 2022 わたしには彼が見える。しかし、今はいない。 彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。 ひとつの星がヤコブから進み出る。 (民数記24章17節) イスラエルの民がモアブの草原に宿営したとき、モアブの王バラクは恐れました。彼らの数の多さと力を見て、すっかり怖気づいたのです。そこでバラクは、占い師として有名なバラムに、イスラエルを呪ってもらいたいと願いました。バラムは手厚い報酬を差し出されて目がくらみました。神に何度も警告を受けましたが、バラムの心が富に対する誘惑から自由になることはありませんでした。 しかし、そのバラムを神は預言者としてお立てになりました。神は罪人を用いられます。バラムは神に示されて、今は見ることができないけれども、星のように人が仰ぎ見るべきお方が確かにイスラエルから出る、と預言しました。その通り、はるか後にイスラエル民族の中から救い主イエス・キリストがお生まれになりました。キリストは全ての人が見上げるべきお方、はるか昔から待ち望まれていたお方として来られたのです。 人間は、目先の欲と目の前の出来事に振り回され、将来を見る力はありません。しかし神の言葉は、はるか先を確かに示します。 救いはキリストにおいて既に私たちに起こったと同時に、はるかかなたに完成するのです。 【祈り】 目先のことに目を奪われることなく、ここにあり、またはるか先にある救いを見上げて歩ませてください。 Mon, 21 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の救いを見上げて命を得る(民数記 18-21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220321 no 2022 「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 (民数記21章8節) イスラエルの民がホル山についたとき、アロンは死を迎えます。アロンを失った悲しみと不安もあったのでしょうか。民はまたしてもモーセに「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか」と不平を言います。この不平は、エジプトから救い出し、約束された良い土地に導こうとされる神の、愛と善意を否定するものでした。そこで神は炎の蛇を民に送られ、多くの人が蛇にかまれて死にました。 大変大きな罪を犯したことを知った民は、モーセに執り成しを依頼します。祈るモーセに神がお命じになったことは、青銅で炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げることでした。蛇にかまれた者がそれを見上げれば命を得ると言われたのです。これは実に不思議な方法ですが、神が定められたという点に滅びを免れる根拠があるのです。 主イエスは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(ヨハ3章14節)と言われました。そしてその言葉のとおり、十字架の上で命をささげてくださいました。この主イエスを見上げるとき、私たちの罪は赦されるばかりか、永遠の命を得ることができるのです。 【祈り】 私たちの救われるために来てくださった主イエスをいつも救い主として見上げさせてください。 Sun, 20 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の祝福は地の果てに至るまで(詩編 67編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220320 no 2022 神がわたしたちを祝福してくださいますように。 地の果てに至るまで すべてのものが神を畏れ敬いますように。 (詩編67編8節) 詩編67編は、収穫感謝、あるいは豊作祈願の祭りに起源を持つと考えられています。表題(指揮者によって、伴奏付き)、アロンの祝福(民6章)の響きを持つ冒頭、おそらく会衆による応答の繰り返し句(4、6節)などから、旧約時代の古楽器の演奏をバックに、祭司と会衆が一体となって主に感謝を献げている映像が浮かんできます。 一般に農耕文化は、それが営まれる地域の風土とそこに暮らす人々の生活に密接に関連しています。豊作祈願や収穫感謝などの祭りはその地域に固有のものとして生まれ、その共同体において理解される閉じた伝統として継承されていきます。 この詩編のユニークなところは、農耕祭儀的な性格を持ちつつも、開かれた世界観を示している点です。収穫の恵みに直接的に関係する人々だけでなく、究極的には「地の果てに至るまですべてのもの」が神の祝福に与るべきものとみなされています。 この大きな世界観は、主なる神を信じる信仰から必然的に導き出されます。主はそれぞれの土地の土着の神々ではなく、天地万物を創造され、今もそして永遠にすべてを統べ治められる唯一の神です。信仰者はこの主を賛美し、地の果てに至るまで証しするように召されているのです。 【祈り】 主よ、すべての民があなたに感謝をささげますように、そのためにわたしを用いてください。アーメン。 Sat, 19 Mar 2022 00:10:00 +0000 罪を取り除き祝福を示される神(民数記 15-17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220319 no 2022 明くる日、モーセが掟の幕屋に入って行き、見ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。 (民数記17章23節) 神の言葉を疑い、恐れに囚われたイスラエルの民は約束の地に入ることができません。それでも彼らは自らの不信仰を反省するどころか、なおも不平を口にしました。 モーセのいとこであるコラは、アロンが祭司職に就いていることが不満でした。またダタンとアビラムは、モーセが最大の指導者であることに嫉妬しました。こうして彼らは共同体の指導者たちを仲間に引き入れて、モーセとアロンに逆らいました。それは二人をお立てになった神ご自身に対する反逆でした。 神は、共同体全体に怒りを現わされ、「直ちに彼らを滅ぼす」とおっしゃいました。モーセとアロンはひれ伏して執り成しましたが、反逆した者たちは滅びました。これは厳粛な事実です。 そのようなとき、神は各部族の杖を幕屋に置かせました。すると翌日、アロンの杖だけが芽吹き、花を咲かせ、実を結びました。十分な栄養がなければ実を結ぶことはありません。また芽と花と実が瞬く間につくということは普通ありません。 この奇跡は、神が芽を必ず実として成長させてくださるとの約束を示しています。将来の祝福を示すために神は祭司を、そしてアロンをお選びになったのです。 【祈り】 自分は顧みられていないとつぶやいてしまう罪深い私たちをあなたの祝福の中で憩わせてください。 Fri, 18 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の祝福の中で現実を見る(民数記 13-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220318 no 2022 「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」 (民数記14章8節) イスラエルの民が旅を続けて約束の地カナンの近くまで来たとき、神はまずその地を偵察するようにとお命じになりました。 そこでモーセは各部族の長である12名を任命します。40日後、偵察隊は二人がかりで抱えなければならないような立派なぶどうなどを持って帰ってきました。神は乳と蜜の流れる豊かな土地を用意してくださっていたのです。 偵察隊の内、ヨシュアとカレブはその土地に上って行くべきだ、と主張しました。しかし残りの十人は、そこに住むのは巨人たちであるから、我々は必ず負けてしまう、と反対しました。それを聞いて、民全体は恐れに囚われました。 偵察隊は全員、約束の地で全く同じものを見たにも関わらず、正反対の結論を出しました。 十人は強そうな住民という目の前の事実を人間的な観点から見て、とても勝てないと判断しました。しかしカナンの地は、神がイスラエルの民を祝福するために用意してくださっていたものでした。ヨシュアとカレブだけが、神が約束してくださったその祝福の中で現実を見たのです。 恐れは神の祝福を見失わせますが、神の御計画は必ず成就します。 【祈り】 私たちの前に広がる世界を神が祝福するために用意してくださったものとして見させてください。 Thu, 17 Mar 2022 00:10:00 +0000 主の力を信じて(民数記 10-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220317 no 2022 「あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」 (民数記11章15節) 神のご命令に従って荒れ野を旅していたはずの民が、一転して激しく不満を言い始めます。 神は天からマナを降らせて人びとを養っておられました。マナはクリームのような味で、栄養価が高く、毎朝拾い集めることができました。しかし民は、肉が食べたい、エジプトでは魚はタダだったし、野菜もあった、あれが忘れられない、と泣き言を言います。彼らは奴隷として苦しめられた過去などなかったかのように不平を言ったのです。神は民の叫びを聞き、憐れみ、力ある御業をもってエジプトから救い出してくださいました。その恩を忘れることは大変な罪です。それに対する神の憤りは激しいものでした。 民の罪と神の怒りを知って、モーセは大変苦しみました。神に対して、わたし一人でこの民を負うことは重すぎます、むしろ殺してください、と訴えました。これはモーセもまた神の恵みを信じられなくなっているということです。 しかし、この信仰の危機というべき状況の中でも、モーセは神に嘆きをぶつけ、憐れみを乞いました。その祈りに対して神はモーセをとがめることなく、重荷を軽くしてくださいました。このモーセの姿に見るべき信仰者の姿があります。 【祈り】 不信仰に陥るときでも、あなたの御前に出て、心を注ぎだして祈ることができますように。 Wed, 16 Mar 2022 00:10:00 +0000 主の命令によって(民数記 7-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220316 no 2022 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。 (民数記9章23節) 人びとが幕屋を建て終わると、雲が幕屋を覆いました。空高くにあった雲が不思議な仕方で降りて来たのです。その雲は夜になると燃える火のように見えました。それは、神御自身がイスラエルの民と共におられることを示すしるしでした。そして神は、雲が幕屋の上にとどまっている間は宿営し、雲が離れると旅立つようにとお命じになりました。 朝であろうが夜であろうが、雲が離れるのを見れば、彼らは旅立ちました。逆に、雲がとどまる限り、何日も何か月も同じ場所に宿営し続けなければならないこともありました。 約束の地に早く辿り着きたいとの思いもあったでしょう。またもう少し休息したいと願うときもあったでしょう。 しかし、いかなる場合でも彼らは神の命令に直ちに従いました。常に備えをしていたのです。このように旅を進める中で、彼らは神の特別な配慮によって生かされ、導かれていることをますます実感したことでしょう。 現代の私たちはこの雲のように神のご臨在を目で見ることはありません。しかし、御言葉と聖霊の導きによって神のご配慮を覚えながら日々歩むことができるのです。 【祈り】 あなたのご愛顧のうちに生かされていることに感謝し、あなたのご命令にいつも従う備えをさせてください。 Tue, 15 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の聖さに生きる(民数記 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220315 no 2022 わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。 (民数記5章3節) イスラエルの民は旅の間、荒野に宿営しました。神はその宿営地に「わたしは住む」とおっしゃいます。これは、とても大きな慰めです。全能の神が味方となって共にいてくださるということだからです。しかし、神は聖なるお方です。ですから、いかなる汚れたものをもそのままにされません。神は宿営地を汚さないように、汚れた者を宿営の外に出すようにとお命じになります。それは人を差別するためではなく、神の聖さを保つことの重要性を示すためでした。 5章後半には夫婦の関係を汚す姦通罪について記されています。実際に罪が犯される場合もあるし、事実ではないのに疑いが向けられる場合もあります。いずれも夫婦間に大きな傷をもたらします。修復することが人間には困難な、その傷の対処法が定められています。 私たちはみな罪人であり、具体的に神の聖さに適わない罪を犯します。またそれを隠そうともします。隠された罪に対して人間には決定的な対処法はありません。けれども、神は隠された罪も全てご存じであり、必ず処断なさいます。神がご自身の聖さをいつまでもないがしろにされることはありません。この世は、神の聖さが現わされる舞台なのです。 【祈り】 罪の世に罪人として生きる私たちですが、聖なるあなたが共にいてくださることを覚えます。 Mon, 14 Mar 2022 00:10:00 +0000 約束の地を目指して(民数記 1-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220314 no 2022 イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。氏族ごとに、家系に従って、男子全員を一人一人点呼し、戸籍登録をしなさい。 (民数記1章2節) 神の御手に導かれてエジプトから脱出したイスラエルの民は、シナイ山を出発し約束の地を目指して旅立ちます。民数記はその後40年にも及ぶ長い荒れ野の旅路を記録した書物です。「民数記」の書名は、人口調査の記事から来ています。 冒頭から12の部族名と人数の羅列が長々と続くので戸惑われる方もおられるでしょう。けれども試練の多い荒れ野に足を踏み入れるにあたって、神ご自身が人口調査をお命じになったのでした。 その目的はまず、それぞれの属する部族の数を把握することによって、各自が自分の立ち位置と役割を確認するためでした。また、ヤコブの家族がエジプトに下ったとき、その数は75人でした。しかし今やイスラエルの民は60万人以上になりました。奴隷状態という苦しみを経験しましたが、「あなたの子孫を天の星のように増やそう」というアブラハムに対する神の約束は守られました。民は、人数を数える中で、改めて自分たちが神の摂理のもとにおかれていることを知ったのです。 私たちも、試練を前にして罪の攻撃に備える必要があります。神の約束の実現にしっかりと目を留め、神の導きを信じ委ねましょう。 【祈り】 荒れ野の中を歩むような私たちですが、あなたが確かに祝福へと導いてくださっていることを感謝します。 Sun, 13 Mar 2022 00:10:00 +0000 神だけが与えてくださる平安(詩編 62編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220313 no 2022 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。 神はわたしたちの避けどころ。 (詩編62編9節) 詩編作者は自身の周囲に悪意と欺き、そして暴力が確かに存在していることを語ります。「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか」(4節)とあるように、敵意を抱く人びとの攻撃は止むことなく執拗に繰り返されています。 しかし、詩編作者の魂に恐れはありません。普通であれば平静を保つことができないほどの激しい攻撃にさらされているはずなのに、あたかも全く気にならないかのようです。なぜこのように落ち着いていられるのでしょうか。普通の人とは異なる特別に強靭な精神力を持っているからでしょうか。そうではありません。 詩編作者には確信がありました。主なる神の御前に人間は比較することすらできないほど小さな存在であること、この世のあらゆる権力や富は信頼に足るものではないということ、そして、ただ主なる神こそがわたしの救いであるということを。この確信によって恐れは消え去り、かえって希望に生かされているのです。 この詩編と響き合う主イエスの言葉に耳を傾けましょう。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10章28節)。 【祈り】 避けどころなる神よ、恐れを感じるとき、あなただけが与えてくださる平安に憩わせてください。アーメン。 Sat, 12 Mar 2022 00:10:00 +0000 愛の実体が伴った言葉(コリントの信徒への手紙一 13章1-7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220312 no 2022 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 (コリントの信徒への手紙一13章4節) 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」(4節)。この賛歌には、私たちのために御子イエス・キリストを十字架にかけてくださった神の愛があらわされています。そして、この愛に応答する一つのかたちを、わたしは入船尊先生のお姿を通して学びました。 わたしがまだ神学生だったときに、寮監として同じ敷地の中で暮らしておられた入船先生のお宅に呼ばれて、長時間のお叱りをいただいたことがありました。柔和な先生を怒らせてしまうような発言をわたしが授業中にしてしまったからです。そのとき真剣な顔でわたしに語り掛けてくださった先生の姿を思い出します。その後も、先生はわたしに出会うたびに声をかけてくださいました。先生は筆まめな方で、何度も自筆の手紙をいただくことがありました。先生が病気になられて天に召される直前にも、「健康診断を受けるように」というアドバイスが書かれた手紙をいたただきました。今でもわたしは、先生が書かれた本を読むたびに、その言葉から勇気をいただいています。その言葉の背後に先生の実体の伴った愛を感じることができるからです。 きょうも私たちは、信仰の先輩方の愛の背中を追いかけるようにして、神の愛の中で、愛をもって生きます。 【祈り】 イエス・キリストにおいてあらわされた愛に感謝します。この愛に私たちを生かしてください。アーメン。 Fri, 11 Mar 2022 00:10:00 +0000 キリストによって自由にされた私たち(コリントの信徒への手紙一 10章23節-11章1節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220311 no 2022 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 (コリントの信徒への手紙一10章31節) 昔、アルバイトでイスラム教徒の人たちと一緒に働いたことがあります。彼らが毎日決まった時間になると洗面所に行って手足を洗い、口をすすいでからお祈りを始める姿に、とても驚かされたことを思い出します。大変なのは彼らの食事の問題です。彼らと一緒にコンビニに行って食べるものを探すのですが、イスラム教のさまざまな規定のために、そこで売っている弁当を彼らは食べることができませんでした。 あるとき親しくしていたパキスタン人の友人と食事をしていたとき、「その食べ物の中に律法違反の食材が入っていたらどうするの」と尋ねてみると、「知らないで食べてしまった場合には罪にはならない」と教えてくれました。 このことを通して改めて考えさせられたことがあります。今日、私たちはキリストによって旧約聖書の細かな食物規定の律法から解放されて何を食べてもよいものとされています。それは決して当たり前のことではないということです。それは、ただキリスト・イエスの十字架の死によって私たちに与えられています。だから感謝をもって食べ、飲むことができます。今日、私たちはキリストによって自由が与えられたことを感謝したいと思います。神の栄光を表すためにこの一日を送っていきましょう。 【祈り】 キリストによって与えられた自由に感謝します。アーメン。 Thu, 10 Mar 2022 00:10:00 +0000 神の御業が実現する私たちの人生(コリントの信徒への手紙一 4章1-5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220310 no 2022 わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 (コリントの信徒への手紙一4章3節) 私たちは毎日の生活の中でさまざまな失敗を繰り返しています。失敗をしても、そこから学ぶことができれば、その後の私たちの人生に役立つ何かを得ることができます。しかし、私たちはそれさえ考えることができないで、「だから自分はダメだ」という自己評価をして、自分を裁いてしまうことがよくあります。そのようなとき、誰かが小声で話をしていると「きっと、わたしの悪口を言っているのだ」と思い込んでしまうことが起こるかもしれません。こうして一日中、自分で自分を裁くことで大切な人生の時間と労力を使ってしまうことにまでなりかねません。 しかし、ここでパウロは「自分で自分を裁くことすらしません」とはっきり語ります。なぜなら、私たちは自分によい評価を得るために生かされている訳ではないからです。私たちの人生は神の御業が実現されるためにあります。私たちには主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みが差し出され、私たちではなくキリストの恵みが光り輝きます。何と素晴らしい福音でしょうか。 私たちの人生には自分を裁くために使ってよい時間の余裕は与えられていません。ですから今日も私たちは自分自身に対する評価を神にゆだねて、神の御赦しを信じて生きていこうではありませんか。 【祈り】 自分を裁くことなく主の赦しのもとに生かしてください。アーメン。 Wed, 09 Mar 2022 00:10:00 +0000 小さなところだけに目を注ぐのではなく(コリントの信徒への手紙一 3章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220309 no 2022 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 (コリントの信徒への手紙一3章6節) パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり」と書いています(9節)。 ある教会会議で一人の教師が「洗礼準備の勉強会を長年続けて来た求道者が、教会から離れてしまい、最近、別の教会で洗礼を受けたことが分かった」と言われ、さらに「自分の指導が行き届かなかった」と反省の言葉を語られました。すると、その話を聞いていた一人の長老が「その方が洗礼を受けることができたのは、先生の指導があったからではないですか。神さまはちゃんと先生の働きを用いてくださったのですよ…」と発言されたのです。 私たちはとかく、自分の目に見える小さな集団だけを見て、自分の働きを判断しがちなところがあります。自分の教会のメンバーがどれだけ増えたのか、自分の所属する小さなグループがどれだけ成長したのか。そこだけに目を向けていれば私たちは肝心の神の働きを見失ってしまうことになるのです。 私たちは今日も「成長させてくださる神」の働きに信頼して、自分に神からゆだねられている使命を担い続けていきましょう。そうすれば神は必ず私たち一人一人の働きを用いてくださり、すばらしい御業をこの地上に実現してくださるはずです。 【祈り】 私たちの目を開いてあなたの働きを見させてください。アーメン。 Tue, 08 Mar 2022 00:10:00 +0000 人間の言葉とは違う聖書の言葉(コリントの信徒への手紙一 2章1-5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220308 no 2022 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 (コリントの信徒への手紙一2章2節) パウロは多くの言葉を教会に書き送りましたが、その言葉はイエス・キリストの十字架に貫かれていました。 わたしがまだ神学校で学んでいたころ、順番に回ってくる説教演習の授業はとてもたいへんでした。教授たちが語る厳しい批評を聞いていると、その後落ち込んで何もできなくなってしまうからです。 「聴衆を退屈させないように、感動的なお話をしよう…」。そんな気持ちで説教をすると、すぐに厳しい批評の言葉が説教演習の会場を飛び交います。わたしが一番厳しく言われたことは「あなたの考えではなく、聖書の言葉を語りなさい」ということでした。どんなに巧みな言葉であっても、また人を感動させるような内容であっても、人間の作り出した言葉には人を救いに導く力はありません。ですから、説教者にはいつでも神の言葉である聖書の言葉を忠実に伝える使命が与えられています。だからパウロは、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めた」と語っているのです。 聖書の言葉は神の言葉です。聖書を読む私たちに神は聖霊を遣わしてくださり、私たちの生活を導き、救いに導いてくださるのです。だから、私たちは今日もこの神の働きをいただくために、聖書の言葉に耳を傾けるのです。 【祈り】 聖書によって神の言葉を聞くことができることを感謝します。アーメン。 Mon, 07 Mar 2022 00:10:00 +0000 問題を通して福音を示してくださる神(コリントの信徒への手紙一 1章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220307 no 2022 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 (コリントの信徒への手紙一1章9節) このコリントの信徒への手紙は使徒パウロによって記された手紙です。この手紙の中には私たちの信仰生活を励まし導くために有益な言葉がたくさん記されています。しかし、パウロがこの手紙をコリントの教会の人びとに送ることになったきっかけは、この教会がたくさんの問題を持っていたからです。 このとき、コリント教会内には分裂を引き起こすような深刻な争いが生じていました。この世の価値観に影響された信徒たちの間に信仰に対するさまざまな誤解が生じていました。だから、パウロはこれらの問題を正すためにこの手紙を書く必要があったのです。 赦された罪人たちの集まる私たちの教会には、いつもさまざまな問題が起こります。そのようなとき、私たちはどうしてよいのかわからず、頭を抱えて悩み続けることがあります。 しかし、私たちの神は、問題のあったコリント教会を愛し、この教会を通して福音を証ししてくださいました。今も神は私たちのもっている問題への取り組みや祈りを通して、私たちが福音を証しすることができるようにしてくださるお方です。問題があるから証しができないのではありません。神は問題を祝福に変えて恵みを証してくださいます。 【祈り】 あなたが私たちのさまざまな問題を通しても福音を証ししてくださることを信じます。アーメン。 Sun, 06 Mar 2022 00:10:00 +0000 嘆きと感謝と賛美の歌(詩編 57編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220306 no 2022 わたしは心を確かにします。 神よ、わたしは心を確かにして あなたに賛美の歌をうたいます。 (詩編57編8節) この詩編は、「神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください」(6、12節)というフレーズで締めくくられる二つの対照的な部分で構成されています。前半は苦しみの渦中にある詩編作者の嘆きですが、後半は救いを与えてくださる主なる神への感謝に変わります。この変化の理由が7節です。「彼らはわたしの足もとに網を仕掛け、わたしの前に落とし穴を掘りましたが、その中に落ち込んだのは彼ら自身でした」。つまり、詩編作者を攻撃していた人びとの陰謀が、逆に彼ら自身を滅ぼす結果となってしまったのです。 ここで思い巡らしたいことは、表題の「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」の場面です(サム上24章)。このとき、洞窟にいたダビデは自分を殺そうと追ってきたサウル王に気づき、逆に彼を殺すことができたのですが、あえてそうしませんでした。結局、ダビデを殺そうと謀ったサウル王はペリシテとの戦いに敗れて死に、ダビデが王となります。 この詩編は、信仰者の嘆きがやがて感謝に変わることを教えてくれます。私たちが主に嘆き訴えるとき、決してそれは無力な独り言にはなりません。なぜなら、主はご自身の民の嘆きを聞き上げ、正しく裁いてくださるお方だからです。 【祈り】 主よ、災いの時こそあなたに信頼し、すべてをあなたに委ねて歩む者とならせてください。アーメン。 Sat, 05 Mar 2022 00:10:00 +0000 御言葉に従うことに約束されている祝福(レビ記 26章3-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220305 no 2022 あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。 (レビ記26章3節~4節) 「あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば」といって神は私たちにあらゆる祝福を約束してくださいます。 しかし、逆に「わたしの言葉を聞かず、…戒めを守らず、わたしの掟を捨て…るならば」(14、15節)と言って、神は私たちにあらゆる災いを予告されます。それは決して、御言葉に従えばご褒美、御言葉に従わなければ罰則という、威嚇の意味ではありません。御言葉を忘れたとき私たちにはただちに災いが降りかかる、ということを見越して、何とかそうならないように、神は前もって警告してくださっているのです。私たちを愛してくださるがゆえに、御言葉に従うとき約束されている幸いを私たちが味わうことができるように、神は望んでおられるのです。 生活の中でのそのつどの振る舞いにおいて、あるいは大きな問題に直面したときに、「御言葉に従ってみる」こと。その選択の中にすでに幸いが約束されています。必ずや「御言葉に従ってみてよかった」と思えるでしょう。 【祈り】 私たちの毎日の歩みの中で、折に触れては御言葉を思い起こし、御言葉に忠実であるようにさせてください。とりわけ深い悩みに捕らえられたとき、厳しい試練にあるとき、御言葉を思い起こし、自分の考えではなく御言葉に従わせてください。そこにある幸いを味わわせてください。 Fri, 04 Mar 2022 00:10:00 +0000 キリストが解放を告げるヨベルの年(レビ記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220304 no 2022 あなたは安息の年を7回、すなわち7年を7度数えなさい。…この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。 (レビ記25章8節~10節) 7日目が安息日とされたように、7年目は安息年とされました。そして、安息年のそのまた7回目の年が、非常に特別な「ヨベルの年」とされました。多くの人にとって一生に一度の特別な年です。その特徴は「全住民に解放の宣言をする」、とりわけ、それまで奴隷だったすべての人が自由になれるという一生に一度の恵みの年ということでした。 イザヤ書61章は、このヨベルの年のイメージで、来たるべき救い主が現れる日を予告しましたが、まさにその個所を、キリストは故郷ナザレで最初に説教されたときに朗読されました。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。 この「恵みの年」がまさに「捕らわれている人に解放を告げる」ヨベルの年です。キリストはこのことが「今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われました。 私たちがキリストの御言葉を聞くごとに、捕らわれている人が解放され、目の見えない人が視力を回復し、圧迫されている人が自由にされるという、一生に一度のような恵みにあずかることができるのです。 【祈り】 キリストの恵み深い御言葉が今日もわたしに一生に一度のような解放をもたらし、魂の目を開かせ、弱った足を真っ直ぐにしてくださいますように。 Thu, 03 Mar 2022 00:10:00 +0000 隣人を自分のように愛しなさい(レビ記 19章9-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220303 no 2022 自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 (レビ記19章18節) 「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(ルカ10章28節)と主イエスが教えてくださったのは、レビ記のこの個所からです。 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という「最も重要」な戒めに帰着する文脈は、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない」(9節)という掟から始まります。そもそもこの「貧しい者や寄留者」(10節)を思う愛の掟があったからこそ、ルツはボアズに出会い、ダビデへ、そしてダビデの子へと至ることになりました。 「隣人」の代表としてのもう一つの定形に「やもめやみなしご」がありますが、これがルツやナオミにも当てはまるようにルツ記は物語りました。聖書は隣人を「弱い者」と言い換えます。良いサマリア人のたとえによれば倒れ伏している人です。心が倒れ伏している人、寄る辺ない試みの中にある人、居丈高だが本当は弱い人、そんな人を「自分自身を愛するように」愛するということは、あなたにとってはどういうことになるでしょうか。 「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。これが主イエスの教えです。 【祈り】 隣人と向かい合わせてください。ただ自分の満足を追い求めるのではなく、隣人の身にもなってみる思いを、どうぞお与えください。 Wed, 02 Mar 2022 00:10:00 +0000 重い皮膚病の人に手を差し伸べて触れる(レビ記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220302 no 2022 重い皮膚病にかかっている患者は、…「わたしは汚れた者です…」と呼ばわらねばならない。…その人は独りで宿営の外に住まねばならない。 (レビ記13章45節~46節) レビ記は11章から15章の「汚れ」の問題の中で、その中でもとくに「重い皮膚病」を非常に大きく扱っています。その病にかかった人は「わたしは汚れた者です、汚れた者です」と呼ばわらねばならず、独りで宿営の外に住まねばなりませんでした。殺菌のために門の外のゴミ焼却場の灰の中にいるように、と残酷にも定められていたようです。 自分の「汚れ」を否応なく意識させられ、人との交わりからも容赦なく排除されていた、この「重い皮膚病」のような人にこそ、キリストは向かい合ってくださいます。それも「手を差し伸べてその人に触れ」てくださるということは(ルカ5章13節)、キリスト以外には誰にもできないわざです。他の誰からも接触を拒まれるような人にも手を伸ばして触れてくださるのはキリストのみです。しかもそれは、その汚れを引き受け、ご自分が「町の外の人のいない所に」行かれることになることによってです(マコ1章45節)。 キリストは人から厭われかねない私たちの汚れを自ら引き受けるようにして、私たちを清くしてくださいます。身代わりとしてご自分が見捨てられるような仕方で、いっさい分け隔てのない人間らしい交わりを私たちに回復させてくださるのです。 【祈り】 今日も私に手を差し伸べて、私の心の汚れを清め、人との豊かな交わりの中へと送り出してください。 Tue, 01 Mar 2022 00:10:00 +0000 和解の献げ物と感謝の祈りによる食卓(レビ記 7章11-38節、19章5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220301 no 2022 和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい。 (レビ記19章5節) キリストの十字架と切っても切り離せない「賠償の献げ物」のほかに、私たちの生活に今も生きている感覚は「和解の献げ物」に由来するものです。「和解の献げ物」は羊に限らず、任意の肉でよく、それにパンも添え、それを、ささげた人たち自身が食べるというところに特徴があります。 それは私たちにとって、キリストがもたらしてくださった神との和解の食事であるということを、ヨハネによる福音書21章が描いています。主イエスが「今とった魚を持って来なさい」と、パンも添えて、主催者として弟子たちに朝の食事をさせてくださった、あの場面です。私たちは自分の労働の成果である食材を主イエスのもとへとたずさえ寄り、それをその食事の主催者である主イエスと共なる食卓でいただきます。罪赦された私たちが、神との和解と感謝として日々いただく食事こそ、実は「和解の献げ物」なのです。 その和解と感謝をもたらしてくださったキリストをその食卓の主催者・見えざる同席者とするために、私たちが食前には主への感謝の祈りを忘れないことが「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげる」ということなのです。 【祈り】 十字架のあがないによって罪赦され、今や神様と和解させていただき、毎日の食卓を「和解の献げ物」として喜び楽しめる恵みを感謝します。 Mon, 28 Feb 2022 00:10:00 +0000 賠償の献げ物イエス・キリスト(レビ記 5章14-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220228 no 2022 祭司がその賠償の献げ物の雄羊をもって彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。 (レビ記5章16節) レビ記の冒頭にはさまざまな献げ物についての規定が並んでいますが、その中で今も私たちの救いに直接関わるのが「賠償の献げ物」です。人が「過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合」、無傷の羊を「賠償の献げ物」としなければならず、それによって「責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」と定められています。 その「賠償の献げ物」こそ、救い主の受難を語るイザヤ書53章で「彼は自らを償いの献げ物とした」と言われる「償いの献げ物」のことです。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった」というつらさ、「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った、そのわたしたちの罪」に悩む弟子たちを、イザヤ書はこのレビ記の「賠償の献げ物」に出会わせたのです。それによって「わたしたちに平和が与えられ、わたしたちはいやされた」ことを理解した弟子たちは、罪赦された自分たちとして再出発することができたのでした。 私たちの「賠償の献げ物」イエス・キリストによって、きょう、私たちも新たに出発しましょう。 【祈り】 私たちが自分の罪をつらく自覚するたびに、「賠償の献げ物」イエス・キリストが、その自分のためにこそ献げられたことを思い出させてください。主の御名によって。 Sun, 27 Feb 2022 00:10:00 +0000 主が望んでおられること(詩編 50-51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220227 no 2022 告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。 それから、わたしを呼ぶがよい。 苦難の日、わたしはお前を救おう。 (詩編50編14節~15節) この詩編で描かれているのは神殿祭儀における神の顕現です。主なる神はご自分の民を呼び集められ、それぞれの「信仰」について問われます。 そこは神の法廷でもあります。全知全能の主は、ひとつの不正も見逃されることなく完全に公正な裁きをなさいます。不当な判決が起こりうるこの世の裁判と比較すると、一見、これは素晴らしいことのように思えます。しかし、大変恐ろしいことでもあるのです。なぜなら、主を信じる信仰者であっても、罪と腐敗から完全に免れることはできないからです。 主は目に見えるところによって裁きを行うことも、耳にすることによって弁護することもなさいません。どれほど弁明の言葉を並べようとも、誰一人として主の御前に自分自身を罪なしとすることはできないのです。私たちにできる最善のことは、つまるところ、すべてをありのままに告白することです。 続く詩編51編では、その具体例としてダビデ王の赤裸々な告白がつづられています。悔い改めの詩編として知られる51編は、どのように主に告白したらよいかを示すひとつのモデルです。私たちの希望は、私たちが主に真実の告白をささげるとき、主はそれを受け入れて、赦しを与えてくださることにあります。 【祈り】 主よ、あなたが私たちの告白を受け入れ赦してくださる慈しみ深い神であることに感謝します。アーメン。 Sat, 26 Feb 2022 00:10:00 +0000 キリストにある自由(ローマの信徒への手紙 14-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220226 no 2022 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。 (ローマの信徒への手紙14章8節) この手紙の宛先であるローマ教会に、立場や見解の違いからいさかいが生じていたようです。しかし、キリストを信じる者たちは、裁き合うのではなくおたがいに認め合い、受け入れ合うことができるはずです。自由そのものである御方、キリストにあって自分に凝り固まり、自分を絶対化する不自由から今や解き放たれているからです。 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。これはキリスト者の生の根本にかかわる事柄です。キリストは私たちのために死に、私たちのためによみがえられた。それゆえ私たちの生と死とはもはや私たちのものではなく、キリストのものである。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」(ハイデルベルク信仰問答 問一)。この恵みの事実こそが、私たちの生と死における「ただ一つの慰め」である。 すべての聖徒たちはひとつキリストの体に結合され、キリストの愛と自由に生かされています。生きることは主のため、死ぬことも主のため。この原則こそ、教会の一致のいしずえです。 【祈り】 私たちの心と言葉と振る舞い、地上のいとなみのいっさいを、どうぞご支配ください。アーメン。 Fri, 25 Feb 2022 00:10:00 +0000 愛は律法を全うする(ローマの信徒への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220225 no 2022 愛は律法を全うするものです。 (ローマの信徒への手紙13:10) 愛は律法を全うします。律法を守り行うことは、すなわち愛することだからです。神を愛する愛と、隣人を愛する愛。このふたつの愛に生きているなら、人は律法の全体を全うしています。 私たちは今、なぜ愛の律法に生きるのでしょうか。キリストが私たちを愛してくださったからです。私たちのために十字架に死んでくださったからです。私たちに命を与え、私たちが本当の愛を取り戻すことができるように、罪に支配された私たちの古い人を十字架の上で滅ぼしてくださったからです。私たちを新しい人によみがえらせてくださったからです。 愛することができること。それは神の恵みです。愛そのものである御方、キリストが共にいてくださる。キリストの霊が私たちのうちに生きて働いてくださる。この聖霊のお働きこそが、私たちの愛のいとなみを全うさせてくださいます。愛は聖霊の結ぶ実りの第一のものです(ガラ5章22節)。 私たちのうちに働く聖霊のお働きに信頼しましょう。聖霊の火を消さない人。たえず聖霊を祈り求める祈りに生きる人。そのような人が愛の人と呼ばれるのです。 【祈り】 聖霊よ、私たちを愛の人に造り変えてくださるあなたの恵みに感謝します。アーメン。 Thu, 24 Feb 2022 00:10:00 +0000 献身、礼拝に生きる人生(ローマの信徒への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220224 no 2022 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 (ローマの信徒への手紙12章1節) 12章以下ではこれまで語られてきた福音の教えの真理を踏まえつつ、キリスト者の生活について説き勧められます。 キリスト者の生活。それは「自分の体」すなわち魂と肉体とをひっくるめた全人としての自分を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」て生きることです。神は独り子を十字架につけるほどに私たちを愛されました。ただキリストの贖いを信じる信仰によって義としてくださいました。この神の愛を受けた者は、この愛に駆り立てられて、おのずから自分自身を神に献げて生きるようになるのです。 人が神に自分を献げて生きることを、パウロは「礼拝」という言葉で言い表します。自分の身を聖なる生けるいけにえとして献げる。これは何ら特別なことではありません。神におのが身を献げて生きること、礼拝こそが人間の本分だからです。人は造り主をあがめて生きるように造られているのです。これは創造の秩序です。キリストの贖いの恵みにより、この喜ばしい秩序が真にすこやかなものとして回復されるに至ったのです。人生の目的は神の栄光をあらわし、神を喜ぶところにあるのです(ウェストミンスター小教理問答 問一)。 【祈り】 救いをいただいた感謝の応答としての、私たちの命のいとなみを守り導いてください。アーメン。 Wed, 23 Feb 2022 00:10:00 +0000 神の富と知恵と知識(ローマの信徒への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220223 no 2022 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。 (ローマの信徒への手紙11章33節) イスラエルに対する神の「秘められた計画」。それは今神に背き、神の恵みを拒んでいるイスラエルもまた、異邦人と同様に救われるというものでありました。神は背信のイスラエルを、それにもかかわらず義とし、御自身のふところに招こうと御心に決められていたのです。 神は御子の義を無償でまとわせることにより、不義なる者を義とされるのです。御子を十字架につけたのはイスラエルです。しかし御子の死は、実にイスラエルの救いのためでもありました。神は御自身に背いたイスラエルを、なお愛されました。その愛ゆえに、独り子を十字架につけられました。十字架のもとで、神の愛と義はふたつながら、同時に貫き通されたのです。そのようにして、神は御子の十字架の血によって、異邦人をもイスラエルをもお救いになるのです。 このような義をだれが想定することができたでしょうか。まさしくこれは人間の思いを超え、人間の論理を超えることです。それゆえ、この神の「秘められた計画」について語り終えたパウロは、ただ神をほめたたえるほかはなかったのです。神の富と知恵と知識、神の愛と憐れみはなんと深いことか。 【祈り】 あなたの富と知恵と知識は、十字架の言葉のうちに啓示されました。感謝します。アーメン。 Tue, 22 Feb 2022 00:10:00 +0000 ここにも神の計画があった(ローマの信徒への手紙 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220222 no 2022 神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。 (ローマの信徒への手紙9:18) イスラエルは神の選びの民です。しかし、今イスラエルは不信仰に陥り、神の恵みを拒んでいます。この現実はパウロ自身にとっても大きな悲しみ、痛みでした。彼は異邦人伝道の働きに召された使徒ですが、彼もまたイスラエル人のひとりであったからです。それゆえ、あってはならないこのことがなぜ起こっているのかを論じないわけにはいかなかったのです。9章から11章で彼が語り示しているのは神の「秘められた計画」(11章25節)です。 神は旧約の昔からイスラエルを愛し、豊かな恵みと特権をお与えになりました。「肉によればキリストも彼らから出られたのです」(9章5節)。しかし、イスラエルはキリストを憎み、十字架につけて葬り去ってしまいました。 なぜそのようなことが起こったのか。神は十字架の贖いの御業を成し遂げるためにこそ、イスラエルをかたくなにされたのです。もし彼らが御子を十字架につけなかったとしたら、人類を罪から救う神の恵みが世に示されることはなかったでしょう。つまり、ここにも神の計画があったのです。ファリサイ人、教会の迫害者であったパウロもこの計画により救いを受けたのです。 【祈り】 あなたは人の思いと計画を超えてよきことをはからい、成し遂げてくださる御方です。アーメン。 Mon, 21 Feb 2022 00:10:00 +0000 霊の人として生きる(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220221 no 2022 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 (ローマの信徒への手紙8章5節) パウロはここで、肉の人と霊の人とを対比させます。肉の人とはその全体性において古きアダムにある人間です。霊の人とはその全体性においてキリストにある人間、キリストの命の霊の法則を生きる人間です。両者は相容れません。たがいに対立するのです。 肉の人は自分の思いを遂げようとします。一方、霊の人は何よりも神の御心の成ることを祈り求めます。霊の人は律法の要求を自力で満たそうとは考えません。キリストがこのわたしにおいて律法を成し遂げ、律法の求めを満たしてくださったことを知っているからです。ウェストミンスター小教理問答の問一は、人の目的は神の栄光をあらわすことであると言います。それはどういうことでしょうか。キリストを通して私たちにおいて律法が守り通され、成就され、信仰により義とされた私たちが命に導かれます。その私たちの五体をとおして神の栄光が、また神の愛と義と命と救いの恵みの力があらわされるのです。 霊の人は聖霊に信頼し、聖霊の導きにゆだね、聖霊が御言葉をもって指し示してくださる道に従います。その道において、私たちはキリストその御方に似せられていくのです。 【祈り】 あなたの恵みに生かされ、あなたの栄光をあらわすために、私たちは造られました。アーメン。 Sun, 20 Feb 2022 00:10:00 +0000 私たちの町にも主が共に(詩編 48編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220220 no 2022 後の代に語り伝えよ この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 (詩編48編14節~15節) この詩編において通奏低音として機能しているイメージは、神の都シオンとしてのエルサレムで、それは先行する二つの詩編にも見られます。 詩編の作者は、エルサレムの素晴らしさについて、外国の王たちが恐れおののいて逃げ去ってしまうほどで、町の塔や城壁、城郭を巡って見よと誇ります(5~8、13、14節)。 しかし、私たちは知っています。神の都シオンとして賛美されているエルサレムが、実際は外敵によって幾度となく侵略され続けてきた町であり、現在もなお大きな問題を抱えている紛争の場だということを。 この詩編を理解しようとするとき、主イエスの言葉に耳を傾ける必要があります。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった…」(マタ23章37節以下)。重要なのは「霊と真理をもって父を礼拝する」ことであって、特定の場所や建物は本質的な事柄ではないのです(ヨハ4章21節以下)。 エルサレムから遠く離れた私たちの町にも、主は私たちと共におられ、きょうも私たちを導いてくださいます。 【祈り】 主なる神よ、今日という一日、私たちを主と共にある恵みで満たしてください。アーメン。 Sat, 19 Feb 2022 00:10:00 +0000 人間の根本問題への導き(ローマの信徒への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220219 no 2022 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 (ローマの信徒への手紙7:19) わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。このパウロの言葉に出会った時、わたしは驚きを禁じ得ませんでした。それまでにまったく聞いたことのない言葉だったからです。もしかすると自分がそれまで考えたこともないような奥の深い問題がここに示されているのではないか。そう思いました。 そして、問いはじめた、否、問うことに導かれていきました。人間がほんとうに解決しなければならないのは、善をなそうと願い、意志しつつ、しかしかえって望まない悪を行ってしまうという、まさにこの問題なのではないか、と。24節でパウロが「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫ぶ、この惨めさをこそ人は見つめなければ、そして克服しなければならないのではないだろうか。聖書がここで問うている人間の自己矛盾、自己分裂、生まれながらの罪とそこからの救いということこそ、人間の根本問題ではないだろうか。 人は業によらず、功績によらず、ただキリストの十字架の血潮によって罪赦され、キリストを信じる信仰によって、この生まれながらの惨めさから救い出されるのです。自分の惨めさを知ることと、キリストの救いのすばらしさを知ること。それは文字通りひとつのことなのです。 【祈り】 あなたの御言葉により、人はおのが真相を知らされ、救いと命に導かれます。アーメン。 Fri, 18 Feb 2022 00:10:00 +0000 新しい人として生きる(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220218 no 2022 キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 (ローマの信徒への手紙6章3節) 洗礼によって、人はイエス・キリストとひとつに結ばれます。それは第一に、キリストの死にあずかることです。キリストが十字架の上に死なれ、墓に葬られたように、わたしたちの古い人、すなわち第一のアダムもキリストとともに十字架に死に、葬られるのです。 私たちはそこで文字どおり一度死ぬことになります。第一のアダムは第二のアダムの恵みの力によって息の根を止められます。罪のわたしはそこで死ぬ。そしてわたしが死ぬべきであったその死は、そこで滅ぼされるに至るのです。罪と死に支配された古い人を死に至らせ、葬り去るキリストの恵みの御業は完全な御業です。十字架の御業の完全性こそ、私たちの救いの確かな根拠です。 第二に、洗礼によって私たちはキリストと共に復活し、新しい人、つまり、もはや罪と死の支配から完全に解き放たれた新しい人として生き始めるのです。私たちは今や新しい人です。第一のアダム(古い人)と断絶し、絶縁した人間です。それゆえ私たちは、もはやこの罪の根から生え出ては来ません。罪の空気の中で息をしないのです。罪の力にとらわれてはいないのです。 【祈り】 キリストの死と命にあやかり、キリストに結ばれて生きる、新しい命の恵みに感謝します。アーメン。 Thu, 17 Feb 2022 00:10:00 +0000 圧倒的な恵みによる勝利(ローマの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220217 no 2022 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。 (ローマの信徒への手紙5章15節) 第二のアダムであるキリストは、第一のアダムを罪と死の中に投げ込んだサタンの支配とたたかい、これを打ち破られました。サタンに対する完全な勝利によって、すべてのアダムの子孫は罪と死の縄目から解き放たれました。今や世界は、また私たちも、アダムからキリストへと移されています。死から命へと移されています。 第二のアダムの勝利は単にこのわたしの命の救いにとどまらず、世界全体、人類全体の歴史的転換であることを覚えたいのです。第二のアダムの御業はこの世界のさだめが覆り、死が死ではなくなり、絶望が希望に変わり、これまで世界と人間とを縛りつけていたあらゆる限界が取り払われる、そういう出来事でありました。キリストとはそのようなことを成し遂げられた御方です。キリストが救い主であるとはそのような意味なのです。第二のアダムによってこのわたしの人生が変えられたのみならず、世界のさだめも180度覆されました。 この転換は十字架の血によってもたらされた転換です。神の愛と恵みによる転換です。第一のアダムは第二のアダムにより凌駕されています。神の恵みの賜物は、罪とは比較になりません。 【祈り】 第二のアダムにより、世界も私たちも新しくされました。大いなる恵みです。アーメン。 Wed, 16 Feb 2022 00:10:00 +0000 キリストの贖いの御業により(ローマの信徒への手紙 3章21節-4章25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220216 no 2022 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。 (ローマの信徒への手紙3章25節) 神の子キリストは、私たちと同じ人間となられ、罪人のひとりに数えられるお方として、私たちの罪の現実のただ中に入って来られました。そして私たちの死を代わってその身に引き受け、死なれました。十字架の上で尊き血潮を流されました。 キリストの死は、私たちの罪の代価です。神に対して代価を支払うべきは私たち自身でした。しかし、神は私たちを罪とその報いとしての死から救い出すために、愛する独り子を死に引き渡されました。これが贖いの御業です。ここに神の愛があります。 独り子を死なせるほどに私たちを愛してくださったこの神の愛ゆえに、私たちは罪と死の支配から解き放たれ、自由の身とされたのです。永遠に自由の身なのです。まことに感謝すべきことです。 神が独り子を通して私たちのために成し遂げてくださった救い。この救いの恵みにより、私たちは闇から光に、死から命に移されました。御子の十字架の贖いによってただ恵みにより、無償で義とされる道。この道こそすべての人間にとって、唯一の救いの道です。この恵みの道を通っていくことによってのみ、私たちは神の栄光を受けるのです。 【祈り】 独り子を十字架につける愛により、私たちは生かされました。感謝いたします。アーメン。 Tue, 15 Feb 2022 00:10:00 +0000 律法を持つ者も持たない者も(ローマの信徒への手紙 2章1節-3章20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220215 no 2022 神は人を分け隔てなさいません。 (ローマの信徒への手紙2章11節) 律法―神の言葉を守り行うことにより、人は命に至る。これは聖書全体が示す原則です。しかし全人類は始祖アダムにあって罪に堕ち、生まれながらに律法に背く者です。この点はユダヤ人も異邦人も同じです。 神の選びの民であるユダヤ人には律法が与えられました。しかし、ほかならぬその律法が彼らの罪の姿を浮き彫りにしました。彼らは律法を守ることに熱心でしたが、律法の条文を厳格に守ることに意を用いるのみでした。人の心の奥底を問うことをしませんでした。けれども律法は人の内なる心を問うのです。外側では律法を守っていても、心の中では人をさばいている。高ぶっている。この人間の分裂した状態を問います。 律法を与えられなかった異邦人はどうであったでしょうか。律法を持たなくとも、実は彼ら自身の心の中に生まれながらに律法が刻みつけられていました。異邦人といえども神の被造物です。このことは堕落後も変わりありません。彼らもまた「内なる」律法により、その罪の姿を糾弾されることになります。 ユダヤ人も異邦人も等しく罪人です。ユダヤ人にも異邦人にもキリストの救いが必要なのです。 【祈り】 わたしもまた罪人であることを、御言葉の真理によって教え示してください。アーメン。 Mon, 14 Feb 2022 00:10:00 +0000 福音に啓示されている神の義(ローマの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220214 no 2022 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。 (ローマの信徒への手紙1章17節) ローマの信徒への手紙1章から8章は救いと命の真理を説き明かします。1章16、17節は手紙全体の主題を要約して示します。それは「神の義」です。キリストの福音において示されたこの神の義は、受け身の義です。人間が自ら勝ち取るべき義ではないのです。人は皆生まれながらに罪人であって、自分を義とすることはできません。救いにおいて無力です。 神は人間を救うため、自ら義を立ててくださいました。ここに言われる義。それはキリストの義です。キリストは十字架の贖いの御業により、信じる私たちを無罪としてくださいました。それだけでなく、生まれながらに律法を守り行うことのできない私たちのために、律法に完全に従い通されました。そして御自身が勝ち取られたこの義をあたかも上等の上着を着せるようにして、贈り物としてまとわせてくださったのです。 義とされるとは、神との関係が正しく、すこやかにされるということです。そのためにキリストがすべてのことを成し遂げてくださいました。私たちはキリストの恵みの御業をただ信じ、受け入れることで義とされ、救われます。これこそこの書物が語り示す「福音」、喜びの知らせです。 【祈り】 あなたのひたすらなる恵みにより、私たちは命を得ました。感謝いたします。アーメン。 Sun, 13 Feb 2022 00:10:00 +0000 主を慕い求めて(詩編 42-43編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220213 no 2022 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。 神を待ち望め。 わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。 わたしの神よ。 (詩編42編6節~7節) 題の「コラの子」はレビ族の家系で、詠唱者あるいは門衛として代々、幕屋・神殿での務めを担いました(代上6章16節以下、同9章17節以下等)。しかし、詩編の作者は今、エルサレムから遠く離れた北の僻地にいます。決して彼自身が望んでその場所に赴いたわけではありません。何らかの事情によって、エルサレムを離れざるを得なかったのです。 自らが置かれている境遇を嘆きつつ、エルサレム神殿での素晴らしい時間を思い起こします。「喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」(5節)。それは詩編の作者にとって「命の水」でした。そして神殿から遠く引き離されている今、なによりもそれを求めているのです。 原因はまったく異なりますが、ある意味で私たちもまた同じ状況を経験していると言えるでしょう。コロナ禍によって、礼拝をささげたいのにかなわないという魂の渇きを引き起こす状況に置かれることになったからです。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め…」。詩編の作者が繰り返し語る言葉は、力強い慰めと励ましです。主はご自分を慕い求める民の願いを必ず聞きあげてくださいます。 【祈り】 命の主よ、あなたを慕い求めるわたしの魂を潤してください。主の御名によって祈り願います。アーメン。 Sat, 12 Feb 2022 00:10:00 +0000 主が共にいて栄光を満たされる(出エジプト記 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220212 no 2022 雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。 (出エジプト記40章34節) いよいよ幕屋が完成します。主がモーセに幕屋建設の指示を出されたのは25章ですから、出エジプト記後半の多くが幕屋に関することに費やされていたことになります。主がイスラエルの中に住んでくださるための幕屋がそれだけ重要なのです。幕屋完成の日として指定された第1の月は、かつてエジプトで過越の御業が行われた月です(12章)。主がイスラエルを守り救い出されたことが思い起こされたことでしょう。 幕屋は「主がモーセに命じられたとおり」に完成されたことが丁寧にくり返し確認されています(9、21、23、25、27、29、32節)。主がモーセに命じられたとおりに幕屋を完成したとき、主は幕屋を雲で覆い、ご自身の栄光で幕屋を満たしました。モーセでさえも幕屋に入ることができないほどの栄光です。イスラエルが荒れ野を旅する間、主は幕屋の上の雲によって常にイスラエルを導き、イスラエルと共にあることを示してくださいました。 主はご自身が救い出された者たちと共にいてくださろうとしています。キリストによる救いを得た私たちも、主が命じられたとおりに礼拝し、生活することで、主が共にいてくださる旅路、主の栄光が現わされる人生を豊かに味わって参りましょう。 【祈り】 主よ、あなたの命じられたとおりに歩みたいと願います。私たちと共にいて栄光を現してください。 Fri, 11 Feb 2022 00:10:00 +0000 神の平和を求めるとは(マタイによる福音書 5章9-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220211 no 2022 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 (マタイによる福音書5章9節~10節) きょうは「建国記念の日」の「祝日」とされています。しかし私たちキリスト者は、神話に基づいて定められた日を祝うことをしません。また、私たちが祝い喜ぶのは、主なる神を礼拝する時だけだからです。そのためキリスト教会では、この日を「信教の自由を守る日」とします。 このように語れば、主が求めておられる平和とは関係のないことが議論されているように思われる方もいるかも知れません。 しかし、私たちキリスト者は、このことに関して無関心でよいのでしょうか。主なる神は、偶像崇拝を禁じておられます。そして、何も語らないことは、天皇による神の国を受け入れる偶像崇拝を行っているのと変わりません。 主なる神が求めておられる平和は、キリストの再臨と最後の審判によって実現します。その時、すべての偶像は滅ぼされ、私たちキリスト者は、主によって与えられる平和に満たされます。 そのため、今の日本に生きる私たちキリスト者は、偶像に対して、神の武具を身に着けることが求められています(エフェ6章10~18節)。私たちは、主が求めておられる御言葉に敏感に聴き従うことが求められています。 【祈り】 神様が求めておられる平和を実現する者として、私たちの信仰を強めてください。 Thu, 10 Feb 2022 00:10:00 +0000 主が共にいてくださるために(出エジプト記 35-39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220210 no 2022 モーセに言った。 「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます。」 (出エジプト記36章5節) シナイ山の上で幕屋の建設が命じられていましたが(25~31章)、若い雄牛の像を造って拝むという罪を犯したため中断されていました。モーセの執り成しと主の赦しを経て、いよいよ幕屋の建設が始まります。 まず必要になるのが資材です。モーセは、「進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい」と言って、必要な資材を自主的に献げるように呼びかけます。人々の反応はどうだったでしょうか。幕屋づくりに携わる者たちが、民が「必要以上の物を携えて来ます」とモーセに報告して、受け付けの中止を告げなければならないほどでした。決して余裕のある中から携えて来たわけではありません。たとえば、祭司が手を洗うための洗盤は、婦人たちが大切にしていたと思われる青銅の鏡で作られました(38章8節)。 幕屋は主がイスラエルの中に住むことを示します(25章8節)。民が掟に背いて雄牛の像にひれ伏したとき、主は彼らの間にあって上ることはしないと言われ、民は嘆き悲しみました(33章4節)。幕屋の建設が許された今、民は自ら進んで資材を持ち寄り、主が命じられたとおりに忠実に幕屋を造りました。主と共にありたいという彼らの熱意です。 【祈り】 主よ、私たちも、あなたが共にいてくださることの重要性を心に留めて、そのために喜んで仕えます。 Wed, 09 Feb 2022 00:10:00 +0000 憐れみ深く恵みに富むまことの神(出エジプト記 32-34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220209 no 2022 「何によって…御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。」 (出エジプト記33章16節) モーセが山の上で幕屋や祭司について指示を受けている間に、イスラエルの民は金で若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、祭りを行いました。「主が語られることをすべて行い、守ります」(24章7節)と誓ったばかりであるにもかかわらず、像を造って十戒の第二戒を犯しました。 主はイスラエルを滅ぼし尽くそうとしますが、モーセの執り成しにより思い直されます。ただし、民が約束の地に向かっても「わたしはあなたの間にあって上ることをしない」と、彼らと共にあることを拒まれます(33章3節)。民は嘆き悲しみます。幕屋の建設は、主がイスラエルの中に住まれることを示すはずでした(25章8節)。主のイスラエルへのご好意を示し、彼らが主の民として特別であるために欠かせないのが、主が共に行ってくださることでした。すべてが無に帰すのでしょうか。 主は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」お方です(34章6、7節)。彼らと共にあることを約束し、改めて契約を結んでくださいました。偶像の前で踊る民を見てモーセが砕いてしまった石の板を作り直させ、十の戒めを記して、契約を確かなものとしてくださいました。 【祈り】 憐れみ深く恵みに富む神よ、あなたの慈しみを示すキリストのゆえに、私たちの背きと罪を赦してください。 Tue, 08 Feb 2022 00:10:00 +0000 祭司の奉仕による主との交わり(出エジプト記 28-31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220208 no 2022 これは…主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。 (出エジプト記29章42節) 幕屋建設の次に与えられるのは、幕屋で仕える祭司についての指示です。大祭司の祭服であるエフォドの胸当てには、イスラエル十二部族を表す12個の宝石が並べられています。大祭司はイスラエルを代表して主の前に立って祭儀を行うのです。 祭司は、毎日、朝夕に雄羊を1匹ずつささげます。主はそこでイスラエルに会い、イスラエルに語りかけてくださいます。主は幕屋においてイスラエルの人びとのただ中に宿ると約束してくださいましたが、それは単に幕屋という建物のことではなく、幕屋における礼拝を通して、イスラエルと交わりを持ち続けてくださるということにほかなりません。 臨在の幕屋の建設のために、命の代償として全イスラエルの20歳以上の男子から集められた銀が用いられました(38章)。イスラエルを代表して祭司が幕屋で日ごとに献げ物をささげて主との交わりを持つことが、イスラエルにとってどれほど重要であったかが示されています。 主イエスは、私たちの偉大な大祭司です。かつての大祭司がイスラエルを代表して幕屋で仕えたように、このお方が私たちの代表者として、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」(ヘブ8章2節)で仕えてくださっています。 【祈り】 大祭司イエスよ、ただ一度ご自身をいけにえとして献げて罪を取り去ってくださったことを感謝します。 Mon, 07 Feb 2022 00:10:00 +0000 主が民の中に住まれる(出エジプト記 25-27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220207 no 2022 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。 (出エジプト記25章8節) 契約締結の儀式によって主の民としての歩みを正式に始めたイスラエルに、主は幕屋を建設するように指示します。幕屋によって、主がイスラエルの民の中に住むとおっしゃるのです。今や主はモーセと共におられるだけでなく(3章12節)、契約の民イスラエルと共におられることを幕屋によって示してくださいます。 第一に指示されるのは、契約の掟を記した板を入れる箱を作ることです。イスラエルをエジプトから贖い出された主は、「贖いの座」と呼ばれる箱の上からイスラエルに臨み、語りかけます(25章22節)。天地を創造された主が、そんな小さなところに納まるはずがないのですが、契約を与えられた主が常に共にいて語りかけてくださるというしるし、また約束なのでしょう。 キリストは肉をとって私たちの間に宿り(ヨハ1章14節)、神が共にいてくださることを示してくださいました。新しい天地が現れる終わりの日には、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み」、もはや死も悲しみも嘆きも労苦もなくなります(黙21章3、4節)。契約の主が共にいてくださるとの約束は、今、キリストが共にいてくださる幸いと、終わりの日の完全な平和へと続いていく、力強い希望です。 【祈り】 主よ、かつて幕屋で示されたように、今、私たちと世の終わりまで共にいてくださることを感謝します。 Sun, 06 Feb 2022 00:10:00 +0000 最も深くから高らかに(詩編 22編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220206 no 2022 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 (詩編22編2節) この御言葉を、十字架の上で主イエスは叫ばれました。さらにこの詩には、十字架の下での出来事となった、「主に頼んで救ってもらうがよい」(9節)というあざけりの言葉も、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(19節)という事柄も記されています。 主イエスが受けられた苦しみはどれほどのものだったでしょうか。主イエスは死に至る罰を受けられました。それは、主イエスを救い主と信じるすべての人に代わってのことです。そして、主イエスを信じる人びとは、数えきれないほどいるのです。 それでは、詩人はどのようにして、数えきれないほどの苦しみから立ち直ることが出来たと記すのでしょうか。詩人はまず、信仰の先人たちが神を信頼し、確かに救われてきたことに目を向けます(5、6節)。現状は耐えがたいものです(7~9節)。しかし、詩人は自らの意識を超えて、さかのぼれる限りさかのぼり、自分の出生は神の業であり(10節)、「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」(11節)と賛美します。 神に見捨てられたのではないかと思わされる時があります。しかし、その時こそ、私たちが最も深くから高らかに賛美する時なのです。 【祈り】 救い主なる神様。私たちが、最も深くから高らかに賛美するように導いてください。今までになかったほどの賛美をなさせてください。 Sat, 05 Feb 2022 00:10:00 +0000 主の民がどのように歩むのか(出エジプト記 20-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220205 no 2022 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」 (出エジプト記24章8節) 契約のための律法が与えられ、契約締結の儀式が実行されます。ファラオの奴隷ではなく、主の民とされたイスラエルが、どのように生き、どのような社会を形成すべきであるのかが律法に示されています。 まずは十戒によって大きな原則が示されます。前半の4つの戒めは神を愛すること、後半の6つの戒めは隣人を愛することに関わります。さらに20章の終わりから23章には「契約の書」と呼ばれる戒めが与えられています。そこでは具体的に、どういう場合にはどうするのかということが定められています。さまざまな犯罪や損害が起こったときの処罰や賠償の規準が示されたり、貧しい者たちを苦しめることが禁じられたり、偽りのない裁判が命じられたりします。主が求めるのは、公正と憐れみを重んじる共同体です。 このような戒めを与えられたイスラエルは、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と誓いを立て、契約の血を振りかけられます。さらにイスラエルの代表者たちが山に登り、神を見て共に食事をします。この印象深い契約締結の儀式と食事は、主の晩餐の礼典が主イエスの血による契約の食事であることを示します。主の晩餐も私たちを主の民としての生き方に招きます。 【祈り】 主よ、キリストの契約に入れられた私たちも、あなたの求める共同体として歩めますように。 Fri, 04 Feb 2022 00:10:00 +0000 主の宝、祭司の王国、聖なる国民(出エジプト記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220204 no 2022 「あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。 … あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。」 (出エジプト記19章5節~6節) エジプトでファラオの奴隷であったイスラエルの人びとがシナイの荒れ野に到着しました。ここで彼らは新しいアイデンティティを与えられます。主は彼らに「わたしの宝となる」「わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われます。主の大切な宝とされて、主と国々の間を執り成す祭司としての役割を果たし、聖なる国民として世の罪に流されずに歩むのです。 そのための条件が「契約を守る」ということです。これは救われるための条件ではありません。イスラエルはすでにエジプトから救い出されました。むしろ新しいアイデンティティで歩み続けるための条件と言ってよいでしょう。実際のところ、契約を守って歩まなければ、罪にまみれて聖なる者とは呼べなくなります。自分が主の契約から離れてしまえば、人びとを主に執り成すこともできません。もはや宝としての輝きが失われてしまうのです。 主は契約を与えるためにシナイ山に降られます。山は厚い雲で覆われ、角笛の音が鳴り響き、煙に覆われます。主が火の中を山の上に降り、山全体が激しく震えます。モーセの語りかけに主は雷鳴をもって答えられました。この激しさに契約を与える主の情熱が感じられます。 【祈り】 主よ、キリストによる恵みの契約に入れられた私たちを宝の民、祭司、聖なる国民として歩ませてください。 Thu, 03 Feb 2022 00:10:00 +0000 愚かな不平さえ聞いてくださる主(出エジプト記 15章22節-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220203 no 2022 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。 (出エジプト記16章2節) エジプトから救い出されたイスラエルの人びとは、荒れ野での旅を続けていきます。その旅の中で繰り返されるのは、イスラエルの人びとの不平です。マラでは水が苦いと言い、シンの荒れ野では食べ物についての不平を述べ立てます。人びとは「エジプトの国で死んだ方がましだった」と、体験したばかりのすばらしい救いがなかったほうが良かったと言います。レフィディムに宿営すると飲み水がないことで不平を述べ始め、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか」とモーセを批判します。 驚くべきことに、主は彼らの不平を聞き入れてくださいます。主が実現してくださった救いの尊さを否定する不平であるにもかかわらず、主はイスラエルの人びとの必要を満たしてくださいました。苦い水を甘く変え、天からのパンであるマナを降らせ、岩から湧き出る水を与えられました。 不平を述べるイスラエルの姿は、あまりにも恩知らずで、罪深く、愚かです。そんなイスラエルのためにマナを降らせる主は言われます。「あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」(16章12節)。愚かな者をなおも憐れんでくださる主こそが、私たちの神なのです。 【祈り】 主よ、あなたのすばらしい御業を体験しても、すぐに不平を述べ立てる愚かな私たちを憐れんでください。 Wed, 02 Feb 2022 00:10:00 +0000 災いを通して主を知る(出エジプト記 5章1節-15章21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220202 no 2022 「わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」 (出エジプト記14章18節) 主に遣わされたモーセとアロンは民を去らせるように要求しますが、ファラオは「わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と拒みます。この後に実行される十の災いはファラオとエジプトに主を知らしめるものでした。ナイル川の水が血に変わる災いで「わたしが主であることを知る」と主は語られます。エジプト中に群がる蛙を退かせることで「主のような神がほかにいないことを知る」とファラオは聞かされます。あぶの大群がイスラエル人の住む地方に入らないことによって「主なるわたしがこの地のただ中にいることを知る」のです。 くり返される災いは、エジプトが主を知るだけでなく、「わたしの名を全地に語り告げさせるため」(9章16節)、また、イスラエルが主の救いを「子孫に語り伝え」るためでもありました(10章2節)。 一度はイスラエルが去ることを許したファラオが軍勢を引き連れてイスラエルを追撃します。イスラエルが葦の海の中の乾いた所を渡り、エジプト軍が海に投げ込まれることによって、エジプト人は決定的に主を知ります。そして、イスラエルは「神々の中に、あなたのような方が誰かあるでしょうか」と悟って主を賛美するのです(15章11節)。 【祈り】 主よ、禍の中にあってこそ私たちはあなたを知ります。あなたの救いによって賛美へと至らせてください。 Tue, 01 Feb 2022 00:10:00 +0000 主が私たちを遣わされる(出エジプト記 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220201 no 2022 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」 (出エジプト記3章12節) ミディアンの地で羊を飼って暮らしていたモーセを、主はエジプトのファラオのもとに遣わそうとします。イスラエルの人びとの苦しみを見て、その叫びを聞き、痛みを知ったからです。しかし、モーセは「わたしは何者でしょう」と言って拒否します。自分がイスラエルの人びとを導き出すことなどできるわけがないと思ったのです。それに対して主は、「わたしが必ずあなたと共にいる」とお答えになります。あなたが何者であるかが問題なのではありません。だれが共にいてくださるかのほうが重要なのです。主が共にいてくださるから、イスラエルをエジプトから導き出すという主の救いのご計画が実現します。 モーセはなおも決心がつきません。「遣わした神の名を聞かれたら、何と答えるべきでしょうか」「わたしを信用せず、言うことを聞かないでしょう」「わたしは弁が立つ方ではありません」。主は、それら不安の一つひとつに解決を備えてくださいます。 主のご計画のために遣わされたならば、どんな理由をつけても断ることはできません。ただし主は、それを実行するために必要なものをすべて備えてくださいます。たとえ困難な役割であったとしても、ご計画を実現される主が共におられます。 【祈り】 主よ、わたしの遣わされた小さな役割のために、あなたが共にいて、すべてを備えてください。 Mon, 31 Jan 2022 00:10:00 +0000 嘆きを聞き契約を実行する神(出エジプト記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220131 no 2022 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 (出エジプト記2章24節) 創世記においてアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約の通り、イスラエルの人びとは、天の星のようにおびただしく数が増えました。エジプト人は、数多く、強力になったイスラエルに強制労働を課して虐待しますが、ますます増え広がります。主の約束を人間が止めることはできないのです。 エジプトの王ファラオは、生まれてくるイスラエル人の男の子を殺すという強硬手段に出ます。のちにイスラエル人をエジプトから導き出すモーセは、この危機的な状況の中で生まれますが、驚くべきことに、そのファラオの王女によって助け出されます。主のご計画を人間が止めることはできません。 モーセは、その後、ミディアンの地で長く逃亡生活を送ることになりますが、その間もイスラエルの人びとはエジプトでの強制労働に苦しみ続けます。この苦しみはアブラハムに予告されていました。「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、400年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。…その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう」(創15章13、14節)。苦しみの中にあるイスラエルの人びとの叫びは神に届きました。神はいよいよ計画を実行に移されます。 【祈り】 私たちの嘆きを聞いてくださる神よ、私たちの苦しみを顧みて、救いの計画を実行してください。 Sun, 30 Jan 2022 00:10:00 +0000 すべての幸いを主に帰して(詩編 16編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220130 no 2022 「あなたはわたしの主。 あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 (詩編16編2節) 詩人は、すべての幸いを神に帰しています。だからこそ、「主はわたしに与えられた分」とまで言うことができます(5節)。神が「わたしの分」であるとする物言いは大胆なように思われますが、まさにそのように、神の恵みが自分にとって確かであることを詩人は言いたいのです。何しろ、「主はわたしの運命を支える方」なのです(5節)。わたし自身でも定めることができないことをも、確かにしてくださる方です。そればかりでなく、土地という、この時代にあっては生活の基盤となるものをも与えてくださるのです。 詩人はただ自分の利益に基づいて神に感謝しているのではありません。神の「励まし」、「諭し」に感謝し(7節)、いつも主が共にいてくださることで「わたしは揺らぐことがありません」(8節)、死すらも神と彼との結びつきを断ち切ることはない(10、11節)、と言います。 その詩人が、神のことを「避けどころ」と表現しました(1節)。すべて与えられたものも祝福も導きも、「避けどころ」において与えられています。神無くしては、この世に安全な場所はない。そのことを知っていればこそ、詩人はすべての幸いを神に帰して喜ぶのです。 【祈り】 神様、私たちにすべてのものを与えてくださっていることに気づかせてくださり、すべての幸いをあなたに帰させてください。 Sat, 29 Jan 2022 00:10:00 +0000 いつまでも主イエスと共に歩もう(マタイによる福音書 28章16-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220129 no 2022 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章20節) 辛いときには、その自分の辛い気持ちを理解してくれる人が側にいるだけで大きな力になります。 主イエスは、私たちが経験するすべての苦しみや悲しみを十字架への道行きの中で味わい尽くしてくださいました。それどころか、私たちが苦しみの中で痛み苦しむ以上に壮絶な痛みや苦しみを味わい、最後には私たちの罪を一手に担って十字架の上で死んでくださったのです。主イエスは、そういうお方として、いつも私たちに寄り添い、痛みと苦しみを共にしてくださいます。しかも、ただ同じところに立ち、痛みを共にしてくださるだけではなく、十字架の死に打ち勝ち、その傷を完全に癒すことのできるお方として、私たちのところに来てくださったのです。 あなたの痛みや苦しみを知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さをわたしは知っている。大丈夫!わたしがあなたの弱さや罪や背きをすべて十字架の上で担った。苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部わたしが担った。もうあなたには神の怒りと呪いは向けられない。あなたは立ち直れる。だから恐れるな!わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる! このように主は励ましてくださるのです。何という幸いでしょうか。 【祈り】 どんなときにも、十字架と復活をくぐり抜けたイエス・キリストが共にいてくださいますから感謝します。 Fri, 28 Jan 2022 00:10:00 +0000 神に見捨てられた救い主(マタイによる福音書 27章27-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220128 no 2022 3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 (マタイによる福音書27章46節) 十字架の下には神に見捨てられて当然の人びとがいました。神の独り子を嘲り、命を捨てるほどの尊い愛を笑いものにする人びとです。そして十字架の上には、最後まで「わが神よ!」と神への信頼を貫き通された主イエスがおられました。テレビドラマなどでこういう理不尽な物語を見たなら、「こんな憎たらしい輩は早く痛い目に遭えばいいのに!」と思うのではないでしょうか。そして、そういう輩が成敗されるときに、私たちは爽快感を覚えるのです。 けれども、この十字架のもとでは、そういうことは一切起こりません。むしろ理不尽な仕方で全く汚れのないお方が裁かれ、憎たらしい輩が有頂天になっています。 十字架の恵みは、まさにこの理不尽な出来事の中にこそ鮮やかに表れています。私たちも十字架の下で神の独り子を嘲る一人にほかならなかったからです。この一見理不尽に思える十字架がなければ、私たちの救いはあり得ませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの叫びは、本来私たちが叫ばなければならない絶望の叫びでした。けれども、十字架のイエス・キリストを信じる私たちは、この神の驚くべき恵みにあずかることができるのです。 【祈り】 主イエスの十字架上の絶望の叫びは、本来私たちが叫ぶべき絶望の叫びであったことを感謝します。 Thu, 27 Jan 2022 00:10:00 +0000 鶏の鳴き声に主の優しさを思い起こして(マタイによる福音書 26章69-75節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220127 no 2022 するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、…イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 (マタイによる福音書26章74節~75節) 主イエスは、以前こう言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」(26章31節)。この「わたし」とは主なる神のことで、「羊飼い」とは主イエスのことです。神が羊飼いである主イエスを打たれるので、羊の群れは散ってしまう、と言われています。主イエスの側から言うならば、「羊飼いであるわたしが神によって打たれるのだから、今夜はあなたがたを守ることができない!」です。このように主イエスは、つまずきの責任を全部ご自分が背負うような言葉で、弟子たちのつまずきを予告されました。 鶏が鳴いて、「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との主イエスの言葉を思い出したペトロは、すぐに主イエスの予告の意味に気づいたでしょう。ペトロは、鶏の声を聞いて、そこにある主イエスの優しさを思い起こし、自分の不甲斐なさにやるせなくなり、外に出て激しく泣きました。このときからペトロの悔い改めは始まっていたのです。 主イエスは、私たちにもさまざまな仕方で鶏の鳴き声を聞かせてくださいます。今、私たちに与えられているさまざまな苦難は、案外そういうことなのではないでしょうか。 【祈り】 さまざまな鶏の鳴き声を通して、私たちを悔い改めへと導いてくださることを感謝します。 Wed, 26 Jan 2022 00:10:00 +0000 与えられたタラントンに忠実に(マタイによる福音書 25章14-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220126 no 2022 「一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。」 (マタイによる福音書25章15節) このたとえ話に登場する三人の僕たちの姿は、私たちの姿です。私たちは、主人である神から、それぞれのタラントンを預けられ、この人生を歩んでいます。そして、このタラントンは、私たちがこの人生を生き抜くために神様から与えられている「資本」「もとで」を言い表しています。三人目の僕に預けられた1タラントンでさえ、今のお金に換算すると、もしかすると1億円に達するかもしれません。真実には彼はそれだけのものを与えられたのです。けれども、彼は不満でした。それは、彼が与えられたものを他の人のものと見比べたからでしょう。 おそらく私たちの多くは、1タラントンの賜物をいただいている主の僕ではないかと思います。神は私たち一人一人に、素晴らしい賜物を与えてくださっています。しかし、私たちは、2タラントンもらっている人の真似をしようとしたり、5タラントンもらっている人の才能をうらやんだり、自分には何もできないと僻んだりしてはいないでしょうか。 主が期待しておられるのは、人と同じことをすることでも、自分の力以上に大きなことをすることでもありません。そうではなくて、自分の賜物に忠実に、そして精一杯生きることなのです。 【祈り】 一人一人に与えられている1タラントンの素晴らしさを、しっかりと見据えることができますように。 Tue, 25 Jan 2022 00:10:00 +0000 赦しの共同体に生きる(マタイによる福音書 18章21-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220125 no 2022 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」 (マタイによる福音書18章33節) ここには、王さまに1万タラントンの借金をしていた家来が、それを全部帳消しにしてもらったというたとえ話が語られています。神によって罪赦されるというのは、そういうことだと言うのです。1万タラントンの借金は、今のお金に換算すると、天文学的な数字になり、一生かかっても返すことのできない莫大な借金を意味しています。そして、この1万タラントンの赦しは、神が私たちのために損失を引き受け、犠牲を払い、独り子であるイエス・キリストが苦しみを受けて死んでくださることによって実現したものでした。 他方、兄弟が私たちに対して犯している罪は百デナリオンです。百デナリオンは、今のお金に換算すると、百万円程になり、これも決してはした金ではありません。けれども、1万タラントン赦されたことを考えると、微々たるものと言えるでしょう。 神がまず独り子イエス・キリストの命という莫大な犠牲を払い、私たちを赦し、私たちに自由を与えてくださいました。その恵みの中で私たちは人を赦すのです。赦さなければならないのではありません。赦された者だから赦すのです。ただそれだけのことでしょう。感謝なことに、私たちは、この全く新しい十字架の恵みの世界に生き始めているのです。 【祈り】 まず自分自身が1万タラントンの負債を免除された者であることを受けとめさせてください。 Mon, 24 Jan 2022 00:10:00 +0000 5つのパンと2匹の魚が用いられ(マタイによる福音書 14章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220124 no 2022 「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、… (マタイによる福音書14章17節~18節) 弟子たちは、男だけで5千人の人びとが空腹を覚えている現実を前にして、5つのパンと2匹の魚だけでは何の役にも立たないと思ったことでしょう。ところが主イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われました。そして、主イエスがそのパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りをささげ、裂いて弟子たちに配らせたところ、なんと人びとはそれを食べて満腹した、と言うのです。 これは突拍子もない奇跡物語のように思えます。けれども、よくよく考えてみると、私たちもしばしばこれによく似た経験をするのではないかと思います。私たちの差し出すものは、いつでも不完全な、罪に汚れたパン5つと魚2匹にしか過ぎません。目の前の厳しい現実を見るときに、自分の持っているものなど何の役にも立たないと、諦めたくなることがあるのです。 けれども、主は「それをここに持ってきなさい」と言われます。ですから、たとえ私たちが持っているパンがどんなにちっぽけであったとしても、この主を信じて、諦めずに、勇気をもって、主の御前に差し出していきたいと思います。そうすれば、主は必ず私たちの思いを遙かに越えて、それらを祝福して大いに用いてくださるでしょう。 【祈り】 厳しい現実の中にあっても、主が私たちの精一杯の献身を用いてくださることを信じさせてください。 Sun, 23 Jan 2022 00:10:00 +0000 いつまでもわたしの神に祈る(詩編 13編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220123 no 2022 いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。 いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 (詩編13編2節) 「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」。この「いつまで」を詩人は4度も繰り返します。その苦しみはどれほどのものでしょうか。 この詩人には明確な「敵」がいたようです。敵は「わたしに向かって誇」り、「わたしを苦しめ」ます(3、5節)。しかし、詩人は、その敵をどのようにしてください、まして、裁いてください、滅ぼしてくださいとは祈りません。詩人は、ひたすら心を神に向けています。 「いつまで」と思うことはだれにでもあります。「敵」に苦しめられることもあるでしょう。そのようなとき、「いつまで」という神に対する思いを忘れて、「敵」にばかり思いを向けてしまうことがあります。詩人は、「いつまで」をいつまでも忘れない信仰を持っています。だからこそ、「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」と祈ることができます。わたしが忘れているのではない、神が忘れておられるのではないか、わたしは祈りつづけてきた、と。 しかし、神が忘れておられるということはありません。最後には詩人は賛美します。「わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います、『主はわたしに報いてくださった』と」(6節)。 【祈り】 主よ、私たちが、いつまでもあなたに祈ることができる者へとならせてください。そして、あなたの御救いを与えてください。 Sat, 22 Jan 2022 00:10:00 +0000 傷ついた葦を折らないキリスト(マタイによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220122 no 2022 「正義を勝利に導くまで、 彼は傷ついた葦を折らず、 くすぶる灯心を消さない。」 (マタイによる福音書12章20節) ある安息日に、主イエスは片手が萎えた人を癒されました。当時は因果応報の考え方が浸透していただけに、この病気による障害は、彼の心に深い影を落としていたに違いありません。世間からも神からも見捨てられたという思いが彼の心を支配していたのです。ところが、そんな彼を主イエスは癒してくださいました。 ファリサイ派の人びとは、この様子を見て、安息日の規定を破ったと大騒ぎし、主イエスを殺そうと相談し始めました。ところが、福音書記者マタイは、この主イエスのお姿こそイザヤ書42章1節から4節の預言の成就なのだ、と言うのです。 「葦」は、高さ約2、3メートルほどの、細長く、折れやすい、イネ科の植物です。そういう元もと脆い葦が既に傷ついていると言うのですから、少し力を加えただけでも折れてしまうかもしれません。「くすぶる灯心」というのも同じことです。「傷ついた葦」「くすぶる灯心」、これはまさに、片手が萎えたこの人の姿そのものと言えるでしょう。主イエスは、そういう「傷ついた葦」を決して折ることがなく、「くすぶる灯心」を決して消すことがないお方です。 主イエスがこういうお方だからこそ、私たちは救われたのではないでしょうか。 【祈り】 傷ついた葦、消えかかった灯心のように望みを失いかけていた私たちを救い出してくださり、感謝します。 Fri, 21 Jan 2022 00:10:00 +0000 主イエスのもとに憩う本当の安らぎ(マタイによる福音書 10-11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220121 no 2022 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 (マタイによる福音書11章28節) 10章から11章にかけて、十二弟子の選びと派遣、人びとの不信仰が語られています。きょうは、その最後に語られている主イエスの招きの言葉に注目いたしましょう。 そもそも「本当の安らぎ」とは何でしょうか。重荷や疲れが全く無くなることでしょうか。決してそうではありません。人間は、何の働きも期待されず、何の重荷もない日々が続くと、空しさに囚われ、苦痛を覚えるものです。主イエスが与えてくださる安らぎは、決して何の働きも何の重荷もない安らぎではありません。「あなたはこのように生きよ」という指針がしっかりと与えられています。しかも、それは決して水準の低い指針ではありません。山上の説教を思い起こせば、それはすぐに理解できるのではないでしょうか。 ただし、主イエスは柔和で謙遜なお方です。私たちの罪とけがれさえ背負って、十字架につけられてくださったのです。ですから、たとえ私たちが何度失敗しても、決して苛立つことなく、「諦めないで、もう一度、新しく生きてみなさい」と繰り返し柔和に励まし続けてくださいます。こうして私たちの歩みには主イエスの十字架の赦しという土台が据えられて、平安にそれぞれの使命に生きることができるのです。 【祈り】 どんなときにも、主イエスの十字架のもとに立ち続け、まことの安らぎに生きることができますように。 Thu, 20 Jan 2022 00:10:00 +0000 心の目が開かれることを祈り求めて(マタイによる福音書 8-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220120 no 2022 二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。 (マタイによる福音書9章27節) 8章から9章にかけては、主イエスがなさった奇跡と対話を通して、主イエスの救い主としての御力が明らかにされています。主イエスは私たちの苦しみと悩みを背負ってくださる救い主です(8章17節)。すべてを捨てて「わたしに従いなさい」とお求めになります(8章22節)が、従うならば、たとえどんな人生の嵐であっても、いつも共にいて、必ず守ってくださいます(8章26節)。そして、私たちの中にどんなに大きな罪の力が入り込んでいても、そのすべてを解決できるお方なのです(9章2節)。 主イエスが、そのようなさまざまな奇跡や対話を通してご自分を明らかになさったとき、人びとはどういう反応を示したでしょうか。一つの反応は、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」という群衆の素直な反応でした(9章33節)。しかし、もう一つの反応は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というファリサイ派の人びとの反応です(9章34節)。彼らは聖書を非常によく勉強していました。けれども、主イエスのことは分からなかったのです。心の目が開かれて(9章30節)、主イエスを救い主として受け入れることができるよう、祈り求めて歩みましょう。 【祈り】 主イエスこそわたしの救い主と素直に受け入れることができるように、私たちの心の目を開いてください。 Wed, 19 Jan 2022 00:10:00 +0000 山上の説教感謝の生活の手引き(マタイによる福音書 5-7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220119 no 2022 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」 (マタイによる福音書7章24節) 山上の説教には「敵を愛しなさい」に代表されるような理想的な教えが幾つも語られています。しかし、ただ教えるだけならば、これまでにも多くの偉人たちが同じような教えを繰り返し語ってきました。問題は、教えた人が、それを実践へと導く力をもっているかどうかです。主イエスは、ただ教えるだけではなく、実際に人をそのように造り変えてくださいます。私たちを十字架の愛に絶えず浸し、少しずつ造り変えてくださるのです。 私たちは、完全な愛に生きることができません。その自らの弱さや罪に私たちはしばしば打ちひしがれます。しかし私たちは、主イエスの十字架によって赦していただきながら、何度失敗しても、悔い改めつつ、また立ち上がっていくのです。 きょうの箇所の、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」とは、この主イエスの十字架の赦しのもとで諦めずにこの愛に向かって生き続ける、ということでしょう。そこに私たちの感謝の生活があります。そして、この山上の説教が指し示す生き方を追い求めていくときに、きっと主イエスが責任をもって私たちを造り変えてくださいます。山上の説教は、主イエスが私たちに与えてくださった、感謝の生活の手引きなのです。 【祈り】 私たちを造り変えてくださる主の御手を信じ、主の言葉を正しく受け止めることができますように。 Tue, 18 Jan 2022 00:10:00 +0000 占星術の学者たちの礼拝(マタイによる福音書 2章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220118 no 2022 「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 (マタイによる福音書2章2節) きょうの箇所には、東の国の占星術の学者たちが、星に導かれて、幼子の主イエスを礼拝したという物語が記されています。彼らは、最初からまことの神を礼拝する信仰をもって旅に出かけたわけではありません。最初、彼らは、星占いによって旅立つことを決心したのです。神は、星占いの道が間違っていることをよくご存じでした。しかも、彼らが外国人で、他の宗教を信じている異教徒であることもよくご存じでした。その上で神は、彼らを少しずつ整え、ついに幼子主イエスの前にひれ伏すときには、まことの神を礼拝する者へと造り変えてくださったのです。 罪を犯したアダムが神によって追放されたのが東方でしたから(創3章24節参照)、東方とは罪の暗闇を暗示するのかもしれません。ここでは、その東方からやって来た占星術の学者たちが救われたのです。これは、イエス・キリストがどのようなお方であり、何のためにこの世においでになったのかを見事に言い表した物語ではないかと思います。 今、さまざまな問題を抱え、不安や孤独を覚えながら、暗闇の中でうずくまっておられる方々、そういうあなたの暗闇を照らし、あなたを救うために、イエス・キリストはこの世にお生まれになったのです。 【祈り】 占星術の学者たちを導かれた神よ、暗闇の中でさまよう私たちに、明けの明星を仰がせてください。 Mon, 17 Jan 2022 00:10:00 +0000 インマヌエル神は我々と共におられる(マタイによる福音書 1章18-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220117 no 2022 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 (マタイによる福音書1章23節) 人間は、古代から現代に至るまで数多くの苦悩を背負い続けてきました。しかし、聖書は、そのような目の前に横たわっているさまざまな苦悩ではなく、その背後にある根本的な悲惨を見つめています。 では、その根本的な悲惨とは何でしょうか。それは、神を失っているという悲惨です。そもそも私たち人間は、神と共に生きる存在として造られたわけで、その神から離れて生き始めるときに、その人生が空しくなるのは当然です。これは私たち人間の責任であり、聖書は、それを「罪」と言っているのです。それゆえに、私たちに本当に必要なのは、神との交わりを妨げている、この罪の問題の解決でした。 私たちは、「イエス」と名付けられたお方によって罪から救われました。神と和解することができたのです。そして、きょうの箇所では、このイエスというお方が「インマヌエル」と呼ばれる、と言われています。ここに、私たちの罪の問題を解く鍵があります。罪赦されたときに初めて、神が共におられることが喜びとなり、力となり、希望となるのです。もはや私たちは、神から身を隠す必要はありません。神がいつも共にいてくださることを、心の底から喜ぶことができるのです。 【祈り】 神様、厳しい苦難の中にあっても、主が共にいてくださることを信じ、希望をもって歩ませてください。 Sun, 16 Jan 2022 00:10:00 +0000 矢ではなく御顔に心を向ける(詩編 11編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220116 no 2022 「世の秩序が覆っているのに 主に従う人に何ができようか。」 (詩編11編3節) いつの時代も人の世は同じかもしれません。「世の秩序が覆っている」。そのような時、痛感させられることがあります。自分に「何ができようか」。しかし、その自分が「主に従う人」であるならば、何をすべきでしょうか。何も出来ることはないと思われるかもしれません。 人々は主に従う人に言います。「鳥のように山へ逃れよ」(1節)、と。「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている」(2節)から、と。つまり、矢を逃れるには山に逃れるよりほかないのだ、と。 詩人は答えます。逃れる必要はありません。神が天から誰も逃れられないまなざしを向け、誰も逃れられない裁きを行ってくださるからです。 詩人は知っています。主に逆らう者は心のまっすぐな人を射ようとする。しかし、神は、「御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」(7節)。私たちは、自分に向けられた矢に心を向ける必要はありません。自分に向けられた御顔にこそ、まっすぐに心を向けるべきなのです。その時、「主を、わたしは避けどころとしている」という御言葉が、私たちの言葉になります(1節)。 【祈り】 神様、あなたが私たちの避けどころとなってください。矢ではなく、あなたの御顔にまっすぐに私たちの心を向けさせてください。 Sat, 15 Jan 2022 00:10:00 +0000 ヨセフ物語(3)地上の幸福ではなく(創世記 49-50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220115 no 2022 「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」 (創世記50章25節) 死んだと思っていた息子ヨセフとの再会を果たしたヤコブは、家族と共にエジプトで暮らし、穏やかな日々を過ごして世を去ります。ヨセフと兄たちも和解して、すべては丸く収まり、ハッピーエンドです。しかし、それが創世記の目的ではありません。 死を前にしたヤコブは、自分の遺体を必ずカナンにある先祖代々の墓に葬るようにと繰り返し命じます。ヨセフもまた、神が子孫を約束の土地に導かれる時には、自分の骨を携え上るようにと指示するのです。 人間の堕落の故に、罪と悲惨の世界がもたらされました。今や人間が築き上げた最高の文明であるエジプトでの栄光を手にしながら、神の民のゴールはそこではないと、『創世記』は示します。こうして約束の物語は、次へと続いて行くのです。 「わたしが示す地に行きなさい」と言われた主の言葉をひたすら信じて、地上では旅人として生きること。たとい約束されたものを手に入れられなくとも、はるかにそれを望み見て喜んで生きること。 これこそが『創世記』が物語る族長たちの生き様です。そして、聖書の神は、彼らの神と呼ばれることを決して恥とはされませんでした(ヘブ11章16節)。 【祈り】 神様。地上での幸福に安住することなく、絶えず天の都を望み見て歩めるように強めてください。 Fri, 14 Jan 2022 00:10:00 +0000 ヨセフ物語(2)万事を益とする神(創世記 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220114 no 2022 「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」 (創世記45章5節) 奴隷としてエジプトへと売られたヨセフは、運命のいたずらに翻弄されるかのように、牢屋に入れられてしまいます。 ところが、かつて“夢見る者”であったヨセフは、今や夢を解き明かす者としてエジプト王の夢さえ解いて牢屋から解放され、ついに王の右腕としての地位に上り詰めます。 ヨセフの解き明かし通り、大豊作と大飢饉が訪れると、やがて遠くカナンの地から食糧を求めてやってきたヨセフの兄たちが、大臣となった弟の前にひれ伏します。少年ヨセフが見た夢の実現です。 やがてヨセフが自ら正体を明かすと、兄たちは驚愕し、かつてヨセフを売り飛ばした自分たちの罪への復讐を恐れます。が、ヨセフは、すべては神が計らったことだと、彼らを赦すのです。 “自分がこうなったのは、あなたのせいだ”と、人間が主語になっている限り、被害者意識や他人への憎悪から解放されはしないでしょう。しかし、神が主語になる時、すべては変わります。 “神が万事を益としてくださった”私たちの意志や才能によらず、単なる偶然でもなく、すべては神の御計画による。この神の摂理こそ、ヨセフ物語の真価です。 【祈り】 神様。目先のことだけで判断することをやめて、あなたの摂理に信頼する心を与えてください。 Thu, 13 Jan 2022 00:10:00 +0000 ヨセフ物語(1)因果応報を打ち破る神(創世記 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220113 no 2022 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。 (創世記37章11節) 未だヤコブ物語の枠組みの中ですが、37章からは有名なヨセフ物語へと移ります。 ヤコブの年寄り子であったヨセフは、父の愛情を一身に受けて育ちます。父から特別に与えられた晴れ着を着て歩く弟を、兄たちが快く思うはずがありません。 ある時、兄たちはヨセフを穴に突き落として隊商に売り飛ばし、父には山羊の血に浸した晴れ着を見せて殺されたかのように見せかけます。ヤコブは慰めを拒むほど、深い悲しみに沈みます。 ヤコブとエサウ兄弟の確執を生んだ親の偏愛という過ちをヤコブが繰り返し、その原因となった晴れ着が彼の悲嘆をもたらす。父を騙したヤコブは息子たちから騙され、ヨセフを売り飛ばした兄たちもやがて痛い目に会うことになります。 すべては因果応報の物語になっています。自分がまいた種を自分で刈り取る。それは出口のない閉じられた世界です。しかし、そのような息が詰まる人間世界に風穴を開けるのが、ヨセフが見た夢、すなわち上からの神の啓示です。 そのことにヤコブだけが心を留めました。そう言えば、ヤコブ物語の転換点も夢でした。人間のドラマを導くのは、いつでも神なのです。 【祈り】 神様。すべてが因果応報に見えるときも、あなたがこの世界と人生の主であることを覚えさせてください。 Wed, 12 Jan 2022 00:10:00 +0000 ヤコブ物語(3)神が戦ってくださる(創世記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220112 no 2022 「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」 (創世記32章29節) あの神との出会い以来、ヤコブの人生に大きな変化が生じます。たどり着いた伯父の家での生活の中で、ごく自然に「神」や「主」という言葉が語られるようになるからです。 とは言え、伯父のラバンに何度となく騙されるヤコブは、まるで自分が兄や父にしたことの報いを受けているようです。やがて故郷への旅路につくヤコブは、兄エサウが迎えに来るという知らせに、おののきます。 エサウの様子を窺いながら、事あらばすぐに逃げられるように備えつつ道を進む途中、ヤコブは何者かに襲われ、一晩中格闘するのです。 この謎の人物から、お前は「イスラエル」と名乗れと言われ、いとも簡単に腿の関節をはずされ、祝福を受けたヤコブは、この方が神であったと悟ります。 神を信じるようになりながら、なおも自分の知恵に頼り、人の顔を恐れて生きてきたヤコブは、神との格闘の中で徹底的に砕かれました。 人の顔ではなく“神の顔”を見て生きる者、自分ではなく神が戦ってくださることを信じる者へと、変わる必要があったからです。 「イスラエル」とは“神が戦う”という意味です。不安と恐れの中で、人はしばしば自分で戦おうとしますが、神の勝利を信じる者は幸いです。 【祈り】 神様。自分の力に頼ることなく、あなたの勝利を信じて生きる者としてください。 Tue, 11 Jan 2022 00:10:00 +0000 ヤコブ物語(2)現実の中におられる神(創世記 27-28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220111 no 2022 ヤコブは眠りから覚めて言った。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 (創世記28章16節) 食欲にとらわれて長子の権利を軽んじたエサウ。同じく食欲の故に騙されたイサク。息子を偏愛して策略を巡らすリベカ。目の見えない父親を平気で騙すヤコブ。 ここにはアブラハム物語に見られたような敬虔さのかけらもありません。欲望渦巻く現実の人間模様です。にもかかわらず、神の御計画は確かに実現して行きます。父親は、弟ヤコブを祝福してしまったからです。 それ故に殺意を抱いた兄から逃れるように、ヤコブは一人旅に出ます。そうして心身ともに疲労困憊したヤコブは、とある場所で夢を見ます。 夢の中で、主が傍らに立ち、再びあの子孫と土地の約束をヤコブに語りかけ「わたしはあなたと共にいる」との約束を与えます。イスラエルの歴史の中で繰り返される神の約束の言葉です。 人間のドロドロとした現実の中で、何の見通しも望みも無く生きていた孤独なヤコブに、神が出会い、一方的に恵みを約束されました。これが、イスラエルの神です。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」。知らないのは、私たちです。主は、私たちの現実のただ中に、いつも共にいてくださる方なのです。 【祈り】 神様。きょうも一日わたしが歩むすべての現実の中に、片時も離れることなく共にいてください。 Mon, 10 Jan 2022 00:10:00 +0000 ヤコブ物語(1)生まれる前からの計画(創世記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220110 no 2022 「二つの国民があなたの胎内に宿っており … 一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」 (創世記25章23節) 神の約束の子であるイサク奉献というクライマックスを描いた『創世記』は、サラの死、イサクの結婚、アブラハムの死と、一気にアブラハム物語を終結させます。 本来なら次のイサク物語が展開されるはずですが、話の中心は、むしろ25章から終わりまで続くヤコブの物語に移ります。ヤコブとは後のイスラエル。つまり、『創世記』は、このイスラエル民族の父祖を描くための書物なのです。 さて、子どもができなかったイサクとリベカ夫妻に双子が与えられるところから物語は始まります。 そうして生まれたのがエサウとヤコブですが、彼らが未だお腹に居るときに、「兄が弟に仕える」との謎めいた神の御心がリベカに語られます。人間にはあずかり知れない神の御計画です。 成長した二人は、対照的な性格。兄エサウは野の人、弟ヤコブは家の人でした。 ある日、狩猟から戻ったエサウは空腹に耐え切れず、ヤコブが一杯の食物と引き換えに要求した“長子の権利”を譲ってしまいます。 “長子の権利”とは、長子だけに与えられる特権。神の約束の継承者は、はたして誰か。ここに、神の御計画が動き出します。 【祈り】 神様。このわたしを、生まれる前から知っていて、今日まで導いてくださったことに感謝します。 Sun, 09 Jan 2022 00:10:00 +0000 幼子、乳飲み子の賛美(詩編 8編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220109 no 2022 天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。 … 人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。 (詩編8編2節~3節、5節) 人とは何者なのでしょうか。誰もが、この問いを自分自身に問うたことがあるはずです。詩人は、この問いが頭をもたげる多くの場合にそうであるように、人間についての考えを深め、自分で自分を確かなものにしようとしているのではなく、ひたすら驚きをもって賛美します。 詩人は、人が神に顧みられていることに驚き、大いに喜び、賛美しています。最初の節と最後の節には、同じ賛美が繰り返されています。「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」。人の手には届かない月も星も、神が配置なさったものです。それも、それは、神の「手の業」ではなく、「指の業」であると言われます(4節)。 その神が、神に僅かに劣るものとして人を造り、神の栄光と威光とを冠としていただかせてくださり、造られたすべてのものを治めるようにさせてくださいました。 ただ、詩人は現実を知っています。旧約聖書には「人」と訳される言葉が十近くありますが、その中でも、弱く小さい存在としての人を意味する言葉を詩人は用います。 だからこそ、その賛美は、「幼子、乳飲み子」(3節)のように純粋なものなのです。 【祈り】 神様、私たちも幼子、乳飲み子のように、心から賛美する者とならせてください。 Sat, 08 Jan 2022 00:10:00 +0000 アブラハム(3)試練を超える信仰(創世記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220108 no 2022 アブラハムは答えた。 「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」 (創世記22章8節) 神の真実をひたすら信じて歩んできた者が、試みを受ける。聖書が最初に描く信仰者の試練。それが本章の主題であり、アブラハム物語のクライマックスです。 神の約束によって奇跡的に与えられたイサクを単にささげよと言うだけでなく、「あなたの愛する子」を焼き尽くす献げ物としてささげよという、前代未聞の要求です。 この要求にアブラハムは無言の内に従って、息子イサクと旅に出ます。旅の途中の何気ない親子の会話から、互いの深い関係が見事に描かれています。 献げ物の小羊を持参していないことに気づいて健気にも尋ねるイサクに、「きっと神が備えてくださる」と語るアブラハムの答えは、全能の神に対するギリギリの信仰告白と言えましょう。 信仰者としてのアブラハムの人生は、行く先もわからずに主の言葉に従ったことから始まりました。そして今、人生最後最大の試練の時にも、彼は「神の命じられた所に向かって」行くのです。 信仰の歩みは理屈ではありません。理由はわからずとも、ひたすら神に信頼し続けること。自分に与えられている一切は神のものであると信じ切ることです。 【祈り】 神様。自分に与えられているものすべてを、決して握りしめないようにさせてください。 Fri, 07 Jan 2022 00:10:00 +0000 アブラハム(2)不可能を可能に(創世記 15-18,21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220107 no 2022 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 (創世記15章6節) アブラハム物語では、二つの約束が繰り返されます。子孫が与えられることと、導かれた土地が子孫に与えられる、との約束です。 子どものいないアブラハムは、自分の召し使いを跡取りにしようと考えたり、同じく召し使いのハガルを通して子をもうけたりしますが、神はあくまでも妻サラを通して与えられる子孫なのだと繰り返します。 土地についての約束も、神自らが一方的に契約を結んで確証しますが、その実現はなんと400年後、四代目の者たちになってからだと言われます。 もはや子どもが与えられる見込みもない年老いたアブラハムとサラは、神の約束に“笑い”を隠せません。ところが、不可能を可能にする全能の神の御働きによって、やがて真の“笑い(イサク)”が夫妻に与えられるのです。 アブラハム(=多くの国民の父)と呼ばれたこの人が地上で手にしたものは、たった一人の子どもと妻を葬るための墓地だけでした(23章)。 それでも、神の約束を信じ続けて生きる。それが、アブラハムの生き様でした。約束実現の可能性を信じたのではありません。約束してくださったお方を信じたのです。 【祈り】 神様。あなたにとって不可能なことはありません。ただ、あなたがなさることに信頼できますように。 Thu, 06 Jan 2022 00:10:00 +0000 アブラハム(1)信仰の旅の始まり(創世記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220106 no 2022 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。 (創世記12章4節) 天地万物の創造と、人間の堕落を描いた1~11章は、旧約聖書全体が扱う世界の土台または共通基盤を描いた物語と言えましょう。 しかし、『創世記』という書物の中心は、むしろ12章から始まる族長たちの物語にあります。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(1~3節)。 この言葉は、アブラハム物語の出発点だけでなく、これから聖書全体を通して物語られる神の救いの計画の全貌をも指し示す言葉です。 人類の始祖アダムの子孫が拡大する一方で、『創世記』は逆に、アダムからセツ、ノア、セムというように家系を絞り込み、ついに神が選ばれた一人の人物に焦点があてられます。しかも、この一人の人物から始まる子孫を通して、地上のすべての民族が祝福を受けると。 物語の舞台もまた、これまでのメソポタミヤ地方から、今や“神が示す地”へと移ります。神はいったい何をなさろうとしているのか。行く先も目的もわかりません。 ただ「主の言葉に従って旅立った」。それこそがまさに、信仰の旅の始まりなのです。 【祈り】 神様。たといわたしの人生の行く先や目的がわからなくとも、ただあなたに従う信仰を与えてください。 Wed, 05 Jan 2022 00:10:00 +0000 洪水物語 ― 罪の世界と神の眼差し(創世記 6-9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220105 no 2022 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」 (創世記8章21節) 6章から9章までの洪水物語は、人間の堕落によってもたらされた、被造世界への神の審判と再生の物語です。 地上に人は増え広がりましたが、常に悪いことばかりを思い計る人間の増加は、罪と悲惨の現実の拡大に他なりません。 神は人を造ったことを後悔します。人も家畜も空の鳥も「わたしが造った」と繰り返される言葉に、神の無念が表されます。 そのような神の悲しみをよそに、世界は堕落の一途を辿り、今や全く不法に満ちた場所となりました。洪水が起こる前から、世界は罪に沈んだのです。 その中でただ一人、主の恵みを受けたのがノアでした。彼は完全無欠な人間ではありませんが、無垢な心で神と共に歩む人でした。 洪水後の世界に再び動物が放たれた時、神はノアの子孫のみならず、すべての被造物と“平和の契約”を結ばれますが、人間が変わったわけではありません。人間の罪の性質は、洪水でも押し流すことができなかったのです。 それにもかかわらず、依然として罪に沈んだままの世界に、神の新しい救いの物語が始まります。 【祈り】 神様。この罪の世界をなおも保ち続けるあなたの悲しみと慈しみを深く覚えることができますように。 Tue, 04 Jan 2022 00:10:00 +0000 堕落物語 ― 罪と悲惨の世界の希望(創世記 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220104 no 2022 カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられた…。 主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。 (創世記4章25節~26節) 神と人間との“初め”の幸福を描いた創世記は、続く3章と4章で早くもそこから転落して行く人間の姿を描きます。 「必ず死ぬ」という神の警告を無視して人が禁断の木の実に手を伸ばしたのは、目が開けて“神のようになる”との誘惑の言葉の故でした。 しかし、目が開かれて彼らが見たのは、惨めな自分たちの姿と、輝きを失った園の有り様だけでした。確かに彼らの魂は死んだのです。 罪を犯した人間に神が問いかけても、彼らはただ自分の責任を逃れるばかり。神と他者と共に生きる喜びを失った人間の人生は、惨めで苦痛に満ちたものとなりました。 堕落した人間に働く罪の力が収まるどころか世代を越えていよいよ大きくなる様を、続く4章は描きます。 もはや罪を制御できない人間は、兄弟さえもねたみと憎悪から殺してしまいます。やがて、神から離れてさすらう者となった人間たちが築き始めた文明社会もまた、楽園とは似ても似つかぬ暴力社会でした。 それでも神は、人間をお見捨てにはなりません。あっという間に転落していった世界の中で、なお神の御名を呼ぶ礼拝者たちが存在し続けます。彼らこそ、残された希望です。 【祈り】 神様。きょうも罪と悲惨の世界を生きる私たちに、それでもあなたの御名を呼ぶ信仰を与えてください。 Mon, 03 Jan 2022 00:10:00 +0000 創造物語 ― 真に幸福な世界の原点(創世記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220103 no 2022 初めに、神は天地を創造された。 (創世記1章1節) 聖書66巻の最初の書である『創世記』は、全部で50章あります。これを12回で学びます。至難の業ですが、大きな流れを掴むには良い訓練になるでしょう。 ヘブライ語で“初めに”と呼ばれている『創世記』は、世界と歴史の初めだけでなく、神と人間との壮大な物語の“初め”を描く書物です。 とりわけ、1章と2章は、これから物語られていく神とはどのような方か、そして、その神によって造られた人間とは何者かを教える大切な部分です。 そこに描かれる神は、姿を持たない霊なる方です。しかし、その言葉によって意志を表し、万物を創造する全能者、一日一日を刻む歴史の支配者、秩序ある世界を保たれる摂理の神です。 人間は、この神が創造された極めて良い世界で、神と共に生きるために造られた最高傑作です。男女の別なく、神が手ずからご自身に似せて造り、神の息を吹き入れられて「生きる者」となった特別な存在です。 人間を愛してやまない神と共に、人間が互いに心と力を合わせて、輝きに満ちた世界を生きる。ここに、聖書が描く“シャローム(平和)”、そして人間の真に幸福な原点がある、と『創世記』は教えるのです。 【祈り】 造り主なる神様。私たちにとって真に幸いな姿が何なのか、しっかり心に刻むことができますように。 Sun, 02 Jan 2022 00:10:00 +0000 主に知られる幸い(詩編 1編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220102 no 2022 神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る。 (詩編1編6節) 「いかに幸いなことか」(1節)。1節のこの言葉は、キリストが山上で弟子たちに8つの幸い(マタ5章3~12節)を教える際に語られた、「(このような人々は)幸いである」との言葉を思い起こさせます。詩人は、主の教えを愛する人に約束された幸いを確信しており、そのことをすでに喜んでいるのでしょう。 主の教えを愛し、口ずさむ人は、神に逆らって歩まず、そのような道にとどまらず、そのような者と共に座りません。主を愛する人は、生き方、在り方、人間関係までも、そうでない者とは異なるのです。 そのような人が、木にたとえられています。木は自分で植えられる場所を選べません。神がその場所に、木を植えてくださったのです。神に逆らい、風に吹き飛ばされるような者ではなく、大地に根差す木のような人を、時が来れば実を結ぶようにと、主の教えに根差させてくださっていたのです。 そう、神は、神に従う人を知っておられます。むしろ、神に知られることのないものは何一つありません。だからこそ、神に逆らう者は滅びに至ります。しかし、神に従う人は神に知られており、だからこそ、祝福が約束されているのです。 【祈り】 神様、私たちのことを知っていてくださり、今、私たちを、御言葉をもってとらえてくださいましたことを感謝いたします。 Sat, 01 Jan 2022 00:10:00 +0000 主より与えられる新しさ(詩編 98編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20220101 no 2022 新しい歌を主に向かって歌え。 主は驚くべき御業を成し遂げられた。 (詩編98編1節) 「新しい歌」、心躍らされる響きですが、どのような歌なのでしょうか。その後に、「成し遂げられた」、「果たされた」、「留められた」と、過去形で語られています。そしてその主語は「主は」で、それに続くもう一つの過去形である「見た」のは「すべての人」です。しかも、その見たものは、「わたしたちの神の救いの御業」です。 つまり、新しい歌を歌えとは、新しい讃美歌の作成ということではありません。時間的には過去に成し遂げられた、主の救いの驚くべき御業に目を留めることから出てくるものです。それが新しい賛美です。そして、これがあるからこそ、「全地よ」と叫び、そのほめ歌は主を迎えて喜び、「主は来られる」と、さらに目を高く上げていこうと促されます。 こうして、新しい歌は、私たちが御言葉によって魂に命を得て、新しくされたものとなっていきます。これはまさに礼拝においてささげられる賛美の歌声です。 私たちは週毎にこの新しい歌をささげる者とされるために、御前に呼び集められています。きょうから始まった新しい年が、ますます主によって驚くべき救いの御業が示され、賛美をささげる一年となりますよう期待してまいりましょう。 【祈り】 主よ、新しい年もあなたから与えられた御言葉によって御名をたたえていく一年でありますように。 Fri, 31 Dec 2021 00:10:00 +0000 神にとっての宝となる(マラキ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211231 no 2021 わたしが備えているその日に 彼らはわたしにとって宝となると 万軍の主は言われる。 人が自分に仕える子を憐れむように わたしは彼らを憐れむ。 そのとき、あなたたちはもう一度 正しい人と神に逆らう人 神に仕える者と仕えない者との 区別を見るであろう。 (マラキ書3章17節~18節) 捕囚後の堕落していたイスラエルの民に対して、マラキは、「主の日」「審判の日」が到来することを語ります。その日には、宗教的悪と社会的悪を行う者たちが告発されることになります(5節)。それゆえ、マラキは、悔い改めを勧告します。「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる」のです(7節)。 主への立ち帰りは具体的である必要がありました。取り上げられたのは、十分の一の献げ物です。人びとは献げ物において偽りをしていました。それを改めるように主は言われます。また、誠実に献げる者に対して主は約束されます。「必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」と(10節)。 マラキは、主に対する真実な応答には必ず祝福があることを語ります。ある人たちは「神に仕えることはむなしい」と無気力に語っていました(14節)。しかし、主を畏れて主に従う民は、主の日にわたしにとっての「宝」と言っていただけます。主の日は、神に仕える者にとって勝利の日なのです。 Thu, 30 Dec 2021 00:10:00 +0000 共同体の指導者の責任(マラキ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211230 no 2021 だが、あなたたちは道を踏みはずし 教えによって多くの人をつまずかせ レビとの契約を破棄してしまったと 万軍の主は言われる。 わたしも、あなたたちを 民のすべてに軽んじられる価値なき者とした。 あなたたちがわたしの道を守らず 人を偏り見つつ教えたからだ。 (マラキ書2章8節~9節) 捕囚後のイスラエル社会の腐敗の原因は、何より祭司の堕落にありました。主が祭司に求められたことは、神との契約に生きることです。それは「畏れをもたらす契約」です(5節)。それゆえ、祭司は、神に対する畏れをもって、神への契約的応答として、誠実に職務を果たす義務がありました。また祭司は、「真理の教え」を人びとに伝え、それによって「多くの人々を罪から立ち帰らせる」責任がありました(6節)。 しかし、現実の祭司は、主の道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせ、契約を破棄していました(8節)。祭司は共同体の宗教的・倫理的支柱でしたので、彼らの堕落が民にも大きな影響を与えました。イスラエルの民は、結婚における契約を軽んじ、異教徒と結婚するために安易に離婚するようになりました。契約を破る生き方が広がっていました。 このように、指導者のあり方が共同体に決定的な影響を与えます。共同体の指導者である牧師の信仰と生活のために祈りましょう。また牧師を育てる神学校のために祈りましょう。 Wed, 29 Dec 2021 00:10:00 +0000 「正しい礼拝」を求められる主(マラキ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211229 no 2021 わたしに対する尊敬はどこにあるのか。 わたしが主人であるなら わたしに対する畏れはどこにあるのかと 万軍の主はあなたたちに言われる。 わたしの名を軽んずる祭司たちよ あなたたちは言う 我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。 (マラキ書1章6節) 旧約聖書の最後の書であるマラキ書は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民に語られた神の言葉です。紀元前515年に第二神殿が完成しましたが、イスラエルの民は期待したような祝福を味わうことはできませんでした。そのため、多くの者たちは幻滅の内に懐疑的になり、信仰の情熱も失っていきました。 そのような民に対して、「わたしはあなたたちを愛してきた」と主は言われました(2節)。イスラエルは、神に選ばれ、愛された民です。主は、兄のエサウではなく、弟のヤコブを選び、愛されました。神の民が、愛されている根拠は、ただ神の恵み深い御心にあります。 その神が、神の民に求めておられるのは、「正しい礼拝」です。しかし、イスラエルの民の礼拝は腐敗していました。汚れたパンやふさわしくない献げ物がささげられていました。問題は外的行為だけにあったのではありません。それを生み出していたのは、神の御名を軽んじ、侮る、心の態度です。そのような礼拝を、神は喜ばれません(10節)。主は霊と真理による礼拝を待ち望んでおられます。 Tue, 28 Dec 2021 00:10:00 +0000 息あるものはこぞって主を賛美せよ(詩編 150編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211228 no 2021 ハレルヤ。 聖所で 大空の砦で 力強い御業のゆえに 大きな御力のゆえに 角笛を吹いて 神を賛美せよ。 琴と竪琴を奏でて 神を賛美せよ。 … シンバルを響かせて 神を賛美せよ。 息あるものはこぞって 主を賛美せよ。 ハレルヤ。 (詩編150編1節~3節、5節~6節) 神港教会のオルガンには、「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ」が彫られています。人間の喉とパイプオルガンの笛が息を合わせ、神を賛美するというイメージが込められています。 この詩は、角笛、琴、竪琴、太鼓、弦、笛、シンバルと、楽器を伴う神賛美の豊かさを描いています。ギリシア語訳聖書は、角笛をオルガノンと訳し、この言葉が今日のオルガンになっています。英訳聖書はある時期、オルガンでしたが、今はフルートになっています。古代の楽器を思い巡らすのも楽しいことです。 「賛美せよ」が、11回も連呼されています。原語では、「賛美せよ」は「ハレル」です。そして、「賛美せよ」の前と後を「ハレルヤ」が囲っています。150編ある詩編全体、また146編からのハレルヤ詩編は、「ハレル、賛美せよ」の大団円で締め括られます。神の力強い御業、大いなる御力のゆえに、地においても、天においても、神に賛美がささげられます。 神が「命の息を吹き入れられた」(創2章7節)ものはすべて賛美に招かれています。楽器を用い、心を合わせ、皆で「ハレルヤ」と賛美します。 Mon, 27 Dec 2021 00:10:00 +0000 新しい歌を主に向かって歌え(詩編 149編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211227 no 2021 ハレルヤ。 新しい歌を主に向かって歌え。 … 主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。 … 口には神をあがめる歌があり 手には両刃の剣を持つ。 … 王たちを鎖につなぎ 君侯に鉄の枷をはめ 定められた裁きをする。 … ハレルヤ。 (詩編149編1節、4節、6節、8~9節) 主に向かって歌う「新しい歌」には、主が新しい御業を行われるという期待が込められています。賛美するのは、主の慈しみに生きる人、イスラエル、シオンの子、主の民、貧しい人です。貧しい人とは、主の前にへりくだり、主の慈しみを慕い求める者です。 主が新しい業をなされるとき、王なる主に反逆し、主の民を苦しめる者に、裁きが下されます。国々、諸国の民、王たち、君侯が、鎖につながれ、鉄の枷をはめられます。それにより、主の民は、解放され、救いの輝きで装われます。 この詩でドキッとするのは、「口には神をあがめる歌」「手には両刃の剣」の節です(6節)。主の民が手に剣を持ち、自らの手で報復し、神を賛美するイメージです。宗教戦争において実際に歌われたこともあるとのことです。 貧しい者が幸いを受ける神の支配が、主イエスにより到来しました(ルカ6章20節)。十字架へとへりくだられた主イエスを神は引き上げ、神賛美は終末において完成します(フィリ2章6~11節)。復讐心を手放し、手にした御言葉の剣を自らに向け(エフェ6章17節)、悔い改め心新たに、「ハレルヤ」と賛美します。 Sun, 26 Dec 2021 00:10:00 +0000 暗闇に輝いている命の光(ヨハネによる福音書 1章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211226 no 2021 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 (ヨハネによる福音書1章3節~5節) ヨハネ福音書はキリストを「言」と表現します。言は天地創造の「初め」に神と共に存在していました。その言が「肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これがクリスマスに起こった出来事です。 万物は言によって成りました。そして、「言の内に命があった」。すなわち言こそ、あらゆるものの命の根源です。そして、その命は「人間を照らす光」でもありました。ところが人間は、命の根源であり、光である言に背くことによって、暗闇と死の陰の中を歩まねばならなくなったのです。 しかし、今や「光は暗闇の中で輝いている」。それは言が肉となって私たちの間に宿られ、まことの光が世に到来したからです。 「暗闇は光を理解しなかった」という言葉は、他の多くの翻訳のように、「暗闇は光に打ち勝たなかった」と理解するほうがよいでしょう。世界はなお暗闇に覆われているかのようです。しかし、その中で光はすでに輝いています。そして、どれほど深い暗闇も光を征服することはできません。私たちを照らす命の光は暗闇の中で輝き続けているのです。ここに私たちの希望と喜びがあります。 Sat, 25 Dec 2021 00:10:00 +0000 星に導かれた異邦人の礼拝(マタイによる福音書 2章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211225 no 2021 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 (マタイによる福音書2章10節~11節) クリスマスとはChrist(キリスト)とmas(ミサ・礼拝)から成る言葉で、「キリストの礼拝」を意味します。マタイ福音書によれば、主イエスがベツレヘムでお生まれになったとき、主イエスを礼拝したのは東方からやって来た占星術の学者たちでした。彼らはメシアの星を見たので、はるばるエルサレムまでやってきたのです。 それを聞いたヘロデ王やエルサレムの人びとは不安を抱きました。自分の現在の地位や特権が脅かされると思ったのでしょう。彼らはベツレヘムにメシアが生まれたと知りながら、誰一人礼拝しに行こうとはしません。ヘロデに至っては後で殺すつもりでいました。他方、占星術の学者たちは先立つ星によって主イエスのいる場所まで導かれました。そして、彼らは大きな喜びをもって幼子イエスを礼拝し、持ってきた宝を献げました。 神は占星術という異教的なものさえ用い、彼らにキリストの誕生を知らせ、キリストを礼拝するよう導かれました。同じように、神は異邦人である私たちがキリストを礼拝するよう導いてくださいます。大きな喜びをもってキリストを拝み、持てるものを献げて仕えていきましょう。 Fri, 24 Dec 2021 00:10:00 +0000 飼い葉桶に寝かされた救い主(ルカによる福音書 2章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211224 no 2021 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 (ルカによる福音書2章11節~12節) ローマ皇帝による住民登録の命令に翻弄されるように、ヨセフとマリアはダビデの町ベツレヘムに上って行きました。そこでマリアは月が満ちて初めての子を産みました。生まれた男の子は布にくるまれ、飼い葉桶すなわち家畜のエサ入れに寝かせられました。宿屋には彼らの居場所がなかったからです。 この主イエス誕生の知らせが真っ先に伝えられたのは、その地方で野宿をしていた羊飼いたちでした。羊飼いはその職業柄、安息日などの律法を守ることができず、人びとから軽蔑されていました。そのような彼らに主の天使が近づき、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と大きな喜びの知らせを伝えました。当時はローマ皇帝が「世界の救い主」と呼ばれていましたが、天使は「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」こそ、「あなたがたのための救い主」だと告げたのです。 飼い葉桶にお生まれになった主イエスこそ私たちのまことの救い主です。この世で自分の居場所がないような人びとにも主イエスは寄り添い、救いと喜びを与えてくださいます。 Thu, 23 Dec 2021 00:10:00 +0000 平和の道へ導く光(ルカによる福音書 1章67-80節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211223 no 2021 「これは我らの神の憐れみの心による。 この憐れみによって、 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、 我らの歩みを平和の道に導く。」 (ルカによる福音書1章78節~79節) ザカリアの預言によれば、キリストがもたらしてくださった「救い」とは「敵の手からの救い」であると同時に「罪の赦しによる救い」でもあります。サタンの支配下で私たちが犯してきた罪の責任は私たち自身にあります。それゆえ罪が赦されなければ、まことの救いはありません。 そして、「罪の赦しによる救い」は、ただ「我らの神の憐れみの心による」ことです。「心」とは「はらわた、内臓」を意味する言葉です。はらわたを揺り動かすほど深い神の憐れみのゆえに、私たちは罪赦され、救われました。 その神の憐れみによって、「あけぼのの光」すなわち夜明けの光が私たちを訪れました。夜明けの光は普通、東の地平線から昇りますが、この光は「高い所」すなわち神ご自身のもとから私たちを訪れました。この光は、神に背いて罪を犯したがゆえに「暗闇と死の陰に座す」しかなくなっていた私たちを照らしてくれました。そして私たちの足を破壊と悲惨の道ではなく、「平和の道」へとまっすぐに導いてくれるのです。 この光に照らされ、導かれて歩むことができるとは、なんと幸いなことでしょう。 Wed, 22 Dec 2021 00:10:00 +0000 救いの角による敵からの救い(ルカによる福音書 1章67-75節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211222 no 2021 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。 主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、 僕ダビデの家から起こされた。 昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに。 それは、我らの敵、 すべて我らを憎む者の手からの救い。」 (ルカによる福音書1章68節~71節) ザカリアは聖霊に満たされて預言しました。イエス・キリストこそ神が私たちのためにダビデの家から起こされた「救いの角」です。「角」とは力の象徴です。野牛がその角によって敵と戦うように、「救いの角」であるイエス・キリストは私たちのために戦い、「我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」をもたらしてくださいます。 では、「我らの敵」とはいったい誰のことでしょうか。当時のユダヤ人の多くはローマ帝国を敵とみなしていたかもしれません。しかし、ここで言われている敵とは、私たちが「恐れなく主に仕える」ことを妨げる敵であり、本質的にはサタンのことです(ルカ10章18、19節参照)。 私たちはかつてサタンの支配下にあり、罪と過ちの中を歩み、死と滅びを恐れなければなりませんでした。しかし、神は私たちをサタンの手から救い出し、私たちが恐れなく主に仕えることができるよう「救いの角」を起こしてくださいました。それはただ神の契約に対する真実と憐れみのゆえです。 私たちは感謝をもって神をほめたたえつつ、日々主に仕えて参りましょう。 Tue, 21 Dec 2021 00:10:00 +0000 低き者を高めたまう神(ルカによる福音書 1章46-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211221 no 2021 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて 憐れみをお忘れになりません。 (ルカによる福音書1章51節~54節) マリアは神の恵みによって御子イエスを身ごもることになりました。マリアは神を賛美して言いました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と。 「主をあがめる」とは「主を大きくする、偉大なものとする」という意味があります。マリアは神から特別な恵みを受けましたが、決して思い上がることはありませんでした。むしろ、主が、はしためである自分の低さに目を留め、偉大なことをしてくださったと言って、主を偉大なお方として喜びたたえたのです。 この神の憐れみはマリアだけではなく、主を畏れる者に代々限りなく及びます。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろ」される一方、「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」てくださいます。 神が私たちをイエス・キリストによって救ってくださったのは、私たちの低さ、貧しさに目を留め、憐れんでくださったからです。ですから私たちは思い上がることなく、神を偉大なお方として喜びたたえましょう。 Mon, 20 Dec 2021 00:10:00 +0000 インマヌエル ―神が我々と共に―(マタイによる福音書 1章18-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211220 no 2021 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 (マタイによる福音書1章23節) 主イエスは聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになりました。それは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言の実現でした。「インマヌエル」とは「神が我々と共におられる」という意味です。 もともと神によって創造された人間は神と共に幸せに生きていました。しかし、人間が神に背いて罪を犯したためにエデンの園から追放されてしまったのです。またイスラエルの民は神によってエジプトから救い出されたにも関わらず、繰り返し神に背き、神の怒りと裁きを招くことになりました。この「罪」こそ人間が陥った悲惨の根本原因であり、神と人間とを隔てる壁です。 しかし、主イエスが十字架の死によって罪という隔ての壁を取り除き、私たちを罪から救ってくださいました。そして、復活された主は弟子たちに言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)。それゆえ、私たちはいつも主イエスが、すなわち神が、私たちと共におられることを確信することができるのです。 Sun, 19 Dec 2021 00:10:00 +0000 時が満ち、遣わされた神の御子(ガラテヤの信徒への手紙 4章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211219 no 2021 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 (ガラテヤの信徒への手紙4章3節~5節) クリスマス、それは父なる神が御子を遣わしてくださったことを喜び祝うときです。 神が御子を遣わしてくださったのは「時が満ちた」ときに起こった出来事です。少しずつコップに水を注いでいくとやがて一杯になるように、神が定めておられた時が満ちたのです。 神は、ご自分の御子を「女から、しかも律法の下に生まれた者」としてお遣わしになりました。いと高き神の御子が私たちと同じ人間として、律法の下にお生まれになった。ここには驚くべきへりくだりがあります。 それは私たちの救いのためでした。私たちはかつて「世を支配する諸霊」に奴隷として仕えており、その罪と過ちのゆえに律法の呪いを受けなければならない者でした。御子イエスは私たちの代わりに十字架上で呪いを受け、死んでくださいました。御子を信じる私たちは今や律法の呪いから贖い出され、神の子とされています。そして子であれば、御国を受け継ぐ相続人でもあります。 御子の派遣こそ神の救いの歴史における偉大な転換点です。私たちは今既にその恵みの中にあります。 Sat, 18 Dec 2021 00:10:00 +0000 すべてのものよ、主を賛美せよ(詩編 148編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211218 no 2021 ハレルヤ。 天において … 御使いらよ … 主の御名を賛美せよ。 … 地において … 山々よ、すべての丘よ … 地上の王よ、諸国の民よ 君主よ、地上の支配者よ 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。 主の御名を賛美せよ。 … 主は御自分の民の角を高く上げてくださる。 … ハレルヤ。 (詩編148編1節~2節、5節、7節、9節、11節~14節) 私たちキリスト者は、会堂で賛美をこぢんまりとささげている感じです。だからこそ、この詩のような壮大な神賛美を必要としています。 「すべて」という言葉が、9回も原文では用いられています。天においては、御使い、主の万軍、輝く星がすべて、賛美へと招かれています。天に属するものも被造物で、創造主をほめ讃えています。 地においては、丘、杉の林、家畜がすべて、賛美へと招かれます。火よ、雹よ、雪よ、霧よ、嵐よ、と自然現象を列挙します。地を這うものよ、翼ある鳥よと呼びかけます。若者、おとめ、老人、幼子を問わずすべての人が、地に住む一員として賛美します。 この詩は、イスラエルの民だけでなく、諸国の民、すべての王や支配者を地における賛美に組み込みます。天地に満ちている主の威光を賛美する義務を免除される王や民は、誰一人いません。 すべてから賛美を受けられる主が、特に御自分の民を心にかけてくださいます。主の慈しみに生きる私たちは、すべての王や諸国の民が賛美する終末の完成に先立ち、自然界とも心を合わせ、「ハレルヤ」と賛美します。 Fri, 17 Dec 2021 00:10:00 +0000 耐えられない冷たさの中にあっても(詩編 147編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211217 no 2021 ハレルヤ … 羊の毛のような雪を降らせ 灰のような霜をまき散らし 氷塊をパン屑のように投げられる。 誰がその冷たさに耐ええよう。 御言葉を遣わされれば、それは溶け 息を吹きかけられれば、流れる水となる。 … ハレルヤ。 (詩編147編1節、16節~18節、20節) 冬になり気温が下がると、雨になるはずの水分は雪や霜や氷塊となります。この自然界の営みはすべて、神の仰せ、御言葉によっている、と作者は理解しています。 現代人は、もっと科学的に説明するでしょう。しかし、創世記にある通り、神が光あれと言われると光がありました。そのような信仰的な眼差しで見れば、水が御言葉により形を変えている、という理解も納得できます。 本詩の背景は、バビロン捕囚からの解放です。主は、「追いやられた人々を集め」「打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」憐れみ深いお方です(2、3節)。冬の描写は、苦しかった過去と関わりがあるかもしれません。耐えられないような「冷たさ」を体験しても、御言葉により氷塊が溶けることを知れば、希望が心を温めます。 私たちは苦難の中にあっても「馬の勇ましさ」や「人の足の速さ」(能力)を憧れません(10節)。「御言葉は速やかに走」り(15節)、私たちを先回りし、すべてを整えます。御言葉に依り頼み、「主の慈しみを待ち望」み(11節)、「ハレルヤ」と賛美します。 Thu, 16 Dec 2021 00:10:00 +0000 ハレルヤ 主を賛美せよ(詩編 146編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211216 no 2021 ハレルヤ。 わたしの魂よ、主を賛美せよ。 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。 … 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。 … 主はとこしえの王。 … ハレルヤ。 (詩編146編1節~2節、8節、10節) 146編から150編は、ハレルヤで始まりハレルヤで終わるハレルヤ詩編と呼ばれています。主を賛美し、今年を締め括りましょう。 1節で作者は、「ハレルヤ」、つまり、あなたがたは主を賛美せよ、と会衆に呼びかけ、「わたしの魂よ、主(ヤーウェ:尊厳を表す呼び名)を賛美せよ」、と主の偉大さに思いを馳せています。賛美は、自然に湧き上がる訳ではありません。私たちは賛美においても怠惰です。賛美へと導いてくれる人の助けが必要で、自分でも自らを賛美へと鼓舞し、皆で主を賛美します。 2節で、命のある限り賛美を続ける、と賛美への決心を語ります。「ほめ歌をうたおう」は、声を出し、音楽を伴って、賛美を歌うことです。原語は韻を踏んでいます。音楽や詩の力をも借りて、生きている限り、賛美します。 「主を賛美し…わたしの神にほめ歌をうたおう」は、偉大な「主」(ヤーウェ)を、「わたしの神」と言い換えています。「とこしえに王」なる主は、特に弱さを抱える者を憐れんでくださいます。偉大な主が、私たちを覚えてくださいます。この感謝をもって、「ハレルヤ」と賛美します。 Wed, 15 Dec 2021 00:10:00 +0000 民のただ中にいます主(ゼファニヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211215 no 2021 娘シオンよ、喜び叫べ。 イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。 娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。 主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。 イスラエルの王なる主はお前の中におられる。 お前はもはや、災いを恐れることはない。 (ゼファニヤ書3章14節~15節) どんなに腐敗した時代でも希望があります。主を礼拝する新しい民を与えると神が約束されたからです。異邦人の中から礼拝者へと変えられた者たちが来ます(9、10節)。何より神は、イスラエルに主のみを避け所とする民を残してくださいます(12、13節)。心の底から喜び躍れと招かれています(14節)。 喜びの中心は、王なる主が私たちを集めてくださり、民のただ中にいてくださることです。ゼファニヤの預言から約600年後、マタイは旧約預言の成就を記します。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル、神は我々と共におられる」。占星術の学者たちはユダヤ人の王としてお生まれになった方にお会いしました。ひれ伏して幼子を拝み、宝物を献げました(マタ2章)。 今、主イエスは天におられますが、民のただ中に臨在する主です。天と地の一切の権能を授かっておられる主が「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)と約束していてくださいます。 Tue, 14 Dec 2021 00:10:00 +0000 全世界の支配者、審判者である万軍の主(ゼファニヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211214 no 2021 これが、かつてにぎやかであった都だろうか。 かつて、人々は安らかに住み、心の中で 「わたしだけだ。 わたしのほかにだれもいない」と言っていた。 どうして、都は荒れ果て 獣の伏す所となってしまったのか。 ここを通り過ぎる者は皆 驚きのあまり、口笛を吹き、手を横に振る。 (ゼファニヤ書2章15節) 裁きは神の家から始まります(1ペト4章17節参照)。すでに北イスラエル王国が滅ぼされました。それを対岸の火事として見物して、福音に聞き従わない諸国はどうなるのでしょうか。 預言者ゼファニヤは神の民のことのみを思う内向きの人ではありません。世界は神のものですから、周辺諸国を順番に取り上げます。西隣のペリシテの国々(ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロン)、東隣の国々(モアブ、アンモン)、南方のクシュ、北方のアッシリア。特にアッシリアは最も力ある国でした。自分たちは安全だと思っていました。神に背く人間の傲慢と罪深さです。 歴史は、ただ時が進むのではありません。万軍の主の介入がある歴史です。神の民が裁かれるならば、神に従わない民も当然、裁かれます。その頂点としてのアッシリアです。ゼファニヤの預言から20年もしないうちに実現し、都ニネベは完全に荒れ地となりました(15節)。 十字架のイエス・キリストだけが唯一の救い主です。主の忍耐に感謝し、待ちつつ急ぎつつ福音宣教に励みましょう(2ペト3章8、9節)。 Mon, 13 Dec 2021 00:10:00 +0000 主の大いなる日(ゼファニヤ書 1章1節-2章3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211213 no 2021 主の大いなる日は近づいている。 極めて速やかに近づいている。 聞け、主の日にあがる声を。 その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。 その日は憤りの日 苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日 闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。 (ゼファニヤ書1章14節~15節) 「主の日」という言葉が1章の中に8回、出てきます。「主の大いなる日は近づいている」(14節)、「その日は憤りの日」(15節)などです。 すでに北イスラエル王国は滅びました。それなのに、直ぐ隣で起こったことに少しも学ばない南ユダ王国の現実がありました。神の民なのに神から遠く離れている。それは最悪の王マナセ、アモンの支配が57年間も続いたからです(王下21章)。やっと最善の王と言われるヨシヤが即位しましたが、困難を極めています。主は語られます、「わたしは地の面から、すべてのものを一掃する、と」(2節)。預言者ゼファニヤは、耳を傾ける者が少なくても、主の言葉に聴く者がいると信じて語ります。 歴史は無限に続くのではありません。やがて来たる「主の日」は、神が御国を完成される日です。しかしそれは神を信じない者、神なしに歩む者には、神の怒りの日、裁きの日。ですから「主を求めよ」「この地のすべての人々よ、恵みの業を求めよ」と勧められます(2章3節)。 主イエスは素晴らしい救い主です。「御子を信じる者は裁かれない」(ヨハ3章18節)。 Sun, 12 Dec 2021 00:10:00 +0000 恐れと不安のただ中に主は来られる(イザヤ書 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211212 no 2021 心おののく人々に言え。 「雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。 神は来て、あなたたちを救われる。」 (イザヤ書35章4節) 1節で「荒れ地よ」と呼びかけられています。これはシオンの民、私たちのことです。3節で「弱った手」、「よろめく膝」とあり、4節で「心おののく人々」とありますが、これが民の現状です。「雄々しくあれ、恐れるな」と呼びかけられているのは、とても雄々しくなんていられない、何かに恐怖しなければならない現状がそこにはあったということでしょう。5節でも、「見えない人」、「聞こえない人」と言われています。悩みや恐怖のあまりに目を覆うような、声も上げられない現実があります。そういう人びとに対して、今イザヤが呼びかけていることが分かります。そういった苦しみのただ中に神は来られ、敵と戦い、救おうとされます。平和とは言えない中に、御子は来られるのです。 私たちもこの年、いいえ、昨年より、不安と恐れの中で生活してきました。心折れそうな現実がコロナ禍のなかであったと想像いたします。平和ではない現状が確かにあった。そこを直視した時に、そこに救い主が来られる。これが預言者からの希望の託宣です。 Sat, 11 Dec 2021 00:10:00 +0000 神の裁きの前では無力(ナホム書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211211 no 2021 お前は空の星よりも商人の数を多くした。 しかし、いなごは羽を広げて飛び去るのみ。 (ナホム書3章16節) 3章にも、引き続きニネベが陥落するときの混乱状態が描かれています。ナホムは、8節で、エジプトの古代都市テーベから学べと言います。テーベの町は水に囲まれ、自然の城壁をもっていたが、それでも攻略された。ましてや自然の城壁をもたないニネベが滅びるのは火を見るよりも明らかではないか、と。テーベは、預言者エゼキエルによって滅びが告げられ(エゼ30章14節)、アッシリアやローマによって滅ぼされました。神の裁きの前には、地の利など何の役にも立ちません。 また、こうも言います。「籠城に備えて水をくみ、要塞を堅固にせよ。…その所で、火はお前を焼き尽く」す(14、15節)。神の裁きの前には、人間の努力など何の役にも立たないということです。さらに16節には、「空の星よりも商人の数を多くした」としても、イナゴのような人たちに略奪されると言われます。神の裁きの前には富も何の役にも立ちません。 私たちは、神の裁きの前で全く無力です。そうであるならば、心から悔い改めて、主イエスの十字架の恵みに頼るほかはないでしょう。主なる神は憐れみ深く、私たちが立ち帰ることをお待ちなのです。 Fri, 10 Dec 2021 00:10:00 +0000 神の時を待つ(ナホム書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211210 no 2021 見よ、良い知らせを伝え 平和を告げる者の足は山の上を行く。 … 主はヤコブの誇りを回復される イスラエルの誇りも同じように。 略奪する者が彼らを略奪し その枝を荒らしはしたが。 (ナホム書2章1節、3節) 2章には、アッシリアの首都ニネベの町が外国の軍隊に攻められ、陥落する時の混乱状態が描かれています。このとき、既に北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国も脅威にさらされていました。それはイスラエルが罪を犯したからです。神はアッシリアを用いて、神の民イスラエルを懲らしめられたのでした。 とは言え、アッシリアの罪が赦されるわけではありません。3節後半の描写は、アッシリアの略奪があまりにも残虐であり、無慈悲であったことを言い表しています。アッシリアは神の道具として用いられましたが、彼らの悪は甚だしく、決して神の喜ばれるものではありません。彼らが自らの邪悪さのゆえに滅ぼされることを通して、神の義が打ち立てられます。ですから、ニネベの陥落が「良い知らせ」なのです。 私たちも、しばしば邪悪な存在に苦しめられることがあります。しかし、神は必ずや、その罪を問われるお方です。また同時に、神は無意味なことは決してなさいません。その苦しみには、きっと意味があるのです。自ら悔い改めるべき点はしっかりと悔い改め、神による解決の時を忍耐強く、希望をもって待ちましょう。 Thu, 09 Dec 2021 00:10:00 +0000 神の憐れみと報復(ナホム書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211209 no 2021 主は恵み深く、苦しみの日には砦となり 主に身を寄せる者を御心に留められる。 (ナホム書1章7節) ナホムは、バビロン捕囚前の南ユダ王国に遣わされた預言者でした。当時、南ユダ王国は、アッシリア帝国の脅威に悩まされていました。そのような中で、ナホム書は、神を信じる人びとを苦しめるニネベ(アッシリア帝国の首都)に対する神の怒りと報復を預言しています。 しかし、神はただ報復する神ではありません。忍耐される神です。神はかつてニネベを救うためにヨナを遣わし、「この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」と言われました(ヨナ4章11節)。ニネベの人びとは、その時は神を信じ、悔い改めました。ですから、主なる神は惜しむ神、憐れまれる神であられます。しかし、世代が変わるとまた元に戻ってしまいました。深い憐れみを示されたにもかかわらず頑な態度であったため、ついにニネベに報復が宣告されてしまったのでした。 私たちは、神のこの厳しい裁きに恐れを覚えます。しかし、これは裏を返せば、虐げられている信仰者に対する神の深い愛情でもあるのです。神は、苦しみの日には砦となり、神に身を寄せる者を御心に留めてくださいます。今の私たちも、神のこの変わらぬ愛情によって、支えられているのです。 Wed, 08 Dec 2021 00:10:00 +0000 平和を与える主(ハガイ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211208 no 2021 「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると 万軍の主は言われる。 この場所にわたしは平和を与える」と 万軍の主は言われる。 (ハガイ書2章9節) 様々な妨げを乗り越えて、神殿建築が再開されても、かつてソロモン王によって建てられた神殿には到底及ばないことを嘆く民に、神は励ましを与えられます。「勇気を出せ」「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている」と。 神殿は何のために再建されるのでしょうか。それは民族再興の威信をかけてなされるのではありません。そこでなされる礼拝が最も大切なことです。礼拝で大切なことは建物の豪華さではなく、神がそこに居てくださること、そしてその神を神とする心がそこにあることです。 「新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる」「この場所にわたしは平和を与える」(9節)、「(足りない)ぶどう酒」(16節)、「ぶどう、いちじく…まだ実を結んでいない」(19節)。明らかに主イエスを想わせられる新約へのパスワードがきらめいています。ハガイ自身、どれほど預かった御言葉の意味を知り得ていたでしょうか。ハガイの預言の500年後、御子イエスが真の救い主として来られます。 今年も、待降節にあって深い慰めを与えられる喜びを覚え、主に感謝します。 Tue, 07 Dec 2021 00:10:00 +0000 わたしはあなたたちと共にいる(ハガイ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211207 no 2021 主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼の言葉を通して、彼らの神、主の御声に耳を傾けた。民は主を畏れ敬った。主の使者ハガイは、主の派遣に従い、民に告げて言った。「わたしはあなたたちと共にいる、と主は言われる。」 (ハガイ書1章12節~13節) ペルシアの寛容政策により、捕囚となっていた南ユダ王国の人たちにも帰国と神殿再建が許されました。しかし、先陣を切って希望に溢れて帰還した民を待ち受けていたのは、周辺諸民族との摩擦や経済的困窮でした。そのため、18年もの間、神殿再建は中断してしまいました。神は、預言者ハガイを通して、民があらがうことのできない状況とその時代のせいにして自己本位と不信仰に陥っていると、その罪をあらわにして反省を促されました。 預言者ハガイの言葉に民は「耳を傾け」「主を畏れ敬った」とあるのは、あきらかに悔い改めが起こったのです。だから、主はその民に力強く「わたしはあなたたちと共にいる」と励まされました。 確かに、私たちも困難な時代にあると言えます。伝道は進展せず、教会の生活や信仰の歩みはなかなか確固としたものにはなりません。しかし、どうにもならない現実を真っ直ぐ見るなら、そこに確かに支え導いてくださる神の御手も見えるはずです。 苦しみもがく者を慰め励まし(エゼ16章6節)、いつも私たちと共にいてくださる神に感謝しましょう。 Mon, 06 Dec 2021 00:10:00 +0000 神殿再建に動くペルシアの王キュロス(歴代誌下 36章11-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211206 no 2021 「ペルシアの王キュロスはこう言う。 天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」 (歴代誌下36章23節) ダビデが準備し、ソロモンが完成させ、ヨシヤら正しき王の尽力が献げられた神殿は、幾多の神の憐れみが注がれたにも関わらず、幾度もの立ち帰りの機会が与えられたにも関わらず、幾重にも王と民とに汚されることで、ついに神の怒りを受けることになりました。 神が遣わされたバビロンによって「神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊され」ました(19節)。多くの民がバビロンに連れて行かれることにもなりました。が、その結末に至ることで、「この地はついに安息を取り戻した」(21節)と記されます。神殿に巣を張った大きな罪を誰も取り除くことはできませんでした。大きな悪の流れを止めることはできませんでした。しかし、心ある貧しき者たちは涙を流し、悲しみを叫び、神の憐れみを祈り求めていました。神は神殿を壊すことで、その意味を回復されます。さらに、その先に新しい神殿をペルシアの王をも用いて準備されます。もう一度やり直すためです。 神はいつでも、どこからでも私たちに希望を与えてくださいます。「神なる主がその者と共にいてくださるように」。 Sun, 05 Dec 2021 00:10:00 +0000 聖霊と火で脱穀されて(マタイによる福音書 3章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211205 no 2021 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』」 … 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」 (マタイによる福音書3章3節、8節) ヨハネはこの箇所で私たちに「悔い改め」を促しています。御子を迎える準備として、「悔い改めにふさわしい実を結」ぶことが求められています(8節)。 しかしこの待降節に、悔い改めの実を結ぶにはどうしたら良いのでしょうか。12節の「麦の実とその殻」にそのヒントがあるようです。私たちの実、心は本当に柔らかく、傷つき易いものです。実が剥き出しのままでは危険ですのでこれを守る殻があるわけですが、では、皆さんにとって殻に当たる部分とは何でしょうか。プライドでしょうか、経験や技能でしょうか、或いは照れ隠しや虚栄、嘘の類でしょうか。実を鎧の如く堅く守るものがそれぞれあったと思います。しかしクリスマスに来られる方は、そういった殻を脱穀なさる。そして実だけを天の倉に入れてくださる方です。 救い主キリストの前に、そのような殻は必要ないのです。心から悔い改めて、主の御前に真心剥き出しとなって御子を迎える備えをすること。待降節のこのとき、これこそ私たちに求められていることです。 Sat, 04 Dec 2021 00:10:00 +0000 神殿の意味を取り戻そうとした王ヨシヤ(歴代誌下 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211204 no 2021 ヨシヤは8歳で王となり、31年間エルサレムで王位にあった。… 主の神殿に寄せられた献金が取り出されている間に、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけ、書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。 (歴代誌下34章1節、14節~15節) ソロモンの時代に築かれた神殿は時代を経るごとに本来の意味が見失われていったように見えます。その人間の愚かさを端的に表す出来事がヨシヤ王の時代に起こりました。 「父祖ダビデの道を歩み」と紹介されるヨシヤ王は国中の偶像や祭壇を壊し、ユダとエルサレムを徹底的に清めることに奔走します。神殿の修理にも取り掛かりました。その工事の最中、神殿から「モーセによる主の律法の書」が見つかったというのです。神殿から神の教えが失われていたという、その笑えない喜劇の中に放り込まれたヨシヤは誠実に悲しみ、国が落日のもとにある原因を再確認します。神は激しく怒っておられる。ヨシヤはすぐに民を集め、共に律法に耳を傾けます。そして、誓います。主に従って歩もうと。神殿はそのための場所でした。神に叫び、祈り、その教えに正されることで神に立ち帰る場所でした。 その後の歴史を知る私たちです。しかし、ヨシヤのなしたことを無益であるとは決して言いたくありません。ヨシヤの焦りを、涙を、その誓いを神はきっと御手に抱いてくださったに違いない。それと似た誠実な尽力が今、私たちの前にも積み重ねられているはずです。 Fri, 03 Dec 2021 00:10:00 +0000 最初の神殿を完成させた王ソロモン(歴代誌下 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211203 no 2021 ソロモン王は、主の神殿のために行われてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他あらゆる祭具を運び入れ、神殿の宝物庫に納めた。 (歴代誌下5章1節) ソロモンが油注がれ、王とされた時、彼の目の前には為すべき神殿建設の事業が備えられていました。既に必要な物と人とを父ダビデが準備してくれています。土地も定められています。すべてのお膳立てがなされていて、ソロモンは建設開始の命令だけを出す状況にありました。が、その号令を出すソロモンには芽生える思いがありました。「神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか」(2章5節)。神殿建設をダビデから引き継いだソロモンは併せて、神の御前に身を低く正すという麗しき賜物をも引き継いでいました。 神にふさわしい住まいを人間が造れるはずがありません。そのことを誰よりもよく弁えたソロモンは完成した神殿で祈ります。「どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」(6章21節)。神殿は、神にふさわしくない人間が、叫び、祈り、立ち帰る場だというのです。その時、「あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう」(6章41節)という奇蹟が起きる場だというのです。 人間の貧しさを知り、神の慈しみを仰ぐ人を神は神殿建設者に召されたのでした。 Thu, 02 Dec 2021 00:10:00 +0000 神殿を準備する王ダビデ(歴代誌上 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211202 no 2021 ダビデは、「わが子ソロモンは、主のために壮大な神殿を築き、その名声と光輝を万国に行き渡らせるためにはまだ若くて弱い。わたしが準備しなければならない」と言って、死ぬ前に多くの準備をした。 (歴代誌上22章5節) 神殿建設の志を抱きながらも、その仕事を果たすのは「あなたではない」(17章4節)と神から告げられたダビデは、しかし、「あなたの子孫」が「わたしのために家」を建てるという約束を神から聞くことになります。生涯をかけた志が阻まれる、その瞬間に、自分の思いを越えた神の慈しみの広がりを知らされたのでした。ダビデは、神の御前に身をただし、祝福の厳しさも深さも、その一切を「恵みの御言葉」(同26節)として受け止めます。 そこから、歴代誌が記すのは、神殿を築く準備に全力を尽くすダビデの姿です。資材と職人とを集め、同時に祭司、レビ人を組織し、主を賛美する集団を整えます。自らの財産も寄贈し、イスラエル諸部族に献げ物を呼びかけました。 自分が神殿を見ることはないことを承知していながら、ダビデは準備の一つひとつに、神の祝福の痕跡をなぞるように喜びを見つけていきます(29章17節)。挫折から始まった大事業の準備には不安が伴ったはずです。しかし、「おじけてはならない」(22章13節)と「安らぎの人」たるソロモンに言葉を贈るダビデは、神の慈しみの大きさの中に安らいでいるように見えます。 Wed, 01 Dec 2021 00:10:00 +0000 世々限りなく賛美される主(詩編 145編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211201 no 2021 わたしの王、神よ、あなたをあがめ 世々限りなく御名をたたえます。 絶えることなくあなたをたたえ 世々限りなく御名を賛美します。 (詩編145章1節~2節) 悩み苦しむ日に、まっすぐに神の御前に導かれる心は幸いです。素直に自分の小ささ、狭さ、弱さ、無力さを認め始めるからです。主を仰ぐ心は、そのような自分にこだわり続けません。「大いなる主、限りなく賛美される主、大きな御業は究めることもできません」(3節)。 大いなる主に近づいて祈る心は、すでに祈りの答えを得ています。私たちを悩ます問題の数々にとらえられたままではありません。確かに、それらは解決の道も見えず、心が重くなるばかりかもしれません。しかし、神の御前にへりくだって祈る人にとって、賛美こそが、主が備えてくださった「逃れる道」です(1コリ10章13節)。もっと正確に言えば、日ごとに逃れる道であり、最期の一日にも、身と心を置くべきところです。ですから賛美は、祈りの答えです。 今はしばらくの間、忍耐と希望をもって喜ぶ時です。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ロマ8章18節)。 「世々限りなく賛美される主」が共におられます。 Tue, 30 Nov 2021 00:10:00 +0000 幸いな民(詩編 144編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211130 no 2021 いかに幸いなことか、このような民は。 いかに幸いなことか 主を神といただく民は。 (詩編144編15節) 主を信じる人びとは、幸いな民です。その幸いはまず信仰によって確認されるべき幸いです。そのため、その幸いを確認し確信するために、ずいぶん苦悩するということがあるでしょう。 ヨブは試練の果てに、悔い改めて主を仰ぎ見たときに、すでに幸いでした。「わたしは…自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42章6節)。 ダビデも、いろいろな試練の中で、主の御言葉によって主を仰いでは喜んでいました。「仰せを受けてわたしは喜びます、多くの戦利品を得たかのように」(詩119編162節)。 ここには、信仰の戦いに勝利する人の姿があります。信じる者の幸いは、その途上において知られるべきものです。いろいろな試練に戸惑い、疲れを覚えるときに、主が「戦するすべを教えてくださる方」であることを思い起こしましょう(1節)。主は、必ず絶えず祈れるように、どんなことにも感謝できるように、またいつも喜べるように導いてくださるでしょう。そのような戦いを続ける民は、幸いです。 主が、その幸いを証しさせてくださいますように。 Mon, 29 Nov 2021 00:10:00 +0000 安らかな地に(詩編 143編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211129 no 2021 御旨を行うすべを教えてください。 あなたはわたしの神。 恵み深いあなたの霊によって 安らかな地に導いてください。 (詩編143編10節) 容赦のない敵に苦しめられています。しかし、誰が敵で、誰が味方なのか。簡単には決められません。同じ人が相手でも、何か不都合なことが起きれば、敵対し始めるかもしれません。人と人との関係には、いつも不安定なものがつきまとっています。 人の間で生き悩む私たちに、この詩編は「行くべき道」を教えてくれます。自分の正しさを主張し、それにこだわりながら進む道ではありません。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」。私たちは、「あなたの僕を裁きにかけないでください」(2節)と、ひたすら主に依り頼みながら、主に従います。「行くべき道を教えてください。主よ、…御もとにわたしは隠れます」(8、9節)。 自分と相手のどちらが正しいかを超えて、助けは主の御もとにあります。主は、正しい道を進んで、主に近づく者に味方してくださいます。その正しい道とは、キリストです。慌てずに一歩一歩、主の御声に従いつつ、祈り続けてまいりましょう。「あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください」。 Sun, 28 Nov 2021 00:10:00 +0000 御子キリストを迎える用意(マタイによる福音書 24章36-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211128 no 2021 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」 (マタイによる福音書24編42節) 2021年の待降節に入りました。教会暦では、きょうからが新しい年です。その年の初めに私たちは、来たる御子のご降誕を覚えて備えることから始めます。 きょうの箇所は、やがて来たり給う再臨の主を覚えて待つ場面ですが、ここに、ご降誕の御子を重ねて教会はこれまで歩んできました。いわば、救いの始まりと完成の両方を視野に入れて、教会は待降節を過ごしたのです。私たちはこのとき、やがて来たる主を如何に待つべきでしょうか。「目を覚ましていなさい」との主の御声が、私たちの目線を天へと上げてくださいます。 現実に目を向ければ、今年も私たちはそれぞれに厳しい所を歩んできました。特にコロナ禍にあって歩みは抑制されました。しかし私たちは今一度、御言葉に導かれて「目を覚まし」、この方を信じて到来(ご降誕)に備えたく思います。私たちの命は主と共にある。この方が私たちを罪と死と滅びから救い出してくださった。試練や疫病下の世によって、私たちの歩みの本質が変えられたりはしないことを確信し、目を覚まして歩みたく思います。 Sat, 27 Nov 2021 00:10:00 +0000 悩みを注ぎ出し(詩編 142編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211127 no 2021 声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。 御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前に苦しみを訴えよう。 (詩編142編2節~3節) この祈りは洞穴の中でささげられています。サウル王に追われて逃げているときのことです。「声をあげ、主に向かって叫び」とありますが、これは心の叫びです。大声をあげたわけではありません。 そのとき、ダビデと共に屈強な兵たちもいました。しかし、ダビデは彼らに自分の悩みのはけ口を求めて、いらだったり、頼ったりしていません。ただ、主に向かって心を注ぎ出します。 実際、ダビデから悩みを注ぎ出されても、受け止めることのできる者は一人もいなかったでしょう。ダビデの孤独は限りなく深いものがあります。「右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もありません」(5節)。しかし、この孤独がダビデの歩みを定めていきます。 注ぎ出された悩みは、理路整然としたものであるはずもありません。しかし、どんなに混乱した悩みのようであっても、受け止める御方は主です。その悩みは一つの方向に導かれていきます。「あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地でわたしの分となってくださる方」である主と共に進みます(6節)。 Fri, 26 Nov 2021 00:10:00 +0000 わたしの魂をうつろにしないでください(詩編 141編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211126 no 2021 主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け あなたを避けどころとします。 わたしの魂をうつろにしないでください。 (詩編141編8節) 「主よ」と御名を呼んで祈ることにおいて必要なことは、へりくだりです。「わたしの魂をうつろにしないでください」と祈る人は、ひたすら主に依り頼んでいます。そこには、あのラオディキアの信徒に宛てた手紙に記されている自己満足、「わたしは…何一つ必要な物はない」(黙3章17節)という思いは微塵もありません。ただ主に目を注いで、すべてを求めて待ち望む裸の魂がそこにあります。 このように自分が裸だと知る心で祈ることができたなら、もっと確信をもって自分の歩みを重ねていくことができるに違いありません。自分がどれほど頼りなく、自分がどれほどいろいろなものに欠けていようとも、主に祈り求めます。あるいは反対に、自分がどれほど多くのものを持ち、何事かを成し遂げても、主に目を注いで同じように祈ります。主のもとに生きる自分が本当の自分だと知るように導かれるからです。主にあってその人らしく養われ、訓練されます。 あらゆる機会に、我に帰って歩むことができるように、この祈りを心に守り続けたいと思います。「わたしの魂をうつろにしないでください」。 Thu, 25 Nov 2021 00:10:00 +0000 わたしが武器を執る日(詩編 140編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211125 no 2021 主よ、わたしの神よ、救いの力よ わたしが武器を執る日 先頭に立ってわたしを守ってください。 (詩編140編8節) これは、自分との戦いの歌です。「さいなむ者」「不法の者」「主に逆らう者」「傲慢な者」「わたしを包囲する者」とは、決して他人のことではありません。自分の中の、主に逆らう性質のことを言っている、と思ってお読みになってみてください。 私たちが進路や仕事で悩み、人間関係に悩み、生涯これらにさいなまれるのには、やはり私たちの心に原因があるのです。主を信じている、と言いながら、御言葉に従い得ていない、私たちの中の「不法の者」「傲慢な者」が、未だに生き続けているからです。 だからこそ8節の祈りがあります。私たちがここで執る武器とは、他人を討ち滅ぼすための槍や刀ではありません。エフェソ書6章で言われている「神の武具」です。とりわけ「霊の剣、すなわち神の言葉」です(17節)。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブ4章12節)。私たちがこの武器を執るとき、主が先頭に立ち、確かな救いを与えてくださいます。 Wed, 24 Nov 2021 00:10:00 +0000 わたしを究める(詩編 139編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211124 no 2021 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。 わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。 どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。 (詩編139編23節~24節) あなたは自分自身のことをどこまで知っているでしょうか。自分のことは自分自身が最もよく知っている、と言いたいところですが、いかがでしょう。私たちには先のことが明らかではありません。明日がどうなるかすら知らないのです。では、前のことならすべて知っている、と言えるでしょうか。生まれる前のことなど、聞かされて知っていることはあっても、この命のルーツを、本当の源まで知って生きているでしょうか。 今、あなたの心の奥底では何を考えているか、今、言おうとしている言葉がどういう影響を及ぼすか、はっきりと知っているでしょうか。 こう考えつつこの詩編を読むと、「わたし」は自分が思っているよりももっと長く生きており、深く悩んでおり、手厚く守られており、また高められる可能性があるようです。神を知るとき、「わたし」を究めることになります。 進路で迷う時、結婚問題で悩む時、召命観を確かめる時、上記の祈りを自分の祈りとすることがあると思います。「わたし」を最も長く、最も深くご存じの神が、悩みのスパイラルの細部まで探りつつ導いてくださいます。 Tue, 23 Nov 2021 00:10:00 +0000 慈しみ深い神への賛美(詩編 138編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211123 no 2021 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。 御手を遣わし、右の御手でお救いください。 (詩編138編7節) 詩人は、主の慈しみと真実のゆえに、祈りを聞いてくださる主なる神の御名を、心から賛美します(1~3節)。 イスラエルの民は、大国同士の覇権争いの中で、祖国の滅亡と捕囚、そして解放を経験する、弱い民として生きていました。覇権を握り、一時代を築いた大国が滅ぶ姿、代わりに別の大国へと覇権が移る姿を詩人は目にします。 詩人は、高くおられ、真に世に眼差しを向ける、主なる神の支配を覚えて賛美します(6節)。苦難の中を歩くときも、敵の怒りに遭うときも、主なる神は命を得させてくださるお方である、と詩人は歌います。その信仰は、預言者イザヤを通して示された救い主の姿です。「へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザ書57章15節)。 詩人の祈りに、主なる神は応えてくださいました。高くおられた独り子イエス・キリストは、打ち砕かれ、低くされた者のもとに降りてきてくださり、人の心に命を得させてくださいました。小さな信仰者の歩みに伴い、命を得させる神が、きょうもあなたと共におられます。 Mon, 22 Nov 2021 00:10:00 +0000 嘆きの祈りに寄り添うお方(詩編 137編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211122 no 2021 バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。 … どうして歌うことができようか 主のための歌を、異郷の地で。 (詩編137編1節、4節) 主なる神への賛美の中に、詩人は嘆きの歌を歌います。イスラエルの民は国を滅ぼされ、寄るべのない捕囚として異国の地に連れ去られました。捕囚として異国バビロンに連行した者は、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言って、詩人を嘲ります(3節)。 滅ぼされた故郷を嘲られ、詩人の尊厳は踏み躙られ、深い屈辱の思いを味わいます。異郷の地であるバビロンの川のほとりで、詩人は「どうして歌うことができようか、主のための歌を、異郷の地で」と故郷を思って嘆きます。 詩人は、自分には嘲る敵を討ち滅ぼす力も無ければ、嘲りを拒む力も無いことを噛み締め、川のほとりで嘆くのです。詩人は望郷の思いを強め、故郷エルサレムと、主なる神の国への思いを強めます(5、6節)。 詩編は祈りの模範でありながら、私たちの生々しい思いを隠しません。敵の滅びを願う思いも、嘲る者への報復の思いも、包み隠さず、主なる神へと投げかけられています(7~9節)。 あなたの思いをそのまま祈ってみてください。主なる神は、私たちの嘆きにも寄り添い、沈黙の中で受け止めてくださいます。 Sun, 21 Nov 2021 00:10:00 +0000 だれよりもたくさん入れた人(マルコによる福音書 12章38-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211121 no 2021 「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 (マルコによる福音書12章44節) 主イエスは、弟子たちとエルサレムの神殿を訪ねます。主イエスは賽銭箱(献金箱)の向かいに座って、群衆がそれにお金を入れる様子を見ておられます。主イエスがその様子をいつまで見ておられたかは分かりませんが、大勢の人が神殿を訪ねる際に自分が用意したお金を献金箱に入れる様子をずっとご覧になっていたのでしょう。 その様子を観察した主イエスは弟子たちに一つ教えています。それは神殿を訪ねる際に、献金箱にお金を入れた多くの人々の中で一人の貧しいやもめが行ったことでした。私たちは主イエスが弟子たちに語られた御言葉(42、43節)を通して、献身の姿勢が何なのか、また一人の貧しいやもめのように献身のしるしの一つとして献金する喜びを教えられます。 献金は献身のしるしの一つです。献身とは自分を献げるという意味です。教会で用いられる献身とは、自分のためではなく、創造主であり、救い主である神のために自分を献げることです。一人の貧しいやもめは、自分のために何を食べようか何を飲もうかと悩むより、自分が持っている物を神に献げることを選びました。彼女と同じようにそれを実践することを願います。 Sat, 20 Nov 2021 00:10:00 +0000 主の慈しみはとこしえに(詩編 136編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211120 no 2021 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 (詩編136編1節~3節) 詩人はこの詩の初めから終わりまで、主なる神の慈しみを繰り返し歌います。神の民は、神殿における礼拝において、主の慈しみの一つ一つを覚えて、主を賛美します。 主は創造と歴史を通じて、神の民への慈しみを示されました。英知をもって世界を創造し、被造物を養われます(4~9節)。奴隷の家から救い出して神の民とし、民の荒れ野の旅を導かれました(10~15節)。そして約束の地を与えて、異国の王たちから守られました(16~22節)。 そして何も持たない民に御心を留め、「御自分の宝」として選び、贖い出してくださった主の慈しみを歌います(23、24節)。 神の民は礼拝の中で、自らの歴史を振り返り、主に示された慈しみを数え上げるようにして賛美します。その慈しみは、今を生きる私たちにも、変わらずに注がれています。主なる神は、罪深く低いところにある私たちに目を留めるお方です。 主の慈しみのうちに生かされていることを覚えて、共に賛美する礼拝に心を備えながら、きょうという日を過ごしましょう。 Fri, 19 Nov 2021 00:10:00 +0000 恵み深い主の御名(詩編 135編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211119 no 2021 ハレルヤ。 賛美せよ、主の御名を 賛美せよ、主の僕らよ 主の家に わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。 主を賛美せよ、恵み深い主を。 喜ばしい御名をほめ歌え。 (詩編135編1節~3節) 詩編の御言葉は、信仰者の祈りの模範です。ハレルヤに始まり、ハレルヤに終わるこの詩は、礼拝に集う会衆に、生きる主なる神への賛美を促します。詩人は、イスラエルを「ご自分の宝」(4節)として選び出された、慈しみ深く、恵みに溢れた神の御名を賛美します。 詩人は、世界のすべてを創造し、御心のままに支配される御力(6、7節)、そして歴史を通じてイスラエルの民を救い、守り導かれた御業を賛美します(8~12節)。その力は今を生きる私たちにも及びます。 御言葉を通して示された神は、生きておられます。地上に形作られた偶像とは異なり、ご自分の民の歩みに伴い、守り導かれるお方です。私たちの生きる世界に、神の力の及ばないところはなく、その支配が終わることはありません。 慈しみ深い主の御名が賛美されるところに、神の民の喜びがあります。試みの中でも、恵み深い主は信仰者の歩みを支えるお方です。 1週間の旅路を終えて、主に仕える信仰の民は、再び神の御名が賛美される、礼拝へと招かれます。恵み深い主の御名を、共に賛美する喜びの日を目指して、きょうという日を歩みましょう。 Thu, 18 Nov 2021 00:10:00 +0000 求めるべきは神の恵み(ネヘミヤ記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211118 no 2021 わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください。 (ネヘミヤ記13章31節) 13章には、神の教えから離れていくエルサレムの人びとの姿が示されています。人びとはいとも容易に神の御心から離れていきます。ネヘミヤが必死になって完成させた城壁は、人びとの思いを神の御心に留めるためには何の役にも立ちません。ネヘミヤがこれほど神のために尽くして苦労を重ねたのだから、報われて終わってほしい。そう願うのが人情です。しかし、人びとが神から離れていく中で、ネヘミヤは最後まで思い悩みながら対応し続けなければなりませんでした。 この状況の中でネヘミヤはたびたび神に祈り、神の恵みを求め続けています(14、22、29、31節)。たいへん厳しい状況の中で、ネヘミヤは自らの努力ではなく、神の恵みに希望を置き続けました。その祈りに応えて、神は、長い年月の後にキリストを世にお送りくださいました。 いつの時代も、神の民は決して理想的ではない状況の中に置かれます。その中で私たちは、自らの努力や労苦が報われることを望みがちです。しかし、私たちが望むべき確かな希望は、神の恵みであるキリストをおいてほかにありません。そのことを、ネヘミヤ記は私たちに教えてくれています。 Wed, 17 Nov 2021 00:10:00 +0000 神は大いなる喜びを与えられた(ネヘミヤ記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211117 no 2021 その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。 (ネヘミヤ記12章43節) 城壁が完成し、奉献するにあたって、人びとはレビ人を求めました。彼らを通して神の恵みに感謝するためです。城壁再建という偉大な成果は、人の功績によるものではなく、どこまでも神の恵みによるものです。そのことが、城壁を奉献するにあたり、祭司とレビ人が民と城壁を清めたことに表れています(30節)。民も城壁もなお神の御前に汚れているのであり、清められてこそ真実に完成するからです。こうして、神が城壁再建を助け、奉献という大いなる喜びを民に与えてくださいました。 これまでの神の助けを喜ぶとき、今後も神が自分たちを助けてくださることをも期待することができます。13章では、さっそく信仰的な戦いが始まります。しかしそこにも神の助けはあるのです。この事実は、男だけでなく女も子供も共に祝うことのできる喜びです。この喜びは、エルサレムに留まらず、遠くまで響いていきます。 この賛美と喜びは、教会で毎週、神にささげられています。これまで教会を助けてくださった神は、これからも弱い私たちを助け続けてくださいます。この喜びの声は、教会を超えて遠くまで響きわたるでしょう。 Tue, 16 Nov 2021 00:10:00 +0000 守り行うことを確約する(ネヘミヤ記 10-11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211116 no 2021 神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約するものである。 (ネヘミヤ記10章30節) 主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを確約する。そんなことが可能なのでしょうか。しかもその誓いを立てているのは、前の章で数々の罪と悪を告白した人びとです。 しかし、この誓約はなされました。それは、自分はこの誓いを果たすことができると確信したから誓約したのではありません。神が、彼らをこの誓約へと招かれたのです。自らの罪と悪を告白して真摯に打ち砕かれた者を、神は御心に従って生きる誓いへと招かれます。 ペトロは三度も主イエスを知らないと言い、その後、激しく泣きました。主イエスは、そのペトロを御自身に従って働く者として召されました(ヨハ21章17節)。同じように神は、9章で真摯に自らの罪と悪を告白した人びとを、驚くべき誓いへと導かれました。こうして、律法に従って歩むことを誓った民が各地に住むことにより、神の王国は再建されていくのです(11章)。 神は、私たちをも、神の御心に従う誓約へと招かれます。私たち人間に、それを果たす力はありません。しかし、神が招いてくださるが故に、私たちはその誓いに従って歩む道へと踏み出します。こうして神の国は地上に実現していきます。 Mon, 15 Nov 2021 00:10:00 +0000 恵みをいただき悔い改める(ネヘミヤ記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211115 no 2021 「あなたは正しく行動されました。 あなたは忠実に行動されました。 しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。」 (ネヘミヤ記9章33節) 8章で、民は神を礼拝し、大いなる喜びの中にありました。捕囚で散り散りとなった民を、神はエルサレムでの礼拝へと集めてくださいました。この大いなる神の恵みを前にして、民は悔い改めへと導かれました。 捕囚の地から民を集めてくださった神の恵みは、非常に大きなものでした。それは、捕囚の地へと散らされた民の罪が非常に大きなものであったことの裏返しでもあります。与えられた恵みが大きければ大きいほど、そのような大きな恵みによらなければ救われない自らの罪の大きさを思わずにはいられません。こうして神の民は、8章で大いなる恵みを喜んだ後、9章では一転して主の御前に一つひとつ罪を告白して、ひれ伏しています。 私たちは主イエスの十字架によって救われました。これが非常に大きな恵みであることは、言うまでもありません。これほどの恵みをいただいたからこそ、私たちは、自らの罪の大きさを思わされます。そのすべての罪が、十字架という、これ以上ないほどの大きな恵みによって赦されています。この大きな恵みをいただいた私たちは、これまで行ってきた罪を一つひとつ告白して、神の御前にひれ伏すのです。 Sun, 14 Nov 2021 00:10:00 +0000 復活の信仰を示してくださる主イエス(ヨハネによる福音書 11章28-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211114 no 2021 「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 (ヨハネによる福音書11章41節~42節) 登場人物であるマルタとマリア、ラザロは三人きょうだいで、主イエスは彼らと親しい関係であったようです(5節)。本日の聖書箇所にはラザロが病気にかかって死んだ出来事が記されていますが、それにとどまらず、想像を絶するようなラザロ復活の奇跡と、その理由が示されています。 この出来事によって、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27節)と告白するようになり、マリアは「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(33節)と告白するようになります。この出来事が用いられたのは、周りの群衆のためでした。三人は既に信じていますが、周りの群衆はそうではなかったからです。主イエスは御自身が父なる神から遣わされていることを、彼らに信じさせます。 復活の初穂である主イエスは御自身の復活に先立ち、復活の信仰を示してくださいます。主を信じる群れは主によって世の最後の日に復活させられます。復活の信仰を示しながら、主が再び来られる日を待ち望みましょう。 Sat, 13 Nov 2021 00:10:00 +0000 御言葉を理解し喜ぶ(ネヘミヤ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211113 no 2021 彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。 … 民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。 (ネヘミヤ記8章8節、12節) バビロン捕囚という苦難を経て、エルサレムに帰った民による礼拝の様子が記されています。この礼拝において行われたのは、律法の朗読すなわち聖書朗読でした。聖書に記された御言葉こそ、今も昔も礼拝の中心です。しかし、ただ聖書が朗読されただけではありませんでした。皆が理解できるように翻訳され、意味を明らかにされました。こうして人びとは皆、その朗読の意味を理解することができました。 そのとき、民は皆、心動かされて涙を流しました。その民に対して喜び祝うことが命じられます。飲み食いだけでなく、備えのない者に分け与えることも加えられています。貧しい者への配慮はまさに律法において命じられていることです。律法を理解した民は、そのとおりに行いました。こうして皆、大いに喜び祝ったのです。 礼拝の喜びは、御言葉の意味を理解し、それを行うことをとおして実現します。主イエスがまず御言葉を行ってくださり、神の御前に何の備えもない私たちに救いの恵みを分け与えてくださいました。私たちもまた、礼拝で与えられる御言葉を理解し行うことをとおして大いに喜び祝うことへと導かれるのです。 Fri, 12 Nov 2021 00:10:00 +0000 礼拝にあずかる人々の名簿(ネヘミヤ記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211112 no 2021 わたしは心に神の指示を受けて、貴族と役人と民を集め、家系に従って登録させようとしたところ、最初に帰還した人々の名簿を発見した。そこには次のように記録されているのを発見した。 (ネヘミヤ記7章5節) ネヘミヤ記7章には、帰還した捕囚の民の名簿が記されています。続く8章では、神への礼拝がささげられていて、7章は神を礼拝する人びとの名簿と言うことができます。教会の受付にある礼拝出席者名簿のようなものでしょう。 皆さんの教会にある名簿を思い浮かべてみてください。そこに記されている方々は、それぞれに平たんではない歩みのなかで神の守りと支えがあり、教会へと導かれた方々です。 7章に記されている一つひとつの名前にも、それぞれに厳しい状況のなかで神に守られ支えられた歩みがあります。ここに名前が記されているのは、バビロン捕囚を経て帰還した人びとだからです。同胞の中には、殺された者や異国に残った者もいます。それゆえに歴代誌の最初に記される捕囚前の人数と比べると、数はわずかです。しかし、数は少なくとも礼拝する者として、神が彼らを御許へと集められました。彼らが神を礼拝することによって、神の救いの御業が世に示されていきます。 私たちも神を礼拝する者として教会へと集められています。数はわずかかもしれません。しかし、そこから神の救いの御業は示されます。 Thu, 11 Nov 2021 00:10:00 +0000 完成目前の試練(ネヘミヤ記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211111 no 2021 わたしたちのすべての敵がそれを聞くに及んで、わたしたちの周囲にいる諸国の民も皆、恐れを抱き、自らの目に大いに面目を失った。わたしたちの神の助けによってこの工事がなされたのだということを悟ったからである。 (ネヘミヤ記6章16節) ネヘミヤの指導による城壁再建は、多くの困難を乗り越えて、城門に扉を付けるのみとなりました。しかしなお反対者たちはネヘミヤを陥れようとします。 反対者たちは、ネヘミヤが反逆を企てているという噂が王に届こうとしているという手紙をネヘミヤに送り、ネヘミヤと王との関係を揺さぶります(7節)。また預言者を買収して偽の預言をさせ、恐怖心からネヘミヤに罪を犯させようとします(13節)。こうしてネヘミヤと神との関係を揺さぶります。更に反対者たちはユダの貴族と関係を深め、ネヘミヤとユダの人びととの関係をも揺さぶりました(19節)。 王、神、ユダの人びとはいずれも、ネヘミヤが導いてきた城壁再建を支えてきた存在です。彼らとの関係が揺さぶられるなかで、ネヘミヤは神に祈り、神に頼り続けました。そこから、この事業がネヘミヤの力ではなく神の助けによって為されたことが示されています。 神のために働くとき、ときに驚くべき助けが与えられます。人びとからの思わぬ評価を受けることもあるでしょう。しかし、私たちが最後の最後に頼ることができるのは、神をおいてほかにありません。 Wed, 10 Nov 2021 00:10:00 +0000 神を畏れる生き方(ネヘミヤ記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211110 no 2021 わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。」 (ネヘミヤ記5章9節) 外部から妨害された城壁再建も、完成に近づいてきました。しかし今度は、建築に携わる民の中から大きな訴えがあがりました。神のために働いてきた彼らは、貧しさの極みの中にありました。しかもその原因は、神のために共に働いている同胞たちが、負債に苦しむ貧しい人びとを気に留めなかったからです。このような無関心は、世の常なのかもしれません。しかしそれが神の民のなかで起こっているところに、問題の根深さがあります。 この状況に対してネヘミヤは、苦しむ同胞を無視していた貴族と役人を非難します。ネヘミヤが問題にしたのは、道徳的な面ではありません。彼らが神を畏れていないことです。城壁は、神を示すために建てられます。いくら立派な城壁を再建しても、城壁のもとで暮らす人びとが神を畏れて生きなければ意味がありません。 ここでネヘミヤは、自らへの負債をすべて帳消しにし、民にも同じ行動を求めました。神の民が、神を畏れるが故に互いに負っている負債を赦しあって生きる。この姿をとおして、私たちの負うべき罪を主イエス・キリストの十字架によって帳消しにしてくださった愛の神が示されていくのです。 Tue, 09 Nov 2021 00:10:00 +0000 人間的に見えることをも用いられる(ネヘミヤ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211109 no 2021 城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。…「角笛の音を聞いたら、わたしたちのもとに集まれ。わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。」 (ネヘミヤ記4章11節、14節) 始めは順調だった城壁建築でしたが、周囲の人びとからの妨害を受けることになりました。力ずくで建築を妨害する計画が明らかになりました。ついに城壁を建築しているユダの人びとまでもが、城壁の再建などできないと言い始めます。城壁建築は、風前の灯です。 このような状況のなかでネヘミヤが取った対策は、各自に武器を持たせるというものでした。城壁を築く者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取りました。何かあれば、角笛の音によってすぐに集まることができるようにしました。驚くほど現実的に見えます。神は、このような対処をも用いて、城壁建築という神の働きのために戦ってくださったのです。 主にお仕えする私たちもまた、一方の手で聖書を持って御言葉に聞きつつも、もう一方の手では書類やパソコンを取り、世の現実と向き合いながら雑多な対処に追われているのではないでしょうか。その両方が、神の働きのために大切です。私たちが神の働きのために行動するとき、人間的な営みに見えることをも用いて神は私たちのために戦ってくださるのです。 Mon, 08 Nov 2021 00:10:00 +0000 多様な人びとが用いられる(ネヘミヤ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211108 no 2021 またその傍らでは鋳物師ハルハヤの子ウジエルが補強に当たり、その傍らでは香料調合師のハナンヤが補強に当たった。彼らは広壁までエルサレムを修復した。 (ネヘミヤ記3章8節) 3章のはじめには、エルサレムの城壁の修復に関わった人びとのリストが記されます。大祭司エルヤシブから始まり、鋳物師や香料調合師といった、およそ建築と関わりのない人びとも加わりました。地区の区長がおり、娘たちと共に家族でこの働きに加わった者もいました。実に多様な人びとがこの事業に携わりました。自分の家の前や入り口など、家の近くの城壁を分担して補強している記載も見られます。ネヘミヤ一人が頑張ったのではありません。多くの人びとが場所と働きを分担し協力することによって、城壁の修復という一つの事業に携わっていたのです。 教会に集まっている人びとも実に多様です。職業も違えば立場も年齢も違います。主イエスの十字架がなければ決して集められることはなかったはずです。こうして集められた人びとの多様な賜物が組みあわされて、教会は建て上げられているのです。 昨日、共に礼拝をささげた兄弟姉妹が、きょうからまたそれぞれの場所での歩みを始めます。神の栄光を現わす一大事業のために、自らに与えられた場所で共に働きを担ってまいりましょう。 Sun, 07 Nov 2021 00:10:00 +0000 律法には神の愛が示されている(マルコによる福音書 12章28-34節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211107 no 2021 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコによる福音書12章29節~31節) モーセの五書全体が律法書と言えるほど、旧約聖書の律法は、内容が幅広く、膨大なものです。律法について研究し、教えている律法学者は最も重要な掟が何なのか気になっていたでしょう。それで主イエスに、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました。その質問を見ると、律法学者たちの関心は掟自体だったようです。しかし、主イエスは違いました。主イエスは旧約聖書を引用しながら、お答えになります(29~31節)。 主イエスのお答えから、神を愛し、隣人を愛することを教えられます。主イエスのお答えは掟自体に関するものではなく、律法が与えられた理由や、それを守る理由、用いる姿勢、心構えなどが示されています。神の選民に与えられた律法は信仰生活の指針として必要であり、神が人間のためになさった出来事を思い起こして、実践することでした。 主イエスは公生涯においてそれを完全に実現し、それを模範として示され、それを目撃した使徒ヨハネは、「神を愛する人は、兄弟を愛すべきです。これが、神から受けた掟です」と言いました(1ヨハ4章20節)。この律法を実践することを願います。 Sat, 06 Nov 2021 00:10:00 +0000 神の御手により奮い立たされる(ネヘミヤ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211106 no 2021 神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。 (ネヘミヤ記2章18節) 王の献酌官であったネヘミヤは、先祖の墓のある町を再建したいと王に申し出ました。それはとても大胆な提案でした。彼が再建したいと願ったのは、かつて滅ぼされた一つの民の要であった町です。その町を再建したいとの願いは、反逆の企てと理解される恐れがあるのです。 しかしながら、この申し出に対する王の反応は好意的でした。人間的に見るならば、ネヘミヤ自身の人柄や仕事ぶりが王に評価されていたことが、王の好意的な反応の要因だったでしょう。長年忠実に仕え続けたネヘミヤが勇気をもって王に願い出たことにより、このような結果を得ることができました。ネヘミヤ自身は、このようにして得られた王の言葉を、神の御手が恵み深く自分を守った結果として理解していました。このネヘミヤの姿を見て、人びとがこの良い企てに奮い立って参加していきました。 何かを成し遂げたとき、そのための苦労や犠牲が大きいほど自分の成果として誇りたいものです。しかしそれをただ神の御手によるものであると証しするとき、人びとは神の御業のために奮い立たされていくのです。 Fri, 05 Nov 2021 00:10:00 +0000 始まりは嘆きを共にすることから(ネヘミヤ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211105 no 2021 「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」 これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。 (ネヘミヤ記1章3節~4節) ネヘミヤ記は、ネヘミヤの祈りから始まります。それは、捕囚を免れてエルサレムに残っているユダの人びとの惨状に対する嘆きの祈りでした。 ネヘミヤ自身は、異国の地で生まれています。しかも彼は王の献酌官を務め、安定した生活を送っていました。エルサレムに親しい人がいたわけではないでしょう。エルサレムの惨状が、彼の生活に何か悪い影響を及ぼすわけでもありません。それでも彼は、そこに住む同胞の痛みを共にします。座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、神に祈りをささげるのです。 今、無関心と自己責任が世界をおおっています。それは自分と誰かとの間に線を引き、嘆いている人びとを自分とは関係ない存在として突き放すことです。ネヘミヤは違いました。自らの生活には影響しない同胞の民の嘆きを、自らの嘆きとしました。それを引き起こした原因として自らの罪を告白し、憐れみを神に祈っています。共に重荷を担うことによって、無関心と自己責任を打ち破る祈りがここにあります。ネヘミヤのこの祈りから、城壁の再建という神の御業が始まっていきます。 Thu, 04 Nov 2021 00:10:00 +0000 賛美と祝福を交わす(詩編 134編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211104 no 2021 主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。 夜ごと、主の家にとどまる人々よ 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。 天地を造られた主が シオンからあなたを祝福してくださるように。 (詩編134編1節~3節) この詩編は頌栄の詩編です。神殿で1日礼拝をささげた者たちが夜になって神殿を離れようとするときに、「主の僕らよ」とうたいます。昼も夜も神殿で奉仕する祭司たち(歴上9章33節参照)と、賛美と祝福を相互に交わします。 賛美は、神の言葉を信じることにおいて、こぞってほめ歌われ、賛美が増し加えられる時、神への一方的な信仰の表明にとどまらず、相互に、神の祝福と救いを伝え合うものとなります(エフェ5章19節参照)。 主日礼拝において、頌栄と祝祷をささげます。そこで、唯一まことの救い主イエス・キリストにおいて、一つの群れとされた者たちが、神の栄光をほめたたえ、神の祝福によって世に派遣されます。またそれは同時に、主の民とされた者たち相互による、賛美と祝福の交換です。 「あまつみたみも、地にあるものも、父、子、みたまのかみをたたえよ」(頌栄544番)と賛美するように、私たちのささげる礼拝は、御子において天上と地上の聖徒たちが一つにされて神の栄光をほめたたえ、主の再臨を待ち望みます。 Wed, 03 Nov 2021 00:10:00 +0000 ここにある一致と平和(詩編 133編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211103 no 2021 見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。 (詩編133編1節) 「見よ」と最初に呼びかけられています。ただ兄弟たちの姿を見るのではありません。ここにある神の家族とされた者たちの相互の愛と一致は、神の憐れみによって実現を見た、祝福に満ちたものです。長い間、民の罪と神の裁きゆえに離散していた民と家族が、再び、一つにされた感動がここにあります。 イエス・キリストがこの世に派遣された目的は、実に、罪の世からご自身の民を贖い出し、一つの群れにするためでした。この意味で、教会の礼拝は、この詩編同様に、神が先立ってご自身の栄光のために召し集めてくださった、恵みによるものです。 そればかりでなく、十字架の死から3日目に復活され、天の王座に着かれたイエス・キリストが、神の家族の長子とされ、大祭司としてご自身の家である教会を執り成しておられます。教会の礼拝において、私たちは、この天上のキリストと聖霊によって固く結び合わされて、すでに天の祝福にあずかっています(ヘブ2章参照)。 神の霊によって、一つの家族とされた恵みを感謝し、天からの祝福と平和の実現を祈り求めましょう。 Tue, 02 Nov 2021 00:10:00 +0000 ダビデとヤコブの祝福を受け継ぐ者(詩編 132編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211102 no 2021 主よ、御心に留めてください ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。 彼は主に誓い ヤコブの勇者である神に願をかけました。 (詩編132編1節~2節) この詩編の冒頭で、「ダビデ」と「ヤコブ」は、神の救いの歴史における「契約」とその「祝福」を指しています。 ここで、ダビデの「謙虚」と訳されている言葉は「辛苦」(口語訳)、「苦しみ」(新改訳)とも訳され、長い間、断続的に卑しめられた姿を言い表しています。 この詩編の作者は、「ダビデはあなたの僕、あなたが油注がれたこの人を決してお見捨てになりませんように」(10節)に照らして考えると、直接、ダビデを知る人だと考えられます。その場合、「ダビデ」とは、偉大な故人を偲ぶというよりも、神が「ダビデ」をどのように苦難の中で導いておられたかを思い起こしているということでしょう。「ヤコブの勇者である神」とは、口語訳では「ヤコブの全能者」です。神は全能の御力をもってヤコブを養い導かれました。その全能の神であり、契約の神である「主」に、ダビデは「誓い」、「願をかけた(誓いを立てた)」と、作者は回顧しているのです。 恵みの契約の仲保者となられたダビデの子イエス・キリストにおいて、教会は、この「ダビデ」と「ヤコブ」の祝福を受け継ぐ者とされています。 Mon, 01 Nov 2021 00:10:00 +0000 主に養われている者たちの平安(詩編 131編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211101 no 2021 主よ、わたしの心は驕っていません。 わたしの目は高くを見ていません。 大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。 わたしは魂を沈黙させます。 わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。 (詩編131編1節~2節) この詩編の背景にあることは、ある高ぶりへの誘惑です。それは、天にまで届く高い塔を建てることを企てながら、神からその計画を挫かれた人びとのように(創11章)、人間が神の位置に立とうとするときにしばしば起こる、不遜な態度です。 これに対して、「わたしの心は驕っていない」「わたしの目は高くを見ていない」「わたしの及ばぬ、大きすぎること、驚くべきことを、追い求めない」とは、主なる神お一人のみが知り、備え、働いておられるところに、わたしは決して入らない、という謙遜な告白です。 さらに、この告白は、「わたしの魂を沈黙させます」という一つの誓いに至ります。主なる神への深い信頼において、真実で、厳かな誓いがなされるとき、私たちは、「魂」を、ただ、造り主なる神に明け渡します。それは、どのような誘惑や試練、喧騒や不安の中でも、だれからも妨げられることのない、絶対的な平安の中に憩うことです。 「母の胸にいる幼子のように」、今、羊飼いであるキリストのふところの中に、子どもも大人も抱かれています(イザ40章11節参照)。 Sun, 31 Oct 2021 00:10:00 +0000 盲人バルティマイの癒し(マルコによる福音書 10章46-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211031 no 2021 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 (マルコによる福音書10章52節) マルコの福音書において、奇跡で癒された者が主イエスの行かれる道にお供するのを許された者は、これまで一人もいません。しかし、バルティマイは目が見えるようになり自由になると、主イエスの進まれる道に従って行きました。これは、やがて弟子たちが聖霊を受けて主イエスの模範に従っていくことを暗示するような出来事です。 弟子たちは、キリストのおっしゃる「十字架」の意味が理解できませんでした(8章32節、9章32節)。霊的な意味で、弟子たちの目が閉ざされていたからです。ですから、バルティマイの癒しの記事の直前で、主イエスが先頭に立ってエルサレムに進んでいかれるのを見て、弟子たちは驚き、恐れるばかりでした。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われて従ってきた弟子たちですが、果たして本当にその意味をわかって従ってきたのか、疑わしく感じます。 しかし、バルティマイの目を開かれたように、主イエスは弟子たちの目も、そして私たちの目も開いてくださいます。こうして主イエスの模範に従っていくことができるようにしてくださいます。 Sat, 30 Oct 2021 00:10:00 +0000 主に望みをおく(詩編 130編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211030 no 2021 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 主よ、この声を聞き取ってください。 … わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。 (詩編130編1節~2節、5節) 「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」。 望みは生きていく上で大切なものです。主こそ、そして主の御言葉こそが私たちの望みです。なぜなら、主は私たちを決して孤独にはなさらないからです。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」。詩人は、光が届かない、暗い水の底、孤独の中から神を呼んでいます。自分の力でも、誰かの力でもなく、ただ神のみを頼りにして、自分の罪と向き合い、そこから神を呼ぶのです。そこでもし神に声が届かなければ、孤独のままです。しかし、神はその呼び声に沈黙をなさいません。神を畏れ、罪を認め、神を呼ぶ者の声を聞き、罪の深淵から救い出してくださいます。 「主よ、あなたが罪を心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり」ます。ここに私たちの確かな望みがあります。その望みは、しかし魂の深淵から神を呼ぶことなくしては見出すことはできないはずです。 人生の暗い淵で、罪と向き合う中でこそ、神の赦しを、確かな望みを、私たちは神から与えられるのです。 Fri, 29 Oct 2021 00:10:00 +0000 思い起こしなさい(詩編 129編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211029 no 2021 イスラエルは言うがよい。 「わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった。」 (詩編129編1節~2節) 「イスラエルは言うがよい」と詩人は呼びかけます。信仰の旅路を行く中で、不安を抱え、前に進む勇気を失う人々に、語るべき言葉を思い起こさせます。「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続けたが、彼らはわたしを圧倒できなかった」。この「わたし」とは、かつて他国から忌み嫌われ、鞭打たれ、傷つけられたイスラエルの民のことです。 苦しみの中で、望みを失っていたイスラエルを、神は救われました。出エジプトは、神が御力をもって、イスラエルを痛めつけるものたちの抑圧から救い出してくださった出来事です。その記憶を語りながら、かつて歴史の中で働かれた神が、今も、そしてこれからも、道を開いてくださることを思い起こし、未来に向かうのです。 信仰の旅路には必ず困難があります。行き詰まりの中でこそ思い起こします。罪の奴隷であった私たちのために、イエス・キリストが十字架で命をささげ、私たちが受ける罪の裁きを引き受けてくださったこと、死からよみがえり、天国への希望の旅路に入れてくださったことを。この言葉を信仰の仲間と語り合いながら、旅路を歩みましょう。 Thu, 28 Oct 2021 00:10:00 +0000 神を畏れつつ(詩編 128編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211028 no 2021 いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。 あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。 あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。 (詩編128編1~2節) 主を畏れ、主の道に歩む者には祝福が約束されています。自分の手で働いて得たものは自分の食べ物となり、家族が与えられ、喜ぶものとされる。さらにその祝福はエルサレム全体の祝福へと広がっていく、と。 主を畏れる、主の道に歩む人は、祝福の源です。そのような生き方を私たちは願うものですけれども、実際には多くの失敗をすること、困難を覚えることがあるのではないでしょうか。 仕事、家庭、子育て、学校生活など、私たちが生きる現実において、多くの問題に直面します。主を畏れて生きようとするがゆえに、味わう苦悩があります。解決の道筋が見えない霧に包まれた日々、主に嘆き祈ることがあります。 そこで、「シオンから主があなたを祝福してくださるように」と詩人は祈ります。 天におられる生ける神が、あなたの嘆きを聞き、御力をもってあなたを守り、祝福してくださるように。 神を畏れて生きる人は、霧の中でも、この祈りに支えられながら道を見出すことがゆるされています。神のもとにこそ幸いがあります。「あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」。 Wed, 27 Oct 2021 00:10:00 +0000 主御自身が建てられる(詩編 127編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211027 no 2021 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。 主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。 (詩編127編1節) 家や教会を建設することがあります。会社を興すこと、新しい事業を立ち上げることもあります。そのために計画を練り、必要な材料を集め、自分の出せる知恵や力を絞り出して、打ち込む時があります。 成功することもあれば、失敗することもあります。そのような私たちに詩人は言います。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい」。 苦労をして成功を掴みたいと願い、私たちはそのために努力をします。しかし、努力さえしていたらうまくいくわけでは決してありません。人の力を超えて、はるかに大きく、豊かに働かれる主の支えがなくては何かを成し遂げることはできません。 「人の労苦はむなしい」。これは、建てるための努力自体がむなしいということではありません。神をまるでいないかのようにして、人の力にだけに頼ろうとする生き方がむなしいのです。 事業や建設もそうですが、神の民の教会形成にとって欠かせないことがあります。支えてくださる神への信頼の中で、労苦する者を神御自身が見守り、支えてくださいます。 Tue, 26 Oct 2021 00:10:00 +0000 労苦は無駄にならない(詩編 126編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211026 no 2021 涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 (詩編126編5節~6節) 何かを育てるためには、労苦が求められます。農夫は農作物を育てるために、労苦を引き受けます。やがて与えられる実りを信じて、種の袋を背負い、種まきをします。涙が頬をつたうことがあっても、その先にある未来のために耐えます。農夫だけではありません。何かを育てる人は、同じように労苦を担う覚悟と、忍耐をもって、種を蒔き、成長を願いながら汗と涙を流すのではないでしょうか。 苦悩する日々、自分や誰かの罪を示され、神に悔い改めの涙を流すこともあるでしょう。期待を抱きつつも、思うようにはいかない現実の前に嘆きの涙を流すこともあるでしょう。そこに「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」と響く声があります。バビロンの捕囚の民イスラエルは悔い改めの涙を流すとともに、そこで神と真に出会い、帰還の約束の中で喜びの歌を奏でます。 乾き切った大地に、水が流れ出すように、種を蒔く人の涙は、喜びへと変えられます。涙を流し、束ねた穂を背負いながら、喜びの歌をうたいながら帰ってくる日を望みつつ、私たちは、きょう担うべき労苦を担うのです。 Mon, 25 Oct 2021 00:10:00 +0000 神が囲んでおられる(詩編 125編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211025 no 2021 主に依り頼む人は、シオンの山。 揺らぐことなく、とこしえに座る。 山々はエルサレムを囲み 主は御自分の民を囲んでいてくださる 今も、そしてとこしえに。 (詩編125編1節~2節) 「山々はエルサレムを囲」んでいたとあるように、エルサレムに向かって旅をする人々には、険しい山々を越える危険がありました。 同じように私たちの人生の旅路においても、危険、苦難を通らずして、その先に進むことができない時があります。 山々を仰ぎつつ、そこで詩人はこう告白します。「主が御自分の民を囲んでいてくださる」。人生を脅かす山々に主の守りを見ています。たとえ死の陰の谷を歩む時でさえも、共に歩んでくださる主が険しい山々を越えさせてくださいます。 行く先を思えば、恐れと不安があったとしても、全てのものを造られ、命も死も支配しておられる主を知っていますので、詩人には平安があります。 私たちには仕事、学校生活、家庭、教会において山々があります。自分の力だけに頼ってはその山々を乗り越えることはできないです。 しかし、神が私の人生の旅路を備え、共に歩んでくださいます。そして苦しみの先にある場所へと私たちを導いてくださいます。たとえ険しい道にあっても神のもとの平安を味わい知ることができます。 Sun, 24 Oct 2021 00:10:00 +0000 あなたがたの中で偉くなりたい者は(マルコによる福音書 10章35-45節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211024 no 2021 「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」 (マルコによる福音書10章43節~44節) ヤコブとヨハネの願いをきっかけに、主イエスはご自身が来られた目的を語り始め、そして、あなたがたが大いなる者となりたいのなら、この世の支配者のように人々を支配し、権力を振るうのではなく、わたしの模範に従いなさいと教えられました。 イエス・キリストがこの世に来られたのは、僕として人びとに仕え、罪人である私たちのために身代金を支払い、罪と死の力から解放するためでした。それは即ち十字架による贖いの死を意味しています。主イエスがこのように模範を示されたのですから、弟子たちもそれに従うべきです。弟子の道とは、この世で忍耐しながら低くなり、僕として人びとに仕えることにより、天で与えられるであろう冠を目指して走り続けることです。 主イエスは地上において最も低くなられましたが、復活されて天に昇り、主の主、王の王としてすべての名にまさる名を与えられ、高められました。同じように神の国においては、後の者が先になり、先の者が後になり、この世で低められた弟子たちは、天において高められるという、逆転現象が起こるのです。 Sat, 23 Oct 2021 00:10:00 +0000 神はわたしの味方(詩編 124編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211023 no 2021 主をたたえよ。 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。 仕掛けられた網から逃れる鳥のように わたしたちの魂は逃れ出た。 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。 わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある。 (詩編124編6節~8節) もし、神がわたしの味方でないなら。このような仮定ほど天の国を憧れる、地上の人生の旅人、巡礼者を恐れさせるものはありません。そんな仮説は神の民を怖気させます。 しかし、神の民をときどき襲うその仮定が、ささやきの声として私たちの耳に響きます。神は無為無策ではないのか。神はお見捨てになっておられるのではないか。わたしをお忘れになったのではないか。事実、神を信じていても恐るべき不幸を、しかも一度ならず何度も味わうことになる、過酷な経験をせざるを得ない人もいます。神が味方ではない? その思いが人生の荒波に飲み込まれそうになっている人の魂に襲い掛かります。 そのとき、この詩人の言葉がわたしの言葉となります。主は仕掛けられた罠によってもだえ苦しむ者を解放される、解放された、と。ぎりぎりのところで罠の網は破られ、神を憧れて生きる者を神は必ず助けてくださる。 希望は信仰です。どのような時でも信仰をもって生きることは、希望に生きることにほかなりません。神こそ私たちの助けです。 Fri, 22 Oct 2021 00:10:00 +0000 主よ、憐れんでください(詩編 123編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211022 no 2021 わたしたちを憐れんでください。 主よ、わたしたちを憐れんでください。 わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。 (詩編123編3節) 教会の歴史の中で絶えず歌われて来た賛美の歌(聖歌)に「キリエ・エレイソン」があります。いろいろなメロディで歌われましたが、言葉は同じです。「主よ、憐れんでください」を意味します。 神を信じて歩む信仰者は、絶えず侮り、嘲笑、批判に晒されてきました。その中にはまったくの誤解もあり、大きく心を切り裂くような攻撃もあります。そのとき、相手に何もできず、悔し涙にくれるということもあったでしょう。嘆かわしさに、生きる望みも失ってしまうこともありましょう。 そのような神の民を支えてきたものは祈りです。それは叫びに近い祈りでありました。「主よ、わたしを憐れんでください」、ただそれだけしか言葉になりません。けれども、この一言の祈りの言葉こそ神を信じて天の国を目指す者の切なる祈りです。この言葉がある限り、私たちの祈りは決して消滅などしません。 私たちは、どんな悲哀の中でも「キリエ・エレイソン」と祈る特権、まさしく天の国を憧れる者の特権を与えられています。 Thu, 21 Oct 2021 00:10:00 +0000 主の家に行こう(詩編 122編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211021 no 2021 主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。 … わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。 「あなたのうちに平和があるように。」 (詩編122編1節、8節) 孤立無援ほど神を信じて生きる者を惑わせ悩ませるものはありません。天国を目指す旅は、たった一人であっても主に支えられ勇気づけられて、意気揚々と前進することができます。けれども一人で歩くとき、疲れもしましょう。難問に直面して立ち止まり、一歩も先に行けなくなってしまうこともありましょう。突然見舞う不幸、災いの現実に圧倒されてその場に立っていることもできない、人生の巡礼者はそのようにして信仰の挫折に直面せざるをえません。 そのようなとき、何が支えとなるでしょうか。一緒に主の家に向かおうではないかという、同じ信仰を抱く人びとの声こそ私たちを奮い立たせます。共に進み、エルサレムで神の現臨在をおぼえながらまことの平和を楽しもう。このように近くでささやく人びとの声こそ神の民を活かし、支えます。 一人でそこへ行くのではない、共通の希望をもって歩み、ときには肩を寄せ合っていく、共に歩み続ける人たちの存在がどれほど価値のあることでしょうか。神の民は神の平和を目指して歩みます。 Wed, 20 Oct 2021 00:10:00 +0000 目を上げる(詩編 121編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211020 no 2021 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 わたしの助けはどこから来るのか。 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。 (詩編121編1節~2節) この詩編は讃美歌(1954年版)301番のもとになった詩編としてよく知られています。完成されるであろう天の国を憧れつつ歩む信仰者を支えてきました。 詩人の目の前には高い山が聳え立っています。そのように天国を目指して進む神を信じる者にとって眼前の険しい山が行く手を阻んでいます。誰もが前にある険しい山々を見て失望落胆し、望みを失ってしまうでしょう。どうすれば山道を這い上がって行けるのだろうか。 しかし、山の向こうに何があるか分からない、ただ希望をもっていけば何とかなるという類の思いを詩人が吐露しているのではありません。私たちにとって、ほんの数刻先さえ何が起きるか分からないものです。それが不安を醸し出します。 そのとき、神を信じる者が覚えなければならないこと、それは神の見守りです。一瞬、孤独を味わい、何もできない失望感に支配されても、神は隠れたところで、しかし、間近で、「まどろむことなく」いつも見守っていてくださいます。その思いこそ、高き山を一歩一歩登って行かせるように神の民を促すのです。 Tue, 19 Oct 2021 00:10:00 +0000 苦難の中で(詩編 120編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211019 no 2021 都に上る歌。 苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった。 「主よ、わたしの魂を助け出してください 偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 (詩編120編1節~2節) 詩編120編から134編まで「都上りの歌」という表題がつけられています。一年の特別な日に、神を信じる外国在住の民が神殿を詣でるためにエルサレムに上る際の、巡礼の歌とされます。神の宮には神がいます。それこそがイスラエルの信仰の中心でした。そこは憧れの旅の目的地でした。神の現臨在を信じる信仰こそイスラエルを支えます。 そして、地上の神殿は天の神の国を指し示します。神を信じ、希望をもって生きるものは、御顔を直接拝することのできる朽ちない神の都を目指します。 しかし、そこへ安らかに行くことができるとは限りません。詩人は周囲の人たちの悪口雑言に直面しています。メシェクとケダル(5節)はそれぞれ黒海周辺とアラビアの砂漠に住む遊牧民の名です。ここでは特定の他国民ではなく、信じる神信仰の異なる民を象徴していて、詩人の、特に信仰心を嘲笑し、攻撃する人びとを指していると思われます。それでも神の民は主の臨在を目指します。 天への憧れが異なる信仰を奉じる人の批判を乗り越える力を与えます。 Mon, 18 Oct 2021 00:10:00 +0000 神を畏れ、その戒めを守れ(コヘレトの言葉 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211018 no 2021 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。 (コヘレトの言葉12章1節) かつて1章のコヘレトは、「つらい」「労苦」「もの憂い」「満たされない」「悩み」「痛み」といった言葉ばかりの「苦しみの日々」の中で神へと思いを向け始めることができたのでした。太陽が闇に変わるよう。月や星の光が失せるよう。そのような「苦しみの日々」は確かに私たちも体験することです。その体験を踏まえて、コヘレトは「苦しみの日々が来ないうちに」(1節)神に心を向けよというアドバイスを私たちに与えてくれます。 思いを神に向けることによって苦しい試練の中から救い出していただくということも、私たちがしばしば体験する事実ですが、その体験があるからこそ、むしろ今という平穏な日々の過ごし方が導き出されてきます。それが、「苦しみの日々が来ないうちに」神に心を留めて生活するという知恵です。 そして、それこそがコヘレトの言葉の「結論」、すべてに耳を傾けて得た結論、「神を畏れ、その戒めを守れ」という結論になりました。何気ない毎日の事柄すべてを神と人への愛ゆえに行うこと。御言葉をいつも心に宿して生活すること。「これこそ、人間のすべて」(13節)です。 Sun, 17 Oct 2021 00:10:00 +0000 神の国に入るのは誰か(マルコによる福音書 10章13-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211017 no 2021 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 (マルコによる福音書10章15節) 子どもたちが主イエスによって祝福される記事と、金持ちの男が主イエスから去っていく、二つの記事が並べられています。子どもたちは神の国に入ることが許され、金持ちの男は入ることができませんでした。なぜでしょうか。子どもたちは自主的にやって来たのではなく、人びとに連れて来られました。幼い子どもたちにとっては、なすがまま任せる以外に方法はありません。目の前の人を頼みにして、寄りかかるだけでしたが、実はこれこそ福音のエッセンスなのです。 金持ちの男の場合は、財産が彼の拠り所となり、偶像となっていたため、主イエスは、「彼を見つめ慈しんで言われた。『…持っている物を売り払い、…それから、わたしに従いなさい』」。しかし男は、永遠の命と彼の大きな財産とを天秤にかけて、彼にとって財産の方が重かったため、愛の招きの言葉に応答できませんでした。 神の国に入るとは、子どものように神の招きに信頼し、主イエスだけを自分の隠れ家、避けどころとして、神から一方的に与えられるものを受け入れることなのです。 Sat, 16 Oct 2021 00:10:00 +0000 キリスト者の倫理と楽しさ(コヘレトの言葉 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211016 no 2021 妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。 (コヘレトの言葉11章5節) 私たち人間には「すべてのことを成し遂げられる神の業」は分からない、という思いは、私たちをどんな生活へと導くのでしょうか。どうせ分からないのだからという、いい加減で無責任な生活態度に導くのではありません。 神の業は分からないという思い。それは、「実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(6節)、「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな」(同)という、一つ一つの行いをできるだけ大切にし、一つ一つの行いがどんな実を結ぶか、神への期待を込めてすべてを行うという充実した生活態度へと導きます。 それは、「光は快く、太陽を見るのは楽しい」(7節)という、何気ない日常の「楽しさ」を発見することへも通じていきます。 さらにそれは、「喜びに満ちているときにも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように」(8節)という知恵をも伴う、堅実で確かな生活態度ともなることでしょう。 それこそ、心にかなう道を行きつつ、すべてにおいて神との関係を見失うことのない、キリスト者の自由な生き方です。 Fri, 15 Oct 2021 00:10:00 +0000 毎日の恵みを発見する(コヘレトの言葉 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211015 no 2021 わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち 善人、賢人、そして彼らの働きは 神の手の中にある。 (コヘレトの言葉9章1節) 善人にも悪人にもこの世では同じことが起こることが肉の目では観察されます。 しかし、私たちは信仰の目によって「善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある」ことを確認することができるでしょう。 そこから、神の善、神の知恵に導かれて、神の手の中で生きることへの積極的な思いが与えられます。それは、たとえささやかな生活ではあっても、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる」(7節)。こんな心の充足と祝福に満ちた生活です。「太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報い」(9節)をそのつど神から受けつつ、「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい」(10節)という明日へのアドバイスをも神から受けつつ歩むことのできる私たちの生活です。 私たちの生活は、「神の手の中にある」という信仰的な認識がもたらす喜びに満ちた、充実した生活です。「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため」(10章19節)。そのような生活がありえることを、コヘレトは心を尽くして明らかにします。 Thu, 14 Oct 2021 00:10:00 +0000 すべてを神の業として観察する(コヘレトの言葉 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211014 no 2021 わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、…神のすべての業を観察した。 (コヘレトの言葉8章16節~17節) 人生には順境の時もあれば、逆境の時もあります。しかし、何事が起こるか、どのように起こるか人間には知ることはできません。そのような中で、「神は人間をまっすぐに造られたが人間は複雑な考え方をしたがる」(7章29節)ということになってしまうのかもしれません。 しかし、私たちが神を度外視して複雑に考えるのをやめて、神との本来の関係に立ち帰ったならば、人生はどのような姿を現すでしょうか。「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になる。神を畏れない人生は影のようなもので、決して幸福にはなれない」(8章12、13節参照)という、こんなにも単純な、本来の「まっすぐさ」を回復することができます。「神が人間をまっすぐに造られた」ままの「まっすぐさ」です。 そこから改めて、生活のすべてを神の業として観察し直したとき、食べること、飲むこと、楽しむこと、順境も逆境も、それらすべての事柄がまた、「神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられた」(8章15節)幸福として、新鮮な喜びとともに発見されていくことになるでしょう。 Wed, 13 Oct 2021 00:10:00 +0000 幸福とは何か(コヘレトの言葉 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211013 no 2021 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。 (コヘレトの言葉6章12節) コヘレトは、「人間を大きく支配している」不幸を一つ一つ見つめます。 幸福だと思っていた矢先に不幸に襲われるという人の世の常を見たり、体験したりするほどに、幸福とは何かを誰が知ろうかと思わざるをえません。私たちには知り得ない「幸福」であるにもかかわらず、「幸福でなかったら何になろう」とばかり、あてどのない思いのうちに、短く空しい人生の日々が影のように過ぎていきます。 そして、過ぎた後はといえば、「人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれる」ものは「太陽の下」にはない(12節)。そのような悲しみを落としながら日々を歩む。これほど寄る辺ない人生はありません。しかし、私たちには「一生の後はどうなるか」を教えてくださった方がいます。私たちのために「父の家」に「場所を用意」して、帰ってきてくださった方です(ヨハ14章2、3節)。 この世のすべての不幸に倍する報いを約束されている私たちは、この世の幸福も不幸も、決して空しくないもの、豊かな意味を与えられている者として歩んでいきたいと思います。 Tue, 12 Oct 2021 00:10:00 +0000 神の賜物である生活を楽しむ(コヘレトの言葉 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211012 no 2021 焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。 神は天にいまし、あなたは地上にいる。 言葉数を少なくせよ。 (コヘレトの言葉5章1節) 今やコヘレトは、神との関係に基づいて私たちに「神を畏れ敬う」という根本から毎日の生活一つ一つを見つめ直すことを促します。 そのとき真っ先に与えられることは、「心せいて神の前に言葉を出そうとするな」という教訓です。「饒舌になる」ことが「神を畏れ敬う」ことの対極にあるものとして発見されます。また、「悩み、患い、怒りが尽きない」私たちのありさまは、天にいます方がおられることを忘れ、その方と自分との関係を忘れたありさまではなかったかと、思い直させてくれます。 そのように心と口が整えられていったとき、「太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ」いう(17節)、ほがらかな、肯定的な生活観に至ることができます。 そこに現れるのは、「自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ」という(18節)、神の賜物として「楽しむ」ことのできる生活です。神が心に喜びを与えられるのだから!(19節) Mon, 11 Oct 2021 00:10:00 +0000 虐げられる人の涙を見る(コヘレトの言葉 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211011 no 2021 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。 見よ、虐げられる人の涙を。 彼らを慰める者はない。 (コヘレトの言葉4章11節) 神との「縦」の絆を結び直すとき、「横」の人の姿が改めてはっきり見え始めます。 第一に見え始めたのは「虐げられる人の涙」です。神を畏れ敬うことを忘れた者は、まず人を虐げることに向かいます。そして、その虐げを受けた人が流す涙を慰める者もいない。そのような涙がはっきり見え始めます。 そして、「人間が労苦するのは仲間に対して競争心を燃やしているからだということ」。人との競争の内にしか自分を確認できないような空しい生き方が見えてきます。 さらに「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」という友がいることの幸いも見えてきます。 神との縦の関係を整え直すことが、そのまま人との横の関係を生き生きとしたものによみがえらせます。人を虐げ、人を蹴落とす、人間社会の罪のありさまにも、いっそう目を開かせられます。 最後にその目覚めは信仰生活をする仲間への呼びかけともなります。悪いことをしたら自覚すべきこと、形ばかりの献げ物をするよりも、御言葉に「聞き従う」ことへと私たちをいざなうのです。 Sun, 10 Oct 2021 00:10:00 +0000 神が結び合わせたもの(マルコによる福音書 10章2-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211010 no 2021 「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 (マルコによる福音書10章9節) ファリサイ派の人びとが主イエスを罠に陥れようとして、質問しました。当時の社会では離婚は一般的に認められていましたし、モーセも離婚を許容していました。夫婦の問題、家族の問題というのは、決して一言で割り切れるような簡単なものではありません。私たちの内には罪があるために、キリスト者であっても、もう、どうしようもなくなって離婚するケースもあります。 男と女の創造のいきさつを調べるなら、女は男のあばら骨から造られたとあります。しかし、男は女から生まれて来ます。つまり、女がいなければ男だって存在できません。このようにして神は、男と女を二人としてではなく、一体としてお造りになられました。一つの有機体であって、二人が結び合わされる時に初めて完全になります。 この男と女の創造は、そのまま主イエスと教会の関係になぞらえられます。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という主イエスの宣言は、実は福音であり、主ご自身が教会を決して捨てたりしないという決意表明として、私たちに響いてきます。 Sat, 09 Oct 2021 00:10:00 +0000 神が与えられた「時」を思う(コヘレトの言葉 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211009 no 2021 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 (コヘレトの言葉3章1節) すべて空しいとしか思われなかった人生の一つ一つの「時」を、神が与えられた「時」として捉え直してみましょう。そのとき、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられ」たことに気付くことができるかもしれません(11節)。すべては「時宜にかなう」ものだという、神への大胆な同意によって、空しかったはずの人生の見え方が違ってきます。 今やコヘレトの口から肯定的な認識が語られ始めます。「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である」(22節)。その根底にあるのは「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ」という認識です(13節)。 すでに2章24節で予感されていた認識が、ここのところでいっそう強い確信になりました。それは「わたしは知った、すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」、そして「神は人間が神を畏れ敬うように定められたのだ」という高らかな確信です(14節)。 Fri, 08 Oct 2021 00:10:00 +0000 幸福の追求から神へ(コヘレトの言葉 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211008 no 2021 わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。 … 何をすれば人の子らは幸福になるのか。 (コヘレトの言葉2章11節、3節) コヘレトは、「短い一生の間、何をすれば人の子は幸福になるのか」を見極めようと、あらゆる労苦を惜しみませんでした(3節)。 その結果、多くのものを手に入れることができましたが、そこで、コヘレトに待っていたものは何だったでしょうか。それは「光が闇にまさるように知恵は愚かさにまさる」ということは確認できましたが、同時に、賢者にも愚者にも「同じことが起こる」ということをも、見て取らざるを得ないことでした(13、14節)。 幸福をとことん追求してみた結果は、「一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。太陽の下に起こることは何もかもわたしを苦しめる。労苦してきたことのすべてにわたしの心は絶望していった」というありさまでした(18~23節参照)。 そのとき、またしてもコヘレトの口から「神」という言葉が漏れます。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの」(24節)。「神」こそが、知恵も知識も、そして楽しみをも与えてくださるのだという気付きです。 Thu, 07 Oct 2021 00:10:00 +0000 空しさの発見から神へ(コヘレトの言葉 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211007 no 2021 コヘレトは言う。 なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。 (コヘレトの言葉1章2節) 「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」(13節)というコヘレトの口から漏れるのは、「すべては空しい」という感情にほかなりませんでした。 その思いを占めるのは、「つらい」「労苦」「もの憂い」「満たされない」「悩み」「痛み」といった言葉ばかりです。こんなことなら「結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎない」とさえ思われ(17節)、「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」というやりきれなさだけがその結論でした(18節)。「人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」と感じて(3節)、自分のしてきたすべての労苦の意味を見いだせない。私たちにも決して無縁ではない絶望感です。 しかし、そのような状況の中で芽生えるものがあります。13節に芽生える「神は」という主語です。確かにここではまだ「神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ」という「つらい」思いの内にありますが、そのような空しさや苦しさの中から、この「神」という主語へと向かう歩みが始まります。 Wed, 06 Oct 2021 00:10:00 +0000 愛には恐れがない(ヨハネの手紙一 4章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211006 no 2021 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 (ヨハネの手紙一4章18節) 神はあなたにとってどのような存在でしょうか。神を優しいお方として感じる人もいるし、恐ろしい存在として感じる人もいるでしょう。あるいは、優しさと恐ろしさが共存すると感じることもあるかもしれません。 「愛は恐れない」と言っていますが、この「恐れ」とは、奴隷が主人を恐れるときに用いられる言葉です。愛と恐れは共存することができません。私たちが神を信じているのは、神の裁きが恐いからではありません。恐れをもって、その方に従っているのではありません。神は私たちを奴隷ではなく、神の子としてくださり、愛する独り子を死に渡すほど私たちを愛してくださいます。 神は確かにこの世を裁くお方です。神の前に罪を犯す人はこの裁きを免れることができません。しかし、イエス・キリストを主と信じる人びとは、この裁きを受けるどころか、神の子として愛される者なのです。神を愛する者は、神が先に示してくださったその愛の故に神を恐れる必要はありません。 きょうも一日、その神の愛に包まれて生きていることを感謝したいと思います。 Tue, 05 Oct 2021 00:10:00 +0000 わたしたちの内に示された神の愛(ヨハネの手紙一 4章7-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211005 no 2021 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 (ヨハネの手紙一4章9節) キリスト教において愛の源は神です。神は罪深い人間の罪を赦し、それを贖うために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。罪のないイエス・キリストが十字架の死を通して神の愛を私たちに示してくださいました。それこそが神の愛によって罪赦された私たちが互いに愛し合う理由です。 信仰者としてこの真理の言葉に生きようとしながら、人を憎んだり、ねたんだり、怒り出す自分の姿に気づくことがあります。その度に自分はまだ成熟した者ではないと思わざるを得ません。 私たちはイエス・キリストによって贖われた者であっても、まだそのような弱さを持っています。しかし、神が独り子イエス・キリストを通して示してくださったその愛にあずかっている者として、自分の中に示された神の愛を互いに分かち合うように努力していきたいと願います。 また、そのために自分の弱さを認め、聖霊の力を願う私たちになりたいと願います。 きょう、わたしが主にあって愛すべき人は誰でしょうか。その人に神の愛を表す一日となりますように。 Mon, 04 Oct 2021 00:10:00 +0000 愛にしっかりと立つ者(エフェソの信徒への手紙 3章14-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211004 no 2021 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 (エフェソの信徒への手紙3章16~17節) ここで祈られているのは、「エフェソの信徒たちがキリストの愛によってしっかりと立つ者となる」ことです。そして、そのような者になるために必要な二つの要素があります。その一つは、聖霊によって力を得、内なる人が強められること、もう一つは、信仰によって心の内にキリストが内在することです。 「内なる人」とは、目に見えないけれども日々新しくされるべき「心」を意味します。 クリスチャンは、イエス・キリストと出会って、心が新しくなった人です。しかし、新しくなったことで終わりではありません。常に、その新しくなった「内なる人」を強める、聖霊の力を必要とします。 「神がこんなにわたしのことを愛しておられるのか」と、思うと心が熱くなるときがあります。私たちは、このような思いが冷めないように、ただ習慣的な信仰にならないように、聖霊がいつも私たちの内なる人を強めてくださるように祈りましょう。 さらに、キリストが内在する人には神の愛に生きることができます。神はイエス・キリストを通してその愛を示されたからです。きょうも神の愛にしっかりと立って生きる一日でありますように祈ります。 Sun, 03 Oct 2021 00:10:00 +0000 塩としてのキリスト者(マルコによる福音書 9章38-50節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211003 no 2021 「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 (マルコによる福音書9章50節) 塩には腐敗を防ぐ働きがありますから、今日においても野菜を塩漬けにしたり、魚を塩漬けにしたりします。 腐るということは、私たちの目に普段ありふれた現象ですが、神の目から見たときに、腐敗は罪と関係しています。本来、神が創造された被造物はそれ自体で美しく、それ自体で良かったのですが、アダムが罪を犯したために、神の被造物が腐敗させられるという事態が起こってしまいました。そこで神は、とくに罪によって汚されたご自身の民を贖い、元の状態に回復させるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、救いの御業を起こしてくださいました。ですから、主イエスこそ、罪に陥った人びとを聖別する塩であると言うことができるのです。 それでは、私たちが塩気を持つとはどういう意味なのかと言いますと、私たちが主イエスを信じて、主イエスが、私たちを通して、世を清め分かち、腐敗を防止するということです。言い換えるなら、私たちが主イエスとの交わりに入れられて、そして、隣人に愛をもって仕えることこそ、私たちが自分自身に塩気を持つことなのです。 Sat, 02 Oct 2021 00:10:00 +0000 見上げてごらん夜の星を(エステル記 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211002 no 2021 ユダヤ人が敵をなくして安らぎを得た日として、悩みが喜びに、嘆きが祭りに変わった月として、この月の両日を宴会と祝祭の日とし、贈り物を交換し、貧しい人に施しをすることとした。 (エステル記9章22節) 絶滅計画が実行される予定日のことでした。ユダヤ人たちはハマンの息子たちを中心とした敵を滅ぼします。危機は去り勝利が与えられました。この出来事を記念して、この日がプリムの祭りとしてユダヤ人の間で祝われるようになります。 この物語は私たちにどのようなメッセージを語っているのでしょうか。それは希望です。この世には闇の力が働いており、私たちはしばしば安らぎを失ってしまいます。途方に暮れ、悩み、嘆かずにもおれません。しかし、その時はやがて必ず終わります。神はおられ、この神の救いの計画こそが実現します。終わりの日には神がすべてのすべてとなられます。その日には「安らぎ」が与えられ、「悩みは喜びに」、「嘆きは祭りに」に変えられます。 エステルという名前には星という意味があります。夜空に輝く星です。「見上げてごらん、夜の星を…」という歌があります。星は夜道を歩く私たちにとって慰めであり励ましです。暗い夜にも上を見上げれば星が見えます。エステルの物語は苦難の日々にも希望がある、神がおられる。だから勇気を出して歩むようにと、慰め、励ましています。 Fri, 01 Oct 2021 00:10:00 +0000 取り消されない救い(エステル記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20211001 no 2021 「王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない」。 (エステル記8章8節) ハマンは木につるされて死にました。しかし、危険が去ったわけではありません。王によって出されたユダヤ人の絶滅の文書はまだ有効だったからです。王の印が押された文書は取り消すことはできません。そこでエステルは、再び王に涙を流しながら訴えます。すると、王が思いがけない言葉を語ります。新しい文書を書き記し、指輪で印を押せと。さらにこう付け加えます。「王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない」(8節)。 こうして新しい王の文書が作成され、伝令によって各地に伝えられます。取り消すことのできない、神の民の救いの知らせです。ユダヤ人たちはこの知らせを聞いて宴会を開いて喜び祝います。滅びが救いに、死が命に変えられました。神の御業です。 聖書のいのちの救いの物語は、今、私たちにも伝えられています。主イエス・キリストの十字架と復活です。キリストの死によって私たちは救われました。この救いの言葉こそなにがあっても取り消されません。この救いの恵みを覚えて感謝し、喜び祝いましょう。 Thu, 30 Sep 2021 00:10:00 +0000 聖書の歴史観(エステル記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210930 no 2021 「王よ、もしお心に適いますなら」と王妃エステルは答えた。「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。」 (エステル記7章3節) エステル記7章は、エステル記のクライマックスと言ってもよいように思います。エステルは酒宴の2日目にユダヤ人の救済を王に直訴します。自らもまたユダヤ人のひとりであることを王に打ち明けます。そして、「わたしの命と民族の命を助けてください」と懇願します。エステルの命がけの直訴によって悪者ハマンは失脚します。ハマンは捕らえられ、モルデカイを吊るそうとして立てた20メートルあまりの柱に吊るされてしまいます。 すべてはここに向かっていました。あらゆることがここで一つに結ばれています。「この時のためにこそ」とあったとおりです(4章14節)。 歴史とは何でしょうか。単なる無意味な時間の集積ではありません。聖書にははっきりとした歴史観があります。生ける神がおられ、神がすべてを治められ、導かれている、神の目的に向かってすべては進んでいるということです。では、その目的とは何でしょうか。その目的とは「命」の救いです。そのことがエステル記を読むとわかってきます。やがて、このことはイエス・キリストの十字架においてはっきりします。今もすべてのことは、命の救いに向かっています。 Wed, 29 Sep 2021 00:10:00 +0000 苦難の日々に神を仰ごう(エステル記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210929 no 2021 そのうちの知恵ある者もゼレシュも彼に言った。「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」 (エステル記6章13節) 王妃エステルの酒宴に招かれ、得意絶頂のハマンはモルデカイを処刑する準備を進めていました。ところがその夜、王は眠ることができなかったため、宮廷の日誌を持って来させて読ませます。そこにはかつてモルデカイが王の暗殺を防いだことが記録されていました。王はモルデカイに何一つ栄誉が与えられていなかったことを知ります。ちょうどそのとき庭にやって来たハマンに「王が栄誉を与えることを望む者には、何をすればよいか」と尋ねます。ハマンはてっきりそれは自分のことだと勘違いし、「その者に王の服を着せ、王の馬に乗せて町を行進させるように」と進言します。王はモルデカイに対してその通りにするように命じ、ハマンは従います。ハマンはその日、悲しみながら帰途に就きます。 王が眠れぬ夜を過ごしたこと、ハマンが庭にやってきたこと、すべては見えざる神の導きです。歴史の中でお働きになる神は、私たちの具体的な日常の営みにもお働きになっておられます。「あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている」と主イエスは言われました(マタ10章30節)。苦難の日々にも神を仰ぎ、神に信頼しましょう。 Tue, 28 Sep 2021 00:10:00 +0000 神を知るには(エステル記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210928 no 2021 それから3日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。 (エステル記5章1節) ハマンの恐るべき計画を知ったエステルは、モルデカイの言葉によって神の御心を悟り、死を覚悟して、王の許を訪ねます。それは3日目のことでした。この3日は備えの期間です。エステルはモルデカイをとおしてユダヤ人たちに断食を要請したと記されています。彼女自身も神に祈り、信仰の備えをして、王の前に出て行ったのです(4章16節)。 ただエステルには、一体何が待っているのかはわからなかったかもしれません。私たちにもこのような時があるのではないでしょうか。祈られ、祈り、ただ神の恵みを信じて、歩むしかない時が…。 王は庭に立っているエステルを見出して歓迎します。王は金の笏を差し伸べて、彼女の命を保証したばかりか、その願いを優しく聞き届けます。 ここにも神という言葉は語られていませんが、神が生きて働いておられることを見出すことができます。この時、エステルもまた神の導きを覚えていたでしょう。私たちはどうすれば神を知ることができるでしょうか。先の見えない人生の道を悩みながら、祈りながら、そして祈られながら歩む中で、私たちは神と出会います。 Mon, 27 Sep 2021 00:10:00 +0000 この時のためにこそ(エステル記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210927 no 2021 「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」 (エステル記4章14節) ユダヤ人絶滅のハマンの奸計を知ったモルデカイは、衣を裂き、荒布を着、灰をかぶり、叫び、王の門にまで行きました。やがてこのことが宮殿にいたエステルの耳にも入ります。彼女は侍従ハタクをモルデカイのもとに送り、事情を聞かせます。モルデガイはハタクを通してユダヤ人の危機を伝え、王に寛大な処置を願い出るようにと願います。しかし、王妃であっても王の召しを受けずに王のもとに行くと、必ず殺されることになっていると困難を伝えます。これを聞いたモルデカイはエステルにこう呼びかけます。「王宮にいて無事だと考えてはいけない。…この時のためにこそ、あなたは王妃になった」と。 決定的な言葉です。この言葉によってばらばらに見えていたことが一つにつながり、進むべき道が示されます。私たちも人生の旅の途中で、「あのことはこの時のためだったのか」と気づくことがあります。その時、人生を再発見し、生きる意味を受け取りなおします。生きて働いておられる神との出会いの瞬間です。試練や悩みにも必ず意味があります。今はわからなくても、「この時のためだった」とわかる日が、やがて必ず来ます。 Sun, 26 Sep 2021 00:10:00 +0000 すべての人に仕え、受け入れる者(マルコによる福音書 9章30-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210926 no 2021 イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 (マルコによる福音書9章35節) マルコによる福音書は、主イエスの受難予告を理解できなかった十二弟子たちの一つの事件を記しています。彼らの地位争いです。 カファルナウムの町のある家に入られると、主イエスは十二弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは途中で何を話し合っていたのですか」。彼らは答えられませんでした。だれが彼らの中でいちばん偉い者であるかを争っていたからです。 そこで主イエスは、彼らに先を争うことを止めて、すべての人に仕える者となりなさいと教えられました。そして主イエスは一人の幼子を彼らの真ん中に立たせて、抱き上げ、言われました。この幼子を主イエスのゆえに受け入れる者は、主イエスと遣わされた父なる神を受け入れると。 主イエスが十字架によって贖われた教会にいちばん偉い者はいません。すべての主イエスの弟子たちは、自分よりも他人を優先して、人に仕える者たちです。そして、主イエスは言われます。その者たちは子供のように小さくて無力な者を受け入れると。受難の主イエスと彼を遣わされた父なる神が私たちを受け入れられたように。 Sat, 25 Sep 2021 00:10:00 +0000 ひざまずかず、敬礼しない(エステル記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210925 no 2021 王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。 (エステル記3章2節) エステルが王妃となってほどなくして、宮殿ではハマンという人物が、王に重用され力を持つようになります。彼は、すべての大臣たちの上に席を定められます。やがて王宮にいる役人は皆、ひざまずいてハマンに敬礼するようにと命令され、それに従います。 ところが、ユダヤ人モルデカイだけはただ一人、ひざまずかず、敬礼もしません。「敬礼」と訳されている言葉は「拝む」とも訳される言葉です。このとき、モルデカイは、ハマンを神として拝むことを拒否しました。「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない」という第一戒の御言葉を生きずにおられなかったからです。 腹を立てたハマンは、モルデカイだけではなく国内に住むユダヤ人を絶滅しようと企み、王を説得して虐殺の日を定めるに至ります。こんなことになるならモルデカイは敬礼すればよかったのでしょうか。決してそうではありません。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使5章29節)。今もこの世の力、富や権力はいつも私たちにひざまずくことや敬礼することを求めてきます。しかし、私たちはそうしません。 Fri, 24 Sep 2021 00:10:00 +0000 シャロームを気遣う(エステル記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210924 no 2021 モルデカイはエステルの安否を気遣い、どう扱われるのかを知ろうとして、毎日後宮の庭の前を行ったり来たりしていた。 (エステル記2章11節) ワシュティ追放の後、家臣たちによって、妃探しが開始されます。国中から美しい女性がスサの町に集められ、その中から王妃が選ばれることになりました。時に、スサにモルデカイというユダヤ人の捕囚民がいました。彼はいとこエステルが両親を亡くしたので、彼女を引き取って、自分の娘として育てていました。王の命令によって多くの娘たちがスサに集められましたが、エステルもその美しさゆえに妃の候補者として宮殿に入ります。 モルデカイは彼女を宮殿に送り出しますが、彼女の「安否を気遣い」ました。「安否を気遣う」という言葉はシャローム(平和)を気遣うという言葉です。モルデカイは彼女の平穏無事だけを案じたのではありません。異教世界の宮殿に神を知る信仰者としてただ一人で赴く魂のシャロームを気遣った。また、ここから彼女を通して神が何をなされるのか、神のシャロームの御業を見定めようとしたのです。 彼女は侍従ヘガイの目にとまり厚遇され、王の前に出ます。他の娘たちのように特別な装いをすることはありませんでしたが、王はエステルを見初め彼女を妃とします。シャローム、平和があるように。 Thu, 23 Sep 2021 00:10:00 +0000 この神なき世界に(エステル記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210923 no 2021 ところが、王妃ワシュティは宦官の伝えた王の命令を拒み、来ようとしなかった。王は大いに機嫌を損ね、怒りに燃え、経験を積んだ賢人たちに事を諮った。 (エステル記1章12節~13節) ペルシアの帝国に生きるユダヤ人の少女が王妃となって同胞を絶滅の危機から救う物語、それがエステル記です。 物語はペルシアの王、クセルクセスの時代に宮殿で開かれた酒宴の場面から始まります。7日目、宴会の最終日のことです。酒に酔った王は王妃ワシュティを宴会に召し出します。彼女の美貌によって、自らの権勢を誇示しようとしたのです。ところが王妃は命令を拒否してしまいます。王は怒り、賢人たちに諮った結果、王妃は宮殿から追放され、新しい妃が立てられることになり、勅令が出されます。 横暴で身勝手な王のふるまい、賢人たちの愚かな助言が目につきます。王妃だけではなく、女性たちは軽んじられ、差別されています。人が人として重んじられていません。このような人の愚かさの中で、遠く離れた異教社会にあって、しかし神が生きて働いておられることを覚えたいと思います。 エステル記には「神」という言葉はひと言も語られません。しかし、「神」という言葉を用いないで神の支配が証しされています。神なき世界に思われる今の時代にも神は生きて働いておられます。 Wed, 22 Sep 2021 00:10:00 +0000 あなたの僕を探してください(詩編 119編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210922 no 2021 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。 あなたの戒めをわたしは決して忘れません。 (詩編119章176節) 119編はいちばん長い詩編です。「長くて全部読めない」とあきらめないで、この機会にぜひ全節読み味わってください。 全体のテーマは「神の言葉への愛」です。ですから、「教え」「使命」「定め」「掟」「裁き」「言葉」「仰せ」「証」「道」といった言葉がたくさん出てきます。 私たちが地上で神と共に歩み、最終的に永遠の命の恵みへと導き入れられるために与えられているのが神の言葉です。神の言葉は甘いばかりではありません。厳しく、辛く、それを見失そうになることもあります。神の言葉を巡るさまざまな状況、願い、祈りがこの詩編には散りばめられています。 そして、最後の176節で詩人は叫びます。「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください」と。 私たちには生ける言、キリストが与えられています。この方が私たちに目を注いでおられるので、私たちは小羊のように失われることはありません。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており…」(ヨハ10章14節)。 Tue, 21 Sep 2021 00:10:00 +0000 主の家からあなたたちを祝福する(詩編 118編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210921 no 2021 祝福あれ、主の御名によって来る人に。 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。 (詩編118編26節) この詩編は特別な祝祭のときに歌われたもの。とくに捕囚から帰った主の民が神殿で礼拝するときに歌ったものだそうです。 イスラエルの民は長い年月を捕囚の地で過ごし、神殿礼拝の喜びを思いながら耐え忍びました。その苦しみから解放され、故郷に戻って、神を礼拝することが許されたときの喜びはどれほどのものだったことでしょう。 また、喜びに小躍りして神殿に上ってくる人々を祝福しようと祭司たちは待ち構えていました。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」と(26節)。 ところで、今の私たちの礼拝の姿はどうでしょうか?礼拝者は小躍りするような心で教会に集っているでしょうか。迎える牧師たちは、礼拝者がやってくるのを待ちわび、祝福の思いで迎えているでしょうか。共に主を礼拝できる恵みを感謝し、大切にし、喜んでいるでしょうか。その日の礼拝はその日一回限りのかけがえのないもの。そういう切実な思いと、感謝をもって毎回の礼拝に臨みたいと願うのです。 Mon, 20 Sep 2021 00:10:00 +0000 主を賛美せよ、ハレルヤ(詩編 117編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210920 no 2021 すべての国よ、主を賛美せよ。 すべての民よ、主をほめたたえよ。 主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い。 ハレルヤ。 (詩編117編1節~2節) 117編はとても短い詩編ですが、その広がりは世界大です。「神の慈しみとまこと」はユダヤ民族に留まらず、すべての国、すべての民に及ぶと歌われています。 しかし、考えてみれば、神の祝福の約束は初めから世界大でした。神は信仰の父アブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束しておられます(創12章3節)。 その約束は、長い歴史の中で少しずつ形になりました。人間の側の不信仰にもかかわらず、神は着々とご自身の救いの御業を進められ、ついにイエス・キリストを通して、それが明らかになりました。「主の慈しみとまこと」が実現したのです。ヨハネ福音書には「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とあります(4章17節)。 しかし、今はまだ、すべての国、すべての民が主を賛美するまでには至っていません。完成に向かう途上にあります。けれども、神の御業はこの先も、私たちの思いを超えてさらに力強く、広がっていくのです。また、この神の業に私たちの労苦が用いられることも覚えて、私たちも共に励みたいと思います。 Sun, 19 Sep 2021 00:10:00 +0000 主イエスの御あとに従う弟子の道(マルコによる福音書 8章27-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210919 no 2021 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 (マルコによる福音書8章34節) フィリポ・カイサリア地方はヘルモン山麓、ヨルダン川の水源に近い場所です。偶像礼拝と皇帝礼拝が盛んな地です。 そこで主イエスは弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と問われます。ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシアです」と答えました。すると主イエスは、弟子たちに御自分のことをだれにも言わないように厳しく命令され、御自身の受難と死を予告なさいました。 ペトロは、主イエスを諫めました。彼は、主イエスが受難と死を通して復活に至る道を歩もうとされているのを拒否したのです。主イエスはペトロに向かって言われました。「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人のことを思っている」。サタンは神の敵対者です。主イエスが御自身の受難と死と復活を通して罪人である私たちに命の道を開こうとされるのを妨害する者です。 主イエスは、ペトロを叱責し、真の弟子の道を示されます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。命の道は受難の主イエスに従うことです。 Sat, 18 Sep 2021 00:10:00 +0000 わたしの魂をお救いください(詩編 116編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210918 no 2021 主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。 (詩編116編15節) この詩編は死に至るような重い病、あるいは危険から救い出された感謝の詩です。詩人は死の淵に立って恐れおののいていました。彼は肉体の命ではなく、魂をお救いくださいと祈ります。もはや地上で生きながらえることはできない、と思ったのかもしれません。 しかし、危機的な状況の中で、彼は神を見上げ、神の救いを期待しています。「哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくださる」と(6、7節)。結果的に彼は命の危機から救い出され、神への感謝を歌います。 その中で特に注目したいのは、15節、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という言葉です。これは、たとえ今死を迎えたとしても、主はその魂を捨て置かず、貴く扱ってくださる。必ず救いへと導き入れてくださる、という確信です。 私たちもいつか地上の命の最後を迎えます。しかし主は、慈しみを信頼して生きる者の命、魂を尊く扱ってくださり、永遠の救いへと導き入れてくださるのです。 Fri, 17 Sep 2021 00:10:00 +0000 偶像とまことの神(詩編 115編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210917 no 2021 国々の偶像は金銀にすぎず 人間の手が造ったもの。 … 偶像を造り、それに依り頼む者は 皆、偶像と同じようになる。 (詩編115編4節、8節) 4節から8節には、偶像の虚しさが語られています。「口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」と。 けれども、罪ある人間には、形あるもの、目に見えるものに頼ろうとする弱さがあります。出エジプトのとき、イスラエルの民が金の若い雄牛を造って拝んだ事件を思い出してください。偶像礼拝者の末路は剣による死という重い裁きでした。「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」のです。 私たちが信じている神は霊であり、目で見ることはできません。しかし、この方はかつて語られ、今も御言葉を通して語り、私たちの歩みに目を注ぎ、祈りを聞かれます。神を愛し、信頼し、崇める者を救い出し、恵みと祝福へと導き入れてくださいます。 そのことを知っている詩人は、この方に依り頼み、祝福を求め、そして賛美します。「主をたたえよう、今も、そしてとこしえに。ハレルヤ」(18節)。私たちもこの賛美に声を合わせましょう。 Thu, 16 Sep 2021 00:10:00 +0000 主の民に与えられる祝福(詩編 114編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210916 no 2021 イスラエルはエジプトを ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ユダは神の聖なるもの イスラエルは神が治められるものとなった。 (詩編114編1節~2節) 詩人はバビロン捕囚から解放されユダの地に戻った民の一人でしょう。彼は今、出エジプトの出来事を回顧しています。奴隷の苦しみの中で神に助けを求めたイスラエルの民を、神が顧みてくださったこと。大いなる御業をもってカナンの地へと導き入れ、彼らを「神の聖なるもの、神が治められるもの」とされたことを。 詩人はその出来事を振り返り、さらに自分が置かれている状況と重ねて考えています。かつて神がご自身の民になさった祝福の御業を覚え、今の自分の立ち位置を確認し、同じように神が自分たちを顧みてくださると信じて神の御業をたたえています。 では、私たちはどうでしょうか。私たちには、キリストの贖いと救いが与えられています。これは旧約の民以上の祝福です。それでも信仰者の人生には苦しみや悲しみ、試練があります。しかし、神は私たちを、キリストのゆえに「神の聖なるもの、神が治められるもの」として扱っておられ、最終的な祝福の中へと導き入れてくださいます。過去の信仰者たちの歩みがそれを証明しているのです。 Wed, 15 Sep 2021 00:10:00 +0000 日の昇るところから日の沈むところまで(詩編 113編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210915 no 2021 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。 主は御座を高く置き なお、低く下って天と地をご覧になる。 弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ … 自由な人々の列に返してくださる。 子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる。 ハレルヤ。 (詩編113編5節~9節) この詩編は、ハレル・シャレム(全ハレル)と呼ばれる重要な賛美の詩編の一つです。ユダヤ教の三大祭りである過越祭・七週祭・仮庵祭で必ず歌われると言います。それゆえ、最後の晩餐を終えた主イエスと弟子たちは、これらの詩編を歌いながらオリーブ山へ向かったのです。時は過越祭でした。 ハレルヤ、主を賛美せよ、東から西まで、すべての国で。今から、とこしえまで。主は地平を越え、時空を超えて賛美されるべきお方です。 預言者サムエルの母ハンナは、子が生まれるようにと神殿で主に願いました。サムエルが与えられた時、神に感謝と賛美の祈りをささげました。(サム上2章8節)。主イエスの母マリヤもまた、身ごもったとき、「わが魂は主をあがめる」、「身分の低い者を高く上げ」てくださると神を賛美しました(ルカ1章)。 二人の祈りは、この詩編の主題と重なります。主イエスの受肉は、高きにいます神のへりくだりです。主イエスは人を罪から救うため低きに下って、低い者を引き上げてくださったのです。私たちは主の救いの恵みを心から賛美します。 Tue, 14 Sep 2021 00:10:00 +0000 いかに幸いなことか、主を畏れる人(詩編 112編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210914 no 2021 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。 裁きのとき、彼の言葉は支えられる。 (詩編112編4節~5節) 詩編112編は、その前の111編と対になっている詩編です。二つの詩編はつながっています。111編の最終節の「主を畏れることは知恵の初め」は、112編の出だし、「いかに幸いなことか、主を畏れる人」に重なっています。 111編が、ひたすら神の御業を賛美したのに対し、これに続く112編は、その恵みの神を畏れて従う者の幸いを歌います。彼の子孫は祝福され、彼自身も多くの富に恵まれるのです。さらに闇の中にあっても光を受けると約束されています。神の恵みの光に照らされ、自らも光となって貧しい人々を助けるのです。「その心は、固く主を信頼している」、「彼の心は堅固で」とあります(7、8節)。彼の心は、どんなことがあっても揺らぐことなく、絶えず主に信頼しています。人の評価ではなく、神が覚えていてくださることを喜ぶからです。 私たちは、世の人びとの評価に心が揺れ、右往左往しがちです。しかし、この詩人のように、最後に与えられる栄光に心を馳せ、希望を持って歩みましょう。 Mon, 13 Sep 2021 00:10:00 +0000 恵みの御業は永遠に続く(詩編 111編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210913 no 2021 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。 御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 (詩編111編9節) 詩編111編と詩編112編は、2曲の屏風のように対をなしています。どちらも「ハレルヤ」で始まり、ヘブライ語アルファベット順の22行の「いろは歌」が記されます。日本語の翻訳も原文通りに22行に訳されています。 この詩編は、「人々の集い、会衆」が、主なる神のすばらしい御業を数えながら歌う歌であり、礼拝で歌われる賛美歌です。覚えやすいいろは歌として人々に愛唱されたことでしょう。 4節から6節は、歴史の中で神がイスラエルに与えた御業です。民は葦の海を渡りました。それにもかかわらず荒れ野で金の子牛を礼拝しますが、再び十戒が授けられました。神はご自分を「恵み深く憐れみに富む神」と宣言されました(出エ34章6節参照)。 神は、「糧」としてマナを与え、カナンの地に導き入れ、アブラハムと結ばれた契約を忘れることはありませんでした。すべては永遠に記念される驚くべき御業です。 「民に贖いを送」る神は、時満ちて御子イエス・キリストを遣わされ、完全な贖いを成し遂げてくださいました。 Sun, 12 Sep 2021 00:10:00 +0000 異邦人たちを救う主イエス(マルコによる福音書 7章24-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210912 no 2021 それからまた、イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 (マルコによる福音書7章31節) マルコによる福音書は、7章24節から8章10節まで、主イエスが異邦人の地で二つの癒しの奇跡をなさったことを記しています。 主イエスは、その後、異邦人の地であったティルス地方に行かれました。そこでギリシア人の婦人と出会われました。婦人は主イエスに、悪霊につかれた娘を救ってください、と懇願しました。 主イエスは、子供をイスラエルに、子犬を娘にたとえて、言われました。「子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27節)。婦人は答えました。「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と。主イエスはこの婦人の熱意と信仰に答えて、彼女の娘を救われました。 主イエスは、自ら異邦人たちの地に行き、癒しの奇跡によって救いを、イスラエルを超えて異邦人たちへと広げられました。この婦人は、信仰によって、異邦人の救いを言い当てています。彼女が見出しているように、主イエスにおいて異邦人をも救う神の恵みの世界が来ています。ユダヤ人だけではなく、諸国民を救う救いです。私たちのところに主イエスの救いは来ています。 Sat, 11 Sep 2021 00:10:00 +0000 わたしの右の座に着くがよい(詩編 110編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210911 no 2021 あなたの民は進んであなたを迎える 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。 主は誓い、思い返されることはない。 「わたしの言葉に従って あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク(わたしの正しい王)。」 (詩編110編3節~4節) この詩は、理想の王、理想のメシア(油注がれた救い主)の力と権威を賛美しています。この詩が預言するような真の力ある王、また真の大祭司、父なる神の右の座に着くお方は、主イエス以外にはありえません。 それゆえ、この詩編は新約聖書において最も多く引用された詩編となりました。主イエスご自身もこの詩を引用し、メシアは「ダビデの子」以上の存在であると主張されました。ご自身が神の子であることを知っておられたのです。 昇天された主イエスはこの詩編のとおりに神の右の座に着かれました(マコ16章19節)。主イエスは父なる神と等しい力と権威をもって、教会だけでなく全世界を今も治めておられます。 3節には、「あなたの民は進んであなたを迎える」とあります。教会は主イエスのご支配に喜んで服し、導かれていきます。たとえ、この世の王が獣のように荒れ狂っても、主イエスのご支配を覆すことはできません。主イエスは、今、天において父なる神の右の座におられます。今、主イエスは私たちと共にいてくださいます。 Fri, 10 Sep 2021 00:10:00 +0000 あなたは祝福してくださいます(詩編 109編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210910 no 2021 彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。 彼らは反逆し、恥に落とされますが あなたの僕は喜び祝います。 (詩編109編28節) 主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じておられます(マタ5章44節)。使徒パウロも、「あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と教えます(ロマ12章14節)。 ところがいくつかの詩編には、これらの教えに真っ向から反する「呪いの言葉」が存在します。この詩編109編も、そのひとつです。6節から20節まで長い「呪いの祈り」が続きます。使徒ペトロは主を裏切ったユダについて語ったとき、「彼の生涯は短くされ、地位は他人に取り上げられ」という、この詩編の8節を引用しました。呪いの詩編もまた、神の言葉として使徒たちに読まれてきたことが分かります。正しい裁きは神のもとにこそあります。 隣人を呪うことは主イエスと使徒によって戒められています。 確かにこの詩を歌った人は、復讐を神にゆだねています。しかし言葉で呪うことさえ戒める新約の教えに照らすとき、私たちの神への信頼はさらに深められる必要があります。 私たちは、私たちを呪う者に対しても祝福を祈りましょう。主イエスのように! Thu, 09 Sep 2021 00:10:00 +0000 わたしは曙を呼び覚まそう(詩編 108編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210909 no 2021 「わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。 わたしは曙を呼び覚まそう。」 主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し 国々の中でほめ歌をうたいます。 (詩編108編2節~4節) この詩編は57編と60編それぞれの後半部分を合わせて一つにしたものです。57編は、苦難の中で神の助けを確信する詩編でした。また60編は、表題にダビデの戦勝の場面が記されているにもかかわらず、その内容は紛れもなく戦いに敗れたイスラエルが神に嘆願する詩です。つまりこの詩編は、苦難の中で神の助けを確信して感謝する歌(詩編57編)と、戦いに敗れた民が嘆きながら救いを祈り求める歌(詩編60編)とがつなぎ合わせられているのです。 私たちは、物事が順調に運ぶときには当然のように神に感謝し、救いの恵みを喜ぶことができます。しかし、ことがらがうまく進まないとき、また決定的に行き詰まったときにこそ、神は救ってくださることをいよいよ確信すべきなのです。信仰者にはそれをすることが可能です。 詩人は、竪琴を奏でながら歌っています。「わたしは曙を呼び覚まそう」。竪琴の音色は、夜明けへの祈りです。 今はまだ暗闇なのです。しかし私たちは、神が必ず夜明けを来たらしてくださることを信じています。神は祈りに応え、必ず助けてくださいます。 Wed, 08 Sep 2021 00:10:00 +0000 苦難の中から叫ぶと(詩編 107編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210908 no 2021 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。 (詩編107編6節) 読み終えて、幾度も繰り返されている二つのフレーズが心に残ります。ひとつは、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと」です。 6節は荒れ野で渇く旅人の、13節は捕らえられた囚人の、19節は死と滅びを前にした罪人の、そして28節は嵐に翻弄される船乗りたちの叫びです。彼らは、ただ神に助けを求めました。神はその声を聞き上げて、ふさわしい仕方で助けてくださいました。 心に残るフレーズのもうひとつは、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、驚くべき御業を成し遂げられる」です。 私たちは、人生の荒れ野で道に迷い、罪の支配に閉じ込められ、嵐の中で深い淵に呑み込まれようとしていたのです。しかし、神の助けを得たとき、「神の慈しみと力、驚くべき御業」を知りました。 イエス・キリストの救いにあずかる人は、自らの窮状を心から知って、主に助けを求める人です。「神がいなくてもやっていける」と豪語する人ではありません。自らを誇る罪を悔い改め、神に立ち帰るのです。詩人は最後に私たちに呼びかけます。「主をたたえよ」と。 Tue, 07 Sep 2021 00:10:00 +0000 バビロン捕囚(列王記下 24-25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210907 no 2021 彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士1万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。 (列王記下24章14節) ヨシヤの後に王となったヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキンは、先祖たちが行ったように「主の目に悪とされることをことごとく行」いました(23章32、37節、24章9節)。ヨシヤの改革はむなしくされ、ユダは偶像に満ちる国となり、ついにバビロンによって神殿の祭具は奪われ、エルサレムの人びとはバビロンに連れ去られました。紀元前597年3月15日のことです。 「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった」とあります(24章20節)。これは、ユダが運悪く大国の餌食になったのではなく、神の裁きとして行われたということです。ユダの人びとは、神殿がユダにある限りユダは神殿によって守られると考えていたかもしれません。けれども、神殿は失われ、都も国も滅ぼされました。神殿が人びとを神の民とするのではないのです。 このことを他人事とせず、バビロン捕囚から学ばなければなりません。神が求めておられるのは、真心をもって神に聞き従う信仰です。私たちは、心から神を畏れ、神をあがめて歩みます。 Mon, 06 Sep 2021 00:10:00 +0000 主に従ったヨシヤ王(列王記下 22-23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210906 no 2021 それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして、主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。 (列王記下23章3節) ユダの王ヨシヤは、「主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」と言われます(22章2節)。彼が神殿を修復したことからユダに信仰の復興が起こりました。神殿で見つかった律法の書を読み聞かせ、偶像を取り除き、神の御言葉に聞き従うように人びとを促したのです。 23章4節以下に記される、取り除かれた偶像とその祭儀のリストは、ユダがどれほどひどく偶像に汚染されていたかを示しています。神殿は偶像に満たされていて、神殿にありながら律法は見失われている、たいへん驚くべき有様だったのです。 ヨシヤの改革は、「主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行する」という、神の御言葉に聞くものでした。そして、王だけでなく民もまた、神の御言葉に聞き従うことへと導かれました。御言葉に聞くときにこそ、神と共に歩む者とされます。御言葉に聞き、右にも左にもそれない歩みを積み重ねて参りましょう。 Sun, 05 Sep 2021 00:10:00 +0000 人の心から悪い思いは出てくる(マルコによる福音書 7章1-8,14-15,21-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210905 no 2021 「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」 (マルコによる福音書7章20節~21節) ファリサイ派の人たちと律法学者たちは、主イエスの弟子たちの中に手を洗わずに食事をしている者がいるのを見ました。彼らは主イエスに抗議します。「あなたの弟子たちは、どうして、汚れた手でパンを食べているのか。どうしてあなたは弟子たちに正しいことを教えないのか」と。 ファリサイ派の人たちは、掟に従って水で手を清めなければ汚れてしまうと考えました。人込みの中で異邦人に触ってしまったかもしれない、汚れているとされる食べ物に触れたかもしれないからです。 しかし、主イエスは彼らにこう言われます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。主イエスにとって汚れは外に存在するものではありません。神のお造りになったものは何一つ汚れてはいないのです。人を汚すもの、それは主イエスによれば、人の言葉であり、その根っこにあるそれぞれの思いです。私たちの言葉と思いこそ罪深いものであり、それは石鹸では落とせません。 主イエスの十字架を通して、罪の赦しを心から願い求めましょう。 Sat, 04 Sep 2021 00:10:00 +0000 ユダの王マナセ(列王記下 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210904 no 2021 マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯させたばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムの端から端まで満たした。 (列王記下21章16節) ヒゼキヤの跡を継いだマナセは、55年間、王位に君臨しました。それは、ヒゼキヤが取り除いた偶像の祭壇を再建し、異教の祭儀を取り入れ、「主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招」くものでした(6節)。 自らが罪を犯すだけでなく、「マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させ」ました。「彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たし」ました。これは、「主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりも更に悪い」有様であり(9節)、罪はついにここに極まれりと思わされます。こうして、約百年後のバビロン捕囚とユダ王国の滅亡をもたらした大きな原因がこのマナセの罪にあることが示されています。 どうしてここまで、と思うかもしれません。指導者の責任の重さということもあるでしょう。ここに書き留められているのは人間の罪の極みです。人はここまで罪に傾くことがあるのです。自分もこのような罪を抱える身であることを認めることが私たちに求められています。 Fri, 03 Sep 2021 00:10:00 +0000 ヒゼキヤの祈りに応える神(列王記下 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210903 no 2021 ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。 (列王記下20章2節~3節) ヒゼキヤ王は、死の病にかかったとき、「わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と、主に憐れみを求めて祈りました。すると、主は、「わたしはあなたの寿命を15年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す」(6節)とおっしゃいました。病のいやしだけではなく、アッシリアの手から国を守ると約束され、日時計の影が十度戻るというしるしまで与えられたのです。 このあと、バビロンからの見舞いの使者を迎えて、ヒゼキヤは王宮にあるものをすべて見せてしまいます。それがやがてバビロンに滅ぼされるきっかけになりましたから、ヒゼキヤに与えられたいやしと守りは、ただ神の憐れみと言うほかありません。 健康も寿命も私たち人間の領域を越えていますから、私たちもひょっとすると同じような憐れみをいただいているのかもしれません。私たちの人生はすべて主の御手のもとにあり、主の憐れみに支えられています。私たちもひたむきに主に依り頼んで歩みます。 Thu, 02 Sep 2021 00:10:00 +0000 恐れてはならない(列王記下 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210902 no 2021 イザヤは言った。「あなたたちの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」 (列王記下19章6節~7節) 国家の危機に直面し、ヒゼキヤ王は動揺しました。アッシリアの外交官ラブ・シャケは一旦エルサレムを離れます。しかし、安心は束の間でした。彼は使者を遣わし、ユダの国が破滅を逃れることはありえないと王に伝えました。 万策尽きたヒゼキヤ王は神殿に上り神に祈ります。「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」(19節)。この祈りは「御名があがめられるように」、そして、神が神としてその本来のお姿を現してください、という願いです。 祈りは神に受け入れられます。神が約束なさったとおり、アッシリア軍は主の御使いに撃たれました。何と一晩で敵軍が全滅したのです。人間的には予想できない解決が一気に与えられました。 ただし解決までに不安な待ち時間がありました。そんな王に「恐れるな」と預言者は語ります。これまでもファラオなど尊大な王が現れては神に打ち負かされました。信仰者は信じて待つのです。「恐れるな」、主が必ず介入してくださるのですから。 Wed, 01 Sep 2021 00:10:00 +0000 沈黙の祈り(列王記下 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210901 no 2021 ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。「大王、アッシリアの王の言葉を聞け。…国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。」…しかし民は、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった。 (列王記下18章28節、35節~36節) ヒゼキヤは良い王でした。彼以上の王はいないと言われる程でした(5節)。しかし南ユダの安泰は続きません。信仰者にも試練があるのです。 ヒゼキヤの治世14年にアッシリアの王がユダの町々を攻め落とし、ついにエルサレムまで軍が迫りました。このとき、ヒゼキヤはアッシリアに莫大な貢物を贈ります。 それでもアッシリアは攻撃の手をゆるめません。アッシリア王は外交官を遣わして、不戦敗をするように呼び掛けます。外交官ラブ・シャケは、ヒゼキヤの頼る主は「舌先だけの言葉」だと嘲りました(20節)。彼はわざと南ユダの言葉を使い、壁越しに呼びかけ、民を動揺させます。さらに主が約束の土地を民に与えた同じ役割をアッシリア王はできると言うのです。まるで自分が神になったかのような傲慢な言葉です。 「しかし民は、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった」。民の間には沈黙の連帯がありました。信仰者が言葉を失う時があります。その時、私たちは黙って祈ります。十字架が復活に向かうように、神による勝利を知っているからです。 Tue, 31 Aug 2021 00:10:00 +0000 歴史的な失敗から学ぶこと(列王記下 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210831 no 2021 しかし、彼らは聞き従わず、ただ以前からの風習に従って行うばかりであった。このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。 (列王記下17章40節~41節) 北王国最後の王ホシェアは捕虜となり、数年の包囲の後、首都サマリアは陥落しました。その後、アッシリアは複数の異民族をサマリアに送り込みます。このようにして、神の民の主体性と個性が根こそぎ奪われました。 そもそもなぜ北王国は滅んだのでしょうか。政治や経済の問題ではありません。「イスラエルの人々はヤロブアムの犯したすべての罪に従って歩み、それを離れなかった」からです(22節)。預言者の度重なる警告を無視して、人々は偶像礼拝を止めませんでした。陥落後、さらに多くの宗教が入り交じり、折衷の宗教になり果てました。 失敗は学ぶためにもあります。「主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して…ユダにもこう警告されていた」(13節)。北王国の滅亡は南ユダに向けられた信仰的妥協への警告なのです。 私たちの生活も信仰的妥協の危険にさらされていないでしょうか。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6章24節)と主イエスは言われます。神にのみ仕えることが命への道です。それは細い道ですが、命への道なのです。 Mon, 30 Aug 2021 00:10:00 +0000 蟻の一穴、天下の破れ(列王記下 15-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210830 no 2021 アハズ王が祭司ウリヤにその祭壇の見取り図とその詳しい作り方の説明書を送ったので、祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送ってきたものそっくりに祭壇を築いた。 (列王記下16章10節~11節) 南ユダでアハズが王となった頃、アラムの王レツインと北イスラエルの王ペカがエルサレムを包囲しました。アハズはより強大なアッシリア帝国にサポートを求めます。アッシリア王はアハズの申し出を受け入れ、アラムの都を占領し、王を殺します。しかし、聖書はアハズ王の人間的には知恵がある行為を評価していないようです。アッシリア王への「贈り物」(16章8節)は「賄賂」とも訳される言葉です。 さて、アハズはアッシリア王に従順を示すためダマスコまで出向きます。そして、そこにあった祭壇のコピーをエルサレム神殿にすぐさま建設させました。イスラエルの歴史が語られる中で、長い脱線であるかのように礼拝について記されます。真実には、礼拝が歴史の中心だからです。 真の神を礼拝しようとしたのかもしれませんが、アハズは礼拝を破壊してしまいました。アッシリア王を喜ばせるために神殿を整えて(18節)、異教的な形式を導入したのです。かつて敵国を恐れたアハズ王に預言者イザヤが語りました。「落ち着いて、静かにしていなさい」(イザ7章4節)。神だけを頼りとすることが力なのです。 Sun, 29 Aug 2021 00:10:00 +0000 父の招きによって与えられる命のパン(ヨハネによる福音書 6章56-69節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210829 no 2021 「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」 …イエスは12人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」 (ヨハネによる福音書6章65節~68節) 「わたしは命のパンである」というイエス・キリストの教えを聞いた弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と言って、主イエスから離れて行きました。そこで主イエスは12人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われます。すると、シモン・ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と答えて、留まります。 「あなたがたも離れて行きたいか」と問われて、離れてよいものかと躊躇いを覚えて留まる。それは、御父の招きがあるからです。御父の招きを受けているからこそ、主イエスの言葉を聞いたとき、そこにすでに霊が働いていて、離れてよいのかと躊躇うのだと思います。それでペトロは、主イエスの言葉に真理があるのではないかと心を揺さぶられて留まったのでしょう。 私たちも、信じられないと思いながらも、離れることができない真理を主イエスの言葉に感じるのではないでしょうか。そこに神の招きがあります。私たちも、神の招きを聞き取る耳を与えられますように。 Sat, 28 Aug 2021 00:10:00 +0000 それでも主は憐れんでくださる(列王記下 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210828 no 2021 主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になったからである。…イスラエルを助ける者もいなかった。しかし、主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。 (列王記下14章26節-27節) ヨアシュ王の後、北王国の王となったのはヤロブアム二世でした。「主は民を増やされる」という名前のとおり、彼が治めた時代、北王国は経済的に繁栄します。「レボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した」と言われます(25節)。これはソロモン王時代の領土に匹敵します。 一時的に外国からの脅威がゆるみ、ヤロブアム二世の41年の長きにわたる統治が可能となりました。私たちは王の業績に心ひかれますが、この王は神に背く王で(24節)、この時代、貧富の格差が広がり、社会は分断されていました。しかし、「主は、イスラエルの苦しみが非常に激しいことを御覧になった」。主は見ておられます。 同じ時代、北王国で預言者たちが活動します。アモスにホセア、そして今日の個所にはヨナが登場しています。預言者たちが次々と現れ王たちに悔い改めを迫りました。まるで手のかかる子に心を痛める親のように神は北王国を深く憐れまれました。民を守り支えたのは王ではなく神の憐れみだったのです。同じ主なる神が私たちにも心を向けてくださいます。 Fri, 27 Aug 2021 00:10:00 +0000 わたしに御心を留めてください(詩編 106編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210827 no 2021 主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき わたしに御心を留めてください。 御救いによってわたしに報いてください。 あなたの選ばれた民に対する恵みを見 あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い あなたの嗣業の民と共に 誇ることができるようにしてください。 (詩編106編4節~5節) 私たちが地上の生涯を歩み続けるとき、孤独を感じることがあるかもしれません。そのとき、私たちはどうするのでしょうか。この世にある何かによって、慰めを得ようとするのでしょうか。 この詩編の中で、詩人は、恵み深い主に感謝せよ、と歌いました。恵みというものは、受ける価値がない者に与えられるからこそ恵みなのです。主なる神は、ご自分の民が罪を犯し、不正を行い、逆らったことをご存じです。 しかし、神は民たちを見捨てることはなさいませんでした。むしろ、民を憎む者たちから救い出してくださったのです。そのことは、やがて与えられる祝福された神の国に迎え入れてくださることを表していたのです。 ですから、4節において、「あなたが民を喜び迎えられるとき、わたしに御心を留めてください」と求めます。自分の業に目を留めてくださいと祈ることはできませんでした。なぜなら、どのような善い業もできないことを知っていたからです。ただ神が憐れみによって救い出してくださること、それだけが詩人と今の私たちにとって唯一の救いなのです。 Thu, 26 Aug 2021 00:10:00 +0000 人の思いを超えた御業(詩編 105編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210826 no 2021 主はこの地に飢饉を呼び パンの備えをことごとく絶やされたが あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。 奴隷として売られたヨセフ。 主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ 首に鉄の枷をはめることを許された 主の仰せが彼を火で練り清め 御言葉が実現するときまで。 (詩編105編16節~19節) 私たちの人生の旅路には思いを超えたことが多く起こります。この詩編は主なる神が私たちの思いや予想を超えて御業を行われる、ということを賛美する詩編です。 カナンの土地に飢饉が襲ったとき、ヤコブの一族は飢えを体験しました。しかし、神はひとりの人ヨセフをあらかじめエジプトに遣わされました。それは通常の遣わされ方ではありませんでした。ヨセフは兄弟たちからねたまれて穴に投げ込まれてしまいます。その結果、エジプトに連れ去られるのです。ヨセフに対して、人々は足枷と、鉄の枷をはめました。それは奴隷としての扱いです。しかし、主なる神はヨセフを用いて救いの御業をなさいました。ヤコブの一族をエジプトで養おうとされたのです。 ヨセフは、兄たちに対して高ぶりの思いを持っていました。しかし、その高ぶりを取り去るために、主はヨセフを試練の中に置かれました。神の救いの約束を果たす者としてふさわしく成長するためです。 私たちもまた、この時代において、さまざまな試練を体験します。そのとき、なお神の御手の導きを信じましょう。 Wed, 25 Aug 2021 00:10:00 +0000 神の知恵による御業(詩編 104編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210825 no 2021 主よ、御業はいかにおびただしいことか。 あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。 地はお造りになったものに満ちている。 (詩編104編24節) 私たちが自分の目で空を見上げ、木々や草花を観察し、動物を見るとき、どのように考えるのでしょうか。空の青さに感動し、木々や草花を見て目を奪われることがあるかもしれません。 この詩編の中には、私たちが見るもの、そして耳で聞くことができるすべてのものが神の知恵によって造られた、と語られています。 創造主である聖書の神は、私たちが空や草花を見て感動することを喜んでくださいます。しかし、それ以上に、そのような自然やその他すべてをお造りになったお方がおられることに感動すること、それを喜ばれるのです。 この頃、感動することが少なくなって来た、と感じることがあるかもしれません。しかし、私たちが神を仰ぎながらすべてのものを見るとき、どのような小さなことの中にも、神の御業が輝いていることを見て感動するのです。 それは、私たちの知恵では思いもよらない神の御業の中に、神の深い知恵を見るからです。私たちは、キリストを通してまことの神を知るようになったのですから、信仰の目で神の御業を味わいましょう。 Tue, 24 Aug 2021 00:10:00 +0000 罪の赦しと病の癒し(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210824 no 2021 わたしの魂よ、主をたたえよ。 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。 (詩編103編2節~4節) 詩人は神の豊かな恵みを思い出して、自分の魂に語っています。自分の魂に語るということは、神の前に深く瞑想するということでもあります。このとき、詩人が魂に語り掛けているのは「主の御計らい」です。これまで、主なる神がイスラエルの民に対して、また自分自身に対して、どれほど憐れみをもって導いてくださったかを思い起こしています。 しかし、その中でも特に、「罪の赦し」と「病の癒し」について思い返しています。詩人は自分の罪がどれほど多いものかを知っていました。ですから、「主は、お前の罪をことごとく赦す」と語っているのです。 さらに、「病をすべて癒す」とも語られています。罪の赦しは魂に対する癒しです。そして、さらに実際の体の病気についても、神は癒しを与えてくださる、と語られています。なぜなら、神は病に苦しみ、悲しんでいる人を決してお忘れになることはないからです。ですから、詩人は「命を墓から贖い出してくださる」と語ります。 病気の癒しもまた、神が与えてくださる恵みです。神を見上げるとき、私たちは病もまた神の御手の中にあることを覚えて、神による癒しを待つことができるのです。 Mon, 23 Aug 2021 00:10:00 +0000 苦難の中で呼び求める(詩編 102編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210823 no 2021 主よ、わたしの祈りを聞いてください。 この叫びがあなたに届きますように。 苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。 (詩編102編2節~3節) 祈りは、私たち信仰者にとって、魂の呼吸だと言われます。それほど欠かすことができないものと考えられているのです。 この詩編の2節で、詩人は「わたしの祈りを聞いてください」と叫んでいます。叫びとして呼び求めるほどに、心の中に大きな圧迫を感じているのです。 詩人は「この叫びがあなたに届きますように」と祈ります。自分の心の中にある悩みと痛みを、どうしても神に聞き届けていただきたい、という願いがあふれているからです。 そして、自分がさまざまな苦難を体験していることを正直に告白し、祈り求めているのです。詩人が感じている苦難は激しいものでした。ですから、「苦難がわたしを襲う」と語っています。 苦難が襲う日、詩人はできるだけそれに耐えようと考えてはいません。むしろ、ただ神が自分を顧みてくださること、耳を向けて祈りを聞いてくださることを願い求めます。 私たちもまた、自分の人生の中で、さまざまな苦難を体験します。しかし、そのときに私たちは、一人で苦しみに耐えるのではなく、祈りに応えてくださる神に呼び求めましょう。 Sun, 22 Aug 2021 00:10:00 +0000 天からの生ける命のパン(ヨハネによる福音書 6章41-58節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210822 no 2021 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」 「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。…先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 (ヨハネによる福音書6章51節、55節、58節) イエス・キリストは、ご自身について「世に命を与える」「まことのパン」であるとおっしゃいました。それは、主イエスご自身が私たちを養う霊的な糧となってくださるということです。 主イエスは、このとき、十字架を目指して歩んでおられました。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。肉と血は、主イエスが十字架につけられ、肉を裂かれ、血を流されることを指しています。私たちが「肉を食べ」「血を飲む」とは、十字架の贖いを通して私たちが主イエス・キリストに結び合わされ、主イエスを信じて、霊的な新しい命に生かされ、養われることにほかなりません。 主イエスは、十字架につけられて死に、しかし、罪と死に打ち勝って復活されました。そのお方が、ご自分を信じる者に「永遠の命を得」、「終わりの日に復活」することを約束しておられます(54節)。「永遠の命」とは、命の源であるキリストといつも結びついてはじめて生きることができる命です。 今、この糧が御言葉と聖霊を通して私たちに与えられています。まことのパンである主イエスの恵みをいただき、きょうも永遠の命の喜びに生かされて歩みましょう。 Sat, 21 Aug 2021 00:10:00 +0000 神の慈しみと裁きを歌う(詩編 101編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210821 no 2021 慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。 完全な道について解き明かします。 いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。 わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。 (詩編101編1節~2節) 私たちは、誰かから自分を訪問するという知らせを受けたならどうするでしょうか。その人をできるだけ丁寧に迎えようとするのではないでしょうか。 この詩編の中で、詩人は「慈しみと裁きを歌う」と語っています。慈しみを歌うと語っていることから、この時の詩人は、神の前にあって心に痛みと悲しみを持っていたことが分かります。しかし、同時に慈しみを歌うのですから、神が慈しみ豊かなお方であることを知っているのです。 更に、詩人は「裁きを歌う」とも語っています。裁きとは、神の御心に従って生きているのか、どうなのか、それが正しく判断されることです。神の判断に間違いは決してありません。 この時、詩人は多くの背く者、曲がった心を持つ者、隠れて友をそしる者がいることを知っていました。ですから、「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか」と祈っているのです。この祈りは、孤独の中で神が自分を訪ねてくださることを体験していたからこそささげられています。私たちもまた、苦難の中にあるとき、神の正しい判断と慈しみに信頼して祈りましょう。 Fri, 20 Aug 2021 00:10:00 +0000 感謝の賛歌(詩編 100編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210820 no 2021 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。 感謝をささげ、御名をたたえよ。 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。 (詩編100編4節~5節) 旧約時代の礼拝者たちの姿が目に浮かびます。神を礼拝するため、各地からはるばるエルサレムの神殿を目指してやって来た多くの人たちの姿です。彼らは、いよいよ神殿が見えてくると喜びを覚え、ついに、感謝の賛美を歌いながら神殿の門をくぐったのでしょう。 神への礼拝は、感謝であり喜びです。たった5節から成る短い詩の中に、「感謝」、「喜び」という言葉が3回ずつ使われています。そして、その「感謝」と「喜び」は、私たちが人格的に、また知的に「主を知る」ことにより生じる感情であることが教えられます。「知れ、主こそ神であると」。 神がどのようなお方であるのか。私たち人間とは何者であるのかを知れば知るほど、御前に進み出る私たちの心は「感謝」と「喜び」に満たされます。私たちは、礼拝の中で、神の御言葉によって、今まで知らなかったことを学び、あやふやだったことを整理し、よく知っていた事柄であっても、それを再確認して、さらに神に近づくのです。 賛美の歌をうたって神殿の門をくぐった人びとと声を合わせましょう。「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」と。 Thu, 19 Aug 2021 00:10:00 +0000 聖なる、聖なる、聖なる(詩編 99編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210819 no 2021 我らの神、主をあがめよ。 その聖なる山に向かってひれ伏せ。 我らの神、主は聖なる方。 (詩編99編9節) 「主は聖なる方」であると繰り返し告白されます(3、5、9節)。神が「聖」であるとは、神があらゆる被造物から区別され、超越しているお方だという意味です。「すべての民の上に高くいます」(2節)という表現もまさに「雲の上の存在」、私たちとは遠く離れた所にいるお方だという印象を与えます。 「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできない」(出33章20節)と言われる「聖なる」神の前に、罪人は畏れを覚え、近寄り難さを覚えます。 しかし、聖書の神はその聖さにもかかわらず、堕落した世界から遠く離れて住むことを選ばれませんでした。むしろ罪に汚れたご自分の民の只中に住むことを決意されたのです。罪人たちと共に食卓を囲み、「わたしが来たのは罪人を招くためだ」とおっしゃった主イエスのお姿に、すべてを超越しておられながら、同時に私たちと共にいてくださる神のお姿が示されています。畏れるべきお方、しかし同時に親しく歩んでくださるお方こそ、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」なのです(イザ6章3節)。 Wed, 18 Aug 2021 00:10:00 +0000 思いを賛美の歌に乗せて(詩編 98編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210818 no 2021 新しい歌を主に向かって歌え。 主は驚くべき御業を成し遂げられた。 右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。 (詩編98編1節) 「わたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(2コリ4章16節)。日々新たにされる者たちが歌う賛美は「新しい歌」となります。主なる神は、新しい歌を歌えと私たちを招いておられます。 わたしは毎年妻の誕生日に短い感謝のメッセージを書いて送ります。しかし、その言葉や内容が4年後も5年後も全く同じだったら、妻はどう思うでしょうか。初めは嬉しいかもしれません。しかし、毎年コピーしたかのように同じメッセージだけが記されているとしたら、「もっと違うことも書いてよ」と思うことでしょう。 手紙を書くにも、俳句を詠むにも、歌を歌うにも、その人の心が一つひとつの言葉に乗って届けられます。同じ賛美歌を歌うにしても、5年前はあの言葉にわたしの心を乗せて歌っていた、でも今はこの言葉に心が乗っかるのだということがあるでしょう。それは、日々主との新しい交わりを生きているからです。今の思いを言葉に乗せて、主に向かって歌いましょう。私たちの歌を、主は喜んでくださいます。 Tue, 17 Aug 2021 00:10:00 +0000 光を種蒔き、喜びを種蒔く(詩編 97編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210817 no 2021 神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。 (詩編97編11節) 主イエスが語られたたとえ話の中に「種を蒔く人のたとえ」があります。主が御言葉という種を私たちの内に蒔いてくださる。すると、その種には力があるので、種が留まっている人たちの人生の中で、その御言葉が豊かに実を結ぶという教えです。 同様に、ここにも「種を蒔いてくださる神」のお姿が歌われています。神に従う人のために光を種蒔いてくださる、心のまっすぐな人のために喜びを種蒔いてくださる、神のお姿です。だから「神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ」(12節)。すでに光を種蒔いたぞ、喜びを種蒔いたぞ、と呼びかけるのです。 未だこの世は暗闇かもしれません。悲しみが多い歩みかもしれません。しかし、すでに光が種蒔かれ、喜びが種蒔かれています。芽を出すまで、もうしばらくの間、暗く冷たい土の中でその時をじっと待ちます。 主イエスはおっしゃいました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハ16章20節)。私たちは、種がやがて芽を出す時を、今か今かと待ち望みます。 Mon, 16 Aug 2021 00:10:00 +0000 平和あれ(ヨハネによる福音書 20章19-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210816 no 2021 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 (ヨハネによる福音書20章19節~20節) 主イエスがこの世界のために、また私たち一人ひとりのために成し遂げてくださった御業こそ、私たちが平和を実現する者となることができることの根拠です。それは十字架の贖いによる罪の赦しの御業です。 主イエスがよみがえりの御姿を弟子たちに現してくださったとき、主は「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました。そのように言われた主の復活の御体には十字架の傷跡がありました。手には釘の跡、わき腹には槍の跡が刻まれていたのです。 主は、御自身の十字架の御業に基づいて、弟子たちに言われました。もはやあなたがたは罪の支配のもとにはない。あなたがたは神との平和を取り戻した。だから、人と人との間にも、この世界にも、平和を実現する者として生きることができる。 この恵みを覚えつつ、私たちも平和を実現する者として生きていきましょう。主に贖われ、主の命を生きる新しい人として、おのおのが遣わされている場所、家庭や職場や地域社会、そして聖徒の交わりにあって、霊のたたかいを共に担うのです。 Sun, 15 Aug 2021 00:10:00 +0000 「平和」の意味(マタイによる福音書 5章9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210815 no 2021 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイによる福音書5章9節) 「平和を実現する人々は、幸いである」。そう仰せになるとき、主イエスは旧約聖書で「平和」という言葉(ヘブライ語「シャローム」)が持っていた意味をそのまま受け継いでおられます。平和。それは単なる表側だけの平穏、波風の立たないように見える状態ではありません。人々がただ穏やかに生きているということではなく、人々の間に愛と真実、正義と思いやりの関係が成り立っている、確立されているということです。 「平和」はきわめて積極的な意味を表す言葉です。神がご自身の御子を与えて、私たちとの間に平和を実現してくださいました。罪の赦しと和解の恵みを与えてくださったのです。それゆえ、そこに生きる者たちが隔ての壁を克服し、争いを解決し、愛を育み、思いやりを育て、お互いに責任をもって命のかよった交わりを築き上げる、それが平和にほかなりません。 主イエスは、平和を実現する人々を幸いな人と呼ばれ、そのような人々こそが神の子と呼ばれると仰せになります。みずから平和をなしとげようと労し、励む者たち。そのような者たちこそが神の国の世継ぎとされるのです。 Sat, 14 Aug 2021 00:10:00 +0000 主の山に登る(イザヤ書 2章1-5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210814 no 2021 多くの民が来て言う。 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。 主はわたしたちに道を示される。 わたしたちはその道を歩もう」と。 主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。 (イザヤ書2章3節) 地の上に平和を実現されるのは主なる神です。しかし、私たち人間は手をこまねいているというのではありません。主イエスが「平和を実現する人々は、幸いである」と仰せになるように(マタ6章9節)、私たちも神の器として用いられます。私たちが用いられてこそ、地の上に平和が実現するのです。 それでは、どのようにして神の器とされるのでしょうか。御言葉に聞くことによってです。平和について教え示すのは神だからです。「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」。それゆえ、主の民は「主の山に登り、ヤコブの神の家に行」きます。 「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。主の山に登り、主の御言葉に耳を傾けた者たちは、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」のです(4節)。御言葉に聞き従って、平和の実現に身をもって仕えます。 この世も平和について語ります。政治家や学者たちも平和について論じます。しかし、私たちは何よりもまず御言葉を学び、御言葉に立ちます。十字架のキリストが平和の土台であるからです。 Fri, 13 Aug 2021 00:10:00 +0000 新しい歌を歌おう(詩編 96編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210813 no 2021 新しい歌を主に向かって歌え。 全地よ、主に向かって歌え。 主に向かって歌い、御名をたたえよ。 日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 (詩編96編1節~2節) 旧約聖書がギリシア語に翻訳されたとき、この詩編には「捕囚の後、家が建てられた時の詩」という表題がつけられました。バビロン捕囚という苦しい歴史を経験した人びとは、この詩を歌うことで、心を高く上げて「捕囚の後」の新しい時代へと歩み出します。この詩編は、まさに厳しい時代に耐えてきた民だからこそ歌うことのできる「新しい歌」でした。 神の民が歌う「歌」は、時代に風穴を開けます。呻きと嘆き、悲しみと絶望に覆われてしまいそうな世界の真ん中に風穴を開けて、主が王として固く据えられる新しい世界の到来を告げ知らせます(10節)。また、人びとはこの詩を歌いながら、ありとあらゆるものを、あるべき状態に戻してくださる主の裁きを待ち望みました(13節)。 私たちも、新しい歌を主に向かって歌いましょう。血を流して苦しむ世界の只中で、希望の歌を歌い続けましょう。見るものすべて、聞くことすべてが神への賛美となる。そのような新しい世界がもたらされることを待ち望みつつ、「国々にふれて言え、主こそ王と」(10節)。 Thu, 12 Aug 2021 00:10:00 +0000 礼拝への招き(詩編 95編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210812 no 2021 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 (詩編95編7節) 礼拝への招きの詩編としてよく知られています。羊飼いがその牧場の羊たちを集めるように、主なる神は私たちを集めてくださいます。「今やっている仕事の手を止めて、わたしのもとに来なさい」と。 「疲れた者、重荷を負う者たちよ、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11章28節)。その主の御前で、私たちは自分たちが主の民とされていること、主に養われる羊の群れであることを学びます。そして、羊である私たちは、羊飼いなる主から離れては生きていけない存在であると知るのです。 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない」(8節)。神の民であっても、神の道を知らず、あるいは知ろうともせず、さまよい歩くことがあります。エジプトから贖い出された世代もそうでした。 さまよいやすい私たちを、主が招いてくださっています。ひととき、静まって主の御前に進み、ひれ伏し、感謝の賛美をささげましょう。主の御声に耳を傾け、神の民として心をチューニングしていただきましょう。きょうも御心を生きることができますように。 Wed, 11 Aug 2021 00:10:00 +0000 契約のゆえに罪人を憐れまれる神(列王記下 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210811 no 2021 しかし、ヨアハズが主をなだめたので、主はこれを聞き入れられた。主はイスラエルが圧迫されていること、アラムの王が彼らに圧迫を加えていることを御覧になったからである。 (列王記下13章4節) 当時、北イスラエルはアラムの王による圧迫に苦しんでいました。北イスラエルの王ヨアハズ、次のヨアシュ、どちらも主の目に悪とされることを行って、罪の道に従って歩み続けました。そのような彼らでしたが、ヨアハズが「主をなだめた」ので、主はこれを聞き入れられました。また、ヨアシュは死の病を患っているエリシャを訪れ、「わが父よ、わが父よ…」と言って涙を流し、エリシャからアラムとの戦いの勝利を約束されます。二人とも神を頼り、その恵みにあずかったのです。ただヨアシュの場合、不徹底な頼り方だったために、アラムを滅ぼしつくすことはできないことを告げられました。 このように、彼らがアラムに滅ぼされず、ある程度の勝利を得ることができたのは、彼らが忠実な信仰をもって神に依り頼んだからではありません。「主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった」からです(23節)。 罪人が見捨てられないのは主の契約ゆえ、なのです。 Tue, 10 Aug 2021 00:10:00 +0000 受けた教えに忠実に(列王記下 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210810 no 2021 ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った。 (列王記下12章3節) 幼いときに奇跡的に命を救われたヨアシュは、祭司ヨヤダから神の教えを受けて育ちました。やがて彼は成長して、自らの判断でバアル礼拝で荒廃した神殿の修復に取り組むことになります。神殿を修理しようとしない祭司たちをその責任からはずし、忠実な工事担当者へとその任を移しました。師匠であった祭司ヨヤダ以上の熱心を示したともいえます。 しかし、アラムの王ハザエルがエルサレムに向かって攻め上ってきたときには、神殿と王宮にある聖別された物や金、神にささげた大切な物をハザエルに渡してしまいました(19節)。ヨアシュは師匠から教えられている間は従いましたが、その後は神への忠実を必ずしも貫くことができず、このような矛盾した行動を取ったのでしょう。そういう人間の弱さを私たちも持っているかもしれません。 しかし、それにもかかわらず彼はダビデの町に先祖と共に葬られ、「その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った」と記されます。これは彼自身の功績によるのではなく、信仰教育を与えてくださった神の恵みによると言うほかありません。 Mon, 09 Aug 2021 00:10:00 +0000 神殿にかくまわれた王子(列王記下 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210809 no 2021 人々はヨアシュをアタルヤからかくまい、彼は殺されずに済んだ。こうして、アタルヤが国を支配していた6年の間、ヨアシュは乳母と共に主の神殿に隠れていた。 (列王記下11章2節~3節) ユダの王アハズヤの母アタルヤは、アハブの娘であり、ユダにおけるバアル礼拝の主導者でした。彼女は息子アハズヤが死んだのを見て、ただちに王族をすべて滅ぼそうとします(1節)。 しかし、アハズヤの姉妹で祭司ヨヤダの妻ヨシェバが、王子のひとりヨアシュをひそかに連れ出して神殿に隠し、6年間かくまいました。やがて祭司ヨヤダの働きにより、ヨアシュが王として立てられ、アタルヤは排除されます。彼らはユダがバアルによって汚されていることを憂いて、重要な場面で適切な行動を取ったのです。 こうして神はダビデ王家を断絶の危機から守り、ユダからバアルを取り除かれました。神はダビデ王家に関する契約を守り、御自分の民に、罪が取り除かれたことによる平穏をお与えになりました。その際、神殿が大きな役割を担いました。 今、私たちは主の教会で罪の赦しによる平穏を与えられています。なおも弱さや破れがありながら、その信仰に立つとき、大切な場面で主に従って生きる判断と行動へと導かれます。 Sun, 08 Aug 2021 00:10:00 +0000 世に命を与える天からのまことのパン(ヨハネによる福音書 6章22-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210808 no 2021 「…わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 (ヨハネによる福音書6章32節~33節、35節) 5千人を養ったパンのお話から、きょうの個所は、「天からのまことのパン」について記されています。 主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。5千人を養ったパンは、「朽ちる食べ物」であったが、「天からのまことのパン」は、「永遠の命に至る食べ物」だと言うのです。この「天からのまことのパン」は、「天から降って来て、世に命を与えるもの」であると言われています。 多くの人は、肉体を養う目に見えるパンを求めるでしょう。しかし、主イエスは「わたしが命のパンである」とおっしゃいました。私たちの霊的飢え渇きを永続的に満たしうる命のパンは、イエス・キリストご自身なのです。 私たちの肉体的な命はやがて消えてしまいます。しかし、私たちは、「命のパン」である主イエス・キリストをいただくと、決して失われることなく、この世で肉体的な死を経験しても終わりの日によみがえらせられ、永遠の命の完成を見せていただけます。私たち皆がこの祝福にあずかることを祈ります。 Sat, 07 Aug 2021 00:10:00 +0000 公正な裁きをなさる神(列王記下 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210807 no 2021 主はイエフに言われた。「あなたはわたしの目にかなう正しいことをよく成し遂げ、わたしの心にあった事をことごとくアハブの家に対して行った。それゆえあなたの子孫は四代にわたってイスラエルの王座につく。」 (列王記下10章30節) イエフは神から命じられたとおりアハブ王家を滅ぼし、バアルを滅ぼし去りました。主は彼の働きを「わたしの目にかなう正しいことをよく成し遂げた」と認めてくださいました。 しかし、同時にイエフの徹底したやり方は、非常に激しいものでした。彼はユダの王アハズヤの身内の者たちまで殺害させてしまいます。イエフのやり方には、行き過ぎではないかと思われるほどに突き進んだところもあったかもしれません。さらに彼はベテルとダンにある金の子牛を退けることはせず、ヤロブアムの罪を離れませんでした。 そのような欠けのあるイエフに、神は使命を与えられ、彼を用いて、イスラエルからバアルを取り除かれたのです。 イエフにその子孫四代の王座が約束されたことは、神の祝福といえるでしょう。しかし四代で終わることも見逃せない点です。神はイエフが成し遂げたことだけでなく、欠けも含めすべてを見ておられました。その神が私たちの歩みも見てくださっています。そして公正な裁きを主イエスにおいてなさいます。正義と公正の神が私たちを守ってくださっています。 Fri, 06 Aug 2021 00:10:00 +0000 ご自身の民から悪を取り除く神(列王記下 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210806 no 2021 「わたしはあなたに油を注ぎ、あなたを主の民イスラエルの王とする。あなたはあなたの主君アハブの家を撃たねばならない。こうしてわたしはイゼベルの手にかかったわたしの僕たち、預言者たちの血、すべての主の僕たちの血の復讐をする。」 (列王記下9章6節~7節) 神は北イスラエル軍の将校であったイエフに油を注ぎ、彼をイスラエルの王とされました。神が彼に与えられた使命は、アハブ王家を滅ぼすことでした。イエフはこの使命に応えて謀反を起こし、自分の主君であったイスラエルの王ヨラムを殺害します(24節)。その際、一緒にいたユダの王アハズヤも逃亡のさなか傷を負い、命を落とすことになります(27節)。さらにイエフは宦官たちに命じて、アハブの妻イゼベルを窓から突き落とさせます(33節)。 イゼベルは、アハブの死後も王を操ってイスラエルを支配していたのでしょう。彼女はバアル礼拝、預言者への迫害と殺害、ナボトのぶどう畑の事件等、その悪事を焚きつけ、主導してきた人物でしたから、イエフにとって彼女はおもな討伐対象でした。 こうして神はアハブの家の罪を裁き、その王家をイスラエルから一掃されました。偶像礼拝と、それに連動した悪政がさばかれ、同時に理不尽な扱いを受けた人たちに対する正義と公正が実現しました。このさばきによって神は御自分の民を悪しき罪の力から解放しようとされたのです。 Thu, 05 Aug 2021 00:10:00 +0000 約束を忘れない神(列王記下 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210805 no 2021 しかし、主はその僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである。 (列王記下8章19節) 北イスラエルの王がアハブの子ヨラムであった時代、南ユダではヨシャファトの子ヨラム、その後はその子アハズヤが王として治めることになりました。ユダの王ヨラムは北イスラエルの王であったアハブの娘を妻としていて、彼女がアハズヤの母となっていました。 ユダの王ヨラムは、国を挙げてバアル礼拝を行い、神の預言者を迫害したアハブ、イゼベル夫妻と姻戚関係だったのです。そのためユダの二人の王も、アハブの家と同じように主の目に悪とされることを行いました。北イスラエルとユダの両者は「アハブの道」を一緒になって歩いていると言ってよい状態でした。やがてアハブ王家は滅ぼされます。ところがユダについては、主はこれを滅ぼそうとはなさいませんでした。 その違いは、北イスラエルに比べてユダが立派だったからではありません。それは「その僕ダビデのゆえ」でした。人間の側の行いの違いではなく、ただ神が「ともし火」として与えてくださった御自身の契約に忠実なお方だったからです。ユダは主の恵みによって当面の滅びを免れたのです。 神様は私たちに対しても契約に忠実なお方です。 Wed, 04 Aug 2021 00:10:00 +0000 信仰の目を開いてくださる主(列王記下 6-7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210804 no 2021 主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。 (列王記下6章7節) イスラエルとアラムの王とが戦っていたとき、エリシャはイスラエルの王にアラム軍の居場所を教えて警告しました。これによってイスラエルはアラム軍との衝突を避けることができたのです。そのことを知ったアラムの王は、エリシャのいる町を大軍で包囲しました。軍隊に町が包囲されているのを見たエリシャの従者は恐れおののきます。しかし、エリシャが「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈ると、従者の目が開け、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山にいるのを見ることができました。 敵に囲まれて絶体絶命と思った時には、従者には主の軍勢が周りを囲んでいるのが見えませんでした。周囲の敵に心を奪われるとき、信仰の目が見えなくなり、主が共にいてくださることが分からなくなります。 しかし、万軍の主はいつでも私たちを守ってくださっています。私たちにはそれが見えないだけなのです。私たちが祈りつつ御言葉に聞くとき、主は私たちの信仰の目を開き、確かな主の救いを、鮮やかに見えるようにしてくださいます。 Tue, 03 Aug 2021 00:10:00 +0000 安心して行きなさい(列王記下 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210803 no 2021 ナアマンは言った。「…僕は今後、主以外の他の神々に…ささげることはしません。ただし、…主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。…主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。 (列王記下5章17節~19節) エリシャは、アラムの将軍ナアマンの重い皮膚病を癒やしました。そのときナアマンは、自分を癒やしてくださった主なる神だけを礼拝したいと告白しました。しかし、自分の主君がほかの神を礼拝するとき、介添え役をする将軍もひれ伏さねばならないので、それを赦してくださいと願いました。ナアマンは、もう他の神ではなく、自分を癒やしてくださった主なる神だけを礼拝したいのです。偶像を拝んではならないという十戒を学ぶ前から、「もうこの神だけを礼拝したい」という思いでいっぱいです。だから、ナアマンは職務上しなければならないことをしたくない、してはいけないと思ったからこそ願っているのです。 それに対してエリシャは、「安心していきなさい」と言いました。エリシャは許可したわけでも、そのうち分かるだろうと思ったわけでもありません。あなたが願っている、主なる神との「平安に向かって行きなさい」と言ったのです。 これは、列王記の王たちが次々と偶像礼拝に向かう中で、特筆すべき出来事です。主なる神を知らない異邦人の救いです。私たちも「初めの愛」を思い起こしましょう。 Mon, 02 Aug 2021 00:10:00 +0000 主は言われる(列王記下 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210802 no 2021 召し使いは、「どうしてこれを100人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」 (列王記下4章43節) 4章には、エリシャがエリヤの霊を受け継いでいることを示す四つの奇跡が記されています。そのうちの四つ目がいちばん興味深い奇跡です。ある人がパン20個を持って来たとき、エリシャは召し使いに「人々に与えて食べさせなさい」と命じました。召し使いは驚いて、「どうしてこれを100人の人々に分け与えることができましょう」と言いましたが、もっと驚くことになりました。人々が食べきれずに残したのです。当然、これは主イエスがなさったパンの奇跡を思わせます。 人々が主イエスを預言者だと言ったのは、エリヤやエリシャのように奇跡を行ったからです。しかし、預言者は「主は言われる」と言ってから行うのに対し、主イエスは御自分でおっしゃいます。「歩け」と言えば足の不自由な人が歩きます。「開け」と言えば目の見えなかった人の目が開きます。「静まれ」と言えばマントを使わなくても波が静まります。まことに「言は神」でした(ヨハ1章1節)。「初めに言があった。言は神と共にあった」そのお方が、私たちを新しく創造してくださいます。それが神の最大の奇跡、復活です。 Sun, 01 Aug 2021 00:10:00 +0000 5つのパンで5,000人を養うイエス(ヨハネによる福音書 6章1-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210801 no 2021 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、…なお残ったパンの屑で、12の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「…世に来られる預言者である」と言った。 (ヨハネによる福音書6章11節~14節) 主イエス・キリストは、その数の人々を養うには到底足りない、たった5つのパンと2匹の魚を用いて5千人を養われました。しかも、5千人が満腹した後に余ったパンを集めると、12の籠がいっぱいになったというのです。これは、普通では全く考えられない奇跡的な出来事です。 この主イエスの5千人の給食と極めて類似した奇跡が列王記下4章42節以下に記されています。1人の男が初物のパン、大麦パン20個等を預言者エリシャのもとに持って来ると、エリシャは、「人々に与えて食べさせなさい」と命じます。召し使いは、「どうしてこれを100人の人々に分け与えることができようか」と疑問に思います。しかし、エリシャが「主は言われる。『彼らは食べきれずに残す』」と言うので召し使いが配ったところ、主の言葉のとおり、彼らは食べきれずに残しました。 これらの奇跡の共通点は、ただ必要が満たされただけでなく、あり余るほど与えられたということです。私たち主イエス・キリストの父なる神は、豊かに与えてくださるお方です。きょうもそのお方に満たしていただきましょう。 Sat, 31 Jul 2021 00:10:00 +0000 わたしはあなたを離れません(列王記下 2-3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210731 no 2021 エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。 (列王記下2章2節) エリシャがエリヤの後を継ぐ時が来たのですが、なぜかエリヤはエリシャを突き放します。エリシャは、「絶対離れません」とついて行きます。 また、なぜか他の預言者たちもエリヤがきょう主に取り去られることを知っていて、口出しします。エリシャは黙々とエリヤについて行くことだけを考えています。 ついにエリヤは言いました。「わたしが取り去られる前に、あなたのために何をしようか」。エリシャは「あなたの霊の二つの分を受け継がせてください」と願います。エリシャは必死でした。エリヤが何度も命を狙われながら預言者の仕事をしたのを見てきたのです。自分一人で、主に逆らう王たちを相手に、預言者の仕事ができるだろうか。 エリヤは言いました。「わたしが取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる」。すると火の戦車が現れ、エリヤは嵐の中を天に上って行きました。エリシャは天の父とその軍勢が味方であることを知りました。 私たちも、偶像の神々と権力が結びついた世の中に生かされています。しかし、エリヤの霊二つ分以上の、主イエスの霊が味方なのです。 Fri, 30 Jul 2021 00:10:00 +0000 神の人(列王記下 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210730 no 2021 王は更に3人目の五十人隊の長とその部下50人を遣わした。3人目の五十人隊の長は上って来て、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうかわたしの命と、あなたの僕であるこの50人の命を助けてください。」 (列王記下1章13節) 王から預言者エリヤのところに五十人隊が2回遣わされましたが、2回とも天からの火で滅ぼされてしまいました。3回目の五十人隊は、隊長が恐れてひざまずいたので助かりました。 ソロモンは神の恵みによって知恵と富と名声を与えられました。ところが、周辺諸国との平和を築くために、多くの政略結婚をして偶像を持ち込み、神の怒りを買いました。国は南北に分裂し、王たちのほとんどが偶像礼拝を受け継いでしまいました。神の怒りは激しく燃え、北イスラエルも南ユダも罰を受け、ついにアッシリア、バビロンという大国に滅ぼされます。 それでもその間、神は預言者たちを送り続け、悔い改めを呼びかけてくださいました。その中に、神の人と呼ばれる預言者がいました。エリヤ、エリシャです。 主イエスのことを人びとが「エリヤだ!」と言ったことがありますが、それはエリヤが神の御業を行なう預言者だったからです。エリヤは神に頼って、神が御業を行われたのですが、主イエスはご自分の言葉で御業を行われました。エリヤは「神の人」ですが、主イエスは「神」であられます。 Thu, 29 Jul 2021 00:10:00 +0000 神が助けとなってくださる(詩編 94編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210729 no 2021 主がわたしの助けとなってくださらなければ わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。 「足がよろめく」とわたしが言ったとき 主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。 わたしの胸が思い煩いに占められたとき あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました。 (詩編94編17節~19節) この詩は、基本的に「報復を求める祈り」です。「こんなものがあるなんて」と思われた方もいらっしゃるでしょう。新約聖書の倫理からすると抵抗感が生じますが、こう考えてみると良いのではないかと思います。苦悶しつつもこう祈り、神に委ねることで自ら手出ししないのだ、と。 神に逆らう人たちは傲慢で人の道に反しています。何よりも神をあなどります。「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。しかし神はおっしゃいます。「耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか」。 神が何もしていないと思っても、私たちにそう見えるだけの話です。聖書を通して、神がすべてに時を定めておられ、お決めになった時に実行なさることが示されています。これを知ることが「知恵」なのです。 この知恵を持つことは、私たちに慰めを与えます。神は私たちに慈しみと恵みを与える時をもお持ちだからです。それがいつなのかは分かりませんが、神が助けを与えようとする時、まさしくそのことが起こります。 Wed, 28 Jul 2021 00:10:00 +0000 神の御座は永遠(詩編 93編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210728 no 2021 主こそ王。 威厳を衣とし、力を衣とし 身に帯びられる。 世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます。 (詩編93編1節~2節) 「主こそ王」と、この詩編の冒頭で語られています。この主題は、94編を例外として、このあとも99編、あるいは100編まで続きます。この詩編ではとくに、主が「威厳を衣とし、力を衣として身に帯びられる」お方であることが強調されています。それは恐れではなく、心からの喜びをもって歌われています。 なぜ神が王であることが、私たちにそんなに喜ばしいことなのでしょうか。それは、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」からです。地上は不安定なものです。3節以降の「潮」のたとえのように、歴史上の目に見える王国は今まで興されては倒れ続けてきました。この世界は、その度に揺り動かされてきました。 しかし、それらすべてを超えて、主こそがこの世界の王で、永遠に治めておられます。どれほど時代が変化し、いろんなことが起ころうとも、この世界は主によって、守られ、支えられています。私たちには理解ができず、状況が曇っていて、真相が隠れていても、神こそ永遠に王だという事実は変わりません。そして何よりも、その支配は私たちのためになされます。ですから、この一日も主の導きをいただきましょう。 Tue, 27 Jul 2021 00:10:00 +0000 主への賛美は喜び(詩編 92編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210727 no 2021 いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは (詩編92編2~3節) 詩人はまっすぐに神を礼拝することが「楽しい」と言っています。「楽しい」と訳されている言葉は、原文では「良い」という言葉です。 この日本のような社会で礼拝に継続的に出席し続けることには、だれにとっても、さまざまな困難があるでしょう。しかし、ただ礼拝への出席ということだけではありません。「義務」や「責任」でただそこにいるということも起こってしまいます。 しかしながら、詩人は言います。礼拝は人のために「良いこと」なのだと。人の幸福のためなのだと。それは神の「慈しみ」と「まこと」を覚え、ほめたたえるためでもあります。さらにはそれを「述べ(宣べ)伝える」という目的までもが語られています。 「慈しみ」と「まこと」は旧約聖書で繰り返し出てくる言葉です。どちらも契約に基づくもので、神が忠実で私たちに示す恵みと愛を変えないことを意味します。これがあるので、私たちは、なつめやしのように茂り、レバノン杉のように胸を張ってまっすぐ立つことができます。神の愛が注がれています。このことが悪いはずがありません。とても良いことです。 Mon, 26 Jul 2021 00:10:00 +0000 神の守りがある幸い(詩編 91編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210726 no 2021 「彼はわたしを慕う者だから 彼を災いから逃れさせよう。 わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え 苦難の襲うとき、彼と共にいて助け 彼に名誉を与えよう。」 (詩編91編14節~15節) この詩編は、主イエスの「荒れ野の誘惑」で、サタンが11節と12節を引用したことで知られています。サタンの解釈はまったく間違っています。この箇所は、どんな無茶な行為をしても神が必ず支えてくださるという意味ではありません。そのような理解は神を試みて、神に挑むことであり、旧約聖書で明白に禁じられていることです(申6章16節)。 この詩編が描いているのは、おそらく出エジプトをした後の荒れ野の旅路のことです。神がつまずきを避け、隠れた危険を退けてくださっていたことを言っています。神が日常の中で、私たちには見えていない数多くの守りを与えてくださっていることが明らかにされています。これはとても大切な認識です。必要とするときに神が助けてくださらないと不満に思ったことがなかったでしょうか。私たちの望みがかなわなければ守りはないのでしょうか。 そうではありません。私たちには見えていないだけで、守りは確かで豊かなのだと神ご自身が約束してくださっています。神はあなたを愛しておられます。だから守っていてくださいます。 Sun, 25 Jul 2021 00:10:00 +0000 深い憐れみ(マルコによる福音書 6章30-34,53-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210725 no 2021 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 (マルコによる福音書6章34節) 十二弟子が伝道から帰って来ました。ここでは「使徒たち」と言われています(30節)。主イエスによって派遣されて伝道したことを報告しているからでしょう。 主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所に行って、しばらく休むがよい」と言われました(31節)。伝道には慌ただしさと未知の経験が伴いますから、疲れるものです。弟子たちには休息することが必要でした。主イエスは真実に人となられたのであり、主イエスご自身、疲れることをご存じだったでしょう。マタイ福音書は、主イエスが「ひとり人里離れた所に退かれた」と書き留めています(14章13節)。 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」。主イエスは、弱さを知るお方です。何を目指して、どのように歩めばよいのか分からない私たちのことを憐れんでくださいます。主イエスご自身が良い羊飼いとして、私たちのことを導いてくださいます。そのために、今も深い憐れみをもって、主の日ごとに私たちに御言葉を分け与えてくださるのです。 Sat, 24 Jul 2021 00:10:00 +0000 神のみもとで憩うこと(詩編 90編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210724 no 2021 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。 (詩編90編1節) 表題に「祈り。神の人モーセの詩」とあるのは、長年の災いを体験したとあるので、長生きしたモーセに違いないと考えたからでしょう。 印象に残るのは、詩人が3節以降で、「人生のはかなさ」を嘆いていることです。「人の子よ、帰れ」は、「立ち帰れ」という意味ではありません。「塵に返れ」という意味です。人間存在は死すべきもの、はかないものであるということが語られています。 永遠の神と比較すると、人間の人生は短く、「瞬く間に時は過ぎ」ます(10節)。「得るところは労苦と災いにすぎない」と言いたくなる気持ちも分かります。 しかしながら、人には慰めがあります。それが「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ(住処)」という告白です。この言葉には背景があります。砂漠の族長が保護すると決めたら天幕内では誰も手出しできないというルールがありました。同じように、永遠の神に保護されるなら安全なのです。神の家なのですから、そこで永遠に憩うことを求めることは、空虚な夢ではなく、はかない私たちを大いに慰める希望です。 Fri, 23 Jul 2021 00:10:00 +0000 それでもなお(詩編 89編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210723 no 2021 それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず わたしの真実をむなしくすることはない 契約を破ることをせず わたしの唇から出た言葉を変えることはない。 (詩編89編34節~35節) きょうの詩編は、39節を境に雰囲気ががらりと変わります。前半は神の契約に対する信頼と期待が表明されています。後半はバビロンに連れ去られた捕囚の時代が背景にあるのでしょう。直面している厳しい苦難が描かれます。後半を読むときに初めて、この詩編の作者が、苦しみの中からなお神の契約に信頼を寄せ、そこに救いの望みを置いていることがわかります。 「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います」と始まるこの詩編は、決して平和や繁栄の中から出た言葉ではありません。むしろ逆で、苦難を経験してもなお、変わることのない信仰の表明です。この確信はいったいどこから出てくるのでしょうか。 それは、34節で神が約束してくださった言葉、「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない」と語る神の言葉を頼りとしているからです。 この約束は究極的にはイエス・キリストによって確かなものとされました。苦しみの中にあるとき、キリストを通して示された神の慈しみが私たちを力づけます。 Thu, 22 Jul 2021 00:10:00 +0000 深い苦悩の中での祈り(詩編 88編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210722 no 2021 主よ、わたしを救ってくださる神よ 昼は、助けを求めて叫び 夜も、御前におります。 (詩編88編2節) きょうの詩編は、朝起きて読むには、あまりにも重苦しい内容です。終わりに向かって光が見えてくるどころか、結びの言葉はさらに深刻です。「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(19節)。苦しみが未解決のまま、祈り手が闇に放り出されています。 もし、この詩編の作者と同じ状況にある人が目の前にいたとしたら、何も声をかけられないでしょう。その人の状況を正しく理解することも難しく、また理解できたとしても、ふさわしい慰めも励ましもすぐには思いつかないからです。ちょうどヨブを訪ねてきた友人たちが、7日間、ヨブに声をかけることができなかったのと同じです。 けれども、この詩編には絶望しかないというわけではありません。祈りの答えさえ聞こえてこないような中にあっても、祈り続ける信仰者の姿が描かれています。昼も夜も、絶えず神の御前で訴え続ける一人の信仰者です。祈ることしかできないのではなく、祈る特権が与えられている自分を知っています。たとえうめきでしかない祈りであっても、聖霊がその祈りを執り成してくださいます(ロマ8章26節)。 Wed, 21 Jul 2021 00:10:00 +0000 同じ神の民とされる幸い(詩編 87編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210721 no 2021 主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。 歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。 (詩編87編6節~7節) きょうの詩編に出てくる聖なる山「シオン」を文字通りの意味に理解し、そこに建てられた都エルサレムが世界の中心となるようにと、今なお期待すべきでしょうか。確かにこの詩編が書かれたときには、その期待は大きかったでしょう。 しかし、新約聖書の光で読み直すときに、違った景色が見えてきます。キリストにあっては、特定の場所は問題ではありません(ヨハ4章21~24節)。むしろ、あらゆる民族がキリストにあって同じ神の国の民とされること、そのことが重要です。事実、キリストに結ばれた者にとっては、ユダヤ人も異邦人もなくなりました(エフェ2章11節以下)。新約の光で読むときに、この詩編はそれを先取りして描いているように見えます。 この詩編はこう結ばれます。「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。作者が描く神の都は「わたしの源はすべてあなたの中にある」と言われるほどに、理想化された世界です。それは、新しい天と地が完成し、天のエルサレムが降って来るのを待ち望む私たちの期待にも通じています(黙21章)。 Tue, 20 Jul 2021 00:10:00 +0000 一筋の心を(詩編 86編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210720 no 2021 主よ、あなたの道をお教えください。 わたしはあなたのまことの中を歩みます。 御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。 (詩編86編11節) きょうの詩編を味わうには、三つのことを念頭に置いて読み進めてみてください。 まず、この詩編の作者にとって神はどんなお方なのでしょう。それは、恵み深く、お赦しになるお方、呼び求めれば、必ず答えてくださるお方です。深い陰府からも救うことのできるお方。このようなお方は他にはいない、唯一無二のお方です。こう神を描くのは、決して神についての知識の寄せ集めではありません。心からの信仰です。 この神に対して、自分自身の姿をどう描いているでしょう。それは、貧しく、身を屈める者、神の慈しみに生きる者、神に依り頼む者、主なる神だけを慕う者です。それは恵みと憐れみに富む神だけを頼って生きる姿です。頼る相手を唯一無二だと信じているのですから、他の選択肢はありません。 では、命が狙われる危機に直面し、一体何を願っているのでしょう。一つは、自分に与えられた良いしるしを見て、自分を憎む者が恥じ入ることです。しかし、その前にもう一つ大切なことを願っています。それは、神の道を教えられて、神のまことの中をぶれずに歩み続けることです。 Mon, 19 Jul 2021 00:10:00 +0000 主は平和を宣言される(詩編 85編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210719 no 2021 主は平和を宣言されます 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。 主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。 (詩編85編9節~10節) きょうの詩編は、バビロン捕囚からの解放の時代を背景としています。エルサレムへ帰還することは、捕囚の民にとって長年の願いでした。捕囚からの解放は、ただ故郷に帰ることができるという喜びだけではありません。かつて神に対して犯した自分たちの罪が赦されたことをも意味しています。ところが、5節以下の言葉には、喜びよりも、なお苦しみの中に置かれ、神の怒りが続いているような状況が描かれています。これはいったいどういうことなのでしょう。 この時代のことを扱ったエズラ記によると、エルサレムへの帰還と都の再建は思ったよりも長期間に亘りました。神殿再建も、それに抵抗する人たちの妨害に遭い、苦労の多いものでした。一筋縄ではいかないエルサレムへの帰還に、信仰的な動揺も隠しきれないものがありました。 そのような状況の中で、この詩編の作者は、神からの力強い宣言を耳にします。それは、心くじけそうな者にとって励ましとなり、力となる言葉です。今の時代にも、神の言葉は未だ目にすることができない将来に確実な希望をもたらします。 Sun, 18 Jul 2021 00:10:00 +0000 洗礼者ヨハネの最後(マルコによる福音書 6章14-29節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210718 no 2021 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 (マルコによる福音書6章18節) 主イエスの福音宣教、また十二弟子の派遣によって、主イエスのことがヘロデの知るところとなりました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」という人びとの言葉を聞いて、ヘロデは自分が首をはねたヨハネのことを思い起こします。この箇所は、洗礼者ヨハネの宣教活動が終わったことと、主イエスの宣教活動がすでに始まっていたことを示しています。 それにしても洗礼者ヨハネの最後は悲惨なものです。ヘロデは洗礼者ヨハネを捕らえてマケルス城の不気味な牢に入れていました。ヨハネは自分の身を顧みず過ちを正す人物で、ヘロデに対して「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったからです。そして、このことがヘロデの妻へロディアの恨みを引き起こし、やがて首をはねられることになりました。 悲惨な死を遂げたヨハネですが、正しいのに殺されるとは、主イエス・キリストの十字架の死にこそ鮮やかに現れています。洗礼者ヨハネはキリストの先触れとして、その死を指し示す者とされたのです。 福音は、死を超えて宣べ伝えられていきます。福音には神の力があるからです。 Sat, 17 Jul 2021 00:10:00 +0000 神と共に生きる幸い(詩編 84編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210717 no 2021 あなたの庭で過ごす1日は千日にまさる恵みです。 主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 (詩編84編11節) きょうの詩編の出だしは、こんな言葉で始まります。「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう」。では、まことの神がいますところとはどこでしょう。続く言葉の中に「主の庭」「祭壇」「シオン」「神の家」と出てきますから、エルサレムの神殿がその場所であるように思われます。 確かに幕屋も神殿も、神がその民と共に住んでくださる証として建てられました(出25章8節、王上6章11節以下)。けれども、地上の建物が神を容れることなどできないことは、神殿を建てたソロモン王自身も知っていました(王上8章27節)。 神のいますところ、それはどこにいても、そこで神に依り頼むなら、そこが神のいます場所です。この詩編はこう結ばれます。「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」。その言葉の通り、神に依り頼む人は、神が共にいてくださる幸いを味わうことができます。このことこそ、この詩編の作者が今感じている喜びです。きょう、あなたがいるその場所で、神を身近に感じることができますように。 Fri, 16 Jul 2021 00:10:00 +0000 神の雄弁な沈黙(詩編 83編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210716 no 2021 神よ、沈黙しないでください。 黙していないでください。 静まっていないでください。 御覧ください、敵が騒ぎ立っています。 あなたを憎む者は頭を上げています。 (詩編83編2節~3節) 神は沈黙を守っておられるのでしょうか。この問いは信仰者にとってとても大きな問いです。苦しみの中にあるとき、とりわけ自分の信仰に敵対する人たちから受ける辱めの中にあるとき、神が何も答えてくださらないように思えて、苦しみに動揺が加わります。敵対する者たちも、神の沈黙は神がいない証拠であるかのように、信仰者たちを責め立てます。「お前の神はどこにいる」と(詩編42編11節)。 きょうの個所でも、詩編の作者は沈黙する神に必死で呼びかけます。傲慢な敵に囲まれた自分の窮状を切々と訴え続けます。神が立ち上がって敵を蹴散らし、滅ぼしてくださるようにとさえ願います。 神はこの訴えに何も答えられなかったのでしょうか。そうではありません。この詩編の作者の心に変化を起こします。敵の滅びを願っていた彼に、敵がまことの神の存在を悟ることができるようにと願わせます。わたし自身のことを振り返ると、その願いのおかげで、まことの神を信じる者と変えられました。神は今も生きて雄弁に働いておられます。 Thu, 15 Jul 2021 00:10:00 +0000 まことの裁き主である神(詩編 82編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210715 no 2021 「弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。 弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ。」 (詩編82編3節~4節) 聖書の教えは、唯一まことの神だけを神とする唯一神教です。その聖書に、神々があたかも存在するような表現があるのに戸惑います(1節)。実際にはいないのですから、結局のところ、神々とはそれを生み出す人間そのものです。神々が弱者を苦しめるのではなく、さまざまな意味での偶像を生み出す人間が社会を歪めます。 きょうの個所に出てくるような、強い者に味方し、弱い者たちがないがしろにされる権力者の横暴は、まるで今の世の中を見ているようです。どんなに社会制度が整えられても、人間の本質は変わりません。いえ、不正に傾く人間の本質が変わらないからこそ、さまざまな制度が必要とされ、生み出されてきたと言えるかもしれません。 昔も今も、罪に傾く人間の本性が不正を生み続けています。「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」と叫ぶこの詩編の作者の声は、まさに今を生きる私たちの叫び声でもあります。しかし、そう叫ぶ私たち自身もまた罪深い性質を持っています。この人間の根深い問題を解決できるのは、まことの神だけです。 Wed, 14 Jul 2021 00:10:00 +0000 神の言葉は生きている(列王記上 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210714 no 2021 イスラエルの王はヨシャファトに言った。「あなたに言ったとおりではありませんか。彼はわたしに幸運ではなく、災いばかり預言するのです。」だがミカヤは続けた。「主の言葉をよく聞きなさい。わたしは主が御座に座し、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。」 (列王記上22章18節~19節) ユダの王ヨシャファトは、イスラエル王のアハブに、アラム人の手からギレアドの町を奪い返すための協力を求められました。ヨシャファトは「主の言葉を求め」ることを提案します(5節)。集められた預言者たちは「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅せよ」と言います(11節)が、ただ一人預言者ミカヤは、「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました」と言って反対します(17節)。ミカヤは頬を殴られ、獄につながれます。 アハブ王は変装して戦いに臨みます。敵の戦車隊の長たちは、王たちが替え玉だと見破り追跡をやめます。しかし、敵兵の一人が何気なく射た矢がアハブ王にあたり、彼は深手を負ってしまいます。憐れみによって裁きを保留されたアハブ王でしたが、預言者の警告を無視したために戦死しました。主の言葉通り、犬の群れがその血をなめ、遊女たちがそこで身を洗いました。主なる神の裁きの厳しさを覚えさせられます。 Tue, 13 Jul 2021 00:10:00 +0000 計り知れない神の憐れみ深さ(列王記上 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210713 no 2021 「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」 (列王記上21章29節) サマリアの王アハブは、ナボトのぶどう畑を欲しました。その要請をナボトは断ります。自分の利害や都合のためではありません。「地は永代に売ってはならない。地はわたしのものだからである」とのおきてに従ったからです(レビ25章23節参照)。 王アハブは望んだものが手に入らないので、機嫌を損ね、食事もできません。彼の妻イザベルは、神と王を呪ったという偽りの証言をならず者にさせ、その偽証によってナボトを石で打ち殺させ、ナボトの土地を夫に与えます。 このような不祥事に対して、預言者エリヤは、アハブ王が滅ぼされると預言します。しかし、そのときアハブ王が悔い改めたため、神は災いを思いとどまられました。 正しい人ナボトは悲劇の生涯を閉じ、罪深いアハブは裁きを保留されます。私たちにとって、つまずきを覚えるような神のなさり方です。しかし、アハブ王でさえ悔い改めたときに裁きを保留される、神のはかり知ることのできない憐れみ深さがここで証しされます。私たちも、一人の正しい方であるキリストの十字架の死によって、その罪を贖われ救われました。 Mon, 12 Jul 2021 00:10:00 +0000 信じるとは従うこと(列王記上 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210712 no 2021 見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいてこう言った。「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」 (列王記上20章13節) アラムの王ベン・ハダドが北イスラエルに戦いを挑んできました。イスラエルの王アハブはその要求に全面的に屈従しています(4節)。アハブは、ベン・ハダドの攻撃に際して神の託宣を求めません。神が預言者を遣わして「あなたの手に渡す」と告げても、優柔不断に誰を用いてするのかと質問し、あげくの果ては誰が戦いを始めるのかと問う始末です。彼はイスラエルに立てられた王ですが、自ら立って戦う姿勢が見られません。 また、神の圧倒的な力によってアラム軍を撃退したのですが、命乞いをするベン・ハダドに対して、「彼はわたしの兄弟である」と言って寛容に扱い、滅ぼそうとしません。さらに彼と和睦協定を結んだ上に、帰国させてしまいます。このように、彼は神の御旨に従っていません。 預言者を通してその責任を追及されると、彼は機嫌を損ね、腹を立てて王宮に帰ってしまいます。そこには悔い改めはありませんでした。 神を信じるとは、従うことです。神を信じると言いながら、神の御命令に従っていないならば、それは信じたことになりません。 Sun, 11 Jul 2021 00:10:00 +0000 伝道の心得(マルコによる福音書 6章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210711 no 2021 12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 (マルコによる福音書6章12節) 主イエスは、故郷のナザレでも福音を宣べ伝えられました。けれども、受け入れられず、主イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とおっしゃいました。 それに続く十二弟子の派遣は、主イエスご自身の伝道の働きの必然的な継続、また広がりです。十二弟子の派遣と私たちの派遣、初代教会と私たちの宣教には違いがありますから、そのまま私たちに当てはめることはできませんが、大切なことを学ぶことができます。 杖1本のほか何も持たない。パンも袋も、またお金も持たない。ただ履物は履く。そして下着は2枚着てはならない。これらは主イエスご自身が遣わされた者たちと共におられることを意味します。ほかの何かを頼みとすることなく、ただ主イエスに依り頼みます。神に信頼することが「伝道の心得」です。 宣教の中心は、「悔い改めさせる」ということです。洗礼者ヨハネも主イエス・キリストも、悔い改めを宣べ伝えました。それは十二弟子と私たちも変わりありません。「福音」によって悔い改めて、神の御前に立ち帰るのです。 Sat, 10 Jul 2021 00:10:00 +0000 伝道の熱心と失意(列王記上 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210710 no 2021 彼は1本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 (列王記上19章4節) 異教のバアル預言者との信仰的戦いに大勝利を賜ったエリヤでしたが、アハブ王と妻イゼベルの執拗な迫害を恐れ、ユダの荒れ野に逃れます。そして、もはや主の預言者としての使命を果たせないと、主に嘆願します。 けれども、主は御使いを遣わしてパン菓子と水とを与え、エリヤは40日40夜歩き通し、遂にホレブ山(モーセが十戒を授かった地)へと導かれます。そこでご自身を現わされますが、それは激しい風の中でも、地震の中でも、火の中でもありませんでした。主は、静かでか細いささやく御声をもって彼に語りかけられたのです。主はエリヤに対し、ニムシの子イエフに油を注いで王としアハブ王朝を打ち倒させ、エリシャをエリヤの後継者に召し、バアルを拝まない者7千人を残すと、力強く宣言されました。 奉仕者は疲れ果ててしまうことがあります。それでも主は、食べ物を与えて力づけてくださり、小さなかすかな御声をかけて励ましてくださいます。私たちが弱ったときに、相応しい導きを備えてくださる、そのような憐れみ深い神を持つ私たちは幸いです。 Fri, 09 Jul 2021 00:10:00 +0000 主こそイスラエルの神(列王記上 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210709 no 2021 「わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」 (列王記上18章37節) カルメル山上での、エリヤただ一人とバアル預言者450名及びアシェラ預言者400名との、熾烈な信仰的闘いの場面です。神の警告として厳しい飢饉が起こったにもかかわらず、なおアハブ王はじめイスラエルの人たちは神に背き続けました。そのため、神がエリヤを用いてご自身の御力を示されたのです。 最初にバアルの預言者たちがバアルに叫び求め、激しく身を傷つけましたが、何の答えも返ってきませんでした。それに対してエリヤが主に祈り求めると、直ちに聞き届けられ、天から火が降り注ぎ、一瞬にして水が蒸発し、いけにえが焼き尽くされました。この大きな奇跡により、民はようやく信仰の目を覚まし、イスラエルの神こそが真の神であると悔い改めて信仰を告白するに至ったのです。 エリヤはこのとき、主を信じ従う者は自分以外にはいないと思っていましたが、神ご自身が共にいて戦ってくださっておられました。自分がいかに小さく貧しく弱く思えても、神はその者の信仰を通して大いなる救いの御業をなさる力あるお方であることを覚えたいのです。 Thu, 08 Jul 2021 00:10:00 +0000 主の御言葉は真実です(列王記上 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210708 no 2021 エリヤは言った。…「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。 主が地の面に雨を降らせる日まで 壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。」 …女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」 (列王記上17章13節~14節、24節) 北イスラエル王国7代目のアハブ王のもとに預言者エリヤが神から遣わされます。それは、アハブが北イスラエル初代のヤロブアムの罪に倣うだけでなく、シドンの王エトバウルの娘イゼベルを妻に迎えてバアル宗教を積極的に取り入れていたためです。 アハブの主なる神を無視したこれらの大罪に対して、エリヤは、数年間雨が降らないことを預言しました。なぜなら、バアルは雨をもたらす異教の主神であって、その役目を果たせなくするためです。 その間、エリヤ自身は、飢饉のため困窮していたサレプタのやもめのところへ遣わされます。彼女と子どもとが最後の食事をとり、生きるのを諦めようとしていたとき、エリヤは自分に先ず食事を差し出すよう求めました。従った彼女に「壺の粉は尽きず、瓶の油は無くならない」との主の御言葉の真実が実現し、彼女と子どもの命は守られました。 主の御言葉は、依り頼む者に命と深い憐れみをもたらします。このように私たちも日々、御言葉の真実に固く生かされ、守られ、導かれ、支えられる者とされたく願います。 Wed, 07 Jul 2021 00:10:00 +0000 せっかくの善政も空しい(列王記上 15-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210707 no 2021 アサは、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い、神殿男娼をその地から追放し、先祖たちの造った偶像をすべて取り除いた。…聖なる高台は取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。 (列王記上15章11節、14節) 北イスラエル王国では次々と王が入れ替わり、謀反によって前政権が転覆させられる中、南ユダ王国のアサ王が、唯一主の目にかなう王であったと記されています。 彼は、見過ごされていたモーセ律法を遵守し、神殿男娼を追放し、アシェラ像を切り倒して、ユダの民を偶像崇拝の罪の虜から救い出しました。「聖なる高台(異教の神の礼拝所)は取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった」と言われます(14節)。 そこには、彼の神への敬いや熱心だけでなく、神ご自身の父祖ダビデに対する契約への誠実と憐れみとがあったからです。 しかしながら、このアサ王の改革は1代限りで、次のヨシャファト王には受け継がれず、再び南ユダ王国も北イスラエル同様の不信仰な有り様に陥ってしまいました。 私たちも上に立つ為政者のための執り成しと、果すべき義務があることを覚えます。なぜならその背後に主権者であられる神の御心と神による恵みのご支配とがあるからです。このことを畏れ、主を心から崇め仕える者とされたく願います。 Tue, 06 Jul 2021 00:10:00 +0000 神こそが国を建て、引き抜かれるお方(列王記上 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210706 no 2021 「あなたは立って家に帰るがよい。あなたが足を町に踏み入れるとき、あなたの子は死ぬ。イスラエルのすべての人々はこの子を弔い、葬るだろう。まことにヤロブアムに属する者で墓に入るのは、この子一人であろう。」 (列王記上14章12節~13節) 一国の王であっても、跡取り息子の重い病に向き合って慌てない親はいないでしょう。その親とは北イスラエル王国のヤロブアム王その人でした。早速、彼は、妻に変装させて神のみ告げを聞きに行くように命じます。 先にヤロブアムを用いて北イスラエル王国の興隆を預言した預言者アヒヤを通して、主は王子の死を妻に告げ知らせられました。 この厳しい神の宣告は、ヤロブアム王自身の、神と神の御言葉に対する数々の背きの罪ゆえです。まさに主なる神こそが王国を建て、また王国を引き抜かれる主権をお持ちの方なのです。ヤロブアム王は、自分の勝手に自由に振る舞えると思い上がっていたのですが、神の御心はそうではありませんでした。 私たちの人生にも悲しいこと、喜ばしいことさまざまありますが、そこに神の主権を認め、畏れをもって受け入れることが大切です。神の恵みには感謝と賛美をもって、試練には忍耐と悔い改めをもって臨むことができれば幸いです。あなたも主の御前に謙遜と従順をもって歩むことを第一にされませんでしょうか。 Mon, 05 Jul 2021 00:10:00 +0000 自らも御言葉に聞き従う(列王記上 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210705 no 2021 「わたしが死んだら、神の人を葬った墓にわたしを葬り、あの人の骨のそばにわたしの骨を納めてくれ。あの人が、主の言葉に従ってべテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ。」 (列王記上13章31節~32節) ダビデ契約を重んじないレハブアムに対し、神はヤロブアムを用いて北イスラエル王国を興されます。しかし彼は、主の言葉に聴き従わず、モーセ律法を無視し、金の子牛礼拝を勧め、好みで祭司を立ててしまいます。 ヤロブアムのご都合主義に対し、神は神の人を遣わし、「祭壇が裂け、いけにえの脂肪の灰は散る」との裁きを伝えました。果たしてその通りになります。ところが神の人はその帰途、同じ町に住む老預言者の偽の言葉に惑わされ、神から命じられた飲食の禁を犯し、獅子に出会って喰い殺されてしまいます。神の人に臨んだ災いについて老預言者が息子たちに言い遺したのが、この御言葉です。 いかなる誘惑に対しても、ただ神の言葉に従うことを求められる預言者の務めの厳しさを深く思わされます。預言者に求められるのは、御言葉を告げるだけでなく、自ら御言葉に聞き従うことです。それを通して務めが全うされるのです。 諸教会・伝道所で伝道、牧会に当たる牧師たち、神学校にて研鑽中の神学生たちの上に、主の導きと祝福が豊かにありますように。 Sun, 04 Jul 2021 00:10:00 +0000 死を超える力(マルコによる福音書 5章21-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210704 no 2021 「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。 …そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 (マルコによる福音書5章23節~24節、41節) ヤイロの娘と出血の止まらない女性が登場します。ヤイロの娘は12歳でした。出血の止まらない女性は12年間苦しんでいました。肉体的な苦しみだけではなく、社会生活から疎外された苦しみがあったでしょう。12年間が二つのエピソードを結んでいます。出血の止まらない女性は、主のいやしを通して信仰の告白に導かれます。 マルコ福音書は、主イエス・キリストの御苦しみに深い関心を持っていて、私たち一人ひとりの苦しみを主イエスの光で照らし出します。 私たちの苦しみの頂点は死で、愛する者との死別はとても悲しい出来事です。ヤイロの娘の死は家族に大きな痛手となりました。しかし、主イエスはヤイロを伴って、その死に立ち向かって行かれます。「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」という言葉は、そして、ヤイロの娘の死からの生き返りは、主イエス・キリストが死を超える力を持っておられることを示しています。 私たちの苦しみや悲しみの頂点である死は、キリストの御前では無力です。「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)との主の御言葉に、深い慰めがあるのです。 Sat, 03 Jul 2021 00:10:00 +0000 罪の源(列王記上 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210703 no 2021 彼は1体をベテルに、もう1体をダンに置いた。この事は罪の源となった。 (列王記上12章29節~30節) 分裂してしまったイスラエル王国。その大部分をネバトの子ヤロブアムが治めることになります。あろうことか彼は、王権を振るうために金の子牛を2体造り、礼拝の対象とします。これは、「いかなる像も造ってはならない」という十戒の第二戒への明らかな違反です。 彼は「自分の造った」子牛にいけにえをささげ、「自分の造った」聖なる高台のために祭司を立て、「勝手に定めた日」に祭壇に上りました(32、33節)。ヤロブアムの行いは「罪の源」と表現され、後の王たちはこの「ヤロブアムの罪」を引き継ぐことになりました。 人間本位の神理解、礼拝理解は偶像礼拝とつながっています。自分の益のために都合の良い神を造り上げることこそ偶像礼拝です。偶像礼拝はさらなる罪を生み出し、真の命を蝕み、滅びへと至らせます。 神は独り子イエス・キリストにおいてご自身を示されました。キリストの言葉である聖書を通してのみ、ふさわしく神を知りふさわしく神を礼拝することができます。ここに、人間を生かすことになる真の命があります。 Fri, 02 Jul 2021 00:10:00 +0000 ダビデのともし火(列王記上 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210702 no 2021 「彼の息子には一部族を与え、わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする。」 (列王記上11章36節) 「栄華を極めた」と言われるほどに神の祝福を大いに受けたソロモン王。けれどもここには神に対するソロモンの悲惨な応答が記されています。 ソロモンは千人の妻をめとり、彼女たちが信奉する神々のために礼拝所を築き神々に礼拝をささげます。主なる真の神ご自身が、「他の神々に従ってはならない」と二度も戒められますが、ソロモンは神の言葉に聞き従うことができませんでした。 イスラエル王国には外からも内からも敵が起こされます。王国は分裂へと向かうことになります。主を捨てる悲惨な応答は更なる悲惨を生み出します。人間が自力で悲惨の連鎖を食い止めることはできません。 その中で唯一の希望が「ダビデのともし火」です。人間は自分たちで作り出す光にしがみつこうとしますが、それらは所詮まがい物の光にすぎません。 罪の悲惨を断ち切ることができるのは唯一、神が与える天からのともし火だけです。神はどれだけ罪の悲惨が露わな世界においても、「ダビデの子」イエス・キリストという希望の光を灯し続けておられます。 Thu, 01 Jul 2021 00:10:00 +0000 大いなる富と知恵(列王記上 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210701 no 2021 ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。 (列王記上10章23節~24節) イスラエルの王ソロモンには「最も大いなる富と知恵」とが与えられました。彼の周りは、「銀は値打ちのないものと見なされ」るほどに純金で溢れていました(21節)。 ソロモンの名声を聞きつけてエルサレムを訪れたシェバの女王。彼女は「息も止まるような思い」(5節)で、ソロモンが治める民、仕える家臣は「なんと幸せなことでしょう」と言い、イスラエルの神を賛美します。ソロモンへの神の賜物は、国中の民に幸いをもたらすものでした。 聖書において富も知恵も神の祝福のしるしです。ソロモン王は神の祝福を大いに受けた人物でした。けれども他方で、聖書は、地上のすべてのものは朽ちるものに過ぎないと記します。そして、富も知恵もイエス・キリストにおいて理解されるものだと告げます。パウロは、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」を「宝」と呼びました(2コリ4章6節以下)。 信仰者は皆、ソロモン王に与えられた富と知恵に劣らない、神を知る知恵という宝を納めている器です。この器に「失望、滅びで終わらない」主イエスの命が現れます(2コリ4章8節以下)。 Wed, 30 Jun 2021 00:10:00 +0000 主が臨まれる神殿(列王記上 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210630 no 2021 「わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」 (列王記上9章3節) 神殿建築を終えたソロモンに主の言葉が臨み、神殿の意味が再確認されます。神殿とは「主の名」が置かれるところです。ソロモン自身、「天の天もあなたをお納めすることができません」と述べていました(8章27節)。けれども、このとき、主ご自身が神殿に臨在してくださることを宣言してくださいました。それゆえに神殿には主の目が注がれ、主の心が寄せられます。 神殿は、ティルスの王の提供もあり(11節)、全体が金で覆われていました(6章22節)。黄金の神殿に主が臨在なさるとは、いかにもふさわしく美しいものだと思わされます。 私たちの内には、神にふさわしく美しい金のようなものはどこにも見当たりません。けれども聖書は、罪人である私たち一人ひとりが神殿であると告げています(1コリ6章19節)。聖霊の御業が、私たちを金にまさるイエス・キリストに結びつけてくださるからです。神は、信仰によって私たち一人ひとりを神殿としてくださいます。 イエス・キリストと結ばれている主の神殿には、きょうも主の目が注がれています。主の心が寄せられています。 Tue, 29 Jun 2021 00:10:00 +0000 唯一の神との交わり(列王記上 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210629 no 2021 ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。」 (列王記上8章22節~23節) 神殿奉献に際してささげられたソロモンの祈りは、祈りが誰に向けられているのかをはっきりと告げる言葉から始まります。「上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません」。神はほかに類を見ない方、唯一のご存在です。イスラエルをエジプトから導き出し(16節)、私たちを滅びから救い出し、永遠の命へと導くことのできる唯一のお方です。 祈りとは、自分の心の中を巡る独り言ではありません。主イエス・キリストを通しての唯一の神との交わりが実現している時です。 ソロモン王が両手を天に上げたように、私たちの心を天におられる唯一の方へと高くあげる時です。私たちの目を、唯一の神が与えてくださる恵み、天の希望へと向ける時です。 イスラエルの民は、「すべての恵みの御業を喜び祝い、心晴れやかに自分の天幕へと帰って」行きました(66節)。 神はきょうも、祈りを通して私たちとの交わりを与えてくださいます。救いを与える唯一の神との交わりこそが、私たちの心を照らし、私たちを喜びの旅路へと遣わします。 Mon, 28 Jun 2021 00:10:00 +0000 神の国の働き(列王記上 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210628 no 2021 ヒラムは知恵と洞察力と知識に満ち、青銅にかけてはどんな仕事にも通じていた。彼はソロモン王のもとに来て、ゆだねられたあらゆる仕事をした。 (列王記上7章14節) エルサレムの都から北へ離れたティルスより、ヒラムという人物が呼び出されます。ヒラムは「知恵と洞察力と知識に満ち」た人物で、一流の職人でした。彼の賜物とその働きが、神殿の備品製作のために用いられます。40節から45節には、ヒラムの手がけた働きのリストが整然と並べられています。 神の民は、たとえどこにいようとも、神によって神の国の働きのために用いられます。私たちは聖書の直接の舞台、神殿の建てられたエルサレムから遠く隔たった国に生きています。けれども、ヒラムと同じように神の国の働きのために「力を合わせて働く者」たちです(1コリ3章9節)。神は、神の国の建設のために、私たちの賜物と私たちの働きを用いてくださいます。 神の国完成の時とは、キリストにおいてすべてがまとめられる時です。私たちが主にささげたすべての働きの意味が明らかにされる時です。 その日、私たちは、ヒラムの働きと同じように、用いられたすべての働きがまとめられ、美しく整然とした麗しい光景とされていることを目にすることができるのです。 Sun, 27 Jun 2021 00:10:00 +0000 なぜ怖がるのか、まだ信じないのか(マルコによる福音書 4章35-41節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210627 no 2021 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 (マルコによる福音書4章40節) 主イエスと弟子たちを乗せた舟が激しい突風に襲われました。風さえ吹かなければ、弟子たちにとって向こう岸に渡るくらい、何の心配も問題もなかったでしょう。しかし、人間の経験や知恵がいざというときに役に立たないことは、よくあることです。 主イエスは、風を叱り湖を静めて、弟子たちに語りかけられました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。私たちは何を信じるのでしょうか。信仰を持っている自分を信じるのでしょうか、自分の確信を信じるのでしょうか。そうではありません。私たちと共におられて風や湖を静めてくださる主イエスを信じるのです。その点で、恐れて怖じ惑い、信じられないときに、「まだ信じないのか」と語りかけて、諭してくださるお方がおられることが幸いです。私たちはこの方を信じて歩みます。 教会は舟によくたとえられてきました。この夜のガリラヤ湖の舟のように、どんな嵐の中でも望み安らぐことができるのが教会です。私たちはいろいろな問題を抱えて生きています。しかし、主イエスが私たちと共にいて今も語りかけてくださっています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。 Sat, 26 Jun 2021 00:10:00 +0000 一つ一つ忠実に果たして生きる(列王記上 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210626 no 2021 第8の月に神殿はその細部に至るまで計画どおりに完成した。その建築には7年を要した。 (列王記上6章38節) ソロモン王がエルサレム神殿に着手したのは、彼がイスラエルの王になって4年が経ってからのことでした。聖書は、事細かくエルサレム神殿の建築過程について記しています。神殿の天井や主の契約の箱が安置される至聖所はおもにレバノン杉で造られたとか、それぞれの寸法などが事細かく記されています。そして、完成に至るまで計画どおりに実行されたことを記し、その建築には7年を要したとも記されています。 ここに記されていることは、単に神殿を建てたという記録ではなく、神の計画どおりに着々と行われてきた記録です。この神殿建築は神の導きのもとに行われたのです。それは、神殿建築の記述の中心に神の託宣が記されていることから分かります(11~13節)。 ソロモンをはじめとするイスラエルの民は、神の計画に忠実に応えています。イスラエルの民は、7年という時をとおして、その務めを忠実に果たし続けてきたのです。そこに彼らの生きざま、信仰を見ることができます。 私たちはきょうも主に心を向けて、委ねられた務めを一つ一つ忠実に果たして、喜びをもって主と共に生きていきましょう。 Fri, 25 Jun 2021 00:10:00 +0000 神が着々と備えてくださる(列王記上 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210625 no 2021 神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。…あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られてきて、その知恵に耳を傾けた。 …こうして、神殿建築用の木材も石材も整った。 (列王記上5章9節、14節、32節) 神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広く賢明な心をお授けになりました。ソロモンの知恵は、東方の人たち、エジプトの人たちを驚かせ、その名は周りのすべての国々に知れ渡りました。そして、全世界から使者がソロモンのところに送られてきて、ソロモンの知恵に耳を傾けたのでした。 さらに、神から与えられた知恵によって、ソロモンはティルスの王ヒラムとの間に条約を結びます。この条約のおかげで、ソロモンが望んでいたレバノン杉と糸杉の木材を手に入れることができました。この木材は神殿を建築するために不可欠なものでした。こうして、神殿の建築はソロモンが用いられることで着々と進んでいきます。 父ダビデ王が神殿を建てたいと神に願うことがありました。しかし、その願いは聞き入れられず、ソロモンがそれを担うことになると神は言われました。神が言われていたことがソロモンの知恵を通して実現され、神ご自身が働いて備えてくださいました。神は、必要なものを着々と備え進めてくださいます。 きょうも私たちは、神の働きを覚え、神からの知恵を求め、神をほめたたえましょう。 Thu, 24 Jun 2021 00:10:00 +0000 ソロモンの繁栄は神のことばの成就(列王記上 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210624 no 2021 ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かった。彼らは飲み食いして楽しんでいた。 (列王記上4章20節) ソロモンは全イスラエルの王となり、国を治める高官たちを任命しました。これは現在の内閣を組織するようなものであり、イスラエルの政治の中枢が確固たるものとされたことが知らされます。また、全国に12人の地方組織の知事を置きました。ソロモンはダビデの組織を継承しながら、このように行政組織を確立することで、全イスラエルを治め、支配したのでした。 このようなソロモンの行政組織のおかげで、ユダとイスラエルの人たちは、海辺の砂のように数が多くなり、彼らは飲み食いして楽しんだと言われています。政治と行政がしっかりとして、治安も安定し、経済も発展をしていったのでしょう。このことは神が族長たちになさった祝福の約束がソロモンのときに実現したことを示しているように思われます(創22章17節参照)。まさに神の祝福の約束は、ソロモンを通して実現されたのでした。 このソロモンの繁栄は、ソロモンの業績がすばらしいから繁栄したのではなく、神が言われたから、繁栄しているのです。この神の言葉がもたらす祝福を、私たちは「子孫」たる主イエスの成就のゆえに、きょう、神をほめたたえましょう。 Wed, 23 Jun 2021 00:10:00 +0000 知恵を求めることが神の喜び(列王記上 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210623 no 2021 「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」 主は、ソロモンのこの願いをお喜びになった。 (列王記上3章9節~10節) ある夜、神はソロモンの夢に現れ、「何でもあなたに欲しいものを与える」と言われます。それに対してソロモンは、民を正しくさばき、善と悪を判断する心を与えてくださいと願います。長寿や富、さらに敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたことに対して、神はその願いを聞き入れ、ソロモンに知恵に満ちた賢明な心を与えられました。さらに神は、ソロモンが求めなかった富と栄光も与えると約束されたのでした。 この知恵は、ある二人の母親の訴えによる裁判において公となりました。このことによって、神の知恵が王のうちにあることをイスラエルの人たちは見ることができ、ソロモンが王として畏れ敬われるようになりました。 ソロモンは、目に見える富や敵の命、さらに長寿を求めることをせず、目に見えない知恵を求めました。そのことを神は喜ばれました。人は、長寿や富を求めて祈るかもしれません。けれども、私たちは、ソロモンのように生きる知恵、分別をつける知恵をください、と祈ろうではありませんか。それは、知恵を祈り求めることで、我が神がお喜びになるからです。 Tue, 22 Jun 2021 00:10:00 +0000 ソロモンを通して神の支配がある(列王記上 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210622 no 2021 ソロモンは父ダビデの王座につき、その支配は確立した。 (列王記上2章12節) ソロモンは王となりました。王位継承の争いをしていたアドニヤは、ソロモンを恐れ、ソロモンに赦しを請います。ソロモンは、潔く振る舞えば、という条件付きで寛大な態度をあらわしたのでした。それから、ダビデが天に召され、先祖と共に墓に葬られると、ソロモンの支配は確立されていきます。 アドニヤは、ソロモンの寛大な態度を受けたにも関わらず、自分が再び王になるという野望をもってバト・シェバに巧みに働きかけていきます。バト・シェバはそのことが分からずにソロモンに話をするのですが、ソロモン王はそのことを察知して、主に誓いを立て、アドニヤを討ったのでした。すると、アドニヤを支持する者たちは次々と姿を消していくことになり、結果的にそれは、サウルとダビデの対立にソロモンが終止符を打つことになりました。 さまざまな人間の罪と思惑が入り込んでいる中で、ソロモンは、神の許しを得て、行動していきます。その行動によって、王国は揺るぎないものとなっていきます。ソロモンを通して、神がその支配を確立されたのでした。 ただ神の支配のみがあらわれるのです。ハレルヤ。 Mon, 21 Jun 2021 00:10:00 +0000 生きておられるから神の意志は貫かれる(列王記上 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210621 no 2021 王は、誓った。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしに代わって王座につく、とイスラエルの神、主にかけてあなたに立てた誓いをわたしは今日実行する。」 (列王記上1章29節~30節) ダビデ王の最晩年になると、ダビデの四男であるアドニヤが思い上がって「わたしが王になる」と言い出し、王位継承の争いが起こりました。預言者ナタンは、このことをソロモンの母バト・シェバに確認します。すると、バト・シェバはダビデ王に、ソロモンが次の王ではないかと確認します。ダビデ王は、「確かにソロモンがわたしの跡を継いで王となる」と言い、「今日それを実行する」と言います。ダビデ王の言葉を聞いて、祭司ツァドクは、ソロモンに油を注ぎ、民たちは皆、「ソロモン王、万歳」と叫び、大いに喜んだのでした。 権力争いは、それぞれの人間、グループの自己主張と、それを実現しようとする執念の対立から起こることが多く、そこには人間の罪と欲望が渦巻いています。その矛盾に満ちた過程の中でも神の意志が貫かれることが、ここに記されています。ダビデは、神は生きておられるからソロモンが王になる、と言います。神は生きておられるから、神の意志は貫かれるのです。 この世は、確かに矛盾だらけですが、神の意志は貫かれます。神は生きておられるからです。 Sun, 20 Jun 2021 00:10:00 +0000 広がりゆく神の国(マルコによる福音書 4章26-34節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210620 no 2021 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 (マルコによる福音書4章30節~32節) 主イエスは、二つの種のたとえを通して、広がりゆく神の国の姿をお示しくださいました。最初のたとえで、蒔かれた種は水や養分を吸収して成長し、やがて実を結びます。蒔いた人は知らずとも、土がひとりでに実を結ばせるように、主イエスの到来によって蒔かれた神の国の福音の種は、人目には分からなくても、着実に成長していきます。神がそれを育てて、実を結ばせようとしておられるからです。 もう一つのたとえで、からし種は小さな種ですが、その種を蒔くとぐんぐん伸びて成長し大きな枝を張るようになります。この世の現実を見ると、神の国の福音はまさにからし種のようにちっぽけで、人びとの目に留まらない力ないものに思えるでしょう。しかし、福音の種は成長して大きな枝を張る神の国になり、多くの人びとが平安と安心を見いだす拠り所となるのです。 日本においてクリスチャンは少数派です。ともすれば希望を失いがちになってしまいます。しかし、目に見えない神の力を知るとき、この世のさまざまな出来事に惑わされることなく、希望と確信をもって信仰に生きることができるのではないでしょうか。 Sat, 19 Jun 2021 00:10:00 +0000 霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙 5章22-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210619 no 2021 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 (ガラテヤの信徒への手紙5章22節~23節) ガラテヤの諸教会は律法主義者によって教会員が惑わされるという致命的な影響を受けました。使徒パウロはそのような教会に、キリストの福音がもたらした全く新しい道を示しています。それは、無力で神の御心に従うことなど全くできない私たちの内に霊を送ってくださり、私たちがこの霊によって歩むことによって神の御心である律法を全うする道です(ロマ8章4節)。 ここで、霊によって歩む者の内に形作られていく麗しく調和のとれた品性が果物の実に譬えられています。花が落ちると、そこにごく小さな果実がなっています。それは長い時間をかけて成長していき、おいしく食べられるまでに熟れていきます。その成長と成熟に至る過程は肉眼で見て分かるものではありませんが確実です。霊の結ぶ実もそうです。 霊の結ぶ実として愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制が例として挙げられています。これらは別々の実ではなく、多様な現れ方をするひとつの実です。私たちが人びとを愛し、どんな時でも喜び、常に平安でいられるとすれば、それは私たちの内におられる霊がそうさせてくださるからなのです。 Fri, 18 Jun 2021 00:10:00 +0000 似たものにしようと(ガラテヤの信徒への手紙 5章22-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210618 no 2021 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 (ガラテヤの信徒への手紙5章22節~23節) ガラテヤの諸教会に生じていた教理的な問題は、信徒間の霊的不一致、また敵対関係を引き起こしていました。競争心を抱いて挑み合い、またねたみ合うという、兄弟姉妹間の愛が冷えた状況でした。 使徒パウロはそのような教会に、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と命じます(16節)。そして、「敵意、そねみ、利己心」などの肉の業に対比して、霊の実として「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という麗しい品性を挙げます。 これらすべては神ご自身のご性質であり、御子キリストのご生涯と救いの御業を通して私たちに明らかにされました。「霊の結ぶ実」は、私たちが結ぶ実ではなく、神が私たちの内に住まわせてくださった霊が結んでくださる実です。信仰をもてば自然と善い人間になるとか、努力して善い人間になるのではありません。「霊に従って歩みなさい」とは、歩み続けなさいという意味です。歩み続ける中で徐々に結ばれるのが霊の実です。神は私たちを御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたのです(ロマ8章29節)。 Thu, 17 Jun 2021 00:10:00 +0000 羊飼いの愛(詩編 23編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210617 no 2021 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。 (詩編23編6節) 「追う」という言葉と「帰る」という言葉は対応関係にあります。主の恵みと慈しみがいつもわたしを追ってくる。だから、わたしは主の家に帰らざるを得ない。そのように詩人はうたいます。 つまり、自発的にそこに帰って行くというのではない、帰らされるのです。主の家に連れ戻されるのです。なぜなら、羊飼いの愛、羊のために命を捨てるほどに強く、深く、激しい愛が羊を追い立てるからです。 羊たちは羊飼いのもとで生きるべきでした。主の家に身を置いて生きることが、彼らの幸いであったはずでした。しかし、羊たちはめいめいに羊飼いを離れた。そのことを最も悲しみ、苦しんだのは羊飼い御自身でした。 まことの羊飼いイエス・キリストは、羊たちが御自分のもとに帰って来るように、御自身の命を捨てられました。羊たちを罪と死から救い出すために、羊たちの身代わりとなって打ち砕かれ、刺し貫かれてくださったのです。 この大いなる愛にうながされて、羊は羊飼いのもとに帰って来ざるを得ないのです。生涯、主の家にとどまる。そこに羊たちの喜びがあります。 Wed, 16 Jun 2021 00:10:00 +0000 主の食卓(詩編 23編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210616 no 2021 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 (詩編23編5節) 「食卓を整え」る。「杯を溢れさせ」る。こうした言葉は主の晩餐の礼典を想起させます。この詩は、聖餐の食卓において読まれるのがふさわしいのです。 羊飼いなる主イエスは十字架に死なれ、3日目に死に勝利してよみがえられることによってわたしたちの罪を贖い、死を取り除いてくださいました。それゆえ、わたしたちは永遠の命の祝福にあずかっています。羊飼いは肉体の死を超えて羊たちと共にいてくださいます。そして、主の羊たちは、終わりの日の、体のよみがえりの望みを抱いて、この地上を生きるのです。 ただ、この命の祝福は終わりの日にならなければあずかり得ないというものではありません。すでにこの地上でその前味を味わうことをゆるされます。主の食卓で、わたしたちは命のパンにあずかります。永遠の命の恵みを受け取ります。 荒れ野のようなこの世にあって、主の食卓はわたしたちの「青草」、「憩いの水」、砂漠のオアシスです。この食卓で罪の赦しと命の恵みにあずかります。だからこそ死をもたらすこの世の力と戦い、これに打ち勝つことができるのです。 Tue, 15 Jun 2021 00:10:00 +0000 死の陰の谷を行くときも(詩編 23編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210615 no 2021 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。 (詩編23編4節) 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」。驚くべき言葉です。死は人間における最大の恐れ、悲しみ、人間の最後の敵ではないでしょうか。 死の陰の谷を通るときにもわたしは恐れない。それはなぜでしょうか。理由はただ一つです。 「あなたがわたしと共にいてくださる」。 羊飼いが共におられるから、ただその一つの理由で、羊は恐れることはない。まことの羊飼いが、やがてどの羊たちも迎えることになる死の現実を根本的に克服してくださいました。死に対する根本的な勝利をもたらし、死の恐れを根こそぎにしてくださいました。だから、恐れることはない。 羊飼いは羊たちをおびやかす死の獣と戦い、羊たちのために命を捨てました。主イエスは死をもたらすわたしたちの生まれながらの罪を十字架の上で贖い、わたしたちを義としてくださいました。 この恵みにより、わたしたちの死は命に変えられました。わたしたちに死を超える命がもたらされました。羊飼いと羊との愛の絆は、死によっても断ち切られることはありません。 Mon, 14 Jun 2021 00:10:00 +0000 主は羊飼い(詩編 23編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210614 no 2021 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 (詩編23編1節~3節) パレスチナの羊たちは、荒涼とした荒れ野で飼われていました。牧草も水も乏しい。切り立った崖が至るところにある。どう猛な獣が歩きまわっている。そのような場所です。実に厳しい環境です。 羊はたいへん視力が弱く、遠くにあるものを見通すことができません。また、自分で自分の身を守ることができません。鋭い牙や爪を持っているわけではありません。獣に襲いかかられたなら、ひとたまりもありません。 そのような羊たちが、それにもかかわらず荒れ野で生き続けることができたのはなぜか。羊飼いが共にいたからです。羊飼いは羊たちを愛し、彼らの名を呼んで青草の原、憩いの水のほとりに伴い、身を挺して獣と戦って、彼らの命を守ったのです。 命に至る道とはどのような道であるのか。そのことを本当に知り抜いているのは羊飼いです。羊飼いは羊たちを「正しい道に導」くことにより、彼らの「魂を生き返らせ」ます。羊飼いが共にいてくれたので、彼らは命を養う糧、命をうるおす水に欠乏することがなかった。わたしたちにも羊飼いがおられます。それがわたしたちの幸いです。 Sun, 13 Jun 2021 00:10:00 +0000 主イエスの力ある働き(マルコによる福音書 3章20-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210613 no 2021 「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。」 (マルコによる福音書3章24節~27節) 主イエスが各地での働きを終えてカファルナウムのペトロの家に戻られると大勢の人びとが集まってきました。気が変になっているという主イエスの噂を聞きつけて心配する身内の人びと、さらにはエルサレムから下って来た律法学者も登場します。主イエスの働きは神からのものではなく、悪霊の力を借りて行っているものだと、彼らは主張しました。 主イエスが行っていることはサタンの内輪もめではありません。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず」とあるように(29節)、主イエスは聖霊に導かれて神の御業を行っておられます。主イエスとサタンの戦いなのです。私たちを苦しめている罪の力、死への恐れ、それらの支配から私たちを完全に救おうと戦っておられるのです。それが主イエスの悪霊を追い出す御業でした。 この世の暗い現実を見ると、サタンの支配は強いと感じます。しかし、かつてはサタンの所有であった私たちが、今はキリストのもとに連れ戻されたではありませんか。サタンの力よりもっと強いお方がおられます。そのお方の支配はすでに始まっていて、今、私たちも、このお方がご支配くださるところとされているのです。 Sat, 12 Jun 2021 00:10:00 +0000 神の恵みと正しさの現れを信じて待とう(ヨブ記 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210612 no 2021 あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 … それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 … ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。 (ヨブ記42章2節、6節、10節) ヨブは、神の二度目の問いかけに対しても同じように、自分の無知を真摯に認め告白し、さらに真剣な悔い改めを言い表します。神はこれを受け入れ、彼が失ったかつての財産の何倍もの祝福をもって報いてくださいました。 ヨブの苦難は、友人たちが誤解したように、罪を犯したために主に懲らしめられたからではなく、ヨブの信仰は偽物であると、神に挑戦したサタンに源を発しています。神はサタンがヨブを試みることを許されました。そのため、ヨブは一切を失いましたが、それでも神を信じ続けました。 その後、友人たちとの議論を通じて彼の信仰が危うくなりましたが、エリフの導きと神ご自身の出会いによって、自分の無知を悟り、真実な自己理解に至りました。そして、神の御心に従って、自分の試練を誤解させた友人たちのために執り成しの祈りをしました。こうして神を信じる者であることを証したのです。そして、これによって、サタンではなく、神の正しさが証明されたのです。 私たちもキリストにあって罪赦されたことを確信し、神の恵みと正しさの現れを待ち望みましょう。 Fri, 11 Jun 2021 00:10:00 +0000 全知の神の御前に黙して神の答えを待とう(ヨブ記 40-41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210611 no 2021 わたしは軽々しくものを申しました。 どうしてあなたに反論などできましょう。 わたしはこの口に手を置きます。 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。 ふた言申しましたが、もう繰り返しません。 (ヨブ記40章4節~5節) 上の引用聖句は(前の章で)ヨブに語られた神に対するヨブの返答の言葉です。ヨブは神に問い詰められ、遂に自分の無知を痛感し、それを神に真摯に告白します。そもそも神に対して自分の知識を誇り得る者は存在しないはずですが、ヨブは前に友人たちとの議論を通して自分の正しさを訴え、自己正当化を図るに至りました。それが愚かで不可能なことであると、今痛感したわけです。神の主権的で恵み深い御導きのお蔭です。 しかし、ヨブのこの返答の後、神はなおいっそう彼を追及されます。前の章では地上の動物や鳥について問われましたが、ここではベヘモットとレビヤタンについて問われます。これらは陸と海の巨大な獣で、異教神話では神々も恐れ慄く暗黒の怪物です。しかし、天地の創造者、まことの神はそのベヘモットも造り、レビヤタンも屈服させると明言されるほどです(40章15、25節)。 これは、今一度、ヨブを神の前に謙遜にさせ、そして彼を祝福されることへの備え、導きなのです。それゆえ、私たちも謙虚に全知の神の導きに従いましょう。 Thu, 10 Jun 2021 00:10:00 +0000 摂理の主である神の導きに信頼しよう(ヨブ記 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210610 no 2021 鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは お前が分別を与えたからなのか。 鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは お前が命令したからなのか。 (ヨブ記39章26節~27節) 神は続けてヨブに問いかけられます。本日の章では、地に住む動物、地の上を飛ぶ鳥に関して問いを発せられます。全体として共通していることは、獣や鳥など様々な種類の動物の生命に関わることです。 これらのものに生命を与えたのは誰か。それらの生命を守るのは、またそれに必要なことをなし得るのは誰なのか。知っているなら、答えてみよ。ヨブには答える術もありません。 神のこのような問いかけは、もちろんヨブを困らせるためではありません。これは、ヨブが自らの無知を自覚し、神の前に真に謙遜になり、神への信仰と従順のうちに正しく生きることができるためです。 神は私たちの現実と必要を、私たち以上にご存じです。それで、私たちに必要かつ有益なことをしてくださいます。そこには、私たちが今分からないこと、苦しみ悩むこともあるでしょう。しかし、神がなさることに信頼して、今後のより確かな知識と感覚が与えられることを期待しましょう。そして、信仰によって受け止め、受け入れていきましょう。 Wed, 09 Jun 2021 00:10:00 +0000 神の知識と支配に身を委ねよう(ヨブ記 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210609 no 2021 これは何者か。 知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。 男らしく、腰に帯をせよ。 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 (ヨブ記38章2節~3節) この章から神が登場し、ヨブと直接対話されます。既にエリフが先駆けてヨブの思いと言葉を正しく方向付けましたが、神はヨブにズバリと問いかけられます。人間に過ぎないお前に何が分かるというのか。早い話が、天地が創造されたとき、お前はどこにいたのか。答えて見よ―答えられるものなら。 創造者の神と被造物のヨブとの間には無限の隔たりがあり、知識や知恵において、神とは全く比較になりません。しかし実は、ヨブが三人の友人に自分の知識や考えを言い張ってきたのは、自分をまるで神のように見なしているのにほかなりません。ヨブ自身にはそんな意識も感覚もありませんが、神から見れば、無自覚のうちにそうなってしまっていたわけです。これが神の経綸を暗くすると言われることです。 経綸とは摂理のことで、創造から終末までの全時代・全世界の中での、またそれらに対する神のご支配を意味します。神は常に私たちを知り、支配しておられます。勝手に思い込むことも思い上がることもなく、神を信頼して、そのご支配に身を委ねましょう。 Tue, 08 Jun 2021 00:10:00 +0000 全能の神に信頼し憐れみを待ち望もう(ヨブ記 36-37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210608 no 2021 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。 神は優れた力をもって治めておられる。 憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。 人の知恵はすべて顧みるに値しない。 (ヨブ記37章23節~24節) 逆境に苦しむヨブを慰めようとしてできなかった三人の友人に代わり、エリフは、神にこそ望みを置き、神の憐れみ深い応答を待望するようにヨブを導き、そして神との出会いに備えさせました。エリフの登場はここまでで、この後、神がヨブに直接出会ってくださいます(38章以下)。 神は天地の創造者であり、絶対的、超越的なお方ですから、どんな人間も神をその存在の全体において知ることは不可能です。神のほうから出会い、ご自身を知らせてくださってこそ、知ることができるお方です。そして、神は正に全知全能のお方ですから、ヨブが(私たちが)自分の本当の必要を知っているつもりで実は知らないでいる時でも、それをすべてご存じなのです。 また、ご自身憐れみ深いお方ですから、他者に憐れみ深い人を苦しむままにはなさいません。今苦しんでいても、必ずそれを克服させてくださり、主の憐れみ深さを体験させ確信させてくださいます。私たちは神からの出会いと私たちの問題への回答を希望の内に確かに待つことができるのです。 Mon, 07 Jun 2021 00:10:00 +0000 すべてをご存じである神の答えを待とう(ヨブ記 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210607 no 2021 あなたは神を見ることができないと言うが あなたの訴えは御前にある。 あなたは神を待つべきなのだ。 (ヨブ記35章14節) ヨブは、(彼自身としては)言われなき苦しみに遭いましたが、それでも神への恨み辛みもなく、信仰に堅く立っていました。しかし、彼を慰めようとやってきた三人の友人と対話して行く中で、(その影響を受けてか)正しい考え方の道筋から逸れていくようになりました。 友人たちはヨブがあまりにもひどい状況のため、罪を犯して神に懲らしめられていると思ったのです。神は義にして善なる方だから、ヨブが何も悪いことをしていないのに神がこんな目に遭わそうとなさるはずはないと思ったわけです。人間的には当然でしょう。 しかし、エリフはヨブを正しい考え方と姿勢に引き戻すべく、ヨブに助言します。神はヨブの苦難をご存じである。だから、ヨブへの祝福の報い、友人たちへの教訓など、神からの答えを、その時を待ちなさい、と。 私たちの姿勢、態度もこうあるべきです。主は、私たちがどういう状態か、私たちに何が必要、また有益かをご存じなのです。そして、主が私たちに対応してくださるのには、主の時があります。希望の内に待ちましょう! Sun, 06 Jun 2021 00:10:00 +0000 イエスは安息日の主(マルコによる福音書 2章23節-3章6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210606 no 2021 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 (マルコによる福音書2章27節~28節) 当時、ファリサイ派の人びとはユダヤ教の掟を守ることに熱心でした。そのため、掟を軽んじているように思われた主イエスと弟子たちを見張っていたのです(2章16、18節参照)。彼らは主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだ行為を非難しました(2章24節)。さらに主イエスをも訴えようと待ち構えて注目していました。 主イエスは、安息日に会堂に入り、手の萎えた人を御覧になって「真ん中に立ちなさい」と言われ、おいやしになりました。これは決して安息日の律法を軽んじておられるのではありません。真ん中に立つとは主イエスの前に立つことであり、神の御前に立つことです。主イエスは、安息日に人は神の御前に立つのであり、そこでこそ人が人として尊ばれ、いやされるのだとお示しくださったのです。真実に、主イエスこそ「安息日の主」であり、神から遣わされたまことの救い主であられます。 安息日は掟に縛られて何かをしない日ではありません。主イエスの御前に立ち、主イエスから慰めと励ましをいただいて、新たな一週へと向かう力が与えられる日なのです。 Sat, 05 Jun 2021 00:10:00 +0000 御心を知るために(ヨブ記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210605 no 2021 「悪人のような答え方をヨブはする。 彼を徹底的に試すべきだ。 まことに彼は過ちに加えて罪を犯し わたしたちに疑惑の念を起こさせ 神に向かってまくしたてている。」 (ヨブ記34章36節~37節) 人間には、この世のものごとすべてが見えているわけではありません。隠れていて見えない本質や、気がつかない真理があります。ですから、常に本当のことを見抜こうとする意識が必要です。 苦難の意味が分からず、神の御心が見えずに苦しんでいるヨブに、エリフは語り続けます。エリフは、ヨブが徹底的に試されるべきだと指摘します(36節)。ヨブは自分では不正を犯したことがないと主張し、神の側に問題があると思っているが、本当にそうなのか試される必要があると言うのです。 ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて」いましたが(1章1節)、この世のすべてを知っていたわけでも、神のすべてを知っていたわけでもありません。だからこそ、自分の神観、人生観と現実との乖離にヨブは苦しんだのです。 私たちも常に、人生において試されます。そのことを通して、神の御心を知らされ、神との関係を正されていくのです。真実に神に出会うとき、神のお姿は人が喜ぶべきお方として立ち現れてきます。神はそのように私たちに関わってくださるのです。 Fri, 04 Jun 2021 00:10:00 +0000 過ちを改めるために(ヨブ記 32-33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210604 no 2021 ここにあなたの過ちがある、と言おう。 神は人間よりも強くいます。 なぜ、あなたは神と争おうとするのか。 神はそのなさることを いちいち説明されない。 (ヨブ記33章12節~13節) どのような人も罪人なのですから、その考えと行動を改める必要があります。しかし罪人は、何が自分の過ちなのかすら、なかなか分かりません。私たちはどんな人の指摘であれば自分の考えと行動を改めようと思うでしょうか。 エリフという人物が突然ヨブに語り出します。この人がこれまで会話に加わっていなかったのは、ヨブや三人の友人たちよりも年が若かったからかもしれません。しかし、今エリフは、自分の気持ちを鎮めたいという理由で怒りを滲ませながら口を開くのです。それだけで拒否反応が湧いてきそうです。 しかし、エリフは「神はそのなさることをいちいち説明されない」と言います。これは、神はすぐに答えてくださるべきだと考えていたヨブにとって、耳を傾けるべき言葉でした。神は、ヨブの認識に再考を促す者としてエリフをお遣わしになったと考えることができるのではないでしょうか。 神は私たちが自分の過ちを知って改めるために、苦手な人をお用いになることがあります。神の声に聴くためには謙虚になる必要があるのだと思わされます。 Thu, 03 Jun 2021 00:10:00 +0000 人の不幸を見て(ヨブ記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210603 no 2021 わたしを憎む者の不幸を喜び 彼が災いに遭うのを見て わたしがはやしたてたことは、決してない。 (ヨブ記31章29節) ものごとを評価するとき、チェックリストを用いることは有用です。ヨブは、これまでの自分の人生を、悪徳リストを挙げて確認します。そのリストは神の義に照らして考えられたものと言えるでしょう。ヨブは、貪欲、姦淫への誘惑、弱い者への無関心や権利の否定、財産への過信などを順に挙げながら、その度にそうした悪徳を犯したことは「決してない」と強く否定します。 たとえばヨブは、「わたしを憎む者の不幸を喜び、彼が災いに遭うのを見てわたしがはやしたてたことは、決してない」と言います。確かにそれは、「互いに愛し合いなさい」との神の掟に真っ向から反する大きな罪です。しかし、人の不幸を喜ばなくても、自分が当事者でなくて良かったと考えることなども、同じように神の御心に反します。悪徳リストでは捉えきれない、隠されていて深刻なものが、罪なのです。 しかし、イエス・キリストは、そうした罪を他人事とはなさいませんでした。そして自分の罪を自覚すらできない私たちの身代わりになってくださいました。ヨブの苦しみの向こうに救い主の姿を見ることができます。 Wed, 02 Jun 2021 00:10:00 +0000 幸いを望んだのに(ヨブ記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210602 no 2021 だが今は、わたしより若い者らが わたしを嘲笑う。 … わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。 光を待っていたのに、闇が来た。 (ヨブ記30章1節、26節) ヨブはかつて、やもめや身寄りのない子を助け、また真実の言葉を語り、広く尊敬を集めていました。しかし、今や財産と家族を失い、重い皮膚病を患って、人びとから敬遠されるようになりました。それだけではなく、自分よりも立場が低いと考えていた「愚か者、名もない輩、国からたたき出された者ら」(8節)からも罵られるようになったのです。このような状況の中、神は、善い行いを顧みてくださらないばかりか、理不尽に怒りをあらわす方としか、ヨブには思えなくなりました。 そのようなとき、人はどうするでしょうか。もはや神なしで生きて行こうと思い定めるかもしれません。あるいは、自分の力でいつか周りを見返してやろうとするかもしれません。しかし、ヨブはひたすら悲しみの中に沈みます。 人が経験する悲しみは決して簡単に対処できるものではありません。そして、神は私たちが安易に理解し、捉えられるようなお方ではないのです。 この時点でヨブにはまだ見えていませんが、神はヨブの深刻なうめきにじっと耳を傾けておられるのです。 Tue, 01 Jun 2021 00:10:00 +0000 暗黒の中を歩いた(ヨブ記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210601 no 2021 あのころ、神はわたしの頭上に 灯を輝かせ その光に導かれて わたしは暗黒の中を歩いた。 (ヨブ記29章3節) ヨブは、神からの祝福だと思っていたものをことごとく失いました。そうなった理由がヨブには分からず、心配してやって来た友人たちの知恵も力にはなりませんでした。解決の糸口を見つけることができない中、ヨブは幸せだった頃を思い返します。 かつて、ヨブは弱く貧しい人びとを助け、慰めていました。ヨブの行いは素晴らしく、神のご創造の目的に合致するものでした。ヨブ自身も誇らしく思っていたのです。しかし、そんな過去をただ振り返り、あの頃に戻りたいと願うだけでは、単なる現実逃避になりかねず、苦しみのただ中では何の力にもならないでしょう。 ここでヨブは、過去の自分を美化し、懐かしんでいるだけのようにも見えますが、「あのころ、…その光に導かれてわたしは暗黒の中を歩いた」と言っています。暗黒の中で神の御手に導かれて歩んだことに心を向けているのです。 このように、これまで危うい所を神に生かされてきたと思い返すことで、神に委ねて歩いていくことができるのです。神は全能であると同時に、裏切ることのないお方です。 Mon, 31 May 2021 00:10:00 +0000 知恵はどこに(ヨブ記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210531 no 2021 そして、人間に言われた。 「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別。」 (ヨブ記28章28節) 「銀は銀山に産し、金は金山で精錬する」とあるように(1節)、人間は自然界からさまざまな物質を採掘し精錬することができます。それは他の動物にはないすばらしい知恵であり、私たちの生活を便利にし、発展させます。しかし、人間の知恵があれば必要なものがみな手に入るわけではなく、世の中のことがすべて理解できるわけでもありません。 実際ヨブは、自分の身に降りかかった苦難の意味が分かりませんでした。心配してやって来た友人たちとの対話によっても理解できませんでした。それは絶望的に辛いことでした。 その苦難のただ中で、ヨブは、神のみが真実の知恵者であることに目を向けます。そして神と人間との圧倒的な違いを認めつつ、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」との主の言葉を口にします。人間の知恵によってではなく、神を畏れ敬うことによってこそ、本当に神と出会うことができることに気付き、そうしなければならないと思い定めるのです。ここに人の立つべき位置があります。 Sun, 30 May 2021 00:10:00 +0000 新たに生まれる(ヨハネによる福音書 3章1-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210530 no 2021 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 (ヨハネによる福音書3章5節) ある夜、一人の人が主イエスのもとにやってきます。ニコデモという人です。彼は、救いの道を尋ねるために勇気を出して主イエスのもとにやってきました。このニコデモは「ユダヤの最高法院の議員で、ファリサイ派に属する人」でした。地位があり、年を重ねて人生の経験も豊かで、人格者で、熱心な人であったのかもしれません。 主イエスは、このニコデモに「はっきり言っておく。新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と宣言されます。あなたが神の国に入るために、あともう少し何かが足りないと言われたのではありません。「新たに生まれなければ」と言われたのです。新しくされること、まったく新しい誕生があなたには必要なのだと言われたのです。 5節では、「新たに生まれる」ということについて、さらに具体的に語られます。「水」とは「洗礼」のことであり、「霊」とは「聖霊」のことです。イエスが救い主であると信じ告白することができるのは、聖霊の働きによります。洗礼は、主イエスとつながっているしるしです。私たちは、イエスを救い主と信じることで、新たに生まれた者とされます。主イエスにつながって生きていきましょう。 Sat, 29 May 2021 00:10:00 +0000 永遠の命を信ず(ヨハネによる福音書 3章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210529 no 2021 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネによる福音書3章16節) 聖書は命をめぐる物語です。神が人間の命を創造されました。その命は造り主から離れ、死すべきものとなってしまいましたが、神は独り子イエス・キリストを世に遣わされました。独り子はご自身の命を十字架上にささげ、死者の中から復活されました。そして、聖霊によって独り子を信じる者に永遠の命が与えられました。 永遠とは、時間がいつまでも続くというよりも、滅びることがないということです。死によっても滅び去ることのない命、よみがえった体をもって生きる命、それが永遠の命です。そして、そこには永遠の神が共にいてくださるのです。 死の後にいっそう明らかとなるその命は、今すでに信じる者に与えられています。永遠の命を生きることに終わりはありませんが、始まりはあります。永遠の命は、父なる神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊の交わりによって生かされるところから、すなわち、この使徒信条を心から信じて告白するところから始まります。「永遠の命を信ず。アーメン」。この最後の告白と共に、新しい命の歩みが始まるのです。 Fri, 28 May 2021 00:10:00 +0000 身体のよみがえり(コリントの信徒への手紙一 15章35-58節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210528 no 2021 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 (コリントの信徒への手紙一15章42節~43節) 人生はいつか終わり、私たちの肉体は消えてなくなります。しかし、使徒信条は「身体のよみがえり」を信じると告白します。霊魂の不滅を教える宗教や哲学は多くあります。しかし、聖書は、死後に魂が神のもとへ帰ることと共に、世の終わりに肉体が「朽ちないものに復活」するということを約束しています。 この「身体のよみがえり」は、キリストが墓の中からよみがえられたことによって確かなものとされました。それゆえ復活の証人となった弟子たちは、死を恐れることなく、迫害の中にあっても福音を語り、最後まで希望を持って歩みました。 また、このよみがえりへの希望が、今このときの私たちの信仰生活を整えることにもなります。復活を信じなければ、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリ15章32節)ということにもなります。しかし、復活を信じる者は、自分の体を生けるいけにえとして神に献げます。罪を赦されて義とされた者は聖化の道を歩み、身体のよみがえりに備えるのです。 Thu, 27 May 2021 00:10:00 +0000 罪の赦し(コロサイの信徒への手紙 1章9-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210527 no 2021 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 (コロサイの信徒への手紙1章13節~14節) 使徒信条は、救いの恵みとして「罪の赦し」を告白します。キリストは、私たちの代わりに十字架の裁きを受け、その死によって罪を贖ってくださいました。そして、罪の赦しは、聖霊の働きによってキリストを信じ、罪を心から悔い改める者に与えられます。教会はこの恵みを信仰義認とも呼んで大切にしてきました。 赦されることで、心に重くのしかかっていた負い目は取り除かれ、世界は闇から光へと変わります。そして何より、赦しは受け入れられるということであり、引き離されていた相手との関係の回復です。罪の赦しによって、神は父として私たちを受け入れてくださり、私たちは子どもとして神を愛するようになるのです。 そして、神に赦された者は、人を赦すようにも招かれています。多くの借金を免除してもらった人が、自分への負債はわずかでも容赦なく取り立てるということがあってはなりません(マタ18章33節)。多く赦された人は、多く愛するようになります。神との平和を与えられた人は、人との和解に生きるようになるのです。 Wed, 26 May 2021 00:10:00 +0000 聖徒の交わり(ローマの信徒への手紙 12章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210526 no 2021 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。 (ローマの信徒への手紙12章6節~7節) 教会は、「聖徒の交わり」です。聖徒とは神に選ばれたすべての信徒たちであり、その一人ひとりによる生きた交わりが教会を形作ります。神ご自身が、父と子と聖霊の交わりにおいて生きておられますが、その三位一体の神を信じる者もまた交わりに生きるのです。 聖徒の交わりは、まず神からの聖なる賜物に共にあずかる交わりです。それは何より礼拝において、特に聖餐式においてあらわされます。その食卓でキリストの肉と血に共にあずかり、またお互いの交わりを強めていきます。そこでは互いの違いは関係ありません。ユダヤ人も異邦人も、男性も女性も、ただキリストの救いの恵みにあずかるものとして交わりの中に置かれます。 そして、聖徒の交わりは、それぞれが与えられた賜物を用いて仕え合う交わりです。そこでは、一人ひとりの違いや個性が意味を持ちます。「異なった賜物」が与えられていますから、人と比べることなく、自分らしく神と人とに仕えていきます。そうして聖徒の交わりはいよいよ豊かなものとされていくのです。 Tue, 25 May 2021 00:10:00 +0000 聖なる公同の教会(エフェソの信徒への手紙 5章21-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210525 no 2021 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 (エフェソの信徒への手紙5章26節~27節) 聖霊は教会を生み出しました。聖書は教会を神の民、キリストの体などさまざまな言葉で表現していますが、それらを踏まえて使徒信条は「聖なる公同の教会」を信じると告白します。「聖なる」とは神によってこの世から召し出されたということであり、「公同の」とは共通の信仰による普遍的な存在ということです。 歴史を貫き、世界中に広がる見えない教会というものがあります。天地創造の前からキリストにおいて選ばれていた人たちの集まりです。ですから、旧約時代のイスラエルの民も教会の一員と言うことができます。そして、選ばれた民はそれぞれの時代と場所において見える教会として現れます。今日でも多くの教派があり、また同じ教派の中にもさまざまな個性を持った教会がありますが、そのすべてが聖なる公同の教会に連なっているのです。 私たちは、父、子、聖霊の御名によって洗礼を受けて見える教会の一員となります。地上の教会には多くの欠けもあります。しかし、そこで営まれる信仰生活は聖なる公同の教会の中で守られているのです。 Mon, 24 May 2021 00:10:00 +0000 聖霊を信ず(使徒言行録 2章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210524 no 2021 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 (使徒言行録2章4節) キリストが天に昇られた十日後、弟子たちの上に聖霊が注がれました。使徒信条は、父なる神と子なる神キリストに続き、聖霊なる神への信仰を告白します。聖霊によって、キリストは私たちと共にいてくださいます。そして、この聖霊が、聖なる公同の教会を生み出し、信じる者に罪の赦しを与え、身体のよみがえりと永遠の命を約束してくれます。 聖霊は、特に弟子たちの言葉を新たにしました。弟子たちはキリストの福音を力強く語り始めました。そして、その言葉は聖霊の働きによって書き留められて、すでにあった旧約の言葉と共に聖書として成立していきます。弟子たちが「ほかの国々の言葉」で語り出した福音は、今は世界中の言葉に翻訳された聖書を通して伝えられていくのです。 私たちは、日々この聖書の言葉に親しみ、その恵みに生かされていきます。そして、弟子たちと同じように聖霊の力によって福音を語ります。そうして、多くの人たちが、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」ることになるのです(1テサ1章6節)。 Sun, 23 May 2021 00:10:00 +0000 天からの叫びが聞こえた(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210523 no 2021 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 (使徒言行録2章1節~2節) 私たちは聖霊について、そのすべてを知りません。聖霊なる神は、ご自身を目立たせるようなことはなさらないからです。しかし、その聖霊が、歴史においてただ一度、奇跡的な仕方ではっきりとその存在を明らかになさったことがあります。それが、使徒言行録2章の「聖霊降臨」の出来事です。 そのとき、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たという言葉に心がとまりました。「烈風吹きすさぶがごとき音響が天から沸き起こって」という訳もあります。まるで主イエスが天から叫んでおられるかのように思えたことでしょう。私たち一人ひとりの魂を眠りから叩き起こして、この心にかかっているもやもやした黒い雲をすべて吹き払うような、激しい風が吹いたのです。 この風に吹かれて、鈍くて愚かな弟子たちの命は刷新され、力強く立つのです。この風は、今も吹いています。教会に向けて吹きすさぶのは逆風ばかりではありません。逆風の中で、耳を澄ましてください。「さあ、ここからだ」との天からの叫びが聞こえてくるのです。 Sat, 22 May 2021 00:10:00 +0000 神について隠さずに語ろう(ヨブ記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210522 no 2021 わたしがあなたたちに神の手の業を示し 全能者について隠さずに語ろう。 (ヨブ記27章11節) 11節以下は、友人たちに対する、いわば、ヨブの伝道説教です。ヨブは、間違った神観に捕らわれている友人たちに対して、彼らがヨブを責めた言葉を用いて真理を語り、罪を自覚させ、悔い改めへと招きます。伝道者パウロの先駆者であるかのようです(1コリ9章19節以下)。 ヨブが信じて語った神、そして、今日の私たちが信じて語っている神は、確かに御自分の正義に基づいて裁きを行われるお方です。しかし同時に、御自分に逆らう者が悔い改めて立ち帰るのを忍耐して待っておられる、憐れみ豊かなお方です(2ペト3章9節)。 ところで、ヨブは、神に繰り返し問うても応えてくださらないので、深く悩み苦しんでいました。しかし、それでも、友人たちの魂のゆくえに配慮し、神について隠さずに語りました。それができたのは、ヨブが全能者である神に信頼を置いていたからです。 神を受け入れない人の頑なな心を柔らかくしてくださるのは全能の神です。このお方に信頼して、憐れみ豊かな神について隠さずに語り続けましょう。 Fri, 21 May 2021 00:10:00 +0000 神が備えていてくださる一本道(ヨブ記 25-26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210521 no 2021 だが、これらは神の道のほんの一端。 神についてわたしたちの聞きえることは なんと僅かなことか。 その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。 (ヨブ記26章14節) 有限な人間は、無限の神のことをすべて知り尽くすことはできません。神が教えてくださった御心しか知ることができないのです。ヨブは、神に信頼しているのに、なぜ神は苦難をお与えになったのか、その理由を繰り返し問うても、神は教えてくださいませんでした。ですから、ヨブは、神の御顔におびえ、怖がり、悩み苦しみは深まる一方だったのです。 新約時代に生きる私たちには、聖書全体を通じて、神が万事を救いのために益としてくださることを教えられています。何よりも、神は、私たちを罪と滅びから救うために愛する独り子イエスに苦難を与え、十字架につけてくださった憐れみ豊かなお方です。 私たちが知ることができるのは、「神の道のほんの一端」です。しかし、聖書を通じて知らされている神の道のすべてが、私たちの救いのためであるからには、未だ実現していない将来の道もすべては、私たちの救いのためです。主イエス・キリストの神の御顔を安心と喜びをもって仰ぎ見ながら、神が備えていてくださる一本の道を歩み抜きましょう。 Thu, 20 May 2021 00:10:00 +0000 「神の日」に向かって(ヨブ記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210520 no 2021 なぜ、全能者のもとには さまざまな時が蓄えられていないのか。 なぜ、神を愛する者が 神の日を見ることができないのか。 (ヨブ記24章1節) ヨブの告白は続きます。そして、彼は問います(1節)。聖書協会共同訳は1節を次のように訳しています。「全能者は時を隠していないのに、なぜその方を知る者がその日を見ることができないのか」。 ヨブが問題としていたのは、神は正義のお方なのに、悪人の所業、善人の悲惨をご存じないかのように振る舞われるのはなぜかということです。 しかし、神は、悪人、つまり、ご自身に逆らう者の所業をよくご存じです。また、善人、つまり、ご自身を愛する者の悲惨をよくご存じです。神には神なりのご計画があり、今は、ご自身に背く者が栄えるようにしておられます。 このことは、聖書全体で言いますと、主イエスが再臨なさって行われる最後の審判で、全人類によって、神が憐れみと正義のお方として崇められるためなのです(フィリ2章10、11節)。この「神の日」にこそ、全能者を知り、愛する者は、あらゆる悲惨から救われます。 きょうも、この「神の日」に向かって希望をもって歩むことができますように。 Wed, 19 May 2021 00:10:00 +0000 万事、救いのために益となす主(ヨブ記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210519 no 2021 神がいったん定められたなら だれも翻すことはできない。 神は望むがままに行われる。 わたしのために定めたことを実行し ほかにも多くのことを定めておられる。 (ヨブ記23省13節~14節) ヨブと友人たちとの議論は、いつまでも平行線を辿って、お互いに言葉が全く噛み合いません。ヨブは疲れてしまい、自分の心の内に溜まっていることを告白します。 ヨブは、神から理由の分からない苦難を与えられました。そして、神が自分にお与えになった苦難は、神が望まれて、定められたことであることは知っています。それでもヨブの魂は、決して平安にはなりません。かえって、恐れて、おびえざるを得ないのです(15節)。それは、ヨブに示されている真理が一部でしかないからです。自分には神とヨブとの「仲裁者」が必要であるとの真理ならば既に示されていましたが(9章33節)、そのお方が誰かについてはヨブには具体的には示されませんでした。 幸いなるかな! 新約時代の私たちは、神との「仲裁者」を知らされ、既にそのお方を与えられています。そのお方こそ、主イエス・キリストです。ですから、神が望まれるままにすべてを定めておられると知っても、決して恐れる必要はありません。万事、救いのために益となす主なる神に信頼しきることができるのです(ロマ8章28節)。 Tue, 18 May 2021 00:10:00 +0000 神を正しく知ろう(ヨブ記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210518 no 2021 もし、全能者のもとに立ち帰り あなたの天幕から不正を遠ざけるなら あなたは元どおりにしていただける。 (ヨブ記22章23節) ヨブと友人たちとの議論の第3ラウンドに入ります。友人たちは、自分たちのはかりでヨブを説得しようとしました。しかし、ヨブが自分たちの勧告に応じようしないので、彼が自分たちを非難しているかのように思えました。彼らはますます語調を荒くしてヨブに語りかけます。第1、第2ラウンドでも口火を切ったエリファズの言葉です。 エリファズは言います。神は、ヨブが不正をやめるならば、元の幸福の状態を回復させてくださる、と。そればかりか、祈りが聞き入れられ(27節)、さらに自分だけでなく、隣人にも益となる、と(29、30節)。 ヨブが信じている神、そして、聖書全体が語っている神は、確かに罪を悔い改めて、ご自身に立ち帰る者を豊かに祝してくださいます。主イエス・キリストの父なる神は、私たちが何か罪を犯したら、呪って不幸をお与えになるようなお方ではありません。しかし、私たちの悔い改めと信仰の成長のため、私たちから罪と汚れを取り除いてきよくなさるために、御心のままに苦難さえもお与えになるお方です(ロマ5章3~5節)。 Mon, 17 May 2021 00:10:00 +0000 悩み苦しむ人の隣人となるために(ヨブ記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210517 no 2021 どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。 聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。 我慢して、わたしに話をさせてくれ。 わたしが話してから、嘲笑うがいい。 (ヨブ記21章2節~3節) ヨブと友人たちとの議論の第2ラウンドが、この21章をもって終わります。今回は、ツォファルに対するヨブの応答です。 最初、ツォファルたちは、ヨブを何とか慰めようと、彼の傍らで慰めの言葉を語りました。しかし、ヨブは決して彼らの言葉を受け入れようとはしません。なぜなら、彼らはヨブが罪を犯しているから苦しんでいると考えているからです。それで、彼らは、ヨブに対して、次第に非難と裁きの言葉を浴びせるようになりました。 ヨブのような悩み苦しみの中にある隣人に対して、どんなに優れた信仰の言葉を語ったとしても届かないことがよくあります。自分の信仰や体験といったはかりによって隣人を裁いてしまい、魂を余計に傷つけてしまうこともよくあります。そのようなとき、言葉が出かかっても我慢して沈黙し、「待てよ!この人のために十字架で死んでくださった主イエスならば、どのようになさるだろう?」と立ち止まって、その人の言葉にまずしっかり耳を傾ける姿勢で隣人となりましょう。あなたを必要としている悩み苦しむ人はいませんか。 Sun, 16 May 2021 00:10:00 +0000 世に遣わされた弟子たち(ヨハネによる福音書 17章6-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210516 no 2021 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。 (ヨハネによる福音書17章18節~19節) 主イエスは、弟子たちに告別の説教をした後、神に祈りました。この主イエスの祈りは、「大祭司の祈り」と言われています。主イエスは、この祈りの後に、捕らえられ、十字架にかけられます。主イエスの遺言とも言えるような、思いが込められた祈りです。 この祈りで、主イエスはご自分が神によってこの世に遣わされたように、弟子たちを世に遣わすことを宣言されます。罪と弱さを持った弟子たちがこの世で福音を宣べ伝える働きができるのは、主イエスが弟子たちのために、ご自身をささげられたからです。 主イエスは、弟子たちの身代わりとして十字架にかけられることで、神の前で完全なささげものとなってくださいました。弟子たちは、この完全なささげものである主イエスが世の救い主であることを示していきます。主イエスは、弟子たちのためにご自身をささげたように、弟子たちも福音の真理を世に宣べ伝えるために、神にささげられた者となることをここで祈ってくださいました。 私たちも主イエスの弟子として自分自身を神にささげて生きていきましょう。 Sat, 15 May 2021 00:10:00 +0000 友の苦しみを執り成して祈る愛(ヨブ記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210515 no 2021 たとえ彼が天に達するほど 頭が雲に達するほど上って行っても 自分の汚物と同様、永久に失われ 探す者は、「どこへ行ってしまったのか」 と言わなければならなくなる。 夢のように飛び去り 夜の幻のように消えうせ だれも見いだすことはないだろう。 (ヨブ記20章6節~8節) 3人目の友人ツォファルが「わたしは反論せざるをえない」と言って語り始めます(2節)。「わたしを贖う方は生きておられ」というヨブの信仰の言葉を聞いて(19章25節)、彼はなぜ喜べなかったのでしょうか。自分に反対する人は間違っていると考えて、ヨブを正そうと考えたのかもしれません。「あなたたちはわたしの友ではないか」と言うヨブ(同21節)に対して、友人たちは議論している間に、友人から論敵になってしまったかのようです。 ツォファルの主張は、悪人は必ず裁かれて滅びるということです。ヨブも悪人に対する裁きは神が必ずなされると認めています。ヨブが問題としているのは、何故正しい人が苦しまなければならないのかということです。神を畏れる者が何故苦しめられるのかということです。 友として寄り添うとは、議論して正そうとすることではないでしょう。本当の愛とは、苦しみを共に苦しみ、執り成して祈ることではないでしょうか。私たちは、そのように祈られてきたのです。私たちのまことの友となってくださった十字架の主イエス・キリストによって。 Fri, 14 May 2021 00:10:00 +0000 この身をもってわたしは神を仰ぎ見る(ヨブ記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210514 no 2021 わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。 この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。 (ヨブ記19章25節~26節) ビルダドの言葉にヨブは激しい言葉をもって応答します。親戚、友人、そして僕にすら見捨てられ、見下されているヨブの姿が続きます。今まで友であった者も神と一緒になってわたしを追い詰めるのかと、ヨブは訴えています。 しかし、その中でヨブは神を仰ぎ見ようとします。どのような苦しさの中にあっても、たとえ神を呪うような言葉を言い続けたとしても、ヨブは神を仰ぎ見ることを忘れていません。ヨブは必死に神を探し求めていたのです。何故、神を畏れる者にこのような苦しみが与えられるのか。「わたしの名誉を奪い、頭から冠を取り去られた」のは神ご自身なのだと訴えて、ヨブは神を仰ぎ見ます。 ヨブは言います。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ」る。ヨブが待ち望むのは、私たちを罪と苦しみから贖い出す神です。この神を仰ぎ見る信仰によってヨブは生かされました。 主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました(ヨハ11章25節)。私たちには、この希望の光、大きな慰めが与えられて、苦しみの中でも神を仰ぎ見て歩むのです。 Thu, 13 May 2021 00:10:00 +0000 岩がその場所から移されるだろうか(ヨブ記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210513 no 2021 怒りによって自らを引き裂く者よ あなたのために地が見捨てられ 岩がその場所から移されるだろうか。 (ヨブ記18章4節) 18章にはビルダドの主張が記されています。彼は「言葉の罠の掛け合い」と言ってヨブを酷評します(2節)。ビルダドには、ヨブが思い付きや感情が先走った人物だと思われたのです。 ヨブの言葉には神に対する不平や恨みもありますが、神を慕い求める思いが滲んでいます。二つの思いが交錯するヨブの苦悩が表れているのです。そしてなおヨブの心には神に対する信頼や希望が残されています。そこに「無垢な正しい人で、神を畏れ…て生きている」ヨブの姿が表れています(2章3節)。 4節でビルダドは、罪ある人間が必死になって神に祈り求めても、神のご支配はいささかも動かされることはないと述べます。すなわち、ヨブが神の御前で訴えても神はご意志を変えられる方ではないと言うのです。それは果たして真実でしょうか。 私たちは御言葉を通して、神が時には思い直されるお方であることを教えられています。神は私たちの主であられ、私たちを愛してくださることにおいていささかも動かされないお方です。ですから、私たちは信頼し希望を持って祈り求め続けます。 Wed, 12 May 2021 00:10:00 +0000 神はわたしの保証人(ヨブ記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210512 no 2021 あなた自ら保証人となってください。 ほかの誰が わたしの味方をしてくれましょう。 … どこになお、わたしの希望があるのか。 誰がわたしに希望を見せてくれるのか。 (ヨブ記17章3節、15節) 17章でも、心の揺れ動くヨブの姿、苦難に対する嘆き、責め立てる友人たちの敵意に心が痛みます。人としてできる限り正しく生きてきたヨブには苦難の理由がわかりません。それが試練であるのか、罰であるのかさえ。 ヨブは、「わたしの人生は過ぎ去り、わたしの計画も心の願いも失われた」と語ります(11節)。理由の分からない苦しみは、その人を深く悩ませ、その人生を希望のないものにしてしまいます。人は生きる意味を考えながら生きる存在です。生きる意味、目的を見失って、ヨブは自分の人生が生きる喜びより死を待つ苦しみしかない人生になったと言います。 希望が見出せない状況にあって、ヨブは神に対して「わたしの保証人になってください」と訴えます。ヨブにとって神だけが頼るべきお方であり、私たちにとっても同じです。私たちの人生が希望のないものになることはありません。私たちと共にいつも神がおられます。わたしをお造りになった方がわたしの保証人としておられます。このお方を信じて頼るところに生きる目的、意味が生まれます。とこしえの希望があるのです。 Tue, 11 May 2021 00:10:00 +0000 わたしのために執り成す方、わたしの友(ヨブ記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210511 no 2021 このような時にも、見よ 天にはわたしのために証人があり 高い天には わたしを弁護してくださる方がある。 わたしのために執り成す方、わたしの友 神を仰いでわたしの目は涙を流す。 (ヨブ記16章19節~20節) ヨブ記16章はエリファズに対するヨブの返答です。ヨブは「わたしがあなたの立場にあったなら、そのようなことを言っただろうか」と語ります。その中で、神に抗弁していたヨブが一転して、神を「わたしの友」と呼びます。神こそがわたしを理解してくださるお方、「わたしを弁護してくださる方」と語ります。 友人が自分を苦しめ、神も自分を責め立てているように思われる状況の中にあってなお、ヨブは神に祈り求め、自分を正しく理解してくださるお方、自分を執り成して癒してくださるお方であると信じているのです。その神の愛を思い、神を仰ぎ見て涙を流します。ヨブは苦難の中にありながらも神の御許に近づき、神の懐に飛び込んで、神の愛を確信するのです。 神はサタンがヨブを苦しめることを許されました。サタンに苦しめられながらも神を愛し、神に信頼するヨブ。神はこのヨブを誇るためにこそ、苦難の中に委ねられたのでしょう。そして、その同じ神の愛を、神が御子イエスに苦難を与えて私たちを救いに導かれたことに見ることができます。私たちもこの神を仰ぎ見て涙を流します。 Mon, 10 May 2021 00:10:00 +0000 どうして、人が清くありえよう(ヨブ記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210510 no 2021 どうして、人が清くありえよう。 どうして、女から生まれた者が 正しくありえよう。 神は聖なる人々をも信頼なさらず 天すら、神の目には清くない。 (ヨブ記15章14節~15節) ヨブ記15章から21章では、ヨブと3人の友人の議論の2回目が行われます。15章では、エリファズが「どうして、人が清くありえよう」と主張して、ヨブに答えます。それは、ヨブが神の御前に自分の正しさを言い立てているように思えたからでしょう。 人間は誰しも罪人であるというエリファズの主張は、聖書全体が語る真理です。ヨブ自身、自分が神の御前に罪深く汚れた者であることを認めています。その上で、それなのに何故神は自分に清さ、正しさを要求されるのだろうかと訴えました。 このときのエリファズは、自分も同じ罪人であることを顧みず、ヨブに罪を認めさせるために「人間は誰も罪人である」と語っているように思われます。しかし、自分が罪人であることを棚に上げて人の罪を指摘することはできません。そして、主イエスは、そのような罪人のわたしに代わって十字架にお架かりくださり、わたしの罪を赦してくださったのです。 主イエスは私たち罪人の苦しみと惨めさを共に苦しんでくださるお方です。主イエスの救いのリアリティを私たちはすでに体験しています。 Sun, 09 May 2021 00:10:00 +0000 主イエスの友となる(ヨハネによる福音書 15章9-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210509 no 2021 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」 (ヨハネによる福音書15章13節~14節) 主イエスにつながることは、主イエスの愛にとどまることです。主イエスは、ご自身につながる私たちが主イエスの愛にとどまるだけでなく、互いに愛し合うことをもお命じになっておられます。 主イエスは、「これ以上はない大きな愛」について教えられ、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とも宣言されます。自分の友のために自分の命を捨てる、これほどの大きな愛はありません。主イエスは、御自身に従う弟子たちを友と呼び、この友のために命を捨ててくださいます。 主イエスは、神の前で私たちの罪を赦していただくため、十字架にかかって死んでくださいました。この主イエスと同じ愛を私たちが行うことはできません。 しかし、主イエスが命じられた通りに、私たちが互いに愛し合おうとするとき、たとえ私たちの愛が不十分であったとしても、その背後で私たちのために命をも捨ててくださった大きな愛があることを覚えたいと思います。主イエスは、不十分にしか愛せない私たちを見つめつつ、なお赦してくださいます。 Sat, 08 May 2021 00:10:00 +0000 生ける者と死ねる者とを審きたまわん(テサロニケの信徒への手紙二 1章3-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210508 no 2021 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。 (テサロニケの信徒への手紙二1章6節~7節) 世の終わりにキリストが再び来られるのは、裁きのためです。そのとき生きている者も、すでに死んでしまった者も、すべての者が神とキリストの裁きの前に立つことになります。この世の裁きは間違えることがありますが、神は正しい裁きを行われます。 この裁きは、罪人にとっては恐ろしいものです。人の裁きは逃れても、神の裁きを免れることはできません。しかし、その裁きのために来られるキリストは、私たちの救い主です。キリストの裁きは、罪人か義人かを見るのではなく、信仰によって救いの恵みを受け取ったかどうかを見ます。キリストを信じる者は、もはや裁きによって滅ぼされることはないのです。 神の公正な裁きを知る者として、私たちは畏れをもって生きていきます。救い主であるキリストの裁きを知る者として、感謝をもって生きていきます。そして、この世では信仰者として不当な苦しみを受けることがあったとしても、「休息をもって報いてくださる」神の裁きに希望を置いて、忍耐をもって生きていきます。世の終わりには、この世界すべてが神の安息に入れられて完成へと至るのです。 Fri, 07 May 2021 00:10:00 +0000 かしこより来りて(フィリピの信徒への手紙 3章12-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210507 no 2021 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 (フィリピの信徒への手紙3章20節) キリストが神の右に着座された現在の状態から、使徒信条は未来についての告白へと進みます。キリストは世の終わりに再び、「かしこより」、すなわち昇られた天より、この地上に来られるのです。教会は、このキリストの再臨の希望を抱いて歩んでいます。 いつキリストが来られるのかは分かりません。そのため再臨の約束を忘れてしまいそうになったり、うわさに惑わされて偽のメシアにだまされてしまいそうになったりする危険もあります。しかし、再臨されるのは救い主であるキリストであり、その日は必ず来ます。私たちは確かな約束を与えられているのです。 そもそも私たちの人生にはいつか終わりの日が来ます。それがいつであるかはやはり分かりませんが、その日に備えて生きています。同じように、私たちは何よりもキリストの再臨の日に備えます。キリストがいつ来られてもよいように、信仰に目覚め、生活を整え、そして喜びと希望をもって、「マラナ・タ(主よ、来てください)」(1コリ16章22節)と祈りつつ歩むのです。 Thu, 06 May 2021 00:10:00 +0000 全能の父なる神の右に座したまえり(エフェソの信徒への手紙 1章15-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210506 no 2021 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 (エフェソの信徒への手紙1章20節~21節) 天に昇られたキリストは、父なる神の右に着座されました。これは、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」(詩110編1節)の成就であり、この御言葉は新約聖書で繰り返し引用されています。教会にとって父なる神の右に座すキリストへの信仰がいかに大切なものであったかが分かります。 「右に座す」とは、父なる神と同じ権威と力を持っておられるということです。そこでキリストは救い主として、恵みをもって世界を治めておられます。そして、そのご支配は特に教会を通してあらわされます。キリストはご自身の民を悪しき力から守り、その成長を導いてくださるのです。 今、私たちはこのキリストが着座されている時代を生きています。救い主が恵みをもって治めてくださっていることを信じて、私たちも平安の内に自らの置かれた場所に腰をおろし、何より教会の礼拝の席に座ることができます。そして、この世界もまた神の右に座すキリストの恵みの支配のもとに置かれるようにと、執り成しの祈りをささげるのです。 Wed, 05 May 2021 00:10:00 +0000 天に昇り(使徒言行録 1章3-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210505 no 2021 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 (使徒言行録1章9節) 復活されたキリストは、40日間にわたって弟子たちの前に現れて神の国について話された後、天に昇られました。誕生、十字架の苦しみ、死と葬り、死者の中からの復活と、地上でのすべての働きを終え、再び天の父なる神のもとへと帰って行かれたのでした。 世の終わりまで共にいてくださるという復活の主の約束はどうなったのかと思うかもしれません。しかし、その約束は、聖霊によって共にいてくださるという新たな仕方で実現していきます。キリストが天に昇られたのは、地上に聖霊を送るためでした。目には見えない仕方で、それゆえ世界中の人びとがどこにいても経験できる仕方で、主は共にいてくださるのです。 キリストはかつて弟子たちに天へと帰ることを告げたとき、「行ってあなたがたのための場所を用意」すると言われました(ヨハ14章3節)。私たちもいつか天に帰りますが、そこには主が用意してくださった場所があります。そのときまで、キリストが昇られた天への希望を抱きつつ、この地上を力強く歩んでいくのです。 Tue, 04 May 2021 00:10:00 +0000 死人のうちよりよみがえり(ルカによる福音書 24章13-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210504 no 2021 「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」 (ルカによる福音書24章22節~23節) 日曜日の朝、キリストは復活され、弟子たちの前に現れました。幻を見たのではありません。遺体を納めた墓は空になっていました。復活の証人は他にも数多くいました。キリストは確かにその肉体をもってよみがえられたのでした。「イエスは生きておられる」のです。 復活の出来事は、ただ死を克服して人びとを驚かせたということではありません。使徒信条は、「死人のうちより」よみがえりと告白します。キリストは、私たちと同じ人間になってくださり、死人の一人とさえなってくださいました。そして、その死人のうちよりよみがえってくださることによって、死にゆく私たちの救い主となってくださったのでした。 このキリストの復活によって、私たちも世の終わりにおける「身体のよみがえり」の希望を持ちます。そして同時に、今すでに信仰によってキリストの復活の命に生かされています。「光あれ」と言われて世界を創造された神が、週の初めの日にキリストを復活させて命の光を照らしてくださいました。その光の中を、私たちはいつも歩んでいくことができるのです。 Mon, 03 May 2021 00:10:00 +0000 3日目に(ルカによる福音書 24章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210503 no 2021 「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、3日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 (ルカによる福音書24章7節) 十字架につけられた金曜日から数えて3日目の日曜日の朝、キリストはよみがえられました。すでに弟子たちに「3日目に復活する」(ルカ18章33節)と予告されていたことが実現したのでした。復活は、この歴史の中で確かに起こった出来事でした。 この日、死の力が打ち破られました。金曜日の弟子たちの悲しみと絶望は、土曜日の安息日の静寂を経て、日曜日の朝に驚きと喜びへと変えられたのでした。時間が過ぎて3日目には自然と気持ちが変わったというのではありません。その時間の中に、神が生きて働いてくださったのです。すべての歴史を支配しておられる神が、そこで特別な御業をなしてくださったのでした。 この「3日目」は、新しい安息日の誕生ともなりました。それまでの、土曜日を安息日としていた旧約時代の信仰生活に代わって、キリストが復活された日曜日を安息日また主の日とする歩みが始まりました。日曜日ごとに、私たちはキリストが3日目によみがえられたことを思い起こし、その恵みに満たされて礼拝をささげるのです。 Sun, 02 May 2021 00:10:00 +0000 主イエスにつながって生きる(ヨハネによる福音書 15章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210502 no 2021 「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」 (ヨハネによる福音書15章8節) 主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と自己紹介し、自分につながっているようにと私たちを招かれます。ぶどうの枝は、幹にしっかりつながっていることで、栄養を得て、生き生きとその命を保つことができます。やがてその枝は、豊かな実を結びます。私たちも同じです。主イエスにつながっているならば、私たちもぶどうの枝のように豊かな実を結ぶことができます。 しかし、私たちにとって、主イエスにつながるとは、どういうことでしょうか。答えははっきりしています。それは主イエス・キリストを信じ、主イエスに従って生きることです。より具体的には主イエスを信じて、洗礼を受けて教会に加わり、信仰生活を送ることです。私たちは、日々聖書を読み、祈りをささげ、礼拝において御言葉の説教を聞くことで、恵みにあずかります。信仰生活を送ることで、主イエスにつながることができ、私たちに豊かな実が結ばれます。 そして、私たちが主イエスにつながることは、私たち自身が恵みを受けることにとどまりません。私たちが主イエスにつながることで、神ご自身が栄光をお受けになられます。なんとすばらしいことでしょう。 Sat, 01 May 2021 00:10:00 +0000 陰府にくだり(マタイによる福音書 27章62-66節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210501 no 2021 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。 (マタイによる福音書27章65節~66節) キリストの死と葬りに続き、使徒信条は「陰府にくだり」と告白します。「陰府」とは死者が行く世界のことです。ただちに「地獄」を意味するわけではありませんが、死が罪の結果である以上、陰府もまた暗い側面を持つものでした。 「陰府にくだり」は、苦しみの極みとしてのキリストの死の意味をあらためて告白するものです。主イエスの墓は、十字架刑を宣告したピラトの権力のもとで番兵たちによって見張られていました。主イエスの死はこの世の悪しき力によるものでした。しかし、それは私たちを罪とあらゆる苦しみから救い出してくださるためでした。 多くの人は「あの世」という言い方で死後の世界のことを考えます。地獄や無の世界を想像して恐怖におびえることもあります。しかし、大切なことは、そこに誰がおられるかです。「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」(詩139編8節)。この約束をキリストが成就してくださいました。陰府にまでくだられたキリストは、私たちが死を迎えるときにも共にいて平安を与えてくださるのです。 Fri, 30 Apr 2021 00:10:00 +0000 葬られ(ヨハネによる福音書 19章38-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210430 no 2021 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 (ヨハネによる福音書19章38節) 主イエスは、アリマタヤのヨセフによって墓に葬られました。ローマ帝国の刑罰で殺された主イエスの遺体を引き取るということは勇気のいることでした。しかし、ヨセフの願いは聞き入れられ、ニコデモの協力のもと、主イエスは墓に葬られることになりました。 使徒信条がこの葬りにまでふれるのは、このことが主イエスは間違いなく死なれたということの証拠であったからです。それは十字架の死による罪の贖いの御業が成就したことを再確認させてくれます。そして、この葬りは、神にとっては主イエスの復活に向けた備えでもありました。主イエスは気絶した状態から目を覚ましたのではなく、墓の中での死から確かによみがえられたのでした。 私たちもやがて死に、葬られます。葬儀は地上における最後の信仰の証しの場となります。かつて信仰を求めていたニコデモが主イエスの葬りに加わったように、葬儀という人間の悲しみと無力を感じさせられる場において、神の力ある招きが実現することがあります。そして、葬儀はまた復活への最初の備えとして希望のときともなるのです。 Thu, 29 Apr 2021 00:10:00 +0000 死にて(ルカによる福音書 19章28-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210429 no 2021 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 (ルカによる福音書19章30節) 主イエス・キリストは死なれました。人なら誰もが死ぬように、キリストも人として死なれました。しかし、死は自然にあったものではなく、アダムが罪を犯すことによってこの世界に入ってきたものです。特に死には神との交わりの喪失という霊的な死があります。キリストは十字架の裁きにおいてその死の苦しみを味わい、そして肉体においても死なれたのでした。 しかし、主イエスはそこで「成し遂げられた」と言われました。それが救いの御業の成就であったからです。私たちは、このキリストの死によって命を得ました。霊的な死から神との交わりという命へと回復され、死の後の永遠の滅びをもまぬがれて、永遠の命の祝福にあずかることが約束されたのです。 この救いのために私たちは今、罪を悔い改め、古い自分に死ぬ必要があります。「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」からです(ロマ6章8節)。そして、やがてこの肉体における死を迎えますが、キリスト者にとってそれはもはや恐れの時ではありません。永遠の命への入口という希望の時なのです。 Wed, 28 Apr 2021 00:10:00 +0000 十字架につけられ(ルカによる福音書 23章26-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210428 no 2021 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 (ルカによる福音書23章33節) ユダヤ人によって捕らえられ、総督ピラトの前に引き出された主イエスは、ローマ帝国の処刑方法である十字架刑によって犯罪人の一人として殺されました。それは人の目には無意味な死に見えるものでした。 しかし、十字架は神の知恵であり、罪人を救うための身代わりの死でした。それは、「木にかけられた者は皆呪われている」という律法の成就であり(ガラ3章13節)、主イエスは罪人が受けるべき呪いを引き受けてくださったのでした。そして、刑罰である十字架は、これが神ご自身による裁きの刑罰であったことをあらわしています。主イエスは罪人の代わりに刑罰を受けて無罪の宣告を勝ち取り、救いをもたらしてくださいました。 この救いを主イエスの最も近くで受け取ったのが、一緒に十字架にかけられた犯罪人でした。一人は主イエスをあざけりましたが、もう一人は自らの罪を認めて主イエスを信じ、楽園にいるという救いの約束を与えられました。無意味で愚かに見える十字架こそ、「救われる者には神の力」なのです(1コリ1章18節)。 Tue, 27 Apr 2021 00:10:00 +0000 苦しみを受け(マルコによる福音書 15章16-41節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210427 no 2021 3時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マルコによる福音書15章34節) 使徒信条は、主イエスの誕生から十字架の死へとただちに進みますが、そのご生涯の働きが忘れられているわけではありません。そのご生涯を見渡せば、罪人の世界へと遣わされた救い主の歩みは、そのすべてが苦しみであったことが分かります。「苦しみを受け」は、主イエスの全生涯を物語っています。 人生とはそういうものだろうと思うかもしれません。しかし、主イエスが受けられたのは、罪人の身代わりとして神の怒りと罰を受けるという苦しみでした。それは「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」と預言されていたものです(イザ53章4節)。神の御子が父から見捨てられるという肉体的だけでなく精神的な苦しみをも主イエスは受けられたのです。そして、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされ」たのです(1ペト2章24節)。 救われた者もまた、信仰ゆえの苦しみを経験することがあります。それは罰ではなく、キリストと同じものとされた恵みにあずかることです。そして、その苦しみを経て、私たちは神の国に入れられるのです。 Mon, 26 Apr 2021 00:10:00 +0000 ポンテオ・ピラトのもとに(マルコによる福音書 15章1-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210426 no 2021 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 (マルコによる福音書15書14節~15節) 使徒信条には、母マリアに続き、もう一人の人物の名前が出てきます。ポンテオ・ピラトです。ローマ帝国の地方総督としてユダヤの地を治めていた人物です。その名が記されることによって、イエスが時代も場所も特定できる歴史上の確かな人物として生きられたということが分かります。そして、このピラトこそ、イエスの十字架刑の決定を下した責任者です。 ただし、ピラト一人に責任があったということではありません。そこにはユダヤの指導者たちや群衆たちもいました。ピラトは「群衆を満足させようと思って」イエスを十字架につけたのです。そのピラトや群衆たちの姿の中に、私たちは自分自身の罪人としての姿を見るのです。 ピラトは、イエスには「何の罪も見いだせない」と宣言していました(ルカ23章4節)。そうでありながら、地上の法廷は、罪のない神の御子を裁きました。しかし、それは、御子が身代わりとなって罪人を無罪とする神の法廷でもありました。私たちも、自らの罪を認めてこの法廷に立ちます。そのとき神は私たちに罪を見出さず、無罪としてくださるのです。 Sun, 25 Apr 2021 00:10:00 +0000 主は良い羊飼い(ヨハネによる福音書 10章11-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210425 no 2021 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 (ヨハネによる福音書10章11説) 朝鮮戦争の前に、わたしの父は牛を運ぶ仕事をしていました。ある夜、山で牛が虎の目を見て動かなくなったため、父は牛を捨てて山から逃げました。主イエスは、「自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」と言われました(12節)。わたしの父も、雇われた人だったので、牛をそのまま捨てて逃げたのかもしれません。 しかし、主イエスは命をかけて狼と戦うとは言っていません。命を捨てると言われました。まるで死ぬことが目的のように言われました。普段、羊が安全に守られる方法は羊の門を通って囲いの中に入ることでした。主イエスは羊の門であり、この門から入ると救われると言われました(9節)。主イエスはまた、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われました(マコ10章45節)。罪の代価である身代金として、主イエスは十字架で死んでくださったのです。そのことによって、羊である私たちは、罪に対する神の裁きから守られます。 今も生きておられる主イエスは、永遠にわたしの良い羊飼いであり続けます。 Sat, 24 Apr 2021 00:10:00 +0000 おとめマリアより生まれ(ルカによる福音書 2章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210424 no 2021 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカによる福音書2章6節~7節) 誰もが母の胎から生まれてくるように、主イエスも母マリアの胎から生まれてこられました。それは、聖霊の働きによって、夫ヨセフと一緒になる前に生まれるという特別な誕生でしたが、その特別さは、まことの神である方がまことの人として世に来られたということを証しするものでした。 主イエスはダビデの子孫としてベツレヘムでお生まれになりました。しかし、主は地上の王のようにではなく、貧しい飼い葉桶に寝かせられました。神は御子を、「律法の下に生まれた者としてお遣わしに」なったのです(ガラ4章4節)。律法を与える神であられる方が、律法に従い、律法の呪いを受けるべき罪人の一人のようになってくださいました。それは、私たち罪人を贖い出し、神の子とするためでした。 母マリアもまた、その救われるべき罪人の一人でした。そして、誰よりも最初に、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、この神の救いを受け入れた人でした(ルカ1章38節)。私たちも同じように、まことの人となられたキリストの恵みを受け入れるのです。 Fri, 23 Apr 2021 00:10:00 +0000 聖霊によりてやどり(ルカによる福音書 1章26-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210423 no 2021 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」 (ルカによる福音書1章35節) 神がこの世界に触れてこられるとき、そこには聖霊の働きがあります。すでに天地創造のとき、神の霊が水の面を動いていました。そして、ついに神の独り子がこの地上に到来されたときにも、聖霊が特別な役割を果たしました。主イエスは、聖霊によって母マリアの胎に宿ったのでした。 すべての命の誕生は驚くべき出来事ですが、救い主の誕生はさらに特別な奇跡によって起こりました。この奇跡は、主イエスが神の子であり、神ご自身であられたことをあらわしています。この方は、人間であるマリアから生まれられましたが、造られたものではなく、造り主なる神であられたのです。それゆえ、私たち罪人を救うことのできる力をお持ちでした。 この驚くべき救い主の誕生の出来事を私たちがもし信じることができるとすれば、それもまた奇跡です。そして、事実、信じる者とされていて、そこにやはり聖霊が働いてくださっています。母マリアが主イエスをその胎に宿したように、私たちも、「キリストがわたしの内に生きておられる」と告白することができるのです(ガラ2章20節)。 Thu, 22 Apr 2021 00:10:00 +0000 キリスト(マタイによる福音書 16章13-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210422 no 2021 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 (マタイによる福音書16章15節~16節) 主イエスは弟子たちによって「メシア」と告白されました。それは、「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、そのギリシア語訳が「キリスト」です。旧約時代には、預言者、祭司、王に油が注がれ、神の民の中で特別な使命を果たしました。そして、メシアはやがて到来する救い主を指す言葉となりました。 メシアは、特にダビデの血を引く王として期待されました。メシアの到来は、神の国の到来と重なって待望されたからです。しかし、主イエスは、ローマ帝国からの解放といった政治的な願望を実現するメシアではありませんでした。預言者として命の御言葉を語り、祭司としてご自身を贖いの代価として献げ、そして、王として罪と悪の支配を打ち滅ぼしてくだったのでした。 主イエスはキリストとして今も世界と私たちとを治めておられます。このキリストを信じるとき、私たちも聖霊の油を注がれます。そうして、神に召された私たちもまた預言者、祭司、王として、その信仰を告白し、自分自身を感謝のいけにえとして献げ、罪と悪と戦って生きるようになるのです。 Wed, 21 Apr 2021 00:10:00 +0000 イエス(マタイによる福音書 1章18-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210421 no 2021 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 (マタイによる福音書1章20節~21節) 使徒信条は、天地を造られた全能の父なる神への信仰告白に続いて、一人の人間イエスへの信仰を告白します。両者はあまりに不釣り合いに感じられますが、ここにキリスト教信仰の特色があります。主イエスは、他の歴史上の偉大な人物と並べられるお方ではなく、父なる神と並べられるお方なのです。 「イエス」という名前は当時ありふれたものであったようです。しかも貧しい地ガリラヤ出身の者として、「ナザレのイエス」とも呼ばれました(マタ26章71節)。それは、主イエスは私たち貧しい罪人の間に住んでくださり、そのようにしてその名の通りの働きをしてくださったということです。「イエス」は、「主は救い」という意味であり、ヘブライ語では「ヨシュア」です。ヨシュアがイスラエルの民を約束の地に導いたように、主イエスは私たち罪人を救いへと導いてくださったのです。 私たちも自分の名前を持つ者として自分の人生を生きていきます。ありふれた人生のようでも、その人生を主イエスと共に、主イエスの名によって祈りつつ歩んでいくとき、そこには神の恵みがあふれているのです。 Tue, 20 Apr 2021 00:10:00 +0000 我らの主(ヨハネによる福音書 20章24-29節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210420 no 2021 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 (ヨハネによる福音書20章28節) イエスを「主」と呼ぶのは、最も古く、最も簡潔な信仰告白の一つです。使徒信条は、「その独り子」と告白してイエスと父なる神の関係を言い表し、続いて「我らの主」と言うことでイエスと私たちとの関係を告白します。イエスは私たちの主、私たちはイエスの僕なのです。 人は神以外のものに支配されていました。聖書の時代、「主」という言葉はローマ皇帝を指して使われていました。つまり人びとは人間の王に支配されていたのです。そして、何よりも人は罪の支配下にあり、罪の奴隷となっていました。そこにあったのは、神ではなく自分自身を主とする人間の姿でした。 しかし、その罪人を救うために、神は独り子を与えてくださいました。主であるイエスはむしろ僕となって罪人に仕え、十字架によって罪の支配から解放してくださいました。そして、復活によって、まことの主であることを示されました。トマスは、復活されたイエスと出会い、「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。私たちもまた、聖霊の働きによって、「イエスは主である」と告白するのです(1コリ12章3節)。 Mon, 19 Apr 2021 00:10:00 +0000 その独り子(ヨハネによる福音書 1章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210419 no 2021 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 (ヨハネによる福音書1章14節) イエス・キリストは父なる神の「独り子」と呼ばれています。それは、父なる神との深い愛の交わりの中におられるということであり、キリストご自身もまた神であられ、神としての力と栄光を持っておられるということを意味しています。 その大切な独り子を、父なる神はこの罪の世に遣わされました。独り子を与えるという話は、アブラハムとその息子イサクの物語を思い起こさせます(創22章)。神の命令を受けて、アブラハムは独り子イサクを献げようとしました。やがて、そのように命じられた神ご自身が、独り子を世に与え、十字架上にその命を献げてくださったのです。それは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3章16節)とあるとおり、私たち罪人を愛して救うためでした。 この救いの恵みにより、私たちも神の子とされます。神が大切な独り子を与えてくださったのは、私たち一人ひとりを大切にしてくださっているからです。この愛に感謝し、私たちも大切なものを、何よりも自分自身を神に献げて歩んでいくのです。 Sun, 18 Apr 2021 00:10:00 +0000 止まらない日本の福音宣教(ルカによる福音書 24章36-48節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210418 no 2021 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」 (ルカによる福音書24章46節~48節) 復活なさった主イエスは、弟子たちに手と足の傷跡をお見せになり、復活が本当であることを示されました。そして、それが旧約聖書に預言されていたことの成就であると強調されました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)。また、主の死と復活、変わらぬ神のご意志による「罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と宣言されました。 その通りになるでしょう。わたしが住んでいる町に小倉城があり、そこに入ると小倉がクリスチャンの街であったことを強く思わされます。小倉は、聖餐式に用いられるワインの街として有名でした。明智光秀の娘である細川ガラシャの夫であり、小倉を建設した細川忠興によって、当時の人口6千人に対して2千人以上のクリスチャンがいました。この小倉で残りの人々のために今も福音を伝えることができるのは、止まらない日本の福音宣教をもたらす神の熱い御心があるからでしょう。 Sat, 17 Apr 2021 00:10:00 +0000 天地(イザヤ書 66章1-2節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210417 no 2021 主はこう言われる。 天はわたしの王座、地はわが足台。 (イザヤ書66章1節) 神は「天地」の造り主です。天地とは、この造られた世界のすべてのものを指しています。空高く遠いところにあるものも、海深く低いところにあるものも、見えるものも、見えないものも、神が創造されました。それゆえに、すべてのものは造り主である神の栄光をあらわすために存在しています。 天も造られたものであり、神を納めることはできません(王上8章27節)。しかし、神はそこをご自身の王座とされました。そして、ご自身の足台である地を人の住むところとされました。この地には困難もありますが、神が力強く治めておられます。それゆえ私たちは天の父に呼びかけ、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることができます(マタ6章10節)。 また、この世界を流れる時間も神が創造されました。天と地は、神と人間の歴史の舞台です。そして、やがて罪あるこの世界の歴史が終わりを迎えるとき、「新しい天と新しい地」がもたらされます(黙21章1節)。その完成のときを目指し、人は天を仰ぎ、地に足をつけて歩んでいくのです。 Fri, 16 Apr 2021 00:10:00 +0000 造り主(創世記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210416 no 2021 初めに、神は天地を創造された。 (創世記1章1節) 神は天地の「造り主」です。何もないところからすべてを造られました。御言葉によって創造し、すべてを良いものに造られました。そして、私たち人間をご自身にかたどって造られました。神はこの世界と人間がすばらしいものとして存在することを望まれたのでした。 神はこの創造の力を最初のときにだけ発揮されたわけではありません。その後も摂理という仕方で世界を支え、導いておられます。すべてのことは神の御手の中にあります。そして、その摂理において神の恵みが最も豊かにあらわされたのが、キリストによる救いの御業でした。それは新しい創造とも呼ばれます。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(2コリ5章17節)。造り主である方こそ、救い主でもあられます。 私たちは、神に造られたものとして、謙虚に歩んでいきます。また、神に新しく創造された者として、感謝して歩んでいきます。そして、私たちも恵みによって創造的な働きができます。神が造られた世界で、与えられた賜物を生かして歩んでいくのです。 Thu, 15 Apr 2021 00:10:00 +0000 全能の神(創世記 17章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210415 no 2021 「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」 (創世記17章1節) 神は「全能」の方です。その全能とは、ただ「なんでも」できるということではなく、ご自身に「ふさわしいこと」は必ずできるということです。使徒信条は神を「全能の父」と呼んでいます。神の全能は父としての愛と憐れみの力としてあらわされます。 それは、イスラエルの歴史を通して、そして何より主イエス・キリストにおいてあらわされました。受胎告知に戸惑うマリアに天使は言いました。「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)。神の全能の力によって、救い主は驚くべき仕方で誕生されました。そして、救いはキリストの十字架によって実現されました。十字架の死という無力と思えるようなところに、神の全能の力はあらわされたのでした。 全能の神を信じる者たちにも驚くべき力が与えられます。パウロは、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言いました(フィリ4章13節)。また、教会は、全能と思われたローマ帝国による迫害の中でも、神こそが恵み深い全能者であると信じることで、力強く歩むことができたのでした。 Wed, 14 Apr 2021 00:10:00 +0000 父なる神(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210414 no 2021 父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。 (詩編103編13節) 神は「父」です。古代社会において父は大きな権威を持っていました。誰も父を侮ることはできません。しかし、神の父としての権威は横暴な支配者がふりかざすようなものではなく、子どもに対する愛と憐れみに満ちたものです。父がその子を憐れむように、神は私たちを憐れんでくださいます。 このことは、使徒信条を読み進めていくときにさらに明らかとなります。父なる神についての告白は、「その独り子」へと続きます。神が父であるとは、神がイエス・キリストの父であるということです。父なる神は、その独り子を通して、父のもとを離れた放蕩息子(ルカ15章)である私たち罪人を救ってくださいました。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(同20節)。 私たちは、聖霊の働きによってキリストを信じることができます。心からの信頼を込めて、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようになります(ロマ8章15節)。神の子どもとされた私たちは、畏れをもって父なる神の権威を認め、喜びをもって父なる神の愛に応えていくのです。 Tue, 13 Apr 2021 00:10:00 +0000 信ず(創世記 15章1-6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210413 no 2021 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 (創世記15章6節) 使徒信条は、「信ず」という言葉を繰り返します。キリスト教における「信じる」とは、確かな対象を真理として信じるということです。父なる神、子なる神、聖霊なる神を信じるのです。 この神は生きて働いておられます。信じるとは、神が真実であられること、その神が呼びかけてくださることに対する応答です。神はアブラハムに語りかけ、約束の地へと旅立つよう招きました。その招きに応えたアブラハムは信じたのです。そして、この神は救い主キリストを与え、その恵みへと招いておられます。キリストは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました(ヨハ20章27節)。信じるとは、キリストを受け入れ、信頼することです。 何でも信じやすい人もいれば、疑い深い人もいます。しかし、聖霊の働きによらなければ誰も信じることはできず、聖霊が働けばどのような人でも信じて告白することができます。そして、聖霊は聖書を通して働かれます。神の呼びかけは、今は聖書を通して私たちに与えられています。御言葉を信じることによって神を信じるのです。 Mon, 12 Apr 2021 00:10:00 +0000 我は(コリントの信徒への手紙二 4章7-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210412 no 2021 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 (コリントの信徒への手紙二4章13節) 使徒信条は、「我は」と一人称単数形で信仰を告白します。他の誰かがこう思っているとか、世の中ではこう考えられているということではなく、この「わたし」が信じていることを告白するのです。 その内容は、父、子、聖霊なる神とその働きです。そして、「我は」という告白は、この神ご自身が「わたしは」と言われる人格的な交わりによって引き出されるものです。神はモーセに「わたしはある」と言われ(出3章14節)、主イエスもまた「わたしはある」と宣言されました(ヨハ8章24節)。父と御子が、他の誰でもなく「わたし」があなたの神であると言われたのです。この神に、「わたし」もまた信仰の告白をもって応えるのです。 そして、この告白は、「同じ信仰の霊」、すなわち聖霊を持つ人たちと共にもなされます。信条の中には「我々は」と始まるものもあります。それは教会としての信仰告白だからです。使徒信条もまた、多くの「わたし」によって告白されてきました。私たち一人ひとりがその歴史に連なり、この信仰告白の恵みをまた次の世代へと受け渡していくのです。 Sun, 11 Apr 2021 00:10:00 +0000 主のみが与えることのできる真の平和(ヨハネによる福音書 20章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210411 no 2021 さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ヨハネによる福音書20章26節) 復活なさった主イエスが弟子たちの前に現れるたびに使われた言葉が、「あなたがたに平和があるように」でした。その場所にいなかったトマスのために再び現れ、平和を宣言なさいました。31節までの間で3回繰り返されて、強調されています。 クリスマスの日に天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました(ルカ2章14節)。それは、主イエスの贖いの死によって罪が赦され、神と和解させられた者に、主のみが与えることのできる真の平和です。 三木忠直は、ミサイルの上に人が座って操縦する「人間爆弾」と呼ばれる特攻機を作りました。後に、それに乗ったすべての兵士を自分が殺したと苦しみ、自ら命を絶とうとしました。しかし、ある教会で主イエスが罪のために十字架で死んでくださったことにより与えられる真の平和を体験しました。彼は、自分の技術を平和のためにのみ使うと神に約束し、新しいものを設計します。それが新幹線でした。まさに新幹線は平和の象徴なのですね。主イエスはどんな人にも平和を与える真の神の子です。 Sat, 10 Apr 2021 00:10:00 +0000 主イエスはいつまでもあなたと共にいる(マタイによる福音書 28章16-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210410 no 2021 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章19節~20節) 復活の主イエスは、ガリラヤのとある山の上で弟子たちとお会いになりました。これまで数々の教えと奇跡によって主の力と栄光を現わされた山の上で、主イエスと弟子たちが出会います。弟子たちの中にはまだ疑う者もいました。そこで主はご自分から歩み寄り、復活の姿を再び現わされたのです。 主は言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。その権能とは、主イエスが決意されるならば、全ての領域に愛と憐れみによるご支配を表わすことのできる力です。この力を持つ主イエスが、教会の核となる弟子たちに、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、主の言葉を教え、すべての民を弟子にしなさい」と命じられました。大伝道命令です。 弟子たちが主イエスの命じられたことを教え、洗礼を授け、主の弟子が加えられていく中で、主の愛と憐れみの支配が広がっていく。その脈々と注がれてきた恵みの中に私たちも置かれてきました。 復活の主イエスは、今日を生きる私たちにいつも寄り添い、世の終わりまで共に歩み続けてくださいます。これこそが福音なのです。 Fri, 09 Apr 2021 00:10:00 +0000 イエスが主であると知る(ヨハネによる福音書 21章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210409 no 2021 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 (ヨハネによる福音書21章5節~6節) 復活された主イエスは、繰り返し何度もご自身を弟子たちに現わされました。弟子たちがエルサレムからガリラヤへと移動したときもご自身を現してくださいました。 このとき、弟子たちはガリラヤ湖で漁をしていました。その日の夜は何もとれませんでしたが、夜明けに主イエスが岸辺に立ち、「舟の右側に網を打ちなさい」と指示されます。すると驚くことに、大きな魚が153匹もとれたのです。夜通し働いてもとれなかった魚が、主イエスの一声で大漁となりました。 これと同じようなことが以前にもありました。そうです。ペトロたちが初めて主イエスの弟子に召されたときも魚が大漁となり、人間をとる漁師として弟子にされました。十字架の後、主イエスを失った悲しみと不安でいっぱいだった弟子たちの前に、主イエスは何度も現れ、最初に弟子としたときと同じ奇跡をもう一度見せて、主イエスと共に生きるところに希望と喜びがあると思い起こさせてくださいました。 私たちがこの主イエスに支えられると知るとき、何度でも立ち上がりながら前に進んでいけるのです。 Thu, 08 Apr 2021 00:10:00 +0000 十字架で死なれた同じ主が生きている(ルカによる福音書 24章36-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210408 no 2021 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。…亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 (ルカによる福音書24章38節~40節) エマオの途上で復活の主イエスと出会ったクレオパたちは、エルサレムに戻って他の弟子たちに事の次第を話しました。そこに主イエスが「平和があるように」と言って現れました。弟子たちは驚くばかり。クレオパたちの話を聞いても半信半疑の者が大勢だったことを考えると、主イエスの復活を信じるのはとても難しいのだと感じます。 そこで主イエスは、ご自分の手足をお見せになり、さらに焼魚を食べて見せました。何とかして彼らの心の目を開き、復活を信じられるようにしようとされた主イエスの思いやりです。彼らに手足を見せ、肉と骨があるとわざわざ言われ、また魚を食べたのは、ご自分が得体のしれない存在ではなく、あなたたちのために十字架にかかったあの救い主だと示すためでした。 主イエスの復活を信じると、主イエスが言われた「平和」が訪れます。「あなたのためなら十字架で死んでも良い」と思い、神と人との平和を取り戻してくださったお方が、互いに愛し合う平和を携えて共に生きてくださるからです。今こそ、復活の主イエスを心にお迎えしましょう。 Wed, 07 Apr 2021 00:10:00 +0000 心を燃やし、信仰の目を開かれる主(ルカによる福音書 24章13-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210407 no 2021 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 (ルカによる福音書24章31節~32節) 週の初めの日、二人の弟子がエルサレムからエマオの村に向かっていました。するとそこに、復活された主イエスが近づいて一緒に歩き始められました。 けれども、弟子たちは目の前にいる主イエスが分からないまま旅を続けます。彼らの心の目が遮られていたからです。主イエスは、彼らと話をする中で、聖書全体からご自分について説明し、一緒に食事をするときには、賛美の祈りを唱えながらパンを裂いて渡されました。すると弟子たちの目が開き、これまで一緒に旅してきたお方が主イエスだと分かるようになったのです。彼らが主イエスだと分からなかったのは目が遮られていたから、つまり、主イエスというお方のことが分かっていなかったからです。主イエスは、私たちの人生からあらゆる悪いことを取り除くようなご利益の神ではなく、愛と憐れみに満ちた神のご支配、神の国に生かそうとするお方です。 復活された主イエスは、私たちが気付かない時にも神の言葉を通して心を燃やし、信仰の目を開き、主イエスの愛に包まれていることを新しく気付かせてくださいます。 Tue, 06 Apr 2021 00:10:00 +0000 捜しているお方に出会う(ヨハネによる福音書 20章11-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210406 no 2021 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。…イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 (ヨハネによる福音書20章15~16節) 葬られたはずの主イエスの体が墓の中にない。せめて遺体に香油を塗って思いを馳せたいと思っていたマリアの悲しみはとても大きく、ただ墓の外で泣いていました。そこに復活された主イエスが目の前に現れてくださいました。 けれどもマリアは、それが主イエスだと分からず、自分が泣いている理由を説明するだけでした。このとき主イエスは、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いかけました。主イエスは、マリアが何か物を無くして捜しているのではなく、「人」を捜していることを初めから見抜いておられました。さらに、最初は「婦人よ」と呼ばれたのに(15節)、二度目は「マリア」と呼びかけられました。するとマリアは、以前から親しみを込めて使っていた呼び名で「ラボニ」と主イエスを呼んだのです。 当初、マリアの心は悲しみで閉ざされていました。けれども、全てをご存じである主イエスから名前を呼びかけられたとき、心の目が開かれ、捜していた一番大切なお方に出会えました。御言葉から主イエスの御声を聞くときに、私たちもこのお方ときょうも出会えています。 Mon, 05 Apr 2021 00:10:00 +0000 主イエスの復活を信じる(ヨハネによる福音書 20章3-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210405 no 2021 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。…イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」 (ヨハネによる福音書20章3節、7~8節) 御使いから主イエスが復活されたことを聞いたマグダラのマリアたちは、このことを弟子たちに報告しました。 弟子たちにとって驚くべき報告でしたが、ペトロとヨハネは墓へと向かいました。墓の中の光景は、遺体を巻いた包帯のような亜麻布が置いてあること、主イエスの頭を包んでいた覆いが置いてあったことです。それぞれが離れたところに置いてありました。しかも単に置いてあったのではなく丸めてあったのです。明らかに何者かの手が加わっています。これらが別の所に置かれ、遺体も無くなっている。この状況は、亜麻布を巻かれていた者自身が、頭の覆いと亜麻布を捨て去り、そこから移動したことを物語っています。ペトロとヨハネはとても驚いたことでしょう。まだ事態が飲み込めずにいます。それでもヨハネは、「見て、信じた」のです。 私たちは聖書の全てを理解しているわけではありません。主イエスの復活の現場も見ていません。それでも、復活の主イエスを信じられます。このお方の愛を感じ、その中に生かされたいと願うとき、すべてがわからなくても、信仰は芽生えていきます。 Sun, 04 Apr 2021 00:10:00 +0000 週の初めの日の朝(マルコによる福音書 16章2-6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210404 no 2021 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。…若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」 (マルコによる福音書16章2節、6節) 主イエスが十字架につけられて殺されたことは、多くの弟子たちの心をどん底へと落としました。落ち込んでいる女性の弟子たちは、安息日が終わると、肩を落としつつ墓へと向かいます。週の初めの日の朝、主イエスの死を悲しむ人の上にいつもと変わらぬ光が射しました。けれども、この日だけは他の日とは比べようがないほどの輝かしい日となりました。そう、主イエスが復活されたのです。 死んだ人間が復活するとは、誰にとっても信じることが難しいことでしょう。その事実を目にして、彼女たちは、墓の穴を塞いでいた大きな石が転がしてあったことや、墓の中に白く長い衣を着た御使いが現れたことに驚きを隠せません。 けれども、御使いは伝えるのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と。主イエスが復活して生きておられるからこそ、きょうも私たちは礼拝へと招かれています。 週の初めの日のきょう、主イエスは私たちと出会い、輝く光で照らしてくださるのです。 Sat, 03 Apr 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第七のことば-凱旋-(ルカによる福音書 23章44-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210403 no 2021 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 (ルカによる福音書23章46節) いよいよ、十字架上の最後の言葉に至りました。主イエスは「成し遂げられた」と勝利を宣言されて後、死を目の前にして大声で叫ばれました。すでに、肉体の力はすっかり失われていたのにもかかわらず、大声で叫んで言われたのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。 この事実から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。第一に、主は力尽きて死に飲み込まれたのではなくて、自ら進んで死なれたということです。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハ10章18節)と告げられていた通りです。それ故第二に、御業を成し遂げられた主イエスにとって、死は恐れを引き起こすものではなくて、父のみもとに帰るための扉に変わっているということです。 確かに、死に対する勝利は主の復活によって決定づけられます。けれども、もうすでに十字架の上で死のとげは抜き去られていたのです。 こうして、主イエスの故に、私たちもこの幸いな祈りを祈ることができるのです。「主よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。 Fri, 02 Apr 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第六のことば-勝利-(ヨハネによる福音書 19章29-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210402 no 2021 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 (ヨハネによる福音書19章30節) もしも、もしもこのとき、「成し遂げられなかった」と主が嘆きの内に言われたのなら、私たちはどうなっていたでしょうか。ちょっと考えてみましょう。 そのとき私たちは、平安を失い、真っ暗闇に閉じ込められ、そして、恐怖と絶望の足かせをはめられます。なぜなら、主の救いの御業は未完成に終わってしまい、誰も完成に至らせることはできないからです。私たちに向けられた聖なる御怒りは、もはや次の世においても取り去られることがありません。永久刑罰だけが待っているのです。 私たちの主は、何という大いなる御業を成し遂げてくださったことでしょう。救いの御業は完璧に成し遂げられ、一つの欠けもありません。それ故、信じ受け入れるなら、このわたしも罪の赦しと永遠の命を受けるのです。 主はご自分の命に代えて、私たちのために、天の祝福の門を開いてくださいました。主は、十字架の苦難にも負けない、そして苦難の中で御業を成し遂げられたまことの勝利者です。 それ故、主イエスを信じる私たちも世に勝つ勝利者となったのです。 Thu, 01 Apr 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第五のことば-苦痛-(ヨハネによる福音書 19章28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210401 no 2021 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 (ヨハネによる福音書19章28節) 「今や成し遂げられたすべてのこと」とは、何のことでしょうか。この問いに対する答えがイザヤ書53章5節にあります。すなわち「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。そうです。私たちに平和と癒しを与えるために、主イエスがお受けくださった身代わりの懲らしめ、その懲らしめのすべてが、今や成し遂げられたのです。それ故、私たちに向けられるべき聖なる御怒りはすべて取り去られ、祝福の御顔が向けられるようになりました。 こうして、大いなる使命を成し遂げられた主、それを知られた主は、初めて肉体的苦痛を口にされたのです。「わたしは渇く」。まことに主イエスは、その持てる力の限りを尽くして、身も心も魂も使い果たして、この使命を全うしてくださいました。そしてここに、救いを告げる聖書の約束が実現しました。 この主イエスのみもとに立ち帰るなら、誰もが平和と癒しを受けることができるのです(1ペト2章24、25節参照)。 Wed, 31 Mar 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第四のことば-苦悩-(マタイによる福音書 27章45-50節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210331 no 2021 3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章46節) 主は、小さな声でつぶやいて言っておられるのではありません。大声で叫んで言われたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。まことに、張り裂けた苦悩の叫びです。 主が十字架に架けられたのは午前9時のことでした(マコ15章25節)。その時から今に至るまで、苦悩に満ちた長い長い6時間が経過しました。 神はこの時、一つの欠けもなく従い通される主イエスを見捨てられました。主イエスを燃え盛る御怒りの炉に投げ入れられ、御顔をそむけ、逃れの戸を全てふさがれます。なぜなら、今や主イエスは、私たちの代表者・身代わりとして御怒りの全てを受ける呪われた罪人になられたからです(ガラ3章13節)。御怒りの矢が、主イエスの魂を撃ち抜きます。 福音書は告げます。「この人を見よ!」と。あなたに罪の赦しを与え、あなたを新しい命に生きる者と変えるために、こんなにも計り知れない苦悩を引き受けられた方がここにおられる、と告げるのです。 この方によって、私たちは初めて愛を知ったのです。 Tue, 30 Mar 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第三のことば-愛情-(ヨハネによる福音書 19章26-27節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210330 no 2021 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 (ヨハネによる福音書19章26節~27節) 主イエスには弟・妹たちがいました(マコ6章3節)。それ故、ご自分が世を去った後の母の世話は、その兄弟たちの役目です。ところが、主は彼らの了解を得ることもなく、弟子のヨハネに母を託し、母マリアも主の言葉に従いました。これでは、兄弟たちの立場がありません。 思えば、兄弟たちは当初、「イエスを信じていませんでした」(ヨハ7章5節)。そればかりか、大いに悩まされてきたのです。「あの男イエスは気が変になっている」という悪い評判を受けて、身内の人たちがイエスを取り押さえに出掛けたという事件もありました(マコ3章21節)。 さて、十字架の御苦しみの中で主は、悲しみに打ちひしがれている母の顔を見ます。何と言葉を掛けたらよいでしょうか。今、母に寄り添えるのは、共に心を合わせて祈ることのできる信仰の仲間以外にはいません。気遣いに満ちた主の言葉にマリアもヨハネも胸を熱くしたことでしょう。 そして、主の慈しみはさらに広がりました。あの主の兄弟たちも、共に祈る信仰の仲間に変えられたからです(使徒1章14節)。 Mon, 29 Mar 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第二のことば-救い-(ルカによる福音書 23章39-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210329 no 2021 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカによる福音書23章43節) 主イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられました。十字架に架けられるほどの犯罪人ですから、彼らは相当の悪事を重ねて来たのです。強盗、略奪そして殺人。それ故、「あの男によってわたしの人生は滅茶苦茶にされてしまった。あの男は地獄に堕ちろ!」と思っている人が何人もいるのです。 主イエスはすべてのことをご存じです。そして祈られました。一方では罪を重ね、他方では憎しみを手離せない私たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と。 十字架上の一人の犯罪人は、聖霊に示されて気付きます。「主は、この私のために祈っておられる!」。彼はこの気付きに力を得て言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。もちろん、思い出していただけるような者ではありません。それでも、彼が憐れみを求めた時、主の答えはこうでした。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。あなたも失われてはならない御国の一員だということです。彼はどんなに嬉しかったでしょう。 主の赦しと憐れみ、それだけが私たちの望みです。 Sun, 28 Mar 2021 00:10:00 +0000 十字架上の第一のことば-赦し-(ルカによる福音書 23章32-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210328 no 2021 [そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」] (ルカによる福音書23章34節) 十字架に架かられた主イエスの最終的な死因は、窒息死であると考えられています。死に至るまでの経過は、およそ次のようでした。 主が十字架に吊るされたその時、まず両肩が脱臼し、体がずれ下がります。しかし、この沈み込んだ体勢のままでは息を吸い込むことができません。そこで、釘を打ち込まれた両手両足に力を込め、血を滴り落して、体を持ち上げなくてはなりません。 さて、次に息を吐くためには、力を抜かなくてはなりません。体は再び沈みこみます。こうして、体を持ち上げるための体力が尽きるまで、鞭打たれた背中を十字架にこすりつけながら、主は死なれたのです。 この想像を絶する痛みのただ中で、主が真っ先に口にされたのは、ご自分のために助けを求める叫び声ではなかったのです。何と、私たちのための執り成しの祈りの言葉であったのです。主はご自分の命を差し出して祈ってくださいました。「父よ。彼らを赦したまえ」と。 十字架に架かられたこの時も、主イエスの心に満ちていたのは、私たちへの愛であったのです。 Sat, 27 Mar 2021 00:10:00 +0000 赦しを求めて(ヨブ記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210327 no 2021 呼んでください、わたしはお答えします。 御手の業であるわたしを尋ね求めてください。 (ヨブ記14章15節) ヨブは、「御手の業であるわたし」と言いました。神が愛の御手で形造ってくださったわたしであることを、思い出しているのです。「わたしを尋ね求めて」、以前のように、神の御そば近くに置いてください、「わたしの罪を袋の中に封じ込め、わたしの悪を塗り隠してください」(17節)と、罪の赦しを願っています。神の命と恵みの約束(10章12節)の内に、神との親しい交わりを回復したいのです。 明日から受難週に入ります。ヨブが待ち望んだ罪の赦し、命と恵みの約束、神との親しい交わりは、今、主イエスによって、私たちに与えられています。 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。…わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェ1章4~7節)。 神様に罪を告白し、赦しをいただいて、歩んでいきましょう。 Fri, 26 Mar 2021 00:10:00 +0000 なぜ、あなたは(ヨブ記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210326 no 2021 なぜ、あなたは御顔を隠し わたしを敵と見なされるのですか。 (ヨブ記13章24節) 13章には、ヨブの苦しみが凝縮されています。「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい」(3節)。「このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら、御前に出るはずはないではないか」(16節)。「わたしのために争ってくれる者があれば、もはや、わたしは黙って死んでもよい」(19節)。「わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください」(21節)。 厳しい試練に遭うとき、私たちも、ヨブに似た祈りをせざるを得ないことがあるのではないでしょうか。 ヨブの最も深い苦悩は、「なぜ、あなたは御顔を隠し、わたしを敵と見なされるのですか」という言葉に表されています。もちろん、ヨブが見捨てられているのではありません。そして私たちも、たとえ自分がどのように感じたとしても、神に見捨てられることは決してありません。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マコ15章34節)。私たちが神から捨てられないために、主イエスが見捨てられてくださったからです。 Thu, 25 Mar 2021 00:10:00 +0000 不条理の中で(ヨブ記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210325 no 2021 神に呼びかけて 答えていただいたこともある者が 友人たちの物笑いの種になるのか。 神に従う無垢な人間が 物笑いの種になるのか。 (ヨブ記12章4節) ヨブは自らを、「神に呼びかけて、答えていただいたこともある者」、「神に従う無垢な人間」だと語ります。神の命と恵みの約束の中で、真心から神を畏れて歩んできたのに、今や、自分は町中の人から蔑まれ、友人たちの物笑いの種にされている、とヨブは嘆いています。 神の沈黙と不条理の中で、ヨブが切望していた仲裁者、ヨブの苦しみを我が事として理解し、傍らに立って執り成してくださるお方は、まだ見ぬ約束の救い主だったのではないでしょうか。 主イエスが洗礼を受けられたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天からの声がしました(マコ1章11節)。しかし、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」(イザ53章3、4節)。受難の主イエスこそ、私たちの真の仲裁者です。 Wed, 24 Mar 2021 00:10:00 +0000 試練の意味(ヨブ記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210324 no 2021 あなたは言う。 「わたしの主張は正しい。 あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。 (ヨブ記11章4節) 友人ツォファルは、潔白を主張するヨブに対して、「口がうまければそれで正しいと認められるだろうか」、「あなたの無駄口が人々を黙らせるだろうか」と反論します(2、3節)。しかし、この反論は正しいのでしょうか。 神御自身が、ヨブを「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と語られたのです。ヨブは、罪のゆえにではなく、その潔白さのゆえに、サタンの目に留まったのでした。 試練の意味や目的を、真にご存じなのは、ただ神お一人です。試練に遭っている人にも、その友にも、それは明らかにされません。だからこそ主による試練なのです。試練から来る孤独に呻く日に、神の語りかけを聴きましょう。 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1ペト1章6、7節)。 Tue, 23 Mar 2021 00:10:00 +0000 命と恵みの約束(ヨブ記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210323 no 2021 わたしに命と恵みを約束し あなたの加護によって わたしの霊は保たれていました。 (ヨブ記10章12節) ヨブは、愛を込めて丹念に自分を造り、命と恵みを約束してくださった神を知っています。変わらぬその約束の内に、わたしの魂は守られ、保たれてきたのだと。しかし今、神はわたしの過ちに目を留めて、裁きと苦役を課す御方に変わってしまった、わたしは赦されることのない怒りの子になってしまったのではないだろうかと、思い巡らします。 厳しい試練と神の沈黙のゆえに、神の愛と恵みの約束への疑いが生まれ、神に憎まれている「わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを」と、ヨブは存在の意味さえも見失ってしまったのです(18節)。 主イエスも、荒れ野で試みに遭いました。そのとき、御言葉を盾にサタンと戦い、勝利されたのです。苦難のゆえに恵みの約束を忘れそうになるとき、私たちも主の御言葉に立ちましょう。 「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザ43章1節)。 神が与えてくださった命と恵みの約束の内を、きょうも歩んでいきましょう。 Mon, 22 Mar 2021 00:10:00 +0000 仲裁者を求めるヨブ(ヨブ記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210322 no 2021 あの方とわたしの間を調停してくれる者 仲裁する者がいるなら わたしの上からあの方の杖を 取り払ってくれるものがあるなら その時には、あの方の怒りに脅かされることなく 恐れることなくわたしは宣言するだろう わたしは正当に扱われていない、と。 (ヨブ記9章33節~35節) すべてを失ったヨブに残されたものは、「わたしの僕ヨブ」と親しく呼んでくださる神との関係でした(1章8節)。しかし、それならば何故、このような苦難に遭わなければならないのか。今や自分は、神の敵とみなされているのではないか。ヨブは、神が沈黙を破って現れ、「共に裁きの座に出ること」を願います(32節)。けれども到底、ヨブ一人で、神の御前に立つことはできません。傍らに立って執り成してくださる「仲裁する者」がどうしても必要なのです。 しかし、今、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(へブ4章14~16節)。 Sun, 21 Mar 2021 00:10:00 +0000 裁きでなく救いのために(ヨハネによる福音書 3章14-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210321 no 2021 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 (ヨハネによる福音書3章16節~17節) ある夜、ファリサイ派に属するニコデモが、主イエスのもとを訪ねます。彼は、主イエスのことを「神のもとから来られた教師」と告白します。神の国を求めるニコデモに対して、主イエスは人が神の国を見るためには、水と霊によって、新しく生まれなければならないと教え、新しい命へ招かれます。 かつて、荒れ野で主の民は、自らの罪のゆえに、裁きとして蛇の痛みが与えられました。民は痛みに苦しみ、自らの罪を悔い改めます。その出来事は、神の裁きのしるしであった蛇が、モーセを通して、悔い改めた者に与えられる命のしるしとなったことを教えています。モーセが、裁きのしるしであった蛇を、新しく生まれた命のしるしとして掲げたように、主イエスは、十字架の道を歩まれるご自分の姿を、永遠の命のしるしとして掲げられます。 神の御子イエス・キリストは、神の御前に罪人である私たちを裁き、滅ぼすために来られたのではありません。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために来られたのです。このお方がきょうも、私たちを御言葉の前に招いておられます。 Sat, 20 Mar 2021 00:10:00 +0000 あなたがたはわたしの友である(ヨハネによる福音書 15章11-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210320 no 2021 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。 (ヨハネによる福音書15章12節~15節) ヨハネ福音書から「わたしは~である」をテーマに、というのがわたしへのご依頼でした。しかし、最後に「あなたがたはわたしの友である」との言葉を取り上げたくなりました。この言葉の奥に、「わたしはあなたがたの友である」との声が聞こえてきます。 人間は皆、神からはぐれ、人からはぐれた罪人ですから、本質的に寂しさを抱えている存在なのだと思います。夫婦であっても他人です。親子であっても、血がつながっているだけで、本質的には「他者」です。「他者」と完全には分かりあうことはできません。そして誰もが、「他者」よりも自分が大切です。それが人間です。でも、だからこそ、友がほしい。そのように切実に祈り求めるのもまた、人間です。だから神は、イエス・キリストという、まことの友を与えてくださいました。 この主イエスのもとで、この方に愛された者たちが、互いに愛し合い、信仰の友情を育み合うことを、主は願っておられます。私たちも願っているはずです。「友のために命を捨てる」、そういう愛は、主イエスの友としていただいた私たちの内にも、きっともうすでに生じています。 Fri, 19 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは道であり真理であり命である(ヨハネによる福音書 14章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210319 no 2021 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 (ヨハネによる福音書14章6節~7節) 「道・真理・命」と並んでいますが、中心は道です。真理である道、命である道。この道において確実に真理を知り、命を得ることができる、わたしはそういう道なのだと言われます。それはすなわち永遠の神へと至る道です。神と人とを結ぶ唯一の通路。世に数多の道がある中で、この道へと招かれ、揺るがぬ神の平安に至ることができる。このことは本当に幸いです。 でも私たちは、この道を知ったからといって、先がすべて見通せるわけではありません。時として、この先に何が待つのかと不安になって、怖くて足を踏み出せない時もある。でも「わたしが道である」と言われる主イエスは、その死の陰の谷を共に歩んでくださって、希望のゴールまで必ず連れて行ってくださる良き羊飼いでもあります。 あるいは私たちには、長い旅路にあって、神の御心がまるで分からなくなるような時もあります。しかし、余計なことを色々考えて思い煩うことはないのです。主イエスを見つめればいい。この方を見れば、神を知ることができます。神がどれほど私たちを愛しておられるかは、この方の生涯によって明らかです。 Thu, 18 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは復活であり命である(ヨハネによる福音書 11章1-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210318 no 2021 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネによる福音書11章25節~26節) 主イエスは、病気によって死んでしまった愛する友ラザロをたずね、彼を墓から呼び出して甦らせます。そういう意味ではラザロの死ということが一貫して物語の軸になっています。しかしここで主イエスが一番問題にされていることは、ラザロの死ではありません。むしろ本当の問題は、マルタの死であり、マリアの死であり、弟子たちの、そして私たちの死であります。それは肉体の死のことではありません。マルタもマリアも私たちも生きているのです。でも主イエスは、その私たちの死を、ここでは一番の問題にしておられます。それは死で終わるという現実を前にしての希望なき生の問題です。 死で終わらない命、それは死の回避ではなくて、死してなおその死を乗り越える、死の向こう側に表れ出る命です。ラザロが生き返ったように、主イエスを信じる者の最後は決して絶望の死ではない。絶望が、なお希望する。 「わたしは復活であり、命である」と言われる方を信じる者は、死んでも死んでも生き返り、肉体の死さえも超えて、必ず最後は希望の命に至ります。つまり希望の限界がないのです。 Wed, 17 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは良い羊飼いである(ヨハネによる福音書 10章11-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210317 no 2021 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。…わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 (ヨハネによる福音書10章11節~15節) 良い羊飼いである主イエスは、自分の命よりも羊の命を大事にされます。これは十字架の死を示しています。わたしを罪から救うために、わたしに代わって死んでくださった方がおられる。これぞキリスト教信仰のど真ん中です。 命を捨てる理由は、父なる神と主イエスが互いによく知り合っているように、主イエスと私たちもよく知り合っているからだと言われます。「知り合う」とは「愛し合う」ということです。主イエスは私たちと愛の関係を結んでいるとおっしゃいます。しかもそれは、父なる神と御子イエスとの間にある、永遠の決して揺るぐことない愛の関係と「同じである」と言われるのです。これは驚くべきことです。そして限りなく慰め深い言葉です。 わたしのほうでは、命を捨てるほどに主イエスを愛しているだろうかと、愛の貧しさに恥じ入る思いがします。私たちにはこの羊飼いをそこまで愛した覚えはありませんし、愛することもできません。でもそのような私たちのために、主は命を捨ててくださって、愛を教えてくださいました。まず主に愛されること、すべてはそこから始まります。 Tue, 16 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは門である(ヨハネによる福音書 10章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210316 no 2021 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 (ヨハネによる福音書10章9節~10節) ヒトラーに対抗したドイツ教会闘争の金字塔とも言えるバルメン宣言の第一項に、キリストこそが唯一の門であるというこの聖句が掲げられています。そして、「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において服従すべき神の唯一の言葉である」と宣言されています。そのようにして、ヒトラーに追従する「盗人や強盗」どもを退け、どこまでもキリストを信じ従おうとした先人の戦いを、今日の日本の文脈において、我が戦いとしていきたいと願います。 「狭い門から入りなさい」との御言葉も思い出されます(マタ7章13節)。命に至る門は狭いとの教えに、私たちは緊張を強いられます。戦いの覚悟が求められます。 そして、何よりもまず覚えていたいのは、その門は、主イエスが命をささげて、文字どおり必死の愛をもって、こじあけてくださった救いの門であるということです。固く閉じられていた重い門を、血まみれ、汗まみれ、泥まみれになって必死にこじあけながら、「さあ、今だ。ここから入りなさい!」と、大声で叫んで招いておられるのです。 Mon, 15 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは世の光である(ヨハネによる福音書 8章12-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210315 no 2021 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (ヨハネによる福音書8章12節) この8章を素朴に読んでいくと、「わたしは世の光である」とは、直前の記事の「姦淫の女」に対しての言葉として読むことができます。暗闇の中を歩んできた、彼女のこれまでの人生です。しかし主イエスの赦しにおいて、「これから」の人生をやり直し始めた彼女です。その彼女に対して、わたしに従い、わたしと共に、日の当たる道を歩みなさいと招いておられるのです。 詩編27編1節に、「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」とあります。聖書によれば、神こそが光であり、その光に照らされてこそ人間は生きるのです。そしてこの光は暗闇に輝く光です。深い淵の底を照らして救いを与える、希望そのものである光。 世の光である主イエスは今、「わたしに従い、わたしと共に、日の当たる道を歩め」と、私たち一人ひとりを招いておられます。しかし悲しいかな、暗闇に慣れすぎて、平気になっているのが私たち人類です。むしろ、まぶしすぎると光を拒む人間の闇の深さ。しかしこの光は、どれだけ拒絶と抵抗にあっても決して消えません。そして最後に闇を凌駕するのです。 Sun, 14 Mar 2021 00:10:00 +0000 これはわたしの愛する子。これに聞け(マルコによる福音書 9章2-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210314 no 2021 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 (マルコによる福音書9章7節~8節) 主イエスは、ご自分の受難と復活について教えられてから6日の後に、弟子の中から、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。そこで弟子たちが目にしたのは、栄光の光に輝く主イエスが、エリヤとモーセと共に語り合う姿でした。 理解を超える出来事を前に、ペトロは、三つの仮小屋を建てるよう申し出ます。それは主の栄光の姿を地上に留め置くためでした。しかし、神の子の栄光の前には、6日前に告げられた、人の子の受難の死と復活があることを、弟子たちは理解できません。彼らが本当の意味で理解したのは、主イエスが死者の中から復活されたときです。 主イエスの栄光の姿を前に驚く弟子たちに、主なる神は、天から「これはわたしの愛する子。これに聞け」と命じられます。主なる神は、ご自分の最愛の子を、遣わされました。それは、主の言葉に聞く私たちが、救い主の言葉に新しくされ、神の栄光を仰ぐ者へと変えられるためです。 主の日のきょう、救い主の御言葉に共に聞き、新しく、神の栄光を仰ぐ者として歩んでいきましょう。 Sat, 13 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは命のパンである(ヨハネによる福音書 6章22-59節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210313 no 2021 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 (ヨハネによる福音書6章34節~35節) 主イエスは群衆に向けて語りかけられます。彼らは、あの5千人給食によって満腹し、主イエスを追いかけてきた者たちです。アンパンマンではありませんが、おなかを満たしてくれる人こそヒーローです。希望です。 主イエスはそういうヒーローでした。でも同時に、それ以上の方でもありました。主は彼らに、おなかを満たすだけではなく、命そのものを人間に与える「天からのまことのパン」、「命のパン」を受け取りなさいと促されます。 そして、その命のパンとは、「わたしである」と主イエスは断言されます。これは根源的な発言です。このわたしそのものが命のパンであって、それを食べる、つまり主イエスのもとに集い、信じるならば、飢えることも渇くことも無いと断言されています。 残念ながら、命のパンより食べられるパンをと願う悲しさを人間は抱えています。皆、目の前の地上的な問題に苦悩していて、具体的助言ばかりが求められます。でも、たとえ遠回りに思えても、「命のパン」である主イエスをただ信じなさいという福音にとどまることが大切なのだと、年々思わされています。 Fri, 12 Mar 2021 00:10:00 +0000 神に訴えるヨブ(ヨブ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210312 no 2021 いつまで、そんなことを言っているのか。 あなたの口の言葉は激しい風のようだ。 (ヨブ記8章2節) ヨブの言葉を聞き、ビルダドは、「激しい風のようだ」と言いました。止めどなく湧き出る強い口調から、ヨブの苦悩が伝わってきます。 「試練の時、ヨブ記に慰められました」と言う方がいました。試練は、父なる神の御計画であり、出口も必ず用意されていると信じてはいても、耐え難い痛みや悲しみに呻くとき、ヨブがその思いを代弁してくれるからです。 ヨブは神を「あなた」と呼び、思いの丈をぶつけました(7:17,20-21)。ここに、私たちは助けと慰めを見出します。 「いつくしみ深き」と同じメロディの、聖歌607番「罪とがをにのう(担う)」の2節を味わいたいと思います。 「試みの朝 泣き明かす夜 気落ちせずすべて 打ち明けまつれ 我らの弱きを 知れる君のみ 我らの涙の 源を読みたもう」©中田羽後(教文館) 主イエスは、私たちの涙の源、流れ来る所をご存じで、私たちが御もとに来るのを待っておられます。 Thu, 11 Mar 2021 00:10:00 +0000 人間とは何なのか(ヨブ記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210311 no 2021 人間とは何なのか。 なぜあなたはこれを大いなるものとし これに心を向けられるのか。 (ヨブ記7章17節) 今朝の御言葉と同じことを詩編の作者も歌っています。「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩8編5節)。小さな存在に過ぎないものに目を留めてくださる神をほめたたえています。 しかし、同じ言葉で語りながら、ヨブは、「ほうっておいてください、わたしの一生は空しいのです」と嘆き(ヨブ7章16節)、「あなたが捜し求めても、わたしはもういないでしょう」と恨みがましくつぶやきます(21節)。 苦しみのとき、確かに「ほうっておいてください」とつぶやきたくもなるでしょう。けれども、主なる神はその小さなものに目を留めて顧みてくださるお方です。苦しみの中でこそ、生けるまことの神を見上げましょう。 先ほどの詩編はこう続きます。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(詩8編6、7節)。神によって大いなるものとされていることを、謙遜に感謝し、喜ぶのです。 Wed, 10 Mar 2021 00:10:00 +0000 真実の祈り(ヨブ記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210310 no 2021 神よ、わたしの願いをかなえ 望みのとおりにしてください。 神よ、どうかわたしを打ち砕き 御手を下し、滅ぼしてください。 仮借ない苦痛の中でもだえても なお、わたしの慰めとなるのは 聖なる方の仰せを覆わなかったということです。 (ヨブ記6章8節~10節) 友人にも理解されない苦難の中で、ヨブは祈ります。「神よ、どうかわたしを打ち砕き、御手を下し、滅ぼしてください」。自分を滅ぼしてしてくださいと祈らざるを得ないまでの苦しみがあります。しかし続けて、「仮借ない苦痛の中でもだえても、なお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかったということです」と祈ります。すなわち、ヨブは、苦しみの中でも神の御心を尊び、神に服従する者であろうとしています。「わたしの願いをかなえ、望みのとおりにしてください」と言いながらも、神に信頼して、神を神とすることに立ち続けるのです。 どのようなことがあろうとも、神に留まるほかに、私たちの真実で、確かな生き方はありません。神が私たちを愛してくださっているのですから、神にすべてを委ねて、安心し、心軽やかに歩み続けていきましょう。そして、なしうる限りの善と正義をもって、神のご栄光をあらわしていきましょう。神の御前にまことに小さな者ですが、主よ、どうか私たちを憐れんでくださり、永遠の慰めと確かな希望を、絶えず、恵みによって豊かにお与えください。 Tue, 09 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしなら神に訴えるだろう(ヨブ記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210309 no 2021 わたしなら、神に訴え 神にわたしの問題を任せるだろう。 (ヨブ記5章8節) ヨブの友エリファズは、ヨブを慰めようとして、責め立てることに陥ってしまったように思われます。「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」。これはその通り大切なことであり、事実、ヨブは神に訴えています。けれども、神が答えてくださらない、あるいは、神の答えが分からない。それでヨブは苦しんでいます。エリファズは、信仰者を不信仰だと責め立てています。残念ながら、人の思いを正しく理解するのは、たいへん難しいことです。エリファズもヨブを理解したいと思いながら、正しく理解できず、忠告したいと思ってむしろ傷つけてしまいます。 一方、ヨブの立場で考えましょう。人の意見には良き忠告もあれば、誤解に基づくものもあります。そこで、私たちは大切なことを見失わないようにしましょう。まず、ふだんから神との親しく、豊かな交わりの中にあることが欠かせません。そのようにして、信仰と良識、判断力を養うことです。そして、「主よ、善と悪とを見分ける知恵と力をお与えください」と祈りましょう。神は必ず答えてくださり、ふさわしい知恵と力とを与えてくださいます。 Mon, 08 Mar 2021 00:10:00 +0000 あえてひとこと言ってみよう(ヨブ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210308 no 2021 テマン人エリファズは話し始めた。 あえてひとこと言ってみよう。 あなたを疲れさせるだろうが 誰がものを言わずにいられようか。 (ヨブ記4章1節~2節) 嘆くヨブを慰めようと、友人のエリファズが語り始めます。しかし、人を慰めるのは難しいことです。 「あなたの言葉は倒れる人を起こし、くずおれる膝に力を与えたものだった。だが、そのあなたの上に何事かふりかかると、あなたは弱ってしまう」(4、5節)。そして、「正しい人が絶たれたことがあるかどうか」と問いかけます(7節)。行いの善悪に応じてその報いがあるというこの世の一つの考え方に従い、今の苦しみはヨブの罪に原因があると仄めかしています。恐らく彼に悪意はないのでしょうが、ヨブを苦しめています。 苦しみの意味を、神なき人間知性だけで理解しようとするならエリファズのようにもなるでしょう。しかし大切なことは天の神を仰ぎ見ること、神に立ち帰りましょう。「わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザ45章22節)。主も言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタ6章33節)。 どのようなときでも救いを感謝し神と共に歩む。これが苦難の時にあっても、揺るぎなき力と希望に生きることのできるただ一つの道です。 Sun, 07 Mar 2021 00:10:00 +0000 罪人が招かれる宴席(マルコによる福音書 2章13-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210307 no 2021 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 (マルコによる福音書2章17節) 多くの人が主イエスの福音を求めて集まる一方、「救いの恵み」の外にいる者として蔑まれていた徴税人レビは、収税所に座っていました。道ゆく人びとからの冷ややかな視線が、彼を救いの外に留め続けていました。 しかし、主イエスはレビを見てご自分のもとに招き、食事を共にされます。レビの喜びはどれほど大きかったことでしょう。他にも多くの「罪人」が主イエスに招かれ、宴席は大きなものとなりました。 しかし、彼らの宴席を、ファリサイ派や律法学者たちは喜ばずに非難します。神の民として生きる彼らにとって、主イエスが徴税人や罪人と食事を共にすることは、理解しがたいことでした。また、洗礼者ヨハネの弟子たちも、主イエスの弟子たちが断食しない様子を見て尋ねます。断食は敬虔な信仰生活を送るための伝統的な慣習です。 主イエスは、ご自身の働きを「罪人を招くため」と説明されます。それは罪人が神に立ち帰り、新しく生まれ変わる道です。罪にも古い慣習にも囚われない、罪人が新しく生まれ変わる喜びの宴席に、私たちはきょう、主イエスの御前に招かれています。 Sat, 06 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしの生まれた日は消えうせよ(ヨブ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210306 no 2021 やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。 わたしの生まれた日は消えうせよ。 男の子をみごもったことを告げた夜も。 (ヨブ記3章1節~3節) 苦しみの中で、ヨブは口を開いて嘆きます。独り言のように語られますが、もちろん、これは神に対する訴えです。ただし、呪いの言葉が神に向けてのものとならないよう慎重に注意されています。 「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」。誕生の日も、みごもられた夜も皆、神の御業です。しかし、神には言及せずに生まれた日、みごもられた日を呪います。ヨブにとってはぎりぎりの選択でしょう。神を呪ってはならない、しかしこの窮状は神にこそ聴き上げていただくほかないと考えるのです。 それで、ヨブは呟きます。すなわち、苦しいとき、大変なときには、呟いてもよい。そう示されていると言えるでしょう。どんなときにも歯ぎしりして正論を吐き、心にもない笑顔を見せるのだけが信仰ではないでしょう。呟く。しかし決して神から離れず、固着していることが大切です。むしろ神から決して離れないように、呟きも許されていると考えるべきなのかもしれません。私たちも、ヨブが嘆いて訴えたように、神さまに訴えて、神から離れることなく、恵みに留まるのです。 Fri, 05 Mar 2021 00:10:00 +0000 幸福も不幸も(ヨブ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210305 no 2021 ヨブは答えた。 「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。 (ヨブ記2章10節) 財産を失うという第一の試練でヨブに罪を犯させることができなかったサタンは、ヨブの肉と骨に触れるという第二の試練を与えることを神に願い出て、許されます。命だけは奪うなという条件付きでした。 私たちは自分の人生をどのように生きたらよいでしょうか。もし人生に自分の欲求を満たすだけの楽しみや愉快なことだけを求めるなら、その人生は豊かな実りを結ぶことはないでしょう。そうではなく、正しいことと善いことを行なうこと、そして何よりも愛を求めて生きることを人生に求めてこそ、自分の人生を本当に意味あるものとすることができるはずです。そこに神の祝福があるからです。どのような状況、境遇にあろうとも、私たちの人生の歩みは確かなものとなります。主の守りと支配の内にあるからです。 ヨブは神に感謝し、讃美します。「『わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。』このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」。不幸でさえも、主の御手の内にある。その時にも私は主に守られている! Thu, 04 Mar 2021 00:10:00 +0000 わたしは裸で母の胎を出た(ヨブ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210304 no 2021 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」 (ヨブ記1章21節) なぜ敬虔な信仰者であっても苦難に遭うのでしょうか。この問いかけがヨブ記全編を貫いています。そして、それ以上にヨブ記を貫いているのが、ヨブを、そして私たちを生かし、支えてくださる神の愛です。苦難のときこそ、神に目を向けましょう。 ヨブの苦難の発端は天上における神とサタンとの話し合いです。神はサタンに、ヨブに苦難を加えることを許されました。神はヨブの苦難をご存知です。すべてを支配され、確かなご計画をお持ちの神は、私たち一人一人の苦難を、皆ご存知です。現在はコロナのために全人類が苦しみを覚えています。また、誰もが人に言えない苦難を味わっているでしょう。しかし、神はすべて御存じです。そして愛をもって、私たちに最善のことをしてくださいます。この確信に留まりましょう。 「裸で母の胎を出た」私たちは、ただ神の憐れみによって生かされ、守られています。日ごとの悔い改めによって固く主につながりましょう。何があろうと、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8章39節)。 Wed, 03 Mar 2021 00:10:00 +0000 この喜びを一緒に喜んでくれ(ルカによる福音書 15章25-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210303 no 2021 「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 (ルカによる福音書15章31節~32節) ある大学に、この人以上に罪深い人はいないだろうと噂される悪い教授がいました。ある日、その教授をよく知るクリスチャンの教授が、キリストの十字架による罪の赦しを証しすると、その悪い教授は言いました。「俺ほどの悪人が赦されて天国に行けるはずがないだろう」。すると、そのクリスチャンの教授は、「いや、行けます」と、何の躊躇いもなく答えました。 その二人の会話をそばで聞いていた学生が心の中で叫びました。「キリスト教とはそんな不公平な宗教なのか」と。その学生の叫びは、放蕩息子のたとえに出てくる兄息子のそれと、どこか似ています。 父は弟息子の立ち帰りを大いに喜び、祝宴を開きました。それを知った兄息子は、怒って家に入ろうとしません。それもそのはずです。弟は父に対して大きな罪を犯したのですから。ところが、父は兄息子に言います。「お前のあの弟は…いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。まるで、「一緒に喜んでくれ」と言わんばかりです。 一人の罪人の救いは、教会にとっても大きな喜びです。 Tue, 02 Mar 2021 00:10:00 +0000 立ち帰る者を条件もつけず迎える神の愛(ルカによる福音書 15章20-24節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210302 no 2021 「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」 (ルカによる福音書15章22節~24節) 父を捨てて家を出て行った弟息子が帰ってきました。彼はまだ遠く離れていたのに、父はいち早く彼を見つけます。父は、息子が離れてしまったその日から、「わたしの愛する息子はいつ戻るのか」と、心を痛めて毎日外を見つめていたのではないでしょうか。 父は、遥かかなたに息子を見つけると、憐れに思い、いてもたってもいられなくなり、自分から走り寄り、息子の首を抱きしめ、口づけをします。息子が謝罪の言葉を口にしようとしたとき、父はそれを遮るようにして、彼に一番良い服を着せさせ、手には自分の子どもであるというしるしの指輪をはめさせ、足には自由人のしるしである履物をはかせ、盛大な祝宴を開きました。 人は、赦しの条件として謝罪を要求します。そのような赦しであっても、赦されたときには安堵するものです。しかし、神の赦しに条件はありません。神はご自分に立ち帰る罪人に憐れみをかけ、ご自分から走り寄り、喜んで迎え入れてくださいます。 たとえ神から離れてしまっても、この大きな愛が私たちを神のもとに立ち帰らせてくださいます。 Mon, 01 Mar 2021 00:10:00 +0000 神に立ち帰るときにあずかる本当の自由(ルカによる福音書 15章11-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210301 no 2021 「『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」 (ルカによる福音書15章18節~20節) 主イエスは、神を父に、私たち罪人を弟息子に重ね合わせて「放蕩息子」のたとえを話されました。 弟息子は、父から財産を相続すると、父のもとを離れて放蕩の限りを尽くします。これは、自由を求めて神から逃れた人間の姿によく似ています。しかし、神から離れたところに自由はありません。私たちが本当の意味で自由になるためには、神のもとに生きるしかありません。神との交わりにこそ、本当の自由があるからです。 弟息子が全財産を使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こりました。彼は空腹に困り果て、食べるために働くことにしました。しかし、ありついたのは豚飼いの仕事でした。イスラエルでは豚の世話をするのは屈辱的なことでした。それでも彼は、食物を得られませんでした。 弟息子は、惨めなどん底で我に返り、父のもとへ立ち帰り、罪を告白することを決心しました。それは彼にとって幸いなことでした。なぜなら、自分の罪を正しく認め告白するとき、人は神に立ち帰ることができるようにされるからです。それが、自由に与るための第一歩です。 Sun, 28 Feb 2021 00:10:00 +0000 いちばん大切なこと(マルコによる福音書 2章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210228 no 2021 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」 (マルコによる福音書2章8節~10節) 主イエスのところに中風の人が連れて来られたとき、主イエスは、彼に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われ、罪の赦しを宣言されました。彼は心の中で、「ただ、中風の病をいやしてほしいだけなのに」と思ったのではないでしょうか。 しかし、主イエスは彼のいやしを忘れたわけではありません。主イエスは彼にとっていちばん大切な罪の赦しと永遠の生命を最初にお与えくださいました。 この時、律法学者たちは、心の中で「神を冒涜している」と考えます。「罪は赦された」と言葉で語ることは誰にでもできるからです。 このとき、主イエスは律法学者たちに、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と語ります。その上で、中風の人をいやしてくださいました。病人がいやされたことにより、律法学者たちも何も言えなくなり、皆が主イエスを賛美します。 神の御子イエスは、病人をいやす御力を持っておられますが、主イエスの福音の中心は、罪の赦しと永遠の生命を与えることです。 Sat, 27 Feb 2021 00:10:00 +0000 暗闇にいる私たちを捜し求めてくださる神(ルカによる福音書 15章8-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210227 no 2021 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。 (ルカによる福音書15章10節) 主イエスは、「見失った羊のたとえ」に続いて、ドラクメ銀貨を無くした女のたとえを話されました。 銀の鎖に10枚のドラクメ銀貨を刺し通した髪飾りは、当時のパレスチナでは既婚女性のしるしとして結婚指輪に相当する大切なものでした。二人の生涯における愛の誓約のしるしがどれだけ大切であるかは、言うまでもありません。たとえ1枚でも決して失ってはならない貴重なものであったのでしょう。 銀貨の持ち主であるその女性は、暗い部屋をともし火で照らし、隅から隅までくまなく探します。まだ9枚残っているという考えなどは全くありません。それを見つけると、もう近所の人を呼ばずにはおられないほど大喜びします。 主イエスは、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われます。失われた銀貨を探すその女性の姿は、神から離れた人を探す神の姿に重ならないでしょうか。たとえ私たちが暗闇の中にいても、神は私たちを見つけ出すまで捜し求めてくださいます。神は、私たちを深く愛しておられるからです。 Fri, 26 Feb 2021 00:10:00 +0000 見失われた私を見つけて大喜びなさる神(ルカによる福音書 15章1-7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210226 no 2021 「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、…見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、…『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」 (ルカによる福音書15章4節~6節) 大学生のとき、アメリカの酪農家で1年間農業実習生として働いたことがありました。朝に牛たちを牧場に放ち、夕方に放牧から戻って来ると搾乳をするのですが、ある日、1頭が戻って来ませんでした。行方不明の1頭を捜しに走ると、2キロも離れた林にいました。しかも、生後間もない仔牛がそばにうずくまっていたのです。その仔牛を両肩に担いで歩き出すと、親牛もついてきます。体重40キロの仔牛を担いで2キロも歩けばヘトヘトです。しかし、親子が無事に戻れたときの喜びは一入でした。 主イエスは、見失った羊のたとえを通して、父なる神がどのようなお方であるかを教えてくださいました。神は、罪人の私たちを見つけ出すまで諦めず捜し回ってくださるお方です。そして、私たちを見つけ出すと、天使たちを呼び集めて共に大喜びしてくださるお方です。 神の私たちへの愛と情熱があったので、私たちは見つけ出され、今、神と共に生きることが許されています。私たちを罪から救い、大喜びしてくださる神の恵みに感謝して、これからの人生も豊かに歩ませていただきましょう。 Thu, 25 Feb 2021 00:10:00 +0000 涙が枯れた世界の中で、私たちは泣く(エズラ記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210225 no 2021 エズラは神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、身を伏せていた。イスラエル人が彼のもとに集まり、男、女、子供から成る非常に大きな会衆ができた。この人々も激しく泣いていた。 (エズラ記10章1節) 大きな罪悪の中に身をうずめるようにして、祈るエズラの周りに、人びとが集まってきました。皆が、私たちは神に背いたと激しく泣いています。その涙と祈りの輪は「非常に大きな会衆」になったと記されています。その「会衆」という言葉をギリシア語七十人訳聖書は「エクレシア」と記しています。「エクレシア」は新約聖書で「教会」という意味で用いられる言葉です。 教会は、私たちが神に背いたのだと泣けるところであると言うことができます。人の目にさらされ、社会の目を敏感に察知して生きる私たちには意外なほどに泣ける場所がありません。忙しさに追われる私たちは自分の、家族の、共同体の罪を誠実に顧み、涙を流す時間を持ちません。ひと度流す涙があっても、世界はすぐにその涙を忘れてしまいます。それは世界の繁栄ではなく枯渇をあらわしているように思えます。 泣ける場所と時をもつ人は幸いです。泣くことを恐れはていけません。涙は神からの賜物。その涙をもって、神は私たちの魂を洗ってくださるのですから。 Wed, 24 Feb 2021 00:10:00 +0000 罪深い者として御前にぬかずく者の光(エズラ記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210224 no 2021 「イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」 (エズラ記9章15節) ぼう然として座り込むエズラを照らす夕暮れの光があり、生きる力を与えられた彼は、祈り始めます。 エズラの目の前には二つの大きな罪悪が横たわっていました。一つは先祖の時代の罪、もう一つは今日の罪です。かつて先祖たちは心を神から離し、その怒りを受けました。国は滅び、奴隷として捕らわれることになりました。先祖たちは辛さを身に受け、過ちを繰り返さないように後の世代に語り伝えたはずです。しかし、いざ解放されてみると、生き残りの者たちは同じ過ちを重ねたのでした。 罪の経験を共同体として継承していくことは困難なことです。それは今日に生きる者が過去のこととして学んでいる限り不可能なことです。罪に痛む想像力が育まれなければいけません。そして、今日のこととして罪が経験されなければいけません。過去の罪を見つめない甘えと、また過去の罪と同じ根を今日の自分も持っているという経験を。 その時、同時に経験されるはずです。先祖を憐れまれた神は今日、私たちを憐れんでくださっていると。 Tue, 23 Feb 2021 00:10:00 +0000 御言葉に生きる姿勢(エズラ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210223 no 2021 わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」と王に言っていたからである。 (エズラ記8章22節) 8章はエズラ本人が一人称の「わたし」を使って記しています。 エルサレムへの帰還と一口で言っても、バビロンからエルサレムまでは1500キロ程の道のりです。男性だけでも1500人以上の人たちが、幼い子どもたちを連れての旅です。エズラが旅の無事を願って、幼い子らのため、また持ち物のために祈ることにしたのは、決して形式的な儀式ではありません。断食をしてまで祈る真剣さです(21節)。 こうまでして祈るのには、理由がありました。エズラは神の言葉に信頼し、神の言葉に生きようとしていたからです。これだけの距離を大勢の人と持ち物を携えて移動するとなれば、王に護衛を頼みたくもなるでしょう。しかし、エズラにはそれができませんでした。日ごろから神への信頼を説いていたからです。エズラにとって、事実、神は信頼に足るお方です。聖書がそう語る通りにエズラは信じていました。神を差し置いて、他のものに信頼を寄せることは、神の言葉に生きる姿勢と矛盾しています。 神に信頼して、御言葉に生きること、その真剣さをこの記事から教えられます。 Mon, 22 Feb 2021 00:10:00 +0000 御言葉に聴く姿勢(エズラ記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210222 no 2021 彼らは第一の月の1日をバビロン出発の日とし、神の慈しみ深い御手の加護を受けて、第五の月の1日にエルサレムに到着した。エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。 (エズラ記7章9節~10節) 7章と8章には、バビロンからエルサレムに帰還するエズラのことが記されます。エズラの名前を冠した書物ですが、エズラの名前が登場するのは、ここからです。 この書物の1章で、ペルシア王キュロス二世によってユダヤ人のバビロンからの解放が布告されてから、ここまでの間に、ペルシアでは5人の王が入れ替わり、およそ80年の歳月が流れました。戦後の教会の歴史が丸々一つ入る長さです。バビロンからの帰還と神殿の再建は、決して数年の出来事ではありません。その歴史を支えてきたのは、人びとの神に対する熱心と、イスラエルの民を愛してやまない神の熱意でした。 礼拝にとって最も大切なのは、神の言葉に聴く姿勢です。神の言葉から離れた礼拝こそ、バビロン捕囚を招いた原因でした。神は最もふさわしい時に最もふさわしい人材を遣わされました。律法に精通したエズラこそ、その人です。 現代は聖書アプリをスマホに入れて持ち運ぶことができる時代です。身近に聖書を持ち歩ける私たちには、御言葉に「聴く」姿勢が一層求められています。 Sun, 21 Feb 2021 00:10:00 +0000 神の御心を忘れるな(マルコによる福音書 1章40-45節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210221 no 2021 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 (マルコによる福音書1章43節~44節) 重い皮膚病を患っている人が主イエスの所に来て、清くなることを求めると、主イエスは「清くなれ」とお語りになり(41節)、重い皮膚病をいやしてくださいました。 病気をいやされた者、救いの宣言が与えられた者が、その喜びを人びとに伝えることは、当然のことです。そして教会は、人に証しすること、伝道することを求めます。 しかし主イエスはこのとき、「だれにも、何も話さないように」と厳しく注意され、彼が喜びをもって証しすることを拒みます。「なぜ?」と思ってしまいます。 彼がこの出来事を人びとに告げ、言い広め始めると、主イエスは公然と町に入ることができなくなりました。つまり、彼の行為により、本来の主イエスの行うべき宣教活動が滞ってしまいました。主イエスが彼に厳しく注意されたのは、そのためでした。 伝道することが自己満足のためになると、主の御業、聖霊の御業を邪魔することとなります。それでもなお、主は私たちの働きを喜び、用いてくださいます。だからこそ、主にすべてを委ねて祈りつつ、伝道の業に仕えて行くことが求められています。 Sat, 20 Feb 2021 00:10:00 +0000 主がアッシリアの王の心を彼らに向け(エズラ記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210220 no 2021 捕囚の子らは、第一の月の14日に過越祭を行った。…イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も、皆、過越のいけにえにあずかった。…主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである。 (エズラ記6章19節、21節~22節) ダレイオス王は、ペルシア帝国全体を20の州に分けて組織化し、繁栄の礎を築いたとされます。彼はキュロス王の勅令を確認してエルサレム神殿の再建を認めるだけでなく、積極的に支援しました。再建された神殿で自分と息子たちのために祈ることを求めもしたのです(10節)。 エズラ記は、「主がアッシリアの王の心を彼らに向け」と語ります。アッシリアを受け継ぐ帝国の王として、ダレイオス王がアッシリアの王と呼ばれます。かつて神の裁きの器として用いられたアッシリアが、今や神の憐れみの器として用いられるのです。主なる神が人の心を動かされるのであると、そして、歴史を支配される神の御計画の神秘を思わざるを得ません。 建築は順調に進み、およそ5年で完成しました。神殿が奉献され、そのおよそ1月後に過越祭が行われました。「主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆」、過越を祝いました。神は、イスラエルの民だけでなく、多くの民を招いて、このことを成し遂げられました。今、私たちも、神の不思議な御計画によって、神の御前に招かれています。 Fri, 19 Feb 2021 00:10:00 +0000 神の目が注がれて妨げることができず(エズラ記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210219 no 2021 しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、その報告がダレイオスになされ、それに対する王の返書が送られてくるのを待った。 (エズラ記5章5節) およそ15年間、神殿の再建は中断したままでした。けれども、いよいよ主なる神はハガイとゼカリヤを立てて預言させ、エルサレムの人びとを励まします。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと、主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュア(イエシュア)よ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる」(ハガイ2章4節)。 それに答えてゼルバベルとイエシュアが立ち上がり、エルサレムの人びとも勇気を出して神殿建築に取りかかります。すると、このときも神殿建築を妨げる人びとが現れます。けれども、エズラ記は語ります。「神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず」。神に励まされて取り組む業をもはや人が妨げることはできません。 15年の間に為政者が交代していました。これも主の御計画の内にあったでしょう。彼らが書簡を出したダレイオス王は、むしろ神殿建築に賛同し、積極的に支援します(6章6節以下)。 「見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」(詩33編18節)。 Thu, 18 Feb 2021 00:10:00 +0000 だれが主の神殿を建てるのか(エズラ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210218 no 2021 しかし、ゼルバベルとイエシュア、他のイスラエルの家長たちは言った。「わたしたちの神のために神殿を建てるのは、あなたたちにではなく、わたしたちに託された仕事です。…わたしたちだけでイスラエルの神、主のために神殿を建てます。」 (エズラ記4章3節) エルサレムに帰ってきた人びとは、祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物をささげました。信仰者の生活の土台は、主を礼拝することだからです。そして、主の神殿を再建することに取り組み始めました。 そこに建築を手伝いたいと申し出る人びとが現れます。彼らは捕囚時代に他の国から移住してきた人びとと一つになる歴史をたどっていました。「あなたがたの神を尋ね求める」と言いますが、異教の神々を受け入れる混交的な信仰に陥っていました(列王下17章)。そのため、ゼルバベルをはじめとする指導者たちは彼らの申し出を拒み、神殿の建築は「わたしたちに託された仕事です」と答えます。神殿を建てるとは、信仰を告白する営みにほかならないからです。 実のところ、彼らの意図は神殿建築を妨げることであり、さまざまな手段を講じて建築を妨害しました。厳しい飢饉などもあり、神殿建築は中断してしまいます。 信仰を言い表すことが妨げられることがあるでしょう。けれども、私たちは、「わたしたちに託された仕事です」という信仰の確信に固く立って歩み続けます。 Wed, 17 Feb 2021 00:10:00 +0000 信仰共同体の改革(エズラ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210217 no 2021 祭司たち、すなわちヨツァダクの子イエシュアとその兄弟たちは、シェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちと共に立ち上がり、イスラエルの神の祭壇を築き、神の人モーセの律法に書き記されているとおり、焼き尽くす献げ物をその上にささげようとした。 (エズラ記3章2節) 捕囚から帰還した人たちがすべての事に先立って取りかかったことは、祭壇を築くことでした。彼らは昔の祭壇の土台の上で焼き尽くす献げ物をささげます。また、仮庵の祭りを行い、さらには日々の焼き尽くす献げ物も、そのほかの献げ物までもささげます。すべてモーセの律法に書かれているとおりに行われたことであったと強調されています。これが信仰共同体、神の民の信仰生活の回復の姿です。 私たちは自分の属する教会や、自分の信仰生活が変えられることを願っています。けれども、それはどこから、どのようになされるのでしょうか。御言葉は、それは祭壇からであると語ります。神への礼拝であり、神への祈りです。すべてに優先して、このことに取り組み、集中する時、そこで私たちが新しくされるということが起こります。 聖書は私たちには「イエス・キリストというすでに据えられている土台」があると語っています(1コリ3章11節)。私たちは、御言葉に従い、イエス・キリストの福音によって神を礼拝します。その時、信仰共同体である教会は必ず新しくされていきます。 Tue, 16 Feb 2021 00:10:00 +0000 帰るべき場所(エズラ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210216 no 2021 捕らえ移された先から上って来たこの州の人々は次のとおりである。彼らはバビロンの王ネブカドネツァルによってバビロンに連行されたが、それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰った者たちである。…イスラエル人は皆それぞれ、自分の町に住んだ。 (エズラ記2章1節、70節) 第2章には、バビロンから帰還した人々の出身部族の名と人数が記されています。総数は42360人。この人たちはエルサレムの神殿を建てるために上って行こうと決意した人たちです。 バビロンにはまだ大勢のユダヤ人たちがいましたが、彼らは動こうとはしません。バビロンの方が暮らし良かったからです。豊かな生活があり、日々の安定した暮らしがありました。廃墟となったエルサレムにあったのは貧困です。苦労することは誰の目にも明らかでした。にもかかわらず、この人たちはエルサレムに上って行きました。神に心を動かされたからです。 エズラ記は、この人たちは「自分の町に帰った」、「自分の町に住んだ」と語っています。「自分の町」とは、自分が所有する町ということではありません。神との契約によって与えられた地という意味です。つまり彼らは、自分たちが神の民であり、神のものであることを信じていました。彼らが帰ったのは主なる神のもとであり、神のもとに住むことを選びとったのです。 私たちも主のものです。私たちが帰り、住む場所も父なる神のふところです。 Mon, 15 Feb 2021 00:10:00 +0000 主に心を動かされて(エズラ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210215 no 2021 主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。…そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。 (エズラ記1章1節、5節) エズラ記は歴代誌に続いて神の民の歴史を物語ります。ネヘミヤ記は捕囚から帰還した神の民の都の再建を語り、エズラ記は神殿の再建を中心に据えて語ります。神殿の再建は単なる建物の再建だけを意味しません。「外なる宮」だけではなく「内なる宮」が再建されます。神への礼拝が新しくされます。それがエズラ記の主題です。 第1章はそのきっかけとなったことを伝えています。ここではっきりと語られていることがあります。それは民を帰還させ、神殿の再建に着手させられたのは主なる神ご自身であったということです。神殿の再建の主体は、キュロス王でも、神の民でもありません。つまり、人間の熱心や発案というものではなかったのです。「主は預言者エレミヤの口によって約束されたことを成就するため」この事業を開始されます。そのために「主はペルシアの王キュロスの心を動かされ」、さらには捕囚民の心も動かされました。 この神のなさり方は今も全く変わりません。神ご自身の最大の関心事は私たちの礼拝が新しくされることです。このために私たちの心を動かしてくださいます。 Sun, 14 Feb 2021 00:10:00 +0000 病人をいやすイエスの権威(マルコによる福音書 1章29-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210214 no 2021 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。 (マルコによる福音書1章32節、34節) 主イエスが会堂で教えられると、人びとは主イエスの神の権威を受け入れました。そして、主イエスの評判は、広まっていきます(28節)。 評判を聞いた人びとは、病人をいやしていただくため、また悪霊を追い出していただくために、主イエスが滞在していたシモンの家に集まります。藁にもすがる思いだったことでしょう。主イエスは、彼らの行動を、御自身にすべてを委ねた信仰と受け止め、病人をいやし、悪霊を追い出されます。 現代に生きる私たちは、病気は病院で治療することによって治ると思っています。また、まだ治療ができない病であっても、医療技術の発展により、解決されると期待し、そこに救いを求めます。もちろん、現代医学を否定するつもりはありません。それも神の恵みだからです。 しかし、医療の背後に主の御力が働いていることを、私たちは忘れてはなりません。そればかりか、主なる神は、病の床に臥せっていても魂を力づけ、心を健やかにしてくださいます。主イエス・キリストこそ、私たちの生命を司り、体も心も魂も健やかにする権威を持つお方です。 Sat, 13 Feb 2021 00:10:00 +0000 真の教師が至る境地(テモテへの手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210213 no 2021 信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 (テモテへの手紙一6章6節~7節) 「信仰によるまことの子」と呼ぶほど愛したテモテに、パウロが身をもって示すのは、偽教師ではない「真の教師」が至る境地です。 かつて彼は、迫害されて監獄に収監された際に、その境遇に満足することを習い覚えました(フィリピ4章11節)。いまや人生の最期を見据えて、パウロは自身をヨブとコへレトに重ねています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と自らの魂に呼びかけて、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と天を仰ぎます(ヨブ1章21節)。そして、「労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない」との真実を打ち明けます(コへレト5章14節)。 同じ教師の道を志すテモテに、老練な教師は、努力が報われる、とは語りません。自分の働きの実りを見ることも、刈り取ることもない。一切は空である、と語るのです。主から与えられた命も、召しも、働きも、すべてを主にお返しする。僕としての分に徹して、それに満足する。これこそ大きな利得である。そう遺言するのです。この信心の境地を、神の恵みと呼ばずして、何としましょう。 Fri, 12 Feb 2021 00:10:00 +0000 魂を看取る者の心得(テモテへの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210212 no 2021 老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。…年老いた婦人は母親と思い…諭しなさい。 (テモテへの手紙一5章1節~2節) 自分の父母を思うと、晴れやかな感謝よりも、重苦しい後悔にかられてしまいます。父の最期の瞬間に立ち会うことはできませんでした。表情が薄くなってゆく母の心を察するのも難しくなりました。命の看取りをする者は、積み重なる後悔を、未来永劫、背負っていかなければなりません。これもまた、強いられた恩寵でしょうか。 親の期待を裏切ってキリストの僕になったとすれば、パウロが父母を看取ることはなかったでしょう。それを自分の十字架としたであろう彼には、教会の中に「母」と呼べる人がいました。ルフォスの母です。「彼女はわたしにとっても母なのです」とあります(ロマ16章13節、マルコ15章21節も参照)。教会という大家族で、息子としてできることがありました。それは「魂を看取る」ことです。 牧会者パウロが後継者テモテに語るのは、魂を看取る者の心得です。教会の父母の福音理解が深まるよう「自分の傍らに招き、諭す」。牧師や兄弟姉妹のために祈ってくださいと「頼み、促す」。最期まで主イエスに信頼するよう「慰め、励ます」。この尊い務めです。 Thu, 11 Feb 2021 00:10:00 +0000 神のようになろうとする罪(創世記 11章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210211 no 2021 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 (創世記11章4節) 建国記念の日は、天皇を神格化した戦前の「紀元節」を復活させたものです。戦後、象徴天皇制に変わりましたが、天皇への崇敬による国民統合のしくみは、今も続いています。 人間が一致団結を図り、神に反逆する全体主義ほど恐ろしいものはありません。それが「天まで届く塔のある町を建て」、いと高き者のようになろうとする人間の罪の本質の表れだからです。 1節に「同じ言葉を使って、同じように話していた」とあるように、人は言葉だけでなく、同じ精神と思想で結託していました。そこで神は、言葉、思想を混乱させて、人びとを散らされたのです。 しかし、神はキリストによって、混乱から人類を回復する道を開いてくださいました。教会は混乱から贖われた霊の一致に基づく共同体です。それゆえ主の民には、人が作り出す全体主義の策略を見抜き、戦うことが求められています。 絶えず全体主義的な考えや制度の中に引きずりこもうとする私たちの罪を、天から降ってこられた主イエスの御言葉と聖霊の力によって、ことごとく打ち砕いていただこうではありませんか。 Wed, 10 Feb 2021 00:10:00 +0000 感謝が増える(詩編 136編1-3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210210 no 2021 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 (詩編136編1節~3節) 老いについて、特に老いに伴う神からの恵みを見て来ました。今日は四つ目を見ます。何でしょう。感謝がますます増えることです。 そもそも私たちの一生分の罪が、主イエスの十字架によってそっくり赦されるのです。何という感謝でしょう! また、色々なことのあった私たちの今までの全人生に、主は「まどろむことなく、眠ることもな」く(詩編121編4節)、常に共にいてくださいました。私たちのために寝ずの番さえしてくださいました(出エジプト12章42節)。すごいことです! まだあります。老いた自分の人生を深く静かに振り返ると、私たちはこれまでどんなに多くの人に、失礼なことや無礼なことをいっぱい赦され、またどんなに助けられてきたことでしょう。これが感謝でなくて何でしょうか! また、老いて色々なことができなくなってくると、人の優しさや親切、心遣いが身に染みてよく分かり、感謝でいっぱいです。 主よ、歳と共に感謝すべきことにいっそう気づかせ、心から感謝させてください。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」。 Tue, 09 Feb 2021 00:10:00 +0000 確信を強められる(申命記 31章8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210209 no 2021 「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」 (申命記31章8節) 老いと共に私たちの体にはさまざまな故障も生じ、精神的にも辛いものがあります。しかし一方では、老いに伴う恵みもあります。きょうは三つ目を見ます。 信仰者として長く生かされて来たことは決して小さなことではありません。さまざまな恵みを経験していますので、自ずと信仰の確信が増します。そこで、若い世代の信仰者をよりよく励ますことができるという恵みがあります。 申命記31章6節には、120歳のモーセが全イスラエルの民に語り、8節には若い後継者ヨシュアに語った言葉が記されています。これらは神がモーセに与えられたものですが、同時に、長い人生経験を経て与えられたモーセの堅固な確信を神が用いられたとも言えるでしょう。 老齢の信仰者が若い信仰者に対してできる貢献の一つは、人生経験を経て培われた信仰の揺るぎない確信、そして主から賜わったさまざまな知恵により励ますことだと思います。 主よ、老いに伴う恵みが、あなたの栄光と次世代の教会と信徒のためによく活用されるようお導きください。 Mon, 08 Feb 2021 00:10:00 +0000 老いに伴う恵みの豊かさ(ローマの信徒への手紙 8章28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210208 no 2021 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 (ローマの信徒への手紙8章28節) 老いとはどんなものでしょうか。コヘレトの言葉12章3~6節が比喩的に描き、私たちの経験からも分かりますが、とても厳しいものがあります。しかし、老いも神の計画の内にあり、神は神を愛する者に恵みも伴わせておられます(聖句参照)。 では、どんな恵みがあるでしょうか。今日は二つほど見たいと思います。自分のこの世での残り時間が少ないことを覚えますと、第一に、死への恐れよりも、神のおられる天の御国が自ずと近くに感じられ、御国が慕わしくなります。幼子イエスに会えた老人シメオンは言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。 そこで第二に、若い時とは違い、人と自分を比べることや、妙に力こぶを作って生きることの無意味さが分かり、むしろ、ただ神に自分が真に喜ばれ、自分も神をもっと喜べる者でありたいという、その一点を中心に心底生きたいと願うようにされます。何とありがたいことでしょう! 主よ、老いに伴う恵みに大いに気づかせ味わわせ、御名をさらに賛美させてください。 Sun, 07 Feb 2021 00:10:00 +0000 驚きの言葉・主イエスの権威(マタイによる福音書 21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210207 no 2021 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。…人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 (マタイによる福音書1章22節~27節) 正しいことが語られたとしても、人がそれに聞き従うとは限りません。「自分には関係ない」と思うからです。しかし、このとき、主イエスの教えは人びとに権威ある言葉として受け入れられました。他人事ではなく、自分への救いの宣言として受けとめられたからです。 けれども、自分たちへの言葉として聞いたのが、その場にいた汚れた霊=サタンでした。汚れた霊はその場から出て行きます。救いの言葉としてではなく、自分たちを滅ぼす言葉として聞いたからです。 では、どのようにして、人びとは自分への救いの言葉として、福音を聴くのでしょうか。それは聖霊の働きによります。教会で説教が語られるとき、同時に聖霊が働いてくださいます。その結果、聴く者は福音に驚かされつつ、主イエスを受け入れ、教会は神の民が集う場となります。 私たちは、家族や親しい人たちを教会へと招き、福音に出会う機会を提供します。時として福音の驚きが大きいため、理解されないときもあります。しかし主の御言葉は、聖霊が働くことにより、驚きをもって受け入れられます。 Sat, 06 Feb 2021 00:10:00 +0000 主の大きな慈悲が疫病を終息させる(サムエル記下 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210206 no 2021 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」 (サムエル記下24章14節) ダビデは、イスラエルの北の端「ダン」から南の端「ベエル・シェバ」までの人口調査をするように命じました。これが重い罪であったと彼は認めます。人口調査がなぜ罪になるのか、また主ご自身がなぜダビデに人口調査をするように誘われたのか(1節)、説明はありません。 罪を認めるダビデに預言者ガドは、7年間の飢饉か、3カ月間敵に追われることか、3日間の疫病かを選ぶようにという主の言葉を伝えます。ダビデは、人間の手にかかるよりも、「主の慈悲は大きい」と考えて疫病を選びます。その結果、3日経たないうちに7万人が死にました。イスラエル王国の人口規模で、3日以内に7万人が死ぬということがどれほど深刻な事態であるか、私たちはこの1年で実感させられるようになりました。 主は、エルサレムにまで手を伸ばそうとする御使いに「もう十分だ。その手を下ろせ」と命じられます。慈悲深い主は思い直してくださったのです。主の怒りの原因がどこにあったのかはここで明らかにされません。しかし、その終息は主の憐れみによることが明らかにされています。 Fri, 05 Feb 2021 00:10:00 +0000 主の民にとって権威ある王(サムエル記下 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210205 no 2021 エルアザルはペリシテ人に向かって立ち、手が疲れ、手が剣にはり付いて離れなくなるまで彼らを討った。主はその日、大勝利をもたらされ、彼の後に戻って来た兵士には略奪することのみが残った。 (サムエル記下23章10節) アッシリア帝国やバビロン帝国の王について記した碑文は、各地への遠征で勝利をおさめた王の活躍を記録することで王の権威を高めます。 ところが、23章のリストは、ダビデの軍事的な勝利が多くの勇士たちによって支えられていたことを明らかにします。また勇士たちの活躍を通して大勝利をもたらされたのは主であることをはっきりと記します(10、12節)。勇士のリストの最後には「ヘト人ウリヤ」の名前が記され(39節)、ダビデがその妻バト・シェバを妊娠させ、彼を戦死させるように指示した罪を思い起こさせます。ダビデ王の実態を聖書は明らかにしますが、それでも彼はイスラエル史上最も敬われる王です。なぜでしょうか。 ダビデは、ある戦場で、ベツレヘムの井戸の水を欲します。それを聞いて、3人の勇士がペリシテ軍の陣を突破し、その井戸の水を持ち帰りました。「これは命をかけて行った者たちの血そのものです」と言ってダビデはその水を飲もうとせず、主にささげます。欠けがありつつも、悔い改め、主の前に生きる王こそが主の民に権威ある者なのです。 Thu, 04 Feb 2021 00:10:00 +0000 貧しい民を救い上げる主(サムエル記下 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210204 no 2021 あなたは貧しい民を救い上げ 御目は驕る者を引き下ろされる。 主よ、あなたはわたしのともし火 主はわたしの闇を照らしてくださる。 (サムエル記下22章28節~29節) サムエル記の初めにはハンナの歌があります。「貧しい者を芥の中から高く上げ」てくださる主の憐れみが賛美されています(サム上2章8節)。サムエル記の終わりには、全体を囲むようにして、やはり「貧しい民を救い上げ」てくださる主を賛美するダビデの歌が置かれています。羊飼いの少年にすぎなかったダビデが数々の苦難を経て王としてイスラエルを治めた歴史が、サムエル記に記されていました。賛歌で歌われることを主は現実に実行してくださるお方です。 ダビデの歩みには、「死の波がわたしを囲み」(5節)、もはやこれまでと思えるような危機もありました。しかし「苦難の中から主を呼び求め」ると、「叫びは御耳に届く」のです(7節)。「地は揺れ動き、天の基は震え、揺らぐ」(8節)ほどの怒りをもって主は介入してくださり、力があって勝ち誇っていた敵の手から「救い出され」ます(18節)。貧しく弱い者であったのに、「戦う力をわたしの身に帯びさせ」てくださるのです(40節)。 ダビデの主は、私たちの神です。私たちの生きる現実にも介入してくださいます。 Wed, 03 Feb 2021 00:10:00 +0000 責任を問うことと憐れみ(サムエル記下 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210203 no 2021 ダビデはそこからサウルの骨とその子ヨナタンの骨を運び、人々は今回さらされた者たちの骨を集め、サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの国の祈りにこたえられた。 (サムエル記下21章13節~14節) 21章の出来事は、20章に時間的に続くわけではないようです。ダビデ在位中の3年間に飢饉が起こりました。主に問うと、ギブオン人を殺したサウルとその家に責任があるとわかりました。 ギブオン人とは、イスラエルの民がヨシュアに率いられてカナンの地に入って来たとき、遠方から来たと偽って命を保障する協定を結ばせた人びとです。イスラエルは主にかけて誓ったので、彼らに手をかけることができず、彼らはイスラエルの間に住み続けることとなりました。サウルは、その誓いを破ってギブオン人を滅ぼそうとしたのです。 ダビデは、ギブオン人の要求どおりにサウルの子孫7名を引き渡しました。ところが、殺されてさらされた遺体を、ある女性が鳥や獣から守り続けます。ダビデは心を動かされ、まだ葬られないままであったサウルとヨナタンの遺骨と共に、彼らを墓に葬ります。 神は、サウルの子孫が処刑された時ではなく、さらされていた者たちが葬られた後に、飢饉の終息を求める祈りに応えられました。責任を問いつつも、憐れみが失われてはならないのです。 Tue, 02 Feb 2021 00:10:00 +0000 平和を望む忠実な者の知恵(サムエル記下 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210202 no 2021 わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。あなたはイスラエルの母なる町を滅ぼそうとしておられます。何故、あなたは主の嗣業を呑み尽くそうとなさるのですか。」 (サムエル記下20章19節) アブサロムによる反乱が収束し、ダビデと家臣たちはヨルダン川を渡ってエルサレムに戻ろうとしています。まもなく一件落着というところで、ビクリの息子シェバが反乱を起こします。危機が収束しそうでなかなか収束しません。 ダビデ王は軍事力によって直ちに鎮圧しようとします。アブサロム側で司令官だったアマサを、ダビデも司令官に任用しましたが(19章14、15節)、アマサは王の命令どおりに行動しません。さらに、もともと司令官であったヨアブがアマサを殺すという事件まで起こります。 このような問題をはらんだ軍隊が、イスラエル北部の町に入ったシェバを包囲します。ヨアブは城壁を崩して、この町に攻め入ろうとしますが、果たして、それで危機は収束するのでしょうか。国内の混乱や対立が、かえって激しくならないでしょうか。 ここで重要な役割を果たすのが知恵ある女性です。彼女は「平和を望む忠実な者」としてヨアブに語りかけ、町を破壊させることなく平和を実現します。軍事的な力ではなく、平和を望む知恵によって、危機は収束したのです。 Mon, 01 Feb 2021 00:10:00 +0000 より確かな平和を目指して(サムエル記下 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210201 no 2021 だがダビデは言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。お前たちは今日わたしに敵対するつもりか。今日、イスラエル人が死刑にされてよいものだろうか。今日わたしがイスラエルの王であることを、わたし自身が知らないと思うのか。」 (サムエル記下19章23節) ダビデの息子アブサロムの死という大きな犠牲がありましたが、クーデターの危機は収束しました。アブサロム側に付いたイスラエルはダビデを王として連れ戻すことを決めます。ダビデがエルサレムから逃げていく時にはサウル家の恨みを口にしてダビデを呪ったゲラの子シムイも、だれより早くダビデを迎えようとして、ヨルダン川までやって来ました。 勝者であったダビデは、彼に復讐することもできました。実際、ダビデに仕える将軍の一人であったツェルヤの息子アビシャイは、「シムイが死なずに済むでしょうか」といきり立ちます。 危機が起こった時に明らかになったのは、王位を失ったサウル家の人びとの不満でした。しかし、彼らもイスラエルの一員なのです。危機の収束に際してダビデが目指したのは、正当な報復ではなく、危機の前よりも確かな平和でした。シムイを赦すことで、ダビデに対するサウル家の人びとの信頼は深まったことでしょう。 主は危機を与え、そして危機を収束してくださいます。私たちはその機会をどう用いるべきでしょうか。 Sun, 31 Jan 2021 00:10:00 +0000 漁師たちを弟子にする主イエス(マルコによる福音書 1章14-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210131 no 2021 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。…すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 (マルコによる福音書1章17節~18節、20節) 主イエスの到来によって、御子による御国の成就が始まりました。主イエスのご人格とお働きを通して、人びとはまさに近づきつつある御国に出会います。「悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスは言われます。人びとを御国に招くためです。 そこで、人びとは主イエスに従って御国の民として生きるか、主イエスを拒否して世の人として残るか、その応答によってどちらか一方が自分たちの現実となります。 主イエスは、まず、シモンとシモンの兄弟アンデレに、「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると、二人は「すぐに」網を捨てて主イエスに従いました。 次にゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になると、主イエスは彼らも招かれました。するとこの二人も船と家族と仲間をそのまま置いて主イエスに従いました。 家族や生活の手段を捨てて主イエスに従うことは、彼らにとって大きな決断であったに違いありません。しかし、彼らはためらうことなく従いました。主イエスに全幅の信頼を寄せて従う彼らの信仰の姿に倣いましょう。 Sat, 30 Jan 2021 00:10:00 +0000 偏った愛情が生む悲劇(サムエル記下 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210130 no 2021 「あなたは我々の1万人にも等しい方です。今は町にとどまり、町から我々を助けてくださる方がよいのです。」 (サムエル記下18章3節) 反乱軍と戦うダビデは、当初自身が先頭に立って出陣しようとします。兵たちは、王の命こそ守らなければならないと、王を後方に留めます。この忠実な兵に対して、ダビデは彼らの命ではなく、敵対する息子アブサロムの命を心配します。後に勝利が伝えられた時も、ダビデが心配するのはアブサロムのことばかりでした。ダビデの愛情は実に偏っています。 一方のアブサロムは、フシャイの策略に乗って自ら前線に出ます。そしてこれが命取りになります。戦いはダビデ軍の一方的な勝利に終わりました。敗走するアブサロムは髪の毛が木にからまり、宙吊りになってしまいます。 兵たちは、王の命令を守ってアブサロムを保護しようとします。しかし、将軍ヨアブは自ら王子の命を奪います。反乱者を見逃さない判断はダビデより冷静かもしれません。しかし、ヨアブはヨアブで、ダビデ王と自分の立場だけを求める人物です。彼の愛情も偏っていると言わざるをえません。 人の愛情は偏り、その偏りが悲劇を生みます。偏ることのない愛、神の愛こそ私たちを生かすのです。 Fri, 29 Jan 2021 00:10:00 +0000 主が定められたことが成る(サムエル記下 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210129 no 2021 アブサロムも、どのイスラエル人も、アルキ人フシャイの提案がアヒトフェルの提案にまさると思った。アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである。 (サムエル記下17章14節) アブサロムの軍師アヒトフェルは、その言葉が「神託のように受け取られ」(16章23節)と言われる、優れた人物でした。実際に彼の進言した追撃作戦が実行されれば、ダビデの命は絶たれていたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。 彼に対抗するアルキ人フシャイは、言葉巧みにアブサロムと人びとに訴えかけ、ダビデに時間を与える、別の作戦を提案します。その結果、アヒトフェルの優れた提案は捨てられることになります。アヒトフェルは自身の提案が受け入れられないことを見て、自分の町に戻って自害します。洞察力に優れた彼は、アブサロム軍と自身の末路を見定めたのでしょう。 その後、使者として遣わされたヨナタンとアヒマアツは、バフリムの町の無名の女性の機転によって、幸いにも追っ手を逃れます。その結果、ダビデ一行はその夜の内にヨルダン川を渡り、東岸の町マハナイムに逃れ、軍を立て直すことができたのです。 人の知恵がどんなに優れていても、最後には神の御心が実現します。知恵を尽くした上で、最後に神に委ねる信仰が求められるのです。 Thu, 28 Jan 2021 00:10:00 +0000 人々の思惑(サムエル記下 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210128 no 2021 「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 (サムエル記下16章11節~12節) エルサレムから落ち延びるダビデの前に次々と人が現れます。15章の人びとに比べて、16章の人物は一癖ある人たちばかりです。 サウル王の孫メフィボシェトの従者ツィバは、ダビデに食料を提供します。同時に彼は、自分の主人メフィボシェトがダビデを批判していたと告げ口をします。 同じサウル家に属するゲラの子シムイは、逃げ落ちるダビデ一行に石を投げ、呪いの言葉を吐きます。ダビデは、この屈辱的な言葉をも主から出たものとして甘んじて受けます。後にこの二人が再びダビデの前に姿を見せる時、彼らの心の内が明らかになります(19章)。 一方、ダビデの密命を受けたアルキ人フシャイは、エルサレムに入城したアブサロムに取り入ります。また、ダビデの顧問ギロ人アヒトフェルは、ダビデがエルサレムに残した側女のところに入るようアブサロムに進言します。これは父の王位を自らのものとすることの宣言です。また同時に、憎しみを増し、対立を決定的にするものでした。 人の思惑が交錯します。しかし、最後に実現するのは、神の御心なのです。 Wed, 27 Jan 2021 00:10:00 +0000 父と子の違い(サムエル記下 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210127 no 2021 「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」 (サムエル記下15章25節~26節) アブサロムは、一流の戦略家でした。年月をかけて力を蓄え、人心を掴み、味方を増やし、地の利を得て、父ダビデに反乱を起こします。ダビデは息子の反乱に命からがら逃げ出すしかありませんでした。 それでも、ダビデに従う人も少なくありませんでした。ガト人イタイとガト人600人は、本来はペリシテの人ですが、改めてダビデに忠誠を誓います。彼らは後に、ダビデが反撃に転じる際に軍の一翼を担います。 一方アルキ人フシャイはダビデからの密命を帯びて、アブサロムの下に降り、祭司ツァドクやアビアタルたちと共に撹乱する役目を担います。こうして、アブサロムの策略に対して、ダビデも逆転の布石を打つのです。 その一方で、ダビデは神の箱を運び出すことは拒みます。神の箱を王の正当性の根拠として利用するのではなく、むしろ神に自身の正当性を委ねるのです。 自身の戦略に身を委ねたアブサロムと、知恵を用いつつも最終的には主に委ねたダビデ。この違いが二人の勝敗を分けたのです。 Tue, 26 Jan 2021 00:10:00 +0000 赦すことの難しさ(サムエル記下 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210126 no 2021 わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます。 (サムエル記下14章14節) アムノンを暗殺したアブサロムは、母方の祖父、ゲシュル王の元に亡命します。新共同訳聖書は、「王の心がアブサロムに向かっている」と、ダビデがアムノンの死に折り合いをつけたように記します。しかし、この言葉は、「敵意をいだく」とも訳せる言葉です。ダビデは深くアムノンを愛するがゆえにアブサロムを赦し難く、同時に深くアブサロムを愛するがゆえに、何もできずにいるのです。 そこで、ダビデの思いを知るヨアブが手を回します。ダビデはヨアブの企てを受け入れ、アブサロムを呼び戻します。しかし、エルサレムに戻ったアブサロムは、2年間王への謁見が許されません。味方と思ったヨアブまでもアブサロムを無視します。 アブサロムは強硬な手段を用いてヨアブを呼び出し、父王との謁見を果たします。しかし、なおわだかまりは解消しません。本当の赦しは、このわだかまりを越えて初めて実現します。ダビデとアブサロムはこのわだかまりを乗り越えることができませんでした。そのことはさらなる悲劇を招きます。本当の赦しは人の力ではなく神に委ねることで初めて得られるのです。 Mon, 25 Jan 2021 00:10:00 +0000 人間の愛の恐ろしさ(サムエル記下 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210125 no 2021 アムノンは激しい憎しみを彼女に覚えた。その憎しみは、彼女を愛していたその愛よりも激しかった。 (サムエル記下13章15節) ダビデの王家に暗い影がかかり始めます。一方で、それはよくある王家の跡目争いです。しかし、聖書は一連の出来事の始めにバト・シェバ事件を置くことによって、全てがダビデの罪の影響であることを示しています。 一連の出来事には、家族関係に収まりきらない、すべての人が持っている感情が表れています。 アムノンはダビデの長男で、正当な王位継承者の立場を持つ者です。アブサロムは、妹のタマルと共に美しい容姿を持つ人でした。また、彼らを動かすヨナダブは、王子たちの従兄弟で、大変賢い男とされています。いずれも立場や賜物に富んだ人びとですが、ここで見られる彼らの愛憎劇は、人がどんな立場や賜物を持っていても自らの思いを制御できず、不幸を生み出す姿を教えます。 そもそもすべての背後にダビデの王子たちへの偏った愛情があります。ダビデは彼らを愛していましたが、教え導くことに関しては無力でした。甘やかしていたと言わざるを得ません。神の知恵の導きを伴う愛だけが、真に人を生かすことができるのです。 Sun, 24 Jan 2021 00:10:00 +0000 主イエスに出会ったナタナエル(ヨハネによる福音書 1章43-51節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210124 no 2021 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 (ヨハネによる福音書1章49節) フィリポはナタナエルに会って、自分が出会ったナザレのイエスこそモーセや預言者たちが書いたメシアであると言いました。ナタナエルは、ナザレのような重要でない地域からメシアが出るだろうかとフィリポに問います。 フィリポに「来て、見なさい」と言われて主イエスのところに連れて来られたナタナエルに、主イエスは「まことのイスラエル人だ」と言われ、彼を予め知っていたと言われました。主イエスとの対話で神の権能を発見したナタナエルは、主イエスに「あなたは神の子です」と告白します。まことのイスラエル人がまことのイスラエルの王に出会った瞬間です。その日から、ナタナエルはキリストに従って生きるキリストの弟子となります。 主イエスは、天におられる神ご自身ですが、地では「人の子」として神の救済の業の仲保者として働かれました。主イエスを知ることは、父なる神を知ることです。まことの神であって、まことの人である主イエスとの交わりに生きる人は、父なる神を知り、救いの恵みにあずかります。そして、それは、主イエスへの信仰を告白する私たちの上にも起こるのです。 Sat, 23 Jan 2021 00:10:00 +0000 秩序と平和の神への礼拝の時(コリントの信徒への手紙一 14章26-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210123 no 2021 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 (コリントの信徒への手紙一14章33節) 真理がどこにあるのか分からない。それを真剣に問うことさえも許さないような世の中です。礼拝は、私たちをそこから目覚めさせ、真理へと引き戻してくれます。 しかし、コリント教会での礼拝は、それによって目覚めるどころか、教会の外の世界の見栄の張り合いをそのまま持ち込むような礼拝になってしまっていました。 パウロはここで、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」と語ります。これは、コリント教会のひどく混乱した状態に向けて、その騒ぎを静めるための言葉として理解すべきでしょう。パウロは教会での女性の働きを決して低く見たり、制限したりはせず、むしろ男性以上に評価しています(ロマ16章1、2節を参照)。 パウロは、コリント教会の人びとを神との真実の出会いへと導きたかった、それを実現する秩序ある礼拝を回復させたかったのです。今、良き秩序と平和の中で礼拝ができることを私たちは改めて感謝したいと思います。私たちの明日の礼拝も、神が秩序と平和の内に祝福してくださいますように。 Fri, 22 Jan 2021 00:10:00 +0000 人と教会を造り上げる言葉(コリントの信徒への手紙一 14章1-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210122 no 2021 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。 (コリントの信徒への手紙一14章3節~4節) 異言に対して、パウロはここで、それはそれですばらしいものではあるのだけれども、それは人と教会を建て上げる言葉ではないと苦言を呈しています。 パウロは、人を造り上げ、教会を造り上げること、そして何にも増して、そこで愛が追い求められる、ということを大切に教えました。何が為されようとも、何が語られようとも、またそれがいくら筋の通った、正義感に満ちた言動であろうとも、それが本当に、愛に根付いたキリストの教会を建て上げる言葉でなければ、それは虚しいものとなってしまうからです。 人を造り上げる愛よりも、逆に自分を建て上げる自己愛で、心がいっぱいになって生きているような私たちです。人に通じず届かない言葉を、思わずもっともらしく口走ってしまい、赦しを乞わなければならない私たちです。 そのような私たちがきょう、愛を追い求めることができるように。私たちがたがいに愛によって造り上げ、支え合うことができますように。神がきょう私たちの間に働いて、私たちの言葉を用いてくださいますように。 Thu, 21 Jan 2021 00:10:00 +0000 愛とは(コリントの信徒への手紙一 13章8-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210121 no 2021 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 (コリントの信徒への手紙一13章13節) 「信仰、希望、愛、その中で最も大いなるものは愛」。これは、教会や、私たちや、あるいはこれから結婚するカップルに向かって語られる、これを目標に頑張って愛に生きよう、というスローガンではありません。この私たちに向かって、永遠に変わらない、朽ちない、神からの大きな愛が、あの主イエス・キリストとの十字架と復活というはっきりとした証拠を伴って、既に与えられています。愛とはまず、この神からの愛ですので、それゆえに愛は決して滅びないのです。 パウロは教会に向かって、あなたがたはその愛の只中で生きてよい。あなたがたはそのいつまでも残る愛によって、生かされている。だから、この神からの愛をますます深く知ることが、あなたがたの最高の道なのだと勧めます。 私たちは今、永遠に朽ちない神の愛で満たされ、いつまでも残るその愛を内側に宿しています。ダイヤモンドよりも固く強い、神の永遠の愛、その愛にあずかっている教会と私たちは、その永遠の愛の中で、いつまでも安らいでいることができる。私たちは永遠に、この大いなる神の愛の中に守られるのです。 Wed, 20 Jan 2021 00:10:00 +0000 愛とは(コリントの信徒への手紙一 13章1-7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210120 no 2021 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 (コリントの信徒への手紙一13章4節) 私はかつて、愛というものを、ケーキの様な、甘く柔らかくて、ふんわりとした、スイートなものだと思っていました。 けれども、聖書が語る愛は、いきなり「愛は忍耐強い」という言葉で始まっています。ここにはスイートのかけらもありません。ねたまない、自慢しないとありますが、ねたまない愛などあるのでしょうか。愛があるからこそねたみ、自慢したくなるのではないでしょうか。しかし、それらのことすべては、聖書が語る愛においては否定されています。 森有正という哲学者は、「愛はその本性から言って悲劇的なものである」と言います(『森有正エッセー集成5』ちくま学芸文庫)。そこで主イエス・キリストの十字架が考えられていることは明らかです。 この御言葉にある愛は、主イエス・キリストの十字架にこそ見いだせます。自分の幸福などみじんも考えない、もう自分のことなど頭になく、相手の幸福しか見えない。そういうがむしゃらさで、御自分のすべてを、その命をもささげ尽くしてくださる主イエス・キリストの愛。愛とは何か。この問いへの答えが、ここにあります。 Tue, 19 Jan 2021 00:10:00 +0000 私たちはキリストの体、大切なその部分(コリントの信徒への手紙一 12章12-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210119 no 2021 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 (コリントの信徒への手紙一12章27節) 教会とは、私たちとは、何者か。それは一人ひとりが、まるで人体のように組み合わされた、多様性と一致が両立している共同体である。しかし、この言葉では足りません。それ以上のことをきょうの御言葉は語ります。 私たちはキリストの体である。キリストは、実にこの私たち一人ひとりを体として用いて行動され、私たちによってこの地を歩まれ、御自身の御業を為してくださいます。それは、私たちが自分自身の体の主であること以上に尊く大事な事実、真理です。 そして私たちが、自分が大事なキリストの御体の一部であることを喜ぶとき、同時にキリストも、御自分の体として私たちを大切にしてくださいます。その骨格を支え保ち、御自身の命の血をその隅々にまで行き渡らせてくださいます。この教会という御体を、御自身の復活の命と同じ新たな命にあずからせて、今もキリストは、天からひとつの霊を遣わして、この体を御自身の宮として支えてくださいます。 キリストは、教会という体を通して働き、またその体の中に、今も生きていてくださっています。 Mon, 18 Jan 2021 00:10:00 +0000 オンリーワンのその先へ(コリントの信徒への手紙一 12章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210118 no 2021 すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に、“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 (コリントの信徒への手紙一12章6節~7節) 「ナンバーワンよりオンリーワン」とよく言われます。しかし、それでよいのでしょうか。それぞれが自分のオンリーワンをぶつけ合うだけになってしまうのなら、そこに調和は成り立ちません。 パウロが向き合っていたコリント教会は、実はそんな状況だったのかもしれません。それぞれが、自分の賜物を誇り合っていたのでしょう。 聖書は、パウロの言葉を通して、みんなが一人ひとり持っている違いの根本にあるのは神の霊であること、さらにそれぞれに神から与えられている違いの目標までをも、示しています。その目標とは、キリストの体としての「全体の益となるため」という一つのことです。 私がオンリーワンである目的は、ただ自分色の花を咲かせるためなのではありません。それは全体の益のためです。私たちそれぞれの個性や賜物、働きは、それぞれが自己実現して一人で輝くためにあるのではなく、豊かに組み合わされて全体の必要を満たすためにこそあります。そして全体を生かすために自分を用いるとき、そのように生きられた主イエスの後ろ姿が見えるのです。 Sun, 17 Jan 2021 00:10:00 +0000 洗礼を受けられた主イエス(マルコによる福音書 1章4-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210117 no 2021 イエスは…ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 (マルコによる福音書1章9節~10節) 洗礼者ヨハネの働きは、主イエスによってなされる救いの御業の始まりを知らせることにあります。それは、荒れ野で罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を人々に授けることです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を受けた人々が、後から来て聖霊で洗礼をお授けになる主イエスのもとに導かれることを願いました。 そこに主イエスが来られ、ヨハネから洗礼を受けられます。それによって、御子の贖いの御業が始まりました。主イエスは罪のないお方ですから、本来、悔い改めて洗礼を受ける必要はありません。しかし、主イエスはへりくだって洗礼を受けてくださいました。これは、ご自身を私たち罪人と結び合わせ、身代わりとなってくださることを指し示しています。こうして、主イエスは、多くの人びとのための救いの御業を始められました。 かつてエジプトで苦役を課せられていたイスラエルの民は、モーセに導かれてエジプトを脱し、約束の地カナンに入りました。そのように、私たちはメシアであられる主イエスによって御国に入れられます。 この主イエスを信じることによって、私たちは救われた者として生かされるのです。 Sat, 16 Jan 2021 00:10:00 +0000 命を奪い、与える神(サムエル記下 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210116 no 2021 バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。 (サムエル記下12章24節~25節) ダビデの罪は、直ちに主に裁かれます。ナタンを通して自身の罪を示されたダビデは、初めて深く悔い改めます。しかし罪への罰は厳しいものでした。生まれた子は命を奪われることになります。 今日の私たちから見ると、ダビデ自身ではなく子が罰を受けるのは不条理に映るでしょう。しかし、そもそも神は、私たちには計り知ることができない判断に基づいて、人に命を与え、また奪う権威を持っておられるのです。 ダビデは子が助かるように断食します。ところが子が死んだ知らせを受けると立ち上がり、食事をします。周囲の反応を見ても、これは異例な振る舞いでした。不審に思い、尋ねる家臣へのダビデの返事には、彼の神理解が表れています。すなわち、ダビデは、どんな罪でも生きている限り神の赦しが与えられる余地があること、また一方で、神の決定は動かしがたいものとして受け入れるべきことを確信していたのです。 裁きの一方で、神はバト・シェバに新しい子を与えます。その子は「主に愛された者」と呼ばれます。最後にダビデは、神の赦しによって、再び命を与えられるのです。 Fri, 15 Jan 2021 00:10:00 +0000 恥ずべき人間関係(サムエル記下 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210115 no 2021 「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」 (サムエル記下11章11節) 聖書に記される人間の影の面の中でも、最も目を背けたくなるような事件が起こります。王の命令で民が戦っている最中、王自身は王宮で姦淫の罪を犯します。その上、姦淫相手の夫である自分の家臣を陥れて殺してしまいます。神をも、人をも裏切る行為です。 罪を犯したダビデ自身が厳しく責められなければならないのは当然のことですが、ここにもう一人の人物が関わっています。それは、王の将軍ヨアブです。ヨアブはダビデの姉の子で、ダビデの家臣の名が挙げられる時には常に筆頭に登場するほどのダビデの右腕でした。熱血漢で、親族を愛し、叔父であるダビデのためと思えばなんでもする人物でした。そんなヨアブでしたから、ダビデは罪の後始末を委ねたのかもしれません。ヨアブもダビデの罪を知りながら「ダビデのために」落ち度のない部下の命を奪ったのかもしれません。 しかし、この関係は、神の前で恥ずべきものでした。殺されたウリヤの、王や仲間への誠実さとは全く逆の不誠実な関係でした。神の御心に沿わない悪しき関係は不幸の原因となっていきます。 Thu, 14 Jan 2021 00:10:00 +0000 相手を信頼する判断(サムエル記下 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210114 no 2021 「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」 (サムエル記下10章12節) アンモン人は、イスラエルとは常に緊張関係にある民族でした(サム上11章参照)。しかし、ダビデはアンモン王ナハシュとある信頼関係を築いていたようです。王の代替わりに際し、ダビデは礼節を尽くそうとします。けれども、若い王ハヌンは、ダビデの使者を疑い、侮辱的に扱います。確かに国同士の関係は判断が難しいでしょう。しかし、相手を信頼せず、力で対抗するアンモン王の判断は、協力関係を破壊し、結果として衰えの原因となります。 対立は直ちに戦争となり、イスラエルの将軍ヨアブが出陣します。アンモン軍はアラム人の援軍を得て、イスラエルを挟み撃ちにしようとします。対するヨアブは軍を二つに分け、二正面作戦をとります。一軍を率いるのはヨアブの兄弟アビシャイです。二人には兄弟としての信頼関係が十分にありました。それ以上に神への信頼が二人を結びつけていました。戦いの結果、傭兵であったアラム軍が敗走し、戦闘はイスラエルの勝利に終わります。 不信が争いを生んだのに対して、信頼が勝利を生みました。主が最も良いことを行ってくださったのです。 Wed, 13 Jan 2021 00:10:00 +0000 王は慎重に、丁寧に平和を積み重ねてゆく(サムエル記下 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210113 no 2021 「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」…、メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」 (サムエル記下9章7節~8節) 隆盛を極めるダビデにも幾つかの懸念事項が残されていました。ダビデはかつてサウル家に仕えていたツィバという人物を呼び出します。サウル家の後継者について情報を得るためです。 サウル家を慎重に適切に扱うこと。一つ間違えばイスラエルの分裂を招きかねないこの問題にダビデは細心の注意を払います。サウルは一貫してダビデの命を狙い続けた人物です。その悔しさをダビデと苦楽を共にした家臣たちは忘れていないでしょう。サウルの家を篤く用いることは難しい。しかしぞんざいに扱うこともできない。また、ダビデには、サウルの息子ヨナタンとの命をかけた約束がありました。その家を守る責任がダビデにはあったのです(サム上20章13~16節)。 ダビデは苦心したことでしょう。ヨナタンの息子メフィボシェトを王の食卓に招きます。そうすれば、サウル家の行動をダビデの目の届く所に置くことができます。ヨナタンとの友情にも義を通すことができます。 丁寧に丁寧に物事を進めていくダビデ。そこに平和が積み重なってゆきます。 Tue, 12 Jan 2021 00:10:00 +0000 裁きと恵みの業よ、来たりませと我ら願う(サムエル記下 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210112 no 2021 ダビデ王はこれらの品々を、征服したすべての異邦の民から得た銀や金と共に主のために聖別した。…主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。 ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。 (サムエル記下8章11節、14節~15節) ダビデの快進撃が続きます。古くからイスラエルの悩みの種であったペリシテを撃破することに始まり、北に東に、山に平野に、縦横無尽に兵を動かすダビデ軍は向かうところ敵なし。気づけば周辺諸国からの脅威は随分と小さなものになっていました。それは主がダビデに勝利を与えられたがゆえであるとサムエル記は記します。主が御心に定められ、それを地上に果たしていかれる時の強さを思わされます。誰も止めることができません。そのことに対する畏れを抱きます。 その御力は、同じようにダビデが用いられることで、イスラエルの国造りにも現されていきます。「裁きと恵みの業」が行われたと記されています。裁きが不正と結びつくとき、世は地獄となります。裁きが正しさと結びつくとき、人は恵みの中で生きられます。公正さが人の尊厳を守るものです。そのような平和を神がもたらされました。 そして、救い主によって再び、いや永遠なる平和の完成が成し遂げられる、と神の言葉は射程を伸ばしていきます(エレ23章5、6節等参照)。 Mon, 11 Jan 2021 00:10:00 +0000 神の約束は広く、長く、あなたにまで届く(サムエル記下 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210111 no 2021 「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。」 (サムエル記下7章27節~28節) 戦いと戦いの狭間にもたらされた平和な一瞬間。ダビデの心には「安らぎ」(1節)と共に浮かんでくることがありました。それは、主のために神殿を建設したいということです。主への畏れと感謝が適切にあらわされた家を造ること。そこに、ダビデは王としての自分の仕事を見ました。 が、それはあなたの仕事ではない。ダビデはすぐに自分の願いを阻む主の言葉を聞かなくてはなりませんでした。それでいて、その言葉は「恵みの御言葉」だったのです。「主があなたのために家を興す」(11節)。主がその家を「あなたの身から出る子孫」(12節)によってとこしえに堅く据える。主のためにと願ったダビデは逆に、主があなたのためにという約束を受けることになります。ダビデの視界に主の祝福が広がります。それは彼の子ソロモンへ、さらにその先へと広がっていくものでした。ダビデはその約束の先、救い主がもたらす安らぎの時代にまで思いを向けられたでしょうか。 その安らぎが、きょう、あなたに届くことを祈ります。恵みの言葉を通して。 Sun, 10 Jan 2021 00:10:00 +0000 メシアとしてこられた主イエス(マタイによる福音書 2章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210110 no 2021 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』 (マタイによる福音書2章6節) 主イエスのご降誕は旧約の預言を成就する出来事であり、メシア(救い主)が地上に来られたということです。 そのことで、ヘロデ王は不安を抱きました。自分の王としての権威が脅かされると思い、彼は主イエスを殺そうと計略を立てました。 他方、祭司長や律法学者たちは旧約聖書をよく知り、旧約の伝統の中に生きていましたが、イスラエルの牧者として来られたメシアを知りませんでした。 しかし、神は、この地に救い主が来られたことを、東方の占星術の学者たちによるベツレヘム訪問によって、世界中に示されました。救い主としてご降誕されたイエス・キリストへの賛美と礼拝が、異邦人によってささげられたのです。 主イエスのご降誕は、世の中の人びとを二つの群れに分けます。一方は、主イエスを救い主として迎える人びと、もう一方は、不信感をもって主イエスを退ける人びとです。この二つだけで、中間的立場はあり得ません。 どのような状況であれ、「主イエスは救い主である」という告白だけが真実で、イエスを救い主として迎える人は救われるのです。 Sat, 09 Jan 2021 00:10:00 +0000 神を畏れ、低められる者に主の祝福を(サムエル記下 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210109 no 2021 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。…サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心のうちにさげすんだ。 (サムエル記下6章14節~16節) イスラエルの都、「ダビデの町」として整備が進められるエルサレムに主が共におられる。その平安を求めて、神の箱が運び込まれます。箱には民を教え導く契約の板が納められていました。そこに神の御心が刻まれている。その御心を讃える国造りをダビデは願います。 箱の移送には、ダビデ自らが陣頭指揮にあたります。しかし、不注意による事故、いやその事故に神への畏れの欠如と無知を見たダビデは、神の怒りを誠実に畏れます。そしてエルサレムまでの道のりを改めて神への礼拝として進みゆくことにします。民と一緒に、心と力の限りを尽くして賛美の舞を踊り続けます。 が、その姿はミカルにとってさげすむべきものでした。彼女には超然たる王として歩んだ父の姿が理想としてあったのでしょうか。そのミカルにダビデは言います。「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう」(22節)。そうあることがダビデにとって主の御前に王として歩むことでした。神を畏れ、低められる人の心に主の祝福が豊かにありますように。 Fri, 08 Jan 2021 00:10:00 +0000 伏す時があり、飛躍の時がある(サムエル記下 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210108 no 2021 ダビデはこの要害に住み、それをダビデの町と呼び、ミロから内部まで、周囲に城壁を築いた。ダビデは次第に勢力を増し、万軍の神、主は彼と共におられた。 (サムエル記下5章9節~10節) ダビデを全イスラエルの王に。今は亡きアブネルが整えた道筋は消えていません。イスラエルの長老たちがやってきます。そして「ダビデはヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした」(3節)。 王とされたダビデは、早速、兵をエルサレムに向けます。その町を新しい秩序の中心地とするためです。エルサレムはイスラエルとユダの境界線にあり、両陣営の力が共に及ばない空白地帯でした。難攻不落を誇る天然の要害でもある、その町ほど都に最適な場所はなかったでしょう。しかし、守るに易く、攻め難いエルサレムをいかに攻略するのか。 が、戦いは予想に反し、あっけない幕切れを見せます。ダビデ軍は正面突破を避け、「水くみのトンネル」から城内に侵入。あっという間に勝負をつけてしまいました。奇襲戦を得意とするダビデの面目躍如といったところでしょうか。 ダビデの背中を押す風が吹いているようです。忍耐の期間から解き放たれるようにして、ダビデは王としての歩みを進めます。 Thu, 07 Jan 2021 00:10:00 +0000 王家が崩壊してゆくなかで(サムエル記下 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210107 no 2021 ダビデはベエロト人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。 「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる。…自分の家の寝床で休んでいた正しい人を、神に逆らう者が殺したのだ。その流血の罪をお前たちの手に問わずにいられようか」 (サムエル記下4章9節、11節) 司令官アブネルの喪失は、サウル王家にこの上ない動揺をもたらしたことでしょう。雪崩を打つように王家は崩壊に向かいます。 行動を起こしたのは「ベニヤミンの民」である「二人の略奪隊の長」(2節)です。サウル軍の中核を担う重臣が謀反を起こしました。二人は変装をしたうえで、昼寝中の王の寝室に侵入。その首をはね、ダビデの地へと逃亡してゆきます。 王家に残されたもう一人の後継者は、両足が不自由で、王の任に耐えられそうにありません。戦いに行けないのです。ここに、サウル王家は崩れゆきます。 こうして、ダビデは自身では何も行動を起こさないまま、全イスラエルの王として立てられることになります。前半生が嘘のようです。かつては何をやってもサウルに疎まれ、うまくいきませんでした。それが今は何もかもがうまくいく。それは、ダビデが変わったからではありません。何も変わっていない。彼は主の御前に義を通し続けています。時が来ました。その歩みがようやく報いられる時が。それまで待ち続けたのです。 Wed, 06 Jan 2021 00:10:00 +0000 神と民に選ばれた王は忍耐で召しに応える(サムエル記下 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210106 no 2021 サウル王家とダビデ王家との戦いは長引いたが、ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は次第に衰えていった。…「わたしは油を注がれた王であるとはいえ、今は無力である。あの者ども、ツェルヤの息子たちはわたしの手に余る。悪をなす者には主御自身がその悪に報いられるように。」 (サムエル記下3章1節、39節) サウル王家に激震が走ります。司令官アブネルがダビデ側に寝返ったのです。王イシュ・ボシェトとの諍いが原因でした。アブネルはダビデを全イスラエルの新しい王に立てるべく動きます。ダビデに警戒する素振りは見えません。一つ、サウルの娘ミカルを連れて来ることを条件にアブネルを受け入れます。ミカルはダビデのかつての妻でもありました。若き時代の恋心を思い出したのか、サウルの娘を手元に置くことでイスラエルの王としての正統性を欲したのか。いずれにせよ、ダビデに好機が舞い込んできたことに違いありません。 しかし、その事態を快く思っていない人物がいました。ダビデ軍司令官ヨアブです。ヨアブは先の戦いでアブネルに討たれた若者の兄でした。ヨアブは秘密裏に弟の敵討ちに動きます。ダビデは蚊帳の外にあり、その計画を阻止することができません。ヨアブが強い力を持っていたからです。ダビデの忍耐は続きます。ダビデは王でありながら、その力を発揮できません。彼は耐えることで、神の召しに応えます。今はまだそういう時でした。 Tue, 05 Jan 2021 00:10:00 +0000 秩序が壊れる先に見えるものがあるならば(サムエル記下 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210105 no 2021 今、主があなたがたに慈しみとまことを尽くしてくださいますように。わたしも、そうしたあなたがたの働きに報いたいと思います。力を奮い起こし、勇敢な者となってください。あなたがたの主君サウルは亡くなられましたが、ユダの家はこのわたしに油を注いで自分たちの王としました。 (サムエル記下2章6節~7節) イスラエルは、ポスト・サウル体制に向けて、慌ただしく動いていきます。サウル軍司令官であったアブネルはサウルの子イシュ・ボシェトを担ぐことで現体制の維持を目指します。他方、新しい体制を望むユダの家の人びとは、ペリシテに亡命していた、かつてのサウル軍切り込み隊長ダビデを王に立てることで結束します。 どちらがイスラエルの主導権を握るのか。両者はギブオンの池で激突します。その戦いには一定の秩序が持ち込まれました。それぞれ代表者を立て、勝ち抜き戦で決着をつけること。そうして、お互いの戦力の消耗を防ぐこと。しかし、そのような合意は瞬く間に崩れ、戦いは総力戦へと雪崩れ込みます。被害が大きかったのは、旧サウル軍の方でした。しかし、ダビデ軍の方でも有力な若者を失うことになります。討ったのはアブネル。それが禍根を残すことになります。 混沌とする両者の戦い。秩序への努力とそれを一瞬にして壊す人間の罪。人は愚かです。しかし、そこから僅かでも気づけているものがあると信じたいのです。私たちの日々の営みにおいても。 Mon, 04 Jan 2021 00:10:00 +0000 主を畏れる人の間に、神の栄光は輝く(サムエル記下 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210104 no 2021 ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った。彼らは、剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き、夕暮れまで断食した。 (サムエル記下1章11節~12節) 不遇な時代にもたらされた好機の知らせは、ダビデの目にどのような輝きを放っていたでしょうか。 サウルの追撃を避け、ペリシテ地方ガトの王アキシュのもとに身を寄せていたダビデに、イスラエル敗北の知らせが伝えられます。その情報を届けたのは戦地から逃れてきたという怪しげな男でした。男は自分がサウルにとどめを刺したこと、さらにサウルの遺体から剥いできたという王冠と腕輪を差し出すことで、ダビデの懐に入り込もうとします。あなたが次の王だと。 細部の真偽はともかく、男が伝える情報はダビデにとって魅力的なものであったはずです。しかし、ダビデが躊躇なく見せたのは怒りと悲しみの姿でした。 「主が油注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か」(14節)。 ダビデ自身もサウルを手にかける機会が幾度かありました。その手を止めたのは主への畏れからです。ダビデが望むのは主に従う人によって表される世界です。その時、その場は神の栄光に輝きます。わたしもその輝きをきょう、仰ぎたい。 Sun, 03 Jan 2021 00:10:00 +0000 無尽蔵の富が約束されています(ローマの信徒への手紙 8章31-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210103 no 2021 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 (ローマの信徒への手紙8章32節) 神はその御子をさえ惜しまれなかった。つい先日、クリスマスに、その喜びを祝ったばかりです。神の愛、その誠実と真剣味を疑う余地はどこにもありません。御子をさえお与えになった神の愛が、救いに必要な一切のことを成し遂げ、すべての恵みと祝福を惜しまずに与えてくださることは確実です。 神の愛は、言葉や観念ではなく、御子を与えるほどの事実であり、一切を成し遂げる主権的な力です。神の愛は、キリストにあってわたしたちを選び、御子の誕生、十字架、復活によって、罪の赦しと滅びからの解放を実現しました。御子を十字架の死に引き渡した神の決意と愛の本気度を、どのように表現すればよいでしょうか。キリストの中に招きと赦し、愛の介入があります。 「御子をさえ」惜しまない、つまり最も尊い宝さえ、神は惜しみませんでした。救いに関わる「すべて」、無尽蔵の富が今と将来の教会に約束されています。試練を耐え忍ぶ「堅忍の恵み」、再臨と終末の完成、天の祝宴と「終わりなき終わりの安息」(アウグスティヌス)が聖徒らを待っています。 Sat, 02 Jan 2021 00:10:00 +0000 聖霊の執り成しが待っています(ローマの信徒への手紙 8章26-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210102 no 2021 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 (ローマの信徒への手紙8章26節) 聖書の信仰はとても正直です。「弱いわたしたち」という主題を決して避けないからです。その弱さの中には、「どう祈るべきか」を知らないことも含まれます。祈るほかに道がない、祈りにすがるほかに希望がない。それが分かっていながら、なお祈れない「弱いわたしたち」です。 すでに昨日の日課で、キリスト者のこころに宿る「うめき」が語られました(23節)。そして、きょうは聖霊による「うめき」が語られます。うめきの連鎖、うめきの伝達です。聖霊は、キリスト者のうめきを神に執り成すため、低い底にまで届いてくださいます。救いを求め癒やしを求めてうめく、その低い場所を、ご自分の場としてくださいます。 キリスト者と教会を、うめきの中に放置せず、孤立させない、聖霊による執り成しの臨場感・真剣味は驚くばかりです。執り成しは、執り成す相手を祈りの「主題」とします。教会もキリスト者も、それぞれ「主題」を掲げて新年を始めたはずです。その際、わたしたちはまず、聖霊による祈りの主題とされている事実に感謝し、「弱いわたしたち」を、ためらわずに聖霊の執り成しに委ねます。 Fri, 01 Jan 2021 00:10:00 +0000 神の子としての希望に生きる(ローマの信徒への手紙 8章18-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20210101 no 2021 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 (ローマの信徒への手紙8章23節) 神の子とされる希望。実に驚くべき恵みです。キリスト者は神の切なる招きによってすでに神の子です。その恵みは、長子キリストに似ること、虚無からの解放、人生の意味の発見、罪と死の怖れからの自由、終末の完成への確かな約束などを含みます。 他方で、神の子としての希望は、まだ道半ばです。苦しみと試練に喘ぎ、不慮の災難には慌てふためきます。家族や教会の困窮に不安をいだき、時には神の子とされている恵みさえ忘れ、失意の日々を過ごすこともまれではありません。 神の子としての完成は、「体の贖われること」を含みます。使徒信条が「体のよみがえり」を告白するとおりです。体をもつゆえの喜びがあり、体ゆえのうめきがあります。けれども救いの完成の日には、弱さに泣いた体が強められ、新たにされ、神からの誉れに包まれます。 その希望の手付けが「“霊”の初穂」です。豊かな収穫の約束である初穂。ここに希望の遠近法があります。うめきながら、やがて来る誉れと完成を仰ぐ霊の遠近法です。さあ、霊の初穂を携え、新年の礼拝に集いましょう。 Thu, 31 Dec 2020 00:10:00 +0000 キリストの再臨の約束(ヨハネの黙示録 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201231 no 2020 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 (ヨハネの黙示録22章20節~21節) 主イエスの「わたしはすぐに来る」(7、12節)という約束に、聖霊と「小羊の花嫁」である教会も「来てください」と応えます(17節)。この一語に、私たちに求められる信仰が込められています。いつの世も嵐の中にあると言える教会の中で、「来てください」という言葉が読まれるとき、心を合わせて「主イエスよ、来てください」と祈ることは必然です。黙示録の真の著者キリストは、この言葉が私たちの心の底から出るように導いて来られました。 聖書がその初めから終わりまで指し示してきたキリストご自身が、「アジア州にある7つの教会」と共に、世々の教会のキリスト者たちに、「然り、わたしはすぐに来る」と宣言されるのです。 主キリストは必ず来られます。だから、キリストを主と呼ぶ者たちとその教会は、嵐の中にあっても、「涙をことごとくぬぐい取」られ(21章4節)、頭を上げて「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈ります。 「イエス・キリストの黙示」は、また聖書は、祝福の言葉で閉じられます。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。 Wed, 30 Dec 2020 00:10:00 +0000 新しくされる天地(ヨハネの黙示録 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201230 no 2020 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。…「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21章1節~4節) キリストと教会に敵対していた脅威はまったく消え失せ、ヨハネは来るべき世の到来を見ます。現実には「パトモス島に」いて、「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネ」(1章9節)です。玉座から告げられる、神と共にいる人びとへの労苦からの解放宣言は、これまで見たどの幻にもましていっそう力強い励ましになったことでしょう。 また、「初めであり、終わりである」お方が、「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(6、7節)と言われます。かつてサマリアの町で井戸の水を汲みに来た女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4章14節)とおっしゃった主イエスの言葉が実現するのです。 ある友人の手紙の冒頭句は決まって、「今日まで導かれた主の御名を崇めます」です。世界的な疫病の年として歴史に刻まれるこの年が暮れようとする今、いつも共にいてくださった主イエス・キリストを感謝し崇めます。 Tue, 29 Dec 2020 00:10:00 +0000 「命の書」に基づく主の恵み(ヨハネの黙示録 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201229 no 2020 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 (ヨハネの黙示録20章12節) 「小羊(キリスト)」によって、「大淫婦」が焼かれ、「獣と偽預言者」に続いて「悪魔(サタン)」が、「死と陰府」と共に「火と硫黄の池に投げ込まれた」。創世記で「蛇(サタン)」に宣告された神の言葉(3章15節)が成就したのです。キリストの完全な勝利です。 そして、小羊の「命の書」に基づいて裁きがなされます。かつてキリストが言われました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3章16節)。「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(同36節)。これらが、厳かに完全に成就するのです。迫害の中にあるキリスト者にとって、何という慰めであり、励ましでしょうか。最後には、神の御前でキリストの恵みに包まれ、永遠の命を得るのです。 この光栄な特権がすでに信仰者たちの教会に与えられていることを覚えて、「命の書」に名が記されていることを確信し、忠実な信仰をもって歩み続けましょう。 Mon, 28 Dec 2020 00:10:00 +0000 神の栄光をたたえる(ヨハネの黙示録 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201228 no 2020 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。 「ハレルヤ、 全能者であり、 わたしたちの神である主が王となられた。 わたしたちは喜び、大いに喜び、 神の栄光をたたえよう。 小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。」 (ヨハネの黙示録19章6節~7節) 数百人のハレルヤコーラス(ヘンデル作「メサイア」)を聴いたことがあります。重なる声の厚さに、ただ圧倒されました。きっと天の「大群衆の声」は、もっと重厚なものであるに違いありません。 その「声」の「喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」という歓呼の理由は、地を汚した大淫婦に対する神の勝利を祝うだけでなく、「小羊の婚礼の日」が来るからです。 小羊キリストの「花嫁」は、神の教会です。教会は今もキリストの「花嫁」と言えますが、同時に「小羊の婚宴に招かれている者」でもありますから、その晴れの日のために「用意を整え」なければなりません。しかし、花嫁は衣装を自分で用意するのではなく、花嫁の「輝く清い麻の衣」は与えられる「救いの衣」(イザ61章10節)にほかなりません。それは、天の大群衆が身に着けていた「小羊の血で洗って白くした」衣(黙7章14節)でもあります。 キリストご自身が教会を迎えるために、先立って十字架につかれて、その罪を贖われたことを真実に受けとめ、「神のみを礼拝する」信仰を全うしたいと願います。 Sun, 27 Dec 2020 00:10:00 +0000 今こそ安らかに(ローマの信徒への手紙 2章22-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201227 no 2020 「主よ。今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」 (ローマの信徒への手紙2章29節~30節) 2章に登場するシメオンを紹介します。彼は信仰があつく、イスラエルの慰めを待ち望みつつ生きていました。彼が生きた時代はユダヤの激動の時代でした。ローマの支配下に置かれ、彼は慰めを見出すことができず、日々を過ごしていました。その中で、「メシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていました(26節)。このとき、ついに彼は、待ち望んでいた幼子イエスを腕に抱いて、「わたしはこの目で神の救いを見た」と言います。幼子イエスを通して神の救いが実現したことを確信したのです。ですから、彼は、「主よ。今こそあなたは、お言葉どおりにこの僕を安らかに去らせてください」と、喜んで言うことができました。 シメオンが目にした救いを私たちも見ることができます。なぜなら、それは万民のために神が備えてくださった救いだからです。 シメオンが待ち望んでいた救い主イエスに会い、大きな喜びと深い慰めが与えられたように、年末、私たちにも共にいます主イエスを通して大きな喜びと豊かな慰めが与えられますよう、祈ります。 Sat, 26 Dec 2020 00:10:00 +0000 東方からも導かれる(マタイによる福音書 2章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201226 no 2020 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 (マタイによる福音書2章10節~11節) クリスマスは、困難な伝道状況に希望を与える出来事です。 ユダヤ人の王の誕生を祝いたいと東方から博士たちがはるばる訪ねて来たからです。おそらく天文学者で、自分たちの研究の実りを信じています。また彼らは、世界の救いを待望していたようです。 救いの光、啓示の光は、空しく日々を過ごしていた人をも、自ら真理を探求する人をも照らし出します。孔子は「朝に真理を聴けば、夕べに死んでも悔いがない」と言いました。真理を愛する人は、真理に全存在をかけます。 宝の箱からささげられた品は学者の研究道具であったかもしれません。そうであれば最高の宝、誇りそのものです。何より、星に、つまり自分の学問にではなく、救い主に導かれる新しい人生へと出発します。この幼子こそ真理であると証言するのです。 心を砕いて祈りつつ教会にお誘いした友人知人が来てくれなかったクリスマスの後の寂しさを知っています。しかし、神はなお東方からやってくる選びの民をとらえ、導かれます。その日のために教会は、福音の真理をその生き方をもって証言し続けます。 Fri, 25 Dec 2020 00:10:00 +0000 私たちもベツレヘムへ行こうではないか(ローマの信徒への手紙 2章1-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201225 no 2020 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 (ローマの信徒への手紙2章10節~12節) クリスマス、それは福音の真理を学び直すときです。 降誕の知らせを最初に告げられたのは、ユダヤ社会で最も軽蔑されていた夜の番をする羊飼いでした。彼らは、宗教の掟を守れず、その清さを保てないとみなされていたからです。神に顧みられない者と差別され、自分でもそう思いながら生きていたことでしょう。 ところが、神は「それは違う」と言わんばかりに天使を派遣して言わせました。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」。さらに、「地には平和、御心に適う人にあれ」と。つまり神は、彼らこそ御心に適う人だと言うのです。どれほど驚かされ、喜んだことでしょうか。ですから、すぐに会いに行きます。彼らは福音の事実に感動し、この特権を独り占めしません。差別していた人びとのところに赴き、愛を込めて救いの出来事を告げます。ところが、人びとは不思議に思うだけで何も応答しません。 神は、最も小さくされた人を福音にあずからせて、この上なく尊い存在とし、差別されている人、する人に宣べ伝えさせます。さあ、私たちもベツレヘムへ行こう! Thu, 24 Dec 2020 00:10:00 +0000 人間を照らす光(ヨハネによる福音書 1章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201224 no 2020 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 (ヨハネによる福音書1章5節) クリスマスは人間を照らす光の祭りです。 「光あれ」と言の力をもって、光をはじめ万物を創造された神が、ついに人間を照らす命の光として闇の中に輝き始めたからです。 確かに、暗闇の中で光が放たれたら、闇は一瞬で消し去られるはずです。ところが、闇はなお闇のまま存在しています。この闇とは、私たちひとり一人の心にあるものだからです。私たちは闇を抱えたままでよいのです。闇は光に勝てないからです。 私たちはもはや闇の中で死ぬことはありません。主イエス・キリストはこの闇の中で輝き、私たちは、命の光を見つめていればよいのです。 私たちの見るところ、光はろうそくの炎のようにどこか頼りなげです。しかし、誰も神の命を吹き消せません。暖かな命の光に照らされれば、その人の心が愛に燃やされます。こうして光はぽつりぽつりと世界中に灯されていきます。今宵、どれほど小さな燭火礼拝式でも、闇を抱えたあなたが集えば、あなたの街は教会によって照らされ、あなたが隣人となるために出て行けば、キリストがあなたを通して世を照らします。 Wed, 23 Dec 2020 00:10:00 +0000 天地をひっくり返す歌(ローマの信徒への手紙 46-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201223 no 2020 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。 (ローマの信徒への手紙1章51節~53節) クリスマスは、天と地がひっくり返される出来事です。 もっとも高くにいます主イエスがもっとも低くなられたからです。主は思い上がって権力を振るう者を打ち散らす神の国を地上に建てる王として到来されたのです。 その意味を悟った神の母となる少女マリアは、魂の底から神を賛美します。その歌はロマンチックなものではなく、地上の諸国の価値はひっくり返されると宣言し、その戦いへと招集するものでした。 しかし今なお、世界は、この世の力こそ絶対で、自分の力こそ真実であると考える人が多数です。少しでも他人より身分の高い者になろうと競争し続ける邪悪な時代が続いています。クリスマスの主を拒絶し続けているのです。 しかし、見えないものを重んじる新しい世界、低い者が高くされる新しい時代は始まっています。ですから、権力の横暴を見過ごし、飢えた人が空腹のままでいることを知りながら、降誕祭を真実に祝うことはできません。教会は少女マリアと共に新しい歌をその内外で確信をもって歌いつつ、その実現を目指して戦い続けるのです。 Tue, 22 Dec 2020 00:10:00 +0000 クリスマスによる希望(ローマの信徒への手紙 8章18-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201222 no 2020 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 (ローマの信徒への手紙8章19節~20節) クリスマスは、この世界に揺るがぬ希望が投げ込まれた日です。人間は決して滅びることはないという事実。また、人間のために創造された世界も滅びることはないという事実が確定したからです。それどころか、全被造物が神の子の栄光の自由に完全にあずかれる保証まで与えられました。なぜなら、もしすべての人間が滅びれば、人間となられた主イエスも滅んでしまうからです。 あの夜、思いがけず家畜小屋にいた動物たちや羊飼いに導かれた羊たちにも、降誕による祝福と希望が分かち与えられました。彼らは被造物を代表するようにして御子なる赤ちゃんを礼拝し、祝福にあずかりました。 巷のクリスマスの夢や希望とは、自分の暮らしがより豊かになること、自分の願いが実現することなのでしょう。しかし、御子がもたらした夢や希望とは、世界が未だ見たことのない壮大なものでした。ここに真の希望があります。ですから、偽りの希望にあらがって、今ここで聖霊による神の子の自由に生きて参りましょう。真の希望を告白し、大きな明日を夢見て、きょうの務めを果たすのです。 Mon, 21 Dec 2020 00:10:00 +0000 罪人を救うため(テモテへの手紙一 1章12-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201221 no 2020 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 (テモテへの手紙一1章15節) クリスマスは、このわたしのための出来事です。 もとより、恵みの光は私たち人類のため、信じない人びとのためにも射し込みました。人類は等しく祝福されたのです。しかし、何よりも罪人の中の罪人であるこのわたしを救うため、そして地上にキリストの体である教会を贖いとるためです。 使徒パウロはかつて、約束の救い主は聖なるイスラエルに救いをもたらす方と信じていました。そして我こそは選びの民の先頭に立つ者、ふさわしい者であると自負していました。ところが復活の主にお会いしたとき、聖なる共同体の一員に加えられる資格のない者であることを深く認め始めました。ついに、罪人の中で最たる者との自覚に至りました。 毎年のクリスマスの楽しみの一つは、パウロの深い自覚を共有し、より深められることです。救い主は、このわたしをも罪人の頭であると承知の上で、ご自身の御業に忠実にいそしむ者と信頼し、奉仕者としてくださいました。罪人こそ奉仕者になれますし、なるべきなのです。罪人らしく謙虚にクリスマスの意味を同じ罪人に伝えましょう。 Sun, 20 Dec 2020 00:10:00 +0000 神の恵みが現れた(テトスへの手紙 2章11-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201220 no 2020 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望…であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 (テトスへの手紙2章11節~13節) クリスマスは、この世界に真実の驚きが投げ込まれた出来事です。 なぜなら、救いをもたらす神の恵みが、本来、いただく資格がないばかりか、むしろ怒りをもって打ち倒されるべき者に現れたからです。しかも、神も希望も知ることができなかった異邦人である私どもに現れたからです。 もし背後から突然、強盗に襲われたなら、人はこれまで絶対に手放してはならないと握りしめていた物でも落としてしまうでしょう。クリスマスには強盗ではなく、恵みが現れました。人は、この恵みに驚かされて、これがなければ生きる意味がないと握りしめていた現世的欲望を落としてしまいます。本当は落としただけかもしれません。ところが、それを神は恵み深く捨てたとさえ認めてくださり、何よりも真の宝を識別する思慮深い生き方を始めさせてくださるのです。 神はかけがえのない宝をお捨てになり、そうして、私たちを滅びから拾い上げてくださいました。栄光の主イエス・キリストという宝を見つめましょう。そのとき、従う喜びと再び来られるキリストへの希望に満たされます。 Sat, 19 Dec 2020 00:10:00 +0000 誰が主のようであろうか(ミカ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201219 no 2020 主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 (ミカ書7章19節) ミカは、どこを探しても正義と真実を求める者がいないことを嘆きます。それは、時期が過ぎて収穫すべき実がどこにもない悲しさにたとえられます(1、2節)。民も役人も悪事にたけ、己の利益のためには命さえ奪い、家族をも敵とみなします。しかし、わたしは主を仰ぎ見ると、悲惨と混乱の中で、ミカは主の救いを待ち望みます。 敵は、神の裁きを受けた民に対し、お前は二度と立ち上がれないと嘲ります。そこにしかし、神の驚くべき救いの約束が語られます。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」と。 神はキリストにあって神の民の罪を海の深みに投げ込まれました。それゆえ、この罪を再び引き上げることは誰にもできません。神は「永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない」お方だからです(詩103編9節)。 待降節のこのとき、「誰が主のようであろうか」(ミカの名前の意味)という問いに対し、「あなたのような憐れみ深い神はほかにはおられません」と、感謝と喜びをもって告白しようではありませんか。 Fri, 18 Dec 2020 00:10:00 +0000 神の求めておられること(ミカ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201218 no 2020 人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。 (ミカ書6章8節) ミカは、世代をこえて世界を目撃してきた山々を証人とし、法廷で争うように語ります。イスラエルの民に対し、主の告発を聞けと。 わたしにいったいどんな落ち度があったと言うのか、奴隷の地から、バラクのたくらみから救い出したこと、ヨルダン川を渡らせたことを思い起こし、主の恵みの御業を知るがよい、と主は訴えます。 神は民との契約に対していつも真実であり、忍耐強く憐れみ深く彼らを取り扱われました。それにも関わらずイスラエルの民は主への背信を繰り返したのです。 神が求めておられるのは、最も価値ある献げもの(1歳の子牛)でも、献げものの量の大小でもありません。隣人に対し正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことなのです。 神と共に歩もうとするならば、へりくだらなくてはなりません。へりくだるとは、神の恵みの御業を思い起こし、神の前に注意深く慎重に歩むということです。 神の御前に十字架の死に至るまで、注意深く慎重に歩み通された従順の主、キリストに、きょうも従っていこうではありませんか。 Thu, 17 Dec 2020 00:10:00 +0000 彼こそ、まさしく平和である(ミカ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201217 no 2020 彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。 彼らは安らかに住まう。 今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。 彼こそ、まさしく平和である。 (ミカ書5章3節~4節) 紀元前701年、エルサレムはアッシリアによって包囲されます(4章14節)。その悲惨の中で、遠い昔から連綿と続くダビデの家系、出身地から新しい王が出るという預言が告げられます(1節)。新しい王は、南のユダ部族と同時に北王国の残りの者たちをも救い、神の民の完全な回復を実現し、地の果てまで支配すると語られます。 この新しい王は、平和を脅かすものをことごとく絶ち、神以外のものに救いを求める愚かさを打ち砕き、軍馬や戦車という武力と魔術と偶像を撃ち滅ぼされます(9節ほか)。主の民が安らかに住むことができるように、「主の力、神である主の御名の威厳をもって」群れを養い、守り導いてくださるのです。 この新しい王は、どのようにして平和を実現されるのでしょうか。十字架において敵意という隔ての壁を滅ぼし、神と人を和解させてくださることによってです(エフェ2章14節)。それゆえ、「彼こそ、まさしく平和である」と宣言されるのです。 キリストが勝ち取ってくださった神との平和をいただいて、平和の主の福音を宣べ伝えようではありませんか。 Wed, 16 Dec 2020 00:10:00 +0000 キリストと共に支配する(ミカ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201216 no 2020 娘シオンよ、立って、脱穀せよ。 わたしはお前の角を鉄とし お前のひづめを銅として 多くの国々を打ち砕かせる。 お前は不正に得た彼らの富を、主に 蓄えた富を、全世界の主にささげる。 (ミカ書4章13節) エルサレムの荒廃を預言したミカは、続いて神が来たらしてくださる終わりの日について預言します。主の山であるエルサレムの都がどの山々よりも高くなるという回復についてです。その日には、神の厳しい裁きによって痛みを受けた者(足が萎えた者)も、遠くに追いやられた者も呼び集められます(6節)。 神の怒りは、滅ぼすためではなく、民を清めるためのものです。それゆえミカは、「今、身を裂いて悲しめ」と、悔い改めに必要な裁きを十分に受けよと語ります(14節)。 回復の日、娘シオンにいったい何が起こるのでしょうか。散らされた残りの者を主なる神が連れ戻すだけではなく、神の民を汚し嘲る世界中の国々を、娘シオンが力と権勢をもって麦束のように踏み砕き脱穀するというのです(13節)。 たとえこの国で、キリスト者と神の教会が小さく弱く見えたとしても、キリストの主権が完全に打ち立てられる日が約束されていることを私たちは知っています(エフェ1章21節)。だからこそ神の民と教会は、きょうも明日も、終わりの日を目指して福音の宣教に励むのです。 Tue, 15 Dec 2020 00:10:00 +0000 主の霊と力によらなければ(ミカ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201215 no 2020 しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ち ヤコブに咎を イスラエルに罪を告げる。 (ミカ書3章8節) 南王国ユダの民に向かって糾弾するミカの言葉は激しさを増していきます。世の為政者たちは富める者たちに味方し、民を食い物にし、「善を憎み、悪を愛する者」となっていたからです(2節)。裁判官、祭司、預言者たちまでもが、報酬目当てに忖度する者に成り下がってしまっていました(5、11節)。それゆえ為政者たちが主に助けを叫び求めても、預言者たちが、夜、幻を求めても、主はお答えになりません。 ミカはそのような時代の中で、為政者、裁判官、宗教的指導者らに対し、罪と裁きを大胆に宣告します。彼らの罪とその責任を問うことは、いつの時代も勇気のいることです。権力者や支配者に神の御心を宣告し、悔い改めを求めることは、人間的な力でできることではありません。ミカを立ち上がらせたのは、主の力と霊、主の正義と勇気でした。 力ある者を前にして心が怯えてしまう私たちですが、主イエスによって、神の霊と力に満たしていただけるのです。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(2テモ1章7節)。 Mon, 14 Dec 2020 00:10:00 +0000 先立ち行かれる主に従って(ミカ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201214 no 2020 打ち破る者が、彼らに先立って上ると 他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。 彼らの王が彼らに先立って進み 主がその先頭に立たれる。 (ミカ書2章13節) 南ユダ王国が繁栄する中、富める者は貧しき者を圧迫し、暴虐が行われていました。神の言葉を軽んじ、神への畏れを捨てるとき、罪は増大しとどまることがありません。そうした権力者や富者に対して、ミカは神の裁きを告げます。不正に手に入れた土地は取り上げられ、他国のものとされると(4、5節)。 偽預言者は正しい預言者に向かって、たわごとだ、そんな悪い事など起こるはずがない、ご自分の民をそのように呪うはずがないと嘲ります(6、7節)。ミカはそれに対して、強奪と貪欲の罪を犯しながら神の祝福に与れると語る偽預言者の言葉こそたわごとだと警告します。 高ぶる者には破滅が宣告され、虐げられた者には神の救いの約束が語られます。そのとき、イスラエルの残りの者は羊のように一つの群れとされ、「打ち破る者」が敵に閉じ込められ、閉ざされた門から民を解放し、民の先頭に立ち、導いてくださる。この王、羊飼いこそ真の王である主イエス・キリストです。 きょうも、敵を打ち破り、神の民に先立ち進み行かれる主の御声に聴き従って歩んでいこうではありませんか。 Sun, 13 Dec 2020 00:10:00 +0000 福音のはじめ(マルコによる福音書 1章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201213 no 2020 神の子イエス・キリストの福音の初め。 (マルコによる福音書1章1節) 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。「福音」という言葉の意味は、「良い知らせ」です。マルコは、神の子イエス・キリストが来られたことが良い知らせだと伝えています。「キリスト」という言葉は「救い主」という意味です。「イエス」は救い主として世界を変え、私たちの生活を新しくするために来られました。 「イエスは神の子である」。これは迫害を受けている最初の読者たちにとって特別に大切なことでした。あなたが信じて命をかけている「イエス」は神の子です。死の力を打ち破り、復活なさった神の子イエス・キリストは、永遠の命で私たちを生かすことができるお方です。このお方に私たちの命をかけても大丈夫、このことをマルコは読者たちに示しています。 私たちが世の人々に合わせず、主に従い通そうとするとき、迫害を受けることは避けられないでしょう。この点で私たちも命をかけて主イエスを信じています。私たちは忙しい日々の中で、さまざまな苦難の中で、主の日の礼拝を守り続けています。 一生涯、私たちは神の子イエス・キリストに自分を委ねて従う者でありたいです。 Sat, 12 Dec 2020 00:10:00 +0000 同胞のために嘆き悲しむ(ミカ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201212 no 2020 このため、わたしは悲しみの声をあげ 泣き叫び、裸、はだしで歩き回り 山犬のように悲しみの声をあげ 駝鳥のように嘆く。 まことに、痛手はいやし難く ユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。 (ミカ書1章8節~9節) ミカは南王国ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍した紀元前8世紀の預言者です。北王国イスラエルではホセア、南王国ユダではイザヤが、同時代の預言者として活躍しました。 同じ時期に何人もの預言者が現れてきた背後には、繁栄の時代の中で、高ぶりと偶像崇拝の罪に浸る両王国の深刻な罪があったからです。 ミカが見た幻は、神の裁きが北イスラエルだけではなく南ユダにまで及ぶという恐ろしいものでした(9節)。南ユダの滅亡を語った最初の預言者、それがミカでした。 ミカはその幻を見て泣き叫び、裸、はだしで歩き回ります。荒野や廃墟の中にいる山犬や駝鳥のように悲しみの声をあげて嘆きます(8節)。 主の悲しみと嘆きがここにあります(ルカ19章41節)。ただ懲らしめ滅ぼすことが神の目的ではなく、刑罰を通して悔い改めることを神は望んでおられるのです。 「諸国の民よ、皆聞け」と、神はきょうも私たちに呼びかけておられます(2節)。同胞や隣人が失われてしまう悲しみに心を痛め、救いのために熱心に執り成しの祈りを献げようではありませんか。 Fri, 11 Dec 2020 00:10:00 +0000 すべてを治められる王である主イエス(ゼカリヤ書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201211 no 2020 主は地上をすべて治める王となられる。 その日には、主は唯一の主となられ その御名は唯一の御名となる。 (ゼカリヤ書14章9節) この御言葉は、今の困難の時を、信仰に固く立ち、恐れず勇気を出して歩みなさいという励ましの言葉です。 このゼカリヤの言葉は、確かに、神より与えられた御言葉であると信じた人たちにとって希望であったことと思います。 この時、彼らは神殿再建までなお時間を要するという困難な中にいました。その苦難の中では希望を見出すことはなかなか難しかったかもしれません。 しかし、主が王となられる、それも信頼できる方が王となってくださる日が来るというこの御言葉が彼らを支えたことでしょう。 私たちは今、コロナ禍という困難な中を、恐れと不安の中を歩んでいます。有効な治療薬やワクチンも現在はありません。しかし、不安や恐れを取り除いてくださる方がいます。それは、私たちの救い主であり、王であられる主イエスです。 主イエスは私たちの王となられました。すべてを治められる王である主イエスを信じることで、私たちは全ての恐れと不安から解放されるのです。私たちの進む先には、希望があります。 Thu, 10 Dec 2020 00:10:00 +0000 主が来られる時、全ての偶像はなくなる(ゼカリヤ書 12-13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201210 no 2020 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。わたしは数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、わたしはこの地から追い払う。 (ゼカリヤ書13章1節~2節) 「その日」とは、救い主が到来する時であり、終末の時でもあります。 「泉が開かれる」とは、罪の汚れを洗い清める水が泉となって湧き上がることです。この水の源は神ご自身です。神があらゆる汚れを洗い清める泉を開いてくださるのです。その泉の流れは、この地から偶像を、すなわち異教の神々を取り除き、それらに仕える偽預言者たちを追い払います。 私たちの心は罪に汚れています。神の絶えることのない泉により、その汚れを洗い清めてくださいと願います。私たちは、罪を悔いてはまた罪を犯す弱き者です。私たちを洗い清めることができるのは、神の泉においてほかはありません。 私たちは偶像に依り頼みがちです。自分の経験や努力、地位や財産が偶像となることがあります。また、人間関係が偶像となることもあります。これらすべての偶像を主の泉により洗い清めてくださいと願います。 そして、ただ主だけに依り頼み、主だけを避け所として、主にのみ礼拝をささげ、祈りつつ、主の再臨を待ち望みたいと思います。 Wed, 09 Dec 2020 00:10:00 +0000 羊飼いの命の代価(ゼカリヤ書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201209 no 2020 彼らは銀30シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀30シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。 (ゼカリヤ書11章12節~13節) ここでは羊が羊飼いに対して賃金として30シェケルを払うと預言されています。30シェケルとは殺された奴隷の代価として払われる金額(出21章31節)で、羊飼いを軽蔑する象徴的な数字です。羊飼いは神の命令どおりに、それを鋳物師に投げ与えました。 ここで羊飼いとは直接的には預言者ゼカリヤのことで、羊とはイスラエルの民のことです。つまり、ゼカリヤは民から軽蔑されたのです。 銀30で何か思い出しませんか。そうです、あのイスカリオテのユダが主イエスをユダヤ教当局者に売った代価です。後にユダは後悔し、その銀貨を神殿に投げ込みます。祭司たちはそれで陶器職人の畑を買いました(マタ27章7節)。ここにゼカリヤの預言が成就したのです。 羊飼いである主イエスは、自分を殺そうとする者のために執り成しの祈りをし、神さまに罪の赦しを請いました。そして、十字架で贖いの死を遂げ、私たちを罪から救いました。 主イエスの命の代価は、銀30などというものではなく、罪人の救いという途方もないものでした。 Tue, 08 Dec 2020 00:10:00 +0000 苦しみの先にある恵み(ゼカリヤ書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201208 no 2020 彼らは苦しみの海を通って進み 波立つ海を打つ。 ナイルの深みはすべて干上がり アッシリアの高ぶりは引き降ろされ エジプトの王笏は失われる。 わたしは主にあって彼らに力を与える。 彼らは御名において歩み続けると 主は言われる。 (ゼカリヤ書10章11節~12節) ソロモン王以後、イスラエルは異教の神々を慕い求めて道を誤り、まことの神を悲しませました。その結果、国は分裂し、そして、亡国と捕囚という苦しみを味わわなければなりませんでした。 そして、捕囚から帰還した人々は、国を再建するにあたり、いかなる苦しみの中にあっても、主なる神を信じることを求められました。 ここで「苦しみの海」とはさまざまな苦しみ、試練を指しているようです。その苦難を通して開かれる恵みの世界があること、その試練を通らなければ味わうことが出来ない信仰の世界があるということを教えられます。 苦しみがあれば神に祈り、悲しみがあれば神に嘆きます。祈りと嘆きを神は聞いてくださいます。そして12節にあるように、神は信じる者に力を与えてくださいます。 ですから、私たちの苦しみ、嘆きは、いずれ喜びと賛美へと変えられていくことでしょう。全能の神は、マイナスをプラスにすることができるお方です。その神が私たちは「御名において歩き続ける」と言ってくださっています。きょうもその主に信頼して歩みたいと思います。 Mon, 07 Dec 2020 00:10:00 +0000 平和の君が来る(ゼカリヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201207 no 2020 娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。 わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。 (ゼカリヤ書9章9節~10節) 本日、この御言葉を読むことを感慨深く思います。それは、今から79年前の同じ12月7日(現地時間)、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まったからです。 ゼカリヤが預言しているろばの子に乗って来る王とは、紛れもなく主イエスのことです。主イエスは、この預言のとおり、ろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。その時、民衆は、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、主イエスに祝福の叫びを上げました。 しかし、主イエスは民衆の「十字架につけろ」という叫びにより、処刑されてしまうのです。平和をもたらす君として来られたはずなのに、この預言は成就しなかったのでしょうか。 そうではありません。主イエスは十字架の死と復活により、私たちを罪から救い、神さまと和解させ、平和をもたらしてくださったのです。 この地上では、なお罪の力がくすぶっているため、争いが絶えません。しかし、終末に向かってきよめられ、やがて主の再臨の時には完全な神の平和が実現する希望が私たちにはあります。 Sun, 06 Dec 2020 00:10:00 +0000 人の子が大いなる力と栄光を帯びて(マタイによる福音書 13章24-27節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201206 no 2020 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 (マタイによる福音書13章26節~27節) 13章には、終末の前兆である様々な出来事が記されています。疫病、異常気象、民族の対立、戦争の噂など、終末が近づいている時代を生きる私たちに、主イエスは終末の希望を語られました。 世の終わりに、主イエスは大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られます。「雲に乗って来る」とは、神の栄光に包まれながら天から来られることを意味します。十字架にご自分の命を捨てるほどに私たちを愛してくださった主イエスは、世の終わりに栄光と大いなる力を持ってこの世界に来られます。 その時、主イエスは「天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで…選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。「選ばれた人」とは、主イエスを信じる私たちのことを指します。「地の果てから天の果てまで」、つまり主イエスはご自分を信じる人を一人も残さず、すべて呼び集めてくだいます。これが主イエスの約束です。 私たちは滅び去る(31節)この世に望みを置くのではなく、揺るがない主イエスだけに頼り、希望を持って日々過ごす者でありたいと願います。 Sat, 05 Dec 2020 00:10:00 +0000 罪の残り火を慕うことなく(ヨハネの黙示録 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201205 no 2020 天使は力強い声で叫んだ。 「倒れた。大バビロンが倒れた。」 …また、天から別の声がこう言うのを聞いた。 「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。 その罪に加わったり、 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。」 (ヨハネの黙示録18章2節、4節) 「大淫婦バビロン」がついに滅びる宣言がなされます。神と小羊に反し、人々を罪に誘い、迫害と流血をもたらす「バビロン」は、当時のローマ帝国と重なります。地中海世界全体に及ぶ揺るぎない権勢を誇る繁栄の頂点にあって、ローマの滅びを誰が想像できたでしょうか。しかし、「決して悲しい目に遭いはしない」とうそぶく「彼女」は、「1日のうちに」「ひとときの間に」滅亡するのです。「大淫婦バビロン」によって罪に耽溺し、神を恐れず享楽のみを貪る「地上の王たち」「商人たち」「船乗りたち」は、今滅びゆく「大淫婦」を手放し難く未練の声を合わせます。彼らが「彼女」の滅びを悲しむのは、「彼女」ゆえにもたらされる利益をこれ以上得ることができないからです。 しかし、迫害を受けた「聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ」、この神の裁きを「喜べ」と黙示録は励まします(20節)。けれども、キリストの教会も堕落してサタンの会堂になり得ます。だから、「天から別の声」が、加えて勧告したのです。いつも御旨に従って神を礼拝する地上の教会(『ウ告白』25章5節)となるように。 Fri, 04 Dec 2020 00:10:00 +0000 ただ主なる神に仕えよ(ヨハネの黙示録 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201204 no 2020 「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」 (ヨハネの黙示録17章14節) 天使の1人が、霊に満たされたヨハネを荒れ野に連れて行きました。そこで見たのは、キリスト者を迫害する世を表す「赤い獣」にまたがる「大淫婦」、「大バビロン」でした。この女は、「赤い獣」と結託し、人を神から引き離すために、堂々と偽りの快楽に誘惑します。 いつの世にも、姿を変えてバビロンは存在します。そして、バビロンは、いつも「小羊の花嫁」である新しい神の都エルサレム、すなわち教会に敵対します。しかし、最後の大バビロンが、主の裁きによって滅びるときが来るのです。 「赤い獣」の「7つの頭と10本の角」が表す、国を治める7人の王と、力と権威を獣に委ねる10人の王が、「心を一つにして」小羊(イエス・キリスト)に挑んできます。神に敵対する者らが勢力を増し、まさにその力が凌駕せんとするとき、実は、すでに彼らの最後的滅亡は目の前に迫っているのです。キリストは「主の主、王の王」として「彼らに打ち勝つ」のです。 「淫婦」の惑わす偽りの快楽に心奪われて、「獣」に操られる愚かさに陥らないように、ただ真の神だけを仰ぎ崇め、仕えたいと祈ります。 Thu, 03 Dec 2020 00:10:00 +0000 裁きが導く神賛美(ヨハネの黙示録 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201203 no 2020 そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。 「今おられ、かつておられた聖なる方、 あなたは正しい方です。 このような裁きをしてくださったからです。…」 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。 「然り、全能者である神、主よ、 あなたの裁きは真実で正しい。」 (ヨハネの黙示録16章5節、7節) キリストがヨハネに示された「すぐにも起こるはずのこと」(1章1節)は、ついに、神の怒りが地上に注がれる最後の時を迎えます。この時に至ってなお、「獣の像を礼拝する者たち」(16章2節)が悔い改めることを、憐れみ深い神は期待されます。しかし、次々と災いが起こっても、彼らは悔い改めるどころか、神を冒涜し続けます。 そのような中で、天使は、この裁きの神が永遠に存在される聖なる正しい方であると宣言します。また、信仰の「証しのために殺された人々の魂」(6章9節)も、天使の宣言に力強く賛同して祭壇から神を賛美します。 賛美が生まれるのは、神が愛と恵み、あるいは憐れみを示し、与えられるところだけではありません。神の怒りと裁きによっても、賛美は引き起こされるのです。旧約の歴史において、神の「真実で正しい」裁きが神の民にとって救いとなったように、キリスト者とその教会にとっても、神の怒りと裁きが、天の栄光を受けるのを妨げ束縛するものから解放します。 福音の真理から、何かを差し引き、取り去ることなく、大胆に宣べ伝えましょう。 Wed, 02 Dec 2020 00:10:00 +0000 神の怒りの本質は愛(ヨハネの黙示録 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201202 no 2020 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。7人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。 (ヨハネの黙示録15章1節) 「神と小羊の怒りの大いなる日」(6章17節)に、神の怒りが頂点に達して、義なる神の裁きの災いがまさに下る時が来ます。その時、神から引き離そうとする「獣」に打ち勝った者たちが、神を崇め歌います。なぜなら、彼らにとってこの「災い」は、神と主イエスの愛の極み以外の何ものでもないからです。 私たちの信仰ゆえの迫害やどんな小さな苦しみも、神は見過ごさず、自らのこととして見ておられます。十字架にかかる前、主イエスはこの上なく愛し抜かれた弟子たちに、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言われました(ヨハ15章18節)。罪を示されながらも悔い改めず、神を神ともしない者たちに、神が怒られるのは当然なことです。しかし、その怒りは愛の極みの裏返しなので、感謝に溢れます。「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです」、と(黙15章4節)。 Tue, 01 Dec 2020 00:10:00 +0000 いのちを賭けた信仰(ヨハネの黙示録 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201201 no 2020 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」 (ヨハネの黙示録14章13節) 誰にでも必ず訪れる死。そのとき、私たちの心は何と結ばれているでしょうか。 ヨハネの黙示録が書かれた時代は、主イエスに対する信仰を否定することを求められ、ためらうだけでキリスト者と断定され殺されるような時代でした。そのような状況下で信仰を表し洗礼を受けることは命がけでした。 しかし、キリストへの信仰を守り続ける教会に祝福を告げる声が、天からヨハネに聞こえました。最期まで主に結ばれている者は幸いである、と。そして、神の霊も励まします。信仰者は苦しみから解放されて平安を得る、と。 なぜでしょうか。その行い、すなわち「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける」(12節)ことが報われるからです。あなたたち一人ひとりの信仰の人生は無駄ではなかったと、神の霊が告げるのです。神は、忍耐し信仰を貫いた者たちを、完全に永遠に、すべての罪と悲惨から解放し(『ウェストミンスター大教理問答』問90)、「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」として神の前に立たせてくださいます(エフェ5章27節)。 主だけを仰ぐ信仰を持ち続けたいと思います。 Mon, 30 Nov 2020 00:10:00 +0000 666(ヨハネの黙示録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201130 no 2020 ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は666である。 (ヨハネの黙示録13章18節) きょうの御言葉には「666」という数字が出てきます。ここでは、この「666」という数字の意味を考えるようにと勧められています。 これは獣の数字とも呼ばれます。悪魔(竜)が自分の力と王座と大きな権威を与えた獣・人間を表しています。つまり、悪魔の化身です。666は皇帝ネロを意味する数字だとも言われます。 悪魔は地上に落とされた後、自分の権力を2匹の獣に与えます。獣と称されるのは当時のローマ皇帝と皇帝を礼拝せよと群衆を導く偽預言者です。悪魔、第一の獣(ローマ皇帝)、第二の獣(偽預言)は、いつの時代にも存在を変えながら信徒たちを迫害する強大な力を持って存在し続けています。彼は自分を神と等しくし、偽預言者は自分を崇めるよう群衆を導きます。 知恵ある人、賢い人は、今の時代の666と偽預言者の力に対抗し、悪魔の策略を見抜きます。彼の働きはすぐにはそれとはわかりません。多くの人々が注目し、賞賛し、期待するもの、拍手喝采するような存在だからです。しかし、聖書を信仰と生活の唯一の基準とする人は、悪魔の操り人形劇を見抜きます。 Sun, 29 Nov 2020 00:10:00 +0000 神と共に生きる(マタイによる福音書 25章31-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201129 no 2020 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」 (マタイによる福音書25章31節~33節) このところでは、この世界の終わりの時の様子が描き出されています。その中心におられるのは栄光に輝く主イエス・キリストです。 ここに2種類の人たちが登場します。一方は羊、もう一方は山羊にたとえられています。それぞれの行いに従って報いがある、とあります。羊は主を信じて歩んだ人たちで、山羊は主を信じることなく歩んだ人たちです。 恐ろしい話だと思われるかもしれませんが、大切なテーマは、終わりの日に、私たちが思いもよらないような神からのお言葉が待っているということです。さらに、私たちが覚えておきたいのは、この聖書の箇所は弟子たちを励ますために語られた、譬え話のまとめだということです。ここまでの10人のおとめたちの譬え、タラントンの譬えも、私たちへの励ましのお言葉です。 私たちが主イエスの弟子として生きる先には、身に余るような祝福の言葉が待っています。私たちは自らのみすぼらしさ、罪深さに悩みつつ歩んでいます。しかし、主イエスは私たちに明るい見通しを持っておられます。私たちは、この主のまなざしで自らを見直すことに招かれています。 Sat, 28 Nov 2020 00:10:00 +0000 勝利の道を歩む(ヨハネの黙示録 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201128 no 2020 「兄弟たちは、小羊の血と 自分たちの証しの言葉とで、 彼に打ち勝った。 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」 (ヨハネの黙示録12章11節) もはや天に居場所がなくなった竜(悪魔)は、戦いに負けて、地に落とされます。そして、働き場所を天から地に移します(7-10節)。竜はこの世の君となって、地上のすべての人たちを惑わします。さらには地上の信徒たちをも惑わします。狙いは天国行きをあきらめさせること、神に依り頼むことによって与えられる希望を奪うことです。 悪魔は、非常に巧妙な手段で、信徒を惑わし堕落へと誘います。彼らは苦難に遭います。迫害を受けます。周りの人たちから、時には家族や親しい友人たちからさえも理解されません。鞭打たれ、獄に捕らわれ、殺されることさえあります。 しかし、ヨハネは信徒たちの勝利を語ります。勝利は、「小羊の血と、自分たちの証しの言葉」で与えられます。出エジプトの民は鴨居に小羊の血を塗って救われました。現代の信徒も、小羊の血による救いを信じ、小羊の血を飲むことによって勝利します。さらに、民全員で信仰を死に至るまで告白し続けることにより勝利します。人間的に見れば、敗北しているように見えても、信仰に生きるときにそこに勝利はあります。 Fri, 27 Nov 2020 00:10:00 +0000 当てのある人生(ヨハネの黙示録 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201127 no 2020 「この世の国は、我らの主と、 そのメシアのものとなった。 主は世々限りなく統治される。」 (ヨハネの黙示録11章15節) 「当てのない旅」という言葉があります。計画や目的とは無関係の旅、放浪の旅、流浪の旅です。当てのない旅が好きな人もいれば、思いに反して、当てのない旅に出なければならなくなることもあります。意図せず、いつの間にか、当てのない旅をしていることもあります。 童話『ブレーメンの音楽隊』は、人間に捨てられ殺されそうになった動物たちが当てのない旅に出て、死から逃がれ、当てを見つけるようになるお話です。当てのない旅に出て、当てを見つける時、そこに希望が生まれます。 聖書の神を信じる人は、当てを見つけた人です。当てとは人生の目的地のことですが、聖書の神を信じる人には、神が約束してくださった確かな当てがあります。それは神の国、天の国です。キリスト者には天の国に入るという確かな当てがあります。ですから、人生の道の本筋からは外れることはありません。神が導いてくださるからです。神が世の歴史を治め、導いておられると信じているので、目の前の厳しい現実だけを見ないで、将来の完全なる統治を見て、希望に生きます。当てを当てにしながら歩みます。 Thu, 26 Nov 2020 00:10:00 +0000 甘くて苦いもの(ヨハネの黙示録 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201126 no 2020 わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。 (ヨハネの黙示録10章10節) 甘くて苦い食べものとは何でしょうか。矛盾した味の食べものは、神の言葉が記された小さな巻物です。巻物には神の秘められた計画、良い知らせがしたためられています。ヨハネは天使に言われるまま巻物を食べました。それは口には甘く、腹には苦かったのです。 巻物を食べる行為は、巻物の内容を知ることです。巻物は、それを食べると、はじめは甘い味がします。けれども巻物が食道から胃に入っていくと苦い味に変わります。なぜでしょうか。それは巻物の内容を伝える人の働きが苦しさを極めるからです。 主イエスを信じてほしいとの願いと正反対の現実があるからです。自分の力のなさを示され、教会の力のなさを嘆く時、それは苦しみです。私たち人間の罪の現実が苦味をもたらします。 しかし、この巻物には神の秘められた計画が記されています。神が伝道を主導されています。ですから、苦しい時、そこでこそ巻物を手に取りましょう。そこで私たちは慰められ、支えられます。神の言葉があなたを苦しみの中でも支え、強くします。神の秘められた計画を悟らせてくださるように。 Wed, 25 Nov 2020 00:10:00 +0000 どうしてもやめられない(ヨハネの黙示録 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201125 no 2020 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。…また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。 (ヨハネの黙示録9章20節~21節) きょうの御言葉には人間がどうしてもやめられないことが挙げられています。偶像礼拝、人殺し、まじない、みだらな行い、盗み…。 ヨハネは、神の怒りが地上に下り、神を侮る人間の三分の一が死んだ現実を目の当たりにしてもなお人々が悔い改めることのない姿を見ます。真の神を冒涜する行為の根源である偶像礼拝をどうしてもやめられないのです。ITやAIが進歩した今日においても黙示録の指摘は適切です。偶像が見る、聞く、歩くことはできないことはわかるはずですが、人は偶像を礼拝することをやめません。 ヨハネは神を冒涜する人の姿に、人を眠らせ罪の奴隷にしている神の敵、悪魔の働きを見ます。ヨハネが見た終末時における人の姿は悔い改める機会さえも奪われ、魂を抜かれてしまった人間の姿です。とても恐ろしい光景です。 しかし、そこで「悪魔の手からあの人を取り返せ」と屠られた小羊は立って叫んでいます。「魂を抜かれてしまっているあの人を取り返せ。手遅れになる前に。あなたのすべてをそのためにささげよ」と。屠られた小羊の声が私たちにも聞こえてきます。 Tue, 24 Nov 2020 00:10:00 +0000 祈りは最優先事項(ヨハネの黙示録 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201124 no 2020 香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった。 (ヨハネの黙示録8章4節~5節) ヨハネは聖なる者たちの祈りが神へと届けられる様を見ました。その直後に地上で雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こりました。これらの自然現象は、祈りの応答として神が地上の歴史に直接介入されたことを意味します。 ヨハネ黙示録によると、礼拝している聖徒たちは迫害の嵐の中に置かれていました。地上は悪魔の巣窟と化し、信仰生活は妨害され、神の栄光は踏みにじられていました。この状況下で誰にも邪魔されないキリスト者の唯一の信仰生活は祈りでした。祈りの言葉は、誰にも邪魔されず、神に直接届けられます。 ある牧師はこう言っています。「祈りは最優先事項であって、最後の手段ではない」と。「もう祈るしかない」、「祈ることしかできない」と口にすることがあります。しかし、祈りは他のすべてのことに先行する手段です。 歴代の聖徒たちは神が祈りに必ず答えてくださるという確信を持って祈っていました。黙示録はこの点を伝えることによって、神を信じ祈り続けるようにと、くじけそうになっている聖徒たちを励まします。私たちも最優先事項として、きょうも祈ります。 Mon, 23 Nov 2020 00:10:00 +0000 永遠に失われないもの(ゼカリヤ書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201123 no 2020 「主はこう言われる。 わたしは再びシオンにきて エルサレムの真ん中に住まう。 エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ 万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。」 (ゼカリヤ書8章3節) 主がエルサレムの城郭の「真ん中」に住んでおられる。これは、当時のイスラエルの民たちにとって最も大きな慰めであり、真実でした。 この前の時代、民たちは異教の地バビロンに捕囚にされていました。民の中のある者たちは、自らの罪を嘆きました。主は私たちから遠く離れておられると、主はこんな異教の街にはお住みにならないと、主はこんな忌むべき汚れた街にはお住みになられないと、その魂をつぐみました。その魂を閉ざしたのです。しかし、それは大きな誤りでした。主はその城郭のただ中にも共におられたのです。 帰還した彼らの目の前にあったのは、廃墟と化したエルサレムでした。そして最も忌むべきことは、廃墟と化していたのは建物だけではなかったということです。廃墟と化していたのは彼らの内なる人であり、失われていたのは主への信頼と熱情でした。彼らはこの時、最も失ってはならないものを失っていたのです。 けれどもこの街で一つだけ失われていないものがありました。それは、主の彼らへの熱情です。主の彼らへの愛です。この愛だけは永遠に失われることはありません。 Sun, 22 Nov 2020 00:10:00 +0000 今を大切に(マタイによる福音書 25章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201122 no 2020 「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」 (マタイによる福音書25章5節~7節) マタイでは、24章で神殿の崩壊が語られてから、弟子たちが「その日はいつか」を問います。それに答えていくつかのたとえ話が語られます。 今日の個所もその一つです。ここでは5人ずつ、賢いおとめたちと、愚かなおとめたちという結婚式の招待客が登場します。今でいうなら花嫁の友人たちです。結婚式の当日、花婿の到着が遅れてしまったために、友人たちは皆、眠り込んでいました。しかし、花婿が到着したとき、賢いおとめたちは油の備えをしていたためすぐに迎えに出ることができました。しかし、愚かなおとめたちは備えをしていなかったために花婿を迎えることができなかったのです。 ここで主イエスが問われているのは、肉体の眠りではなく、私たちの心の眠りです。いつ、神とお会いしてもよいように備えをしていることです。私たちにこの備えを与えるのが、信仰生活です。それは、特別、立派なことをして生きることではありません。自らの罪を認めて、それを悔い改めて、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪赦されて生きることです。聖霊と御言葉に導かれて、イエス・キリストの福音に生きることです。 Sat, 21 Nov 2020 00:10:00 +0000 憐れみ深くあれ(ゼカリヤ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201121 no 2020 そのとき、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。 「万軍の主はこう言われる。 正義と真理に基づいて裁き 互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者らを虐げず 互いに災いを心にたくらんではならない。」 (ゼカリヤ書7章8節~10節) 主は究極的には、私たち信仰者のどこをご覧になるのでしょうか。外的な行為でしょうか。それとも内なる心でしょうか。 時は捕囚帰還後、神殿再建に取り組んでいるところでした。しかしながら、民たちは神殿の外的な再建に心を奪われ、その宗教生活においても儀式化や形骸化がはびこっていました。彼らは真実な礼拝者とはどのようなものなのか、そして、とりわけ主がその信仰者のどこをご覧になられるのかということを忘れてしまっていました。 主は究極的には、信仰者のどこをご覧になられるのか。それはその内なる心です。主は特にここで私たちが隣人に対して「憐れみ深い」心を持つように、隣人に慈しみ深い心を持つように教えています。そして、もう少し具体的には、私たちが「互いにいたわり合って」、互いに支え合って生きるように勧めています。 私たちは、互いにこの上なく弱く、貧しい存在です。私たちはそのことを覚えて、お互いにいたわり合って生き、支え合って生きる者とされたいと思います。 Fri, 20 Nov 2020 00:10:00 +0000 ほんとうの神殿再建(ゼカリヤ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201120 no 2020 万軍の主はこう言われる。 見よ、これが「若枝」という名の人である。 その足もとから若枝が萌えいでる。 彼は主の神殿を建て直す。 彼こそ主の神殿を建て直し 威光をまとい、王座に座して治める。 (ゼカリヤ書6章12節~13節) 民たちは捕囚からの帰還後、おおよそ20数年を経て、ようやく神殿再建に向けて動き始めることができました。そのあまりにも麗しく美しい神殿を見て、人びとは大きな喜びに包まれました。わたしもかつて新会堂建築に携わることが許されましたが、会堂が建て上がった時の喜びは大きなものでした。 けれども、私たちの最も本質的な喜びはどこにあるのでしょう。それは外的な建物にではなく、神と顔と顔とを合わせる真実な交わりにあり、神と顔と顔とを合わせる真実な祈りにあるのだと思います。 聖書は、大祭司ヨシュアの足もとから若枝が萌えいで、彼が神殿を建て直すと言っています。若枝とはキリストのことです。若枝のごとく命に満ちたキリストが建て直す神殿は、十字架と塔が立つ外的な神殿のことではありません。神と顔と顔とを合わせる真実な交わりが祈りにおいて実現し、そこに真実な神殿が建て上げられます。 きょうも、祈りのうちに神との真実な交わりが、実現しますように。 Thu, 19 Nov 2020 00:10:00 +0000 巻物が飛んで(ゼカリヤ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201119 no 2020 御使いがわたしに、「何を見ているのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「巻物が飛んでいるのが見えます。その長さは20アンマ、幅は10アンマです。」 (ゼカリヤ書5章2節) 主はここで信仰の民を慰めるために、ある幻を示されます。それは「巻物が飛んで」いく幻です。 この巻物とは何を象徴しているのでしょう。それは言うまでもなく神の律法であり、今日の麗しい神の御言葉です。この麗しい神の御言葉は、いったいどこに向かおうとしているのでしょう。ゼカリヤが見ていると、この長さ十メートルにも及ぶ膨大な神の御言葉は、ゆっくりと上下にたなびきながら、「全地」を進み、ついに、ある家に入られ、ある家に宿られたといわれています(3、4節)。 いったいこの巻物が宿られた家とは、誰の家でしょう。それは貧しく罪深いイスラエルの家であり、力なく命ないイスラエルの家でした。 この巻物は、この時、貧しく罪深い彼らの家に宿り、貧しく罪深い彼らを慰め、励ましてくださったのです。 今日、この巻物はいったいどこにあるのでしょう。この巻物は私たちの家に宿っておられます。そして今も私たちを慰め、励まし続けておられるのです。 Wed, 18 Nov 2020 00:10:00 +0000 御目を向けてくださる主(ゼカリヤ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201118 no 2020 「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。 ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て 喜び祝うべきである。 その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」 (ゼカリヤ書4章10節) 私たちの幸いは何でしょう。それは、私たちの暮らしを「瞳のように」(詩17編8節)守っておられるお方が共におられるということではないでしょうか。 主はこの章で私たちに、不思議な幻を示されます。その幻は、1本の燭台の上部から、七つに枝分かれした管がスルスルすると伸び、その先に「ともし火皿」が付けられているというものです。まるで主が、いつもどんな時にも私たちにともし火皿という御顔を向け、瞳のように御目を向けているかのようです。 私たちは、時に様々な苦難や耐え難い痛み、あるいは先の見えない不安の只中に置かれます。この時、民たちも、捕囚から帰還した後、同様の苦難や不安の中に置かれていました。しかし主は、信仰者たちがどのような境遇の中に置かれても御顔を向け、瞳のように御目を向けてくださいます。 主は信仰者たちがどのような苦難の中に置かれても御顔を向け、瞳のように御目を向けてくださるのです。そして、主は必ず必要な助けをお与えになるのです。 Tue, 17 Nov 2020 00:10:00 +0000 しるしとなるべき人々(ゼカリヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201117 no 2020 「大祭司ヨシュアよ あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。 あなたたちはしるしとなるべき人々である。」 (ゼカリヤ書3章8節) 「私たちの教会の先生はいい先生なんだけれど、もう少しこうあってほしい、もう少しあぁあってほしい…」。これは、誰の心にも浮かびうる声なのではないかと思います。もちろん牧師は、少しでも主に喜ばれる働きができるように、自らをよりよく整え、自らの成長のために日々祈らなければならないでしょう。 けれども一方で、もし私たちが教会でいつも牧師に目を向け、いつも牧師に心を向けていくようになったらどうなるでしょう。その時、教会は希望を失い、力を失っていくでしょう。いつの時代にも牧師自身に希望が存在するのではなく、力が存在するのでもないからです。 では、私たちの永遠の希望はどこにあるのでしょう。それはいつの時代にも主の内にあるのです。私たちの力の源はどこにあるのでしょう。それはいつの時代にも主の内にあるのです。教会の牧師は弱く、力ないかもしれない。その賜物に不足があるかもしれない。けれども、教会を牧しておられる主には永遠に尽きることのない御力と、恵みが満ち溢れているのです。 Mon, 16 Nov 2020 00:10:00 +0000 城壁のないところ(ゼカリヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201116 no 2020 わたしに語りかけた御使いが出て行くと、別の御使いが出て来て迎え、彼に言った。「あの若者のもとに走り寄って告げよ。 エルサレムは人と家畜に溢れ 城壁のない開かれた所となる。」 (ゼカリヤ書2章7節~8節) 70年というバビロン捕囚の生活は、彼らの内に少なからず宗教的荒廃をもたらしました。それゆえ捕囚から帰還した彼らが自らの生活再建に翻弄されたことは仕方のないことだったかもしれません。けれども、信仰者にとっての命の泉は主の御言葉です。彼らはそのために主の宮の再建と、エルサレムの街の再建に祈りを注がなくてはなりませんでした。けれども、この時彼らは充分に祈りを献げられずにいました。 このため主は、時満ちて民たちに預言者ゼカリヤを遣わされました。ゼカリヤは彼らの内に再建の祈りをもたらすべく、ある夜見た幻を語ります。その幻には、やがて実現するあまりにも麗しいエルサレムの姿が啓示されていました。そこにはこの世の国には必ず存在する、あるものが存在していませんでした。それは城壁でした。その国には城壁が存在しません。その国にはあらゆる争いが存在せず、そこにはすべての被造物に対する優しさと愛のみが存在しています。 主よ、この御国が早くこの世に到来しますように。 Sun, 15 Nov 2020 00:10:00 +0000 失われない喜び(マタイによる福音書 5章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201115 no 2020 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 (マタイによる福音書5章11節~12節) 今の私たちは、ここで主イエスがお語りになっておられるような迫害に遭っているわけではありません。けれども、信仰が周囲から受け入れられず、理解してもらえないこともあります。また、信仰を理由にして何らかの不利益を被ったり、嫌な思いや辛い思いをするということはいくらでもあるのではないでしょうか。 主イエスは、そのような時にも自らの幸いを大いに喜ぶようにと私たちを招かれます。しかし、ここでの主イエスのお言葉は私たちの感覚には全く合わない教えのように感じられます。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」、そのようなことを幸いとするような人は誰もいません。主イエスもそのことはご存じで、そのことを幸いだと言われてはいません。 ここでの幸いは、「わたしのため」という言葉で始まっています。主イエスのために何かをするということは、その人はいつでもどんな時にも主イエスと一緒にある、という意味です。主が共におられるという天にある幸いが今ここにあるのです。ですから、私たちはどのような時でも幸いです。この喜びは失われません。 Sat, 14 Nov 2020 00:10:00 +0000 ただ一つのこと(ゼカリヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201114 no 2020 ダレイオスの第2年8月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。 (ゼカリヤ書1章1節) ゼカリヤ書は、民たちが、バビロン捕囚から解放されて、エルサレムに帰還した時に語られたものです。彼らは主の大いなる御業によってエルサレムに帰還することができました。 帰還した彼らはまず何をその生活の核にすべきだったのでしょう。この時彼らは、そのすべての生活をゼロからやり直すために、自らの生活や仕事をその核に据えて行きました。ゼロからのスタートですから仕方ありません。けれどもそれは、彼らがこの街の暮らしで核にすべきことではありませんでした。彼らがその街の暮らしで、どのような時にも中心にすべきこと、それは主の御前にひれ伏すことであり、御前に祈ることでした。彼らは、その全生活の真実の再建のためにも、何よりも主の御前にひれ伏し、祈ることを必要としていたのです。 しかし、彼らは日常生活に翻弄され、その無くてはならないただ一つのこと(ルカ10章42節)を過小評価しました。私たちにとって必要なこと、それは御前に膝を屈め、主を喜び楽しみとすることです。 Fri, 13 Nov 2020 00:10:00 +0000 目から涙をぬぐわれる(ヨハネの黙示録 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201113 no 2020 「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、 太陽も、どのような暑さも、 彼らを襲うことはない。 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、 命の水の泉へ導き、 神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。」 (ヨハネの黙示録7章16節~17節) 終わりの日に至るまで、神の僕たちには艱難が続き、この世界にもさまざまな天変地異が起こります。それまで終わりは来ません。なぜなら、「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」と言われているからです(3節)。 神は、悔い改める僕たちの数が満ちるのを忍耐して待っておられます。信仰者がもっと起こされるのを待ってくださるのです。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」者たちです(14節)。神は、その彼らの額に刻印を押されます。すなわち、キリストの十字架の血によって清められた信仰者は、神の国を受け継ぐ保証として聖霊による証印を与えられるのです(エフェ1章13節)。 信仰に生きる時、私たちは艱難や迫害、時に殉教を経験するかもしれません。けれども、私たちの悲しみや労苦は決して無駄にはなりません。主は、私たちの「牧者となり、命の水の泉へ導き」、私たちの「目から涙をことごとく」ぬぐいとってくださいます。 Thu, 12 Nov 2020 00:10:00 +0000 殉教者の叫びと忍耐(ヨハネの黙示録 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201112 no 2020 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 (ヨハネの黙示録6章9節~10節) 小羊によって六つの封印が開かれ、これから世界に起こることが語られます。小羊が封印を開くとは、イエス・キリストによって神の計画が神の民に啓示され、その計画が実現していくことを意味します。 しかし、それは戦争や飢饉による死と不安の歴史です(8節)。また、多くの殉教者を生み出す艱難の歴史です。それゆえ、私たちは、なぜ主はいつまでも不正な状況を放置しておられるのか、と叫びたくなります。殉教者たちの叫びは、すべての信仰者の叫びです。 けれども、主は、決して不正を放置しておられるのではありません。神の救いの計画は、神の民が主イエスの十字架の苦難に結ばれて歩むことを通して進展して行くからです。それゆえ、主は、「仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられ」ました(11節)。 主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。忍耐強くご自身の御業を進めておられます。約束の実現を信じて、私たちも忍耐強く主に従います。 Wed, 11 Nov 2020 00:10:00 +0000 すべての被造物と共に(ヨハネの黙示録 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201111 no 2020 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。 「玉座に座っておられる方と小羊とに、 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、 世々限りなくありますように。」 (ヨハネの黙示録5章13節) 神はすべての被造物が神の栄光を称え、すべての被造物が神を礼拝することを望んでおられます。 しかし、現実はどうでしょうか。神のかたちに創造された人間は堕落し、偶像に心を奪われています。この世界を正しく治めることもできなくなりました。他の被造物も人間の罪の影響によって、「虚無に服しています」(ロマ8章20節)。環境破壊はその典型です。この世界は一体どうなってしまうのか。私たちはしばしば途方に暮れます。けれども、神は計画を持ってこの世界を治め、完成へと導いておられます。 ヨハネが見た、「七つの封印で封じられていた」(1節)巻物とは、神の救いの計画を表しています。封印を開き、巻物を開いた方こそ、屠られた小羊、「御自分の血で、神のために人々を贖われ」たイエス・キリストです(9節)。 キリストの十字架によってこそ、神の計画は成就し、この世界は贖われます。その時、「天と地と地の下と海にいるすべての被造物」が神を礼拝する世界が到来します。世界の回復を祈り、世界の回復のために奉仕しつつ、終末の希望の中を歩みましょう。 Tue, 10 Nov 2020 00:10:00 +0000 天上の礼拝に連なる恵み(ヨハネの黙示録 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201110 no 2020 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、24人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。 (ヨハネの黙示録4章9節~10節) 4章には、キリストからヨハネに示された天上の幻が記されています。それは、天の玉座の周りで、24人の長老と四つの生き物が神を礼拝している幻です。 「白い衣を着て、頭から金の冠をかぶった24人の長老」(4節)とは、キリストの勝利にあずかり、贖われ、天に召されたすべての聖徒たちを象徴しています。また玉座の周りにいる一面に目があり、六つの翼を持った四つの生き物は(8節)、ケルビムと呼ばれる天使たちを象徴しています(エゼ1章、10章)。そして、四つの生き物は、昼も夜も絶え間なく、神を讃美し、長老たちも、「自分たちの冠を玉座の前に投げ出し」、万物の創造者である神を礼拝しています。 私たちが主の日に献げる礼拝は、この天上の礼拝に連なる礼拝です。天上のキリストと共に、聖徒たちと共に献げる礼拝です。この地上で、どんな試練が襲おうとも、私たちには既に天の門が開かれています(1節)。天上のキリストを見上げ、心を高く上げて神を礼拝することこそ、困難に打ち勝つ力です。主なる神は、この礼拝へと私たちを招いておられます。 Mon, 09 Nov 2020 00:10:00 +0000 愛する者を鍛えるお方(ヨハネの黙示録 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201109 no 2020 「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。」 (ヨハネの黙示録3章17節~18節) 3章に記されているラオディキアの教会への手紙には、教会をほめる言葉がありません。それはラオディキアの教会の霊的状態が非常に悪化していることを意味します。 何がそれほどまでに教会の霊的状態を悪化させたのでしょうか。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っている」と指摘されています。すなわち、この教会は、経済的に豊かであることに満足し、「富」という偶像に心を奪われていたのです。彼らは、自分たちの内実が罪深く、貧しい状態であることに気づいていません。それゆえ、主イエスは彼らに、「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい」と語られます。 主イエスは、教会が悔い改め、キリストへの真実な信仰を身に着けるよう願っておられます。主は、「愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」お方です(19節)。私たちも、この主イエスの鍛錬と愛を真剣に受け止めることが必要です。主イエスにならって弱い者、貧しい者に仕えつつ、日々、悔い改めの恵みの中を歩みましょう。 Sun, 08 Nov 2020 00:10:00 +0000 神を神とする(マタイによる福音書 23章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201108 no 2020 「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」 (マタイによる福音書23章9節) ここで主イエスは、律法学者やファリサイ派の人たちについてとても厳しい言葉を語っておられます。しかし、主イエスは、律法学者たちにではなく、弟子たちに、また群衆たちに向かっても語られています。それは誰もが律法学者たちのように生きてしまう可能性があるからです。 律法学者やファリサイ派の人たちの信仰生活は、「すべて人に見せるために」なっていると、主イエスは具体的に例をあげて指摘されています。これはまことに哀しいほどに愚かしい姿です。しかし、このような姿は、私たちにとって決して他人事ではありません。 律法学者たちも信仰生活は、神の御前に生きる生活であって人の前で生きる生活ではないことはよくわかっていたはずです。しかし、それにもかかわらず、こんな生き方になってしまうのです。この悲惨をどうしたらよいのでしょうか。ただ主イエスを通して、父なる神と出会うほかはありません。主イエス・キリストは、私たちと神との関係を新しくするために来られたお方です。主イエスは私たちに神を父として示し、この神の御前に生きるようにしてくださいます。 Sat, 07 Nov 2020 00:10:00 +0000 初めのころの行いに立ち戻れ(ヨハネの黙示録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201107 no 2020 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。 (ヨハネの黙示録2章4節~5節) ヨハネの黙示録2章、3章には、アジア州にある七つの教会、すなわちエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアにある教会に、キリストが示された啓示の言葉が記されています。これら七つの教会は、すべての時代の、すべての教会の姿を象徴的に指し示しています。 教会はキリストの体です(エフェ1章23節)。イエス・キリストは、神の御心を行わせるために教会を建て、教会に愛を注ぎ、賜物をお与えになりました。それゆえ、教会は原理的によいものです。けれども、地上の教会には、私たちの罪と弱さゆえの欠けがあり、破れがあります。神の愛から離れ、御心から離れてしまうことがあります。どの教会も弱さを抱えています。 主イエスは、そのような私たちを悔い改めへと導き、教会を回復させるために、「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」と呼びかけておられます。絶えず、悔い改め、初心に立ち戻ることができるよう祈っていきましょう。 Fri, 06 Nov 2020 00:10:00 +0000 イエス・キリストの黙示(ヨハネの黙示録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201106 no 2020 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。 (ヨハネの黙示録1章1節~2節) 黙示は、啓示とも訳されます。神はイエス・キリストを通して、「すぐにも起こるはずのことを」(1節)、また、キリストが再び来られる時のことを(7節)、ヨハネに示されます。そのことによって、神の言葉に生きる僕たちに勇気と希望を与えようとなさったのです。 ヨハネの黙示録の背景には、皇帝礼拝の強制に抵抗したキリスト教徒に対する、ローマ皇帝ドミティアヌス帝による迫害があると言われます(紀元81~96頃)。ヨハネ自身、「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島」に流されていました。まさに、ヨハネはローマ帝国の迫害下、「共にイエスに結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかって」いたのです(9節)。 いつの時代も、私たちがイエス・キリストを信じ、神の言葉に従って生きる時、困難や迫害を経験することがあります。しかし、キリストは終わりの時に再び来られ、世の悪を裁き、神の国を完成させてくださいます。キリストの再臨の約束こそ、苦難の中を生きる私たちの希望であり、力です。 Thu, 05 Nov 2020 00:10:00 +0000 命あるものを惜しむ神(ヨナ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201105 no 2020 「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」 (ヨナ書4章10節~11節) 4章で、ようやくヨナが神から逃げた理由が明らかになります。それはニネベの人に神の言葉を語りたくなかったからです。ニネベを都に置くアッシリアは、イスラエルの敵の国です。ヨナはイスラエルに敵意を向ける国など滅びてしまえばいいと思っていました。そのため、ヨナにとって、ニネベの人々が悔い改め、神が裁きを思い直されるという事実は、大いに不満でした。ヨナの考え方は非常に民族主義的です。自分たちだけが救われると思っていたのではないでしょうか。 しかし、神の御心は正反対でした。ヨナ書の最大のメッセージは最後の神の言葉です。神は一夜で枯れたとうごまの木を惜しんでいたヨナに語りかけました。「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」。 ヨナの視線は民族主義的でしたが、神の視線はもっと広いのです。たとえイスラエルに敵対するアッシリアであろうと、神は命ある人間が悔い改め、御自身に立ち帰ることを望んでおられます。ヨナ書に示されている命あるものを惜しむ神の愛は、やがてイエス・キリストによって、私たち異邦人に注がれることになります。 Wed, 04 Nov 2020 00:10:00 +0000 滅びから思い直される(ヨナ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201104 no 2020 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。 (ヨナ書3章10節) ヨナはようやく敵国の都ニネベに神の言葉を告げにいきます。その内容は、40日後にニネベの町が滅びるという裁きの宣言でした。ニネベの人びとはこの裁きの宣言を聞き、イスラエルの神を信じました。ニネベの王も悔い改めの姿勢を示し、ニネベの町全体に断食を命じました。神の裁きが告げられるほど悪事に満ちていたニネベでしたが、神の裁きを聞いて町全体が即座に悔い改めるのです。 すると神がニネベを滅ぼすことを「思い直された」と、ヨナ書は伝えます。神が「思い直される」というのは非常に興味深い言葉です。不変の神が「思い直される」ということがあるのでしょうか。しかし、神は愛と赦しの神です。人間が神に立ち帰らず、そのまま滅びてしまうことを望んではおられません。神が滅びから「思い直された」ということは、ご自身の変わることのない愛と赦しの御性質に対して、真実であられるということです。 私たちも神の御前で罪人であり、滅ぼされる存在でした。そのような私たちの滅びを神は惜しみ、イエス・キリストによって赦してくださったのです。この愛と赦しこそ、私たちが心に留めるべき福音です。 Tue, 03 Nov 2020 00:10:00 +0000 神と向き合う時間(ヨナ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201103 no 2020 苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。 陰府の底から助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。 (ヨナ書2章3節) 荒れ狂う海に放り投げられたヨナは、「神の御前から追放された」と思いました。荒れ狂う海に放り込まれ、絶体絶命です。ヨナは死を覚悟しました。しかし、神の御手は海の中にまで及びました。神は巨大な魚に命じて、ヨナを飲み込ませたのです。 巨大な魚に飲み込まれるシーンが非常に印象的ですが、魚の中で祈るヨナの祈りに目を向けることが大切です。ヨナは魚のお腹の中で、自分が神によって守られていることに気づきました。荒れ狂う海に飲み込まれた自分を守ってくださった神に、感謝と賛美の祈りを献げるのです。ヨナは敵国であるニネベに神の言葉を語りたくなかったので、神から逃げました。しかし、嵐に巻き込まれるという絶望を乗り越えて、もう一度、神と向き合う時間が与えられたのです。 私たちの人生も、絶望に巻き込まれることがあるでしょう。しかし、絶望があるからこそ、神と向き合う時間が与えられます。時に神から逃げ、時にぶつかりながらも、神はあなたを守っておられます。その事実に気づいて、「救いは、主にこそある」(10節)と告白しようではありませんか。 Mon, 02 Nov 2020 00:10:00 +0000 主から逃れたいとき(ヨナ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201102 no 2020 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。 (ヨナ書1章3節) ヨナ書は、主の言葉がヨナに臨むところから始まります。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」(2節)。しかし、ヨナは主から逃げるため、ニネベには行かず、タルシシュ行きの船に乗りこみます。ここがヨナ書のユニークな点の一つです。主の言葉を語る務めを担った「預言者」が、その使命を全うせずに、主から逃れようとするなど、前代未聞です。 ヨナは自分の思いに素直です。ヨナが主から逃げた理由は4章で明らかになりますが、神に敵対するニネベの人びとが主の言葉を聞いて、悔い改めてしまうのが嫌だったからです。自分の思いとは逆の命令を受けたヨナは主から逃げたわけですが、ヨナは嵐に巻き込まれ、主から逃げることはできませんでした。しかし、逆に理解すると、主はずっとヨナを見つめており、捕らえておられたのです。 私たちも生きる中で、ヨナのように主なる神の命令から逃れたくなるときがあるかもしれません。しかし、私たちがいくら主から逃がれたくなったとしても、神はあなたを見捨てずに、いつも捕らえてくださっています。 Sun, 01 Nov 2020 00:10:00 +0000 神が望まれたこと(マタイによる福音書 22章34-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201101 no 2020 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 (マタイによる福音書22章40節) ここでは、律法の専門家によって、「何が最も重要な掟なのか」という問いがなされています。主イエスは、これに「神と人とへの愛」と答えられました。 さらに、一切の律法と預言者は、この二つの愛に基づいている、とも言われています。この「基づいて」と訳された言葉は、「ぶら下げられている」という意味もあるようです。 律法の言葉が先にあるのではなく、むしろ、神と人との間の愛、という関係が先にあって、そこにぶら下げられて、生きるべき掟があるのです。 それゆえ、私たちが神との愛の関係の中で聖書を読みます時に、それはそのまま、生活の中で、互いをいたわり、互いに与えあい、支えあう愛の実践を生みます。 ある本で読んだのですが、1人のカトリックのシスターからは日ごとの奉仕の中にも幸福感があふれていたそうです。著者は、彼女の喜びの源は、キリストから無償で与えられた愛であると結んでおられました。 キリストは、私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。このキリストの無償の愛にぶら下げられて、私たちも愛に生きます。 Sat, 31 Oct 2020 00:10:00 +0000 悔い改めて福音を信じる(マルコによる福音書 1章1-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201031 no 2020 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 (マルコによる福音書1章14節~15節) 1517年10月31日、ルターは「95箇条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示したと言われています。これが宗教改革の始まりです。 この提題の第1箇条は次のものです。「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい…』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」。 ルターの願いは、贖宥の弊害を指摘し、学問的討論を通して、教会を真の福音へと導くことでした。しかし、事態は彼の思いを越えて展開し、彼は宗教改革運動の先頭に立つことになります。 私たちはルターから何を学んだら良いのでしょうか。ルターは人一倍深い罪の自覚を持っていました。人間の努力では決して救われないことを体験的に知り、苦闘の中で聖書の教える「神の義」を再発見しました。救いは神の恵みによること、行いではなく信仰によることです。信仰義認の教理の背後に、ルターの実存的な体験があります。私たちも、日々に悔い改めて、体験的に福音の恵みを知ることが大切なのです。 Fri, 30 Oct 2020 00:10:00 +0000 罪の自覚を鈍らせてはならない(ローマの信徒への手紙 7章7-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201030 no 2020 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 (ローマの信徒への手紙7章23節~24節) 「神の義」を発見したルターが、宗教改革に立ち上がることになったのは、当時の教会の「救いの理論」に疑問を感じたからです。教会は、洗礼後に犯した罪は「悔悛の秘跡」によって赦されるとしていました。この赦しは(1)心で罪を悔やむこと、(2)口によるざんげ、(3)司祭による赦しの宣言、(4)行いによる償いを要素としていました。 すなわち、司祭による赦免宣言によって、その罪責は赦されるのですが、なお罪の罰を生存中もしくは煉獄において償うことが必要だとされていました。この償いを免ずるのが「贖宥」です。具体的には、教会が販売する「贖宥状」を購入することによって、果たすべき償いが免ぜられるとされていました。 ルターは、自らの教区民がこの贖宥状を買い求めているのを知りました。彼がなにより危惧したのは、彼らが贖宥によって誤った安心感を得ていることでした。 ルターは、贖宥状が、人びとの真実な悔い改めを阻害していると感じました。罪意識を鈍らせていることを知りました。そこで討論のために書いたのが「95箇条の提題」です。 Thu, 29 Oct 2020 00:10:00 +0000 「私は天国そのものに入った」(ローマの信徒への手紙 3章21-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201029 no 2020 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、…ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 (ローマの信徒への手紙3章21節~24節) 福音主義的回心について、ルターが晩年に書いている言葉に耳を傾けましょう。 「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は…私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。だから私は罪人を罰する義の神を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。…だが、神は私を憐れんでくださった。私は『神の義は福音の中に啓示された。義人は信仰によって生きると書かれているとおりである』ということばのつながりに注目して、日夜たえまなくそれを黙考していた。そのとき私は、神の義によって義人は賜物を受け、信仰によって生きるという具合に『神の義』を理解しはじめた。これこそまさしく、神の義は福音によって啓示されたということであり、神はその義により憐れみをもって信仰により私たちを義としてくださる、という具合に受動的義として理解しはじめたのである。…今や私はまったく新しく生まれたように感じた。戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った」(徳善義和『マルチン・ルター 原典による信仰と思想』リトン、2004年、32、33頁)。 Wed, 28 Oct 2020 00:10:00 +0000 罪の問題の解決としての「神の義」の発見(ローマの信徒への手紙 1章1-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201028 no 2020 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 (ローマの信徒への手紙1章16節~17節) ルターの福音主義的回心は「塔の体験」と呼ばれます。修道院の塔の中で起こったからです。 ルターはローマ書の研究をしていましたが、「神の義」という表現につまずきを覚えていました。なぜなら、「神の義」とは神の正しさのことで、神が罪人を罰する義と理解していたからです。それゆえ、罰をのがれるために人間は、善を行わなければならないとされていました。けれども、どんなに善行を積んでも、ルターの良心に平安は与えられませんでした。 ルターは1章17節の御言葉を熟考しました。そして、聖書が教えている「神の義」の意味を発見しました。つまり、ここで言う「神の義」は、神がまったくの恵みによって私たちを義としてくださる「義」であり、人間は救われるために、その義を「受動的に」受け入れればよいのだと分かったのです。 人間が能動的に獲得する義ではなく、神が与えてくださる「受動的な義」です。この受け入れが信仰です。それゆえ人は、信仰によって神の義を受け入れて救われるのです。これが福音です。ルターはそれを発見したのです。 Tue, 27 Oct 2020 00:10:00 +0000 死の問題から罪の問題へ(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201027 no 2020 あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。 (詩編51編5節~6節) ルターは死の問題から出発し、罪の問題に移っていきました。当時も死や罪の問題で悩んだ人は多くいました。ルターが他の人と違ったのは、その問題の解決として、教会が与えていた「救いの理論」に満足できなかったことです。つまり彼は、人一倍罪の問題を深く把握していました。罪を体験的・実存的に捉えていました。それゆえ、当時の教会が与えていた救いの理論は、彼の切実な求めに応えることができなかったのです。 「神の怒りは自らの罪に向けられている」。そう感じたルターは、その罪を贖うために誰よりも模範的な修道士であろうとしました。誰よりも厳しく規則を守り、善い業に励みました。しかし熱心に励めば励むほど不安が募り、精神錯乱になるほど、罪意識が彼を圧倒したのです。 ルターの苦悩は頂点に達していました。その時、彼を心配し、慰め、聖書の学びへと導いたのが、彼の霊的な父親とも言えるシュタウピッツです。彼は修道会の司教代理でした。こうしてルターは聖書と向かい合います。これが、神の恵みによる救いを確信する福音主義的回心の下地になるのです。 Mon, 26 Oct 2020 00:10:00 +0000 死の恐怖からの出発(詩編 18編1-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201026 no 2020 死の縄がからみつき 奈落の激流がわたしをおののかせ 陰府の縄がめぐり 死の網が仕掛けられている。 (詩編18章5節~6節) 今週は宗教改革を覚えてマルティン・ルターについて学びたいと思います。 ルターは1483年にドイツのアイスレーベンで生まれました。18歳の時に、エルフルト大学に入学しています。父親は彼が法学者になることを期待していました。 そのルターの生涯を決定づける出来事が起こります。彼が21歳の時です。両親を訪ねて再び大学に戻る途中、突然の嵐に遭遇し、雷がルターの間近に落ちました。大地にたたきつけられたルターは、死への恐怖のあまり、「聖アンナ様、お助けください。わたしは修道士になります」と叫んだのです。聖アンナとは聖人の名前です。 咄嗟に発した誓いの言葉でした。しかし、ルターはこれに従いました。両親や友人の強い反対を押し切って、2週間後には修道院に入ったのです。その後も彼は、この時、神が自分を召されたのであり、背くことはできなかったと断言しています。 宗教改革者ルターは、死の恐怖、死の問題から出発しました。死の背後にある、人の罪に対する神の怒りへの畏怖が、彼を突き動かしたのです。 Sun, 25 Oct 2020 00:10:00 +0000 神のものは神に(マタイによる福音書 22章15-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201025 no 2020 すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章21節) ファリサイ派の人々は、イエスを罠に掛けようとして、「ローマ皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」と質問しました。 当時のユダヤ人社会は、ローマ皇帝の統治に対して協力的な人たちもいれば、強い反感を持つ人も少なくありませんでした。ですから、適っているか適っていないか、どちらを答えてもイエスは窮地に立たされます。そのような状況で、主が最後に口にされたのは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉でした。 ユダヤ人にとって、現実の世界の支配者は、ローマ皇帝でした。ですから、皇帝に税金を払うのは当然のことだったのかもしれません。しかし、この世の実質的な支配者は神です。ローマ皇帝の権力さえも、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ロマ11章36節)。 私たちの持ち物も体も命も、すべてはこの世の権力によって支配されるのではなく、神のものであって、神に返すべきものなのです。キリスト者は、世にあって、しかし神の民として、神の栄光のために生かされています。 Sat, 24 Oct 2020 00:10:00 +0000 人を変える力ある御言葉(ハバクク書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201024 no 2020 しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。 わたしの主なる神は、わが力。 わたしの足を雌鹿のようにし 聖なる高台を歩ませられる。 (ハバクク書3章18節~19節) ハバクク書は、悩みに満ちた問いかけの祈りで始まり、喜びと賛美の祈りで終わります。ここには、私たちの祈りの日々と重なり合う信仰が息づいています。 預言者は、神に対する問いかけの答えとして、幻を記録することと、その実現を待つように命令されました。しかし、現実の社会は、なおも神の輝かしい行為に欠けているかに見える世界です。信仰は闇の力によって無力さを突きつけられ、希望は絶望に容易に取って代わる時代でした。しかし、まさにそのただ中で、彼は喜びと賛美を歌っているのです。なぜそのようなことができるのか。それは、彼に神の幻が与えられたからにほかなりません。神の幻が、人を目に見える現実から引き上げて神の現実を見させ、それを待ち、それに生かしてくれる。それが神の幻の力なのです。 私たちに与えられた神の幻は聖書です。神の救いのご計画が示され、預言者たちを通して記されてきたものです。困難な時代にあっても、聖書の御言葉が、きょうも私たちに力と忍耐を与え、神の道を力強く、たおやかに歩ませてくれるのです。 Fri, 23 Oct 2020 00:10:00 +0000 忍耐を支える信仰(ハバクク書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201023 no 2020 「幻を書き記せ。 走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。 定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。 たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。」 (ハバクク書2章2節~3節) 預言者ハバククの祈りに対する神の答えは、彼を悩ませるものでした。祈りつつ彼は、無意識にでしょうが、自分が神から得たいと思っている答えのイメージがありました。しかし、神の答えはそれとはかけ離れたもので、理解することができなかったからです。 人は物事を自分の限られた範囲で理解するため、答えも限られた範囲内の答えを期待するものです。しかし、神はその範囲を易々と超えられるお方です。彼は再び神に問います。そのようなことがあってよいのでしょうか。 その問いに対して神は幻を与えられます。ここで言う「幻」とは、人のイメージと対比された、神の啓示されたご計画です。そしてそれは、王であられる神による悪人に対する終わりの時の裁きでした。人の無理解を超えて、神のご計画は実現します。 信仰とは、容易に理解できなくても、神の「幻」を信じて忍耐して生きることではないでしょうか。そして、イエス・キリストの再臨という「幻」を信じる信仰が、今日も、不正がはびこる時代に生きる私たちの忍耐を支えているのです。 Thu, 22 Oct 2020 00:10:00 +0000 聞かれている祈り(ハバクク書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201022 no 2020 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。 … 諸国を見渡し、目を留め 大いに驚くがよい。 お前たちの時代に一つのことが行われる。 それを告げられても、お前たちは信じまい。 (ハバクク書1章2節~5節) ハバククは祈ってきました、自分のために、愛する同胞のために、そして神のために。法を曲げ、暴虐と不法がまかり通る社会に対して正義がなされるように、神の正しい裁きがなされるように。 しかし、神が祈りに応えてくださるようには見えません。何も変わらず、かえって不正な者が力と栄誉を受け、ますます暴力によって人を支配しています。主よ、いつまで祈るべきですか。主よ、あなたはわたしの祈りを聞いてはくださらないのですか。主よ、このようなことをゆるしていて良いのですか。 きょうの箇所は神に問う祈りから始まっています。この祈りは私たちの祈りでもあるでしょう。なぜなら、私たちも、不義がまかり通り、神の正義が見えないと思える社会に生きている信仰者の一人だからです。 預言者は神の答えを受け取ります。聞かれていないように見えた祈りを神は聞き、動き始めておられます。それは驚くべき仕方であらわされます。私たちも忍耐し、失望せず祈りましょう。神は小さい者の神の正義を求める祈りを聞き、歴史を支配する王なる神なのですから。 Wed, 21 Oct 2020 00:10:00 +0000 真理のために共に働く(ヨハネの手紙三 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201021 no 2020 この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。 (ヨハネの手紙三7節~8節) この手紙の受取人であるガイオについて、詳細は分かりませんが、福音のために旅をしている人びとを自分の家に招き、宿泊させ、十分にもてなした人物であったようです。ヨハネは、ガイオの行為が何よりも愛から出ていることを称賛し、その愛の業を続けてくれるように願い求めています。 伝道者を助け、彼らに必要な金銭や物資を惜しむことなく献げて送り出すとは、「真理のために共に働く者となる」ことなのだと語ります。なぜなら、伝道者の働きを助けることは、彼らの福音宣教の労苦を共に担い、分かち合う者となることだからです。 日本にも多くの宣教師が、言葉や文化の違いを越えて、福音宣教のために来てくださっています。日本から福音宣教のために送り出されている方々も多くおられます。自分の母国と文化から離れて働くことには多くの労苦があるでしょう。私たちは、報告などを通してその様子を知り、共に担うことができます。祈りと献金を通してその働きの一端を担うことができるなら、どんなに幸いなことでしょうか。 Tue, 20 Oct 2020 00:10:00 +0000 キリストの教えにとどまる(ヨハネの手紙二 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201020 no 2020 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。 (ヨハネの手紙二9節) イエス・キリストの十字架の愛は、どこまでも愛し、どこまでも受け入れ、どこまでも与える、無条件の愛です。この愛を知った信仰者たちは、主イエスの愛を模範として、互いに愛し合う愛にとどまって歩むように、教えられています。 ところが、教会の中には福音に生きることをせず、キリストの教えと愛に従わない者たちがいました。彼らは、人の姿をした主イエスが神であるはずがないと言って、主イエスの教えに反対しました。これは福音を根底から否定してしまう考えです。 ヨハネは、このような反対者たちを「家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」と言って、厳しく戒めました(10節)。生まれたばかりの教会が破壊されてしまうことを、ヨハネは恐れたのです。 福音を曖昧にしては教会の命も真の交わりもありません。聖書を重んじキリストの教えにとどまるとき、私たちの教会は生き生きと喜びに生きることができます。再び来られる救い主イエス・キリストを待ち望む教会として、しっかりと立つことができるのです。 Mon, 19 Oct 2020 00:10:00 +0000 永遠の命(ヨハネの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201019 no 2020 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 (ヨハネの手紙一5章13節) 著者は、最後にもう一つ、この手紙を書いた目的を語ります。それは、「永遠の命を得ていることを悟らせたい」ということです。 永遠の命とは、何でしょうか。著者は、永遠の命とは、神そのものであり、また、私たちがその神との交わりの内に生きることである、と語ります(2章24、25節、5章20節参照)。特に、御子イエス・キリストに結ばれて生きることである、と言うのです(12節)。著者はこれまで、「交わりという喜び」を伝えたいために、さまざまな勧告をしてきましたが、それはこの永遠の命の恵みを伝えるためでした。神との交わりの喜び、聖徒の交わりの喜びとは、永遠の命の喜びだったのです。 永遠の命の恵みとは、不滅の心臓が宅配便で送られるように、私たちに与えられることではありません。それは、私たちが永遠の命そのものであるキリストに結ばれ、神との交わりを回復し、その命の内に生かされることです。また、その交わりの中で、神から限りない愛を受け、私たちもまた、互いに愛し合う交わりに生きることなのです。 Sun, 18 Oct 2020 00:10:00 +0000 神と共にあずかる永遠の喜び(マタイによる福音書 22章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201018 no 2020 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」 (マタイによる福音書22章2節~3節) このたとえ話に出てくる「王」は神、そして「王の息子」は、主イエスご自身のことを指しています。主は、「神の救いへの招き」を婚礼式の祝宴にたとえて、その喜びについて語っておられるのです。 当時のユダヤ人の婚礼は、王や貴族でなくてもたいへん豪勢なものであったようです。親戚や友人はもちろん、村中からたくさんの人を招いて、一週間近く祝宴が行われるのが一般的だったそうです。そうだとすると、王が主催する、息子のための祝宴とはどれほど豪華で盛大なものだったでしょう。そこは、皆が憧れるところで、そこに招かれることは最高の光栄のはずです。王と息子はもちろん、祝宴に参加した人びとの喜びの歌と笑い声に満ち溢れているでしょう。 天の国は、そのような、私たちの想像できる中で最も喜ばしい祝宴のような所です。神と私たちが共にあずかる永遠の喜びです。 神は、その天の国に人びとを招いてくださっているのです。「食事の用意が整いました」、「すっかり用意ができています」(4節)と、今も、その喜びの祝宴に私たちを招いてくださっているのです。 Sat, 17 Oct 2020 00:10:00 +0000 神は愛(ヨハネの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201017 no 2020 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 (ヨハネの手紙一4章7節~8節) 「互いに愛し合いなさい」という勧めが続きます。ここでは、特に「神は愛である」と、愛の源としての神の姿が語られます。 そもそも私たちはどうして互いに憎み合い、傷つけ合う者となってしまったのでしょうか。それは、私たち人間が、背きの罪によって、愛の源である神のもとから離れてしまったからです。神の愛から離れることで、愛を忘れ、愛が分からなくなってしまったからです。私たちは誰もが、愛というものが分からず、人を傷つけ、また傷つけられ、悩み苦しむことがあるのだと思います。 しかし、そのような私たちのために、神は愛を届けてくださいました。それが御子イエス・キリストです。神はキリストによって私たちに愛を示し、私たちがもう一度、愛を知り、愛に生きる者としてくださるのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(9節)。 きょうも、キリストの内に示された神の愛を心に留めて、歩んで参りましょう。 Fri, 16 Oct 2020 00:10:00 +0000 神の子たちよ、互いに愛し合おう(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201016 no 2020 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。…イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 (ヨハネの手紙一3章1節、16節) 著者の「神の子たち」への教え諭しは続きます。著者は、神の光の中を歩むとは、特に「互いに愛し合うこと」であると語ります。 実際、私たちの人間関係がうまくいくとき、私たちは光の中を歩むように、それによって大きな喜びを与えられると思います。しかし、反対に、人間関係がうまくいかないとき、私たちは闇の中を歩むように、大きな重荷を負い、苦しむのだと思うのです。著者は、「神の子たちが真の交わりの喜びの内に歩んでほしい」という思いで、繰り返し教え諭しています。 そして、著者は、私たちが互いに愛し合う根拠として、神の愛を語ります。それは、第一に、私たちを神の子どもとしてくださった父なる神の愛、第二に、私たちのために、命を捨ててくださった主イエスの愛です。つまり、神が私たちを愛してくださったのだから、私たちも互いに愛し合おう、と言うのです。 私たちの愛には、欠けや破れがあります。しかし、そのような時に、私たちを愛してくださる神の愛、主イエスの愛を、もう一度思い起こし、愛に生きる道へと導かれたいと思います。 Thu, 15 Oct 2020 00:10:00 +0000 神の子たちよ、光の中を歩もう(ヨハネの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201015 no 2020 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。…「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 (ヨハネの手紙一2章1節、9節~10節) 「交わりという喜び」を伝えたい。それが、この手紙が書かれた目的でした。しかし、著者は序文が終わると、その交わりの喜びについて語るのではなく、それを失ってしまった読者たちの現状について語り始めます。 実は、この手紙が送られた地域の教会には、誤った教えが広まり、それゆえ、教会が混乱していました。主イエスがメシアであること、またその受肉をも否定する人々がいました。そして、肉体的な世界を軽んじ、奔放に好き勝手に生きていいという彼らの教えによって、「罪を犯してもいい」、「隣人を愛さなくてもいい」という、主イエスの教えとは正反対の教えが広まっていたのです。この手紙の本当の目的は、そのような誤った教えに読者たちが引き込まれないように警告すること。そして、彼らが神との交わりを回復し、また「互いに愛し合う」聖徒の交わりを回復し、主にある真の喜びへと促すことだったのです。 著者は「子たちよ」と、神の家族として、読者たちを優しく教え諭しています。そして、真の喜びは、罪の闇の中にではなく、神の光の中にあると語るのです。 Wed, 14 Oct 2020 00:10:00 +0000 交わりという喜び(ヨハネの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201014 no 2020 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。 (ヨハネの手紙一1章3節~4節) この手紙の冒頭には、誰が手紙を書いたのか、誰に宛てて書いたのかが書かれていません。しかし、その代わり、手紙を書いた目的がはっきりと述べられています。 著者はこの手紙を書いたのは、「あなたがたもわたしたちと交わりを持つようになるため」、また「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると語ります。この交わりとは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」のことです。著者は、神との交わり、キリストとの交わりを知ってほしい、また、主にある聖徒の交わりを知り、そこに加わり、その喜びを味わってほしい、そのために、命の言であるキリストについて、あなたがたに伝えるのだ、と言うのです。 私たちの主は、孤独なお方ではなく、父・子・聖霊という三位一体の愛の交わりの喜びに生きておられるお方です。私たちの教会における聖徒の交わりは、主ご自身の交わりの一部分であると言えます。また、その交わりの喜びも、この主の交わりの喜びに基づいています。私たちの主は、「交わりという喜び」に、私たちをも招いてくださるのです。 Tue, 13 Oct 2020 00:10:00 +0000 愛の広がりと強さ(雅歌 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201013 no 2020 大水も愛を消すことはできない 洪水もそれを押し流すことはできない。 愛を支配しようと 財宝などを差し出す人があれば その人は必ずさげすまれる。 (雅歌8章7節) 『雅歌』の最後の1章は、不思議な章です。男性と女性それぞれに関係する、母親や兄弟たちに何度も言及されるからです。 女性は、夫との密室だけの愛ではなく、どんな場所でも愛情表現ができる兄妹のような関係を願います(1節)。そして、実の兄たちが、幼い頃の自分を箱入り娘のように守ってくれていたことを、懐かしくも思い起こすのです(8、9節)。 他方で、女性は夫を、自分の母の家(2節)や、夫の母が夫を出産した部屋へと誘います(5節後半)。 つまり、女性にとって夫との性の営みは、もはや二人だけの刹那的なものではなく、大きな生命の連鎖に連なるものへと変わりつつあるということです。そうして、彼女の生きた証が相手にしっかりと刻みつけられることを願うのです(6節)。 その中心は、愛です。愛は決して強いるものではありませんが(4節)、死のように強く(6節)、どんな力にも屈することなく、決してお金で買うことのできない尊いものです(7節)。 まさに、神の御性質そのものではありませんか! Mon, 12 Oct 2020 00:10:00 +0000 喜びに満ちた愛(雅歌 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201012 no 2020 喜びに満ちた愛よ あなたはなんと美しく楽しいおとめか。 (雅歌7章7節) 何かの祝い事かお祭りの時なのかもしれません。人々は、自分たちのコミュニティに加わったばかりの女性に踊りをリクエストします(1節)。 楽の音に合わせて躍動する女性の肉体美に、視線が注がれます。おそらくは、地面に腰を下ろして見上げているからでしょう。土埃を上げながら踊る足から、もも、腹、胸、頭と、その一つ一つがたたえられます。 しかし、夫にとっての妻の美しさは、そうした客観的な美にとどまるものではありません。夫婦だけの「喜びに満ちた愛」(7節)が輝きを増し加えるからです。 そうして夫は、単に鑑賞するだけでなく、妻と一つになりたいという願いに駆られて唇をふさぎます(9節)。 夫の求めを強く感じた妻は、むしろ自分から「恋しい人」を誘います。そうして、夜となく朝となく、媚薬としての「恋なす」(14節)がいくつも並んでいるとあるとおり、二人はいつまでもどこまでも愛し続けるのです。 自分の心も体も「あなたのために取っておきました」(14節)と言われる、夫婦だけに許された最も深い愛の形が、ここには描かれます。 Sun, 11 Oct 2020 00:10:00 +0000 人生の親石であるイエス(マタイによる福音書 21章33-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201011 no 2020 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。 『家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった。 これは、主がなさったことで、 わたしたちの目には不思議に見える。』」 (マタイによる福音書21章42節) ある家の主人が、よく整備されたぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫の時が近づいたので収穫物を受け取るために、僕たちを送りましたが、農夫たちによって皆、殺されてしまいます。主人は最後に最愛の息子を送ります。しかし、農夫たちは息子もぶどう園の外に放り出し殺してしまいました。 主イエスは、祭司長や律法学者のような指導者たちをぶどう園の農夫たちに譬えることによって、彼らの罪を明るみに出されます。神の家である神殿を自分たちの利益のために利用していた罪を批判し、さらに彼らが御自身に対して抱いていた殺意を明らかにされます。しかし、彼らは最後まで悔い改めることを拒みます。主イエスを神の子として認めず、十字架にかけて殺してしまいます。 主イエスは、御自身を指し示して、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」とおっしゃいました。人びとに捨てられ殺され、三日目に復活され、今は天において万物を統治しておられます。新しい神の家である教会の親石となられ、私たちの人生のすべてをしっかりと支えてくださっています。 Sat, 10 Oct 2020 00:10:00 +0000 愛の新しい段階(雅歌 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201010 no 2020 恋人よ、あなたはティルツァのように美しく エルサレムのように麗しく 旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。 (雅歌6章4節) 喪失感にとらわれた妻を励まそうと、おとめたちは歌うのですが(1節)、その必要はないようです。再び撚りは戻って、二人のラブソングが歌い交わされるからです。 結婚してもなお男性が妻をほめ続けることは、大切です。興味深いのは、以前には語られなかった表現が出てくることです。 「あなたは…美しく…麗しく…恐ろしい」(4節)! これは、優しく可憐だった女性が、結婚後に豹変したということではありません。美しさも麗しさも堅固な町にたとえられているように、女性の持つ強さのことです。 その強さを、男性は目からも感じ取ったようです。鳩のように愛くるしいと称えられた目も、男性が直視できないほど「混乱させる(圧倒する)」力を秘めていることに気づいたからです(5節)。 さらに、女性が「かけがえのない」独り娘であることも、明らかにされます(9節)。 結婚を経て、単なる性愛の対象ではない、相手が持つ人間としての尊厳、一個の人格が持つ強さ、親との関係など、見えていなかったことが見えてきます。 愛の新しい段階です。 Fri, 09 Oct 2020 00:10:00 +0000 夫婦の愛~その後(雅歌 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201009 no 2020 恋しい人の言葉を追って わたしの魂は出て行きます。 求めても、あの人は見つかりません。 呼び求めても、答えてくれません。 (雅歌5章6節) 結婚はゴールではなく、スタートです。夫婦の愛の生活は、一緒になって終わるものではありません。結婚によって始められた、一人の男と一人の女の愛は、様々に試されながら、行ったり来たりを繰り返します。 夫は、妻との交わりを喜びとしています(1節)。夜遅くなった夫に対し、妻もまた「心は目覚めて」待っていました(2節)。妻は、夫に文句を言うような素振りを見せますが(3節)、その実、「胸は高鳴りました」(4節)。 ところが、何があったのか、突如として夫がいなくなります(6節)。実際に用事があって出て行ったのか、それとも疲れた夫が自分だけ先に寝入ってしまったのか、いずれにせよ妻は喪失感の中に取り残されます。 そうしてかつて恋人を失う不安にさいなまれた時(3章1-3節)の記憶が、よみがえります。せっかく夫の愛を独占したと思っていた妻の心は、恋人時代にもまして深く傷つくのです(7節)。 それでも、あなたたちは理想のカップルよと褒められる(9節)と、一転、のろけ話を始めます(10節以下)。 夫婦の愛は、難しい! Thu, 08 Oct 2020 00:10:00 +0000 夫婦の愛(雅歌 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201008 no 2020 わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。 あなたの香油は どんな香り草よりもかぐわしい。 (雅歌4章10節) 結ばれた若い二人の愛は、なんと美しいものでしょう。なんと濃密なことでしょう。 古今東西、その愛の交わりを多くの文学者が表現してきましたが、雅歌はまさに英語名のとおり“歌の中の歌(Song of songs)”です。 「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創2章25節)と言われるのは、夫婦だからというだけでなく、人間本来の――とりわけ堕落前の男女の――健全さ・美しさ・交わりのすばらしさを表しているのでしょう。 若者は、若き妻の体の一つ一つの部分を、実に豊かな表現で称えていきます。目・髪・歯・唇・首・乳房。心の窓である「目」から始まっていることが大切です。 花嫁は「閉ざされた園。封じられた泉」と言われています(12節)。これは、今や男性にとって、彼女がただ自分だけのものになったという喜びの表現でしょう。 妻もまた「恋しい人がこの園をわがものとして、このみごとな実を食べてくださるように」(16節)と、夫に自分を差し出すのです。 やましいことが何一つない、夫婦の愛のなんと「快い」ことでしょう(10節)。 Wed, 07 Oct 2020 00:10:00 +0000 揺れ動く愛(雅歌 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201007 no 2020 起き出して町をめぐり 通りや広場をめぐって 恋い慕う人を求めよう。 求めても、あの人は見つかりません。 (雅歌3章2節) 一緒にいるはずの「恋い慕う人」がいません。おとめは、起き出して、まるで不審者のように夜の町をめぐり歩きます。いくら探しても見つからない。そうこうしている内に夜警に見つかり、苦し紛れに質問をする。途端、若者が見つかると、むんずとつかんで引き返し、母の家へと(結婚するために)連れて行く。 そうかと思うと、一転、壮麗な花嫁行列に場面が変わります。栄華をきわめたソロモン王の婚礼シーンです。 何とも現実離れした、まるで彼女が見た夢か幻を語っているようです。いったい、どこからどこまでが現実で、どこからが幻なのでしょう。 おそらく、ここには、結婚前後の複雑な女性の心象風景が描かれているのではないでしょうか。 関係が深くなればなるほど、相手を失うことの不安に駆られる。時には、力づくで相手を結婚に導こうとさえする。そうして迎えた結婚式では、逆に、まるで王様の妃になったかのような幸せを感じる。 愛は単純ではありません。愛する思いが強くなればなるほど、不安と喜びの間を大きく揺れ動くものです。 Tue, 06 Oct 2020 00:10:00 +0000 愛は耐える(雅歌 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201006 no 2020 エルサレムのおとめたちよ 野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください 愛がそれを望むまでは 愛を呼びさまさないと。 (雅歌2章7節) わたしの恋人は「茨の中に咲きいでたゆりの花」(2節)。「森の中に立つりんごの木」(3節)。若者もおとめも、互いの姿しか目に入りません。恋の始まりです。 恋は、互いへの眼差しだけではありません。世界を一変させます。「冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。…いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る」(11-13節)。すべてが輝いて見えます。命の輝きに満ちています。 その中で、相手に抱かれることを願い(6節)、相手の声に心ときめき(8節)、二人だけの特別な関係を求め(16節)、すぐにでも会いたいと気持ちはいつでもはやるのです(8、17節)。 けれども、おとめは忍耐します。「愛がそれを望むまでは愛を呼びさまさない」と。単なる欲望や形だけの愛ではない、本物の愛を彼女は求めているからです。 愛には、いつでも邪魔が入ります(15節)。しかし、困難に直面すればするほど、愛は強くされるでしょう。 愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ものだからです(1コリ13章7節)。 Mon, 05 Oct 2020 00:10:00 +0000 美しさの秘密(雅歌 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201005 no 2020 恋人よ、あなたは美しい。 あなたは美しく、その目は鳩のよう。 (雅歌1章15節) 『雅歌』のテーマの一つは、“美しさ”です。 「だれにもまして美しいおとめよ」(8節)。 「恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう」(15節)。 「恋しい人、美しいのはあなた」(16節)。 ところが興味深いことに、主人公の女性は、ぶどう畑の見張りをするという外仕事のために日に焼けた、自分の肌の浅黒さを恥じています(5、6節)。 日焼け止めクリームも紫外線ケア商品もない時代、色白の肌を保つことができたのは、一日中屋内で過ごせる裕福な生活をしている人だけだったからでしょうか。 しかし、この女性の美しさは肌の色には関係ありませんでした。もう一人の主人公である男性は、この女性の「頬」も「首」も愛らしく(10節)、「その目は鳩のよう」(15節)とたたえます。 目の美しさはともかく、頬や首が愛らしいというのは、どういう状態を指すのでしょうか? 結局のところ、この女性を美しいと思うのは「愛」があるからです(2、4節)。愛は、すべてを覆うのです。 Sun, 04 Oct 2020 00:10:00 +0000 天の国の価値観(マタイによる福音書 20章1-16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201004 no 2020 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 (マタイによる福音書20章16節) 「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。これは、「ぶどう園の労働者のたとえ」の最後に主イエスが語られた言葉です。 朝早く、最初にぶどう園に働きに来た労働者たちは、当然、自分たちに一番多くの賃金が支払われると考えました。しかし、実際には、途中から来た人にも、最後に来た人たちにも同じ額の賃金が支払われました。常識的に考えれば「後にいる者は後、先にいる者は先」です。先に来て長く働いた人により多くの賃金が支払われる。それがこの世の価値観です。 しかし、主イエスが教えられる「天の国の価値観」は違います。「最後の者にも、最初の者と同じように支払う」。一見、非常識と思われるかもしれませんが、それが「天の国の価値観」です。 その人が誰であれ、どんな人生を生きたとしても、人生のどんな時に信じたとしても、同じ罪の赦し、同じ永遠の命、同じ恵みが与えられ、主イエスが一人ひとりの人生に臨んでくださいます。そのような価値観の実現のために、主イエスは、この世に来られ、十字架で死んで復活し、天に帰られたのです。 Sat, 03 Oct 2020 00:10:00 +0000 主の日は近づいている(オバデヤ書 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201003 no 2020 主の日は、すべての国に近づいている。 お前がしたように、お前にもされる。 お前の業は、お前の頭上に返る。 (オバデヤ書15節) オバデヤ書は、旧約聖書の中で最も短い書です。神はオバデヤを通して、エドムが滅びると宣告されます。 エドムはエサウの子孫で、ヤコブ(イスラエル)の兄弟であり、死海の南にある国です。けれども、山岳地帯にあって難攻不落の要塞に住んでいたため、誰もわたしを攻略できはしないと、傲慢になっていました(3節)。また、イスラエルが外国人によって災難に遭い、苦しんでいたときも、助けないでただ眺めていました。そればかりか不幸を喜んでもいたのです(10~14節)。 傍観は罪に加担するのと同じです。そのようなエドムに対して、「お前を引き降ろす」(4節)と、さらに「主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる」(15節)と言われます。神はエドムだけでなく高慢な国々を裁き、イスラエルを回復されます(21節)。神は苦しむイスラエルを放っておかれません。 この約束は、私たちにも与えられています。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」(黙11章15節)。私たちも、神のものとして回復されるのです。 Fri, 02 Oct 2020 00:10:00 +0000 回復を与える主(アモス書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201002 no 2020 見よ、その日が来れば、と主は言われる。 耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。 … わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。 … わたしは彼らをその土地に植え付ける。 わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないと あなたの神なる主は言われる。 (アモス書9章13節~15節) 最後にアモスはイスラエルに対する主の徹底的な裁きの宣言を取り次ぎます。 主の裁きからどんなに逃れようとしても、主は見逃すことはない。「海の底に隠れても、そこで、蛇に命じてかませる。…わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは災いのためであって、幸いのためではない」(3、4節)。 しかし、これほどまでに徹底的に裁きを言い渡しつつも、「わたしは、ヤコブの家を全滅させはしない」(8節)、「その日には、わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し…昔の日のように建て直す」(11節)、「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する」(14節)、そして、「再び彼らが引き抜かれることは決してない」(15節)と、主なる神は、回復の日を約束しておられます。 同じ主なる神が、主イエスに結ばれた私たちにも回復の日を約束しておられます。 主なる神の想像を超えた憐れみのゆえに、私たちもまた、神の子とされた者として、完全に回復される日が約束されています。 主イエスが再び来られるとき、非のうちどころのない者に回復されることを待ち望んでいます。 Thu, 01 Oct 2020 00:10:00 +0000 主の御言葉の飢饉(アモス書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20201001 no 2020 見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。 わたしは大地に飢えを送る。 それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。 人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない。 (アモス書8章11節~12節) 主の幻は続きます。今度は一籠の夏の果物(カイツ)の幻です。語呂合わせのように、主は、「わが民イスラエルの最後(ケーツ)が来た」ということをお示しになりたかったのです。 イスラエルの人びとは、弱者を虐げ、不正な商売を行い、自らの腹を貪欲で満たそうとします。そのようなイスラエルをご覧になり、主は「もはや、見過ごしにすることはできない」とおっしゃいます。そして、「その日が来る」と。 「その日」とは、「裁きの日」です。それは、「飢えを送る」という裁きです。そして、その「飢え」とは、パンに飢えることでも、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできない「飢え」だ、というのです。 今、私たちはどうでしょう。パウロは言います。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(ロマ10章8節)と。その言葉とは、信仰の言葉、福音の言葉で、身近にいつもあるというのです。 主イエスが私たちの罪のために十字架にかかり、死んで、3日目によみがえられた、という福音の言葉を、主の日ごとに聞くことが許されている幸いを思います。霊的に健全な「飢え渇き」をもって、福音の言葉を求め続けたいものです。 Wed, 30 Sep 2020 00:10:00 +0000 預言者のために(アモス書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200930 no 2020 アマツヤはアモスに言った。 「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。」 (アモス書7章12節~13節) アモスには三つの幻が示されます。最初の二つの幻(いなごと審判の火)が示されたとき、彼はイスラエルのために執り成し、主は思い直してくださいました。しかし、三つ目の幻では、下げ振りという垂直を見るための道具を北王国イスラエルの真ん中に下ろす、と主はおっしゃいます。「もはや、見過ごしにすることはできない」、お前たちの道を真っ直ぐに正せ、と。 そのことを告げるアモスを妨げて、北王国に仕えるベテルの祭司アマツヤは言います。「先見者よ、行け。ユダの国…で預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな」。人は、主の裁きの御言葉、悔い改めが求められる言葉は聞きたくありません。耳に痛い言葉を語る人を避けたがるものです。 ですから、パウロは言います。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け…ます。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(2テモテ4章3-5節)。 Tue, 29 Sep 2020 00:10:00 +0000 破滅に心を痛めよ(アモス書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200929 no 2020 お前たちは象牙の寝台に横たわり 長いすに寝そべり … 竪琴の音に合わせて歌に興じ … 大杯でぶどう酒を飲み 最高の香油を身に注ぐ。 しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。 それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き 寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。 (アモス書6章4節~7節) 6章は、「災いだ、シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者らは」と、災いを告げるメッセージで始まります。 南ユダ王国の都エルサレムのシオンの丘、北王国の都サマリアの山は、それぞれ武力と繁栄を一定期間、誇っていました。そのおごり高ぶる様子が、「お前たちは象牙の寝台に横たわり…」と表現されます。人びとは宴を開いて大酒を飲み、国が滅びようとしても心を痛めることがありませんでした。 これに対してアモスは主の言葉を告げます。「わたしはヤコブの誇る神殿を忌み嫌い、…わたしは都とその中のすべてのものを敵に渡す」(8節)。 主イエスの母マリアは、主をほめたたえて歌っています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし…」と(ルカ1章51、52節)。主なる神はおごり高ぶるものを戒め、小さな者、弱い者を憐れまれるお方です。 アモスやマリアが言うとおり、ユダもイスラエルも、捕囚の列の先頭を行き、酒宴は終わりました。目を覚まして、主を畏れることを学びたいものです。 Mon, 28 Sep 2020 00:10:00 +0000 主を求めて、生きよ(アモス書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200928 no 2020 まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。 わたしを求めよ、そして生きよ。 しかし、ベテルに助けを求めるな ギルガルに行くな ベエル・シェバに赴くな。 ギルガルは必ず捕らえ移され ベテルは無に帰するから。 主を求めよ、そして生きよ。 (アモス書5章4節~6節) 主の懲らしめの中を苦しむ主の民に向かって、主はおなかが痛くなるような思いでおっしゃいます。「わたしを求めよ、そして生きよ」と。 主を捨てて、主から離れ、別の神々を求めて、結果として主からの懲らしめを受けるイスラエルに対して、主なる神はいつも手を差し伸ばし続けておられます。 「あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。…あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである」(申4章29~31節)。 たとえ懲らしめのただ中にあっても、主なる神の私たちへの憐れみは変わりません。神の民が、神を求め、神との命の交わりのうちに生きる。それが、失われた子たちを捜し求める父なる神の本心です。 罪ある人間の親でも、自分のもとを去った家出息子、家出娘を待ち続けるものです。ましてや、私たちの父である神は、きょうも私たちが、神との交わりを求めることを待ち続けておられます。 Sun, 27 Sep 2020 00:10:00 +0000 キリストの無限の赦し(マタイによる福音書 18章21-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200927 no 2020 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」 (マタイによる福音書18章21~22節) イエス・キリストのもとには無限の罪の赦しがあります。キリストは、兄弟を赦すことにおいて、制限を設けられませんでした。 ペトロは兄弟を7度まで赦すことができたなら、キリストの弟子として満点だと考えたようです。事実、「7回までですか」との発言自体、当時としては画期的な考え方でした。しかし、キリストは、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われました。ペトロが考えたのは、回数としての7でした。それに対してキリストが言われた7は、完全数としての7です。それだけでも完全な赦しを求められている。さらに、それを70倍と言われたのですから、これは無限の赦しを意味しています。 私たちは時に、自分はあの人を赦してあげたと誇るかもしれません。しかし、実際には真実に誰かを赦すことのできない罪人です。 キリストが無限に赦してくださっていることを忘れないようにしましょう。私たちはキリストに赦されている罪人です。感謝と謙遜さをもって歩む日々は、私たちにまたキリストの赦しの大きさに気づかせるでしょう。 Sat, 26 Sep 2020 00:10:00 +0000 帰って来い(アモス書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200926 no 2020 ベテルに行って罪を犯し ギルガルに行って罪を重ねよ。 … だから、わたしもお前たちのすべての町で 歯を清く保たせ どの居住地でもパンを欠乏させた。 しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと、主は言われる。 (アモス書4章4節~6節) 4章では、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと、主は言われる」と、5回も繰り返されます。 「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」。これは、「わたしのもとに帰って来い」という、神の切実なメッセージです。 帰って来させるために、神はパンを欠乏させ、日照りで渇きを与え、黒穂病、赤さび病、いなごを送り、疫病と剣を送り、ソドムとゴモラを滅ぼしたような破滅を送ったのでした(6~11節)。しかし、どんな苦難を送ってもイスラエルは神に帰らなかったのです。 神のメッセージは明らかです。「苦難を通して目を覚まし、正気に返って、主なる神のもとに帰って来い」。これが神のメッセージです。 今、あなたも何らかの苦難、困難の中にあるかもしれません。詩編の信仰者はこう言います。「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした」(聖書協会共同訳、詩119編71節)。 神の民が、神の懐に立ち帰るために、神は何度も苦難を与えて、呼び戻そうとしてくださっています。神に立ち帰り、「神と出会う備え」(4章12節)をさせるためです。 Fri, 25 Sep 2020 00:10:00 +0000 わたしがお前を選んだ(アモス書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200925 no 2020 イスラエルの人々よ 主がお前たちに告げられた言葉を聞け。 ―わたしがエジプトの地から導き上った全部族に対して― 地上の全部族の中からわたしが選んだのは お前たちだけだ。 それゆえ、わたしはお前たちを すべての罪のゆえに罰する。 (アモス書3章1節~2節) 「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ」と、主なる神はイスラエルに対しておっしゃいます。これも、何度も繰り返される表現です。 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申7章6節)。 主なる神が選び、御自身のものとされたのだから、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19章1節)。 神がイスラエルを選ばれたのは、ただただ、神がイスラエルを愛されたからです。愛された者には責任も伴います。愛され、神の民として聖なる民として取り分けられたからです。 神は愛のゆえに選び、イスラエルを御自分のものとされました。それゆえに、道から逸れれば罰します。けれども、それは罰するための罰ではありません。あるべき道へ戻すための愛の警告です。 そのような主なる神の、イスラエルを御自身との愛の応答関係に連れ戻したい熱意が、アモスを突き動かします。「主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか」(8節)と。 Thu, 24 Sep 2020 00:10:00 +0000 偽りの神ではなく(アモス書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200924 no 2020 主はこう言われる。 ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。 彼らが主の教えを拒み その掟を守らず 先祖も後を追った偽りの神によって 惑わされたからだ。 (アモス書2章4節) アモスは北のイスラエル王国に向かって主の御言葉を取り次ぐために召されましたが、出身地のユダに対しても御言葉を告げて指摘します。 神の民が偽りの空しい神に惑わされることは、聖書のいたるところに記されています。 パウロは言います。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。…」(ロマ1章25節)。 私たちもまた、うっかりすると神ではなく、神が与えてくださるいろいろな贈り物、プレゼントそのものに執着してしまいます。仕事、地位、名声、富、権力、その他諸々。すべての善きものの源である天の父なる神こそが、私たちのまことの父、まことの神です。 私たちが頼りにしているもの、執着しているものは何でしょう。もし神以外のものであるなら、祈りましょう。「神よ、諸々の善きものを与えてくださるあなたこそ、まことの神です」と。 2章には、「火を放つ」(2節、5節)と、繰り返されます。主イエス・キリストは、私たちがまことの神、偽りのない希望に堅く立つようにと、聖霊の火で練り鍛え、きよめ続けていてくださっています。 Wed, 23 Sep 2020 00:10:00 +0000 テコアの牧者アモス(アモス書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200923 no 2020 テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の2年前に、イスラエルについて示されたものである。 (アモス書1章1節) テコアとは、ベツレヘムの南10キロほどのところにあるユダの地域です。ユダ出身のアモスですが、北のイスラエル王国についての主の御言葉をおもに取り次ぎます。もちろん、南のユダ王国についての主の御言葉も取り次ぎます。 「ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代」と言いますから、紀元前760年くらいのことです。列王記を読むと、「主の目に悪とされることを」行う「神に背く王たち」が、次々とイスラエルに出てくる時代です。そういう時代にテコアの牧者アモスが主によって召されました。彼は、いわゆる職業預言者ではありませんでした。けれども、主は時に応じて、人びとを預言する者として立てられるのです。 私たちは、皆が特別な神学教育を受けた御言葉の働き人でも、長老でもありません。主はそのような私たちを、神の正義と憐れみを伝えるために、呼び出されます。 今日も、神の公平、正義、憐れみ、愛を証しするために、私たちはそれぞれの持ち場に召されて遣わされていきます。そこは、家庭、学校、職場、病院、地域社会かもしれません。私たちもまた、預言者です。 Tue, 22 Sep 2020 00:10:00 +0000 神の忍耐の時(ペトロの手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200922 no 2020 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 (ペトロの手紙二3章9節) 世の終わりの時はいつ来るのでしょうか。「遅い」とは、「義の宿る新しい天と地とを、神の約束に従って待ち望んで」いればこそ(13節)、「遅い」と言いたくなるのです。 しかし、「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ」と言われます。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(3、4節)、約束は空手形だったのではないか、と。この言葉は、「遅い」と言う人の中に芽生えた疑いの心でもあります。信じているからこそ、疑いの心も起こります。 そのような、信仰に立つか倒れるかというところにある人びとに、ペトロは語ります。「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。 今の時は、信仰に立つか倒れるかというところにある「あなたがた」のために神が「忍耐」して、待ってくださっている時なのです。信仰が揺らぎやすい「あなたがた」を、神は救いたいのです。「聖なる信心深い生活」(11節)をもって、主を待ち望みましょう。 Mon, 21 Sep 2020 00:10:00 +0000 滅亡の奴隷か主の奴隷か(ペトロの手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200921 no 2020 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。 (ペトロの手紙二2章20節) 「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知」るならば、「世の汚れ」から逃れることができます。世の汚れは私たちの目には何ものにも勝って強い力を持つように見えることもあります。しかし、救い主を深く知るならば、世の汚れから逃れることができるのです。 ただひとたび、世の汚れから逃れても、それに「再び巻き込まれ」ることがあると書かれています。それも、「再び巻き込まれて打ち負かされる」ことがあると言うのです。「打ち負かされる」ことがあるのは当然と言えば当然でしょう。世の汚れは人にとって力あるものです。人を「滅亡の奴隷」(19節)にするほどのものなのです。もし、私たちが再び巻き込まれることがないとすれば、それは、私たちがキリストを深く知るのみならず、キリストをまことに「わたしたちの主、救い主」としたときでしょう。 私たちは強くありません。「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」と言われています(22節)。しかし、キリストを主とする主の奴隷である限り、私たちが「滅亡の奴隷」へと逆戻りすることはありません。主こそ、何にも勝って力ある方だからです。 Sun, 20 Sep 2020 00:10:00 +0000 キリストの真実のゆえに(マタイによる福音書 18章15-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200920 no 2020 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。…二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 (マタイによる福音書18章18節、20節) 私たちに与えられている権威の途方も無さに驚かされます。神の国の扉を開いたり、閉じたりする権威が与えられています。果たして誰が、このような権威を担うことができるでしょうか。 キリストは言われました。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。その「願い」とは何でしょう。「兄弟があなたに罪を犯したら」(15節)と言われています。赦すことです。罪を犯した兄弟を赦すことへと祈りは向かいます。そう祈るとき、私たちはもはや孤独ではありません。地上において、心を合わせて祈る兄弟姉妹が与えられています。たとえ一人で祈るとしても、天におられるキリストと結び付けられています。 キリストは言われます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。私たちはキリストの約束の中に入れられています。誰がキリストの約束を疑うでしょう。この方は真実な救い主です。この方に私たちが赦しを請い祈るとき、確かにそこに神の国の扉は開くのです。 Sat, 19 Sep 2020 00:10:00 +0000 永遠の御国にふさわしく(ペトロの手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200919 no 2020 わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。 (ペトロの手紙二1章13節~14節) ペトロは、自分がこの世に生きていることを、「この体を仮の宿としている」と言いました。「仮の」宿ということは、本当の住まいが他にあるということです。それも、今の体を離れた後にはそこに移ることになる、と言っていることになります。 ペトロはこれから地上での生涯を終えて、天の御国に入ります。ただ、ここでペトロは、この地上での生涯を「仮の」ものに過ぎないと言い切っています。この世が本編であの世が続編、というのではありません。この世は仮のものに過ぎず、天の御国こそまことのものだと言っているのです。 その思いに乗せて、ペトロは、「救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるように」と教えます(11節)。人びとが天の御国に「召され」、「選ばれて」いるからこそ、ペトロはそう言うのです(10節)。 神がわたしを召してくださいました。神がわたしを選んでくださいました。私たちにとっても、この世は仮のものにしか過ぎません。ですから、私たちは、地上にいる間から、永遠の御国にこそ思いを向けて生きるのです。 Fri, 18 Sep 2020 00:10:00 +0000 神の裁きと希望(エレミヤ書 52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200918 no 2020 ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。 (エレミヤ書52章33節) エレミヤ書の最後となる52章には、これまで彼が語ってきた預言が実現する様子が描かれています。エルサレムとユダは「主の目に悪とされることをことごとく行った」罪のゆえに、「ついにその御前から投げ捨てられることになった」(2、3節)。主の神殿も王宮も民の家屋もすべて焼き払われ、都の城壁も取り壊されました。主の神殿にあった金・銀・青銅の祭具は奪い去られ、生き残った民の大半は捕囚とされました。 神の裁きによるエルサレムの悲惨な有り様を述べた後で、最後に少し変わった記事が書かれています。ユダの王ヨヤキンの名誉回復の記事です。列王記によると、ヨヤキンが王位にあったのはわずか3か月でしたが、その治世は主の目に悪とされるものでした(下24章8、9節)。彼はバビロンで37年もの獄中生活を送りましたが、その後、代替わりしたバビロン王により解放され、手厚い保護を受けたというのです。神の裁きの預言は実現しました。同じように、神の民の解放の預言も実現する、そのことを思い起こさせる記事ではないでしょうか。 Thu, 17 Sep 2020 00:10:00 +0000 その中から出よ(エレミヤ書 51章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200917 no 2020 わが民よ、その中から出よ。 おのおの自分の命を救え 主の激しい怒りを逃れて。 (エレミヤ書51章45節) バビロンは、繁栄と豊かさを誇り、エルサレムと神殿を滅ぼしました(王下25章)。その罪に対して神は報復されます。「わたしはバビロンに外敵を送る」(2節)。神は、かつて諸国を裁くためにバビロンを神の鎚、武器として用いられました(20節)。イスラエルとユダは、神に背いて捕囚となりましたが、神に見捨てられてはいませんでした。70年の屈辱を味わわせたのち、神は彼らを顧み、契約を守り、彼らがカナンに帰ることを許されました。 神はバビロンを裁き、滅ぼすためにペルシアの軍勢(メディアの王たち)を起こさせます。神はバビロンを撃たれるとき、ご自分の民がバビロンと共に滅びることがないように「バビロンの中から出て、おのおの自分の命を救え」と命じられます(45節参照)。イスラエルにとってこれは、第二の出エジプトとしての解放です。 私たちも、神に背き自分を第一として生きている限り、待っているのは死と滅びです(ロマ6章23節)。そこから逃れ、主イエス・キリストに頼るとき、罪の奴隷からの解放と、永遠の命が約束されているのです。 Wed, 16 Sep 2020 00:10:00 +0000 神の民の回復(エレミヤ書 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200916 no 2020 イスラエルは獅子に追われてちりぢりになった羊。…今、わたしはバビロンの王とその国を罰する。そして、イスラエルを元の牧場に連れ戻す。… その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。 (エレミヤ書50章17節~20節) イスラエルを苦しめた国々の中でも決定的な打撃を与えたのはバビロンです。しかし、そのバビロンも神の裁きを受けます。バビロンはペルシアの攻撃を受けることになります。バビロンの滅亡は、イスラエルにとっては解放の日でもあります。主の嗣業の地であるイスラエルを略奪し喜び楽しんでいたバビロンは恥を受け、すべてが廃墟となります。 かつて神は、悪の道を離れない民への裁きとして、「これらの民はバビロンの王に70年の間仕える」と言われましたが、続けて「70年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民…をその罪のゆえに罰する」と約束されました(25章11、12節)。捕囚となっていた民は故郷に帰ることになり、散らされた羊であるイスラエルは再び元の牧場に連れ戻されます。さらに、神の憐れみにより、イスラエルの咎もユダの罪も主の前では数えられず、完全な赦しが与えられます。 同様に、私たちの罪も咎も、御子イエス・キリストの贖いによって、主の前に赦されます。壮大な歴史に刻まれた神の憐れみは、小さな私たち一人ひとりにも注がれているのです。 Tue, 15 Sep 2020 00:10:00 +0000 誇るべき知恵(エレミヤ書 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200915 no 2020 エドムに向かって 万軍の主はこう言われる。 テマンには、もはや知恵がないのか 知者たちの策略は尽きたのか 彼らの知恵は消えうせたのか。 (エレミヤ書49章7節) アンモン人、エドム、ダマスコ、ケダルとハツォル、エラムについての主の審判の預言が語られます。 エドムは、イスラエルの先祖ヤコブの兄エサウの子孫であり、モアブの南方に住んでいました。イスラエルがカナンに入国する際には、彼らに戦いを挑んではならないと命じられていました(申2章4~6節)。しかし、イスラエルとは絶えず敵対関係にあり、ユダが滅亡した時には、エドムはバビロンに加勢しました。 「テマンには、もはや知恵がないのか…」。テマンの住民は知恵者で有名であり、デダンは商業都市として知られ、それを誇りとしていました。知恵と産物に恵まれたエドムに対して主は審きを下されます。知恵が悪いというのではなく、主なる神を認めないこと、知ろうとしないことが理由です。 私たちにとって、真の知恵とは、主を知ること、畏れることです。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロ2章3節)。私たちが誇りとすべきは、私たちの罪のために十字架にあげられた主イエス・キリストだけです。 Mon, 14 Sep 2020 00:10:00 +0000 高ぶりの末に(エレミヤ書 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200914 no 2020 それゆえ、見よ、と主は言われる。 傾ける者をモアブに遣わす日が来る。 彼らはモアブを傾け 器から注ぎ出し、壺を砕く。 (エレミヤ書48章12節) エジプト、ペリシテ人に続いて、死海の東海岸に住むモアブ人についての預言が語られます。モアブは、これまで外敵に攻められたことがなく、平穏でした。そこで彼らは「自分の業と富」を誇り(7節)、主に向かって高ぶり(42節)、守護神ケモシュに依り頼んだ結果、神の裁きを受けることになります。かつてイスラエルが偶像礼拝をおこなったために裁かれたように、です。 「略奪する者がすべての町を襲い、ひとつとして免れるものはない」(8節)。実際に、紀元前582年頃、バビロンのネブカドレツァルはモアブの町々を攻撃します。兵士は全滅し、住民の多くは捕囚として連れて行かれることになります。かつてイスラエルを笑いものにしたモアブは、神によって同じようにされるのです(27節)。 しかし、主なる神は、「終わりの日にわたしはモアブの繁栄を回復する」と約束されました(47節)。イスラエルの罪を嘆かれる神は、モアブの罪をも嘆き、立ち帰ることを望んでおられます。その同じ神は、悔い改めてご自分のもとへと立ち帰る者を、今もイエス・キリストにあって受け入れてくださるのです。 Sun, 13 Sep 2020 00:10:00 +0000 キリストの命によって(マタイによる福音書 16章21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200913 no 2020 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」 (マタイによる福音書16章24節~26節) キリストがわたしのために命を捨ててくださいました。キリストは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15章13節)と私たちに教えられます。しかし、私たちが誰かのために命を捨てることなど、殆ど不可能に近いのではないかと思わされます。 よく考えれば、私たちは自分の命を救いたいと思いながら、命を失ってしまう罪人です。「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しておきながら、キリストを裏切ってしまうペトロがわたしの中にいるからです。だからこそ、キリストがわたしのために命を捨ててくださいました。わたしの命のために、キリストという代価が支払われました。私たちは誰も自分で自分の命を救うことができません。自らの罪深さを思います。しかしキリストはその罪深い者の命を、ご自身の命に匹敵するものと見ておられ、命をかけてくださいました。 私たちが生きるためです。自分を捨てて他者のために生きるためです。そのように生きる私たちには価値があるとキリストが命を捨ててくださいました。この驚くべき恵みに賛美をささげます。 Sat, 12 Sep 2020 00:10:00 +0000 主が剣に命じて(エレミヤ書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200912 no 2020 ペリシテ人をすべて滅ぼす日が来る。 ティルスとシドンは最後の援軍も断たれる。 主がペリシテ人を滅ぼされる カフトルの島の残りの者まで。 (エレミヤ書47章4節) 神は、イスラエルの長年の宿敵であるペリシテ人に対して裁きを下されます。ペリシテ人の罪は、ただイスラエルに敵対していただけではなく、主の忌み嫌う偶像礼拝、異教の慣習による悪影響を長年にわたって与え続けたというところにあります。 主の裁きの剣として、「北から湧き上がる水」(2節参照)と言われるバビロン軍は、ペリシテの地と町々を滅ぼし尽くします。「軍馬のひづめの音、戦車のごう音、車輪の響き」(3節)と表現される強大な軍隊です。ティルス、シドンは、ペリシテの北方フェニキアに属する商業都市であり、ガザ、アシュケロンはペリシテ同盟の主要な都市です。そのいずれも主の剣、バビロン軍による征服を逃れることはできないのです。 主は、幾度も背いたご自身の民に対し、その罪を裁いた後には、再び憐れみを与え、敵を滅ぼし、守ってくださいます。やがて遣わされた救い主イエス・キリストは、「平和」を告げるために、軍馬ではなく、ろばの背に乗って、エルサレムに入城されました。 今こそ私たちも、心に平和の君をお迎えし、憐れみ深い神を真っ直ぐに見上げたいと思います。 Fri, 11 Sep 2020 00:10:00 +0000 主による懲らしめと回復(エレミヤ書 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200911 no 2020 万軍の主、イスラエルの神は言われた。 「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。」 (エレミヤ書46章25節) 46章以下は、エルサレムの崩壊と南ユダの滅亡、バビロン捕囚に伴う諸外国に対する神の審判の預言です。 「諸国民に対する主の言葉」は、まずエジプトに向けて語られます。エジプトのファラオ・ネコはエルサレムにいたユダの王を幽閉し、代わりの王を立て、多くの金銀を要求しました。そのため民は重い税に苦しみました(王下23章33~35節参照)。イスラエルは、主を捨てた罪のゆえにエジプトの手によって苦しめられたのですが、今や、主はエジプトが依り頼む偶像を撃つと宣言されます。「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する」。栄華を誇った大国、エジプトは、ネブカドレツァル率いるバビロン軍によって滅ぼされ、イスラエルは回復の恵みにあずかります。 主は「わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む」と約束してくださいました(27節)。「わたしがお前と共にいる」(28節)という約束を神はずっと守ってくださいました。ついに、神の御子イエス・キリストの受肉を通して、いっそう鮮明にその約束を実現してくださいました。 Thu, 10 Sep 2020 00:10:00 +0000 義のために迫害される人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200910 no 2020 「義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」 (マタイによる福音書5章10節) 「迫害」という言葉で殉教を思い浮かべて、遠いことのように感じるかもしれません。けれども、日曜日に仕事を命じられ、遊びに誘われ、それらを断るたびにいやな顔をされ、私たちの神経はすり減ります。私たちの置かれている社会は、正しいことを曲げることなく貫こうとする人を厄介者扱いする世界です。それゆえ、神の義に生きようとする信仰者は絶えず迫害されることになる。けれども、主イエスはおっしゃいます。「幸いである、天の国はその人たちのものである」。 主イエスは、「幸いである」、この確信に立つことを求めておられます。たとえ悲しみを味わうことになろうとも、たとえ不条理を引き受けることになろうとも、主イエスに信頼して、「幸いである」、この御言葉に立つのです。 「天の国」は、天上の神の国を意味するだけでなく、私たちが地上において天の国籍を持つ者として生きることによって実現します。迫害を耐え忍びながら神の御心が地に成ることを祈り求めて歩むとき、信仰者は自分の真実の居場所を見いだすことができます。神のふところに安らぐ者とされるのです。 Wed, 09 Sep 2020 00:10:00 +0000 平和を実現する人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200909 no 2020 「平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。」 (マタイによる福音書5章9節) 主イエスの時代、「神の子」と呼ばれる人物がいました。ローマ皇帝アウグストゥスです。ローマ帝国の礎を築いた「神君カエサル」の子ですから、まさに神の子です。当時、アウグストゥスによってローマに平和な時代が来たと言われていました。しかし、その平和は数多くの戦争の末の平和であり、武力によって勝ち取られた平和にほかなりません。はたしてそれは本当の平和なのでしょうか。 主イエスは、悔い改めの福音を宣べ伝えられました。神の御前に悔い改めて、罪の赦しをいただくところに、真の平和の土台があります。そして、その罪の赦しに生きる者こそが、まことの「神の子」です。キリストの贖いの恵みによって罪の苦しみ、重荷から解き放たれるところに、私たちのまことの平和があり、救いがあります。 復活の主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言って、弟子たちを遣わされました(ヨハ20章21節)。私たちは、平和の使者として遣わされています。罪の赦しに生きるとは、互いに赦し合う交わりを創り出すことです。そのような平和を実現する人々こそ幸いなのです。 Tue, 08 Sep 2020 00:10:00 +0000 心の清い人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200908 no 2020 「心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。」 (マタイによる福音書5章8節) 「清い」とは、よごれがなく、混じりけのないことです。「心の清い」とは、純粋さを妨げるような混じりものが心の中にないということです。 主イエスは、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とおっしゃって、濁りのない、澄んだ目を求められました(マタ6章22節)。真理を真っ直ぐに見つめる濁りのない目を保つのです。真理を見失うと、自分をも見失います。そうであってはならない。 主イエスは幼子をご自分の前に立たせておっしゃいました。「天の国はこのような者たちのものである」(マタ19章14節)。幼子に罪がないということではありません。けれども、幼子には親を一途に信頼する純粋さがあります。物事の本質を見抜く澄んだ目があります。 おとなの世界は複雑でしょう。けれども、幼子のような純粋さ、澄んだ目を失ってはなりません。主イエスが、その澄んだ目を回復させてくださいます。そして、その澄んだ目で人を見つめ、物事を見つめるのです。神は聖霊によって人の内に働かれます。人の内に神のお働きを認めて、神をほめたたえましょう。 Mon, 07 Sep 2020 00:10:00 +0000 憐れみ深い人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200907 no 2020 「憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。」 (マタイによる福音書5章7節) 詩編が「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(103編8節)と語る通り、主なる神こそ憐れみ深いお方です。その憐れみは御子イエス・キリストにおいて示されました。主イエスが両手を大きく広げて十字架につけられたように、御父は両手を大きく広げて、神に背いていた私たちを迎え入れてくださいます。神の憐れみは、敵をも愛して、悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を降らせるほどなのです。 この憐れみ深さのゆえに、私たちは罪の赦しを求めて祈ることができます。必要のすべてを訴えて祈ることができます。私たちの人生はすべて神の憐れみを土台にしているのだと言えるでしょう。 その主なる神が、主イエスの良きサマリア人のたとえを通しておっしゃいます。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章37節)。 私たち自身に憐れみはありません。けれども、主なる神がご自身の憐れみによって私たちを憐れみ深い者としてくださいます。私たちは、互いに憐れむことによってこそ、他者を命に生かし、自分も真実に命に生かされるのではないでしょうか。 Sun, 06 Sep 2020 00:10:00 +0000 キリストこそ救い主(マタイによる福音書 16章13-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200906 no 2020 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 (マタイによる福音書16章16節) イエス・キリストを何者だと言い表すのでしょうか。このことはまさに、私たちの生死を分ける重大な問題です。キリストのことをどれほど偉大な人物であると言い表したとしても、それだけではわたしの救いとはなりません。なぜなら、優れた人なら世の中にいくらでもいるからです。キリストをそれらの人びとと同列に並べて、優れた人であると告白したところで、わたしの人生にはなんの影響を与えることもありません。 しかし、ひとたびこの方を「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白するなら事態は変わって来ます。キリストをこのように告白するとは、キリストとわたしとが、「あなたとわたし」の関係になることを意味します。そして、そのような関係になることこそ、キリストが願っておられることです。 キリストを救い主と告白することは、この方をわたしの人生に迎え入れることです。この方がわたしのすべての罪を担い、十字架に架かってくださったと信じることです。その時、キリストはもはや遠く離れた存在ではなくなります。わたしにとって唯一無二のお方となるからです。 Sat, 05 Sep 2020 00:10:00 +0000 義に飢え渇く人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200905 no 2020 「義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。」 (マタイによる福音書5章6節) 「義」とは「正しい、正義」ということですが、ここでは「秩序」と言い換えて理解するとよいでしょう。それも、正しい秩序、神の秩序です。 秩序など面倒だと思うかもしれません。けれども、1キロの重さであれば誰がいつ計っても変わらないという秩序が必要です。あの人には少し増やして1キロ、この人には少し減らして1キロなどとなると、不公平、不正です。 しかし、いつの時代も、そのような不正、無秩序があって、悲しむことが起こっているのではないでしょうか。正しく生きようとしてバカを見て、重荷を負うにしても自分ばかりとつぶやいてしまう。また、私たち自身の内にも、自分の利益を求め、人を虐げてよしとする思いがあって、自分の罪の惨めさに苦しんでしまう。真実には、私たちは神の秩序、神の義に飢え渇いているのではないでしょうか。 時満ちて、神は、御子イエス・キリストの十字架において、ご自身の義を示されました。不思議なことに神の義は、秩序を立てつつ愛をもって赦す義です。幸いなるかな、この義によって満たされる者は。この義によって、神は恵みの秩序を建て上げられます。 Fri, 04 Sep 2020 00:10:00 +0000 柔和な人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200904 no 2020 「柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。 (マタイによる福音書5章5節) 柔和な人々が幸いであるとは、「貧しい」「悲しむ」と違って、多少は受け止めやすいかもしれません。けれども、柔和であるためには耐え忍ぶことが求められます。競争社会の中で、人に押しのけられ、さまざまな不条理を経験して、はたして私たちは柔和であれるのでしょうか。 聖書が語る「柔和」とは、私たち自身の性質や性格から来るものではありません。神を知り、神の御前にへりくだることから来る、神の賜物です。神の愛と神の御計画を知る者は、困難があっても神からの試練と受け止めるでしょう。争いがあっても神の愛を知るゆえになお愛して耐え忍ぶでしょう。神の御心を信じるゆえに喜んで重荷を担おうとするでしょう。神の御心を求めてへりくだるゆえに、隣人を愛して柔和であれるのです。それゆえ、パウロは、柔和を霊の結ぶ実としています(ガラ5章22節)。 十字架を引き受けられた主イエス・キリストこそ、真に柔和なお方です。そのお方に結ばれて私たちは柔和にされ、神と隣人に仕えます。主イエス・キリストと共に地を受け継ぐ幸いにあずかる者とされるのです。 Thu, 03 Sep 2020 00:10:00 +0000 悲しむ人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章4節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200903 no 2020 「悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」 (マタイによる福音書5章4節) 悲しみなどないほうがよい、喜んでいたいと、誰でも思うものでしょう。これも、いったいなぜなのかと思わせられる、不思議な言葉です。 一つには、悲しみを経験してこそ分かることがあるということでしょう。たとえば、悲しみを通して友情や愛情の大切さに気づかされ、人は一人で生きるのではないと教えられます。悲しみによって人は成長させられるのです。 もう一つ、人は誠実に真実に生きようとするとき、いつも心の中に悲しみを抱えることになります。以前、電車で高齢の方に席を譲ろうとして立ったとき、別の方がさっと座ってしまい、譲りたかった方に譲れなかったことがあります。そのように、善意でしたことが報われないことが多いのです。けれども、これが主の御心だと考えてする善意、愛の業を捨ててはなりません。罪の悲惨の中で報いられないこともありますが、報いられない悲しみを引き受けて生きていくのです。 主イエスご自身、悲しみを引き受けて十字架につけられました。その主イエスが私たちと共にいて、おっしゃいます。「その人たちは慰められる」。主こそ我が慰めです。 Wed, 02 Sep 2020 00:10:00 +0000 心の貧しい人々は、幸いである(マタイによる福音書 5章3節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200902 no 2020 「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」 (マタイによる福音書5章3節) 「幸いなるかな!」と翻訳できる文章です。腰を下ろして語る(1節)ことが当時の教師の正式なスタイルだったため、「山上の説教」は主イエスの公式説教集だと言われます。その冒頭で「幸いなるかな」と繰り返されるとは、主イエスが今も「幸いなるかな」と私たちに語り続けてくださっているということです。 「貧しい」とは、誰にとっても、普通、いやなこと、避けたいことでしょう。とりわけ「心の貧しさ」と言われます。たとえ物質的、経済的には貧しくても、心は豊かでありたいと願うものです。 この「貧しい」とは、苦しめられ、虐げられて、頼るものを何も持たない姿だと言われます。なぜ、頼るものを何も持たないことが幸いなのか。それは、自分の力を捨てて神に依り頼むことへと導かれるからです。その意味で、自分が神の前にむなしく空っぽであることを知り、神によって満たしていただくことを求める姿だと言えるでしょう。 心の貧しさを知る者は幸いです。神によって豊かにされるからです。私たちは、地上にあってすでに、神の恵みによって満たされる天の国の幸いに生かされます。 Tue, 01 Sep 2020 00:10:00 +0000 バルクへの慰めの言葉(エレミヤ書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200901 no 2020 「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、わたしは生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ、と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える。」 (エレミヤ書45章5節) バルクは、エレミヤの口述筆記者として、主の言葉を巻物に忠実に書き記しました。神の裁きの預言を拒んだユダの王ヨヤキムがその巻物を焼いてしまったときにも、バルクは主に命じられたとおりに、巻物に記されていたすべての言葉を改めて書き記しました(36章)。 ここで主なる神はバルクに「あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか」とおっしゃいます。バルク自身、廃墟と化したエルサレムと神の民の離散に心を痛めていたことでしょう。そのような中、民の罪と神の裁きを語り続けるエレミヤの口述筆記の務めは、ただ主の賜物によってのみ遂行されなければなりませんでした。バルクの「大きな期待」とは、自身の務めを放棄し、高官や預言者になることだったかもしれません。あるいは、主の憐れみによる民の悔い改めを期待したのかもしれません。主は、そのような野心や期待を抱くことを戒め、神の裁きという災いの中でもバルクの命を守ることを固く約束されました。 主から与えられた召しと賜物を忠実に用いて、キリストの体の一人として、主に仕える僕として歩みましょう。 Mon, 31 Aug 2020 00:10:00 +0000 エジプトから廃虚を顧みるとき(エレミヤ書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200831 no 2020 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪を改めず、異教の神々に香をたくことをやめなかった。そこでわたしの怒りと憤りがお前たちにふりかかり、ユダの町々とエルサレムの巷で燃え上がったので、今日のように荒れ果てて廃虚と化した。 (エレミヤ書44章5節~6節) エレミヤのエジプトでの最後の預言です。占領軍として駐留していたカルデア人を打ち殺したため、バビロン王の復讐を恐れて、人びとはエジプトに逃亡しました。バビロンによって、ついにエルサレムとユダは滅ぼされました。廃虚となったエルサレムを顧みることは、彼らにとってとても苦痛だったに違いありません。 エレミヤは、エジプトの地でも神の義と罪ゆえの裁きを告げます。エルサレムが廃虚となったのは、偶像礼拝をやめるように命じた預言者たちの言葉に「耳を傾けず、悪を改めず、異教の神々に香をたくことをやめなかった」からにほかなりません。 エジプトの地に住み着いたユダの人びとは反対してこう言います。「天の女王に香をたくのをやめ、ぶどう酒を注いでささげなくなって以来、我々はすべてのものに欠乏し、剣と飢饉によって滅亡の状態に陥った」(18節)。 8月は、敗戦の廃虚の中から復興した日本の国を顧みる時です。国家神道という偶像礼拝に加担した罪を悔い改めて、わたしたちは主なる神の言葉に耳を傾けます。偶像礼拝を離れて、御言葉の実現を信じて祈ります。 Sun, 30 Aug 2020 00:10:00 +0000 救いの約束という豊かな恵み(マタイによる福音書 15章21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200830 no 2020 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 (マタイによる福音書15章27節) カナンの女が主イエスに、悪霊に取りつかれている娘をいやしてくださいと懇願しました。主イエスは、「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられます。当時は、まだ救いが異邦人に広げられていなかったからです。 しかし、女は引き下がりませんでした。それに対して主イエスは答えられます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。ユダヤ人たちに与える救いというパンを、異邦人である小犬に与えてはいけないとの答えでした。しかし、女はあきらめません。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。小犬であってもユダヤ人の食卓の下で一緒に生活しているのだから、こぼれ落ちる救いのパン屑はいただくことができますとの、信仰に基づいた懇願でした。 神がアブラハムに与えた救いの約束は、彼が多くの国民の父となるとの約束でした。異邦人をも救うという神のこの約束を思い起こすとき、私たち日本人にも救いの恵みが豊かにこぼれ落ちています。この救いの約束を信じて、日本宣教の業に喜んで召されていきたいと願います。 Sat, 29 Aug 2020 00:10:00 +0000 主の声に聞き従わない罪(エレミヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200829 no 2020 彼らの神である主がエレミヤを遣わして伝えさせたすべての言葉を、彼が民の全員に語り終えたとき、ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。 「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。」 (エレミヤ書43章1節~2節) 自分たちの意に反して、エジプトに行かないで、ユダにとどまるように命じられた人びとは、次にどのような行動を取ったでしょうか。 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンたちは、エレミヤに向かって「あなたの言っていることは偽りだ」と言い、面と向かって、エレミヤの伝えた主の言葉を否定しました。そればかりか、「ネリヤの子バルクがあなたを唆して、…我々をカルデア人に渡して…バビロンに行かせようとしている」と言い、エレミヤが真の預言者であることを拒否しました(2、3節)。こうして、彼らは主の声に聞き従うことなくエジプトの地へ赴き、タフパンヘスにたどりつきます。エレミヤ自身も、彼らに同行してエジプトに向かいました。 その心と態度と行動はすべて、神の面前で犯された高慢の罪でした。そのため、主の言葉がタフパンヘスでエレミヤに臨みます。それは民の罪を裁くものでした。主は、バビロンの王を用いてエジプトの地を撃つとおっしゃいます。 自分の思いに反するからといって、主の言葉を否定するのであってはなりません。心から主の御声に聞き従うことを祈り求めましょう。 Fri, 28 Aug 2020 00:10:00 +0000 行くべき道を祈り求めるとき(エレミヤ書 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200828 no 2020 「今、あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな、と主は言われる。わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出すからである。」 (エレミヤ書42章11節) イシュマエルが総督ゲダルヤを暗殺し、ミツパにいたユダの人びと、また、哀願した10人を除く70人の巡礼者たちを虐殺した後のことです。カレアの子ヨハナンと軍の長たちは、イシュマエルのもとから助け出した人々を連れて、エジプトに向かおうとしていました(41章16、17節)。 このとき、カレアの子ヨハナンとホシャヤの子をはじめ、すべての軍の長と民の全員が、預言者エレミヤを訪ねて、自分たちの行くべき道について答えを求めました。十日たって、主の言葉がエレミヤに臨みました。それは、民の意に反して、エジプトに行かずに、この国にとどまるように命じるものでした。主は、バビロンの王を恐れないように命じて、「わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出す」と約束してくださいました。 私たちも、主の御心を求めて祈ります。そのとき、先に自分の考える道を心に図りながら、祈っていないでしょうか。主の御心は、私たちの考えとは違うかもしれません。道のすべてを主に明け渡すとき、主は、私たちに本当に行くべき道を示し、すべてを守ってくださいます。 Thu, 27 Aug 2020 00:10:00 +0000 虐殺の中で生き残った十人の嘆願(エレミヤ書 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200827 no 2020 しかし、一行の中にいた十人の者は、「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など貴重なものを畑に隠していますから」とイシュマエルに哀願したので、この十人だけは殺さずにおいた。 (エレミヤ書41章8節) エルサレム陥落後、アヒカムの子ゲダルヤが総督として立てられました。ところが、そのゲダルヤの暗殺が計画され(40章14、15節)、実行されました(41章2節)。イシュマエルは、ゲダルヤだけでなく、ゲダルヤと共にミツパにいたユダのすべての人びとと、占領軍として駐留していたカルデア人を殺しました。さらにその翌日には、シケム、シロ、サマリヤから来た80人の一行をも、10人を残して皆殺しにしてしまいます。 生き残った10人は、「我々を殺さないでください。小麦、大麦、油、蜜など貴重なものを畑に隠していますから」と願い求めました。それらは戦争などの被害に備えて備蓄していたものでした。この哀願をイシュマエルは受け入れましたが、これは「彼の中に、金銭欲と強欲があったから」(カルヴァン)です。70人を虐殺した彼の残虐さが翻ったわけではありません。銀貨30枚で主イエスを売り渡したイスカリオテのユダの欲と同じだと言えるでしょう。 主イエスを見つめながら、「絡みつく罪をかなぐり捨て」(ヘブ12章1節)、真心からの礼拝を神にささげる恵みを祈り求めましょう。 Wed, 26 Aug 2020 00:10:00 +0000 主の言葉の実現を知りながら(エレミヤ書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200826 no 2020 主から言葉がエレミヤに臨んだ。…親衛隊の長はエレミヤを連れて来させて言った。 「主なるあなたの神は、この場所にこの災いをくだすと告げておられたが、そのとおりに災いをくだし、実行された。それはあなたたちが主に対して罪を犯し、その声に聞き従わなかったからである。」 (エレミヤ書40章1節~3節) 40章の冒頭に、「主から言葉がエレミヤに臨んだ」とあります。しかし、それは、エレミヤ自身が主の言葉を語るということではありませんでした。 かつてエレミヤから聞いた主の言葉のとおりエルサレム陥落という災いがくだされたことを、親衛隊の長ネブザルアダンが伝えて言いました。「それはあなたたちが主に対して罪を犯し、その声に聞き従わなかったからである」。まるで、親衛隊の長が預言者に成り代わったかのようです。 実に主なる神は異邦人である親衛隊の長を用いてエレミヤに語りかけてくださったのです。エレミヤには、ただその語られる言葉に謙そんに聞くことが求められました。 その一方で、親衛隊の長は主の言葉の実現を知りながら、神の民として生きるということではなかったようです。たとえ目に見える出来事が神のなさったことと知っていても、自分自身が神の民として生きるのでないなら無益です。誰であれ、個人的に主のもとに来なければなりません。そのために、神が愛する独り子をこの世に遣わされたことを知り、救いの恵みを感謝することが大切です。 Tue, 25 Aug 2020 00:10:00 +0000 エルサレム陥落の日に(エレミヤ書 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200825 no 2020 「しかし、その日に、わたしはあなたを救い出す、と主は言われる。あなたが恐れている人々の手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる。」 (エレミヤ書39章17節~18節) エルサレム陥落の出来事は、真の預言者エレミヤに臨んだ「主の召命」を思い起こさせます。若いエレミヤを召し出したとき、すでに主なる神は、その使命が全世界の国々に及ぶことを告げて、預言しておられました。「わたしは今日、あなた(エレミヤ)をこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの王やその高官たち、その祭司や国の民に立ち向かわせる」(1章18節)。 この預言のとおりに、神の民において決して滅びないと思われていたエルサレムが陥落しました。それに対して、主なる神によって堅固な町とされたエレミヤは、その命を守られ、さらに主の言葉を人びとに告げる預言者として用いられていきます。 エルサレム陥落の日、エレミヤが監視の庭に監禁されていたとき、主に召されたときと同じ言葉がエレミヤに臨みます。「しかし、その日に、わたしはあなたを救い出す」。 どのような時代の変化の中でも、ただまことの王でいます主キリストの御言葉にとどまり、固く立ち続けましょう。そして、世界の人びとのため祈りつつ、主の救いを大胆に語り続けましょう。 Mon, 24 Aug 2020 00:10:00 +0000 主の声に聞き従う(エレミヤ書 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200824 no 2020 そこで、エレミヤは言った。「いいえ、彼らに引き渡されることはありません。どうか、わたしが申し上げる主の声に聞き従ってください。必ず、首尾よくいき、あなたは生き長らえることができます。」 (エレミヤ書38章20節) 37章で、エレミヤは牢獄に監禁されました。38章では、水溜めに投げ込まれて、泥の中に沈められるといった、さらに厳しい状況に陥ります。それは預言者自身にとってたいへんつらい現実です。 けれども、はっきりと語るべきことを語ることによって、御言葉の力をさらに深く知ることとなりました。自らが知るだけではありません。御言葉を語ることの責任と、そして、主の思いは必ず実現することを証しする必要がありました。ですから、単なる命乞いをするのではなく、その語るべき機会が失われないよう、御言葉の証しのために道が開かれることを願いつつ、エレミヤは語りました。 「主の声に聞き従ってください…」、これこそエレミヤが伝えたかったメッセージです。その内容は語る者にも聞く者にも決断が求められます。 わたしに示された主の御心をしっかりと聞き、その主の声に聞き従っていきたいと心から願います。神の言葉は決して廃れることなく語り伝えられます。人を生かす本当に必要なメッセージとして、聖書となって私たち一人ひとりに与えられています。 Sun, 23 Aug 2020 00:10:00 +0000 信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(マタイによる福音書 14章22-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200823 no 2020 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 (マタイによる福音書14章31節) 「わたし」という主イエスの弟子が歩む人生の道のりは、決して平坦ではありません。わたしの心に大きな波風を吹き込む嵐に遭遇するからです。その嵐が大きいほど、共にいてくださる主イエスの存在を見失います。主イエスが近くにいてくださるのに、その存在が見えなくなります。時には幽霊を見るようなうつろな目でしか、主イエスを見ることができません。 主イエスは、そのようなわたしに語られます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。わたしはこの主イエスの言葉に励まされて立ち上がります。勇気を出してもう一度主イエスを見つめ、嵐の中を歩き始めます。しかし、ペトロがそうであったように、嵐に吹き飛ばされるようにして、わたしの信仰が萎えてしまうのです。 すると、主イエスが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りながら、手を伸ばしてもう一度引き上げてくださいます。わたしの心の中に吹き荒れていた嵐は、この主イエスの力によって取り去られ、わたしの心には神の平和が訪れます。きょうも、主イエスは神の言葉によってあなたを導いてくださいます。 Sat, 22 Aug 2020 00:10:00 +0000 主からあった言葉(エレミヤ書 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200822 no 2020 ゼデキヤ王は使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮廷でひそかに尋ねた。 「主から何か言葉があったか。」 エレミヤは答えた。 「ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます。」 (エレミヤ書37章17節) 前の36章は「ヨシヤの子ヨヤキム」の時代でしたが、この37章はそのヨヤキムの子のコンヤに代わってヨシヤの子ゼデキヤが王となっていた時のことです。この37章から44章まで、エレミヤの苦しみが続きます。この時期は、ユダ王国の都、エルサレムの陥落、神殿の延焼、そして捕囚という、旧約聖書の歴史の中でも大きな出来事を経験することになります。 ファラオの軍隊(エジプト)の進撃に対して、エレミヤがカルデア軍(新バビロニア王国)に投降するのではないかとの疑いがかけられました。それは濡れ衣だったのですが、捕らえられ、「長期間そこに留めておかれた」(16節)とあります。このように預言者にとって最もつらいのは、主の言葉を語ることができない、語っても聞かれないことです。 しかし、主の言葉が消されることはありません。エルサレムの陥落、神殿の延焼、捕囚という激動の中で、決して消されることのない主の言葉の確かさを、この預言者が支えられる事実に見ることができます。まさに預言者の言葉は、生ける神の御言葉です。主の御業がその存在の全てを通して働かれます。 Fri, 21 Aug 2020 00:10:00 +0000 主の言葉を読み聞かせる(エレミヤ書 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200821 no 2020 「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。」 エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。 (エレミヤ書36章2節、4節) 私たちは今日、神の御言葉を聖書としていただいています。聖書を自ら読み、また読み聞かせることができます。この章でも、巻物にあるエレミヤの言葉を読み聞かせることが繰り返し語られています。 けれども、そこに危機が迫っていました。神を恐れない王によって、巻物は読み上げられても切り裂かれ、燃やされてしまいました(23節)。それだけでなく、この言葉を語ったエレミヤを捕えようとします。まさに御言葉の危機です。 しかし、そこに主が立ち上がられました。御言葉に耳を傾けず、御言葉を冒涜する者に対する厳しい裁きが預言されます。なぜならば、御言葉を否定することは、神ご自身を否定することだからです。 聖書は超自然的に、魔法のように天から降ってきたのではありません。ここに記されているように、預言者に委ねられ、書記によって筆記され、危険な中を通りつつも、今に至るまで届けられました。書かれた目的どおり、神の御言葉が読まれ、聞かれることによって、生ける主の命の言葉が届けられるのです。 Thu, 20 Aug 2020 00:10:00 +0000 主の神殿に来るように(エレミヤ書 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200820 no 2020 「それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、ユダとエルサレムの全住民に対して予告したとおり、あらゆる災いを送る。わたしが語ったのに彼らは聞かず、わたしが呼びかけたのに答えなかったからである。」 (エレミヤ書35章17節) ここで主は、ユダとエルサレムの全住民に「あらゆる災いを送る」と言われます(17節)。どうしてこれほどの厳しい言葉が伝えられなければならなかったのでしょうか。それは預言者を通して何度も主の言葉が与えられたにもかかわらず、それに聞き従わなかったからです。 それに対してレカブ人のことが語られるのは、彼らには聞き従う、命令に従う姿勢がはっきりとしていたからです。彼らの場合、それは父祖の命令に従うことでしたが、19節にあるように「わたしの前に立って仕える」、その姿勢があったからです。 主があえてレカブ人のこの姿勢を示したのは、愛する民を悔い改めに導くためです。その思いを主は預言者を通して、具体的な状況を使って示されました。そして、聖書を読む私たち一人ひとりにも、時を越えて、それぞれの状況の只中で、主はその思いを今も語っておられます。 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と主イエスは語り始めました(マタ4章17節)。それは私たちを愛しているからこその招きです。悔い改めるようにと、きょうも主イエスは語りかけています。 Wed, 19 Aug 2020 00:10:00 +0000 解放の宣言(エレミヤ書 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200819 no 2020 わたしの契約を破り、わたしの前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。 (エレミヤ書34章18節) 「わたしはお前たちに解放を宣言する」とあります(17節)。普通、解放の宣言と言うと、奴隷からの解放のようなよい知らせを思い浮かべるかもしれません。けれども、ここでは「剣、疫病、飢饉に渡す」という解放の宣言です。それは当然良い意味ではなく、「世界のすべての国々の嫌悪の的」となることなのです。というのも、彼らは主の契約にしたがって同胞の奴隷を一旦は解放しながら、再び奴隷としたからです。 そもそもイスラエルでは、契約を結ぶにあたって、子牛を真っ二つに切り裂いてその間を通る習慣がありました。主の契約にそむくユダの人々は、今やあの切り裂かれた子牛のように命が奪われようとしています。罪を憎まれる主によって、遂にエルサレムの都は「住む者のない廃虚」となると言われるほど(22節)、命を失ってしまいます。 罪人に本当に必要なのは、罪と罪がもたらす死からの解放です。身代わりとなって命を差し出してくださるキリストがおられます。このお方によってこそ、本当の解放、死からの解放の宣言をいただくことができるのです。 Tue, 18 Aug 2020 00:10:00 +0000 その御名は主(エレミヤ書 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200818 no 2020 主はこう言われる。創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主。「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」 (エレミヤ書33章2節~3節) ここでは「再び」という言葉がキーワードになっています。10、12、13節に繰り返し登場し、11節では「初めのときのように回復する」とあります。「回復」とはまさに「再び」もとの状態に戻すことです。 この回復のために、鍵となる存在がおられます。それが15節に登場するダビデのための「若枝」です。この「若枝」は23章5、6節でもそうですが、ここでもダビデのために王座につく者と言われます。公平と正義をもって国を治めるお方です。 このお方が告げ知らせるメッセージの中心は、罪からの清め、赦しの約束です。主は契約に従って、この約束を果たしてくださいます。 神はイエス・キリストを仲保者として恵みの契約を結ばれました。罪の赦しは、この恵みの契約に沿って実現されました。それはまさに「初めのときのように建て直す」(7節)という創造の回復です。 だからこそ、廃虚の中から再びあがる声は、11節のように創造の時に与えられた喜びの声です。教会の礼拝は私たちをこの賛美をささげる喜びへと招きます。 Mon, 17 Aug 2020 00:10:00 +0000 生きとし生けるものの神(エレミヤ書 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200817 no 2020 主の言葉がエレミヤに臨んだ。 「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。」 (エレミヤ書32章26節~27節) 主に対して聞き従わず、命じられたことを行わないとき、神の民は神の大きな怒りを買ってしまいます。17節以下にささげられる祈りの中で、エレミヤは神の民の不従順がもたらす神の怒りに言及します。その祈りの後に主はエレミヤに問います。「生きとし生けるものの神、主であるわたしに、力の及ばないことがひとつでもあるだろうか」と。 主を怒らせた民たちは、都に忌むべき偶像を置き、神殿を汚しました。彼らはそれが都を倒すほどのものになってしまうとは考えなかったことでしょう。しかし、その思いは甘いものでした。主の力によってできないことはありません。不従順の民を確実に裁く力をもっておられます。 けれども、「生きとし生けるものの神、主である方に力の及ばないことはひとつもない」というこの言葉には、もっと深い意味があります。単なる万能ということではありません。神は追われた民たちを集め、帰らせ、住まわせることができるお方です。主の怒りは大きなものに違いありません。しかし、怒りの民を帰らせるところにこそ、本当の神の恵みがあります。 Sun, 16 Aug 2020 00:10:00 +0000 それをここに持って来なさい(マタイによる福音書 14章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200816 no 2020 弟子たちは言った。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。 (マタイによる福音書14章17節~19節) 夕暮れ時になっていました。主イエスに従っていた群衆の数は男だけで5千人でした。弟子たちは合理的な計算をしました。5千人の群衆が食事をするためには、解散して町へ行き、そこで食事をしてもらう以外にはないと考えたのです。 しかし、主イエスは言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と。5千人の群衆の間を巡って食べ物を探したであろう弟子たちは答えます。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と。弟子たちの心の中は「これだけです」との思いで満ちていました。しかし主イエスは言われました。「それをここに持って来なさい」と。主イエスは、弟子たちが「これだけです」と思っている材料を祝福して裂きながら、彼らに渡されました。裂かれた5つのパンと2匹の魚は、5千人の人びとを養って余りあるものとなりました。 主イエスは、「こんな小さな賜物しかありません」と言うわたしに対して、「それをここに持って来なさい」とおっしゃいます。きょうも主イエスは、あなたの賜物を用いて、驚くべき業を成し遂げられます。 Sat, 15 Aug 2020 00:10:00 +0000 愛すること、赦すこと(コリントの信徒への手紙二 3章12-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200815 no 2020 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 (コリントの信徒への手紙二3章12節~13節) 私たちは神から愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、そして寛容を身に着けなさいとパウロは勧めます。神への愛は隣人への愛の基盤となり、神の愛は隣人への愛を可能にします。人間の罪を赦すという贖罪の御業を通して、神は私たちに愛の本質を示されました。神が私たちの罪を赦してくださったがゆえに、私たちも互いに赦しあい、愛しあうことが求められているのです。 しかしながら、罪を赦されていてもいまだ罪人の性質が残り続ける私たちにとって、人を赦し、愛することは容易なことではありません。まして、仲たがいしている間柄にあればなおさらです。 ではいかにして、私たちは赦し得ないと思う者を赦すことができるのでしょうか。それは愛を身に着けることによって可能となるはずです。主イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と赦しの言葉を語られました。十字架にかけた者に対する怒りや復讐の言葉では決してありませんでした。愛することは赦すことです。キリストの平和が私たちの心を絶えず支配してくださるようにと祈りましょう。 Fri, 14 Aug 2020 00:10:00 +0000 和解のために奉仕する任務(コリントの信徒への手紙二 5章17-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200814 no 2020 神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 (コリントの信徒への手紙二5章18節~19節) 私たちは神の一方的な御恵みによって主イエス・キリストと結ばれ、新しく創造された者です。罪ゆえに断絶していた神との関係がキリストの十字架の贖いを通して回復されました。関係性の回復、つまり和解です。そして、神との関係を回復された私たちは人間同士の関係を回復する和解の務めを主からゆだねられています。 私たちが生きているこの社会には、多くの暴力が満ち溢れています。国家間の争い、民族間の争い、宗教間の争いなどは喫緊の平和の課題です。そのような世にあって、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタ5章9節)との主の呼びかけに応え、地上の平和の実現のために絶えず祈り、努力し続けるものでありたいと思います。 キリストの平和と和解の福音を宣べ伝え、人と人との間に和解を紡ぎだすために奉仕する任務が私たちキリスト者にゆだねられています。主イエス・キリストによって和解させていただいたことへの感謝の応答として、和解の務めという平和への責任を喜びと忍耐をもって共に果たしていこうではありませんか。 Thu, 13 Aug 2020 00:10:00 +0000 神との平和(ローマの信徒への手紙 5章1-5節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200813 no 2020 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 (ローマの信徒への手紙5章1節~2節) 人間は神に向き合って、神の御恵みに憩うようにと創造されました。しかし、神の如くなろうとする高慢な罪ゆえに神との全き関係性は壊れてしまいました。 しかしながら、父なる神は御子イエス・キリストを通して、つまり主イエスの十字架の贖いを通して、私たちと和解してくださいました。私たちに主イエスを救い主と信じる信仰を与えてくださり、その信仰によって私たちは神との間に平和を得ているのです。 神との平和は真の安らぎであり、真の平安です。神との間に平和が与えられている限り、私たちは苦難の只中にあっても、神の栄光の希望を抱きつつ、苦難や試練を耐え忍ぶことができます。さらには苦難にも意味を見出し、苦難をも誇りとすることができるのです。神の大いなる御恵みによって神との交わりに入れられている私たちは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ことを知っているからです。 キリスト者としての信仰の旅路には順境の時もあれば、逆境の時もあります。いずれの時にあっても、神との平和のうちに安心して歩み続けようではありませんか。 Wed, 12 Aug 2020 00:10:00 +0000 霊の結ぶ実としての愛と喜びと平和(ガラテヤの信徒への手紙 5章16-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200812 no 2020 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。… これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。 (ガラテヤの信徒への手紙5章19節~23節) 今月は戦争と平和を特に覚える月です。現在も世界ではさまざまな争いが至るところで起こっています。はたして争いや対立、戦争や紛争がなくなる日は来るのでしょうか。戦争や紛争が津波や地震などの「天災」ではなく、人の心の中に生じる他者への怒りや憎しみやねたみなどに起因する人為的な「人災」であるとすれば、それを未然に防ぐことは、困難を伴うとはいえ、決して不可能ではないはずです。 パウロは「肉の業」として、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみなどを挙げています。戦争や紛争は人の心の中に生じるこれら内的要因が、貧困、差別、環境破壊、人権侵害などの外的要因と相まって、歴史上、起こってきました。戦争や紛争の要因ともなる敵意や利己心などの「肉の業」に対して、「霊の結ぶ実」としてパウロが挙げているのが愛と喜びと平和です。私たちの内に働いてくださる聖霊によって、愛、喜び、そして平和という果実が私たちの内にたわわに実ることを祈り求めます。愛と平和の果実が世界中に実ることを聖霊なる神に祈りましょう。 Tue, 11 Aug 2020 00:10:00 +0000 神はあなたを高めてくださる(ペトロの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200811 no 2020 あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 (ペトロの手紙一5章10節) ペトロは手紙の最後に、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と勧めます。「謙遜」とは自分を卑下することではありません。誰よりもへりくだり、仕える者になることです。それはほかならぬ主イエスが弟子たちに示された姿でした。私たちは、主イエスを通して真の謙遜を学びます。 迫害や困難により、人びとはどれほど悩ましい日々を送っていたことでしょう。生活の安寧を願うばかりに、主イエスから離れ、自分たち自身の思いや考えで行動しようとする誘惑も多かったのではないでしょうか。ペトロは、そんな彼らに、誘惑に負けることなく、主イエスの謙遜に倣って「悪魔に抵抗」するように促します。かつて主イエスは、ペトロの信仰告白の上に「わたしの教会を建てる」、「陰府の力もこれに対抗できない」(マタ16章18節)と力強く宣言されました。ペトロの心にはその励ましがずっと残っていたことでしょう。 依然、この世には多くの困難や誘惑があるかもしれません。しかし、主イエスに従う者の悪魔に対する勝利は揺らぎません。だから、主イエスの謙遜に倣い、信仰の戦いを戦い抜いていきましょう。 Mon, 10 Aug 2020 00:10:00 +0000 賜物がない人は一人もいない(ペトロの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200810 no 2020 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 (ペトロの手紙一4章10節) 敵を愛し、人びとの祝福を祈る生き方が示されました。ペトロがこの生き方を積極的に勧めるのは、万物の終わりが迫っているからです(7節)。万物の終わりとは、この世の終末を指すだけでなく、義のゆえに迫害を受け、信仰のゆえに死の苦しみを耐え忍ぶ時をも指しています。そこでは、「肉における残りの生涯」をどのように生きるかが問われます。そして、いよいよキリストを我が主とあがめる生き方が勧められるのです。 その生き方が、より具体的に示されます。「賜物を生かして互いに仕えなさい」と。キリストを我が主とあがめる人は皆、神から賜物を授かっています。授かっていない人は一人もいません。私たちには、授けられている賜物により、互いに仕え合うことが求められています。神の恵み(賜物)の良い管理者とは、授けられた賜物を隣人のために用いる人のことです。 御自ら弟子たちに仕えられた主イエスを我が主とあがめましょう。そして、私たちも主イエスと同じように、授けられている賜物を生かし、互いに仕え合う者となりましょう。 Sun, 09 Aug 2020 00:10:00 +0000 主イエスと天の国(マタイによる福音書 13章44-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200809 no 2020 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 (マタイによる福音書13章44節) 天の国とは畑に隠された宝を見つけた人が、その宝を手に入れるために、全財産をはたいて畑全体を買うことにたとえられます。畑全体を買ってでも、手に入れたいと思う、価値のある宝が天の国だとたとえられます。 また天の国とは、良い真珠を探している商人が、持っている多くの財産を全部売り払ってでも、ただ一つの真珠を手に入れたいと思うほどに価値のあるものだとたとえられます。 ダマスコ途上で復活の主イエスにお会いした使徒パウロは、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリ3章8節)と語りました。 主イエスを信じるわたしたちもまた、地上にあって、天の国の民とされています。時には、さまざまな困難や苦しみに遭遇します。しかし、復活の主イエスはその都度わたしたちに近づいてくださり、神の言葉を語りかけ、立ち上がらせてくださいます。どんなときにも主イエスが共にいてくださる人生こそ、天の国の民が歩む、本当に価値のある人生なのです。 Sat, 08 Aug 2020 00:10:00 +0000 キリストと同じように生きていこう(ペトロの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200808 no 2020 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。 (ペトロの手紙一3章9節) かつて主イエスは、山上の説教において「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とお命じになりました(マタ5章44節)。その教えを間近で聞いていたペトロは、ローマ帝国の迫害に苦しむ人たちへ、主の言葉を語ります。彼らは「キリストに結ばれた善い生活」を送り続けていましたが、いわれのない非難を浴びていたのです。その彼らを励まし、折れそうな心を固く補強するために、ペトロは語るのでした。 ペトロは、隣人との平和のために、悪ではなく祝福を祈ることを勧めます。この勧めは迫害に苦しむ人たちにとって、悩ましいものだったかもしれません。なぜなら、勧めの大切さを理解していても、実践できるかどうかは別問題だからです。 そこで、ペトロは主イエスの御姿を思い起こしながら、祝福を祈る者の幸いに目を向けます。主イエスは、不当に十字架へかけられながらも、人びとの祝福を祈られました。その主イエスが復活させられたように、不当な苦しみを受けながらも、敵を愛し、人びとの祝福を祈る者には、復活の恵みという大きな救いが与えられています。 Fri, 07 Aug 2020 00:10:00 +0000 共に神の家を建て上げよう(ペトロの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200807 no 2020 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 (ペトロの手紙一2章5節) ペトロは、迫害に苦しむ人たちへ、恵み深い主に出会い、新たに生まれた者としての生き方を示します。それは、神の家を建て上げていく「生きた石」になることです。 人々から見捨てられたイエス様は、生きた石として教会の土台となられました。今度は、主に続く私たち自身が教会を建て上げる生きた石となるのです。 神の家を建て上げる働きは自分一人でできるものではありません。兄弟姉妹がそれぞれひとつの生きた石となって、積み重ねられていくことによってこそ、神の家は建て上げられていきます。そして、石は隙間なく積み重ねられてこそ、堅固な家となります。もしこのとき、互いにいがみ合ったり、自分よがりであったりすると、隙間だらけの家となってしまいます。 隣人なる石との隙間を埋めるためには、ときに自分自身を削ったり、これまで築き上げてきたものを一旦取り崩したりする必要があるでしょう。しかし、私たちが「霊的ないけにえ」をささげ、隣人を思いやるとき、隣人との隙間を埋めて、堅固な教会を建て上げる「生きた石」となることができるのです。 Thu, 06 Aug 2020 00:10:00 +0000 もう、救われているのだから(ペトロの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200806 no 2020 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 (ペトロの手紙一1章3節~4節) ローマ帝国の圧政と恐怖政治は過酷を極め、クリスチャンは迫害により苦しめられていました。ペトロもその迫害によって殉教の死を遂げることとなりますが、同じように苦しむクリスチャンに向けて励ましの手紙を書き送ります。それは、今後さらに大きくなる迫害に備えさせるための勧めの言葉であり、さらに人々の信仰を再び現れるキリストへ向けさせるためのものでした。その勧めは、神への賛美から始まります。 この賛美は、迫害と絶望に息絶えそうな人たちに、自分たちが天に蓄えられている財産を受け継ぐ者とされていることを思い出させました。そして、「イエス・キリストが現れるとき」と繰り返すことで、苦しむ人たちの顔を、キリストへと引き上げるのでした。 さらにペトロは、救いの希望に再燃する人々を鼓舞します。「聖なる者となりなさい」と。聖書で「聖となる」とは、そのものを神のために取り分けることを意味します。自分が本質的に変化するというより、神のために生きるようになるということです。 イエス・キリストが現れるときに備え、私たちも神のために生きる者となりましょう。 Wed, 05 Aug 2020 00:10:00 +0000 さあ、ゆこう、私たちの戦いの日々を(ヨエル書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200805 no 2020 主はシオンからほえたけり エルサレムから声をとどろかされる。 天も地も震える。 しかし、主はその民の避け所 イスラエルの人々の砦である。 あなたたちは知るようになる。 わたしがあなたたちの神なる主であり わが聖なる山シオンに住む者であることを。 (ヨエル書4章16節~17節) ヨエルは主の日に向かいゆく歩みに「戦いを布告せよ」という神の声を聞きました(9節)。私たちの礼拝から礼拝へと至る日々は、決して平坦なものではありません。 それは戦いの日々です。神を讃えるよりは罵る言葉が溢れています。人を愛するよりは貶める視線が満ちています。柔らかい魂を傷つけ殺める巨大な力に神の民はいつも取り囲まれています。頽れてしまう一日もあるでしょう。逆に、強くあるため、身を守るために発した自身の声に、隣人への醜い敵意を聞き取る一日もあるでしょう。私たちはその身に幾重もの傷を受けながら、しかし、それ以上の傷を隣人に負わせながら、戦いの日々を過ごしています。神に赦しを請い、次の日には同じことを繰り返し、また悔い、時に挫ける日々を。そうした日々のなかで、神の民は神の民であるために独りで、また共に、聞き続けるのです。聖書に記された神の咆哮を。「弱い者も、わたしは勇士だと言え」という励ましを(10節)。「主はその民の避け所」という約束を(16節)。 私たちはなおも戦い続けます。信頼と祈りとを武具にして。主の日を目指して。 Tue, 04 Aug 2020 00:10:00 +0000 その時、神の偉大な御業が語られる(ヨエル書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200804 no 2020 その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。 …主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 主が言われたように シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 (ヨエル書3章1節、5節) 自分の心に罪を見つけ、悲しむ人びとを、神は深く憐れまれました(2章18節)。その者たちが再び、神の礼拝へと招かれます。荒廃からの回復を約束されます。 その先に、ヨエルはもう一つの約束を神から聞くのでした。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」。世界の闇と、自分の罪を見つめながらも絶望しない者たちに、何があろうとも神を呼び求めるすべての者たちに、神は「わが霊を注ぐ」と約束してくださいました。それは何があろうとも共に在り、救うという約束です。 この約束の成就を主イエスの弟子はペンテコステに見ました(使徒2章)。主への裏切りと、復活の主との出会いを経た彼らです。絶望したかつての仲間を欠いた彼らです。新しい仲間とも共に歩む彼らです。そこに聖霊が降りました。皆が口々に語り始めました。色々な言葉が語られました。しかし、共通していたのは神の偉大な業を語っていることでした(同11節)。新しい礼拝の誕生です。十字架を悲しみ、復活の主イエスから赦しを受ける礼拝です。逃れ場となる礼拝です。神に在って一つとなる礼拝です。 Mon, 03 Aug 2020 00:10:00 +0000 涙に濡れた目で(ヨエル書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200803 no 2020 あなたたちの神、主に立ち帰れ。 主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。 あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。 (ヨエル書2章13節~14節) 未曾有の出来事と受けとめられたいなごの襲来から時を置くことなく、更なる被害をもたらすいなごの大群が大地を襲います。誰もがその出来事の当事者とならなければいけませんでした。最初の時に襲った田畑だけでなく、今回は町の中にも家の中にもいなごが侵入してきたからです。人びとから穀物とぶどうとオリーブを奪っていったいなごは、今や礼拝を献げる人間自身を脅かし始めました。誰もが自分自身に臨む神の怒りを感じとらずにはいられませんでした。 ヨエルは改めて、主の言葉を人びとに語りかけます。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(12、13節)。それこそ、その時、人びとが献げるように召された礼拝でした。献げるものは自分の心しかありません。神の御心を求めることに鈍い心です。背く心です。心に巣くう罪を一つひとつ数えあげていくならば、申し訳なくて涙がこぼれてきます。 しかし、そのとき、涙に濡れた目で人びとは見つけるでしょう。乾いた目で見るよりも美しい神の憐れみの光を。 Sun, 02 Aug 2020 00:10:00 +0000 教会生活を喜ぶ(マタイによる福音書 13章36-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200802 no 2020 「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 (マタイによる福音書13章43節) 主イエスは「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」と説明されました(37、38節)。良い種の御国の子らの中に、悪魔によって毒麦が蒔かれたと語られます。 わたしたちは主イエスを信じることによって教会生活を始めました。しかし、その生活の中でいろいろな問題を経験します。自分が一生懸命に奉仕をしているときほど、そうではない人が気になります。また、明らかにキリストに背を向けている人が気になります。 しかし、教会の頭である主イエスは、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と語られました(30節)。教会は、御国の子らが主イエスを礼拝し、そこに新しい御国の子らが加えられながら、世の終わりまで成長し続けます。 このことに目を留めるならば、わたしたちの教会生活もまた、毒麦を探してそれを抜き取ろうとしたり、そのことによって良い麦まで抜き取ることではありません。父の国を仰ぎ望みながら、喜んで主イエスを礼拝し、御国が来ることを待ち望むことです。 Sat, 01 Aug 2020 00:10:00 +0000 荒廃した世界で独り祈る人(ヨエル書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200801 no 2020 主よ、わたしはあなたを呼びます。 火が荒れ野の草地を焼き尽くし 炎が野の木をなめ尽くしたからです。 野の獣もあなたを求めます。 流れの水は涸れ 火が荒れ野の草地を焼き尽くしたからです。 (ヨエル書1章19節~20節) いなごの大群の襲来により荒廃した大地に立つヨエルは、引き裂かれた木々と、枯れた穀物を見つめます。農夫の嘆きと、家畜の呻きを聞きます。そして、それが神の怒りによってもたらされたものであると、受け取ります。大地から穀物とぶどうとオリーブがまったく獲れなくなったからです。いずれもが礼拝に用いられていたものです。 神は約束してくださっていました。「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける」(出29章42節)。そのための収穫物が枯れた光景は、神が人びととの交わりを拒絶しているように見えました。ヨエルは慌てて人びとに訴えかけます。神に泣き叫べと、嘆きの叫びをあげよと。神は切実に祈る者の声を聞いてくださるお方だからです。 しかし、ヨエルの呼びかけに応じた者はいなかったようです。ヨエルは独り祈っています。「主よ、わたしはあなたを呼びます」。皆が世界の荒廃に呆然とすることで精いっぱいの最中、神に独り祈る人がいます。その祈りに世界は支えられている、そう思えることがあります。あなたの、その祈りにおいても。 Fri, 31 Jul 2020 00:10:00 +0000 いやし、愛する神に立ち帰ろう(ホセア書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200731 no 2020 わたしは背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。 まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。 (ホセア書14章5節) 神はアッシリアを用いて、神から離れたイスラエルの民を裁かれました。「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ」(1節)。アッシリアの兵士たちはサマリアの住民を殺し、幼子を殺し妊婦を引き裂きました。 戦争の厳しい現実があります。なんと残酷なことが聖書に記されていることかと思われるかもしれません。しかし、これが人間の罪の姿を語る聖書の真実です。ですから、ホセアは「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と招きます(2節)。悔い改めて立ち帰る魂を神は軽んじることはありません。「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」と記されています。神は悔い改めて立ち帰る者を祝福してくださいます。 私たちのそれなりの日々の生活も神の支えによるものです。それを忘れて高慢になり、偶像礼拝と貪欲に支配され続けるならば、生きて働かれる神は、私たちの罪をも問われるでしょう。「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ」(10節)と語るホセアの言葉を心に刻みたいと思います。 Thu, 30 Jul 2020 00:10:00 +0000 高慢の危険(ホセア書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200730 no 2020 養われて、彼らは腹を満たし 満ち足りると、高慢になり ついには、わたしを忘れた。 (ホセア書13章6節) 神の憐れみによってエジプトから助け出された神の民は、荒れ野での困難な生活を守られて、やがて約束の地に導き入れられました。しかし、約束の土地で繁栄を与えられて、残念なことが起こります。彼らは「満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた」と語られています。何ということでしょう。 しかし、私たちにも起こるかもしれません。神の祝福によって快適な生活を送ることができています。井戸に水を汲みに行かなくても、蛇口をひねれば水が出る時代です。今の時代に誰が朝、水を飲むときに感謝の祈りをささげるでしょうか。 「イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ」とホセアは語ります(9節)。ホセアの言葉は、当たり前のように日常を過ごす私たちにも悔い改めを迫ります。神の愛と憐れみがなければ、私たちは1日たりとも過ごせません。そのことを忘れてしまうところに高慢の罪があります。 高慢な神の民にアッシリアという熱風が襲いました。その前に、私たちは神に立ち帰りましょう。 Wed, 29 Jul 2020 00:10:00 +0000 神のもとに立ち帰れ(ホセア書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200729 no 2020 神のもとに立ち帰れ。 愛と正義を保ち 常にあなたの神を待ち望め。 (ホセア書12章7節) エフライム族は、北イスラエルの中心的な部族として繁栄しました。しかし、神を捨てて偶像礼拝と貪欲にまみれ、自分たちの富に信頼を寄せました。アッシリアの南下政策という危機に直面しても、神に信頼するのではなく、貢ぎで乗り切ろうとし、神が与えた富と繁栄を奪われてしまいました。 「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と、神は預言者を遣わして語ります。けれども、なお彼らの「商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛し」、罪と悪とで財産を築きました。そのため、「エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される」と告げられ、裁きが下されます(15節)。国は滅び、人びとは捕虜としてアッシリアに連れていかれました。 しかし、困難な地で、彼らは再び神に心を向けるでしょう。「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる、わたしがあなたと共にあった日々のように」とあります(10節)。神は預言者を遣わして語り続けられます。 Tue, 28 Jul 2020 00:10:00 +0000 神の罰の目的(ホセア書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200728 no 2020 ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。 イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。 アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。 わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。 (ホセア書11章8節) 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」と神は語ります(1節)。エジプトから呼び出されて「わが子」とされたイスラエルの民と神との過去の関係が示されています。 ところが、約束の土地に導き入れたのに「彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香」をたきました。現在のイスラエルの民の背信の姿が示されます。その結果、「アッシリアが彼らの王」となります。神の罰が下され、サマリアは陥落し、北イスラエルは滅亡します。 しかし、神の罰はイスラエルの悔い改めを目的としています。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」、「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と神は語ります。憐れみ深い神は、「怒りをもって臨みはしない」、「わたしは彼らをおのおのの家に住まわせる」と語ります。神の憐れみによるイスラエルの将来の回復が約束されています。 この約束は、捕囚からの解放によって一部成就しました。しかし、それだけではありません。神は、異邦人の救いのために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。神の憐れみがそこにあります。 Mon, 27 Jul 2020 00:10:00 +0000 歴史を支配される神の力(ホセア書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200727 no 2020 サマリアは滅ぼされ 王は水に浮かぶ泡のようになる。 (ホセア書10章7節) 北イスラエルの王ホシェアは神の預言者を無視し、アッシリアへの貢ぎをやめてエジプト王を頼りました。そのためアッシリアの王はホシェアを捕らえて牢につなぎ、サマリアを攻撃しました。サマリアは占領され、イスラエルの人びとは捕虜としてアッシリアに連れていかれます。こうして北イスラエルは滅亡しました(列王下17章参照)。 「サマリアは滅ぼされ、王は水に浮かぶ泡のようになる」との預言が成就しました。イスラエルの人びとが礼拝していた金の子牛もアッシリアに戦利品として持ち去られ、偶像の祭壇も神々として拝んでいた柱も戦争によって砕かれ倒されました。 神は歴史を支配しておられます。アッシリアを用いて、生ける神を捨てて姦淫の罪を犯す神の民を罰し、偶像の神々を滅ぼされました。 神に逆らう者の末路は哀れです。偶像に頼り、生ける神に心を向けない人びとは私たちの周囲に大勢いますし、私たち自身も偶像の誘惑にさらされています。その社会に、私たちは、福音の種を蒔き続けています。主は生きておられ、神の教会に民を招いておられます。 Sun, 26 Jul 2020 00:10:00 +0000 実を結ぶ土地(マタイによる福音書 13章1-9節、18-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200726 no 2020 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである。」 (マタイによる福音書13章23節) 主イエスは、ご自身のもとに集まって来た大勢の群衆に、天の御国についてたとえを用いて語られました。 種を蒔く人は種蒔きに出て行って、場所や土地の質に関係なく種を蒔きました。ある種は道端に、ほかの種は石地に、またほかの種は茨の間に落ちました。そして、ある種はよい土地に落ちました。そして、実を結んだのはよい土地に落ちた種だけでした。 主イエスのたとえに使われた種は、狭義ではイエスご自身を(ヨハ12章24節)、広義では神の御言葉(聖書)を意味します。種が落ちた場所は御言葉を聞く心を指します。道端は固くて堅苦しい心で、石地は感情的な心で、茨は世を愛する心で、御言葉を聞きます。この三つの場合には福音の種が蒔かれましたが実を結ぶことができません。それに対して、良い土地は御言葉を聞いて悟る心で、豊かな実りがあります。 種(主イエス、聖書)は確かなものです。実を結ぶかどうかは土地次第です。また、結ぶ実の量も土地次第です。 良い心で御言葉をいただく人は、必ず豊かな実を結び、それは種を蒔く者の喜びとなります。 Sat, 25 Jul 2020 00:10:00 +0000 捕囚の予告(ホセア書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200725 no 2020 わが神は彼らを退けられる。 神に聞き従わなかったからだ。 彼らは諸国にさまよう者となる。 (ホセア書9章17節) 神はアブラハムとの契約を思い起こして、エジブトで奴隷とされて苦しむ神の民を助け、荒れ野の旅路を導き、約束の土地を与えられました。その後、北王国と南王国に分裂しましたが、神から与えられた土地で神の民は祝福と繁栄を享受しました。しかし、土地の豊饒の神々であるバアルとアシュタロトの不道徳な祭儀に誘惑されて生ける神を忘れ、貪欲と偶像礼拝に堕落してしまいます。 神は預言者ホセアを遣わして罪を警告し、裁きを語りました。せっかくエジプトから助け出したのに、再び捕虜となって「エジプトに帰り、アッシリアで汚れたものを食べる」と預言されます(3節)。 このような不愉快な預言をする預言者を人びとは愚か者と呼び、狂っていると蔑みました。神の言葉に従って姦淫の妻をめとり、罪を重ねる妻を愛して偶像と姦淫する人びとに悔い改めを語った神の預言者です。狂人呼ばわりされるのは心外であり辛いことだったでしょう。主なる神は、御自身の預言者の言葉を無視する者に、「わが神は彼らを退けられる。…彼らは諸国にさまよう者となる」と宣告されます。 Fri, 24 Jul 2020 00:10:00 +0000 偶像を砕き、裁きを下す神(ホセア書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200724 no 2020 イスラエルはその造り主を忘れた。 彼らは宮殿を建て連ねた。 ユダも要塞の町を増し加えたが わたしはその町々に火を送り 火は城郭を焼き尽くす。 (ホセア書8章14節) 謀反によって王が倒され、次々と王が変わりました。この状況を神は、「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない」と語ります(4節)。 彼らの罪は、ソロモン王の息子の時代に王国が北10部族と南2部族に分裂したとき、北イスラエルの王ヤロブアムが金の子牛の像を2体造ったことに始まります。北の王たちはこれらの偶像を取り壊さず、これらに依り頼みました。そこで神は、「サマリアよ、お前は子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える」、金の子牛は「職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」と語ります(5、6節)。また、アッシリアに対する貢ぎのゆえに、「王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」と警告します(10節)。 その中でも、人びとは神の戒めを守らず、神との契約を軽んじました。神は、重ねて警告し、悔い改めなければ城郭を焼き尽くすと語られます。この厳しい警告は、神がサマリアの人々の立ち帰りを待っておられるからです。偶像ではなく、生ける真の神に心を向けましょう。 Thu, 23 Jul 2020 00:10:00 +0000 主の名によって、互いのために祈る(ヤコブの手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200723 no 2020 苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。…病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。 (ヤコブの手紙5章13節~15節) ヤコブの手紙は5つの章に区分されていますが、実は12の主題によるキリスト者の生活訓だという主張があります。それによると13節から20節は最後の教えとなります。キリスト者の人生を総括的に4つの状態に区分し、手紙全体のまとめとしているように思われます。人生における苦しみの時、喜びの時、病の時、罪に迷う時それぞれにキリスト者たちがなすべきことを記しているのです。 苦しみの時、逆境の時にはまず祈ることが勧められます。神が救い出してくださることに希望をもって祈ります。喜びの時、順境の時には、これを当然のこととは思わず、何よりも神の恵みとして感謝します。賛美の歌を歌うのです。病気の時には、教会の長老(牧会者)を招いて枕もとで祈りをしてもらうように勧めます。オリーブ油は、古代においてはその薬効が期待されたので、彼らは祈りと共に医学的な治療の必要をも忘れていないのです。 最後の罪の迷いのことと合わせ、必要なことは「主イエス」の名による祈りです。主は、ご自身の復活の命の力によって、人を癒やし、立ち上がらせてくださいます。 Wed, 22 Jul 2020 00:10:00 +0000 神に従う(ヤコブの手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200722 no 2020 神に服従し、悪魔に反抗しなさい。…神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。 (ヤコブの手紙4章7節~10節) 「あなたがたの間に戦いや争いが起こる」とヤコブは言います(1節)。手紙の初めで「十二部族の人たち」、また繰り返し「兄弟たち」と呼ばれるキリストの教会の中に、互いへの敵意があり、蔑み合いや裁き合いがあるというのです。現実の言葉や行動はもちろん、たとえ心の片隅にであっても、そのような思いがあってはならないとヤコブは言います。そのようにして「世の友」となることは神に敵対することだからです。 主イエスは、「人を裁くな」、「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば…兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました(マタ7章1-5節)。 「神に近づく」ことは、主の前にへりくだることです。自分の中にある高慢を徹底的に悔い改めることです。そうすれば神ご自身が私たちに近づいてくださり、私たちを高めてくださいます。 私たちが、気づかないうちに高慢になり、すべてがうまくいっているように見えることがあるかもしれません。しかしやがて神ご自身によって謙遜にさせられるでしょう。打ち砕かれた心こそ、神が喜ばれる心だからです。 Tue, 21 Jul 2020 00:10:00 +0000 舌を制御する(ヤコブの手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200721 no 2020 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。…船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。 御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。 (ヤコブの手紙3章3節~6節) この章では、二つのことが勧められています。一つは言葉に関わることです。私たちから出る言葉が良い実を結ぶ思慮深い言葉であるよう、幾重にも注意することです。もう一つは知恵と分別に関わることです。知恵と分別には天からのものと地からのものがあり、両者の違いをよく識別するよう勧めます。両者は用いられ方によって正反対の結果をもたらします。 私たちは、言葉が持つ恐ろしいほどの力を過小評価しています。そうであってはならないのです。ああ、あの時あんなことを言わなければよかったと、後で後悔しても遅いのです。たった一言の不用意な言葉が人間関係を破壊し、不和や争いをもたらすことを知らなければなりません。「舌を制御できる人は一人もいません」という御言葉を聞いて、私たちはいよいよ謙遜になりましょう。 ヤコブは、言葉についての勧めは特に教会の指導者にとって大切だと前置きしています。牧師をはじめ教会の役員が語る言葉が、人を傷つける言葉でなく、人を生かす言葉となり、いつも主なる神を賛美するものであるよう祈りましょう。 Mon, 20 Jul 2020 00:10:00 +0000 行いを伴う信仰(ヤコブの手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200720 no 2020 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。…人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。 (ヤコブの手紙2章14節、24節) この章には、プロテスタント宗教改革の旗印である「信仰による救い、信仰義認の教え」に真っ向から反論するかのような聖句があります。 「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」。しかし、ここに「信仰だけによるのではない」と書かれていることに注意したいと思います。この場合の「信仰」とは「行いを伴わない信仰」です。困窮している人に必要なものを与えようとしない「言葉だけの愛」は、リップサービスであり、本当の愛とは言えません。信仰もこれと同じなのです。真実の信仰は必ず生活に生かされ、行いを伴います。 アブラハムは、神が必ず助けてくださると信じたからこそ、イサクを祭壇の上にささげました(創22章)。また娼婦ラハブはイスラエルの神への信仰ゆえにエリコの町を攻略するイスラエルを助けました(ヨシュ2章)。信仰と行いとはいつも共に働くのです。 改革者ルターが特に重んじたと言われるローマ書でも12章から15章まで4章を費やして、信仰に伴う行いの勧めを極めて具体的に記しています。生きた信仰は必ず生活に生かされます。 Sun, 19 Jul 2020 00:10:00 +0000 主イエスの招き(マタイによる福音書 11章25-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200719 no 2020 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 (マタイによる福音書11章28節~30節) 多くの教会で、礼拝の始まりに、招きの言葉として読まれている御言葉です。 当時、ユダヤ教指導者たちは律法を教えながら、自分でも守れない重荷を民の背中に背負わせていました。そのため、人々はいつどこでも霊的にも肉体的にも疲れていました。それは、平和の君であられる神を礼拝する時も例外ではありませんでした。 しかし、主イエスは重荷を負ったすべての疲れた人びとに安息を約束して、ご自分のもとに招いてくださいます。真の安息は何もしないことで得られるのではなく、柔和で謙遜な主イエスに学び、倣うことから得られます。このため、主イエスの安息への招きは学び、倣うことへの招きにつながります。 「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。軛はひとりで担ぐものではありません。2頭以上の家畜がペアで担ぐものです。私たちが負う主イエスの軛が負いやすい理由は、この軛の片方を主イエスが負っておられるし、事実、ほとんどを主イエスが負ってくださるからです。 今日、主イエスの招きに応えて主に学び、主に倣い、心からの安息に浸りましょう。 Sat, 18 Jul 2020 00:10:00 +0000 試練にあうとき(ヤコブの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200718 no 2020 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。 (ヤコブの手紙1章2節~4節) ヤコブの手紙は、箴言に似ていると言われます。短い手紙ですが、全体を貫く明確な思想の流れがあるというよりも、信仰生活上のいろいろな教えを集めて一つに綴じたような趣があります。宛先は「離散している十二部族の人たち」です。主イエスによって新しいイスラエル、神の民とされた教会に生きるものたちに信仰生活の実際的な知恵を授けているのです。 最初に置かれているのは「忍耐」の大切さです。主イエスによって神の民とされたからといって苦難や悲しみが無くなる訳ではないと教えます。主イエスは、私たちに試練を耐え忍ぶ力を授け、試練の中でこれを喜ぶことが出来るようにしてくださいます。試練によって信仰は試され、より純粋で価値あるものへと精錬されてゆくのです。あるキリスト者は、思い通りに行かないことや思いがけない出来事にあうたびに、「これこそが順調な人生なのだと思え」とあえて言いました。 使徒パウロも「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と教えています(ロマ5章3、4節)。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。必ず命の冠を神からいただきます。 Fri, 17 Jul 2020 00:10:00 +0000 目に見えるものに依り頼むのではなく(ホセア書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200717 no 2020 なんと災いなことか。 彼らはわたしから離れ去った。 わたしに背いたから、彼らは滅びる。 どんなに彼らを救おうとしても 彼らはわたしに偽って語る。 彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。 (ホセア書7章13節~14節) 北イスラエルの政局はヤロブアム二世の死後、不安定になりました(列王下15章を参照)。その子ゼカルヤが王位を継承しましたが、わずか6か月でシャルムの謀反によって殺されます。シャルムも王となりますが、ひと月でメナヘムに殺されました。 「王たちはことごとく倒れ、ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」と、神は語ります。彼らは神の栄光を現わす国造りを祈り求めません。自らのために謀反を起こして、神によるのではなく自らの力で王権を奪取しました。 アッシリアの侵略の危機が迫る中、次の王メナヘムはアッシリアに銀1千キカルを貢いで、属国として自分の地位を保全しました。これは約34トンの銀になります。これらの富も神がイスラエルに与えた財産です。王はそれを自分の財産として勝手に用いて自分の地位を守ろうとしました。しかし、この王も10年で死にます。ひと時の安全も僅かであり、治世は短く、「彼らはわたしから離れ去った。…彼らは滅びる」との言葉が響きます。神は、金銭や軍事力に頼るのではなく、生ける神に依り頼むようにと、私たちを招き続けます。 Thu, 16 Jul 2020 00:10:00 +0000 心からの悔い改めを(ホセア書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200716 no 2020 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。 (ホセア書6章6節) 北のアッシリアの南進の危機の中で、預言者ホセアは人びとに悔い改めを呼びかけます。神は罰を与え、懲らしめます。彼らは「さあ、我々は主のもとに帰ろう」と語り、神がいやし、「3日目に立ちあがらせてくださる」と告白します。この言葉だけを見ますと、神に悔い改めを告白しているように見えます。 しかし、「我々は主を知ろう」(3節)と語る神の力は、バアルに求めた大地を潤す春雨のことでした。彼らの神知識も、自然の恵みのような曖昧なものでした。底の浅い悔い改めを見た神は、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と断罪されます(4節)。また、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と語ります。 神は真実に神のみを知ることを求めます。罪に対しては罰をもって裁かれますが、それは真実な悔い改めに導き、罪を赦す神の愛を知るためです。神を知ることは罪を赦す神の愛を知ることです。神は今も生きておられ、主イエスを通して、わたしたちも真実に神を知るようにと招いておられます。 Wed, 15 Jul 2020 00:10:00 +0000 悔い改めを待つ神(ホセア書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200715 no 2020 彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め 苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。 (ホセア書5章15節) 預言者ホセアは、イスラエルの指導者である祭司、長老、王に警告します。当時、タボル山でバアル礼拝が行われていたようです。人びとが偽りの神々に犠牲をささげるのは、指導者たちに責任があります。ここで指導者たちの罪は「自らの高慢だ」と指摘されています。それは、生ける神に心を向けず、自分たちを正しいとする罪です。 ホセアが遣わされたヤロブアム二世の時代は、イスラエルが繁栄を享受した時代でした。その繁栄は神が与えたものです。けれども人びとは、神の祝福ではなく、自分たちの手でそれを得たものと考えて、欲望の虜になっていました。人びとは占いや偶像に依り頼み、欲望を満たそうとして神から離れていきました。やがて政治的な混乱、クーデターが多発し、王は暗殺され、政治も混乱の時代になります。それでも彼らはホセアの言葉に耳を傾けません。 そこで神は、戦争による罰を与えると語りました。それは、「彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」です。神は、悔い改めを待つお方です。 Tue, 14 Jul 2020 00:10:00 +0000 悟りなき民の末路(ホセア書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200714 no 2020 娘が淫行にふけっても 嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。 親自身が遊女と共に背き去り 神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。 悟りのない民は滅びる。 (ホセア書4章14節) 1~3章で預言者ホセアは、罪を重ねる民を愛する神の愛を言葉と行動で示しました。彼は姦淫の女をめとり、さらに不貞を働いた妻を愛して買い戻して、夫婦関係を継続します。これらは、まことの神と神の民イスラエルの関係を指し示します。 続く4~11章で、罪を重ねるイスラエルの民に対する厳しい告発が語られます。神よりも偶像とその性的な祭儀、また富を愛する不貞の民に厳しい裁きが下されます。当時のパレスチナの人びとは偶像バアルに豊作を祈願します。その神殿には神殿娼婦、神殿男娼がいました。姦淫が宗教儀礼としてなされ、イスラエルの男性も女性もその習慣に巻き込まれて欲望に支配されていました。 やがて北からアッシリアが侵略してきます。しかし、王たちは悔い改めてまことの神に助けを求めるのではなく、木々に託宣を求め、枝の指示を受けます。そのような民にホセアは、「悟りのない民は滅びる」と警告します。 私たちも、目に見えるものに依り頼みがちです。何が起こっても、生ける神が共におられることを覚えたいと思います。 Mon, 13 Jul 2020 00:10:00 +0000 赦しが先だつ神の愛(ホセア書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200713 no 2020 「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 (ホセア書3章1節) 神の命令により淫行の妻をめとり、子どもを与えられたホセアの家庭に、危機が訪れます。妻のゴメルが再び不貞を働きホセアのもとから去り、他の男のもとに行ってしまいました。妻が不倫の罪を犯したら、夫はやりきれないでしょう。夫婦関係を維持することが難しくなるかもしれません。 しかし、ここで主はホセアに、「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と命じました。神はその理由を明らかにして、「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」とおっしゃいます。主がイスラエルの人々を愛するように、ホセアもそのように妻を愛するようにということです。 ホセアの妻は不倫の果てに捨てられ、奴隷として売られていたのかもしれません。ホセアは、神の言葉に従って、奴隷の身分に身を落としていた妻を買い戻しました。妻を再び迎えるホセアの姿は、神を捨てたイスラエルの民をなお愛する神の姿を示しています。神は、悔い改めのためにまず赦しを与えてくださいます。 Sun, 12 Jul 2020 00:10:00 +0000 正しい反応(マタイによる福音書 11章16-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200712 no 2020 「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 悲しんでくれなかった。』」 (マタイによる福音書11章16節~17節) 神は人に感情というものを与えてくださいました。そのため、楽しければ笑い、悲しければ泣きます。この感情のスイッチが正しく作動しないと人に問題が生じます。 主イエスは、福音に対する当時のユダヤ人たちの頑なな思いを、広場で遊ぶ子どもたちの遊びにたとえて言われました。子どもたちが嬉しい音楽にも踊らず、悲しい葬式の歌にも悲しまない、感情のスイッチが正しく作動しない様子が、神からの喜びのメッセージにも警告のメッセージにも正しく反応しない今の時代と似ていると指摘されます。ファリサイ派をはじめユダヤの人は悔い改めを力説した洗礼者ヨハネのメッセージを無視し(18節)、喜びの福音を伝える主イエスをも嘲笑いました(19節)。その結果、主イエスを十字架につける罪を犯してしまいました。神への感情のスイッチが正しく作動しなかったためでした。 あなたの神へのスイッチはいかがでしょうか。正しく作動しないものは修理する必要があります。神への反応スイッチの修理法は悔い改めです。自分の罪を心から悔い改めて、聖書、説教、賛美、祈りを通して語りかけてくださる神に感情の心を明け渡しましょう。 Sat, 11 Jul 2020 00:10:00 +0000 回復の約束(ホセア書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200711 no 2020 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と言われるかわりに 「生ける神の子ら」と言われるようになる。 (ホセア書2章1節) 神は、預言者ホセアを遣わして、偶像と貪欲に心を奪われたイスラエルの人びとに悔い改めと裁きを伝えました。イスラエルの民は悔い改めなければ滅びてしまいます。そのイスラエルの人びとが姦淫を行う妻にたとえられています。まことの神を捨てて、他の神々へと心と体を向けているからです。しかし、神はイスラエルの人びとを捨てて置かず、同時に将来の回復をも預言されました。その回復は悔い改めからはじまり、将来へと続いていきます。 パウロは、このホセアの預言をローマの信徒への手紙9章25、26節で引用します。この預言が、異邦人が悔い改めて霊のイスラエルとされたことによって成就したのだと言うのです。偶像と貪欲に心を奪われ、生ける神の言葉を伝えられても頑なに拒絶する者たちを、神は愛してご自身のもとに招いてくださいます。この神の愛の計画がなければ、私たちに救いはありません。ペトロも、この箇所をペトロの手紙一で引用して、異邦人への神の愛を語りました(2章10節)。 神の預言は、私たちの思いを超えて私たちの内に実現しています。 Fri, 10 Jul 2020 00:10:00 +0000 神の愛を示す預言者(ホセア書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200710 no 2020 主はホセアに言われた。 「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。 この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 (ホセア書1章2節) 預言者ホセアは、北イスラエルのヤロブアム二世の晩年から北イスラエルがアッシリアに攻め滅ぼされた時代にかけて遣わされた預言者です。神はイスラエルの人びとをエジプトから助け出し、土地を与えて繁栄へと導かれました。その彼らが生ける神を捨てて、偶像と貪欲に心を奪われる姿に、神は悲しまれます。そこで、預言者を遣わし、悔い改めを宣べ伝えさせました。 しかし、ホセアの場合、言葉だけでなく、彼自身の結婚生活を通しても深い神の愛を示すことが求められました。ホセアは、その神の言葉に従います。それは私たちの理解を超えていることかもしれません。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」という命令だったからです。その理由は「この国は主から離れ、淫行にふけっているから」と語られています。 ホセアは、神の言葉に従いました。ホセアと淫行の妻ゴメルの夫婦関係は神とイスラエルの民との関係を示しています。神は、偶像と貪欲に心を向けて神から離れた民を愛されます。ホセアは、その神の愛を言葉と行動で示しました。 Thu, 09 Jul 2020 00:10:00 +0000 平和の神を思い、祝福の祈りを献げる(ヘブライ人への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200709 no 2020 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。 (ヘブライ人への手紙13章20節~21節) 信仰者は神の守りを信じ、祈り励まし合うことで日々の歩みを重ねていきます。「わたしたちのために祈ってください」(18節)と願ったこの手紙の著者は、手紙を手にする人びとの顔を思い浮かべるようにして、祝福の祈りを献げています。 この著者は知っています。教会が迫害に曝され、仲間が牢に捕らわれ、虐待されていることを(3節)。教会の中でも、不貞や不正が横行していることを(4、5節)。神を信じ、人を愛し生きることが危機にさらされている世界。それは今、私たちが生きる世界でもあります。人につまずき、泣いています。苦難に疲れ果てています。時に信仰の死さえも経験しながら。 しかし、祈る人がいます。平和の神に祈ってくれている人がいます。その神は、主イエスを死者の中から引き上げられたお方です。私たちがどのようになろうとも、「良きもの」を回復してくださるお方です。人間は本来、神が「極めて良かった」と感嘆の声をあげられた存在です(創1章31節)。あなたは祝福されるべき存在です。 きょう、平和の神の御力を信じ、祝福を祈ります。 Wed, 08 Jul 2020 00:10:00 +0000 イエスを見つめる(ヘブライ人への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200708 no 2020 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 (ヘブライ人への手紙12章1節~2節) 私たちの目を自分自身にではなく主イエスに向けること、それが聖霊の働きです。 サタンの働きは全く反対です。サタンは、私たちがキリストを見ることなく、自分自身を見るようにささやきます。「あなた自身の罪深さを、あなたの不信仰を、あなたの行ってきたことを、見よ。あなたのような者が救われるはずがない。あなたのような者を神が愛されるはずがない」と。自分を見ることによっては気落ちし、落胆するほかにないのが私たちです。 しかし、聖霊はそこで、私たちの目を私たち自身から180度転回させられます。「主イエスがおられるではないか、このお方があなたを救われる。あなた自身があなたを救うのではない、主イエスがあなたを救われる」と。 私たち自身は全くの罪びとですが、この私たちのためにキリストは十字架にかかって死んでくださいました。救うのは、私たち自身の信仰ですらありません。「信仰の創始者また完成者であるイエス」、このお方こそが私たちを救われます。 ですから、きょうも自分自身から主イエスにその目を転じようではありませんか。 Tue, 07 Jul 2020 00:10:00 +0000 信仰を抱いて死にました(ヘブライ人への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200707 no 2020 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 (ヘブライ人への手紙11章13節) 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」。ここでは「信仰を抱いて生きました」と語られているのではありません。「生きた」のではなく「死にました」と語られています。この短い1句にも、キリスト教信仰の根幹になることが言い表されています。 信仰は、この地上において生きることへの慰めや励ましを私たちに与えてくれます。しかし、信仰は生きている間のことだけではありません。ましてや信仰はただこの世を上手く渡っていくための手段のようなものでもありません。信仰はこの世を越えた神の恵みに生かされることです。 信仰は、死ぬことと関わっています。罪の支払う報酬は死ですが、主イエスは罪の贖いのために十字架で死なれ、復活してくださいました。この方によって今や、死は「永遠の命への門」となりました。私たちはこの地上の歩みを終えて死に、命に至ります。死の厳しさは残されていますが、もはや死は私たちを決定的に脅かすことはできません。 「信仰を抱いて死にました」。ここには幸いがあります。信仰は生きる時と死ぬ時の唯一の慰めです。 Mon, 06 Jul 2020 00:10:00 +0000 真心から神に近づこう(ヘブライ人への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200706 no 2020 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。…更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 (ヘブライ人への手紙10章19節~22節) 主イエス・キリストに結ばれた私たち信仰者は必ず聖所に入れる、そう確信してよいと、聖書は教えています。この聖所は地上の聖所ではなく、主イエス・キリストが神の右に座しておられる神の御国です。神の御国に入ることができると確信してよい。それゆえ、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と言って、神の御座へと私たちを招きます。 それは、キリストが十字架につけられ、ただ一度、永遠の贖いを成し遂げてくださったからです。キリストの犠牲のゆえに、私たちが神の御前に立つための新しい道が開かれました。また、そのお方ご自身が大祭司としてすでに天におられます。今やご自身の血によって私たちを清めてくださるお方が神の右に座しておられるのです。 それゆえ、私たちは罪から離れ、神をたたえて礼拝すること、愛と善き業へと互いに励まし合うことに固く立って、耐え忍びます。そこで求められることは、真心から神に近づくこと、すなわち、真実の悔い改めです。私たちが神の御国に入れられるとは、ただただキリストの十字架の贖いのゆえだからです。 Sun, 05 Jul 2020 00:10:00 +0000 平和の大使(マタイによる福音書 10章34-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200705 no 2020 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」 (マタイによる福音書10章34節) キリスト教を非難する人たちの代表的な攻撃ポイントの一つは、聖書の内容が矛盾しているということです。この箇所もよく誤解されるところです。キリスト教を代表するイメージは「愛」、「平和」であるのに、主イエスは、御自身が来たのは、平和ではなく、剣をもたらすためにきたのだと言われます。一般的なキリスト教の教え、イメージとは矛盾しているように感じられます。 34節は、主イエスが平和を望まないとか、不和を起こすため来られた、という意味ではありません。福音を伝えるときに不可避な葛藤が生じるという意味です。福音がすべての人に歓迎されるわけではないからです。福音を受け入れた人とそうではない人の間で必然的に争いが起こります。 このような争いは最も近い関係である家族の中でより深刻に発生します。キリスト者は平和のために努力するなかで、葛藤を回避するのではありません。自分が今ここで神の平和を伝える大使とされていることを覚えて、忍耐をもって福音を証しします。そのとき、自分をはじめ、置かれているところに平和の君(イザ9章5節)による真の平和が訪れます。 Sat, 04 Jul 2020 00:10:00 +0000 新しい契約の仲介者(ヘブライ人への手紙 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200704 no 2020 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。…世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 (ヘブライ人への手紙9章24節、26節) 聖所の奥に、神の臨在を示す契約の箱が置かれた至聖所があります。そこに入ることは、大祭司さえ年に一度、贖いの日にしか許されません。こうして、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕は、人が神に近づく道が開かれていないことを表していました。 けれども、今やキリストが十字架につけられ、ただ一度、御自身をささげて、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。私たちが神に近づく道をキリストが開いてくださいました。それゆえ、キリストが十字架につけられ、死なれたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタ27章51節)。 今や至聖所への道が開かれました。それだけでなく、聖所、至聖所は写しに過ぎないと言われます。まことのもの、すなわち、天に入り、神の御前におられる主イエス・キリストに、私たちは目を注ぎます。最初の契約は過ぎ去りました。今や十字架のキリストが新しい契約の仲介者です(15節)。 十字架上で血を流されたキリストのゆえに、「神、我らと共にいます」幸いが、今、私たちに与えられています。何と素晴らしいことでしょう。 Fri, 03 Jul 2020 00:10:00 +0000 御子によって新しい契約を結ばれる神(ヘブライ人への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200703 no 2020 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 (ヘブライ人への手紙8章13節) イスラエルの民は、神との間に契約を結んでいました。しかし、神は、新しい契約を結ぶと宣言なさいました。 古い契約に欠けていたのは、その内容についてではありません。その本質である、「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という点は初めから少しの変更もありません(出6章7節、レビ26章12節等)。問題は、契約の当事者である神の民が、人間の肉の弱さゆえに、その契約を守り通すことができなかったことにあります。 そこで神は、驚くべき恩恵の御業を行われました。神は、御子キリストを罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、十字架の上に犠牲にするまでして、私たちを永遠の破滅から救い出そうとしてくださいました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とキリストが宣言されたときに制定された新しい契約です(マコ14章24節)。そして、この新しい契約に私たちを招いてくださっています。 その尊い招きに感謝をもって応答いたしましょう。私たちは罪の完全なる赦しが約束された者なのですから。 Thu, 02 Jul 2020 00:10:00 +0000 私たちの偉大な大祭司、神の子イエス(ヘブライ人への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200702 no 2020 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。 (ヘブライ人への手紙7章26節) 祭司の務めは、神と人との間を仲介し、人びとを神に近づけることにあります。しかし、律法によって立てられたレビの系統の祭司は、その務めを完全に果たすことはできませんでした。そこで神は新しい祭司を立てることを宣言し、古いものを廃止されました。それによって、さらに優れた希望として、神に近づく道が示されました。 レビの系統の祭司は、民のための罪のいけにえを献げる前に、まず自分の罪のためのいけにえを献げなければなりませんでした。祭司も民と同じ罪人、弱い者だからです。しかし、キリストは、ご自分の罪のためにいけにえを献げる必要はありません。なぜなら、この世の人の道を歩まれ、肉の弱さの中であらゆる誘惑を受けられましたが、罪に支配されることはないお方だからです。しかも、ただ一度ご自身をいけにえとして献げることによって、選ばれた者たち全員の罪を完全に償ってくださったのです。 キリストこそ、私たちの大祭司です。キリストによる完全な救いに入れられ、「偉大な大祭司、神の子イエス」と告白し賛美する人はなんと幸いなことでしょう。 Wed, 01 Jul 2020 00:10:00 +0000 信仰と忍耐の秘訣(ヘブライ人への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200701 no 2020 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。 (ヘブライ人への手紙6章11節~12節) わたしは我慢強い人間ではありません。忍耐することが苦手です。ですから、きょうの箇所にあるように、「信仰と忍耐」などと言われると不安になります。果たしてわたしは、神の約束を受け継ぐまで、忍耐し続けられるだろうか、と。 聖書には、信仰の先輩の歩みが包み隠さず記されています。たとえば、ヘブライ人への手紙11章にはアブラハムの信仰と忍耐がお手本のように記されています。けれども、実際のアブラハムの生涯は、これほど単純で迷いのない歩みではありませんでした。創世記でアブラハムの生涯を確認すると、彼もその時々で悩み苦しんだし、人間的な手段を用いて神の約束を実現しようとしたこともありました。ですが、神はそのような彼と共にいてくださり、時に彼の過ちを示し、時に彼を苦境に追い込むことで信仰の歩みへと立ち帰らせてくださったのです。 今、私たちにも、同じ神の導きがあります。いやそれ以上に、大祭司キリストの執り成しがあります。ですから、自分の力ではなく、神の確かさに希望をおいて、信仰の歩みを続けていきましょう。 Tue, 30 Jun 2020 00:10:00 +0000 祈りを通して従順を学ぶ(ヘブライ人への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200630 no 2020 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 (ヘブライ人への手紙5章7節~8節) キリストは、神として、スーパーマンのように地上の生涯を歩んだのではなく、弱さを持つ人間として地上を歩まれました。ですから、十字架にかかるという神の意志に従うために、苦しみ、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈ったのです。キリストはこのような祈りを通して従順を学ばれた、と記されています。神に従って生きることと、祈ること。この二つの間にどのような関係があるのでしょうか。 私たちには自分の願いや意志があります。しかし、自分の願いと神の意志が違うと思えることもあります。そういう時こそ、真剣な祈りが必要です。 わたしは、祈りの中で自分の思いが整理されていき、同時に神の意志もわかってくる、そのような経験を何度もしてきました。もちろん一回だけの祈りではわかりません。同じことを何度も祈り、状況を考え、また祈る。そういう中で、神の意志とわたしの願いの距離が少しずつ狭まっていくのがわかりました。 真剣な祈りがなければ、神の意志を知り、従うことはできません。きょうも祈りをささげて歩みましょう。 Mon, 29 Jun 2020 00:10:00 +0000 大胆に恵みの座に近づこう(ヘブライ人への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200629 no 2020 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 (ヘブライ人への手紙4章16節) こんな不信仰な歩みをしているわたしが礼拝に出ていいのだろうか、聖餐式にあずかって大丈夫だろうか、などと不安になったことはありませんか。 私たちの信仰の歩みは順調なとき、元気なときばかりではありません。この世の誘惑に負けて、神の前から隠れたくなるようなときだってあります。大きな失敗や罪を犯して、もう神の前に出られない。教会に行けない、と思うようなこともあるかもしれません。しかし、私たちは神の前から隠れることはできないし、神はわたしの罪や弱さをすべてご存じです。そして、わたしの罪や弱さのために、主イエスが十字架にかかってくださいました。 ルカによる福音書15章の放蕩息子のたとえに登場する父は、財産を使い果たし、身を持ち崩した息子の帰りを待ち続けました。心も体もボロボロになって戻ってきた息子の悔い改めの言葉も聞かず、ただただ抱きしめたのです。同じように、神も、私たちのことを待っておられます。ですから、悔い改めの心をもって神のもとへ帰り、神の憐れみと恵みの中で、平安をいただきましょう。 Sun, 28 Jun 2020 00:10:00 +0000 まず神に近づき、人々の間へ(マタイによる福音書 10章5a、21-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200628 no 2020 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」 (マタイによる福音書10章26節) 主は、弟子たちに、「人々を恐れてはならない」と命じられました。理由の一つがこれです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。 この御言葉は、まず弟子たち自身に当てはまりました。隠された恐れが、使徒たちの心にもありました。どんなに強気なことを言っても、十字架の主イエスを見捨てたとき、覆われているものは現わされました。主イエスの十字架の死の後、ユダヤ人を恐れて、閉じこもっていた姿にも、人々への恐れは明らかです。 そのようなことを重ねながら、弟子たちは、もはやその恐れを覆ったり、隠したりしないように導かれていきました。復活の主にお会いしてもなお、人々は恐ろしかったでしょう。しかし、互いに強がったり、体裁を整えたりするやり取りはありません。彼らは心を合わせて熱心に祈っていました。 あくまで神を求めます。主イエス・キリストを新たに知りながら。主は、祈る者の心から人々への恐れを締め出してくださいます。まず神に近づき、それから人々の間へ…。 Sat, 27 Jun 2020 00:10:00 +0000 日々励まし合いなさい(ヘブライ人への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200627 no 2020 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。 (ヘブライ人への手紙3章12節~13節) イエス・キリストを信じる信仰の決断は、神の前でわたし自身がしなければなりません。そこに他の人が入ることはできません。しかし同時に、信仰を告白し、神の家族となってからの歩みは、わたし一人の歩みではありません。牧師や教会の方々の祈りがあり、信仰の友の励ましや支えがあります。 主イエスはペトロに言いました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)。信仰の歩みには、主イエスの執り成しと人の支えの両方が必要です。 あなたには、信仰の悩みを聞いてくれる仲間、相談に乗ってくれる先輩や、祈ってくれる友はいるでしょうか。特に若い方々は、自分の教会だけでなく修養会やキャンプなど、いろいろな機会に出会う信仰の友を大切にしてください。若い時の出会いが生涯の信仰の友となることが多いのです。 信仰の歩みは孤独な戦いではなく、主にある方々と共に励まし合い、祈り合いながら進めていく歩みであることを覚えたいのです。 Fri, 26 Jun 2020 00:10:00 +0000 私たちと同じように(ヘブライ人への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200626 no 2020 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 (ヘブライ人への手紙2章17節~18節) 祭司の中心的な務めは、神と人の間に立って、人が神を礼拝できるように執り成すことです。この祭司の働きを、主イエスは十字架上でご自身を犠牲にして果たされました。私たちの罪を贖うために。そうして、私たちが罪赦されて神に近づけるようにしてくださったのです。 主イエスはこの務めを、神としてではなく人として果たされました。そこには、私たちと同じ肉体の痛み苦しみがあり、死への不安もあったはずです。そして、最大の試練は、神に捨てられるという恐怖でした。 私たちにもいろいろな悩み苦しみがあります。複雑な人間関係。心や体の痛み。勉強や仕事で疲れ果てへたり込み、育児に悩むことも。病や老いに向かう不安。そして、地上の生涯の最後には死と向かい合うことになります。 私たちの祭司である主イエスは、私たちと同じように多くの試練を受け実際に苦しまれたので、私たちの痛み、苦しみを理解し、助けることがおできになります。そして何よりも感謝なことは、主イエスの執り成しによって、私たちは神に捨てられることがないということです。 Thu, 25 Jun 2020 00:10:00 +0000 生きて働く言葉(ヘブライ人への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200625 no 2020 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。 (ヘブライ人への手紙1章1節~2節) 「美しいこの空を 愛らしいこの花を 浮んでる白い雲 香りよき青草を じっと眺めるだけで ただ眺めているだけで ほら君もわかるでしょ 神さまがわかるでしょう」(『友よ歌おう』より※)。この歌をご存じですか。既にイエス・キリストを通してまことの神に出会っているクリスチャンにとっては、心から同意できる歌詞です。けれども全く聖書を知らない方にとってはどうでしょうか。 自然の美しさから神に近づくことはできるかもしれません。しかしまことの神と出会い、信仰を持つためには、神の言葉、聖書が必要です。 旧約聖書には、神の側から人に語りかけ、祝福を与えてくださる神が示されています。その同じ神が新約聖書では、受肉し、人となられたキリストとして、ご自身を示しておられます。 私たちは今、神を見ることはできません。しかし、聖書を通して、かつて人として地上を歩まれた主イエスと出会い、今わたしを愛してくださる神を知ることができます。そこに聖霊が働いて、聖書の言葉が、私たちの心を揺り動かすのです。本当に不思議な神の御業です。 ※一般財団法人 太平洋放送協会 許諾第249号 Wed, 24 Jun 2020 00:10:00 +0000 終わりまで自分の道を行け(ダニエル書 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200624 no 2020 「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 (ダニエル書12章13節) 世の終わり、死の後についての御言葉を聞いたとき、老いたダニエルはなお問いました。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」。このとき、御言葉を聞いても理解できなかったとも言っています(12章8節)。ダニエルという人はとても正直な人です。 私たちも、信仰生活を何年送ってもわからないこと、理解できないことが残るのではないでしょうか。とりわけ世の終わりや、復活についての御言葉は理解しにくいかもしれません。 しかし、そこで聖書は「終わりまでお前の道を行きなさい」と言います。十分にはわからないことがあってもよいのです。それでも主に信頼し、委ねて信仰の道を行ってよいのです。主の救いは、私たちがすべてを自分の手の中に入れることはできません。それほどに広くて、大きいものです。 「あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう」(聖書協会共同訳)。死は終わりではなく始まりです。そこで永遠の命が与えられます。 Tue, 23 Jun 2020 00:10:00 +0000 はじめから聞かれています(ダニエル書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200623 no 2020 「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。」 (ダニエル書10章12節) ペルシャの王キュロスの時代に、ダニエルは嘆きつつ、3週間、断食の生活をしました。2節には、「3週間にわたる嘆きの祈りをしていた」とあります。その期間が過ぎて、チグリス川のほとりで、麻の衣を着、純金の帯を締めた人と出会います。「体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のよう…」ともあります(6節)。 壮大な幻によって地に倒れてしまったダニエルに御使いが語りかけます。「その最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た」と。同時に「21日間」の闘いが天にあったことも告げられます。「21日間」は彼が断食し、祈っていた期間、つまり3週間と完全に一致します。 ダニエルの祈りは、苦難の中での祈りでした。その祈りは確かに聞かれていました。ただ彼自身はそのことを知りませんでした。しかし、それでも気づかないところで彼の祈りは既に天では聞かれていました。私たちの祈りも、私たちが気づいていない時に、まだ聞かれていないようにしか思えない時にも、「はじめから聞かれています」。 Mon, 22 Jun 2020 00:10:00 +0000 荒廃はどこに(ダニエル書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200622 no 2020 神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とをご覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。 (ダニエル書9章18節) ここにはダニエルの祈りが記されています。今日のわたしたちにとっても模範となる祈りです。 ここでダニエルは、エルサレムの荒廃からの復興を祈っています。エルサレムの都は、度重なる戦争によって破壊され尽くされていました。城壁も神殿もすべてが破壊され尽くされていたことでしょう。そのような状態からの回復を嘆願しています。 しかし、ダニエルが嘆きつつ祈っているのは、目に見える外面の荒廃のことだけではありません。むしろ、ダニエルの眼差しは、外面の荒廃の奥にあるもの、見えない深みに向けられていました。それは神との関わりにおける人間そのものの荒廃です。神に背き、神の言葉に聞き従って生きようとしない、人の罪の故の荒廃です。それは、ここでダニエルが何度も「罪」という言葉を用いていることからもわかります。この祈りに答えるようにして、やがて主イエスは来てくださったのです。 今もこの荒廃は続いています。しかし、私たちはダニエル以上に、イエス・キリストにおいて、神の深い憐れみを知らされています。ですから嘆きつつ、きょうも祈ります。 Sun, 21 Jun 2020 00:10:00 +0000 収穫は多い、働き手を(マタイによる福音書 9章35節-10章8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200621 no 2020 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 (マタイによる福音書9章37節~38節) 「収穫は多い」と主イエスが言われたとき、弟子たちの目にも、そのように見えたでしょう。多くの人びとが主に期待をかけて、集まっていました。しかし、主が十字架に引き渡されたとき、収穫は失われた、と思ったのではないでしょうか。収穫の主に願うべき必要など、まったく覚えなかったことと思います。 しかし、信仰によって見るべき事実があります。「(一粒の麦が)死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハ12章24節)。キリストが来られたとき以来、種はまかれ、成し遂げられるべきことが成し遂げられました。人の心は、道端、石地、いばらの地のように受け止めているとしても、「収穫は多い」。信仰によって確信すべき希望があります。 「働き手が少ない」。これも同様です。働き手が満たされることはありません。収穫が多いからです。 さらに、主イエスは、弟子たちに収穫の主に祈るように求めました。この祈りも、願い続けられるべきものです。そして、その祈りの答えは、12人の使徒たちでした。同様に、収穫は多いと見て、祈り続ける者たち自身の中に答えが与えられます。 Sat, 20 Jun 2020 00:10:00 +0000 ぼう然となってもいい(ダニエル書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200620 no 2020 わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。 (ダニエル書8章27節) ドストエフスキーの『罪と罰』の前書きにこんな言葉があります。 「大抵の人がこの小説の、人を圧迫するような力や、重苦しい感銘について語りあった。これらの圧迫と苦しさのために健全な神経をもっている人々でさえ打たれて病気のようになるし、弱い神経をもった人間は、それを読むのを余儀なく中止しなくてはならなくなった」。 この言葉は、ドストエフスキーの言葉ではなく、彼の伝記を書いたストラーホフという人の言葉です。彼の言葉は、次のことを伝えています。本物の言葉、いのちを与える言葉と出会った時の反応は喜びや感激だけではないということです。 8章の結びにはダニエルの告白の言葉が語られています。「疲れ果て」、「病気になって」、「ぼう然となり」、「理解できずにいた」。彼はどうしてこんな風になったのでしょうか。それは神の言葉と出会ったからです。私たちが聖書にある神の言葉と出会う時も感激や喜びをもたらすとは限りません。聖書の言葉も、いや聖書の言葉こそ、そうなのです。聖書はいのちの言葉を私たちに語っています。 Fri, 19 Jun 2020 00:10:00 +0000 希望はどこにある(ダニエル書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200619 no 2020 夜の幻をなお見ていると、 見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。 (ダニエル書7章13節~14節) ダニエルはある夜、4頭の獣の幻を見ます。獣は獅子、熊、豹のようです。第四の獣はものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、足で踏みにじります。獣らは、古代世界の帝国を示しています。獅子はバビロニア、熊はメディア、豹はペルシア、第四の獣はマケドニア帝国と言われます。 国々が獣にたとえられていることは重要です。聖書は国家を否定してはいません。しかし、国家が人間性を失って、人間を傷つけ、世界を破壊させ荒廃させることがあることもよく知っています。そこでは人間が獣のようになってしまいます。国家の獣性は歴史の中で現れ続け、今に至るまで続いています。どうすれば良いのでしょうか。 ここで一つのことが告げられています。それは天に高き御座があり、そこに「日の老いたる者」が座しています。権威が人の子に与えられ、この人の子がやって来ます。この人の子の支配こそが、人間を回復し救います。この人の子こそイエス・キリストです。この方こそが私たちの希望です。だから祈ります。「主イエスよ、来てください!」と。 Thu, 18 Jun 2020 00:10:00 +0000 いつものとおり(ダニエル書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200618 no 2020 ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。 (ダニエル書6章11節) 若い日に洗礼を受けた頃のことです。ひとりの先輩の信徒が「毎日、決まった時間にひとりで聖書を開いて読み、お祈りをすること」を勧めてくださいました。この時だけではありません。人生の歩みの折々に、同じことを伝えてくださった人たちがいました。私たち信仰者にとって一番、大切なことは何でしょうか。それはわたしが何をするかでなく、神がわたしに何をしてくださるかです。 ダニエルは繰り返し試練や苦難に見舞われた人です。彼は信仰の戦いを立派に戦い抜きました。どうして、このようなことができたのでしょうか。それはダニエルが英雄だったからでしょうか。そうではありません。このような歩みをすることができた秘密が、きょうの御言葉で語られています。 「いつものとおり」と語られています。獅子の穴に放り込まれた時にも、ダレイオス王は、ダニエルが「いつも拝んでいる神」と呼んでいます(17節、21節)。今、私たちはこのリジョイスをとおして、御言葉に聞いて、主なる神に祈っています。「いつものとおり」。試練のなかでもきっと支えられます。 Wed, 17 Jun 2020 00:10:00 +0000 壁に書かれた文字(ダニエル書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200617 no 2020 そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。…書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。 (ダニエル書5章24節~25節) 「メネ、メネ、テケル、パルシン」。ベルシャツァル王が開いた大宴会で、突然、現れた指が白い壁に書いた文字です。ダニエルがこの文字を解き明かします。「あなたの治世は数えられ、終わらせられた。あなたは秤にかけられ、不足と見られた。あなたの国は二つに分けられる」と。書かれた文字は、神の裁きを意味していました。 神こそが主であり、御心が行われる。神を侮り、嘲る時代は必ず終わります。このダニエル書の御言葉は、苦難の時代に生きる教会に慰め、励ましを与えてきました。 しかし、同時に、この神の指によって書かれた文字は私たちを畏れさせもするのではないでしょうか。私たちの人生が神によって「数えられ、計られ、分けられる」。だとすれば、私たちはそれに耐えることができるでしょうか。 この神の手は、主イエスの御手でもあると言った人がいます。人間を憐れみ、罪赦す主の手です。罪ある女が主イエスの前に連れて来られた時、地面に手で何か文字を書いておられました。内容はわかりませんが、わたしは赦しと救いの言葉であったと思います(ヨハ8章6節)。 Tue, 16 Jun 2020 00:10:00 +0000 理性が戻る(ダニエル書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200616 no 2020 その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。 その支配は永遠に続き その国は代々に及ぶ。 (ダニエル書4章31節) ダニエル書は、天にいます神こそが歴史の主であると何度も語っています。しかし、人間は心をかたくなにして、この歴史の主の前に身をかがめようとしません。 ネブカドネツァル王もそうでした。ダニエルの夢の解き明かしによって警告を受けても、王宮を散歩している時、バビロンの繁栄と自分の権勢を誇ります。すると、まことの神は、直ちにその傲りを裁くために王を獣の姿に変えてしまわれます。王は人間社会から追放されて、野の獣と共にしばらくの時を過ごします。その後、彼は悔い改め、我にかえります。その時のことを聖書はこう語ります。「わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た」。彼は神を賛美し、讃えます。 御言葉はここで、「理性が戻って来た」と語っています。神を信じ、神を崇めるようになることが理性を取り戻すことなのです。事実、神を信じることなく傲りに生きる時、人間は獣のようです。それは本当ではないでしょうか。「神を信じることほど人間らしいことはない」とある人が言いました。理性を取り戻して歩みましょう。 Mon, 15 Jun 2020 00:10:00 +0000 人間を救う神は、ほかにはいません(ダニエル書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200615 no 2020 「まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」 (ダニエル書3章29節) ネブカドネツァル王は巨大な金の像を建て、それにひれ伏して拝むことをすべての者に強要します。しかし、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人のユダヤ人たちは命令に背きます。そのため、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまいます。 しかし、やがて王は燃え盛る炉の中に自由に歩く4人の人を見出します。4人目の人は、「神の子のような姿をしていた」とあります(25節)。やがて、王の呼びかけに応えて3人は炉から無傷で救出されます。 王は炉に投げ込む前には「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と語っていました(15節)。しかし、出来事を目の当たりにしたとき、王は「まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない」と語るようになります。 偶像は、人間を救わず、滅びに至らせます。しかし、神は苦難の時に、私たちと共におられます。自由を与え、救います。御言葉によってイエス・キリストの十字架と復活の救いを見た私たちも同じ告白をします。「まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない」と。 Sun, 14 Jun 2020 00:10:00 +0000 行く道、キリスト(マタイによる福音書 28章16-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200614 no 2020 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章18節~20節) 弟子たちがまず行ったのは、身近な人びとのところでした。つい先日まで、その人びとを恐れて、閉じこもっていました(ヨハ20章19節)。キリストの弟子になるなどとんでもないと考えている人びとでもあります。家族さえ、その中に含まれます。 身近な人びととの関係が難しいものとなるのは、つらいことです。歓迎されないところに行って、心を閉ざしている人に、何を教えることができるでしょうか。聞く耳を持たないだけでなく、怒り出すかもしれません。けれども、使徒の派遣は、まずそこから始まりました。人間のことを考えたなら、行くことはできません。しかし、キリストのことを考えたなら、行くべき理由が見えてきます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、…」なのです。 それだけではなく、心を閉ざした人びとに近づく道も見えてきます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。人びとに近づく道は、キリストにあります。まず自分がキリストを知り、天と地の一切の権能を授けられた御方を知りながら、近づきます。 Sat, 13 Jun 2020 00:10:00 +0000 試練の時を生きる(ダニエル書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200613 no 2020 ダニエルは家に帰り、仲間のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤに事情を説明した。そして、他のバビロンの賢者と共に殺されることのないよう、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った。 (ダニエル書2章17節~18節) ネブカドネツァル王は、見た夢の理由や意味を知ろうと、国中の占い師や祈祷師、呪術師、賢者たちを呼び、夢の解釈を求めます。しかし、夢の内容は全く伝えないままに、その夢の解釈を求めます。当然、この無茶苦茶な求めに応えることができるような人はいません。にもかかわらず、王は激しく怒って、バビロンの知者を皆殺しにするように命じます。暴君による暴力的な支配です。やがて危機はダニエルたちにまで迫って来ます。 ダニエル書は、試練の時を信仰者はどう生きるのかを語っています。この時、ダニエルはひとりの英雄として暴力的支配と戦ったというのではありません。危機を知った時、彼は「仲間」に窮状を打ち明け、「天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った」(18節)のです。彼の祈りに神は答え、夢の秘密を明かされます。 試練の時、信仰者はひとりで立つことをしません。教会の仲間に相談できます。そこに祈りが生まれます。神は生きて働いてくださいます。今も同じようにして守り、支えてくださいます。 Fri, 12 Jun 2020 00:10:00 +0000 ダニエルの決心(ダニエル書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200612 no 2020 ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。 (ダニエル書1章8節~9節) キリスト者は、洗礼を通して、キリストに結ばれ、キリストのものとされた人たちです。しかし、信仰者は誰でも、この世に生きなければなりません。信仰者が世を生きることは安全なことではありません。なぜなら、世はいつも信仰者たちを主なる神から離反させ、自分のものとしようとするからです。私たちはどう生きればよいのでしょうか。 ダニエルたちはバビロンに捕囚となっています。バビロンの王は、神の民である少年たちに、「カルデア人の言葉と文書を学ばせた」とあります。つまり、バビロンの思想、価値観を少年たちに植え付けて、神の民としてのアイデンティティーを喪失させようとしたのです。しかし、そのような中でダニエルは「決心」しました。「自分を汚すまい」と。このダニエルの決心は、単にある種の食物や飲み物を避けるというものではありません。異教の地であるバビロンにあって、神のものであり続けるという信仰の決心、決断です。 私たちも、この世の中に生きますが、決してこの世のものにはなりません。世にあって神のもの、キリストのものとして生きます。この決心がきょうも与えられますように。 Thu, 11 Jun 2020 00:10:00 +0000 新しい目で世界を見る(テモテへの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200611 no 2020 神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない。 (テモテへの手紙一4章4節) 詩人リルケが意味深く記しています。「ここにあることは、素晴らしい」。日常の中でそう思えるのは、幸いなことです。そう思えない多くのことに囲まれている、自分はろくでもない社会の住人で、不毛な灰色の世界に暮らしている、と思うからです。 そんな私たちに、聖書は大切なことを思い起こさせてくれます。「神がお造りになったものはすべて良い」。二つのことをおぼえましょう。 まず、地上の命が、たえず神の創造の働きと共にあることを、心にとめたいと思います。まわりにあるものたちに目を向けましょう。風や、雲や、花や、木を感じましょう。きょうのわたしの生活も、老いることも、神が手厚く支えてくださっています。 そして、主の十字架と復活により、罪深く死すべき私たちが、永遠の顧みの中に置かれています。この恵みを感謝するとき、新しい目がひらかれます。肌の合わない人を、神の被造物として認める目を。また、欠けだらけの私たちの世界を、それでも望みを持って見る目を。 イエス・キリストにある神の恵みのゆえに、ここにあることは、素晴らしい。 Wed, 10 Jun 2020 00:10:00 +0000 真の救い主(テモテへの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200610 no 2020 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、 キリストは肉において現れ、 “霊”において義とされ、 天使たちに見られ、 異邦人の間で宣べ伝えられ、 世界中で信じられ、 栄光のうちに上げられた。 (テモテへの手紙一3章16節) よい関係を願いながら、面と向かうと上手に振る舞えないことがありますね。また、互いに思いを寄せながら、誤解し合い、緊張して過ごさなければならなかったり。聖書が「人は肉である」と表現するとき、私たちのそんなちぐはぐなありかたが受けとめられています。 きょうの御言葉は、「キリストは肉において現れた」と語っています。このことは、主が、私たちと同じ肉体を持たれたということだけでなく、私たちの悲しい矛盾をも引き受けてくださったことを意味しています。主は、私たちの矛盾をいたずらに指摘せず、また矛盾だらけの私たちの世界を見捨てず、担い、救いへ導くお方です。 真の救い主が共にいてくださいます。立つ瀬のない者の支えとして。味方として。とことん頼れる存在として。 思い通りに動かない自分、あるべき理想と食い違う言葉と行いを、細やかなご配慮のもとに置かせていただきましょう。 新しい一日、引き受けられている者らしく、信頼していましょう。そして、自分にできることをさせていただきましょう。 Tue, 09 Jun 2020 00:10:00 +0000 私たちの祈り(テモテへの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200609 no 2020 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 (テモテへの手紙一2章1節) 祈りは何であるか。ご一緒におぼえたいものです。私たちの祈りは、父なる神の御手にゆだねることです。ゲツセマネで主みずからがこう祈られました。「父よ、できるなら、この杯を過ぎ去らせてください、しかし自分が願うようにではなく、あなたが望まれるように」と。 自分の歩みを御手にゆだねるとき、平安が生まれます。すなわち、わたしの願い求めを超えて、そして死の陰の谷をも超えて、憩いのみぎわへ導かれることへの確かな心が。ボンヘッファーの祈りを記します。「わたしにはあなたの道はわかりません。しかし、あなたはわたしによい道をご存知です」。 きょうの御言葉は、印象深く語ります。すべての人々のために祈りなさい。自分のためだけでなく、家族や教会の人々や親しい人々のためだけでなく、嫌いな人や、敵のためにも祈りなさい。 主は、すべての人を思う父の愛を語りました。まさにそのために、十字架を背負ってくださいました。ですから、あなたが思い浮かべる人をもゆだねるよう招かれています。私たちの小さな頭には計り知れない、恵みの御手に。 Mon, 08 Jun 2020 00:10:00 +0000 罪人のかしら(テモテへの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200608 no 2020 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 (テモテへの手紙一1章15節) 自分の罪深さを語ることは、ほかの人との比較ですることではありません。文字にすると、当然のことを言っているだけのような気がします。けれども、私たちにはおかしなところがありますね。 信仰の世界でも、人間的な、あまりに人間的な競争が生まれます。「わたしは罪人のかしらです」。「この告白は、誰が一番の罪人であるかを競うものじゃない」と、ときどき自分にそう言ってあげる必要があるでしょう。 同時に、積極的なものを汲みとりたいと思います。パウロの告白にならうことは、人との無益な比較から、私たちを自由にします。 パウロのように、キリスト・イエスの前に、ひとりで立つならば。私たちがそうするなら、もう人と優劣を争っている暇などありません。むしろ、自分の胸をたたく者になります。みすぼらしい自分の正しさに、いかにしがみついているか、それでいて、自分の中に確かなものは何もないことを示されて…。 そして、パウロと共に、神の恵みを受けるものにならせていただきます。主イエスにおいて罪人に約束され、注がれる神の愛を。 Sun, 07 Jun 2020 00:10:00 +0000 どのような渇きであれ、神の御前で(ヨハネによる福音書 7章37-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200607 no 2020 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 (ヨハネによる福音書7章37節~38節) 「渇いている人」を、主イエスは招き続けます。いろいろな期待をかけて、いろいろな人が来たことでしょう。期待外れと思う人は、去って行きます。得たいものを得て、渇きを癒された人も、来続けることはありません。しかし、弟子たちは、神との交わりの中に生きるように導かれていきました。そして、本当に渇き求めるべきものは何なのかを学びながら、実際に渇きを癒されていったのです。 たとえば、のどの渇きを覚えるとき、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と学んでいきました(マタ6章32節)。人から認められたいと渇くとき、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」と学んでいきました(ヨハ5章44節)。 人の間で渇くことしか知らなかった人々が、神を仰いで渇き、神によって癒されることを学んでいきました。聖霊が降るとき、主の生きた御言葉が働いて、神の御前であらゆる渇きを癒し続けます。 Sat, 06 Jun 2020 00:10:00 +0000 人の悲しみに共鳴するヤベシュの住民(サムエル記上 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200606 no 2020 ギレアドのヤベシュの住民は、ペリシテ軍のサウルに対する仕打ちを聞いた。戦士たちは皆立って、夜通し歩き、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬に付し、彼らの骨を拾ってヤベシュのぎょりゅうの木の下に葬り、7日間、断食した。 (サムエル記上31章11節~13節) イスラエルの初代の王サウルは、ペリシテ軍との戦いに敗れ、悲劇的な死によって生涯を閉じました。 イスラエルの王は、戦いに勝って神の民を守る責任があります。しかし、それ以上に、王は誰よりも率先して神への信頼と服従に生きなければなりません。その信仰的求めのゆえに、サムエルの指導は厳しく、サウルの小さな失敗についても厳しい裁きがなされました。 サムエル記は、神の信仰的求めに応えなかったサウルの弱さと欠けを繰り返し指摘してきました。そして、それを読む私たちも、サウルの信仰的弱さを鋭く追及し、断罪してきたのではないでしょうか。しかし、彼の弱さは、サウルだけのものでしょうか。ごく普通の人間の罪人としての実体がサウルという人物によって浮き彫りにされただけで、罪深さという点においては私たちも彼と何ら違わないのではないでしょうか。 ギレアドのヤベシュの住民は、サウルとその息子たちの遺体を引き取り、丁重に葬り、7日間、断食しました。私たちも人の悲しみに共鳴し、心に寄り添える者とならせていただきたいと願います。 Fri, 05 Jun 2020 00:10:00 +0000 分捕り物を気前よく分け合うダビデ(サムエル記上 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200605 no 2020 「兄弟たちよ、…我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。…荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。」 (サムエル記上30章23節~24節) ダビデと彼の兵がツィクラグに戻ると、町は焼け落ち、妻や子どもたちはアマレク人に連れ去られていました。兵士たちが絶望に暮れる中、ダビデは主によって力を奮い起こします。神が「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる」と保証されると、ダビデと彼に従う兵6百人は出発します。途中で2百人の落伍者が出てしまいますが、残りの者でアマレク人を攻撃し、家族も奪われた物もすべて奪い返し、さらに家畜の群れを戦利品として奪いました。 ダビデは、自分たちを守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を自分たちの手に渡されたのも主であると言いました。さらに彼は言います。第一線で戦った兵士も、荷物のそばにとどまっていた兵士も、皆、同じ取り分にあずかれるよう、平等に分け合うべきだと。 ダビデは、このように、すべての兵士の公平な配分という、美しい規定を生みました。また、分捕り物で私腹を肥やすことをせず、むしろユダの長老たちに贈り、喜びを分かち合いました。主によって強められ、主を喜ぶ者は感謝を忘れず、気前よく分け合うのですね。 Thu, 04 Jun 2020 00:10:00 +0000 人の思いを越えて働いてくださる神(サムエル記上 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200604 no 2020 だが、ペリシテの武将たちはいらだってアキシュに言った。「この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな。戦いの最中に裏切られてはならない。」 (サムエル記上29章4節) ペリシテ人がすべての軍勢を集結させイスラエル軍と対峙すると、一触即発の状態となります。そのときダビデは窮地に追い込まれ、大きな葛藤の中にいたことでしょう。このままペリシテ軍と共にいれば、主に油注がれたサウルに矛先を向けることになってしまいます。それはなんとしても避けなければなりません。かといって、寝返ってペリシテ人を討てば、自分の避け所を失ってしまいます。どうすべきかの結論を見出せないまま、ダビデはペリシテ軍のしんがりを進んでいました。 そのとき、仲間の中に敵国の名将であったダビデを見つけたペリシテの武将たちは、ダビデが彼らと共に戦いに向かうことに強く抗議します。「戦いの最中に裏切られてはならない」と。ダビデの主人アキシュは、ペリシテの武将たちの多数意見を受け入れ、ダビデと彼の兵をペリシテの地へ帰らせました。 このようにして、神はダビデを選民イスラエルと戦うことから免れさせ、ペリシテの地から追放されることからも守ってくださいました。 私たちも、人の思いを越えて働いてくださる神に信頼し、すべてをお委ねしましょう。 Wed, 03 Jun 2020 00:10:00 +0000 生きている者は生きておられる方に(サムエル記上 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200603 no 2020 サムエルは言った。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。…主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。…」 サウルはたちまち地面に倒れ伏してしまった。サムエルの言葉におびえたからである。 (サムエル記上28章16節、19節、20節) ペリシテ人がイスラエルと戦うために軍を集結しました。それを見たサウルは、自分は神に捨てられたという意識とダビデが敵軍にいるという事実により恐怖を覚えていたようです。これまでは、神に捨てられても預言者サムエルがいました。彼は、いつでも具体的な指示を与えてくれました。しかし、その頼みの綱であったサムエルが死んでしまいました。神からの語りかけの手段を失ったサウルは、霊媒にすがるという罪に走ってしまいます。 霊媒や口寄せは全く異教のものであり、神はこれを忌み嫌われます。これを求める者は汚れた者であり、石で撃ち殺されなければなりませんでした(レビ19章31節、20章27節参照)。 神に禁じられた方法を通して語られる言葉は、死の言葉です。サウルは死者に尋ねることによって、今聞かされる必要のない自分と息子たちの死や戦いの敗北まで聞かされることになります。 生きている者のためには、死んだ者の霊にではなく、生きておられる方に尋ねなくてはなりません。神の言葉は命の言葉です。私たちは、この言葉に聴きましょう。 Tue, 02 Jun 2020 00:10:00 +0000 教会の始まり(使徒言行録 2章41-47節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200602 no 2020 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 (使徒言行録2章42節) 使徒言行録には、聖霊降臨の出来事によって起こされた、新しい共同体において特徴的な事柄や、共同体の生活の様子が記されています。 そこから、キリストの福音を信じ受け入れ、悔い改めることが、生き方を変えることへと繋がっていることがわかります。さらに彼らの信仰の熱心がその信仰生活と相互の交わりに表れ、それが周りの人びとからも好意的に受け取られ、伝道の契機となっていることも見て取れます。教会は自分たちの生活、信仰生活、教会生活そのものでもキリストを証ししたのです。 初代のキリスト教会は決して理想的な共同体ではなく、多くの問題も抱えていました。また、ここに記されていることを今日そのまま実践することも難しいでしょう。しかし、ここにこそ、キリストの教会の姿があるのです。 キリストの教会は、父なる神と御子イエス・キリストの約束に基づく悔い改めと罪の赦し、聖霊の賜物を基とした新しい共同体です。そして、私たち自身もその一員です。聖霊の働きによってキリストに結ばれた者たちとして、共にキリストを証ししていきましょう。 Mon, 01 Jun 2020 00:10:00 +0000 福音の告知(使徒言行録 2章14-36節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200601 no 2020 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 (使徒言行録2章36節) 聖霊降臨の出来事が起こった直後、聖霊に満たされたペトロは、その場に集った人びとに、自分たちに起こった出来事の意味を語ります。ペトロは、この聖霊降臨が旧約聖書の預言の実現であり、神の約束された出来事が、今、起こっているのだと証しするのです。聖霊の降臨は、イエス・キリストが与えてくださった約束の実現ですが、それはイエスの受難と十字架の死と同じように、神のお定めになった救いの計画の実現なのです。 主イエス・キリストの到来、受難、十字架の死、復活、昇天、神の右の座への着座、そして、聖霊の降臨、これらが神の救いの歴史の中で一続きのものと理解することが聖書の預言と証言を正しく理解する道筋です。 そして、それらすべてが私たちの救いのための神のご計画である。これこそ神の良き知らせ、福音です。ペンテコステの出来事は、神の福音の告知と切り離せません。イエスこそ、メシア、キリストであると信じる私たちは、聖霊の働きによって神の福音を受け入れた者たちとして、共にこの福音を告げ知らせていきます。 Sun, 31 May 2020 00:10:00 +0000 主の約束の実現(使徒言行録 1章3-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200531 no 2020 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒言行録1章8節) 復活の主イエス・キリストは、天に昇られる前に、弟子たちに「聖霊による洗礼」、すなわち聖霊が降ることをあらためて約束されました(5節)。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。主イエスご自身も福音宣教に先立つ洗礼の際に聖霊を受けられたように(ルカ3章21、22節)、キリストの証人となる弟子たちも聖霊を受け、力を受けるのです。聖霊は何よりも福音宣教を成し遂げさせる神からの力だからです。 さらに主イエスは言われます。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この言葉は主の命令であり、また約束です。地の果てに至るまでとの宣教命令は、同時に、地の果てにまで福音が必ず及ぶとの主の約束です。ペンテコステの出来事は、その約束の実現の始まりです。 使徒言行録が一貫して示しているように、キリストの教会は、主の命令に従い、福音の宣教に生き、主の約束に生きる共同体です。私たちは、主の約束に信頼して、聖霊の力を受けて、福音を宣べ伝えていきます。 Sat, 30 May 2020 00:10:00 +0000 ほかに道はない(サムエル記上 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200530 no 2020 ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」 (サムエル記上27章1節) 「ペリシテの地に逃れるほかはない」。ここには、追い詰められた者の苦しみがあります。目の前の道はすべて暗く、どれも選びたくないのに決断を迫られ、「ほかに道はない」と言って苦渋の決断をすることが、私たちの場合にもあるのではないでしょうか。 ダビデがペリシテの地に逃げるという結論に至った理由は、いくつか考えられます。(1)油注がれた王を殺すことは許されない、(2)自分に与えられている神の御計画を思い、生きなければならない、(3)主に油注がれた者が激突して両方が倒れることより、しばし離れる方が良い。ダビデは、自分にとって良い道よりも、神にとって良いと思われる道、すなわち御心の道を祈り求めたことでしょう。その結果、彼は苦しい選択に追い詰められつつも、サウルに追い討ちをあきらめさせる目的は達成されました。 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリ10章13節)。逃れる道を示してくださる主に信頼して歩みましょう。 Fri, 29 May 2020 00:10:00 +0000 罪人をご自身に立ち帰らせる神(サムエル記上 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200529 no 2020 「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。」 (サムエル記上26章23節) 「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(18章7節)という人びとの歌声が耳から離れず、ダビデへの嫉妬と恨みに縛られていたサウルは、ダビデの隠れ場の情報を得て、精鋭3千を率いて出陣します。ところが、ダビデは敵陣をくぐり抜け、サウルの眠る幕営に侵入し、槍の一突きで刺し殺せる距離まで来ました。彼は、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない」と言って、サウルに危害を加える代わりに彼の枕もとの槍と水差しを取って立ち去ります。 そのことが知れたとき、サウルは「わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した」と言いました。しかし、それは彼の全人格を崩すような悔い改めではありませんでした。 主は確かにサウルを王位より退けられました。しかし、御心はサウルがまことに悔い改めて主に立ち帰ることだったのではないでしょうか。 主は、知らずに過ちを犯し、真理から逸脱した者を、神との正しい歩みに引き戻そうとしてくださいます。そのとき、主の真実な愛と憐みに応えて主に立ち帰る者は幸いです。 Thu, 28 May 2020 00:10:00 +0000 御言葉の宣教と祈りの必要(テサロニケの信徒への手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200528 no 2020 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、…と祈ってください。 (テサロニケの信徒への手紙二3章1節~2節) 手紙を結ぶにあたって、パウロは自分たちのために祈って欲しいと願います。自分たちについて特に祈って欲しかったのは、「主の言葉が、…速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」ということでした。もちろん、パウロが願っていたことは、ただ速く福音が広まるということだけではありません。主の言葉がふさわしい栄光を受けることを願いました。 そう祈ってほしいと願う背景には、宣教の困難さがあります。御言葉の宣教には、執拗な抵抗を伴うことがしばしばです。パウロは自分の力を過信することなく、また、御言葉に反対する勢力の力を過小評価することもありません。素直に自分たちのために祈ってほしいと願っています。 福音の宣教の業は、確かにそれを担っている人の才能や賜物も大切な要素です。しかし、それ以上に、その働きを担っている人のために、どれだけ真剣に教会が祈り、支えてきたかということはもっと大切です。なぜなら、宣教は神の御業だからです。聖霊なる神が豊かに働いてくださるときに、神の言葉が人の心に届きます。 Wed, 27 May 2020 00:10:00 +0000 キリストの栄光にあずからせるために(テサロニケの信徒への手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200527 no 2020 神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。 (テサロニケの信徒への手紙二2章14節) テサロニケの教会が直面していた問題の一つは「主の日は既に来てしまったかのように言う者」の存在でした。そのようなことを触れ回る者たちがいれば、信徒の中には「動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたり」する者が出てきたとしても不思議ではありません(2節)。 けれども、彼らが惑わされないようにとパウロはやっきになって説得をしているという風ではありません。非常に冷静に、しかも、キリストの勝利を確信して、落ち着いた気持ちで手紙を書き綴っています。というのも、パウロはこの手紙を書きはじめたときから、テサロニケの信徒のことを神に選ばれ愛された共同体と見ていたからです。13節以下でも、その確信には揺るぎがありません。聖霊の力と信仰とによって彼らが救われる者の初穂とされたことをパウロは確信し、神に感謝しています。 そう確信するからこそ、テサロニケの信徒に、しっかり立って教えを固く守るようにと大胆に命じています。キリストの栄光にあずからせるために招かれているからこそ、御言葉に聞いて、しっかりと立つことができるのです。 Tue, 26 May 2020 00:10:00 +0000 成長しているしるしの発見(テサロニケの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200526 no 2020 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。 (テサロニケの信徒への手紙二1章3節) 「感謝せずにはいられません」。パウロがそのような強い言葉で感謝を言い表しているのは、この手紙のほかにはありません。一体、どんなことをいつも感謝せずにはいられない、感謝するのは当然だという気持ちになったのでしょう。パウロはその理由をこう述べて言います。「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」。 「信仰」と「愛」の主題はテサロニケの第一の手紙の冒頭でも取り上げられました。しかし、取り上げられ方が違います。第一の手紙では「信仰の働き」について述べられますが、第二の手紙では「信仰が豊かに成長したこと」に目が注がれています。「愛」についても、第一の手紙では「愛の労苦」に言葉が及ぶのに対して、第二の手紙では「愛が豊かになったこと」に目が注がれています。 教会の成長は数字だけでは表せません。一つの教会を見るときに、心から感謝せずにはいられない「何か」を見出す姿勢を教えられます。神が豊かに与えてくださっている恵みにいつも心を留めることが大切です。 Mon, 25 May 2020 00:10:00 +0000 復讐を止められる主(サムエル記上 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200525 no 2020 ダビデはアビガイルに答えた。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。」 (サムエル記上25章32節~33節) ダビデは、ナバル(「愚か者」という意味の名)に食べ物を恵んでくれるよう求めました。ダビデはナバルの羊飼いたちをこれまで守ってきたからです。しかしナバルはダビデを侮辱し、その求めを拒みました。ダビデは怒り、400人の兵を武装させ、復讐しようと進んでいきました。 一方、ナバルには彼とは対照的に聡明で美しい妻がいました。彼女は従者から報告を受けるとすぐさま食べ物を用意し、ダビデのもとに向かいました。そして彼に会うとひれ伏して謝罪し、「主の戦い」を戦うべきダビデが、個人的な復讐によって流血の罪を犯すことのないよう説得しました。それによってダビデは復讐を思いとどまり、彼女を遣わしてくださった主をほめたたえました。そしてナバルには主ご自身からの裁きが下されたのです。 私たちも自分が侮辱されると、ついかっとなり自分でやり返そうとするかもしれません。しかし主はそのような復讐心をとどめ、私たちが罪を犯さないように守ってくださいます。復讐は自分ですべきではなく、主にお任せすべきなのです。 Sun, 24 May 2020 00:10:00 +0000 父が約束されたものを送る主イエス(ルカによる福音書 24章44-53節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200524 no 2020 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 (ルカによる福音書24章49節~51節) 復活された主イエスは、弟子たちの心の目を開いて、御自分に起こったことが聖書に書いてあることを悟らせられました。そして、十字架の死から復活された御自分の名によって、罪の赦しを得させる悔い改めをあらゆる国の人々に宣べ伝えるよう、弟子たちに命じられたのです。弟子たちこそ、主イエスの十字架の死と復活の証人であるからです。そのために、主イエスは、「父が約束されたもの」を送ってくださいます。 「父が約束されていたもの」とは、旧約聖書において約束されていた神の霊、聖霊のことです(ヨエ3章1節、使2章17節)。父なる神が約束された聖霊が弟子たちに送られるとき、弟子たちは高い所からの力に覆われて、大胆に主イエスを証しすることができるようになるのです。 主イエスは、永遠の大祭司として両手を上げて、祝福しながら天に上げられました。そのことは、主イエスが今も、私たちを祝福しておられることを教えています。主イエスは私たちにも聖霊を送ってくださいました。私たちは、主イエスの祝福の中で、聖霊に満たされて、大胆に主イエスを証ししていきたいと願います。 Sat, 23 May 2020 00:10:00 +0000 善をもって悪に勝つ(サムエル記上 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200523 no 2020 ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。 (サムエル記上24章18節~19節) これまでダビデはサウルに命を狙われ続けていましたが、ついに立場の逆転が起こります。ダビデとその兵が隠れていた洞窟に、サウルが用を足すため無防備な状態で入ってきたのです。サウルを殺すには絶好の機会でした。実際ダビデの兵はそれを主の御心としてダビデに勧めました。しかしダビデはサウルの上着の端を切り取っただけでした。それはサウルが「主が油を注がれた方」であり、その方に手をかけることを主は許されないと考えたからです。そしてダビデは自分の手で復讐せず、主の裁きと報復にすべてをゆだねました。 そのことを知ったサウルは声をあげて泣き、ダビデの正しさを認めました。さらに、これまで必死で阻止しようとしてきた、ダビデがイスラエルの王になることさえ認めたのです。こうしてダビデはサウルの悪に悪をもって返すことなく、むしろ善をもってその悪に打ち勝ちました。 私たちも「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と勧められています(ロマ12章21節)。それは主を畏れ、主の裁きにすべてをゆだねる信仰によってのみ可能となります。 Fri, 22 May 2020 00:10:00 +0000 主に尋ね求めながら(サムエル記上 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200522 no 2020 ダビデは再び主に託宣を求めた。主は答えられた。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」 ダビデとその兵はケイラに行ってペリシテ軍と戦い、その家畜を奪い、彼らに大打撃を与え、ケイラの住民を救った。 (サムエル記上23章4節~5節) 何か大切な決断をするとき、私たちはまず主に祈っているでしょうか。それとも自分の考えだけで決めてしまっているでしょうか。 ダビデは繰り返し主に尋ね求めました。ペリシテ人がケイラという町を襲っていると聞いたとき、自分たちが行って、ペリシテ人を討つべきかを主に尋ねました。主からそうせよと命じられましたが、ダビデの兵は恐れ、躊躇しました。彼らがサウルから狙われ、逃亡中の身であったことを考えれば当然でしょう。しかしダビデはもう一度主に託宣を求めます。そして今度は「ペリシテ人をあなたの手に渡す」という勝利の約束を主からいただきました。その言葉に従ってダビデとその兵はペリシテ軍と戦い、彼らに大打撃を与えてケイラの住民を救うことができました。 重大な判断を迫られるとき、私たちはときに迷い、恐れます。主の御心を知らされた後もなお、恐れ不安になることもあるでしょう。確信が与えられるまで繰り返し主に尋ね求めましょう。そのようにして主の御心に従おうとする者を、主は必ず守り導いてくださいます。 Thu, 21 May 2020 00:10:00 +0000 サウル王の孤独と狂気(サムエル記上 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200521 no 2020 王は、「アヒメレクよ、お前も父の家の者も皆、死罪だ」と言い、傍らに立っている近衛兵に命じた。「行って主の祭司たちを殺せ。彼らもダビデに味方し、彼が逃亡中なのを知りながら、わたしの耳に入れなかったのだ。」だが、王の家臣は、その手を下して主の祭司を討とうとはしなかった。 (サムエル記上22章16節~17節) どのような王が上に立つかによって、その民の幸せは左右されます。 サウル王から逃げていたダビデの周りには自然と400人もの人々が集まってきました。それは「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」であり(2節)、ダビデは彼らの頭領となりました。 一方、サウルは猜疑心を募らせながら家臣たちに不満をぶつけます。ダビデが自分を狙っていても、お前たちは「憂慮もしないし、わたしの耳に入れもしない」と(8節)。そしてダビデを助けた祭司アヒメレクとその親族全員に無情にも死刑を宣告します。その狂気に満ちた命令に唯一聞き従ったのは、外国人のドエグでした。彼によって祭司たちとその町のすべてが剣にかけられ殺されました。しかしその中でも難を免れたアヒメレクの息子の一人はダビデのもとに逃れ、命の安全が守られました。 自己中心的で、自分に背く者を抹殺しようする王の下にいる民は不幸です。一方、弱い立場にある者を受け入れ、守ってくれるダビデのような、そしてキリストのような王の下にいる民は幸いです。 Wed, 20 May 2020 00:10:00 +0000 ダビデの偽りと主の憐れみ(サムエル記上 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200520 no 2020 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。」 (サムエル記上21章3節) ダビデは自分の命を守るために嘘をつきました。祭司アヒメレクに助けを求める際、サウルから追われている身であることを隠し、自分はサウルから極秘任務を授かっていると偽ったのです。そうして本来は祭司しか食べてはならない「供えのパン」と、ダビデが打ち倒したゴリアトの剣を譲り受けました。 また、ダビデはペリシテ人の町ガトの王アキシュのところに身を寄せようとしました。しかし、自分の身分がばれるとダビデは非常に恐れました。そして捕らえられると人びとの前で気が狂ったふりをしたのです。そうしてダビデは王の前から追放されました。 ダビデは確かに祭司アヒメレクに対しても、ガトの王に対しても自らを偽りました。しかしそのこと自体が主によって咎められてはいません(マタ12章3、4節参照)。嘘をつくこと自体は良いことではないでしょう。しかしダビデが機知を働かせてついた嘘を主はゆるし、そのことさえ用いてダビデの命を守り、危険から救われたのです。そこに主の憐れみの深さと広さを見ることができます。 Tue, 19 May 2020 00:10:00 +0000 主が間におられる愛の誓い(サムエル記上 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200519 no 2020 ヨナタンは言った。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」 (サムエル記上20章42節) 愛の関係、それはいつも美しいものです。ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛していました。自分の父サウルがダビデの命をなおも狙っていることを悟ったヨナタンは、ダビデとの約束通り、従者を越えるように矢を放って言いました。「矢はお前のもっと先ではないか」、「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と。それは隠れているダビデに逃げるよう伝える合図でした。ダビデは従者が帰っていくのを見計らって、出て来て地にひれ伏し、三度礼をしました。そして彼らは互いに口づけし、共に泣きました。ダビデはいっそう激しく泣きました。今生の別れになるかもしれないと思ったのでしょう。最後にヨナタンはダビデに声をかけます。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」。 愛し誓い合った二人の間には主がいつまでもいてくださいます。二人に何があろうとも、主によって二人の誓いはより確かで、とこしえのものとなります。そのような愛の関係を築くことができるなら何と幸いでしょうか。 Mon, 18 May 2020 00:10:00 +0000 理不尽な苦しみの中で(サムエル記上 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200518 no 2020 「彼が自分の命をかけてあのペリシテ人を討ったから、主はイスラエルの全軍に大勝利をお与えになったのです。あなたはそれを見て、喜び祝われたではありませんか。なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか。」 (サムエル記上19章5節) ダビデはサウル王から命を狙われ、逃げ続けなければなりませんでした。ダビデがサウルに対して何か罪を犯したわけではありません。むしろダビデはサウルに命じられた通りに戦い、ことごとく勝利を収めました。主が彼と共におられたからです。最初はサウルもそれを喜んでいたでしょう。しかしやがてダビデに嫉妬し、恐れるようになりました。そして遂には「罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そう」としたのです(5節)。それはダビデにとっては理不尽な苦しみでした。 ダビデは自分を突き刺そうとしたサウルの槍から逃れ、妻の助言によって家の窓からつり降ろされ、難を免れました。またダビデを捕らえるためにサウルが遣わした使者の上には神の霊が降り、預言する状態となり無力にされました。最後に自ら出向いたサウルも一昼夜、裸のまま倒れるという醜態をさらすことになりました。 私たちも忠実に働きながら、理不尽な苦しみを受けることがあるかもしれません。しかし主はいつも必要な助けと逃れの道を与え、私たちを守ってくださいます。 Sun, 17 May 2020 00:10:00 +0000 別の弁護者を遣わす主イエス(ヨハネによる福音書 14章15-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200517 no 2020 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」 (ヨハネによる福音書14章16節~17節) 主イエスは御父のおられる天に帰ろうとしておられます。それは、別の弁護者である真理の霊を遣わすためでした。主イエスは真理の霊である聖霊によって、永遠に私たちと一緒にいてくださいます。主イエスは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われました。この約束は、主イエスの名によって遣わされる聖霊において実現するのです。 主イエスは、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言われます。私たちに聖霊が与えられると、主イエスの内に御父との交わりが実現していることが分かります。また、主イエスにあって、私たちも御父との交わりに与かっていることが分かるのです。 私たちが御父との交わりに与かっていることのリトマス試験紙は、私たちが主イエスの掟を守ることです。私たちは、主イエスへの愛から主イエスの掟を守ります。私たちは主イエスへの愛を御父からいただいて、主イエスを愛し、主イエスの掟を守る者とされているのです(17章26節)。 Sat, 16 May 2020 00:10:00 +0000 主はダビデと共におられ(サムエル記上 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200516 no 2020 主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。 (サムエル記上18章12節~15節) ダビデは戦いのたびに勝利して、戦士の長に任命されました。そのことは兵士やサウルの家臣にも喜ばれ、ダビデは多くの人に愛されました。 たとえばヨナタンは自分自身のようにダビデを愛しました。「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」と言ったヨナタン(14章6節)と、主の戦いとしてゴリアトと戦ったダビデには、霊的な深い一致があったのでしょう。 しかし、ダビデが戦いに勝利を重ねて名声を得るにつれ、サウルはダビデに敵意を抱くようになります。「主はダビデと共におられ…たので、サウルはダビデを恐れ」とあり、サウルの恐れの理由は主がダビデと共におられたことでした。サウルは、残念ながら主がダビデと共におられることを素直に喜ぶのではなく、ダビデを殺すことを企むようになります。罪の力に心を捕らえられたのです。 神に対して心を閉ざすとき、人に対するねたみや憎しみに捕らえられてしまいます。神に対して心が開かれている姿勢が大切です。使徒パウロは、「神と和解させていただきなさい」と勧めています(2コリ5章20節)。 Fri, 15 May 2020 00:10:00 +0000 この戦いは主のものだ(サムエル記上 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200515 no 2020 「全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」 (サムエル記上17章46節~47節) 少年ダビデの前に、身長3メートル近い巨人ゴリアトが立ちはだかっています。ダビデは「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしは…万軍の主の名によってお前に立ち向かう」と言って、ゴリアトに近づきます。ゴリアトが巨体をうならせて身構えると、ダビデは小石を取り出し、身を低くしてゴリアトに向かい、石投げ紐を使って石を飛ばします。その石は真っ直ぐ線を引くようにゴリアトの額を直撃し、ゴリアトは音を立てて地面に倒れ伏しました。倒れたゴリアトに近づくと、ダビデはゴリアトの剣を取ってとどめを刺します。こうして、ゴリアトとの一騎打ちはダビデの勝利となり、ダビデは勇敢な戦士としてイスラエルに知られることになりました。 劇的で手に汗握る出来事であるだけでなく、信仰者を慰め、励ます出来事です。信仰者の戦いは主の戦いであり、たとえ巨人が壁のように立ちはだかるときでさえ、主の勝利は揺るがないものなのです。主イエスはおっしゃいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ16章33節)。 Thu, 14 May 2020 00:10:00 +0000 主は心によって見る(サムエル記上 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200514 no 2020 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 (サムエル記上16章7節) なおサウルは王位にとどめられます。しかし、主なる神は、ひそかに新しい王を選び出して、油を注がれます。 イスラエルの王制は、周辺諸国と戦う指導者を求める民の願いによって始まりました。それゆえ、神の承認と油注ぎのもとではありましたが、「民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と言われるように(10章23節)、サウルは外見的な評価が優先して立てられた王でした。 「人間が見るようには見ない」とおっしゃって、主が選ばれたのは、いけにえの会食に参加することさえまだ許されない、末息子ダビデでした。ダビデは、「血色が良く、目は美しく、姿も立派」な少年でした。しかし、主はその外見を御覧になったのではありません。「主は心によって見る」、すなわち、主はご自身の憐れみの心によって御覧になり、ダビデを愛して選び出されました。ダビデは神に愛されて、「まさに主が共におられる人」でした(18節)。 ダビデは、この後、竪琴を弾く者、サウルの武器を持つ者として、宮廷で訓練を受ける機会を与えられます。そのダビデを支えたのは、ただ主の愛と憐れみなのです。 Wed, 13 May 2020 00:10:00 +0000 サウルに対する神の答え(サムエル記上 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200513 no 2020 主の言葉がサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。 (サムエル記上15章10節~11節) アマレクは、イスラエルの出エジプトの道を妨げようとした敵です(出17章参照)。そのため、サウルにアマレクを滅ぼし尽くすことが命じられます(3節)。同時に、このことにより、サウルの主に聞き従う姿勢が問われます。 はたしてアマレクを討って勝利すると、サウルはアマレクの王を生け捕りにし、羊と牛の最上のものなど、上等なものを取って置きました。滅ぼし尽くすのではありませんでした。それにもかかわらず、サウルはサムエルに、「わたしは主の御命令を果たしました」と言います(13節)。サムエルが羊や牛の声を指摘すると、「主への供え物にしようと…取って置いたのです」と答えます(15節)。主の御言葉に対する無頓着な姿が明白です。サムエルは、主の御声に完全には聞き従わない罪を指摘して、王位から退けられることをサウルに告げるほかありません(23節)。 主は、「サウルを王に立てたことを悔やむ」とおっしゃいます。御言葉を退ける者は退けられなければなりませんが、サウルに対する神の憐れみが示されます。悔いる神であられるからこそ、救いの希望があるのです。 Tue, 12 May 2020 00:10:00 +0000 主はイスラエルを救われた(サムエル記上 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200512 no 2020 こうして主はこの日、イスラエルを救われた。 (サムエル記上14章23節) ヨナタンによる奇襲が成功して、ペリシテ軍は大混乱に陥りました(15節)。ペリシテ軍を追い払う絶好の機会ですから、サウルはイスラエル軍に命じてペリシテ軍を追撃させます(20節)。そうして、この日、イスラエルは勝利を得ることができました。 サウルは、夜の間もペリシテを追って下るべきか、神に尋ね求めました。しかし、神は答えられません(37節)。これはどういうことでしょうか。実のところ、サウルの振る舞いはちぐはぐでした。神の箱を運び込ませて神の御心を求めますが(18節)、ペリシテの動揺が大きくなっているのを見て「もうよい」と言い(19節)、自ら戦場に赴きます。夜になるまで食べ物を口にしないという無謀な誓いを兵士に求め(24節)、兵士が空腹に苦しむと慌てて動物を屠る祭壇を築かせます(35節)。サウルには、神に聞き従うのではなく、自分の思いを優先する姿があらわです。それゆえの神の沈黙だと言えるでしょう。 そのような王の姿にもかかわらず、勝利したのです。それは、「主が」イスラエルを救われたと告白すべき、主の救いの御業にほかなりません。 Mon, 11 May 2020 00:10:00 +0000 王のもっとも大切な務め(サムエル記上 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200511 no 2020 焼き尽くす献げ物をささげ終えたそのとき、サムエルが到着した。…サムエルは言った。「あなたは何をしたのか。」サウルは答えた。「兵士がわたしから離れて散って行くのが目に見えているのに、あなたは約束の日に来てくださらない。しかも、ペリシテ軍はミクマスに集結しているのです。」 (サムエル記上13章10節~11節) 王として立てられたサウルには、ペリシテ軍と戦う責任がありました。そのため、サウルは常備軍を組織し(2節)、今やペリシテとの戦いを目の前にしています(5節)。けれども、サムエルが来ません。戦争に備えて献げ物をささげる必要がありますが、約束の7日間を待ってもサムエルが来ないのです(8節)。待ちきれずにサウルが自分の手で献げ物をささげたとき、サムエルが到着しました。 「あなたは何をしたのか」と言われてサウルが責められるのは、酷なようにも思われます。けれども、儀式的に献げ物をささげさえすればよいのではありません。献げ物をささげるサムエルを通して主の御心を尋ね求めることこそ、本当に必要とされることでした。主に聞き従うことが、王に求められるもっとも大切な務めだからです(12章24節)。サウルは、目の前のペリシテの脅威に心を奪われて、主の御言葉に聞く姿勢に立って忍耐することに失敗したと言えるでしょう。 目の前の事柄に心を奪われて、主の御心を尋ね求めることを忘れてはなりません。御言葉に対する真摯な姿勢が求められています。 Sun, 10 May 2020 00:10:00 +0000 道であり、真理であり、命である主イエス(ヨハネによる福音書 14章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200510 no 2020 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 (ヨハネによる福音書14章6節~7節) 主イエスは弟子たちに、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。しかし、トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。それに対して主イエスはおっしゃいます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。 主イエスが行こうとしておられる場所は御父のもとであり、その道は十字架に上げられるという道でした。他方、弟子たちにとっての道は、主イエスそのものなのです。私たちは主イエスという道を歩きながら、真理と命に与ることができます。そして、主イエスという道だけが、唯一の生けるまことの神である御父のもとに通じる道なのです。 なぜ、そう断言できるのでしょうか。それは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)と言えるほどに、主イエスの内に御父との交わりが実現しているからです。私たちは、主イエスの内に、御父との交わり、永遠の命が実現していることを信じて、主イエスの名によって祈っているのです。 Sat, 09 May 2020 00:10:00 +0000 神が望んでおられること(テサロニケの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200509 no 2020 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 (テサロニケの信徒への手紙一5章16節~18節) 使徒パウロは、手紙の結びで幾つかの勧告をしています。互いに平和に過ごし、忍耐強く接しなさい。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい! これこそ、キリスト・イエスにおいて神が望んでおられること、すなわち神の御心だと語ります。 テサロニケ教会は厳しい艱難と迫害の中にありました。恐れと不安にさいなまれ、落胆することがあったでしょう。喜ぶことも祈ることもできず、感謝より不平不満を言ってしまう状況だったかもしれません。それにもかかわらず、パウロはテサロニケの教会に、喜び、祈り、感謝するよう勧めます。苦難の中にある人にとって、これは決して容易なことではありません。 しかし、神に招かれて主イエス・キリストによって救われた聖徒たちには可能です。なぜなら、私たちを「お招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださ」るからです(24節)。すでに聖霊が与えられ、新しくされています。たとえ苦難の中でも、神の子とされるという何よりの喜びが与えられています。私たちは、真実な神に依り頼んで、その恵みにあずかることができるのです。 Fri, 08 May 2020 00:10:00 +0000 実行されるべき信仰(テサロニケの信徒への手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200508 no 2020 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。 (テサロニケの信徒への手紙一4章9節~10節) 信仰は抽象的なものではありません。具体的で実際的なものです。私たちは、頭の中で信仰生活をするのではなく、生活の中で具体的に信仰を実践していきます。 使徒パウロは、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください」と勧めます(1節)。パウロの福音宣教の働きは、実際の生活の場で神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを教えることでした。テサロニケ教会は、その教えに従って、極めて具体的に、マケドニア州の全土に住む兄弟たちに兄弟愛の業を実行しました。おそらく、彼らを助けるために献金を送ったのでしょう。 ヤコブは、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と語りました(ヤコ2章17節)。主イエス・キリストは、十字架によって自らを犠牲として献げて、私たちを愛する神の愛を明らかにされました。神の愛と主イエス・キリストの恵みが、私たちを信仰の実践へと押し出します。生きた信仰は、感謝の応答を実らせるのです。 Thu, 07 May 2020 00:10:00 +0000 パウロが何度も予告したこと(テサロニケの信徒への手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200507 no 2020 あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 (テサロニケの信徒への手紙一3章4節) 使徒パウロは、困難と苦難に直面していたテサロニケ教会のことを心配して、テモテを派遣しました。幸いなことに、帰ってきたテモテから、彼らの信仰の良い知らせを聞きました。ところで、どのようにして、テサロニケ教会は苦難の中で信仰を固く守ることができたのでしょうか。 それは、パウロが苦難を耐え忍ぶことを教えていたからです。パウロは、やがて苦難に遭うことを彼らに何度も予告していました。パウロは、福音を宣べ伝えて、都合の良いことばかり教えるのではなく、福音と共に受けるべき苦難をも教えました。実に、信仰に生きるとき、キリスト者は福音ゆえの苦難にも遭うのです。福音のために損をし、苦しめられ、辱められることもあるでしょう。けれども、苦しみを上回る大きな喜びがあって、耐え忍ぶことができるようにされるのです。 苦難を覚悟して福音を受け入れたテサロニケの信徒たちを、主なる神が支えてお守りくださいました。信仰に生きるとき、今も苦難に直面します。けれども、それはすでに予告されていたことであり、私たちも主によって耐え忍ぶことへと導かれます。 Wed, 06 May 2020 00:10:00 +0000 評価の基準(テサロニケの信徒への手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200506 no 2020 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 (テサロニケの信徒への手紙一2章4節) 使徒パウロは、多くの苦難がありながらも、福音宣教の働きを立派に全うしました。それは、どなたに喜んでもらうべきかをよく知っていたからです。彼は、人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために福音を宣べ伝えました。不純な動機によらず、人間の誉れを求めることもなく、すべてのことにおいて神に喜んでいただくことを考えて行動したのです。 大学や高校の受験では、それぞれの科目の評価の基準があります。受験生はそれに合わせて勉強しなければなりません。同じように、私たちの人生も、終わりの日に神の御前で評価を受けます。そこでは神の御心が基準になると言えるでしょう。 もちろん、自分の力でその基準を達成して、救いを勝ち取ることができるのではありません。救いは主イエス・キリストによって与えられるのみです。それでは、もはや基準は必要ないのか。そうではありません。神の恵みに感謝して、神に喜んでいただきたいと願って、神の御心に聞き従います。そこに使徒パウロの立派な働きの秘訣がありました。私たちも、そのために御言葉に聞き続けます。 Tue, 05 May 2020 00:10:00 +0000 御言葉による確信(テサロニケの信徒への手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200505 no 2020 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。 (テサロニケの信徒への手紙一1章5節) 使徒パウロは、テサロニケ教会での働きを「ただ言葉だけによらず、…強い確信とによった」ものだと言います。この文章は、「強い確信を与えた」と訳すこともできます。パウロは強い確信をもって福音を宣べ伝え、その確信がテサロニケ教会の人びとにも与えられたのです。 ここで言う強い確信とは、マインドコントロールや自分の思いから出る確信ではありません。御言葉と聖霊に基づく確信です。たとえ不安や疑いがあっても、御言葉によって確信に変えられるということです。 夜中に暗い山道を一人で歩く人がいます。遠くに光が見えます。熊の瞳の輝きのように見えて、恐怖に襲われるかもしれません。けれども、その光が村の入口にある白熱灯の光であることに気づくと、安心することができるでしょう。白熱灯を確認すると、大丈夫だと確信することができるでしょう。 確信は、私たちの内側から出るものではありません。聖霊が御言葉によって私たちの信仰を強い確信へと導きます。御言葉による強い確信に生きることができるよう、主の助けを祈り求めましょう。 Mon, 04 May 2020 00:10:00 +0000 救いの御業のすべてを(サムエル記上 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200504 no 2020 サムエルは民に話した。「主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。 (サムエル記上12章6節~7節) 主が神の民に対してなさった救いの御業を説き聞かせられることで、民はしっかりと立つことができます。同じ主が生きておられて、今日も働いておられるからです。 主はヤコブ、モーセ、アロン、サムエルたちを遣わして救いの御業をなさいました。しかし、主の救いの御業は、まだ頂点に達してはいません。海を真っ二つに分かつこと、周囲の敵から救い出されたこと、これらにはるかにまさる救いの御業を主はなしてくださいました。 時至って、神の御子がこの世に来られ、十字架の死と復活を通して救いの御業は頂点に達しました。この世の生活についての助けも様々に与えられますが、何より魂の救いが与えられるのです。 この素晴らしい救いの御業を、私たちは主の日の礼拝で説き聞かせられます。そして、聞くだけではなく、救いの御業の頂点である救い主イエス・キリストの十字架と復活を人々に告げ知らせることへと招かれています。 罪の内に倒れ、もがいていた私たち罪人が、主の偉大な救いの御業によって罪から救われ、しっかりと信仰によって立つことができるのです。 Sun, 03 May 2020 00:10:00 +0000 羊の門であり、良い羊飼いである主イエス(ヨハネによる福音書 10章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200503 no 2020 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 (ヨハネによる福音書10章7節~9節) 主イエスは、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と言われます。これは1節の御言葉を受けてのものです。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」。主イエスは、御自分を神の羊たちの囲いの門と言われることによって、御自分だけが救いを与えるメシア、救い主であると断言されたのです。 盗人であり、強盗であると言われる「わたしより前に来た者」とは、救いを与えると吹聴する偽のメシア、偽の救い主のことです。偽のメシアである盗人が来るのは、羊を盗み、屠り、滅ぼすためです。しかし、羊の門であり、良い羊飼いである主イエスが来られたのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためです。 主イエスの御言葉に聞き従う私たちは、主イエスという門を出入りして牧草を見つけます。そのように、主イエスとの豊かな命の交わりにあずかることができるのです。 羊の門は、命に通じる門でもあります。主イエスという門から入って、主イエスとの豊かな命の交わりに、きょうもあずかりましょう。 Sat, 02 May 2020 00:10:00 +0000 救ってくれる者がいなければ(サムエル記上 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200502 no 2020 ヤベシュの長老たちは彼に言った。「7日間の猶予をください。イスラエルの全土に使者を立てます。救ってくれる者がいなければ、我々はあなたのもとへ出て行きます。」 (サムエル記上11章3節) アンモン人ナハシュはヤベシュの人々に過酷な条件を突きつけました。ヤベシュの人々が契約を結んでほしいと頼んだのをよいことに、契約は結ぶが全員の右目をえぐり出す、と言いました。甚だしい侮辱です。ヤベシュの長老たちはイスラエル全土に助けを求めます。一縷の望みを抱いて使者を送りました。その知らせを聞いたサウルに神の霊が降り、彼は先頭に立って出陣してアンモン人を討ち破りました。神の霊がサウルに王としての務めを始めさせたのです。 ところで、「救ってくれる者がいない」とは、なんと悲惨なことでしょうか。悲痛な思いを抱いて、甘んじて苦しみを受けるしかなかったら、そして最後には死を待つしかなかったら、つらいことです。ギブアの人々が号泣したように、このような苦しみは決して他人ごとではありません。 サウルに降った神の霊は、後に彼から離れます。しかし、救い主イエスに限りなく注がれた神の霊は(ヨハネ3章34節)、主イエスから離れることは決してありません。私たちを死の恐れから救ってくださる主イエスがおられます。私たちはこの方に助けを求めればよいのです。 Fri, 01 May 2020 00:10:00 +0000 私たちの進むべき道(サムエル記上 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200501 no 2020 若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。」 (サムエル記上9章6節) 王になる前のサウルの身に起こった出来事です。父のろばが数頭いなくなり、サウルは若者と共にろばを探すよう、父に言いつけられました。しかし、ろばは見つかりません。帰ろうと促すサウルに、若者は「神の人」サムエルを訪ねようと提案しました。若者は、その方の言うことは何でもその通りになり、恐らく自分たちの進むべき道を告げてくれると言いました。 さて、今日の私たちにはサムエルはいません。逆に、占いによるその日の運勢がテレビで放送されるような国に私たちは生きています。私たちは私たちが進むべき道について、「恐らく」ではなく、神が「必ず」示してくださると期待し、信じているでしょうか。 そもそも進むべき道とは何でしょう。それは、神の御前で、神と共に、神に導かれて生きる道です。その上で、この世での職業や進路などの選択があります。たとえ何かに失敗しても、その上で主に従って歩める道です。 「わたしは道である」(ヨハ14章6節参照)と言われた主イエスが、私たちの進む道に先立っていてくださいます。この方についていくことが何より確実なのです。 Thu, 30 Apr 2020 00:10:00 +0000 主が王であられることの幸い(サムエル記上 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200430 no 2020 主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」 (サムエル記上8章7節) イスラエルの人びとは、「自分たちにもほかの国々と同じように王を立ててほしい」と、サムエルに迫りました。主は、「民のそのような態度は主を退けていることなのだ」と言われました。 もともと主なる神は王であられ、イスラエルを治めておられるお方です。それを心から喜び、へりくだって主に従うよりも、自分の思いのままにしたい。そのような思いが彼らの心の奥深くに巣くっていました。 他の国と同じように王を求めたイスラエルと状況は違うとしても、自分の好きなようにしたい、という思いは私たちにも共通しています。このような考えは、神が王として君臨されることを認めたくない、つまり自分が王でいたい、という考えにつながっています。これこそ堕落した人間の姿です。 それにも拘らず、憐れみ深い主なる神は罪人に寛大な御心を示してくださって、私たちのために御子イエスをお遣わしくださいました。その謙遜な姿を見たならば、私たちは自分を王座から引きずり下ろし、真の王であられるこの主イエスの前にひれ伏すほかありません。 Wed, 29 Apr 2020 00:10:00 +0000 御名を呼ぶ者に主は応えてくださる(サムエル記上 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200429 no 2020 サムエルは命じた。「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。」 (サムエル記上7章5節) 主は、御名を呼ぶ者の祈りを聞いて応えてくださいます。サムエルは「御名を呼ぶ者」でした(詩99編6節)。主は彼に答えられました。 御名を呼ぶには、その御名が示すお方を知らされていなければなりません。御名を現していただいた者だけが、主の御名を呼ぶことができます。イスラエルの人びとは、サムエルが祈ってくれれば、主は聞いてくださるに違いない、と思っていたはずです。サムエルに対する信頼は絶大なものがありました(3章20節参照)。 主がお選びになった人に祈ってもらいたい、という気持ちが当時の人びとの中にあったことでしょう。それは私たちも同じです。 今日、私たちは、主イエス・キリストの御名によって祈ります。それは御子がそう祈りなさい、そうすれば、神は必ず応えてくださる、と約束してくださったからです。 私たちも牧師や信仰の友に祈ってもらいます。しかし、その人の偉大さに頼っているわけではありません。私たちに御名を示し、御名の内に入れてくださった神の御子の確かな執り成しを信じているからです。 Tue, 28 Apr 2020 00:10:00 +0000 神の勝利(サムエル記上 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200428 no 2020 箱が移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった。 (サムエル記上5章9節) 戦地から戻ったペリシテ人は、契約の箱を彼らの町アシュドドに持ち帰り、彼らの礼拝するダゴンの神殿に運び入れます。その後、不思議なことが連続して起こるのです。ダゴン像が倒され、破壊され、また、アシュドドと近隣の人びとを原因不明の腫瘍が襲います。恐怖に襲われた彼らは、契約の箱を別の町に移すのですが、行く先々で同じ悲劇が繰り返されます。結局、彼らは契約の箱をイスラエルに返すことにします。 そのときのペリシテには、イスラエルに対して「雄々しく男らしく」戦った勝利者の姿はなく、反対に、死の恐怖の中で混乱する敗北者そのものでした(4章9節等参照)。 このイスラエルとペリシテの戦いとその顛末を通して教えられる最も重要なことは、真の勝利者は主なる神ご自身だ、ということです。そして、これは主を信じる信仰者にとって、まさに希望そのものです。なぜなら、どのような敵をも打ち滅ぼす主が信仰者とともに戦ってくださるからです。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(1コリ15章57節)。 Mon, 27 Apr 2020 00:10:00 +0000 契約の箱(サムエル記上 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200427 no 2020 兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」 (サムエル記上4章3節) サムエルの誕生と成長の物語から離れ、ここからしばらくイスラエルとペリシテとの争いとそれに伴う出来事が描かれます。そのころは、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた時代でした(士師21章25節など)。 ペリシテの攻撃に頭を悩ませていたイスラエルは、シロの聖所にある契約の箱を戦場に運び出すことを思いつきます。それによって主が彼らを助け、ペリシテとの戦いに勝利できると考えたからです。しかし、結果は彼らの思い通りにはなりませんでした。戦いに敗れただけでなく、契約の箱自体も奪われてしまいます。 イスラエルにとって予想外の出来事は、実は必然のことでした。彼らは契約の箱を担ぎだす前に、その箱の中に何が納められているかについてよく考えるべきでした。それは十戒が記された2枚の石の板であり、そしてまさに十戒に背くことを当時のイスラエルは行っていたのです。主なる神は、みだりに主の名を唱える者を罰せずにはおかれません(出20章7節など)。 Sun, 26 Apr 2020 00:10:00 +0000 私たちの心を燃やす主イエス(ルカによる福音書 24章13-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200426 no 2020 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 (ルカによる福音書24章31節) 二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていると、主イエスが近づいて来て、一緒に歩き始められました。目が遮られていて主イエスだとは分からないまま、二人は主イエス御自身にナザレのイエスのことを話します。 主イエスは二人の話を聞いて言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、主イエスは、モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり、御自分について書かれたことを説明されました。それを振り返って、二人は言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。 礼拝において、聖書が説き明かされ、主イエスについて語られるとき、私たちも心が燃えることを経験するのではないでしょうか。それは、復活された主イエスが、御言葉と聖霊において、私たちに出会ってくださるからです。今日も、復活された主イエスと出会う、心燃やされる礼拝がささげられますように。 Sat, 25 Apr 2020 00:10:00 +0000 主の言葉を聞くということ(サムエル記上 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200425 no 2020 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 (サムエル記上3章10節) きょうの聖書個所には、やがて主の預言者として歩むことになるサムエルの最初の一歩が記されています。祭司エリからアドバイスを受けたサムエルは、主の呼びかけに対して、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と応えます。そして、主が語られる言葉に耳を傾けます。 そのとき主が語られた言葉の内容は、祭司エリとその一族に対する厳しい裁きでした。まだ少年であったサムエルにとって、師でもあり親代わりでもあるエリに告げるには、あまりに重い言葉でした。しかし、すべてを隠し立てすることなく当事者のエリに伝えました。 ここには主の言葉を聞くことについて、軽視されがちな重要な一面があります。それは、主の語られる言葉は、私たちの耳に心地よい言葉ばかりではない、という単純な事実です。 主日礼拝で語られる説教、あるいは自宅でのデボーションで触れる御言葉を受け入れるのが難しいと感じることはありませんか。しかし主は、ご自身の言葉をまさに神の言葉として受け入れることを求めておられます。 Fri, 24 Apr 2020 00:10:00 +0000 ハンナの賛歌(サムエル記上 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200424 no 2020 ハンナは祈って言った。 「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。 わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。 聖なる方は主のみ。 あなたと並ぶ者はだれもいない。 岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」 (サムエル記上2章1節~2節) ここに記されているハンナの祈りは、いろいろな点でルカ福音書の「マリアの賛歌」(ルカ1章46-55節)と響き合っています。ともに神の恩寵によって身ごもり、その子らが特別な使命をもって生まれることになる女性の一つひとつの言葉は、偉大なる神への喜びに満ちた賛美であり、力強い信仰告白になっています。 この「ハンナの賛歌」と「マリアの賛歌」に共通していることの一つは、小さなものを顧みてくださる神への絶対的な信頼です。まことの神は、困難な状況の中でもがき苦しんでいる信仰者を見捨てることはありません。主なる神は必ずその嘆きと訴えを聞きあげ、彼ら・彼女らに救いをお与えくださると、二人は証言しています。 主の御前に自分自身が小さなものであるということを率直に認めていることも大きな共通点です。主の御名をほめたたえつつ、自らはへりくだって、謙遜に歩む姿を聖書は語ります。そしてこれは主イエスご自身の歩みであり、父なる神が喜ばれ、またすべての信仰者に求めておられることでもあるのです(フィリピ2章1-11節)。 Thu, 23 Apr 2020 00:10:00 +0000 一番大切なものを主に献げる(サムエル記上 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200423 no 2020 主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。 (サムエル記上1章19節~20節) サムエル記は、預言者であり最後の士師であるサムエルの誕生物語からはじまります。父となるエルカナはエフライムの家系に属する人で、母となるハンナは子どもが与えられるのをずっと祈り願い続けていました。主なる神はハンナの心からの祈りを聞かれ、彼女は待望の男子を身ごもります。 ここで驚かされるのは、ハンナが大切な子どもを神に献げることを誓い、そして実際にそのようにしたということです。ずっと子どもが与えられないことで苦しんできた彼女にとって、それは非常に大きな決断だったはずです。しかし、彼女は主なる神の前にふさわしいことをしました。 まだ幼い息子をシロの聖所に仕える祭司エリに委ねたハンナは、夫エルカナとともに年に一度シロの聖所に上り、年ごとの献げものとともに、息子のための小さな上着を届けます。主は彼女を顧みてくださり、夫エルカナとの間に息子を3人、娘2人が与えられることになります(2章21節)。自分にとって一番大切なものを献げる信仰に、主は豊かに報いてくださいます。 Wed, 22 Apr 2020 00:10:00 +0000 神の都には(エゼキエル書 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200422 no 2020 彼らはイスラエルの子らが迷ったとき、レビ人たちが迷ったように迷うことなく、わたしの務めを守った。…この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。 (エゼキエル書48章11節、35節) 水晶のように輝く命の水が中央を流れる、来たるべき神の都の中に、イスラエル十二部族一つひとつのための場所が克明に確実に割り振られて、エゼキエル書は閉じられます。そのように、新しいイスラエルである私たち一人ひとりのために、神の都には克明に確実に場所が割り振られ、確保されています。キリストは言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハ14章3節)。 この神の都に場所を約束されている人を説明する文章は、48章の中に一つしかありません。「彼らはイスラエルの子らが迷ったとき、レビ人たちが迷ったように迷うことなく、わたしの務めを守った」(11節)。44章で示された祭司の務めそのものです。神の民が迷うときでも、迷うことなく主に仕え続けること。迷ってしまうときがあっても、いや、迷ってしまうときにこそ、キリストの御言葉に従うこと。これが万人祭司たる私たちが、主がそこにおられる都にたどりつけるための秘訣です。 Tue, 21 Apr 2020 00:10:00 +0000 永遠の命に至る水(エゼキエル書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200421 no 2020 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。 (エゼキエル書47章9節) この川は、神殿の入口の敷居の下から湧き上がっている、何とも現実離れした川です。ところが、最初はくるぶしまでだった水が、現実の川のように水深を増しつつ東へ流れ、「汚れた海」つまり死海に注ぎます。すると、その水はきれいになり、すべてのものが生き返る、と言われます。回復された神殿・教会から流れ出る水がすべての生き物を生き返らせるのです。 キリストは言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4章14節)。また、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7章38節)。キリストのこの川は、そのまま神の都に流れ込みます。「川のほとり、その岸には…あらゆる果樹が大きくなり、…月ごとに実をつける。…その果実は食用となり、葉は薬用となる」(エゼ47章12節。黙22章1、2節も参照)。これが神の都の風景です。教会でキリストから与えられる、水晶のように輝く命の水は、私たちの内から流れ出る川となって、永遠の御国に達するのです。 Mon, 20 Apr 2020 00:10:00 +0000 回復された神の民の生活(エゼキエル書 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200420 no 2020 あなたは、朝ごとに無傷の1歳の小羊1匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、主にささげねばならない。朝ごとに、それをささげねばならない。 (エゼキエル書46章13節) エゼキエルが幻で見た救いの時代の礼拝は、「日ごと」「朝ごと」の礼拝でした。キリストと共に救いの時代が到来した今、私たちのなすべき日ごとの礼拝とは何でしょうか。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12章1節)。 無傷の小羊イエス・キリストが1回限り、焼き尽くす献げ物としてすでに献げられました。この方によって生かされている私たちは、日ごと、朝ごとに自分の体を神に喜ばれる献げ物としてささげます。それは、日ごと朝ごとに「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにな」る(同2節)ということです。また、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩51編19節)ですから、私たちが日ごと、朝ごとに悔い改めることでもあるでしょう。やがて、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2章20節)と感じられるほどにされるのです。 Sun, 19 Apr 2020 00:10:00 +0000 後ろから語りかけてくださる主イエス(ヨハネによる福音書 20章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200419 no 2020 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 (ヨハネによる福音書20章13節~14節) 墓から主イエスの御遺体が取り去られたと考えて、マリアは泣いていました。そのマリアに復活された主イエスが現れます。マリアが後ろを振り向くと、主イエスが立っておられるのが見えました。しかし、マリアには、それが主イエスだとは分かりませんでした。 なぜ、マリアは後ろに立っている人が主イエスだと分からなかったのでしょうか。そのヒントは、「後ろを振り向く」という言葉にあります。ヘブライ人は、過去を前にあるもの、将来を後ろにあるものと考えるそうです。マリアにとって主イエスは過去の人であり、将来(後ろ)に立っているとは考えられなかったのです。しかし、復活された主イエスは過去からではなく、将来から声をかけてくださいます。 復活された主イエスは時間を超えた永遠のお方です。復活された主イエスは、良き羊飼いとして、御自分の羊の名を将来から呼ばれます。それゆえ、主イエスが「マリア」と呼ばれると、彼女は振り向いて「ラボニ」(わたしの先生)と答えました。主イエスは、将に来られるお方として、私たちに語りかけてくださいます。そこに、私たちの救いの確かさがあります。 Sat, 18 Apr 2020 00:10:00 +0000 教会が回復されるために(エゼキエル書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200418 no 2020 あなたは、誤って罪を犯した者、また知らないで罪を犯した者のために、同じようにして神殿を清めねばならない。 (エゼキエル書45章20節) 回復された神殿の幻を見るエゼキエルの眼差しは特に「誤って罪を犯した者、また知らないで罪を犯した者」に注がれます。神殿を「清める」とは、「贖罪のいけにえの血を取って、それを神殿の門柱と祭壇の台となっている段の四隅と、内庭の門柱に」塗ることと定められています。私たちで言えば、十字架の血によって教会の隅々まで清めるということでしょう。 ヘブライ書は、「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清め」ると言います(9章14節)。教会の中にも、誤って罪を犯した者、知らないで罪を犯した者がいるかもしれません。そのとき、その人を裁くという「死んだ業」に傾くことがあるかもしれません。しかし、誤って罪を犯した者、知らないで罪を犯した者が悔い改めるよう招くことこそ、回復された教会の姿です。あなた自身が誤って罪を犯してしまうこともあるでしょう。そのようなとき、「十字架の血に清めぬれば来よ」との御声を聞き取ることが大切です(讃美歌515番)。キリストの血によって私たちの良心が死んだ業から清められ、教会が回復されていきますように。 Fri, 17 Apr 2020 00:10:00 +0000 回復された祭司としての私たち(エゼキエル書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200417 no 2020 イスラエルの子らが迷って、わたしから離れたとき、わたしの聖所の務めを守ったレビ人の祭司であるツァドクの子孫は、わたしに近づき仕えることができる。…彼らはわたしの聖所に入ることができる。 (エゼキエル書44章15節~16節) プロテスタント教会の大切な考え方の一つに「万人祭司」があります。神の御前に聖職者と世俗の者の区別はなく、皆等しく神に近づき、神に仕えるということです。 この44章では、祭司とレビ人の違いが示されています。神の民イスラエルが迷ったとき、聖と俗の区別を示せるか、それとも一緒になって迷ってしまうか、の違いです。迷ったレビ人は断罪され(10節)、迷うことなく聖と俗の区別を示せる人が祭司とされました(23節)。そうすると、キリストによって救われた信徒一人ひとりが本来、祭司として聖と俗の区別ができるということでしょう。 教会の世俗化は大きな問題ですが、まずは私たち一人ひとりが、何が神の聖なる言葉・御心であるか、何が自分の俗なる言葉や思いであるかを区別できることが大切です。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、…聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペト2章5節)。聖なる祭司である私たちが真実に霊的に生きることによって初めて、教会は霊的な家とされるのです。 Thu, 16 Apr 2020 00:10:00 +0000 回復された神殿としての教会(エゼキエル書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200416 no 2020 見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。…主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った (エゼキエル書43章2節、4節) 神殿から見て東の方とは神の民が捕囚とされているバビロンの方角です。神の臨在を表す「神の栄光」は神殿を出て、捕囚の民のもとにまで赴いてくださったのでした。その神が、捕囚の民を導き戻るようにして、今や新しく建てられた神殿に帰って来られます。神殿の門も、その民を迎え入れるためにこそ、東の方に向いていたかのようです。神から遠いところに引き離されて苦しむ人のいる場所へ出て行き、そしてそのような人びとを建て直された神殿に連れ帰ってくださるところに神の栄光があります。 3日で建て直された新しい神殿であるキリストの体、つまり教会の時代であっても、神のなさりかたは変わりません。神から遠いところにいる人びとのもとにまで赴き、教会へと導き戻ってくださるのが神です。教会の門も、そういう人びとの方にこそ向いて開かれているのです。 あなたが神の御許から迷い出てしまうときがあったとしても、神はそのあなたのところへ出向いてくださるでしょう。そのようなときこそ、教会の門はあなたの方を向いて、広々と開かれていることでしょう。 Wed, 15 Apr 2020 00:10:00 +0000 復活の真実性(使徒言行録 5章17-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200415 no 2020 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。 (使徒言行録5章38節~39節) 使徒言行録5章36、37節を見ると、テウダやガリラヤのユダという指導者が、人々を率いて反乱を起こしたとあります。当時は似たようなことがよく起こったようです。しかし、いずれも指導者が捕えられたり死んだりして、従っていた人たちは散り散りになり、跡形もなくなりました。 ただ一つ、主イエスの場合だけが、指導者が殺され、従っていた弟子たちが散り散りになったのに、それで終わらなかったのです。弟子たちは立ち上がり、殉教してまでキリストを伝えるようになりました。 作家の遠藤周作は、復活を信じなかったころ、主イエスの十字架の後、失望落胆して散り散りになってしまった弱い弟子たちが、なぜあんなに強く変わったのか、そこがどうも分からないと言っていたそうです。逆に言うと、復活以外には、説明のしようがないということでしょう。 復活した主イエスとの出会いが、絶望していた弟子たちを立ち上がらせ、力強く進ませたのです。復活した主イエスは、今も私たちと出会い、立ち上がらせ、歩ませてくださいます。 Tue, 14 Apr 2020 00:10:00 +0000 見ないのに信じる(ヨハネによる福音書 20章24-29節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200414 no 2020 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネによる福音書20章29節) 復活した主イエスが最初弟子たちに現れたとき、トマスはそこにいませんでした。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、それだけでは信じませんでした。そのようなトマスを諭すかのように、あらためて主イエスが現れてくださり、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです。 この出来事は、四つある福音書の中で、ヨハネだけが記しています。ヨハネ福音書が記されたのは、1世紀の終わり頃と思われます。それは復活した主イエスを目撃した人たちが、だんだんいなくなる時代です。そのような中、ヨハネはこの記事を記したのです。これからは目撃証人がいない時代になる。しかし、証言を聞くことによって信じることができると教えるのです。目撃証人と同じように、主イエスを知り、信じることができるのです。 この記事のすぐあとにヨハネは、主イエスを信じるためにこの書物を書いたと記しています。今日では、聖書という証言を通して、主イエスの復活を信じることができるのです。信仰の幸いにいたることができるのです。「見ないのに信じる人は、幸いである」。 Mon, 13 Apr 2020 00:10:00 +0000 父である神のもとに昇る(ヨハネによる福音書 20章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200413 no 2020 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『…あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 (ヨハネによる福音書20章17節) 復活の主イエスに出会ったマグダラのマリアは、主イエスにすがりつきます。再び会えた、二度と離れたくない、という思いだったのでしょう。 ところが主イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われます。復活はまだ途中で、天に上って行くことが残っている。さらに、約束したように、そこから聖霊を遣わす仕事が残っているということでしょう。そこまでいかないと、復活が完成しないかのようです。 その時のマグダラのマリアにしてみれば、主イエスが天に上って行かれることは、もう会えなくなるお別れと思われたかもしれません。 しかし、そうではありません。主イエスは天に上って行かれ、そこから聖霊をお遣わしくださいます。それによって新しい交わりが生まれるのです。私たちがキリスト教に興味を持つようになるのも、御言葉を悟るようになるのも、信仰を持つようになるのも、あるいは教会ができるのも、みんな主イエスが聖霊を遣わしてくださっているからなのです。復活した主イエスは、そのように私たちに働きかけ続けてくださいます。 Sun, 12 Apr 2020 00:10:00 +0000 聖霊を遣わすために(ヨハネによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200412 no 2020 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 (ヨハネによる福音書16章7節) マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、いずれも主イエスご自身による、死と復活の予告を記します(マタイ16章21節、マルコ8章31節、ルカ9章22節)。とても大事なことだからでしょう。 ところが、ヨハネ福音書はそれを記しません。その代わりに、13章から16章にわたり、十字架を前にした告別の説教と呼ばれる主イエスの教えを記します。そこでは、死と復活よりもむしろ、天の父のもとに行って、聖霊を遣わすということが示されています。後に復活した主イエスが弟子たちに現れてくださった記事でも、ヨハネだけが、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(20章22節)と、聖霊のことを記します。ヨハネは、主イエスが復活後天に昇って行かれ、そこから聖霊を遣わしてくださることを強調しているようです。 復活した主イエスは、今も聖霊を遣わしてくださり、働き続けておられます。キリスト教に興味を持つことも、信じることも、教会の存在も、みんな復活した主イエスの聖霊を遣わすお働きなのです。私たちは、その主イエスのお働きにあずかっています。 Sat, 11 Apr 2020 00:10:00 +0000 御手にゆだねる道(ルカによる福音書 23章44-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200411 no 2020 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 (ルカによる福音書23章46節) 主イエスの十字架上での七つの言葉、最後に覚えたいのは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉です。 主イエスが息を引き取られる、その時が近づいてくると、昼であるにもかかわらず全地は闇に覆われました。この闇は、全地に住む人びと、つまりすべての人間が、神に背き逆らう罪の中にあることの表れではないでしょうか。物理的にはまばゆく明るい光に照らされていながら、私たちの現実は、さまざまな点でますます深まる闇の中に置かれているようです。 そのような闇を切り裂くように、主イエスは大声で叫ばれました。静かに、穏やかに、ささやくように語られたのではありません。主イエスがご自身を神の前に差し出されたことにより、私たちは、人生を、そこにおける苦しみや悲しみ、困難、思い通りにならないすべてを、父なる神の御手にゆだねる道を開かれました。 十字架の主イエスの言葉は、父なる神への祈りで始まり、そして終わります。主イエスが祈られたように、私たちも祈ります。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。 Fri, 10 Apr 2020 00:10:00 +0000 救いが成し遂げられた(ヨハネによる福音書 19章29-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200410 no 2020 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 (ヨハネによる福音書19:30) 主イエスの十字架上での七つの言葉、六つ目に覚えたいのは、「成し遂げられた」という言葉です。主イエスは、父なる神から託された私たちの身代わりとして、十字架という飢え渇きを、その身に引き受けられました。 その時、主イエスは「酸いぶどう酒」を受けられました。ご自身の痛みを和らげるためのぶどう酒は拒まれましたが、罪人である私たちの身代わりとしての苦しみを全て味わい尽くすため、酸いぶどう酒は受けとられました。ここに私たちの救いが成し遂げられたのです。 こうして旧約聖書以来、語り続けられてきた神の救いの計画が実現しました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者」にしようとされました(エフェ1章4節)。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(ヘブ10章10節)。 もはやこれ以上、何か必要とするものはありません。これだけでは不十分ということもありません。主イエス・キリストの十字架が、私たちの救いにとってのすべてです。 Thu, 09 Apr 2020 00:10:00 +0000 渇きを癒す水(ヨハネによる福音書 19章28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200409 no 2020 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 (ヨハネによる福音書19章28節) 主イエスの十字架上での七つの言葉、五つ目に覚えたいのは、「渇く」という言葉です。十字架の上に釘付けされて、耐え難い痛みに悶え苦しむ中から、水を求めているようにも聞こえます。けれどもこの言葉には、単なる身体的な渇き以上の意味が込められているのでありましょう。 十字架刑に処せられる者には、痛みを和らげるぶどう酒が差し出されますが、主イエスはお飲みになりませんでした。主イエスは十字架の苦しみから逃れようとなさいませんでした。私たちの身代わりとして、罪の責め、苦しみ、痛みを、少しも薄めず、弱めず、軽くすることなく、背負ってくださったのです。 主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)と語られます。本来は私たちを潤すほど命の水をお持ちのお方です。その主イエスが「渇く」とおっしゃって、私たちが味わったことのないほどの渇きをその身に引き受けられました。そのような十字架の苦しみを担われたのは、私たちの渇きを癒してくださるためなのです。 Wed, 08 Apr 2020 00:10:00 +0000 取り除かれた究極的な苦しみ(マタイによる福音書 27章45-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200408 no 2020 3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章46節) 主イエスの十字架上での七つの言葉、四つ目に覚えたいのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。 主イエスは、十字架に至る苦しみの中で、それ程多くのことを語られません。むしろ、沈黙し、ご自身を殺そうとする人びとに抵抗せず、神の御心の実現のために歩んで来られました。そのような中にあって、この叫びには、十字架の苦しみが明確に表されています。主イエスの苦しみとは、父なる神に見捨てられることであり、それまで結ばれていた神との完全な交わりから切り離されることでした。 私たちもまた、神に見捨てられたと叫びたくなることもあるでしょう。どうしてこのような苦しみに遭わなければならないのか、と。しかし、そこで示されるのは、究極的な苦しみをすでに引き受けてくださった主イエスの十字架です。神に見捨てられるという苦しみは、十字架によって取り除かれているのです。それゆえ、どのような困難も、私たちを神から引き離すことはありません。苦しみの中にあって、それでもなお、神を見つめることができるのです。 Tue, 07 Apr 2020 00:10:00 +0000 十字架が結び合わせる神の家族(ヨハネによる福音書 19章26-27節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200407 no 2020 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」 (ヨハネによる福音書19章26節~27節) 主イエスの十字架上での七つの言葉、三つ目に覚えたいのは、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、そして、「見なさい。あなたの母です」との言葉です。 十字架のそばには、主イエスの母マリアと弟子が立っていました。十字架上から語られた言葉によって、この弟子はマリアを自分の家に引き取りました。ここに新しい家族関係を結ばれたのです。主イエスはかつて、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えておられました(ルカ8章21節)。 十字架の主イエスを「わたしの救い主」と信じて仰ぎ見るとき、そこから私たちは新しい交わりに結びつけられ、新しい家族とされます。そのように結び合わされる交わりが教会です。主イエスの十字架がなければ決して出会うことはなかったかもしれません。けれども主イエスの十字架のゆえに、今では神の家族、兄弟姉妹です。 主イエスの十字架によって結び合わされる新しい神の家族の交わりは、これまでもそうであったように、これからも豊かに広げられていくのです。 Mon, 06 Apr 2020 00:10:00 +0000 確かな救いの宣言(ルカによる福音書 23章39-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200406 no 2020 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカによる福音書23章43節) 主イエスの十字架上での七つの言葉、二つ目に覚えたいのは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた言葉です。これは、一緒に十字架にかけられながら、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と言った、犯罪人の一人に対しての言葉です。 この犯罪人は、隣で十字架につけられながら、「父よ、彼らをお赦しください」という主イエスの祈りを聞いていたのでしょう。彼は罪の赦しを与えられる主イエスの十字架の真の姿を見たのです。けれども、自分のやったことの当然の報いとして十字架刑を受けているのであって、「赦してください」などとは言えない。彼にとっては「思い出してください」と言うのが精一杯の信仰告白だったのではないでしょうか。この人は、人生の最後に、しかも着実に死が迫りくるという極限状態の中で、自らの一切を主イエスに委ねたのでした。 私たちもまた、主イエスにすべてを委ねる精一杯の信仰告白をするとき、直ちに確かな救いの宣言を受け取ることができるのです。 Sun, 05 Apr 2020 00:10:00 +0000 思い至らない罪さえも赦す(ルカによる福音書 23章32-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200405 no 2020 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 (ルカによる福音書23章34節) 主イエス・キリストは、十字架の上で七つの言葉を語られました。受難週を過ごす中で、その一つ一つを厳粛に受け止め、その意味を思い巡らせてまいりましょう。 最初に覚えたいのは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、十字架につけられた、まさに「そのとき」発せられた言葉です。それは、父なる神に向けられた祈りでした。 主イエスを十字架につけた者、それは手や足を釘で打ちつけたローマ兵をはじめ、裁判で死刑判決を下したユダヤ人議員とピラト、そして、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆たちでした。彼らは、命令に従順に従い、自らの立場を守ろうとし、周囲に同調しただけにすぎないと主張するかもしれません。まさか、神の御子を苦しめる罪を犯しているとは思い至らなかったでしょう。本当の意味で、「自分が何をしているのか」分かっていなかったのです。 自らの罪の深刻さに思い至らない私たち人間のために、主イエスは十字架にかかられました。主イエスの十字架の姿に、罪を赦す神の大いなる愛があります。 Sat, 04 Apr 2020 00:10:00 +0000 苦しみを共にする交わり(フィリピの信徒への手紙 4章10-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200404 no 2020 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。 (フィリピの信徒への手紙4章14節~15節) パウロの伝道者としての生涯は、苦しみの連続でした。むち打たれ、投獄され、難船し、飢え渇きを覚え、経験してきた苦労は数えきれないほどでした(2コリ11章)。パウロはフィリピにおける伝道の時にも投獄され、この手紙を記しているときも牢獄の中にいました。数々の苦難を通ってきたパウロにとって、フィリピの教会が、自分と苦しみを共にしてくれたことが大きな慰めとなっていたのです。 具体的には、献げものを通して、共に伝道の働きに携わってくれたことを「苦しみを共にしてくれた」と言っています。 パウロは、どの教会にも経済的負担をかけないように働いた人でした。自ら献金を募るようなことはなかったでしょう。それでも、フィリピの教会だけが自発的に献げものをして、支えてくれたのです。パウロにとって、その贈り物は単なる経済的な支援ではありませんでした。それ以上に大きな助け、慰めとなったのです。 苦しみを共にする交わりは、喜びや慰めをも共有します。兄弟姉妹たちが共に苦しみ、共に喜ぶところに、真の教会が建つのです。 Fri, 03 Apr 2020 00:10:00 +0000 いつも喜びなさい(フィリピの信徒への手紙 4章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200403 no 2020 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。…どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 (フィリピの信徒への手紙4章4節、6節) フィリピの教会にはさまざまな問題がありました。パウロが伝えたのとは異なる信仰を教える人びとがいたり、兄弟姉妹の不一致があったり。パウロはできるなら、もう一度フィリピの教会に足を運び、群れに仕えたいと願っていたことでしょう。しかし、パウロ自身が、明日にでも死刑判決が下るかもしれないという状況にいたのです。 だからこそ、パウロはフィリピの教会に「喜んでいなさい」と繰り返し教えました。問題を解決するための具体策ではなく、「あなたがたは主にあって喜びなさい」と教えたのです。 私たちも、教会や家庭や個人で、深刻に悩んでしまうさまざまな問題を抱えているのではないでしょうか。希望を抱くのが難しい現実があるのではないでしょうか。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩30編6節)。明けない夜はないというのが神の約束です。 パウロは、主にあって希望をなくさないようにと、牢獄の中から励ましているのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。 Thu, 02 Apr 2020 00:10:00 +0000 キリストに捕らえられて(フィリピの信徒への手紙 3章12-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200402 no 2020 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 (フィリピの信徒への手紙3章12節) パウロは信仰生活を「目標を目指してひたすら走る」レースに喩えています。オリンピック競技の中で最も過酷なものの一つがマラソンです。長距離走を走ったことのある方はわかると思います。わたしも学生時代の持久走大会を思い出すと、脇腹が痛くなったり、足が痛くなったり、途中でレースをやめたいと思うことは何度もありました。 なぜレースに喩えて教えるのか。それは、信仰生活には戦いが伴うということではないでしょうか。苦しい時があり、立ち止まりたくなる時もあるものです。 マラソンは孤独なレースかもしれませんが、信仰のレースはそうではありません。私たちは「キリスト・イエスに捕らえられているからです」。パウロは、自分が迫害していたキリストが、実は逆に自分を捕らえていてくださったことに気づいたのです。牢獄の中にいる今も、キリストがしっかりと自分を捕らえ、引っ張ってくださる。その確かな守りの中で、パウロは最後まで走り抜こうとしています。 きょうの道のりを進みましょう。わたしが捕らえようとするより先にキリストが私を捕らえていてくださいます。 Wed, 01 Apr 2020 00:10:00 +0000 父に愛されたくて(フィリピの信徒への手紙 3章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200401 no 2020 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリピの信徒への手紙3章9節) ヘミングウェイの短編に、スペインに暮らす父と子の物語があります。父との関係が悪くなり、息子パコ(スペインではありふれた名前)は家を出て行ってしまいます。息子を探し続ける父親は、新聞の尋ね人の欄に広告を掲載しました。「パコへ。明日の正午、ホテル・モンタナで会おう。過去のことは全て赦した。父より」。すると、翌日の正午、何と国中から8百人の「パコ」が父の赦しを求めてホテルにやって来たのです。 これは物語ですが、多くの子どもたちが、父から「愛される子」として受け入れられたいと願っているのではないでしょうか。 パウロは、割礼や学歴・熱心な信仰のゆえに、神に「愛される子」として認められたいと努力を続けました。しかし、今では、キリストのゆえにそれらを塵あくたと見なすようになったと証します。 私たちの出来不出来によって、神の愛が変わることなどありません。神は御子キリストをお与えになったほどに私を愛しておられ、「あなたを赦した。待っているよ」と、その御手を差し伸べておられます。その恵みを、信仰によって受け取りましょう。 Tue, 31 Mar 2020 00:10:00 +0000 神に近づくことのできる幸い(エゼキエル書 41-42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200331 no 2020 更に、拝殿の奥の面まで奥行きを測ると20アンマ、その横幅も20アンマであった。そして彼はわたしに、「ここが至聖所である」と言った。 (エゼキエル書41章4節) 新しい神殿の幻の続きです。案内の天使は、エゼキエルを拝殿に連れて行き、正面の奧のある部分を測り、「ここが至聖所である」と言いました。その至聖所は、以前の神殿の至聖所とはかなり様子が違っています。以前の神殿では、至聖所と聖所が垂れ幕によってはっきりと分けられ、一年に一度、贖罪の日に、いけにえの血を携えた大祭司しかそこに入ることができませんでした。しかし、この新しい神殿の至聖所には、その垂れ幕の描写が一切ありません。エゼキエルが、この垂れ幕なしの至聖所を見たときの感動は、どれほどのものだったでしょう。 キリストが十字架で苦しまれ、息を引き取られた時に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27章51節)。これは、キリストの十字架の贖いによって、神と人の隔ての壁が完全に取り除かれ、恐れることなく神に近づく道が切り開かれたことを示しています。 私たちは、既にこの恵みに与っています。これは決して当たり前のことではありません。この素晴らしい恵みを覚えつつ、喜びと感謝をもって、大胆に神に近づきましょう。 Mon, 30 Mar 2020 00:10:00 +0000 新しい神殿の幻(エゼキエル書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200330 no 2020 その人はわたしに向かって言った。「人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてイスラエルの家に告げなさい。」 (エゼキエル書40章4節) エゼキエルは補囚となって25年目に、ある幻を見ました。それは、将来再建されるであろう新しい神殿の幻でした。ここに描写される神殿の構造や祭司の仕え方があまりにも詳し過ぎるために、現代人の私たちにとっては少々退屈に感じられるかもしれません。しかし、もともと祭司であったエゼキエルにとっては、どんなに詳しく述べても詳し過ぎることがないほどに関心ある事柄だったのでしょう。 ただし、この神殿は、後に再建された神殿に比べると、それをはるかに超えた造りになっています。おそらくこの神殿は、やがてキリストによって建てられるキリストの体なる教会を預言的かつ象徴的に指し示した幻だったのでしょう。 私たちは、今その群れに属し、その恵みを味わっています。主なる神が、「自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい」とエゼキエルに語りかけ、それをエゼキエルが感動をもって受けとめ、詳しく述べたように、私たちもその恵みを一つも漏らすことなく、しっかりと心に留めたいと思います。 Sun, 29 Mar 2020 00:10:00 +0000 主の恵みの御業にある幸い(ヨハネによる福音書 9章1-41節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200329 no 2020 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 (ヨハネによる福音書9章39節) 主イエスの御目はいつも、試練にある人、苦しみ・悲しみにある人、この世の弱者に注がれています。本日は、主イエスが生まれつきの盲人に出会われ、癒されたお話です。 ここには盲人が癒されるという主の御業が記される一方で、ファリサイ派と呼ばれる人びとが、癒された盲人に近づき、遂には追及の果てに外に追い出す(34節)という、人間の罪の深さと愚かさとが記されています。私たちは、この個所から人間の罪深さ、すなわち自分の罪深さと、主の御業の偉大さを見つめます。だからこそ感謝し覚えたいのです。私たちも、最初、信仰的盲目の状態にありました。しかし、主イエスに出会って、目が開かれました。そして主イエスに出会うことで、きょうの主人公のように御前にひざまずき「信じます」との告白に導かれたのです(38節)。 これまで盲目で見えていなかった罪と闇の世界から解放されて、今、私たちは主の恵みの御業がはっきりと見える幸いへと招かれています。「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言われた主イエスの御言葉の意味を、深く心に留めたいと思います。 Sat, 28 Mar 2020 00:10:00 +0000 神に力不足はない(エゼキエル書 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200328 no 2020 国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。 (エゼキエル書39章23節) 世の終わりのゴグについての預言の続きです。38章後半にゴグの敗北は既に語られていますが、この39章ではゴグの完全なる敗北が語られています。そして、その後にこの戦いの後始末の様子が描かれています。 ゴグの軍勢の武器を集めて燃やすのに7年もかかり、死んだ兵士たちを埋めるのに7ヶ月もかかる、と言われています。これは、ゴグの軍勢がどれほど強力であったかを示しています。しかし、そのような強力な軍勢であっても、全能の神の前では、なす術もなく、あえなく敗北せざるを得ないのです。バビロンの補囚の民は、この神の偉大な力を知る必要がありました。それは、彼らが滅ぼされ、補囚の身になったのが、神の力不足によるのではなく、彼らの不信仰の罪であったことを自覚させられ、真の悔い改めへと導かれるためでした。 私たちも祈りがかなえられないときに、その実現が神にも困難であるかのような錯覚に陥ることがあります。しかし、祈りがかなえられないのは、決して神の力不足によるのではなく、私たちの側によくない動機や高ぶりがあるのかもしれません。 Fri, 27 Mar 2020 00:10:00 +0000 神がすべてを支配しておられる(エゼキエル書 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200327 no 2020 お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。 (エゼキエル書38章16節) 38章と39章は世の終わりについての預言です。ここに登場するゴグは、世の終わりに諸国民の連合軍を率いてイスラエルを侵略し、大きな苦難を与える指導者的存在として描かれています。 やがてイスラエルの人びとは補囚から解放され、祖国で平和に暮らすようになります。しかし、イスラエルを侵略しようとする諸国の脅威にさらされている限り、本当の意味で平和を回復したとは言えません。そこで主なる神は、世の終わりに、イスラエルに敵対するあらゆる諸国民をゴグのもとに召集し、戦いを挑ませます。その上で、その連合軍を一挙に粉砕し、イスラエルに真の平和を与えようとしておられるのです。 主なる神は、この預言を通して、ご自分には誰も対抗し得ないことを示されます。そして今、補囚の中で苦しんでいる人びとを励まそうとしておられます。 私たちも、しばしば危機的な状況に陥り、どこにも希望が見出せないことがあります。しかし、そういう中にあっても、究極的には神がすべてのことを支配しておられることを信じ、平安に過ごしたいと思います。 Thu, 26 Mar 2020 00:10:00 +0000 枯れた骨の復活(エゼキエル書 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200326 no 2020 「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。 (エゼキエル書37章9節~10節) エゼキエルはとても不思議な幻を見ました。谷間に干からびた無数の骨が散乱していたのです。しかし、エゼキエルが預言すると、カタカタと音を立てて骨と骨がくっつき、骨の上に筋と肉が付き、皮膚がその上を覆って人の体になりました。更に預言すると、霊がその体の中に入り、生き返って、彼らは非常に大きな集団になったのです。 この幻は、バビロン捕囚の苦しみの中で、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いているイスラエルの民に対して、主なる神から与えられる救いの恵みを描いています。主なる神が彼らを捕囚の苦しみから解放し、イスラエルの地に連れ帰ってくださる救いの約束が示されているのです。 しかし、この幻は、同時に主なる神が私たちに与えてくださる救いの恵みをも描いています。骨を枯らすような魂の憂いと絶望の中にある私たちの現実の中に、神の恵みの御言葉が響く時に、聖霊が風のように吹き来たり、私たちを生かしてくださいます。私たちは教会の礼拝の中で、この枯れた骨の復活という神の恵みを何度も経験しているのではないでしょうか。 Wed, 25 Mar 2020 00:10:00 +0000 新しい心が与えられる(エゼキエル書 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200325 no 2020 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 (エゼキエル書36章26節) この章には、やがてイスラエルの地に補囚の民が帰還し、廃墟は立て直され、以前よりも更に栄えるという嬉しい約束の言葉が記されています。そして、以前のようにその行いによって地を汚すことのないように、「お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」という預言の言葉が語られています。 「石の心」とは、頑なな心の象徴です。また、石には血が通っていませんから、周りの環境にも影響されやすいのです。しかし、肉には血が通っていますから、周りが熱くても冷たくても、体温は変わることなく安定しています。主なる神は、やがてイスラエルの民に聖霊を送り、その石の心を造り替えて、血の通った肉の心を与えると約束してくださったのでした。 今の私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって、まさに肉の心と言うべき信仰を与えられています。聖霊が私たちの心に宿ることで、私たちの内側に流れているキリストの十字架の血潮が絶えず私たちの心を熱く燃やし、どういう状況の中にあっても信仰を堅く保ってくださるのです。私たちは、その恵みに支えられて歩みます。 Tue, 24 Mar 2020 00:10:00 +0000 神は聞いておられる(エゼキエル書 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200324 no 2020 お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた。 (エゼキエル書35章13節) 34章で主は、真の牧者として、ご自分の羊の群れであるイスラエルを探し出し、世話をすると約束されました。その流れの中で、きょうの35章では、セイル山に住んでいたエドム人に対する威嚇の言葉が語られています。「この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する」(10節)。彼らはイスラエルの南北二つの王国が滅んだことに乗じて、その土地をまんまと自分たちのものにしようと画策したのでした。イスラエルの人びとは、それを知っても、補囚の身であるため、手も足も出ません。 しかし、主なる神はこう言われます。「お前たちはわたしに向かって大口をたたき、わたしに向かって多くの言葉を重ねた。わたしはそれを聞いた」と。たとえイスラエルの人びとがエドム人の横暴に手も足も出なくても、主なる神はエドム人の言葉を全て聞いておられました。そして、彼らの横暴を決して許されませんでした。 この主なる神が私たちの羊飼いであるなら、たとえ私たちには手も足も出なくても、地団駄踏む必要はありません。 Mon, 23 Mar 2020 00:10:00 +0000 神ご自身が世話をする(エゼキエル書 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200323 no 2020 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。…わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。 (エゼキエル書34章11節、16節) 「イスラエルの牧者」として立てられた国の指導者たちが、羊である民を顧みず、私利私欲に走ってしまったために、国は滅ぼされ、人びとは補囚となり、散り散りバラバラになってしまいました。 そこで大牧者である主なる神は言われます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と。人びとが散り散りバラバラになっているのに誰も探し出そうとしないために、主なる神ご自身が人びとを探し出し、世話をする、と言われるのです。 また、主なる神はこうも言われます。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。 これは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」主イエスのお姿そのものです(マタイ9章36節)。主イエスが私たちの牧者であるなら、たとえどのような困難が待ち受けていようとも大丈夫です。主が必ず私たちを探し出し、世話をしてくださいます。 Sun, 22 Mar 2020 00:10:00 +0000 主イエスへの真実の告白(祈り)(ヨハネによる福音書 4章5-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200322 no 2020 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。…あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 (ヨハネによる福音書4章16節~18節) 主イエスとサマリアの女の話を、このレントの時期に読んでみますと、また違った味わいが与えられます。イエス・キリスト(=御言葉)以外に魂の潤い、癒しがないことを教えられると共に、この方に出会うことによって、初めは殻に閉じこもっていた者が、次第に心開かれ、遂には礼拝者へと変えられていく姿、そのプロセスを強く見させられるからです。そして、イエス・キリストによらなければ、毎週の私たちの礼拝は成立しないことについてもこの箇所から教えられます。 サマリアの女の告白を主イエスは導かれました。女性の「ありのまま」の告白を聞かれ、そのうえで、主イエスの御前に、神の御前に礼拝する者へと導かれたのです。 この季節に、私たちは改めて、私たち自身の主イエスに対する告白へと思いを向けたく願います。日々の歩みのなかで、真実な主との関係が得られているでしょうか。御言葉に対して真実からの告白(祈り)をすること、それは魂にとって不可欠な日々の礼拝行為です。そのような告白(祈り)へと、聖霊が導いてくださいます。私たちの心を開いていただきましょう。 Sat, 21 Mar 2020 00:10:00 +0000 信仰こそ要(ルツ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200321 no 2020 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。…オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。 (ルツ記4章17節、22節) 信仰によってユダヤの地へ来たルツは、神から祝福を受けました。未亡人であったルツは、ボアズと結婚し、子を与えられます。その子の名はオベド(従う人)。神に従う信仰を持って、祝福の中を歩んでほしいという祈りがこの名に込められています。 ルツ記は、このオベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれたことを記して、閉じられます。これは、イスラエル王国最大の王とされるダビデ王の系図に、モアブ出身のルツが入っていることを明記するものです。 この系図には、大切なメッセージがあります。ユダヤにはダビデ王朝やダビデ王個人を神聖化する風潮がありました。確かに旧約聖書は、ダビデとその王朝が神に選ばれ、用いられたことを伝えています。しかし、あくまでそれはダビデの信仰のゆえであって、その家柄や血筋によるものではありません。 ルツ記は、ダビデ家の血筋にイスラエルが忌み嫌っていたモアブ人の血が入っている事実を隠すことなく伝えます。血筋や家柄ではなく、ただ神への真の信仰を与えられたものに、神は祝福を与えてくださることを教えるのです。 Fri, 20 Mar 2020 00:10:00 +0000 冷静と情熱の間で(ルツ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200320 no 2020 主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。 (ルツ記3章13節) ルツは落ち穂拾いに出かけたところ、ボアズと出会いました。ボアズはナオミの親戚であり、ナオミの土地を買うことができる人でした。また、ルツと再婚することのできる人でした。そこで、ナオミはルツにプロポーズをするよう大胆な助言をします。ルツは戸惑いつつも、言われた通りに実行しました。 そのプロポーズをボアズは保留しました。なぜなら、当時の法からすれば、自分よりも近い親戚に土地を購入する優先権があったからです。しかし、もしその人たちが権利を放棄するなら、自分が責任を果たすと約束しました。 ボアズは、冷静に現実を見据えます。また、御心を尋ね求めつつ、「主は生きておられる」と語ります。主はあなたを、あなたに最善の道を御心にかなって開いてくださる、というメッセージです。 ルツはナオミのもとへ帰り、そこでこういう言葉を聞きます。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。」 御心に生きるとは、我を忘れて突き進むことからではなく、主を信頼し冷静に待つことから始まります。 Thu, 19 Mar 2020 00:10:00 +0000 嘆きは賛美に変えられる(ルツ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200319 no 2020 「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」 (ルツ記2章20節) ベツレヘムに到着したナオミとルツにとって、大きな問題は生計の道でした。ルツは落ち穂拾いに出かけます。ルツは行き着いた畑でボアズと出会います。ボアズはルツに目を留め、ルツが安心して働けるよう、特別に配慮をしました。また、昼食を分け与え、帰りには多くの大麦を与えました。 たくさんの大麦を持ち帰ったルツに、ナオミは問いました。「だれから祝福を受けたのか」。そう問われた、ルツの口からは「ボアズ」という名が出ました。彼はナオミの親戚であり、彼女たちを「家を絶やさないようにする責任のある人」でした。驚いたナオミは、「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」と言って、主を賛美しました。 死の霧が漂う、涙の谷間を歩む人を、神は慈しんでくださり、光を与えられます。 自らをマラ(苦い)とさえ呼んだナオミ。嘆き、悲しみの中にあったナオミの心は感謝に変えられました。全能者なる神が決してお見捨てになっていないことに気づかされたのです。その神に私たちの希望もあります。 Wed, 18 Mar 2020 00:10:00 +0000 全能者を信じるナオミ(ルツ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200318 no 2020 「どうか、ナオミ(快い)などとは呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」 (ルツ記1章20節) ルツとナオミは、モアブの地を出て故郷ベツレヘムに帰ってきました。すると町中の人々は驚き、どよめきました。旧知の女性たちは「ナオミさんではありませんか」と声をかけます。 それに対して、ナオミは、「どうかナオミ(快い)などとは呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」と応えました。 ただならぬナオミの応答です。重い現実を抱えていることを、ナオミは隠しません。ここに現実を受け入れる、ある強さを感じます。 愛する者の死は、涙の谷底へと人を追いやります。愛する夫と二人の息子の死が、ナオミを追い詰めました。 ナオミはその中で、神のことを「全能者」と呼びます。神への信頼を失ってはいません。ナオミにとって、苦しみもまた主の御心でした。辛い現実があったとしても、ナオミは腐ってはいません。主が憐れみ深い方であり、希望があることを信じているからです。たとえ苦しみがあったとしても、それを主の御心として受け入れ、その中で憐れみを信じ続ける姿に教えられます。 Tue, 17 Mar 2020 00:10:00 +0000 塩で味付けされた言葉(コロサイの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200317 no 2020 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。 (コロサイの信徒への手紙4章6節) パウロは、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と言います。「あなたがたの言葉が、いつも親切で、興味をひくものであるように」、「塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」という翻訳もあります。 料理をするとき、いちばん重要な味付けは塩味です。いろいろな調味料がありますが、塩を入れないと全然美味しくならないことがよくあります。それと同じように、「塩で味付けされた言葉」とは、美味しい料理のごとく、耳に快い、人の心に感動を与える、興味をひく言葉のことです。 そのような言葉を語ることは、もちろん簡単なことではありません。とりわけ未信者の家族や周りの人から聖書や信仰について聞かれた場合、どう答えるべきか分からなくなります。自分の言葉の乏しさに切ないかぎりです。 しかし、神の言葉には力があります。まず私たち自身が塩で味付けされた神の御言葉を味わいましょう。それによって、私たちの言葉も塩味の言葉として整えられていきます。どう語ればいいのか、聖霊なる神が教えてくださるのです。 Mon, 16 Mar 2020 00:10:00 +0000 互いに仕え合い、互いに愛し合いましょう(コロサイの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200316 no 2020 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。 (コロサイの信徒への手紙3章18節~19節) 主なる神はエバをアダムの「助け手(助ける者)」として創造されました(創2章18節)。この「助け手」とは、神が妻エバを夫アダムに劣る存在としてお造りになったという意味ではありません。もちろん、主なる神は、男と女にそれぞれ異なる賜物を与えてくださいましたが、男女を差別するようにして創造されたのではありません。なぜなら、神はご自身にかたどって男と女とに創造されたからです(創1章27節)。ですから、アダムとエバは本質的に等しい存在です。夫は優れているため妻の上にあり、妻は欠けているため夫に仕えるというような上下関係、主従関係はありません。 ということで、妻は夫に仕え、夫は妻を愛するということには、頭と体が切り離せないように、相互補完的な意味が含まれているわけです。それぞれの賜物を生かして、互いに愛し合い、互いに仕え合って、一つの体を造り上げるということです。 そこから進んで、教会の中の男女関係も同じでしょう。上下関係ではなく、与えられた賜物を生かして、キリストの体である教会を建て上げることが教会のかしらである神の御心なのです。 Sun, 15 Mar 2020 00:10:00 +0000 新たに生まれなければ(ヨハネによる福音書 3章1-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200315 no 2020 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 (ヨハネによる福音書3章3節) きょうは、主イエスとニコデモという人との間にあった出来事からです。主イエスはニコデモの心の中をよく知っておられたのだと思います(2章25節)。人目を避けるようにして、夜、主イエスのもとに来たニコデモに対して、開口一番に話されたのが上記の御言葉でした。 ここで言われている「新たに生まれる」の「新たに」という言葉は、「もう一度母の胎に戻って生まれ直す」ことを意味するのではありません。全く新しくされる、これまでの生き方と全く異なる生き方ということを意味しています。これまで神と共に生きてはいなかった者が、神によって、聖霊の力によって「新しい存在としていただいて」生き始めるという意味です。 ここから教えられるのは、「新たに生まれる」とは、全く神の恵みの御業だということです。自分に足らないところを何か神に補っていただいて歩むのでは「全くない」。これまでとは全く質の違う、神に全てを委ねた、神の子としていただいた歩みをしていくということです。 レントの時、主によって新しくされている喜びに生きたく思います。 Sat, 14 Mar 2020 00:10:00 +0000 実体はキリストにあります(コロサイの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200314 no 2020 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。 (コロサイの信徒への手紙2章16節~17節) コロサイの教会には、食べ物や安息日、割礼など、旧約時代から守ってきた教えを守るべきだと主張するユダヤ人キリスト者がいたようです。それらの教えは、彼らの伝統になっていました。そのため、彼らは、律法が禁止している食べ物を食べ、割礼を受けようとしない異邦人キリスト者をまるで罪人であるかのように批判していたようです。 しかし、それらの教えは「やがて来るものの影に過ぎず」と今日の御言葉は語ります。「実体はキリストにあります」と言うのです。安息日や割礼はキリストを指し示すのであり、キリストに結ばれることにこそ救いがある、ということです。 世界の諸教会は、それぞれの伝統と文化の中で信仰を受け継いでいます。韓国の教会の場合、朝の祈祷会を重んじる伝統があります。それは大切に受け継がれるべきものですが、それが先立ってしまうと、「実体」を差し置いて「影」だけを見ることになるでしょう。「影」が人の信仰を評価する基準になってはいけません。 多様な礼拝や祈祷会のあり方が模索される時代の中で、主イエス・キリストを仰ぐことが大切です。キリストこそが見つめられるべきなのです。 Fri, 13 Mar 2020 00:10:00 +0000 信仰に踏みとどまりなさい(コロサイの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200313 no 2020 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。 (コロサイの信徒への手紙1章23節) コロサイの教会は、主イエスへの信仰、人に対する愛、そして神の御国への希望を持っている教会でした。しかし、同時に、霊肉二元論の立場に立つグノーシス主義、天使崇拝、律法主義などの間違った教えが入り込み、ギリシア思想との混合主義の影響を受けていました。それは、コロサイの教会が置かれた時代的、地理的環境のためであったと思われます。 しかし、根本的には、「キリストだけでは足りない」という思いがあったのでしょう。キリストの外に知恵と知識を求めることが起こっていました。知りながら、また、知らないうちに、キリストの外に満足感を探し求めていたのです。 それに対して、パウロは揺らぐことなく信仰に踏みとどまるよう勧めます。十字架の血によって平和を打ち立てたキリストにとどまり続けるのです。それは簡単なことではないでしょう。その門は狭く、道も細いと言われる通りです。しかし、このキリストにおいてこそ、神の秘められた計画が明らかにされたのです。 たとえ信仰生活が困難に思われても、福音の希望から離れず、とどまりましょう。その門こそ、キリストにある命に通じる門なのですから。 Thu, 12 Mar 2020 00:10:00 +0000 キリスト者の赦し合い(フィレモンへの手紙 15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200312 no 2020 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 (フィレモンへの手紙15節) フィレモンへの手紙は、教会の交わりに欠かせない赦し合いを私たちに教えています。奴隷であるオネシモは、主人であるフィレモンの家から逃げ出しました。しかし、逃亡先でパウロに出会い、悔い改めて、福音宣教に仕える者、「役立つ者」に変えられました。そのオネシモを戻すので、赦してほしい、というのがパウロの願いです。 大切なのは、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(15節)とパウロが言っているところで、その背後に主なる神様の導きがあるということです。両者の地上的な関係は「しばらく」で、逃亡奴隷とその主人というものでしたが、主にある関係は「いつまでも=永遠」で、「愛する兄弟(16節)」というものに変えられるのです。 パウロは、自分が「キリスト・イエスの囚人」であることを繰り返しながら(1、9節)、フィレモンに懇願しています。私たちキリスト者は全て「キリスト・イエスの囚人」であり、これが主にある私たちの関係の土台で、ここにだけ真の赦し合いは生まれます。 Wed, 11 Mar 2020 00:10:00 +0000 未来にほほえみかける知恵(箴言 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200311 no 2020 あでやかさは欺き、美しさは空しい。 主を畏れる女こそ、たたえられる。 (箴言31章30節) 箴言の最後を飾るのは、「有能な妻」を描いた詩です。イスラエルの民の間ではこうした御言葉が家庭を祝福する知恵として学ばれたことでしょう。 ここに描かれた妻の有能さとは、夫に対する忠実さと、家を切り盛りする勤勉さ、周囲との人間関係を豊かにする言葉と細やかな配慮です。 けれども、そのすべてを支えているのは主を畏れる信仰です。箴言で語られてきた知恵の実りが、このような家庭をモデルにして美しく描写されます。 聖書の言葉では「知恵」という語は女性形です。それで知恵を女性に見立てた喩えが多いのでしょうが、旧約聖書ではイスラエルの民が主の伴侶とされ(イザ54章6節、他)、新約聖書では教会が主の花嫁として描かれます。それを合わせて考えますと、「有能な妻」とは、主の家を任された私たちのことです。その知恵は家庭にも教会にも豊かな実りを約束しています。 御言葉の知恵は、私たちに「力と気品」を与え、私たちの「未来にほほえみかけ」ます(25節)。 Tue, 10 Mar 2020 00:10:00 +0000 貧しくもせず、金持ちにもせず(箴言 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200310 no 2020 貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。 貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。 (箴言30章8節~9節) 「ヤケの子アグル」が誰なのかはわかりません。イスラエルの神を知る異邦の賢者かもしれません。天を超えて高くおられる神の前に、賢者は身を低くして自分の小ささを告白し、謙遜に知恵を求めます。 人は「豊かさ」を求めて祈るかもしれません。高い理想を掲げて自己実現のために神の力を借りようとするかもしれません。しかし、賢者がここで求めるのは、第一に、頼りにならない、人間の言葉を退けること、第二に日毎の糧で養われることです。それは、神を愛する信仰者にとって「神の御名を汚すこと」ほど、不本意なことはないからです。 金銭への飽くなき欲望は、自分が神に生かされていることを忘れさせ、貧しい人々を顧みない高慢に誘います。また、貧しければ「貧すれば鈍する」で、食べるために犯罪に手を染めることにもなりかねない。だから、主によって日毎に養われていることに感謝して、それで満足することができれば良い。こうした賢者の知恵ある祈りが、「主の祈り」にも受け継がれて、私たちのもとに届けられています。 Mon, 09 Mar 2020 00:10:00 +0000 私たちを支える幻(箴言 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200309 no 2020 幻がなければ民は堕落する。 教えを守る者は幸いである。 (箴言29章18節) 昔、イスラエルの民はシナイ山の麓で神の啓示である律法を受け取りました。それによって神の民として相応しく整えられて、祝福された道を歩むようになるためです。けれども、モーセがシナイ山に籠っている間、民は不安になって自分たちで勝手に金の子牛を造り、禁じられた仕方で礼拝して、偶像崇拝の罪を犯しました(出エ32章)。 「幻」は「教え」と対になっています。それは、神からいただいた啓示の言葉で、モーセには律法が教えとして与えられたように、預言者たちには幻が示されました。この御言葉によってイスラエルの民は神の御前を正しく歩むことができました。しかし、それを見失って自分の思い通りに行動した時には手酷い失敗を犯しました。特に王を始めとする指導者たちの不信仰は、民全体に不幸をもたらしました(2、7、12節、他)。 聖書は、私たちに与えられた幻であり教えです。この指針によって一人の人も社会も堕落や腐敗から免れます。「地の塩・世の光」とされた私たちは、御言葉によってそうあることができます。 Sun, 08 Mar 2020 00:10:00 +0000 御言葉に立ち続ける者として(マタイによる福音書 4章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200308 no 2020 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」 (マタイによる福音書4章4節) キリストは、伝道を開始される前に「40日間」の試練を受けられました。その悪魔の誘惑のなかで主イエスは、申命記の言葉を用いてすべての誘惑に勝利されました。そこで用いられた御言葉はすべて、出エジプトにおけるイスラエルの「40年」の荒れ野の旅路を思い起こさせます。 申命記8章2節にこうあります。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」。このあと、主イエスが引用された上記の有名な御言葉へと繋がっていきます。つまり、主イエスは悪魔の誘惑のなかでこの御言葉を実践されたのでした。 今、私たちは「40日間」に及ぶ「四旬節」を過ごしています。キリストはこの後も御言葉に立ち続けられ十字架へと向かわれました。私たちもこの時、それぞれにあった救いの出来事、奴隷の家からの解放の出来事を覚え、神に感謝して、御言葉に立ち続けたく思います。私たちは神の口から出る一つ一つの言葉に生かされるのです。 Sat, 07 Mar 2020 00:10:00 +0000 主の教えを尊ぶ人の祈り(箴言 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200307 no 2020 教えに耳をそむけて聞こうとしない者は その祈りも忌むべきものと見なされる。 (箴言28章9節) 「神に従う人」とは、主の教えに謙虚に耳を傾け、それを喜んで実行しようとする人です。「神に逆らう者」とは、自分の考えにとらわれて、外から語られる神の言葉に聞こうとしない人のことです。この二つの立場をよく考えて、自分はどちらなのだろうと反省することが真の信仰への第一歩です。 この章では、「神に逆らう者」が幾つも言い換えられています。「教えを捨てる者」(4節)、「悪を行う者」(5節)、「利息、高利で財産を殖やす者」(8節)、「教えに耳をそむけて聞こうとしない者」(9節)、「正しい人を悪の道に迷い込ませる者」(10節)、そして「金持ち」(11節)「貪欲な者」(22、25節)、などです。これらの人々の社会的影響力についても警告がなされます。「指導者に英知が欠けると搾取が増す」(16節)。 人間は罪を犯して神に逆らう者になりました。しかし、神は憐れんで、人が信仰によって生きる道を備えてくださいました。罪を悔いて謙虚に御言葉の知恵を求める心に、聖霊は確かに聞かれる祈りを私たちに備えてくださいます。 Fri, 06 Mar 2020 00:10:00 +0000 叱ることもまた愛(箴言 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200306 no 2020 あらわな戒めは、隠された愛にまさる。 愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える。 (箴言27章5節~6節) 人を叱るのも叱られるのも苦手な今の時代です。しかし、叱ってくれる人が周りにいないのは不幸なことではないでしょうか。特に子どもたちの成長には欠かせません。本気で叱ってくれる大人に出会ったとき、子どもたちは確かに信頼できる人が身近にいることを覚えて、涙を流しながらではあっても心に安心を覚えるのではないでしょうか。 心だけで愛することも、表向きだけの愛情表現も、どちらも真実の愛には足りないと御言葉は語ります。隣人のありのままの姿を見て、その人に誠実に接しようとするならば、時には「それではいけない」と言わなければならないこともあるでしょう。そうした言葉の真実が互いの信頼関係を築いてくれます(17節)。 聖書を通してお語りになる神もまた、時に厳しい言葉で私たちを叱られます。主イエスも弟子たちを叱ることがありました。それは、私たちに対する神の忠実さの表れであることを私たちは疑いません。私たちはそれによって自分の罪を知り、悔い改めて、神の恵みのもとへと帰ることができます。 Thu, 05 Mar 2020 00:10:00 +0000 愚か者・怠け者・嘘つき(箴言 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200305 no 2020 自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。 彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。 (箴言26章12節) 神の前に知恵ある者として生きることを教える箴言は、それに対比される「愚か者」のあり様を幾重にも描いて見せます。主イエスは、「兄弟に…『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と教えておられますから、箴言の御言葉をたてに人を裁くことは慎まなければなりません。けれども、人間はこのような愚かさを持つということをわきまえ、自分自身、日々、罪の赦しを乞いながら、愚かな振る舞いに陥らぬよう、祈りたいところです。幾分ユーモアを交えて描かれるのは、教育的な効果を期待してのことでしょう。 私たちは何でも面倒くさがる怠け者ではないでしょう。けれども、主が求めておられるのは主人の帰りを待つ忠実なしもべであることを思い起こして(ルカ12:42他)、きょう一日の務めを全うしたいと思います。 しかし、救いのない愚かさについても箴言は教えています。それは、「自分を賢いと思い込んでいること」です。他人の忠告にも神の知恵にも聞こうとしないその態度が致命的な結果を招きます。この悪に対抗できるのは聖霊だけです。 Wed, 04 Mar 2020 00:10:00 +0000 主イエスをとおして自己を知る(ルカによる福音書 18章9-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200304 no 2020 「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 (ルカによる福音書18章14節) 目の前の問題に適切に対処するためには、まず自分の置かれた状況を正しく理解する必要があります。このたとえで登場する二人の人は、どうだったのでしょうか。 ファリサイ派の人は、徴税人を自分と比較し、律法をまじめに守っている自分は御心にかなった正しい者であると理解しています。他方、徴税人は、自らが御心から遠く離れた罪人であると理解し、そのことを嘆いています。この自己理解に基づいて、彼は神に憐れみを乞い、神との和解を切に求めています。 ファリサイ派の人は、自分の置かれた状況を誤って理解していました。自分の置かれた状況を正しく理解することは、この人だけでなく誰にとっても難しいのです。 私たちは皆、このファリサイ派の人と同じような誤解を、多かれ少なかれ自分に対して持っています。だからこそ、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」という主イエスの裁きを、自らのこととして聞く必要があります。それによってはじめて、私たちは、自分の置かれた状況を正しく理解できるのです。 Tue, 03 Mar 2020 00:10:00 +0000 御言葉に聞く大切さ(ルカによる福音書 16章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200303 no 2020 「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 (ルカによる福音書16章31節) キリスト教では復活を信じています。しかし、それを未信者の方に信じてもらうのは容易ではありません。主イエスの復活の奇跡が現代にも起これば、多くの人が信じてくれるのに。こう思うのは、わたしだけではないでしょう。 この金持ちも、気持ちは同じでした。死者が現れるという奇跡が起これば、兄弟たちは悔い改めるはずだと主張しています。しかし、死者が生き返るという奇跡を見ても、それは人が悔い改めに至るのに十分ではないのです。事実、主イエスの復活を目の当たりにしても、悔い改めるどころかそれを隠蔽しようとする人びとがおりました(マタ28章11節以下)。 大切なことは、モーセと預言者に耳を傾けることです。これらは、旧約聖書の御言葉を指します。金持ちの兄弟たちは、旧約聖書の御言葉に触れる機会はあったのです。しかし、それを神の言葉として受けとめ、耳を傾けることをしていませんでした。聖書に記されている言葉を神の言葉として受けとめて、それに真摯に耳を傾けること。これこそ、どんな奇跡を目の当たりにするよりも、人を悔い改めに導くのです。 Mon, 02 Mar 2020 00:10:00 +0000 神の喜びを共にする(ルカによる福音書 15章11-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200302 no 2020 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」 (ルカによる福音書15章32節) 父から受け継いだ財産を使い果たした弟が帰宅しました。彼は役立たずを通り越して厄介者です。そのような弟の帰宅を、父は常識外れなほどに喜びます。弟にしてみれば、想定外のもてなしによって父に迎え入れられました。父は兄の帰宅を待たず祝宴を始めました。 怒ったのが兄です。なだめるために出てきた父に、兄は不平を言います。弟が父から受けているもてなしは、兄が長年父から受けたいと望んでいたものだったのです。それを受けるために、兄は何年も父に仕えました。しかし、自らが望み続けたもてなしを、財産を使い果たして突然帰ってきた厄介者の弟が受けています。そのために兄は、弟の帰宅を父と共に喜ぶことができなかったのです。 もし、自らの望みが叶うことのみを期待して神に仕えるならば、兄のように神に不平をもらしながら、喜びの少ない歩みをすることになるでしょう。自分自身の望みが叶うことによって喜びを得ようとするのではなく、神の喜びを共にするように私たちは招かれています。こうして、私たちに真の喜びが与えられるのです。 Sun, 01 Mar 2020 00:10:00 +0000 父なる神との関係で生きる(マタイによる福音書 6章1-6,16-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200301 no 2020 「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 (マタイによる福音書6章18節) 善行について教える1節の御言葉を受けて、16節からは断食に関する事柄が扱われています。 当時、他人へのアピール、自己訓練に熱心であることを表明する意味で断食が行われることがありました。しかし、断食はあくまで、神との「縦の関係」の中で行うものです。神の御前に自らの欠点や弱さ・甘さ・罪などを、ひと時生きること(食べること)を止めてでも見つめる行為、あるいは自分の命と引換えでも神に心から願う行為、その意味で断食は神への信頼から行なうべき行為でした。 断食は、その意味で祈り(5-15節)に等しい行為です。あくまで父なる神との間の行為だからです。あなたの心が、父なる神との密な関係の中に置かれていることが問われています。 このことを話されたキリストご自身、父なる神への従順を徹頭徹尾、示されました。ご自身の思いをいつも父なる神へと向け、その父の御心に従って十字架へと向かわれました。 今年のレントを歩み始めた私たちは今一度、心が神へと向いているのか、御言葉から問いつつ歩みたく思います。 Sat, 29 Feb 2020 00:10:00 +0000 女性を大切に守る王(士師記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200229 no 2020 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。 (士師記21章25節) イスラエルはベニヤミンとの戦いを始める際、「我々は誰も自分の娘をベニヤミンに嫁として与えないこと」を誓っていました。ベニヤミン族との戦いの後、この誓いがベニヤミン族の滅亡を招くと後悔します。彼らはベニヤミン族を絶やすまいと策をめぐらしますが、更なる犠牲を引き起こします。ギレアドのヤベシュを攻撃し処女4百人を強奪(12節)、さらにシロで行われる主の祭りで、踊り出る乙女たちをベニヤミン族が強奪するよう手配してしまいます(19節以下)。こうして、主なる神に従わず、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行」うことが女性に多大な犠牲を強いると、士師記は告発するのです。あわせて、これを防ぐためにも主によって立てられる王が必要だと訴えます。 イエス・キリストは、このような士師記の時代のありさまとはうらはらに、女性をとても大切になさいました。そして、自分の目に正しければよしとする人の罪を砕いてくださいます。キリストこそ士師記の願いに応えるまことの王です。王なるキリストが世界全体を治めてくださるよう祈り願いましょう。 Fri, 28 Feb 2020 00:10:00 +0000 犠牲を出して主に立ち帰り(士師記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200228 no 2020 イスラエルの人々は皆、そのすべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。 (士師記20章26節) イスラエルがベニヤミン族による非道の責任を問いただすと、ベニヤミン族は反発し、神の民同士の内戦が始まってしまいます。イスラエルの方が兵の数は多かったのに、一度目二度目とイスラエルが敗れ、何万人もの犠牲者が出てしまいます。三度目の戦いにあたり、イスラエルは断食し、献げ物をしました。これは自分たちの罪を主の前に悔い改め、神の御心にこそ従うという姿勢の表れでした。そして、自分たちが多数だとおごることなく慎重な姿勢で戦い、イスラエルはようやく戦いに勝利することができました。 この出来事に、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行う」ことが当たり前だった人々を立ち帰らせようとする主の計らいをみることができます。罪深い人間は、自分中心の生き方がいかにひどい犠牲をもたらすのかを突き付けられないと、目が覚めないのです。 神は罪深い私たちのため、独り子イエス・キリストを世に送り、罪を犯されなかったお方を十字架で犠牲になさいました。神の言葉と聖霊によりキリストの犠牲が示されるとき、私たちは悔い改めへと導かれます。 Thu, 27 Feb 2020 00:10:00 +0000 今までにないひどさ(士師記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200227 no 2020 「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。」 (士師記19章30節) この章の焦点はレビ人の言動です。旅先でならず者に押しかけられると、側女を外に押し出して自らは中にこもり、側女への暴行を許してしまいます。翌朝レビ人がようやく玄関を開けると、側女が倒れていました。呼びかけても返事はありません。レビ人は故郷に戻ります。そこで丁重に側女を葬ると思いきや、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送り付けてしまいます。そして、「ギブアの首長たちが自分を殺そうとし、側女を辱めた」と訴えました(20章4節以下)。自分が側女を外に押し出したことには口をつぐんで。イスラエルの人びとは「こんなひどいことは今まで見たことがない」とベニヤミン族に対して憤り、戦闘に突入してしまいます。 ここで本当に非難されるべきは、レビ人の極度の身勝手さです。神を離れて生き、人の身勝手さが極まるところ、昔も今も「こんなひどいことは今まで見たことがない」と嘆く事態が引き起こされるのです。キリストは私たちの身勝手の罪を打ち砕き、私たちを神のもとに立ち帰らせ、こうした嘆きを終わらせてくださいます。 Wed, 26 Feb 2020 00:10:00 +0000 これも「自分の目に正しい」から(士師記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200226 no 2020 「誰があなたをここに連れて来たのか。あなたはここで何をしているのか。ここでのあなたの務めは何か。」 (士師記18章3節) 17章からの続きで、ダン族も「自分の目に正しいとすることを行」う者として登場します。ダン族は、ヨシュア19章で、一旦嗣業の地を割り当てられましたが、ほとんど入手できず、別の土地を探しました。彼らはライシュの町に目をつけます。穏やかで他の人びととの交渉もなく(7節)、簡単に勝てると見たからでしょう。ライシュを攻めるにあたり、精神的な支柱を求めてか、ミカの家から偶像を奪い、ミカの家の祭司も口説いて自分たちの祭司にしてしまいます。 実は、この祭司はモーセの直系の子孫(30節)でしたが、人の強さだけを見て乗り換えてしまうのです。ミカは兵を伴い追いかけますが、ダン族が自分より強いとみるや引き返してしまいます。「自分の目に正し」ければよしという価値観に生きたミカは、同じ価値観のダン族に敗れ去ることになりました。 ミカやダン族のような「自分こそ正義」という生き方は、周囲との衝突、力による決着を招くだけで、誰も幸せにしません。自分でなく主なる神を正しさの規準とするところにこそ人間のまことの幸いはあります。 Tue, 25 Feb 2020 00:10:00 +0000 誰が主のようなものか(士師記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200225 no 2020 そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。 (士師記17章6節) サムソンの死後、イスラエルの堕落は、あらゆる面で極まります。そして、内輪もめに終始します。 17章にミカが登場します。これまでの士師記の流れなら新たな士師の登場かと思われます。しかし、ミカは士師とは言えません。そもそもミカという名は「誰が主のようなものか」という意味です。ミカは母の銀貨を盗み、親を敬わず、盗みをごまかすため神の名をみだりに用い、聖書の神と異なる神を考え、その像を造り、と十戒の大半を犯しています。「わたしミカこそ主だ」と言わんばかりの態度です。神礼拝の神殿すら自前で保有し、ついにはベツレヘムから寄留地を求めてやってきたレビ人を祭司に迎え、「今や主がわたしを幸せにしてくださることが分かった」と決めつけてしまいます。(13節)。これらは「自分の目に正しいとする」ならばよしとする考え方から生じました。 生まれながらに罪のある人間の目は、愚かな判断を下してしまいます。罪を洗い流され、主の喜ばれる判断を下せる目を持つことができるよう、祈りましょう。 Mon, 24 Feb 2020 00:10:00 +0000 最後の祈り(士師記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200224 no 2020 サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」 (士師記16章28節) 最愛の女性デリラに執拗に迫られ、サムソンは彼の怪力の秘密を明かしてしまいます。彼はペリシテ人の策略により髪を剃られ、力を失い、捕らえられて両目をえぐられ、青銅の足枷をはめられ、牢屋で粉を引かせられる者となりました。 サムソンはすべてを失い、暗黒の底におちました。そのような身となって、彼は思い起こしたのです―自分がどのような存在であったのかを。彼は神のもの、神に取り分けられた者でした。彼にとって、神がすべてであったはずでした。怪力も神の賜物であった。神の御心にかなって用いるべきであった。主なる神の御前に、彼は心から悔い改めるのです。 ペリシテ人たちは宴会を開き、サムソンを見世物にしようとします。その場所で、彼は最後の祈りをささげます―主よ、わたしを思い起こしてください。今一度だけ力を与えてください。 彼の髪はまた伸び始めていました。彼は建物の柱を力を込めて押し、建物は3千人のペリシテ人の、また彼自身の上に崩れ落ちました。生涯の最後に、彼はナジル人としての使命を果たしたのです。 Sun, 23 Feb 2020 00:10:00 +0000 わたしの人生の出来事すべてに意味がある(マタイによる福音書 17章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200223 no 2020 「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」 (マタイによる福音書17章4節) 暗い夜空に輝く満点の星は私たちの心に感動を与えます。ところが、もしこの光景から暗い夜空だけを切り取ってしまったらどうでしょうか。多分、星は見えなくなってしまいます。暗い夜空と輝く星は一つになってこそすばらしい光景となるのです。 栄光に輝く主イエスの姿を目撃したペトロは、「ここに仮小屋をつくりましょう」と提案します。突然のことで驚いたペトロの思い付きは、そのまま彼の本音を表していました。ペトロはこのすばらしい出来事をいつまでもとどめておきたいと願ったのです。しかし、ここで示された主イエスの栄光の姿は、十字架と復活という主イエスの救い主としての全生涯から現れ出たものなのです。 「自分の人生にはよいことだけが起こってほしい」というのが私たちの本音かもしれません。しかし、私たちの人生に起こるすべての出来事があって私たちの人生の本当の価値が分かります。よいことも、そうとは思えないことも含めた、すべての出来事があってです。たとえきょうの出来事が暗闇のように思えても、それもまた大切な出来事の一つだと言えるのです。 Sat, 22 Feb 2020 00:10:00 +0000 祈るサムソン(士師記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200222 no 2020 彼は非常に喉が渇いていたので、主に祈って言った。「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました。しかし今、わたしは喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています。」 (士師記15章18節) 「これがお前たちのやり方なら、わたしはお前たちに報復せずにはいられない」(7節)。15章でもサムソンは、力にまかせてふるまっています。彼をとらえているのは報復の論理です。神は力ある方です。しかし、神が力ある方であるとはどういう意味なのか。神から与えられた怪力の賜物を、サムソンはふさわしい仕方で用いているのか。そう問わざるを得ません。 しかし、そのような中でも、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ者として彼をお選びになったこの主の御計画は、確かな仕方で進められています。 そのことは、この章の後半に記されている奇跡のような事実によってわかります。千人ものペリシテ人をろばのあご骨で打ち殺す。この大仕事をやってのけた後、彼は主に祈ります。喉の渇きを覚えて祈るのですが、喉の渇きは霊の渇きでもあったでしょう。力の論理に生きることのむなしさにとらえられたのでしょうか。 ともあれ、彼は主に祈ります。主は彼を力づけてくださいます。彼は確かに「ナジル人」であったのです。 Fri, 21 Feb 2020 00:10:00 +0000 主の御計画(士師記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200221 no 2020 父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。 (士師記14章4節) ペリシテ人の娘に一目ぼれし、力ずくで思いを遂げようとする。ペリシテ人たちに出したなぞかけを解き明かされた腹いせに、30人もの無実の人の命を奪う。14章におけるサムソンのふるまいは破天荒と言うか、傍若無人と言うか、きわめて自分勝手です。彼は母の胎にある時からナジル人として聖別された人でしたが、そのような人の姿はここには見受けられません。 しかし、この破天荒な、とてもナジル人にふさわしいとは見えないサムソンもまた、主のご計画の中にあったのです。ここでの彼のふるまいも、すべて彼を「ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者」(13章5節)とするために「ペリシテ人に手がかりを求めて」おられた、主の御手の支配のうちにあったのです。この時には「父母」にも、だれにもわかりませんでした。しかし、サムソンはこの後、文字通りナジル人としての尊い使命を果たすことになるのです。 主のご計画は人の思いを超えています。主の御心の深さ、大きさ、不思議さ、はかり難さをわきまえる霊のまなざしを持ちたいのです。 Thu, 20 Feb 2020 00:10:00 +0000 賜物を主のために(士師記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200220 no 2020 「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」 (士師記13章5節) 13章から16章は、十二人の士師たちの最後に登場するサムソンについて記します。ご自身に背いたイスラエルを、主はペリシテというきわめて手ごわい敵の手に、それも40年の長きにわたって渡されます。このペリシテの支配からイスラエルを救い出すために主が立ててくださった士師がサムソンです。 サムソンの誕生のおり、主の使いが彼の両親に現れ、生まれてくる子はナジル人であると告げます。ナジル人。特定の務めのために聖別された人です。献身のしるしとして、ナジル人には髪の毛を切らない、酒を飲まない、死体に触れないといったことが求められました。 献身者に求められること。それはつねに御心を求め、御心に従って生きることです。サムソンは怪力で知られた人でした。しかし、人並みはずれた能力を持つことそのものが神の人の証明であるわけではありません。怪力も神の賜物です。その賜物を、ゆだねられた働きのために、御心にかなった仕方でいかに用いるのか。サムソンはその点を問われることになるのです。主は私たちにもこのことをお問いになります。 Wed, 19 Feb 2020 00:10:00 +0000 実を結ぶための配慮をいただいて(ルカによる福音書 13章6-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200219 no 2020 「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」 (ルカによる福音書13章8節~9節) 実のならないいちじくの木。これは主イエスの言葉を聞くすべての人に関係します。3年もの間、このいちじくの木は実を結びませんでした。したがって、切り倒すという判断は当然です。神の裁きを前にして、誰もが切り倒されて当然なのです。 しかし、園丁の執り成しによって、もう1年猶予が与えられました。期間だけではありません。この期間に、園丁によって肥料があたえられるのです。これは、3年間実を結ぶことのできなかったいちじくの木が、今度は実を結ぶことができるようになされる特別な配慮です。 いま私たちが過ごしている時間は、このたとえでいう猶予期間にあたります。この期間には限りがあります。明日、この期間が終わってしまうかもしれません。しかし、私たちがこの限られた期間に実を結ぶことができるよう、園丁である主イエスがあらゆる配慮をなしてくださっているのです。主イエスの十字架の死もそのためでした。神は私たちの結ぶ実を心待ちにしてくださっています。主イエスの恵みへの感謝の応答という実を、きょう、このときから結ぼうではありませんか。 Tue, 18 Feb 2020 00:10:00 +0000 本当の命綱(ルカによる福音書 12章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200218 no 2020 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 (ルカによる福音書12章19節~20節) バンジージャンプをしたら紐が切れて落ちてしまった。そういう衝撃的な映像をテレビで見たことがあります。この人の命綱は役に立ちませんでした。 役に立たない命綱は危険です。愚かな金持ちは、自らが持っている多くの財産を自らの命綱としています。それに信頼し、安心しきっています。19節の「ひと休みして」という発言に、それが表れています。しかし、死を前にして、財産という命綱は何の役にも立ちませんでした。この役に立たない命綱に信頼しきっていたところに、この金持ちの愚かさがあります。 それでは、どのような命綱に信頼すれば、私たちは真の安心を得てひと休みできるのでしょうか。主イエスはその答えを私たちに示してくださっています。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節、新改訳2017)。 主イエスこそ、安心できる命綱です。決して切れることはありません。このお方が、今日も私たちを御もとに招いてくださっています。 Mon, 17 Feb 2020 00:10:00 +0000 律法をどう読むか(ルカによる福音書 10章25-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200217 no 2020 「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」 (ルカによる福音書10章26節) 「読む」とは、理解し行うことを含みます。主イエスを試そうとした律法の専門家は、自分の正しさを証明するために律法を読んでいました。彼に対して主イエスは、善いサマリア人のたとえを話されます。 ある人が追いはぎに襲われ、半殺しにされました。それを見た祭司とレビ人は、道の向こう側を通って行ってしまいました。律法には、死体に触れると汚れるという記載があるからです(民5章2節)。この人たちは、律法の専門家と同様に、自分の正しさを証明するために律法を読んでいました。 一方、サマリア人は憐れに思い、彼を介抱しました。当時サマリア人とユダヤ人は犬猿の仲でした。それを脇に置いて、彼は自らの憐みの感情に従ったのです。愛の心によって、追いはぎに襲われた人の隣人になったのは、このサマリア人でした。 27節にあるように、律法は愛することと切り離して読むことはできません。主イエスは十字架の御業によって、真の愛を示されました。この愛をとおして律法を読むとき、私たちは永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。 Sun, 16 Feb 2020 00:10:00 +0000 不完全な私たちを赦す神の完全さ(マタイによる福音書 5章38-48節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200216 no 2020 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 (マタイによる福音書5章48節) 現代社会に生きる私たちを襲う心の病の中で、多くの人が経験するものがうつ症状です。うつ症状に陥ると、今まで当たり前のようにできたことができなくなります。どんなにがんばろうとしても、まるでエンジンが空回りしているように、体が言うことをきかないのです。教会にも、このような症状で苦しんでおられる方が多くおられます。 うつ症状に襲われる人の多くは今の自分を赦すことができずに、自分で自分を裁き続けてしまう傾向があります。そしてすべての自分のエネルギーを使い果たしてしまうのです。 真面目な信仰者はよく「わたしは聖書が教えるように、自分の敵を愛することができません」と言って、自分の信仰が不完全であることを嘆きます。自分を赦すことができずに苦しみ続けるのです。 しかし、神はそのような私たちを完全に赦してくださっています。だから、もはや私たちは自分を責める必要はありません。神の完全な赦しの中に生きることが信仰のうつ症状から解放させる最もよい処方箋だと言えます。神の完全さにこそ、私たちの心を向けたいと願います。 Sat, 15 Feb 2020 00:10:00 +0000 闇の現実から(士師記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200215 no 2020 エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」と言ったからである。 (士師記12章4節) 先の11章にはエフタがアンモン人との戦いに勝利したことが記されていましたが、12章に記されるのはイスラエルの部族同士の戦いです。アンモン人との戦いにおいて、ギレアドの人エフタはギレアドと親しかったマナセの人びとに同行を呼びかけましたが、エフライムの人びとには声をかけませんでした。エフライムの人びとはこのことでエフタに激しく不平を言います。 エフタはこれに対し、かつて自分とギレアドの人びとがアンモン人と戦っていたとき、あなたたちは助けてくれなかったと反論しますが、エフライムの人びとは私たちにことわりもなく勝手に戦いを始めるなど身の程知らずだとエフタを非難し、ギレアドの人びとを嘲ります。怒りに燃えたエフタはギレアドの人びとを集めてエフライムと戦い、エフライムを撃ち破るのです。 同じ民族同士、しかも神の選びの民同士が互いに高ぶり、憎み、争い、命を奪い合う。士師記の時代の暗さを思わずにはおれません。この闇の現実から光なる御方、憎しみと争いの連鎖からすべての民を解き放つ十字架のキリストを仰ぐようにと、聖書は私たちを促します。 Fri, 14 Feb 2020 00:10:00 +0000 ただ信頼せよ(士師記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200214 no 2020 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 (士師記11章30節~31節) 勇士エフタは、アンモン人との戦いに勝利しました。それは主が彼と共におられたからです。「主の霊がエフタに臨んだ」からです(29節)。主の民に勝利をもたらしてくださるのは、主なのです。 ところが、エフタはこの戦いの際に、主に誓いを立てて言いました。主よ、もしこの戦いに勝たせてくださったなら、わたしの帰りを出迎えた者を焼き尽くす献げ物としてささげます。 この誓いには、どうしても戦いに勝ちたい、勝利を確実なものとしたいとの彼の思いがにじんでいます。確かに彼は勝利しました。しかし、人間を犠牲として主に献げることは、主御自身が禁じておられたことでした。そして、何ということでしょう。帰ってきた彼を家の戸口で出迎えたのは彼の最愛の娘であったのです。エフタは悲しみ嘆きますが、主に対する誓いは取り消すことができません。彼は愛する娘の命を失わなければならなかったのです。 この悲劇は、神と取り引きする心から生じました。「主の霊がエフタに臨んだ」。それで十分であったのです。全能の主の力に信頼すること。ただそれだけでよいのです。 Thu, 13 Feb 2020 00:10:00 +0000 主の憐れみのゆえに(士師記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200213 no 2020 彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになり、主はイスラエルの苦しみを見るにしのびなくなった。 (士師記10章16節) 主の恵みを忘れて主を裏切り、偶像の神々にひれ伏す。主の怒りの御手に打たれて苦境に立たされると、臆面もなく主の御名を呼び、救いを求めて叫ぶ。しかし、すぐにまた主の恵みを忘れ、主の目に悪とされることを行う。これが繰り返される。 要するに、イスラエルの民にとって、主なる神は「困った時の神頼み」的な存在にすぎませんでした。三浦光世氏はあるとき奥様の三浦綾子さんに、神を偶像化してはならないと言われたそうですが、イスラエルは彼らの主を偶像の一つにおとしめました。人間の罪深さがこの神の民の姿の中にあらわれています。 主はイスラエルのそうしたありかたを底の底まで知り抜いておられました。にもかかわらず、驚くべきことにイスラエルを捨てることをなさらず、そのたびごとに助けの御手を伸ばされたのです。 それはひとえに、「イスラエルの苦しみを見るにしのびなくな」る、主の憐れみによることであったのです。その憐れみによって、主は独り子を十字架におつけになりました。私たちが御自身にしっかりと根差して生きることができるようになるために。 Wed, 12 Feb 2020 00:10:00 +0000 信教の自由と預言者の務め(エゼキエル書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200212 no 2020 7日の後、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。」 (エゼキエル書3章16節~17節) 「信教の自由」も「政教分離原則」も法制度としては近代国家の智慧です。しかし、同時にそれは聖書の教えに適うものです(創立宣言)。 創世記1章27節は、「神は御自分にかたどって人を創造された」と教えています。すべての人間には神のかたちとしての人権があるのです。つまり、人権は国家が与えるものではなく、神から与えられた普遍的賜物です。そして、その人権の中で最も重要なものの一つとして「信教の自由」があります。なぜなら、「神のみが良心の主」であるからです(ウェストミンスター信仰告白20章2)。たとえ国家権力であっても、信教の自由、良心の自由を侵してはなりません。そして、こうした人権を守るために、日本国憲法は第19条で「思想及び良心の自由」、第20条で「信教の自由、国の宗教活動の禁止(政教分離原則)」を定めているのです。 教会は、国家が信教の自由や政教分離原則を侵害し、基本的人権を侵害することがないように、「国家を見守る者としての預言者的な務め」(創立30周年宣言)を果たしていくことを、主から求められています。 Tue, 11 Feb 2020 00:10:00 +0000 信教の自由を守るための闘い(エステル記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200211 no 2020 「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」 (エステル記4章14節) 2月11日は、休日の「建国記念の日」ではありません。私たちにとっては、「信教の自由を守る日」であり、信教の自由と政教分離を守るための闘いを自覚する日です。 戦前、2月11日は「紀元節」とされていました。神道神話に基づき、「神武天皇が初代天皇に即位して日本国が始まった日である」として、1873年に明治政府が定めた祭日でした。それが1967年より、「建国記念の日」という名前で復活したのです。戦前の日本は天皇を現人神とする祭政一致の国家神道体制であり、神社参拝や天皇崇拝が国民に強制されました。教会もそれに追従する罪を犯しました。私たちは二度とその過ちを繰り返してはなりません。 昨年の天皇代替わり儀式が政教分離の原則を無視して、神道の宗教儀式によって行われたことからも分かるように、再び政教分離と信教の自由を制限しようとする政治的力が強くなっています。今こそ私たちは、自らに信教の自由が与えられ、この時代に遣わされていることの使命を自覚し、信教の自由を守るために共に祈り、共に声を上げていきましょう。 Mon, 10 Feb 2020 00:10:00 +0000 死の陰の地に住む者に光を(士師記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200210 no 2020 ミグダル・シケムの首長は皆これを聞き、エル・ベリトの神殿の地下壕に入った。…民は皆それぞれ枝を切ると、アビメレクについて行って、それを地下壕の上に積み、そこにいる者を攻めたて、地下壕に火をつけた。ミグダル・シケムの人々、男女合わせて約千人が皆、こうして死んだ。 (士師記9章46節、49節) ギデオンの側女の子アビメレクは、母方の親戚を味方につけ、ギデオンの息子70人を殺しました。兄弟全員を「一つの石の上で殺す」、計画的で残忍な殺人です。彼は父から残酷さと権力欲を受け継ぎました。その後、彼はシケムで王となります。 3年後、シケム市民はアビメレクに反乱を起こしました。彼は反乱を鎮圧し住民を虐殺します。そして彼自身も、テベツの町を攻撃したとき、町の城壁から投げ落とされた挽き臼により頭蓋骨を砕かれ、死に至ります。 仲間割れによる殺し合い、結託していた王と民との間に「険悪な空気」を送り込まれたのは神ご自身です(23節)。この悲劇の原因は異教の神バアル・ベリトを神の民が拝んだことにあります(8章33節)。 私たちの神は妬む神です。異教の神殿を信じて逃げ込み焼け死んだ神の民。神はそれでも民を愛されます。妬むほどに私たちを愛する神は立ち帰って生きるよう求められます。死の陰の地に住む者(マタイ4章16節)に、光なるキリストを送られた愛の神に、心から感謝をささげます。 Sun, 09 Feb 2020 00:10:00 +0000 正しい基準を教える主イエス(マタイによる福音書 5章21-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200209 no 2020 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」 (マタイによる福音書5章21節) 高校生のとき、わたしはスポーツテストで50メートルのタイムを計る審判員をしたことがあります。ところが、わたしのタイムの測り方が間違っていたのでしょうか。すべての生徒の測定結果が普段の記録より良くなっていたのです。その結果、わたしはクラスメートから「走った意味がない」と怒られてしまうことになりました。すべての生徒の記録がよくなったから、それでよかったという訳にはいかなかったのです。 律法学者やファリサイ派の人々は律法の教えを彼らなりに理解し語っているうちに、誰もが良い結果を得ることができるようにしてしまいました。知らず知らずのうちに律法の教えからズレてしまっていました。ここで主イエスが「命じられている」と言われている部分は、彼らが旧約聖書からつくりあげた一つの基準だったのです。 主イエスは「わたしは言っておく」と、律法が要求している本当の基準をここで教えられます。主イエスの基準に従うなら、自分の力で「律法による義」を獲得できる人は誰もいません。すべての人が主イエスによって与えられる「信仰の義」を必要としています。 Sat, 08 Feb 2020 00:10:00 +0000 心からの悔い改め(士師記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200208 no 2020 ギデオンは彼らに答えた。「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」 (士師記8章23節) 勝利を収めたギデオンが王になることを、イスラエルの人びとは求めます。しかし彼は「主があなたたちを治められる」と断りました。とても信仰的な発言に聞こえます。でも実はそうではないのです。彼は口先では信仰を語り神を尊びますが、実際は王のように振舞います。勝利という手柄が彼を高慢にしました。ミディアンの王たちを殺したのは個人的な復讐の色が濃く、仲間のスコトやペヌエルの住民も彼を助けることを拒否しました。彼が主の命令を踏み越えたからです。 さて、ギデオンは戦利品の金を集め、礼拝用のエフォドを造ります。そして、祭司のように自分勝手に礼拝を行いました。これは伝統的な祭司職の軽視を意味します。彼の自宅にはバアル像があったため誘惑されたのでしょう。指導者のこの軽薄な行動は、人びとが聖所を軽んじるきっかけとなります。そのため、民全体に偶像礼拝の腐敗が広がりました。 私たちも自分の言葉と行いを顧みましょう。言葉と行いの間にズレがないか、口先だけの信仰でないか。神は私たちの真心からの悔い改めと献身を愛してくださいます。 Fri, 07 Feb 2020 00:10:00 +0000 神からのテスト(士師記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200207 no 2020 ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」 (士師記7章15節) ギデオンはミディアン連合軍と数キロの距離で向き合っています。ギデオン軍は3万2千人、対する敵は13万5千人(8章10節)。相手は4倍以上であるのに、神は人が勝利を誇らないために恐れる兵士を去らせます。そうして2万2千人が去り、残るは1万人。3分の2近くが離脱し将軍ギデオンの心は萎えたに違いありません。それでも主は兵士が多いと言い、水飲み場で手から水をすすって飲んだ者だけを残されました。こうして神からの二度のテストを経て残った兵士はたった300人です。 その夜、主はギデオンに敵陣への偵察を命じます。彼にとって敵は「いなご」や「海辺の砂のように数多く」見えました(12節)。実は将軍の彼こそが戦いを恐れていたのです。そのとき、彼は敵たちがイスラエルに圧倒される夢について語るのを耳にします。彼らはイスラエルの神を恐れていました。ギデオンは話に心打たれ、神を礼拝します。彼の心は恐れから勝利の確信に変えられました。 神は信仰者の目を御自身に向けることで励まし、強めてくださいます。神にこそ私たちは勇気をいただくのです。 Thu, 06 Feb 2020 00:10:00 +0000 変革は弱く小さなところから(士師記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200206 no 2020 その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」 (士師記6章11節~12節) ギデオンは敵を避けて、酒ぶねの中に隠れていました。彼のことを御使いは「勇者よ」と言います。人の目にギデオンは勇者らしくありません。しかし、神は彼を用いられるのです。 ギデオンはやめてほしいと弁解します。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」(15節)。自分の弱さを数えるギデオンに神はしるしを与えて勇気づけます。 さて、ギデオンが神から最初に命じられた仕事は自分の家を清めることです。彼の家にはバアルの祭壇がありました。その祭壇を、彼は人目を恐れてこっそり夜中に壊しました。 近所の人たちは怒り、ギデオンを殺そうとします。しかし、ここで彼の父親が回心し真の神の側に立ったのです。「もしバアルが神なら…自分で争うだろう」(31節)。 神に強くされた弱い人たちを神は用いてくださいます。「わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12章10節)。この後、ギデオンを中心にして神の戦いに参加する人たちが続々と与えられました。 Wed, 05 Feb 2020 00:10:00 +0000 進んで身をささげるとき(士師記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200205 no 2020 デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った。 イスラエルにおいて民が髪を伸ばし 進んで身をささげるとき 主をほめたたえよ。 もろもろの王よ、聞け 君主らよ、耳を傾けよ。 わたしは主に向かって歌う。 イスラエルの神、主に向かって わたしは賛美の歌をうたう。 (士師記5章1節~3節) 士師デボラは、イスラエルに勝利を与えてくださった神に心からの賛美をささげました。それが士師記5章にある長い歌です。 歌の内容は次のとおりです。敵の将軍シセラは、多くの軍勢によりイスラエルを襲いました。しかし、神は戦場に大雨を降らせ、戦車はぬかるみで立ち往生し、軍馬は逃げ出しました(21、22節)。命からがら脱出したシセラも、逃げ込んだ天幕で寝首をかかれ、命を落とします。 デボラは、まさに主が民に先立たれ勝利を賜ったのだと喜びにあふれ、力いっぱいイスラエルの神、主を賛美します。しかし、この歌を共に歌えない民がありました。戦いに参加しなかった部族です(15~17節)。自分たちとはこの戦いは関係が薄いと思ったのでしょう。 勝利の歌は「進んで身をささげ」た者たちに与えられます。この言葉は「ボランティア」とも訳せます。問題が多いこの世にあって、神は人の自由な意思を用いてご計画を実現されます。主の戦いに進んで身をささげる時、喜びの賛美の歌が私たちに約束されています。 Tue, 04 Feb 2020 00:10:00 +0000 戦いの主人公は誰なのか(士師記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200204 no 2020 デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。 (士師記4章9節) イスラエルが主の前に再び悪を行ったため、主はカナンの王ヤビンと将軍シセラに主の民を隷属させられました。彼らは鉄の戦車を900両持っており、軍事技術に勝っていました。 対するイスラエルは、高価な軍備はおろか国も組織されていません。支配は20年におよびます。イスラエルの人びとは悩み、主に助けを求めて祈りました。イスラエルに勝ち目はあるのでしょうか。 勝ち目はある、と女預言者デボラは考えました。彼女はバラクを指導者にして戦士1万人を集結させます。デボラはバラクに神の御心を告げます。「わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢を…集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」と(7節)。何と神は敵の将軍をまるで自分の将棋の駒のように自由に扱われるのです。それでもバラクはデボラに同行を願い、神ではなく人間に助けを求めます(8節)。結果、勝利はしてもその栄誉はバラクにもたらされません。 信仰は神が私たちのために戦ってくださることを教えます。私たちのために戦ってくださる主に信頼し、きょう一日を歩みましょう。 Mon, 03 Feb 2020 00:10:00 +0000 それでも救う神(士師記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200203 no 2020 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのためにひとりの救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った。 (士師記3章15節) 背信、裁き、叫び、そして士師による救い、これが士師記のパターンを作っています。そしてまた、この理想の形式が次第に崩れていくところに、この時代の悲しみがあります。二番目の士師エフドからすでに崩壊が始まります。 神が起こされた敵モアブの王エグロンは、神の民を18年間苦しめました。助けを求める民に神が与えられた士師は左利きのエフドです。彼は両刃の剣を作り、右足に縛り付けます。左利きの彼には使いやすく、敵の警備を欺くためでもあります。 エフドは丸腰と思われ、一人敵陣に入り、貢ぎ物を収めます。「神からの託宣」と言って内密の話をもちかけ、王と二人きりと油断させたところを剣で一突き。王は死にました。非常に太った王の名前エグロンは「子牛」という皮肉な意味です。彼は贈物に弱く騙されやすい。また王が殺されても家来は気づかない。敵の滑稽さとエフドの狡猾さが対照的です。エフドはだまし討ちをした点で不完全ですが、それでも神は彼を用いました。人間の弱さや罪がはびこる時代にも、神は助け手を必ず備えてくださいます。 Sun, 02 Feb 2020 00:10:00 +0000 律法による義ではなく、信仰による義(マタイによる福音書 5章13-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200202 no 2020 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」 (マタイによる福音書5章20節) ロシアの文豪トルストイは、晩年に主イエスが教えた山上の説教の内容に傾倒し、真のキリスト者はその言葉の通りに生きることが大切だと主張しました。ところが、自分の財産を貧しい人に施そうとしたときに家族の反対を受けて、彼は家出をします。結局、彼は旅先の小さな駅舎で一人息を引き取った、と言われています。 「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」と、主イエスは私たちに教えています。もしこの義が山上の説教の内容を実践することであるとしたら、私たちもトルストイと同じ挫折を経験するはずです。律法学者やファリサイ派の人々は「律法による義」を追い求めました。人間の行いと努力による義を求めました。 しかし、どんなに私たちが努力しても、自分の力で神の義を満たすことはできません。主イエスはそのような私たちのために、十字架にかかって完全な義を実現してくださいました。山上の説教の教えはこの主イエスに私たちを導く案内人のような役割を果たしています。「信仰による義」こそが私たちには必要であると気づかされるのです。 Sat, 01 Feb 2020 00:10:00 +0000 尽きることのない主の憐れみ(士師記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200201 no 2020 主の僕、ヌンの子ヨシュアは110歳の生涯を閉じ、…その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。 (士師記2章8節、10節) 指導者ヨシュアが亡くなりました。それでも、神のなさった大いなる御業を見た長老たちが生きている間、民は主に仕えました。しかし、次の世代になると、「主を知らず」、主の「御業も知ら」ず(10節)、カナンの豊饒の神バアルやアシュトレトを拝むようになります。神は怒りに燃え、敵の手に民を任せ、略奪されるがままになさいました。 苦しみ呻く民を神は憐れみ、士師を立てて、外敵から救ってくださいます。ところが、その士師が死ぬと、神の民は以前よりひどく堕落しました。 このように、神の民はまるでらせん階段を転がり落ちるかのように悪くなります。これは、神の裁きであると同時に、異教の民の中で信仰の節操を彼らが守るかどうか、試みるためでもありました(22節)。 その後も主は民を憐れんで、士師を送ってくださいます。背き続ける民を憐み、何度でも。ここに暗い時代を照らす光があります。神に従うことができない民の代わりに主イエスが父なる神に従いきることで、私たちの命を勝ち取ってくださったのです。 Fri, 31 Jan 2020 00:10:00 +0000 熱くも冷たくもない信仰(フィリピの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200131 no 2020 主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった。 (フィリピの信徒への手紙1章19節) リーダーのヨシュアが死に、約束の土地への態度が変わります。士師記の1章は映画で言うと予告編のように、これからのことを圧縮して示す序文です。 さて土地を獲得するために、最初に立ち上がったユダ族はエルサレム南西方面で戦果を得ました。しかし占領は敵の戦車を恐れて徹底できません。かつてヨシュアは、鉄の戦車を追い出せると言いました(ヨシュ17章18節)。この言葉を彼らは忘れてしまったのでしょう。 またベニヤミン族はエブス人と共に住み、ヨシュアの真似をしてベテルを攻めたヨセフ族は、神の言葉に背いて異邦人を生き延びさせます。北部の部族も戦いは中途半端でした。 つまり戦いは征服にはじまりつつも、異教の民との妥協的共存で終わるのです。彼らは少しの戦いで満足し戦いを止めます。一見、戦いが無いことは平和に見えるかもしれません。しかしそれは偶像礼拝への「罠」だと聖書は語ります(2章3節)。神への信仰を守るための戦いをお座なりにした平和は本当の平和ではありません。私たちの信仰に戦いはあるでしょうか。 Thu, 30 Jan 2020 00:10:00 +0000 憐れみの器(フィリピの信徒への手紙 2章19-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200130 no 2020 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 (フィリピの信徒への手紙2章29節-30節) 「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」(4章18節)。エパフロディトはフィリピ教会からの支援物資を、牢獄にいるパウロに送り届けるために遣わされた人です。おそらく彼は、そのままパウロのもとに留まり、捕らわれの身であったパウロの代わりに、キリストのために働いたのでしょう。パウロは彼を、「わたしの兄弟、協力者、戦友」であると言います(25節)。 しかし、彼は病にかかり、それ以上働けなくなりました。「せっかく祈りと期待をもって送り出してくれたのに、申し訳ない」と感じたかもしれません。実力主義の世の中では、結果が出なかったり、役に立たないと判断されたりすれば、簡単に切り捨てられます。しかし、ここには弱い者に注がれる主の憐れみが教えられています。 パウロは、エパフロディトをフィリピに帰すにあたり、「彼を大いに歓迎するように。彼のような人を敬うように」と勧めます。病で弱った者は、フィリピに戻っても何もできないのでしょうか。いいえ、主の教会では、弱さを知っている者こそが、憐れみの器として用いられるのです。 Wed, 29 Jan 2020 00:10:00 +0000 キリストのへりくだり(フィリピの信徒への手紙 2章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200129 no 2020 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 (フィリピの信徒への手紙2章3節-5節) 一致して歩むようにというパウロの言葉から、フィリピの教会の現実が見えてきます。何らかの争いや不和によって、思いを一つにできないでいたのです。 教会はキリストの体です。一人ひとりは各器官です。一つの体の中で、各器官どうしが争っていては、体は前に進めません。足は前に進もうとしているのに、目が横を向いていてはしっかりと歩けません。 パウロは、フィリピの教会が一致して歩むために「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と教えます。そして、そのへりくだりはキリストのうちにはっきりと示されているのだと。 時に、へりくだるのが難しく、「わたしを誰だと思っているのだ」と言いたくなる時もあります。しかし、私たちは誰でもないただの罪人です。神の身分でありながら、僕の身分となって自らの命をささげたキリストは、「わたしを誰だと思っているのだ」などとは言われませんでした。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」へりくだられたキリストが、私たちの内に生きておられます。 Tue, 28 Jan 2020 00:10:00 +0000 幸せの板挟み(フィリピの信徒への手紙 1章12-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200128 no 2020 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。 (フィリピの信徒への手紙1章23節-24節) 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。これは、牢獄に入れられ、何らかの判決が下されるのを待っているパウロの告白です。 自分がもし釈放されて、さらに生きることが許されるならば、わたしにとって生きるとはキリストである。主に仕え、実り多い働きができるだろう。それも幸いなこと。 しかし、もし死刑の判決が出て、牢獄から出ることなくこの世を去るとしても、それはただちにキリストと今より密に結ばれることになるのだから、それもまた幸い。 パウロは、牢獄にいながら、自分は幸せの板挟み状態であると言っているのです。判決がどう下ろうとも、キリストと共に歩む幸いが用意されている。 「進むも地獄、退くも地獄」という言葉があります。どう生きても厳しい現実が待っている。そのような不安の板挟み状態を生きている人も少なくないでしょう。しかし、キリストに結ばれているならば、私たちも幸せの板挟み状態を生きているのです。生きるにしても死ぬにしても、キリストが共におられます。 Mon, 27 Jan 2020 00:10:00 +0000 感謝・喜び・祈り(フィリピの信徒への手紙 1章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200127 no 2020 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 (フィリピの信徒への手紙1章3節-4節) 私たちは、自分の身がいつどうなるかわからない状況に置かれるとき、まず誰の顔を思い浮かべるでしょうか。愛する家族や、お世話になった人たち、大切な時間を共に過ごした兄弟姉妹ではないでしょうか。パウロは、この手紙を牢獄の中で記しました。自分の身に何が起こってもおかしくない状況で、フィリピの教会の兄弟姉妹たちを覚えて祈っていたのです。 この手紙を読むと、フィリピの教会にも争いや不一致があったことがわかります。地上の教会は、どこかに弱さや破れを抱えています。 しかし、フィリピの群れに向けられるパウロの眼差しは、感謝と喜びに溢れています。それは、パウロがイエス・キリストの福音を通して、フィリピの兄弟姉妹たちを見ているからです。キリストの十字架の贖いのゆえに、ただ恵みによって赦されたこと。この恵みの福音を通して、フィリピの群れの兄弟姉妹を見つめています。 きょう、私たちは誰を思い浮かべて祈るのでしょうか。恵みの福音の光の中で、感謝と喜びの眼差しを持って、とりなすことができますように。 Sun, 26 Jan 2020 00:10:00 +0000 山上の説教(マタイによる福音書 5章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200126 no 2020 「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 … 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。」 (マタイによる福音書5章3節、9節) 主イエスは山に登って、九つの幸いを説かれました。それらは、弟子たちだけではなく、天の国の民とされたすべての者に約束された幸いです。 「幸い」は「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、そして「義に飢え渇く人々」に与えられます。それは、周囲からの圧迫と自らの無力さによって、神のもとに逃れざるをえない人々に与えられます。 また、この「幸い」は、「憐れみ深い人々」、「平和を実現する人々」にも与えられます。それは、私たちが神の御心に従って、人々に仕える時に与えられます。 主イエスは十字架にお架かりになり、流された血によって、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださいました。こうして、主イエスは神と人に仕え、平和を実現されたのです。 主の日の礼拝で語られる御言葉と、ともに働く聖霊とが、私たちの内にキリストを形づくります。そのキリストが私たちに、幸いの教えを生きるように促してくださいます。私たちの行うことは微々たるものですが、主イエスは私たちを励まし、支えてくださるのです。 Sat, 25 Jan 2020 00:10:00 +0000 今、悔い改めることの大切さ(エゼキエル書 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200125 no 2020 わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 (エゼキエル書33章11節) エルサレムの陥落という決定的な出来事を経験し、あまりにも大きな罪を犯してしまったために滅びるしかないと絶望する捕囚の民。彼らに対して、主なる神はエゼキエルを通して励ましの言葉をかけてくださいました。主は決して悪人が死ぬことを喜ばれません。むしろ悔い改めて悪しき道から立ち帰って生きることを喜んでくださるお方です。それはエルサレムの陥落と捕囚を経験した民にこそ当てはまります。悔い改めて生きる道は、どれほど大きな罪を犯した者たちにも常に残されているのです。 過去の正しさが現在の罪を贖うことはできません。同時に、過去の罪が現在の真実な悔い改めを無効にすることもできません。なぜなら主なる神は、善悪の量を計って人を裁かれるのではなく、今この時の悔い改めを重んじてくださるお方だからです。 私たちは生かされている、きょうという日に、真実な悔い改めと、イエス・キリストを信じる信仰をもって、御言葉に聞き従う歩みを積み重ねていきたいと思います。「またいずれそのうちに」と思っている人に、明日があるとは限らないからです。 Fri, 24 Jan 2020 00:10:00 +0000 割礼なき者の滅び(エゼキエル書 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200124 no 2020 「陰府の中から、最も強い勇士たちが エジプトとその同盟者たちに語る 割礼のない者、剣で殺された者たちは 下ってきてそこに横たわる、と。」 (エゼキエル書32章21節) ここにはエルサレム陥落の知らせが伝えられてから間もなくエゼキエルに啓示された、エジプトに対する神の審判の預言が記されています。 前半はエジプトの王ファラオに対する嘆きの歌です。ここでファラオは殺される巨大な「わに」にたとえられています。水中で暴れまわる暴虐な「わに」のようなファラオも、主なる神によって多くの民を通して裁かれ滅ぼされます。闇は神の刑罰のしるしであり、豊かな水が澄むのは人も家畜も追いやられていなくなるからです。こうして周囲の民に不安と恐怖を呼び起こしつつエジプトは滅びるのです。 後半には陰府に下るエジプトの姿が描かれています。彼らが滅んで陰府に下ると、そこには先に滅んだ多くの国がすでに横たわっています。地上で恐れられ、栄華を極めた国々も、その高ぶりのゆえに「恥を負う」ことになります。そこにいるのは「割礼のない者」、異邦人です。しかし、神の民はこの滅亡にあうことは決してありません。主イエスが私たちの代わりに全ての恥を負ってくださったからです。私たちはこの恵みに感謝しつつ、愛する隣人たちの救いのために祈りましょう。 Thu, 23 Jan 2020 00:10:00 +0000 鳥が巣を作る木(エゼキエル書 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200123 no 2020 「大枝には空のすべての鳥が巣を作り 若枝の下では野のすべての獣が子を産み 多くの国民が皆、その木陰に住んだ。」 (エゼキエル書31章6節) ここでエジプトは比類なく美しい巨木にたとえられています。その木は他の木々よりも高くそびえ、すべての鳥がその枝に巣を作り、すべての獣、多くの国民がその木陰に宿りました。しかしそのような繁栄もファラオ自身の力によるのではなく、創造者であられる主なる神のご計画によってもたらされたものでした。そのことを悟らずおごり高ぶったエジプトは、その傲慢のゆえに裁かれ滅ぼされ、荒れ果てた場所として鳥と獣の住みかとされます。 すなわち、もはやエジプトに庇護を求める者はいなくなり、かえって彼らに侵略されます。この預言はバビロンによるエルサレム包囲の終わりごろに語られたと考えられます。窮地でなおエジプトに期待を寄せる民に、その愚かさが明らかにされたのです。 神を忘れて傲慢になった国はみな、歴史の流れに飲み込まれ、滅びました。主の御国のみが決して裏切ることのない、永遠に続く神の国なのです。そのはじまりはからし種のように小さいのですが、やがては空の鳥が巣を作るほどの大木になります。この神の国に宿り、その成長に仕える者となりましょう。 Wed, 22 Jan 2020 00:10:00 +0000 剣を奪い与える方(エゼキエル書 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200122 no 2020 「主なる神はこう言われる。 泣き叫べ、ああ、その日は災いだ。 その日は近い。主の日は近い。 それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。 剣がエジプトに臨み、戦慄がクシュを襲う。」 (エゼキエル書30章2節-4節) ここでは、主が力強い御手を振るわれる「主の日」に行われるエジプトへの裁きが預言されています(1節~19節)。主なる神は、高慢(6、18節)のゆえに、また偶像崇拝(13節)のゆえにエジプトを打たれます。そしてそのための道具としてバビロンの王ネブカドレツァルを用いられます。彼は自分でエジプトを攻めていると思っていたことでしょう。しかし彼も主なる神によって遣わされた器に過ぎませんでした。しかもそのバビロンも「悪しき者たち」と呼ばれています(12節)。私たちはこの悪しき者さえ用いながら裁きを行われる主なる神こそが絶対的な世界の支配者であられることを覚えるべきです。 さまざまな困難を経験する中で、私たちは時に自らの小ささ弱さを思い知らされることがあるかもしれません。しかし、主に頼らず人間的な知恵や力という「エジプト」に頼ることは最も愚かなことです。その腕を強め、その手に剣を与えてくださるのは主なる神であることを覚えて、私たちはいつも御言葉の剣を携え、暗闇の力に立ち向かう者でありたいと思います。 Tue, 21 Jan 2020 00:10:00 +0000 真に頼るべき方(エゼキエル書 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200121 no 2020 「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書29章21節) 29~32章にかけて、エジプトに対する預言が語られていきますが、29章1~16節はバビロン軍のエルサレム包囲の頃のものです。 エジプトはユダに対して反乱をそそのかしますが、バビロン軍が侵攻してきたときにはユダを裏切りました。ここで言及されるエジプトの罪は「ナイル川はわたしのもの、わたしが造ったものだ」という高ぶりと(3、9節)、「イスラエルの家にとって葦の杖にすぎない」こと(6節)、すなわちユダに対する裏切りです。そのようなエジプトの王を主なる神は従者もろとも滅ぼし、国土を廃虚とし、その後に小国として再興すると言われます。このことを通してユダは、主なる神に頼らずエジプトに頼るという長年の誘惑から救われるのです。 私たちもさまざまな苦難を経験するときに、主なる神以外のものを頼りにして自分を救おうとする誘惑が常にあります。しかしそれらは本当の意味で私たちを助けてはくれません。私たちが真に頼るべき方は「葦の杖」のようなエジプトではなく、罪と死の支配を打ち砕く「一つの角」なるメシア、主イエスだけなのです。 Mon, 20 Jan 2020 00:10:00 +0000 高慢を裁かれる神(エゼキエル書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200120 no 2020 「お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。」 (エゼキエル書28章9節) ここには「わたしは神だ」(2節)と高ぶる都市国家ティルスの君主への裁きの言葉が語られています(1~19節)。ティルスは世俗的な知恵によって繁栄を築き、富を増し加えていきました。しかしその過程において不正が行われ、不法がみちるようになり、やがては「わたしは神だ」と言うほどおごり高ぶるようになってしまうのです。 そのようなティルスの高慢を神は「最も暴虐な外国人」(7節)であるバビロン軍によって滅ぼされます。その時、自らを神とする彼の思いは幻想に過ぎないということが明らかになるのです。 人間が神のようになろうとする罪への誘惑は、アダムとエバの時代から常にありますが、神は必ずその罪を裁かれます。私たちはこのことを覚えて、私たちの国の、そして世界の為政者たちが、自らの利益のみを考えて平気で不正を行い、人の命を軽んじ、その内心にまで踏み込み支配しようとするような罪を犯さぬように、諦めずに祈りたいと思います。そして真の神のみを神とする者に与えられる祝福を豊かに味わい、喜んで証しできる者でありたいと願います。 Sun, 19 Jan 2020 00:10:00 +0000 天の国の伝道はガリラヤで始まる(マタイによる福音書 4章12-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200119 no 2020 「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダンのかなたの地、 異邦人のガリラヤ、 暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 (マタイによる福音書4章15節-16節) 洗礼者ヨハネが捕らえられ、主イエスをめぐる状況は風雲急を告げます。主イエスはガリラヤのカファルナウムに行かれました。ガリラヤは外国に支配された歴史があり、その文化・宗教の影響が残っていました。そのため、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。主イエスはこの辺境の地で伝道の第一声を上げられました。 それは、預言者イザヤが語ったとおりでした。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。ユダヤ人にとって「光」は救い主を意味しました。彼らが捨てて顧みることのなかったガリラヤに、救い主である主イエスは現れたのです。 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。主イエスの伝道は、希望に見放された人びとに天の国の訪れを告げることから始まりました。さらに、主イエスのなさる癒しや悪霊追放を目の当たりにした人びとは、天の国は自分たちの間に到来していることを知りました。 辺境のガリラヤで始められた天の国の伝道は、その後、世界の各地で推し進められ、私たちにも伝えられました。 Sat, 18 Jan 2020 00:10:00 +0000 豪華商船の沈没(エゼキエル書 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200118 no 2020 お前の富、商品、物品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちは、お前が滅びる日に海の真ん中に沈む。 (エゼキエル書27章27節) ここでは、ティルスが豪華な商船に見立てられ、その繁栄ぶりが描かれています(4~10節)。諸国の富と人材が流れ込み、ティルスは繁栄の絶頂にありました。その姿は自ら「美しさの極み」と称するほどでした。世界中の富が交易品としてティルスを介して行き交っていきました(11~24節)。ティルスはさながら世界の中央市場のようでした。 しかし、その豪華な商船ティルス号は海の真ん中で突然の東風に打たれ、全ての積み荷と乗組員を乗せたままあっという間に沈んでしまうのです。それはバビロンのネブカドレツァル王の攻撃を表しています。ティルスの繁栄にあずかっていた人びとは皆、叫び悲しみ、恐れおののきます。そして諸国の民の商人たちは口笛を吹いてあざけるのです。自らを「美しさの極み」と称するような傲慢は、そのようにして打ち砕かれたのです。 主イエスが「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」(マタ6章20節)天に富を積むことの大切さを教えてくださったことを、私たちは思い起こしたいと思います。 Fri, 17 Jan 2020 00:10:00 +0000 打算の罪に対する裁き(エゼキエル書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200117 no 2020 「人の子よ、ティルスがエルサレムを嘲る。『ああ、諸国民の門であったお前は打ち破られ、わたしのものになった。わたしは富み、お前は廃れる。』」 (エゼキエル書26章2節) エゼキエル書26章から28章には、主にティルスの滅亡に関する預言の言葉が記されています。 フェニキアの主要都市であったティルスは本土から離れた岩の島を本拠とし、良い港を持つ商業の中心地であり、難攻不落の要塞でもありました。そのティルスが、「諸国民の門」(2節)として政治と通商の中心地であったエルサレムが滅ぼされたことにより、交易の利潤を独り占めできると喜び、嘲ったのです。そしてそのようなティルスの非情な打算的罪を神は裁かれ、バビロンとその同盟軍の来襲によって徹底的に破壊され、「人が探し求めても、お前は永久に見いだされることはない」と告げられているのです(21節)。 このような経済中心の非情な打算の罪は、現代社会をも広く覆っているのではないでしょうか。自己の利益のみを追求して他人を憐れむことをしない者たちは、やがては厳しい裁きを身に招くことになります。この世界は神によって造られた世界であり、人間は分かち合い、助け合い、共に生きる者として造られたのだということを、常に心に覚えたいと思います。 Thu, 16 Jan 2020 00:10:00 +0000 復活の主が共に、終わりまで(マタイによる福音書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200116 no 2020 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章20節) 主イエスは、ご自分につまずいた弟子たちをそのままにしてはおかれませんでした。約束どおり復活の後、ガリラヤで彼らに会ってくださり、新しい使命をお与えになったのです。 十一人の弟子たち、その中には三度も主を知らないと言ってしまったペトロもいます。この時には、疑う者もいました。その彼らが、最初に弟子として召されたガリラヤで復活の主にお会いし、世界宣教へと送り出されることになります。主イエスは、弱さのゆえにつまずいた弟子たちを、十字架と復活の恵みによって新しく立ち直らせ、ご自分の弟子として歩むことができるようにしてくださったのです。主イエスは弟子たちに、使命と同時に約束を与えてくださいました。それは、復活の主が世の終わりまで共にいてくださるという約束です。 私たちの教会には欠けもあり、弱さもあります。しかし復活の主が、世の終わりまで共にいてくださいます。この約束に支えられて、私たちの教会も、そこに連なる私たち一人ひとりも、主の召しに応えて、終わりの日まで歩み続けることができるのです。 Wed, 15 Jan 2020 00:10:00 +0000 私たちが見捨てられないために(マタイによる福音書 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200115 no 2020 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章46節) 主イエスが十字架にかけられたとき、周囲の人びとは、「他人は救ったのに、自分は救えない。…今すぐ十字架から降りるがいい」と言って主を侮辱しました。主イエスは十字架から降りようと思えばそうすることがおできになります。しかし、あえて十字架の苦しみを最後までお受けになり、死んで陰府に降られました。主イエスご自身が、「神に見捨てられる」という苦しみをお受けになったのです。 私たちは、信仰生活をしていくときに、試練の中でも信仰を貫いていく自分の姿を思い描くことはないでしょうか。しかし私たちも、ペトロがそうであったように、いざとなれば主イエスを否定し、主を捨ててしまう弱さを持ってはいないでしょうか。生まれながらの私たちは、そのままでは神に見捨てられるほかない者です。しかし、主イエスが私たちの身代わりに、「神に見捨てられる」という何よりも悲惨な苦しみを引き受けてくださいました。それが十字架です。主イエスがすべてを引き受け、担ってくださいました。だから、私たちはどんなときにも神に見捨てられることは決してないのです。 Tue, 14 Jan 2020 00:10:00 +0000 つまずきの中で知る主の恵み(マタイによる福音書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200114 no 2020 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 (マタイによる福音書26章75節) 主イエスはペトロに、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予告なさいました。これに対してペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言します。彼は、自分がどのような試練に遭っても、主に従い通すことができると思っていました。自分がつまずくなどあり得ないと、自信を持っていたのです。しかし、結果は正反対でした。主の予告どおり彼はつまずいてしまいます。 その時、ペトロは激しく泣きました。「呪いの言葉」さえ口にする自分に失望して。 しかし、主イエスは、つまずきを予告されると同時に、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と約束されていました。 復活の主が、かつてペトロを弟子にしたガリラヤで、再び彼を迎え、伝道者として立たせてくださるのです。ペトロが激しく泣いたのは、自分の力に頼っていた彼の自信が、もろくも崩れ去った瞬間でしたが、同時にそれは、復活の主の御力によって立ち上がらせていただく、新しい出発の時でもあったのです。 Mon, 13 Jan 2020 00:10:00 +0000 忠実な良い僕だ(マタイによる福音書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200113 no 2020 「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」 (マタイによる福音書25章21節) 私たちは神から、それぞれ賜物を与えられています。いろいろな才能、能力、そして何よりも神を信じる信仰、それらはすべて神からの賜物です。 それらは、決して小さいものではありません。一番金額の少ない人が預かった1タラントンでも、6千日分の賃金でした。それにもかかわらずその人は、預かったお金を穴に埋めて隠してしまいました。彼が主人のことを「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」だと思ったからです。けれども私たちの主人である神は、決してそのようなお方ではありません。神は、賜物を用いて生きる私たちを、温かいまなざしで見てくださっています。終わりの日には私たちを、「良い忠実な僕」として喜んでくださり、私たちに「天の御国」の財産を管理させてくださるのです。それは今、地上で与えられている賜物とは比較にならないほど大きなものです。その日を共に目指して歩みましょう。 私たちの賜物は、神のあたたかい愛によるものです。この神に信頼して主にお会いするその日まで、与えられた賜物を生かして歩みましょう。 Sun, 12 Jan 2020 00:10:00 +0000 世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネによる福音書 1章29-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200112 no 2020 イエスは、「来なさい、そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後4時ごろのことである。 (ヨハネによる福音書1章39節) 二人の弟子を伴っていたヨハネは、歩いておられる主イエスに目を留めて、「見よ、神の小羊だ」と言いました(36節)。これを聞いた弟子たちは、即座に主イエスに従う決心をしました。主イエスは振り返って、彼らに「来なさい、そうすれば分かる」と声をかけられます。こうして、彼らは主イエスのもとに泊まることになったのです。 ヨハネによる福音書において、「宿る」、「泊まる」という言葉は特別な意味をもっています(14節、39節)。「泊まる」とは主イエスとともに過ごして、人格的な交流をもつことを表します。 主の日に私たちは礼拝をささげます。私たちは説教で語られる御言葉によって主イエスというお方を知るように、礼拝に招かれるのです。しかし、ただ知識を増し加えることが、私たちに信仰をもたらすのではありません。礼拝には主イエスの霊である聖霊が注がれます。この聖霊によって、私たちは主イエスというお方がキリストであることに眼が開かれるのです。ですから、私たちも、主の日のたびに、「私たちはメシアに出会った」と言い表すことができるのです。 Sat, 11 Jan 2020 00:10:00 +0000 あなたを憎む者になすべきこと(箴言 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200111 no 2020 あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。 渇いているなら水を飲ませよ。 こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。 そして主があなたに報いられる。 (箴言25章21節-22節) これは、ローマの信徒への手紙12章20節に引用されている御言葉です。「あなたの敵を愛せよ」(マタ5章44節)という教えは、主イエスが初めて語られたことではなく、すでに旧約聖書の教えの中にあったものです。レビ記19章18節にも、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と言われています。ここで言われている隣人とは、敵対する人びとをも含みます。 ですから、主イエスは、ルカによる福音書10章で、良きサマリヤ人のたとえをお語りになったときにも、あえて敵対しているサマリヤ人の善行を引き合いに出して、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と言われたのです(36節)。 私たちが敵とみなし、見下しているような人であっても、神の目には尊い人であり、そうした身近な一人ひとりの隣人となることを、神は願っておられるのです。さらに、神は、私たちを憎む者、罪を犯している者が、その罪を認めて、悔い改めをもって生きるようになることを願ってもおられます。 Fri, 10 Jan 2020 00:10:00 +0000 七転び八起き(箴言 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200110 no 2020 神に従う人は七度倒れても起き上がる。 神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。 (箴言24章16節) 神に従う人は倒れないということではありません。神を信じていても、災害に遭うこともあれば病気になることもあります。時として思わぬ試練に遭遇することもあることでしょう。周りの人びとから理解されないで、辛い思いをすることもあることでしょう。それだけではなく、絶望し、倒れてしまうこともあります。 しかし、私たちの苦しみや痛み、弱さをご存じである神が、あなたと共にいてくださいます。そして、慰め、守り、立ち直らせて、起き上がらせてもくださいます。きょうの聖句は、神を信じる私たちの確信であり、神の約束でもあります。 ローマの信徒への手紙8章には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります(28節)。今、あなたがどのような現状にあるとしても、神はそのすべてのことを用いて、やがてはそのすべてが益になるように導いてくださるという約束です。この約束を信じて、希望を抱いて生きる者が、神の民、私たちキリスト者です。 Thu, 09 Jan 2020 00:10:00 +0000 聞き従って知恵を得よ(箴言 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200109 no 2020 わが子よ、聞き従って知恵を得よ。 あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ。 (箴言23章19節) 詩編111編には、「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」と言われ(10節)、箴言1章には、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と言われています(7節)。いずれの場合も、知恵の初めは「主を畏れること」だと言われています。 この世の中には、さまざまな分野で指導的な立場に置かれている人たちがおり、それぞれに知識人と考えられていますが、多くの知識を持っている人であっても知恵のある人であるとは限りません。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1コリ8章1節)と、使徒パウロは語っています。 今日の御言葉は、「知恵」を得るようにと私たちに語りかけています。しかし、ここでの「知恵」とは知識を増やすこと、頭でっかちになることではありません。御言葉をとおして、「主を畏れる」知恵を得るように私たちを招いています。神を畏れるところから来る知恵を与えられた人びとは、人や社会を、愛をもって造り上げるように導かれていきます。 Wed, 08 Jan 2020 00:10:00 +0000 初めの教育の大切さ(箴言 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200108 no 2020 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。 年老いてもそこからそれることがないであろう。 (箴言22章6節) わたしに子どもが生まれたころ、ソニーの創業者である井深大氏が書かれた『幼稚園では遅すぎる』という本を読んだことがあります。「乳幼児期の子育ての大切さ」や「母親の影響力」などについて述べているものですが、孫が生まれて、改めて0歳から幼児期の子育ての重要さを考えさせられています。国や社会は両親が愛情をもって子育てができる環境を整えなければなりません。 しかし、制度を整える以上に重要なことがあります。それは「愛」です。「愛がなければ、無に等しい」ということを、身をもって伝えていくことが重要です(1コリ13章1~3節参照)。そのためには、親自身が、神との豊かな交わりの中で、神が与え育んでくださる愛のうちに子どもと共に生きることが求められています。 神の愛によって、愛されて育った子どもの魂は、一生涯神の愛に包まれて、心の核の部分には、感謝と喜びと希望をもって歩み続けることができます。さらに親だけではなく、親と共に教会もまた子どもたちの教育に召されています。主の愛をもって、愛し、共に生きてゆきます。 Tue, 07 Jan 2020 00:10:00 +0000 まことの平和をもたらしてくださる神(箴言 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200107 no 2020 戦いの日のために馬が備えられるが 救いは主による。 (箴言21章31節) 人類はこれまで幾度となく戦いを繰り返してきました。その度に新しい兵器が開発され、今日では、核兵器などの大量破壊兵器が作られ続けて止まるところを知りません。軍備を増強し、その抑止力によって平和を生み出していくと主張する人びともいます。しかし、単純に軍備を拡大することによって世界に平和がもたらされるとはやはり思えません。むしろ、かえって多くの生物や人びとの命が危険にさらされるようになります。 「戦いのために馬を備える」人間の愚かさに対して、神は確かで真実な平和を用意していてくださいます。それは神の御子イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活によってもたらされる平和です。キリストの再臨によって、すべての悪は滅ぼされ、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」時がもたらされるのです(イザヤ2章4節、ミカ4章3節参照)。 このことを知る私たちは、たとえ小さな者であっても平和を祈り求め、平和の実現のために努めていきます。 Mon, 06 Jan 2020 00:10:00 +0000 主に望みをおけ(箴言 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200106 no 2020 悪に報いたい、と言ってはならない。 主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。 (箴言20章22節) 誰かから悪口を言われたり、危害を加えられたとき、私たちの心は、ムカムカしたり、その相手にも何らかの仕返しをしないと気持ちが収まらないというような思いになります。それ自体が、私たちの心が罪に染まっているという印だと言うことができるのではないでしょうか。しかし、誰かを恨み続け、つぶやいている生活には平安がありません。それは、自分自身で恨みと呪いを選択しているということでもあるのです。 ローマの信徒への手紙12章には、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」と言われています(18、19節)。 あなたの心が平安に包まれる秘訣は、神に自分の思いのすべてを打ち明けて、神に近づき、すべてを神にお委ねすることにあります。赦せない思い、腹が立つ思いをそのまま神さまに打ち明けるのです。私たちは自分で自分の思いをどうすることもできません。きょうの御言葉は私たちへの主の招きの言葉です。 Sun, 05 Jan 2020 00:10:00 +0000 主イエス、洗礼を受ける(マタイによる福音書 3章13-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200105 no 2020 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (マタイによる福音書3章16節-17節) あなたは洗礼を受けた時のことを覚えているでしょうか。水の滴りとともに、罪の赦された喜びのこみ上げてきたあの日のことです。 主イエスも洗礼をお受けになりました。主イエスは固辞する洗礼者ヨハネを、「今は、止めないでほしい」と説き伏せて、ヨルダン川に身を沈められました。このようにして、神の御子である主イエスが、罪がないのにもかかわらず、罪の清めを必要とする私たちと同じ位置に立ってくださったのです。 主イエスが水から上がられると天が開き、霊が鳩のように降ってきました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。 主イエスが踏み出していかれるのは十字架への道です。主イエスが十字架で流された血が、私たちの罪を償います。洗礼は主イエスの血にもとづく私たちの罪の清めです。それは、私たちが水で身体の汚れを流すのと同じ確かさで、私たちの罪を清めます。 ですから、神は洗礼を受けた私たちにも、「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださるのです。神の子とされた恵みに感謝します。 Sat, 04 Jan 2020 00:10:00 +0000 主の御心が実現する(箴言 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200104 no 2020 人の心には多くの計らいがある。 主の御旨のみが実現する。 (箴言19章21節) 私たちは、日々の生活の中で自分の願いを実現しようとします。来週には映画を見に行きたいというようなことです。しかし、そういうようなことだけでなく、もっと大きな人生設計のようなものもあります。それらのことは、その通りに実現することもあれば、そうならないこともあります。どんなことでも、その通りにならないとき、憂鬱な思いになったり、ひどく落ち込んだりします。 しかし、神が意思なさったことは、すべてその通りに実現するということを、きょうの御言葉は教えています。主イエスは、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われました。(マタ5章18節) 聖書には、繰り返して何度も罪に堕ちた人類を救うという意思をこの歴史の中に実現なさる神の御力と愛とが示されています。「主の御旨のみが実現する」とは、なんと力強く、慰め深いことでしょうか。たとえ思い通りにならなくても、信仰によってこの御言葉に聞くときに慰められて、しっかり立つことができるようにされます。 Fri, 03 Jan 2020 00:10:00 +0000 小さな群れよ、恐れるな(ルカによる福音書 12章22-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200103 no 2020 「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 (ルカによる福音書12章22節、31章32節) 教会には、福音を伝えるという使命が与えられています。しかし、私たちの信仰の歩みは決して容易なものではありません。とりわけ小さな群れは、御国の前進の兆しが見えないときに、大きな不安を抱えることがあります。初代教会もまた小さな交わりでした。教会の小ささに思い悩むことがあったかもしれません。 しかし、きょうの主イエスの御言葉に耳を傾けますと、主はすでに教会が直面する試みをご存じでした。日々の信仰の歩みにおいて、さまざまなことで思い悩む、小さな群れである私たちですが、私たちの信仰の薄さを主イエスはご存じでした。父なる神は、私たちに必要なものをご存じです。私たちの信仰の弱さも小ささも全てご存じの上で、「思い悩むな」と励ましてくださっています。 長い歴史の中で、教会に集う兄弟姉妹は、この主イエスの言葉に繰り返し励まされてきました。私たちが神の国を求めて祈るとき、父なる神は、喜んで祝福してくださいます。キリストを通して与えられたこの希望を胸に、新しい一年を力強く歩みたいと祈り願います。 Thu, 02 Jan 2020 00:10:00 +0000 主の恵みを数える(詩編 103編2-4節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200102 no 2020 わたしの魂よ、主をたたえよ。 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 主はおまえの罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖いだしてくださる。 (詩編103編2-4節) 詩人は、魂の奥底から、主なる神への賛美を献げています。罪の赦しに始まり、病の癒し、そして命の贖いという、人の歩みを覆う暗闇を照らす、神の恵みへの感謝を歌います。詩人は、与えられた恵みの一つひとつを思いめぐらしながら、賛美の歌を主なる神に献げます。 新しい年を始めるにあたり、昨年の歩みを振り返ると、心残りや失敗を思い出すことがあるかもしれません。けれども、十二弟子の一人であるペトロのことを思い起こしましょう。ペトロは、弟子としての歩みを失敗しました。そのペトロが再び使徒として遣わされたのは、復活の主イエスと出会ったからです。 キリストと出会った私たちには常に新しいスタートが与えられています。使徒パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」と、兄弟姉妹を励まします(2コリ5章17節)。痛みをもって過去を振り返るとき、そこには同時に主イエスの慰めがあります。 罪の赦しに始まり、私たちに寄り添ってくださる主の恵みを数えて、キリストに結ばれて生きる新しい歩みを始めたいと祈ります。 Wed, 01 Jan 2020 00:10:00 +0000 主の招きから始まる(マタイによる福音書 11章28-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20200101 no 2020 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイによる福音書11章28節) 新しい一年の歩みが始まりました。新年への思いはさまざまです。計画を立てながら、期待に胸をふくらませている方もおられるでしょう。一方で、仕事やさまざまな課題を抱えて悩んでおられる方もいらっしゃるでしょう。むしろ思い悩みを覚える人の方が多いかもしれません。 マタイの伝える主イエスの招きは、世に生きる私たちすべてに向けられています。主イエスのもとには、十二人の弟子だけでなく、多くの人びとが集まりました。病に苦しむ人たち、心に苦しみを覚える人たち、社会の片隅に置かれた人たち、当時の宗教的で煩雑な掟や、世の中のしがらみに疲れた人たち。重荷を負う、多くの人びとが集まっていました。 主イエスの招きにあるのは、本当の安らぎです。群衆にとって、自分たちの目の前の現実が変わったわけではありません。しかし、彼らは主イエスの御言葉に聴き、神と共にある交わりに慰められ、憩い、魂の癒しを受けました。 主イエスは、私たちを神と共に生きる歩みへと招かれます。神と共にある者の新しい歩みは、キリストにある安らぎから始まります。 Tue, 31 Dec 2019 00:10:00 +0000 キリストと結ばれる(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191231 no 2019 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 (コリントの信徒への手紙二5章17節) キリスト者は、キリストに結びついています。しかし、キリストと結びつく人は、三つの段階を通ります。 第一は、キリストと結ばれていない段階、これは、生まれ、育てられたすべての人の普通の状態です。その人は、福音を聞くかもしれません。自分の家には聖書がおいてあるかもしれません。しかし、その人は、再び生まれるまでは、キリストと結ばれていないのです。 第二は、キリストと結びつくことです。このことがなければ、私たちは決して、キリストと共にいる段階に至ることができません。すべての働きと労苦が終わり、すでに休息の中にいる兄弟姉妹と共にいることへと導くのは、キリストと結び付くことによってです。 第三に、その人に与えられた栄光の中でキリストと共にいることです。その時、終わることのない命が与えられるのです。キリストと共にいることは、天使たちと喜びを共にすることです。 年の終わりのこの日、私たちは、キリストが再び来られる日を待ち望み、新しい年も栄光の内にキリストと結ばれることを祈り求めましょう。 Mon, 30 Dec 2019 00:10:00 +0000 あなたは人の子を信じるか(ヨハネによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191230 no 2019 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 (ヨハネによる福音書9章35節) キリストは、目が見えるようになったこの人を、ご自分の説教を聞くようにと、招くことはされませんでした。むしろ、御自分から、この人だけに近づかれました。そして、この人に質問をされたのです。「あなたは人の子を信じるか」。 この人は、ファリサイ派の人びとによって苦しめられていました。ファリサイ派の人びとは、キリストを信じようとしませんでした。なぜなら、彼らはキリストに偏見を持っていたからです。このような状態の中で、キリストは言われたのです。「あなたは人の子を信じるか」。 キリストのこの問いは、あなたにも語られています。福音に聞こうとしない人びとに囲まれているあなたに語られているのです。「あなたは人の子を信じるか」。 ですから、あなたは、自分の全生活において、イエス・キリストに敵対してはなりません。あなたは、今、信仰の試練の中にいるかも知れません。しかし、そのあなたに対して、キリストは言われます。「あなたは人の子を信じるか」。この問いに「信じます」と答える信仰の確信を与えられることを祈りましょう。 Sun, 29 Dec 2019 00:10:00 +0000 キリストに従うということ(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191229 no 2019 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。 (ヨハネによる福音書15章14節~15節) キリストのために何かをするという最も価値のある行動は、キリストに従うということです。キリストは、「もし、あなたがたがわたしの命じることを行うならば、あなたがたは、わたしの友である」とおっしゃいました。しかし、キリストに従うとは、人からの賞賛を得るという動機から行われることではありません。信仰者であっても、虚飾から出ていることは、主によって受け入れられません。むしろキリストは、私たち自身を差し出すことを求められます。 自分自身を差し出すこと、この真の愛のしるしを示されたのはキリストです。もし、私たちが何かを与えることが、自分自身を差し出す代わりとなる、と考えるならば、私たちは大きな間違いをしていることになります。 私たちが自分たちの心をキリストに明け渡さないことは、宝の小箱だけを与えることであり、宝石を与えることを惜しむということです。ですから、私たちは、自分が受け入れられる前に、キリストの贖いの血によって清められなければなりません。すなわち、私たちの心そのものが、キリストによって変えられなければならないのです。 Sat, 28 Dec 2019 00:10:00 +0000 キリストによる癒し(マルコによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191228 no 2019 霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 (マルコによる福音書9章26節~27節) ここには「汚れた霊」、すなわち悪霊が登場します。悪霊は怒りを持っていました。なぜなら、キリストがおいでになり、自分が追い出されることが分かったからです。汚れた霊は自分の力を病気の子どもに対して用いました。そのとき、子どもは転げまわりました。そして、あたかも死んだようになったのです。 それはキリストが苦しみを与えられたためではなく、悪霊がキリストに対して反抗したからです。周りの人びとは「死んでしまった」と叫びました。しかし、そのときでさえ、キリストの癒しの手が、差し伸べられるのです。 もし、あなたが自分の前途には何もないと考えるときでも、キリストはあなたのところに来てくださいます。キリストからあまりに遠く離れ過ぎて、キリストは来てくださらない、ということはありません。ですから、あなたが深い罪を感じ、失望を味わうことがあっても、キリストの力を挫折させることはできません。キリストは、確かに、あなたを救うことがおできになります。悪霊がどのような力を振るっても、キリストはすでに勝利しておられるからです。 Fri, 27 Dec 2019 00:10:00 +0000 あなたがたには希望がある(コロサイの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191227 no 2019 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。 (コロサイの信徒への手紙1章5節) 罪があなたの良心に重くのしかかったとき、サタンがやってきて、あなたの心のドアに、「希望なし」と書き、その恐ろしい言葉が貼り付けられたままであったなら、どうでしょうか。キリストの尊い血によって、その黒く刻まれた言葉が拭い去られる、ということがなければどうでしょうか。 キリストがあなたと共におられないならば、あなたは、何の希望も持つことができないでしょう。かつては、それが、私たちの状態でした。そのような状態が全く変えられること、また、キリストによる救いの保証が失望にとって代わるということは、驚くべきことです。 この世の中には、多くの誤った希望があります。それは私たちを欺き、そして、偽りの沼地の中に、私たちを導くのです。そこには希望はありません。 私たちは罪人です。しかし、私たちには望みがあります。既に私たちは福音を聞き、信仰によって、十字架のキリストを見上げたのです。十字架のキリストを見上げることこそが、天にある栄光に満ちた希望に確信を与えるのです。 Thu, 26 Dec 2019 00:10:00 +0000 喜びのはじまり(イザヤ書 52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191226 no 2019 主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。 地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。 (イザヤ書52章10節) クリスマスの喜びは、その救いがすぐそこにまで来ている事実を全世界に宣べ伝えることで深められ、強められます。この良き知らせを他者に伝えれば伝えるほど、私たちの歓喜は溢れるようになります。 クリスマスの福音は、本来伝道的なメッセージです。隣人に伝えずにはいられないものではないでしょうか。主の慈しみを私たちは歌います。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげます。海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものと共に手を打ち鳴らし、山々と共に喜び歌います(詩98編参照)。 私たちはアドベントの間、キリストの贖いの御業の世界的なビションに目を向けてきました。アドベントは最後にキリストのご降誕で完成しました。この喜びを私たちは大胆にこの世界に伝えていきます。ここに私たちの喜びの泉があります。クリスマスは、喜びの終わりではありません。その頂点でもありません。むしろ、喜びの起点、出発点です。今日から、新しく福音を世界に伝えてゆきましょう。その時に私たちの喜びは、さらに大きくされます。 Wed, 25 Dec 2019 00:10:00 +0000 クリスマスの喜び(サムエル記下 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191225 no 2019 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。 王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。 (サムエル記下9章6節) 乳飲み子は誕生されました!待ち望んだアドベントの日々はもはや過ぎ去りました。今や私たちの心の中に湧き出ている喜びは尽きることがありません。神の慈しみは確かで、この世に救い主を誕生させられました。ですから、私たちはきょう、クリスマスを喜び、お祝いします。 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)。このイザヤの預言は、実現しました。 イスラエルはずっと屈辱を味わい続けていました。彼らはあまりに弱く、無力でした。しかし、イザヤはその彼らに希望の言葉を告げました。彼らにギデオンがミディアン人を打ち負かした奇跡的な勝利を思い出させます。 しかし、そこで、新しい軍事的な戦略を語ったのではありません。驚くべきことに、ひとりのみどりごの誕生を預言します。権威が彼の肩にある。「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(5節)。主に新しい歌を歌おう!神の国はやってきました!もう待つ時間は終わりました! 王なるイエス、万歳! Tue, 24 Dec 2019 00:10:00 +0000 アドベントの安らぎ(サムエル記下 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191224 no 2019 わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。 (サムエル記下7章11節) いよいよ明日、私たちはクリスマスを迎えます。わたしたちは、神の国のしるしを見つめながら、アドベントの時を歩んできました。そして、最後にマリアの胎から生まれてくる、あのメシア、あの乳飲み子にこそ私たちはそのまなざしを向けることに招かれています。 きょうの聖書箇所では、神とダビデとの契約の保証人は主ご自身であることが強調されています。ダビデの子孫から、とこしえにイスラエルを支配する者が生まれてきます(12、13節)。その方こそが、救い主です。この方こそが、イスラエルにまことの平和と繁栄とをもたらします。 この箇所のクライマックスは11節にあります。「主があなたのために家を興す」。ダビデが、主のために家を建てるのではありません。そうではなくて、主ご自身がダビデのために家を建てるのです。この約束の最終的な成就が、ダビデの家から生まれたキリスト、王です。クリスマスに誕生された、乳飲み子を見つめましょう。この方が、とこしえまでの王の王です。この方があなたに「安らぎ」を与えてくださいます。 Mon, 23 Dec 2019 00:10:00 +0000 アドベントのしるし(イザヤ書 61章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191223 no 2019 主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 (イザヤ書61章1節) 間もなくアドベントが終わります。この日、預言者イザヤはこのように語りかけます。「救い主の姿はこのようにあって、彼の御業はこのようですよ」と。このとき、私たちに求められていること、それは、「信仰」です。 しかし、神の国は「未だ」到来してはいません。この世の中には御国に反するようなしるしばかりです。私たちがアドベントの信仰を持つことは決して簡単ではありません。しかし、私たちはなおも信じて待ち望みます。 メシアが来られる時に、貧しい人に良い知らせが伝えられます。打ち砕かれた心が包まれます。捕らわれ人には自由が、つながれている人には解放が告知されます。嘆いている人びとが慰められ、彼らに灰に代えて冠がかぶせられます。嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために、メシアは来られます。これがアドベントのしるしです。目を見張るようなことではなく、ささやかで、みすぼらしく、小さな見落としてしまいそうなしるしです。主は「わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11章6節)と言われています。 Sun, 22 Dec 2019 00:10:00 +0000 アドベントの希望(イザヤ書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191222 no 2019 見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。 彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。 (イザヤ書40章9節~10節) きょうから5日間にわたって、クリスマスの喜びに心を集めていくことにしましょう。アドベントは出産を控えた妊婦さんに似ています。赤ちゃんが生まれてくるまでお母さんの気持ちはゆっくりと変化していきます。不安から希望へ、さらに心静かに待つことへ。そして、喜びと歓喜に。私たちもアドベントを過ごすうちにゆっくりと変えられていきます。 今の時を生きる私たちは、救いのために希望を持つことができるでしょうか。いいえ、むしろはじめてのお産を間近に控えているお母さんのように心は不安でいっぱいです。 しかし、このような私たちに預言者イザヤは力強い慰めを語りかけます。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を慰めよ」と。苦役の時は今や過ぎ去り、救いの時が到来しようとしている。不安に満ちた、この世に救い主が来てくださいます。「見よ、主なる神を」。彼は力を帯びて来られ、羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱かれます。 主よ、どうか御霊と御言葉によって私たちの不安を鎮めて、希望をもって待ち望む者に変えてください! Sat, 21 Dec 2019 00:10:00 +0000 祈りを頼み合う(エフェソの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191221 no 2019 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 (エフェソの信徒への手紙6章19節) 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)。こう励ましたあと、パウロは悪魔の策略に対抗するために神のさまざまな霊的武具を身につけること、またすべての聖なる者たちのために「絶えず目を覚まして根気よく祈り続け」ることも命じます。信仰の勇者パウロの姿を彷彿とさせます。 しかしこれで終りではなく、彼はすぐ「わたしのためにも祈ってください」と頼みます。「わたしの」は、原文では「このわたしの」というぐらい強い言葉になっています。信仰の勇者パウロは、自分の弱さもよく知る謙虚な信仰者でした。ですから、ほかの書簡でも祈りを頼んでいます(ロマ15章30節、1テサ5章25節、2テサ3章1節)。 誰かに祈られなくてもやっていける信仰者など一人もいません。祈りを互いに頼み合い、特に福音を大胆に証しできるために(20節)、是非そうしていきたいと思います。 主よ、悪魔の策略に対抗し、福音を生き、福音を大胆に証しできるために、私たちを互いにもっと祈りを頼み合える者にしてください。 Fri, 20 Dec 2019 00:10:00 +0000 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。(エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191220 no 2019 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章10節) パウロは5章で、私たちが物事を判断し、具体的行動に移る場合に大切な原則を示します。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」と。 わたしは20歳の時に初めて教会へ行き、聖書と説教に触れました。物事を考え行動する際の正しい判断基準は何だろうと、ずっとわたしは考えてきました。そのようなわたしにとって「これだ」と大変嬉しかったものが、「何が主に喜ばれるか」を吟味するということでした。 実際には、聖書全体をよく読み、神の御心を十分に知っていなければ、これは簡単なことではありません。しかし、少なくとも、周囲の状況や雰囲気に流されるとか自分の感情や衝動で行動する危険は回避でき、一瞬でも主に祈ってから判断することを可能にさせます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ロマ12章2節)。 主よ、常に、あなたの御心が何かを吟味し判断することから始めさせてください。 Thu, 19 Dec 2019 00:10:00 +0000 謙遜さ、柔和さ(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191219 no 2019 神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 (エフェソの信徒への手紙4章1節~3節) 3章まで神のすばらしい永遠の救いの計画や恵みなど教理的なことを教えてきたパウロは、4章から手紙の読者に実践的勧めをします。但し、「神から招かれたのですから」と、あくまで神の恵みを確認した上で勧めます。 では何から勧めるでしょうか。霊的一致です(3~13節)。しかし、そのために、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって」と述べ、謙遜、柔和、寛容、愛という人格的特質に触れます。それも特に謙遜、柔和(直訳「すべての謙遜と柔和」)という点から始めます。これは何と大切でしょうか。キリスト者は、実践や行動に先立ち、信仰による自らの人格がまず問われるべきことを教えられます。それも、特に神の前での謙遜さや柔和さからです。主イエスも山上の説教の冒頭で「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々」をあげ、キリスト者の最も幸いな人格的特質の筆頭に、謙遜や柔和をあげられます。真に神に喜ばれる私たちの具体的な行動は、これらから生れることを重ねて教えられます。 主よ、私たちをまず謙遜で柔和な者にしてください。 Wed, 18 Dec 2019 00:10:00 +0000 キリストの愛を知る(エフェソの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191218 no 2019 あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 (エフェソの信徒への手紙3章18節~19節) パウロは手紙の読者たちが霊的に成長することを願います。ここでは、特に人知を超えたキリストのすばらしい愛を知るようにと言います。 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを」と、パウロはさまざまな概念を総動員してキリストの愛のすばらしさを語ります。彼もキリストの愛の全貌を知っているのではありません。しかし、罪人の中で最たる者(1テモ1章15節)である自分がキリストの愛に捕えられ、キリストのものとして生きる中で主の愛を知れば知るほど、彼は「神の満ち溢れる豊かさ」に満たされる幸いを覚えるのでした。その同じ幸いに読者たちにも与ってほしかったのです。 ルターは、若い元気な時は自分が死に向っている存在であることを覚え、老年になって死が近くなった時は、死そのものよりイエス・キリストに目を留めるべきだと言いました。私たちも年を重ねる毎に、天におられるキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをますます知り、讃える者にされたいと思います。 主よ、あなたの愛をさらに鮮やかにかつ豊かに知る者へと私たちを清めてください。 Tue, 17 Dec 2019 00:10:00 +0000 恵みにより、信仰によって救われる(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191217 no 2019 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。 (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節) もし救いが、私たちの優れた善い行いとか、あるレベルまで自分の人間性を高める私たちの努力にかかっているとするなら、だれが救われるでしょう。パウロと共に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ7章24節)と叫ぶほか、ないのではないでしょうか。 しかし、主の御名はほむべきかな!なんと神は、このような私たちを、御子イエスを心から救い主と信じ、受け入れ、依り頼む信仰だけで、本当に救ってくださるのです。しかも、御子を信じるその信仰も神がくださったのでした。私たちは、「自分の過ちと罪のために」霊的に「死んでいた」者です(2章1節)。従って、自分で救いに至る信仰を生み出すことなどできません。すべては神の一方的な恵みによるのです。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」。この感謝をどう表せば良いでしょう。 神よ、あなたの一方的な救いの恵みに感謝し、御名をひたすら賛美いたします! Mon, 16 Dec 2019 00:10:00 +0000 天地創造の前に選ばれる!(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191216 no 2019 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 (エフェソの信徒への手紙1章4節) 「神のラブレター」とも言われる聖書には、驚くほど慰め、励ましに満ちた御言葉が随所に見られます。きょうの御言葉もまさにそうです。 自らを省みますと、私たちには永遠の救いに与れる資格など一つもないことがよく分ります。受洗後、何十年たっても不信仰で罪深く、「主よ、お赦しください」と主にすがるほかない私たち! けれども、主イエスから離れることはイヤです。離れられません。何故でしょう。それは、神が「天地創造の前に…わたしたちを愛して、…キリストにおいてお選び」になっていたからなのです。「天地創造の前に」、しかも、十字架で命までささげてくださった慈しみ深い「キリストにおいて」です。何という神の愛と救いのご計画でしょう! いつまでも信仰の薄い私たちですが、神の愛にただただ感謝し、「聖なる者、汚れのない者」になることを私たちに期待しておられる神の愛に応え、御言葉にますます従順でありたいと願います。 主よ、あなたの選びに感謝し、体も心も魂もささげます。主よ、私たちを、ご栄光をさらに顕し、あなたを永遠に喜ぶ者にしてください。 Sun, 15 Dec 2019 00:10:00 +0000 来るべき方(マタイによる福音書 11章2-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191215 no 2019 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」 (マタイによる福音書11章3節) 「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」(10節)。そう主イエスが言われるとおり、ヨハネが「来るべき方」を告げ知らせます。疑問を起こさせるような問い方ですが、こう問うヨハネが「牢の中」にいる、ということが重要です。この問いへの主イエスのお答えは、多くのことにとらわれて、牢の中にいるような私たちへのお答えでもあるということです。 主イエスは「見えない人は見え、…」という代表的な言葉を挙げて、イザヤ書の預言全体が実現していることを示し、ヨハネと私たちを励ましてくださったのです。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(イザ35章4節)。預言どおりわたしが来た、わたしがあなたを救う、と。 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。…主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(ヤコ5章7、10節)。「主の民よ、喜べ。主は近い」(こどもさんびか)。 Sat, 14 Dec 2019 00:10:00 +0000 主なる神はこう言われる(エゼキエル書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191214 no 2019 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、顔をアンモン人に向けて、彼らに預言せよ。アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。」 (エゼキエル書25章1節~3節) 25章から、南ユダ王国を取り巻く、七つの国々に対する預言が語られています。 「アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。お前はわたしの聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったことを、あはは、と言って嘲った」(3節)。こうして、アンモン人は神の民の不幸を笑って嘲りました。 モアブも、「ユダの家も他のすべての国のようになった」と言って嘲りました。彼らは、イスラエルが神に選ばれた民であることを侮ったのです。 エドム人は、「ユダの家に復讐をした」。エドム人の罪は、神の民に対する復讐でした。 ペリシテ人は「復讐し、嘲りの思いをもって大いに仇を報い、昔からの憎しみにかられて滅ぼそうとした」。ペリシテ人の罪は、神の民に対する昔からの憎しみでした。 神は、神の民を嘲った国々に対して滅びを警告されました。それは、神が今もなお、神の民を愛しておられることを意味します。 同じように、神は、私たちの敵であるサタンを滅ぼすことで、神が私たちの味方であることを示しておられます。 Fri, 13 Dec 2019 00:10:00 +0000 わたしが神であることを知るようになる(エゼキエル書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191213 no 2019 「エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる。」 (エゼキエル書24章24節) バビロンがエルサレムを包囲し始めた日、神はエゼキエルにたとえを語るように言われました。さびた鍋のたとえです。さびた鍋に、肉や骨を煮込んで、錆を取ろうとしても、錆は取れません。次に、そのまま強く燃やすように言われます。料理がすべて燃え、空の鍋を火にかけて錆が剥がれ落ちるようにさせたのです。それでも錆は落ちません。それほど、神の民の罪は深かったのです。 続いて神はエゼキエルに、大きな悲しみを予告され、その悲しみの中でも、「声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」と言われました。そして、彼の妻が死んだとき、彼は声をあげずに悲しみ、喪に服しませんでした。 人びとが「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と尋ねると、エゼキエルが声をあげずに悲しんだように、エルサレムが滅ぼされてもイスラエルの民が声をあげずに悲しむようになると預言したのです。 彼が妻の死に対してとった行動で、神が主であることを人びとが知ったように、私たちの歩みが人びとに神を示すものとなりますように。 Thu, 12 Dec 2019 00:10:00 +0000 オホラとオホリバ(エゼキエル書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191212 no 2019 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、かつて二人の女性がいた。彼女たちは同じ母の娘であった。…彼女たちの名は、姉はオホラ、妹はオホリバといった。彼女たちはわたしのものとなり、息子、娘たちを産んだ。彼女たちの名前であるオホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことである。」 (エゼキエル書23章1節~2節,4節) 神は、とても長いたとえを語られます。二人の娘、オホラとオホリバの話です。この二人の娘は、分裂した北イスラエル王国と南ユダ王国を表しています。北イスラエル王国の都はサマリアであり、南ユダ王国の都はエルサレムです。 北イスラエル王国は、アッシリヤによって滅ぼされました。それまでの王たちは、一度も、偶像礼拝をやめることはありませんでした。北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた後も、南ユダ王国は残っていました。これまで北イスラエル王国がやってきたことを南ユダ王国は見ていました。それにも関わらず、南ユダ王国はまったく同じ道をたどっていったのです。 旧約聖書は、神と神の民との関係を、結婚にたとえています。同じように新約聖書も、キリストと教会との関係を結婚にたとえています。どちらも、神と私たちとの関係が契約に基づいた、人格的な愛の交わりだからです。 神との関係を裏切り、神を悲しませたオホラやオホリバのようにではなく、キリストの花嫁である教会の一員として、神との契約を大切に守りましょう。 Wed, 11 Dec 2019 00:10:00 +0000 破れ口に立つ者(エゼキエル書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191211 no 2019 この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。 (エゼキエル書22章30節) 神の民は、金滓のようになってしまったと、神は嘆いておられます(18節)。そして、神の民を裁き、滅ぼしてしまう前に、神は、神と民との間に立って、破れ口に立つ者を探されました。「破れ口」というのは、敵の攻撃で壊された城壁の崩れかかった所で、敵と味方が入り乱れて戦う、戦いの最も激しいところです。そこに立つ者とは、戦いのまっただ中に身を置きながら、関係を修復する努力をする者、間に立って、執り成す者です。 神は、そのような破れ口に立つ者を探されました。それは、神が関係の修復を望んでおられるからです。しかし、それでも彼らの中に見いだすことはできなかったと言われます。この時代に、バビロンには預言者エゼキエルがおり、エルサレムには預言者エレミヤがいましたが、それでも、破れ口に立つ者を見いだせなかったと言われます。 私たちには、神と私たちとの破れ口に立ってくださったイエス・キリストがおられます。主イエス・キリストが十字架の死とあがないによって、神と私たちを和解させてくださいました。 Tue, 10 Dec 2019 00:10:00 +0000 神から試みられるとき(エゼキエル書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191210 no 2019 それは試みを経たものである。もし、それが侮る杖でないとしたら、一体何であろう、と主なる神は言われる。 (エゼキエル書21章18節) ネゲブの森を焼き尽くす火も、エルサレムに向かって送られる剣も、神が神の民を、罪から悔い改めさせて引き戻させるための試練でした。それらの試練が「杖」と言われています。 火が森を焼き尽くしていくことは、イスラエルの民の目には、神の裁きとして見えたことでしょう。同じように、エルサレムに向けられた剣も、神の裁きとして見えたことと思います。しかし、これらの試練は、神の民が罪を悔い改め、神に立ち帰るよう期待されて起きたことでした。もし、神の裁きが民を苦しめるだけのものなら、神からの預言もなく、悔い改めへの招きもなかったでしょう。 私たちの信仰生活でも、時には試練が、神の裁きのように見えることがあります。しかし、その試練の中でもなお神を信頼することができます。聖書がこう約束しているからです。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章5~6節)。 Mon, 09 Dec 2019 00:10:00 +0000 神の愛を知るとき、神の前の自分を知る(エゼキエル書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191209 no 2019 わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。 (エゼキエル書20章42節~43節) 神の民イスラエルは、エジプトからの救いを経験していながら、神が共におられることの喜びと恵みを忘れてしまいました。 バビロンに捕囚となっている神の民の将来と、故郷エルサレムを思う、イスラエルの長老たちが、エゼキエルのもとに主の御心を求めて集まったとき、神はエゼキエルをとおして言われました。 「わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる」と。 光から離れたところでは、シャツに着いた小さな汚れに気付くことはありませんが、光に近づくほど、小さな汚れにも気づきます。同じように、私たちの信仰生活でも、神の愛と恵みを受けるとき、神の御前にある自分を知り、心からの罪の悔い改めへと導かれるのです。 神が神の民を何度も赦されたように、神は何度でも、私たちを赦して、悔い改めへと導いてくださいます。 Sun, 08 Dec 2019 00:10:00 +0000 天の国は近づいた(マタイによる福音書 3章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191208 no 2019 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言った。 (マタイによる福音書3章1節~2節) 主イエスが来られます。それで「悔い改めよ、天の国は近づいた」と告げられます。 この1年も、家庭や職場や教会の一致を破ろうとするいろいろなことがあって、疲れ果ててしまったかもしれません。きょうも共通聖書日課に示されている併読すべき聖書個所に導かれましょう。 「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を…救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように」(詩72編12~14節)。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、…父である方をたたえさせてくださいますように」(ロマ15章5、6節)。これらの祈りにこたえて、私たちの主は来られます。 「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。…弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザ11章3、4節)。主の霊に満たされたキリストが、心を剣で刺し貫くような教えによって私たちを悔い改めさせ、私たちの間の平和を回復してくださいます。 Sat, 07 Dec 2019 00:10:00 +0000 イエスの焼き印(ガラテヤの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191207 no 2019 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 (ガラテヤの信徒への手紙6章17節) 「イエスの焼き印を身に受けている」とは、強烈な表現です。それは、本来、自分が自分の物ではなく、誰かの所有物としての奴隷の身分を表わす言葉だからです。 このようなパウロの生き様に比べると、人との摩擦を避け、迫害されないために割礼を勧めている人びと(12節)は、何と情けなく見えてくることでしょう。 「イエスの焼き印」を受けた者は、しかし、自らを誇る者ではありません。むしろ、その逆です。自分が弱く何一つ誇れるところのない者であることをよく知っている人びとです(3、4節)。だからこそ、罪を犯す人を柔和な心で導くことができるのです(1節)。互いに重荷を担い合い(2節)、すべての人に親切になれるのです(10節)。 「イエスの焼き印」は、十字架の形でしょうか、それともハートの形でしょうか。いずれにせよ、永遠に魂に刻まれる神の愛の形であることは確かです。そして、この焼き印を身に受けた人びとこそ、神によって新しく創造された人なのです(15節)。 そのような人びとの上に、主イエスの平和と憐れみがありますように(16節)! Fri, 06 Dec 2019 00:10:00 +0000 霊の導きに従って歩もう!(ガラテヤの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191206 no 2019 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 (ガラテヤの信徒への手紙5章25節) パウロは、キリスト者の生活を表現するのに、しばしば、「走る」とか「歩く」という比喩を使います。「あなたがたはよく走っていました」(7節)、「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)、「霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25節)等々。 それは、キリスト者の人生が、やがて訪れる希望の実現に向かって前進し続けるものだからです(5節)。そして、何よりキリスト者を活かすキリストと霊御自身が生きておられ、私たちの心と体を絶えず「愛の実践」へと促すからです(6節)。 命の霊の働きは、水の流れに似ています。絶えず流れている水は、いつでも新鮮で透き通っています。そのほとりに植えられた木は、時が来れば実を結びます(22節。詩1編3節)。しかし、そこから逸れて脇道に入ると水は淀み始め、やがて悪臭を放ちます(19~21節)。 霊を呼び込む必要はありません。キリストに結ばれているなら、あなたにもすでに霊は与えられているのですから。その霊の流れを妨げないこと、脇道に入らないこと、それたらすぐに流れに戻る(悔い改める)ことです! Thu, 05 Dec 2019 00:10:00 +0000 神の子の自由を失うな!(ガラテヤの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191205 no 2019 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。 (ガラテヤの信徒への手紙4章19節) 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった…。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(5章1節)。そのことだけが、パウロの願いです。にもかかわらず、「あなたがたのことで途方に暮れている」と無力感に打ちひしがれています(20節)。言葉だけではどうにもならないこともあるのです。 キリスト者に与えられた自由とは、自分が好き勝手にする自由のことではありません。「アッバ、父よ」と神を呼び求める神の子の自由です(6節)。神に知られている幸せを生きる自由です(9節)。キリストにある人びとをどんな人でも喜んで愛する自由です(14節)。 反対に、世の価値観に支配されること、形だけの信仰生活、この世の地位や名誉で人を判断すること、要するに福音を失った魂をパウロは「奴隷」と呼ぶのです。 ああ、私たちは何と容易く自由を失って奴隷状態に戻ってしまうことか。何は無くとも毎日が喜びであった無邪気な子どもの心を、何とすぐに失ってしまうことか。私たちの内に、再びキリストが形づくられますように! Wed, 04 Dec 2019 00:10:00 +0000 目の前に十字架を(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191204 no 2019 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 (ガラテヤの信徒への手紙3章1節) この実に豊かな内容を持つ1章の中で、心にとまったメッセージは何でしょうか。 何の行いにもよらず、ただ福音によって心動かすという“霊”の働きの素晴しさでしょうか(2節)。そのとおりです! その恵みのゆえに神を賛美しましょう。 キリストが私たちの呪いとなられ、今や私たちがすべての呪いから解放されていることでしょうか(13節)。そのとおりです! その愛のゆえに主を賛美しましょう。 何千年も前に語られたアブラハムへの神の約束が、私たちにも及んでいることの驚きでしょうか(22節)。そのとおりです! その真実のゆえに主を賛美しましょう。 洗礼とは、キリストと結ばれ、その愛の衣をまとうことだとの気付きでしょうか(27節)。そのとおりです! 計り知れない洗礼の恵みのゆえに主を賛美しましょう。 そうして、今や私たちは皆、何の差別もなくキリストにあって一つとされていることの喜びでしょうか(28節)。そのとおりです! 何という驚くべき恵み、神の救いの御業でしょうか。 こんなにも恵みに満ちた十字架をきょうも目の前に! Tue, 03 Dec 2019 00:10:00 +0000 まっすぐ歩く(ガラテヤの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191203 no 2019 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたは…どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 (ガラテヤの信徒への手紙2章14節) 主イエスを三度も否定したペトロは、ペンテコステの日に聖霊を受けて、強い信仰を持つ弟子に生まれ変わったはずでした。しかし、信仰者の成長はそれほど単純ではないことをきょうの御言葉は教えてくれます。 イエス・キリストの福音は「どんな国の人でも」救う力があると確信し(使徒10章35節)、異邦人とも食事の交わりを持っていたペトロ。ところが、目の前に律法を重んじる人びとが現れると、彼らを「恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」のです(12節)。 キリストの十字架の福音は、罪深い私たち自身を超え、人を分け隔てする律法を超えて、ただ神の愛に生きる者へと造り変える恵みの力です。ところが、目の前の現実を恐れて「まっすぐ歩いていない」と、まるで湖上のペトロのように沈みそうになるのです(マタイ14章30節)。 「人を恐れると、わなに陥る。主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節、口語訳)。わたしを愛してくださった方(20節)をまっすぐ見つめて歩みましょう。それが、福音の真理に生きる道だからです。 Mon, 02 Dec 2019 00:10:00 +0000 天からの福音(ガラテヤの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191202 no 2019 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 (ガラテヤの信徒への手紙1章11節~12節) 『ガラテヤの信徒への手紙』は、新約聖書の中でも異彩を放っています。新約聖書の約半分を占める書簡を書いたパウロが、自分の存在をかけてまことの「福音」を守ろうとしている手紙だからです。 かつてパウロの宣教によってキリストの福音へと導かれた人びとが、今や「ほかの福音」(6節)に乗り換えようとしている現実に、パウロは衝撃を受けたのです。「ほかの福音」と言っても何か別の福音があるわけではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださり、告げ知らされるべき福音はただ一つなのに! しかも、パウロは、自分を売り込むために言っているのではない。もしこのまことの福音に反することを告げ知らせているのなら、自分もまた呪われるがよい、とさえ言います(8節)。この福音こそ、パウロを変え歴史を変えた、聖書全体を貫く神の啓示の中心だからです。 それは、あのクリスマスの夜に、羊飼いたちに与えられたような知らせです。天から、一方的に与えられた福音です。ですから、誰も誇ってはなりません。ただ神を賛美することこそ、ふさわしい応答なのです(24節)。 Sun, 01 Dec 2019 00:10:00 +0000 目を覚ましていなさい(マタイによる福音書 24章36-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191201 no 2019 目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。…用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。 (マタイによる福音書24章36~44節) きょうから待降節です。暗闇のようなこの世に、暗くなっている私たちの心に、光の主をお迎えしましょう。 「目を覚ましていなさい」と命じられています。いつの間にか世に倣い、肉に従う生活に逆戻りしてしまう私たちに、今、こう呼びかけられています。「自分の主が帰って来られる」日が近づいているからです。 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。…だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ロマ13章11~14節)。共通聖書日課では、このように、福音書と併せて読むべき聖句がいくつか挙げられています。それらと共に読むと、メッセージをより深く受け取ることができます。 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される」(イザ2章1~5節)。きょうの主の日の礼拝で、この道を示していただきましょう。 詩編85編の祈りで礼拝に備えましょう。「主よ、慈しみをわたしたちに示し、わたしたちをお救いください。…主は平和を宣言されます。御自分の民に。…彼らが愚かなふるまいに戻らないように」。 Sat, 30 Nov 2019 00:10:00 +0000 分け隔てを嫌う神(箴言 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191130 no 2019 物乞いをする者は哀願し 金持ちは横柄に答える。 友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある。 (箴言18章23節~24節) 私たちは他の人に対して分け隔てをしてしまいます。にもかかわらず、もし父なる神が人に対して分け隔てをなさったのなら、必ず文句を言うことでしょう。神はすべての人に、平等に天から雨を降らせ、日を照らして作物を与えてくださいます。何よりも、神の御子イエス・キリストを信じる私たちに惜しみなく、公平にキリストの愛と救いをプレゼントしてくださったのです。 キリストの贖いにより無条件に罪を赦されました。わたしたちは、神の子どもです。主にある民なのですから、差別があってはなりません。困っている兄弟に対して口で慰めや励ましを言うだけで何一つ手を貸さない者に対して、主は厳しく臨まれます。 「兄弟よりも愛し、親密になる人もある」。このような愛の関係が友人の間にだけでなく、兄弟姉妹の間にあるなら、麗しい集会となるでしょう。そのような教会は幸いです。主は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)と言われます。必ず豊かな満ち溢れる祝福を受けるでしょう。 Fri, 29 Nov 2019 00:10:00 +0000 愛は人を生かし、欲は罪をあふれさせる(箴言 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191129 no 2019 乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。 (箴言17章1節) 欲望にはいろいろなものがあります。特に金銭欲という罪は簡単に争いを生み出します。いっそ金や物がないほうが、争いが起きなくてすむようです。財産がなければ、兄弟で争いをしなくて済みます。 箴言の知恵者は、「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」と言っています。まさにその通りでしょう。また「悪をもって善に報いるなら、家から災難は絶えない」という警告もされています(13節)。 また危難にあったときの対処の方法は、「愛を求める人は罪を覆う」とあります(9節)。生まれながらの私たちにとって、愛を貫くことは難しいことかもしれません。だからこそ、主に助けを祈り求めます。主にあって悔い改めつつ、御跡に従って行きましょう。「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる」(17節)。このような心から信じ合える友が欲しいですね。それには、自分の方からアプローチしなければなりません。主イエスが人に仕えてくださったように、私たちも待っているのではなく実行しましょう。 Thu, 28 Nov 2019 00:10:00 +0000 御霊に導かれた言葉(箴言 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191128 no 2019 知恵ある心は口の言葉を成功させ その唇に説得力を加える。 親切な言葉は蜜の滴り。 魂に甘く、骨を癒す。 (箴言16章23節~24節) 箴言16章は、人間が計画しても主なる神が答えるべきことを与えてくださる、だから主に委ねなさい、そうすれば計画は実行される、という方向で出発しています。特に舌、口、知恵、唇など、言葉に関する戒めが散りばめられています。 言葉については、ヤコブ書でも多くのスペースが割かれています。そこで言われているように、舌を操り制御することは難しいことが分かっています。実際、他人から思いもかけないきつい言葉や悪口を投げかけられたとき、立ち上がれないような思いになることがあるのではないでしょうか。だからといって、知恵ある言葉を用いたいと思っても、うまく言えない場面が多いのが現実です。 そのようなとき、聖霊なる神に祈ることを主イエスご自身が教えてくれています。聖霊にはさまざまなお働きがありますが、神の御言葉が真理であることを悟らせてくださいます。またどのように祈ったらよいか分からない時に、共に呻いてくださるお方です。知恵ある言葉また魂に語り掛ける言葉は、御霊が働いてくださって、相手をも癒すことでしょう。 Wed, 27 Nov 2019 00:10:00 +0000 キリストの栄光に包まれて生きる(箴言 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191127 no 2019 神に従う人の家には多くの蓄えがある。 神に逆らう者は収穫のときにも煩いがある。 … 心に喜びを抱けば顔は明るくなり 心に痛みがあれば霊は沈みこむ。 (箴言15章6節、13節) 深く悲しく辛い思いが心を占めるとき、私たちの顔色は暗く、生気が感じられません。 本来、キリスト者はキリストと共に死んだのですから、怖いものは何もないはずです。ところが、この世に財産や地位、名誉などに未練がある場合には、主に委ね切っていません。片足をまだこの世に置いて生きているからです。 「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい」とまさに箴言が指摘するとおりです(16節)。 画家のミレーは農民を力強く描いています。『晩鐘』という絵は、1日の労働を終えた夫婦がその日の収穫を前に置いて祈っています。その収穫は、わずかなじゃがいもだけです。それでも心から感謝している姿と私たちには見えます。物質に左右されずに主に感謝する基本的な姿勢を鑑賞者は読み取ることができるからです。 私たちキリスト者の生き方は、無一物のようであっても多くを持っているのです。命にあずかる喜びに生きているからです。きょうも1日、主と共に歩みつつ明るく生きられますように。 Tue, 26 Nov 2019 00:10:00 +0000 死から命への転換(箴言 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191126 no 2019 人間の前途がまっすぐなようでも 果ては死への道となることがある。 笑っていても心の痛むことがあり 喜びが悲しみに終ることもある。 (箴言14章12節~13節) きょうの個所で「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」と言われています。 罪の奴隷であったとき、それはキリストの僕ではありませんでした。自分のやること考えることは間違いないと考えて勝手気ままに生きていたからです。そのような曲がった人生から、主の御旨に生きる人生に変えられた喜びは計り知れません。 使徒パウロは、イエス・キリストにお会いするまでは、自分の正義感で生きていました。それはキリストを否定し、教会を迫害するものでしたから、信仰を持ってからは恥ずかしいと思うものでした。まさに行き着くところは、「果ては死の道となることがある」と身をもって体験していたことでしょう。 けれども、キリストにあって人生は180度変えられます。パウロは告白しています。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章22、23節)。これこそ、まことの喜びの人生です。 Mon, 25 Nov 2019 00:10:00 +0000 賢く生きる信仰者(箴言 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191125 no 2019 富んでいると見せて、無一物の者がいる。 貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。 財産が自分の身代金になる者もある。 貧しい人は叱責を聞くことはない。 (箴言13章7節~8節) いつの時代でも、信仰を持っている者たちは、世の不平等や、悪事で私腹を肥やしているような者たちに対する嘆きを持ってしまうのではないでしょうか。 遺産の分配に関して主イエスに調停を願い出た人物に対して主は愚かな金持ちの譬えを話されました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(ルカ12章20節)。 今日の箇所では、財産を持つことが否定されてはいません。「財産が自分の身代金になる者もある」と言われているからです。神の前に豊かになるかどうかが問われます。自分で払える範囲の金額ならばまだなんとかなりますが、神の前に私たちの命をあがなう身代金は持ち合わせていません。しかし、主なる神は、ご自身を心から恐れる者に対して惜しみなくお与えくださいます。すべてを失ったようなところにおいて、悪どく儲けている人がいても、主を信じ砕けた心で従う者に主は御子イエスをあがないとしてお与えくださるからです。ここに信仰者の慰めと希望があります。 Sun, 24 Nov 2019 00:10:00 +0000 自分を救わないイエス(ルカによる福音書 23章26-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191124 no 2019 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 (ルカによる福音書23章39節) 主イエスは、死んだ者を生き返らせ、病人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静めるお方です。そのような力のあるお方が、今、十字架の苦しみを受けながら、多くの人びとから侮辱され、嘲られています。キリスト者にとって、悲しみよりも悔しくてしょうがなく感じられるところです。 しかし、主イエス・キリストは自分を救うことをしませんでした。何度も繰り返して出てくる「自分を救ってみろ」という言葉は、40日間断食された主イエスを誘惑した悪魔の言葉に似ています。キリストが自分を救うとは、悪魔の思い通りになることです。そうすると、罪深い人間を救うことができなくなるからです。キリストは、そのような悪魔の意図をよく知っておられました。 キリストは苦しみを耐え忍び、十字架の上で死んでくださいました。その苦しみは、本当はキリストの受けるべき苦しみではありません。罪深い私たちが受けるべき苦しみです。私たちの救いのために、決して御自分を救わない主イエスの深い愛を心に留めましょう。十字架のキリストを仰いで礼拝することは、何と大きな幸いでしょうか。 Sat, 23 Nov 2019 00:10:00 +0000 御言葉は永遠に不滅です(マタイによる福音書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191123 no 2019 「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 (マタイによる福音書24章34節~35節) ここで、主イエスはいちじくの木のたとえから再臨のしるしの意味を悟るよう教えておられます。つまり、いちじくの木の枝がやわらかくなり、葉が伸びると夏が近づいていることがわかります。それと同じように、24章29節で言われている天変地異は主の再臨が近づいていることのしるしであると教えられます。天変地異などと聞くと、私たちはどうなってしまうのだろうと恐れ、戸惑ってしまいます。しかし、天変地異は主の再臨のしるしなのです。そして、再臨は主を信じる私たちにとっては、恐ろしい時ではなく、祝福の時、解放の時です。 そうは言うけれども、主イエスの再臨はいまだにないではないか。本当に再臨されるのかと、再臨を疑問視する思いが私たちにはあるかもしれません。 しかし、主の再臨は決して取り消されません。主イエスは約束されています。人の言葉は変えられ、また忘れられてしまいます。しかし、御言葉は、決して滅びることはありません。御言葉に生きる私たちも滅びません。ですから、私たちは主の再臨を祈りつつ待ち望みましょう。 Fri, 22 Nov 2019 00:10:00 +0000 父なる神の慈愛(マタイによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191122 no 2019 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 (マタイによる福音書23章37節) 主イエスはエルサレムに入城されました。そして律法主義で凝り固まっているユダヤ教指導者などエルサレムの状況を見て、嘆かれました。 ここでエルサレムと言っておられるのは歴史を通じたエルサレムに住む人々も含みます。彼らは神から自分たちに遣わされた預言者たちを石で打ち殺してきました。神はこれまで何度も民のために預言者を遣わされました。それは、不信仰と背信を繰り返す彼らを悔い改めへと導くためでした。しかし、彼らは悔い改めようとしませんでした。 そこで、神は御子を遣わされました。御子である主イエスは、悪霊を追い出し、病気を癒し、教えを説き、神の愛を示されました。しかし、多くの民は悔い改めようとしませんでした。主イエスがこの嘆きの言葉を語られたすぐ後、彼らは神の御子である主イエスご自身までも十字架につけて殺してしまったのです。それは私たちの罪の故でもあります。 そんな罪人さえも、今も神は、親鳥が雛を羽の下に集めるように、御許へと集めてくださいます。その神の愛に応えたいと思います。 Thu, 21 Nov 2019 00:10:00 +0000 神のものは神に返しなさい(マタイによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191121 no 2019 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章20節~21節) 主イエスはエルサレムへ入られると、毎日神殿において民衆に教えられました。そこにファリサイ派とヘロデ派の人がやってきて主イエスに議論を吹っ掛けます。彼らはなんとかして主イエスの言葉尻をとらえ、捕まえようとします。彼らは税金を皇帝に納めるのが律法に適っているかどうかを尋ねました。しかし、これは罠でした。適っていないと答えれば、それは皇帝を冒涜したことになります。逆に適っていると答えれば、民衆から反発されます。 この問いかけに対して主イエスは適っている、いないとは答えられませんでした。主イエスはコインに刻まれている皇帝の肖像を確認させます。当時はローマ帝国によってユダヤは維持管理されていました。その現実から皇帝に税を納めなさいと言われます。 一方で、主イエスは皇帝の支配の限界を示されます。そして「神のものは神に返しなさい」と言われました。神のものとは、私たち自身のことです。人間には神の像が刻まれています。私たちは神の被造物です。神が私たちを所有されています。ですから、私たちは皇帝にではなく、神にのみ礼拝をささげます。 Wed, 20 Nov 2019 00:10:00 +0000 主の召しに従う(マタイによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191120 no 2019 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 (マタイによる福音書21章2節~3節) いよいよ主イエスは弟子たちとエルサレムへ入られようとしています。その時、主イエスはろばの子を連れてくるように二人の弟子に命じます。 二人の弟子が村に行ってみると確かにろばの子がつないでありました。そこで彼らはこのろばの子を主イエスのもとへ連れて行きました。 なぜ、ろばの子だったのでしょうか。なぜ主イエスは馬ではなく、ろばを、それも子ろばを召されたのでしょうか。それは、主イエスが権力者としてではなく、平和の使者としてエルサレムへ入城されるからです。ゼカリヤ書にこう記されています。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、…高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9章9節)。 さらには、ろばの子は私たちに通ずるのではないでしょうか。馬のように速く走ることのできないろば、しかも力の無いろばの子。私たちもそうです。力も能力もないろばの子を主はお入り用とされました。想像ですが、このろばの子は素直に主イエスのところまで連れてこられたはずです。主イエスが召されるのは力があるから、能力があるからではなく、主イエスに素直に従うものだからです。 Tue, 19 Nov 2019 00:10:00 +0000 目が見えるようになった二人の信仰(マタイによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191119 no 2019 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。 (マタイによる福音書20章32節~34節) 主イエス一行はエルサレムの近郊のエリコに入りました。大勢の群衆も従っていました。すると、道端に二人の目の不自由な人が座って、物乞いをしていました。 その二人は主イエスが通ると聞くと、声を張り上げて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。周りの人の制止も振り切って叫び続けました。彼らは目が見えません。主イエスがどこにいるかわかりません。主イエスに助けてもらうためには群衆の中では大声を出して呼ぶしかなかったのです。 主イエスはこの二人の叫びに応答なさいます。そして、二人を呼び寄せ、何をしてほしいのかと尋ねられます。二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えるのです。当然の答えかもしれません。しかし、ここに彼らの信仰が表れています。主イエスなら目を開くことがおできになるという信仰です。彼らは願い通りすぐに見えるようになりました。 彼らは主イエスに従いました。目が見えるようになったばかりでなく、彼らは身を委ねることができる方に会うことができたのです。 Mon, 18 Nov 2019 00:10:00 +0000 天の国に入る者とは(マタイによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191118 no 2019 イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。 (マタイによる福音書19章14節~15節) 人びとが主イエスのそばに子どもたちを連れてきました。それを見た弟子たちは叱りました。弟子たちが叱った理由は、当時のユダヤ教の教えにより律法を守ることのできない子どもたちには神聖な所に近づくことは許されていないからということと、今エルサレムへの旅の途上で緊張が高まっているので子どもを相手にしている暇などないと弟子たちが思ったからでした。 しかし、主イエスは「子供たちを来させなさい」と言われ、子どもたちを受け入れられます。さらに「天の国はこのような者たちのものである」と教えられました。 その理由は、子どもたちが純粋無垢でかわいいからということではありません。その理由は、子どもたちが自分の力では存在することができないからです。自分ではほとんど何もできないことが分かっているからです。他から与えられるものに全面的に依存して生きているからです。 天の国は子どものように、神を信頼し、神の無条件の恵みを受け取り、神に身を委ねる者のものです。 きょうも神を信じて歩みましょう。 Sun, 17 Nov 2019 00:10:00 +0000 証しをする機会(ルカによる福音書 21章5-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191117 no 2019 「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」 (ルカによる福音書21章12節~13節) 30年ほど前、わたしは兵役のために軍隊に入り、3年間、部隊に配属されました。 宿舎に入ると、上官たちが興味津々でわたしを見つめました。わたしがクリスチャンであることを知ると、彼らの態度が急変し、最年長の上官がわたしを隅に連れて行って、神が上か上官が上かと聞きました。わたしが「神が上です」と答えると、彼はわたしの口から「上官が上だ」という言葉が出るまで聞き続けようとします。何度聞かれても「神が上だ」と答え続けると、彼はわたしのバッグを外に放り投げて、「お前のような奴は要らない」と追い出しました。あとから分かったことですが、この部隊では直前にクリスチャン兵士に関わることで問題が起きていたとのことです。 これがわたしの軍隊生活の始まりでした。彼らと一緒に生活し、訓練と教育を受けることはとても辛いことでした。しかし、このような環境であったからこそ、わたしは自分が信じているイエス・キリストをさまざまな形で証しすることができました。迫害はキリストを証しするチャンスです。勇気を与えてくださる神に依り頼みましょう。 Sat, 16 Nov 2019 00:10:00 +0000 悲しみの歌(エゼキエル書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191116 no 2019 今や、その木は 荒れ野に、乾いた水なき地に 移し植えられた。 また、若枝の茂る太い枝から 火が出て、実を焼き尽くした。 それゆえ、この木には 支配者の杖となる強い枝はなくなった。 この歌は悲しみの歌。 悲しみの歌としてうたわれた。 (エゼキエル書19章13節~14節) エゼキエルは、南ユダの王ヨヤキン王と共にバビロンに連れ去られ、捕囚の地で預言を語りました。19章は、残されたエルサレムについて歌う、「哀歌」と言われる悲しみの歌です。神の裁きにより滅びゆくイスラエル(南ユダ王国)、3、4節はとくにヨアハズ王、5~9節はヨヤキム王、10~14節はゼデキヤ王について歌っています。 ユダの地エルサレムは焼き尽くされ、国の滅亡へと至ります。最後の王ゼデキヤの主への反逆により、国の滅亡を避けて通ることはできません。ダビデの子孫による王制が終わりを告げます。主を忘れ、自らの力で国を繁栄させようとするとき、主の裁きを逃れることはできません。 しかし、自らの罪を嘆き悲しむとき、主なる神が寄り添っておられることが示されます。主なる神は、エゼキエルを通して、ダビデの子であるメシアによる永遠の契約をお示しくださいます(37章24~28節)。悲しみを通して受け取るべきは、主の裁きの厳しさ以上に、主を信じる者に与えられる救いの恵みです。悲しみの中で主を仰ぎ見て、神の救いの御業に感謝しましょう。 Fri, 15 Nov 2019 00:10:00 +0000 あなたは責任転嫁をしていないか(エゼキエル書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191115 no 2019 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。 (エゼキエル書18章21節~23節) バビロン捕囚の後、エルサレムに残った人びとは、「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と口にしていました(2節)。バビロン捕囚は先祖の罪の結果であり、自分たちには責任がないということです。これは十戒の第二戒、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出20章5節)を悪用したもので、自らの罪の責任転嫁、当事者意識の欠如にほかなりません。 主なる神は、あなたが主の御前に立ち、自らの姿を顧みることを求めています。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタ7章3節)とおっしゃる主の御前に、思いと言葉、行いのすべてにおいて自らを顧みることが必要です。 「すべての過ちから離れて、…正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる」。これが主なる神の約束です。自らの罪を悔い改め、主に従おうとする者は、「新しい霊」が与えられ(31節)、キリストにある新しい命に生かされます。主イエスと共に十字架に架けられた囚人(ルカ23章43節)と姦淫の女(ヨハ8章11節)がその証しです。 Thu, 14 Nov 2019 00:10:00 +0000 イスラエル再興の約束(エゼキエル書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191114 no 2019 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。 (エゼキエル書17章22節~23節) 主なる神は、「大鷲が、レバノンに飛来する。その鷲はレバノン杉の梢を切り取り、その頂の若い枝を折って、商業の地に運び、商人の町に置いた」(3、4節)とエゼキエルに語りました。バビロン捕囚によってエルサレムの指導者が連れ去られることを告げています。これは、選びの民であるイスラエルに対する主の裁きです。それほどまでにイスラエルの罪は大きいのです。 しかし、主なる神は同時に、イスラエルを完全に滅ぼし尽くさないこと、捕囚の民からエルサレムを再興し、イスラエルに祝福を与えることを約束されました。柔らかい若枝が高くそびえる山に移し植えられ、うっそうとしたレバノン杉になる(22、23節)。この若枝は救い主である御子イエス・キリストを指し示しています。キリストの十字架による死と復活によって、新しい神の民が興されます。 預言者エゼキエルは、主の約束を自ら確認することはできませんでした。しかし、彼は主による救いの約束を信じて、イスラエルの人びとに悔い改めを訴え続けました。 今に生きる私たちにも、主は救いと神の国の完成を約束してくださっています。 Wed, 13 Nov 2019 00:10:00 +0000 だが、永遠の契約を立てる(エゼキエル書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191113 no 2019 「だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。…わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書16章60節、62節) エゼキエルは、「人の子よ、エルサレムにその忌まわしいことを知らせなさい」(2節)と命じられました。「忌まわしいこと」とは神の民の背きとその結果としての裁きです。 「わたしはお前に誓いを立てて、契約を結び、お前は、わたしのものになった」(8節)と言われる通り、イスラエルの民は神の民です。しかし、イスラエルは神の言葉に耳を傾けず、偶像の神々を神として礼拝しました。16章では、それが姦淫の不品行として描かれて、サマリアやソドムよりもいっそう堕落したと指摘されます(47節)。ついに神は「お前が行ったように、わたしもお前に対して行う」(59節)と告げて、裁きを宣告されます。 「だが」と神はおっしゃいます。「だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる」。罪を重ねて神を悲しませたイスラエルであっても、主は契約に固く立ち、罪の赦しをお与えくださいます。 私たちに対する神の恵みの契約に、変更はありません。きょうも、主の御前に悔い改めと主への信仰をあらわして歩みましょう。 Tue, 12 Nov 2019 00:10:00 +0000 薪として火に投げ込まれる(エゼキエル書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191112 no 2019 「主なる神はこう言われる。わたしが薪として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。…わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。 (エゼキエル書15章6節、8節) 聖書は、しばしば「ぶどうの木」を神の民を指し示すたとえとして用います。ヨハネ福音書15章は、主イエスがまことのぶどうの木であり、キリスト者はその枝であると語ります。 けれども、エゼキエル書15章で、主なる神はぶどうの木を薪として火に投げ込むと言われます。イスラエルの民に対する滅びの宣言です。イスラエルの民が神に立ち帰ることなく、不信仰な歩みを重ねていたからです(8節)。主なる神は、義しく聖く真実なお方です。罪を放置したままにされません。 この主なる神の滅びの宣言を、私たちは他人事と考えてはいけません。私たちにも、今も働いておられる主の御前に立つことが求められています。自らの姿を顧み、主を畏れ敬い、自らの罪を悔い改めることが必要です。神に立ち帰り、神の義に従って生きることが求められています。 今や主イエス・キリストが与えられて、私たちはキリストによる罪の赦しの内に神の御前に立つことができます。主なる神は、ぶどうが実を結ぶように、私たちに罪の赦しと永遠の命の幸いを惜しみなく与えてくださいます。 Mon, 11 Nov 2019 00:10:00 +0000 信仰の吟味を(コリントの信徒への手紙二 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191111 no 2019 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。 (コリントの信徒への手紙二13章4節) カルヴァンは、地上の信者の歩みを悔い改めの連続だと言い表しました。クリスチャンは、自分の力や知恵で救いを得ることも、持続させることもできません。ただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるからです。 パウロは、この手紙の最後で、コリント教会の信者一人一人に対し、再度めいめいの信仰を吟味するように促しています。私たちはキリストの十字架の贖いによって罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命を与えられて生きる者だからです。 聖餐式の式文に、「自分の信仰を吟味して臨むように」と書かれています。自分が主の聖餐を受ける資格や値打ちがあるのかを確認し、大丈夫だと自己診断するのではありません。そうではなく、元々そのような資格などない。むしろそのようなわたしだからこそ、主は憐れんで尊い救いに招き入れてくださったことを思い起こし、感謝するためにほかなりません。いや聖餐にあずかるときだけでなく、信仰の生涯を続ける間、絶えず吟味すべきことでもあるのです。 Sun, 10 Nov 2019 00:10:00 +0000 生きている者の神(ルカによる福音書 20章27-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191110 no 2019 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 (ルカによる福音書20章38節) 人は死んでどうなるのか。このことについて多くの人びとが関心を持っていますが、誰も死んだことがなく、知ることができません。しかし、聖書は信仰者の死と復活についてはっきり語っています。 主イエスは、復活において「めとることも嫁ぐこともない」とおっしゃって、結婚が地上の人生のための制度であると指摘しておられます。信仰者は、「復活にあずかる者として、神の子」(36節)とされて、地上においてすでに神との永遠の交わり、また主にある兄弟姉妹との交わりに加えられています。地上の結婚はもちろん主の祝福ですが、信仰者は「神の子」とされて、主にある交わりの内にお互いに愛し合うようにされているのです。 それゆえ、信仰者の死と復活は、その愛の交わりの完成にほかなりません。永遠に生きておられる神が私たちを愛して、私たちを永遠に生かしてくださいます。たとえこの世の人びとがわたしの存在を忘れ去ることがあっても、神はわたしを忘れ去ることがありません。神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であられるように、わたしの神であられます。 Sat, 09 Nov 2019 00:10:00 +0000 キリストの力に満ちあふれる(コリントの信徒への手紙二 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191109 no 2019 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 (コリントの信徒への手紙二12章9節) ある障がい者の集いで、障がい者の役割とは何なのかが話題となりました。人の役に立たなければという価値観が蔓延する中、生き辛さを抱える方も多いでしょう。 聖書は、神の御前にいかなる人も同じ尊厳と権利とを持っており、特に神の愛を証しするために障がい者がいることを教えています。 パウロは、生まれも学歴も業績も並みはずれて抜きん出た人物でした。しかし、キリストに出会って、それらは全く無益となりました。彼にとってキリストがすべてとなった、いやキリストの御業こそが彼自身において、また伝道という神から託せられた働きにおいても決定的に不可欠なことを気付かされ教えられたからです。 教会では、有能でファインプレーができることよりも、また多くの献金をささげ得ることよりも、各自は弱く欠けだらけでも互いに助け合い補い合って共に神の御業を成していくことの方が、神によって益とされ、喜びとなり、力となっていきます。私たち一人一人共に執り成し合い、共に苦しみを分かち、共にキリストに仕えるところとされることを願います。 Fri, 08 Nov 2019 00:10:00 +0000 キリストの花嫁(コリントの信徒への手紙二 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191108 no 2019 あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。 (コリントの信徒への手紙二11章2節) わたしにも愛する大事な一人娘がいます。やがて愛する人と出会い、結ばれて嫁ぐ日が来るでしょう。 パウロにとってコリント教会は誇りであり宝でした。その教会が偽使徒たちによって異なる福音・異なる霊に誘われて、信仰を失い、真の神から離れてしまうことは、何よりの痛み・悲しみでした。その教会を深く案ずる思いを、2節で「神が抱いておられる熱い思い」と言い表しています。いわゆる「熱情の神」「ねたむ神」と呼ばれる深く一途な純愛のことです。決して利己的で一方的な誤った愛憎でなく、ご自分の大切にしておられる者が乱暴に無造作に取り扱われることへの激しい嫌悪と怒りです。 ユダヤでは、娘を婚約させる決定権は、父親にありました。自分が大切に育てた娘が、ないがしろにされないように守り防ぐ責任があるからです。元々「嫁ぐ」という日本語は、自分の落ち着き先へ帰ることを指したそうです。教会は、本当の所有者であり、真の救い主であるイエス・キリストに献げられ、神からの熱い思いが与えられ、そこに留まり続けるとき、幸いなのです。 Thu, 07 Nov 2019 00:10:00 +0000 御言葉によって見破る(コリントの信徒への手紙二 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191107 no 2019 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ… (コリントの信徒への手紙二10章4節~5節) 異端が既成のキリスト教会を打ち倒すための策略とはこれだとのことです。それは、自分たちの信奉者を相手の教会に送り込み、何年もかかって信徒たちをすっかり信頼させ、そうしてよい時期に一気に引き抜くとのことです。その折の決まり文句は、「この教会には愛がない」とか「この教会の牧師は御言葉を語っていない」と中傷するのだそうです。そうすると大きな教会でも群が二分され、小さな教会では再び立ち直れなくなるのです。 パウロは、せっかく悔い改めたコリント教会に偽使徒たちが忍び込んで信徒たちをかき回そうとしていることに気付きました。それに対し、相手の見かけや強さ、立派さに注目するのではなく、何よりも御言葉に堅く立ち、御言葉に豊かに養われて、相手の企てを見抜き、不要な混乱や不安に陥らないようにと助言を送っています。 教会におけるどのような対立や紛争も、それを最終的に決定するのは、神の言葉である聖書によります。牧師や役員だけでなく一人一人の信徒の御言葉における成長は、混乱や異なる福音への最大の防御と言えます。 Wed, 06 Nov 2019 00:10:00 +0000 恵みの分配(コリントの信徒への手紙二 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191106 no 2019 神は、あなたがたが、いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 (コリントの信徒への手紙二9章8節) 9章も8章同様、貧しいエルサレム教会のための献金を訴えています。とりわけ、献げる者と献げられる者との相互の連携の必要と祝福とが述べられます。 コリント教会の献金への熱心が他のマケドニアの諸教会の熱心をかき立てました。それだけでなく、エルサレム教会のクリスチャンたちの、異邦人教会のための祈りや感謝を増し加えることになって、キリスト教会全体の一致の絆が深められたことをパウロは心から感謝しています。 私たち平和の君伝道所は多くの援助を中会から受けています。小さな群れ故に、それがなければ教会としての働きを維持していくことはできません。礼拝にしろ、伝道の働きにしろ、会堂建築や営繕の業にしろ、すべては神が、それらの必要の一切を備え支えてくださっていることに感謝します。 しかし、小さな群れも、神さまに感謝して献げる喜びが与えられています。愛と慈善の献げものをすることができる。事実、している。その祈りを絶えず強くされます。仕え献げていく喜びへと成長させられたいと願います。 Tue, 05 Nov 2019 00:10:00 +0000 貧しくなられた主(コリントの信徒への手紙二 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191105 no 2019 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 (コリントの信徒への手紙二8章9節) 献金・奉仕・慈善といった愛の業は、ゆとりがあるのでするのではなく、神の救いへの感謝からするものです。パウロは、コリント教会にも貧しいエルサレム教会のための献金を勧めました。それは、救い主の貧しさにあずかることなのです。 神の救いは、何よりも愛の原理、恵みの原理によります。私たち罪人を贖い出すために、主ご自身、聖い神の御子であられたのに、人となって私たちの罪を負い十字架の死に至るまでご自分の命を献げ尽くしてくださいました。主は豊かであられたのに、私たちのために貧しくなられたのです。 健康・お金・能力といった、私たちが地上で神からいただいている恵みの賜物を本当に神に感謝するのは、神の救いにあずかることによります。神からの一方的な憐れみと恵みへの感謝が、他の人や教会の困窮を我が事として受け止め、強いられてではなく喜んであふれ出て献げる愛となります。私たちは、主の貧しさにより、この神の愛に豊かにされて、キリストの救いの恵みにますます感謝するのです。 Mon, 04 Nov 2019 00:10:00 +0000 取り消されない救い(コリントの信徒への手紙二 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191104 no 2019 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 (コリントの信徒への手紙二7章9節~10節) 神の救いは、取り消されることがありません。この真実を知り、味わうことは、豊かな慰めです。この章では、教会の中で起こった悲しい罪による事件が背景になって記されています。一体どんな出来事があったのかは、よくわかりませんが、そのことが教会全体を揺るがしかねない重大なものであったことは確かなようです。 「聖徒の交わり」と呼ばれる主の身体なる教会ですが、残念ながら教会を構成するクリスチャンは罪人の頭です。残れる罪のために不和や裏切り、差別や偏見、無理解も生じます。その場合、犯人探しに躍起になり、裁きすぎて当人を排斥してしまいがちです。もちろん犯した罪への責任を取ることは大事ですが、本当のゴールは罪を悲しみ、神に立ち帰ることにあります。なぜなら最も悲しんでおられるのは神だからです。そのために御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったのです。 キリストご自身が、私たち一人一人の罪を贖ってくださいました。それほどの貴い代価を無にしてはなりません。 Sun, 03 Nov 2019 00:10:00 +0000 ぜひあなたの家に(ルカによる福音書 19章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191103 no 2019 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 (ルカによる福音書19章5節) 当時、徴税人は、ローマ帝国の手先とされて、ユダヤ人に嫌われていました。財産を集めることはできたものの、蔑ろにされる職業でした。 そのような徴税人の頭であるザアカイに、主イエスは「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ザアカイも救われるべき罪人の一人だからです。この出会いによって生きる喜びを与えられて、ザアカイの人生は完全に変えられました。それは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と主イエスに言うほどでした。 私たちがイエス・キリストを受け入れたときのことを思い起こしましょう。救いにあずかる値打ちの全くない私たちの心に、主イエスはザアカイのときと同じく訪ねて来てくださいました。「あなたの心の中にぜひ入りたい」とおっしゃって、私たちの心に入ってくださり、信仰を与えてくださいました。主イエスにとって、私たちも救われるべき罪人の一人なのです。 この驚くべき恵みのときを絶えず思い起こして、日々を過ごしたいと願います。 Sat, 02 Nov 2019 00:10:00 +0000 わたしのすべてを主にささげる(ローマの信徒への手紙 12章1-2節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191102 no 2019 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ローマの信徒への手紙12章1節) 昨日は、宗教改革における「万人祭司の原理」の再発見について確認しました。私たちはみな、神を見失ったこの世界にあって特別に選ばれ、神にお仕えする存在として聖別された「祭司」です。その祭司としての務めの本質は、「犠牲をささげる」ことだとカルヴァンは理解していました。それは、旧約時代の神殿でささげられたいけにえを繰り返すということではありません。「感謝と賛美のいけにえ」(ヘブ13章15節参照)、また「霊的ないけにえ」を主にささげるという意味です(1ペト2章5節)。 それは一言でいえば、まったき献身の人生ということです。祈り、礼拝、伝道、愛と慈善…その他一切のことを含めて、私たちの身と魂のすべてをささげる。まったき献身の生涯に生きることです。主イエスがその命のすべてをささげてくださいました。そのまったき愛と献身に応えて、わたしもまた主のためにおのれをささげるのです。主は言われました、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17章19節)。 Fri, 01 Nov 2019 00:10:00 +0000 万人祭司の教会(ペトロの手紙一 2章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191101 no 2019 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 (ペトロの手紙一2章9節) 宗教改革は、本質的に教会改革でした。ルターが最初期の書物、たとえば『キリスト者の自由』において強調しているのは信仰における神の御前での「身分の平等」です。 中世においては「聖なる教会」と「汚れた世俗」の差は根本的なものとみなされました。しかし、ルターは腐敗したローマ教会の聖職者位階制度に対する激しい批判を込めて、いわゆる聖職者と世俗の人との間には一切の身分上の差別は存在しないと主張しました。聖書によれば、われわれはみな一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰を持つ同じキリスト者であり、すべての者が聖別された「祭司」として神に仕える存在とされています。ルターは、「みなが教皇なのだ」とさえ言いました。これを「万人祭司の原理」と言います。 教会は一部の聖職者のものではなく、みんなのものです。互いに罪を告白し、執り成し合い、キリストの赦しを語り合う「聖徒の交わり」であり、神の家族、神の民です。それぞれ委ねられる働きには違いがあっても、そこにお客さんは一人もいません。それぞれが神から与えられている務めと賜物があるのです。 Thu, 31 Oct 2019 00:10:00 +0000 神の言葉に聞き従う(ペトロの手紙二 1章16-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191031 no 2019 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。 (ペトロの手紙二1章20節~21節) 日本キリスト改革派教会の伝統においては、「連続講解説教」が主流です。これは、宗教改革者たちの実践を模範としたものです。説教は、神の言葉である聖書を解き明かすがゆえに、神の言葉です。聖書全体は、同一著者なる聖霊による一貫性をもち、どの書物も、どの章も、どの節においても信仰者たちへのメッセージをもっています。私たちに求められるのは、自分の言葉を捨てて、その神の言葉のすべてに聴き従うということです。 ただし連続講解という形式が絶対的なわけではなく、大事なのは、与えられる御言葉にひれ伏し聴くという姿勢です。時代や流行に合わせるのではなく、聖書の視点から、時代や流行を解釈するのです。自分の手の中に聖書を置くのではなく、聖書の中に、また聖書の下に自分を置くという姿勢です。 連続講解説教を聞き続ける中で、「この御言葉がきょう与えられるとは」と、意外な喜び、驚き、戸惑いを覚えることは、誰もが経験することです。わたし以上にわたしを知っておられる神は、わたしの思いを超えて、わたしの聞くべき言葉を与えてくださいます。 Wed, 30 Oct 2019 00:10:00 +0000 神が語りかけてこられる(申命記 5章23-27節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191030 no 2019 「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。…この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。」 (申命記5章24節~25節) 宗教改革者たちは、ひたすらに聖書を読んだ人たちでした。当時の教会の硬直化した教えに縛られることなく、聖書を原語で読み、新鮮な福音の再発見に心を躍らせました。それを人びとに身近な言葉に訳して提供したので、誰もが神の言葉に触れることができるようになりました。あの時代、人びとは「神からの語りかけ」を聞く喜びに満たされていました。 生ける神である主は、聖書を通して、聖霊において、私たちに語りかけてこられます。物言わぬ死んだ神である偶像とは違います。きょうの箇所にあるように、神から直接語りかけられるというのは、本来恐るべきことです。そういう恐るべき御声を、神は聖書に封じてくださり、私たちが触れることができるようにしてくださいました。 今や私たちは、本としての聖書があまりにも身近すぎて、その恐れ(畏れ)を見失っている世代かもしれません。それゆえに、神の言葉に触れる喜びや驚きを見失っているのかもしれません。聖書を通して、きょうも神が語りかけてくださいます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サム上3章10節)。 Tue, 29 Oct 2019 00:10:00 +0000 罪のために死んでいた(エフェソの信徒への手紙 2章4-6節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191029 no 2019 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 (エフェソの信徒への手紙2章4節~6節) 「罪のために死んでいた」。激しい言葉遣いです。でも、こういう言葉で自分の過去を振り返ることができる人は幸いです。神の恵みによって、自分の過ちに気づかせていただいた人です。そして今は、「キリストと共に生きる」喜びを知っている人です。 宗教改革者カルヴァンは、その代表作である『キリスト教綱要』の冒頭で、自分自身の罪と悲惨とをはっきりと認識する必要を教え、「自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできない」と言います。不快感という言葉がおもしろいです。それほどの、徹底した自己否定が必要と言うのです。いや、むしろ聖なる神の御前に立つということを真剣に考えるなら、そうならざるを得ないのです。カルヴァンという人は、神の御前での自分の罪深さに対して絶望しきっていた人でした。 私たちはまさしく「死んでいた」者でした。しかし、そのような者を、憐れみ豊かな神がこの上なく愛してくださいました。この愛からすべてが始まりました。「お前を棄てたくない、再生させる」と神が望んでくださったのです。 Mon, 28 Oct 2019 00:10:00 +0000 ただ神の恵みによって(エフェソの信徒への手紙 2章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191028 no 2019 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節) ただ神の恵みによって救われる。私たちはそれを信じて、受け取らせていただくだけでいい。この「福音=グッドニュース」を、聖書から再発見したことが、ルターの原動力でした。当時のローマ・カトリック教会から破門されようとも、この福音をもう離したくない、そういう思いに突き動かされるままに進んでいくうちに、いつの間にか新しい教会が誕生していたというのが、実際の感覚でありましょう。それほどに、ルターにとって福音は命、力、そして光でした。 逆に言えば、それをいただくまでの彼は、死の暗闇にさまよっていました。神の御心に沿って歩みたいと、禁欲的な生活に励めば励むほどに、自分のどうしようもない汚れが見えて来て、裁きの神への恐れがどんどん大きくなっていく。 同様に、「こんなわたしでは裁かれる、神は怒っておられる」と、自分の罪深さにひそかに悩んでいる方がいらっしゃるかもしれません。でも、その罪の自覚が与えられたのは、神の恵みであり、救いの始まりです。すでに神は、あなたを救い始めていてくださいます。だから、もう恐れなくていいのです。 Sun, 27 Oct 2019 00:10:00 +0000 ファリサイ派の人と徴税人(ルカによる福音書 18章9-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191027 no 2019 「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 (ルカによる福音書18:14) その当時、ファリサイ派の人と徴税人は対照的でした。ファリサイ派の人は、アブラハムの子という特権意識と律法の遵守によって、正しい人とみなされていました。逆に徴税人は、私腹を肥やすことや異邦人との交際などによって、罪人として軽蔑されていました。 しかし、このときファリサイ派の人は立って、断食や10分の1の献金のような自分の義を誇る祈りをささげました。徴税人は遠くに立ち、自分の罪に心を留め、神の憐れみを求めて祈りました。偽善に満ち、高慢なファリサイ派の人と、自分は罪人であり無価値な者であると認めている徴税人の姿が、非常に鋭く対比されています。 マシュー・ヘンリーは、「彼の祈りは短かった。ため息と嘆息が彼の言葉を呑み込んだからである。しかし、彼が語ったことは素晴らしかった」と解説しています。 主イエスは、義とされて家に帰ったのは徴税人であったと語られます。神の御前にへりくだる、低い姿が求められています。私たちの祈りの姿は、ファリサイ派の人なのか、それとも徴税人なのでしょうか。 Sat, 26 Oct 2019 00:10:00 +0000 兄弟を得る(マタイによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191026 no 2019 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」 (マタイによる福音書18章15節~16節) 「兄弟を得る」という「兄弟」とは誰のことでしょうか。それは私を神が愛してくださっているように、神が愛しておられる人のことです。 その兄弟が罪を犯したとき、私たちはどのようにすべきか。それには、いろいろな対処の仕方があると思います。見て見ぬふりをする。私たちは、愛を教えられているのだと言って、その罪を見逃す。罪を指摘し、神に立ち帰るように促す。主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃいました。 教会は、単なる同好の群れではありません。教会は、主イエス・キリストにある群れ、兄弟姉妹の集いです。そうであるならば、口先だけの兄弟としてではなく、真のキリストにある兄弟を得るために、まず、一人で兄弟にその罪を忠告する。それが聞き入れられなければ、二人三人の兄弟と一緒に忠告する。 真の主にある兄弟ならば、必ず悔い改めに至るでしょう。私たちもまた兄弟の忠告を受け入れましょう。神は迷い出た1匹の羊が見つけられるように、罪人の立ち帰りを望み、喜んでくださいます。 Fri, 25 Oct 2019 00:10:00 +0000 主の御声に聞き従う(マタイによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191025 no 2019 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 (マタイによる福音書17章5節~7節) 主イエスは三人の弟子を連れて山に登りました。そこで、弟子たちが見たのは、栄光に輝く主イエスが、モーセとエリヤと共に語り合う光景でした。その時、ペトロは、自分たちがどれほどすばらしいところに置かれているかを訴えずにはおれませんでした。そこに天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と声がしました。天の父なる神の声です。私たちの父なる神が、私たちに望まれていることが、ここに語られています。 私たちが、この世を生きるときの指針は、父なる神が愛され、やがてその御心を十字架の上で完全に果たしてくださった、この主イエスの御言葉に聞くことです。ペトロは三者の会談に感動し、その事態を仮小屋に留め置こうとしましたが、本当にすばらしいことはどこにあっても神の御声に聞き従うことです。そこに、神の栄光が輝く道が開かれていきます。 神の声に聴き従うことを恐れる必要はありません。真の幸いを得る道は、主イエスの御言葉を聞くことにあります。主イエスは、「恐れることはない」と、常に私たちを励まし導いてくださいます。 Thu, 24 Oct 2019 00:10:00 +0000 真の命を得るために(マタイによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191024 no 2019 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 (マタイによる福音書16章24節~26節) 主イエスは、弟子たちに、ご自分が多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると告げられました。するとペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、主イエスの言葉を否定しました。ペトロは、人間的な考えの中で、主イエスの言葉を聞いていたからです。しかし、主イエスは、人間的な思いで命について考えるのではなく、真の命がどこにあるのかをよく考えなさい、とおっしゃいました。 真の命はどこにあるのか。それは、主イエスの十字架の贖いの下に与えられる命にあります。その命は他のなにものにも代えがたい尊いものです。ですから、私たちは、主イエスと同じように「自分の十字架を背負」うのです。それはこの世の成功や賞賛を求めるのではなく、主イエスがそうされたように、父なる神の御心を尋ね求め、謙遜に、従順に従う歩みです。 主イエスは、父なる神に従い通すことによって、その命を真にご自分のものとなさいました。私たちもこの主イエスを信じ、従うことによって真の命をいただく者になりましょう。 Wed, 23 Oct 2019 00:10:00 +0000 神の言葉に生きる(マタイによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191023 no 2019 「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」 (マタイによる福音書15章5節~6節) ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、何かにつけて主イエスや弟子の行動に言いがかりをつけました。きょうの箇所でも、食事の前に手を洗わないことは、言い伝えを破ることだと言ってきました。主イエスは、この言いがかりに対して直接答えようとはされません。言い伝えを守るかどうかは、本来どちらでも良いことだからです。主イエスは、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」と言って、きょうの聖句を語られます。 神は私たちに聖書を通して、「あなたの父と母を敬え」と教えておられます。しかし、「言い伝え」によれば、「神への供え物にする」とひと度決められたものは、たとえそれが父と母を養うのに必要なものであっても、変更することはできませんでした。また、その「言い伝え」を悪用し、父と母を養わない言い訳にする人もいました。それは神が求められる愛を踏みにじる行為であり、「神の言葉を無に」するものです。 私たちは、主イエスに救われた者として、どのように生きるのでしょうか。本当に神の言葉に生きる。そのことが問われています。 Tue, 22 Oct 2019 00:10:00 +0000 恐れることはない!(マタイによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191022 no 2019 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 (マタイによる福音書14章26節~27節) ここに記されている湖の上を歩くお話は、主イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人の人びとを養った、という奇跡の後に記されている出来事です。その奇跡の後、主イエスは、強制的に弟子たちを向こう岸に渡らせるために船に乗せました。しかし、弟子たちは、ガリラヤ湖の強い風に悩まされることになります。夜が明けるころ、主イエスは、湖の上を歩いて船に近づかれました。するとどうでしょう。弟子たちは、それを見て、「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」というのです。 主イエスはその御業において5千人もの人びとを養われたお方です。弟子たちは多くの人を養い、導く羊飼いとしての主イエスを見たばかりなのです。そのようなお方が湖の上を歩けない、というのでしょうか。そのような記憶は吹き飛んでしまったように、湖の上を歩く主イエスのお姿を見て、弟子たちは恐怖に襲われました。私たちも同じではないでしょうか。 主イエスはそのような者に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。この方と共に歩んでまいりましょう。 Mon, 21 Oct 2019 00:10:00 +0000 耳のある者は聞きなさい(マタイによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191021 no 2019 「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。…しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」 (マタイによる福音書13章13節、16節) これは主イエスの言葉です。マタイによる福音書13章は、「種を蒔く人のたとえ」を主イエスが群衆に語る場面から始まっています。そして、「耳のある者は聞きなさい」という言葉で、そのたとえは締めくくられています。 このたとえを聞いて、弟子たちは主イエスに尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」。この弟子の質問に対する答えが「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」という御言葉です。 主イエスは、重要な霊的真理を伝えるとき、しばしばたとえをお用いになりました。これを聞く姿勢が重要であることを主イエスはたとえの最後で教えておられます。 これはまた、私たちが聖書に聞くときにも共通した事柄ではないでしょうか。熱心に自らの魂を開いて、聖霊に導かれながら、神の御言葉に聞くとき、正しく聞き取ることが出来ます。そのような者の目や耳はなんと幸いなのでしょうか。 私たちも、しっかりと霊の目をもって、耳をもって、神の御言葉を聞き、大いなる幸いをいただきましょう。 Sun, 20 Oct 2019 00:10:00 +0000 やもめの粘り強い祈り(ルカによる福音書 18章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191020 no 2019 「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」 (ルカによる福音書18章7節) この箇所は、終末を生きる信仰者の祈りの姿勢に焦点を当てています(17章20~37節、18章8節を参照)。主イエスは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話され」ました(1節)。 ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官と一人のやもめがいました。やもめは裁判官のところに来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願い求めます。彼女は自分の目的が成し遂げられるまで粘り強く訴え続けました。するとついに不正な裁判官はやもめの願いを聞いてくれたのです。 不正な裁判官でさえ、忍耐強く求めるならば願いを聞き入れました。ましてまことの神は、昼も夜も叫び求めるキリスト者の祈りをほうっておかれず、速やかに裁いてくださると言われます。 私たちにとって、祈りが「速やかに」聞かれるとは思えないことがあるかもしれません。この速やかさは、必ず応えられるとの神の約束です。やもめの粘り強い願いが聞かれたように、私たちの粘り強い祈りは必ず主なる神が応えてくださいます。 Sat, 19 Oct 2019 00:10:00 +0000 人を癒す言葉(箴言 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191019 no 2019 忠実に発言する人は正しいことを述べ うそをつく証人は裏切る。 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。 知恵ある人の舌は癒す。 真実を語る唇はいつまでも確かなもの。 うそをつく舌は一瞬。 (箴言12章17節~19節) 箴言12章は、すべて対比の並行文で書かれていて、ここでも神に従う人と神に逆らう人が比較されています。 17節の「忠実に発言する人」、「うそをつく証人」は、裁判に召喚されて証言する場面を想像させます。うそをつくつもりは無かったとしても、熟慮を欠いた言葉は時に人を傷つけるものです。18節の「軽率なひと言が剣のように刺すこともある」とはそれを端的に表現しています。「軽率なひと言」という言葉は、純粋なおしゃべりを意味する言葉です。前後関係を気にすることなく、その場、その時に思いついたことを話すような仕草です。軽はずみな言葉は、事の真相を確認することなく口から出てきます。すると、気づかないうちに真実ではなく偽りの言葉に成り下がり、人を傷つけてしまうのです。 しかし、神を畏れる知恵によって語る言葉は、人を癒すことさえできます。周りのおしゃべりに惑わされることなく、事実に合致した言葉を口にする人は、周りを幸せにするのです。主が言葉で人びとを癒し救われたように、私たちの口も人を癒すのです。 Fri, 18 Oct 2019 00:10:00 +0000 神に従う人の幸いは広がる(箴言 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191018 no 2019 神を無視する者は口先で友人を破滅に落とす。 神に従う人は知識によって助け出される。 神に従う人が幸いを得れば町は喜び 神に逆らう者が滅びれば歓声をあげる。 正しい人の祝福によって町は興り 神に逆らう者の口によって町は滅びる。 (箴言11章9節~11節) この箴言では神に従う人、神に逆らう者が対照的に表現され、それぞれ自分の身に招く結果が異なっています。 神の働きかけを無視する者がいます。それは、言葉や態度に色濃くあらわれます。口先だけの言葉はやがて偽りに満ち、友人を誘惑して滅ぼしてしまいます。しかも、11節では「神に逆らう者の口によって町は滅びる」とあり、悪影響が個人から町へと拡大することもあるのです。 それに対し、神に従う人が受ける恵みは、輝きに満ちています。9節では「神に従う人は知識によって助け出される」とあります。神を畏れる知恵があると、その人は偽りの言葉や滅びに誘惑する言葉を見破ります。だから、神から離れる滅びから救われるのです。そして神に従う人の受ける救いと幸いは、その人だけにとどまらず町全体へと広がっていきます。神を畏れ、神に従う人とその周辺に喜びが広がっていくのです。 神がアブラハムと契約を結ばれて、すべての民族の祝福の基となったように、神の祝福は私たち信仰者を通して広がりを見せるのです。 Thu, 17 Oct 2019 00:10:00 +0000 私たちの口が命の源となる(箴言 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191017 no 2019 神に従う人の口は命の源 神に逆らう者の口は不法を隠す。 憎しみはいさかいを引き起こす。 愛はすべての罪を覆う。 聡明な唇には知恵がある。 意志の弱い者の背には杖。 知恵ある人は知識を隠す。 無知な者の口には破滅が近い。 (箴言10章11節~14節) 箴言10章8節から14節には、口や言葉についての表現が多く出てきます。口で失敗することの多い私たちは、注意深く耳を傾ける必要があるでしょう。 神に逆らう者の口は、8節と10節で「滅びに落とされる」と言われ、11節では「不法を隠す」と言われ、14節では「破滅が近い」と言われます。どの表現も、神から遠く離れていくこと、物事をひた隠しにして真実を語らず、信仰共同体を散らしてしまうような末路を想像させます。 それに対し11節では、神に従う者の口が「命の源」と呼ばれます。これは、「命の泉」とも呼べる言葉です。泉は旅人の渇きをいやすものです。乾燥地帯においては、人も動物も生き物なら何であっても集まる場所となり、すべてを生かします。それと同じように、私たちの口が命の泉、命の源となり、他者に益するようにもなるのです。 そのための秘訣は、私たちが神の言葉を受け入れて口を開くことです。そのとき、私たちの口とそこから出てくる言葉は、人びとを主の御許へと導き、生かすことへ用いられていくのです。 Wed, 16 Oct 2019 00:10:00 +0000 真の知恵は神を畏れること(箴言 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191016 no 2019 不遜な者を諭しても侮られるだけだ。 神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。 不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。 知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。 … 主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。 (箴言9章7節~10節) 箴言は、神に従う知恵ある人生へと人びとを招こうとしています。 神を畏れる人とそうではない人との違いは非常に大きく、生き方にも違いが現れます。箴言9章では、「不遜な者」と「知恵ある人」が対比されます。「不遜な者」とは、倫理・道徳的な意味ではなく、宗教的な意味で神に逆らう者のことです。最初から神に逆らう心ですべてに応じますから、諭そうとしても、戒めようとしても全く効果があらわれません。かえって反感を買って憎しみが残ることさえあります。 それに対して「知恵ある人」とは、神に従う人のことです。その人を時に応じて諭し、叱るならば、その人には知恵が増し、愛が溢れていくようになります。自分に語られている言葉を神からのものだと受け止め、習得しようとするからです。両者の決定的な違いはただ一つ、主を畏れるかどうかです。 真の知恵は、自分と神との関係をきちんとわきまえることです。これが、私たちの人生のあらゆる場面で力を発揮し、信仰者として成長させます。主を畏れることこそ、真の知恵なのです。 Tue, 15 Oct 2019 00:10:00 +0000 神の知恵に聞く(箴言 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191015 no 2019 聞け、わたしは指導者として語る。 わたしは唇を開き、公平について述べ わたしの口はまことを唱える。 わたしの唇は背信を忌むべきこととし わたしの口の言葉はすべて正しく よこしまなことも曲がったことも含んでいない。 (箴言8章6節~8節) 箴言8章は、1節の「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」との書き出しで始まります。神との契約関係を前提とし、その中で神の言葉に従って生きるための知恵が人格化されて語られていくのです。 その知恵は、指導者としての役割を担い、公平で正しいこと、まことについて教えます。私たち人間は、いとも簡単に真実をねじ曲げ、嘘をつきます。しかし、神の知恵はすべて正しいことを語ろうとし、私たちを幸いな道に導こうとします。 そのような神の知恵は、背信こそが忌むべきことだと教えます。背信とは言うまでもなく、主なる神に背を向けて、この方の愛と憐れみを見失うことです。「主を畏れることは知恵の初め」です(1章7節)。主を畏れるとは、主なる神への信仰とこの方への礼拝生活に生きることです。この命に満ちた日々を送るために、神の知恵の言葉が語られるのです。 この知恵は、聞くに価する言葉です。自らが信仰的に未熟な者だと自覚し、私たちを真の信仰生活へと導く神の知恵の言葉に、へりくだって聞き従いたいものです。 Mon, 14 Oct 2019 00:10:00 +0000 教えを瞳のように守る(箴言 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191014 no 2019 わが子よ、わたしの言うことを守り 戒めを心に納めよ。 戒めを守って、命を得よ。 わたしの教えを瞳のように守れ。 それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。 … それはあなたをよその女から 滑らかに話す異邦の女から守ってくれる。 (箴言7章1節~5節) 世の中には、神の教えと異なる主義・主張がいくつもあります。神の戒めと相反する習慣や伝統も多くあります。私たちは、こうしたものと隣り合わせに生活していますから、いつ、どこで、神の教えと異なる言葉に誘惑されるかわかりません。自分でも気づかないうちに誘惑に陥ってしまいます。そのとき、世の中のさまざまな誘惑は、信仰者を惑わし、神への信頼を奪い取ろうとします。 神は、私たちが誘惑に弱いことを知っておられます。だから、誘惑に陥らない秘訣を教えてくださいます。「教えを瞳のように守れ」と。瞳はデリケートな器官です。だから、傷つかないように注意深く大切にする必要があります。神の教えを大切に注意深く心に蓄えていく。そうすれば、神への信頼を失うことなく、神のもとから離れることもなくなり、神と共に生きていくことができます。だからこそ神は、「戒めを守って、命を得よ」と私たちに呼びかけてくださるのです。 主イエスが荒れ野で誘惑に勝利されたように、私たちも神の教えを大切にし、主イエスと共にある命をきょうも生きていきましょう。 Sun, 13 Oct 2019 00:10:00 +0000 救われた重い皮膚病を患っていた一人(ルカによる福音書 17章11-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191013 no 2019 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 (ルカによる福音書17章17節~18節) ルカ福音書だけに記される、主イエスのいやしの御業です。主イエスの超自然的ないやしの御業は主イエスの神性を示しています。 主イエスに対して、しばしば人びとは二分された反応を示します。主イエスを受け入れようとしない宗教指導者たちと、主イエスを受け入れる徴税人と罪人たちがその典型です。この箇所においても、主イエスによって重い皮膚病を患っていた十人の人が皆いやされましたが、神を賛美しながら戻って来て主イエスに感謝したのは一人のサマリア人だけでした。他の九人のユダヤ人たちは、神を賛美し、感謝するために主イエスのもとに戻っては来ませんでした。 主イエスに感謝して神を賛美するこのサマリア人は、福音が異邦人にも与えられることを指し示しています。福音は、神の恵みとして、今やユダヤ人と異邦人の区別なく与えられます。 今、私たちもただ神の恵みによって、主イエスの救いの御業にあずかります。その幸いを知る者とされて、感謝し神を賛美して主イエスのもとに繰り返し立ち帰りましょう。主イエスのもとに信仰生活の出発点があります。 Sat, 12 Oct 2019 00:10:00 +0000 生きてきたこと、それ自体に慰めがある(エゼキエル書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191012 no 2019 「お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」 (エゼキエル書14章22節~23節) 人びとがいかに楽観的な空気に浸り、また偶像に心寄せて恐れを取り繕ったとしても、神の裁きをやり過ごすことはできません。罪が重ねられています。神の怒りの時が迫っています。それは飢饉、荒廃、滅び、疫病として、それまでの生活が徹底的に破壊され、覆される時です。 その時を見据える私たちは神の裁きが持つその厳粛さに心を寄せます。妥協はありません。誰もが自分の罪を背負う。どのような義人も、隣人への裁きを肩代わりすることはできません。「彼らは自分の息子、娘たちすら救うことはできない」(18節)。愛する者の明日さえ担い、守ることができないのです。 神はその怒りを発せられることを通して、神が人間に命を与え、また奪い得るものであることを知らされます。 きょうまで、私たちが生きてきたことに、愛する者が生かされてきたことに慰めを受けます。神がそうおゆるしくださいましたから。私たち一人ひとりの生には、神がそうあることを求めてくださったというあたたかな恩寵があります。その事実が、私たちに平安を抱かせ、天を仰がせます。 Fri, 11 Oct 2019 00:10:00 +0000 真実を指さす言葉に耐える(エゼキエル書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191011 no 2019 「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。」 (エゼキエル書13章10節~11節) エゼキエルが語り示す預言とは対照的に、イスラエルの人びとの間には妙に楽観的な空気が漂っていました。主の預言者が語る神の怒り、破滅の時を茶化したりもしていました。誰も本当のことを知りたくなかったからです。自分の罪深さと世界の腐敗を指摘する言葉を聞きたくなかった、その日を楽しくやり過ごしたかったからです。 そのような空気が醸し出された背後には、「むなしい幻を見る預言者」の存在がありました。彼らは、主から遣わされていないのに「主は言われる」と語り、平和がないのに「平和だ」と語り、人びとの目から真実を遠ざける人たちでした。なぜ、彼らはそんなことをしたのか。それは、そうすることが民に喜ばれ、もてはやされたからです。心地よい欺きを民は求めました。そして、民はその偽りに魅了されていく。それは悲しく、滑稽な姿ですが、同じ根を私たちも持っています。 真実は麗しい姿をしているとは限りません。厳しく、醜くさえある。しかし、真実には力があります。人を変え、生かしめるのは真実だけです。その言葉にこそ耳を澄ましたい。耐えたい。救われたい。 Thu, 10 Oct 2019 00:10:00 +0000 奇異な行為に神の恩寵が潜む(エゼキエル書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191010 no 2019 「あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。彼らの中の首長も、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、壁に運び出すための穴をうがって出て行く。彼は目でこの土地を見ないように顔を覆う。』」 (エゼキエル書12章11節~12節) 幻は離れ、その意識をバビロンに戻したエゼキエルは続けて、エルサレムに残る民への預言を神から受け取ります。それは民に待ち受ける末路と希望とを示すものでした。 エゼキエルが命じられたことは、第一に昼間に自分の荷物をまとめること、第二に夕方に家の壁に穴をあけること、第三に暗闇の中、穴から荷物を担ぎ出すこと、すなわち、夜逃げを演じてみせることでした。その一連の奇異な行為に、捕囚民の誰かが「何をしているのか」と尋ねたならば、その者にだけ、行為の意味が明かされます。エルサレムの民は暗闇の中を夜逃げしなければいけない。その悲惨を捕囚民は既に知っています。その悲惨が、これからエルサレムに残る民にもたらされる、民は改めて主が真実な方であることを痛みと共に知るでしょう。 その痛みに、捕囚の真の意味を知らせる主の言葉が重ねられます。それは彼らが主の力をその心で知るためでした。そして、その力を語り伝えるためでした。そのために彼らは生かされます。 神を尋ね求める者に神はその人が生きる意味を一つひとつ明かされていきます。 Wed, 09 Oct 2019 00:10:00 +0000 主の栄光は民の日々を照らす(エゼキエル書 10-11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191009 no 2019 「主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』」 (エゼキエル書11章16節) 「主の栄光」がエルサレム神殿から去ってゆきます。敷居にとどまり、東の門の入り口に止まり、都の東にある山の上にとどまり。まるでその場所から離れることをためらうように、まるで腐敗に染まったその場所をなお愛でるようにゆっくりと、その輝きを移動させていきます。その光景を、霊に導かれ、追いかけていくエゼキエルはついに見ることになります。神殿が主の栄光を失う瞬間の幻を。民の罪がもたらした当然の帰結と、神の強いご決意を。 その光景を追いかける真っ只中でエゼキエルは聞きました。神に出会う場所としての神殿を失い、各地に散らされた民に向けられた主の約束の言葉を。「わたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった」。 主の栄光は民を追いかけるように散って行った先々に輝き、その日々をささやかに照らします。彼らを守るために。彼らが神をあきらめずに慕い続けるために。そしてもう一度、出会うために。 主の栄光が、この一日を照らします。その輝きに私たちは見つけるでしょう。共にあってくださる神のご決意を。 Tue, 08 Oct 2019 00:10:00 +0000 その印には、神の慈しみの色が滲む(エゼキエル書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191008 no 2019 主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」 (エゼキエル書9章4節) 罪に汚染された神殿をたどるエゼキエルの耳に大きな声が聞こえてきます。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」(1節)。神の怒りが徹底した「破壊」となってあらわされる、その幻の中にエゼキエルは置かれます。 戦慄の破壊命令が次々に聞こえてきます。逃げ場はありません。隠れる場所もありません。「6人の男」の手によって人びとは容赦なく打たれていきます。その「破壊」のさなか、同時並行で行なわれていた作業がありました。「嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」(4節)、「あの印のある者に近づいてはならない」(6節)。神殿を覆う大きな罪にのみ込まれながら、ただ慟哭をもってしか抗うことができなかった者たちを、神は愛しまれました。彼らが罪の中を生き抜くことを望まれました。その額に付けられた印に守られ、破壊が彼らを通り過ぎていきます。 神の怒りは広く、裁きの御手が緩められることはない。しかし、神の慈しみは深く、どこまでも深く、赦しの御手は罪を嘆く者に伸びていく。その幻をエゼキエルは同時に見させられたのでした。 Mon, 07 Oct 2019 00:10:00 +0000 見たか、神の栄光に照らされる人間の暗闇を(エゼキエル書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191007 no 2019 「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。」 (エゼキエル書8章17節) エルサレムから遠く異教の地バビロンに捕囚された民。その中に祭司の子エゼキエルがいました。「主なる神の御手」が彼に下った時、彼は神の側に立って人間が犯す罪を凝視し、また人間の側に立って神の嘆きに苦悶する預言者として生きることになりました。彼は恐れ、うずくまりもしながら、主の言葉の前に身を置き続けます。 「第6年の6月5日」(1節)。それは、エルサレム陥落をおよそ5年後に控えた紀元前592年のこと。バビロンにいるエゼキエルの目と耳に、エルサレムに残された民の罪深い有様が光景として、音として迫ってきました。神の霊はその栄光と共にエゼキエルの手を引くようにして、神殿に設置された偶像を、忌まわしい祭儀を、「人の子よ、見たか」と確認させていきます(14~17節)。神殿の内部に進むほどに、罪の深刻度は増していきました。神へのあざけりと不信、その絶望が濃くなっていきました。 その一つひとつをエゼキエルは「神の栄光」と共に見ていきます。神の怒りと痛みを知るために、見たくもない人間の暗さを見る。それも預言者の大切な使命でした。 Sun, 06 Oct 2019 00:10:00 +0000 赦し、信仰、奉仕(ルカによる福音書 1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191006 no 2019 「1日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 (ルカによる福音書17章4節) きょうの箇所は、つまずかせることへの警告と罪の赦し及び信仰と奉仕についての教訓とによって構成されています。これらの一つ一つが教会という信仰共同体における生活の基本原理です。 主イエスは弟子たちに、「小さな者の一人」、すなわち信仰の弱い人への特別な関心を持たせて、限りない赦しを教えられます。主イエスは「罪に対する裁き」と「罪人への憐れみ」を区別されます。罪は裁かれなければなりませんが、罪人は主イエスにあって赦されます。求められることは、限りない罪の赦しです。 主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」(マタ18章22節)とおっしゃいました。この「7回」も、何回であっても赦すことを求める言葉です。教会は赦しなしには成り立ちません。小さな者の一人への愛と信徒同士の赦し合いこそ「福音に生きる」キリスト者の生き方です。 赦すことは信仰なしには実現しません。それゆえ、主イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃって、私たちを励ましてくださいます。たとえ小さな信仰でも、主イエスが私たちに力を与え、増し加えてくださいます。 Sat, 05 Oct 2019 00:10:00 +0000 主イエスの兄弟姉妹(マタイによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191005 no 2019 「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 (マタイによる福音書12章50節) ある日、主イエスは、いつものように群衆に向かって話しておられました。するとある人が来て、主イエスの母と兄弟が立って待っていることを教えてくれました。そのとき、主イエスは弟子たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。…わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われました。 「天の父の御心を行う人」とは、罪を悔い改めて、主イエスに従う者のことです。主イエスに従う者は、主イエスの兄弟姉妹とされ、教会の一員とされています。主イエスに結ばれた主イエスの兄弟姉妹として、地上において天の御父の御心を行って生きるのです。この主イエスとの関係が、私たちにとってすべての土台となります。 主イエスは、決して御自分の母や兄弟を軽視したわけではありません。この世の家族よりももっと強い関係があるということを主イエスは教えてくださいました。地上において私たちはなお罪人であり、人間関係に悩まされることがあります。けれども、私たちはすでに兄弟姉妹です。私たちは、主イエスとの関係を土台にして、地上の家族、また主の教会を建て上げます。 Fri, 04 Oct 2019 00:10:00 +0000 天の国で最も小さな者(マタイによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191004 no 2019 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。 (マタイによる福音書11章11節) 洗礼者ヨハネは、救い主イエスを指し示した人物です。ヨハネは、救い主イエスが来られるための準備をしました。このヨハネの働きは、この地上に生まれた者の中で最も偉大なものでした。救い主の到来を告げた預言者の働き、中でもその集大成であるヨハネの働きは、とても大きなものです。 しかし、主イエスは、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とおっしゃいました。主イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、福音宣教を始められました(4章17節)。天の国とは、主イエスによって私たちにもたらされた神の支配です。私たちは自らの罪を悔い改め、主イエスを唯一の救い主と信じることにより、天の国、すなわち神の支配に入れられます。 主イエスを通して天の国に入れられた者は、救い主の到来を告げた預言者、また、救い主イエスを指し示したヨハネよりも偉大なのです。それくらい、主イエスを通して罪赦され、救われるということは、大きなことです。罪赦されて、神の支配の中で生きる者は、たとえ取るにたらない小さな者であったとしても、偉大な者として主なる神に受け入れられています。 Thu, 03 Oct 2019 00:10:00 +0000 人を恐れてはならない(マタイによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191003 no 2019 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 (マタイによる福音書10章28節) 主イエスは、弟子の中から12人を選び、汚れた霊に対する権能を授けられました。そして、その12人を世に派遣するにあたり、さまざまなことを命じられました。その一つが「人々を恐れてはならない」です。主イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と命じておられます。人を本当に滅ぼすことができる方は、主なる神以外にはおられないからです。 主なる神は、この世界のすべてを造り、治めておられる方です。ですから、この世で起こるどんなことも主なる神の了解なしに起こることはありません。1アサリオンで売られている2羽の雀のうちの1羽が地に落ちることさえ主なる神の許しなしには起こりません。雀は1羽では値がつかず、2羽セットで売られます。1羽の雀とは、取るにたらないものの代表です。 また、主なる神は、私たちの髪の毛の数までも数えておられます。すなわち、私たち一人ひとりのことを私たち以上にご存じです。私たちには、このすべてを知っておられる神がいつも共にいてくださいます。ですから、私たちは、何も恐れる必要はありません。 Wed, 02 Oct 2019 00:10:00 +0000 深く憐れまれるイエス(マタイによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191002 no 2019 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 (マタイによる福音書9章36節) ある日、主イエスは、ご自分のもとに集まって来た群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見られました。青草の原に導き、猛獣や強盗から守り、正しく導いてくれる羊飼いが羊には必要です。もし、羊飼いのいない羊の群れがいたとしたら、その羊の群れは、少しも生きていくことはできないでしょう。羊飼いのいない羊の群れは、日に日に弱っていくしかありません。 ですから、飼い主のいない羊のように弱り果てている群衆を見て、主イエスは、深く憐れまれました。「深く憐れむ」という言葉は、内臓がひきちぎられるような痛みをあらわしています。主イエスは、人びとの苦しみをご自分の痛みとして受け止めて、共に苦しんでくださいます。 この主イエスこそ、弱り果てた羊に命を与え、正しく生きていくことができるように導いてくださるまことの羊飼いです。主イエスは、羊の群れである教会に命を与え、教会を悪と罪から守り、正しく導いてくださいます。また、主イエスは、神の言葉である聖書を通して、教会を養ってくださいます。まことの羊飼いである主イエスに従って歩んでいきましょう。 Tue, 01 Oct 2019 00:10:00 +0000 なぜ怖がるのか(マタイによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20191001 no 2019 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。 (マタイによる福音書8章26節) 主イエスと弟子たちが舟に乗っておられたとき、激しい嵐が起こりました。舟は今にも波にのまれ、揺れて沈みそうです。弟子たちは、相当、怖かったのではないでしょうか。 ところが、弟子たちが慌てふためいていたのに対して、主イエスは驚くべきことに舟の上でぐっすり眠っておられました。慌てふためく弟子たちは、主イエスに向かって「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びました。嵐の中で安心して眠っておられる主イエスとは対照的に、弟子たちは必死だったと思われます。その弟子たちに、主イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言い、起き上がって、嵐を叱りつけられました。すると、さっきまでの大嵐がうそのように静まりました。 私たちは、自分の経験が通用しないような試練にあったとき、ただ慌てふためくしかありません。しかし、私たちが慌てふためくしかないことでも、主イエスは、簡単に静めてしまわれます。主イエスは、私たちがどうすることもできないことに対しても、圧倒的な強さを示してくださいます。この主イエスがいつも私たちと共にいてくださいます。 Mon, 30 Sep 2019 00:10:00 +0000 求めなさい(マタイによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190930 no 2019 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」 (マタイによる福音書7章7節~8節) 主イエスは、弟子たちに、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と約束してくださいました。こう約束してくださった主イエスが神と私たちの仲保者となってくださいます。私たちは、この主イエス・キリストの名によって祈ります。私たちは、「求めなさい」と命じてくださる主イエスに信頼して、神にどんなことでも求めることができます。 すべての良きものは、神から与えられます。ですから、私たちは、ほかのものにではなく、神に祈り求めることが必要です。神は、私たちの祈りを必ず聞いてくださり、求めている以上の良きものを与えてくださいます。 ところで、神にどんなことでも求めるということは、決して熱心に祈ることによって、神を説得することではありません。神は、私たちのことを私たち以上に知っておられます。神は、私たちに何が本当に必要なのかを私たちが祈る前からすべてご存知です。だからこそ、私たちは安心してどんなことでも祈ることができるのです。 すべてのことを神に祈り求めることからきょう一日も始めたいと思います。 Sun, 29 Sep 2019 00:10:00 +0000 聖書に耳を傾ける(ルカによる福音書 16章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190929 no 2019 「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 (ルカによる福音書16章30節~31節) この主イエスの言葉の中に、死後の世界を垣間見ることができます。きょうのたとえ話に登場する「金持ち」と「貧しい人」は、死後、お互いの境遇が逆転します。「彼(貧しい人)は慰められ、お前(金持ち)はもだえ苦しむのだ」(25節)。それで、「金持ち」は、まだ生きている兄弟たちに「こんな苦しい場所に来ることのないように」警告して欲しいと願います(28節)。その願いに、神の代弁者アブラハムが答えます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と(29節)。食い下がって訴える「金持ち」にアブラハムは言葉を重ねました。 「モーセと預言者」とは、旧約聖書を指します。つまり、生きている人間には聖書がすでに与えられているから、死に備えることに十分だと言うのです。そして、その与えられている聖書に「耳を傾ける」とは、神の御前に心と体に刻み付けるほどのことを意味します。家に聖書があるだけでは「聞く」ことにはなりません。神を知る者が、聖書を生きた神の声として「聞く」ことができるように切にお祈りします。 Sat, 28 Sep 2019 00:10:00 +0000 心を広くして歩む(コリントの信徒への手紙二 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190928 no 2019 子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。 (コリントの信徒への手紙二6章13節) どのような力に頼って、どのような心できょうを生きるかが問われています。パウロが依り頼んだのは神の力でした。しかし、その力は、人間の目には必ずしも大きな力としては見えず、むしろ逆に弱く見えます。人間の目には、義の武器などよりもミサイルの方が強く見える。十字架で死なれたイエス・キリストよりも、主イエスを十字架に架けたローマ兵やユダヤ人当局者たちの方が強く見えます。 けれども、イエス・キリストは、ひとりの人間として世に来られ、私たちのもろさと弱さを担われました。それは強い者、力ある者だけでなく、人間の目には救われないと思われるような人、弱い者、罪深い者であっても、全ての人を下から支え上げるようにして救うためです。 広い心とは、人間の目に見えるものだけで表わし尽くされることのない、大きな神の力を視野に捉えている心のことです。それは、パウロも自分自身に与えられるものだと確信していた神の力、多くの祝福と恵み、肉体の死を超えて与えられる豊かな命を神から受けているのだという、大きな後ろ盾に支えられた、強く広い心です。 Fri, 27 Sep 2019 00:10:00 +0000 正しさは神から与えられる(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190927 no 2019 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 (コリントの信徒への手紙二5章21節) 私たちは常日頃、正しい自分、間違っていない自分でありたいと願い、「あなたは間違っていない」という肯定の声を得るために、いろいろなことを頑張って、より良い自分を目指して歩んでいます。その背後には、そうしなければ神から罰せられ、見放されてしまうかもしれないという恐れがあるのかもしれません。私たちは、人の前でも神の前でも、何とか自分の欠けを補って、恥となるものを取り繕うことを試みます。 しかし、聖書は一貫して、私たちがそのように罪や欠けを取り繕うのは無理だと語ります。私たちは自分の実感や想像をはるかに上回る罪人です。けれども、そのような私たちを、神はキリストを通して、正しい者として受け入れて、神の義を与えて、愛してくださいます。 頑張って正しいわたしに変わるのではなく、また、自分は正しく間違っていないという思い込みで自分を支えるのでもありません。間違っているこのわたしを赦し、受け入れて、キリストの義を与えてくださる神の深い愛によってこそ、私たちは正しいと認められ、新しい自分へと変えられていくのです。 Thu, 26 Sep 2019 00:10:00 +0000 目には見えない強い支え(コリントの信徒への手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190926 no 2019 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 (コリントの信徒への手紙二4章17節~18節) ある日、テレビの番組に、何が人生で一番大切なものなのかが分らず、悩んでいる女子高生が出ていました。彼女は答えを求めて小さな島に行き、あるおばあさんを訪ねて、人生で一番大切なものは何かと尋ねました。そのおばあさんが、開口一番、「目に見えるものは結局壊れてなくなっちゃうから、そりゃあ目に見えないものが大事よ」と答えたのを聞いて、わたしは驚きました。パウロも基本的に同様のことを語っています。しかし問題は、目に見えるものが過ぎ去ったその先に何があるかです。 17節に「永遠の栄光」という言葉があります。それが先にあるからこそ自分は落胆せず、心強いのだとパウロは語りました。パウロのような人が存在した事実は、人間にはこういう生き方があり、このような希望をもって生きる道が私たちにも開かれていることを意味します。 人は目に見えない神に信頼して強く生きることができる。この希望を、私たちが出会う、悩み迷う人びとに伝えたいと思います。パウロが心強いと語った主の力が、この私たちのきょうにも働いてくださいますように。 Wed, 25 Sep 2019 00:10:00 +0000 良きキリスト教会にあるサイン(コリントの信徒への手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190925 no 2019 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 (コリントの信徒への手紙二3章18節) 有名な飲食店に行くと、時々、著名人のサインを見つけます。それは、この店は美味しい店だということのしるしのようなものです。では、教会にはどんなしるしがあるのでしょうか。 パウロは、教会に集いつつ歩む私たち信仰者の存在そのものが、ここにキリストが宿っておられ、救いが存在するということを示すしるしであると語っています。 「静かに川辺を歩いていると、自分の罪深さに対する憂いで泣けてくる」と語っていた牧師がいましたが、私たちの存在そのものを醒めた目で顧みるとき、キリストの救いを知っていながらも、実際には罪と離れることができずにあえいでいる自分がいます。「覆い」という言葉が頻出するこの章ですが、まさにアダムが神から隠れたように、覆い隠さなければならない自分の姿があります。けれども、その罪との葛藤を繰り返しながら生きる私たちを、主の霊がキリストの姿へと造り変えてくださいます。 実にキリストによって赦され、覆いを取り除かれて、きょうを自由に歩む私たちそのものが、教会の良きしるし、その輝きなのです。 Tue, 24 Sep 2019 00:10:00 +0000 神の救いを香らせて(コリントの信徒への手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190924 no 2019 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 (コリントの信徒への手紙二2章15節) 焼鳥屋さんの前を通ると、思わずその香りに心が掴まれ、引き寄せられます。 香りというものは不思議なものです。無色透明で目に見えないけれども、確かな存在感があり、色がある。香りは無理強いすることなく、違和感なくすっと人の心に届いて、人に伝わる。パウロは私たちの存在を、その香りになぞらえています。パウロによれば、神は私たちを通じて、キリストを知るという知識の良き香りを、至るところに漂わせてくださいます。キリストに属する私たちは既に、その良い香りになっているのです。 ウェストミンスター小教理問答の第1問の答えに、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります(新教出版社『ウェストミンスター信仰基準』所収、榊原康夫訳)。 神の栄光をあらわすと聞くと、それは何か特別な、ものすごいパフォーマンスであるとか、目覚ましい働きをすることだと思いがちです。けれども、決してそれは、小難しく大それたことなのではありません。とても芳ばしいこのキリストの香りを、きょうもこの私たちが振りまいて生きるということなのです。 Mon, 23 Sep 2019 00:10:00 +0000 苦難と共にある慰め(コリントの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190923 no 2019 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 (コリントの信徒への手紙二1章4節) 苦難は慰めとセットです。ここでは苦難は苦難として、単独では考えられていません。その理由は、私たちが苦難を受けるということは、キリストの苦難の歩みを自分も辿ることを意味し、それは、ますますキリストへの信頼を豊かにされる機会となるからです。 よって慰めとは、苦難や痛みが消えてなくなるということとは必ずしも一致しません。また慰めとは、もう少し経てば状況がだんだん良くなるという見通しとも違います。それはさらに、自分よりも他人はもっと苦しいのだからと考え、自分はまだましだと納得して頑張ることでもありません。苦しみの渦中で神に出会うこと、それそのものが慰めです。 いろいろな希望があり、人はいろいろなものに希望を置きますが、苦難の時、その苦難がたとえ消えずとも、そこで神に出会えて、「主よ、あなたはわたしの希望」と言うことができるということほど、心が強くされることはほかにないのだと思います(詩編71編5節)。どのようなときや状況に至っても、私たちの慰めとなる希望は、これしかありません。 Sun, 22 Sep 2019 00:10:00 +0000 神への忠実さ(ルカによる福音書 16章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190922 no 2019 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」 (ルカによる福音書16章10節) 聖書の神は信仰者に、神に対する「忠実さ」を求められます。それを、ルカによる福音書では、この世の「抜け目のなさ」、「賢さ」と同等に捉えて語ります(8節)。 たとえ話の中で、ある金持ちの財産を預かる管理人が、不正をして職を失おうとしていました。彼は失職後を考えて、主人に借りのある者たちの証文を書き換えてやりました。心証を良くして、友を作ろうとしたのです。その抜け目のないやり方を主人はほめました。施しや善行を奨励しているのではありません。焦点が定まれば何としてでも目的を達成する一途さを、信仰の「忠実さ」と重ね合わせているのです。 何も持たず裸で生まれて裸で死ぬ人間が、この世で手にするものは一切、神からの預かりものです。富も家族も、自分の命すら管理するよう預けられたのです。神から預けられたものを、誠心誠意、真摯に管理することが、神を神として崇める信仰の忠実さです。二心なく唯一の神のみへの信仰を貫く結果として、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ことを、神は約束してくださいます(9節)。 Sat, 21 Sep 2019 00:10:00 +0000 神の言葉を心に結びつけ、首に巻きつけよ(箴言 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190921 no 2019 わが子よ、父の戒めを守れ。 母の教えをおろそかにするな。 それをいつもあなたの心に結びつけ 首に巻きつけよ。 それはあなたの歩みを導き あなたが横たわるとき見守り 目覚めればあなたに話しかける。 (箴言6章20節~22節) ここで言う「父の戒め」、「母の教え」とは、「神の教え」、「神の言葉」と言い換えることができます。なぜなら、旧約の民イスラエルにおいて、神の教え、神の言葉を自分の子どもに教えることが両親の務めであったからです(出12章26節、13章8節、申4章10節)。イスラエルの民の両親に神の言葉を子どもに教える務めを託されたので、神は「あなたの父母を敬え」という御言葉、戒めを与えられました。 ここでは、神の御言葉を「いつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ」という珍しい言葉で勧めをしています。これは、神の御言葉を心に焼き付け、また衣服のようにしっかりと身に着ける、そこにしっかりと立って生きることを勧めたものです。子どもたちは、御言葉を口ずさみ、繰り返し唱えて暗唱し、御言葉を心に刻み込むことに努めました。 なぜなら、神の御言葉こそ、あなたの歩みを導き、あなたを見守るものだからです。神の御言葉は、あなたを幸いな道へと導いて足もとを照らし出す光、道しるベなのです(詩119編105節)。 Fri, 20 Sep 2019 00:10:00 +0000 皆、主の御目の前に生きている(箴言 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190920 no 2019 人の歩む道は主の御目の前にある。 その道を主はすべて計っておられる。 (箴言5章21節) 私たち人間は皆、そのことを意識する意識しないにかかわらず、神の御目の前に生きています。また、神は私たちの歩むすべての道を御存じです。だれも主(ヤハウェなる神)の前に、自分を隠すことができません。ですから、人間は皆、その神に心を向け、心を開き、神を自分の目の前に置くべきです。 神は御自身に心を開いて、御自身を信じて生きる一人ひとりを、怒りではなく、愛と赦しのまなざしで見つめてくださいます。このことを確信できる証拠が、イエス・キリストの十字架での死です。「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5章8節)。 神に心を開いて神の言葉に耳を傾け、神の言葉に従って人生を歩む、その中で私たちは誰でも驚きと喜びをもってこう言うことができるようにされます。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。…御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」(詩139編8~10節)。 Thu, 19 Sep 2019 00:10:00 +0000 命を得よ(箴言 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190919 no 2019 父はわたしに教えて言った。 「わたしの言葉をお前の心に保ち わたしの戒めを守って、命を得よ。」 (箴言4章4節) 神の民イスラエルは世代から世代へとわたって、神のなされたこと、そしてまた神の御言葉をその子孫に告げて来ました。それは、神が彼らにそう命じられたからです(出12章26節、13章8節、申4章10節、6章6~7節など)。 また、それ以上に神がかつて御自身の言葉を信じて歩んだ彼らの先祖アブラハムと「契約」を結ばれたからです。神の「契約」の言葉は、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創17章7節)でした。神の契約の御言葉すなわち神の約束のゆえに、彼らは子どもたちに神のなされたこと、神の御言葉を教えて来たのです。 神は同じ契約を今、イエス・キリストを信じる人びとと結ばれます(ガラ3章26~29節)。そして、そこに「命」があります(イザ55章3節)。 教会に子どもたちが与えられています。その子どもたちがまことの命を得ることができるように祈り、彼らに神のなされたこと、神の御言葉を告げたいと思うのです。 Wed, 18 Sep 2019 00:10:00 +0000 主の道に歩む(箴言 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190918 no 2019 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。 そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。 (箴言3章5節~6節) 人間は自分だけで立つこと、また何にももたれかかることなく生きること、物事を判断することなど決してできないものです。問題は、では何に、誰により頼んで、またもたれかかって生きるのか、誰の判断に従って行動するのかということです。このことは、人間の知性を否定するものではなく、正しい知恵と判断力を持って生きることが肝心なのだということです。 主、ヤハウェなる神を知らされ、その神を信じて生きた人の知恵の言葉が箴言です。箴言は、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け」と言います。「自分の分別に頼らず」とは、神が語られ、命じられる御言葉に耳を傾けて、神の御言葉に基づいて物事を見る、行動するということです。そこに、「主があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」幸いがあります。 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ロマ8章28節)。信仰者には、あとから振り返って一つ一つが自分の益となることに気づく道が備えられています。 Tue, 17 Sep 2019 00:10:00 +0000 神を知ることに到達する(箴言 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190917 no 2019 銀を求めるようにそれを尋ね 宝物を求めるようにそれを捜すなら あなたは主を畏れることを悟り 神を知ることに到達するであろう。 (箴言2章4節~5節) 古代近東ではかつて金よりも銀のほうが価値あるものとされた時代がありました(イザ55章1節参照)。人間が人間として生きるために求めるべきもの、欠かすことができないものは、富でも名声でもなく、「主(ヤハウェなる神)を畏れる」ことです。これこそが人間が獲得すべき最も価値のあることです。というのは、「ヤハウェなる神を畏れる」ところに、人間が生きる本来の姿に戻ることができる糸口があるからです。 人間にとって最も不幸なことは、主、ヤハウェなる神を知らずに生きることです。生きておられる神を畏れる、神を自分の目の前に置く、神をきちんと認めるときに、神を知ることになります。「神を知ることに到達する」とは、ただ知識として知るだけでなく、畏れ敬うべきお方として「神を知るに至る」ということです。 愛と赦しに基づく深い関係に私たちを入れてくださる主、ヤハウェなる神を知ること、そこに永遠の命があります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17章3節)。 Mon, 16 Sep 2019 00:10:00 +0000 立ち帰るのを待たれる神(箴言 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190916 no 2019 「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ わたしの言葉を示そう。」 (箴言1章23節) 「箴言」をはじめとして、知恵の書と呼ばれる「詩編」や「コヘレトの言葉」などは皆、「主(ヤハウェなる神)を畏れることは知恵の初め」であると教えます(詩111編10節、箴1章7節、コへ12章13節など)。「神を畏れる」ということは、神を目の前に置き、神の語られる御言葉に耳を傾けて、御言葉に従って生きることです。しかし、人間は心が頑なな者ですから、神を無視し、自分の思いや感情に流されてしまうことがよくあります。 かつて神の民とされたイスラエルの人びとも、たびたび神に心を閉ざし、耳を閉ざして、自分の意のままに生きました。その民に対して神は繰り返し語りかけられました。神の民であったイスラエルの人びとにとって、「神を畏れる」とは、神が彼らと結ばれた契約を思い起こして生きることだからです。 今、「神を畏れる」とは、御言葉に耳を傾けて、神の御前に立ち帰り、神が遣わされたイエス・キリストを信じることです。そうすれば、また、そのためにこそ、神は私たちに聖霊を注いで、御言葉を聞いて歩むことができるように整えてくださいます。 Sun, 15 Sep 2019 00:10:00 +0000 失われたものを取り戻す天の喜び(ルカによる福音書 15章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190915 no 2019 「言っておくが、このように悔い改める1人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (ルカによる福音書15章7節) 本来、私たち人間は、神の像に造られ、その命の息を吹き入れられた、神のものです。しかし、神に背を向けて、神共にいます喜びを捨てて、滅びの方向に歩んでしまいました。いるべきところを見失ったのは、神ではなく人間の方です。しかし、失われることを諦めきれない熱情の神は、私たちを「念を入れて捜」すほどに立ち帰ることを渇望されています(8節)。その失われた者を救おうとされる熱意ゆえに、ついに御子イエス・キリストをこの世に遣わされることとなったのです。 だから、神に立ち帰る者が1人でもいたら、神の喜びは、「友達や近所の人々を呼び集めて」祝うような、天をあげての大喜びだと言います(5、9節)。 わたしのために、「大きな喜びが天にある」など、おこがましくも大げさだ、と思いますか。もしそうなら、自分を低く見積もり、見誤ってしまっています。なぜなら神は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ていると言ってくださるのですから(イザ43章4節)。神の喜びを喜ぶ者となりましょう。 Sat, 14 Sep 2019 00:10:00 +0000 神のなだめの供え物(エゼキエル書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190914 no 2019 終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り、お前の行いに従って裁き、忌まわしいすべてのことをお前に報いる。 (エゼキエル書7章2節~3節) 終わりの日、それは背く者に神の聖なる御怒りがあらわされる日です。神への背信のゆえに契約の民イスラエルに終わりの裁きの日が来ると告げられたのです。それは神の義しい御怒りがあらわされる時でした。神の聖なる御怒りが臨むのであれば、人に救いの望みはありません。 伝道者パウロも詩編を引用して、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」と言っています(ロマ3章10、11節)。人間による救いの道は完全に閉ざされました。しかし、そこに人間の業によらない、神から来る救いの道が開かれました。 聖書の神は愛の神であると同時に、罪に対しては聖なる御怒りをもって臨まれる義の神です。私たち人間は誰も自らの背きと罪のゆえに神の聖なる御怒りに耐えられません。しかし、恵みの神は、御子イエスを十字架にご自分の聖なる御怒りをなだめる供え物とすることによって、赦しと救いの道を開いてくださいました。それゆえ、なお多くの古き罪を囲いつつ生きる私たちであっても、この御方にあって救いの希望に生きることができます。 Fri, 13 Sep 2019 00:10:00 +0000 残りの者を残す(エゼキエル書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190913 no 2019 「しかし、お前たちが諸国に散らされるとき、わたしはお前たちのために、剣を逃れた者を諸国民の間に残しておく。お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。」 (エゼキエル書6章8節~9節) 神の民イスラエルは背きの罪のゆえに神の厳しい裁きを受けました。彼らは空しい偶像の神々に心を寄せ、契約の神を捨ててしまったのです。神は北の大国バビロンを用いて彼らを滅ぼし、民はかの地に捕囚されて行きました。自分たちこそ繁栄と祝福を約束された選びの民であるという誇りは完全に打ち砕かれてしまいました。 彼らの信ずる神も大国の神々に敗北したように思われ、頼るべき御方を失い、絶望の淵に立たされたのです。 そうしたときに、彼らに告げられたのがきょうの御言葉です。諸国民の間にあって剣を逃れた者を残す、お前たちのうちで逃れた者は、捕囚の地で主を思い起こすという約束です。それは神が彼らの心から、偶像に引かれる姦淫の心を打ち砕くと言われることによってです。 預言者エレミヤも新しい契約を預言しました。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31章33節)。神は御言葉と聖霊によって私たちを新しく生まれさせ、自分の子としてくださるのです。 Thu, 12 Sep 2019 00:10:00 +0000 背きの罪を担われる御方(エゼキエル書 4-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190912 no 2019 左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。 (エゼキエル書4章4節) 神の民と呼ばれたイスラエルは、その罪ゆえに神の厳しい裁きを告げられました。それは大国バビロンによるエルサレムの包囲と滅びの予告でした。預言者はそれを二つの象徴的な行為で表しました。 まず、左脇を下にしてイスラエルの罪を負うという行為です。背きの罪ゆえに裁きの言葉が告げられることは正しいことです。預言者はその役割のうちに、民の罪を自分の身に負うということを含みます。神はエゼキエルにイスラエルの家の罪を負いなさいとお命じになったのです。 次に、髪の毛とひげをそり落とし、その3分の1を火で燃やし、3分の1は剣で打ち、残りの3分の1は風に乗せて散らすという行為です。それは神の民の3分の1は疫病や飢えで死に、3分の1は剣に倒れ、残りの3分の1は捕囚されて生き残ることを表しています。神は残りの者を備えられます。彼らが悔い改めたからではありません。神がそう願われました。 イエス・キリストこそ、神への背きに生きる私たちの罪を十字架で担って贖いとなってくださった救い主です。私たちの救いはこの御方の贖いに依っています。 Wed, 11 Sep 2019 00:10:00 +0000 見張りの務め(エゼキエル書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190911 no 2019 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。」 (エゼキエル書3章17節) イスラエルの家の見張り人とは、塔から見張って敵の危険を人びとに知らせる、霊的見張り人です。神の御言葉に耳を傾けず、安心だ、平安だと神を忘れて世の楽しみを謳歌している人びとに警告する役割を担います。また、預言者はいかに嘲笑され、反対され、迫害を受けようとも御言葉を語り続ける者であるべきなのです。それは厳しい務めでした。 主はそのような預言者を強められます。その顔を硬くし、その額を彼らの額よりも硬いダイヤモンドのようにすると言われました。 創立30周年「教会と国家に関する信仰の宣言」の中に次の文章があります。「教会は、国家を見守る者としての預言者的な務めを果たし、主が促される時には、公に主のみこころを宣言する」と。信教の自由がますます脅かされ、全体主義的な国家形成がなされつつあるこの時代にあって、教会は小さな群れではあっても主が促される時には公に主の御心を宣言する見張りの役割を担っています。「恐れるな、小さき群れよ」と励ましていてくださる、頭なる主キリストに信頼して私たちは歩みます。 Tue, 10 Sep 2019 00:10:00 +0000 主に遣わされる預言者(エゼキエル書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190910 no 2019 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。…たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」 (エゼキエル書2章3節、7節) 預言者は神から遣わされて御言葉を語る者です。しかし、エゼキエルは素直に御言葉を聞く人びとにではなく、反逆の民に遣わされると言われています。反逆の民もまた神に愛され、導かれた契約の民でした。それにもかかわらず主を忘れ、主に背いて偶像の道に走ったのです。 主が預言者に与えられた言葉は、「哀歌と呻きと嘆きの言葉」でした(10節参照)。ご自分に背いて滅びに向かう背信の者らに対する父なる神の御心は悲しみと嘆きです。背きの罪のゆえに失われゆく者が救われるようにと願う神の憐れみと愛です。そうであれば、預言者はたとえ相手がどれほど頑なで、反逆の者であろうと主の御言葉を語り続けるのです。 反逆の民とは誰でしょうか。それは私たち自身に違いありません。私たちはまことの神を知らず、神から離れて生きるものでした。 主イエスはご自分を十字架につける人びとを指して、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成し祈られました。贖われた私たちも新しい預言者として聖霊を注がれ、救いの福音を携えて罪の世に遣わされて行くのです。 Mon, 09 Sep 2019 00:10:00 +0000 主が私たちと共におられる(エゼキエル書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190909 no 2019 わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。…主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。 (エゼキエル書1章1節、3節) 私たちは人から忘れ去られて孤独に置かれたとき、希望を失い、生きる意欲さえ失ってしまいます。まして神から見捨てられたと感じたときはそれ以上でしょう。 神の民イスラエルは、背信の結果、北の大国バビロンに攻め滅ぼされ、かの地に捕囚されていました。神は私たちを見捨ててしまわれた、もう私たちは御声を聞くことも栄光を仰ぐこともできない、と絶望していたのです。 預言者が神の御声を聞き、主の栄光に接したのは、そうしたときでした。人びとは、「主の栄光」はエルサレムの神殿にしか住まわれないと考えていました。しかし、主の神殿に臨在される主の栄光が捕囚の地にあった惨めな民の上にも臨まれたのです。それは大きな励ましでした。 私たちにも厳しい試練が臨むと、神はわたしを見捨ててしまわれたと希望を失い、主を離れ、信仰を離れてしまうことがあるかもしれません。しかし、御子イエスを遣わしてくださった恵みの神は、子としてくださった私たちを見捨てることは決してありません。ゆえに私たちは信仰の望みをもって地上の生涯を歩み続けることができます。 Sun, 08 Sep 2019 00:10:00 +0000 わたしの弟子であれ(ルカによる福音書 14章25-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190908 no 2019 「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 (ルカによる福音書14章33節) キリストを主と信じることは、大きな喜びです。けれども、キリストのものであり続けることは、容易ではありません。主イエスは、弟子(信仰者)として一切を捨てる覚悟を求められました。それが、「自分の十字架を背負」うということです(27節)。パウロは、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と言います(2テモ3章12節)。 ここまで言われると、悲愴感を覚えるかもしれません。しかし、キリスト教信仰は、自分で頑張るものではありません。主イエス・キリストからすでに尽きない救いの恵みをいただいているのですから、疲れ切ることはないのです。それどころか、かえって疲れている者を回復させる力を、主はお与えくださいます。それゆえ、旧約の預言者も、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と信仰を告白しました(イザ40章31節)。 自分で生み出す力ではなく、主からいただく力によって、健やかに主の弟子であり続けたいと願います。 Sat, 07 Sep 2019 00:10:00 +0000 神に仕え、富を管理する(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190907 no 2019 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 (マタイによる福音書6章24節) 主イエスは、神に仕えお金をふさわしく管理しなさいと教えておられます。お金に対して気をつけなければならないことがあります。お金を愛して依存して生きることやお金が人生を保証すると考えることはいけません。お金があれば満たされると考えてもいけません。では、ふさわしく管理するにはどうしたらよいのでしょうか。 1、お金も含めすべては神の所有物であると、毎日思い出すこと。お金は神からの預かり物です。人は神のお金を管理しています。 2、お金によって神はわたしを訓練される。あなたが何にお金を使うかであなたが何を愛しているのかがわかる。神を一番に愛するお金の使い方が重要です。 3、お金で神はあなたの信用度を見ておられる。小さな世の富をふさわしく管理できる人は信用され、天の国においてより大きな霊的な財産管理を任されます。 4、お金の最高の使い道は隣人を天国へと導くためです。お金は隣人を天国へと招くために使う道具です。お金は神から与えられている良いものです。良いことのために使いましょう。 Fri, 06 Sep 2019 00:10:00 +0000 敵を愛し、祈る(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190906 no 2019 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 (マタイによる福音書5章44節) きょうの主イエスの御言葉を聞いて、ある人がこう言ったそうです。「俺の敵は、酒とギャンブルと女だ。だからこれからも愛し続けるぞ」。以前何かの本で読んで、大笑いしたことを思い出します。 もちろん主イエスの教えは違います。「敵」は主イエスを信じているという理由であなたに敵対する人です。信仰によって生きる人に敵意をもって具体的な嫌がらせをする人が敵です。あなたの敵は、主イエスの敵なのです。その敵を愛して、敵のために祈りなさいと主は命じています。敵を愛することは敵のために祈ることから始まります。 では、どうしたらよいのでしょうか。 1、わたしが主イエスに敵対していたことを思い出す。すべての人は生まれながらにして主イエスに敵対しています。主イエスに敵対していたあなたを主イエスは愛してくださいました。 2、主イエスはすべての人を愛しておられる。主イエスはあなたの敵を愛しておられます。主イエスが愛しておられる人をわたしが愛さないのであればそれは主に対する命令違反になります。 敵のために祈りましょう。 Thu, 05 Sep 2019 00:10:00 +0000 心の健康診断(マタイによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190905 no 2019 イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 (マタイによる福音書4章4節) 健康診断と聞くと人間ドックを連想される方もおられるでしょう。体を健康に維持するには、医者の診断を受け、指示通りに食事の管理をすることが大切です。 それ以上に、人は心の健康管理が大切だと主イエスは教えてくださいました。 「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とはこの点を教えています。心は、生き方に直接影響を与える大切なものです。心の中にあるものが言葉や行動になってあらわれます。健康な心を保つためにきょうからできる習慣があります。それは「真理によって心を養う」ことです。毎日、聖書の言葉を読むことです。これによって二つの恵みが与えらます。 1、マイナスな考えから自由になれる。マイナスな考えは、過去の自分の考え方、サタンの誘惑、世の価値観からやってきます。聖書の言葉がそれらを心から追い出してくれます。 2、正しい事柄に心の焦点が定まる。真理の御言葉は、主イエスとその言葉で心を満たし、他人のことを考える人へと導き、永遠の世界を見る目を与えてくれます。 Wed, 04 Sep 2019 00:10:00 +0000 天からの声(マタイによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190904 no 2019 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 (マタイによる福音書3章17節) 人は毎日、神から出発して、神に帰ってくるよう造られました。時に、自分にうんざりする出来事が起きる日もあり、自分の罪を認めるしかない出来事が起きる日もあるでしょう。それでも人は一日の終わりに神に帰ってくるのです。そして寝る前に必ず聞かなければならない天からの声があることを思いだすのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。 その日、何が起きても主にある人はこの声を聞きながら眠りに就くのです。神の愛に包まれて眠り、新しい朝を神の愛の中で迎えるのです。神の愛の中でその日を終え、神の愛の中で一日を歩み始めるのです。 そこから新しい一日が始まります。その一日とは、 1、神に自分を献げて歩む。神はあなたが思っている以上にあなたを信頼し大切に思っておられます。 2、神に賛美と感謝をささげながら歩む。ハーバード大学とエール大学の共同研究によると、歌うことは長生きの秘訣に通じ、脳を活性化させ、ストレス減少にも役だつそうです。あなたは賛美していますか。 Tue, 03 Sep 2019 00:10:00 +0000 真の指導者 主イエス(マタイによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190903 no 2019 「『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 (マタイによる福音書2章6節) 人には夢(目的)が必要です。夢のない人生は、ただ世を漂っているだけの人生です。それは他の人間にあなたの人生を左右されることです。あなたの人生の夢は何ですか。 神はすべてに関して夢をもっておられます。あなたの人生にも夢をもっておられます。キリスト者にとって夢は信仰の表明です。夢はあなたの人生を前進させ、あなたの人格形成においても役に立ちます。ではどのような夢、目標を神は祝福されるのでしょうか。 1、神の栄光を現わす夢であること。それは神をもっと愛し、信頼し、他の人に仕えるようにさせる何かです。 2、夢が愛の動機によって立てられているかどうか。「何事も愛をもって行いなさい」(1コリ16章14節)。 3、夢は神に依り頼む何かでなければなりません。 夢の実現には、次の三つのことが必要です。聖霊によって力づけられること。神の民の協力。神の言葉によって導かれること。 主イエスは神の言葉をもってあなたの夢を実現へと導いていく良い羊飼い、真の指導者です。 Mon, 02 Sep 2019 00:10:00 +0000 主イエスの名を思い出すとき(マタイによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190902 no 2019 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 (マタイによる福音書1章23節) 主イエスの名前の意味は「神は我々と共におられる」です。これは神がわたしを愛しておられるということです。祈りの最後に、「主のお名前によって祈ります」というとき、きょうも神に愛されていることを思い出しましょう。そのとき、神がどのような愛で毎日わたしを愛してくださっているか具体的に思い出してみましょう。 1、わたしは神に完全に受け入れられている。「拒否」されるとき、私たちの心は深く傷ついてしまいます。しかし、神はあなたをどんなときも受け入れてくださいます。 2、わたしは無条件で愛されている。あなたがどのような状態でも、神はあなたを愛し続けてくださいます。 3、わたしは完全に赦されている。神は生まれる前からあなたの最悪の罪をご存じです。神はその上であなたを愛して、選び出されました。 4、わたしは最高に価値ある人間である。価値は誰のものか、いくら支払われたかで決まります。あなたは神のものです。あなたのために主イエスの尊い命が支払われました。 きょうも主イエスはあなたと共におられます。アーメン。 Sun, 01 Sep 2019 00:10:00 +0000 行いの姿勢(ルカによる福音書 14章7-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190901 no 2019 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。…そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」 (ルカによる福音書14章11節、14節) 主イエスはここで、謙遜の美徳をもっていないと恥をかく、という世渡り術を説かれているのではありません。相手を見てへりくだりの対応を変えるような相対的な姿勢ではなく、本来神の下にある自分を認めて、「主の前にへりくだりなさい」と聖書は言うのです。そうすれば、天の国の主である神が、私たちのあるべき場所を決めてくださいます(ヤコ4章10節参照)。つまり、自分で自身を査定するのではなく、神に委ねる姿勢を教えられたのです。 その姿勢は、善いことの実践においても同じです。人から報いや誉れを受けることは悪いことではありません。けれども、人からのお返しを想定して行うのではありません。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。…人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」(ルカ6章34、35節)と主イエスも教えられました。なぜなら、私たちの行いの査定をされるのは神だからです。 その神からの報いが復活のときにあると信じることができれば、心の平穏な日々が過ごせるに違いありません。 Sat, 31 Aug 2019 00:10:00 +0000 神の民を満足させる神 (詩編 81編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190831 no 2019 主は民を最良の小麦で養ってくださる。 「わたしは岩から蜜を滴らせて あなたを飽かせるであろう。」 (詩編81編17節) 詩人は、エジプトから救い出してくださった神をほめたたえて歌っています。出エジプトの出来事は、罪と死の力のもとにある私たちを解放してくださったことの象徴でもあります(ロマ8章2節)。 9節の「わたしの民よ、聞け」とは、耳で聞くだけの意味ではなく、注意深く聞いて、聞いたことを心に受け入れ、行動に移すことまでを強調する言葉です。しかも命令形で書かれているので、必ず神の御言葉を聞かなければなりません。 しかし、メリバの水の事件は、イスラエルの民が、神に不平不満を訴え続けて、全く恵みを受ける価値がないものであることを明らかにしました(8節)。 神が試練を経験させる目的は、不従順な者を従順なご自身の民となさり、最良の小麦で飽き足りるほどに満足させるためです(17節)。この「飽かせる」という言葉は、途切れることなく与え続けるという意味の言葉です。 神の御言葉に聞き従うのは簡単ではありませんが、私たちを選び、罪を赦し、神の恵みで満足させようとする神の力に期待しましょう。 Fri, 30 Aug 2019 00:10:00 +0000 植えられたぶどうの木(詩編 80編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190830 no 2019 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。 (詩編80編8節) 七十人訳聖書では、「アッシリアに関する歌」という表題が付けられています。3節のエフライム、ベニヤミン、マナセは北イスラエルを代表する部族です。紀元前722年にアッシリアによって陥落しました。それがこの詩の背景になっています。 神はイスラエルの民がカナンに入る前に彼らと契約を結びましたが、やがて神に不従順になり、嘲りの的になると言われました(申28章37節)。それは、その言葉の通りになりました(7節)。 9節で、イスラエルの民の象徴であるぶどうの木を神が一方的にカナンに植えられたと賛美しています。すなわち、詩人は、アッシリアによって陥落している状況の中で、一方的な神の恵みによって回復されるのを待ち望んでいます。契約を重んじられる主なる神を呼び求めて、詩人は、神の契約に基づいて神の救いを望んでいます。 神はご自身の主権をもって一方的に働かれます。4節に「連れ帰り」とある通り、神は自ら選び、救い、赦し、回復へと導いてくださるお方です。その神が私たちの神となられました。神に栄光がありますように。 Thu, 29 Aug 2019 00:10:00 +0000 神の憐れみのみによって(詩編 79編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190829 no 2019 どうか、わたしたちの昔の罪に御心を留めず 御憐れみを速やかに差し向けてください。 わたしたちは弱り果てました。 (詩編79編8節) 紀元前586年、バビロニア帝国によってイスラエルは、聖なる神殿を含めて、滅ぼされました。神の裁きを受けたからです。しかし、この絶望の中でも詩人は神の救いを期待して歌っています。なぜでしょうか。 詩人は、「あなたの嗣業」、「あなたの聖なる神殿」(1節)、「あなたの僕らの」、「あなたの慈しみに生きた人々」(2節)、「私たちの救いの神よ」(9節)、「あなたの民」、「あなたに養われる羊の群れ」(13節)と告白します。 8節では、特に憐れみを期待しています。「憐れみ」とは本来、胎児を宿している母親の胎を指す言葉です。神の正しい基準で人間の罪を裁かれたら、誰も神の前に立つことはできません。しかし、母親が自分の胎内にいる赤ちゃんを守り憐れむような、慈悲深い神のご性質に希望を置いて、神の保護の対象である神の民であることを明確に歌うのです。 神が、このような憐れみをもって、歴史の中で赦しを通して栄光を表してくださったように、きょうを生きる私たちの罪をも赦してくださり、必ず回復してくださるに違いありません。アーメン。 Wed, 28 Aug 2019 00:10:00 +0000 神の正しい選びと導き(詩編 78編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190828 no 2019 わたしの民よ、わたしの教えを聞き わたしの口の言葉に耳を傾けよ。 … 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。 (詩編78編1節、4節) クリスチャンを神の民と呼びます。しかし、神にとって私たちはどんな存在でしょうか。神の目には、「人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風である」と表現されています(39節)。全く期待できない、欲望のままに赴く存在そのものです。人間に全く期待できないので、「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった」と言われます(38節)。神の基準を満たして神の民になれるものは、この世には一人もいません。 しかし、1節で、なぜ「わたしの民よ」と呼ばれるのでしょうか。神ご自身が神の民を選ぶからです。不平不満を聞きながらも、「神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを雨のように降らして食べるようにしてくださ」いました(23、24節)。彼らがどれほど神に逆らったかに関係なく、です。 ですから、詩人は神の導きを賛美します。たとえ不従順であっても、足りないままでも、神は必ず正しい道に選びの民を導いてくださいます。神を伝え、賛美するまで導いてくださるのです。 Tue, 27 Aug 2019 00:10:00 +0000 祈りが神に届かないと思うとき(詩編 77編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190827 no 2019 「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。 約束は代々に断たれてしまったのであろうか。」 (詩編77編8節~9節) 2節から10節で、詩人は耐えきれない苦難と絶望の中で続けて神を呼び求めます。9節で、「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか」と絶望の中で神の応答を待っています。けれども、神からは何の答えもありません。 私たちも、なぜわたしの神はこの苦しい状況から救おうとされないのかと、神を批判することがあります。しかし、11節から神を賛美する内容に変わります。状況が全く変わっていないのになぜ神を賛美し、希望を持つことができたのでしょうか。 16節に、ヤコブとヨセフが出てきます。ヨセフは兄弟たちに裏切られ、エジプトに奴隷として売られました。父ヤコブはヨセフが野獣に殺されてしまったと思って長い間苦しんでいました。しかし、それは、モーセとアロンの手を通してご自分の民を乳と蜜の流れるカナンの地に導かれるためでした(21節参照)。 神は必ずご自身の民の嘆きに応答してくださいます(イザ41章17節)。自分の期待ではなく、わたしの考えを遥かに超える神の導きに希望を持ちたいです。 Mon, 26 Aug 2019 00:10:00 +0000 ヤコブの神である私たちの神よ(詩編 76編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190826 no 2019 ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると 戦車も馬も深い眠りに陥る。 (詩編76編7節) 詩編76編は、ギリシャ語七十人訳聖書では「アッシリアに関する歌」という表題が付け加えられています。 列王記下18章によると、巨大な帝国であるアッシリアの大軍がユダヤに侵攻します。全く抵抗できなかったユダヤは滅亡寸前でした。王であるヒゼキヤはこの絶望に激しく嘆きながら、ヤコブ(イスラエル)の神に救いの祈りをささげることしかできませんでした。すると奇跡がおこりました。神が1人の天使を送ってユダヤの代わりに戦わせられたのです。「戦車も馬も深い眠りに陥る」と言われます。大軍でも寝なければならない限界がある被造物です。寝ると抵抗することは不可能です。それによって18万5千人のアッシリア軍が全滅しました(列王下19章35節)。 神の救いは確かです。その神がヤコブの神であり、今を生きている私たちの神です。私たちも、この世で到底解決することができない問題や不安、そして苦しみに嘆くこともあります。しかし、私たちの神は必ず守り、勝利をお与えくださいます。きょうもその神に希望を置き、祈り求めたいのです。 Sun, 25 Aug 2019 00:10:00 +0000 サタンの束縛から解かれる(ルカによる福音書 13章10-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190825 no 2019 「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 (ルカによる福音書13章16節) 主イエスは安息日に、腰がまがったままどうしても伸ばすことができない病の女をいやされました。しかし、会堂長は安息日に病をいやすことは働くことであり、律法に違反することだと考えて腹を立てました。 これに対して、主イエスは「解く」という言葉に焦点を当てて言われました。「だれでも、安息日に牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか」と。そうであれば、人々が安息日に飼い葉桶から解くことを実行しているのは、その行為が働くことには相当しないと考えていたことになります。主イエスは彼らの「解く」という行為に着目して切り返されました。「もし安息日に縛られている牛やろばを解くことができるのであれば、18年もの長きにわたって病に縛られていたアブラハムの娘、すなわち、罪から救われるべき娘を、サタンの束縛から解くことも当然できるではないか」と。 律法の文字を実行することにではなく、安息日にこそ人がサタンの束縛から解かれて罪が赦される、という神の御心に目を留めなさい、と主イエスは言われたのです。 Sat, 24 Aug 2019 00:10:00 +0000 わたしとわたしの家は主に仕えます(ヨシュア記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190824 no 2019 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、…主に仕えなさい。…仕えたいと思うものを今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。 (ヨシュア記24章14節~15節) ヨシュアの死をもってヨシュア記は閉じられます。一つの時代が終わりました。これからも歩み続けて行く神の民にとって、大切なことは何か。それをヨシュアは、自らの生き方をもって指し示します。「わたしとわたしの家は主に仕えます」(15節)。主に背き、主を離れて滅び去るのではなく、心から主に仕えて、真実に生きるようにと願うのです。 恵みをもって神の民を導いてくださった主は、同じようにこれからも御自身の民を顧みてくださいます。恵みの内に私たちを支えてくださいます。 「わたしとわたしの家は主に仕える」との信仰告白を、私たちの心からの告白としましょう。この告白をもって、「主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え」、強く雄々しく歩みましょう。一人一人の歩みがそうなるように、聖霊の助けを祈り求めます。 イエス・キリストはおっしゃいます。「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(ヨハ12章26節)。主に仕えて生きることは、何と幸いなことでしょうか。 Fri, 23 Aug 2019 00:10:00 +0000 主の恵みはすべて実現した(ヨシュア記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190823 no 2019 あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。 (ヨシュア記23章14節) 年老いたヨシュアの告別の言葉です。彼は主を愛し、右にも左にも逸れることなく、主に仕える生涯を歩み通しました。ぜひとも同じ信仰に生きてほしい、との最後の願いを告げています。彼は、神が恵みのうちにすべてのことを成し遂げてくださると確信し信頼しています。 この信頼は、パウロがエフェソの教会の長老たちに告げた別れの言葉を思い起こさせます。長い訣別説教のなかで、パウロはこう語ります。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使20章32節)。神と恵みの言葉が、私たちをいよいよ確かな恵みの中で生かし、強めてくださいます。 神が恵みをもって私たちを生かしてくださる。その事実を日々、目の当たりにしながら私たちは生きるのです。信仰者はなんと幸いなことでしょう。感謝して自分自身を、さらに、私たちが愛するすべての人たちを、神とその恵みの言葉に委ねていきましょう。 Thu, 22 Aug 2019 00:10:00 +0000 主がわたしたちの中におられる(ヨシュア記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190822 no 2019 わたしたちは今日、主がわたしたちの中におられることを知った。 (ヨシュア記22章31節) ヨルダン川の東の三部族が主に対する背信行為をしているのではないかとイスラエルの他の部族が疑い、一触即発の危機が生じました。しかし誤解は解け、彼らも自分たちと一つであり、自分たちと同じく主を愛し、主に仕えていく者たちであることをイスラエルは再確認することとなりました。 主の民は一つです。私たちの間におられる主イエス・キリストにあって、一つです。主イエス・キリストを真ん中にして、一人一人が主に結ばれることによって、一つです。それは何よりも主イエス・キリストの贖いの血をもって一つとされている、ということです。 ですから、主にあって一つであることをいろいろな折に、あらゆる仕方で実現できるよう祈り求めていきましょう。私たちは同じ一つの命の御言葉と、同じ一つの永遠の命の希望を共にしています。教会は、この大きな喜びの中で生きています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩133編1節)。 教会において、主にあって私たちは一つです。そのような生き方へと私たちは召されています。 Wed, 21 Aug 2019 00:10:00 +0000 主が先祖に誓われた土地(ヨシュア記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190821 no 2019 主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった。 (ヨシュア記21章43節~44節) かつてアブラハム、イサク、ヤコブに嗣業の土地を与えると誓ってくださった主は今、確かにその地をイスラエルに与えてくださいました。 この約束の地において、イスラエルはどのように生きたのでしょうか。「主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされた」。安らかに住むことができる。ここを口語訳聖書は「四方に安息を賜わった」と訳しています。神が与えてくださる安息の中でイスラエルは生きたのです。 それは今、主イエス・キリストが私たちに与えてくださっている平和と喜びです。主と共にあって、いかなる時にも恐れはありません。主の安息は、今生きるこの時だけのことではありません。死の後にあっても、わたしたちは主の恵みによって安らぎを得ています。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」(黙14章13節)。 神が誓ってくださっている新しい地を仰ぎ見つつ歩み行く私たちには、常に主が共にいてくださいます。そして、真の安息へと導いてくださいます。主にすべてを委ねて、雄々しく歩み続けましょう。 Tue, 20 Aug 2019 00:10:00 +0000 逃れの町(ヨシュア記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190820 no 2019 過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。 (ヨシュア記20章9節) 故意の殺人に対して、律法は血の復讐を許します。しかし、恨みなどによるのでない過失による殺人の場合、律法は血の復讐を封じます。 命は神が与えてくださった大切なものです。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2章7節)。それほど大切な命を故意に奪う者は、自分の命を求められます。しかし、過って奪ってしまった場合、神は過失を犯した人の命を顧みられます。いたずらに人の命を奪うことが主の御旨ではありません。殺人という悪を正すのが正義であり、人の命を惜しまれるのが愛です。正義と愛とがぎりぎりのところで両立しているのが逃れの町の制度でしょう。 主イエス・キリストは正義と愛とを貫かれて十字架の上で私たちのために死んでくださり、命の道を切り開いてくださいました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5章8節)。 Mon, 19 Aug 2019 00:10:00 +0000 賜物である嗣業の土地(ヨシュア記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190819 no 2019 境界線を定めて、土地の嗣業の配分が終わると、…。土地の割り当ては、こうして終わった。 (ヨシュア記19章49節、51節) イスラエルに与えられた嗣業の土地は神様からの賜物です。彼らは感謝して、そこで全力を尽くし、主に仕えて生きるのです。これが賜物を受けた者の使命です。 私たちも今、賜物として霊的な祝福を受けつつ、歩み続けています。私たちは、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」です(1ペト1章4節)。何と感謝すべきことでしょうか。絶えず喜んで主に感謝し、光の中を歩んでいきましょう。「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように」(コロ1章12節)。 これからも主の恵みと祝福を喜んで証しし、宣べ伝えていきましょう。これこそ救われた者の使命です。そして、ひとえにそれは聖霊の力によって果たすことのできる使命です。「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」(2テモ1章14節)。喜び、感謝しつつ、常に聖霊に依り頼みましょう。御霊は必ず私たちの賜物を、最もふさわしく生かしてくださいます。 Sun, 18 Aug 2019 00:10:00 +0000 今こそ福音を語る時(ルカによる福音書 12章49-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190818 no 2019 「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」 (ルカによる福音書12章56節) 主イエスは「わたしには受けねばならない洗礼がある」(50節)という言葉を用いて、ご自身が受難の道を歩まれ、十字架の贖いの業を成し遂げられることを語られました。しかし、この道は皮肉にも、主イエスを救い主と認めない人びとのあざけりの中で成し遂げられました。人の罪を赦すという十字架の贖いが成し遂げられるまで、贖い主をあざける罪の力は止むことがありませんでした。 これは同様に、私たちが贖い主を信じて罪の赦しが与えられる時にも起こります。しかも、最も親しい間柄である家族の中で、分裂という形で起こります。「父は子と、子は父と」対立するという分裂です。この分裂は今、既に起こっており、主イエスを信じるすべての人びとが、罪の赦しによって魂の平和を得る世の終わりまで、止むことがありません。 聖書はこのような世の終わりを明確に語っています。それは私たちが明日の天気を知ることができるのと同じくらい明確です。今という時こそ、魂の平和を実現してくださる主イエスの福音を、愛する家族や隣人に伝える時であることを痛感します。 Sat, 17 Aug 2019 00:10:00 +0000 平和を実現する人たち(マタイによる福音書 5章3-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190817 no 2019 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 (マタイによる福音書5章9節~10節) 八つの幸いについて主イエスが語る有名な言葉です。私たち信仰者が「平和を実現する人々」と呼ばれています。その平和はどのようにして実現するのでしょうか。 「平和を実現する人々」に続いて、「義のために迫害される人々は、幸いである」とあります。この迫害とは、皆が何の問題もないと思っている場所で、異なった思いを持つために存在しないかのように扱われてしまうことだと言えます。それはヘブライ人への手紙の、外へと追い出されるキリストの姿に重なります。「イエスもまた、…門の外で苦難に遭われたのです」(13章12節)。さらに、「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」(同13節)と続きます。 主イエスを信じるゆえに、自分の存在が軽んじられ、疎外感を味わうことがあるかもしれません。けれども、それは主が受けられた辱めを共に担うことにほかなりません。そこに幸いがあり、その人こそ天の国の住人なのです。こうして私たちがただ主イエスと共にあるときにこそ平和が実現します。 Fri, 16 Aug 2019 00:10:00 +0000 自由を知る(コロサイの信徒への手紙 2章20節-3章4節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190816 no 2019 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。 (コロサイの信徒への手紙2章20節~22節) ここでパウロは、私たちキリスト者はキリストと共に死んだものだと宣言しています。このことを改めて確認する理由は、その新しい事実を、私たちがなかなか現実として受け止めきれないからです。 私たちを錯覚に導く存在があります。それが「世を支配する諸霊」です。そのような神話的存在が本当にあるのかと考える方もあるかもしれません。けれども、そのような存在が知らない間に私たちの考え方に限界をもたらすとパウロは言います。 その支配は、ものについての私たちの関わり方に表れます。例えば、「味わうな」という禁欲主義や、その逆に「使えばなくなるもの」に心を奪われた状態です。具体的には、「より効率よく、かつ正当に」という一見正しそうな目標を第一として、それに合わないものをどんどん切り捨てるという考え方に、そのような存在の力の現れが見て取れるのではないでしょうか。 私たちが真の平和に生きるために、キリストと共に死んだことを知り、自分にも他人に対しても、キリストから来る新しい自由に生きることを始めたいのです。 Thu, 15 Aug 2019 00:10:00 +0000 和解(エフェソの信徒への手紙 2章11-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190815 no 2019 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 (エフェソの信徒への手紙2章14節~16節) 11節では、「あなたがた」と語りかけられています。それは異邦人キリスト者を指しています。しかし、14節では「わたしたち」という言葉に変わっています。その場合の「わたしたち」は、ユダヤ人キリスト者だけでなく、すべてのキリスト者にとって、という意味になるはずです。 それは、全く新しい状態の現れです。そして、その新しい状態である「一人の新しい人」は、ただ十字架を通して実現した、とパウロは指摘しています。さらに、十字架において「敵意が滅んだ」と言います。私たちが生物として生きていく上で、敵意は必要なことにも思われます。「わたしとその他」、「我々とそれ以外の人たち」を区別して、自分たちのための平和を追求するという生き方の根深いところに敵意が組み込まれているように見えます。 しかし、主イエスは敵対する者たちに一切逆らわないという十字架の死によって、この敵意に打ち勝ちました。それゆえ、十字架の死そのものが勝利なのです。 私たちは、このキリストによって新しくされた人として、どこにあっても和解と一致を目指して歩みます。 Wed, 14 Aug 2019 00:10:00 +0000 偽りではなく(エゼキエル書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190814 no 2019 「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。」 (エゼキエル書13章10節~11節) エゼキエルは、神の言葉をイスラエルの預言者たちに向けて語っています。神の言葉を取り次ぐ務めであるはずの預言者が「自分の心のままに預言」(2節)して偽りを語っていると、神ご自身が指摘しておられるのです。 その中でとりわけ問題なのは、安易に「平和」を約束してしまうことだと言います。そのことが「漆喰」にたとえられています。平和という言葉を使って白くきれいなイメージを作り出したとしても、それはただ現実を上から塗り隠すことにしかならない、と言うのです。 さらに、そのようなごまかしの上塗りを神ご自身がはがしてしまわれると、はっきりと語られています。それは、神ご自身が私たちに関わって、神の恵みと真理で満たしてくださるという本当の平和の実現にとって、上辺だけの平和は妨げにしかならないからです。 さまざまな立場から平和という言葉が語られるこのとき、まず私たち自身が神の平和にあずかることを求めましょう。そして、神との平和、また教会の平和を新たにしていただくことを共に祈り求めたいのです。 Tue, 13 Aug 2019 00:10:00 +0000 平和の土台(イザヤ書 32章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190813 no 2019 見よ、正義によって 一人の王が統治し 高官たちは、公平をもって支配する。 彼らはそれぞれ 風を遮り、雨を避ける所のように また、水のない地を流れる水路のように 乾ききった地の大きな岩陰のようになる。 (イザヤ書32章1節~2節) イザヤ書のこの個所では、新しい王の登場が語られています。新しい王がもたらす統治は公平です。そして、その公平な統治は、あたかも過酷な自然現象の中で深い困難を覚えている人たちにとっての逃れ場のようである、と続いています。 これは比喩的な表現ですが、それほどに公平の確立という事実に大きな力があることを示しています。イザヤ書では、この個所に続いて悪しき統治の様子が描かれます。その困った支配の一例が6節です。「飢えている者をむなしく去らせ、渇いている者の水を奪う」。正義と公平がないところでは、具体的に苦しむ人たちがないがしろにされていくと、預言者は指摘しています。 改めて確認したいことは、平和とは確かな具体的土台を必要としているということです。このところに従って言えば、公平な統治があることで、困難にある人たちも助けを期待できます。そして、確かに助けてもらえるという信頼のあるところにこそ、心からの平和があります。 私たちは、この日、自らと教会と社会に公平の実現を祈ります。 Mon, 12 Aug 2019 00:10:00 +0000 満ちている神(ヨハネによる福音書 1章1-18節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190812 no 2019 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 (ヨハネによる福音書1章14節、16節) キリスト者の立場で平和について考えるとき、「シャローム」という言葉を避けて通ることはできません。シャロームを単に平安ないし平和と直訳して良しとするのではなく、言葉の根本精神を尋ねたいのです。そのために、ヨハネによる福音書の短い言葉に目を留めます。これは主イエスから「平和があるように」という言葉を聞いた人たちの証言です(ヨハ20章19節)。 言であるお方が肉となった、すなわち人となって、私たちの間に宿られた、これがすべての土台です。そこで、特に注目したいのは、著者の「受けた」という言葉です。「わたしたちは…恵みの上に、更に恵みを受けた」のです。 次に、二度も繰り返して「満ちる」という言葉が用いられています。恵みと真理に満ちているお方から、その満ちあふれる豊かさの中から、恵みを受け取ることで、彼らは満ちあふれるほど豊かなものになりました。 私たちがシャロームを考える土台も同じです。私たちが満ちている方と共にあるとき、私たちも満ちたりた欠けのないものとなります。そこに本当の平和であるシャロームが実現します。 Sun, 11 Aug 2019 00:10:00 +0000 礼拝生活によって備える(ルカによる福音書 12章35-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190811 no 2019 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」 (ルカによる福音書12章35節~36節) 40節の「人の子」とは主イエスのことです。ですからこのたとえの主人とは主イエスであり、僕とは弟子です。ユダヤの婚宴は1週間以上続きました。その間に、いつ主人が帰って来るかはわかりません。真夜中かもしれません。しかし、いつ帰って来ても「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と主イエスは言われました。すなわち、準備をして大切なことに備えていなさいと言われます。 主イエスはもう一度、僕である弟子たちのところに帰って来られます。その時は誰にもわかりません。遅いと思って、主イエスのことを忘れて、世のことに忙しくしている時、主イエスは突然帰って来られるかもしれません。主イエスの言葉に日々耳を傾け、祈る弟子、主の日ごとに主イエスにお会いする礼拝生活を続ける弟子が、腰に帯を締め、ともし火をともしている弟子ではないでしょうか。 世の忙しさは巧みに弟子たちに迫ってきます。礼拝生活から遠ざけようとする力は本当に巧みです。そのような時にこそ、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」との主イエスの言葉を思い出し、備えてください。 Sat, 10 Aug 2019 00:10:00 +0000 主にあって喜ぶ(フィレモンへの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190810 no 2019 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。 (フィレモンへの手紙20) 監禁中のパウロの元に、オネシモという人がやって来るようになりました。実はオネシモはフィレモンの奴隷でしたが、そこから逃亡してきていたのです。どのような理由があったにせよ、当時、奴隷が逃亡することは重い罪であり、発見されれば死刑に処せられるのが一般的でした。フィレモンにとってもオネシモの逃亡事件は苦々しいものだったでしょう。 そのオネシモがパウロの元で信仰を持って大きく変わりました。その変化は、パウロがオネシモを自分の助け手として傍に置きたいと思うほどでした。しかし法律上、オネシモはフィレモンのものです。またこの二人の関係には亀裂が生じたままです。そこでパウロはフィレモンに、、オネシモをわたしと思って、また一人の人間として迎え入れてほしい、と懇願するのです。 パウロがこのようにするのは、自分自身が罪人だったにも関わらず、キリストに救われたからです。このキリストの福音に生きてほしいとフィレモンに願うのです。 キリスト者は、キリストに無償で救われたという感謝に促されて、新たな歩みを始めます。 Fri, 09 Aug 2019 00:10:00 +0000 神に感謝します(フィレモンへの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190809 no 2019 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 (フィレモンへの手紙4-5) パウロはキリストを証ししたために囚われてしまいました。監禁状態の中でパウロは、近い将来、自分と、主にある兄弟姉妹たちに、何が起こるだろうかと、恐れを感じていたのではないでしょうか。また彼らに直接会って励ますことができないもどかしさも覚えていたでしょう。 そのような中、兄弟姉妹たちの様子が、パウロの耳に入って来ます。その一つとしてフィレモンの働きがありました。フィレモンは、奴隷を持つほどの裕福な人で、家の教会を主催していたようです。それは、パウロのように捕らえられる危険があることでした。それでも彼がその働きを続けたのは、これは主イエス・キリストが望んでおられることだ、と信じたからでしょう。またそこに集まる主を信じる多くの人びとを、励ましたいと願ったからでしょう。 この知らせを聞いてパウロは大変喜びました。自分がしてきたことが無駄ではなかったばかりか広がりを生み出したことを知ったからです。そして、それはキリストが働いてくださっているからだと知ったからです。神はこのようにして喜びと慰めを与えてくださるお方です。 Thu, 08 Aug 2019 00:10:00 +0000 全く自由に何の妨げもなく(使徒言行録 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190808 no 2019 パウロは、自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。 (使徒言行録28章30節~31節) パウロたち一行は、冬の間、マルタ島に3ヶ月滞在した後、2週間ほどでローマにたどりつきます。 パウロは、ローマの宿舎で、自分の無実を証しし、皇帝に上訴せざるを得なくなった経緯をユダヤ人たちに伝えます。そして、朝から晩まで、「神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しよう」としました(23節)。このとき、ある者はパウロの言うことを受け入れ、他の者は信じようとはしませんでした(24節)。パウロは、互いに意見が一致しないまま立ち去ろうとする者たちに、預言者イザヤの御言葉をもって、その心のかたくなな様を嘆きつつ、「神の救いは異邦人に向けられました。」と告げます(28節)。 使徒言行録はその後、パウロが、自費で借りた家で丸2年の間、「全く自由に何の妨げもなく」伝道したことをもって閉じられています。パウロの身は捕らえられていましたが、神の言葉はつながれることなく、御国は進展していきました(2テモ2章9節)。主の御力に守られて、きょうも、怯え臆することなく、主の福音を伝えましょう。 Wed, 07 Aug 2019 00:10:00 +0000 たとえ嵐の中でも(使徒言行録 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190807 no 2019 そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」 (使徒言行録27章21節~22節) パウロは、皇帝の前で弁明するためにローマに向かって船出することになり、276人が乗った大きな舟に乗り込みました。冬の始めの頃、悪天候の中、ようやくクレタ島の「良い港」と呼ばれる所にたどりつきます。 ここで、パウロはこれ以上の航海は危険であることを警告しますが、百人隊長は、船長や船主の方を信用し、無理に船を出させます。それは、航海の素人であったパウロよりも経験者を信用したということでした。しかしまもなく、「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろし、幾日も命の危険を感じる航海となります。 しかしこのとき、神がパウロを励まします。そして、パウロは人びとに、「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はない」と、神がこの航海を守っておられることを伝え、元気づけます。 教会の歩みも、時に、嵐の中の船のように先の見えない不安が生じます。しかし、主イエスが本当の船長として、御言葉という羅針盤をもって絶えず正しい航路を指し示し、御国に至る航海に導いておられるのです。 Tue, 06 Aug 2019 00:10:00 +0000 主が備えられた弁明(使徒言行録 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190806 no 2019 「ところで、私は神から助けを今日までいただいて、固く立ち、…預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり、私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」 (使徒言行録26章22節~23節) パウロは、アグリッパ王の前で弁明する機会を与えられます。それは、自分の無実の主張にまさって、主イエスのことを、忠実に弁明するものでした。 パウロは、ダマスコ途上で、天からの光の中、主イエスの呼びかける声を直接聞き、回心し、使徒として召し出されます。それは、「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」という、主の召しを約束するものでした(17節)。 使徒言行録においては、皇帝の前での弁明は出てきませんが、このアグリッパ王の前での弁明において、キリスト教の福音が、ローマ帝国とその法に照らして無罪であることが明らかにされます。 「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた」(イザ42章6節)との主の預言をもって、パウロは、主の召しを証言するのです。 受難と復活の主は、パウロと同様に、今日も世界の教会を勇気づけ、だれの前においても福音を弁明する機会を備えておられます。 Mon, 05 Aug 2019 00:10:00 +0000 ここにある勇気(使徒言行録 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190805 no 2019 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。…私は皇帝に上訴します。」 (使徒言行録25章10節~11節) 使徒パウロがカイサリアで2年間不当に監禁されていたとき、ユダヤの総督がフェリクスからフェストゥスに交代します。 しかし、以前からの祭司長たちやユダヤ人のおもだった人びとのパウロ暗殺の陰謀は続きます。陰謀ゆえのパウロのエルサレム返送の依頼は通らず、カイサリアで裁判をすることになります。それは、法的な手続きを装いながら、その実態は人の悪意から出た偽証の連続でした。 主イエス・キリストご自身が十字架を前にして不当な裁判を忍ばれたように、このときパウロも、立派に自分の無実と主は生きておられることを証しします。それは、どのような機会、法廷においても変わることない、パウロの一貫した姿勢そのものです。 主イエスはかつて、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と、パウロを励ましてくださいました(23章11節)。 今もさまざまな形で霊的戦いがあります。たとえ、人の悪意の中でも、目を覚まして祈りつつ、主の復活と栄光をあらわして歩みましょう。 Sun, 04 Aug 2019 00:10:00 +0000 神に委ねて生きる(ルカによる福音書 12章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190804 no 2019 「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 (ルカによる福音書12章20節) 人は財産という目に見えるものに頼って生きています。目で見えるがゆえに、安心することができるからです。しかし、人には目に見えない大きな不安があります。それはいつ死ぬかわからないという不安です。だから人は死を忘れるかのように一生懸命に働き、財産を蓄え、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に言い聞かせます(19節)。 人生の壮年期を過ごした人は、やがて老年期を迎えます。死の存在がリアルになる時です。しかし、人は蓄えた財産で相変わらず「食べて飲んで楽しめ」と自分に言い聞かせます。そして死を忘れるかのように生きるのです。主イエスは言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。 人に命の息を吹き込まれた神は人の死の時をも定め、その人にふさわしく息を取られます。人が最も恐れる死を、その人にふさわしく備えられる全能の神の存在を知る時、私たちの人生はその死をも神に委ね、神の栄光を現す、賢い価値あるものへと変えられます。 Sat, 03 Aug 2019 00:10:00 +0000 民に応答する主(詩編 75編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190803 no 2019 「わたしは逆らう者の角をことごとく折り 従う者の角を高く上げる。」 (詩編75編11節) この詩には、二種類の「わたし」が出てきます。神に感謝をささげ、その御業を物語り、神にほめ歌をささげる「わたし」「わたしたち」と、時を選び、裁きを行い、地の柱を固め、驕る者逆らう者を戒める「わたし」です。感謝をささげる「わたし」は礼拝する神の民であり、裁きを告げる「わたし」は、民に語りかける神です。礼拝は、神と私たちの対話なのだと言うことができます。礼拝において、私たちは神の御声に耳を傾けて、神に応答します。 主なる神は、礼拝において、「お前たちの角を高くそびやかすな」とおっしゃいます(6節)。私たちはしばしば神を見失い、自己中心になり、高ぶることに陥ります。主なる神は、その私たちを戒め諭して、神の御前にへりくだることへと導かれます。自らの罪を悟り、神の御前に低くされることこそ、礼拝の最大の恵みです。 私たちは明日の主日、それぞれの礼拝に出席して、主なる神を賛美します。そのとき、神は私たちに語りかけて、私たちを神の御前の謙そんへと導き、「わたしは…従う者の角を高く上げる」と宣言してくださいます。 Fri, 02 Aug 2019 00:10:00 +0000 永遠の主を信頼する(詩編 74編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190802 no 2019 しかし神よ、いにしえよりのわたしの王よ この地に救いの御業を果たされる方よ。 あなたは、御力をもって海を分け 大水の上で竜の頭を砕かれました。 (詩編74編12節~13節) この詩に見ることができる神の民の状況は、神の民の歴史の中でも最悪と言えるものです。神殿は廃墟となり、火をかけられ、偶像によって汚されました。預言者はおらず、この苦難がいつまで続くのか、知ることさえできません。神を信じ、礼拝してきたはずなのに、神に突き放されてしまった。信仰者としてはもっとも絶望的な状況です。私たちは、時にそのような絶望を経験しなければならないことがあります。 しかし、この詩人は、その絶望の中でなお、神の名を呼びます。なぜなら、神はかつてエジプトから民を導き出したお方であり、世界を造り、支配し、その秩序を保っておられるお方だからです。 創造や出エジプトは、今の私たちはもちろん、詩編の時代の人々も直接経験したことがない出来事です。けれども、かつての神の民の恵みの歴史の中にこそ、今日の神の民への恵みの確かな約束を見ることができます。なぜなら、神は昔も今も神の民に対して変わらないお方だからです。神が立ち上がり、私たちのために争ってくださる(22節参照)。私たちは神に期待して、待ち望みます。 Thu, 01 Aug 2019 00:10:00 +0000 永遠の岩を避けどころとする(詩編 73編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190801 no 2019 わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが 神はとこしえにわたしの心の岩 わたしに与えられた分。 (詩編73編26節) 詩人は、神に逆らう者が贅沢に生活する姿を見、彼らが「神が何を知っていようか」とうそぶく言葉を聞き、心騒がせます(11節)。 信仰に生きる人の迷いは今日でも変わらないでしょう。自分の力で人生を切り開いている人の姿がすばらしいものと映るのです。逆に「神を信じている」と言うと、何か特別に悩みがあったり、心が弱かったりするのではないかと心配されることがあります。自分を強く持って、宗教などに頼らなくてすむように頑張るべきだと考える人は、少なくありません。 しかし、信仰は自立できない人の逃避ではありません。神など不要であるという人びとは、人がどれほど無力なはかないものであるかを見ようとしていないだけなのです。人間の力には限界があります。むしろ、無に等しいと言ってよいでしょう。自分の力に頼る人の行く末は荒廃に過ぎません。 私たちが、自分のすべてをとこしえに委ねることができるのは、唯一にして生けるまことの神だけなのです。そして現に、そのお方が、信じる私たちに与えられています。 Wed, 31 Jul 2019 00:10:00 +0000 究極の王とその平和(詩編 72編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190731 no 2019 主なる神をたたえよ イスラエルの神 ただひとり驚くべき御業を行う方を。 栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ 栄光は全地を満たす。 アーメン、アーメン。 (詩編72編18節~19節) この詩編の表題には「ソロモンの詩」、詩の最後には「エッサイの子ダビデの祈りの終り」と記されています。どちらも、詩編の本文そのものとは区別される文章ですが、この詩編が聖書の民の中でどのように受け入れられてきたかを示す文章です。 神が王を立ててくださり、その王によって恵みを与えてくださるとしたら、民はどれほどの祝福を得ることができるでしょうか。ダビデやソロモンが王となったときに、またその後も王の即位するたびに、人びとは王を通して与えられる神の恵みへの期待に満ち、新しく立てられた王のために祈ったことでしょう。 神は、私たち人間の社会と生活を支えるために為政者をお立てになります。為政者が神の知恵によって民を治めるとき、私たちには祝福が与えられます。したがって私たちは為政者のために祝福を祈るのです。 しかし、この詩編の最後は王に対する賛歌では終わりません。私たちが本当に信頼するのは、人である王ではありません。人間の王の背後におられ、その王を立てる永遠の支配者、究極の王である神をたたえるのです。 Tue, 30 Jul 2019 00:10:00 +0000 生涯、主を喜ぶ(詩編 71編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190730 no 2019 わたしの唇は喜びの声をあげ あなたが贖ってくださったこの魂は あなたにほめ歌をうたいます。 わたしの舌は絶えることなく 恵みの御業を歌います。 (詩編71編23節~24節) 詩人の生涯は決して平坦なものではありませんでした。この詩を歌ったときも、彼は神に身を寄せて、助けていただかなくてはならないと感じていました。しかし、彼には強い確信がありました。自分は若いときから主に依り頼む者であり、「母の胎にあるとき」(6節)、つまり生まれる前から、神に依りすがってきたということです。その神が自分の希望なのです。 詩人は、「わたしが老いて白髪になっても神よ、どうか捨て去らないでください」と祈ります(18節)。これは、神に見捨てられてしまうのではないかという不安の訴えではありません。彼は「多くの災いと苦しみ」の中から「命を得させて」いただいた経験があり、「地の深い淵」すなわち死の中からも引き上げていただけることを確信しています。 生まれる前から、白髪を経て死に至っても主に依り頼む。その信頼に生きるとき、私たちは、神をほめたたえる喜びの力に満たされます。 この詩人を始めとする多くの信仰の先輩たちがそのような喜びの力の中歩んだことを思い起こしましょう。 Mon, 29 Jul 2019 00:10:00 +0000 主よ、遅れないでください(詩編 70編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190729 no 2019 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。 速やかにわたしを訪れてください。 あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。 主よ、遅れないでください。 (詩編70編6節) この詩の詩人は、苦難の中にいます。助け出してほしいと言って神に訴えています。「命をねらう者」、「災いに遭わせようと望む者」、「はやし立てる者」が彼に害を加えようとしているようです。彼の苦難の具体的な様子はわかりません。害を加えようとする者たちも具体的な人間のことであるとは限りません。だからこそ、私たちは、自分の苦難にこの詩を当てはめることができます。実際いくつかの詩編でこの詩の言葉が引用されているのを見ることができます。 詩人は敵に取り囲まれる中で無力で孤独です。誰も彼を助けてくれません。救ってくださるはずの神さえ、いつまで経っても助けてくださいません。彼は「貧しく、身を屈めています」と自分の無力さと惨めさを訴えます。 しかし、その訴えは逆に、彼が神こそ頼るべきお方であると確信していることを示します。そして実際、神は必ず私たちの訴えを聞いていてくださり、どのような苦難からも必ず私たちを助けてくださいます。私たちは安心して神に「遅れずに助けてください」と訴えることができるのです。 Sun, 28 Jul 2019 00:10:00 +0000 神を父とする(ルカによる福音書 11章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190728 no 2019 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる (ルカによる福音書11章9節~10節) 祈りについて主イエスが教えてくださっています。その上で、主イエスは、神を「天の父」と呼びました(13節)。すなわち、この天の父が、子である私たちを養ってくださるから、もっと祈りなさいと主イエスは教えているのです。 しかし、子どもは親に何でも願いますが、何でも子どもの言いなりになるのでは親とは言えません。子どもの必要を考え、与えるにしてもその時や方法に考えを巡らせるのが我が子を愛する親です。そして、そのように親に求めていく中で、子も親を愛して信頼し、たとえば自分の欲望を満足させるために親に要求するようなことはなくなるでしょう。 大事なことは、神との信頼関係です。そもそも神に信頼するからこその祈りです。もしこの御言葉を聞いて、どんな願いでもすべてかなえられるのか、と考えるなら、まだ神は父ではありません。人びとに神との確かな信頼関係を築いてほしくて、まずはとにかくもっと祈りなさいと主イエスは言っているのです。そして、その祈りを神が聞いていないはずはないのです。 Sat, 27 Jul 2019 00:10:00 +0000 私たちは嗣業の民(ヨシュア記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190727 no 2019 ヨシュアはイスラエルの人々に言った。 「あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ。各部族から3人ずつ出しなさい。わたしは彼らを派遣し、この地方を巡回させ、嗣業の土地の記録を作り、戻って来てもらおう。」 (ヨシュア記18章3節~4節) ヨルダン川の東のルベンとガド、ユダとヨセフを除いた7部族が、まだ分割地を得ていませんでした。カナン征服の戦いに疲れ、ためらう民に、ヨシュアは主の勝利によってこの地はすでにあなたがたに与えられていると語っています。目に見える現実と、神の約束の御言葉の間で私たちもしばしば尻込みし立ち止まってしまうのではないでしょうか。その中で忘れてはならないのは、私たちに先立って主が戦っておられるということです。 主が、イスラエルをご自分の民とし嗣業の土地を与えられたように、私たちもまた嗣業の民とされています。聖霊によって主イエス・キリストの救いにあずかり、神の家族の一員として迎えられ、キリストと共同の相続人とされたからです。 私たちに約束された国は、イスラエルの民の分割地と同じようにまだ現実とはなっていません。しかし、すでに神の赦しと恵みのもとに置かれています。私たちは欠け多く弱い者ですが、主なる神はそのような私たちをあえて選んで信仰に富ませ、嗣業を受け継ぐ民としてくださっているのです。 Fri, 26 Jul 2019 00:10:00 +0000 変わることのないお方(ヨシュア記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190726 no 2019 「山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」 (ヨシュア記17章18節) ヨセフの子孫は与えられた分では満足せず、さらに多くの地を分配して欲しいと要求してきました。同族のヨシュアに、特別な恩恵を期待していたのかもしれません。そこで、ヨシュアは自分たちで開拓して領土を広げるようにと提案しました。 しかし、彼らは難色を示します。割り当てられた山地には、ペリジ人やレファイム人などの強力な民が住み、谷間やイズレエル平野には鉄の戦車を持つカナン人がいると、言い訳をしたのです。 ヨシュアは、人数の多いヨセフ族だからこそ、強力な敵を退け新しい地を得ることができるという確信をもって励ましました。もちろん、ヨセフ族の力を過信してそう言ったのではありません。今まで祝福してくださったお方が、これからも変わることのない真実をもって祝福してくださることを信じきっていたからです。 その変わることのない真実をもって、そのお方は今も生きておられます。私たちにとって、イエス・キリストがきのうもきょうも永遠に変わることのないお方であることは何という慰めでしょう。 Thu, 25 Jul 2019 00:10:00 +0000 嗣業の土地(ヨシュア記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190725 no 2019 ヨセフの子ら、マナセとエフライムは嗣業の土地を受け継いだ。 (ヨシュア記16章4節) 13章以下には、カナンの地がイスラエル12部族それぞれに分配される範囲と境界線が語られています。しばらく続く土地分配表は、今の私たちにとっては退屈なものかもしれません。しかし、自分が受け継ぐ土地があれば真剣に聞くでしょう。ましてイスラエルにとっては重要な意味がありました。イスラエルにとって土地は単なる資産ではなく、神が恵みによって与えてくださった嗣業(賜物)の土地だからです。それは、彼らがもともと所有していたものでも、自分の力で手に入れたものでもありません。神がイスラエルの民のものとして与えてくださったものなのです。神の恵みの賜物として与えられた土地は、大切に守り、親から子へと受け継がれていくべきものでした。 ヤコブの遺言(創48章)どおり、ヨセフの二人の子、エフライムとマナセはヤコブの息子とみなされ、他の息子たちと同等の分を受けることになりました。その嗣業の地は、ユダヤの最も良い土地でした。神は、ヤコブが12人の子どもたちのために祝福して祈った言葉を、数百年後に成就してくださったのです。 Wed, 24 Jul 2019 00:10:00 +0000 荒れ野に湧き出る泉(ヨシュア記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190724 no 2019 彼女は言った。「お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください。」彼は上と下の溜池を娘に与えた。 (ヨシュア記15章19節) 難攻不落と言われたキルヤト・アルバ(ヘブロン)を征服したカレブは、キルヤト・セフェル(デビルのかつての地名)を攻撃する者を求めます。そしてこれを撃って占領する者に娘アクサを妻として与えることを約束します。応答したのは、カレブの甥にあたるオトニエルでした。後にオトニエルは、敵の侵入に苦しむイスラエルを救う最初の士師として神に立てられ活躍します。 カレブの娘アクサは、父が与えた約束によってオトニエルの妻となり、結婚の祝いの品として溜池を求めました。嫁ぎ行くネゲブはユダの南部地方の乾燥した不毛の地で、水を手に入れるのが困難な地だったからです。 娘の願いに父カレブがためらうことなく上と下の溜池を与えるにまして、主は、私たちの魂の渇きを潤す命の泉を豊かに備えていてくださるお方です。時に、人生は焼けつく地を行くような苦しみに遭遇します。しかしどんなに不毛の地を行くようなことがあろうとも、泉があるなら恐れることはありません。そこには永遠の命に至る水が湧きあがり、主の豊かな慰めの内に再び力を得ることができるのです。 Tue, 23 Jul 2019 00:10:00 +0000 主の約束に支えられて(ヨシュア記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190723 no 2019 「どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます (ヨシュア記14章12節) エフネの子のカレブは、かつて主が約束してくださったヘブロンの地の領有を申し出ました。カレブこそは、45年前、12人の偵察隊の1人としてモーセからカナン偵察を命じられ、ヨシュアと共に恐れずに突き進もうと提案した勇士です。85歳になったカレブは今なお壮健で、主が共にいてくださるならば、約束の地ヘブロンを得ることができると信じて疑いませんでした。 彼が求めたヘブロンは、その昔、アブラハムが寄留し、その付近に墓地を買ったところで、サラ、イサク、リベカ、ヤコブ、レアが葬られており、後にはダビデの最初の首都となりました。しかし、今カレブの前にあるのは、巨人アナク人が住む、城壁に囲まれた町でした。 カレブはアナク人たちを追い払い、主の約束どおりにヘブロンを手に入れました。しかし、実際に追い払ったのは彼ではなく、彼と共におられた主です。この地を与えようと約束してくださった主ご自身がこの戦いを戦ってくださったのです。主の約束が恐れる心を取り除き、困難をのり越えさせてくださいます。 Mon, 22 Jul 2019 00:10:00 +0000 共に戦われる神(ヨシュア記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190722 no 2019 ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。 「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」 (ヨシュア記13章11節) モーセの死後、彼の後を継ぐ新しい世代の指導者として神が選ばれたのは、ヌンの子ヨシュアでした。ヨシュアはイスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、カナンの地で多くの敵と戦い、ことごとく勝利を収めることができました。それは、主ご自身が、その御心によってこの地をイスラエルの民に与えるために戦ってくださったからです。 カナンの地を平定したヨシュアは、年を重ねて90才に達していたと思われますが、主は、まだこれから手に入れるべき地が多く残っていると言われます。ヨシュアには、カナンの残りの地を征服し、九つの部族とマナセの半部族に分配する使命があるのです。しかし、主はただ命令を与えられただけではありません。これまでの戦いと同様に、主がご自分の民と共に戦ってくださるのです。 主が共におられ、私たちのために戦ってくださるなら、目に見える現実がどのようであっても、主の恵みと守りを確信することができるのです。憐れみ深い主は、私たちが年を取っても使命を与え、それと共に、使命を全うできる力を十分に与えてくださるお方です。 Sun, 21 Jul 2019 00:10:00 +0000 ただ一つ、必要なこと(ルカによる福音書 10章38-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190721 no 2019 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10章41節) 主イエスはマルタとマリアの姉妹の家を訪れます。マルタは主イエスと一行をもてなすために奉仕をしますが、マリアはそれを手伝わずに主イエスの話に聞き入っています。マルタは、マリアに注意してくださいと、強い口調で主イエスに訴えます(40節)。 自分の姉妹に文句があるなら、自分の姉妹に直接言えばいいのです。それをわざわざ主イエスに言うのは、自分の姉妹に何も注意しない主イエスに対する不満もあったということでしょう。まさにマルタは「多くのことに思い悩み、心を乱して」います。そこで、主イエスは言います。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」。 もしマルタが、マリアのように喜んで、一心に奉仕しているなら、他の誰がどうであれ、気にも留めなかったことでしょう。奉仕に喜びがないとき、心は乱れ、奉仕をしていない人を批判するようになるのです。そして、喜びで心を満たすには、主の言葉に聞き入ることなのです。 「必要なことはただ一つだけ」です。そこから、喜んで奉仕をしましょう。 Sat, 20 Jul 2019 00:10:00 +0000 責められることのない良心を保つ(使徒言行録 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190720 no 2019 「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」 (使徒言行録24章16節) パウロはローマ総督の前での弁明の中で、自らの生き方の基本について、次のように語りました。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」。 キリスト者にとって、良心は大切な意味を持ちます。良心とは善悪の価値判断をする心の働きであり、「責められることのない良心」を保つことがキリスト者にとって大切です。しかし、良心は、それ自身がキリスト者の道徳生活の誤りのないガイドになるのではありません。なぜなら、聖書が教えるように「邪悪な良心」や「汚れた良心」もあり得るからです(テト1章15節参照)。それゆえ、良心は、聖書によって教えられ、聖霊によって聖められる必要があります。 良心が惑わされることもあります。しかし、聖書によって聖められるとき、良心は人を神への服従へと導き、悔い改めを促す有効な手段となります。私たちは、聖められた良心を持つように促されています。そして、「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つ」ことが大切なのです。 Fri, 19 Jul 2019 00:10:00 +0000 勇気を出せ(使徒言行録 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190719 no 2019 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 (使徒言行録23章11節) 捕えられたパウロは、最高法院で取り調べを受けました。議論が沸騰し、パウロが引き裂かれてしまうのでないかと心配して、千人隊長がパウロを連れ出したほどです。一方、最高法院の外部でも、パウロを暗殺する計画が進んでいました。40人以上のユダヤ人たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てたのです。 このようにパウロは、まさに命の危機にさらされていました。希望の見えない闇の中にいたのです。 しかし、そのような夜に、主はパウロのそばに立って言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。 希望の光が消えかけたかに見えた絶望的状況の中で、主イエスはパウロに「勇気を出せ」と命じられました。そして、ローマで証しすることになるという保証を与えられたのです。 見える現実には希望はありませんでした。しかし、私たちは見える現実を越えて、主の約束に生きるのです。主は言われます。「勇気を出せ!」 Thu, 18 Jul 2019 00:10:00 +0000 ためらわず立ち上がりなさい(使徒言行録 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190718 no 2019 「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」 (使徒言行録22章16節) エルサレムで捕えられたパウロは、群衆に向かって自分の回心について語りました。教会を迫害するためにダマスコに向かう途上、天からの強い光の中で、主イエスはパウロに語りかけられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(7節)。さらに「立ち上がってダマスコに行け」と命じられました(10節)。 ダマスコで主イエスに遣わされたアナニアは、パウロに対する主の御心を彼に語りました。それは、神がパウロを選ばれたことと、その理由です。パウロが選ばれたのは「見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる」ためでした(15節)。アナニアは彼に命じました。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい」。 パウロは教会を迫害していた人です。しかし、その彼が神の器として選ばれました。それはキリストの証人となるためです。主の選びには、主の使命が伴います。選ばれた者は、主の使命を受けとめて立ち上がる必要があるのです。私たちも、主の深い御旨によって選ばれて信仰者とされています。主はおっしゃいます。「立ち上がりなさい」。 Wed, 17 Jul 2019 00:10:00 +0000 主にある交わりに支えられて生きる(使徒言行録 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190717 no 2019 しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。 (使徒言行録21章5節~6節) エルサレムに向かって出発したパウロは、ティルスの港に着きました。その地のキリスト者たちは「霊に動かされ」て、彼に対してエルサレムに行かないように願いました(4節)。また次の寄港地でもパウロが捕えられることを心配して、人びとはパウロにエルサレムには上らないように願いました。 しかし、パウロはそれらの願いを聞き入れませんでした。彼には主にある深い確信と覚悟があったからです。確信とは、いずれローマに行って主を証しすることになるという確信。覚悟とは、主イエスの名のためならば、死んでも構わないという覚悟です。パウロは、主にある確信と覚悟に生きていたのです。 人びとの理解を得られませんでしたが、パウロは孤独ではありませんでした。ティルスを出発するとき、人びとは「妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれ」ました。そして、共に浜辺にひざまずいて祈ったのです。 パウロが確信と覚悟に生きられたのは、このような主にある交わりがあったからです。私たちの信仰の歩みも、真実な交わりによって支えられています。 Tue, 16 Jul 2019 00:10:00 +0000 神の言葉への確信(使徒言行録 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190716 no 2019 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 (使徒言行録20章32節) 伝道者パウロは、何を語ったのでしょうか。彼は「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」を語りました(21節)。「神の恵みの福音」を語りました(24節)。「神の御計画をすべて」語ったのです(27節)。 彼は、どのように福音を語ったのでしょうか。彼は「言葉を尽くして」語りました(2節)。「役に立つことは一つ残らず」語りました(20節)。「公衆の面前でも方々の家でも」語りました(同)。「ひるむことなく」語りました(27節)。そして、「一人一人に夜も昼も涙を流して」語ったのです(31節)。 全身全霊を込めて語りつづけたパウロ。パウロは最後にこう述べます。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。 全力で語りつづけたパウロには、神の御言葉の力に対する全き確信がありました。この確信だけが、伝道者を伝道者たらしめます。そして、神の御言葉こそが、すべての信仰者を生かす神の力、神の恵みの源です。 Mon, 15 Jul 2019 00:10:00 +0000 主を恐れて、主に従う(使徒言行録 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190715 no 2019 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。…このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった (使徒言行録19章18節~20節) 第三次伝道旅行でエフェソに滞在したパウロは、会堂や講堂で主の言葉を語り続けました。また、神は「パウロの手を通して目覚ましい奇跡」を行うことによって、主の言葉の力を証しされました(11節)。 この特別な力を、自分も得たいと考えた者たちがいました。幾人かのユダヤ人の祈祷師たちが、イエスの名を唱えて、悪霊を追い出そうとしました。彼らは、不思議な力を身につけて、自分の利益を図りたいと思ったのです。しかし、彼らは悪霊に取りつかれていた男たちに襲われて、ひどい目に遭いました。自分の利益のために主の力を利用しようとすれば、それは自らに悲劇を招くことになるのです。 この出来事を見て、人びとは恐れを抱き、主の名がさらにあがめられるようになりました。既に信仰を得ていた者たちが、改めて「自分たちの悪行をはっきり告白」しました。また、魔術を行っていた者たちは、その書物を焼き捨てました。 主の名を利用するのではなく、主を恐れて、主に従う者にこそ主の豊かな祝福があります。 Sun, 14 Jul 2019 00:10:00 +0000 隣人に「なる」(ルカによる福音書 10章25-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190714 no 2019 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。…「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 (ルカによる福音書10章29節,36節) 聖書では隣人を愛することが大切だと勧められています。そして、ユダヤ人にとって隣人とは、同胞であるユダヤ人のことでした。しかし、主イエスは隣人愛について話すに当たって、あるサマリア人が瀕死の人を助けたという話をしました。サマリア人とユダヤ人は互いを敵視し合っていました。それなのに主イエスは、サマリア人が隣人愛を実行したという話を、ユダヤ人に対してしたのです。 「わたしの隣人とは誰ですか」という問いは、自分にとって隣人である人もおり、そうでない人もいるという認識を前提にしています。それに対して、主イエスは、目の前にいる人と「隣人になる」という話をしました。隣人愛とは、それに当てはまる人と当てはまらない人を線引きした上で行うことではないということです。私たちは、神がその人を造られ、神がその人をこのわたしと同じように愛しておられるから、その人の隣人になります。 何より、主イエスが、私たちがどのような者であろうとも私たちの隣人になってくださるお方です。ですから、私たちは出会った人の隣人になるのです。 Sat, 13 Jul 2019 00:10:00 +0000 底なし沼からの叫び(詩編 69編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190713 no 2019 神よ、わたしを救ってください。 大水が喉元に達しました。 わたしは深い沼にはまり込み 足がかりもありません。 大水の深い底にまで沈み 奔流がわたしを押し流します。 叫び続けて疲れ、喉は涸れ わたしの神を待ち望むあまり 目は衰えてしまいました。 (詩編69編2節~4節) 詩人は自分の人生を嘆きます。苦難を底なし沼に譬えて嘆きます。「大水、深い沼、大水の深い底、奔流」。詩人は、弱り果てている中から、救助を神に嘆願します。「深い沼」は「泥沼」を意味し、「滅びの穴」とも呼ばれます。もがけばもがくほど深みにはまり込んでゆく苦難、もはや生きては帰れない死の門から詩人は叫びます。「泥沼にはまり込んだままにならないように、わたしを助け出してください。わたしを憎む者から、大水の深い底から助け出してください。奔流がわたしを押し流すことのないように、深い沼がわたしをひと呑みにしないように、井戸がわたしの上に口を閉ざさないように」(15、16節)。それらに脅かされている詩人は、自分の孤独と絶望のリアリティを、井戸に突き落とされ、上からふたをされてしまいそうなイメージで嘆くのです。 しかし、詩人は神が必ず嘆願を聞いてくださり、祈りに答えてくださることを確信して、苦しみの中で視線を神に向けます。祈りの苦闘を通過した今、詩人は新しい信仰の次元に立って創造主なる神をほめたたえ、賛美と感謝をささげます。 Fri, 12 Jul 2019 00:10:00 +0000 神の行進が見えた(詩編 68編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190712 no 2019 神よ、あなたの行進が見える。 わたしの神、わたしの王は聖所に行進される。 歌い手を先頭に、続いて楽を奏する者 おとめらの中には太鼓を打つ者。 聖歌隊によって神をたたえよ イスラエルの源からの主を。 (詩編68編25節~27節) 「イスラエルの源」とは「民族の源泉」、「国家の起源」という意味です。神がアブラハムを選ばれた大昔から、イスラエルの共同体に十戒を授けられたモーセ時代を経て、エルサレムに国家の基礎を据えられたダビデ時代に至るまで、主は「わたしはある」、「わたしは共にいる」と語りかけ、ご自分の民を救われました。 この方をたたえることが礼拝の目的です。「聖歌隊」には「大勢の礼拝に集う会衆」という意味もあります。聖歌隊と礼拝会衆が一つになって、主なる神を賛美するのです。娘らはタンバリンを打ち鳴らし、竪琴を奏でる者らがその前を進み、賛美を歌う人びとが先頭を行く。 それを見て詩人は歌います。「神よ、あなたの行進が見える。わたしの神、わたしの王は聖所に行進される」と。「行進」とは「行列をなして前進する」という意味です。神殿へ入ってゆく会衆の行列と共に、目に見えない霊なる神の前進を「しかと見た」のです。礼拝共同体は、自分たちの行列に、主なる神の臨在と、同行と、前進とを「確認した」のです。今も私たちと共に主が行進してくださっていることを覚えます。 Thu, 11 Jul 2019 00:10:00 +0000 大地は作物を実らせた(詩編 67編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190711 no 2019 大地は作物を実らせました。 神、わたしたちの神が わたしたちを祝福してくださいますように。 神がわたしたちを祝福してくださいますように。 地の果てに至るまで すべてのものが神を畏れ敬いますように。 (詩編67編7節~8節) 「大地は作物を実らせた」。この一言を過去の出来事と受け取り、収穫を感謝して歌うことができます。作物は穀物と葡萄を指します。イスラエルの定住地では、毎年春の4月頃に大麦の収穫が始まり、小麦の収穫が続きます。神の民は、収穫した穀物の初穂を神殿祭司のところに携えてゆき、神に感謝をささげました。大麦の収穫の頃に「過越祭」、小麦の収穫の頃に「七週祭」、葡萄の収穫が終わると「仮庵祭」。神の救いの業を想い起こし、子孫に語り継ぎ、神殿の庭で祝うのです。 同じ一言を、現在の恵みと将来の望みに受け取ることもできます。ダビデ・ソロモン時代の祝福の後、王国滅亡と神殿崩壊の呪いを味わった神の民は、自らの不従順による苦難を嘆き、それを試練と受けとめました。捕囚の地バビロンで、「大地は作物を実らせている」。廃墟となった都エルサレムでも、「大地は作物を実らせるに違いない」。穀物と葡萄は神の恵みの証、主の臨在のしるしです。額に汗して畑を耕し、収穫を得るたびに、そこに主が共にいてくださいます。 Wed, 10 Jul 2019 00:10:00 +0000 我らの足はよろめいた(詩編 66編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190710 no 2019 神は我らの魂に命を得させてくださる。 我らの足がよろめくのを許されない。 (詩編66編9節) 「よろめく」とは「揺らぐ」「滑る」という意味で、神の民の歩み、共同体の足取りを譬えます。神の民は先祖も子孫も、抗うことのできない不幸へ足を滑らせます。共同体は昔も今も、圧倒的な災難に遭い、足もとが揺らぎます。信仰者は誰も彼も、死へと足取りがよろめくのです。 しかし、神はそれをお許しになりません。よろめく信仰者を罰することも、失格とみなすこともありません。主は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」もないのです(イザ42章3節)。 神の民が足を滑らせても、神は、彼らが死へと落ち込むことを許可なさいません。彼らの魂に命を得させてくださいます。ご自分の民を死から守ろうとなさり、共同体の足取りを命へ導こうとなさいます。主の憐れみと慈しみによって、神の民は罪の捕囚から解放され、共同体は神の平和に帰還するのです。そして、信仰者は礼拝に復帰し、たとえ足がよろめくことがあっても、喜びの叫びをあげることができるのです。私たちに命を得させてくださる主に全幅の信頼をおいて、きょうも歩みましょう。 Tue, 09 Jul 2019 00:10:00 +0000 神の水路は水をたたえ(詩編 65編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190709 no 2019 あなたは地に臨んで水を与え 豊かさを加えられます。 神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。 あなたがそのように地を備え 畝を潤し、土をならし 豊かな雨を注いで柔らかにし 芽生えたものを祝福してくださるからです。 (詩編65編10節~11節) 神の民の喜びの叫びは、天地にこだまします。創造主なる神は、世界の統治者・歴史の支配者であり、摂理の神の恵みは、神の民から全人類へと広がります。そのイメージとして「神の水路は水をたたえ」と歌われます。 神の民の心には、天に届く高い山がそびえ、その頂にある湖から、神の恵みが大きな川となって、エルサレムの神殿に流れ下ります。神は全世界・全歴史をご自分の畑とし、これに心を寄せ、そこに用水路を引かれます。農夫さながら、血を流すほどに、主は汗を流されます。 神に選ばれ召された人は、水のない地を流れる水路、畑の隅々に恵みの命を行き巡らせるための用水路とされ、神の救いの業に奉仕します。神の恵みの水がすべてを潤します。 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4章14節)。こう語られた方は生きておられます。神の子イエス・キリストは、全世界と全歴史を潤すための神の水路です。 Mon, 08 Jul 2019 00:10:00 +0000 主を避けどころとする(詩編 64編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190708 no 2019 主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い 心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。 (詩編64編11節) 「主に従う人」とは「主に結ばれて正しい者」という意味で、詩人本人の自己意識です。神の御前に自分は正しくない人間、御言葉に照らして義ではない罪人です。しかしわたしは、神の憐れみによって罪を赦された者、主の慈しみによって義と認められた僕です。 この恵みにあずかってきた詩人は、自分に言い聞かせます。「わたしは主を避けどころとし喜び祝う」、「罪人をして神を喜び祝わせよ」、「僕をして主を避けどころとさせよ」と。「避けどころとする」という動詞は「隠れ家を捜し求める」という意味です。ただ神の憐れみによって罪を赦されたわたしは、神のみをわたしの避難所として捜し求めよう。ただ主の慈しみによって義と認められた僕は、自分の隠れ家として主を得ることのみに努めよう。そうすることのみ喜び祝おう。 そう自分に言い聞かせた詩人は、「主によって誇る」と礼拝に集う人々に呼びかけます。「主を喜び合う」、「互いに神を誇りとする」という意味です。主を喜び合うことのできる仲間に囲まれた人は、何と幸いなことでしょう。 Sun, 07 Jul 2019 00:10:00 +0000 実りを刈り取る(ルカによる福音書 10章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190707 no 2019 その後、主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 (ルカによる福音書10章1~2節) 主から遣わされて伝道するなら豊かな収穫があると約束されています。現実がそうではないように思えるのは、「働き手が少ない」からです。そして、この働き手は「収穫のための働き手」であると言われています。 私たちが「伝道の実りが少ない」と言うとき、私たちは荒れ地を耕すところから始めようとしていないでしょうか。私たちは時として、荒れ地を耕して畑にし、種を蒔いて作物の世話をして実らせることばかりに熱心を傾けているのではないでしょうか。しかし、不足しているのは「収穫のための働き手」なのです。「収穫の主」である神が実らせてくださった作物を刈り入れるのが「収穫のための働き手」です。 私たちは、荒れ地を耕し、種を蒔き、作物の世話をすることに励んできました。「収穫の主」は私たちに収穫をさせるために、私たちの一つ一つの働きに御手を添えてくださり、豊かな実りを備えてくださっています。それを信じて、感謝しつつ集めましょう。そこに、「収穫は多い」という約束が実現するのです。 Sat, 06 Jul 2019 00:10:00 +0000 主の御計らいを何一つ忘れてはならない(ヨシュア記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190706 no 2019 ヨシュアの率いるイスラエルの人々がヨルダン川のこちら側、すなわち西側で征服した国の王は次のとおりである。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドからセイル途上にあるハラク山に至る地域をイスラエル各部族にその配分に従って領地として与えた。 (ヨシュア記12章7節) 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩103編2節)。この勧めに応えるように、12章では、主の良いご配慮によって与えられた勝利の一つ一つが数え上げられています。 1~6節は、モーセが率いた時期のイスラエルの勝利です。その詳しい記録は申命記2、3章にある通りです。7節からは、ヨシュア率いるイスラエルに与えられた勝利です。イスラエルの民に王はいませんでしたが、31名の王たちを打ち破りました。 振り返ってみますと、このときからおよそ50年前、パランの荒れ野のカデシュに宿営していたイスラエルは、不平を言い、泣き明かし、約束の地に上って行くことを拒否しました。カナン偵察から戻って来た十人の報告を受け入れて、彼らは言いました。「上って行ったなら、我々はきっと食い尽くされてしまう。勝ち目はない…」(民13、14章参照)。けれども、時至って、主は約束の地の一つ一つを、約束どおり勝ち取らせてくださいました。 主の御計らいを忘れてはならない。私たちは主の御計らいを数え上げて歩みます。 Fri, 05 Jul 2019 00:10:00 +0000 勝利への道(ヨシュア記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190705 no 2019 主はヨシュアに言われた。 「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を焼き払え。」(ヨシュア11:6) (ヨシュア記11章6節) カナン南部連合軍敗北の知らせを受けて、北部の盟主ハツォルの王ヤビンは北部連合軍の結成を呼び掛けました。すると、この地方全域の王たちがこぞって応えます。こうして、軍馬・戦車もそろった浜辺の砂の数ほどの大軍がイスラエルに向かって来ました。軍事力の差だけを見れば民に勝ち目はありません。しかし、このときも彼らは勝利を得たのです。 そこには二つの理由がありました。一つは、長い年月にわたるこの戦いを忍耐をもって戦い続けたことです(18節)。もう一つは、主の御告げにきっちりと従い通したことです。貧弱な装備しかなかった民にとって、敵から勝ち取った軍馬と戦車はまことに目に好ましかったでしょう。馬に引かせる戦車は、そこから兵士が矢を射かけてくる、当時最強の兵器でした。しかし、彼らは命じられた通りに馬の足の筋を切り、戦車を焼き払ったのです(9節)。 「恐れてはならない」と告げておられる勝利者なる主への信頼と、心からなる服従こそ、民の勝利への道でした。私たちは、目に見える好ましさを求めるのではなく、主に従順な歩みを祈り求めます。 Thu, 04 Jul 2019 00:10:00 +0000 強く、雄々しくあれ(ヨシュア記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190704 no 2019 ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。 (ヨシュア記10章42節) 「早く上って来て、私たちを救い、助けてください!」。ギブオンの人びとからの叫びを聞き、ヨシュアは出陣しました。和を結んだ仲間からの求めですから、行かなくてはなりません。しかし、どれほど不安だったことでしょう。相手は、これまでの一つの町とは違い、はるかに強力なカナン南部連合軍であるからです。イスラエルはまるで狼の群れの中に飛び込んでいくたった1匹の羊のようでした。 主はヨシュアに告げられます。「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない」(8節)。 ヨシュアは主の言葉に力を得て彼らに襲いかかり、大打撃を与えます。その後、敗走する敵の上に落ちる、天から降り注ぐ雹を見た時には、心から御名をあがめたでしょう。勇気に満ちてヨシュアは日と月に向かって祈ります。「とどまり、動くな」(12節参照)。すると主は、日を中天に留めて敵を打ち破るための十分な時を備えてくださったのでした。 私たちも避けられない主にある戦いに召された時には、大胆に祈り求めましょう。 Wed, 03 Jul 2019 00:10:00 +0000 命を保障する協定(ヨシュア記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190703 no 2019 「御覧ください。わたしたちは今はあなたの手の中にあります。あなたが良いと見なし、正しいと見なされることをなさってください。」 ヨシュアは彼らにそのようにし、イスラエルの人々の手から彼らを助け、殺すことを許さなかった。 (ヨシュア記9章25節~26節) どうしたことでしょう。イスラエルの指導者たちは、ここぞというところで主の指示を求めません(14節)。敗退に終わった一回目のアイ攻略のときと同じことを繰り返します。それゆえ、ここでも、困難な事態へと進みます。 命を保障する協定を結んだ3日後、遠い国から来たはずの人たちが、なんと近隣の町ギブオンの住人だと明らかになりました(16節)。 イスラエルの人びとの怒りはもっともです。人を騙す彼らがいつ敵側に寝返るかもしれません。その上、彼らはヒビ人です。憐れむことも禁じられている、滅ぼし尽くさなくてはならないカナンの先住民です(申7章1~2節)。 それでも、ヨシュアは彼らに手をつけることはしません。イスラエルの人びとが彼らを襲うことも許しません。その理由はただ一つです。たとえ、欺きに基づく協定であっても、主にかけて彼らに誓った、主の御名による協定であったからです。欺かれたことに対する怒りや将来への不安があったことでしょう。それでもヨシュアは、潔く自分の行いの責任を引き受けました。主に誓ったゆえに、主の御手に彼らをゆだねたのです。 Tue, 02 Jul 2019 00:10:00 +0000 アイでの勝利(ヨシュア記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190702 no 2019 主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。」 (ヨシュア記8章1節) ヨシュアは、全軍隊を率いて行動を起こし、アイへ攻め上りました(3節)。このはつらつとした姿は、一回目の敗退で打ちしおれていたヨシュアとはまるで別人のようです(7章7~9節)。 何によって、彼はこの大いなる力を得たのでしょうか。一つには、民と共になし遂げた悔い改めが見逃せません(7章)。まず、心が整えられました。もう一つは、主の御告げこそ力の源でした。主は、恐れずにアイに攻め上れと命じます。と同時に、戦術を授け、勝利を約束しておられます(1、2節)。 奮い立つヨシュアとイスラエル、彼らはこの二回目の戦いにおいて、まことに従順でした。一回目の「3千の兵で十分」といった高をくくった判断を捨て去り、命じられた通り、選りすぐりの勇士3万をはじめ、全軍隊が出陣します。授けられた伏兵を置く戦術も、その通りに実行します。そして、主は大いなる勝利を与えてくださったのです。 「御国を来たらせたまえ」と祈る私たちにとっても、勝利への道は、きっと同じです。悔い改めと心からなる従順を祈り求めて参りましょう。 Mon, 01 Jul 2019 00:10:00 +0000 アイでの敗退(ヨシュア記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190701 no 2019 彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。 (ヨシュア記7章26節) エリコでの大勝利にイスラエルの人びとは気をよくしていました。アイに向かった約3千の兵士たちも勝利を疑わずに攻め上ったことでしょう。しかし、神は、この戦いが彼らの惨めな敗退に終わることをご存じでした。それでも、神は、彼らの計画に口をはさむことはなさいませんでした。それは、きっとアカン1人ではなく、イスラエルの人びとが滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実だったからでしょう(1節)。 思いもよらぬ敗退と36名もの仲間の死に直面して、民の心は挫け、ヨシュアはうろたえます。そして「私たちは皆殺しにされてしまう」と、主に訴えるのでした(9節)。 そのヨシュアに対して、主は立ち上がるように命じて、なすべきことを告げられました。すなわち、背きの罪を徹底して取り除き、悔い改めることです。共に戦った仲間の1人とその家族を処刑しなくてはならない。それはどんなにつらいことだったでしょうか。しかし、民がなすべきことを忠実になし遂げたとき、神は激しい怒りを解いてくださいました(26節)。神は、悔い改める者を赦す、憐れみ深いお方であられます。 Sun, 30 Jun 2019 00:10:00 +0000 赦しと愛と救いのため来られた主イエス(ルカによる福音書 9章51-62節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190630 no 2019 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。(ルカ9:54-56) (ルカによる福音書9章54節~56節) 御父の救いの計画の成就の時期が近づくと、主イエスはそのクライマックスの場所であるエルサレムに向かう決意を固められました。そして、これから歩まれる道の先に使いの者を出されました。 彼らは準備のためにサマリア人の村へ入りましたが、歴史的、宗教的、血縁的な理由でユダヤ人と仲が良くない村人は主イエスを歓迎しませんでした。弟子のヤコブとヨハネは、彼らを天からの火で裁こうとしましたが、主イエスはむしろヤコブとヨハネを戒められました。主イエスは世を裁くためではなく、世を救うために来られたお方だからです(ヨハ3章17節)。 エルサレムに向かう決意の根拠は愛と赦しであって、その目的は救いです。そしてこれらが御父の御心です。御父の御心に従って、このとき敵対的であったサマリア人を主イエスは赦して愛されました。彼らにまさる敵対者のユダヤ人たちさえ赦し、愛されました。こうして、赦しと愛のゆえに十字架の贖いによって世を救われたのです。 主イエスの赦しと愛と救いの御業に心から感謝し、私たちの隣人と心から赦し合い、愛し合いましょう。 Sat, 29 Jun 2019 00:10:00 +0000 主の励ましを受けて(使徒言行録 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190629 no 2019 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒18:9-10) (使徒言行録18章9節~10節) 信仰者は、しばしば危機の中に置かれます。恐れが来ます。そしてそのような時に、主からの励ましも来ます。「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない」。 人びとの圧力の中にいると苦しくなります。一人では立つことさえままならないかもしれません。けれども、私たちは一人ではありません。キリストがあなたと共におられます。主にある兄弟姉妹があなたと共にいます。 「恐れるな」とは、旧約時代から語り続けられた神の言葉です。すなわち、昔の信仰者たちも、私たちと同じような苦しみを経験しました。そして、はるか昔の時代から、神はあなたと共にいると語り続けてこられました。私たちの歴史は、昔から神が導いて来られました。 今ここで苦しんでいる私たちは、神の歴史の先頭を歩いています。私たちが神の歴史の最も完成に近いところにいます。苦しみの先には、神の救いが待っています。あなたを通して神の民が起こされます。あなたが新しい歴史を開く時が、そこまで来ています。「恐れるな。…わたしがあなたと共にいる」。 Fri, 28 Jun 2019 00:10:00 +0000 主はよみがえられた(使徒言行録 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190628 no 2019 「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 (使徒言行録17章31節) 神の計画が揺らぐことはありません。神はご自身の救いの計画に向かって進んで行かれます。きょうという日もまた、神の救いの計画のために備えられた一日です。 パウロはアテネのアレオパゴスでキリストの復活を語りました。キリストは罪のために死なれなければなりませんでした。御自身の罪のためではありません。わたしの罪のためです。それは紛れもなく、わたしの救いのためです。私たちはやがて来る裁きの日に備えて、神の救いに入れられました。 先に救いを得た私たちは、隣人のために執り成します。キリストが十字架にかかられたのは、罪の裁きを受けられたからです。復活されたのは、私たちが罪に定められないためです。それゆえ、救いを得た私たちは感謝して、隣人にキリストを伝えます。 キリストを信じれば救いを得るとの確証を、神は御自身が選ばれた人に与えてくださいます。主がよみがえられたとは、決定的な罪の赦しがなされたということです。罪の裁きを恐れる必要はありません。主はよみがえられた! これに勝る恵みはありません。 Thu, 27 Jun 2019 00:10:00 +0000 主が確信を与える(使徒言行録 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190627 no 2019 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。 (使徒言行録16章10節) 神の御業が始まろうとしています。私たちは主に従わなければなりません。 それにしても、神の御業はいつも私たちの思いをはるかに超えています。一見すると、神のために立てた計画が遮られたように思うことがあります。神に従い、良かれと思って行動しているのに、思うような結果が見えず、道を間違ったのかと悩むこともあります。 けれども、神のなさることは、いつでも私たちの思いを超えて最善です。そして、この時のためであったと知らされる時が必ず来ます。全てを支配しておられる神が働いてくださいます。神が召しておられるからです。むしろ私たちの思惑が打ち砕かれ、行き詰まる時こそ、神の御業が起こります。 そうしますと、私たちは順境の時にも逆境の時にも、なお神の御手の中にあると信じることができます。主が与えてくださるのは、私がいつもあなたと共にいる、という約束です。きょうという日も、神が共にいてくださいます。主が示しておられるところへと、出発しましょう。主の祝福がありますように。 Wed, 26 Jun 2019 00:10:00 +0000 主が救ってくださる(使徒言行録 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190626 no 2019 「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。」 (使徒言行録15章8節~9節) 「割礼」の必要をめぐってエルサレムで会議が開かれました。救われるためには何が必要かという議論でした。 救いのために必要なことはただ一つ、「イエスは主である」と信じて告白することだけです。この告白を神が受け入れてくださいます。ここに私たちの救いがあり、希望があります。神の救いは大きく門戸を開いています。キリストにあって、もはやユダヤ人も異邦人もありません。イエス・キリストが分け隔てなさらないからです。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ロマ3章22節)。 私たちは今や、さまざまな重荷から解放されました。異邦人である私たちは、元から律法を持っていません。それなのに、キリストを信じた今、なぜくびきを負おうとするのでしょうか。キリストが罪から解放してくださったのですから、喜びましょう。もう、かつての古いわたしは脱ぎ捨てられたのです。 キリストの霊である聖霊が共にいてくださいます。神はキリストを信じる人を分け隔てなさいません。 Tue, 25 Jun 2019 00:10:00 +0000 主が行われる(使徒言行録 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190625 no 2019 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 (使徒言行録14章2節~3節) 神を第一とすることには、時に困難があります。主のために働くことが、必ずしも成功体験を約束してはいないからです。私たちが神の御業を作り出すのではありません。私たちは神の御業の起こることを期待するだけです。 このように神の御業に期待するとき、神が私たちを用いてくださいます。主が私たちよりも先に立って進んでくださるからです。私たちは、キリストの背中を見つめながら、一足一足進みます。 「恐れるな」とキリストが言われます。そうして、人びとの悪意の中で、パウロたちは主について勇敢に語り続けました。パウロたちの信仰が現れていますが、そこに神の働きかけがありました。神が彼らを通して働かれました。 神のために働くときに妨害されることもあるでしょう。しかし、主に仕える働きですから、主ご自身が力を与えてくださいます。主からあなたに委ねられている働きは何でしょうか。主に仕えることで、あなたの心に生じる不安は何でしょうか。主があなたを強くし、力を与えてくださいますように。恐れに打ち勝つ、主の御業が行われますように。 Mon, 24 Jun 2019 00:10:00 +0000 主に送り出される(使徒言行録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190624 no 2019 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 (使徒言行録13章2節~3節) 信仰者は主を礼拝するために集まっています。アンティオキアの教会では、そのとき、断食もしていました。神の御心を求めて熱心に祈っています。そうすると、明確な神の導きがありました。 私たちもしばしば神の御心を求めて祈ります。私たちが祈るとき、まだ神の御心が隠されていることが多いでしょう。きょうの御言葉のように、明確な語りかけを聞くほうが珍しいことです。しかし、私たちに神の御心が隠されているということは、神の計画が定まっていないことを意味しません。むしろ、神は前もって私たちのために計画を立てておられます。その計画はもしかしたら、私たちの望むこととは違うかもしれません。 だから、私たちは熱心に神の御心を求めて祈ります。神の御心とはすなわち、私たち一人ひとりにとっての最善の計画だからです。神の最善の計画に素直に従っていくために、日頃の祈り、日頃の心備えが必要です。 神の導きは確かです。神が導かれるときには神の御業が起こります。困難に見舞われても、主の御業が必ず成し遂げられるのです。 Sun, 23 Jun 2019 00:10:00 +0000 新しい命をくださる主イエス(ルカによる福音書 8章26-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190623 no 2019 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 (ルカによる福音書8章39節) ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ地方に悪霊に取りつかれた男の人がいました。この人に取りついていたのは、「軍団」という意味の名を持つ、「レギオン」という複数の悪霊でした。この悪霊のゆえに、彼は衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていました。 人にとって、家は、安全、休息、慰め、教育など、多くの意味を持つ場所です。そして、何より家は生きている人が留まるところです。ところが、悪霊に取りつかれた人は墓場に住んでいました。彼は、肉体は生きていましたが、一人の人格としては生きた存在ではなかったのでしょう。 彼に会うために、主イエスはガリラヤ湖を渡りました。彼に取りついていた悪霊を御言葉によって追い出され、彼を自分の家に帰らせました。彼は主イエスによって新しい命をいただき、まことに生きる存在になりました。 私たちにも新しい命を与えるため、主イエスはこの世に来てくださいました。この主イエスに心から感謝しましょう。そして、立ち上がって、主が私にしてくださったことをことごとく町中に言い広めましょう。 Sat, 22 Jun 2019 00:10:00 +0000 神を捜し求め、渇き求める(詩編 63編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190622 no 2019 神よ、あなたはわたしの神。 わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。 あなたを待って、わたしのからだは 乾ききった大地のように衰え 水のない地のように渇き果てています。 (詩編63編2節) この詩は捕囚の歌、イスラエルの人びとが、捕囚としてバビロンの地へ曳かれ、その地で詠んだ歌と言われています。 一言で「信仰」と言いますが、私たちは何を求めて信仰生活をしているのでしょうか。絶対的平安を求めて、また、豊かな愛の心と生活を求めてという方もおられるでしょう。しかし、心を静め、改めて考えてみますと、求めているものは、神ご自身ではないでしょうか。詩人が求めているのは、神ご自身なのです。 これは捕囚の歌だと記しました。ところが、この詩人は捕囚からの解放、エルサレムへの帰還を願い出ず、捕囚のバビロンの地で神が共にいましたまうことを願い求めたのです。バビロンの地は、イスラエルの地と比較して、はるかに文化的に進んでおり、また豊かでした。しかし、如何にそうであろうとも、神が共にいましたまわなければ、そこは御国ではなく、長く安らぐ場所ではありません。そして反対に、苦しみや悲しみの捕囚の地であろうとも、そこに神が共にいましたまうならば、そこは御国となるのです。 だからこの詩人は何よりも、神が共にいてくださることを切に願い求めたのです。 Fri, 21 Jun 2019 00:10:00 +0000 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう(詩編 62編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190621 no 2019 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。 神にわたしの救いはある。 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。 わたしは決して動揺しない。(詩編62:2-3) (詩編62編2節~3節) 「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」という言葉は、6節にもあります。口語訳では「わが魂はもだしてただ神をまつ」となっています。神の御支配、神の御業をただジッと待つというような、思いを鎮め、ただ思いを神に向けるというような静的な姿勢ではありません。思いを激しく神に向け、神が実現してくださることを見届けるという熱い思いで神の御業を待っている姿勢です。 こうした思いで、期待しながら待っている出来事は、私たち人間が考えるようなものではなく、「こんなことが、起こり得るのか」と驚くような、徹底的に神の観点に基づく出来事です。この詩人は、それがなされることを信じ、見つめて待っているのです。 詩人は、こうした熱い思いで神の御業を待ち望んでいます。ですから、「沈黙して、ただ神に向かう」という言葉に続けて、「神にわたしの救いはある(口語訳では、わが救は神から来る)」と、歌い上げることができました。 私たちにはできないことも、神はおできになるのです。この信仰を抱いて、しっかりと生きていきましょう! Thu, 20 Jun 2019 00:10:00 +0000 地の果てから神を呼ぶ(詩編 61編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190620 no 2019 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。 高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。 (詩編61編3節~4節) 3節に「地の果てから」とありますから、この詩編はエルサレムから遠く離れた所から叫ばれた祈りの歌です。「エルサレム」には、神の都、神の平安という意味がありますから、ここには、神の平安・慈しみから遙かに遠い所という意味も込められています。 この詩人は、その地の果てから、「高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」と、神を呼んでいます。岩山は高くそびえ、彼がいる場所は「地の果て」ですが、確信をもって神へと呼び掛けます。それは詩人が、地の果てからでもイスラエルを何度も救い出してくださった神を深く知っているからです。 マルタとマリアが愛していたラザロが病のとき、主イエスの到着が間に合わず、ラザロは死にました。命あるうちに来てくださっていたらと嘆く二人に、主イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とお叱りになり、ラザロをよみがえらせました。 主イエスは、私たちがいかなる状況の中にいようとも、そこでもなお力強く生きていける、喜びに満ちた人生を約束してくださっています。 Wed, 19 Jun 2019 00:10:00 +0000 弱く罪深い者が、神の尊い器とされて(詩編 60編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190619 no 2019 神は聖所から宣言された。 「…ギレアドはわたしのもの マナセもわたしのもの エフライムはわたしの頭の兜 ユダはわたしの采配」(詩編60:8-9) (詩編60編8節~9節) この詩編は、8~10節の中央部とその前後の部分から成り立ち、中央部の前後の部分では、嘆きと願いが神に訴えられており、中央部は、預言者が語ったと思われる神の言葉が語られています。 10節に、モアブ、エドム、ペリシテとあります。歴史的にイスラエルは、これらの国々にいつも悩まされていた弱小の国でした。そのイスラエルに対して、神は、わたしの頭の兜であり、采配(指揮のための用具)であるとまで言ってくださっています。 イスラエルのみならず、私たちも本当に弱く、罪深い者です。しかし、本日の御言葉を聴くとき、私たちもまた、神によって、神の兜、采配とされていることを、深く自覚したいものです。教会の中には、真に真摯な方がおられ、自分の弱さ、罪深さを覚え、そのことにいつまでも悲しみ、苦しんでいる方もおられます。勿論、自らの弱さ、罪深さを深く知ることは重要であり、必須です。なぜなら、それを知ることなしに救いに与ることはできないからです。しかし、その一方で、そうした自分が神から赦されており、神の尊い器とされていることも、深く知らなければならないのです。 Tue, 18 Jun 2019 00:10:00 +0000 真に頼るべきお方(詩編 59編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190618 no 2019 御覧ください、主よ … 罪もなく過ちもなく 悪事をはたらいたこともないわたしを 打ち破ろうとして身構えています。 目覚めてわたしに向かい、御覧ください。 (詩編59編4節~5節) この詩人は、神に切々と訴えています。自分は、罪もなく悪事を働いたこともないのに、力ある者がわたしの命を狙って待ち伏せ、争いを仕掛けて来る、と。「御覧ください、主よ…目覚めてわたしに向かい、御覧ください」。こう神に願う言葉からは、人びとから差し向けられる剣のように鋭く、嘲笑う攻撃的な言葉でひどく傷ついている詩人の深い孤独感が伝わります。人びととの絆に生きる者にとって、つらく苦しかったであろうと思います。 しかし、孤独になればなるほど、人間は神に近づくことができるのです。私たち人間は、自分の力や人など、この世のものに頼れる間は、なかなか神に頼ろうとしません。主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのはこのことです。 この詩人は、皆から理由もなく責められ、どこにも助けがなくなったとき、主なる神に「目覚めてわたしに向かい、御覧ください」と訴えることができました。孤独を恐れて、この世のものに頼るのではなく、神に向かい、神が共にいましたもう、主にある大きな喜びを深く知りましょう。 Mon, 17 Jun 2019 00:10:00 +0000 不義を裁く神の眼差しは(詩編 58編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190617 no 2019 神に従う人はこの報復を見て喜び 神に逆らう者の血で足を洗うであろう。 人は言う。 「神に従う人は必ず実を結ぶ。 神はいます。 神はこの地を裁かれる。」 (詩編58編11節~12節) この詩人は、この世の裁きの不正さを告発します。不正な者たちは、たとえ民がどれほど叫んでも、耳の聞こえないコブラのように民の声には耳を貸すことなく、自分の思いのままに振る舞い、自分の意に反する者には、毒蛇のように襲いかかって、叩きのめして、自分ばかりを立派に立たせていきます。 しかし、不正はやがて神によって裁かれ、葬られます。神の秩序、神の御心が歴史を支配していることを人びとは知るようになります。だから、不正な者に対する裁きは神に委ね、私たちは神の前に謙遜に正しく生きていくことが大事である、とこの詩編は教えています。 にもかかわらず、エゼキエル書には「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、…彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」とあります(18章23節)。主イエスは、「わたしが来たのは…罪人を招くためである」と言われます。新約に生きる私たちは自らも罪人であることと、神が十字架に示された愛を覚え、罪人が裁かれるより、神に立ち帰るよう、祈る者とされたいと強く願います。 Sun, 16 Jun 2019 00:10:00 +0000 三位一体の神(ヨハネによる福音書 16章12-15節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190616 no 2019 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13) (ヨハネによる福音書16章13節) キリスト教の中心的な教理である三位一体について多くの人が知りたがります。それが理解できればキリスト教を信じますと言う人もいます。しかし、主イエスに神と神の国について約3年間教えてもらった十二弟子でさえ、その教えを完全には理解できませんでした(12節)。なぜなら、神と神の国、すなわち真理は人間の知恵や力では理解できない、ただ聖霊によらなければ正しく知ることができないからです。 真理の霊は、主イエスの約束どおりこの世に来られました(使2章)。そして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださいます(ルカ11章13節)。 御子イエス・キリストが父なる神の御心に従順であられ、父のみに栄光を帰したように、聖霊は人びとに御子イエス・キリストを告げ、主イエスに栄光を与えます。神の御子イエス・キリストを通して実現した救いの真理を、聖霊が私たちに悟らせ、私たちの救いを完成させます。 日々、この三位一体の神秘を悟らせてくださった主をほめたたえながら、聖霊の導きに従って真理の道を歩んで参りましょう。 Sat, 15 Jun 2019 00:10:00 +0000 神の言葉はますます栄え(使徒言行録 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190615 no 2019 ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。… 神の言葉はますます栄え、広がって行った。 (使徒言行録12章5節、24節) ヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパ一世は、ローマ皇帝に取り入って王位を得、さらに支配民の歓心を買おうとして教会を迫害しました。こうして、使徒ヤコブは殉教します。この物語は、ヘロデが神の栄光を自らのものとして、神の裁きによって絶たれたことで結ばれます。 かつて、ヤコブとヨハネは、主イエスに、右大臣左大臣の地位を願い出ました(マコ10章37節)。使徒ヤコブは最初の殉教者となることで主の栄光をあらわし、願いにまさる光栄を得たのです。 ヘロデは、迫害を喜ぶユダヤ人を見て、使徒ペトロにも手を掛け、投獄します。教会は、ペトロのために熱心に祈りました。ペトロは、奇跡的に助けられます。ところが、祈っている教会は、この現実を信じられませんでした。彼らは、ペトロが立派に殉教するようにと祈っていたからなのでしょうか。 祈りは、しばしば私どもの思いにまさってかなえられます。なぜなら、迫害者が倒されるのもそうでないのも、殉教するのもしないのも、ただ神の栄光のため、神の言葉を栄えさせ、広げる目的によるものだからです。 Fri, 14 Jun 2019 00:10:00 +0000 エルサレム教会とアンティオキア教会(使徒言行録 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190614 no 2019 「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 (使徒言行録11章17節) エルサレム教会は、すべての教会の原点であり、言わば母なる教会です。ただし仏教でいう総本山のようなものではありません。 ペトロは、コルネリウスとの出会いの物語をエルサレム教会で順序立てて語ります。教会は岩盤のように堅かったユダヤ人のみの救いという先入観を自ら壊しました。人間の思い込みで神の救いの御心を妨げることほど恐ろしい罪はないからです。御言葉と聖霊に養われたキリスト者たちは、揺るがぬ救いの確信を持ちつつ、常に柔らかな服従の心と態度を保ちます。 聖霊は、アンティオキアに逃げて行ったキリスト者たちの中から、ユダヤ人以外にも福音を証しする器を起こされました。「ギリシア語を話す」キリスト者の誕生です。 エルサレム教会はバルナバを派遣し、アンティオキア教会との絆を証しします。こうして、異邦人教会は、キリストの教会の正統性を保ちつつ、世界に広がります。同時に、エルサレム教会は彼らから食糧品の援助を受けます。こうして教会は、相互援助の共同体として、世界にその姿を鮮明にし、ひとりの主、一つの教会を証しするのです。 Thu, 13 Jun 2019 00:10:00 +0000 だんだん分かって来る(使徒言行録 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190613 no 2019 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」 (使徒言行録10章34節~35節) 使徒ペトロは御言葉の教師です。コルネリウスも真の神を信じ、祈りと善き働きに熱心な異邦人でした。 仏教の教えに、指導者たる者は「弟子が悟りを開こうとするその瞬間を見逃さず働きかける」べきことが言われ、なるほどと思わされます。 ただし、この物語は似ているようで違います。ペトロはコルネリウスによって、コルネリウスはペトロによって福音の真理にあずかります。導かれたのは唯一の師である主イエスです(マタ23章8節)。彼らは共に弟子なのです。 確かに、ペトロは「よく分かりました」と告白します。しかし正確には「分かって来ました」ということです。神を十分に分からせるためにこそ人生と教会が与えられます。信仰の成長は、時に劇的ですが、基本的には漸進的です。唯一の師と弟子たちと共に謙虚に歩みましょう。 私たちはきょう、誰と出会うでしょうか。もしかしたら、その未信者との出会いによって、私たちの神理解が深められ、広げられるかもしれません。同時に、彼を救いに導く福音の言葉を、ほかでもないわたしが語るように導かれるかもしれません。 Wed, 12 Jun 2019 00:10:00 +0000 サウロ(後のパウロ)の回心と務め(使徒言行録 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190612 no 2019 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒9:15-16) (使徒言行録9章15節~16節) サウロは、律法に基づく信仰の確信をもってキリスト者を迫害していました。復活の主イエスは、彼に「なぜ、わたしを迫害するのか」と問われました。この問いの中に、キリスト者と主イエスとが一つに結ばれた存在であることがはっきりと示されます。 天からの光を浴びた彼は倒れ、目も見えません。主は直接ご自身でなさらず、アナニアを用いて目を開かせます。しかもサウロの将来をアナニアに示されます。キリスト者とその信仰が仲間と共に教会を建てるべきものであることを、彼らに示すためです。 主は、このサウロを激しく憐れみ、救いたいのです。同時にそれは、主イエスの御名を告げ広める「務め」を託すためでもあります。またアナニアへの務めは、彼の隣人となって祈り、キリスト者の基本を伝授することでした。こうして彼らは、主の「器」として務めを担い、そのようにして主の御心を実現する栄光の器とされるのです。 私たちも主の務めのために選ばれた器です。一つの同じ務めと共に、各々に固有の務めも与えられています。互いの務めに感謝しつつ、共に主の栄光に奉仕しましょう。 Tue, 11 Jun 2019 00:10:00 +0000 伝道してみよう(使徒言行録 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190611 no 2019 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。 (使徒言行録8章35節) 7人の奉仕者の1人、フィリポは、エルサレムの大迫害から逃げました。しかし、神の言葉はこうしてユダヤとサマリアの全土へと広まって行きます。誰も、主のご計画を阻むことはできないのです。 はるばるエチオピアから神殿礼拝に詣でた高官は、帰路につきます。礼拝後なお車中で、運び入れていた大きなイザヤ書の巻物を朗読します。礼拝者の鑑です。 熱心ではありながら救いの確信を得られないでいる彼を、主イエスは憐れんでくださいます。フィリポも同じ方向に歩いていたのでしょう。聖霊は、追いかけなさいと促します。意味が分からないままに従います。高官も読んでいる箇所の意味が分かりません。 フィリポは、この箇所から説きおこして主イエスについて福音を告げます。聖書が分かり、救われるためには、主イエスが要です。あとほんの一歩、しかしはるかな一歩です。だから、ひと足先に主イエスを知った者が必要です。聖書のすべてを説き明かす力は不要です。ただ、主イエスを証言することです。主の時を逃さないことです。主の促しに従う信仰と声を掛ける勇気を祈り求めましょう。 Mon, 10 Jun 2019 00:10:00 +0000 悔い改めの恵みに感謝して(使徒言行録 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190610 no 2019 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 (使徒言行録7章55節~56節) ステファノは偽証の疑いで逮捕され、最高法院に訴えられます。このようなとき、人は誰でも、身の潔白を主張して反論するはずです。ところが、彼がしたのは神の言葉の説教でした。旧約の救いの歴史を要約して語り、かたくなな心を悔い改めるように招くのです。どちらが被告でしょう。人びとは、かつてのイスラエルとまったく同じように神に反抗し、主イエスを十字架につけ、今また、ステファノまで殺します。 実に、神に悔い改めるということは、これほどまでに困難な業です。つまり、私たちは自ら悔い改める力をまったく備えていないのです。そのような罪人である私たちが、「悪いのはわたしです」と認め、主の赦しを信じて歩めるのは、まさしく奇跡です。驚くべき恵み、感謝あるのみです。 さらに、私たちも彼のように、どのようなときでも天を見つめましょう。自分の正当性にではなく、キリストの栄光にのみ関心をもって、「わたしに罪を犯す者をわたしは赦す」と言えるようになりたいと思います。きっと主イエスは、私たちのためにも、スタンディングオベーションしてくださるでしょう。 Sun, 09 Jun 2019 00:10:00 +0000 私たちと一緒におられる聖霊(ヨハネによる福音書 14章8-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190609 no 2019 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 (ヨハネによる福音書14章17節) 弟子たちは、まもなく主イエスが自分たちから離れ、父のもとへ行くという話を聞いて不安になり、恐れました。そこで、主イエスは神の憐れみ深い、救いのご計画を教えられます。それは、「別の弁護者」(16節)、「真理の霊」(17節)を遣わしてくださるということでした。 信仰者の人生は、激しい霊的戦い、先が分からない航海のようなもので、信仰の薄い私たちがそれに勝って正しく進んでいくのは不可能です。しかし、主イエスを信じ、御名によって願えば、信仰者の不可能を主イエスが聖霊を通してかなえてくださいます。聖霊は信仰者の内におられて、その人を御心にかなう方向へ導いてくださいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)。この約束は、聖霊によって成就されます。ご自身の誕生預言におけるお名前のインマヌエル(神はわれらと共にいる)の成就です。 どれほど困難なときであっても、信仰者は独りぼっちではありません(18節)。真理の霊が永遠に私たちと一緒にいて、私たちを守り、支え、助け、真理の道へ導いてくださるからです。 Sat, 08 Jun 2019 00:10:00 +0000 今こそ鬨の声をあげよ(ヨシュア記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190608 no 2019 角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。 (ヨシュア記6章20節) いよいよエリコとの戦いの時がやって来ました。この戦いに勝利するために、イスラエルはまず、主が城壁を打ち崩してくださると信じて行動します。私たちもまた、主に信頼して行動します。 しかし、信仰に基づいて行動しても、現実には私たちの目には何も進んでいないように見えることがいくらでもあります。いつまで経っても同じことが続くかのように思える時もあるのです。しかし、必ず7日目は来ます。何も進んでいないように見えても、神の時は必ず来るのです。そのことを信じて、私たちはエリコの城壁の周りをまずは一周します。さらに続けて回るには忍耐が必要です。ヘブライ人への手紙にも書かれています。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(10章36節)。 そのように私たちは信じて、命じられたとおりにエリコの城壁の周りを回り続けるのです。途中で投げ出さない。希望を放棄しない。主の御業を見るまでは。 …やがて、その時が満ちます。人生の困難なあの城壁が崩れ落ちる時が必ず来るのです。 Fri, 07 Jun 2019 00:10:00 +0000 神にのみ従う、勝利は我が手に(ヨシュア記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190607 no 2019 そのとき、主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。 (ヨシュア記5章2節) 割礼を受けていたイスラエルの民は、彼らの神への罪ゆえに、エジプトを出て後、途中、荒れ野で死んでしまいました。一方、途中、荒れ野で生まれた民は、だれも割礼を受けていませんでした。そのため、これからカナンの地を占領するにあたり彼らがまずしなければならなかったことは、割礼を受けることでした。これは神が命じておられたことであり、神の民の一員として神への献身を表していたからです。そして、そのように神に従い、全面的に神に信頼することによってこそカナンの地での戦いに勝利することができるからです。割礼は、ある意味で献身の印、象徴であったとも言えます。 献身は、自分に死んで神にのみ従い、キリストのいのち、神のいのちに生きることです。信仰の戦いにおいて最も重要なことは、このことです。それは言い換えるなら、自らを神に明け渡し、神に全く従順に歩むということです。そうすれば、神が民と共にいてくださり、戦って勝利してくださるのです。 私たちもキリストの兵士として勝利を信じ、この世の戦いを戦い抜いてゆきましょう。 Thu, 06 Jun 2019 00:10:00 +0000 主の御業を思い起こす(ヨシュア記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190606 no 2019 民の中から部族ごとに1人ずつ、計12人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を12個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。 (ヨシュア記4章2節~3節) ヨシュアとイスラエルの民たちは、主の契約の箱をかついでヨルダン川を渡りました。ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられたのです(7節)。ヨシュアは、主に命じられたとおりに、ヨルダン川の真ん中からイスラエルの部族の数に合うように12の石を取り、宿営地に戻って、それらの石を据えました。それは、イスラエルの民が主の御業を忘れず、主を恐れ、また地のすべての民が主の御手の強さを知るためでした。 皆がヨルダン川を渡り終わると、ヨルダン川の水は元の所に戻り、以前のように岸までいっぱいになりました。その日、主はヨシュアを大いなる者とされました。ヨシュアはモーセの後継者となったのです。 私たちもそれぞれの時に、それぞれの仕方で主の御業を経験します。「わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします」(詩77編12、13)。 私たちも、静まって主の御業を思い巡らし、主に感謝をささげましょう。 Wed, 05 Jun 2019 00:10:00 +0000 主の契約の箱と共に川を渡る(ヨシュア記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190605 no 2019 契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。 (ヨシュア記3章6節) 「主の契約の箱」のことは、出エジプト記25章10~16節に記されています。その箇所は、シナイ山での十戒授与のあとで、主なる神の臨在なさる幕屋の建設と、それに付帯するさまざまな建具の造り方を、主がモーセに示しているところです。 契約の箱の中に神の契約の言葉、すなわち「わたしは必ずあなたがたを救う」と要約される約束の言葉が収められていました。主の御言葉が、召し出された人、すなわち祭司に担がれて先に行きます。民はそのあとに従います。春の刈り入れの時期であったヨルダン川は、渡るのに危険を覚えるほどに満ちていました。しかし、主の御言葉が先に立ち、それに仕える人が召し出され、その後に人びとが従うという神の民の隊列は守られました。 その姿は今日に至るまで残っています。私たちも、現代の厳しい困難な人生という激流の川を渡ることができます。なぜなら、御言葉と共に働かれる聖霊が行く道を守ってくださるからです。 私たちも、主なる神の契約の御言葉を聞き、信じて進むならば、必ず約束の国へと導かれて行きます。 Tue, 04 Jun 2019 00:10:00 +0000 主こそ、神であられる(ヨシュア記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190604 no 2019 あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。 (ヨシュア記2章11節) エリコの住民である遊女ラハブは、以前からイスラエルについての情報を聞き、その民を困難な荒れ野の中でも導かれた力ある神に思いを馳せていました。ですから、エリコを探りに来たイスラエルの斥候を受け入れたのでした。 そういうわけで、2章の主人公はエリコに遣わされた二人の斥候ではなく、ラハブです。そして、この章の中心は9~11節のラハブの言葉にあります。彼女は、イスラエルに味方したほうが得だという単なる打算によって行動したのではありません。イスラエルの神である主への明確な信仰のゆえにそうしたのです。 11節の終わりに、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」とあります。ここにラハブの信仰の告白があります。この信仰のゆえに、彼女とその一族は救われ、今日までイスラエルの一員として歩んでいるのです(6章25節)。 主なる神こそ、全世界を支配しておられる神であられるという信仰告白によって、私たちも信仰の英雄の一人とされます。神が私たち一人ひとりをそのように力づけてくださるのです。 Mon, 03 Jun 2019 00:10:00 +0000 わたしはあなたと共にいる(ヨシュア記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190603 no 2019 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。 (ヨシュア記1章5節~6節) 偉大な指導者モーセは、約束の地に入る前に神に召され、死にました。主は、不安の中にあった従者であるヨシュアに、「強くあれ、雄々しくあれ」と、同じことを何度も繰り返しています。非常に力強い主の励ましです。 これから先、ヨシュアに起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存じだったので、「強くあれ、雄々しくあれ」と何度も繰り返されたのです。確かに荒れ野においてヨシュアはモーセと共に戦いました。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならないときに、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立ってさまざまな困難と闘っていかなければならないのです。 そのようなヨシュアにとって、「わたしはあなたと共にいる」という約束の言葉は、どれほど力強かったことかと思います。私たちの生涯は、確かにいろいろな信仰の戦いの連続です。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、必ずや勝利を勝ち取ることができるのです。 Sun, 02 Jun 2019 00:10:00 +0000 キリストにあって一つになる(ヨハネによる福音書 17章20-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190602 no 2019 …栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、…彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 (ヨハネによる福音書17章22節~23節) 主イエスの長い祈りの最後は、弟子たちの言葉によってキリストを信じるすべての信仰者のためにささげられています。主イエスは、ここで特にすべての信仰者が「一つ」になることを祈られました。 時代と場所を問わず、すべての信仰者は、三位一体の神が完全な愛で一つであられるように一つになるべきです。御父が御子をこの世にお遣わしくださった理由がここにあります(23節)。それぞれ異なる思い、背景、状況を持つ信仰者が一つになれるのは、キリストがその内におられる時です。いつ、どこでも、すべての信仰者がキリストという一つの同じ香りを放つことができれば、世はキリストこそ唯一の真理であることを知るようになります。 主イエスのこの祈りは、当時の十二弟子はもちろん、今日の私たちのための祈りでもあります。神の御言葉を、キリストの福音をすべての基準にする、すなわち、キリストにあってすべての人が完全に一つになれば、主の平安(シャローム)がこの世界に訪れるでしょう。まず自分から、私たちの家庭、教会から、キリストにあって一つになりましょう。 Sat, 01 Jun 2019 00:10:00 +0000 御言葉とディアコニア(使徒言行録 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190601 no 2019 わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。…“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう (使徒言行録6章2節~3節) 規則やシステムは、日々変化する現実を追いかけます。爆発的に人数が増えた初代教会は、新しい問題に直面して一つの職務を作りました。 それは、どんどん増えてくるやもめたちの「食事の世話」(原文では「食卓のディアコニア」)をするために、「執事」を選出したことです。 しかし、彼らは霊と知恵に満ちた評判の良い人びとであったので、食事の世話だけにとどまらず、使徒たちが行っていた「御言葉の奉仕」にまでその働きが広がっていきました。 ディアコニア(お世話をすること)を忠実にする者は、御言葉によって養われ、さらなるお世話と伝道に、自然に導かれていくのでしょう。フィリポは洗礼を授けています(使8章38節)。ステファノは伝道説教をしますが、彼をねたんだユダヤ人たちによって逮捕されてしまいます。 使徒たちが「祈りと御言葉の奉仕に専念する」と言わねばならなかったほど、初代教会では会員のお世話の仕事が多かったのです。それは御言葉がクリスチャンを生み出したからです。御言葉はディアコニアを生み、また御言葉へと帰ってきます。 Fri, 31 May 2019 00:10:00 +0000 名誉欲の戒め(使徒言行録 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190531 no 2019 ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。…あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 (使徒言行録5章3節~4節) バルナバは畑を売った代金を教会に献金しました(4章36、37節)。これは、珍しいこととして教会の会計簿と日誌に記録されました。 アナニアとサフィラ夫婦はバルナバの名声をうらやみました。「私たちも皆から尊敬されたい!」。その結果、この事件が起きました。 ここからさまざまな教訓めいた説教がなされます。しかし、この事件が聖書に書かれたのは、戒規を教えるためではありません。教会には最初から偽善があったと言いたいのでもありません。私たちの金銭欲を戒めるのでもありません。それでは何のために記録されたのでしょうか。それは名誉欲を警戒せよと言っているのです。 私たちは個人であれ教会であれ、他人から良く思われたい、尊敬されたいという本能的な欲望を持っています。実態は幽霊会員が多いのに、現住陪餐会員を水増しして、教会を大きく見せたい教会もあります。 もう一つ、重要なことがあります。それはこの事件は最後の審判の先取りとして、私たちに対する警告として記録されているのです。 Thu, 30 May 2019 00:10:00 +0000 キリストによる救いのみ(使徒言行録 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190530 no 2019 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。 (使徒言行録4章12節) カトリック教会第2バチカン公会議(1965年)は、「諸宗教の中にも真理が存在する。カトリック教会を知らないまま諸宗教を信じて誠実に生きる善意の人は、私たちが知らない方法でイエス・キリストの復活秘儀に与かり救われる」と宣言しました。カトリック教会は「諸宗教との対話と融和」を時代的要請として受け止め、この踏み込んだ宣言をしました。 しかし、「誠実に生きる善意の人」とは誰の目から見た判断でしょうか。「知らない方法」とは何でしょうか。パウロは詩編14編を引用して、「正しい者はいない。…善を行う者は…ただの一人もいない」と言いました(ロマ3章10、12節)。ペトロも、イエス・キリスト以外に救いの道はないと言いました。私たちは神様よりも賢くなろうとしてはいけません。分からないことは分からないと言いましょう。 「イエス・キリストを知らないで死んだ人々は、どうなるのですか」。「永遠の神様は、すべての人を見て、どの人に対しても正しい裁きをなさいます」(立石章三著『キリスト教子ども教理問答』問90)。 Wed, 29 May 2019 00:10:00 +0000 わたしは何を見ているのか(使徒言行録 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190529 no 2019 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 (使徒言行録3章4節) エルサレム神殿で最も目立つ「美しい門」の真下に、哀れな乞食が座っていました。彼は生まれつき足が不自由でした。彼にとって神殿は礼拝の場所ではなく稼ぎの場所でした。 人びとは彼のそばを通り過ぎて行きます。ごくたまに小銭を放り投げてくれる人がいます。しかし、彼に声をかけてくれる人は皆無です。ところが、ペトロとヨハネは彼を見つめ、声をかけました。彼の人生はこの時から大きく変わります。この変化は実は、主イエスの復活後にペトロとヨハネの上に起こった大変化によるものでした。 かつてのペトロとヨハネは、神殿に来ても、「なんとすばらしい石でしょう」と、柱や建物に目を奪われていて、その下に座っている乞食など目に入っていませんでした(マコ13章1節)。しかし、復活のイエスによって変えられた二人は、石や建物ではなく、哀れな乞食に目を注いだのです。 キリストに出会うまで、私たちの目が追い求めていたことはこの世の栄光でした。今はどのように変えられたでしょうか。助けを求めている人びとを見ているでしょうか。 Tue, 28 May 2019 00:10:00 +0000 3千人の受洗(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190528 no 2019 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 (使徒言行録2章41節~42節) 大会統計によりますと、2017年に大会全体で洗礼を受けた成人は64人です。40年前、1977年の統計では121人でしたので、半数に減っています。 本日のテキストは約2千年前のペンテコステの事件です。ペトロが説教しますと3千人が洗礼を受けました。この時は世界中から信仰深いユダヤ人がエルサレム神殿詣でに来ていたのですから、現代の私たちの教会が行う洗礼とは比較できません。 ペンテコステとは教会が誕生するという特別なスタートですから、神様の方でも大がかりな「打ち上げ」を準備されていたのです。 ロケットを宇宙に打ち上げるには、大量の燃料を一挙に燃やして推進力を必要とするように、教会を世界に打ちあげるには大デモンストレーションが必要でした。 私たちの教会では、救霊、福音伝道、教会運営のために、そして軌道修正のために時々エンジンをふかしています。これらの燃料はすべてキリストが遣わしてくださる聖霊なる神様の力です。 もっと燃料を補給してくださいと、主イエスに祈りましょう。 Mon, 27 May 2019 00:10:00 +0000 40日間の特訓(使徒言行録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190527 no 2019 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 (使徒言行録1章3節) 十字架から復活された主イエスは、エルサレムとガリラヤで使徒たちに現れ、御自分の体である教会を建てるために、40日にわたる特別教育をされました。彼らはこれから世界中に、主の復活と、罪の赦し、主の再臨という福音を宣べ伝えるのです。 40日間の授業の内容は、心躍るような、キリストのすばらしい救いの恵みでした。さらに「未来」を、神様がどのようにデザインされているかという、神秘的なご計画も伝授されました。 神様はこれから使徒たちを用いて、すばらしい神の国を造られるのです。彼らは目を輝かせてこの特訓を受けたことでしょう。 さて、私たちの生きる目的は「神の栄光を現す」ことですが、「栄光を現す」特別な仕事があります。それは献身をして牧師、伝道者、信徒説教者になることです。 そのためには神学校や神学研修所などで、特別な学びと修業が必要です。この訓練によって、通常よりはるかに深く聖書を学び、神様の御心を知ることができますから、心躍るような毎日です。あなたもこの仕事にチャレンジしてみませんか。 Sun, 26 May 2019 00:10:00 +0000 憐れみの泉なるイエス・キリスト(ヨハネによる福音書 5章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190526 no 2019 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。…イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 (ヨハネによる福音書5章6節~8節) 羊の門の傍らにベトザタと呼ばれる池があり、その周囲に病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など、大勢が横たわっていました。それは、その池の水が動くことがあり、その時、真っ先に水に入る者はどんな病でも癒やされるという「言い伝え」があって、そのような迷信に一縷の望みをかけていたからです。 しかし、ここで問題は、力のある者が第一にその恵みに浴することができる、厳しい競争が繰り広げられていて、そこには憐れみはなく、出遅れた者は敗北者のように、いつも天を仰ぎ、やるせない思いに突き落とされていたということです。 主イエスは、38年間、敗北し続けてきた名もない人に目を注がれ、「良くなりたいか」とおっしゃいました。大勢の中から、特にこの人に目を注がれ、病を癒やされた理由が何だったのか、一切分かりません。ただ一つ言えることは、今、このように信仰に導かれている私たちに対しても、同じように関心を持たれ、特別に目を注がれ、救いに導いてくださったということです。私たちにとって主イエスこそ憐れみの泉です。 Sat, 25 May 2019 00:10:00 +0000 御翼の陰に(詩編 57編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190525 no 2019 憐れんでください 神よ、わたしを憐れんでください。 わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします。 (詩編57編2節) 57編は表題(1節)から分かるように、ダビデがサウルの追跡の手を逃れて洞窟に潜んでいたときの詩です。そこに、サウルがやってきました。詩人は追い詰められてどこにも救いを見いだせず、神に頼る以外になくなった状態に置かれています。そのとき、詩人は神の憐れみを求めます。 新改訳聖書は「御翼の陰に」と表現しています。雛が親鳥の翼の陰に身を潜めるように、詩人は神の憐れみを求めて神を避けどころとします。神を呼び求める者には、何事も成し遂げてくださる神がおられます。 また、詩人は「災いの過ぎ去るまで」と言います。この危機がいつまで続くのか分からない中で、祈りに応えて神が救ってくださるとの確信が与えられます。洞窟の暗闇の中で、曙の光を求めるようにです。「わたしは心を確かにします」(8節)と告白して、光の中で神の憐れみを確信します。 心を神に支えていただき、確かにしていただき、神に祈り求め、感謝するとき、神は確かに聞いてくださり、苦難の中から逃れる道を備えてくださいます。 Fri, 24 May 2019 00:10:00 +0000 神に依り頼めば恐れなし(詩編 56編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190524 no 2019 神の御言葉を賛美します。 主の御言葉を賛美します。 神に依り頼めば恐れはありません。 人間がわたしに何をなしえましょう。 (詩編56編11節~12節) 56編の表題から、ダビデがサウルの手を逃れてペリシテの敵陣に入り込んで、捕えられて殺されそうになったときの詩であるとわかります。サウルとペリシテ人という二つの敵に囲まれたとき、詩人は神に憐れみを願い、依り頼みます。この状況から逃れるには神に頼る以外にはありません。神はこの苦難をご存じです。状況は敵に囲まれていたとしても、神はわたしを見捨てられないと信じるとき、人は安心感を得て、神を賛美します。 詩人は涙を流しながら、「神よ、わたしを憐れんでください」と祈ります。状況は敵に取り囲まれていますが、それは、ただ敵の攻撃から救い出してくださいとの祈りではないでしょう。彼は、心の奥底で、人を恐れてしまう自分、神に依り頼めない自分がいることを知って、自分の魂の救いを願うのです。 そのとき、彼は神を呼び求めます。目には見えなくとも、わたしを救い出してくださる神はわたしの味方だと悟るのです。神の御名を呼び、神に依り頼めば恐れることは何もありません。この世を支配する死さえも、打ち破らせてくださいます。 Thu, 23 May 2019 00:10:00 +0000 あなたの重荷を主にゆだねよ(詩編 55編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190523 no 2019 あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。 主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。 (詩編55編23節) 詩人は襲いかかる災いと恐れの中で主に嘆き求め、「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください」と、そこからの救いを祈り始めます(2節)。 詩人ははるか遠くに飛び去りたい思いですが、それでも都に留まり続けます。そこには不法と災いと労苦が満ちています。特に詩人にとっての問題は、自分を襲ってくるものが、敵からではなく、自分の親しく交わっている人びとからのものだったことです。しかし、神を呼び求めると、神はわたしの声を聞いてくださり、わたしの魂を贖い出し、平和を守ってくださる、と語ります。詩人は、神に重荷をゆだねることの大切さを確信します。 私たちの周りには避けて通ることのできない苦しみがいたるところにあります。また、心打ち明けた友に裏切られることもあるかもしれません。しかし、神はご自分に従う者に目を注いでくださいます。神に重荷をゆだねるなら神は私たちを支えてくださり、見捨てられることはありません。私たちは主に自分の心を明け渡して、主に望みを置く信仰に歩むことを願います。 Wed, 22 May 2019 00:10:00 +0000 主はわたしの魂を支えてくださる(詩編 54編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190522 no 2019 見よ、神はわたしを助けてくださる。 主はわたしの魂を支えてくださる。 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。 (詩編54編6節~7節) この詩編の3節から5節で、詩人は神に敵の手から逃れられるように懇願しています。そして、6節から9節で敵の手の災いと苦難から救い出されることの確信と、感謝を述べています。状況は詩人にとってはまさに危機的で、その中からでも救い出してくださるとの確信を持って神に懇願しています。自分の力に頼らずして、神の救いの導きだけを頼りとしています。 その詩人は、神がわたしを助けてくださること、わたしの魂を支えてくださることを、確信を持って告白します。また、詩人は、わたしを陥れようとする敵に災いを報い、彼らを絶やしてください、と祈ります。一見すると聖絶を願っているように見えますが、実際、ダビデはサウル王を殺す機会があっても手を下すことはしませんでした。 私たちは主イエスに罪赦された者ですから、敵の絶滅は願いません。「『復讐はわたしのすること。わたしが報復する』と主は言われる」と教えられています(ロマ12章19節)。この神に信頼して、愛をもって神にお委ねする者になりたいと願います。敵は外にではなく、むしろ魂の内側にあるものですから。 Tue, 21 May 2019 00:10:00 +0000 善を行う者はひとりもいない(詩編 53編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190521 no 2019 神は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 だれもかれも背き去った。 皆ともに、汚れている。 善を行う者はいない。ひとりもいない。 (詩編53編3節~4節) 53編は14編と同じ詩編です。同じ詩編が重複して聖書に残されていることは、この詩編が重要であるからでしょう。そして、パウロは、ローマの信徒への手紙3章10~12節で引用しています。そこでは「いない」という言葉が5回用いられ、善を行なう者が「いない」ということが強調されています。 詩編53編では、人間の罪深さの現実が語られています。その人間の現実を神は天から御覧になり、「目覚めた人、神を求める人はいないか」と探されます。しかし、神を求める人はいない、誰もが神に背を向け、皆が汚れている、と語られています。例外なく罪を犯し、神の御心を求めようとしない、人間の全的堕落が指摘されています。聖書の語る罪とは、神に背を向けていること、神の方向から的外れな方向を向いていることです。 しかし、そのような的外れの人間を、神は愛してくださり、御子イエス・キリストを私たちにお与えくださいました。パウロは語ります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3章24節)。 Mon, 20 May 2019 00:10:00 +0000 神への信頼と感謝(詩編 52編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190520 no 2019 わたしは生い茂るオリーブの木。 神の家にとどまります。 世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。 あなたが計らってくださいますから とこしえに、感謝をささげます。 御名に望みをおきます あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い あなたの御名に。 (詩編52編10節~11節) 詩編52編は、悪事を働く者と神に信頼を置く者とを対比させています。表題(1、2節)から分かることは、ダビデがサウル王から逃れてアヒメレクのところに行ったことです。ですから、3節の「力ある者」とは、サウル王を指していると思われます。その彼は、悪事を好み、人を破滅させるような言葉を語ります。しかし、神はその者を裁かれることが語られます。このことを見て、神に従う人は神を畏れます。 詩人は、「わたしは生い茂るオリーブの木」と言います。まだ神殿も建てられていない時に、神に信頼し、慈しみに依り頼み、神の家を離れることなく礼拝を守る者には、生い茂るオリーブの木のように繁栄が与えられるのです。ダビデも犯した罪が赦され、贖われた者としての感謝と喜びがあります。 私たちの目に見える現実は、力ある者が悪事を誇り、欺く舌を好む者が権勢を誇っています。しかし、その現実にのみ込まれてしまう必要はありません。主イエスに信頼し、望みをもって礼拝し感謝する者は、神によって祝福され、御国への招きに入れていただけるのです。 Sun, 19 May 2019 00:10:00 +0000 あなたがたが互いに愛し合うならば(ヨハネによる福音書 13章31-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190519 no 2019 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 (ヨハネによる福音書13章34節) レビ記19章18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟が既にあります。そうであるならば、なぜ「互いに愛し合いなさい」という主イエスの掟が新しいものとなるのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が付け加えられている点にあります。レビ記によれば、自分の力で隣人を愛しなさいとなり、これは罪人には到底、守ることはできません。 主イエスが「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、ご自身で言われたその通りに、十字架の犠牲を通して神の愛を示してくださいました。従って、弟子たちは律法を成就された主イエスの恵みによって、真の愛を実践することができます。愛は十字架から注がれるのであり、愛の源は神だからです。ということは、私たちが再生しなければ、本当の意味で互いに愛し合うことはできないことになります。 主を頭として主の晩餐にあずかる共同体が、互いに仕え、互いに愛し合い、聖霊によって一致するとき、教会が建て上げられ、世に福音が宣べ伝えられます。 Sat, 18 May 2019 00:10:00 +0000 わたしを洗ってください(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190518 no 2019 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。 わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。 (詩編51編9節) 詩編の中でも、特によく知られているものの一つで、ある人は「途方もない詩編」と呼んでいます。そう呼ばれる理由は、いろいろな意味で時代を越えており、誰もが共感する普遍性を持っていて、誰にも当てはまる共通性を持っているからです。 罪の恐ろしいところは、それが罪であると知っていたとしても、たいしたことはあるまいと思ってしまうことです。ダビデも、「それはあなたです」と預言者ナタンから指摘されるまで、自分のことだと思ってもいませんでした(サム下12章)。しかし、良心を取り戻すと激しい恥意識が襲ってきました。何もかもを壊してしまうほどの大きな罪であることがわかったからです。贖いのために神が求められるならどんなことでもするつもりでしたが、彼は人の働きが役に立たないことも知っていました。 神が清めてくださらなければ、完全に清くはなりません。なぜなら、赦しは神が与えるものだからです。恥意識はなかなか消せるものではありませんが、「雪よりも白くなるように洗ってください」と祈るとき、神の平安が真実に、確実に与えられます。 Fri, 17 May 2019 00:10:00 +0000 形式ではなく心から(詩編 50編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190517 no 2019 「告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。 それから、わたしを呼ぶがよい。 苦難の日、わたしはお前を救おう。 そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」 (詩編50編14節~15節) 49編は知恵文学のようでしたが、50編は「説教」を思わせる雰囲気を持っています。詩編は賛美であると同時に、祈りであったり、教訓であったり、説教であったりして、神殿に来る人を教える役割を持っていました。 神が責めておられるのは、形式的に犠牲を献げ、表向きは敬虔であるように見えるのですが、実態がそうではない人です。特に17節以下で、神の民に本来あってはならない行動が数えあげられます。 それは心の奥底で、神の諭しや神の言葉、つまり律法を憎んでいることです。道徳的にいい加減な者と大いに語り、盛り上がります。盗みや姦淫に加わって行くのです。発する言葉は罪を責められないように気をつけながら、しかし、実のところでは罪を楽しんでいる姿です。それらは、真実には、神に知られています。 神への告白は口に出すだけではなく、心からなされるものでなければなりません。また神に対する心からの感謝が必要なのです。そうしてなされることを、神は喜んでくださるのです。「わたしは神の救いを示そう」(23節)。 Thu, 16 May 2019 00:10:00 +0000 人を真に贖うのは神(詩編 49編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190516 no 2019 陰府に置かれた羊の群れ 死が彼らを飼う。 朝になれば正しい人がその上を踏んで行き 誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。 しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。 (詩編49編15節~16節) この詩編は、4節に「わたしの口は知恵を語り、わたしの心は英知を思う」と言っていますから、「知恵の詩編」とでも呼ぶと良いのでしょう。 しかし、この詩編が全体的に暗く、否定的に聞こえるのは、人間の死を取り扱っているからです。10節の「人は永遠に生きようか」という問いは必然的に「違う」という答えになります。 お金持ちが死を逃れることはなく、死は誰にも平等に訪れます。神に身代金を払って死をキャンセルすることもできないし、どんな大金があっても魂を贖うには全く足りないと言われます。 この事実を逆転させるのが「しかし」という言葉です。これは、かなり強い作用をする言葉で、先に述べたことを完全に打ち消します。「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」。人にはできなくても、神にはできるのです。 たとえ肉体は死んだとしても、神はこのわたしを贖ってくださいます。陰府からでも取り上げます。ですから、「自分の力」や「自分の口の言葉」(14節)に頼るのではなく、神に信頼を置いて生きるべきです。 Wed, 15 May 2019 00:10:00 +0000 神の都の城壁とは(詩編 48編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190515 no 2019 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。 後の代に語り伝えよ この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 (詩編48編14節~15節) イスラエル周辺の諸民族は考えていました。ずっと北に万年雪で覆われているものすごく高い山があり、雲も突き抜けるその山こそ、神の世界につながる天界の入口だと。 ところが、この詩編の作者は、そうではなくエルサレムこそがそうなのだと言います。エルサレムは、標高は海抜7百メートル強で、周りも同じような高さですから、小山のようにしか見えません。けれども、詩編の作者にとり、真の神の臨在に出会える場所であるのはエルサレムだけです。だからここだけが神の都なのです。集まって来た礼拝者たちは、その城郭や城壁を思うように促されています。 新約の時代に生きている私たちは、構造物にそれほど関心がないかもしれませんが、作者が言いたいことは明白でしょう。神ご自身が守りであり城壁だと意識するように促されます。 城壁の内にいる神の民は「羊」で、弱く傷つきやすいのですが、主に守られている限り、彼らはとても強いのです。真の神ご自身の守りと保護が与えられているからです。主の御守りに囲まれて、きょうの歩みが支えられますように。 Tue, 14 May 2019 00:10:00 +0000 手を打ち鳴らして歌う(詩編 47編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190514 no 2019 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。 神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。 (詩編47編2節) 「ジュネーブ詩編歌」をCD化した「バッハ・コレギウム・ジャパン」の賛美で、心に残る賛美の一つと言われるのがこれです。歌い方にも理由がありますが、荘重で静かな印象のある詩編歌の中では、珍しいぐらいに動的だからです。 詩そのものも、動きのある時期のものではないかと考えて、エルサレム神殿における一年ごとの祝祭のことだとする主張もあります。ただ、はっきりとした根拠があるわけではありません。むしろ、はるかに広い内容であり、預言の雰囲気を醸していることに注目すべきだと思います。 この詩編の背景はソロモンが神殿建築を完成させ、エルサレムを神の町とするために契約の箱を神殿に運び込んだことです。この詩編はとても福音的です。それは、集められる諸国の民が一つとされ、「アブラハムの神の民となる」(10節)ことに現れています。このことはすべてイエス・キリストによって実現したことです。主イエスへの信仰によって私たちも「アブラハムの神の民」に加えられました。 救いを知るすばらしさは、手を打ち鳴らして神を喜ぶほど嬉しいことです。この喜びに加わりましょう。 Mon, 13 May 2019 00:10:00 +0000 主よ、来てください(コリントの信徒への手紙一 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190513 no 2019 マラナ・タ (主よ、来てください)。 (コリントの信徒への手紙一16章22節) 「マラナ・タ(主よ、来てください)」は初代教会のユダヤ人たちの祈りの言葉です。そのままアラム語で聖書に保存されました。キリストの再臨による世の終わり、究極的な救いを待ち望む祈りです。 主キリストの十字架によって、救いの御業はすでに完成し、信仰者は神の恵みの支配の中にいます。しかし、今なお暗闇の世の支配者たち(悪霊)は、食いつくすべきものを求めて歩き回っています。 主の再臨において、神の国は完成へと至ります。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21章3、4節)。最後の敵として悪魔と死が滅ぼされ、主を信じる者には朽ちることのない新しい栄光の体が与えられます。主イエスが再び来られるという喜びと希望の中で、マラナ・タと私たちは祈りつつ生きるのです。 「もはやいかなる悪もなく、いかなる善も隠されず、すべてにおいてすべてであられる神への賛美にすべての時が用いられるかの至福は、どんなにか大きいことであろう」(アウグスティヌス『神の国』)。 Sun, 12 May 2019 00:10:00 +0000 あなたはわたしの羊なのか(ヨハネによる福音書 22-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190512 no 2019 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「…しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」 (ヨハネによる福音書10章24節~26節) 「あなたはメシアなのか」という質問に対し、主イエスは、わたしがメシアであるのかどうかを問う前に、あなたがたは何者なのか、わたしの羊なのか、そうでないのかと、問い返されています。そして「わたしが父の名で行う業を見て信じることができないあなたたちこそ、わたしの羊ではない」と断言されました。 彼らは、ラザロの復活を見ても信じることはできませんでした。神の選びがなければ、決して主イエスを信じることができないからです。信じるということは、選ばれた者に与えられる、特別な神の賜物なのです。 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。主イエスは選ばれた者を羊と呼ばれます。彼らは、羊のように良き牧者の手で守られ治められることを望み、神の御前にこうべを垂れ、以前の獣のような本性を放棄し、服従する者に変えられるからです。 私たちは、弱い羊です。ですから、ただ牧者の声を聴き分けて、牧者によって与えられる恵みと守りだけに、よりすがりながら歩まなければなりません。そこにこそ、私たちの永遠の命の根拠があります。 Sat, 11 May 2019 00:10:00 +0000 死を滅ぼすキリスト(コリントの信徒への手紙一 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190511 no 2019 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。 (コリントの信徒への手紙一15章25節~26節) いつの世でも、死は人間にとって解決不能の最大の問題です。愛する人の死ばかりでなく、自分にも必ず訪れる死という現実の前に、人間は無力です。 死を前にして絶望するしかない私たちに、主キリストの御言葉の光が射し込みます。「最後の敵として、死が滅ぼされます」。私たちを滅ぼすはずのものであった死がキリストによって滅ぼされると言うのです。死を滅ぼすためにこそ、キリストはこの世に来られたからです。 キリストは、罪とその呪いの死を私たちに代わって引き受けて、死のとげを抜き取ってくださいました。そして3日目に復活され、死を滅ぼしてくださいました。 キリストを信じる私たちのこの肉体も、やがて朽ちて死を迎えます。しかし、キリストにある者の死は、もはや神の裁きへの入り口ではなく、復活の命への通過点です。終わりの日に、死はキリストの復活の勝利に呑み込まれ、完全に滅ぼされます。 ですから、最後の敵である死が滅ぼされる日まで、私たちは、復活されたキリストの勝利の力に支えられて主の業に励みます(58節)。 Fri, 10 May 2019 00:10:00 +0000 預言の賜物を求めなさい(コリントの信徒への手紙一 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190510 no 2019 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。 (コリントの信徒への手紙一14章1節) コリント教会の混乱の要因の一つに、異言の問題がありました。異言によって集会が無秩序になったり、異言を語れる人が高慢になり、異言を語れない人を軽蔑することが起こっていたのです。 異言は、理性によって理解できない言葉です。聖霊の賜物である異言も、その言葉の意味がわからなければ不快な騒音にすぎません。信じていない人は、教会は変な人の集まりであると思うでしょう。異言は、信じていない人びとをいよいよ信じない者にしてしまいます。ですからパウロは、「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」と命じます(13節)。 一方、預言とは、神の御言葉を預かり語ることです。神の言葉を知性によって理性的に教え、教育的に語る賜物が預言の賜物です。今日の説教や奨励に当たるものです。これによって、礼拝に来た人びとが神の言葉によって罪を指摘され、神の御前にひれ伏すことが起こります(24、25節)。 私たちも、「人を造り上げ、励まし、慰め」(3節)、「教会を造り上げる」(12節)預言の賜物を熱心に追い求めようではありませんか。 Thu, 09 May 2019 00:10:00 +0000 愛によって賜物を用いる(コリントの信徒への手紙一 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190509 no 2019 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 (コリントの信徒への手紙一13章2節~3節) 12章で、種々の賜物はキリストの体を建て上げるためのものであることが教えられました。13章では、それがどんなに優れた賜物であっても愛を伴わなければ無に等しいと教えられます。 いつの世でも、財産を貧しい人に施すことは美徳であり、名誉のために命を投じることは宗教的に最も崇高な行為と目されます。しかし、パウロは、それさえも愛がなければ何の益もないと、愛の絶対的な価値を語ります。 私たちの中には一つの錯覚があります。愛の美しさが語られ、演じられるとき、どこかで自分もそのような愛に生きることができるという思いです。しかし、パウロの語る愛は、神に背いた自己中心的な私たちの中からは絶対に生まれてきません。パウロの語る愛は、ガラテヤの信徒への手紙5章22節で、聖霊が結ぶ実の第一にあげられている愛だからです。 神は、御子イエス・キリストにおいてこの愛を私たちに示してくださいました(1ヨハ4章10節)。この愛をいただいているのですから、この愛によって与えられた賜物を教会と隣人のために用いようではありませんか。 Wed, 08 May 2019 00:10:00 +0000 教会に生きる喜び(コリントの信徒への手紙一 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190508 no 2019 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 (コリントの信徒への手紙一12章26節~27節) 救われた最初の頃、関心の大部分は、自分の救いに関することでした。しかし、信仰生活が進むにつれ、家庭、仕事、世界と将来のことなど、どれも教会を抜きにしては考えられなくなりました。 教会は聖霊の賜物によって成り立つキリストの体であると、パウロは語ります。教会には実に多くの賜物を持った人がいます。それらの賜物を持つ人びとによって、教会は一つの体に組み合わされ、建て上げられていきます。 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ…」と言われます。一人の人が苦しむとき、キリストの体である教会も共に苦しみ、共に祈り、賜物に応じて手を差し伸べます。一人が尊ばれるとき、共同体全体が共に喜びにあずかります。教会がキリストの体であり、キリストが満ちておられる場だからです(エフェ1章23節)。キリストにある一致と調和のうちに互いに重荷を負い、助け合う共同体、これが教会であり、教会の魅力です。 教会で培われたこの信仰は、世にあって助けを必要としている隣人に、キリストにあって仕えることを惜しみません。 Tue, 07 May 2019 00:10:00 +0000 自分をよく確かめたうえで(コリントの信徒への手紙一 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190507 no 2019 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。 (コリントの信徒への手紙一11章27節~29節) 貧しい者への愛と配慮の欠如によって、コリント教会の主の晩餐は混乱していました。パウロは、主の体をわきまえずに飲み食いしてはならないと語ります。 聖餐において、「自分をよく確かめたうえで」という御言葉が朗読されます。よく確かめる(吟味する)とは金銀のような鉱物の精錬を表す言葉です。 聖餐のたびに自分はふさわしい者だろうかと私たちは問われ、心を痛めます。主がここで求めておられるのは、完全な清さではなく、悔い砕かれた心です。神の御前に望みのないことを認め、キリストの十字架にのみ依り頼み、聖霊の御力によって清められることを切望しているのかが問われているのです。 信仰の弱さに悩み、すぐにつぶやいてしまう私たちです。しかし、自分の不信仰を嘆き、なすべき準備の不足を悟って悩み、不義を離れたいと心から願っているならば、それこそがキリストへの信仰のしるしです。 聖餐は、そのような私たちを慰め、力づけるものです。神の民と共に、この恵みを味わい、分かち合う聖餐にあなたも招かれています。 Mon, 06 May 2019 00:10:00 +0000 悪霊の仲間にならず(コリントの信徒への手紙一 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190506 no 2019 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。…主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。 (コリントの信徒への手紙一10章20節~21節) 8章で偶像に供えられた肉のことが語られ、10章では偶像礼拝に対する警告が語られます。コリント教会に、偶像の神などいないのだから供え物の肉を食べても汚れることはないと言って、偶像の神殿で偶像を礼拝する食卓についている人がいました。 偶像そのものに力があるわけではありません。見抜くべきことは、偶像への献げものは、神ではなく悪霊への献げものになるということです。偶像の背後には、それを用いて人を支配し、破滅に至らせようとする悪霊の存在があるからです。悪霊に供え物を献げることは、悪霊を礼拝し、悪霊を喜ばせ、悪霊の仲間になることです。 これは、異教の葬式や法事、その食事会などに参加してはいけないということではありません。けれども、キリストの食卓(聖餐)にあずかりながら悪霊の食卓にあずかることはできないと、心に留めましょう。偶像の王国のような日本ですが、悪霊の仲間になることのないよう、キリストの御力と知恵に依り頼みましょう。「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」(1ヨハ4章4節)。 Sun, 05 May 2019 00:10:00 +0000 使命の回復(ヨハネによる福音書 21章1-19節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190505 no 2019 ペトロは、イエスが3度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。…イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」 (ヨハネによる福音書21章17節) 復活の主は、ガリラヤ湖畔に現れ、炭火をおこし、魚とパンの食卓を整え、弟子たちを招かれました。食事が終わると、ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われましたが、決して他の弟子より大きな愛を求めているということではありません。 イエスさまがペトロに個人的に語った最後の言葉は、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことを知らないと言うだろう」でした。それに対してペトロは、決してあなたを裏切ることはありませんと豪語しましたが、その直後に失敗してしまいました。 主が3度も同じ質問をされた時、ペトロは3度主を否認してしまったことを、さすがに思い起こさずにはいられなかったでしょう。それは封印して消し去りたい記憶でした。つまり、主はペトロに3度、愛の宣言をさせることによって、あの記憶を完全に癒やそうとされました。そして、ペトロに言われた個人的な最後の言葉を「私の羊を飼いなさい」という御言葉に代えてくださり、ペトロが使命に立って一歩踏み出すことできるようにしてくださいました。 Sat, 04 May 2019 00:10:00 +0000 福音のためなら(コリントの信徒への手紙一 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190504 no 2019 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 (コリントの信徒への手紙一9章23節) パウロはここで、律法の下にあるユダヤ人、律法をもたない異邦人、教会内の弱い人に対する、キリスト者の自由の用い方について語ります。 キリスト者は、律法を完全に実行されたキリストのおかげで律法の支配から解かれ、自由な者とされています。しかしパウロは、この自由を放棄して、進んで奴隷のようになったと語ります。「すべての人に対してすべてのものになりました」(22節)。 なぜパウロは、このような生き方を選び取ることができたのでしょうか。そのようにせざるを得ないように彼をつき動かし続けたものとは一体何なのでしょうか。 「できるだけ多くの人を得るためです」「何とかして何人かでも救うためです」「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(19~23節)。これがパウロの答えです。福音を広めるためなら罪や悪以外のことは、どんなことでもすると言うのです。 キリストによって罪から解放され自由な者とされた私たちです。ですからきょうもキリストの奴隷として、すべての人に仕えて生きる自由を選び取ろうではありませんか。幾人かでも救うために。 Fri, 03 May 2019 00:10:00 +0000 知識と愛(コリントの信徒への手紙一 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190503 no 2019 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 (コリントの信徒への手紙一8章1節) キリスト教信仰で、失われてはならないものは何でしょう。「神を知ること」。これに優るものはないでしょう。これなしに私たちの人生は空しく、その足もとの道を照らすものもないからです。 「偶像に供えられた肉」が、何か霊力のあるものではなくただの肉であるという「知識」も、私たちは神に教えられなければ理解できず、その道を誤りなく進むことはできません。けれども、その知識は、目的を実現させるための道具に過ぎません。その知識は、時に裁きのために用いられ、時に慈しみのために用いられるからです。 コリント教会では、その知識を裁きのために用い、その知識をまだ充分に理解できない者に「つまずき」を与えてしまうことが起こりました。パウロは、それに対して、その肉についての知識が兄弟をつまずかせるなら、彼をつまずかせないために「わたしは今後決して肉を口にしない」と断言しました。 信仰生活において大切にされるべきことは「正論」ではなく、人を造り上げる「愛」なのです。神を知る、それも愛の神として知ることは、何と幸いなことでしょう。 Thu, 02 May 2019 00:10:00 +0000 一つの体として(コリントの信徒への手紙一 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190502 no 2019 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。 (コリントの信徒への手紙一7章4節) この聖句は、互いが互いを奴隷のように従属させることを教えているのではありません。これは、互いがそれほどまでに「一つの体」(エフェ5章31節)であり、かけがえのない存在であることを示しています。 現実的には、それぞれ別の人格、別の体を持つ者が一つの体のように歩むことは容易なことではないでしょう。子どもの頃の運動会のときにした二人三脚を思い起こします。私たちは、相手と歩幅を合わせることの難しさを知っています。けれども、歩幅を合わせることが相手への配慮であり、慈しみであり、愛であることをも知っています。そして、相手が自分にそのような配慮を示してくれていると感じるとき、私たちは温かな思いになるものです。 何よりも、二人三脚の醍醐味は、ひとたび二人の息がぴったりと合って、一つの体のように並走し始めたときの大きな感動です。それは一人のときには味わえない大きな喜びです。人は、互いに愛し合うとき、とてつもなく大きな喜びを得ることができます。そのような交わりが与えられることは、何と幸いなことでしょう。 Wed, 01 May 2019 00:10:00 +0000 主は体のために(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190501 no 2019 主は体のためにおられるのです。 (コリントの信徒への手紙一6章13節) 以前、自分が何のために働いているのかは明らかだ、それは御言葉を届けることであり、「霊」の糧を届けることだと語り、説教が終わるや否や自分の部屋に入って、それっきり出て来なくなった牧師がいると、聞いたことがあります。 確かに、牧師の中心的な務めは人びとに御言葉を届けることであり、彼らに霊的な命を与えることです。 けれどももう一方で、私たち人は霊的な命(特別恩寵)だけで生きているのではありません。人は物理的な命(一般恩寵)によっても生かされています。人は、飲み物や食べ物の恵み、人びとからの慰めの言葉や優しい勇気付けなどによっても生かされているのです。 ヤコブ書にも、兄弟が食べ物や着る物に困っているときに「体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」とあり、言葉の励ましだけを与える者の愚かさが示されています(2章16節)。 キリスト者は、かけがえのない隣人の、その「体」の必要のためにも祈り、仕える必要があるのだと思います。 Tue, 30 Apr 2019 00:10:00 +0000 つきあって歩む(コリントの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190430 no 2019 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者…、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。 (コリントの信徒への手紙一5章9節~10節) わたしは、前任地で真言宗の住職と交わりを持たせていただいていました。わたしがお寺を訪ねることもあれば、向こうがこちらを訪ねてくださることもありました。 幾度か食事をする中で、〈宗教と街の人びと〉との関係について話し合ったりしました。「宗教が街の人びとから遊離している。どうしたらいいか、来てもらうには。いや、下りて行かなければ」。このような会話でした。 彼らと私たちは、一般的な意味において、その教えが街の人びとのためであり、彼らの救済のためであるという〈共通項〉を持っています。もちろん、私たちの言うキリストにある救済と、彼らが言う救済とはまったく異なるものです。主がこの世に与えてくださった真の救済は、ただお一人、主イエス・キリストのほかにはないからです。 しかし、それでも私たちは共通項を大切にする必要があるのではないかと思います。なぜなら、私たちは、その〈会話の場所〉を整えることなしに、まことの神について証しし、私たちの愛と慈しみの神を証しすることができないからです。 Mon, 29 Apr 2019 00:10:00 +0000 私たちは王なのか(コリントの信徒への手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190429 no 2019 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。 (コリントの信徒への手紙一4章8節) ナポレオン・ボナパルトは、「わたしの辞書には不可能という文字はない」と語気を強めました。はたして真実でしょうか。これは、私たち人間を、神とし「王」とする考え方ではないかと思います。 はたして人に不可能なことはないのでしょうか。人は、食卓に提供される1杯の飲み水も、みずみずしいレタスの一葉も、自ら作り出すことはできません。人には、不可能なことがあり、いや、不可能なことで満ち溢れているのです。 そのように不可能なことで満ち溢れている私たちが、どうしてきょうを生きることができるのでしょう。それは、私たちには、不可能を可能にしてくださる「王」がおられるからです。人に命を与え、あらゆる英知を与え、必要な力を与え、慈しみを注いでくださるまことの王がおられるのです。 なぜ私たちは、貧しく、弱くても大丈夫なのでしょう。それは今日、私たちが王の「街の中」で生かされているからです。まことの王であるお方が、どこにいるときにも私たちを守り、養ってくださっているからなのです。 Sun, 28 Apr 2019 00:10:00 +0000 信じる幸い(ヨハネによる福音書 20章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190428 no 2019 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネによる福音書20章29節) 主イエスは十字架にかけられ、死んでしまったはずでした。しかし、死んだはずの主イエスが鍵のかかっていた家の中に入り、弟子たちの真ん中に立っています。復活の主イエスは平和の挨拶をされ、穴の空いたご自身の手と脇腹を弟子たちにお見せになりました。しかし、トマスは、この場にいませんでした。 トマスは、自分の目で直接に釘跡を見なければ主イエスの復活を信じることはできないと言いました。私たちも、主イエスと直接会い、目の前で奇跡や癒やしの業を見たいと願い、「この目で見たら信じられるのに」と思ってしまうときがあります。 しかし、主イエスの十字架は、主イエスと直接出会った人びとにだけ関係するものではありません。今も、聖書を通して、主イエスの十字架の釘跡があなたの前に差し出されています。主イエスは、鍵をかけて恐れ続けているような私たちの心の真ん中に立って、「平和」を宣言してくださいます。 肉体の目では見えなくとも、主イエスを信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白できる者に、主イエスは「幸い」だとおっしゃいます。 Sat, 27 Apr 2019 00:10:00 +0000 植える者と水を注ぐ者とは一つ(コリントの信徒への手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190427 no 2019 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。 (コリントの信徒への手紙一3章8節) 「うちの牧師、頑張っているんだけど、もう少し○○だったらいいのに」と、心に思うことはないでしょうか。お気持ちはわかりますが、神の国では、牧師もまた人間であり、限りのある存在です。 きょうの聖句は、興味深いことを教えています。聖書は、前任牧師(パウロ)と後任牧師(アポロ)は、二人で「一つ」だと言うのです。一つとは、「一体である」、「一つのチームである」という意味です。これは、二人が全く個別の働きではなく、連続した時間の中で、チームとして働いていることをあらわしています。 このことから、私たちは一人の牧師にすべての働きを求めるべきではないことを知るでしょう。 確かに主は、一人ひとりの牧師にかけがえのない固有の賜物を与えてくださっています。しかし、それは「部分」であって、すべてのものを所有しているわけではありません。牧師も、そして私たち一人ひとりも、体の小さな一部分に過ぎないのです。 それゆえ、主の教会に求められている最も大切なものは、互いに補い合い、助け合って主の宮を営むことでしょう。 Fri, 26 Apr 2019 00:10:00 +0000 自然の人は受け入れない(コリントの信徒への手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190426 no 2019 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。 (コリントの信徒への手紙一2章14節) 私事ですが、わたしはかつて無神論者としてヨーロッパの街で暮らしていました。その街は、裏路地を百メートルも進むと教会があらわれる、そのようなところでした。 そして、わたしが最も嫌いな場所は、その教会でした。なぜ嫌いだったのか。それはそこが「神頼み」をする場所であり、自分の労苦を放棄する場所に見えたからです。 放縦で無知な生活を送り、自分自身の名を上げることにすべてを注いでいた当時のわたしの視野に唯一入っていないもの。それは「神」でした。 なぜそのようなわたしの視野に神が入ってきたのか。それは、神自らが近づいて来られたから!神自らが近づき、わたしに語りかけてくださったからです! 神はわたしに、時に自然界のまばゆい星々の輝きを通して語りかけ、また時に1冊の書物を通して語りかけ、そして、やがて神は、わたしを教会堂の中へと導いて、聖書を通して語りかけてくださいました。 主のかつての御業を思い起こして、御名を心から賛美いたします。 Thu, 25 Apr 2019 00:10:00 +0000 恵みを数えて(コリントの信徒への手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190425 no 2019 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 (コリントの信徒への手紙一1章4節~5節) わたしは家族で、たまにレストランに出かけます。もしそこでジュースを注文して、運ばれてきたジュースがコップの10分の1ぐらいしか入っていなかったら、どう思うでしょう。「どうなっているの?何でこれだけしか入っていないの?」と思うのではないでしょうか。 このジュースを人に譬えてみるなら、主イエスはこの10分の1をどのように見るのでしょうか。この世の国と主イエスの国では見え方が違うのです。パウロはここで、コリントの信徒たちを「感謝」のまなざしで見ています。 当時のコリント教会を肉の目で見るなら、とても感謝の言葉は出てこない状態でした。しかし、パウロは感謝の言葉を述べています。どうしてでしょうか。それは、「足りないところ」ではなく、そこに確かにある「恵み」のほうを数えることができたからです。彼には、10分の1しか入っていないのではなく、10分の1の、けれども、すばらしいかけがえのないものが入っていると見えているのです。 きょう、私たちも、出会う人びとを主イエスのまなざしで見ることができますように。 Wed, 24 Apr 2019 00:10:00 +0000 主よ、御もとに(哀歌 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190424 no 2019 主よ、あなたはとこしえにいまし 代々に続く御座にいます方。 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ 果てしなく見捨てておかれるのですか。 主よ、御もとに立ち帰らせてください わたしたちは立ち帰ります。 わたしたちの日々を新しくして 昔のようにしてください。 (哀歌5章19節~21節) 「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」とあり、哀歌の最後は絶望で終わっているように思えます(22節)。けれども、哀歌は祈りに始まり祈りに終わっています。 契約の恵みに頼るほかすべての望みは絶たれました。1節の「わたしたちにふりかかったこと」は、すべて私たちの罪から出た結果で、主の激しい憤りを受けたものでした。それでも、イスラエルの民は、「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば」という契約の言葉に期待しています(申30章2節)。 この契約に依り頼むとき、最後の嘆きの言葉は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」というメシア詩編に重なってきます。主イエスが叫ばれた十字架の言葉は、詩編22編のメシア預言の成就でありました。哀歌は「なにゆえ」との嘆きから始まります(1章1節)が、主に期待する祈りの叫びとして、キリストに結ばれていると言えるでしょう。十字架のキリストを仰ぐことへと導かれます。 Tue, 23 Apr 2019 00:10:00 +0000 主の憤りは極まり(哀歌 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190423 no 2019 主の憤りは極まり 主は燃える怒りを注がれた。 シオンに火は燃え上がり 都の礎までもなめ尽くした。 わたしたちを苦しめる敵が エルサレムの城門から入るなどと 地上の王の誰が この世に住む誰が、信じえたであろう。 (哀歌4章11節~12節) バビロン捕囚で受けた神からの呪いは激しく、想像を絶するものがありました。「山犬ですら乳を与えて子を養うというのに、わが民の娘は残酷になり、荒れ野の駝鳥のようにふるまう」(3節)。「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日、それを自分の食糧としたのだ」(10節)。 しかし、これは、「もし主の戒めを守らないならば」と、あらかじめ宣告されていたことでした。「あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主が与えられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘らの肉をさえ食べるようになる」(申28章53節)。 信じがたい悲しいことですが、子どもを虐待して飢え死にさせたり、暴力をふるって死なせたりすることは、現代の私たちにも起こっています。人類の罪深さがもたらす悲惨さは、日本社会にも表れています。 そこで、4章最後の言葉が、救いへの希望となります。「おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない」(22節)。 Mon, 22 Apr 2019 00:10:00 +0000 主の慈しみは深く(哀歌 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190422 no 2019 主は、決して あなたをいつまでも捨て置かれはしない。 主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。 (哀歌3章31節~33節) 「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」と歌って始まる3章は、それでも主に向かっていく者の希望に満ちています。これも契約の恵みでした。 「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(申30章1~3節)。 それゆえ信仰者は、主がわたしを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない、と知っています。「それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」と記されているからです(申8章16節)。そして主を賛美します。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(22、23節)。 Sun, 21 Apr 2019 00:10:00 +0000 苦しみから栄光へ(ルカによる福音書 24章13-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190421 no 2019 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 (ルカによる福音書24章25節~26節) 主イエスが復活された日の夕方のこと、2人の弟子たちはエルサレムを離れてエマオという村へ歩いていました。彼らにとって、主イエスに望みをかけていた日々はすでに過去の出来事となっていました。 彼らは、主イエスが人びとの手に引き渡され、十字架刑に処せられたことの意味を理解できませんでした。確かに、主イエスの十字架は人間の目で見る限りにおいては「苦しみ」と「死」であり、「敗北」を意味します。十字架は彼らに失望を与える出来事でした。 しかし、主イエスの苦しみは、預言されていたとおり、人間の理解を超えて「栄光に入る」ことと結びついていました。主イエスの十字架にこそ、「喜び」と「命」、「勝利」があります。 私たちも、彼らと同じように、「物分かりが悪く、心が鈍く」、信仰の弱い者たちです。彼らは主イエスによって目が開かれ、心が燃やされました。私たちもまた「苦しみ」から、「神の栄光」を見ることのできる者へと変えられます。目が開かれ、心燃やされて、復活の主イエスをほめたたえて礼拝をささげましょう。 Sat, 20 Apr 2019 00:10:00 +0000 葬り(マタイによる福音書 27章57-61節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190420 no 2019 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 (マタイによる福音書27章59節~60節) キリストは十字架上で息をひきとられました。その遺体を引き取りに来た人がいます。アリマタヤのヨセフです。彼は総督であるピラトのところに向かい、遺体の引き取りを願い出ました。 キリストは十字架にかけられました。これは刑罰であり、不名誉な死に方です。その遺体を引き取ることは危険を伴うものですが、ヨセフは遺体を引き取り、墓を用意し、葬りました。キリストへの思いが危険を顧みないヨセフの行動となりました。 人が死んだら葬る。これは当たり前のことです。しかし、パウロは手紙の中で、この葬りが福音の一部であり、大切な出来事であったことを書き残しています(1コリ15章4節参照)。なぜでしょうか。それはキリストの葬りが復活へと向かうからです。キリストは死にて葬られましたが、そこで終わりではなく、復活されたのです。 墓は暗い所です。しかし、そこにキリストの光が差し込みます。私たちもやがて葬られます。墓に入ります。しかし、そこは復活の光に照らされたところなのです。 Fri, 19 Apr 2019 00:10:00 +0000 なぜわたしをお見捨てに(マタイによる福音書 27章45-56節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190419 no 2019 さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章45節~46節) 人びとの嘲りを受けながら、キリストは十字架におかかりになりました。神を信じる一人一人の罪を背負い、父なる神の御心に従いながら。その姿は壮絶なものです。キリストは十字架上で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。 キリストは十字架上で神に捨てられたのです。それほどの孤独を味わいました。真の神としての栄光の姿はここにはありません。そこにあるのは人としてあらゆる苦しみを体験されたお方の姿です。十字架上でその苦しみは頂点に達しました。キリストがここまで苦しまれたのは私たち一人一人のためでした。 キリストが十字架で孤独を背負ってくださいました。このキリストを信じるとき、私たちは神と共に生きる幸いを与えられます。それはキリストが孤独を背負ってくださったからです。キリストを信じる時、神に見捨てられることはないのです。神が私たちを離さない。あきらめない。私たちの罪はすべてキリストが十字架で背負ってくださったのです。 Thu, 18 Apr 2019 00:10:00 +0000 目を覚ましていなさい(マタイによる福音書 26章36-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190418 no 2019 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て…言われた。ペトロおよびゼベダイの子2人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 (マタイによる福音書26章36節~38節) 十字架が迫っています。キリストは人としてのあらゆる苦しみを体験されました。キリストは苦しみが大きいときにこそ、懸命にお祈りになりました。 ゲツセマネでキリストはおひとりで祈ります。しかし、その祈りは弟子たちを伴う祈りでした。無力で頼りない弟子たちです。裏切ることがわかっている弟子たちです。しかし、キリストは弟子たちに祈っていなさいと言うのです。祈りは1人で祈るだけでなく、共に祈ることを、キリストは十字架を前にして、弟子たちに示されました。 キリストの祈りは壮絶な祈りです。十字架にかかることは、このお方にとっても怖いことでした。その痛みは救い主として、人びとの罪を背負う痛みでした。壮絶な祈りの体験です。 キリストが苦しまれたとき、弟子たちは疲れて寝てしまいました。キリストの十字架に対して無理解でした。目を覚ましていることのできない弟子たちの姿。この姿を見る時、私たちと無関係とは思えません。しかし、覚えたいのです。寝てしまった弟子たちにキリストのまなざしが確かに注がれていたということを。 Wed, 17 Apr 2019 00:10:00 +0000 最後の晩餐(マタイによる福音書 26章26-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190417 no 2019 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイによる福音書26章26節) 十字架前夜の食事の席は、過越の祭りをお祝いする食事です。出エジプトの出来事に先立ち、神はイスラエルの民に約束を与えられました。それは、鴨居と柱に印をつけたイスラエルの家には災いをくださないという約束です。エジプトには大いなる悲劇が襲いましたが、この約束の故に、災いはイスラエルの家を過ぎ越していきました。 過越は神の約束の真実さと、奴隷状態であったイスラエルの人びとを主がその御手をもって解放してくださったことを覚える時です。そして、キリストは、私たちを罪の奴隷から解放するために十字架におかかりになりました。まさに、旧約の出エジプトは、新約においてはキリストの十字架によって成し遂げられました。 主イエスは、過越の食事を弟子たちとされました。なぜ主イエスは裏切ることがわかっていた弟子たちと食事をされたのでしょうか。これは主イエスの弟子たちへの愛の表れです。裏切るから見捨てるのではなく、裏切ることがわかっていても最後まで寄り添うお方。このお方のまなざしは、今を生きる私たちにも豊かに注がれています。 Tue, 16 Apr 2019 00:10:00 +0000 裏切り(マタイによる福音書 26章14-25節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190416 no 2019 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 (マタイによる福音書26章23節~24節) キリストは十字架への道を歩まれました。苦難への道のりです。その苦しみがよりはっきりしたのは弟子たちの裏切りが起こったときでした。 弟子たちはキリストにとってもっとも身近な存在です。生活を共にし、教えを受け、キリストからの多くの恵みと慈しみを受けていました。その弟子たちがキリストを裏切ろうとしています。 初めに裏切ったのはイスカリオテのユダでした。ユダは主イエスに敵対していた祭司長のところに行き、キリストを売るつもりであることを明らかにしました。お金で主イエスを売ったのです。 主イエスはわたしを裏切る者は不幸だとおっしゃいました(24節)。その裏切りが弟子から出ることをご存じでした。深い悲しみを覚えられたでしょう。弟子たちの裏切りを引き受けて、キリストは十字架に向かわれます。 ユダの裏切り。この裏切りは弟子の中から起こりました。キリストを信じるとき、私たちもキリストの弟子です。あらゆる罪が赦されていることに平安を覚えながら、ユダのようにキリストを裏切ることはないか、絶えず悔い改めたいのです。 Mon, 15 Apr 2019 00:10:00 +0000 王なるキリスト(マタイによる福音書 1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190415 no 2019 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。 「ダビデの子にホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」 (マタイによる福音書21章9節) キリストは王としてこの世界にお生まれになりました。クリスマスの物語はこのお方が真の王であることを伝えています。王であるキリストは十字架にかけられることを良しとされ、エルサレムにお入りになります。 王が都にやって来ました。ところが、その王は子ろばに乗ってやってきました。王にはそぐわない動物です。ろばは家畜でした。決して強くはない動物です。キリストはろばに、しかも子ろばにお乗りになって神の僕としてエルサレムにお入りになりました。 王は戦わなければなりません。キリストはエルサレムで一つの戦いに勝利されます。それが罪とその結果としてもたらされる死への勝利です。その勝利は復活でした。しかしながら、その勝利への道のりは苦しみの道でした。人びとの無理解、弟子の裏切り、十字架への恐怖。キリストは罪を背負う救い主としてさまざまな苦しみを背負いました。 キリストの苦しみの先には勝利の復活があります。その復活を見つめながら受難のキリストに思いを向けたいのです。 Sun, 14 Apr 2019 00:10:00 +0000 悪いことをしていない方の死(ルカによる福音書 1-49節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190414 no 2019 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 (ルカによる福音書23章41節) 主イエスの裁判において、ピラトは「この男に何の罪も見出せない」と言います。そのとおり、主イエスに罪はありませんでした。しかし、人びとは殺人を犯したバラバを釈放し、主イエスの十字架刑を要求します。ピラトは彼らの要求を受け入れ、主イエスは2人の犯罪人と共に、十字架にかけられました。 主イエスと共に十字架にかけられた犯罪人の1人は、主イエスをののしることしかできませんでした。ここには、自分の罪の報いを拒否し、神をも恨む人間の姿が記されています。一方で、もう1人の犯罪人は、主イエスの無罪を理解していました。 私たちの救い主イエスは、全くの無罪であるにも関わらず、救いのために罪人の罪の報いを自ら受けてくださった方です。私たちもまた、神の前に罪を犯し続ける「犯罪人」です。しかし、主イエスの十字架によって、罪が赦される道が開かれています。 「悪いことをしていない方」の十字架刑は誰のためであったのでしょうか。その答えを探し求め、主イエスに身を委ねる者に、主イエスは「永遠の楽園」をはっきりと約束してくださいます。 Sat, 13 Apr 2019 00:10:00 +0000 なにゆえ、主は憤り(哀歌 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190413 no 2019 おとめエルサレムよ あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。 おとめシオンよ あなたを何になぞらえて慰めよう。 海のように深い痛手を負ったあなたを 誰が癒せよう。 (哀歌2章13節) 主の憤りの原因は、はっきりしていました。神のみを礼拝する場所が偽りの神々で埋め尽くされたからです。 約束の地に入る前に、王に関する規定で告げられていました。「王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない」(申17章17節)。しかし、王の妻たちによって神殿に偶像が持ち込まれることが、ソロモンの時代から始まりました。そのため、偶像の宮と化したエルサレム神殿に対して、「ねたむ神」である主は「熱情の神」となり、「御怒りはヤコブ(すなわちイスラエル)に対して烈火となり、炎となって焼き尽くした」のです(3節)。主なる神と他の神々を混ぜ合わせた神殿は、固く節操を守る契約を破ってしまいました。 そこで、「主は御自分の祭壇すら見捨て、御自分の聖所をすら見捨て」(7節)、「シオンの祭りを滅ぼし、仮庵をも、園をも荒廃させられ」、「安息日をも、祭りをもシオンに忘れさせ、王をも、祭司をも激しい怒りをもって退けられた」のです(6節)。 さまざまな宗教行事を習俗にして何でも持ち込むことに対して、「主はまことに敵となられ」ます(5節)。 Fri, 12 Apr 2019 00:10:00 +0000 ああ、なにゆえ(哀歌 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190412 no 2019 道行く人よ、心して 目を留めよ、よく見よ。 これほどの痛みがあったろうか。 わたしを責めるこの痛み 主がついに怒ってわたしを懲らす この痛みほどの。 (哀歌1章12節) 「(ああ、)なにゆえ」という嘆きで『哀歌』は始まります。旧約聖書は、罪を重ねて絶望的になっていく、イスラエルの民の歴史です。エジプトの奴隷状態から解放されたのに、バビロンの奴隷状態になっていく悲惨な結末を迎えました。 しかし、悲惨な結末の原因は、すでに出エジプトの時に告げられていました。「もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」(申28章15節)。 『哀歌』の著者も、そのことは知っていました。「シオンの背きは甚だしかった」(5節)。「エルサレムは罪に罪を重ね、笑いものになった」(8節)。「主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ」(18節)。 それでも嘆きの詩人は主に期待します。「御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています」(20節)。その嘆きと期待は、ゲツセマネから十字架に向かって行かれた主イエスのようです。「わが神、わが神、なにゆえ」と。 Thu, 11 Apr 2019 00:10:00 +0000 信仰の目を上げて(申命記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190411 no 2019 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。 (申命記34章9節) ヨシュアの元の名は、ホシェア(彼は救った)でしたが、モーセが、12人の偵察隊を約束の地カナンに遣わした時に、ヨシュア(主は救い)と改名しました(民13章)。偵察隊のうち10人は、町々が城壁に囲まれ、住民が強くて大きいことを恐れて、約束の地について悪い情報を流し、民の心を挫きましたが、ヌンの子ヨシュアとカレブだけは、良い報告をしました。 主の御旨を拒んだ者は、約束の土地に入ることがゆるされませんでした。ヨシュアとカレブだけは別でしたので、「わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ土地を知るようになる」と主は約束されました(民14章31節)。いよいよ約束の土地に入るそのときが近づいてきたのです。 モーセは約束の土地に入ることなく死を迎えますが、モーセからヨシュアにリーダーが変わっても、神の国の働きは前進し続けていきます。ヨシュアのように聖霊に満たされ、信仰の目を上げて、約束の地に入る者でありたいと思います。 「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる」(31章23節)。 Wed, 10 Apr 2019 00:10:00 +0000 神の約束の歴史(申命記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190410 no 2019 この言葉を彼はユダのために言った。 主よ、ユダの声に耳を傾け その民のもとに彼を来させてください。 御手をもって彼のために戦い 苦しめる者からの助けとなってください。 (申命記33章7節) この章にはモーセが生涯を終える前に、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉が書かれています。しかし、約束の地カナンに入ると、神の民は土着の偶像を拝み、自分たちをエジプトから救い出された大いなる神を捨てて、背信の罪を犯します。予告されていた呪いが降りかかり、神の民は約束の地を追われ、散らされ、異教の大国に連れ去られました。 神の民の歴史は、人間の罪と不従順の歴史であり、その中に確かに実現している神の約束の歴史です。捕囚の後、「あなたの神、主のもとに立ち帰り、…御声に聞き従うならば、…再び集めてくださる」(30章2、3節)という回復の約束は実現しました。 きょうのユダへの言葉の中に「彼」が出てきます。「ユダの地、ベツレヘムよ、…お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となる」(マタ2章6節)と言われていたことも思い出されます。ユダの王ダビデの子孫、約束の救い主イエス・キリストの十字架による罪の赦しがなければ、私たちも神の御前に立ちえない者です。 まもなく受難週が始まります。罪深い私たちのために用意された救いを、心深く受け止めたいと思います。 Tue, 09 Apr 2019 00:10:00 +0000 神の慈しみと厳しさ(申命記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190409 no 2019 「あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」 (申命記32章52節) 死を目前にしたモーセは、主に導かれ、ネボ山から約束の地カナンを見渡します。主はモーセに仰せになりました。「あなたたちは、…メリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」(51節)。それゆえ、主の約束の土地をはるかに望み見るが、あなたはそこに入れない、と。 メリバ(争い)の水の出来事は、旧約聖書に8箇所以上出てきます。荒れ野で渇いた民がモーセとアロンに、「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」と迫り、二人は主に助けを求めます(民20章4節)。主はモーセに、杖を取り、共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって水を出せと命じ、彼らと家畜に水を飲ませるようにと言われました。度重なる民の反逆に憤ったモーセは、手を上げ、杖で岩を2度打ってしまいます。水はほとばしり出て、民も家畜も飲むことができましたが、二人は主に、「イスラエルの人々の間で、わたしの聖なることを示さなかった」と見なされました。 神の聖なること、その慈しみと厳しさを、きょう、もう一度、覚えたいと思います。 Mon, 08 Apr 2019 00:10:00 +0000 いつもあなたと共にいる(申命記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190408 no 2019 「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、わたしが彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。わたしはいつもあなたと共にいる。」 (申命記31章23節) 申命記において、契約の継承は、大切なテーマの一つです。神との契約は、モーセとその世代で完了するものではなく、次の世代へと継承されていくものです。モーセの死が近づいた今、ヨシュアの任命は、そのためにも不可欠な事柄でした。 モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、主はモーセに言われます。「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入っていく土地で、…わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す」(16、17節)。 任務を授けられるにあたり、民の背信と神の怒りの予告を聞かされたヨシュアは、恐れ、動揺したに違いありません。まもなく偉大な指導者モーセも亡くなるのです。しかし一切をご存じの主は、ヨシュアに「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる」と言ってくださったのでした。 試練の日も、困難な中でも、主がいつも共にいてくださる。これ以上に確かな支えが他にあるでしょうか。主はきょうも私たちと共にいてくださいます。 Sun, 07 Apr 2019 00:10:00 +0000 ナルドの香油(ヨハネによる福音書 1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190407 no 2019 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 (ヨハネによる福音書12章3節) 主イエスが十字架にかかる時が近づいていました。その主イエスの足に、マリアが、当時の一般的な年収に値するほど高価な「ナルドの香油」を塗りました。 このとき共に食事の席にいたラザロは、マリアの兄弟であり、主イエスによってよみがえらせられた人物でした。マリアは、「死を命へと変えることのできる方」に奉仕をしていたのです。自分の髪の毛を用いて香油を塗るマリアの姿は、主イエスへの真心からの愛を表しています。 イスカリオテのユダがマリアに批判的な疑問を投げかけます。しかし、主イエスは、マリアの奉仕が「主イエスの葬りの準備」であることを明らかにされました。マリアの奉仕は神の大いなるご計画の進展のために用いられました。 私たちが主イエスを愛してささげる奉仕もまた、神の大いなるご計画のために用いられます。「死を命へと変えることのできる方」にささげるもので、「もったいない」ものは何もありません。死から命へと変える主イエスの恵みにあずかる者として、主イエスを愛し、今日ささげるべきあなたの「ナルドの香油」は何でしょうか。 Sat, 06 Apr 2019 00:10:00 +0000 回復の予告(申命記 29-30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190406 no 2019 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 (申命記30章2節~3節) 「申命記」という書名は、漢訳聖書から採用されたもので、「申」には、繰り返して話すという意味があります。これまで何度も語られてきた祝福と呪いは、単なる成功と失敗、富と貧困という事柄ではありません。命か死か、という究極的な二者択一です。神を愛し、教えを守り、永遠の命の祝福の内を生きるのか、人の手によって造られた命のない偶像を拝み、御旨を離れて、生ける屍のように虚ろな人生を彷徨うのか。崖っぷちの選択を迫られています。 繰り返された従順への勧告にもかかわらず、神の民は背信の民となり、やがて約束の呪いを身に招いて散らされ、捕らえられていきます。しかし、回復も予告されています。主のもとに立ち帰るならば、と。 パウロも、罪と悔い改めについて語りました。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラ6章7節)。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…ます」(2コリ7章10節)。 神と共に歩む思いを新たにさせていただきましょう。 Fri, 05 Apr 2019 00:10:00 +0000 宝の民…既にあった約束(申命記 26-28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190405 no 2019 主もまた、今日、あなたに誓約された。「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と。 (申命記26章18節~19節) きょうの聖句は、「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います」(17節)という民の誓約に応答してなされた神の誓約のように見えます。けれども、「既に約束したとおり」という言葉が、二度、繰り返されています。 はるか昔、神はアブラムを選んで言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創12章1、2節)。 神の御前に誓約を立てた民は、神ご自身が選び、祝福を約束したアブラハムの子孫です。神の祝福は、人間の不確かな誓約に応答して与えられるものではありません。神のご意思に出発点があるのです。だからこそ信頼できるのです。 異邦人の私たちが、今日、神の言葉を聞いているのはなぜでしょう。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェ1章4節)。私たちも、ただ神の御心により「宝の民」「主の聖なる民」なのです。 Thu, 04 Apr 2019 00:10:00 +0000 神の升で量る(申命記 21-25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190404 no 2019 あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができる… (申命記25章13節~15節) 申命記は、約束の地カナン入国を前にした神の民のために、主がモーセに命じられた教えの解き明かしです。定住生活で起こり得るさまざまな問題―家庭問題、殺人、同族や弱者への配慮、主の集会など―について、実に具体的に細やかに書かれています。 きょうの聖句を読むと、その謎が解けるような気がします。私たちは皆、大小異なる升をもって、自分と他者とを量る性質があるのではないでしょうか。 主イエスも言われました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか」(マタ7章3、4節)。 各人が自分を尺度にしたら、約束の地での生活に、平和も祝福も実現しないでしょう。自分ではなく神を喜ばせること、神の目を意識して、神の御前に生きることを、神の民は教えられます。モーセから聞いた教えを約束の地で守り行い、神に従う喜びや平安、祝福された生活を味わうようにと召されているのです。 Wed, 03 Apr 2019 00:10:00 +0000 神の民であるために(申命記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190403 no 2019 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。 (申命記20章17節~18節) 15節~18節に、嗣業の地に住んでいた民族を皆殺しにせよという命令が記されています。このことにとまどいや躓きを覚えられる方は多いと思います。それは現代の私たちの倫理観からすれば当然のことで、これをそのまま私たちの行動規範とすることはできません。しかし、そこでまず注目したいのは、この戒めの目的です。 残酷と思われる命令ですが、それは神の民が、異教の影響を受け主に罪を犯すことがなく、主と共に歩むためとはっきり書かれています。 それゆえ、この言葉は私たちが神の民として信仰をもって生きる時に、時代を超えた意味をもつ教えとして示されているのです。 さらに、ここには兵役免除についても語られています。普通に考えれば、戦いで兵士の数は重要なはずですが、むしろ多くの者が免除対象になります。主が共に戦ってくださることが勝利のカギだからです。 私たちのこの世の生活においても信仰の戦いがあります。そこで主が私たちと共におられるなら、主が共に戦われ、主が勝利してくださるのです。 Tue, 02 Apr 2019 00:10:00 +0000 平和な生活(申命記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190402 no 2019 裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。 (申命記19章18節~19節) 18章では礼拝に関わる事が扱われます。礼拝を司る祭司とレビ人をどのように支えるのか、異教の習慣に従う信仰の態度が戒められます。さらに、預言者が立てられることと、その預言者は会衆によって見分けられなければならないことが示されています。 その上で特に目を留めたいのは、「全き者であれ」という言葉です。しかし、人間が全き者、完全な者であることなどできるのでしょうか。 この言葉には「主と共にあって」という但し書きがついています。祭司とレビ人が献げもので養われ、預言者が会衆によって見分けられ真実なものとされるということ全体を支えるのが、この「主と共にある」状態であり、また同時にこれこそが目標です。言い換えますと「主と共にある」ために一切の制度があり、その実現こそ「全き者」であることなのです。 ですから、「全き者であれ」とは私たちが精進、努力して倫理的、道徳的に完全な人間になるということではありません。本当に全き方は主のみです。それゆえ「主と共にある」ときにこそ、私たちは全き者とされます。 Mon, 01 Apr 2019 00:10:00 +0000 全き者(申命記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190401 no 2019 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。 (申命記18章13節~14節) 18章では礼拝に関わる事が扱われます。礼拝を司る祭司とレビ人をどのように支えるのか、異教の習慣に従う信仰の態度が戒められます。さらに、預言者が立てられることと、その預言者は会衆によって見分けられなければならないことが示されています。 その上で特に目を留めたいのは、「全き者であれ」という言葉です。しかし、人間が全き者、完全な者であることなどできるのでしょうか。 この言葉には「主と共にあって」という但し書きがついています。祭司とレビ人が献げもので養われ、預言者が会衆によって見分けられ真実なものとされるということ全体を支えるのが、この「主と共にある」状態であり、また同時にこれこそが目標です。言い換えますと「主と共にある」ために一切の制度があり、その実現こそ「全き者」であることなのです。 ですから、「全き者であれ」とは私たちが精進、努力して倫理的、道徳的に完全な人間になるということではありません。本当に全き方は主のみです。それゆえ「主と共にある」ときにこそ、私たちは全き者とされます。 Sun, 31 Mar 2019 00:10:00 +0000 父親の愛(ルカによる福音書 15章1-3節、11-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190331 no 2019 「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」 (ルカによる福音書15章22節~24節) 「放蕩息子」の話では、父親の2人の息子に対する愛があらわされます。父親は2人の息子に対して、同じように優しい言葉をかけます。それは2人のことを心から愛しているからです。父親が自分の財産を息子たちに分け与えたのもそのためです。父親が欲しかったのは、息子たちの喜ぶ姿と、息子たちが父親を愛することでした。 しかし、当の息子たちはというと、父親の愛を全く理解していません。それゆえ、弟息子は放蕩の限りを尽くして与えられた財産をすべて使い果たしてしまいます。兄息子は共に住んでいながらも、父親の息子たちへの愛を理解せず、ただ怒りと憎しみだけがこみあげてきます。 そのような中で、父親は息子たちが自分の愛を理解し帰って来ることを願っています。そしていざ帰って来ると、「走り寄って首を抱き、接吻し」て、大きな喜びと愛で包みこむのです。 神は私たちを子として受け入れておられます。そして私たちが神のもとへ帰って来ると、走り寄って首を抱き、接吻して、大きな喜びと愛をもって迎え入れてくださるのです。 Sat, 30 Mar 2019 00:10:00 +0000 後戻りしない(申命記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190330 no 2019 王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。 (申命記17章16節) 申命記においては当然ながら、エジプトからの解放が強く意識されています。この所では、新たに民が王を立てようとするのなら、それは、必ず主が選ばれた王でなければならないことが確認されています(15節)。そこに神の民イスラエルの独自性が明らかに示されます。 同じように、この王には、大勢の妻を持つことが禁じられ、律法の写しを作って神を畏れつつ歩むことが求められています。そのような王に対する命令の最初に置かれているのが、馬を増やすことの禁止です。 当時の人々にとって馬は軍事力そのものでした。馬が多ければ多いほど、いざという時に戦を有利に進められるばかりでなく、外交的な力にもなったことでしょう。 しかし、神に依り頼む道を知ったものにとっては、馬の数を当てにすることは、地上の力に依り頼む昔の姿への後戻りであり、同時に神と共にある自由を失うことを意味します。 そこで私たちは、今この時にこの御言葉から、本当に私たちを生かし、また滅ぼすことのできる方を畏れることを学びたいのです。 Fri, 29 Mar 2019 00:10:00 +0000 いつでも初心に(申命記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190329 no 2019 あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。その際、酵母入りのパンを食べてはならない。7日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。 (申命記16章2節~3節) このところで、神は祭りを通して二つのことを思い起こすよう求めています。一つは神が何をされたか、もう一つはイスラエルが何であったかです。具体的には三大祭りである「過越祭」、「7週祭」(ペンテコステ)、「仮庵祭」について、それぞれ、その祝い方が細かく指示され、祭りの目的が示されます。 例えば、過越祭であれば「エジプトの国から出た日を生涯思い起こす」とありますし、7週の祭りは寄留者、孤児、寡婦といった、社会的弱者と一緒に祝うことで、自分たちもまた「奴隷であったことを思い起こす」ためであり、仮庵祭では「主があなたの収穫と手の業をすべて祝福される」その事実を喜ぶ、というようにです。 その意味で、イスラエルの祭りはただの「お祭り」ではありません。昔から今この時に至るまで続いている神の祝福を改めて覚え、自分自身も救われた身であるゆえに弱者に対する正しい振舞いをしているか、顧みる時です。同じように私たちもまた、公的礼拝や私的礼拝において、御言葉によって神の恵み深さを味わい、自分自身を見つめ直します。 Thu, 28 Mar 2019 00:10:00 +0000 富は神のもの(申命記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190328 no 2019 彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。…生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。 (申命記15章10節~11節) ここでは貧しくなってしまった同胞に対して気持ちよく貸し与えること、また奴隷となってしまった同胞についても、人としての丁寧な配慮をなすべきことが命じられています。その場合、貸し与えるのが負債免除の年の前年であるなら、実質的には返済を受けることなく与えてしまうことになります。また、奴隷であったものが6年間働いて自由人にされる場合にも、多くの贈り物をするように命じられています。 もちろん、このような規定はそのまま現在の生活に当てはめることはできません。しかし、そうであるにもかかわらず私たちは、この命令の根拠となる言葉に耳を傾けたいのです。 それは、「あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい」(15節)という言葉です。自分が豊かであるのは、すべて自らの才能と努力によるのであって、一切は自分の手柄であり、富は自分のものであるという思い込みに対して、この言葉は強い疑問を投げかけています。 そこで私たちは日々神によって豊かにしていただいているものとして、開かれた心で隣人に接したいのです。 Wed, 27 Mar 2019 00:10:00 +0000 宝の民として歩む(申命記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190327 no 2019 あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の10分の1と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。 (申命記14章23節) 14章ではすでに12章で語られた食べ物と祭儀のあり方について、改めて清い動物と汚れた動物の区別と、レビ人等に対する配慮の言葉が語られます。このところの中心にあるのは「主を畏れることを学ぶ」という言葉です。ある動物や鳥類、魚類がなぜ食べられないのか根拠は示されませんが、そのような区別を守ることは、神の民のしるしの一部です。 その他、収穫の10分の1を取り分けて主の御前で食べること(23節)や、遠隔地に住む者たちが取り分けた金銭を携え、指定の場所で家族と共に祝いの食事をすること(24節以下)、レビ人や寄留者、孤児のために10分の1を取り分け彼らが満ち足りるようにとの命令(28節以下)も同様です。 現代においては、このような食物規定や礼拝規定をそのままでは用いません。けれども、私たちは神が我々をも「宝の民とされた」(2節)事実を喜び、日曜日ごとに主イエスの定めた礼拝のあり方に服従し、弱いものに配慮します。また、日々のデボーションにおいて繰り返し「主を畏れること」を学ぶのです。 Tue, 26 Mar 2019 00:10:00 +0000 試みも恵みとする(申命記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190326 no 2019 預言者や夢占いをする者が…しるしや奇跡を示して、…実現し…「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えよう…」と誘われても、…耳を貸してはならない。…主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するか…知ろうとされる…。 (申命記13章2節~4節) 申命記では、この章から約束の地における具体的な生活のあり方を定める律法が語り始められます。ここでは、献げ物との関連で、肉の取り扱い方について丁寧な解説がなされています。基本は血を食べないことです。しかし、より重要なのは通常の食事とは異なり、神との会食は神の選ばれた場所においてなされるべきことが3回も繰り返されていることです(5、14、26節)。 それは、礼拝が食欲を満たすための気楽な普段の食事とは違い、神にお会いいただくために出かける特別な時であることを意味しています。けれども、それは、ただかしこまって神の御前に立つことではありません。7節に「主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである」とあるとおり、神の祝福を皆でかみしめる特別に楽しく嬉しい時です。 新約の神の民である私たちも神を礼拝することにおいては同じです。私たちも礼拝において、いただいた祝福をかみしめつつ、聖霊に導かれて、喜びを味わいます。 Mon, 25 Mar 2019 00:10:00 +0000 自分の都合ではなく(申命記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190325 no 2019 あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。ただ、主があなたの1部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物をささげ、わたしが命じることをすべて行わなければならない。 (申命記12章13節~14節) 申命記では、この章から約束の地における具体的な生活のあり方を定める律法が語り始められます。ここでは、献げ物との関連で、肉の取り扱い方について丁寧な解説がなされています。基本は血を食べないことです。しかし、より重要なのは通常の食事とは異なり、神との会食は神の選ばれた場所においてなされるべきことが3回も繰り返されていることです(5、14、26節)。 それは、礼拝が食欲を満たすための気楽な普段の食事とは違い、神にお会いいただくために出かける特別な時であることを意味しています。けれども、それは、ただかしこまって神の御前に立つことではありません。7節に「主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである」とあるとおり、神の祝福を皆でかみしめる特別に楽しく嬉しい時です。 新約の神の民である私たちも神を礼拝することにおいては同じです。私たちも礼拝において、いただいた祝福をかみしめつつ、聖霊に導かれて、喜びを味わいます。 Sun, 24 Mar 2019 00:10:00 +0000 身を挺して私たちを守られる方(ルカによる福音書 13章1-9節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190324 no 2019 「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 (ルカによる福音書13章8節~9節) ここでは二つの悲しい事件が語られます。人びとはこれらの事件が、亡くなった者たちの罪深さに起因する神からの罰であると考えました。 しかし、主イエスはその考えを真っ向から否定し、いちじくの木のたとえを話されます。実らないいちじくの木は役に立たないため、切り倒されてしまいます。しかし園丁は身を挺して木を守ります。この園丁は主イエスであり、実らない木は私たちです。実らず役に立たない木は、本来ならばすぐに捨てられます。しかし主はそのような私たちを、身を挺して守ってくださいます。それどころか、やがて主御自身が切り倒されてしまいます。 災難や不幸に遭うと、自分の行いが悪かったからバチが当たったと感じることがあります。逆に良いことがあれば、自分の信仰深さが示されたと感じることもあります。しかし神はそのような因果応報なお方でしょうか。 いいえ、神は人の弱さや脆さを責め立てるお方ではありません。むしろ一番近いところで守ってくださるお方です。私たちはこの守りの主に信頼し、立ち帰るのです。 Sat, 23 Mar 2019 00:10:00 +0000 今日、祝福を選びなさい(申命記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190323 no 2019 あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。 (申命記11章27節~28節) 天地万物をお造りになった神御自身がくださる、確かで豊かな祝福です。その祝福に私たちは招かれています。 「あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい」(1節)。ルール違反をしないように、びくびく恐れて守るのではありません。「主を愛し」て、命令を守るのです。なぜなら主は、紅海を割り、迫りくるエジプト軍を滅ぼし、荒れ野で私たちの信仰の祖先を養われた、大いなる神だからです。 私たちは、「主の訓練を知ることも見ることもない子孫」(2節)ではありません。私たちもまた、万事休すと思われた時に道を用意され、折にかなう助けと戒めにより、困難を乗り越え、誘惑から守られて、今日に至っているのではないでしょうか。 「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり…得ることができる。こうして、…乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる」(8、9節)。 私たちの造り主、救い主である神御自身を愛し、御旨に従い、主が用意されている祝福にあずかりましょう。 Fri, 22 Mar 2019 00:10:00 +0000 あなたは、わたしに従いなさい(ヨハネによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190322 no 2019 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 (ヨハネによる福音書21章21節~22節) ペトロは、他の人のことが気にかかって仕方がなかったようです。「あの人は、この人はどうだろう。私と比べてあの人は、この人は、どれほど主から愛されていることだろうか」。 私たちもしばしば、他の人のことが気にかかって仕方がなくなります。「あの人は私よりも優れている」。「あの人は私よりも主からの恵みをより多くいただいている」。「あの人は私と比べると、本当に主によく仕えている。それにひきかえ私ときたら、てんでなっていない」。 人と比べて、落胆したり、嘆いたり、はたまた、いい気になったり。私たちは本当に不自由な存在です。絶えず、他の人と比べて、自分の幸せ、満足を得ようとします。ペトロに言われた主の言葉は、そのような私たちへの言葉でもあります。 「あなたは、わたしに従いなさい」。「あなたは」が強調されています。「他の人のことは気にしなくてよい。あなたは、他ならぬあなたは、わたしについて来なさい。他の人のことを気にせず、あなたは、わたしイエスについて来たらいい」。そのように主イエスはおっしゃっています。 Thu, 21 Mar 2019 00:10:00 +0000 あなたがたに平和があるように(ヨハネによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190321 no 2019 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 (ヨハネによる福音書20章19節~20節) 「あなたがたに平和があるように」。復活の主イエス・キリストは、そうおっしゃって、いつも私たちに近づいてくださっています。 何かに恐れ、不安に陥り、私たちも弟子たちと同じように、しばしば心に鍵をかけて、他人が入って来られないように隠れます。自分の殻の中に引きこもって、うずくまることがあります。しかし、どれほど堅く鍵を閉めても、復活の主イエスは、私たちの鍵のかかった心の部屋にすっと入ってこられます。そうして主イエスは、御自分の手とわき腹とをお見せになって、私たちの魂に語りかけてくださいます。「あなたがたに平和があるように」と。 今、私たちは肉眼で復活の主イエスの手とわき腹の傷を見ることはできません。しかし、信仰の目を見開くとき、主が私たちの傍らに立って、手とわき腹の傷をお見せくださっていることを信じられるのではないでしょうか。 復活の主はおっしゃいます。「心配するな。大丈夫。あなたの不安も恐れも、罪にさいなまれる思いも何もかも、わたしは十字架で処理した。安心して行きなさい。わたしはいつもあなたと共にいます」。 Wed, 20 Mar 2019 00:10:00 +0000 まことの小羊(ヨハネによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190320 no 2019 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう1人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の1人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 (ヨハネによる福音書19章32節~34節) 十字架にかかった犯罪人が死ぬには長い苦しみのときが必要でした。でも、翌日は過越を祝う特別の安息日。ユダヤ人たちは、早急に十字架上の人びとが死んで、遺体が十字架から降ろされることを願いました。そこで、当時死期を早めるために用いられた手段が、足を折るという残虐な手段です。大きな槌のようなもので激痛を与えて足を折る。ショックで死ぬ。あるいは、十字架にかけられた体を支える足が折られると、体の重みが一気に上半身にかかり、死期が早まったようです。 ユダヤ人たちは2人の犯罪人の足を折りました。しかし、主イエスは既に死んでおられたので、足を折る必要がありませんでした。福音書記者ヨハネは、過越の小羊と主イエスとを結び合わせています。「1匹の羊は1軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない」(出12章46節)。 そのとおり、主イエスの足の骨は折られることがありませんでした。この方こそが「世の罪を取り除く神の小羊」であられることを、ヨハネは私たちに伝えたいのです。 Tue, 19 Mar 2019 00:10:00 +0000 鶏が鳴いた(ヨハネによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190319 no 2019 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の1人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。…「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。 (ヨハネによる福音書18章25節~27節) 主イエスはペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。ペトロは豪語しました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。主はおっしゃいました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことを知らないと言うだろう」(13章36~38節)。 ペトロは、主の十字架の道について行けると思っていました。しかし、主はよくご存じでした。まだ、ペトロは主について行くだけの準備はできていなかったのです。 主がおっしゃったとおり、主が捕らえられると、ペトロは3回、「あの人の弟子ではない、あの人のことを知らない、あの人とは関係ない」と、主との関係を否定しました。 ペトロは本心から、自分は命をかけてでも主について行くと思っていましたが、準備が整うまでは、私たちには主に従いゆく力はないのです。けれども、主が、やがて私たちが主について行けるようにと、忍耐の限りをつくして、私たちを整えてくださいます。 Mon, 18 Mar 2019 00:10:00 +0000 一つとなる(ヨハネによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190318 no 2019 「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。…わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。…世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」 (ヨハネによる福音書17章11節~13節) 父なる神と御子イエスは、永遠から父・子の交わりの内に一体です。この父・子の交わりのなかに私たちをも入れて一つにしたい。ですから、何度も「一つとなる」と、主イエスは繰り返されます。 「わたしはみもとに参ります。…わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。…わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。 父と御子の愛の交わりの内に招かれた私たちは一つとされます。そして、愛の交わりの内に一つとされたキリストの共同体として生かされます。 父は御子を、御子は父を限りなく愛します。キリストの体に結合されて一つとされた私たちもまた、互いに愛し合う共同体とされています。互いに愛し合う共同体として生きるとき、私たちの喜びは、世の人をも巻き込んでいきます。彼らもこの喜びを求めるようになるからです。 Sun, 17 Mar 2019 00:10:00 +0000 めん鳥が雛を羽の下に集めるように(ルカによる福音書 13章31-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190317 no 2019 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 (ルカによる福音書13章34節) 主イエスは「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、3日目にすべてを終える」ために、この世へやって来られました。しかし、主を否定し、殺そうと企む者がいます。その事実に対して、主は嘆きの言葉を語ります。なぜなら、主を拒む者たちの先には滅びがあるからです。主はここで御自分を否定する者たちを裁こうとしているのではありません。むしろ、彼らが自ら滅びの道を選び取り、突き進んでいることに嘆きを覚えています。 そして、主を拒むことを、かつて預言者たちを拒み殺してきた者たちと同罪であると嘆きます。それは、ヘロデや当時のユダヤ人だけの問題ではなく、今、私たちにも問われていることです。 主はここで、私たちが主を拒んでしまうことを責め立てようとしているのではありません。主を拒んでしまう私たちを、なおその御翼の下に集めようと呼びかけておられるのです。母鳥の羽の下はとても落ち着くところです。そこは温かく、また母の愛の音がドクンドクンと聞こえるからです。私たちもいよいよ、その御翼の下で安らぎを得たいものです。 Sat, 16 Mar 2019 00:10:00 +0000 わたしはひとりではない(ヨハネによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190316 no 2019 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」 (ヨハネによる福音書16章32節) 主イエスは、1人で十字架の道を進まれました。こんな時こそ、仲間が一緒にいてほしい。でも、弟子たちは主イエスの十字架の道について行くことはできなかった。だから主はおっしゃいます。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」。 私たちならどうでしょう。今こそ一緒にいて助けてほしいのに。ここまで一緒にやってきて、いよいよこれからなのに、仲間が離れて行ってしまう。頼りにしていたあの人も、はしごをはずすように裏切る。 わたしなら、落胆、憤りで大騒ぎです。でも、主イエスは違っていた。主は、頼るべきは父なる神で、父は決して御子を見放さないとの確信を持ち続けられた。人は、裏切るつもりはなくても、助ける実力がないことがしばしばです。しかし御父は違う。だから主イエスは堅く立つのです。 「わたしはひとりではない。父が共にいてくださる」。 私たちも同様です。御父が、主イエスが共にいてくださいます。「最悪」と思われる時こそ、共にいて、「大丈夫。わたしがあなたと共にいる!」と言ってくださいます。 Fri, 15 Mar 2019 00:10:00 +0000 わたしがあなたがたを選んだ(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190315 no 2019 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 (ヨハネによる福音書15章16節) 入学、進学、入社の季節です。希望に胸膨らませている人、行く道に不安を感じている人、願った道に進めず、不本意ながら新たな道に進んでいく人。既に与えられている道で学びや働きに従事している人。そんなすべての人に主イエスは語っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と。 私たちは、自分で教会に行き、自分で主を信じて洗礼を受け、あるいは、信仰告白をしてキリスト者として歩んでいる、と感じることがあるかもしれません。でも、主はおっしゃいます。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と(6章44節)。 学びや仕事の場も同じです。自分で探し、自分で試験を受け、自分で切り開いたように思える道です。でもその背後で、主が、あなたがそこに行くようにと一切を計らってくださっていたのです。あなたが、置かれた場所で活き活きと学び、働き、人々に仕える。そのとき、あなたをその場に置かれた主イエスに、あなたは生活と人生をかけて応えているのです。 Thu, 14 Mar 2019 00:10:00 +0000 みなしごにはしておかない(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190314 no 2019 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。…かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 (ヨハネによる福音書14章18節~20節) きょう取り上げた聖句にはいくつかの解釈がありますが、わたしはこう信じています。やがて主イエスは、十字架におかかりになり、死んで、よみがえられ、天に帰られます。天に帰ったら、主イエスは地上にはおられません。でも、みなしごにはしない、また戻って来る、と約束してくださっています。 やがて、その約束の聖霊という目に見えないお姿で、復活の主イエスは私たちのところに戻って来てくださる。そして、私たちのうちに住んでくださる。だから、マタイによる福音書の最後のところで主イエスは、こう約束してくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。 どのようにしてこの約束を果たされるのでしょう。聖霊というお姿でまた戻って来て、私たちの内に住んでくださる。だから、主イエスは、私たちをみなしごにはしておかれないのです。 主イエスが聖霊によって私たちの内に住んでくださり、父もまた私たちの内におられ、私たちもまた父の内に住み続ける。気が遠くなるほど幸いな主の約束。またその成就です。 Wed, 13 Mar 2019 00:10:00 +0000 互いに愛し合いなさい(ヨハネによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190313 no 2019 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 (ヨハネによる福音書13章34節) 「愛し合う」、また、「愛する」とはどういうことでしょうか。 「愛する」。それは、自分を捨てて、他の人のためにひざまずいて仕えることです。それを主イエスは、弟子たちの足を洗うことでお教えになりました。 泥道をサンダルで歩けば、足は汚れます。できれば触れたくない部分です。しかし、主イエスは、その汚れた部分を、膝をかがめて拭ってくださいました。 わたしにも人に触ってほしくない汚れた部分がたくさんあります。特に心の中に。しかし、そんな汚れたところに主イエスは近づき、その汚れを、膝をかがめて拭い続けてくださっています。 人は皆、触れられたくない汚れがあります。そんな汚れは、他の人もまた触れたくない、近寄りたくもない。しかし、そんな汚れを持つ者同士が、近づき合う。そして、互いの汚れをきれいに拭ってくださる主イエスが来てくださるようにと祈り願う。そのために、互いに近づき合い、関わりを続け、執り成しの祈りを主にささげ合う。 互いに愛し合うとは、そういうことではないでしょうか。 Tue, 12 Mar 2019 00:10:00 +0000 愛の香油(ヨハネによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190312 no 2019 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 (ヨハネによる福音書12章3節) 「そのとき」とはどのような時だったのでしょう。主イエスはおっしゃいます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と(7節)。 マリアは、この時から数日後、愛する主イエス・キリストが十字架にかかり、多くの人のために命をおささげになられる、そのことをどれほど深く理解していたでしょう。この数日後に、主イエスは十字架にかかり、多くの人の身代金として御自分の命をおささげになる。今、まさにその数日前。 マリアは、「そのとき」がいつなのか。明確にはわかっていませんでした。しかし、「ずっと大事にとっておいたナルドの香油を、今こそ、主イエスのために使うときだ」ということは、わかっていたのです。「今これを主イエスのために使わずしていつ使うのか」。マリアは、今この時こそ「そのときだ」と、誰が何と言おうと、そう心に迫る確信があったのです。 主イエスとの深い交わりの中で、誰が何と言おうと「今がそのときだ」というタイミングを知る者でありたいものです。 Mon, 11 Mar 2019 00:10:00 +0000 イエスは涙を流された(ヨハネによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190311 no 2019 イエスは涙を流された。 (ヨハネによる福音書11章35節) 「イエスは涙を流された」。これは、聖書の中で一番短い節だと言われています。しかし、心にしみる言葉です。 主イエスは、愛する者たちのことを思い、涙を流されるお方です。人にとって死がどれほど悲しいもの、いまいましいものか。主イエスは、人間として人の世に住まわれつつ、そのことを体験されました。 今も人を最も悲しませるものは「死」かもしれません。愛する者同士を、どうすることもできない力で引き離す、そういう非情な、絶対的な力を「死」は持っています。そういう死の前に、人は実に無力な存在です。そういう人間の悲しみ、弱さ、もろさを、主イエスは、ラザロの死を目の前に、愛する者たちと共に味わわれました。だから「イエスは涙を流された」のです。 しかし、同じ主イエスは、死後4日たち、もはや腐乱して臭くなっている、遺体となったラザロに向かって大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」。 死に飲み込まれたラザロは、復活の主の御力によって生き返らされました。死を命に、悲しみを喜びに変える御力を我らの主イエスはお持ちです。 Sun, 10 Mar 2019 00:10:00 +0000 聖霊に満たされて(ルカによる福音書 4章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190310 no 2019 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。 (ルカによる福音書4章1節~2節) 主イエスはヨハネから洗礼を受けると、聖霊に満たされて悪魔の誘惑に向かわれました。悪魔はおもに三つの誘惑を企みます。一つ目は、主の空腹に乗じて問われました。二つ目は、神への完全な服従が問われました。三つ目は、神への無条件の信頼が問われました。主は、これらの誘惑に対して、すべて聖書の言葉で対抗します。 誘惑とは真の神に従っていれば遭わないものではありません。むしろ、誘惑とは「霊に引き回され」て行われます。この「霊」とは聖霊です。この箇所でも、主の内に満ちていた聖霊が働き、主を誘惑に遭わせます。実際に誘惑を企むのは悪魔ですが、誘惑とは聖霊によって信仰の強さが試される機会ともなります。そして、信仰が強ければ強いほど、大きな誘惑に遭うことになります。 私たちには、この誘惑に対して、聖書の言葉と聖霊で武装することが求められます。この世には多くの誘惑があります。しかし、主がそうされたように、私たちの中心に聖書の言葉を置き、聖霊で満たされるのであれば、どのような誘惑でも乗り越えることができます。 Sat, 09 Mar 2019 00:10:00 +0000 この方こそ、あなたの賛美(申命記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190309 no 2019 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。 (申命記10章14節~15節) 神は、イスラエルの民を恵みの契約に入れてくださいます。「主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった」。ここには、選びも表明されています。 神は、私たちをも、イエス・キリストの仲保の故に十字架の贖いによる恵みの契約に入れてくださいます。 この恵みの契約の神は、どんなお方でしょうか。「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」。まずこの神は天地の創造者です。すべてのものを治める全能の神です。万物の所有者であり、人間を含めたすべてのものを御手をもって導いてくださるお方です。これが聖書の神であられます。この神が、創造本来の姿から堕落してしまった私たちを恵みの契約に入れてくださるのです。 21節に、「この方こそ、あなたの賛美」とあります。天地の創造者を賛美しましょう。恵みの契約にみられる救いの神を賛美いたしましょう。十戒を授けて、神の御心に従って生きる道を示してくださった神を心から愛し、このお方を喜びましょう。 Fri, 08 Mar 2019 00:10:00 +0000 とりなしの祈り(申命記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190308 no 2019 主に祈って言った。 「主なる神よ、あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。 (申命記9章26節~27節) 今日の箇所は、モーセのとりなしの祈りの一部です。このモーセのとりなしの祈りは、キリストのとりなしのひな型なのです。 神の民イスラエルのかたくなさ、驚くべき罪の深さがこの章に表されています。神の民が、偶像礼拝に陥ったのです。しかも、今日も生きている律法、十戒を授かっている最中にです。モーセは激しく怒り、十戒の2枚の板を、たたき割りました。神が「御自分の宝の民とされた」(7章6節)イスラエルが、驚くべき罪の深さを露呈したからです。しかし、その民のためにモーセはとりなしの祈りを献げました。 私たちはどうでしょう。私たちも神の恵みの契約の民でありながら、かたくなであり、驚くべき罪深さに陥っていないでしょうか。 モーセがそうであったように、私たちには恵みの契約の仲保者イエス・キリストがおられます。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(1ヨハ2章1節)。神の右の座におられるキリスト・イエスが、私たちのためにとりなしの祈りをなさっているのです。 Thu, 07 Mar 2019 00:10:00 +0000 神の守りの中で生きる訓練(申命記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190307 no 2019 あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。 (申命記8章5節) 私たちは神の子です。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ロマ8章14節)と書いてある通りです。 40年にわたる荒れ野の旅を通して、神は子どもを愛する父親のようにご自分の民を訓練なさいました。聖書にはこう書いてあります。 「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」(ヘブ12章7節)。私たちは、神の子とされており、実の子なのです。神は、私たちをそのように扱って、訓練してくださいます。 きょうの聖書の言葉には、「あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」とあります。約束の地へと導いてくださる主の訓練に注意深く心を留めることが大切です。40年の荒れ野の旅路を通して、イスラエルの民が学んだことは、神の守りの中で生きる喜びでした。その訓練を通して、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を学びました(8章3節)。 Wed, 06 Mar 2019 00:10:00 +0000 ただ中におられる主(申命記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190306 no 2019 彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主はあなたのただ中におられ、大いなる畏るべき神だからである。 (申命記7章21節) 神は、大いなる畏るべき神です。このことは、とても大切なことです。本当に畏るべき神を知ることは知恵の初めです(箴1章7節)。それは、神以外の何ものかを恐れることから私たちを解放する道なのです。こうして、私たちは真の知恵へと導かれます。 私たちの究極の敵はサタンです。サタンは恐るべき敵で、恐怖によって人を支配しようとします。もし、私たちがサタンに恐怖を感じているとすれば、まだ本当には、神を畏れていないということなのです。ですから、神のみを畏れる訓練をしましょう。 まわりをぐるっと敵に囲まれることを想像してください。その時、私たちを守るのは、「主が」私たちの「ただ中におられ」るという事実です。主が私たちのただ中におられること、これが慰めであり励ましです。 「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とイエス・キリストは言われました(マタ18章20節)。主がただ中にいてくださるという事実、これが、慰めであり励ましです。まわりの敵からの守りです。 Tue, 05 Mar 2019 00:10:00 +0000 主を愛しなさい(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190305 no 2019 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 (申命記6章4節~5節) 主は唯一の神です。この故に、偶像礼拝は固く禁じられています。偶像礼拝こそ、諸悪の根源なのです。 わたしは沖縄に暮らして思います。戦争は偶像礼拝と結びついています。第二次世界大戦時のドイツの状況、日本の状況は、戦争が偶像礼拝と結びついていることの証拠です。ナチス・ドイツの問題は、十戒の第一戒の問題です。日本の国家神道の場合も、同じです。 神の裁きは、第一戒違反に対して、最も強くあらわれるように思います。主は唯一の神だからです。 偶像礼拝をしないとは、主を愛することです。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。この積極的な命令に向かって私たちが進むなら、私たちは偶像礼拝から解放されます。 「主を愛しなさい」。新約時代の私たちには御子イエス・キリストの救いが提供されています。十字架の贖いによって罪のゆるしが、復活によって永遠の命とからだの復活が与えられます。主が私たちを愛しておられるのです。それに応え、主を愛しましょう。 Mon, 04 Mar 2019 00:10:00 +0000 間に立って(申命記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190304 no 2019 わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。 主は言われた。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」 (申命記5章5節~6節) 申命記の主人公はもちろん神です。この神のもとで大切な役割を担っているのはモーセです。 モーセは、神の言葉を取り次ぐ者、預言者です。この意味で、モーセはイエス・キリストを指し示すひな型なのです。モーセはまた、神と人との仲保者です。神と人との「間に立って」いる者です。今、神と人との「間に立って」おられるのはイエス・キリストです。 「これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます」(25節)。こう叫びをあげるほど、主の御言葉を聞くということは、罪ある人間には恐ろしいことでした。しかし、もうその恐ろしさはありません。何故なら、罪を贖ってくださったイエス・キリストが、預言者であり仲保者だからです。 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(ヘブ9章15節)。 Sun, 03 Mar 2019 00:10:00 +0000 栄光の輝きに包まれて(ルカによる福音書 9章28-36節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190303 no 2019 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、2人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。2人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 (ルカによる福音書9章29節~31節) 登山をしていますと、朝、山の頂から日の出を見るのが一つの楽しみです。雲海の上に広がるまばゆい景色は圧巻で、言葉を失います。 ペトロとヨハネとヤコブはそれ以上の驚くような光景を目の当たりにしました。主イエスが本当の姿を現されたのです。「服は真っ白に輝」き、栄光の輝きに満ちた神御自身の姿が現されます。この輝きを目の当たりにした弟子たちは驚きを隠すことができません。彼らはこれまで寝食を共にし、旅をしてきた主が真の神であることを悟ります。 この輝きの中、主の傍らにはモーセとエリヤがいます。モーセとエリヤは旧約を代表する2人で、律法と預言者を表します。この2人により、律法と預言者、つまり聖書全体が主イエスをキリストであると証しします。 彼らは栄光の輝きの中、十字架の死について語り合います。それは神の栄光と十字架とが矛盾しないということです。主の死は悲しいことです。しかし、十字架の事柄は神の栄光の輝きの中に置かれています。十字架の主イエスは、あなたのこともその栄光の輝きで包み込んでくださいます。 Sat, 02 Mar 2019 00:10:00 +0000 御言葉に聞こう(申命記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190302 no 2019 主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを2枚の石の板に書き記された。 (申命記4章12節~13節) 申命記の中心のひとつは十戒の命令にあります。その第二戒では、見える形を通して神を礼拝することが禁じられています(申5章8節)。 主は語りかける神です。主は何にもまして御言葉の神です。見える形はありません。ですから、私たちが主と出会うのは御言葉によっています。「イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある』」(マタ4章4節)。 では、いつ御言葉に聞くのでしょう。申命記を読んでみると、「今日」という言葉が実に多く出てきます。私たちは、今日、御言葉によって主と出会うのです。その一番良い例はルカによる福音書に出てきます。マリアは「今日」という日に主の足もとに座って、その話に聞き入っていました。それをとがめるマルタに「しかし、必要なことはただ一つだけである」とイエス・キリストはおっしゃいました(ルカ10章42節)。 形を像にしてはなりません。そこに悪の根源があるのです。ですから、主の御言葉にこそ聞きましょう。 Fri, 01 Mar 2019 00:10:00 +0000 恐れてはならない(申命記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190301 no 2019 わたしはそのとき、ヨシュアに命じた。「あなたたちの神、主が2人の王に対してなさったことをすべて、あなたは自分の目で見た。主は、あなたがこれから渡って行くすべての王国にも同じようにされるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。」 (申命記3章21節~22節) 2人の王とは、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグです(申2章24節、3章1節)。モーセはカナンの地に入りたかったのですが、それは許されませんでした。代わりに後継者のヨシュアが入っていきます。ヨシュアは、主が2人の王に対してなさったことを見ていました。それは、今から入っていくカナンの地での信仰の戦いの準備となります。「彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる」。これが、モーセのヨシュアに対する助言です。 私たちにとってカナンの地はどこでしょう。それはそれぞれの住んでいる地域がそうであり、その先に真の安息、永遠の御国があります。 一つ確かなことは、私たちは、日本という国で神の国の進展に召され、遣わされているということです。このことを忘れてはいけません。これは信仰の戦いなのです。私たちは、この日本の地で、強大な敵を前に実際恐れています。手も足も出ないかのようです。しかし、私たちの神、主が自ら私たちのために戦ってくださいます。ですから、「恐れてはならない」のです。 Thu, 28 Feb 2019 00:10:00 +0000 何ひとつ不足しない(申命記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190228 no 2019 あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。 (申命記2章7節) 私たちの神は、必要を満たす神です。「あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」。主は、あなたの神です。たとえ荒れ野の旅路であっても、主はあなたと共におられます。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩23編4節)。主はたとえ荒れ野の旅路、すなわち試練の時であっても共にいてくださいます。暗黒の谷を行くときにも共にいてくださいます。 しかし、主は私たちの人生の試練の日や暗黒の時にだけ、共にいてくださるのではありません。「主は、あなたの手の業をすべて祝福し」、「あなたは何一つ不足しなかった」。主は、必要を満たされる神なのです。なぜでしょうか。主は恵みの契約の神であり、その故に私たちの羊飼いでいらっしゃるからです。 これから、イスラエルはカナンへ入っていきます。そこでもまた多くの試練が目の前に迫ってくるでしょう。そのたびごとに、神の祝福を思い起こすでしょう。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩23編1節)。私たちは何一つ不足しないのです。 Wed, 27 Feb 2019 00:10:00 +0000 あなたを背負う神(申命記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190227 no 2019 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。 (申命記1章30節~31節) 約束の地カナンは目前に迫っています。申命記は、神の民イスラエルが出エジプトし、荒れ野の試練を経験した後、約束の地を前にして与えられた主の命令を記しています。 「あなたたちは行って、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りなさい」(8節後半)。 神は、私たちとの約束の未来に向かって、先立って進まれます。出エジプトから今にいたるまで、そして、カナンにおいても、神は戦われます。同じように、私たちの未来に向かっても、神は霊的に戦ってくださるのです。 出エジプトから約束の地に入るまでの間に、イスラエルが荒れ野の試練の時を経験したことが注目されます。荒れ野はイスラエルの目に「広くて恐ろしい」(19節)ものと映っていました。そこには試練がありました。 神は、神ご自身のご配慮に基づいて、私たちをも試練に遭わせられます。しかし、神は、私たちの試練の時にも、イスラエルになさったように、父が子を背負うように私たちを背負ってくださいます。先立つ神、「あなたを背負う神」に信頼しましょう。 Tue, 26 Feb 2019 00:10:00 +0000 主イエスは永遠の命への門(ヨハネによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190226 no 2019 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」 (ヨハネによる福音書10章7節~9節) 中東では、羊の囲いがよく見かけられます。羊が飛び越えないぐらいの高さにまで、石を積み上げて造られた円形の囲いです。その一箇所に、狭い出入口があります。羊飼いは、羊たちが囲いの中に安全に入ったのを確認すると、自ら、その出入口をふさぐような格好で、つまり、門の扉の役割を果たして休みました。良い羊飼いは、囲いを乗り越えて侵入する盗人や強盗、獅子や豹といった野獣と戦いました。自分の身を犠牲にして、羊たちを守ったのです。 主イエスこそ、私たちにとって、良い羊飼い(11節)にして、羊の囲いの門です。門を通らず囲いを乗り越えて侵入する盗人や強盗は、教会の群れを混乱させ、破壊しようとする偽預言者、反キリストのことです。彼らは、主イエスという羊の門を通らないで私たちに接近して滅びに誘うのです。 しかし、主イエスは、良い羊飼いとして現れてくださり、自ら永遠の命への門となるために、ゴルゴタの十字架の上でご自分の身を犠牲にしてくださいました。それほどまで、主イエスは私たちを愛しておられます。 Mon, 25 Feb 2019 00:10:00 +0000 主イエスの御前にひざまずく信仰(ヨハネによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190225 no 2019 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。…彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。 (ヨハネによる福音書9章35節~39節) 主イエスは、生まれつき目の見えない人を見えるようにしてくださいました。ところが、この人はユダヤの最高法院によって社会からのけもの扱いされてしまったのです。主イエスはこのことをお知りになると、町中を捜され、この人を見つけられたのでした。 最初、この人に与えられた信仰は、主イエスは目を開けることができるお方といった程度でした(10~12節)。ところが、主イエスと出会い、交わり、主イエスと対話を重ねる中で、このお方を唯一の真の神と信じて礼拝するまでに成長させられました。 今日の私たちの信仰告白と礼拝の原型が、主イエスと出会ったこの人に示されています。私たちもこの人のように「主イエスよ、信じます」と信仰を告白し、主イエスの御前にひざまずき、このお方を唯一の真の神と信じて礼拝するのです。主イエス・キリスト礼拝こそが、私たちの献げるべき神礼拝です。 日本の多神教社会にあって、主の日毎に、主イエス・キリストの御前にひざまずき礼拝することで、私たちの魂と隣人の魂が主イエスに向けられますように。 Sun, 24 Feb 2019 00:10:00 +0000 憐れみ深い者となりなさい(ルカによる福音書 6章27-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190224 no 2019 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。…あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (ルカによる福音書6章27節、36節) 主イエスは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と命じられました。この掟に私たちが、言葉と行いにおいて従うことはなんと難しいことでしょうか! 神は旧約の時代から「隣人を愛しなさい」と命じておられましたが、当時のユダヤ教では、その「隣人」に「敵」が含まれるとは誰も想像していませんでした。私たちも「隣人を愛しなさい」という主の掟に聴くとき、同じように思うのかもしれません。しかし主は、敵を含めて「隣人を愛しなさい」とおっしゃるのです。 なぜ主イエスはそのようにお命じになるのでしょうか。最後に主は次のように語られます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。私たちがなぜ敵を愛するのか、それは、私たちの父が憐れみ深いお方であるからです。父なる神は、神に敵対する世に対して、キリストをお与えになり、愛を示してくださいました。 私たちは憐れみ深いお方の子どもです。神の子である私たちは、父なる神の姿を見上げつつ、隣人を愛する道へと導かれたいと思います。 Sat, 23 Feb 2019 00:10:00 +0000 主イエスは世の光(ヨハネによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190223 no 2019 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (ヨハネによる福音書8章12節) 夜間、車のライトだけが頼りという険しく深い山道などを走行されたことがあるかもしれません。ところで、この世が暗闇という場合、夜のような暗さといった程度ではありません。夜が来れば必ず朝が来ますが、この世の暗闇という場合は、年がら年中、暗闇です。 「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザ60章2節)。この世は、人間の罪のせいで、生けるまことの神を見失っています。その代わりに罪深い人間は、頼りになるものを自分の神々として勝手に祭り上げ、偶像崇拝をしているのです。これがこの世の暗闇の実態です。 しかし、暗闇は光に勝つことはできません(口語訳・ヨハ1章5節)。主イエスは、天から射し込んで、霊的に暗闇の世の中で燦然と輝いておられます。このお方が光だからこそ、私たちは、安全、安心です。なぜなら、この世の光、主イエスを信じて、このお方に従って行くならば、たとえ死の陰の谷を歩んだとしても、ゴールを見失うことはないからです。そして、たとえ死んでも、永遠の命に必ず至ることができるからです。 Fri, 22 Feb 2019 00:10:00 +0000 生きた水の流れのほとり(ヨハネによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190222 no 2019 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 (ヨハネによる福音書7章37節~38節) 罪ある人間は誰でも魂が渇いています。罪によって神から離れてしまっていることで魂は干からび、パサパサです。まるで砂漠のようです。そのような状態であることを知らずに地上の生涯を終えるならば悲惨です。ですから、生きている内に自らの魂が渇いていることを認め、主イエスこそが、魂に豊かな潤いを与え、永遠に生かすことのできる、生きた水の源泉であると知る人は幸いです。 この主イエスのところに来て飲む、つまり、主イエスを信じるならば、主イエスに結ばれ、主イエスからその生きた水、つまり、御言葉と聖霊(39節)を与えられ、干からびていた魂に豊かな潤いを与えられます。魂がみるみるうちによみがえり、元気になります。それこそ砂漠の状態から、川の流れのほとりのように水分や栄養分をたくさん含んだ土のようにされます。 聖霊は、私たちの魂を生き生きとさせるだけに留まりません。聖霊は、私たちから流れて出て、隣人にも御言葉による慰め、励ましを与えてくださるのです。 「主よ、あなたによるいやしが必要な隣人のもとへとわたしをお遣わしください」。 Thu, 21 Feb 2019 00:10:00 +0000 わたしだ。恐れることはない(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190221 no 2019 25ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 (ヨハネによる福音書6章19節~20節) 主イエスは、5千人へのパンの給食の奇跡を行われると、ご自分を王にしようとする人びとを避けて、山にひとり姿を隠されました(15節)。主イエスを見失った弟子たちは、夕方にもなり、こんな辺鄙な場所にいても仕方がないと、伝道の拠点であるカファルナウムに舟に乗って帰ろうしたのです。 船出すると、突然の強風が襲いかかり湖が荒れ始めました。元漁師のペトロたちの危機対応で大しけの中を何とか漕ぐことができましたが、何と、主イエスが荒れ狂う湖の上を歩いて近づいて来られました。これを見て弟子たちは恐れました。 主イエスは、ご自分を見失って先に船出してしまった弟子たちを罰しに来られたのではありません。そして、罪を犯して主イエスを見失っている私たちに対しても、罰するのでなく、滅びの穴に永遠に落ち込むことがないようにと、ご自分から私たちに歩み寄ってくださいます。「わたしだ。恐れることはない」と語りかけて、悔い改めと永遠の命に導いてくだるのです。 きょうも、永遠の命に至るパン(35節)である主イエスに養われて生かされます。 Wed, 20 Feb 2019 00:10:00 +0000 起き上がりなさい(ヨハネによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190220 no 2019 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。 (ヨハネによる福音書5章8節~9節) 主イエスは、エルサレムの北東部「羊の門」の傍らにある「ベトザタ」(憐れみの家)と呼ばれる池の回廊に行かれ、そこで、38年間も病気で苦しんで横たわっている人に寄り添われました。その池の水が天使によって動かされるとき、真っ先に水に入る者はいやされると信じられていましたが、誰も介助してくれる人がいなかったのです。 しかし、主イエスがお出でになったからには、もはや誰かに助けてもらって池の中に入る必要はありません。主イエスにすがりつくならば、主イエスが力ある御言葉によっていやして、起こしてくださいます。 主イエスは、ご自分に寄りすがる私たちにも言われます。「起き上がりなさい」。そして、きょうも、永遠の滅びの寝床についてしまわないように、聖霊と御言葉によって生かし続けてくださいます。 さらに主イエスは、この世の終わりに再び地上にお出でになって、私たちを栄光の体に復活させ起こしてくださいます。この主イエスの御声を実際に聴くことのできるときを待ち望みながら、きょうも、ただ主イエスに寄りすがって歩んでまいりましょう。 Tue, 19 Feb 2019 00:10:00 +0000 主イエスよ、生きた水をください(ヨハネによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190219 no 2019 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 (ヨハネによる福音書4章10節) 主イエスは、サマリアの女性と親しく対話なさいました。地下水によって生活が支えられているシカルの町にあるヤコブの井戸辺でのことです。対話のきっかけは飲み水でしたが、結局、この女性の魂を配慮する対話となりました。 主イエスは人間の心の中をよくご存じです(2章25節)。主イエスに隠せることは何もありません。主イエスは、この女性が魂に渇きをおぼえていて、それを満たすために大きな罪を犯していることを見抜かれました。しかし、彼女を裁くことなく、魂の渇きを本当に満たすことができる道を教えてくださいました。 主イエスから湧き出る「生きた水」、つまり、御言葉と聖霊(7章39節参照)を飲むならば、魂の渇きは癒やされます。今日ならば、礼拝で朗読され説教される御言葉に聴き、その御言葉と共に聖霊が働かれることによって魂の渇きが癒やされるのです。 私たちの魂の渇きを十二分に癒やすことのできる「生きた水」を、サマリアの女性のように主イエスにこそ求めましょう。「主よ、渇くことがないように、その水をください」。 Mon, 18 Feb 2019 00:10:00 +0000 神の国に入るためには(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190218 no 2019 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 (ヨハネによる福音書3章3節) 主イエスは、ニコデモと親しく対話なさいました。このニコデモは、ファリサイ派に属し、71人しか選ばれない最高法院のメンバーでしたから、エリート中のエリートです。しかし、彼には切実な問いがありました。人間は、律法を一所懸命行って善い業に励むことで、本当に神の国に入れるのだろうか? 主イエスは、ニコデモに寄り添って、神の国への道を忍耐強く教えてくださいました。それは、まず何よりも、やがて十字架に上げられ、神の小羊となる主イエスを仰ぎ見て、主イエスを信じることです(16節)。同時に水と聖霊によって新たに生まれることです(5節)。これは水による洗礼と聖霊のお働きが必要ということです。 私たちは、聖霊のお働きをすでに受けたからこそ、主イエスを信じて洗礼を授かったことをおぼえましょう。キリスト者ならば、もう既に聖霊によって新たに生まれているのです。 神の国に入って永遠の命を確実に得るために、きょうも、聖霊のお働きによって、十字架に上げられた主イエス・キリストを仰ぎ見続けることができますように。 Sun, 17 Feb 2019 00:10:00 +0000 幸いと不幸(ルカによる福音書 6章17-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190217 no 2019 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。 「貧しい人々は、幸いである、 神の国はあなたがたのものである。 … しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、 あなたがたはもう慰めを受けている。」 (ルカによる福音書6章20節、24節) きょうの箇所は、主イエスが山から下りて、平らな所で話されたので、「平地の説教」と呼ばれています。主はまさに私たちと同じ目線に立ち、私たちに寄り添って神の言葉を教えてくださるのです。 主は、幸いと不幸について教えておられます。マタイによる福音書では、九つの幸いについて語られるのに対して(マタ5章参照)、ここでは、四つの幸いと共に、その反対の四つの不幸も併せて語られています。その理由について、宗教改革者カルヴァンは、「この対照は、よこしまな人々に恐怖を与えようとするだけでなく、この世の空しい誘惑とごまかしの中に眠ることのないように、信仰者たちを目覚めさせようとするものである」と言っています。まさに主は、幸いについて教え、人びとを慰め、励ますだけではなく、不幸についても教え、人びとに愛をもって警告してくださるのです。 主は目の前にいる民衆に対して、「あなたがたは」と語られました。私たちは幸いと不幸の両方の主の言葉を、私たちに語られている神の言葉として耳を傾けたいと思います。 Sat, 16 Feb 2019 00:10:00 +0000 人間の心をよくご存じの主イエス(ヨハネによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190216 no 2019 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 (ヨハネによる福音書2章24節~25節) 主イエスは、自分たちの利益しか考えない商人たちを神殿から追い出された後、過越祭の期間中、エルサレムに滞在なさいました。そして、主イエスは神の子メシアであると、人びとが信じるようなしるしをあらわされました。そこで、多くの人びとが主イエスを信じるようになります。 ところが、その次に衝撃的なことが書いてあります。主イエスは人びとを信用されなかった(24節)。これは、いったい、どういうことなのでしょうか。 実は、商人たちと、しるしを見て信じた人びととは、自分の利益しか考えない、つまり、自己中心という点において同じでした。 このことは、私たちにも当てはまります。主イエスは自己中心の心を信用されません。それで、もし、私たちが信用に値するへりくだる心を持ち得ていたならば、主イエスがこの世にお出でになって、十字架で死んでくださる必要もなかったでしょう。しかし、私たちには自己中心の心があります。だからこそ、主イエスは十字架で死んでくださることで、その罪を取り除いてくださったのです。 Fri, 15 Feb 2019 00:10:00 +0000 近寄ってくださる主イエス(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190215 no 2019 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」 (ヨハネによる福音書1章29節) 洗礼者ヨハネは、主イエスを過越祭で犠牲とされる小羊にたとえました。 小羊は非常にか弱く、無力です。主イエスは、栄光に輝く全能の神ですが、小羊のように全く無力な状態となられました。このことは、親の保護が絶対に必要な、か弱く、無力な赤ちゃんとしてお生まれになった出来事に何よりも示されています。 全能の神が全く無力な状態となられたのは、罪に汚れた私たちに近づき、私たちの罪を担って十字架で取り除いてくださるためです。もし、私たちの目の前に百獣の王ライオンやどう猛な狼が現れたとしたら、かみ殺されると分かっていますから、一目散に逃げるしかありません。ところが、小羊ならば、近づいて来ても安心で、思わず背中を撫でることでしょう。 栄光に輝く全能の神は、罪に汚れた私たちに近づいても、私たちが滅びへの恐れを抱かないように、小羊のような全く無力な状態となられました。そして、私たちの罪を取り除く犠牲の小羊となって、十字架で死んでくださったのです。きょうも、この神の小羊、十字架の主イエスを仰ぎ見ましょう。 Thu, 14 Feb 2019 00:10:00 +0000 政教分離と伝道(コリントの信徒への手紙一 15章20-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190214 no 2019 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 (コリントの信徒への手紙一15章23節~24節) 福音宣教によって信仰が起こることには、「一人一人にそれぞれ順序があります」。世界の歴史が政教分離の原則を学んで訓練されることには、一人一人の心の自由を大切にすることが大きく関係しています。 信仰は、国家の強制によって持つものではなく、一人一人の人が心の自由によって持つものです。信仰は強制を嫌います。国家が特定の宗教を国の宗教にすると、信仰者は心に痛みを覚えます。 また、宗教団体が政治権力と結びつくと、宗教自体の堕落を招きます。国家の宗教になると、伝道や布教をしなくても、多くの国民はその宗教の信者になってしまうのですから、伝道意欲は起こらなくなります。 さらに、宗教団体が国家の宗教になって財政的援助を受けたりすると、為政者による不正や国家権力による不当な介入に対して、正しいことを言う姿勢が鈍くなります。預言者的発言ができないと、国家の堕落を救う働きができなくなります。 ですから、信教の自由と政教分離のための闘いは、宗教団体の健全な発展のためにも必要なのです。 Wed, 13 Feb 2019 00:10:00 +0000 王を求める声(サムエル記上 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190213 no 2019 王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「…彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。…今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」 (サムエル記上8章6節~9節) 民が王を求める声には根本的な矛盾があると、預言者サムエルは気づいていました。しかし、主はサムエルに王の権能を教えておくようにと指示されました。それは民の義務を自覚させるとともに、王が絶対的権能をほしいままにしてはならないという警告でもありました。 日本国憲法が「国民主権」とともに「象徴天皇制」を認めていることにも、根本的な矛盾があります。日本国民は主権者でありながら王を求めているのでしょうか。しかし、これは、世界共通の現象であるようです。 為政者が大衆心理を利用して現人神を再現しようとすると、信教の自由は脅かされる危険があります。大嘗祭は、人が現人神になる天皇霊継承の儀式ですが、「公的行為」として行われると、政教分離原則は捨て去られる状態になります。 国家が宗教を規定すると、「神社は宗教ではなく国民儀礼」という戦前の主張と同じことが起こります。その本質は、為政者が神の位置を占める、国家の神格化なのです。そのようなことを、私たちは求めるのでしょうか。 Tue, 12 Feb 2019 00:10:00 +0000 上に立つ権威(ローマの信徒への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190212 no 2019 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 (ローマの信徒への手紙13章1節~2節) ローマの信徒への手紙13章の「上に立つ権威」は、現在の日本国憲法では、公務員として国民全体に奉仕し、国民の福祉を増進し不正を抑制する立法・行政・司法における為政者のことです。天皇には該当しません。 為政者は、国民主権のもとで選挙された議員であり、日本国憲法を守り「尊重し擁護する義務」をもちます。天皇には国政上の権威は与えられていませんから、国民の「上に立つ」天皇という存在は、現在の憲法からは出てきません。しかし、実際には、天皇の権威は強化されていく傾向にあります。天皇がおこなうことのできる公的な行為を、憲法は13の国事行為に限定しています。その行為がどれほど形式的であったとしても、天皇が国権の最高機関である国会を召集することは、天皇が国会より上にあるかのような印象を与えてしまいます。 私的であるべき皇室の葬儀や、大嘗祭という新しい天皇が神になる儀式にも公的性格があるとして、公費が支出されることは憲法違反です。憲法のもとでは、国民に対して宗教的権威を行使することはできません。 Mon, 11 Feb 2019 00:10:00 +0000 信教の自由を守る日(テモテへの手紙一 2章1-7節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190211 no 2019 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 (テモテへの手紙一2章1節~2節) 2月11日は、改革派信徒にとって、単なる休日ではなく、すべての人の「思想・信教の自由を守る日」です。信教の自由と政教分離の原則を覚えて過ごす1日です。 この日は、1967年より「建国記念の日」という国民の祝日になっています。しかし、これは、1873年(明治6年)、「天皇は神聖にして侵すべからず」という天皇主権の下で「紀元節」とされた2月11日を復活させたものです。「紀元節」は、戦前(1945年8月以前)において、神話上の架空の人物と推測される神武天皇が初代天皇の位についたことを記念する「祭日」でした。 日本キリスト改革派教会は、1965年の第20回大会で、「祝日法案に対する反対声明」を出してこう言っています。「政府提案による2月11日を建国記念の日となす祝日法案は、神道的神話を国民に強制し、さらに憲法に保障されし信教の自由と政教分離の原則を破壊するおそれのあるものとして、我等はこれに反対する」。従ってこの日は、2・11集会などに参加して、すべての国民が平穏に過ごせるよう祈り行動する日なのです。 Sun, 10 Feb 2019 00:10:00 +0000 神の言葉の権威と力(ルカによる福音書 5章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190210 no 2019 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 (ルカによる福音書5章5節~6節) 主イエスは、集まってきた群衆に神の言葉を語るために、湖の上から話すことになさいました。そのために舟を出すよう頼まれた漁師が、後に主の弟子となるシモンという人物でした。 主イエスの説教が終わると、主はシモンに「漁をしなさい」と言われました。しかしシモンは、「先生、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えます。シモンは漁のプロでしょうから、きっと手を尽くして、一晩漁を行ったでしょう。それでも何もとれなかったのですから、本当にその日は不漁の日であったのだと思います。シモンは「先生、本当にとれないのです」と思いながらも、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、網を降ろしました。すると、どうでしょうか。驚くべきことに、主の言葉どおりにすると、網が破れそうになるくらいにたくさんの魚がとれたのです。 主が語られる神の言葉には、不可能を可能にする権威と力があります。人をとる漁である宣教活動において、私たちの言葉には力がなくても、神の言葉には、人を変え、人を救う権威と力とがあるのです。 Sat, 09 Feb 2019 00:10:00 +0000 神の武具を身に着ける(エフェソの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190209 no 2019 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 (エフェソの信徒への手紙6章10節~11節) 教会は、一つのキリストの体であり、全体が補い合って一つの目標に向かって歩む信仰共同体です。教会に連なる私たちは、「この世」との関わりの中で信仰生活を送っています。この世は、神の御心とは異なる罪の力に支配されている「暗闇の世界」です。 この世界でキリスト者生活を送る以上、悪魔との戦いは不可避です。悪魔の策略は巧妙で、私たちを神への信頼、信仰から引き離そうとします。この戦いは血肉を相手にするものではなく「天にいる悪の諸霊」を相手にする霊の戦いです。私たちは戦いの備えとして、主に信頼し、その力によって強められるだけでなく、神の武具を身に着けなければなりません。 パウロは6種類の武具を挙げます。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げるための履物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣、すなわち神の言葉です。霊の剣は、誰かを殺したり傷つけたりするものではなく、人を罪から救い、慰めと平和を与えるものです。これらの武具を身に着けて、神の霊によって助けられ、主が約束し備えてくださっている御国を目指して、この世の旅路を共に歩みましょう。 Fri, 08 Feb 2019 00:10:00 +0000 愛によって歩む(エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190208 no 2019 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章1節) パウロは、私たちが神に愛され、神の子とされているので、「神に倣う者となりなさい」と勧めます。「神に倣う」とは、イエス・キリストに学び従うことです。それがすなわち「神に(主イエスに)倣う」ことです。一言でいえば、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」ということです(4章32節)。 キリストは生涯のすべてにおいて、私たちの救いのために、しもべの姿を取って歩まれ、御自身を香りのよい供え物、いけにえとして献げてくださいました。そこに神の愛が示されています。 「赦す」とは、「恵み」を語源に持つ言葉です。私たちの罪の赦しと救いは、私たちの努力や功績によるのではなく「神の恵み」によるのです。 わたしたちは、キリストに倣い、全身全霊をもって、この地上の生涯のすべてを通してキリストの香りを放つ者とならせていただくのです。兄弟姉妹が互いに足を洗い合い、互いに憐れみの心で接し、責めるべきことがあったとしても、主が私たちを赦してくださったように「赦し合う」こと、「愛し合う」こと、それが、主イエスに倣うことなのです。 Thu, 07 Feb 2019 00:10:00 +0000 霊による一致(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190207 no 2019 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 (エフェソの信徒への手紙4章13節) 私たちは、神の憐れみと深いご計画のもとに招かれ、イエス・キリストにあって神の子とされました。私たちは、イエス・キリストを「主」と仰ぎ、しもべとして主の招きにふさわしく歩むことが求められています。パウロは「一切高ぶることなく」、「柔和で、寛容の心を持ち」、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように」勧めます(2、3節)。 イエス・キリストご自身が、このような地上の生涯を歩まれました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタ11章29節)。 私たちは、老若男女を問わず、さまざまな境遇、社会的な立場から神によってキリストの下へと招かれました。私たちが真に一つになるためには「霊による一致」を求めなければいけません。かつて信者たちが心を合わせて祈っているときに、キリストにより約束されていた聖霊が降られて一つのキリストの体なる教会が生まれました。今も私たちが一つになり、キリストに似る者となるためには聖霊に導かれて祈りを共にすることが必要なのです。 Wed, 06 Feb 2019 00:10:00 +0000 恵みの賜物(エフェソの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190206 no 2019 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。 (エフェソの信徒への手紙3章7節) パウロは異邦人にキリストの福音を伝えるために「キリスト・イエスの囚人」、使徒とされました(1節)。彼は、かつては神を冒涜する者、キリスト者を迫害する者でしたが、神のご計画によって復活の主キリストと出会い、その生涯は180度変わりました。彼は、異邦人の救いのために「福音に仕える者」とされたことを「恵みを賜った」と言います。パウロの存在そのもの、残りの生涯のすべてが神の恵みの賜物となりました。 それは、パウロだけのことではありません。キリストを信じて神の約束の中に置かれている人は、皆が祝福された恵みの賜物としての生涯を歩むことがゆるされています。そして、その生涯を歩む中で、その人だけに与えられた能力、置かれた状況、境遇、果たさなければならない使命と役割といった、そのような恵みの賜物をもいただくのです。 さまざまな試練、苦難に遭い、不安と恐れ、虚脱感、無力感に陥ることもあるでしょう。しかし、いかなる時も「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(12節)。 Tue, 05 Feb 2019 00:10:00 +0000 新しい命に生きる(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190205 no 2019 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 (エフェソの信徒への手紙2章10節) 私たちは、かつては創造主なる神を知らずに生きていました。何もかもが自分の思い通りになると思い込み、欲望の赴くままに行動していました。自由を謳歌しているようで、実のところ「空中に勢力を持つ者」(2節)すなわちサタンの支配の下に置かれており、神の怒りを受けるべき罪の奴隷になっていました。その行き着く先は死と永遠の滅び。「罪が支払う報酬は死」です(ロマ6章23節)。 しかし神は、御自分に敵対し、罪の中に死んでいた私たちを捨て置かれずに、御自分の御子イエス・キリストを呪いの十字架に付け、死者の中から復活させられたことによって、神との和解を得させられました。罪のために死んでいた私たちはキリストにあって古い自分に死に、新しい命、永遠の命に復活させられ天の王座に着かせていただけるのです。 私たちが救われたのは、これからの人生を自らの楽しみ、栄光を求めて生きるためではありません。新しい命を与えられた私たちは、造り主なる神の目的に従い、地上において与えられた使命と役割の中で主に仕え、栄光をすべて神に帰して生きるのです。 Mon, 04 Feb 2019 00:10:00 +0000 ただ神の恵みにより(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190204 no 2019 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 (エフェソの信徒への手紙1章7節) 私たちは、イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受け、クリスチャンと呼ばれます。私たちの周囲にはクリスチャン以上に品行方正な人格者が大勢います。わたし自身、なぜ、自分のような者が信仰を与えられたのだろうかと自問自答した時期がありました。 人間の救い、そこには、人間にははかり知ることのできない神の深いご計画があります。私たちはみな、罪の中に生まれ、神を知らずして育ち、自分の欲望のままに自分の栄光を求めて生きていました。それは、死と滅びに至る道でした。しかし「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)。イエス・キリストは私たちのために呪われたものとなって、御自身の血潮を代価として罪の束縛から解放してくださいました。 これは、私たちの努力や功績によるのではありません。私たちに対する神の一方的な愛と憐れみによるのです。だからこそ、約束の確かさを確信し、神の栄光をたたえることができるのです。 Sun, 03 Feb 2019 00:10:00 +0000 遠く離れた貧しい人にも福音を(ルカによる福音書 4章21-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190203 no 2019 「確かに言っておく。エリヤの時代に3年6か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」 (ルカによる福音書4章25節~26節) 主イエスは郷里のナザレに帰って来られました。主は安息日に会堂で、イザヤ書の御言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました。「貧しい人に福音を告げ知らせる」救い主とはご自分のことであると、故郷の人びとに明らかにされたのです。 その話を聞いた人びとは皆、主イエスをほめ、その恵み深い言葉に驚きました。しかし、主の近くにいたはずの彼らは主イエスを「ヨセフの子ではないか」と言い、神の子メシアと信じることはなかったのです。主はそのような人びとに、預言者が故郷では歓迎されないことを語ります。 エリヤはシドン地方に遣わされましたが、そこは異邦の国で、エリヤが戦ったアハブ王の妻イゼベルの出身地でした。つまり、当時、もっとも救いには遠いと思われる場所にいたやもめのところに、エリヤは遣わされたのでした。 主イエスは、そのように神から遠く離れた貧しい人にも福音を告げ知らせておられます。キリストに近い者とされた私たちは、この主の宣教の働きを喜んで受け入れたいと思うのです。 Sat, 02 Feb 2019 00:10:00 +0000 力を捨てて、神を知る(詩編 46編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190202 no 2019 「力を捨てよ、知れ わたしは神。 国々にあがめられ、この地であがめられる。」 万軍の主はわたしたちと共にいます。 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。 (詩編46編11節~12節) きょうの詩編は、危機的状況のただ中で、それを超えて働かれる神への信頼を歌います。天変地異の中にあっても、私たちの神は天地万物を創造された神。政治的な混乱と戦争の動乱の中にあっても、私たちの神は歴史を支配される神。私たちの避けどころや砦となって守っていてくださるインマヌエルなる神。そして、圧倒的な力で争いを止められる万軍の神。だから、この神を信頼する私たちには恐れはないと、信仰の確信が民を支えます。 その民に、神は「力を捨てよ」と呼びかけます。自らの残っている力や武器で戦うことをやめ、静まって、完全に神の御業に身を委ねることを求められます。神への全面的な降伏、それは神への全面的な信頼の証なのです。 時に神は、人間の営みを圧倒的な力で止められることがあります。自然災害や戦いのあと、人が自らの無力さに覆われ、荒廃した大地が人の営みの止んだ静けさに覆われているそのただ中で、人も自然も呼びかけられます。「知れ、わたしは神」である、と。この御声に聞き従う者には、どのような時も神の平和が与えられます。 Fri, 01 Feb 2019 00:10:00 +0000 キリストの花嫁に授けられる愛の冠(詩編 45編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190201 no 2019 「娘よ、聞け。 耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。 あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。 王はあなたの美しさを慕う。 王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。 ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え あなたが顔を向けるのを待っている。」 (詩編45編11節~13節) きょうの詩編は、王と王妃の婚礼を美しい言葉で飾る歌です。前半は、王のことが描かれます。その姿は麗しく、語る言葉は優雅。人生は神の祝福に満ち、正義の戦いにおいて敵を制圧し、真実と公正をもって国を治め、神に忠実に従う。香り高い衣装に身を包み、華やかな宮殿に住まわれる御方、と。 後半は、王妃となる花嫁が描かれます。彼女は艶やかに着飾り、お付きの者たちを従え、参列者たちの祝福の中を、王座に就く王のもとに導かれます。彼女は外国人でありながら、王妃となったのでした。その彼女に、「父の家を忘れ、ただ王に従いなさい、王はあなたを心から愛している」と、呼びかけられます。彼女の支えは、王が自分を愛してくれているということであり、王の愛を全身に受けてその御前にひれ伏し、王妃の冠を受けるのでした。 この王の姿に栄光のキリストの姿を見、この花嫁に教会の姿を見るとき(黙19章6、7節)、私たちはキリストを信じる者とされた栄誉と注がれる愛を新鮮な思いで身に受けます。きょうも、あなたの頭にキリストが愛の冠を授けてくださいます。 Thu, 31 Jan 2019 00:10:00 +0000 備えられている主の贖いと慈しみ(詩編 44編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190131 no 2019 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。 我らが貧しく、虐げられていることを 忘れてしまわれたのですか。 我らの魂は塵に伏し 腹は地についたままです。 立ち上がって、我らをお助けください。 我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。 (詩編44編25節~27節) きょうの詩編は、痛々しい叫びの詩です。詩人は主なる神を信じる伝統の中に生まれました。父祖から、主がどのようにイスラエルを救われたのかを聞いて育ちました。自分たちの力や能力によらず、ただ主の御手がイスラエルに勝利をもたらしてきたことを誇りとしてきたのです。 しかし、苦難が詩人らを襲います。敗戦、略奪、離散、奴隷とされ、嘲りの的となります。彼らは、必死に主に信頼を置き、忠実であろうとしますが、都は廃墟と化し、人びとは蹂躙され、死が眼前にあるのです。悲惨の極みの中で詩人は主に訴えます、「主よ、我らを贖い、あなたの慈しみを表してください」と。主を信じていてもなお苦しめられ、慈しみと憐れみが見えなくなる中で絞り出された信仰の叫び声です。 苦難の中で主の慈しみを見失いそうになったときでも、主は救いを用意してくださっています。詩人は、自分たちを「屠るための羊」(23節)とたとえましたが、その身代わりに、「屠り場に引かれる羊」となってくださったのはイエス・キリストでした。十字架の姿を見るとき、解放と勝利は私たちと共にあるのです。 Wed, 30 Jan 2019 00:10:00 +0000 率直に救いを懇願する者の祈り(詩編 43編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190130 no 2019 神よ、あなたの裁きを望みます。 わたしに代わって争ってください。 あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者 よこしまな者から救ってください。 (詩編43編1節) きょうの詩編は、昨日の続きで、自らの罪のゆえに礼拝の交わりから絶たれ、罪と恥のうちにあった詩人ですが、その嘆きを余韻として残しつつも、率直に救いを懇願する祈りをささげます。ここで彼は神に正当な裁きを求めていますが、それは単に、自分は罪を犯していないのだと主張しているのではありません。彼は神に裁かれ罰を受けていることを知っています。しかし神は、罰を受け、悔い改める者を赦し、今度は彼の側に立って戦ってくださる。彼はそのことを信頼して、神の御前に進み出て願うのでした。 人はさらに彼を貶めようとしますが、彼は神の光と真実に救いを求めます(3節)。世の闇を照らして何が真実であり偽りであるかを明らかにしてくれる方、神から遣わされ神のもとに導いてくれる方です。詩人はその方に自らを託し、再び自分を生かすあの楽しかった礼拝に戻る希望を抱くのでした。 どのような時でも、私たちの神への信頼は失せることはありません。きょうも御言葉があなたの魂を励まします。神の光と真実であられる主イエス・キリストがあなたと共におられる、と。 Tue, 29 Jan 2019 00:10:00 +0000 嘆きの底に与えられる希望(詩編 42編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190129 no 2019 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。 神を待ち望め。 わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。 わたしの神よ。 (詩編42編12節) きょうの詩編は、魂の慟哭が聞こえてくるような嘆きの詩です。詩人はエルサレム神殿で奉仕する者の1人でした。しかし、何らかの理由で、「ヘルモン」(7節)というイスラエル北の果てまで連れてこられ、囚われの身になりました。その姿はかつての神殿奉仕者の輝きや誇りはなく、嘆きと嘲りにまみれています。人びとからは、その罪ゆえに神に見捨てられた者として扱われ、肉体的にも精神的にも傷ついた日々を送っています。彼自身がこれは神の怒りであると知り、神の恵みも見えなくなりそうでした。 しかし、その嘆きの只中で彼は「枯れた谷に鹿が水を求めるように」神を渇望します(2節)。確かに今の状況は神の裁きであり、激流のように彼を襲いかねない(8節)。しかし、神は彼の救いの岩として共におられ、たとえ彼の内に希望がなくとも、彼の希望はいつも神にあって失われない。その信仰が、彼の魂に呼びかけます。何を沈んでいるのだ、何をぶつぶつ言っているのだ。神があなたを救ってくださるではないか、と。 「御顔こそ、わたしの救い、わたしの神よ」。この告白がきょうも私を支えています。 Mon, 28 Jan 2019 00:10:00 +0000 弱さを知る者の幸い(詩編 41編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190128 no 2019 いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。 災いのふりかかるとき 主はその人を逃れさせてくださいます。 (詩編41編2節) きょうの詩編は、弱さを知る者の幸いを自らの体験をもって証しします。2節の「思いやりのある」は感情的な言葉ではなく知的な意味で、洞察する、熟知する、よく知ると訳すことができる言葉であり、詩人は病の中で自らの弱さを知ることとなります。病気で力を失い、自分では何もできなくなります。 さらに、床に伏している彼を襲ったのは孤独でした。見舞い客の言葉はすべて心ない言葉に聞こえ、外に出れば彼を中傷し、仲間たちさえも「彼はもう終わりだ」と足蹴にしていると考え、心も体もぼろぼろになります。 その彼を救ったのは、神の存在でした。彼は、ただ神にのみ依り頼み、自らを正当化して他者を呪うのではなく、罪の告白と共に「主よ、憐れんでください」と神の憐れみを祈り願います(5節)。神はわたしを愛し、赦しておられる、わたしに悪意をもつ者が勝利することはない。この信仰が、彼をどん底から引き上げ、神を賛美する者へと立ち直らせたのでした。 弱さを知る者は幸いです。なぜなら、弱さのただ中で働く神の憐れみと救いを知っているからです。 Sun, 27 Jan 2019 00:10:00 +0000 聖書の言葉は実現した(ルカによる福音書 4章14-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190127 no 2019 「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。」 …そこでイエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 (ルカによる福音書4章18節~21節) 主イエスは故郷ナザレに戻って来られました。ある安息日にユダヤ人の会堂でささげられていた礼拝で、主イエスはイザヤ書の御言葉を朗読されました。その朗読された箇所に、「福音(良い知らせ)」という言葉が出てきます(イザヤ61章1節)。 「福音」とは、王子などが誕生したときに町全体に告げ知らされるグッドニュースのことです。イザヤ書の場合、グッドニュースは「貧しい人、捕らわれている人、圧迫されている人」に与えられる解放の言葉です。苦しんでいる人が解き放たれて、自由が与えられるということです。 主イエスはこの言葉を朗読した後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。グッドニュースを届ける人物は、まさにイザヤ書を朗読した主イエスご自身だったのです。主イエスは、罪の中でもがき苦しんでいる私たちに自由を与えるためにこの世に来てくださいました。長い間、読まれ続けてきたイザヤの言葉は実現したのです。 神が人間をお救いになるご計画は、決して揺らぐことがありません。主イエスの宣言は、その証です。 Sat, 26 Jan 2019 00:10:00 +0000 主の再臨まで忍耐する(ヤコブの手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190126 no 2019 主が来られるときまで忍耐しなさい。…心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。 (ヤコブの手紙5章7節~8節) 犯罪や自然災害により、社会的な不安が増大すると、しばしば世も終わりだと言われます。終末思想自体は他の宗教や思想でも説かれます。しかし、聖書が教える終末は、永遠の計画に従った神ご自身の働きによってもたらされます。その計画は、創造に始まり、摂理の中で成り行き、そして最後に完成します。この間に、人間の堕落と神の救いがあります。 旧約聖書は救い主の到来と神の民の完成を預言しましたが、新約聖書はキリストの到来を証言し、キリストの再度の到来を約束しています。キリストは既に一度来られ、十字架と復活による真の救いを成し遂げて、父なる神のもとに昇天されました。今、別の助け主である聖霊によって地上の教会を守り、導いておられます。 キリストは、神が定められた時に再び来られ、世界を審判されます。その審判は、私たち信仰者の神の前における正しさ(義)の最終宣言です。これは私たちの確かな希望です。ですから、私たちはどんな困難や試練に遭っても忍耐しましょう。主の再臨が確実に近づいているからです。 Fri, 25 Jan 2019 00:10:00 +0000 神に服従、悪魔に反抗(ヤコブの手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190125 no 2019 神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。 (ヤコブの手紙4章7節~8節) 信仰生活は、この世にある限り、罪との戦いが避けられません。罪はサタンの悪意によって、人間に入り込みました。サタンの目的は、神の民を罪(神への不信仰・不従順)へと誘惑し、神の計画を失敗させることです。しかし、そのようなことは不可能であることを、サタン自身が知っています。それでも、それをやめない・やめられないというこの自己矛盾、それがサタンの本質であり、最終的に成り立ちません。神に滅ぼされるだけです。サタンはこのことを恐れているのです。 私たちが神に近づき、服従するほど、サタンは神への恐れのために私たちから遠ざかります。この典型がイエス・キリストの地上の歩みです。サタンは、主が神を信じ神に従う方であることを知っていますから、敢えて神の言葉を引用・濫用して、自分の勧めに従うことが神への信仰と従順であるかのように誘惑します。しかし、主は神の言葉を正しく引用し、それに依拠して、サタンに対抗されました。それで、サタンは主から離れました。 主の歩みは私たちの歩みの基礎・規準・目標です。 Thu, 24 Jan 2019 00:10:00 +0000 舌を制御する(ヤコブの手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190124 no 2019 言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。…舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。 (ヤコブの手紙3章2節、5節) 舌は口の一部で、言葉を語るための不可欠の器官です。言葉は意思表示の手段で、言葉を語ることは意思表示そのものであり、語る人自身を提示していると言えます。そして、声の大小、高低、速い遅いなどは、語られる事柄の重要性にも関係しますが、多分にその人自身の人となりや性格に強く支配されます。 罪は心に生じ、体の諸部分の働きを通して、具体的行為となって現れますが、舌の働きとその結果はこのことの代表、また象徴です。舌は体の中で極めて小さな器官に過ぎませんが、その働きはその人の全体、その人自身を左右するほどのものです。それゆえ、舌と言葉を制御することは、自分自身を制御することの現れであり、またその重要な方法です。 舌はしばしば嘘をつきますが、嘘は単に事実でないことを語るにとどまらず、大言壮語して、おごり高ぶったり、人をだましたり、傷つけたりすることに発展します。舌を制御することは、言葉や行動で罪を犯さないことの条件です。それは、神の言葉によって自分を制御することによってのみ可能です。 Wed, 23 Jan 2019 00:10:00 +0000 行いを伴う信仰(ヤコブの手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190123 no 2019 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 (ヤコブの手紙2章17節) 罪人が救われるのは、イエス・キリストへの信仰によってのみであり、決して善き行いによってではないということ。これは救いについての聖書の中心的な教えです。キリストは神の裁きを受けて十字架上に死に、3日目に復活されました。それは、私たちがこのキリストのみを自分の救い主と信じて、救われるためです。 キリストを信じるとは単に、頭の中で聖書の教えを本当だと思う、口でそう語るということにとどまるものではありません。信じるとは(正しい理解を含め)信頼する、依存する、従うことです。分かりやすく言えば、キリストが生きられたように生きることです。 主は神の愛の御心である律法を真剣かつ十分に実践されましたが、これは神に対する主の信仰の証です。私たちもキリストにあって、聖霊に導かれて、聖書に啓示されている神の御心を可能な限り実践することが重要です。それが、キリストを信じるということなのです。ヤコブは決して信仰プラス行いと言っているのではありません。行いは信仰の必然的な実りなのです。 Tue, 22 Jan 2019 00:10:00 +0000 試練を耐え忍ぶ(ヤコブの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190122 no 2019 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 (ヤコブの手紙1章12節) 信仰生活を続けていると、必ずと言っていいほど、信仰に伴う困難・苦悩を経験します。特にクリスチャンでない人たちに囲まれて生活し、また仕事をしているときは、なおさらです。 しかし、すべてのことは愛の神がなさることです。愛の神がそのようなことをするのか?といぶかるかもしれませんが、愛とは単に好きということではありません。神は、私たちが神の民、また子どもとして、信仰的に、霊的により成長し、ますますイエス・キリストに似るように変えてくださいます。そのために、私たちを訓練し、鍛えておられるのです。神の民の、また家族の一員として適格になれるように、常に助け、導いてくださいます。試練は、逆説的ですが、私たちに対する神の愛の証です。 この典型が、イエス・キリストご自身です。主はあらゆる試練に耐え、神への信頼と従順を貫かれました。それに対する神の報いが永遠の命への復活です。私たちも主に依り頼んで、御国の永遠の祝福に向かって、いかなる試練をも耐え忍んで、進んで行きましょう。 Mon, 21 Jan 2019 00:10:00 +0000 嗣業を受けた娘たち(民数記 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190121 no 2019 「嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはないであろう。イスラエルの人々の諸部族はそれぞれ、自分の嗣業の土地を固く守ることができよう。」 (民数記36章9節) ヨセフの子マナセの一族であるツェロフハドの娘たちが、約束の地の分配にあたって父や男の子がいないことが理由で分配を受けられないことがないように、モーセに訴え出ました。そのとき、神はこの訴えを正しいと言われて、その娘たちに父の受ける分配をきちんと割り当てました。27章に記されています。 36章では、その娘たちが結婚したとき、彼女たちの受けた嗣業の土地が結婚した相手の部族の土地に移ってしまうのではないかという心配を、マナセの一族が訴えています。神はこの訴えも正しいと言われて、同族での結婚を指示されます。この娘たちが嗣業の分配を受けたり、それが結婚によって損なわれたりということがないように、神は計らわれました。 この出来事は、神の民はどんなに小さな者であっても神の約束から漏れることがないことを教えています。また、その受け継ぐべきものが失われることもありません。それは、神ご自身が私たち1人ひとりに、「自分の嗣業の土地」という受け継ぐべきものを割り当ててくださるからなのです。私たちの嗣業も失われることがないと約束されています。 Sun, 20 Jan 2019 00:10:00 +0000 わたしの時はまだ来ていない(ヨハネによる福音書 2章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190120 no 2019 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 (ヨハネによる福音書2章4節) 主イエスはカナの結婚式において、最初のしるしを行われました。この時代の婚礼の祝宴は、1週間にわたって続けられます。その華やかな食事の最中にぶどう酒がなくなりました。華やかな喜びのときにぶどう酒がなくなることは、大きな失態だと言わざるを得ません。その中で、主イエスは水がめの水をぶどう酒に変えられました。 こうして、喜びが失われそうになったときに、主イエスは喜びをもたらされました。しかも、変えられたぶどう酒は良いぶどう酒でした。主が与えられるものは、非常に良く、すばらしいものなのです。 主イエスは母マリアに「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。「わたしの時」とは、主イエスの十字架の死を意味するでしょう。確かに十字架はまだ来ていません。けれども、この婚礼のしるしによって、十字架と復活を指し示されました。主イエスが来られたのは、その喜びをもたらすためなのです。 私たちは主イエスの十字架と復活によって、このぶどう酒よりはるかに勝った喜びをいただいています。主イエスから与えられる喜びによって生かされて参りましょう。 Sat, 19 Jan 2019 00:10:00 +0000 逃れの町(民数記 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190119 no 2019 あなたたちの住む土地、わたしがそこに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしがイスラエルの人々のただ中に宿っているからである。 (民数記35章34節) 神は、カナンの土地の分配にあたって、それぞれの部族の土地から一部をレビ人に与えることと、過って人を殺した者が逃げ込むための逃れの町を定められました。 人が「敵意もなく」「故意にではなく」(22節)、過失で人を死なせた場合、逃れの町に逃れることができます。共同体は裁判を行い、過失が確認されると、彼を血の復讐をする者の手から救い出し、逃れの町に帰さなければなりません。彼は逃れの町にとどまり、大祭司が死んだ後はじめて自分の本来の土地に帰ることができます。これは、大祭司の死によって過失の罪が贖われることを意味するでしょう。そして、このことは、私たちが永遠の大祭司キリストの血によって贖われて、天の御国に帰ることができることと重なります。 神は、いにしえの昔から民の間で起こる悲劇を見越して、民が救われるように考えておられました。そして、大祭司による贖いを示して、主が「イスラエルの人々のただ中に宿っている」ことを教えられたのです(34節)。 逃れの町の定めは、私たちの逃れ場が主イエスにあることを思い起こさせます。 Fri, 18 Jan 2019 00:10:00 +0000 旅程と約束の地(民数記 33-34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190118 no 2019 イスラエルの人々は、第1の月の15日にラメセスを出発した。すなわち、過越の翌日、すべてのエジプト人の目の前を意気揚々と出て行った。エジプト人はそのとき、彼らの間で主の撃たれたすべての初子を葬っていた。主は彼らの神々に裁きを下されたのである。 (民数記33章3節~4節) 神はモーセにエジプトから約束の地カナンまでの旅程を書き留めさせています。40年に渡る荒れ野の放浪では実に多くの場所に宿営しました。宿営地の記録を見るとさまざまな出来事を思い起こします。神の恵みと救いもあれば、民の不信仰や弱さを思い返す場所もあります。神の民の旅程の記録を見ていると自分の人生を振り返るような思いがします。 私たちは、その途上では、目の前にある困難で精一杯で、先のことなど考える余裕がないかもしれません。困難を乗り越えると安心してしまい、振り返ることも少ないかもしれません。荒れ野の旅程の記録は、振り返って目指してきたところを思い出すことの大切さを教えています。 思い返せば、神と共なる人生の旅は、意気揚々とエジプトを出てきたところから始まりました。イスラエルの民を奴隷としていたエジプトの神々に、神が裁きをくだされて、イスラエルの民は自由になったのです。 私たちも自らの信仰の旅路を振り返ります。神の恵みによって救い出され、自由になった日のことを思い返して神の国を目指しましょう。 Thu, 17 Jan 2019 00:10:00 +0000 神の約束に向かって(民数記 31-32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190117 no 2019 モーセはガドとルベンの人々に言った。 「同胞が戦いに出ようとするのに、あなたたちは、ここにとどまるつもりなのか。なぜ、主が与えてくださる土地に渡って行こうとするイスラエルの人々の心を挫くのか。」 (民数記32章6節~7節) 神の約束の地を目指してヨルダン川の東側を北上してきた民でしたが、ルベンとガドの人びとが北上の途中で手にした土地に留まりたいとモーセに願い出たとき、モーセはこれを叱りました。40年前にカナンを偵察したときのことを思い出したからです。 約束の地は個人プレーではなく神の民全体であずかるものであること、また、そのために神ご自身が民を導いて戦ってくださったことを思い起こします。このとき、ルベンとガドの人びとはその土地を嗣業として受け継ぐことを許されましたが、戦いそのものは民全体と共にすることへと導かれました。 主イエスも、神の国を目指す者の覚悟をお教えになりました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9章62節)。神は、十字架と復活を目指して歩まれた主イエスを私たちにお与えになりました。主イエスを通して罪の赦しと永遠の命の約束に招いてくださったのです。その主イエスは私たちの救いのために戦われます。神の約束に招かれた者は後ろを振り返ることなく、その約束に向かって進むべきなのです。 Wed, 16 Jan 2019 00:10:00 +0000 主の祝日(民数記 28-30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190116 no 2019 イスラエルの人々に命じて、こう言いなさい。 あなたたちは、わたしの食物である献げ物を、燃やしてささげる宥めの香りとして、定められた時に忠実にわたしにささげなさい。 (民数記28章2節) モーセは約束の地に入るにあたって人口調査をおこないました(26章)。その調査に基づいて、神は、くじを用いて嗣業の土地を分配されました。神はまことに公平なお方です。 その土地分配に続いて献げ物の規定が記されています。この規定で感心させられるのは、定められた日のことです。順に紹介すると、まず「毎日、朝夕に」、続いて「安息日には」、「毎月の1日には」、「第1の月の14日は」、「初物の日、すなわち七週祭」、「第7の月の1日には」、「第7の月の10日には」、「15日には」、そして最後に15日から始まる7日間の主の祝いを1日ずつ指示しています。これは、言い換えれば、神の民の1日1日の歩みが神の恵みによって営まれ、神に祝福され、主に執り成されて支えられていることにほかなりません。 ザアカイを探し求めて見いだした主イエスが、「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19章9節)とおっしゃいました。私たちを探し求めてくだる主イエスによって、私たちの1日1日もまた、主の恵みの日とされています。 Tue, 15 Jan 2019 00:10:00 +0000 群れを率いる牧者(民数記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190115 no 2019 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」 (民数記27章16節~17節) イスラエルの民が約束の地に入る前に、神は、モーセに代わってヨシュアを指導者とするように指示されます。モーセ自身も、自分が約束の地に入ることができないと知ったとき、自分に代わる共同体の指導者を神に求めました。「飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」というモーセの祈りは、主イエスが飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆をご覧になり、深く憐れまれたのと同じです(マタ9章36節)。 神の民、信仰共同体は、民がいれば成立するものではなくて、その共同体を率いる者、指揮する人がいなければ、出陣も凱旋も、進ませたり連れ戻したりすることもできない群れとなります。そして、その真の牧者は神ご自身なのです。 ですから、神が立てられた牧者は自分勝手に指揮するのではなく、神の聖なることを示す者でなければいけません。牧者であったモーセは、その使命を十分果たせなかったため、約束の地を見渡すことはできましたが、約束の地に入ることは許されませんでした。牧者の働きを覚えて祈りましょう。 Mon, 14 Jan 2019 00:10:00 +0000 わたしが民に抱く熱情(民数記 25-26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190114 no 2019 「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。」 (民数記25章11節) 神は、神の民イスラエルに呪いをかけようとするモアブの王の試みをしりぞけて、呪いを祝福へと変えられました。そして、約束の地は目前にありました。ところが、それを阻もうとする真の敵が現れます。それは、モアブの娘たちに従って持ち込まれた偶像崇拝です。 このとき、祭司アロンの孫のピネハスが槍を手に取り、背信した民を突き刺しました。それゆえ、主は、ピネハスが永遠の祭司職の契約にあずかると宣言されます。それは彼が、神がイスラエルの人びとに抱く熱情と同じ熱情によって民を誘惑の危機から救ったからでした。 このピネハスと同じような熱情を主イエスも神殿で表されました。主イエスが神殿の境内から両替人や商売人を追い出されたとき、弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあることを思い出しました(ヨハ2章17節)。 神に愛されながらも同じような熱情をもてず、誘惑に弱い私たちです。私たちが神の約束にあずかる者とされているのは、同じ熱情をもって執り成してくださる祭司イエスのゆえなのです。 Sun, 13 Jan 2019 00:10:00 +0000 わたしよりも優れた方が来られる(ルカによる福音書 3章15-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190113 no 2019 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 (ルカによる福音書3章16節) 洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネの活動を見て、メシアを待ち望んでいた人びとは、もしかしたら彼がメシアではないのかと考え始めました。しかし、洗礼者ヨハネはそれを否定します。「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」。 履物のひもを解くことは、当時、奴隷が行う仕事でした。すなわち、ヨハネは自分が奴隷になることもできないほど、優れた方が来ると証ししたのです。その優れた方とは、主イエスです。洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を授けていましたが、彼自身や彼の行った洗礼そのものに赦す力があるのではありません。罪を赦し、人の人生を新しくするのは、救い主である主イエスなのです。 優れた方が地上に来られました。私たちは日々、罪を犯します。しかし、私たちは優れた方、主イエスによって、決定的に罪赦されています。私たちは、この優れた方、主イエスに結び合わされて、新しい人生を歩むものとされているのです。 Sat, 12 Jan 2019 00:10:00 +0000 祝福された民(民数記 23-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190112 no 2019 いかに良いことか ヤコブよ、あなたの天幕は イスラエルよ、あなたの住む所は。 … あなたを祝福する者は祝福され あなたを呪う者は呪われる。 (民数記24章5節、9節) モアブの王バラクは、信頼をよせる占い師バラムを呼びつけ、バラムに命じて神の民イスラエルに呪いをかけようとします。しかし、逆にバラムをして神はイスラエルを祝福されます。モアブの王は場所を替えて三度も呪うことを試みますが、すべて失敗に終わります。それどころか、回を重ねるごとに、バラムの口から出る託宣は神の民の祝福が取り消せないものであることを明らかにしました。バラム自身、「イスラエルを祝福することが主の良いとされることである」と悟ることとされました(24章1節)。 モアブの王とバラムのやりとりは、イスラエルの民の知らないところで起こりました。この出来事は、神の民を外から見たとき、神が神の民と一緒におられることを教えています。近すぎるがゆえに、神が一緒にいてくださることの幸いがよくわからなくなることがあるかもしれません。けれども、神が一緒におられる幸いは明らかなのです。 主イエスは私たちに約束されました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)。主が共におられる幸いを覚えましょう。 Fri, 11 Jan 2019 00:10:00 +0000 民を呪ってはならない(民数記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190111 no 2019 神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」 (民数記22章12節) イスラエルの民が荒れ野を進んでモアブの平野に宿営した時、モアブの王バラクは占い師ベオルの子バラムを招いて、イスラエルに呪いをかけようとしました。しかし、神はバラムに「呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と戒められました。神はイスラエルの神ですが、外国の占い師にも臨んで、ご自分の民たちの祝福とその歩む道を守ろうとされます。 いったんは王の要請を拒んだバラムでしたが、再三の要請に結局こたえてしまいます。神もそれを許しましたが、モアブの王のところに出向く途上、神は御使いをもって行く手をはばみます。この御使いを見たろばが危険を回避しますが、バラムにはそれが見えません。その後、神はバラムの目を開いて、ろばによって自分が救われたことを教えられます。 主なる神は、こうして占い師バラムを訓練して、ご自分のしもべとして仕えさせました。「ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」。神は異教の占い師さえも、しもべとされるお方です。 今日も、主なる神は異教の民をも用いて、ご自身の民を守り支えてくださいます。 Thu, 10 Jan 2019 00:10:00 +0000 恐れてはならない(民数記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190110 no 2019 主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。あなたは、ヘシュボンの住民アモリ人の王シホンにしたように、彼にもせよ。」 (民数記21章34節) イスラエルの民を滅ぼそうとして、バシャンの王オグが全軍を率いて南下してきました。バシャンの王オグは体の大きなレファイム人の生き残りだと考えられており(申3章11節)、また、強い軍隊を持っていました。 40年前、イスラエルがカナンに偵察に行った時、民は背の高いアナク人を見て怖気づき、カナンに入ることを拒否しました。したがって、この時オグと戦うことは、イスラエルにとって大きな試練でした。それゆえ、主なる神は、モーセを通してイスラエルを励ましました。イスラエルは、主に励まされて試練を乗り越え、戦いに勝利しました。 イスラエルが強大なオグの軍に勝利できたのは、多くの武器や強い軍を持っていたからではありません。それは、この戦いが主の戦いであり、イスラエルが、主に信頼し、すべてを主に委ねて戦ったからです。まさに、この戦いは信仰の戦いであったのです。 主イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われました(マタ10章28節)。主の言葉に励まされ、勇気を出して、信仰の道を歩みましょう。 Wed, 09 Jan 2019 00:10:00 +0000 生きた水が流れ出る(民数記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190109 no 2019 そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。 (民数記20章10節~11節) 再びイスラエルの民は、飲み水を巡って、モーセとアロンに不平不満を言い、主に逆らってしまいました。 私たちは改めて、民の不信仰の根深さを思わされます。ただ、それにも関わらず、主は、モーセに対して、「共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」とおっしゃいました(8節)。 しかし、このときモーセは大きな失敗を犯しました。モーセは主の名によって岩に命じるのではなく、民に怒りを示し、岩を杖で二度打ってしまったのです。モーセはこのとき、イスラエルの人びとの前に、主の聖なることを示さなかったのです(12節)。ただ、それでも神はイスラエルの民を憐れみ、岩から水を出して、渇いた民や家畜を癒やされました。 この水を出した岩はイエス・キリストを象徴していると、新約において理解されています(1コリ10章4節)。主イエスは私たちの不信仰の中にあっても、私たちを憐れみ、私たちの中に生きた水、永遠の命に至る水を川のように流れさせてくださいます。聖霊と御言葉を通して、主イエスが与えてくださる水に、日ごとにあずかりましょう。 Tue, 08 Jan 2019 00:10:00 +0000 身を清めなさい(民数記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190108 no 2019 どのような人の死体であれ、それに触れた者は7日の間汚れる。彼が3日目と7日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、3日目と7日目に身を清めないならば、清くならない。 (民数記19章11節~12節) 19章では清めの儀式について、中でも11節以下には、死体に触れた場合、人骨や墓に触れた場合の清めの儀式について記されています。 人間であれ動物であれ、死体は腐敗します。しかし、それは衛生面から汚れるという以上に、宗教的な汚れ、すなわち罪と深い関係がありました。なぜなら、死はアダムの犯した罪によって、世に入り込んで、すべての人に及んだからです(ロマ5章12節)。それゆえ、人は清くなければ神の御前に出ることはできません。神は聖なる方であるからです(レビ11章44節)。神はこのことを教えるために、死体に触れることを強く戒められ、もし触れた場合には、雌牛の灰によって作られた罪を清める水で、身を清めるよう命じられました。 今日の私たちは、こうした清めの儀式を行いません。なぜなら、「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血」によって贖われ、聖なる者とされ、清められているからです(ヘブ9章14節)。聖霊によるキリストとの交わりを通して、絶えず清めにあずかりましょう。 Mon, 07 Jan 2019 00:10:00 +0000 罪を贖うための働き(民数記 17-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190107 no 2019 アロンは、モーセの命令どおりに行い、集結している人々の中へ走って行った。疫病は既に民の間に広がり始めていた。アロンが香をたき、民のために罪を贖う儀式を行い、死んだ者と生きている者との間に立つと、災害は治まった。 (民数記17章12節~13節) イスラエルの民が再びモーセとアロンに反逆したため、主は疫病の裁きによって民を滅ぼそうとなさいました。しかしこのとき、祭司アロンの犠牲的な贖いの働きによって、共同体は全滅を免れました。そして、主はこの後、18章で、罪の贖いのための祭司の責任と神殿で神に仕えるレビ族の責任について教えられます。 私たちはイスラエルの姿を通して、悔い改めず、何度も罪を繰り返す人間の罪深さを改めて覚えさせられます。真に、「正しい者はいない。1人もいない」(ロマ3章10節)と聖書が語る通りです。 しかし、だからこそ、神は罪を贖うための手段をイスラエルに示し、祭司やレビ族を与えてくださったのです。そして、最後には永遠の大祭司としてイエス・キリストを与えてくださいました。キリストは「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ9章12節)。 私たちは、キリストの祭司としてのお働きのゆえに、罪を贖われ、和解の恵みに入れられています。絶えず罪を悔い改め、和解の恵みの中を歩みましょう。 Sun, 06 Jan 2019 00:10:00 +0000 安心しなさい。恐れることはない(マルコによる福音書 6章45-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190106 no 2019 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 (マルコによる福音書6章50節) 主イエスの弟子たちは一晩中、暗闇の中で舟を漕いでいました。しかし、逆風のために舟は全く進みませんでした。そうして弟子たちが必死に舟を漕いでいると、主イエスは湖の上を歩いて、そばを通り過ぎようとされました。弟子たちは非常に恐れましたが、主イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃって、舟に乗りこまれると、風は静まりました。 私たちの歩みも、弟子たちの舟のように、逆風に襲われることが多くあるかもしれません。進もうとしても進むことのできない困難にぶつかることが、今年もあると思います。神を信じていても、全ての悩みから解放されるわけではありません。私たち1人ひとりには多くの悩みがあり、祈りながらも解決されないことが多くあります。 そのような中でも、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるお方が私たちの舟に乗り込んで、歩みを共にしてくださるということに、心を留めたいと思います。それゆえに、私たちは平安の内に歩き出せるのです。いつまでも、どこまでも、主イエスと共に歩き続けられるのです。 Sat, 05 Jan 2019 00:10:00 +0000 滅びから救われるために(民数記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190105 no 2019 地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。彼らと彼らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして、会衆の間から滅び去った。 (民数記16章32節~33節) 反逆を企てた者たちは、地に呑み込まれ、共同体の中から滅び去りました。私たちは改めて、主の裁きの厳しさ、恐ろしさを教えられます。主は、反逆する者たちを決してお赦しになりません。 しかし、同時に主は、モーセとアロンの執り成しを通して、罪を犯した者たちを悔い改めさせ、救いたいと望んでおられることも事実です。主は民が罪を犯しても、何度も忍耐し、悔い改めるのを待ってくださるお方です。 反逆者に対する主の裁きが告げられたとき、モーセらは言いました。「神よ。あなたは、1人が罪を犯すと、共同体全体に怒りを下されるのですか」と(22節)。いやむしろ主は、究極の忍耐、究極の執り成しとして、独り子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。もし、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架に架けられ、裁かれ、陰府に下ることが無かったなら、私たち自身が裁かれ、陰府に落ち、滅ぼされていたはずです。 私たちを滅びから救ってくださった主の忍耐と愛を深く覚えます。絶えず悔い改めと感謝をもって主に従って行きましょう。 Fri, 04 Jan 2019 00:10:00 +0000 それでも神の約束は変わらない(民数記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190104 no 2019 あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。 (民数記15章40節~41節) イスラエルの民は、神に背いたため、約束の地カナンに入ることができなくなりました。彼らは40年間、罪を負わなければなりません(14章34節)。しかし、15章で、神は献げ物に関するさまざまな規則を民に命じています。その目的は、イスラエルの民に罪の悔い改めと神への服従を教え、彼らを再び約束の地に導くためでした。 特に、22節以下では、贖罪の献げ物について記されています。神は聖なる方ですから、罪が赦されるためには、罪の贖いがなされなければなりません。神はそれをイスラエルに教え、主の民としての信仰を成長させようとされました。 「わたしはあなたたちの神、主である」という言葉が二度繰り返されて、15章は締めくくられます。神は、イスラエルがどれほど罪を犯し、神に背いても、ご自分がイスラエルの神、主であるとの約束に忠実なお方です。 この約束を守るために、神は御子イエス・キリストを罪の贖いのための献げ物として世に遣わし、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。神の約束はとこしえに変わりません。 Thu, 03 Jan 2019 00:10:00 +0000 赦しの中にある主の力(民数記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190103 no 2019 今、わが主の力を大いに現してください。…どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。 (民数記14章17節~19節) 約束の土地を目の前にしながらも、イスラエルの民はその土地の人びとを恐れ、上って行こうとしませんでした。それどころか、彼らは、「エジプトに引き返した方がましだ」と言い出し(3節)、ヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしました。 まさにそのとき、主が介入なさいました。主の栄光が臨在の幕屋に現れ、主の言葉がモーセに告げられたのです。どこまでも頑なでいつまでも信じないイスラエルの民を、主が撃ち滅ぼす、とモーセに語りました。しかし、モーセは主に訴え、民のために執り成しました。それが本日の御言葉です。 このモーセの執り成しのゆえに、主はイスラエルの民を赦されました。滅ぼされて当然のイスラエルの罪を、主はそれでも忍耐し、赦すことを通して、主の栄光と力を現されたのです。 私たちは、その究極の姿をイエス・キリストの十字架に見ます。主イエスは、父なる神に私たちの罪の執り成しをしてくださり、そのために十字架に架かってくださいました。悔い改めと感謝をもって主に従って歩みたいと願います。 Wed, 02 Jan 2019 00:10:00 +0000 世の力を恐れてはならない(民数記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190102 no 2019 カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、…イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。 (民数記13章30節~32節) エジプトを脱出したイスラエルの民は、約束の地カナンの境界線に到達しました。それで、モーセは主の命令に従って、各部族から代表者を選び、彼らを遣わし、その地方を偵察させました。その結果、そこは神の約束どおり、乳と蜜の流れる豊かな土地であることが分かりました。 しかし、この時、偵察者たちは、カレブとヨシュアを除いて、この土地に上って行くことに反対しました。なぜならば、その土地には自分たちよりも強い民が住んでいたからです。町も強大な城壁に囲まれており、戦っても自分たちには勝ち目がないと思ってしまったのです。このときカレブは、主の約束と勝利を信じ上って行くべきであるとモーセに進言しました。しかし、民は神の約束を疑い、怖気づいてしまったのです。 私たちは、目に見えるこの世の力を恐れ、自分の弱さにのみ目が向いてしまうことがあります。しかし、主イエスは、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言って励ましてくださっています(ヨハ16章33節)。主の約束と守りを信じ、信仰の戦いへと遣わされたいと願います。 Tue, 01 Jan 2019 00:10:00 +0000 賞を得るように走る(コリントの信徒への手紙一 9章24-27節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20190101 no 2019 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 (コリントの信徒への手紙一9:24) 新しい1年が始まりました。1年間、さまざまな歩みがあると思います。パウロは信仰者の歩みを競技場で走ることにたとえました。私たちの人生は競技場で走ることと似ているからです。 年の初めからいきなり「賞を得るように走れ!」と言われても、気持ちが重いかもしれません。けれども、そもそも私たちは走ることすらできない汚れた罪人でした。主イエスが、その私たちの罪を赦して、立ち上がらせてくださいました。こうして、私たちは再び、人生を走ることができるようになりました。このこと自体が福音なのです。私たちは、新たな1年の始まりにあたり、この福音の喜びを再認識したいと思います。その喜びの中で、この1年も競技場を走ります。 パウロは、「賞を得るように走りなさい」と言いました。これこそ、私たちのレースの目的です。私たちが目指す賞とは、「朽ちない冠」です。この世のどんな栄光にも勝る冠です。この世の歩みが死で終わるのではなく、死の後、神から栄光の冠が与えられます。この冠を見据え、希望を持って今年も走り続けましょう。 Mon, 31 Dec 2018 00:10:00 +0000 弱い人を思いやる(詩編 41編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181231 no 2018 いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。 災いのふりかかるとき 主はその人を逃れさせてくださいます。 (詩編41編2節) 詩人は、病と人間関係に苦しみを抱えていました。当時、病の原因は本人の罪にあると見なされることがありました。そのため、訪ねてくる友人たちは、表向きは見舞いの言葉をかけ、裏では「呪いに取りつかれ」た、すなわち、神の罰を受けたのだと言います(6~10節)。詩人は病の癒しを願いますが、それは、病気の回復を通して自分と神との関係が正しいものであり、自分が神の御旨にかなうことを明らかにしたいからです(11~13節)。 詩人が自らの救いを信じる根拠は、「弱いものに思いやりのある人は幸いである」とおっしゃる神の憐れみ深さにあります。主御自身、弱いものを思いやるお方だからです。主は、主と同じようにあろうとする者に、幸せを約束してくださいます。詩人は祈ります。「主よ、憐れんでください。罪ある者ですが、約束に示されたお姿をわたしにもお示しください」。 主は、この1年を通して弱い私たちを思いやってくださいました。この主に依り頼み、主に倣い、来たる年が、弱さに寄り添い、弱いものに思いやりのある人の幸いにあずかる年となりますように! Sun, 30 Dec 2018 00:10:00 +0000 この目であなたの救いを見た(ルカによる福音書 2章22-40節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181230 no 2018 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」 (ルカによる福音書2章29節~30節) 間もなくこの1年が過ぎ去ろうとしています。振り返ると、心が暗くなる出来事もあったかもしれません。それでも安らかに、希望をもってこの時を過ごすことができるなら、幸いです。 シメオンは、幼子イエスを腕に抱きかかえながら言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。その理由は「わたしはこの目であなたの救いを見たから」です。シメオンは、主が遣わすメシアを見るまでは決して死なない、とお告げを受けていました。そして今やついに、待ち望んでいたメシアを、神の救いを、その目で見たのです。ですから、今こそ主はわたしを安らかに、希望をもって去らせてくださる、この世から、そして主から委ねられた務めから。シメオンはそう語ることができました。 シメオンが目にした救いを私たちも見ることができます。なぜならそれは「万民のために」、すなわち「すべての民の顔の前に」神が備えてくださった救いだからです。主イエスに神の救いを見出すならば、私たちも平安と希望を胸に抱いて、この1年を締めくくることができます。 Sat, 29 Dec 2018 00:10:00 +0000 人を支える救いの証(詩編 40編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181229 no 2018 わたしのことは 巻物に記されております。 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み あなたの教えを胸に刻み 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。 主よ、あなたはそれをご存じです。 (詩編40編8節~10節) この詩編の14節以下は、詩編70編と似ています。これについて、詩人が70編の詩を用いて祈ったのだという理解があります。「自分の罪に捕えられ、…心挫けています」(13節)と打ち明けて、彼は70編を用いて祈ったというのです。自分の言葉で祈れないほど心弱らせていたのかもしれません。 そのような祈りへと詩人を導いたのは、過去に救いを体験した信仰者の証でした(2~12節)。「主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。…数知れない御計らいをわたしは語り伝えて行きます」(6節)。主の御計らいとは、神が罪の赦しに対して代償を求めることなく、わたしの耳(心)を開いてくださったことです(7節)。その開かれた心で巻物(聖書)に接したとき、そこに自分自身の救いがあることを知り、その喜びは感謝となり、証となりました。それは、大いなる集会(礼拝)で語り継がれ、やがて罪の中で心弱らせたこの詩人に祈る力を与えることとなりました。 わたしの味わう救いは、自らを立ち上がらせるだけでなく、誰かを支える力ともなるのです。 Fri, 28 Dec 2018 00:10:00 +0000 むなしさのなかでの祈り(詩編 39編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181228 no 2018 ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。 主よ、それなら 何に望みをかけたらよいのでしょう。 わたしはあなたを待ち望みます。 (詩編39編7節~8節) 労苦して生きる日々に手ごたえを感じられなくなるとき、生きるための営みが無意味に思えることがあります。そのようなむなしさは人の心を荒ませます。罪深いことを口にしてしまうかもしれないと Thu, 27 Dec 2018 00:10:00 +0000 救いは罪の深さを超える(詩編 38編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181227 no 2018 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。 わたしの主よ、わたしの神よ 御自身でわたしに答えてください。 (詩編38編16節) 「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください」(2節)。この悲痛な声を上げている詩人は、痛々しい病の中にありました。周囲の人間はそのような彼を遠ざけて辛く当たりました。詩人はその苦しみを、神からの責めと懲らしめとして受け止めています。 痛みと孤独に追いやられたそのとき、彼は「今まで自分は神とどのように生きてきたか?」ということに目が開かれ、自分の罪深さに気づかされました。自分の罪を激しく責め立てる正義の主と出会ったのです。 ところが詩人は、その正義の神が、自分の罪深さを超えて自分を心に留め、顧みてくださるという信頼を失いませんでした。この信頼は、「主はわたしの神である」、そして「自分は神の民である」という主との約束に支えられています。ですから彼は、自分の罪深さを認めつつ、「わたしの主よ、わたしの神よ」と主を呼び求め、「わたしはなお、あなたを待ち望みます」と、正義の主に希望を置くことができました。 苦しみのとき、主はあなたの罪の深さを超えて、そこに救いを届けてくださいます。 Wed, 26 Dec 2018 00:10:00 +0000 主に信頼し、善を成す(詩編 37編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181226 no 2018 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。 平和な人には未来がある。 背く者はことごとく滅ぼされ 主に逆らう者の未来は断たれる。 (詩編37編37節~38節) 「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな」(1節)。悪事によって世の成功を収めている人にいら立つことと、そのような生活をうらやましく思うことは、紙一重です。 詩人は悪事にひかれることなく、善い歩みに留まるために、ふたつの真理を伝えています。ひとつは神に背く歩みに未来はないということ。もうひとつは、神に対し無垢であろうと努める道にこそ未来があるということです。 「無垢」とは、神の御心に対し、正直にまっすぐであろうとする生き様のことです。「正直者が馬鹿を見る」などと言われることがありますが、神に対し無垢であろうとする者が馬鹿を見ることは決してありません。神は、正直にまっすぐに神に従おうとする人の「一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて」くださっています(23節)。 この道は確かに祝福へと続いています。究極的には、それは天国の祝福ですが、詩人は、地上での日々に、神の救いと祝福を期待してよいと教えます。まっすぐに主に信頼し、主に喜ばれる1日を始めましょう。 Tue, 25 Dec 2018 00:10:00 +0000 神に栄光、地に平和(ルカによる福音書 2章8-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181225 no 2018 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカによる福音書2章13節~14節) 最初のクリスマスの夜、天使たちによる賛美の歌声が夜空に響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。 主イエスの誕生によって、神の栄光が現されました。「主の栄光」が照らしたのは、羊飼いたちでした(9節)。彼らは、職業柄、律法や礼拝を十分守ることができませんでした。しかし、その彼らの上に主のご臨在を示す光が射し込んだのです。そうして、貧しい者を憐れみ、救い出そうとされる神の栄光が現されました。 主イエスは、地上に平和をもたらすためにお生まれになりました。この点で、主イエスが良い羊飼いであり、主イエスによって永遠の平和が確立されることを思い起こします。主イエスと共に生きるところに真の平和があります。 その平和を享受する「御心に適う人」とは、立派な人ということではなく、羊飼いたちのように神からの一方的な恵みを受けた人びとのことです。羊飼いたちは主イエスと出会った後、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。私たちもこの賛美の輪に加わりましょう。 Mon, 24 Dec 2018 00:10:00 +0000 飼い葉桶の救い主(ルカによる福音書 2章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181224 no 2018 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 (ルカによる福音書2章11節~12節) ベツレヘムでお生まれになった主イエスは、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。その町のどの部屋にも、彼らの居場所がなかったからです(7節)。 この救い主誕生の知らせは、最初に羊飼いたちに届けられました(8節)。彼らは羊から離れることができないため、律法に定められていた安息日を守ることがままならず、多くの人びとから見下されていました。人びとの間に居場所を見出せず野宿をしていた彼らのもとに、救い主誕生という大きな喜びの知らせが届けられたのです。 天使は羊飼いたちに告げました。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそ、「あなたがたへのしるしである」と。 主イエスが飼い葉桶に寝かされるという貧しい姿でお生まれになったのは、人びとの間に居場所を見出せないような貧しく、惨めな境遇に置かれた人びとの救い主であることの「しるし」でした。だからこそ、特別な人たちだけでなく、「民全体」が、そして私たちも、自分たちの救い主として、主イエスの誕生を喜ぶことができます。 Sun, 23 Dec 2018 00:10:00 +0000 神の言葉に不可能はない(使徒言行録 1章26-38節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181223 no 2018 「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 (使徒言行録1章37節~38節) マリアはナザレという田舎町に住み、ダビデ家のヨセフと婚約しているおとめでした。そのマリアの日常に突然、神の言葉が入り込んできました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。 なぜマリアだったのでしょうか。神は遠い昔から、ダビデの子孫から永遠の王が出ることを告げ(サム下7章12、13節)、また「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ7章14節)と語っておられました。その御言葉を実現するために、神は、ヨセフと婚約しているおとめマリアを選ばれました。 これは、マリアにとっては突然のことであり、戸惑いました。しかし、「神にできないことは何一つない」と告げられて、最終的には「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と自らを主に献げました。不可能に思えるような御言葉をも神はすべて実現なさる、とマリアは信じました。 私たちも、神の恵みの御言葉の実現を信じ、感謝すると共に、自らを「主の僕」「主のはしため」として献げてまいりましょう。 Sat, 22 Dec 2018 00:10:00 +0000 悔い改めて神に立ち帰る(民数記 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181222 no 2018 民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも10ホメルは集めた。…肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。 (民数記11章32節~34節) 荒れ野の旅路は、たいへん厳しいものでした。イスラエルの民は出発してさっそく不満の声を上げてしまいました。1回目の理由は不明ですが、2回目は食べ物についての泣き言でした(4節以下)。 マナによって、基本的な食べ物は満たされています。うずらが与えられることもありました(出16章13節)。けれども、肉や魚を求める声に誘惑されて、与えられているものに満足することを忘れてしまったのです。 主なる神は再びうずらを与えられましたが、それは貪欲な者に対しては主の裁きを招くものでした。終日終夜集めるような行為は、日毎に糧を与えて養ってくださる主を信頼する行為ではありません。そのため、疫病で打たれることになりました。 貪欲は偶像礼拝の罪だと指摘されています(コロ3章5節)。自分の思いを満たすことを求めて生きるなら、私たちも神の御前に罪を犯すことになります。この出来事は私たちを戒めています(1コリ10章6節)。 悔い改めて神に立ち帰る者こそ、真実に主イエス・キリストの到来を喜び祝う者とされるのです。 Fri, 21 Dec 2018 00:10:00 +0000 シナイ出発(民数記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181221 no 2018 第2年の第2の月の20日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった。 (民数記10章11節~12節) イスラエルの民は、シナイの荒れ野から旅立つことへと導かれました。2月20日は人口調査が命じられた20日後です。主の御言葉に聞き従い、人口調査が迅速に行われたことが分かります。「雲はパランの荒れ野にとどまった」とは、最初の目的地がパランの荒れ野だったからでしょう(12章16節)。 出発に先立ち、銀のラッパを2本作ることが命じられました。このラッパは、民全体や部族の長たちの集合の合図、また、宿営地からの出発の合図として吹かれました。記念の祝日や献げ物をささげる際にも吹かれて、ラッパの合図は神の臨在のしるしです。イスラエルの民は主に導かれ、ラッパの合図に従って旅立ちました。 預言者ヨエルは、終わりの日にシオンで角笛が吹かれると言いました(ヨエ2章1節)。使徒パウロは、主が来られる日に神のラッパが鳴り響くと言いました(1テサ4章16節)。ラッパの合図に従って出発しなければなりません。地上の信仰生活は、その旅立ちへの備えだと言えるでしょう。私たちは、目を覚まし、身を慎んで、主の再臨に備えて歩みます。 Thu, 20 Dec 2018 00:10:00 +0000 月遅れの過越祭(民数記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181220 no 2018 あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。第2の月の14日の夕暮れにそれを祝い、酵母を入れないパンと苦菜を添えてそのいけにえを食べなさい。 (民数記9章10節~11節) 出エジプトに際して、主の過越を記念して過越祭を祝うことが命じられました(出12章14~20節等)。幕屋が建設され、第2年の1月14日、最初の過越祭が「主がモーセに命じたとおり」に祝われました(5節)。 この箇所の主題は、その過越祭に参加できなかった者たちの取り扱いです。死体に触れるなどによってけがれた者は、過越祭に加わることができません。旅に出ていた者たちも参加できません。その場合、2月の14日に月遅れの過越祭を行い、主の過越を祝うこととされました。 「過越祭を祝わない者があれば、その者は自分の民から断たれる」とは、主の招きの言葉です(13節)。寄留する者も過越祭に加わるよう招かれます(14節)。神の御業を思い起こして礼拝することが、すべての人にとって無くてはならないことだからです。神の民は、神の御業によって導かれる民なのです。 今の私たちも、神の救いの御業を思い起こして主を礼拝することへと招かれています。キリストの十字架と復活の御業を思い起こして礼拝することに、私たちの信仰生活の土台があります。 Wed, 19 Dec 2018 00:10:00 +0000 幕屋と祭具の聖別(民数記 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181219 no 2018 モーセは幕屋を建て終わった日に、幕屋とそのすべての祭具、祭壇とそのすべての祭具に油を注いで聖別した。彼がそれらに油を注いで聖別したとき、イスラエルの指導者、すなわち、家系の長は進み出た。 (民数記7章1節~2節) 7~9章は、時間的には1~6章に先行します。出エジプトの第2年1月の出来事です。幕屋と祭具の油注ぎと聖別、各部族の長による献げ物、レビ人の清めなどが書き留められています。 各部族の長が祭具を運搬するための雄牛と牛車、また、祭壇奉献のための献げ物をささげました。銀の皿、銀の鉢、雄牛、雄羊等、奉献の献げ物の詳細な一覧が示されます。部族の大きさに関わらず等しくささげるところに、主なる神に仕える特権と責任が等しいことがあらわれています。「以下同文」とされず繰り返されるのは、主が私たちの献げ物と献身を一つひとつ大切に心に留めてくださるからでしょう。 聖別と奉献の後、聖所の燭台に火がともされました(8章3、4節)。この燭台の火は、単なる明かりではなく、モーセが山で見た主の栄光を伝える光です(出24章17節)。すべて主がモーセに命じられた通りに行われ、幕屋は主の栄光が輝くところとされました。 まことの光、主イエス・キリストが来られ、今も礼拝において、神の御言葉によって主の栄光が輝かされます。 Tue, 18 Dec 2018 00:10:00 +0000 罪が取り除かれる(民数記 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181218 no 2018 主はモーセに仰せになった。 イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男女とも、必ず宿営から出しなさい。わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。 (民数記5章1節~3節) 主なる神は、具体的に目に見える仕方でご自分の民を教育されました。幕屋と宿営の配置は神の民の中心に神がおられることを教えます。「けがれ」ということも、そのような教育方法の一つだったのかもしれません。 感染症の可能性がある者を宿営から出すことが命じられました。衛生観念が未発達な中で、主はご自身の民を病気から守ろうとされたのでしょう。そしてそれ以上に、けがれは罪を指し示していて、主が罪を嫌うお方であることが教えられています。主がただ中に住まわれるゆえ、その民から罪(けがれ)は取り除かれるべきなのです。 これは、神のものとされた私たちが罪を取り除かれて生かされることを意味します。律法は、けがれからの回復の道筋をていねいに記しています(レビ13章以下、民19章等)。それは、罪が取り除かれることにこそ、神の救いが現れるからです。 今や、真実に罪が取り除かれるために十字架のキリストが与えられました。なお罪の残りかすに苦しむ私たちですが、キリストがただ中に住まわれるゆえに、神の聖なる民であるとは、真理です。 Mon, 17 Dec 2018 00:10:00 +0000 長子の身代わりとしてのレビ人(民数記 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181217 no 2018 主はまた、モーセに仰せになった。 見よ、わたしはイスラエルの人々の中からレビ人を取って、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての初子の身代わりとする。レビ人はわたしのものである。すべての初子はわたしのものだからである。 (民数記3章11節~13節) 臨在の幕屋で主に仕えるレビ人の人口調査が命じられました。共同体全体の場合は20歳以上の男子でしたが、レビ人については生後1か月以上の男子がすべて登録されました。 出エジプトに際して、すべての初子すなわち長子が、主のものとされていました(出13章2節)。このとき、イスラエル全体の生後1か月以上の長子が改めて数えられ、登録されたレビ人によって身代わりとされました。レビ人の数を超過した人数は、銀によって贖われました(46節)。こうして、イスラエル全体の長子に代えて、レビ人が主に仕えることが示されました。 レビ人は、主が聖別されたイスラエルの長子に由来します。すなわち、主の過越において流された小羊の血による贖いの御業と結びついています。レビ人の存在は、イスラエルが小羊の血によって買い取られた民であることを示していると言えるでしょう。 今日の私たちも、主なる神によって買い取られた民です。神の小羊であるキリストの血によって贖われて、神の民とされました。私たちは、十字架のキリストに結ばれて、主に仕える民なのです。 Sun, 16 Dec 2018 00:10:00 +0000 光を証しするために(ヨハネによる福音書 1章6-8,19-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181216 no 2018 神から遣わされた1人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 (ヨハネによる福音書1章6節~7節) クリスマスが近づくと、町はイルミネーションの光で輝き出します。聖書は、主イエスが「光」として来られたことを告げています。 主イエスの前に現れた洗礼者ヨハネは、広い地域に大きな影響を及ぼしました。主イエスの名による洗礼ではなく、ヨハネの洗礼しか知らない人がいるほどでした(使19章3節)。 しかし、ヨハネ自身が、「わたしはメシアではない」、「わたしはその(自分の後から来られる方の)履物のひもを解く資格もない」と語っています。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」のです。それは、「すべての人が彼によって、(まことの光である主イエスを)信じるようになるため」でした。そしてヨハネが死んだ後、今度は主イエスの弟子たちが主を証ししました(ヨハ15章27節)。そして今、私たちも主イエスを証しする者として遣わされています。 私たちも、あのヨハネのように、主イエスの前にへりくだり、光である主を証しすることに徹しましょう。私たちを通して光を見、光である主イエスを信じる人々が起こされるために。 Sat, 15 Dec 2018 00:10:00 +0000 臨在の幕屋の周りに(民数記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181215 no 2018 主はモーセとアロンに仰せになった。 イスラエルの人々は、それぞれ家系の印を描いた旗を掲げて宿営する。臨在の幕屋の周りに、距離を置いて宿営する。 (民数記2章1節~2節) 臨在の幕屋が建てられ、その幕屋を囲むようにして宿営すべきことが教えられています。幕屋は主なる神の臨在を示すのであり、イスラエルの民の中心に主がおられることが形であらわされます。 幕屋のすぐ周囲に祭司とレビ人が氏族ごとに宿営します(1章53節)。共同体は、さらにその周囲に部族ごとに宿営します。幕屋の正面である東側に3部族、南側、西側、北側にもそれぞれ3部族が宿営します。 荒れ野を行進するときにも、その順序は変わりません。先頭が東側3部族で、南側3部族がそれに続きます。次に、ここでレビ人に囲まれて幕屋が行進し、それに西側3部族が続き、北側3部族が最後を行進します。こうして行進に際しては、主の幕屋が民の中央を進んで、民の中心に神がおられることがあらわされます。 神の民は、民と共におられる神ご自身を土台とし、礎としています。キリストの名によって集まる群れの中に、今も主は共におられます(マタ18章20節)。今日の教会も、主を中心として建て上げられ、主を中心にして歩む共同体です。 Fri, 14 Dec 2018 00:10:00 +0000 荒れ野にて(民数記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181214 no 2018 イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第2の月の1日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。 イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい。 … 登録された者の総計は603,550人であった。 (民数記1章1節~2節、46節) イスラエルの民は、出エジプト後、約1年間、シナイの荒れ野にとどまり、律法を与えられ、主の幕屋を建てることへと導かれました。幕屋の建設が第2年の1月1日で(出40章17節)、その2月1日に人口調査が命じられました。これらは、主なる神がイスラエルを神の民として整えようとしていることの具体的なあらわれです。 兵役に就くことができる20歳以上の男子が数えられたため、女性や子どもは数えられていません。けれども、「家系に従って一人一人点呼し」と繰り返されるところに、一人も漏らさず神の民として数えられるという恵みを確認することができます(18、20節等)。 登録された者は60万人を越えています。共同体全体の人数は120万人を越えていたでしょう。エジプトに下ったヤコブの家族は70人でしたから、これは驚くべき数字です(出1章5節)。エジプトで奴隷とされ、苦しめられたにもかかわらず、イスラエルの民は多くの祝福を受けました。「わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」との主なる神の約束は真実でした(創46章3節)。 Thu, 13 Dec 2018 00:10:00 +0000 神の光に、光を見る(詩編 36編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181213 no 2018 命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。 (詩編36編10節) 「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない」(2節)。主に逆らう者の特徴は、神への恐れがないことです。罪が語りかける声に耳を傾けるため、神が慈しみと真実をもってこの世を治められ、裁かれることを否定します。彼らが聞こうとするのは罪の声であり、見ようとするのは闇です。そのため、耳があっても神の声が聞こえず、目があっても神の御業が見えません。 ところが、神に従う者は、神の光に、光を見ます。神の光を通して、神が造られた太陽、すなわち創造の世界を見ます。また、神の光を通して、神に逆らう者と神に従う者のたどる道を見ることができます。 たとえ神に逆らう者が神の存在と統治と裁きを否定したとしても、それは雲に隠された太陽が見えないようなものなのです。しかし、私たちは神の光を通して、神の慈しみが天に、真実が大空に満ちていることを見るものとされました。見えないものを見ることができる信仰の目を与えてくださった主に感謝して、きょうも神の声に耳を傾けましょう。 Wed, 12 Dec 2018 00:10:00 +0000 戦いは主のもの(詩編 35編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181212 no 2018 主よ、わたしと争う者と争い わたしと戦う者と戦ってください。 大盾と盾を取り 立ち上がってわたしを助けてください。 (詩編35編1節~2節) 主の僕ダビデはゴリアトと戦うとき、「この戦いは主のものだ」と告白しました(サム上17章47節)。私たちの戦いが主のものになるのは、私たちが主イエスの弟子だからです。主イエスは弟子に向かって「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と語られました(ヨハ15章20節)。言い換えれば、敵が私たちを憎むということは、主イエスを憎むことになるのです。それゆえ、神は私たちと戦う者と戦ってくださり、勝利を与えてくださいます。 主イエスは、敵の迫害によって十字架にかかられましたが、3日目に復活され、罪と死に打ち勝ち、まことの平和と命を与えてくださいました。主イエスの弟子であるがゆえに、私たちはいろいろな形で迫害を受けることがあります。しかし、主イエスの弟子であるからこそ、私たちはまことの平和をいただいています。敵は私たちの命を奪おうとしますが、主イエスは永遠の命を与えてくださるのです。 きょうも変わらず、私たちのため大盾と盾を取り、立ち上がって戦ってくださる主なる神に依り頼み、主と共に歩みましょう。 Tue, 11 Dec 2018 00:10:00 +0000 主の恵み深さを味わい、知れ(詩編 34編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181211 no 2018 味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 (詩編34編9節) 詩人は「味わい、見よ、主の恵み深さを」と語ります。直訳すると「主の恵み深さを味わい、知れ」です。これは、1節に記されているように、ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放された時、神の恵みを経験したことによって出てきた言葉です。 いくら美味しいご飯でも、見ているだけでは味が分かりません。同様に、知識だけでは神の恵みを深く知ることはできません。詩人は苦難の中で主の恵み深さを経験して、私たちにも神の恵みを味わうようにと勧めます。 神の恵みを味わうためには信仰による勇気が必要です。「このようにしてください。そうすれば信じます」「あのようにしてください。そうすれば従います」と、神に誓って願い求めることがあるかもしれません。しかし、信仰は逆順です。ペトロは主イエスの「来なさい」という言葉を聞いて、まず船から降りました。その信仰によって、彼は湖の上を歩くという恵みを味わうことができたのです。 苦難の中で一歩を踏み出すことは、決して簡単なことではありません。けれども、信仰によって主の恵み深さを味わう者は幸いです。 Mon, 10 Dec 2018 00:10:00 +0000 主によって喜び歌え(詩編 33編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181210 no 2018 主に従う人よ、主によって喜び歌え。 主を賛美することは正しい人にふさわしい。 (詩編33編1節) 詩人は、創世記1章に従って、天、海、地、そして人の創造を語ります。御言葉によって天地を造られた神は、造るだけでなく天から見渡し、人の子らをひとりひとりご覧になります。この創造と摂理における神の言葉は正しく、その御業はすべて真実です。それゆえ、造られた私たちは神を賛美せざるを得ません。 国の指導者の言葉と振る舞いが真実でないならば、国民は不幸でしょう。信頼に価しない者が国の指導者であるならば、国民は恥ずかしさを感じてしまうでしょう。 それに対して、まことの王である神の御言葉は正しく、その業は真実です(4節)。御座を置かれた所から地に住む御自身の民ひとりひとりに目を留められます(13、14節)。ですから、地に住んでいる私たちは決して不幸ではありません。私たちは常に神を信頼することができるし、この神に対する信頼は私たちを神への賛美に導きます。 いかに幸いなことでしょう。私たちが神の民であることが。この喜びをもって、きょうも神の民として神の義と真実を行い、主の御名をほめたたえて歩みましょう。 Sun, 09 Dec 2018 00:10:00 +0000 悔い改めによる備え(マルコによる福音書 1章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181209 no 2018 荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 (マルコによる福音書1章3節~4節) アドベントの「色」をご存じでしょうか。あまり馴染みがないかもしれませんが、キリスト教会では古くから、アドベントの期間中、紫色の祭服や祭壇布が使われてきました。紫色は「悔い改め」を象徴しています。紀元5世紀頃から、教会はアドベントを「断食と悔い改め」の時として大切にしてきたようです。 アドベントの過ごし方として、この「悔い改め」は、私たちにとっても大切です。なぜなら、主イエスの先駆者として遣わされた洗礼者ヨハネは、悔い改めを宣べ伝えたからです。そしてそれが、来るべき主の道を準備することでした。なぜなら、主イエスは、ご自身、悔い改めを宣べ伝え(15節)、罪を悔いる者のもとに来てくださるお方だからです(イザ59章20節)。そして、罪を悔いる者に罪の赦しと聖霊を与えてくださいます。この主イエスをお迎えするために、私たちは自分の罪を告白し、悔い改めることが必要なのです。 何かと慌ただしくなる季節ですが、心を静めて自分の罪と向き合い、悔い改めて、神に立ち帰りましょう。主イエスを喜びをもってお迎えするために。 Sat, 08 Dec 2018 00:10:00 +0000 見いだしうる間にこの神に祈る(詩編 32編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181208 no 2018 わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。 (詩編32編5節~6節) 3節の「黙し続けて」は、聞こえているはずなのに黙っている、という意味の言葉です。「御手は昼も夜もわたしの上に重く」(4節)、罪を認めよ、と神が頭を押さえつけて「わたし」に迫っておられるのに、「わたし」はいつまでも聞こえないふりをし、罪を告白せずにいるのです。しかしついに「わたし」は言います。「主にわたしの背きを告白しよう」と。すると神は、その罪と過ちを赦してくださいました。 原文では、6節の冒頭に「それゆえに」という言葉があります。神の言葉に聞き従って罪を告白した人を神は赦してくださる。「それゆえに」、神の慈しみに生きる人は祈るのです、この神に。「それゆえに」、祈るのです、神を見いだしうる間に。 ヨブ記に「どうしたら、その方を見いだせるのか。…その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに」とあります(23章3、4節)。神を「見いだしうる間」とは、訴えを存分に聞いていただけて、なおかつそれに対する神の御心を知ることのできる時です。私たちもこの時を逃さずに神に祈りたいのです。 Fri, 07 Dec 2018 00:10:00 +0000 主よ、御手にわたしの霊をゆだねます(詩編 31編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181207 no 2018 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。 (詩編31編6節) 十字架上で主イエスはこの言葉を祈られました。「ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かす者が取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます」(14節)。この31編には、主イエスの十字架に至るご生涯がはっきりと記されています。 次の祈りもまた主イエスは真実に祈られたことでしょう。「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します」(15節)。「恐怖に襲われて、わたしは言いました、『御目の前から絶たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声を、あなたは聞いてくださいました」(23節)と。そうです、確かに主イエスは「御目の前から絶たれた」と思い、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでおられました。 主イエスは苦しみの中でこのように祈る姿を十字架の上で示してくださり、祈りの道を私たちに開いてくださいました。神は確かに「わたしの魂の悩みを知ってくださいました」(8節)。私たちは主に倣って、主と共にこの祈りを祈ることができるのです。 Thu, 06 Dec 2018 00:10:00 +0000 あなたは癒してくださった(詩編 30編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181206 no 2018 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。 (詩編30編3節~4節) 「叫び求める」と訳された言葉は、ホロコーストを描いたランズマンの映画『ショア』という題名と同じ語幹の言葉です。「大いなる叫び」「大破局」という意味で、あのユダヤ人大迫害の凄まじさを想って読むならば、この言葉の重みを実感できるのではないかと思います。絶望的な現実の中で、神に助けを求める大いなる叫びのことです。 私たちは神に助けを求めるとき、知らず知らずのうちに、自分は正しくて、周りの状況が悪いのですから変えてください、と祈っているのではないでしょうか。神はこういうとき、周りの状況をすぐに変えてくださることはありません。 神はむしろこの状況の中で、私たちの魂の状態を正しいあり方へと導いてくださるのです。「あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ…てくださいました」。このことを「わたしを癒してくださった」と言っています。聖書では「いやす」という言葉は「赦す」「救う」という意味です。つらい状況にあるとき、それに押しつぶされないように、私たちの魂が癒されることを祈り求めたいと思います。 Wed, 05 Dec 2018 00:10:00 +0000 主の御声は響く(詩編 29編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181205 no 2018 主の御声は水の上に響く。 栄光の神の雷鳴はとどろく。 主は大水の上にいます。 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。 (詩編29編3節~4節) この詩編を声に出して読んでみてください。これほど「主の御声」が響いている詩編はほかにありません。主の言葉を目で追うばかりの私たちは、主の御声の本当の力を知りません。きょう、真実に主の御声の力ある響きをこの身に感じたいと思います。 「主の御声は水の上に」。神の「生きよ」という私たちへの強い想いを感じます。「水」「大水」とは「死」を暗示しています。主イエスが湖の上を歩かれる物語がありますが、あれはこの御言葉の成就を物語っているのです。主の御声・主の言葉そのものであるお方・十字架の死からよみがえって、死に打ち勝ち、死を滅ぼしてくださったお方が水の上に…。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マコ4章41節)。 「主の御声は力をもって」。「力」という言葉には生み出す力・押し出す力の意味がこもっています。無からの創造、「光あれ」という言葉の力を思い出します。このような力ある主の御声が響いている中を生きているのに、これを感じないでいるとは! 主の御声・主の愛に駆り立てられてきょうの日を生きたいものです。 Tue, 04 Dec 2018 00:10:00 +0000 わたしの岩よ、沈黙しないでください(詩編 28編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181204 no 2018 主よ、あなたを呼び求めます。 わたしの岩よ わたしに対して沈黙しないでください。 … 主は油注がれた者の力、その砦、救い。 お救いください、あなたの民を。 祝福してください、あなたの嗣業の民を。 とこしえに彼らを導き養ってください。 (詩編28編1節、8節、9節) 神に「わたしの岩」と呼びかける詩編はいくつかあります。揺らぐことのない救いの神のイメージでとらえられることが多いと思いますが、ここでは岩に「沈黙しないでください」と願っていることに注目したいと思います。 ここで思い出されるのは、メリバの水の出来事です(出17章、民20章)。渇きを覚えた主の民は、「果たして、主は我々の間におられるのか」と言って、水を与えるようモーセに迫ったのでした。民数記ではモーセは2度岩を打ったと書いてあります(20章11節)。モーセは1度目に岩を打ったときの沈黙に耐えられなかったのかもしれません。神は「あなたはわたしを信じなかった」とおっしゃって咎め、モーセにイスラエルの民を約束の地に導き入れることをおゆるしになりませんでした。 28編の最後で、この詩編の歌い手ダビデ(油注がれた者)は、今度こそとばかりに「とこしえに彼ら(あなたの嗣業の民)を導き養ってください」と祈っています。この言葉の背景には、「どんなに沈黙が長く思えても、あなたを信じますから」という思いがあるのです。 Mon, 03 Dec 2018 00:10:00 +0000 主のうるわしきを見、尋ねきわめたい(詩編 27編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181203 no 2018 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。 (詩編27編4節) 「主を仰ぎ望んで喜びを得、…朝を迎える」の部分は幅広い解釈の仕方があり、口語訳は「主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」と訳しました。「朝を迎える」という動詞を、朝の光が射すような明快さに至るまで「尋ね求めたい、理解しようとして真剣に考えたい」という意味に深くとらえたのです。それが命のある限り主の家に住みたいと願う目的です。 「喜び」「うるわしき」と訳された言葉は、ルツの姑ナオミと同じ綴りの言葉であるのは興味深いことです。「なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」(ルツ1章21節)。 詩人とナオミの思いは同じだったかもしれません。詩人も災いにさいなまれていました。神に見捨てないでくださいと祈っています。そういう状況の中でのたったひとつの願い。主のもとで主の平安を味わい、災いばかりの自分の人生にどのような意味があるのか、主の御心を深く知りたかったのです。暗闇に朝陽が射し込むごとく、希望の光を見出したいと願って。 Sun, 02 Dec 2018 00:10:00 +0000 目を覚まして主の到来を待つ(マルコによる福音書 13章24-37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181202 no 2018 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。 (マルコによる福音書13章35節) 本日からアドベント(待降節)が始まります。「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語に由来しています。アドベントは、キリストの第一の到来を祝うクリスマスを待ち望むと同時に、キリストの第二の到来である「再臨」を待ち望む大切な期間です。 クリスマスの日付は決まっていますが、再臨の日付を私たちは知りません。ただ父なる神のみがご存じです。キリストが天に昇られてから2千年ほど経ちました。キリストの再臨はまだ先のことだろうと、私たちは油断してしまいがちかもしれません。しかし、その時がいつかわからないからこそ、主イエスはおっしゃいます、「目を覚ましていなさい」と。 それは、何か特別なことをすることではありません。主の僕として、主から与えられた仕事を責任をもって果たしていくことです。私たちは、主がいつ来られてもよいように、主の御前に忠実に日々を生きていきます。 「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37節)。このように、主は「すべての人」に語っておられます。 Sat, 01 Dec 2018 00:10:00 +0000 真相は主こそご存じ(詩編 26編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181201 no 2018 主よ、わたしを調べ、試み はらわたと心を火をもって試してください。 あなたの慈しみはわたしの目の前にあり あなたのまことに従って歩き続けています。 (詩編26編2節~3節) 過去の出来事について、人間が完全に誤りなく知ることはできません。記録がなくなったり、証言にうそが混じっていれば、人間が真相を知ることは困難になり、本当は無実の人を有罪とすることも起こってしまいます。 この詩編では、罪を犯していないのに罪を犯した疑いをかけられた人が、主の裁きを求めています。主は世界全体を治める無限の霊ですから、主の目の届かないところはひとつもありません。人の目の届かないところ、人に記録されない場面の真相もご存じであり、適切に判断してくださるに違いない、それが詩人の心の支えとなっています。 罪なきキリストも、裁判で罪ありとされ、十字架につけられました。真相を知る天の御父は、キリストご自身には罪がなかったことを、キリストの復活によって明らかにされました。 私たちもいわれなき中傷を受けて苦しむことがあります。しかし、そのただ中で、同様の苦しみを味わわれたキリストが共にいて、私たちを支え、乗り越えさせてくださいます。真相は主こそご存じなのです。ここに私たちの慰めがあります。 Fri, 30 Nov 2018 00:10:00 +0000 罪人に道を示す主(詩編 25編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181130 no 2018 詩人は主の道を教え示すよう、主に切実に祈り願っています。これまでの人生において、主の御心に背いて罪を犯してしまったので、そこから抜け出したいと望むからです。 詩人はこの祈りより前にも主に祈り、既に幾つかの確信を得ています。「あなたはわたしを救ってくださる神」(5節)、「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示し」、「主の道はすべて、慈しみとまこと」などです。だからこそ詩人は「絶えることなくあなたに望みをお」くのです(5節)。主との祈りの交わりを重ねるからこそ、自分の心が罪深く、貧しいことを見出し、それでも見捨てず道を示す主の憐れみと慈しみをも味わい、主に依り頼む心を深くするのです。 主なる神は「道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)キリストを私たちにお与えになりました。御言葉と祈りとにより、日々キリストとの交わりに生きるとき、私たちにも慈しみとまことに満ちた主の道が示され、少しずつでも主の命の道を歩めるように導かれます。 (詩編25編8節~10節) 詩人は主の道を教え示すよう、主に切実に祈り願っています。これまでの人生において、主の御心に背いて罪を犯してしまったので、そこから抜け出したいと望むからです。 詩人はこの祈りより前にも主に祈り、既に幾つかの確信を得ています。「あなたはわたしを救ってくださる神」(5節)、「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示し」、「主の道はすべて、慈しみとまこと」などです。だからこそ詩人は「絶えることなくあなたに望みをお」くのです(5節)。主との祈りの交わりを重ねるからこそ、自分の心が罪深く、貧しいことを見出し、それでも見捨てず道を示す主の憐れみと慈しみをも味わい、主に依り頼む心を深くするのです。 主なる神は「道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)キリストを私たちにお与えになりました。御言葉と祈りとにより、日々キリストとの交わりに生きるとき、私たちにも慈しみとまことに満ちた主の道が示され、少しずつでも主の命の道を歩めるように導かれます。 Thu, 29 Nov 2018 00:10:00 +0000 栄光に輝く王、主(詩編 24編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181129 no 2018 どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。 … それは主を求める人 ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。 (詩編24編3節~6節) 主なる神は偉大なお方です。水の上に地を据え、万物を創造され、主のものとされたからです。ですから人が主を礼拝する聖所に立ち、主からの祝福と救いの恵みをいただくには、潔白な手と清い心をもち、むなしいものに魂を奪われず、欺くものによって誓わない、といった条件が本来必要でした。しかし罪に堕落した人間はそれとは正反対の者になってしまいました。そして主を、世界を治める王と認めて迎え入れようともしなくなっていました。 そのような世界にキリストが遣わされました。キリストは罪を一つも犯さず、神が求められるすべての条件を満たされました。さらに十字架で人の罪を砕き、主を求める心を人の内に作り出されました。こうして、堕落した人間を聖所に立って祝福を受ける資格のある者に変えてくださいました。 キリストは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着く王となられました。そしてこの世の終わりの日に栄光に輝いてやって来られます。私たちは頭を上げ、身を起こして、主イエス・キリストを栄光に輝く王と認め迎え入れるのです。 Wed, 28 Nov 2018 00:10:00 +0000 主が羊飼いとして共に(詩編 23編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181128 no 2018 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 … わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 (詩編23編1節~5節) 羊飼いは弱い羊をいたわり導く心優しい存在だとイメージされる方が多いでしょう。ただ、羊がさまよい出たなら連れ戻し、狼などが羊を襲おうとしたときには撃退して羊を守る強さもここでは求められています。そこから古代中東では王を「民の羊飼い」とも呼び、羊を守るように民を守ることが期待されたと言われます。 けれども、世の王たちは与えられた権力を私利私欲に用いてしまい、なかなか民の期待に応えることができませんでした。詩編23編は主なる神こそが「民の羊飼い」と呼ばれるにふさわしい王であると告白します。 キリストは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われ(ヨハ10章11節)、その言葉どおり十字架で自らの命を捨て、罪を打ち破られました。 そして、人を苦しめる者が未だにいる地上でキリストは聖餐の食卓を開き、欠けることのないよう満たしてくださいます。この「羊の大牧者、わたしたちの主イエス」(ヘブ13章20節)の家に生涯とどまるところに、幸いがあります。 Tue, 27 Nov 2018 00:10:00 +0000 主こそわたしの神(詩編 22編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181127 no 2018 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。 御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。 (詩編22編25節) 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)。詩人は周りの誰からも見捨てられ、罵声を浴び、絶望のどん底に落とされました。詩人は「わたしの神」に訴えるも応答がありません。それでも神が先祖を救い(5、6節)、自分を生まれる前から育んでくださったことを思い起こし(11節)、信頼を失わず、呼びかけ続けます。13節以下で詩人の苦難は極限に達し、「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください」と叫び求めます(20節以下)。 そこから口調が変わり、神賛美が始まります。主が貧しい人の苦しみを決して侮らず、助けを求める叫びを聞いてくださる神であることを確信したからです。 新約聖書はこの詩編を十字架上のキリストに重ねました。そして世の人びとと同等、いやそれ以上の苦難を味わい乗り越えたキリストこそ最も適切にわたしを慰め、苦難から助け出す救い主であると示します。 キリスト者には慰め主である聖霊が注がれ、どのようなときも主を「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されるのです。 Mon, 26 Nov 2018 00:10:00 +0000 主なる神に依り頼む王(詩編 21編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181126 no 2018 王は主に依り頼む。 いと高き神の慈しみに支えられ 決して揺らぐことがない。 あなたの御手は敵のすべてに及び 右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。 (詩編21編8節~9節) この世には、多くの王や支配者が登場してきました。しかし、この詩編が記すような王が実際にいたでしょうか。ダビデ、ソロモンなどは、一見すると当てはまるように思います。しかし、絶えず主の力に依り頼み、揺らぐことがなかった、とは言えません。王は敵から民を守るための力を必要としますが、この世の王は自らの手に力を握ろうとします。そして、時にその力を私利私欲のために乱用して、墓穴を掘ってしまうこともあったのです。 この詩編は、神がダビデに永遠の王国を約束されたことに基づいています(サムエル下7章)。キリスト教会は、この王国がダビデの子キリストによって実現されたと理解します。キリストは自らの力を誇示することなく、御父に依り頼み、十字架の死にまで従われました。その十字架において、キリストは人の敵である罪を砕いて勝利されました。そして復活後、天に昇り、永遠の王として父なる神の右の座に着かれました。 ある教会暦は、昇天日にこの詩編を読むよう、勧めています。私たちは、私たちの思いを神の右におられる勝利のキリストに向けます。 Sun, 25 Nov 2018 00:10:00 +0000 目を覚ましていなさい(マタイによる福音書 25章1-13節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181125 no 2018 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 (マタイによる福音書25章13節) この箇所は、天の御国についてのたとえ(1節)であり、終末についてのたとえでもあります。 このたとえは、賢いおとめたちのように(2節)、油を用意して、花婿を待ち、花婿が来られたら、共に婚宴の席に入ることを教えています。キリスト者が再臨の主イエスを待ち望むべきこと、再臨の主イエスに招かれて、天の御国での永遠の安らぎに参加することを意味します。 ここには見過ごすことのできないことがあります。それは愚かなおとめたちのことです。彼女たちは十分な油を準備せず、花婿を待ちましたが、花婿が来た時には火が消えそうで、賢いおとめたちに油を分けてほしいと言いました。けれども、断わられてしまい、油を買うためにそこから離れてしまいます。もし、愚かな者たちが油を買いに行かず、消えた火のままで花婿を迎えたら、どうなったのでしょうか。 私たちが知っている花婿である主イエスは愛の神であり、慈悲があふれるお方です。その愛の神に応えるために、油を切らすことがないよう、私たちはよい備えをしたいものです。 Sat, 24 Nov 2018 00:10:00 +0000 愛する兄弟として(フィレモンへの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181124 no 2018 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。 (フィレモンへの手紙15章16節) オネシモはフィレモンのもとから逃亡した奴隷でした。当時の法律によれば、奴隷は人間扱いされておらず、主人の所有物でした。主人は逃亡した奴隷を殺しても、罪に問われることはなかったのです。 そのような状況において、パウロは、自分のもとでイエス・キリストを信じたオネシモに、手紙を持たせてフィレモンのもとへと返しました。それは、フィレモンが、オネシモを奴隷以上のもの、主に結ばれた愛する兄弟として受け入れてくれることを信じていたからです。 自分のもとから逃亡した奴隷であるオネシモを、愛する兄弟として受け入れることは、主イエス・キリストの愛をいただかなくてはできないことです。それゆえ、パウロは、主に結ばれた者としての愛に訴えます。主に愛されている者として、主の愛をもって、オネシモを愛する兄弟として受け入れてほしいと記すのです。 あらゆる違いを乗り越える教会の交わりは、主イエス・キリストの愛に基づいて成り立っています。主に愛されている者として、愛をもって互いを受け入れ合いましょう。 Fri, 23 Nov 2018 00:10:00 +0000 心に記された新しい契約(エレミヤ書 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181123 no 2018 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 (エレミヤ書31章33節) イエス・キリストまでの時代を旧約時代と呼び、それ以降の時代を新約時代と呼びならわしています。キリスト者にとって、その区分は当然のように受け入れられています。その場合の旧約の「約」、新約の「約」とは契約の「約」から取られています。 旧約聖書の中で最も有名な契約は、エジプトを脱出したイスラエル民族が、シナイ山でモーセを通して神と結んだ契約です。イスラエル民族にとっては、この契約こそ帰っていくべき原点でした。しかし、いつもそこから逸脱してしまうのが、イスラエル民族の歩みでした。 エレミヤは新しい契約について語っています。新しいとは言っても、今までの契約と共通した部分もあります。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ということに関しては、一貫して変わりません。 新しい契約の新しさは、神の御心である律法が、石の板にではなく、人の心に書き記されることです。それがいつどのように実現されるのかエレミヤは語りません。しかし、私たちは確信しています。イエス・キリストによって新しい契約が始まった、と。 Thu, 22 Nov 2018 00:10:00 +0000 救いの希望(エレミヤ書 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181122 no 2018 ひとりの指導者が彼らの間から 治める者が彼らの中から出る。 わたしが彼を近づけるので 彼はわたしのもとに来る。 彼のほか、誰が命をかけて わたしに近づくであろうか、と主は言われる。 (エレミヤ書30章21節) エレミヤ書30章には、裁きと救いが交互に語られています。裁きの部分だけを拾い読みすれば、絶望するほかありません。そこには罪に対する神の激しい怒りと、罪が生み出す悲惨な結末が語られています。 しかし、神が裁きを実行さえしなければ、罪の世界は安泰なのでしょうか。決してそうではありません。罪の世界は必ず破綻へと向かいます。罪の世界が生み出すこの悲惨さを、しっかりと認めることから、救いへの道が開かれます。罪ある自分に失望する人だけが、心を神に向けることができます。 エレミヤ書30章は神の裁きの恐ろしさを語りますが、それ以上に、神がもたらす救いの恵みを語っています。 神は真の指導者の出現を約束します。その指導者はイスラエル民族から出ること、しかも、その者は命を懸けて神のもとに近づくことを語っています。まさに、イエス・キリストを思い起こさせる言葉です。神は1人の救い主を通して、救いの世界を実現しようとなさっています。罪の世界を終わらせ、救いをもたらす神の熱情にこそ、私たちの希望はかかっています。 Wed, 21 Nov 2018 00:10:00 +0000 将来と希望を与える神のご計画(エレミヤ書 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181121 no 2018 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 (エレミヤ書29章11節) 地方伝道に遣わされていた先輩牧師からこんな話を聞いたことがあります。その牧師が庭に果実の生る木を植えたとき、初めて地元の人から、「先生、ここで暮らすつもりになったのですね」と言われたそうです。 バビロンに連れていかれた捕囚の民に書き送ったエレミヤの手紙には、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」とあります(5節)。それは、長期間そこで暮らすことを意味しています。実際、捕囚の民に神が定めた期間は70年の年月でした。すぐにでも祖国に戻れると期待していた人々にとっては不本意な内容だったでしょう。それにもかかわらず、エレミヤは主の言葉をはばかることなく書き送ります。かの地で結婚して、子どもを産み育て、さらにその子供たちにも、かの地で結婚するようにと命じます。これでは、もう祖国に戻れない覚悟が求められているかのようです。 しかし、エレミヤは主がお与えになる希望を語ります。これは決して災いの計画ではなく、平和の計画であると。約束の年月の後、心を尽くして主を求める者は、主に出会うことができるからです。 Tue, 20 Nov 2018 00:10:00 +0000 まことの安心は主から来る(エレミヤ書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181120 no 2018 「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。」 (エレミヤ書28章15節) エレミヤの語る預言に真っ向から対立する預言者が現れます。ハナンヤはエレミヤが語るのと真逆のことを語ってみせます。軛を負うエレミヤに対して、それを打ち砕いて、民の解放を約束します。 どちらの言うことが本当なのか、この時代に私たちが生きていたとして、正しい判断を下すことができたでしょうか。エレミヤの預言者活動にずっと心を留めてきた人には、どちらが神から遣わされた真の預言者であるか、判断できたかもしれません。しかし、ほとんどの人には判断できかねたでしょう。 エレミヤは言います。「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(9節)。しかし、結果が出るまで本物かどうか分からないというのでは、従いようがありません。ついにエレミヤはハナンヤの言葉の本質を言い当てます。「お前はこの民を安心させようとしている」。それは、神なしの偽りの安心でした。 神の言葉を取り次ぐことがなければ、本当に民を安心させることはできません。神の言葉の中にこそ、確かな安心の土台があるからです。 Mon, 19 Nov 2018 00:10:00 +0000 神の御手に身を委ねる(エレミヤ書 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181119 no 2018 わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。今やわたしは、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。 (エレミヤ書27章5節~6節) エレミヤは自分で自分の首に軛をはめて語ります。このようにバビロニア帝国のネブカドネツァル王に首を差し出して仕えよ、と。エレミヤは世界情勢を見渡して、そうすることがユダ王国の国益にかなうと分析したのではありません。また、エレミヤは戦いを好まない平和主義者だったのでもありません。これが主の命じる言葉だったからです。 エレミヤが語ることは、形としてはバビロニア帝国への隷属です。しかし、それを命じておられるのは主なる神なのです。ですから、神への服従こそ、神がエレミヤを通して求めておられることです。 ここに記されていることは、特殊な歴史の中で起こったことですから、そのまま現代に適用することはできません。しかし、信仰者として、ここから学ぶとするなら、このことを学ぶことができます。それは、不利益と見えることの中にも神の愛に満ちた計らいを信じ、万事を益としてくださる神の摂理に身を委ねる姿勢です。たとえそれが、自分が蒔いた種を刈り取る結果であったとしても、悔いて従う魂を、神は決して軽んじられることはありません。 Sun, 18 Nov 2018 00:10:00 +0000 大いに喜びなさい(マタイによる福音書 5章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181118 no 2018 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 (マタイによる福音書5章12節) 主イエスの説教を聞いている群れは、おもにガリラヤ地域に居住しており、ユダヤ社会の主流とはへだたりのある人びとでした。彼らは、単にユダヤ人として律法に親しんでいる人びとでした。 そのような彼らが、ガリラヤ湖が見える丘で主イエスの説教に耳を傾けています。主イエスは、公生涯の開始と共に、説教を語り始められました。それは、彼らには簡単には理解できないような説教でした。すなわち、この箇所は真のキリスト者としての生き方に関する話であり、3節から始まる報いを受けられる条件を見ると、キリスト者としても、その実現は難しいと感じられるものなのです。 では、なぜ主イエスはこのような説教をされたのでしょうか。それは、キリスト者として生きていくことは決して簡単ではないこと、キリスト者という理由だけで世からの迫害を受けるようになり、その迫害が耐えるに容易ではないということを教えられるためです。 そして、その上で、天の御国では受けるべき大きな祝福が備えられていることこそを、主イエスは教えられたかったのです。 Sat, 17 Nov 2018 00:10:00 +0000 救いへの招き(エレミヤ書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181117 no 2018 「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。 (エレミヤ書26章12節~13節) エレミヤは主から託された言葉を忠実に語る人でした。聞き手も忠実にその言葉に耳を傾けるべきでした。けれども、祭司も預言者たちも、エレミヤの語る言葉に耳を貸そうとしません。そればかりかエレミヤを捕らえて死刑に処するようにと求めます。その理由は、都エルサレムに敵対する預言をしたからでした。しかし、エレミヤの語る預言を、敵対的であるとしか聞くことができない彼らの心に二つの問題があります。 一つは、罪が蔓延していても、それを感じることができない鈍感さです。そのために、神の怒りを理解できず、エレミヤの言葉を敵対的な言葉としか受け取れません。 第二に、預言が語られる意図を聞き違えています。主の御心は、都を滅ぼすことにあるのではなく、民が悔い改めて主に立ち帰ることにありました。神の言葉の中に、神の恵みと憐れみとを聞き取らなければ、神に立ち帰ることはできません。 罪人である人間は、多かれ少なかれ、これらの問題を抱えています。しかし、神は忍耐強く語ってくださいます。その御言葉の中に救いへの招きを見出す人は幸いです。 Fri, 16 Nov 2018 00:10:00 +0000 罪に対する神の怒りと憐れみ(エレミヤ書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181116 no 2018 この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。 (エレミヤ書25章11節) ここにはユダ王国の滅亡が預言されています。その滅亡の原因は、彼ら自身の罪にありました。その罪とは、神の警告を無視し続ける心の頑なさです。エレミヤが23年間にわたって、主の御言葉を語り聞かせたにもかかわらず、それに聞き従おうとしない心の頑なさです。 23年間という期間は、決して短くはありません。忍耐をもって民に接して来られた神の憐れみ深さを感じます。もちろん、神がこれまで忍耐してこられたのは、ただ一度の23年間ではありません。ここに至るまで、何度、ご自分の民の罪を忍耐してこられたことでしょう。 ここで語られるユダ王国の滅亡は、決して個々人にそのまま当てはめることはできません。けれども、罪がもたらす悲惨さを、恐れをもって受け止めることは大切です。 神はユダ王国を新バビロニア帝国によって罰します。しかし、永遠にではありません。70年という期限付きです。ここにも神の憐れみを見出します。人が罪の中にとどまることを、今も神は望まれません。畏れをもって神の憐れみに寄りすがり、救いを期待することこそ神の御心です。 Thu, 15 Nov 2018 00:10:00 +0000 祈りによって結び合わされる(テサロニケの信徒への手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181115 no 2018 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、…どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。 (テサロニケの信徒への手紙二3章1節~5節) この手紙の最後は祈りで締めくくられます。パウロはまず、「わたしたちのために祈ってください」と呼びかけます。何よりも優先して願い求めたことは、「主の言葉が、…速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」ということです。パウロの働きはいつも順調なのではなく、むしろ多くの困難を伴いました。福音を宣べ伝えようとするがゆえに、妨害や迫害を受けました。パウロは、主に選ばれた器として特別な召命を受けていましたが(使9章15、16節)、教会の祈りもまた不可欠でした。 祈りの要請の後に、執り成しの祈りが続いているように、伝道者と教会は祈りによって結び合わされています。私たちを守ってくださる父なる神は、キリストが十字架の苦しみを耐え忍ぶことによって愛を示されました。「わたしはあなたがたと共にいる」との約束に忠実な方への確信をもって、私たちは祈りを合わせます。「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように」(16節)。 Wed, 14 Nov 2018 00:10:00 +0000 福音を通して救われる(テサロニケの信徒への手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181114 no 2018 神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。 (テサロニケの信徒への手紙二2章14節~15節) 使徒パウロは教会に宛てて多くの手紙を書き送り、時には直接訪れて説教をしました。それは「救われるべき者」(13節)として神に招かれていることを、福音を通して知らせるためです。 その頃、「自分こそは神であると宣言する」者も現れるなど、誤った教えが説かれることがありました。とくに終末についての事柄は、人びとの関心を引き付けやすく、憶測が飛び交い、惑わされやすいものです。そのため、すぐに動揺して分別を無くさないように、慌てふためかないように、パウロは強く注意を促します。(2~4節) 復活した主イエスと出会い、天に上げられるのを見つめていた使徒たちは、主イエスが「同じ有様で、またおいでになる」(使1章11節)との約束が伝えられました。これが終末のしるしであり、私たちはその時、「主イエス・キリストの栄光にあずか」ります。この福音を固く守り続けて参りましょう。 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(同4章12節) Tue, 13 Nov 2018 00:10:00 +0000 苦しみは神の国のため(テサロニケの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181113 no 2018 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。…あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。 (テサロニケの信徒への手紙二1章4節~5節) パウロは主イエスを伝えることによって、暴動を起こされ、襲われた経験がありました(使17章3~5節)。私たちがその時と同じような暴動による迫害を受けることはほとんどないかもしれません。けれども、主イエスを伝えることや教会に集うことをやめさせようとする静かな迫害の中にいるのではないでしょうか。家族の中で、職場の同僚たちの中で、学校の友人たちの中で、たびたび恐れおののいてしまいます。信仰を示したいと願いつつも「難しい」と苦しみます。 多くの苦難を経験したパウロは、苦しみを受けているのは神の国のためだと、私たちを励まします。神は助けを求める者の声を聞きあげてくださいます。苦しむ者たちには、主イエスによる休息を神が与えてくださるのですから(7節)。栄光に輝く力を帯びて再び来られる主を待ち望みつつ、今日も祈ります。 「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」(11節)。 Mon, 12 Nov 2018 00:10:00 +0000 真心をもって神に帰る(エレミヤ書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181112 no 2018 わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。 (エレミヤ書24章7節) 中東の特産物であるいちじくは、ぶどうやオリーブとあわせて、イスラエルを象徴します。エレミヤは良いいちじくと悪いいちじくを選り分けた二つの籠が神殿に供えられているのを見て、神の言葉を受け取ります。 いちじくの入った籠はそれぞれ民の命運を表しています。エレミヤが語った通り、バビロンへ捕囚に連れ去られた民は神の憐れみを受けて生き残り、御言葉に逆らって捕囚を拒んだ民は土地から滅ぼされることになります。未来は神の裁きを謹んで受けるか否かにかかっています。 捕囚の罰を受けた民には回復の希望が与えられます。彼らもまた主なる神の名を軽んじた者たちです。けれども、神の憐れみが注がれるときには、彼らはいかに汚れていようとも「良いいちじく」とみなしていただけます。再び神を正しく知る心も与えられます。一度破られた契約も、そうして再び回復されます。神は恵みとして、民の帰還をゆるされるのです。 こうして、真心から神に立ち帰ること、また、神に仕える喜びは、神の選びと憐れみによる恵みの賜物です。 Sun, 11 Nov 2018 00:10:00 +0000 行い、守りなさい(マタイによる福音書 23章1-12節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181111 no 2018 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 (マタイによる福音書23章3節) 主イエスは群衆と弟子たちに大切なことを教えておられます。律法学者たちやファリサイ派の人びとは律法に精通していました。彼らの信仰の熱心は称賛に値しますが、主イエスはユダヤ社会の主流である律法学者たちとファリサイ派の人びとの行いについて叱っておられます。 その理由が4節から7節に記されています。彼らの信仰に対する熱意が残念ながら神の御心に適いませんでした。それで、主イエスは自分に従っている群衆と弟子たちに向かってこう勧めておられます。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない」と。 律法学者たちやファリサイ派の人たちが「言うこと」とは何でしょうか。それは「律法と預言者の言葉」であり、旧約聖書に書かれていることです。しかし、残念なことですが、彼らは御言葉どおりには行えていませんでした。主イエスは群衆と弟子たちに聖書に記録されたとおりに行うことを求めておられます。 キリスト者なら、神の言葉を重要視し、御言葉どおりに行うことが大切です。 Sat, 10 Nov 2018 00:10:00 +0000 真の牧者の到来(エレミヤ書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181110 no 2018 (エレミヤ書23章5節~6節) 神にとってご自分の民は羊の群れであり、地上には牧者たちが遣わされて群れを養う務めを負いました。その牧者たちとは王・預言者・祭司という民の政治的・宗教的指導者たちです。王国が神への信仰を失って滅びを招いたのには、この牧者たちの腐敗が大きく作用しています。羊飼いが自分を養うのに躍起で羊たちを追い散らし、神の言葉を語るべき者が神に聞かずに自分の心のままに語るとき、民は偽りの平和に憩って、悔い改めへ促されることもなくなりました。 神の御旨を行う牧者たちがいないのを見て、神御自身が牧者を立てると宣言されます。「主は我らの救い」との名で呼ばれるその人は、ダビデの若枝として神の民を救い、平和をもって治めます。王も祭司も預言者も、神が備えた務めはどれも重くて罪ある人間には耐えきれない職務です。 牧者たちの腐敗は歴史の中で繰り返され、しばしば改革が求められました。それをご存じの神は、真の牧者を地上にお遣わしくださいました。イエス・キリストこそ、民を治める唯一の牧者です。 Fri, 09 Nov 2018 00:10:00 +0000 王たちの責任(エレミヤ書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181109 no 2018 災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を 正義を行わずに高殿を建て 同胞をただで働かせ 賃金を払わない者は。 (エレミヤ書22章13節) 神の義と憐れみに基づいて、不当な利益を求めず、在留外国人・孤児・寡婦を保護し、公正な裁判を行うことが、ユダの王たちに求められた政治でした。しかし、律法においてその定めを知りながら、自分の富を蓄積することに精を出し、国民から搾取を続けた王たちによってユダ王国は滅びを招きます。 ダビデの王座が据えられた王宮も、正義が行われている間は国民の誇りとなり、神の祝福も与えられたことでしょう。しかし、王が民のことを顧みなくなり、主なる神との契約を忘れて政治的・経済的な思惑から他国の偶像崇拝を始めたところで、王宮はただの贅沢へと様変わりします。 ヨシヤ王の頃は幸せだったと、ユダ王国の良い時代が思い起こされます(15、16節)。ヨシヤによる改革事業は成功し、民は信仰に立ち帰って王の裁きに満足することができました。しかし、父の模範があったにもかかわらず、息子は神の言葉を聞かない圧制者となりました。 王には神の民を治める責任があります。それを真に果たすことのできるメシアが民には必要です。 Thu, 08 Nov 2018 00:10:00 +0000 怒りの矛先(エレミヤ書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181108 no 2018 主はこう言われる。 朝ごとに正しい裁きを行え。 搾取されている人を 虐げる者の手から救い出せ。 わたしが火のような怒りを 発することのないように。 (エレミヤ書21章12節) ユダ王国の終焉が近づいています。バビロンの王ネブカドレツァルが西方に遠征しようと軍を構えています。ユダの背信に対する神の裁きは大いなる怒りとなってエルサレムの都を焼き尽くそうとしています。 戦争にはいつも人間の打算が働きます。民衆が戦争を引き起こすのではなく、王族たちが富や名誉のために国民を駆り立てます。バビロンの王にしても自国の利益のために兵を起こすのに違いありません。しかし、その背後には歴史を支配する神がおられ、ご自身の意思を実現されます。 エレミヤを通して告げられた生き残りの道は、バビロンに降伏して捕囚を受け入れることです。ユダの人びとはすべてを失うでしょう。神殿も土地も財産も。けれども主の言葉に従えば命だけは助かると教えられます。 神の怒りの矛先は、あてのない理不尽なものではなく、神の正しい裁きを曲げて搾取を続けた都に向けられています。「朝ごとに正しい裁きを行え」。それが神の願いでした。神の告発を敏感に受け取る感性がいつの時代にも求められます。 Wed, 07 Nov 2018 00:10:00 +0000 預言者の弱さ(エレミヤ書 19-20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181107 no 2018 主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。 あなたの勝ちです。 わたしは一日中、笑い者にされ 人が皆、わたしを嘲ります。 (エレミヤ書20章7節) 主の神殿の庭で恐るべき主の裁きを告げたエレミヤは、大祭司パシュフルの手によって鞭打たれ投獄されます。敗戦によるエルサレムの破壊とバビロンへの捕囚は預言者によって警告されていたにもかかわらず、それが実現するまで人びとは関心を払いませんでした。 エレミヤは主の言葉に忠実な預言者でしたが、自分が受けている苦難に対して超然と構えることができたわけではありません。罪人とされ人びとの嘲笑を受けながら、自分の運命を呪って神を訴えます。「あなたがわたしを惑わし」たとは、まるで神がエバを誘惑した蛇であるかのような言い草です。「あなたの勝ちです」、「わたしの負けです」(20章9節)と神に対する完全な屈服を表しながらも、自分は生まれなかった方がよかった(同14節)などと恨み言を口にします。 神の言葉を真実に語る務めがどれほど過酷であろうとも、預言者は人間としての弱さを抱えつつ務めを果たさねばなりません。なぜ、とエレミヤは問いますが、その答えは御子イエスの受難の中に用意されています。 Tue, 06 Nov 2018 00:10:00 +0000 神の主権にしたがう(エレミヤ書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181106 no 2018 「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」 (エレミヤ書18章6節) 預言者エレミヤを陥れようと謀ったエルサレムの同胞たちは、自分たちが真の信仰者であることを信じて疑いませんでした。「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない」(18節)と、彼らは既存の特権に甘んじて、エレミヤの語る批判的な言葉に耳を貸そうとしませんでした。その彼らのためにも執り成してきたエレミヤですが、悪をもって善に報いる彼らの態度にやりきれない思いで神の裁きを願うようになります。 真の神を畏れる心があるならば「我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたい」(12節)とは思わないはずです。うわべでは決められたことを確かに守っているように見えても、心の中では自分自身が主人として振る舞っている限り悔い改めは実を結びません。 陶工が粘土で器をつくり、それを自分で壊すように、造られたものは造ったものの意のままです。神の主権の下にあるイスラエルもまた同じです。心の中を主はご覧になっています。「道と行いを正せ」(11節)。その御声を畏れて聞く者こそ神の民です。 Mon, 05 Nov 2018 00:10:00 +0000 人間ではなく神に信頼する(エレミヤ書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181105 no 2018 祝福されよ、主に信頼する人は。 主がその人のよりどころとなられる。 彼は水のほとりに植えられた木。 (エレミヤ書17章7節~8節) ユダの捕囚を知らされたエレミヤは預言者の務めの故に苦しみながらも神の裁きを語り続けました。来たるべき災いをエレミヤ自身が望んだわけではありません。それでも、預言者は神の口としてそれを語らねばなりませんでした。人びとに苦しめられながら、彼はただ神にすべてを委ねて救いの時を待ちます。 安息日を守らず神を侮るのがイスラエルの不信仰であるなら、苦難の中で神に逃れてひたすら救いを祈り続けるのがイスラエルの信仰です。神を頼みとしないで金銭に頼り、人間社会のしがらみの中に埋没してしまえば、やがて来る災いによってすべてを失います。しかし、神に信頼して心を明け渡す人からは希望は失われず、水路のほとりで青々と葉をつける木のように生き長らえることができます。神が「生ける水の源」であるからです。 人の心は病んでいて真理を求めず、罪を重ねて自ら滅びを招いています。しかし、主はそのような人の心もすべてご存じで、主が癒やしてくださるなら癒やされます。救いを待ち望む忍耐に主なる神は必ず報いてくださいます。 Sun, 04 Nov 2018 00:10:00 +0000 あなたの主である神を愛しなさい(マタイによる福音書 22章34-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181104 no 2018 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』…第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」 (マタイによる福音書22章37節、39節) 律法は、世のすべての人たちのためのものではなく、キリスト者の信仰生活の指針であり、神がモーセに与えてくだった約束です。 選びの民であるキリスト者は、律法に記録されている許可されたことと禁止されたことに視線を固定してしまうときがあります。それで、キリスト者は、神が御自身の民に律法を与えてくださったおもな目的を悟ることができず、その上、自分は律法をよく守る者として、他者に対して厳しい物差しをあてることがあります。彼らは律法を犯す者に対して自ら裁き主になり、罪に定めてしまいます。 この箇所で、主イエスが律法について新しい解釈をしているように見えますが、実はそうではありません。主イエスは、旧約聖書を引用して律法を明快に説明しています。「あなたの神である主を愛しなさい」とは申命記6章5節の御言葉を引用したものであり、「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章18節を引用したものです。主イエスはファリサイ派の人たちに律法が与えられた意味の根本を教えたかったのです。それが神を愛すること、隣人を愛することです。 Sat, 03 Nov 2018 00:10:00 +0000 真の神を知るために(エレミヤ書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181103 no 2018 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。 (エレミヤ書16章16節) エレミヤは、おおよそ多くの人に許されている日常的な生活の営み(2~8節)さえ、神から禁止されました。なぜなら、イスラエルの土地はすでに神から見離されて明るい未来がないからです。待っているのは一切の喜びや活力の失われた虚しい世界であるからです。エレミヤには、その世界を体現することが求められました。 そうして描かれる「神なき世界」は、現代の私たちの知らないところではないはずです。生きる喜びが日々の生活から失われ、将来の希望も持てないで、ただ戦争や災害に怯える時代は繰り返し私たちのもとを訪れます。それを聖書は「神を締め出した世界」、「神が見離した世界」だと語ります。神こそが人間を生かす活力であり、すべての良きものの源であるからです。 イスラエルに審判が下されるのは、諸国の民に対して生ける真の神が証しされるためです。その時に、裁きを受けた民が再び先祖の土地に戻ります。出エジプトによる民の選びと救いが再び起こるとの約束です。御子イエスのもとに漁師たちが集められて福音の宣教が開始されて以来、救いを表す主の名が地の果てに至るまで告げ知らされます。 Fri, 02 Nov 2018 00:10:00 +0000 預言者の苦しみ(エレミヤ書 14-15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181102 no 2018 なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。 あなたはわたしを裏切り 当てにならない流れのようになられました。 (エレミヤ書15章18節) 背信のイスラエルに対する神の拒絶は厳しく、エレミヤには執り成しの祈りさえ禁じられます。モーセやサムエルが執り成したとしても駄目だ(15章1節)というのですから、もはや取りつく島がありません。民に告げられる裁きの言葉は、エレミヤをいっそう孤立に追いやります。人びとは偽預言者の語る、耳に心地よい話を好み、罪の責めを語る真の言葉には敵意を覚えるからです。 語っても語っても受け入れられず、国中の嫌われ者となって追い詰められたエレミヤは、自分の出生を呪い、神を訴え始めます。神に召されて語る光栄は、いつしか心の病に蝕まれ、召された初めに与えられた保護の約束も「当てにならない」とさえ思ってしまうようになりました。エレミヤの方に何か過失があったのかどうか分かりません。神の言葉を軽率に語ったことがあったのかもしれません。 この訴えに対して、神は「熟慮して語」れと告げられます(15章19節)。彼を再び立ち上がらせるために再び確かな保護を約束されます。人間に与えられた預言者の務めは過酷です。しかし、その苦難を通して神の真理が世に現れます。 Thu, 01 Nov 2018 00:10:00 +0000 預言者の涙(エレミヤ書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181101 no 2018 あなたたちが聞かなければ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。 涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。 主の群れが捕らえられて行くからだ。 (エレミヤ書13章17節) 暗黒の支配を免れるために、信仰による立ち帰りをエレミヤが繰り返し語ったにもかかわらず、ユダの民は神に栄光を帰すことをしないで破滅を目前にしていました。かたや神はエルサレムに対する決定的な裁きを語り、預言者は神と民との間に挟まれて苦しみます。 同胞から迫害されても、なおエレミヤは民への愛を失ってはいません。預言者は神の言葉を取り次がねばなりませんが、かつてモーセがそうであったように、民の1人として執り成すことも大切な務めです。神の言葉を受け入れない人の心の頑なさに、預言者は避けられない神の裁きを見て涙を流します。 神は人ではないので涙を流すことはありません。しかし、預言者が涙を流すとき、それはまた神の御旨を表すしるしとなります。 イエス・キリストは滅びに定められたエルサレムを見て涙を流されました(ルカ19章41節)。それは失われた子の帰りを待ちわびる父の思いを映します。神もまた涙を流すほどに世を愛されて、僕たちを通して御言葉を語り続けるのです。 Wed, 31 Oct 2018 00:10:00 +0000 預言者の孤独(エレミヤ書 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181031 no 2018 アナトトの人々はあなたの命をねらい 「主の名によって預言するな 我々の手にかかって死にたくなければ」と言う。 (エレミヤ書11章21節) 歯に衣を着せぬエレミヤの預言は周囲から親しい者たちを遠ざけます。厳しい批判の言葉など聞きたくないのは世の常です。「アナトト」はエレミヤの故郷です。故郷の人々はエレミヤの告げた神の言葉に怒りをあらわにし、彼を亡き者にしようと企てました。彼は何も親兄弟を憎んで神の裁きを告げたわけではありません。包み隠さず神の言葉を語らねばならないのが預言者の務めです。しかし、それが人から疎まれ、命さえ狙われる理由になりました。 真実を覆い隠すために、暴力によって口を封じようと試みるのは罪深い世界の現実です。不正を暴こうとするジャーナリストの仕事がいつも命がけにならざるを得ないのと同様です。そして偽預言者と同じく、保身のために権力の側につく選択をする者も少なくありません。 預言者は屈強な精神力の持ち主だったわけではありません。正しい裁きを神に求めて、時には激しく神に訴えながら、神の言葉に命を預けて闘いました。ここに神の御言葉をいただいた教会の孤独と崇高な召しがあります。主イエス・キリストがその先頭におられます。 Tue, 30 Oct 2018 00:10:00 +0000 救いに至る知恵(エレミヤ書 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181030 no 2018 知恵ある人はこれを悟れ。 主の口が語られることを告げよ。 何故、この地は滅びたのか。 焼き払われて荒れ野となり 通り過ぎる人もいない。 (エレミヤ書9章11節) エレミヤの預言から裁きの言葉を毎朝聴き続けるのは苦行にも感じられます。世の中には人の過失を責める暴力的な言葉が至る所にある一方で、メディアでは正しい批判さえ避けて何事も丸く収めようとする傾向があります。教会でも人間の罪性を指摘する御言葉を避け、愛と希望だけを優しく語りかける説教が好まれます。しかし、神の言葉は人間の好みに合わせて語られてはいません。聖書は真実を語ります。 イスラエルの歴史に刻まれた人間の深い罪の性質は、歴史の彼方で語られる他人事では済まない、神の目から見たありのままの人間の姿です。預言者を通して語られる神は、そこから目をそらさないで知恵を得よ、と、時代を超えて世界に呼びかけます。 しかし、その罪の真実を認めたところで、自分の力でどうにもできないのが人間です(10章23節)。それを知るしもべは、神の正しい裁きにすべてを委ねて、あとはただ憐れみを乞うています。ここに救いの道が始まります。神は怒りに任せて滅ぼす方ではなく、むしろお造りになったすべてのものを愛ゆえに贖う道を備えてくださいます。 Mon, 29 Oct 2018 00:10:00 +0000 偽りの神殿(エレミヤ書 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181029 no 2018 「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」 (エレミヤ書7章4節~6節) エルサレム神殿は神の臨在の証であり、イスラエルの誉れとして礼拝がささげられていました。多くの参拝者が集う中、エレミヤは神殿の門に立って神の言葉を呼ばわります。 人々は礼拝をささげながら「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と口々に賛美を唱えます。これは、そうして3回唱えるとご利益がある、という程の信心であったかもしれません。しかし、「神さま」とか「イエスさま」とか口で呼びかけても、生活のうちに主の教えに従う喜びがなければ、それは虚しい呪文と変わりがありません。イスラエルに与えられた神殿は、そこから語られる神の言葉に聞き従ってこそ人びとの命となります。真の信仰を失った形ばかりの宗教に民の魂を救う力はありません。 神がお造りになるのは見せかけの平和ではなく、神の霊によって正義と愛を生み出す真の平和です。そのために、神は情熱を込めて民に呼びかけ続けます。罪に囚われている人間には自分から悔い改める力はありません。けれども、聖霊が御言葉とともに働くとき、真の悔い改めと信仰によって人は生きることができます。 Sun, 28 Oct 2018 00:10:00 +0000 キリストの犠牲を通してなされた和解(コリントの信徒への手紙二 5章16-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181028 no 2018 「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」 (コリントの信徒への手紙二5章21節) 功績による救いを教えていたカトリック教会に対して、宗教改革者たちは人間の徹底的な無力と全的堕落を認め、信仰のみによる救い、信仰義認を主張し、ただ恩恵のみによる救いを強調しました。救いの絶対的恩恵性の告白は、人間の中にいかなる救いの根拠も求めず、神のみにその根拠を求めるものでした。 その確信の根拠は、きょうの御言葉にあります。キリストが「罪と何のかかわりもない方」として示されています。神の御子が受肉され、私たちと同じ人間となられ、地上での一切の生活を私たちと同じようにされました。しかし、私たちとは決定的に違う点がありました。罪は犯されなかったのです。神は、その「罪と何のかかわりもない方」を「罪となさいました」。その目的は、「わたしたちのため」です。神が罪のない御子を、私たちの身代わりとして、私たちの罪を背負わせ、罪の刑罰を受けさせられたのは、私たちが「その方によって神の義を得る」ためでした。 これほど大きな犠牲を払って神は私たちを救ってくださいます。「神と和解させていただ」(20節)かない理由がいったいどこにあるでしょうか。 Sat, 27 Oct 2018 00:10:00 +0000 悔い改めを拒む民(エレミヤ書 5-6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181027 no 2018 「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う。」 (エレミヤ書6章13節~14節) 悔い改めを求める神の言葉を告げた預言者は、まるで石の壁に向かって語るような虚しさを覚えます。人びとは主なる神の名を知らないわけではありません。偶像を拝みながら、「主は生きておられる」と誓うことさえしています。預言者が直面したのは無知の壁ではなく、「主の道、神の掟」に従って生きようとする意欲の欠如でした。人びとは御言葉に聞かずに自分で自分を正当化し、偽りの平和に安住して神の正義を心にかけませんでした。神との契約がもはや断ち切られていました。 預言者は民の拒絶に遭って主の怒りに満たされ、忍耐の限界を感じます(6章11節)。しかし、ひとたび彼の口から発せられた神の言葉は、生ける神の言葉として世に作用します。神を恐れず、抑圧・不法・暴力に明け暮れる民に対して、神は必ずその悪に報いると告げ、それは確かにイスラエルの上に実現します。 民の悪事を神が罰するとき、神の正義が世界に向けて示されます。しかし、そうして見捨てられた民が再び顧みられるとき、神の愛が世に現れます。 Fri, 26 Oct 2018 00:10:00 +0000 悔い改めへの招き(エレミヤ書 3-4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181026 no 2018 背信の女イスラエルよ、立ち帰れと 主は言われる。 わたしはお前に怒りの顔を向けない。 わたしは慈しみ深く とこしえに怒り続ける者ではないと 主は言われる。 ただ、お前の犯した罪を認めよ。 (エレミヤ書3章12節~13節) 神との契約を蔑ろにしたイスラエルの罪は「姦淫」と言われます。夫である主を捨てて偶像に過ぎない他の神々に心を傾けたからです。北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされたのは、繰り返し「立ち帰れ」と呼びかけられたにもかかわらず、耳を傾けようとしなかったイスラエルに対して、神がついに離縁状を渡したことを意味しました。 それを傍で見ていた南ユダの人々には罪を悔い改めるチャンスがあったはずです。しかしユダもまたイスラエルと同じ轍を踏み、行いを改めようとはしませんでした。 罪を認めず、悪を重ねても平気な人間の狡さは、神の憐れみを試すかのようにこう言ってはばかりません。「主はいつまでも憤り、限りなく怒り続けるだろうか」と(5節)。 「立ち帰れ」と呼びかけ続ける神は報われないようですが、わが子であり妻である民に対する熱情が失われることはありません。困難の中で御言葉を語る預言者を通じて、やがてはご自分でエルサレムを回復し、民を一つにする未来を明らかにされます。 Thu, 25 Oct 2018 00:10:00 +0000 失われた花嫁(エレミヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181025 no 2018 主はこう言われる。 わたしは、あなたの若いときの真心 花嫁のときの愛 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。 (エレミヤ書2章2節) 預言者エレミヤの口を通して語られる主の告発は、まずイスラエルに向けられます。モーセによって荒れ野に導かれ、契約を結んで主の民とされたイスラエルは、いわば主なる神の花嫁であり、若いときの妻として思い起こされます。荒れ野の旅は民にとっては試練の連続であったかもしれませんが、神にとっては甘い蜜月のときでした。それが昔の思い出となってしまった無念さが告発の動機です。 アッシリアやエジプトという大国の影響下で、イスラエルが独自の形で政治や社会を維持することは困難でした。そうした中で、神と民との間を取り持つ祭司ら指導層の者から率先して偶像崇拝になびいてゆきました。この驚くべき軽率さは天下に轟くほどだと、神は自らが伴侶とした民の背信に唖然とされます。 神を忘れた民は拠り所を求めて止めどなくさまよい、神ではないものを崇めて自ら救いの無さを露呈します。そうして神に背いて悪に手を染めても、「罪はない」と、自らの罪と悪事の自覚さえありません(35節)。人間の救い難さは選びの民においてこそ明らかではないか、と神は世界に訴えます。 Wed, 24 Oct 2018 00:10:00 +0000 預言者の召命(エレミヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181024 no 2018 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」 (エレミヤ書1章5節) エレミヤはユダ王国滅亡に至る激動の時代を生きた孤高の預言者でした。エルサレム近郊のアナトトにある地方聖所の祭司の家に生まれた彼は、若くして主の召命を受け、「諸国民の預言者」として預言活動に身を投じました。神の裁きを告げる言葉の厳しさゆえ、地元からは疎まれ、王宮から命を狙われた、そんな彼の苦難のしもべとしての姿はイスラエルの記憶に刻印されています。 迫害は、その召しの初めから予告されていました。周囲におもねって真実を語るのを止めれば、あるいは無難に過ごすことができたかもしれません。しかし、生まれる前から神に選ばれ、その務めのために生を与えられたと聞かされて、エレミヤは生涯を神に明け渡さざるをえなくなりました。、そして、脅かされても揺るがない神の口となりました。 神はご自分の言葉を成し遂げるために、永遠の昔からしもべを選んで世に送ります。その崇高な召命にしもべは堪え難い苦痛を覚えながらも、真理である言葉に命をささげます。そこに真の預言者の証があり、来るべきメシアが予告されます。 Tue, 23 Oct 2018 00:10:00 +0000 復活の主によって開かれる(ルカによる福音書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181023 no 2018 すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。2人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 (ルカによる福音書24章31節~32節) 共に歩き、聖書を解説し、パンを裂くという一連の業の中で、主イエスは2人の目を開き、心を開いて、復活を信じる信仰へと導かれました。その際、「心が燃えていた」のは、主イエスが聖書を説き明かし、語りかけてくださったからです。 この主イエスの説き明かしは、「モーセの律法と預言者の書と詩編」(44節)とあるように、聖書全体からなされたものです。まさに聖書が「わたし(主イエス)について証しをする」(ヨハ5章39節)ものであることを示す頂点が、この復活の主の言葉にあります。 主イエスはこの聖書全体を悟らせるために彼らの心の目を開き、「メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる」とおっしゃって、彼らを送り出されました(46、47節)。 復活の主は、今も御言葉と聖霊の導きによって、人の目を開き、心を開いてくださっています。この方と出会う復活の喜びがあなたの上にありますように。 Mon, 22 Oct 2018 00:10:00 +0000 侮辱されるイエス(ルカによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181022 no 2018 「祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。」 (ルカによる福音書23章10節~11節) 「使徒信条」にあるように、主イエスは「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」られました。その様子がこの23章に記されています。「この男はわが民族を惑わし」(2節)たと人びとは訴えました。けれども、ピラトの反応は、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(4節)というものでした。そのピラトの思いは続く場面でも同じでした。 ピラトは自らの責任で取り調べた結果、繰り返し、主イエスのことを無罪と認めざるを得ませんでした。すなわち、聖書において、主イエスがこの世の法律、しかも当時の最高の法律と言われるローマ法によって裁く者の前においても無罪であることが、はっきりと示されています。聖書は、主イエスは無罪でありながらも十字架におかかりくださったと言うのです。 それにもかかわらず、この罪なき主イエスをこの世の権力者も民衆も、救い主として認めることはありませんでした。なぜなら、そこに人の罪を担われた苦しみがあることを理解できなかったからです。世の目では見ることのできない神の救いの御業が、主イエスの十字架によって示されるのです。 Sun, 21 Oct 2018 00:10:00 +0000 神のものは神に返しなさい(マタイによる福音書 22章15-22節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181021 no 2018 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイによる福音書22章20節~21節) 「皇帝に税を納めるべきか否か」というファリサイ派の人びとの質問は、どちらを認めても陥れられることになる、巧妙に仕組まれたものでした。それに対して、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。 ここで主イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と問いかけて、デナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘があるゆえ、皇帝に返すことをお認めになりました。しかし、それだけではありません。「肖像」という言葉には「像、似姿」という意味があります。創世記1章27節に、人間は「神にかたどって創造された」と書かれています。つまり、デナリオン銀貨に皇帝の肖像が刻まれているように、人間には「神の像」が刻まれているのです。それゆえ、人間の全存在は神のものなのです。 「あなたがたは、神の像の刻まれている者である。それゆえ、その心も体も命も、すべて神のものとして相応しく神にお返ししなさい」と、主イエスは教えておられます。人生のあらゆる領域で、自分自身を神に献げ、神の栄光を現すことが、私たちキリスト者の生きる目的です。 Sat, 20 Oct 2018 00:10:00 +0000 いちばん偉い者とは(ルカによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181020 no 2018 「あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」 (ルカによる福音書22章26節) 「だれがいちばん偉いだろうか」。この議論は、9章46~48節にもあります。そこでは、主イエスは弟子たちに、一人の子どもに注目させながら、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と教えられました。弟子たちは、このことを既にきちんと聞いていたにもかかわらず、再び同じことで主イエスを煩わせることになってしまいました。 しかも、この争いは最後の晩餐のすぐ後に起こったものです。これまでにも3年間ほど弟子たちは主イエスと行動を共にし、さまざまな教えを聞いてきました。主イエスは、それらを締めくくるように、ここで聖餐の礼典を制定し、弟子たちを招いて、御自分の十字架のことをいよいよ鮮明に語られたのです。 それにもかかわらず、すぐにだれがいちばん偉いかという争いに発展してしまったのは、何とも悲しいことです。けれども、主イエスはこのとき、弟子たちを叱りつけるのではなく、見捨てるのでもなく、9章の時よりもはるかに丁寧に語っておられます。そこに、弟子たちに仕えて教えられる主イエスの本当の偉大さがあります。 Fri, 19 Oct 2018 00:10:00 +0000 心が鈍くならないように(ルカによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181019 no 2018 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」 (ルカによる福音書21章34節) 21章では、世の終わりを待つ者の心構えが教えられています。主イエスの願いは、「心が鈍くならないように注意しなさい」ということです。「さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」と続きます。「その日」は終わりの日であり、終末は不意に罠のように襲ってくると言われます。 世の終わりは、神ご自身が決めておられることです。けれども、それがいつ来るのかは教えられていません。ですから、それが不意に来るというのはうなずけます。しかし、「罠のように」ともあります。果たして神が罠をかけるのでしょうか。 私たちにとっての「罠」は「心が鈍くなる」ことです。信仰的な感覚が麻痺していることだと言えるでしょう。終末を語っているのはほかならぬ神の御言葉です。それにもかかわらず、人の思いによって神の教えをしりぞけるところに、私たちの鈍さがあります。 終わりの日に、主イエス・キリストは確かに来られます。「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)。 Thu, 18 Oct 2018 00:10:00 +0000 わたしの愛する息子を送る(ルカによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181018 no 2018 「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。」 (ルカによる福音書20章14節~15節) ヘブライ人への手紙1章1、2節に次のようにあります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。 ルカによる福音書20章にある「ぶどう園と農夫のたとえ」は、まさに冒頭の聖句をたとえたものと言ってよいでしょう。神は多くの預言者を遣わされ、人びとに悔い改めを求めました。けれども、それは「袋だたきにし、侮辱して」(11節)の繰り返しでした。にもかかわらず、主人の思いは変わることなく、「わたしの愛する息子」(13節)を送るほどに農夫たちを愛し抜かれました。しかし、「わたしの愛する息子」は殺されてしまいました。 それは、まさに十字架にかけられた御子イエス・キリストです。「そんなことがあってはなりません」(16節)と言われることが起こるほど、人の罪は深いものなのです。その解決は、「わたしの愛する息子」イエス・キリストの十字架にしかありません。その十字架によって私たちの罪が赦されました。ここに愛があります。 Wed, 17 Oct 2018 00:10:00 +0000 主の名によって来られる方(ルカによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181017 no 2018 「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。 天には平和、 いと高きところには栄光。」 (ルカによる福音書19章38節) 受難週に入る日曜日を「棕櫚の主日」と呼びます。その日の出来事が、19章28節以下の主イエスのエルサレム入城です。この当時、エルサレムは世界の覇者ローマ帝国の支配の下にありました。それだけに、住民たちはこの状態から解放してくれる王を期待していました。この時、大勢の群集は、その王を主イエスに期待しました。それがこの光景です。 主イエスは、わざわざ子ろばを連れてこさせ、それにお乗りになって入城されました。王であるならば、馬に乗って来るはずです。それにもかかわらず、あえて子ろばに乗られたのは、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就のためでした。 ろばに乗って来られる王は、「高ぶることなく」来ると言われています。聖書において、ろばは貧しさとへりくだりを表す動物です。それに乗って来られるお方こそ、ご自分の命をささげて仕える主イエスです。このお方は、十字架の低さにまでへりくだられました。まさに預言の言葉が指し示す「主の名によって来られる方」の姿がそこにあります。このへりくだりにまことの王の姿を見出します。 Tue, 16 Oct 2018 00:10:00 +0000 受難の予告(ルカによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181016 no 2018 「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は3日目に復活する。」12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。 (ルカによる福音書18章32節~34節) 主イエスが自分の身の上に起こる苦難について語られたのは、ルカによる福音書で、これが3度目です。このとき、主イエスは、預言者たちが人の子について書いたことがご自分において成就することを明らかにされました。しかし、弟子たちには主イエスの言われたことが何も理解できませんでした。 いったいこれはどうしたことなのでしょうか。鍵となるのは、彼らにはこの言葉の意味が「隠されて」いたということです。この隠されていたことがあらわになるのは、まだ先のことです。それは、復活の主イエスが現れて、聖書全体を説明し、弟子たちの目が開かれ、心が開かれる時です(ルカ24章)。さらに、かつての主イエスの言葉を思い起こさせ、真理を悟らせる聖霊が約束どおりに降臨された時、弟子たちは力を受けて、十字架と復活の証人とされました(使2章)。 主イエスが十字架と復活によって明らかにしてくださった福音の言葉をいただいて、私たちも、その証人の1人とされています。私たちも復活の主イエスと出会った者として、この方に生かされる命の言葉をいただいています。 Mon, 15 Oct 2018 00:10:00 +0000 立ち上がって、行きなさい(ルカによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181015 no 2018 そこで、イエスは言われた。「…この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 (ルカによる福音書17章17節~19節) 主イエスが重い皮膚病の10人の人をいやされた話は、14節で終わってもよかったのかもしれません。けれども、それで終わりませんでした。その中の1人が主イエスのところに戻って来たのです。 義理人情に厚く、お礼を言いたかったから戻ってきたわけではありません。「神を賛美しながら」、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のです。それは、御言葉をくださった主イエスに神を見たからです。この信仰を主イエスは高く評価されました。彼は知識としては神をよく知りませんが、信仰の目が開かれて、戻ってきたのです。 彼に対して主イエスは、「立ち上がって、行きなさい」と送り出されます。彼の行き先は決して居心地のよいところとは限りません。あの男は重い皮膚病だったと偏見を持たれるかもしれません。しかし、いまや彼には信仰があります。 彼の叫びを聞き入れ、受け入れてくださった主イエスがいつも自分と共にいてくださることを彼は信じています。こうして、この主イエスを人生の支えとして生きていく新しい生き方へと彼は送り出されたのです。 Sun, 14 Oct 2018 00:10:00 +0000 婚宴にふさわしい礼服(ルカによる福音書 22章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181014 no 2018 「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が1人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。」 (ルカによる福音書22章10節~12節) 主イエスは、「天国」を「王の婚宴の席に着く」ことにたとえられました。その婚宴は、身分や善悪の区別なく、実に気前よくどのような人にも開かれています。本当に救われたいと願い、御言葉に導かれるままに罪の赦しと新しい命を謙遜に受け取る人こそ、この婚宴に連なることができます。 ところが、婚宴の礼服を着ていない者が1人いて、王からとがめられました。礼服とは、当時、宮廷に呼び出される者が各自持参するものではなく、王宮で王から与えられるものでした。ですから誰でも礼服を着て婚宴の席に連なることができたのです。しかし、この者は、王が与えた礼服を着ることを拒否して王の前に出て、その威光に傷をつけたのでした。 王に招かれた者が婚宴にふさわしい礼服を着るのと同様に、神に招かれ、信仰が与えられ、キリストを通して救いの恵みにあずかった人は、日々の生活の中で、感謝の現れとして聖霊の実を結びます。私たちも、この婚宴に招かれた人々のように、信仰の実として神と隣人にどこまでも愛と真を尽くして生きることができるよう、祈りによって求めていきましょう。 Sat, 13 Oct 2018 00:10:00 +0000 賢く振る舞う(ルカによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181013 no 2018 「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えてもらえる。」 (ルカによる福音書16章8節~9節) 16章にも、15章に続いて主イエスが語られたたとえ話が収められています。15章はファリサイ派の人びとや律法学者に向けて語られましたが、16章は1節にあるように、弟子たちに向けて語られたものです。 果たしてこの「不正な管理人のたとえ」をどう受け止めたらよいのでしょうか。この管理人の不正については、まねるべき手本ではありません。それにもかかわらず、8節のように主人がほめるのは、そこに「抜け目のないやり方」、思慮深さがあるからです。それは不安と絶望の中で、主人を呪ったり、あきらめるのではなく、残された可能性を思い、手を尽くす姿を示すものです。 この管理人の姿勢が光の子らに求められています。光の子ら、つまり主イエスに従う者は「永遠の住まい」に入るように、さらに賢くなることが求められています。主イエスは状況を見抜き、抜け目なく賢く振る舞う大切さを教えています。これは決して不信仰なのではありません。光の子らとしての歩みを支えるものとして、はっきりと御言葉によって示された教えです。 Fri, 12 Oct 2018 00:10:00 +0000 真の勝利(詩編 20編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181012 no 2018 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。 (詩編20編8節~9節) この詩編は、次の21編とともに「王の詩編」と呼ばれています。旧約時代の礼拝の中で、王の勝利を願ってこの詩は読まれ、用いられたと考えられます。 当時のイスラエルは、常に他国からの侵略の危機にさらされていた小さな国でした。ですから、祖国に勝利をもたらす王の出現は、国民にとって決定的に重要なことだったのです。けれども、この詩編が語る勝利とは、単純に軍事的な勝利のことではありません。 8節は「戦車」と「馬」に言及しています。これらは当時の軍事力を示しており、これらがたくさんあれば当然国力は増大します。しかし、この詩編は、戦車や馬に頼るべきではないと語ります。本当に頼るべきは主なる神であること、そして主なる神により頼むときにこそ力に満ちて立ち上がると、詩編の作者は断言します。 主イエス・キリストのエルサレム入城の場面が思い出されます。まことの王であられる主イエスは、馬ではなくロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。そして、十字架の死によって真の勝利を打ち立てられたのでした。 Thu, 11 Oct 2018 00:10:00 +0000 御言葉の力(詩編 19編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181011 no 2018 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。 (詩編19編2節~5節) このダビデの賛歌は、大自然と御言葉を題材にして主なる神を賛美しています。澄みわたった大空に太陽が美しく輝き、エルサレム神殿では律法の朗読の声が朗々と響き渡っている様子が浮かび上がってくるようです。 大自然と御言葉をつなぐものは、主の創造の御業です。創世記1章の天地創造の記事は、主なる神がこの世界にあるすべてのものを、その御言葉によって、きわめてよいものとして創造されたと伝えています。 詩編19編は、この世界が創造主なる神の御言葉によって創造されたがゆえに「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」と語ります。またパウロはローマの信徒への手紙10章18節でこの個所を引用し、創造主なる神の声の響きを通して、福音を証ししています。 神の御言葉は、天地創造の時だけでなく、今もなお力を持っています。私たちが神の御言葉をふさわしく聴くときに、私たちは御言葉によって造り変えられていきます。キリストに似たものとして信仰者を造り上げるため、主なる神は私たちに御言葉を与えてくださいます。 Wed, 10 Oct 2018 00:10:00 +0000 主への感謝の賛美(詩編 18編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181010 no 2018 主よ、国々の中で わたしはあなたに感謝をささげ 御名をほめ歌う。 主は勝利を与えて王を大いなる者とし 油注がれた人を、ダビデとその子孫を とこしえまで 慈しみのうちにおかれる。 (詩編18編50節~51節) 表題には「主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」とあります。サムエル記下22章では、ダビデ王の生涯を総括する部分で、この歌が記録されています。この詩編を読むとき、読者は自然にダビデ王の生涯について思いをはせることになります。 この詩編の根底に流れているのは、主への感謝です。サウル王の次に王となったダビデは、サウル王に仕えていたときも含めて、何度も人生の危機を経験しました。けれども、ダビデはそのすべての危機から、主によって守られてきたと感じています。この詩編に込められているのは、自分を救ってくださった主なる神への感謝の賛美です。 このダビデの主への感謝の賛美は、読者である私たちをも主への感謝の賛美に向かわせます。使徒パウロはローマの信徒への手紙15章9節でこの詩編を引用して、もはやユダヤ人、ギリシア人に関係なく、すべての人の口に主への感謝の賛美があふれるようになると力強く語ります。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」(47節)。 Tue, 09 Oct 2018 00:10:00 +0000 わたしの訴えを聞いてくださる主(詩編 17編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181009 no 2018 主よ、正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください。 わたしの唇に欺きはありません。 御前からわたしのために裁きを送り出し あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。 (詩編17編1節~2節) 詩編の作者の口調から緊迫した雰囲気が伝わってきます。そこはまるで法廷のようです。濡れ衣を着せられた彼は、自らの潔白を訴え、神の正義が行われることを祈り求めています。 自分が法廷に立たされることを願う人はいないでしょう。それが冤罪事件であればなおさらです。たとえ法廷を舞台にした小説や映画は好きでも、また裁判官や弁護士として事件を解決するヒーローとしてならよくても、自分が法廷で弁明しなければならない状況を願う人はいないと思います。 詩編の作者も、決して本意ではなかったでしょう。しかし、彼は主の公平な裁きを祈り願いながら、主の御前に立っています。それはわたしの訴えを聞きあげ、公平な裁きをしてくださる主がおられると信じているからです。私たちの主は、「瞳のようにわたしを守り」、「翼の陰に隠して」くださるお方です(8節)。信仰者は、この主なる神に信頼することができます。 わたしの訴えを聞いてくださる主がおられるということは、信仰者にとってどれほど力強い支えでしょう。 Mon, 08 Oct 2018 00:10:00 +0000 命の道(詩編 16編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181008 no 2018 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。 (詩編16編10節~11節) 詩編の作者は、「神よ、守ってください」と訴えています。死がすぐそばまで迫っているからです。しかし、彼の心を満たしているのは、死の恐怖ではなく、死に打ち勝つ神の救いの恵みです。教会は、この詩編を主イエス・キリストの復活をあらわすメシア詩編として理解し、読み継いできました。 この詩編に関して興味深いのは、ペトロとパウロが共に主の十字架と復活に関する預言として引用していることです(使2章25~28節、13章35節)。一方はガリラヤなまりのある漁師で最初からの弟子、一方はローマ市民権を持つユダヤ人社会のエリートで、主の弟子を迫害していたさなかに回心した弟子です。2人の間には違いもあり、衝突もありました。けれども、2人がこの詩編をどのように引用したかを思い巡らしてみると、主イエス・キリストの十字架と復活の愛において2人は一致し、共に「命の道」を歩んでいたことがわかります。 きょう、この詩編の御言葉が与えられた私たちもまた、主の十字架と復活によって与えられている「命の道」を共に歩みましょう。 Sun, 07 Oct 2018 00:10:00 +0000 ふさわしい実を結ぶ民族(マタイによる福音書 21章33-46節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181007 no 2018 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。 『家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった。…』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」 (マタイによる福音書21章42節~43節) 主イエスは、ユダヤ教指導者たちに対して、旧約の御言葉を引用してご自分の十字架と復活を予告なさいました。神殿を建てる者がよく吟味し、価値が無いと判断して捨てた石が、いざ神殿が完成してみると、建物の最も大切な石として納まっていたという、神の摂理の驚きを歌う詩編の御言葉です。主イエスはその御言葉どおり、ユダヤ教の祭司長や民の長老たちの裁きと処刑をもって民に捨てられますが、復活によって栄光の座に着き、新しく建てられる神の教会の最も重要な土台となられました。 主イエスはさらに言われます。「神の国」は「それにふさわしい実を結ぶ民族」に任されると。キリストを土台とする教会こそ、神の国にふさわしい実を結ぶ民族なのです。イエス・キリストが土台となっている人は、実を結びます。その実とは、罪の悔い改め、信仰、そして、神の前にへりくだって生きることによって神の栄光を現すことです。 今週も神の国に適った実りを生み出すことができるよう、御前にへりくだって神と人とに仕え、土台である主イエスを見上げて歩んでいきましょう。 Sat, 06 Oct 2018 00:10:00 +0000 主の問いかけ(詩編 15編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181006 no 2018 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。 (詩編15編1節) この詩編は、問いかけで始まります。エルサレム神殿に集う人びとに対して、主なる神がどのようなことを求めておられるのかを思い巡らし、信仰を吟味するための問いかけとして用いられていたようです。今でいえば、どのような人が教会の礼拝にあずかるのにふさわしいか、という問いかけになるでしょう。 その答えは「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人」から始まる2節以降に記されます。ここで挙げられている個々の内容は、要約するとよきわざ、よき生活に関する事柄と言えます。 注目したいのは、神殿礼拝に関する歌であるにも関わらず、献げ物や儀式に関することがひとことも触れられていないことです。ここで言及されているのは、その人が置かれている生活の場において、とりわけ隣人との関わりの中で、主の栄光をあらわす生き方についてです。 主は、礼拝にあずかろうとする私たちに対して、それまでにどのような日々を過ごしてきたかを問われます。主は、それぞれが遣わされている場で、神と隣人に仕えて生きることを求めておられます。 Fri, 05 Oct 2018 00:10:00 +0000 ひとよ、汝が罪の(詩編 14編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181005 no 2018 主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。 だれもかれも背き去った。 皆ともに、汚れている。 善を行う者はいない。ひとりもいない。 (詩編14編2節~3節) 7節しかない短い詩編ですが、この詩編が取り扱っているテーマの重さのゆえに、簡単に読み進めることができません。 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙3章で、この詩編、あるいはほぼ同じ内容の詩編53編を引用しながら、人間の罪について語ります。それは表面的な、容易に埋め合わせることができる類いのものではありません。人間の存在そのものに深く関わる、絶望的なまでに回復困難な問題としての罪です。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」とあるとおりです。 非常に厳しい言葉が書き連ねてありますが、これらをしっかりと受け止め、主に立ち返ることが必要です。なぜなら自分の罪を認めて悔い改めることなしに、神の救いの恵みをいただくことはできないからです。 私たちは毎週日曜日の礼拝において罪の告白をし、罪の赦しをいただきます。そして、このことを通して私たちは主に立ち返り、キリストに似たものとして整えられていくのです。 Thu, 04 Oct 2018 00:10:00 +0000 主は、わたしに報いてくださる(詩編 13編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181004 no 2018 いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。 いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。 いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。 (詩編13編2節~3節) この詩編の冒頭で、「いつまで、…」と詩編の作者は4回も繰り返し嘆いて、訴えています。彼が置かれている状況に関して、具体的なことは何もわかりません。ただ、その口から繰り返される「いつまで」という言葉は、彼が直面している問題の深刻さを物語っています。 一般的に言って、何かの困難に直面しているとき、それがどれくらい続くのかが分かっていれば気持ちは楽になります。どれほど苦しくても、その終わりが見えてさえいれば、それに向かって頑張ることができます。反対に、その行く末がまったく見通せないとき、不安にかられ、やがて立ち向かう意欲を失ってしまいます。 この詩編を通してきょう覚えたいことは、主の慈しみに信頼して歩む人には必ず主の報いがあるということです。たとえそれがいつまで続くかわからないような、まったく先が見通せないような状況に置かれているとしても、主は必ず信仰者の嘆きを聞き上げ、報いてくださいます。「主はわたしに報いてくださった」と、主をほめたたえる日を必ず備えていてくださいます。 Wed, 03 Oct 2018 00:10:00 +0000 喜びへの招き(ルカによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181003 no 2018 「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」 (ルカによる福音書15章32節) 羊飼いのもとから離れた羊は生きていけません。人の手から失われた銀貨は価値を失います。そして、父親のもとを飛び出した弟息子は人生を浪費し、人間以下の惨めさを味わいます。 ここには、神のもとから離れてしまった人間の悲惨が描かれています。神は、そのような失われた人間を熱心に捜し求めてくださいます。見失った1匹の羊を探し回る羊飼いのように、無くした銀貨を見つけるまで念入りに家中をさがす女性のように、そして息子の帰りを毎日待ち続ける父親のように。 三つのたとえ話の最後は、いずれも喜びの祝宴への招きの言葉で締めくくられています。1人の罪人が悔い改めて神のもとに立ち帰るときに、「大きな喜びが天にある」のです(7節)。私たちはそのような「大きな喜び」をもって神の御手の中に取り戻された者です。そのことに感謝して、さらにこの喜びをもって神に仕える者となりたいと思います。罪人を招くためにこの世に来てくださったキリストのしもべとして、主の御心の実現を祈り求めて、きょうもそれぞれの場所に遣わされていきましょう。 Tue, 02 Oct 2018 00:10:00 +0000 真の謙遜(ルカによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181002 no 2018 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 (ルカによる福音書14章11節) 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」(8節)という主イエスの教えは、単なる処世術ではありません。「神は高ぶる者を低くし、へりくだる者を高くされる」ということの具体例です。 ファリサイ派の人びとは、律法を厳格に守っている自分たちこそが神の国の祝宴の上席に着くのにふさわしい者であると、自認していたことでしょう。しかし、彼らは被造物に過ぎない自らの無力さと、自分の力では決して救われることができない罪深さを自覚していませんでした。真の神の民は、上席を選ぶ人のように人からの名誉を求めるのではありません。自らの弱さと罪深さを認めて神の御前にへりくだり、神からの誉れを求めます。 そのような弱く罪深い者たちを救うために、主イエスが十字架の道を歩み通してくださいました。そのことを知るときに、人は神と人に仕える者として、与えられた使命を果たすために自らの命をささげる者となります。そのような者を、神は高く上げてくださるのです。「真の謙遜」とは消極的な生き方ではなく、自分なりに十字架の道を歩むことなのです。 Mon, 01 Oct 2018 00:10:00 +0000 束縛からの解放(ルカによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20181001 no 2018 「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 (ルカによる福音書13章16節) 18年も病の霊にとりつかれて腰を伸ばすことができなかった女性を、主イエス・キリストは安息日の会堂でいやされました。その時、彼女のことを愛して心配していた人々はきっと、思わず歓声を上げて、彼女と一緒に神を賛美したに違いありません。 しかし、会堂長は逆に主イエスに腹を立てて、群衆に言いました。「働くべき日は6日ある。…安息日はいけない」(14節)。彼は会堂長を任されるほど律法を守ることに熱心でしたが、律法の中心である「神と隣人への愛」において深刻な欠けがありました。家畜を思いやることができても、「アブラハムの娘」すなわち「神の民」であるこの1人の女性の痛みを思いやることができなかったからです。 主イエスは彼女と出会ったその日その時に、彼女の上に手を置いていやしを与え、サタンの束縛から解放してくださいました。この主イエスが、主の日の礼拝においてこそ私たちと最も鮮やかに出会ってくださいます。私たちはこのことを信じて、自分自身と兄弟姉妹の解放を祈り求めつつ、共に礼拝に集い続けたいと思います。 Sun, 30 Sep 2018 00:10:00 +0000 神の権威に従う信仰(マタイによる福音書 21章23-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180930 no 2018 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 (マタイによる福音書21章31節~32節) 主イエスは、神から直接託された権威において教えておられました。祭司長たちは、自分たちの権威をないがしろにする主イエスに対して、「何の権威によって教えているのか」と問いただしました。 主イエスは、「ヨハネの洗礼はどうか。その権威は天からか、人からか」と逆に質問されました。「天から」と答えれば、「では、なぜ神から任じられたヨハネを信じなかったのか」と、主イエスから言われます。「人から」と言えば、ヨハネが神から遣わされた者と思っていた民が承知しません。彼らは「分かりません」と答えざるを得ませんでした。 この返答を受けて、主イエスはぶどう園の主人の2人の息子のたとえを用いて彼らを諭しました。兄は、「いやです」と答えても、後から考え直し、従いました。弟は、「承知しました」と答えても、実際には従いませんでした。 徴税人や娼婦は、ヨハネと出会い、神の権威に触れ、悔い改めました。神に従っているはずの祭司長たちが大切にしていたのは自分の権威に過ぎないことが、明らかにされました。神の権威に気付いて、悔い改めることができる者が、神の国に招かれます。 Sat, 29 Sep 2018 00:10:00 +0000 目を覚ましている僕(ルカによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180929 no 2018 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 (ルカによる福音書12章40節) 主人の帰りを待つ僕には「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と命じられています(35節)。これが「目を覚ましている」ということです。当時のユダヤ人の服は裾の長い物でしたので、活発に動くときには腰に帯をして裾を挟み、足元をすっきりさせて動きました。動けるように備えていたのです。 私たちも主イエスがいつ帰ってこられてもよいように常に目を覚ましていましょう。御言葉の光に照らされつつ、主イエスのご命令に従って福音宣教の業のために活発に体を動かしましょう。直接、伝道をすることはもちろんのこと、それぞれの仕方でそれぞれの置かれた場所に「神の国」が来るように仕えるということが求められています。それは改革派教会の創立宣言の主張の第1点である「有神的人生観・世界観」が教えていることでもあります。 私たちはどのような場所でも、どのような領域においても、イエス・キリストの神を信じる者として、そこに神の栄光が現れるように仕えることが求められています。それが目を覚まして、腰に帯を締め、ともし火をともして主人の帰りを待つ僕の姿なのです。 Fri, 28 Sep 2018 00:10:00 +0000 あきらめずに祈り続ける(ルカによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180928 no 2018 「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」 (ルカによる福音書11章10節) 真夜中にパンを求める友人のたとえは、「執念深く祈れば祈りは聞かれる」ということを教えているのではありません。「人間の友達でもしつように頼めば願いを聞いてくれる。まして、神が熱心に祈り続ける私たちの祈りを聞いてくださらないはずがあろうか。神はきっと聞いてくださる」という、神への信頼に基づく祈りへの熱心が教えられているのです。 「祈りが聞かれるように、しつように執念深く祈る」ということと、「神は必ず祈りを聞いてくださると信じてあきらめずに祈り続ける」ということ、そこにある信仰者の態度は全く違うものです。 「神の主権」を強調する改革派信仰の伝統に生きる私たちは、「自分の熱心で神を動かしてやる」と思うことは少ないのかもしれません。しかし、反対の誘惑は少なくないのではないでしょうか。すなわち、「神はすべてご存じだから大丈夫だ」という誤った神への信頼から「あまり祈らない」という誘惑です。 私たちは正しい神への信頼を、むしろ神の御心を尋ね求めて「あきらめずに祈り続ける」という祈りの熱心にあらわしたいと思います。 Thu, 27 Sep 2018 00:10:00 +0000 ただ一つの必要(ルカによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180927 no 2018 「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10章42節) この「マルタとマリア」の物語は、本来この場所にあるのはおかしいのです。なぜなら、彼女たちが住む村は「ベタニア」であり、その村はエルサレムのすぐ近くにあるからです。本当なら、主イエスの旅の終盤に差しかかる19章に置かれるべきです。しかし、ルカは「ある村」ということにして、この場所に置きました。それは「善いサマリア人」のたとえ話のすぐ後にこの物語を置きたかったからでしょう。 愛すべき隣人と愛さなくてもよい敵を分けるのではなくて、たとえ敵対しているユダヤ人であっても傷つき倒れている人を助けた「善いサマリア人」のたとえ話の後に、このマルタとマリアの物語が置かれることになりました。 それは、「行って、あなたも同じようにしなさい」(10章37節)という主イエスのご命令を実行するためには、まず主イエスの御言葉の恵みを受ける必要があることに、私たちが気付かされるためです。はらわたが痛むほどの深い憐れみをもって私たちを見つめ愛してくださる主イエス。その御言葉に聞くときに初めて、私たちも主イエスの愛の業に仕えることができるのです。 Wed, 26 Sep 2018 00:10:00 +0000 神の国の秩序(ルカによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180926 no 2018 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」 (ルカによる福音書9章48節) 「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」(46節)という議論が主イエスの弟子たちの間で起こりました。それは、彼らが地上の王国建設を主イエスに期待していた証拠です。そういう弟子たちに対して主イエスは、1人の子供をご自身のそばに立たせて、この世の秩序とは正反対の「神の国の秩序」を教えられました。 当時のユダヤでは、子供は半人前で価値の低い存在とみなされていました。そのような小さな子供を受け入れることが主イエスを受け入れ、父なる神を受け入れることにつながること。そして子供のように最も小さな者にこそ、最も偉い者のように仕えなければならないことを教えられたのです。サタンが支配するところでは、常に弱い者に犠牲が強いられるからです。 主イエスが病をいやし、悪霊を追い出されたのは、そのようなサタンの支配が打ち破られ、ここに神の国が来たというしるしでした。主イエスの弟子たちはこのことを覚えて、人の上に立ち、偉くなろうとするよりも、むしろ小さくなり、へりくだって仕えることを学ぶべきです。 Tue, 25 Sep 2018 00:10:00 +0000 悪の支配からの解放(ルカによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180925 no 2018 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 (ルカによる福音書8章39節) 弟子たちと一緒に舟に乗り、嵐の湖を越えてゲラサ人の地方に着かれた主イエス。そこで、レギオンと名乗るたくさんの悪霊にとりつかれた男に出会われます。 男は羞恥心を失い、汚れた場所に身を置いて、自分自身を見失っていました。人とのきずなも断ち切って荒れ野に向かうこの男の姿は、程度の差はあるとはいえ、神のもとから離れてさまよう現代人の姿を映し出していると言えないでしょうか。主イエスはそのような1人の男を救うために、嵐の湖を越えて来てくださったのです。そして、悪霊を追い出されました。 自分が救われる代わりに豚の群れが湖になだれ込んでおぼれ死んでいる様子を見た男は、自分にとりついていた悪霊の力のすさまじさに呆然としたことでしょう。彼はその後で、主イエスの言葉に従って家に帰り、主イエスが自分にしてくださったことを町中に言い広めました。 このわたしが救われるために、豚の群れどころか神の独り子が犠牲になってくださったということを知っている私たちは、より一層の驚きと感謝をもって、この出来事を世に証ししていくべきです。 Mon, 24 Sep 2018 00:10:00 +0000 御言葉の権威(ルカによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180924 no 2018 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、1人に『行け』と言えば行きますし、他の1人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 (ルカによる福音書7章8節) この異邦人の百人隊長は、人を通して、病気で死にかかっている部下の癒やしを主イエスに願い出ました。しかし、自分は主イエスを自分の家にお迎えできるような者ではないと言い、ただ主イエスの御言葉だけを求めました。 それは、彼の軍人としての体験に基づく確信から来ていました。彼は国王の権威を身に帯びる者として、部下に命じればその通りにすることを知っていました。まして神の権威を身に帯びておられる主イエスがひと言おっしゃってくだされば、部下は必ず助かると、彼は信じていたのです。それは、神の権威ある言葉の力を信頼する信仰と言えるでしょう。 「光あれ」と神が言われると、そこに「光があった」(創1章3節)。それが権威ある神の言葉の力です。この神の言葉は、今も語り続けられています。聖書を通して、とくに主の日の礼拝における御言葉の説教を通して、今も語り続けられているのです。 私たちもこの権威ある神の言葉の力に信頼して、語られた御言葉は必ず実現すると信じて、聞き従う者たちでありたいと思います。 Sun, 23 Sep 2018 00:10:00 +0000 主は平等に愛される(マタイによる福音書 20章1-16節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180923 no 2018 「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 (マタイによる福音書20章16節) ペトロが主イエスに「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねました(19章27節)。主イエスは、ぶどう園の労働者のたとえで、答えられました。 当時、労働時間は朝の6時から夕方の6時までで、日当は1デナリオンでした。主人は早く出かけて労働者を採用しましたが、それでも足りなかったので9時、12時、3時、なんと終了1時間前の5時にも採用しました。そして、同じ賃金を払うようにと監督に命じたのです。 早い時間に採用された者たちは、このことに怒り、不平を訴えました。これに対して主人は「何れの時間に来た者にも、わたしは1デナリオン払うと約束したではないか。それを守っただけだ。お前たちはわたしの気前の良さを妬むのか」と言いました。 同じような不満が教会の中で起きていないでしょうか。古くからの会員にも、新しく来られた方にも、主の恵みは平等です。いや、自らの奉仕の少なさにもかかわらず、救いの恵みをいただいたと喜ぶ「後にいる者が先にな」るのが、教会です。 Sat, 22 Sep 2018 00:10:00 +0000 選ばれた十二人(ルカによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180922 no 2018 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。 (ルカによる福音書6章:12節~13節) 主イエスは山の上で祈って夜を明かされ、その後に12人の弟子たちを選び、使徒と名付けられました。 選ばれた12人の名簿を見ますと、彼らは特別なエリートではなく、ごく普通の、またさまざまな違いを持つ人たちであったことがわかります。ペトロのような積極的な人もいれば、トマスのような慎重派もいます。マタイはローマ人に仕える徴税人でしたし、熱心党のシモンはローマに逆らって武力行使も辞さない過激派でした。そういう違いを持つ12人が、ただ主イエスに選ばれ愛されている者たちとして召し出されました。彼らは、主イエスを信じ愛するというということにおいて一致して共に歩む中で、互いに愛し合い仕え合うことを学んでいきました。 それぞれの教会に集められている私たちもさまざまな違いがありますので、一つ間違えばバラバラになる危うさがあります。しかしそのような私たちが共に十字架の主イエスを見上げることで一致するとき、違いは豊かさとなります。私たちは一つにされてキリストの体を形作り、世に遣わされて行くのです。 Fri, 21 Sep 2018 00:10:00 +0000 御心による清め(ルカによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180921 no 2018 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。 (ルカによる福音書5章13節) 律法によれば「重い皮膚病」は宗教的な汚れとみなされ、その人は宿営から離れて1人で暮らさなければなりませんでした(レビ13章46節)。 そのような病を患った1人の人が主イエスの前にひれ伏し、清めを願い出ました。そしてその人に主イエスは手を差し伸べて彼に触れて、こうおっしゃいました。「よろしい。清くなれ」(13節)。これは「わたしは望む、あなたは清くされよ」という意味です。主イエスは彼が清くされることを望んでくださいました。それは、ただ病がいやされるだけではなく、彼が礼拝を中心とした神の民の交わりの中に戻ることを望まれたということです。病をいやされた後、祭司に体を見せて証明せよと指示されたことからも、そのことがわかります。 その後、主イエスは人里離れたところで祈られました。何を祈られたのかは聖書には書かれていませんが、いやされたこの人のためにとりなし祈ってくださったと考えることが自然でしょう。そのような主イエスは、私たちが礼拝の場に集うことをも切に願われ、とりなし祈っていてくださいます。感謝しつつ備え、主の御前に出ましょう。 Thu, 20 Sep 2018 00:10:00 +0000 主の恵みの年(ルカによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180920 no 2018 「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 (ルカによる福音書4章18節~19節) 19節の「主の恵みの年」とは、レビ記25、27章に記されている「ヨベルの年」のことであると考えられます。それは50年に1度の解放の年であり、その年には売られた土地も元に戻され、身売りされた人も元に戻ることができます。そのことを通して、土地も人も究極的には神のものであるということが確認されるのです。 本来神のものであるはずの人間が神のもとから離れ、罪と死の支配のもとにとらわれていることがすべての不幸の原因です。主イエス・キリストは、そのような人間を罪と死の支配から解放し、神のもとに取り戻してくださる「主の恵みの年」を、霊的に実現してくださる救い主なのです。 主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました(21節)。罪の奴隷の解放、霊的盲目状態からの開眼、理不尽な力による圧迫から自由にしてくださる主の恵みは、信仰をもって主の日の礼拝に集い、真実な礼拝をささげ、御言葉の説教に耳を傾ける私たちの「今日」という日に実現するのです。そう信じ、期待して、主の日に備えましょう。 Wed, 19 Sep 2018 00:10:00 +0000 祈りの必要性(ルカによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180919 no 2018 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (ルカによる福音書3章21節~22節) 主イエスはメシアとしての働きをお始めになる前に、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。それは主イエスが十字架に向かって歩まれる救い主として、常に罪人の側に立ってくださるお方であることのしるしでした。そのようにして主イエスは「罪人のひとりに数えられた」のです(イザ53章12節)。 ヨハネから洗礼をお受けになった後に真っ先に主イエスがなさったことは、「祈り」であったということに注目したいと思います。主イエスは神の独り子だからといって楽々とメシアとしての務めを果たされたわけではありません。むしろ「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、…祈りと願いとをささげ」られたのです(ヘブ5章7節)。 そうであるならば、私たちが神によって与えられたそれぞれの使命を全うするためには、よりいっそう祈りが必要です。悪魔は私たちが祈ることをさまざまな仕方で妨げますが、私たちも主イエスにつながる神の子であることを覚えて、聖霊の導きを祈り続けたいと思います。神は必ず祈りに応えてくださり、聖霊で満たして、力を与えてくださいます。 Tue, 18 Sep 2018 00:10:00 +0000 飼い葉桶の救い主(ルカによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180918 no 2018 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 (ルカによる福音書2章12節) 天使は羊飼いたちに「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げ、さらに「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が「あなたがたへのしるしである」と告げました。それはただの目印ではなく、この救い主がどういう救い主なのかを指し示す「しるし」なのです。 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」。それは弱さと低さとみじめさのしるしと言えるでしょう。すなわち、この救い主は誰よりも低いところにまで下り、誰よりも弱く、誰よりもみじめになることによって人を救ってくださる、十字架の道を歩まれる救い主だということです。 このイエス・キリストは、私たちがどんなに低く弱くみじめになるときにもそこに来てくださって、私たちを赦し、愛して、恵みで満たしてくださいます。ですから私たちは、裁き合うのではなく赦し合うこと、憎み合うのではなく愛し合うこと、奪い合うのではなく分かち合うことを学ぶのです。 主イエスがお生まれになったのはパクス・ロマーナ(ローマの平和)の時代ですが、そこに武力による平和(パクス)ではなく、真の平和(シャローム)が実現していきます。 Mon, 17 Sep 2018 00:10:00 +0000 神の言葉への信頼(ルカによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180917 no 2018 「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 (ルカによる福音書1章37節~38節) マリアは「あなたは身ごもって男の子を生む」と告げる天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問いかけました。それは疑いの言葉ではなく、男の人を知らないわが身にどのようにしてそのようなことが起こるのか、説明を求めた言葉です。 そのマリアに対して天使は、聖霊が降ることによってそれは実現すると告げ知らせ、最後にこう言いました。「神にできないことは何一つない」。これは直訳すると、「なぜなら、神にあっては、すべての言葉が不可能ではない」となります。それに対してマリアも「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。つまりマリアの言葉は、「神の言葉」に対する信頼に根差した信仰告白だったのです。 かつて不妊のサラを通してアブラハムにイサクが与えられたように、神の言葉は必ず実現します。神はご自身の約束にどこまでも真実であられるお方なのです。私たちもこのことを心に刻み、御言葉の光に照らされつつ、常に御言葉に聞き従うという決意をもって、きょうも歩んでいきたいと思います。 Sun, 16 Sep 2018 00:10:00 +0000 たがいに赦しあいましょう(マタイによる福音書 18章21-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180916 no 2018 「あなたがたの1人1人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 (マタイによる福音書18章35節) 罪を犯した兄弟を赦すのは7回までですかとペトロが尋ねると、主イエスは完全数である7の70倍つまり無限に赦しなさいとおっしゃり、たとえを用いて説明されました。 ある王が借金の返済を家来たちに求めました。途方もない高額を借りた家来は返すことができませんでした。王が家族も持ち物も全部処分して返すように命じると、彼が待ってほしいと懇願したので、王は憐れみをもって借金を帳消しにしました。ところが、その家来は赦された額と比べるなら微々たる額を彼から借金していた仲間を、返済ができないことを理由に、無情にも投獄しました。それを知った王は、その家来が借金を返済するまで牢獄につなぐことにしました。 神の御前では、私たちはその無情な家来と同じです。多くの罪の負債を抱えて身動きができない私たちを、主イエスは愛し憐れみ、罪を赦してくださいました。しかし、私たちは、周りの人たちの罪を赦すことができない心の歪みを抱えています。兄弟の些細な罪を責めながら、己の目に突き刺さっている丸太に気づかない自らの愚かさを反省させられます。 Sat, 15 Sep 2018 00:10:00 +0000 罪の罰を心から受け入れる(レビ記 26-27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180915 no 2018 もし、彼らのかたくなな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば、そのとき、わたしはヤコブ…イサク…アブラハムとのわたしの契約を思い起こし、かの土地を思い起こす。彼らが後にした土地は、打ち捨てられている間、安息を楽しむ。 (レビ記26章41節~43節) ヨベルの年が定められても、イスラエルはこのとおりに行って、本当の安息を楽しむことはできませんでした。与えられた掟と法を守ることができなかったためです。そして皮肉にも、彼らがその罰として住んでいた土地から連れ去られている間に、土地は安息を得たのでした。 神はまた、「彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだわたしの契約を破らない。わたしは彼らの神、主だからである」と、その慈しみ深さを示されます(44節)。 このような神の慈しみ深さが示されている一方で、人間が献げ物をするときの惜しむ心を神は見抜き、最後に釘を刺すように記しています。「牛や羊の群れの10分の1については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この10分の1の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない」(27章32、33節)。 これほど慈しみ深い神が、私たちを全き服従へと招いておられます。私たちはそれに応える決心をしたいのです。 Fri, 14 Sep 2018 00:10:00 +0000 全住民の解放(レビ記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180914 no 2018 あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。50年目はあなたたちのヨベルの年である。 (レビ記25章9節~11節) 全住民に解放が宣言される50年目のヨベルの年は、一生に一度巡ってくるもの、という感覚だったでしょう。この年には、全き安息を土地に与え、種もまかず、収穫もしないことになっていました。そうだとすれば、「どうして食べていけるだろうか」と思うのは当然です。しかし主は、掟を忠実に守るならば、「あなたたちは十分に食べ、平穏に暮らすことができる」と約束されました(19節)。 また、土地や人を、貧しさゆえにやむを得ず売買しなければならなくなったときには、買う側・貸す側には「神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるように」するために、無利息で貸し、身売りされても奴隷として扱わないように命じられていました。そしてヨベルの年には買い戻す権利が認められていました。 イザヤ書61章はこのヨベルの年を念頭に置いた預言です。「捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(1節)。主イエスはこの個所を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、…実現した」と語り始められたのでした(ルカ4章)。すべての民の全き解放、全き安息が到来したからです。 Thu, 13 Sep 2018 00:10:00 +0000 心も主に受け入れられるように(レビ記 22-24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180913 no 2018 和解と感謝の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげる。その肉はその日のうちに食べ、翌日まで残してはならない。わたしは主である。 (レビ記22章29節~30節) 聖なる献げ物と祝祭日について、繰り返し「主に受け入れられるように」と言い添えて命じられています(22章19節等)。 しかし、預言書を見ると、主に受け入れられるようにはささげられていなかった現実が指摘されています。「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。…むなしい献げ物を再び持って来るな。…お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。…どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」と(イザ1章11~15節)。「わたしの名を軽んずる祭司たちよ、…あなたたちは、わたしの祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。…わたしはあなたたちを喜ぶことはできないと万軍の主は言われる。わたしは献げ物をあなたたちの手から受け入れはしない」と(マラ1章6~10節)。 主は心を見られます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩51編19節)。 Wed, 12 Sep 2018 00:10:00 +0000 聖なる者となれ(レビ記 20-21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180912 no 2018 自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。 わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。 (レビ記20章7節~8節) 「聖なる者となれ」という命令は19章から続いています。20章は8節が区切りです。前半は「わたしのほかに何ものをも神としてはならない」という十戒の1枚目の板の戒めに関連しています。9節以降は恥ずべき性関係について詳述されていますが、「父母を敬え」、「姦淫するな」、「盗むな」、「隣人の家をむさぼるな」という十戒の2枚目の板の戒めに関連しています。 ここに書かれているような行為は、「死罪に当たる」と言われています。これは直訳すると「彼らの血は彼らの中に」という言い回しで、明確に「血」という言葉が使われています。「血の責任は彼らにある」ということです。 17章で「生き物の命は血の中にある」と教えられました。そして、主イエスが命の在りかである「血」を流してくださったことによって、私たちは主の命をいただいたのだ、ということに気づかされたのでした。イエス・キリストの贖いの血によって生きる者となるようにしていただいた私たちは、真実にこの「聖なる者となれ」という命令に従い、それにふさわしい生き方をする者でありたいのです。 Tue, 11 Sep 2018 00:10:00 +0000 最も重要な第二の掟(レビ記 18-19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180911 no 2018 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 (レビ記19章17節~18節) マルコ福音書12章で、律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたときに、主イエスがそれに答えた上で、「第二の掟は、これである」と示されたのがきょうの個所です。神を信じていると言う限り、神を愛するのは当然ですから、主イエスは「第二」とおっしゃりながら、「隣人を自分自身のように愛する」ことのほうがもっと重要であると教えたかった可能性があります。ですからレビ記19章、とりわけ11~18節を繰り返し読み、この戒めに従う者とされたいと願います。 「盗んではならない」と言われたときに、狭義の盗みをしていないと思うに留まらず、自分の不用意な言動で隣人を傷つけて平安を損ない、盗んでいないかを想いましょう。「雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」と言われたとき、今助けを必要としている人につれない態度を取っていないか。「隣人を虐げてはならない」と言われたときに、信仰の正論を言って隣人を苦しめていないか…。 心の中までも探り知られる神が、隣人に対する私たちの思い・言葉・行いを見ておられることを覚えましょう。 Mon, 10 Sep 2018 00:10:00 +0000 命である血(レビ記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180910 no 2018 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。 (レビ記17章11節) なぜ十字架上でイエス・キリストの「血」が流されなければならなかったのか。きょうの個所は、このことの重要性を深く教えてくれます。 「生き物の命は血の中にある」という言葉が3度繰り返されています。それゆえに「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない」と厳格に命じられ(14節)、ユダヤ人は今も、適切に血抜き処理した肉しか食べません。 ところが、血を決して口にしないユダヤ人に、主イエスは血を飲めと言われたのです。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。…わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。…わたしの血はまことの飲み物だからである。…わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6章53~56節)。 これを聞いたユダヤ人が「実にひどい話だ」と言ったのも無理はありません。しかし、レビ記によってこの言葉の真意が分かってくるのではないでしょうか。主イエスの血によって、私たちは主の命をいただいたのです。 Sun, 09 Sep 2018 00:10:00 +0000 主はいつも共にいてくださる(マタイによる福音書 18章15-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180909 no 2018 「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 (マタイによる福音書18章20節) 主イエスは、罪を犯したときに、いさめて事の本質を理解させ、崩れた関係を元に戻すための順序を教えておられます(15~17節)。 先ず、2人だけで忠告します。これは相手の名誉に対する愛の配慮です。これが聞き入れられない場合、「2人ないし3人の証言によって立証される」と定められているように複数で対応して、個人的な忠告でないことを相手に悟らせます(申19章15節)。それでも聞き入れられない場合、教会として取り扱います。教会として、愛をもって戒め、諭します。それも聞き入れられないときには教会の交わりから排除されます。この手続きには、主の忍耐と愛が満ちています。 「2人または3人がわたしの名によって集まる」とは、罪の赦しを求めて集まるということにほかなりません。教会にとって、兄弟を1人でも失うことは、大いなる悲しみであり、損失だからです。私たちの主は、罪の赦しのために十字架につけられました。悔い改めた兄弟を得るために私たちが祈るとき、その主が「わたしもその中に」共にいてくださると、約束されているのです。 Sat, 08 Sep 2018 00:10:00 +0000 まことの贖いを求めるへりくだり(レビ記 15-16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180908 no 2018 以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第7の月の10日にはあなたたちは苦行をする。…なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。 (レビ記16章29節~31節) 今年は9月18日が「大贖罪日」、ユダヤ人にとって最も大切な日です。年に一度この日に大祭司が至聖所に入り、贖いの儀式を行います。「彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、…贖いの儀式を行う」(16章16節)。 きょうの個所で二度、「あなたたちは苦行をする」と繰り返されていますが、これは直訳すると「あなたたちの魂を低くせよ」という命令です。新改訳が「自らを戒めなければならない」と訳すとおり、悔い改め・へりくだりが求められています。 ヘブライ書はイエス・キリストがまことの大祭司としてこの贖いの業を成し遂げられたことを告げています。この贖いの業は「大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません」(9章25節)。私たちが「その身を清めるならば、…キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(同13、14節)。 このような贖いの業の前に、私たちは自らの魂を低くしなければなりません。 Fri, 07 Sep 2018 00:10:00 +0000 宿営の外に(レビ記 13-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180907 no 2018 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。 (レビ記13章45節~46節) 神は、たびたび重い皮膚病で人を打つことがありました。たとえば、傲慢さのゆえにこの病にかかった人の例として、モーセの姉ミリアム(民12章)や、ユダの王ウジヤ(歴下26章16~21節)が挙げられます。重い皮膚病の人は宿営の外に隔離され、悔い改めのときのように「衣服を裂き、『わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない」と、命じられました。 しかし、神はまた、ヨブのように無垢な人をも重い皮膚病で打たれることがありました。ヨブは嘆いて言いました。「わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ」(ヨブ19章21節)。 イエス・キリストの前に重い皮膚病を患っている人が来ました。主イエスは、ヨブの祈りに応えるかのようにその人を「深く憐れんで」、その人に「触れ」、「清くなれ」とお命じになります。すると病は去り、彼は交わりに戻ることができました。その後、主イエスはどこへ行かれたか。「町の外の人のいない所におられた」(マコ1章45節)。その人が隔離されていた場所です。主はこのように私たちを憐れみ、私たちの病を担い、身代わりになってくださいました。 Thu, 06 Sep 2018 00:10:00 +0000 主が命じられたとおりに(レビ記 9-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180906 no 2018 なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、2羽の山鳩または2羽の家鳩を携えて行き、1羽を焼き尽くす献げ物とし、もう1羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。 (レビ記12章8節) 献げ物の規定に従って、まずモーセがアロンとその子らのために贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、任職の献げ物をささげました。モーセが行ったことは「主の命じられたとおり」であったと繰り返されています(8章4節ほか)。 9章ではアロンが献げ物をささげました。ささげ終えてモーセとアロンが民を祝福すると、主の御前から炎が出て、献げ物をなめ尽くし、これを見た民全員は喜びの声を上げてひれ伏した、とあります(9章24節)。 しかし、もう10章でさっそく違反があったと記されています。最初から違反がある悲しさ。これが御言葉に従い得ない人間の姿です。 11章は清い動物・汚れた動物についての規定です。ユダヤ人が今も守っている規定です。ペトロも主が命じられたとおりに生きていました。使徒言行録10章でペトロが見た幻は、この規定を克服するためのものでした。 12章は産婦についての規定です。この中に貧しくて小羊に手が届かない人のための規定もありました。これに従って母マリアも、主が命じられたとおりに献げ物をささげたのでした。 Wed, 05 Sep 2018 00:10:00 +0000 神との和解の食卓(レビ記 6-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180905 no 2018 主にささげる和解の献げ物についての指示は次のとおりである。 それを感謝の献げ物としてささげる場合、献げ物にする動物のほかに、…輪形のパン、オリーブ油を塗った薄焼きパン…更に酵母を入れて作った輪形のパンをささげる。彼はそれぞれの献げ物から1個ずつを奉納物として主にささげる。 (レビ記7章11節~14節) 1章から5章まで、5つの献げ物について命じられてきました。6、7章は、それらを行う祭司アロンとその子らへの指示が記されています。ここでの順序を見ると、(1)焼き尽くす献げ物、(2)穀物の献げ物、(3)贖罪の献げ物、(4)賠償の献げ物、(5)和解の献げ物となっています。贖罪・賠償が済んでから和解が成る、という流れにも見えます。 和解の献げ物は、「感謝」、「満願(誓願の期間満了)」のとき、また自らの意志で「随意」に献げられます。和解の献げ物は、肉だけでなく、パンも共にささげることが定められていました。肉とパンが並んで、まるで食卓のようです。この和解の献げ物だけは、民も食べることができました。神との和解が成ったときに、献げ物は執り成してくれた祭司と共に与る、神の御前での食事となるのです。 ご自身をささげられたイエス・キリストというまことの祭司によって神と和解させていただいた私たちの食卓は、なおのこと、毎食が主への献げ物、神の御前での食卓でありたいと思わされます。食前の感謝の祈りをささげるときにも、神との和解を想いたいのです。 Tue, 04 Sep 2018 00:10:00 +0000 彼らの罪は赦される(レビ記 3-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180904 no 2018 祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に7度血を振りまく。…祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される。雄牛の残骸は宿営の外に運び出して、…焼却する。これが会衆の贖罪の献げ物である。 (レビ記4章16節~21節) 3章から5章には、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物について記されていますが、同じことの繰り返しのように見えます。しかし、一つ一つの事例について、「彼(ら)の罪は赦される」という言葉に至っていることに思いを向けたいと思います。 ヘブライ人への手紙13章11節に「罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです」とあります。確かにきょうのレビ記の個所にそう書かれています。それを解説してヘブライ人への手紙はこう続けます。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」(同12節)。ゴルゴタの丘は都の外にありました。主はそこで血を流されたのでした。 イザヤ書53章10節には「彼は自らを償いの献げ物とした」とあります。主イエスは私たちのために、御自分をそのように献げてくださったのでした。「祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」(レビ5章26節)。なんと感謝すべき宣言でしょうか。 Mon, 03 Sep 2018 00:10:00 +0000 主が覚えてくださる(レビ記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180903 no 2018 アロンの子らである祭司たちのもとに持って行くと、祭司の1人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである。 (レビ記2章2節) 細かな規定の文章が続くため、レビ記で通読を中断してしまいがちです。しかし、レビ記の言葉は今も生きていて、ユダヤ人はこの食物規定を守って生活していますし、バスの中にレビ記の言葉を見かけることもあります。主イエスの贖いの御業の恵みを深く知るためにも、レビ記の理解は欠かせません。ぜひとも読み続けてください。 動物犠牲の記述は、滅多に自分で動物や鳥を捌かない日本人には縁遠いもののように感じられるでしょう。しかし、ユダヤ人にとっては自らの食生活と密接に関係していました。日々の食生活と献げ物は直結しています。 2章の中で3度「しるし」という言葉が出てきます(2、9、16節)。「記念」「覚え」とも訳されます。使徒言行録のコルネリウスはローマ人でしたが、神を信じ、ユダヤの習慣に従って生活していました。そのコルネリウスに「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」と天使が語りかけます(10章5節)。レビ記の「しるし」はこの「覚え」と同じ言葉です。立ち上る香りは、私たちの祈りが天に通じ、主に覚えていただくためのものでした。 Sun, 02 Sep 2018 00:10:00 +0000 己を捨て主に従う(マタイによる福音書 16章21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180902 no 2018 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」 (マタイによる福音書16章24節~25節) ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表したにもかかわらず、神の子である主イエスが地上に来られた使命を十分に理解していませんでした。主イエスがこれから起こるご自身の十字架と復活について告知されると、人間の思いで「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ってしまいました。 ペトロの言葉は、主イエスには、あの荒れ野のサタンの試みの再来と思われました。「サタン、引き下がれ、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責して、主イエスは弟子たちに言われました。「わたしの弟子として従うなら、己を捨て、わたしと共に十字架を背負って歩きなさい。どのような時にもわたしへの信頼を持ち続けなさい。そうすれば、終わりの裁きの時に、それぞれの信仰のあり様に従って、主なる神は報いてくださる」と。 私たちは、ついつい自分の思いで主のご意志から離れ、心の内の誘惑に負けそうになります。しかし、主イエスは私たちの弱さをご存知で、叱責し、励ましてくださいます。終末の希望の中で信仰を守り続けていきたいものです。 Sat, 01 Sep 2018 00:10:00 +0000 光の子、昼の子(テサロニケの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180901 no 2018 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。 (テサロニケの信徒への手紙一5章1節~2節、5節) 「何々の子」という表現は、その特質、性質にあずかっている者ということを意味します。ですから、「光の子」というのは、光の中を歩み、光の中に住んでいる、その存在が光によって特色づけられているということです。 夜、また暗闇に属している間、私たちは罪の中にとどまっていました。けれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪の暗闇から解放され、キリストに結ばれたのです。真の光であるキリストの内にいる。それゆえ、光、また昼に属する者です。ですから、私たちは自分が光の子、昼に属する者であることをわきまえて、キリストに結ばれている自覚の中で歩みます。 キリストの再臨の日である「主の日」は、いつ来るのかわかりません。けれども、それは、「盗人のように突然」襲うのではありません。主の日が来ることは主イエス・キリストの確かな約束だからです。 昼に属する者として、神の御言葉に導かれて歩むことが大切です。御言葉に聞き続けることによって、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」歩むことへと、私たちは整えられます。 Fri, 31 Aug 2018 00:10:00 +0000 御言葉によって励まし合う(テサロニケの信徒への手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180831 no 2018 このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。 (テサロニケの信徒への手紙一4章17節~18節) 復活の主キリストの再臨の時にはキリストに結ばれて死んだ者たちが復活し、生きて主を待ち望んでいた者たちも共に引きあげられます。そうして、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。その時こそが神の国の完成の時、「神が我らと共におられる」インマヌエルの時です。私たちの希望はここにあります。 キリストの十字架と復活を信じ、キリストに結ばれている者にとっても、死は嘆き悲しみです。しかし、キリスト者にとって、もはや死は希望のない悲しみではありません。なぜなら私たちはキリストにある復活の希望を抱くものであるからです。 パウロはテサロニケの教会に対して、「この言葉によって励まし合いなさい」と勧めます。私たちはひとりで聖書を読んで慰めや励ましを与えられることを経験します。しかし、同時に私たちは、教会で兄弟姉妹として御言葉をもって互いに慰め励まし合います。そのようにして励まし合いつつ希望に向って共に歩むのがキリストの教会です。私たちは心から主の再臨を祈り求め、その時を待ち望みつつ一日一日を歩みます。 Thu, 30 Aug 2018 00:10:00 +0000 信仰と愛(テサロニケの信徒への手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180830 no 2018 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。 (テサロニケの信徒への手紙一3章6節) パウロは、テサロニケのキリスト者たちのことを心配してテモテを派遣していました。そのテモテが戻って来て、困難や迫害の中でも「信仰」を堅く保っていると報告します。苦難の中での彼らの信仰の動揺を心配していたパウロにとって、これはうれしい知らせでした。 テモテは、彼らの「信仰」についてだけではなく彼らの「愛」についても報告しています。教会の兄弟姉妹のために、あるいは隣人のために、自らを犠牲にし、見返りを求めない、そのような愛の姿がテサロニケの教会にありました。 「信仰と愛」、これは神が私たちに求めておられることを端的にあらわした言葉です。「愛のない信仰」でも「信仰のない愛」でもありません。「信仰と愛」、二つのことは本来、切り離すことはできないはずです。しかし、切り離されないはずのこの二つのことを、私たちは切り離してしまうことがあります。 たとえ、どのような困難、苦しみの中にあっても、「信仰と愛」を堅く保ち、それを増し加えさせてくださるように祈りつつ、歩んでいきたいものです。 Wed, 29 Aug 2018 00:10:00 +0000 誇るべき冠(テサロニケの信徒への手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180829 no 2018 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。 (テサロニケの信徒への手紙一2章19節~20節) パウロとテサロニケの教会の人びとの関係は、主にある兄弟姉妹としての関係でした。それは、決して一方的なものでも、上下関係によるものでもありません。彼らは、互いのことを自分のことのように思いやり、祈り、愛し、また必要な助けの手を差し伸べています。それは主イエス・キリストの愛のゆえです。 そのような愛の関係にあるからこそ、パウロは彼らを「わたしたちの希望、喜び、誇るべき冠」、「わたしたちの誉れであり、喜び」と言います。 ここから、福音の宣教とは何か、それはどのようにしてなされるのかを私たちは教えられます。福音の宣教は、決して人間の力でするものではありません。一人ひとりを救いへと選ばれ、導かれるのは神ご自身です。私たちはあくまでもその神に仕える僕として、神の御心に従って福音を宣べ伝えます。福音は、愛によって伝えられます。ただ言葉によってだけ伝えられるのではありません。 キリストは再臨のとき、私たちのそのような信仰における愛の姿勢をこそご覧になります。私たちも互いに愛し合いながら、福音の宣教を続けることができますように。 Tue, 28 Aug 2018 00:10:00 +0000 苦しみと喜び(テサロニケの信徒への手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180828 no 2018 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 (テサロニケの信徒への手紙一1章6節~7節) テサロニケのキリスト者たちは、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を」、福音を受け入れました。苦しみと喜びは、普通は正反対のものです。私たちは、喜びがあれば苦しみはない、苦しみがあれば喜びはない、そのように考えます。 しかし、信仰においてはそうではありません。信仰のために受ける苦しみは、御言葉によってキリスト者に要求されている、キリスト者の定めです。その苦しみのただ中で、私たちには、福音によって聖霊による喜びが与えられます。ですから、福音のために苦しみを受けるとき、その心は神から与えられる喜びに満たされます。 それは、心の持ち方や人の工夫によって得られるようなものではありません。それは、神が聖霊によって私たちのうちに与えてくださる喜びであり、この世の何ものも与えることができない、そして奪うことのできない喜びです。この喜びは、キリストの栄光が現れるときに満ちあふれる喜びでもあります。テサロニケの人びとも、この喜びに満たされて、苦しみの中にあっても、恐れることなく信仰に堅く立ったのです。 Mon, 27 Aug 2018 00:10:00 +0000 永遠に生きておられる大祭司(出エジプト記 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180827 no 2018 あなたは、彼らの父に油を注いだように、彼らにも油を注ぎ、わたしに仕える祭司としなさい。彼らがこのように、油を注がれることによって、祭司職は代々にわたり、永遠に彼らに受け継がれる。 (出エジプト記40章15節) 主は大祭司としてアロンを、また、その子らを祭司として、お立てになりました。彼らは、油を注がれて、罪の贖いの儀式を民のために行います。この祭司職が、レビ族であるアロンの子孫に受け継がれました。それは、後の世代まで、ずっと続きます。こうして祭司職は継続され、主イエスの時代に至っても続いており、洗礼者ヨハネの父ザカリアも祭司でした。 しかし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することはできません(ヘブ7章11節参照)。祭司自身、罪人であり、自らのための贖いが必要です。たとえ無傷でも動物犠牲では罪を完全に取り除くことができず、繰り返し献げられなければなりませんでした。 しかし、主イエス・キリストの到来によって、祭司制度が完成されました。新しい契約の下で立てられ、油注がれた大祭司イエスは、ただ一度ご自身を献げて、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。しかも、永遠に変わらず生きておられます。この大祭司によって、私たちは聖なる者、また、完全な者とされるのです(ヘブ10章14節参照)。 Sun, 26 Aug 2018 00:10:00 +0000 あなたはメシア(出エジプト記 16章13-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180826 no 2018 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」 (出エジプト記16章15節~17節) 主イエスがフィリポ・カイサリア地方に行かれたとき弟子たちに尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。彼らは洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤなどと答えました。しかし、主の最大の関心事は弟子たちがご自身をだれと思っているか、ということでした。 主は、お働きの初めに、のちに宣教の働きを担い教会を建て上げていく器として十二使徒を選ばれ、このときまで教育と訓練を続けてこられたからです。一番弟子だったペトロが答えました。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そのとき主は言われました。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。 昇天後の五旬節のこと、聖霊に満たされたペトロの説教は人びとの心を打ち、3千人が救われ最初の教会がエルサレムに誕生しました(使2章)。「あなたはメシア」と彼が告白できたのは、天の父の特別な啓示によります。天の父は、鈍く弱く失敗の多いペトロにキリストを啓示され、彼を造り変え、豊かに用いられました。私たちにも同じ恵みが与えられています。 Sat, 25 Aug 2018 00:10:00 +0000 神の霊の幅広いお働き(出エジプト記 35-39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180825 no 2018 「見よ、主は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。」 (出エジプト記35章30節~34節) 臨在の幕屋の建設に当り、主は献納物を携えて来るようお命じになります。心動かされた人びとは、進んで主への献納物を持ち寄りました。主は、知恵と英知と知識を与えた人びとを細かい工芸に従事させ、人を教える力をもお与えになりました。神を礼拝するために優れた技術が用いられ、創意工夫がなされたことがわかります。 今日の会堂建築の場合、設計は信仰者の方がしても、大工さんや職人さんはほとんど未信者の方でしょう。信徒が直接従事するのではなくても、それらの技能も神の賜物の一部です(イザ28章26節)。 会堂建築に限らず、神の家である教会で必要な働きは多方面に及びます。直接礼拝に関わらないことでも、主の民の生活と活動のためにさまざまな配慮と奉仕が求められます。利便性、機能性、そして美しさも追求されます。それもまた神の賜物に依っています。 私たちも主の教会を築いていくために神の霊の導きと賜物を求めます。神の賜物をよく用いて献げ、教会が一つになり、神の栄光を現していけるように祈りましょう。 Fri, 24 Aug 2018 00:10:00 +0000 ほかの神を拝んではならない(出エジプト記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180824 no 2018 「あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない。」 (出エジプト記34章13節~14節) イスラエルの民は、偶像礼拝を行う異教徒たちの土地に入って行きます。彼らが行う偶像礼拝を主は禁じておられます。それだけでなく、その偶像を壊すようにさえ命じています。たいへん厳しい命令ですが、民が偶像礼拝に染まらず、まことの神への信仰を保つために主が必要とされたことでした。 私たちの回りにも偶像があちらこちらにあります。偶像礼拝を十分に警戒し、避けるべきことには変わりはありません。では、今日の私たちは、回りにある偶像を打ち壊すべきでしょうか。もちろん、自分が所有していた偶像を拝まなくなって、それを壊し処分するということはあるでしょう。しかし、他人が礼拝している偶像を壊すことはしません。そのようなことをすれば、相手と敵対関係が生じて、かえって溝が深くなるでしょう。 私たちは伝道の観点から、積極的に神の恵みとキリストの救いを示し、御言葉を伝え、教えるという手段を取ります。そして、「どのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」を証しします(1テサ1章9節)。 Thu, 23 Aug 2018 00:10:00 +0000 主の道をお示しください(出エジプト記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180823 no 2018 「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。」 (出エジプト記33章13節) ここでモーセが示してほしいと主に願っている道は、これから先どのような旅が続くのか、という道のことではありません。主がそのご計画を実行していかれる際のなさり方という意味での道です。詩編に、「主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」と歌われています(103編7節)。主を信じてモーセは出エジプトの先頭に立ちましたが、勝手なふるまいをする頑なな民を持て余し、主が本当に自分にご好意を示してくださっているのか不安になっていたことが伺われます。 主に直接任命されたモーセですら、主がなさることを一度にすべて知ることはできず、祈り願い求めることを繰り返していきました。そして主はその都度願いに応えて、ご自身が共におられることを証ししてくださいました。 主が共におられる、という約束は、聖書全体を通して主の民に与えられているものです。今日、私たちも自分たちに対して主のなさることをすべて初めから把握しているわけではありません。しかし、祈り求めつつ歩む中で、主はご自身の道を私たちに必ず示してくださいます。 Wed, 22 Aug 2018 00:10:00 +0000 神と人との仲介者(出エジプト記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180822 no 2018 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 (出エジプト記32章19節) 主はシナイ山でモーセと語り終えられると、神の指で掟の記された石の板をモーセに授けられました。その間、モーセの帰りが遅いことを不安に思った民がアロンに迫り、アロンは金の子牛を造ってしまいます。民はそれにひれ伏し、大きな罪を犯していました。モーセは山上で、「そのような民は滅ぼす」と言われた主を懸命になだめます。主はそれを聞き入れて、民を滅ぼすことを思い直してくださいました。 しかし、宿営に戻って民の偶像礼拝を目にすると、モーセは激しく怒り、持っていた掟の板を投げつけて、砕いてしまいました。神自ら書かれた掟の板を砕いてしまうとは、モーセの怒りがどれほどだったかわかります。 モーセは民に対して激しく怒りました。懸命に主をなだめたモーセでしたが、民に対しては非常に激しい怒りをぶつけたのです。神と人との間に立つモーセの真剣さが際立つ箇所と言えます。 後に世に来られた罪人の贖い主、神と人との仲介者イエスは、神の怒りをご自身で受け止め、民に怒りをぶつけるのではなく、民の罪を十字架で担われました。 Tue, 21 Aug 2018 00:10:00 +0000 契約の箱(出エジプト記 25-31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180821 no 2018 箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。 (出エジプト記25章13節~16節) 「神の箱」、また「契約の箱」と呼ばれる箱が幕屋の中に置かれました。この箱の上には蓋として「贖いの座」が置かれました。主はここから民に語ると言われましたから、イスラエルの人びとにとって、この箱はこの上なく大事なものでした。契約の箱は、主がそこにおられるということの目に見えるしるしでした。 それほど重要な箱なので、中をのぞいた人が主に打たれたことがありました(サム上6章19節)。律法の規定通りに担がず、牛に引かせた車で運んだために、牛がよろめき、箱を押さえた人が神に打たれて死んだこともありました(サム下6章6、7節)。たいへん厳しい主の報いです。しかし、それは単に規定通りにしなかったからではありません。主がそこにおられることを軽んじていたからこそ起こったことでした。 今日、私たちにはそのように神聖で恐るべき箱はなく、契約の箱を求めることも作ることもありません(エレ3章16節)。地上にはもはや必要なくなりました(黙11章19節)。神の御子がただ一度、命をかけて贖いを成し遂げてくださったことを思い起こして、感謝しましょう。 Mon, 20 Aug 2018 00:10:00 +0000 主に近づけるのはだれか(出エジプト記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180820 no 2018 「しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」 (出エジプト記24章2節) モーセたちは主のもとに登るように命じられましたが、モーセ以外は遠く離れていなければなりませんでした。モーセがいかに重要な務めを担っていたかがわかります。 モーセの存在はイスラエルの中であまりにも大きく、主イエスの時代の人の中には、「我々はモーセの弟子だ」と言う人もいました(ヨハ9章28節)。それほど主に重んじられていたモーセは、神と人との間に立って、罪を犯した民のために懸命に執り成しをします(出32章)。 しかし、後にモーセは、自分一人で民の重荷を負うことはできないと訴えました(民11章14節)。ただ一人主に近づくことを許されたモーセでも、民の罪を身に負うことはできないからです。 今日、私たちには、このモーセにはるかにまさる執り成し手がおられます。神の御子が私たちの罪を十字架で担ってくださいました。この方によって私たちも神に近づき、完全に救っていただくことができます(ヘブ7章25節)。 きょうも私たちのために祈りを聞き、執り成してくださる主に心から信頼して近づき、一日を歩みましょう。 Sun, 19 Aug 2018 00:10:00 +0000 謙虚で不屈な信仰(マタイによる福音書 15章21-28節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180819 no 2018 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 (マタイによる福音書15章27節~28節) 主イエスが異邦人の地におられたとき、カナンの女が悪霊に取りつかれた娘の癒やしを求め、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫びながらついてきました。イエスこそダビデの子、約束のメシアであり、娘を癒やすことができると信じたからです。しかし、主は何も答えられませんでした。彼女の信仰を試しておられたのでしょう。 沈黙を破って語られたのは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という冷淡な言葉でした。主はご自身が、迷っている神の民の救いのためにだけ遣わされた者であり、「子供たち(神の民)のパンを取って小犬(カナンの女)にやってはいけない」と、女の願いを拒絶されたのです。 しかし、女はひるまず驚くほどの知恵とユーモアをもって答えました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。女は主から恵みを受けるのは当然ではないこと、しかし、たとえわずかなおこぼれの恵みであっても娘の癒やしに十分である、と信じました。主は、彼女の謙虚で、しかも不屈な信仰を「立派だ」と称賛されたのです。 Sat, 18 Aug 2018 00:10:00 +0000 目には目を(出エジプト記 21-23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180818 no 2018 もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。 (出エジプト記21章23節~25節) 昔、『目には目を』という外国映画を見ました。妻の診療を断わった医師に男が復讐をし、最後は医師が砂漠に取り残されるというあらすじでした。徹底的に復讐しようとする男の執拗さには恐ろしさを覚えました。 聖書の「目には目を」という戒めは、受けた仕打ちに見合う仕返しを許可しているわけではありません。誰かから何らかの損傷を体に受けたとしても、仲裁者の裁定を待つべきこと、また、勝手に復讐することを禁じる戒めです。その上で、加害者の償いは、与えた損傷以上のものであってはならない、という戒めです。 近代国家では、人の目を傷つけた加害者の目を傷つけるという刑罰を科すことはありません。しかし、正当な裁きのもとで、罪に対して相応の処罰が与えられます。そこに、律法の精神は生かされています。 それでも、罪のもたらす悲惨は、被害者にも加害者にも大きな重荷としてのしかかります。人にはとても負い切れません。完全な罪の償いは、神の御子の十字架の贖いによってだけ成し遂げられました。 Fri, 17 Aug 2018 00:10:00 +0000 罪を犯させないようにするため(出エジプト記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180817 no 2018 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」 (出エジプト記20章20節) シナイ山で十戒が与えられた時、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、イスラエルの民は非常に恐れました。主が直接お語りになるなら、自分たちは死んでしまうと思ったからです。しかし、モーセは、神の目的を伝えます。神は民を死なせるつもりではなく、神への畏れを抱かせ、罪を犯させないようにするためにご自身を現されたのです。 それは民を試すためでもありました。試す、というとふるい分けをされているような印象を受けがちです。しかし、試練は、信仰が本物であると証明することが目的です(1ペト1章7節)。 後にヨハネは書きました。「完全な愛は恐れを締め出します」(1ヨハ4章18節)。モーセと共にいた民は、まだそのような状態には至っていなかったと言えます。しかし、十戒を通して、民が主への畏れの思いを抱いて罪から離れるようにという、主の御心が示されています。 主は、私たちを試すために十戒を与えられたのではありません。十戒を通して、罪を取り除かれる主に依り頼めという御心を示しておられます。 Thu, 16 Aug 2018 00:10:00 +0000 鷲の翼に乗せて主のもとに(出エジプト記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180816 no 2018 「あなたたちは見た。 わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。」 (出エジプト記19章4節) イスラエルの人びとは、エジプトを出て三月目にシナイの荒れ野に到着しました。エジプトを脱出するにあたって、主がエジプトになされたこと、そして、今日に至るまで導いて来られたことを人びとは見てきました。十の災い、紅海を歩いて渡れたこと、食糧として天から与えられたマナ、渇きを癒やすために岩からほとばしる水、そしてアマレクに対する勝利。これらのことは、主がイスラエルの人びとを鷲の翼に乗せてご自身のもとに連れてきたということにほかなりません。 鷲は力強さの象徴です。何ものにも妨げられず、主はご自分の民をご自身のもとに引き寄せることができるお方です。主は全能の御力により、自然現象を超えて、御業を成し遂げられました。 それでは、私たちに対する主の御業はどうでしょうか。私たちの救いは、目覚ましい奇跡によって実現したわけではありません。しかし、岩のようにかたくなな罪人の心を主は不思議な御業によって確かに砕き、悔い改めと信仰に導き、力強く主のもとへと召し出してくださいました。私たちも、鷲の翼に乗せられて、今日に至っています。 Wed, 15 Aug 2018 00:10:00 +0000 主の恵みを喜ぶ異邦人(出エジプト記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180815 no 2018 モーセは若い頃、エジプトから逃亡してミディアンの地にたどり着くと、その地の祭司エトロのもとに留まり、その娘ツィポラと結婚しました。主がイスラエルの人びとをエジプトから導き出された後、エトロは家に戻っていたツィポラと2人の息子をモーセのもとに連れてきました。主がイスラエルを救い出されたことをモーセが語ると、エトロは主をほめたたえます。 ミディアン人はイスラエル人にとって異邦人であり、後にイスラエル人は彼らの仕打ちに対して報復さえしています(民31章)。そのミディアン人エトロが、ここではモーセの話を聞いて、主をほめたたえます。エトロはモーセに貴重な助言も与えています。 民族としては敵であっても、その中に主をたたえ、主の民に助言さえ与える者がいる。この事実は、主の救いが全世界を対象とすることを指し示しています。 忘れてならないのは、モーセがエトロに、主があらゆる困難からイスラエルを救い出されたことを語り聞かせた点です。異教徒に主の救いを語り聞かせることによって、主の民が起こされ、賛美が生まれます。 (出エジプト記18章8節~10節) モーセは若い頃、エジプトから逃亡してミディアンの地にたどり着くと、その地の祭司エトロのもとに留まり、その娘ツィポラと結婚しました。主がイスラエルの人びとをエジプトから導き出された後、エトロは家に戻っていたツィポラと2人の息子をモーセのもとに連れてきました。主がイスラエルを救い出されたことをモーセが語ると、エトロは主をほめたたえます。 ミディアン人はイスラエル人にとって異邦人であり、後にイスラエル人は彼らの仕打ちに対して報復さえしています(民31章)。そのミディアン人エトロが、ここではモーセの話を聞いて、主をほめたたえます。エトロはモーセに貴重な助言も与えています。 民族としては敵であっても、その中に主をたたえ、主の民に助言さえ与える者がいる。この事実は、主の救いが全世界を対象とすることを指し示しています。 忘れてならないのは、モーセがエトロに、主があらゆる困難からイスラエルを救い出されたことを語り聞かせた点です。異教徒に主の救いを語り聞かせることによって、主の民が起こされ、賛美が生まれます。 Tue, 14 Aug 2018 00:10:00 +0000 主はわれわれの間におられるのかどうか(出エジプト記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180814 no 2018 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。 (出エジプト記17章7節) モーセと主に不平を述べ立てていた人びとは、今度はのどの渇きに我慢できなくなり、「飲み水を与えよ」と言いました。主はモーセに岩を杖で打つようお命じになり、モーセが打つと水が出て、飲むことができました。 食べ物と飲み物は人間にとって、なくてはならないものです。しかし、人びとがそのように不平を述べたのは、主を試すことにほかなりませんでした。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という問いには、主が今まで成し遂げられたことを信仰によって受け止めていなかったことがあらわれています。 私たちの信仰を顧みてみましょう。私たちは、礼拝のたびに「神は我々と共におられる」という真実な約束を再確認しています。私たちは、その約束を信じて礼拝をささげ続けています。私たちも、「私たちの内に主はおられる」という告白が口先だけのものにならぬよう、このイスラエルの民の疑いの言葉を戒めとしたいものです。 主の民の間に、確かに主はおられます。この約束が真実であると今日までずっと証しし続けている聖霊の恵みに、私たちは依り頼みます。 Mon, 13 Aug 2018 00:10:00 +0000 これこそ、主が与えられたパンである(出エジプト記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180813 no 2018 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」 (出エジプト記16章15節) 主なる神によって奴隷の家であるエジプトから導き出されたイスラエルの人たちは、荒れ野で空腹を覚え、モーセに不平を述べ立てました。それで主は、夕方にはうずらを、朝にはマナを与えて、忍耐強く彼らを養われました。主が与えてくださった食べ物は、天から降って地表を覆います。人びとは、「これは一体何だろう」と言いました。 時代は下って、神の御子イエスが人びとの前に姿を現され、神の言葉を語り、すばらしい御業をなさると、弟子たちでさえ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言いました(マコ4章41節)。神のなさることも、与えてくださるものも、未経験なのでわからなかったのです。 私たちも同じです。主イエスについて聞き、学び始めると、いったいこの方は誰だろうかと思います。人間の知識をはるかに超える神の御子が地上に降られたのですから。 そういう私たちに、天から降ってこられた神の御子イエスこそ、私たちを真に養う命のパンであることを、主は示してくださいました。この一日も、天からの命のパンである主イエスに依り頼みましょう。 Sun, 12 Aug 2018 00:10:00 +0000 恐れることはない(マタイによる福音書 14章22-33節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180812 no 2018 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが、「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 (マタイによる福音書14章27節~29節) 主イエスが弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に向かわせられた時のことでした。ガリラヤ湖の真ん中あたりで舟は逆風と高波に翻弄され始めました。命の危険におびえ、長時間、悪戦苦闘していたその時、主が湖上を歩いて近づかれ、声をかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。 「わたしだ」は、主なる神がモーセにご自身の名として告げられた「わたしはある」という言葉です(出3章14節)。永遠にいます全能の生ける神としてモーセにご自身を現されたお方こそ主イエス・キリストです。この主の臨在こそが、弟子たちがいかなる状況の中でも安心でき、また何ものをも恐れる必要のない、唯一の根拠です。 ペトロは言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。「来なさい」と言われ、ペトロは歩き出しました。しかし、強風に気をとられたとたん、恐怖に襲われ、沈みかけました。 私たちの日々の歩みにおいて、「わたしだ。恐れることはない」と力強く語られる全能の主に目を留め続けることが信仰です。 Sat, 11 Aug 2018 00:10:00 +0000 アーメン(テモテへの手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180811 no 2018 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、 キリストと共に生きるようになる。 耐え忍ぶなら、 キリストと共に支配するようになる。 キリストを否むなら、 キリストもわたしたちを否まれる。 わたしたちが誠実でなくても、 キリストは常に真実であられる。 キリストは御自身を 否むことができないからである。」 (テモテへの手紙二2章11節~13節) 使徒パウロは伝道者として数多くの苦労を重ねました。投獄、むち打ち、石打ち、難破…。そして今、パウロは福音のため牢屋に入れられ、殉教の死を覚悟しています。助けてくれるはずの友人たちさえ彼を見捨てました。 神と人を呪って死んでもおかしくありません。しかし、パウロは最後まで信仰に生きることができました。何がパウロを支えたのでしょうか。 それは、彼がキリストと共にあったからです。今日の聖句では、「キリストと共に」と三度繰り返すことで、キリストにしっかりと結ばれた者の恵みを教えます。 信仰は自分がしっかりしているから大丈夫なのでなく、キリストが常に真実であられることに私たちの救いの確かさがあります。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず…逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリ10章13節)。 アーメンとは「確実」「堅固」「誠実」という意味です。そして、キリストは「アーメンである方」です(黙3章14節)。このお方が確かであられるから、私たちの信仰には希望があります。 Fri, 10 Aug 2018 00:10:00 +0000 国と力と栄えとは(ローマの信徒への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180810 no 2018 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 「いったいだれが…。」 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 (ローマの信徒への手紙11章33節~36節) ローマの信徒への手紙の中で、パウロは神の民イスラエルの歴史を異邦人の救いと関係させて語ります。 神はまずイスラエルをご自身の選びの民とされましたが、彼らは約束の救いを拒んだため、代わりに異邦人が救いに入れられました。そのようにして神が異邦人を救ったことでユダヤ人に「ねたみ」を起こさせ、彼らをも救いに招こうとされたのです(11章11節)。 異邦人、ユダヤ人にかかわらず、人は皆、神の前に不従順であり、救いは血筋や行いではなく、ただ神の憐れみによります。神から遠いはずの異邦人が救われることに、パウロは神のご計画の究めがたさを覚えます。と同時に、彼は自分が救いに入れられている事実に驚きます。ユダヤ人である彼はかつて神の恵みの福音を正面から否定したからです。私たちも自分の救いの根拠を見つめる時、神の憐れみに賛美があふれます。「栄光が神に永遠にありますように」と。 「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」。祈りの根拠は、神が一切の力と支配を持っておられることにあります。私たちは主の祈りを神への賛美で結びます。 Thu, 09 Aug 2018 00:10:00 +0000 こころみにあわせず(コリントの信徒への手紙二 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180809 no 2018 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 (コリントの信徒への手紙二12章7節~8節) 使徒パウロにサタンから使いが送られました。パウロには、それはとげのように邪魔でした。体に負っていた自分の病気をとげと呼んだのです。それがなければ神のためにもっと働くことができるとパウロは思ったはずです。 パウロは、神にこのとげを取り除いてくださいと三度祈りました。三度というのは、「完全に、心を尽くして」という意味です。主イエスが「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように教えられたからです。「誘惑」という言葉は「試練」とも訳されます。 すると主は言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と(9節)。サタンからの誘惑、試練に、パウロは祈りによって勝利しました。 この後、とげが刺さったままのパウロは十分な伝道ができなかったでしょうか。そうではないと思います。苦しみを知る人が救われたなら、苦しみの中にある隣人に対してますます目が開かれることでしょう。神を知らず絶望している人に希望を伝える者とされたに違いありません。 Wed, 08 Aug 2018 00:10:00 +0000 われらの罪をも赦したまえ(マタイによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180808 no 2018 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」 (マタイによる福音書18章21節~22節) 何度まで他の人を赦すべきかと、ペトロは主イエスに尋ねました。当時の律法では同じ罪について3回まで赦しました。ペトロは7回と言うのです。これで十分だろうと彼は思ったはずです。 しかし、よく考えてみると、指を折って数えているうちは、その人を本当には赦していません。主イエスはここで無限に赦すようにおっしゃいました。他の人からされた悪いことを書きつけるノートが、私たちの心の中にあるのではないでしょうか。主イエスはそのノートを破り捨てるようにと言われるのです。 きょうの箇所の続きで、主イエスは、自分は赦されながら仲間を赦さない家来が裁かれるたとえ話を語っておられます。私たちは神に赦された者として、他の人を赦すように招かれているのです。 人には他者の失敗や罪を喜ぶ暗い心があります。インターネット記事に対して批判や中傷が殺到することを〈炎上〉と言います。私たちは主から大きな罪を赦された者として、憎しみの火事を消すのです。そのようにして神から受けとった赦しを他者に手渡すように招かれています。 Tue, 07 Aug 2018 00:10:00 +0000 日用の糧を与えたまえ(箴言 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180807 no 2018 二つのことをあなたに願います。 わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。 … 貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。 貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。 (箴言30章7節~9節) 天の父に霊的な事柄だけでなく、生活に必要な一切を求めるように、「日用の糧を与えたまえ」と祈るように主イエスは教えてくださいました。これは日毎の祈りです。けれども、真剣さが自分には欠けていると感じることがあります。それは自分が安全地帯にいると思うからです。 学校、家庭、仕事が順調で、生活が安定している時、私たちは、あたかもそれが自分の努力の成果と考えてしまいます。「主など何者か」と、神なしで生きていけるかのような錯覚に陥るのです。 またそれとは正反対に、生活のすべてに逆風が吹いている時があります。そのような時は、人生を投げ出したくなるでしょう。生活に困窮し、貧しさから罪を犯し、「神の御名を汚す」ことがあるかもしれません。 しかし、実は、私たちの持ち物は自分の所有物ではありません。すべてが「良い贈り物」、神からのプレゼントです(ヤコ1章17節)。神は、私たちがその日その日の「定められたパン」を求めて祈るように願っておられます。私たちが高慢にも卑屈にもならないために。 Mon, 06 Aug 2018 00:10:00 +0000 御心が行われますように(マタイによる福音書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180806 no 2018 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 (マタイによる福音書26章42節) 主イエスは十字架に向かう前夜、ゲツセマネの園で悲しみもだえて祈られました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と、弟子たちにおっしゃいました。この祈りの格闘の後、主イエスは御父の心に従い、十字架へと進まれます。罪のないお方がここまで苦しんで御心に従われました。イエスの思いが、祈りによって天の父の御心と結ばれたのです。 主は弟子たちにも「御心が行われますように」と祈るよう、教えられました。「御心に適うすべてを愛せるように、神の喜ばれないものは遠ざけるように、祈りなさい」と。この祈りは祈る者を戦いの中に投げ込みます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、主は言われるからです(マタ16章24節)。 私たちも、「この杯が過ぎ去る」ようにと祈るくらいの試練が与えられ、苦しみを避けられないときがあります。御心に適うとは、そこで神に屈服して白旗をあげることです。私たちは御心を求める祈りによって、自分の思いを第一にすることを止め、神に自分を明け渡すことができるようになるのです。 Sun, 05 Aug 2018 00:10:00 +0000 食べる物を与えなさい(マタイによる福音書 14章13-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180805 no 2018 「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」…「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い…5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 (マタイによる福音書14章16節~19節) 群衆が主イエスの後を追ってきていました。そこは人里離れた場所であり、夕食の時刻が近づいていました。「それぞれが自分で村へ食べ物を買いに行くために群衆を解散させてください」と、弟子たちはもっともな提案をしました。すると主は言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。これを聞いて弟子たちがどんなに困惑したか、想像に難くありません。女と子どもを別にして男が5千人ほどいたからです。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」。絶望的ともいえる叫びをあげました。持っているものの乏しさにだけ目を留めていたからです。 すると、主は群衆に座るようにお命じになり、そのパン5つと魚2匹を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡されました。弟子たちはそれを群衆に分配しました。それはすべての人が満腹し、なおあり余る量でした。 主は不可能なことを私たちに命じられる方ではありません。持っているものの乏しさに目を留めるのではなく、不可能を可能とされる方に目を留めましょう。 Sat, 04 Aug 2018 00:10:00 +0000 御国を来たらせたまえ(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180804 no 2018 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 (マタイによる福音書6章31節~33節) 主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と弟子たちに教えられました。これは「御国を来たらせたまえ」と祈ることと同じです。 御国とは神の支配のことです。この祈りは、「ますます神のものとしてください」、「教会がこの世に進展するように」、さらに「全世界、全宇宙に神の栄光が満ちるように」という壮大な願いが込められています。 主の祈りと比べると、自分の祈りがとても弱く小さいことを改めて覚えざるを得ません。気がつくと御国ではなく、「わたしの国が来ますように」と祈ってはいないでしょうか。その原因は思い煩いに心が乱されていることにあるのではないでしょうか。 熊本地震の余震で心が騒いだとき、教会の庭にある花壇の花が逃げださないことに、わたしはハッとしました。主イエスは「空の鳥をよく見なさい」と言われます。神が小さな鳥を養うのと同じように、この花も守ってくださる。それならば私たちも守られないはずはありません。私たちの思いをはるかにこえて、愛に満ちた神の支配が広がるように、共に祈りましょう。 Fri, 03 Aug 2018 00:10:00 +0000 御名をあがめさせたまえ(ヨブ記 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180803 no 2018 「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。」 そのとおりです。 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた 驚くべき御業をあげつらっておりました。 … あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 (ヨブ記42章3節~5節) 神の御名が正しくあがめられるとはどういうことでしょうか。それは、人が神について正しく知ること、そして神の栄光が地上に現されることです。神は栄光に満ちたお方ですから、栄光が増えたり減ったりすることはありません。しかし、私たちの罪が神の栄光の光を曇らせることがあります。 ヨブはひどい苦しみに遭いました。息子、娘、財産を失い、さらに自分はひどい皮膚病になったのです。ヨブ記は、慰めるために来た友人たちとヨブとの対話です。神に逆らった結果、裁きを受けているのだという友人の言葉にヨブは納得しません。神から直接の答えをヨブは望みました。 そのようなヨブにとうとう神は現れ、語りかけます。神が語られたのは創造の御業についてであり、ヨブが求めていた苦難の意味など一切、答えてはおられません。しかし、ヨブは納得したのです。 ヨブが最後に沈黙したように、私たちも生ける神の前に静まることが求められているのではないでしょうか。不平をつぶやくのを止め、神を見上げる。そこからふさわしい神賛美が生まれます。 Thu, 02 Aug 2018 00:10:00 +0000 わたしたちの父よ(マタイによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180802 no 2018 「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」 (マタイによる福音書23章8節~9節) たとえば、教師が生徒に「ここを直せばあなたはよくなる」と話します。親は我が子に「もう少し努力すれば必ずよくなる」と熱く語ります。けれども、語った本人は口先だけで、自分はしていないことがあります。上に立つ者の立派な言葉は、その人自身の行動によって試されます。 主イエスは、「父」とも呼ばれた律法の教師の偽善を暴かれました。彼らの行動は「すべて人に見せるため」でした(5節)。それに対して主イエスは、本当の教師であるのにどこまでもへりくだって、最後にはご自分の命さえ差し出してくださいました。この犠牲ゆえに私たちは神の子とされました。 「地上の者を『父』と呼んではならない」という主イエスの言葉は、地上の家族を相対化させ、血のつながりを越えた家族の存在を示します。それが私たちの教会です。 教会には、血のつながり以上の愛の関係があります。一人で祈るときも、それは孤独な祈りではありません。主は「わたしたちの父よ」と祈るように教えられました。「わたしたち」、小さなこの言葉は、「わたし」の壁を越えて共に祈ることへの招きです。 Wed, 01 Aug 2018 00:10:00 +0000 天におられるわたしたちの父よ(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180801 no 2018 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、…』」 (マタイによる福音書6章7節~9節) 私たちは、ひどい病気ではないかという不安な気持ちで病院に行くことがあります。原因が分からないと不安です。医者は病気の原因をつきとめ、薬を出して治すことができますし、不安の理由も病人以上に知っています。 私たちの祈りもこれと似たところがないでしょうか。私たちは自分に起きている危機が何であるか分からず、さらにどうしたらよいのかも知りません。医者が病人よりも病気のことを知っているように、まして父なる神は子である私たちの必要を願う前からすべてご存じです。くどくどと言葉を重ねて祈らなくても、ご存じなのです。 それなら、なぜ私たちは祈るのでしょうか。神がすべてを知っておられるなら、祈る必要はないのではないかと疑問が起こります。 しかし、主イエスは祈りの手本として主の祈りを教えてくださいました。それは私たちが心を神に向けるためです。神は恵みを与えようと常に待ち構えておられます。そして、私たちが祈るとき、神はいつも恵みを与えてくださいます。祈りによる神との交わりそれ自体が恵みなのです。 Tue, 31 Jul 2018 00:10:00 +0000 賛美を通して与えられる力(出エジプト記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180731 no 2018 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。 主に向かってわたしは歌おう。 主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。 (出エジプト記15章1節) モーセとイスラセルの民は葦の海で経験した神の御業を思い、賛美の歌をうたいました。彼らは熱狂と興奮の中で喜びに満たされながら神を賛美したのです。 賛美について考えるとき、わたしはいつも亡くなられた古川第一郎先生を思い出します。先生はギターを抱えながらよく神を賛美されていたからです。あるとき、用事があってわたしが教会に行ってみると、そこには一人で熱心に神を賛美している古川先生の姿がありました。あまりにも大きな声で何度も賛美する先生に圧倒されて、わたしは「先生、きょうは調子がいいですね」と声を掛けました。すると先生はすぐに首を横に振って、「そうじゃないよ。僕はきょう調子が悪いから神を賛美しているんだよ」と答えられたのです。 深刻な病を背負いながらも、いつも情熱を持って神のために奉仕しておられた古川先生。そのエネルギーの源は神を賛美することにあったことを、わたしはそのとき知りました。 賛美は神に従って生きようと決心する私たちを励まします。喜びのときに、そして苦しいときにこそ。神が賛美する者に新たな力を与えてくださるからです。 Mon, 30 Jul 2018 00:10:00 +0000 行くべき道が見いだせないとき(出エジプト記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180730 no 2018 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。 (出エジプト記14章10節) 前方では葦の海が行く手を阻み、後方にはファラオの軍隊が迫っていました。イスラエルの民は前に進むことも後ろに戻ることもできず、絶体絶命の状態に陥りました。「我々を連れ出したのは荒れ野で死なせるためか」と、イスラエルの民は絶望の声をあげることしかできません。 私たちの信仰生活にも、このような危機的状況が訪れる可能性があります。そのようなとき、私たちはどうしたらよいのでしょうか。進むべき道がすべて閉ざされているような現実に出会うとき、私たちにできることがただ一つ残されています。それは神の御言葉に従う道です。私たちの目に今は進むべき道が見えなくても、神は私たちのために道を準備し、その道を聖書の言葉を通して示してくださるからです。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリ10章13節)。 私たちには、どのようなときも、この神の御言葉に従う道が残されています。神の御言葉が必ず私たちが歩む道を開いてくださいますから。 Sun, 29 Jul 2018 00:10:00 +0000 天の国の秘密を人びとに(マタイによる福音書 13章31-33,44-52節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180729 no 2018 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」 (マタイによる福音書13章44節) 主イエスは「天の国は…に似ている」と、さまざまな比喩を用いて言われました。 天の国は、「からし種」のように極めて小さく始まりますが、その結果はとても大きな御国になります。天の国の力は、小さな「パン種」の力によってパン全体が大きく膨れるようなものです。天の国は小さく隠されていますが、建て上げる力と影響力は思いもよらないほど大きな結果をもたらします。 私たちはそのような天の国にある現在と未来との間の緊張感に生きていきます。その緊張感は、私たちの生き方に関わるすべてを主なる神に譲り渡す姿にあらわれます。すべてを神に明け渡して生きる姿こそ、「畑に宝が隠されているのを見つけた人」の姿であり、「商人が高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払う」姿として語られるものです。 私たちは、この世で天の国の喜びに生きます。そう生きるからこそ、世の終わりに悪い者たちのように燃え盛る炉の中に投げ込まれることはありません。主イエスは、私たちにこの天の国の秘密を人びとに教え、伝えなさいとおっしゃっています。 Sat, 28 Jul 2018 00:10:00 +0000 受け継がれた信仰(出エジプト記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180728 no 2018 「あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。」 (出エジプト記13章8節) 以前、中国の東北部にある朝鮮人教会を訪れた方から聞いた話を思い出します。 一人の脱北者男性がその教会で洗礼を受けました。その男性は母親を亡くした後に、その母親の遺品の中から大事にしまわれていた聖書と賛美歌を発見したと言うのです。現代でも北朝鮮ではキリスト教の文書を持っているだけで強制収容所に送られる可能性があります。その危険を冒してまで母はなぜ、聖書と賛美歌を大切に持っていたのだろうか。男性はその秘密を知りたくなり、命がけで脱北し、中国にあるその教会で聖書を学び、自分も母親と同じ信仰を得ることになったと言うのです。 おそらくその母親は、生前には自分の信仰について何も家族に語ることができなかったのでしょう。しかし、その母親は自分の聖書と賛美歌を棄てることなく、大切に守りぬくことでその信仰の遺産を息子に伝えることができたのです。 彼女は聖書を遺すことで、信仰を次の世代に告げました。私たちも与えられた時のなかで聖書の御言葉に耳を傾けることを通して、信仰を家族に残して参りましょう。 Fri, 27 Jul 2018 00:10:00 +0000 時間と余裕はどこから得られるのか(出エジプト記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180727 no 2018 エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。」 (出エジプト記12章1節~2節) 忙しい毎日、頭を悩ませるさまざまな問題。朝起きた瞬間から、私たちの脳裏にはきょうしなければならない仕事が浮かんできて離れません。「忙しいので聖書を読む時間さえありません」。「余裕がなくて教会にも出席できません」。それは単なる言い訳ではありません。本当に私たちの毎日は忙しいのです。しかし、それなら、いつ私たちの生活に聖書を読む時間が与えられるのでしょうか。いつ教会に行く余裕ができるのでしょうか。 神はイスラエルの民が守るべき祭りの規定を細かく指示されました。それはその祭りを通して、彼らも彼らの子孫たちも生ける神の力を受けることができるためです。困難に勝利する力を神からいただくことができるためです。 私たちが聖書を読むこと、教会の集会に出席することは、忙しい私たちの生活のために神の助けを受ける大切な時間です。私たちはそこで神のすばらしい御業を思い出し、心に刻むことで、忙しい毎日から解放され、余裕のある人生を送ることができるのです。神が、私たちに新しい始まりを与えてくださいます。 Thu, 26 Jul 2018 00:10:00 +0000 出発への準備(出エジプト記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180726 no 2018 「あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」 (出エジプト記11章2節) わたしの亡くなった母はかなりの心配性でした。わたしが遠足や旅行に出発する前夜になると、「これもあれも必要だ」と言ってさまざまな品物をわたしのリュックに詰め込んでいきます。おかげでわたしのリュックはいつも満杯状態で、運ぶのも容易ではありませんでした。結局、母の心配のほとんどは取り越し苦労に終わり、使わないままたくさんの荷物を背負って持ち帰って来ることになりました。わたしの旅行かばんが今でも大きなものになってしまうのは、この母の影響によるものかもしれません。 私たちの日ごとの信仰生活は私たちが神の御許に向かう旅であると言えます。私たちはこの旅のために本当に必要なものを備えることができているでしょうか。私たちは旅に不必要なものをたくさんかばんに貯め込んで、身動きのできない状態になってはいないでしょうか。 きょうも新しい一日が始まります。神は私たちにこの日も信仰の旅路に必要なものを備えてくださいます。あなたに本当に必要なものは何でしょうか。神の備えに期待して、安心して歩み出して行きましょう。 Wed, 25 Jul 2018 00:10:00 +0000 人びとの頑迷と神のしるし(出エジプト記 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180725 no 2018 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、…わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」 (出エジプト記10章1節~2節) 「ファラオを頑迷にしたのは主ご自身だ」と言われているのは、「だからファラオには罪がない」と言う意味ではありません。これはファラオの犯した罪さえも用いて救いの歴史を導かれる神の御業の確かさを表しています。主イエスを十字架につけたのは頑迷なユダヤ人の仕業でしたが、神の救いの御業がその出来事を通して成就したことも、これと同じです。 人には「今までと同じであればよい」と考え、変化を恐れ、頑迷になる傾向があります。ファラオは自分と自分の周りに起ころうとする変化を恐れて頑迷になりました。私たちにとって大切なことは、救いの歴史を導かれる神を信頼すること、そして自らが頑迷になって罪を犯すことがないように、日々神の前で悔い改め続けることだと言えます。 神はきょうも救いの御業を私たちの生活を通して前進させてくださいます。ですから、私たちも変化を恐れて頑なになるのではなく、神を信頼して新しい一日を歩み始めたいと思うのです。 Tue, 24 Jul 2018 00:10:00 +0000 残された命と神からの使命(出エジプト記 7-8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180724 no 2018 ファラオに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった。 (出エジプト記7章7節) 安政5年11月、西郷隆盛は、かねてから親交のあった尊王攘夷派の僧侶月照と共に鹿児島の錦江湾で入水自殺を遂げようとしました。安政の大獄によりその命を狙われていた友人月照の命を助けるために、西郷の故郷であった薩摩まで逃れて来た二人でしたが、薩摩藩は幕府を恐れて月照を保護することを拒否してしまいます。そこで西郷は月照と共に自分の命を絶つことを決心し、二人は海に身を沈めました。ところが亡くなったのは月照だけで、西郷は奇跡的に命を取り留めます。自分だけ生き残った西郷は、「どうして自分だけが生き延びてしまったのか」と苦悶します。やがてその苦しい体験から、西郷は「自分が生き延びたのは、自分が世で果たすべき使命が残されているからだ。自分の使命が終わるとき、自分の天命は全うされる」と考えるようになったと言います。 私たちがこの世に生かされているのは無意味なことではありません。モーセたちも高齢になってから使命を与えられました。神から与えられる使命が残されているからこそ、私たちはきょうも生かされているのです。 Mon, 23 Jul 2018 00:10:00 +0000 誰も聞いてくれなくても……(出エジプト記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180723 no 2018 モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」 (出エジプト記6章12節) イスラエルの民は重労働のために、モーセが伝える神のメッセージに耳を傾けることができませんでした。 私たちも、神の福音を人びとに伝えようとするとき、同様の体験をすることがあります。人びとは自分の生活を維持するために懸命に働いています。彼らは自分の生活に直接に影響を与えるようなニュースには耳を傾けることができても、聖書のメッセージには全く耳を貸そうとしないのです。 「誰も私の言うことなど聞いてくれない」。私たちもモーセと同じような嘆きの言葉を口にしたくなります。 それでも、私たちは福音のメッセージを語り伝えるべきです。なぜなら、人の耳を開いて福音を聞くことができるようにしてくださるのは神の御業であって私たちの能力ではないからです。だから、私たちは福音を伝え続けます。そして、神ご自身が人びとの心を開いて、福音を聞くことができるようにしてくださいます。もし私たちが忠実に神の福音を宣べ伝えることに励むなら、私たちもまた神の大いなる業の目撃者となれるのです。 Sun, 22 Jul 2018 00:10:00 +0000 「主の日」まで耐えながら(マタイによる福音書 13章24-30,36-43節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180722 no 2018 「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 (マタイによる福音書13章41節~43節) 今、世の中に御国が成し遂げられつつあります。しかし、麦と毒麦のたとえのように、世にはなおも御国の子らと悪い者の子らとが共に混じり合いながら生きています。両者が区別されるのは主イエスが再び来られる時、主の日です。ですから、信仰者には、世の中で生きる悪い者の子らに対する忍耐が必要とされます。 また知恵も求められるべきです。信仰者は、この世で悪い者たちが早くいなくなるように求める、といった態度をとるべきではありません。主イエスが収穫される主の日まで、悪に忍耐し、隣人を赦して生きるのです。 キリストの体である教会がこの世の中で完全に支えられるために信仰を固く守りましょう。主の民として生きる兄弟姉妹、一人ひとりが同じ信仰告白の内で生きることができるように助け合いながら歩みましょう。ただ主なる神の教えに従い、信仰に固く立って忍耐し、主の日を待ち望みましょう。 その日が来ると、御国の子らである私たちは悪い者の子らである不法を行う者と明らかに区別されて、「その父の国で太陽のように輝く」のです。「耳のある者は聞きなさい」。 Sat, 21 Jul 2018 00:10:00 +0000 悪い結果に出会ったときに(出エジプト記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180721 no 2018 「わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」 (出エジプト記5章23節) 多くの犠牲を払って神に従う決心をしたのに、結果は思った通りのものではなかった。むしろ、状況は以前よりもますます悪くなったように思える。信仰生活を続ける中でそのような思いにさせられるときがあります。そのとき私たちはどうしたらよいのでしょうか。そのような事態になった原因を調べて、二度と同じ失敗をしないようにと考えることも大切です。 しかし、私たちが用心しなければならないことは、物事の結果だけを見てすべての評価をくだしてしまうことです。「結局、無意味だった」と結論づけて神に従うことを止めてしまうことです。私たちの信仰生活にとって大切なことは、自分の思い通りの結果が実現することではありません。むしろ私たちが神に従うことができたかどうかが大切なのです。 モーセの行動によって、イスラエルの民の状態はますます悪くなってしまったように思えました。モーセはそのことのゆえに神に不満を漏らします。しかし、モーセは結果だけを見て神に従うことを止めてしまうことはありませんでした。 Fri, 20 Jul 2018 00:10:00 +0000 神を見るのか自分を見るのか(出エジプト記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180720 no 2018 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」 (出エジプト記4章13節) 自分を顧みることを忘れる人は同じような失敗を繰り返します。ですから私たちが人生で自分を見つめることは大切なことかもしれません。しかし、もし私たちが自分ばかりを見つめて毎日を生活していたらどうなってしまうでしょうか。 日本のキリスト教思想家として有名な内村鑑三も、若かりし頃、弱い自分を見つめることで絶望した毎日を送っていました。その内村にアマースト大学の学長だったシーリーは語りました。「君は自分ばかりを見つめているからいけない。十字架に掛けられた救い主を見上げて生きなさい」。 モーセはイスラエルの民を導くリーダーとして神に選ばれながらも、その召しに応えようとしませんでした。それは彼が自分だけを見つめていたからです。 私たちはきょう、何を見つめて生きようとしているのでしょうか。失敗だらけの自分の過去や自分の弱さだけを見つめて絶望していないでしょうか。私たちも自分だけを見つめることを止めて、十字架の主を仰ぎ望むなら、人生を生きる新しい勇気が与えられるはずなのです。 Thu, 19 Jul 2018 00:10:00 +0000 神の約束を忘れてはならない(出エジプト記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180719 no 2018 「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 (出エジプト記3章10節) メーテルリンクの童話『青い鳥』の主人公チルチルとミチルは幸せの青い鳥を捜す旅に出発します。しかし、彼らはその旅では青い鳥を捕まえることができませんでした。実は青い鳥は彼らの家の鳥かごに最初からいたのです。彼らはそれに気づかなかっただけでした。 幸せを求めて生きる私たちも同じような勘違いをしているのかもしれません。本当の幸福はもっと身近に、自分が忘れてしまったところに存在するのかもしれないからです。 エジプトから逃れて来たモーセはミディアンの地で家庭を設け、羊飼いの仕事をしながら幸福な毎日を送ろうと願っていました。ところが神はそのモーセをイスラエルの民を救い出すために働く指導者として選び出します。神はモーセが幸せになるためには、忘れられていた神の約束を思い出し、その約束に生きる必要があると教えられたのです。 私たちはどこに自分の幸せを見つけ出そうとしているでしょうか。あなたは神の約束を忘れてはいませんか。あなたの目の前にある神の約束を、です。 Wed, 18 Jul 2018 00:10:00 +0000 変化を求める神(出エジプト記 1-2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180718 no 2018 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。 (出エジプト記1章8節~9節) 私たちは変化を恐れています。だから、きょうも昨日と同じような日になればよいのにと思って新しい日を始めようとします。明日もきょうのような日が続けばよいと願って寝床に入ります。それは毎日幸せを実感している人だけが考えることではないかと、反論するかもしれません。しかし、私たちは、たとえ不都合な毎日を送っていたとしても、変化するより現状を維持することのほうが安全だと考えてしまいます。変化には勇気が必要だからです。 イスラエルの民はエジプトでの生活にすっかり慣れ親しんでいました。エジプトで変わらない毎日を送れるなら、それにこしたことはないと思っていたのです。しかし、彼らの願いを打ち砕く出来事が発生します。ヨセフのことを知らない新しい王の出現です。このため、イスラエルの民はこれまで通りの生活をすることができなくなっていきます。彼らは変化しなければならなくなりました。そして、それは同時にイスラエルの民に変化を求める神の御業でもあったのです。 神は、きょうを生きる私たちをも変えてくださるでしょう。 Tue, 17 Jul 2018 00:10:00 +0000 主に結ばれている者らしく(ローマの信徒への手紙 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180717 no 2018 どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。 (ローマの信徒への手紙16章2節) ローマの信徒への手紙を読んできました。いよいよ最後の章です。一人で読む時、この16章を読み飛ばしてしまうことはありませんか。最後まで丁寧に読んでみましょう。パウロが繰り返し「互いを愛し、受け入れよ」と言ったのが決して机上の空論ではなかったことが、この章に上がっているたくさんの名前を見るとはっきりとわかります。 まず、女性の名前が多く出てきます。フェベ、プリスカ、マリア、トリファイナ、トリフォサ、ペルシス、ルフォスの母、ユリア、ネレウスの姉妹といった人たちです。それから、見分けがつきにくいですが、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人の名前が入り混じっています。また、「アリストブロ家の人々」、「ナルキソ家の中で主を信じている人々」とあるのは、その家の奴隷たちであると考えられています。身分の高い者、低い者がいたわけです。親子もいます。世代の違う者がいたわけです。 パウロは「訪問する者はだれかれとなく歓迎し」た(使28章30節)とありますから、本当にあらゆる人を主にあって受け入れて福音を宣べ伝えたのです。 Mon, 16 Jul 2018 00:10:00 +0000 互いに相手を受け入れるために(ローマの信徒への手紙 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180716 no 2018 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 (ローマの信徒への手紙15章7節) 自分と違う相手を受け入れることがどれほど難しいことか、主イエス・キリストはよくご存じです。「神」が「人」を受け入れる。これほど大きな違いを主イエス・キリストは乗り越えて、私たちを受け入れてくださいました。これほどの愛を示してくださったのに、人間同士が互いを受け入れられないとは、神の悲しみはいかばかりかと思います。 互いを受け入れるためには忍耐が必要です。主がどれほど私たちに忍耐してくださっていることか。聖書はそれを示しています。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。聖書を読み続ける意義はここにあります。 「強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」とあります(1、2節)。 さあ、自分の満足ばかり求めてしまうこの心を、主に明け渡しましょう。きょう出会う一人一人に善を行って喜ばせましょう。互いに平和に過ごしましょう。 Sun, 15 Jul 2018 00:10:00 +0000 福音の実を結ぶために(マタイによる福音書 13章1-9,18-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180715 no 2018 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである。」 (マタイによる福音書13章23節) 御国の福音は、時には盛んな歓迎を受けますし、時には人々から拒まれたり、退けられたりもします。 福音を聞いても関心がない人がいれば、自分の外から来る圧迫に屈したり、世のことに心が引っ張られて、福音に対し否定的反応を示す人もいます。他方で、福音の実を結ぶ人もいます。福音伝道の効果は、福音を拒んで生きる多くの人びとにではなく、小さな群れであっても、福音に真実な心で反応する人びとにあらわされます。そして、そのような信じる人びとの福音は、やがて百倍、60倍、30倍の実を結びます。 この事実は、今日の教会における希望であり、慰めです。また、それは私たちが絶え間なく福音を伝える理由になります。誰にでもイエス・キリストが紹介されなければいけません。また逆に、たとえ信仰者であっても、外部からの圧迫や内部からの誘惑によって福音の実を結ぶことに失敗する人もいます。ですから、福音の実を結ぶために、自分の信仰を徹底的に確認し、主イエスへの真の忠誠心を持っているかどうか、常に福音に対する自分の反応をチェックするべきです。 Sat, 14 Jul 2018 00:10:00 +0000 互いに裁き合わないようにしよう(ローマの信徒への手紙 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180714 no 2018 神の国は、…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 (ローマの信徒への手紙14章17節~19節) どうして私たちは互いに比較して、自分と考え方や習慣の違う者をなかなか受け入れることができないのでしょうか。それはきっと自分を中心にして判断してしまうからです。 折りにふれ、自分の心に聖霊は宿っているのだろうかと思います。聖霊によって清められていれば、私たちの心は義と平和と喜びに満たされるはずなのに。 主のご命令は、人を裁くな、互いに愛し合いなさい、ということでした。人を裁きたがる私たちの性質は、善悪を知る木の実を食べたことによるものであり、これが原罪です。主イエス・キリストの贖いによって、私たちはこの罪から救っていただいたはずではありませんか! 何故なおこの罪にとどまるべきでしょう。人を裁きたがる思いを、人を愛することより先行させてはなりません。 パウロはかつて批判する者、迫害する者でした。しかし「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言い、自分と違う人を受け入れる者へと変えられました。主のために生きるなら、変われます。神が変えてくださるのですから。 Fri, 13 Jul 2018 00:10:00 +0000 だれに対しても(ローマの信徒への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180713 no 2018 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 (ローマの信徒への手紙13章8節、10節) 思い上がることをやめ、自分が見下している者を受け入れ、愛することを教えられてきました。では自分より上の者、支配者に対してはどうでしょうか。 支配者が同じ信仰者でないときには、1節の「今ある権威はすべて神によって立てられたもの」、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」という言葉に戸惑うでしょう。しかし、「神によって立てられた」と信じるからこそ、その支配者のことを神に委ねられるのではないでしょうか。 13章と同じことがペトロの手紙でも言われています。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。…皇帝であろうと、…総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(1ペト2章13~17節)。 だれに対しても善を行うことが神の御心だと言われています。そうありたいと願います。 Thu, 12 Jul 2018 00:10:00 +0000 思い上がらないために(ローマの信徒への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180712 no 2018 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 (ローマの信徒への手紙12章2節) 12章から愛が説かれていきます。異邦人キリスト者が神の選びを誤解して、ユダヤ人を見下さないようにするためです。11章で思い上がってはならない、と教えられました。そのためにこの章では、「わきまえよ」と教えられます。何が神の御心か、何が善いことか、何が神に喜ばれることか、何が完全なことかをわきまえよ、と。 「完全なこと」とは、全きことという意味です。神はつねづね「全き者となれ」と命じておられます(創17章1節、申18章13節、マタ5章48節他)。それは、神に従うことにおいて、自分の思いは一切捨てて全き者であれ、ということです。 「善いこと」、「神に喜ばれること」とは、「互いに愛し合うこと」に尽きます。ユダヤ人に対する思い上がりに対しては「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と言われています(10節)。「聖なる者たちの貧しさ(気落ち、暗い心、病、嘆き)を自分のものとして彼らを助け…なさい」とも言われます(13節)。主よ、私たちの中の一切の思い上がりを打ち砕いてください。 Wed, 11 Jul 2018 00:10:00 +0000 思い上がってはならない(ローマの信徒への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180711 no 2018 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。…ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。…神の慈しみと厳しさを考えなさい。…もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 (ローマの信徒への手紙11章18節~22節) 「ユダヤ人は聖書をあれほどよく知っているのに、なぜイエスをメシアだと信じないのか」という批判をしばしばキリスト者の口から聞きます。そういう意識に対して、「思い上がってはならない」と戒められています。パウロの時代から今に至るまでなくなることのない、非常に強い見下しの罠がここにあります。 イエス・キリストによる神の救いは旧約聖書に記されている預言の成就である、と受け入れられるのは、まったく神の恵みによることです。ユダヤ人が正確に聖書の一言一句を保存してきました。過酷な歴史のなかでユダヤ人たちが世界各地に散らされて、聖書の言葉とその理解は伝えられていきました。私たちの聖書理解はこれによって支えられてきました。「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(18節)。 パウロは、何とかしてユダヤ人を救いたいと言います(14節)。それ以上に神が、「すべての人を憐れむため」、秘められた計画を御心のままに進めておられます(32節)。思い上がりに対して、神は厳しく臨まれます。神の慈しみにとどまりたいものです。 Tue, 10 Jul 2018 00:10:00 +0000 信仰は聞くことによる(ローマの信徒への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180710 no 2018 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 (ローマの信徒への手紙10章17節) 信仰は人間の内なる何かによって生み出されるのではありません。人間が積み上げる功績や、何かの宗教体験によって生じるのでもありません。信仰はキリストから来ます。キリストが私たちに近づいてくださる。そのキリストを信じ、受け入れることが信仰です。 そして神は、罪人を救う救いの手段、またご自身と人間との交わりの手段として、言葉を用いることを御心とされました。それゆえ、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」のです。 「聞くこと」とは、キリストを説教する言葉を聞くことです。礼拝においてキリストを証しする書である聖書が朗読され、説き明かされる。このキリストの言葉、キリストを語る説教を聞くことによって、人は信仰へと導かれるのです。 さらに、聞くことは生きることとひとつに結びついています。キリストの言葉を信じ、生きる者は「永遠の命を得」、「死から命へと移っている」のです。「今やその時」、「その声を聞いた者は生きる」のです(ヨハ5章24、25節)。 Mon, 09 Jul 2018 00:10:00 +0000 神のはからい(ローマの信徒への手紙 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180709 no 2018 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。 (ローマの信徒への手紙9章18節) パウロは異邦人伝道のために召された人でした。そのパウロが目の当たりにしていたのは、異邦人たちがキリストを信じ、受け入れている一方で、イスラエル人たちが福音を拒んでいるという現実でした。神の選びの民がキリストを拒絶するなどということがなぜ起こるのか。これは深刻な問いであったのです。 人間の思いを越えた神の御心、人の意志や努力によらない神の自由な恵みを知ろうとするなら、人間的な考えから離れなければなりません。つまり、神の言葉に聞くほかはありません。この事柄について、聖書は何と言っているでしょうか。 神はくすしいご計画により、あえて選びの民をかたくなにされたのです。キリストを十字架につけたことは、もちろんイスラエルの罪です。しかし、もしもイスラエルがキリストを十字架につけなかったとしたら、人類を罪と死の支配から解き放つ神の救いの御業が成し遂げられることはありませんでした。神の大いなる憐れみが世に示されることはなかったのです。神は私たちの思いを越えて、しかし確かに、私たちに憐れみを与えてくださるお方です。 Sun, 08 Jul 2018 00:10:00 +0000 福音によって踊るように(マタイによる福音書 11章16-19,25-30節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180708 no 2018 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 (マタイによる福音書11章28節~30節) 主イエスが福音の「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」人たちがいました。それは、御声に反応しなかった人びとの姿を描いています。ユダヤ人は自分たちの伝統に縛られて、真の知恵者イエスのお招きを拒んでしまいました(11章25~27節)。 主イエスは、いつも「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と人びとをお招きになります。その招きは単に聖書について学ぶことではなく、その御言葉を語られた主イエスご自身との人格的な関係への招きです。ですから、主イエスの招きは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。私たちはただ主イエスの内で真の休みを享受して、主イエスとの人格的関係の内で生きるものとされています。主イエスに従う軛は負いやすく、主イエスから与えられるキリスト者の荷は軽いからです。 私たちは福音の時代に生きています。しかし、伝統や民族文化や世の常識に縛られて、真の安息を知らずに生きる人びとがいます。この方たちが主イエスの内で休めるよう、福音を伝えて歩みましょう。 Sat, 07 Jul 2018 00:10:00 +0000 勝利の歌(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180707 no 2018 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 (ローマの信徒への手紙8章38節~39節) 私たちを神の愛、キリストの愛から引き離そうとするこの世のもろもろの力が存在します。しかし、それらの力のすべてを結集しても到底及ばない絶大な力があります。それは、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された」神の愛の力です。 人間の根本問題は、いかにして死に打ち勝つ命を得るかということです。パウロがここで並べている諸力は私たちを命の神から引き離そうとするもろもろの力です。罪の力、死の力です。 しかし、神の愛は罪に勝利し、死を滅ぼし、罪人に命をもたらす力として働きました。神は私たちに生きよと仰せになり、私たちのために絶大な命の力を、あの十字架の上でふるってくださったのです。キリストは十字架の上で罪と死に勝利された、その勝利がそのまま私たちにもたらされたのです。 それゆえ、私たちに死をもたらそうとするいかなる力も、今や私たちを神の愛から引き離すことはできません。この勝利の歌は、私たちの歌です。この歌をうたい続けることがゆるされる人生とは、いかに幸いなことでしょうか。 Fri, 06 Jul 2018 00:10:00 +0000 人間の惨めさ(ローマの信徒への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180706 no 2018 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 (ローマの信徒への手紙7章24節) パウロはここで、人間の本来的な惨めさについて語ります。それは、自分の望む善を行わず、望まない悪を行っているとの自己矛盾、自己分裂の中に身を置いていることの惨めさです。自分のうちに罪が住み着いている。生まれながらに罪の法則に支配されている。だから善を願いつつ、反対に悪を行ってしまう。そういう自分をどうすることもできないことの惨めさです。 この罪の問題は、「法則」と呼ばれる以上、パウロひとりの問題ではありません。アダムの子孫である全人類の問題です。パウロとともにすべての人間がこの叫びを叫ばねばならないのです。 パウロは、だれがこの死の体から自分を救い出してくれるのかと叫びます。すべての人間をこの惨めさから救い出してくださるお方はただおひとりです。第二のアダムすなわちイエス・キリストです。パウロはあのダマスコ途上で、そのお方と出会い、死から命に移されました。聖書を通して、私たちもそのお方と出会うのです。パウロがその生き方を変えられたように、私たちも変えていただくのです。 Thu, 05 Jul 2018 00:10:00 +0000 新しい命(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180705 no 2018 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 (ローマの信徒への手紙6章4節) キリストにある新しい命とは、キリストに結ばれた命です。洗礼によって人はキリストに合わせられ、文字どおり一つに結ばれます。 まず最初に、それはキリストの死にあずかることです。キリストが十字架の上に死なれ、墓に葬られたように、私たちの古い人、第一のアダムもキリストとともに死に、葬られたのです。第一のアダムは第二のアダムの恵みの力により、息の根を止められたのです。罪のわたしはそこで死んだのです。 次に、それはキリストの復活にあずかることです。キリストが死者の中から復活させられたように私たちも新しい命によみがえり、罪と死の支配から完全に解き放たれた新しい人間として生き始めるのです。 御子を信じる者たちは、御子の死と命にあやかります。御子を信じる者たちは、今や死から命へと移っています。死ぬことのない永遠の命、新しい命を生きる祝福を分け与えられています。それは御子をよみがえらせた全能の神の恵みによることです。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(23節)。 Wed, 04 Jul 2018 00:10:00 +0000 第二のアダム(ローマの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180704 no 2018 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 (ローマの信徒への手紙5章15節) 最初の人間、全人類の代表、典型的人間、まさに「人間」そのものであるアダムから、罪と死が人類に入りました。しかし、聖書はもうひとりのアダム、すなわちキリストについても語ります。救いの秘義があきらかにされます。この第二のアダムが、人類を罪と死から救い出したのです。 第二のアダムの到来により、死はその意味を大きく変えられました。第二のアダムはまさに転換点です。滅びから救い、死から命への転換点です。第二のアダムにより、私たちは罪と死の支配から救い出されました。自分自身の救いに関して、私たちは指一本触れていません。触れることができません。独り子を十字架に死なせる神の愛によって、人は救いを受けるのです。 「恵みの賜物は、罪とは比較になりません」。第一のアダムにある死の支配と、第二のアダムにある命の支配とは比較になりません。神の力、神の愛と赦しと命の力は、罪と死の力をはるかに凌駕するのです。神の命が人の死を圧倒するのです。この神の命が、私たちのうちにきょうも輝いています。いつまでも輝き続けます。 Tue, 03 Jul 2018 00:10:00 +0000 復活信仰(ローマの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180703 no 2018 死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。 (ローマの信徒への手紙4章17節) 復活信仰とは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じる信仰です。すなわち、罪と死の支配の中ではじめて生き生きと働く信仰です。信じる者が無一物になってはじめて、圧倒的な力で支える信仰です。 私たちはこの世にあって、さまざまなものに依り頼んでいます(地位や富、家庭や職場、健康等)。しかし、世と世のものは過ぎ去ります。復活信仰は、私たちがおのおのの大切なものにしがみつき、それらのものを土台としているうちはわからないでしょう。裸になって、無一物になってはじめて永遠なる神と向き合い得るということがあるでしょう。そこでこそ神の御顔がはっきりと見え、命と救いの問題が根本的なしかたで掘り下げられるということがあるでしょう。 アブラハムは裸になって神と向き合い、信仰とは人間を贖い、赦し、よみがえらせ、永遠の命に生かす神の力に依り頼むことであるとの事実を身をもってさし示しました。彼は私たちの信仰の父です。彼が得た義は、復活の主イエスへの信仰により、私たちにももたらされるものです。 Mon, 02 Jul 2018 00:10:00 +0000 贖いの恵み(ローマの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180702 no 2018 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 (ローマの信徒への手紙3章23節~24節) イエス・キリストは罪なきお方でした。そのお方が十字架につけられて死なれました。十字架は罪の刑罰です。罪なきお方が罪の刑罰を受けられた。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。 イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって、十字架の上で尊い血潮を流されました。神の子キリストは私たち罪人のひとりに数えられ、私たちの罪の現実のただ中に入って来られました。そして私たちの死をその身に引き受け、死なれました。 キリストの死は、私たちのための贖いの死でした。罪の代価を支払うべきは、本当は私たち自身のはずでした。しかし、神は私たちを憐れみ、愛する独り子を十字架に死なせ、自らこの尊い代価を支払ってくださったのです。 独り子を死なせるほどの愛。この神の愛ゆえに、私たちは罪と死の牢獄から釈放され、自由の身となったのです。ここに命があり、ここに救いがある。天来の言葉、すなわち、天から語られる言葉に教えられることによってのみ、私たちはこの恵みの真理に至るのです。 Sun, 01 Jul 2018 00:10:00 +0000 主イエスを拒んでいる世に福音を(マタイによる福音書 10章40-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180701 no 2018 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」 (マタイによる福音書10章42節) 主イエスは、ご自分が派遣された弟子たちを受け入れることは、主イエスを受け入れることであり、主イエスご自身を受け入れることは、主イエスを遣わされた主なる神を受け入れることであると言われました(40節)。その受け入れ方から考えると、弟子たちがキリストと一体になるというのはとてもすばらしい奥義です。 福音伝道におけるこの一体の原理は、この後にも、印象的に示されます(25章31~46節)。このすばらしい宣言は、人びとから拒まれても耐えながら福音を宣べ伝える弟子たちにとって、限りない励ましになったことは明らかです。そして、主イエスは、そのような弟子たちを受け入れる人びとに「報い」を与えられると約束されました。冷たい水一杯を飲ませる行為さえ主イエスから報いを受ける、と言われました。 これは、主なる神の報いが人びとの期待とは比較することができないほどの恵みである、ということです(25章37~39節)。主イエスを拒む世に福音を絶え間なく伝えることは、それが取るに足りない小さなものでも、私たちにすばらしい報いが与えられるのです。 Sat, 30 Jun 2018 00:10:00 +0000 ユダヤ人も、異邦人も(ローマの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180630 no 2018 神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 (ローマの信徒への手紙2章11節~12節) すべての人は、最初の人アダムにあって生まれながらに罪人です。ユダヤ人であっても、私たちのような異邦人であっても、その事情は変わりません。 神は私たちをご自身のかたちに似せて造られ、生まれながらにご自身の律法を心に刻みつけてくださいました。だれもが心に良心の呵責を感じるのはそのためです。それゆえ、異邦人であっても、律法を知らなかったために罪に誘われてしまったとの弁解は成り立ちません。 神の選びの民であるユダヤ人には、とりわけ神の御言葉としての律法を知る特権が与えられていました。しかし彼らは、その律法の規定を自力で守り行うことによって自分を救い得るとの誤解に陥り、律法を守り得る自らを誇り、守り得ない者たちを裁きました。律法を神の恵みとして受け取るのではなく、自己正当化の道具としてしまったのです。 異邦人であれ、ユダヤ人であれ、それぞれの仕方で神の前に自身の罪をあらわにします。そして、そのことが、イエス・キリストの贖いの恵みによるほか救いはないことを証ししているのです。 Fri, 29 Jun 2018 00:10:00 +0000 神の義(ローマの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180629 no 2018 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 (ローマの信徒への手紙1章17節) 「福音には、神の義が啓示されている」と言われます。長く隠されていた神の救いの秘義、イエス・キリストの十字架の御業が福音によって明らかにされたからです。 「啓示される」と受身の形で言われています。つまり神の義とは人間がみずから獲得しなければならない義ではなく、神が人間のために勝ち取ってくださった義です。 律法に従い通され、十字架に死なれ、贖いの御業を成し遂げられた御子を、御父は義と認められました。この御子の義が、無力な罪人にそのままプレゼントされたのです。上等の上着を着せるようにして、神はご自身の義を私たちにまとわせてくださいました。それを、あたかも私たち自身が勝ち取った義であるかのように見なしてくださったのです。 この真に価値ある義を信じ、受け入れる信仰により、私たちは義と認められ、罪赦され、救われます。人間の救いのために神が働き、神がすべてを成し遂げてくださったのです。 信仰による義。恵みによる救い。これが聖書に啓示されている救いの真理です。永遠不変の真理です。 Thu, 28 Jun 2018 00:10:00 +0000 わたしは立ち上がる (詩編 12編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180628 no 2018 主は言われます。 「虐げに苦しむ者と 呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」 主の仰せは清い。 土の炉で七たび練り清めた銀。 (詩編12編6節~7節) この詩人は、当時の世相を嘆いています。「誠実な人がいなくなってしまった。みんなが平気で嘘をつき、その滑らかな舌で人を操ろうとする。もう信仰のある人はいなくなってしまった」と(2~5節参照)。それに対して、神はおっしゃいます。「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」と。 私たちが生きている今の世界も、この詩人が嘆いている世界と、そう大差ありません。私たちも理不尽な苦しみを受け、うめき、その中で、あえぐようにして神に救いを求めています。それに対して神は答えてくださいます。「わたしは立ち上が」る、と。 これは、その場しのぎの無責任な言葉ではありません。この詩人は、この言葉に励まされて歌いました。「偽りの言葉が氾濫する中にあって、主の言葉だけはどこまでも純粋で、主の炉の中で七たびも練り清められた銀のようだ」(7節参照)。神の言葉には決して偽りがありません。「わたしは立ち上が」るとの主の言葉は信頼できるのです。それゆえ、希望を持って歩んでいきましょう。 Wed, 27 Jun 2018 00:10:00 +0000 主は避けどころ(詩編 11編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180627 no 2018 主を、わたしは避けどころとしている。 主は聖なる宮にいます。 主は天に御座を置かれる。 御目は人の子らを見渡し そのまぶたは人の子らを調べる。 (詩編11編1節、4節) この詩人の周りには、どうやら政敵が多くいたようです。命をつけ狙う者も、彼の心を惑わす者もいたのでしょう。あるとき、彼を惑わす者が言いました。「お前は無力なのだから、もう諦めて逃げればよいではないか」と(1~3節参照)。 この言葉は、彼の心を乱すものでした。けれども、この詩人は気を取り直して言いました。「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる」と(4節)。 神は、天の王座からすべての人の心の中を見通し、どんな陰謀をも見破られます。そのお方が私たちの安全地帯、避けどころとなってくださるのです。こんなに心強いことはありません。 もちろん、神は私たちの心の中をも見抜いておられます。しかし今や、御子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちは自らの罪を示されつつも、大胆に神の御前に進み出ることができます。ですから、自分自身の力の弱さのゆえに怖じ気づくのではなく、すべてを主に委ねて、勇気をもって世に出て行きましょう。 Tue, 26 Jun 2018 00:10:00 +0000 神は必ずご覧になる(詩編 10編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180626 no 2018 あなたは必ず御覧になって 御手に労苦と悩みをゆだねる人を 顧みてくださいます。 不運な人はあなたにすべてをおまかせします。 あなたはみなしごをお助けになります。 (詩編10編14節) この詩人は、「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と訴えます(1節)。悩みの中で祈ったときに、何の答えもなかったからです。私たちも、祈るときに何の答えもなく、神が祈りを聞かれていないように感じることがあるのではないでしょうか。 この詩人は、神が正しく裁いて答えてくださらないゆえに、神に逆らう者が高慢になり、神を侮り、「罰などはない、と心に思う」と、不平を口にします(13節)。しかし、思い直して、続いてこう歌うのです。「あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます」と(14節)。神は、苦しむ私たちをじっと見つめ、顧みてくださいます。必ずや救いの御手を差し伸べてくださるのです。 主イエスも、あるときおっしゃいました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と(ルカ18章7節)。神はあなたのことをいつまでも放っておかれません。神は必ずあなたのことを、じっと見守っていてくださいます。 Mon, 25 Jun 2018 00:10:00 +0000 見捨てられない(詩編 9編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180625 no 2018 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。 あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。 (詩編9編11節) この詩人は、窮地に立たされています。彼には敵がおり、その敵は、「わたしを憎む者」「異邦の民」「神に逆らう者」と言われています。彼はそのような人びとからさまざまな攻撃を受けて、苦しめられているのです。 しかし、彼にはかつて主が敵を打ち倒してくださった経験がありました。主が御顔を向けることで、「敵は退き、倒れて、滅び去った」のです(4節)。それゆえ、彼には「主」に対する絶大な信頼がありました。主を求める人が見捨てられることは決してない、と。 悪者がのさばり、不正がまかり通る世の中です。しかし、そのような中でも、私たちは平安にとどまることができます。神が正義の審判者として君臨しておられるので、悪者がいつまでものさばることはなく、正しい者がいつまでも虐げられることもないからです。 この詩人は言います。「あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」(11節)。私たちは、悩みの時に神に依り頼まずにはおられません。神は決してお見捨てにならないという真実は、なんと心丈夫なことでしょう。 Sun, 24 Jun 2018 00:10:00 +0000 弟子らしく(マタイによる福音書 10章24-39節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180624 no 2018 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 (マタイによる福音書10章24節) きょうの御言葉は、私たち人間の限界を示しつつ、大きな平安を与えてくれます。弟子としての分をわきまえているようにと、自分を過大に評価しがちな私たちを戒めてくれます。「思い上がりなさんな」、「謙遜であれ」と。同時に、卑屈にならず、ありのままに、自らの貧しさに立って1日を始めるよう、招いてくれます。 僕は主人にまさるものではない。それはこういう意味です。主イエスに従おうとする者ができることは、自分を主の御言葉のもとに置くこと、そして自分を主の守りのもとに置くこと。弟子は師にまさるものではない。私たちは、考えること、語ること、行うことすべてにおいて、主にまさる者であることはできません。また、自分の力を越えたガンバリを求められてはおりません。僕の分を喜んで受け入れたいと思います。 信仰の仲間たち、さらにまだ信じていない人びとも、福音の招きの中に置かれています。自分が弟子の場所にふさわしく留まれるよう祈りましょう。御言葉の権威に信頼して、弟子らしく人々とかかわることができるように。 Sat, 23 Jun 2018 00:10:00 +0000 乳飲み子の賛美(詩編 8編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180623 no 2018 あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。 人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。 (詩編8編4節~5節) この詩人は、星空を眺め、その雄大さと、それをお造りになった神の偉大さに言いしれぬ感動を覚えています。創造主なる神の栄光と威光を心から賛美しているのです。同時に、彼の心に一つの驚きが生じています。この宇宙の雄大さに比べると、人間は本当に小さな存在にしか過ぎないということです。 塵から出て塵に帰るしかない人間、しかも神に背く罪を繰り返し犯す人間を、なぜ神は御心に留め、顧みてくださるのか。またこんなにも愚かにして罪深い人間に、なぜご自身が造られた他の被造物を支配する権能をお授けになったのか。これはいくら考えても分からない神秘です。この神秘に触れたときに、この詩人は乳飲み子のように神を賛美したのでした。 神が人間を御心に留め、顧みてくださるこの恵みが、今や独り子であるイエス・キリストがこの世に降ることによってあらわされました。キリストがすべての罪人の罪の贖いとして十字架につけられることに行き着いたのです。この救いの神秘に触れたときに、私たちも乳飲み子のように神を賛美する者とされるのではないでしょうか。 Fri, 22 Jun 2018 00:10:00 +0000 正しく裁く神(詩編 7編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180622 no 2018 正しくいます主にわたしは感謝をささげ いと高き神、主の御名をほめ歌います。 (詩編7編18節) 「わたしを助け、追い迫る者から救ってください」(2節)。この詩人には、彼を激しく攻撃する者たちがいたようです。彼は、まったく身に覚えがないのに、不正を犯したと訴えられています。このままでは罪人として裁かれ、誉れが地に落ちてしまいます。ですから、彼は自らの身の潔白を訴えています。 しかし、それはすべて彼の目から見た状況です。彼を責め立てる敵から見れば、彼こそまさに不正を犯し、仲間に災いをもたらした人間であるのかもしれません。 大切なことは、この詩人が人間のだれかに裁きを頼むのではなく、ましてや自分自身で裁くのでもなく、ただただ神に正しい裁きを求めている点でしょう。 彼は最後に、「正しくいます主にわたしは感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います」と歌いました(18節)。自分自身を含めてすべての人間を正しく裁く主を賛美しつつ、その裁きに身を委ねています。自分自身が気づかぬうちに悪を犯しているのなら、自分の身にも災いが降りかかることをも受け入れて、正しい裁きをする主に委ねているのです。 Thu, 21 Jun 2018 00:10:00 +0000 主よ、主よ(詩編 6編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180621 no 2018 主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください。 主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。 (詩編6編2節~3節) この詩編6編は、悔い改めの詩編と言われます。この詩人は危機に瀕して、神の怒りを強く感じ、神に懲らしめられているように受けとめました。おそらく、自分でも赦せないような大きな罪を犯したのでしょう。そこで彼は、真剣に悔い改め、「主よ、主よ」と何度も叫び続けたのです。彼には、この神だけが頼りでした。どんなに怒って責められ、懲らしめられても、この方の憐れみにすがり、慈しみを頼って泣き叫ぶしかないのです。「憐れんでください。救ってください。いつまで怒り続けるのですか。わたしの方を振り向いてください」と。 そういう日々が、どれだけ続いたのかは分かりません。しかし、ある時以降、彼の口からこういう言葉が出るようになりました。「主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(10節)。彼は、祈りの格闘の中で、罪の赦しの確信を持つことができたのです。 人間関係において、真剣にぶつかり合う中で深められることを経験することがあります。神との愛と信頼の関係も、真剣に格闘していく中で、次第に深められていくものではないでしょうか。 Wed, 20 Jun 2018 00:10:00 +0000 神を仰ぎ望む(詩編 5編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180620 no 2018 わたしの王、わたしの神よ 助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。 あなたに向かって祈ります。 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。 (詩編5編3節~4節) この詩人は、毎朝、神に「訴え出」た上で、神を「仰ぎ望」んでいます。これは「目を凝らして見張る」という意味の言葉で、彼は、神が祈りを無視されるはずがないことを信じ、ただひたすら神の応答を待ち続けているのです。 私たちは、祈っても、祈ったことすら忘れてしまいます。私たちも彼のように神がどのような素晴らしい答えを用意しておられるのかを期待しつつ、忍耐強く待ちたいと思います。 この詩人は神殿に入り、礼拝をささげています(8節)。彼を取り巻く環境は、決して生易しいものではありません。しかし、彼は、主の「深い慈しみ」が与えられ、毎朝、神殿に入ることが許され、ひれ伏して祈る礼拝をささげることができています。きっと、これが彼の力の源だったのでしょう。いつも主を避け所とし、主に望みをかけて生きているのです。自分の権力や財力、政治力に望みをかけるのではなく、ただ主に望みをかけるのです。 私たちも日毎の礼拝の中でそのことを思い起こし、力をいただくことができます。主に望みをかけて、この世の戦いに出て行きましょう。 Tue, 19 Jun 2018 00:10:00 +0000 主の慈しみに生きる(詩編 4編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180619 no 2018 主の慈しみに生きる人を主は見分けて 呼び求める声を聞いてくださると知れ。 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。 主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。 (詩編4編4節、9節) この詩人は、辱めを受けながらも、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」と歌うことができました。なぜでしょうか。それは、彼が「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださる」と信じることができたからです(4節)。 「慈しみ」とは真実の愛、決して裏切らない愛、と言い換えることができるでしょう。私たちに注がれる神の愛は変わることがないのです。そして、その「慈しみに生きる」とは、主の愛のみに依り頼んで生きることです。主は、そのように生きる人間を見分け、その呼び求める声を聞いてくださいます。 それでは、神が私たちの最も切実な叫びに答えて与えてくださったものとは、いったい何だったでしょうか。それは、ご自身の独り子イエス・キリストでした。このお方こそ、私たちを生かす命のパンです。神の慈しみは、このお方において完全に現れました。 この主の愛に感謝し、主の愛のみに依り頼んで生きるときに、どれほどの苦難があっても、何にもまさる喜びが与えられ、平和が与えられるのです。 Mon, 18 Jun 2018 00:10:00 +0000 主に信頼する(詩編 3編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180618 no 2018 身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。 主が支えていてくださいます。 いかに多くの民に包囲されても 決して恐れません。 (詩編3編6節~7節) この詩人は、「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方」と歌っています(4節)。 この時、彼の回りには多くの敵がいて、その数が増え続けていました。そして、その敵対する者たちが、「神の救いなどあるものか」と言って、あざ笑っていたのです。 しかし、この詩人は、「主よ、それでも」と歌うことができました。どんなに多くの敵がいようと、神が目に見えない盾となって囲んでいてくださるので、安心して身を横たえて眠ることができる、と言うのです。 私たちの回りにも多くの敵がうごめいています。いろいろな落とし穴があり、危険がいっぱいです。そのような中で、私たちも、さまざまな苦しみや悲しみを経験するのです。時には、神は本当に救ってくださるのだろうかという思いに駆られるほど苦しむこともあるでしょう。 しかし、どのような時であっても主が支えてくださいますから、私たちもぐっすり眠ることができます。この緊張の多い世の中にあってそれができるのは、信仰の大きな恵みなのです。 Sun, 17 Jun 2018 00:10:00 +0000 主イエスに呼ばれる(マタイによる福音書 9章35節-10章8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180617 no 2018 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 (マタイによる福音書10章2節~4節) 主イエスに召し出された12人の名簿は示唆に富んでいます。まずペトロの名が挙げられ、彼の兄弟アンデレの名、さらに2組の兄弟たちの名が出てきます。それからマタイの名が「徴税人」の肩書き付きで記され、同じように「熱心党」のシモンが登場します。当時の大国ローマの手先とみられていた人と、民族の独立を願う人が、共にこの一団の中にいました。イスカリオテのユダを別に考えても、一般的な団体では、こうした人選は行われないでしょう。主イエスの群れは、物の考え方や意見、主張の違いによって枠づけられないことを思い起こさせてくれます。 主イエスは、不揃いな石の集まりのような群れに福音を伝える権威を授けられ、世に働きかける器とされました。この群れは、党派の原理、すなわち、周りに垣根を巡らして人々を囲い込もうとするあり方とは異なる原理の下にあります。イエス・キリストの教会は、色彩豊かです。私たちは同じ色だから集められるのではありません。また、一色になるように集められるのでもありません。主イエスに呼ばれる、このことが私たちを結びつけています。 Sat, 16 Jun 2018 00:10:00 +0000 身を横たえて眠る(詩編 2編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180616 no 2018 すべての王よ、今や目覚めよ。 地を治める者よ、諭しを受けよ。 畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ。 子に口づけせよ 主の憤りを招き、道を失うことのないように。 主の怒りはまたたくまに燃え上がる。 いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。 (詩編2編10節~12節) 新約時代を生きる私たちは、イエス・キリストを指し示すものとして、この詩を読むことができます。地上の王たちは、「主の油注がれた方」(メシア、救い主)に逆らい、その主権を奪い取ろうとします。しかし、神は王たちをあざ笑って言われます。「わたしは自ら、王を即位させた」と(6節)。神がキリストを王として立てられたのですから、その王権は不動です。 神は、そのキリストを励まして、最愛の子であることを確認されます。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と(7節)。そして、「わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」と言って、キリストに全世界の所有権を与えられるのです(8節)。 「すべての王よ、今や目覚めよ。…子に口づけせよ」と言われます(10、12節)。足に口づけすることは家来になる誓いです。私たちのために神の怒りと呪いをすべて引き受けてくださったイエス・キリストが、まことの王として神の右に座しておられます。そのキリストが私たちの主であることを心から喜び、心晴れやかに主の僕となる誓いをいたしましょう。 Fri, 15 Jun 2018 00:10:00 +0000 幸いな人(詩編 1編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180615 no 2018 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 (詩編1編1節~2節) この詩人は、「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら」ない人は、と言います。誘惑の多いこの世にあって、たとえ誘惑に負けそうになっても、決して諦めずに戦い続ける人。自分が罪ある人間であることを認めて、悔い改めつつ、良心に恥じることのないまっすぐな人生を送る人。自分の力に酔いしれ、傲慢に振る舞う人たちとは一線を画し、常に謙遜に歩む人。そのような人こそ、まさに幸いな人と言えるでしょう。 それでは、そのような人生を送ることができるのは、どんな人でしょうか。この詩人は、それは「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」なのだ、と言います。神の教えをただ義務的に守る人ではなく、神を心から愛し、神と親しい交わりを持ち、それゆえに神の言葉を喜んでいる人です。そのような人は、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。なぜならば、その人は命の源である神にしっかりとつながっているからです。 Thu, 14 Jun 2018 00:10:00 +0000 一致を保つように(テトスへの手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180614 no 2018 愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。 (テトスへの手紙3章9節~10節) パウロは、分裂を引き起こす人に対して、厳しい態度で接するよう命じています。 実際、教会が分裂するならば、それは単に人間同士の仲違いでは終わりません。教会の分裂とは、キリストの体が痛み、傷つき、血を流すことだからです。そのことで、教会を離れ信仰を失うようなことが起こるなら、それはその人の命(永遠の命)に関わる、大変なことなのです。 教会の分裂において、キリストを信じる者たちを神の愛と神の国から離れさせようとする、サタンの策略があります。そのためパウロは、愚かな議論、詮索、争いを避けるように勧めます。サタンの策略に絡め取られてはならないからです。私たちはむしろ、洗礼や信仰告白に際して、教会の「純潔と平和とのために努める」と誓約したことを思い起こして、教会の一致を保つように努めます。 私たちの一致の土台は、十字架の死に至るまでへりくだられた主イエス・キリストです(フィリ2章4~11節参照)。キリストのゆえに、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する」ことを心がけるのです(2節)。 Wed, 13 Jun 2018 00:10:00 +0000 信じることと生きること(テトスへの手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180613 no 2018 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 (テトスへの手紙2章12節~13節) パウロは1章16節で、「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している」人々がいることを指摘しました。それでは本当の意味で神を知り、キリストを信じているとは言えないからです。ここでパウロは、それぞれが置かれた背景、年齢、立場に応じて「思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と勧めます。そのようにして、「わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かす」生き方をするように、と(10節)。 私たちも、心の中に、「信仰と行いは別、信じていればそれでいい」という思いはないでしょうか。自分の生き方をそんなふうに言い訳していないでしょうか。 大切に心に留めておきましょう。神の恵み、キリストの救いは、信じる者に罪の赦しを与えますが、それだけではありません。信仰者はキリストに結ばれて、少しずつキリストに似たものとして整えられます。すなわち、私たちの行いが、生き方が、神の恵みによって現実に変えられていくのです。「信じることと生きること」、それは別々のことではなく、一つのことだからです。 Tue, 12 Jun 2018 00:10:00 +0000 長老の資格 (テトスへの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180612 no 2018 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。 (テトスへの手紙1章5節) パウロはテトスをクレタ島に残し、町ごとに長老を立てるよう命じています。 私たち「日本キリスト改革派教会」も、長老が教会を治める働きを担います。長老は会員の選挙で選ばれます。教会に牧師を招く場合も同様に選挙で選ばれます。そして選挙の結果を、私たちは「示された神のご意志」と受け止めます。 しかし、パウロが6節から9節で示しているような厳しい基準を求められたなら、果たして適格者がいるでしょうか。まして家族のことまで問われるとしたら、本当に立つ瀬がない!と思う人が多いのではないでしょうか。 私たちは皆「土の器」ですから、牧師も長老も、神の赦しと助けがなければその働きを全うすることはできません。私たちはそのことを覚えた上で、選ばれた者は少しでもこの基準に近づく努力をし、選んだ者たちは祈りをもって支える、ということが必要でしょう。 欠けを批判するのではなく、補い支え合いながら、キリストの教会を愛し、建て上げていく努力が一人一人に求められています。 Mon, 11 Jun 2018 00:10:00 +0000 皆が一つとなって(イザヤ書 66章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180611 no 2018 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 (イザヤ書66章20節) イザヤ書の最終章を迎えました。「神に嘆き訴える共同体の祈り」に対する神の答えの残りの部分です。終わりの日にもたらされる回復が、従わない者への審判と共に語られています。 神は全世界からご自分の民を集められます。19節に出てくる地名は、当時として考えられる限り、エルサレムからもっとも遠い国々です。それらの国の「彼ら」が「あなたたちのすべての兄弟」を神への献げ物として連れて来るのです。21節では、彼らの中から祭司やレビ人が選ばれることまで述べられます。すなわち、終わりの日に、もはや民族的にイスラエルであるかどうかを問われることなく、一つになって神を礼拝する時が来るということです。神を礼拝することこそ神の民である理由だからです。 今の私たちの状態を見るならば、小さな一つのことが不和の原因となり、真の完全な礼拝からは、なお遠く隔たっていると思えることがあるでしょう。しかし神は、アブラハムに対する約束を守られます(創12章2、3節参照)。私たちも、この終わりの日の完成を祈り願いましょう。 Sun, 10 Jun 2018 00:10:00 +0000 イエスは立ち上がり(マタイによる福音書 9章9-13,18-26節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180610 no 2018 ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。 (マタイによる福音書9章18節~19節) 年齢も境遇も違う二人の女性。一人は長く病気に苦しむ孤独なひと。もう一人は人望の厚い父親に愛されている少女。しかし二人は、不安と絶望のうちにあることにおいて結ばれています。主は、彼女たちを癒やしてくださいました。 福音書における主の癒やしは、思えば、どれも唯一の救いの恵みを証ししています。このことが、二人の女性の癒やしが重なりあうことでよく見えてきます。孤独な女性は、すこやかに歩みはじめます。少女についてはこう記されています。「少女は起き上がった」。彼女たちの癒やしは、死の陰の世界に光が輝いていることを告げるものです(イザ書9章1節)。すなわち、私たちは起き上がり、すこやかに生きる者とされます。 この恵みは、自ら倒れ、起き上がった方によります。主イエスが「立ち上がり」と記されていることが印象的です。さらに、「ついて行かれた」とあり、主が悩む者に寄り添うお方であることが表れています。私たちを生かす支えがここに示されています。私たちのために倒れ、起き上がられたキリストが、私たちと歩みを共にしておられます。 Sat, 09 Jun 2018 00:10:00 +0000 喜び楽しむ神の民(イザヤ書 65章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180609 no 2018 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 初めからのことを思い起こす者はない。 それはだれの心にも上ることはない。 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。 わたしは創造する。 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。 (イザヤ書65章17節~18節) 「神に嘆き訴える共同体の祈り」に答える言葉が、イザヤ書最後の2章です。65章の前半では神に従わない者への審判が告げられ、敬虔な人に対する祝福も語られています。後半では終わりの日の回復が語られ、17節以下は旧約聖書の中でもっとも美しい終末預言と言われています。 「創造する」という言葉は創世記で使われているのと同じで「何もないところから造る」という意味です。この箇所では、「初めからのもの」があるので、「再創造」を意味していることが分かります。神が与える救いは再創造の御業なのです。 この救いによって与えられるのは、この上もない祝福です。喜び楽しみ、喜び躍るのは、「代々とこしえに」です。23節では、「無駄に労することなく」とも言われます。労働が辛苦に満ちたものとなったのは罪が原因ですが、それも取り去られます。 そして何よりも神との関係が回復します。24節では、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」と言われます。このような大きな愛をいただけるようになるのです。 Fri, 08 Jun 2018 00:10:00 +0000 父のもとに帰ろう(イザヤ書 64章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180608 no 2018 しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。 どうか主が、激しく怒られることなく いつまでも悪に心を留められることなく あなたの民であるわたしたちすべてに 目を留めてくださるように。 (イザヤ書64章7節~8節) 63章の7節から「神に嘆き訴える共同体の祈り」が始まり、この章の終わりまで続きます。イスラエルが陥っていた罪のゆえに、誰も神を呼ばなくなり、神ご自身も顔を隠しているかのように思われました。 このような中で、「しかし」と語られます。この言葉は、パウロが使う「しかし、今や」に似て、向きがひっくり返るような強い思想の転換を意味しています(ロマ3章21節等参照)。「陰府のもっとも深いところで神を見いだし、暗黒の中で光がある」とたとえる人もいます。 神を見失ったと感じて、神が隠れてしまわれたと思えるとき、人は絶望してしまいます。けれども、ここで覚えておくべきことがあります。神こそが唯一の出口です。神の怒りを感じたとしても、神に立ち帰ることがただ一つの解決なのです。 虫が良すぎる願いであると思うかも知れません。たとえそう思われたとしても、神こそが父であり、創造主であり、贖い主であられますから、父のもとに帰ることが解決となるのです。そのような人を、神は喜んでくださいます。 Thu, 07 Jun 2018 00:10:00 +0000 神を求める祈り(イザヤ書 63章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180607 no 2018 主は言われた 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。 そして主は彼らの救い主となられた。 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。 (イザヤ書63章8節~9節) 63章7節からイザヤ書の締めくくりの部分が始まります。64章までは神に嘆き訴える共同体の祈りであると言うことができます。再び現実に引き戻され、数多くの恵みと慈しみを与えてくださった力強い神が、自分たちから遠く感じると訴えています。かつての日々のように力強く御業を行っていただきたいと祈るのです。 けれども、祈りの底流には喜びと賛美があふれています。それゆえに、ここで目に留まるのは、何と言っても9節でしょう。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」と言われているからです。神は高く天におられて、私たちの苦しみや悩みを理解されないお方ではありません。むしろ、それらを御自分の苦しみとし、救うために手を尽くされます。 その神の愛が、キリストにおいて示されています。私たちのところまで降りて来てくださって、苦しみまで共にしてくださり、救いを実現なさいました。この事実を前にするとき、たとえ嘆きや悲しみがあったとしても、神を賛美することができるはずです。 Wed, 06 Jun 2018 00:10:00 +0000 新しい名が与えられる(イザヤ書 62章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180606 no 2018 諸国の民はあなたの正しさを見 王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。 主の口が定めた新しい名をもって あなたは呼ばれるであろう。 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる。 (イザヤ書62章2節~3節) 神の都であるエルサレムの終末的回復を語る最後の部分です。この御言葉が語る状況について、シオンと呼ばれるエルサレムが「輝かしい冠とな」るとは、とても想像できる状態ではありませんでした。しかし、神はこのことをはっきり見ておられます。そして、やがて来る終わりの日に、もろもろの国民も、その支配者たちも、このことをはっきり見る者とされます。 「正しさ」とは「神の義」を意味し、神が与える救いのことです。その輝かしい救いをいただくことは、驚くほど光栄なことです。 何よりのハイライトは「新しい名」で呼ばれることです。それは「主の口」が定めたものです。名前は本性とか人格を表しますから、これを変えることは実質的な大きな変化があることを意味します。 ヨハネの黙示録では、「これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名」が記された白い小石のことが語られ、キリスト者一人ひとりに当てはめられています(2章17節)。神の救いは、神の手の中にある冠、王冠へと私たちを造り替えます。神のもっとも愛する者とされる光栄が終わりの日に待っています。 Tue, 05 Jun 2018 00:10:00 +0000 神の良い知らせ(イザヤ書 61章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180605 no 2018 主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。 (イザヤ書61章1節) 60章に引き続いてエルサレムの終末的回復が語られている箇所です。キリストがナザレの会堂で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたものでもあります(ルカ4章21節)。 語り手は「油注がれた者」です。旧約時代、王や祭司、預言者に油が注がれました。王、祭司、預言者の三職をお持ちのキリストがご自分のことだとおっしゃったのは当然のことです。すべての面で当てはまるからです。 良い知らせを伝えられる「貧しい人」とは、物質的・金銭的に貧しいということではありません。「捕らわれ」「つながれている」とあるように、打ち砕かれ、絶望している人だと言うことができます。直接的にはバビロン捕囚に遭ったイスラエルの民のことですが、いろいろな状況を考えることができます。罪とか悲しみにまで拡大することができるでしょう。 それらが取り去られると予告されています。希望的観測からそう言うのではありません。神の民はキリストにあって重荷から解放されます。このお方が涙をぬぐい去ってくださいます。 Mon, 04 Jun 2018 00:10:00 +0000 恵みの光を反射する (イザヤ書 60章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180604 no 2018 起きよ、光を放て。 あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。 見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。 しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。 (イザヤ書60章1節~2節) 60章から62章まで、破壊されていたエルサレムの回復が述べられています。あくまで未来における終末的預言として語られますが、神の民は、既にこの一部を味わうものとされています。 本日の箇所は、本来、囚われ人であるイスラエルを慰める言葉ですが、ヘンデル作曲の「メサイア」の中ではキリストの降誕に当てはめられています。たとえ周りは闇であったとしても、主が神の民を照らすからです。朝日が昇って闇を破るように、主が介入し、主ご自身が光として、霊的な暗黒を砕いてくださいます。このイメージは、後に祭司ザカリアが「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」と言って、救い主を指し示して用いました(ルカ1章78節)。ヨハネの黙示録では新天新地の情景として使っています(21章23節など)。 ここで目を留める必要があるのは「光を放て」という命令です。私たち自身が光るわけではありませんから、反射せよという意味です。光をいただいた神の民は、その光を証しします。キリストは世を照らす恵みの光ですから、私たちはこのお方の光を反射するのです。 Sun, 03 Jun 2018 00:10:00 +0000 主と共にある冒険(マタイによる福音書 21-29節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180603 no 2018 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。…」 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 (マタイによる福音書7章24節~29節) 主イエスが語られる「岩」は、私たちの持つ普通のイメージを越えています。 御言葉に信頼して一歩踏み出そうとするとき、「揺れ」を感じるかもしれません。陸地から、湖に浮かぶ小舟に足を乗せるときのような。しかも、そこで迎えてくれるのは、あごひげをたくわえた、青いジャケットに白いズボンの風格ある船長ではありません。御言葉の主は、人目を引く姿を備えてはおられませんでした。 ときおり、信仰は冒険であると感じます。なにか特別なことをするからではなく、御言葉に信頼して一日をはじめることが。それは自分の人生を、自分の手から離すことだからです。「岩に家を建てる」とは、自分の歩みを、神のご計画にゆだねることだからです。 けれども、私たちはこの冒険を勇気をもって行うことができます。なぜなら、神の無限の顧みが、イエス・キリストの苦難と勝利において証しされているからです。その御言葉に、私たちは父なる神の呼びかけ、真の故郷への招きを聞きます。そして、従うべき王の言葉をいただきます。わたしについてきなさい! Sat, 02 Jun 2018 00:10:00 +0000 神の介入による救い(イザヤ書 59章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180602 no 2018 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると 主は言われる。 あなたの上にあるわたしの霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに 離れることはない、と主は言われる。 (イザヤ書59章21節) 神と神の民の破れた関係を描いている最後の部分に入ります。救いを妨げているものは、神の側にあるのではなく、神の民が反省せず、神を畏れないことにあります。罪は個人的なことにとどまらず、社会生活にも影響を及ぼして、正義も真実もない世の中にしてしまいます。指導者がそうであれば、国全体がそうなってしまいます。 使徒パウロは、7節、8節に描かれている状況を全人類に拡大してローマの信徒への手紙で引用しています(3章15~17節参照)。イザヤ書の本来の文脈では、国や社会に蔓延している罪と不正義を指摘することが目的です。その中にいると、どんなに光を求めても、かなわぬ夢に終わってしまいます。 それゆえ、神自らが救いのために身を乗り出されるのです。もっとも強い神が、その力強い御手をもって臨まれ、自ら救い主となられます。一歩も引かず、強く介入なさいます。 悔いて砕かれた魂に対して、神は今も身を乗り出してくださいます。神の霊と御言葉が常に共にあるようにしてくださるのです。これが神の約束であり、保証です。 Fri, 01 Jun 2018 00:10:00 +0000 愛と真実で行動する(イザヤ書 58章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180601 no 2018 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。 (イザヤ書58章6節~7節) この時代のイスラエルの宗教は形式的には立派なものであったようです。聖書を調べ、律法に従って断食を守り、神に近づくことを喜んでいました。百点満点のようですが、「どうして神は見てくださらないのか」という言葉で、心の本質が明らかになります。(3節参照)。 そこには、宗教行為を自分の得点と認めていただき、神の御業を催促し、結果として神を自分に取り込もうとする心があります。自分の思いが中心となり、神の示しておられる御旨と比べて、反省することがなく、従おうとする意識もありません。どうもこれは、無意識にそうなっているようです。 心が悔いて砕かれると、神との新しい関係が始まります。それは本人だけに留まるものではなく、隣人に対する関係も愛と憐れみに基づいたものに変わります。結果として、本日の聖句のような行為になるはずです。 きょうも新しい一日が始まりました。神に個人的に向き合うだけでなく、その結実として、隣人に対して愛と真実をもって行動しましょう。神はそれを喜んでくださいます。 Thu, 31 May 2018 00:10:00 +0000 打ち砕かれた心(イザヤ書 57章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180531 no 2018 高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。 わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。 (イザヤ書57章15節) 56章9~12節で、偶像礼拝にふけっていたイスラエルの民が叱責されています。彼らは神のもとに立ち帰ることがなく、神が禁じることをして、この世の享楽にふけり、神を畏れることがありません。 しかし、それはいつまでも続くわけではありません。終わりの日に、神は大逆転を成し遂げられるからです。その日に備えて、神が用意しておられる霊的な道を知る必要があります。 それは、「へりくだる」、「打ち砕かれる」という、思わぬものでありました。この「へりくだる」や「打ち砕かれる」とは、単なる謙遜ではありません。また、抽象的に理解されるものでもありません。神の御前に打ち砕かれ倒されるというイメージだからです。 自分の罪や惨めさを知って打ち砕かれたとき、自分は神から遠いと感じるでしょう。ところが、いと高き所に住まわれる神は、そのような人のところに降りて来られます。この世はこれを矛盾とするでしょう。けれども、私たちは信仰によってこれを理解する幸いが与えられています。 神の前にへりくだることが、霊的な道を知り、命を与えられる方法なのです。 Wed, 30 May 2018 00:10:00 +0000 新しい神の民(イザヤ書 56章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180530 no 2018 また、主のもとに集って来た異邦人が 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり 安息日を守り、それを汚すことなく わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。 (イザヤ書56章6節~7節) 56章には、安息日厳守や神殿での犠牲について、記されています。それは、旧約の視点で、神の約束が実現する終局、終末の姿を描こうとするものです。 終わりの時、本来、約束と無縁であった異邦人が新しい神の民として加えられます(3節)。また、神の民に加わることのできなかった宦官が「とこしえの名」を与えられます(3~5節)。そのために次のことが求められています。安息日を常に守り、汚すことがないこと、悪事を避けて自戒すること、主の望むことを選ぶこと、主の契約を固く守ること、主に仕え、主の名を愛し、その僕となることなどです(2~6節)。 ユダヤ人になるための割礼については言及されません。ここで言われるのは外形的なことではなく、心から喜んで主を礼拝することだからです。そのような者たちによって新しい神の民が形づくられます。ここに、新約的な原則の先取りを見ることができます。 新しい家の喜びの祝いは、心から喜んで主を礼拝するすべての民に開かれています。新しい神の民の喜びの祝い(礼拝)に連なることのできる光栄を覚えましょう。 Tue, 29 May 2018 00:10:00 +0000 ひたすら待ち望む人(テモテへの手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180529 no 2018 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 (テモテへの手紙二4章8節) 使徒パウロは、最後の試練の中にいます。獄中にいて、苦労の多かった今までの人生を振り返りながら、最期を覚悟して過ごしています。 パウロに反対する人々がいました。けれども、彼の心は希望に満たされています。福音のためにいろいろなことが起きていますが、待ち望んでいたことに向かって進んでいるからです。パウロは、今や「義の栄冠を受けるばかり」と、確信しています。 その栄冠は、キリストが再び来られる日に授けられます。その日、キリストは正しい審判者として完全な裁きを行われます。行いはもちろんのこと、取るに足りない言葉まで裁かれます。けれども、信仰者にとって、それは罪の赦しが明らかにされて、義の栄冠を受ける日にほかなりません。その日に目を注いで待ち望むことによって、パウロは、このときまで立派に戦い、決められた道を走り通す者とされました。 主が来られるのをひたすら待ち望む人々にはだれにでも、義の栄冠が約束されています。福音のためにいろいろなことがあっても、「かの日」を待ち望むなら、確かな慰めがあります。 Mon, 28 May 2018 00:10:00 +0000 自分が学んで確信したこと (テモテへの手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180528 no 2018 あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 (テモテへの手紙二3章14節~15節) 「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」と教えられています(1節)。そのような時代に、どう対応すればよいのでしょうか。 「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」。学んだのは聖書からです。「自分が学んで確信したこと」が大切です。それがたとえいかに頼りなく小さなもののように思われても、きょう、キリストを信じて喜び、祈り、感謝して生きるには、必要にして、十分です。 明日への備えが足りないように思われて、不安になるかもしれません。しかし、明日への備えと希望も、すべて聖書にあります。聖書に、「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を…与える」神の力があるからです。聖霊に導かれて聖書に親しむとき、戒められ、誤りを正され、義に導く訓練を受けて、「神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられ」ます(17節)。それが、主なる神の約束です。 慌てることなく、きょう、御言葉から「自分が学んで確信したこと」にとどまって、主の恵みと平安の中を歩みましょう。 Sun, 27 May 2018 00:10:00 +0000 ペンテコステ(4)いつも共におられる神(マタイによる福音書 28章16-20節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180527 no 2018 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章20節) マタイ福音書は、主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して、弟子を派遣される場面で終わります。弟子たちにインマヌエル=「神は我々と共におられる」が約束されました(マタ1章23節)。 この約束が、聖霊の働きによってペンテコステに実現しました。その後、弟子たちは、主イエスに命じられたように、すべての民をキリストの弟子にするために福音宣教に仕えたのです(マタ28章19節)。 その一人パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とまで言い切りました(ガラ2章20節)。インマヌエルは、決して抽象的な事態ではなく現実だからです。キリストがわたしのような小さな者の内に生きて、わたしを用いてくださいます。 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これは、古の詩人が謳った「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」への応答でもあります(詩23編4節)。私たちが福音宣教を続ける時、これほど力強い約束があるでしょうか。 Sat, 26 May 2018 00:10:00 +0000 イエス・キリストのことを(テモテへの手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180526 no 2018 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 (テモテへの手紙二2章8節) いろいろなことで苦しんだり悩んだりするとき、祈れば祈るほどに苦しくなることがあります。聖書をいくら読んでも、慰めが与えられません。そのようなとき、思い出したい御言葉の一つです。 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。どこに心を向ければよいかを教えられます。いろいろな試練がありますが、その試練の中心にキリストがいてくださらなければ、主の恵みに強められて喜ぶことも、希望に満たされることもできません。 「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」。キリストは、ダビデの子孫として一人の人となられました。私たちの苦しみを知らないお方ではありません。私たちの苦しみを背負い、死んで、けれども復活されたお方です。「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる』」(11、12節)。 さまざまなことが気になるかもしれません。しかし、ただキリストに心を向けるとき、ふさわしい新たな慰めが日ごとに与えられるでしょう。 Fri, 25 May 2018 00:10:00 +0000 おくびょうの霊ではなく(テモテへの手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180525 no 2018 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 (テモテへの手紙二1章7節) 神はおくびょうの霊を与えられたのではありません。おくびょうとは萎縮することです。いろいろなことにおいて、勇気を失い、恐れや不安にとらわれてしまう姿です。聖霊の恵みに信頼するとき、それらとはまったく違う思いへと導かれることを覚えたいと思います。 キリストは世とは違った仕方で、ご自身の平安を与えてくださいます。おくびょうは、神から出てくるものではありません。神は、聖霊を通して、キリストのうちに満ちあふれていたものを与えてくださいます。それはどこまでも謙虚な力です。人知を超えた愛です。何も恐れずに忍耐強く一歩一歩進む思慮分別(自制)です。 最初から恐れもせず、臆することもないというわけではありません。人としての弱さは逃れようもありません。しかし、聖霊は、そのような人の弱さに寄り添うようにして、力、愛、思慮分別(自制)へと導いてくださいます。人の弱さに同情することができるキリストの霊です。聖霊に満たされて歩むとき、生きづらさを覚える世の中も、違った場所になり始めるのではないでしょうか。 Thu, 24 May 2018 00:10:00 +0000 20180524(イザヤ書 55章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180524 no 2018 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。 天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。 (イザヤ書55章8節~9節) 神は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると」。 私たちの思いは、魂が満たされることを求めて、いろいろと考えながらさまよいます。幸いや喜び、あるいは問題の解決や罪の赦しを求めて、さまよいます。 しかし、私たちの魂は、私たちをはるかに超えている主の御言葉に聞き従うときにこそ真に満たされます。まことの幸いと喜びを得ることができるのです。私たちの思いを超えて、罪の赦し、問題の解決を得て、平安に憩うことができます。たとえ神に逆らっていた者であっても、神の憐れみを得て、罪の赦しにあずかることができます。神のいと高き知恵が、主イエス・キリストのへりくだりの低さにおいて現されたからです。十字架のキリストに神の知恵と力があるのです。 今や主イエス・キリストが私たちと共におられ、御言葉によって魂の平安へと私たちを招いてくださいます。日々、御言葉に聞き従い、私たちの思いを超えた神の恵みにあずかりましょう。そのようにして、私たちは主への感謝と賛美に満たされるのです。 Wed, 23 May 2018 00:10:00 +0000 神の契約は揺らぐことがない(イザヤ書 54章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180523 no 2018 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。 (イザヤ書54章10節) イスラエルは神に背いたため、神に捨てられた状態になりました。その状態が、夫に捨てられた女、また不妊の女にたとえられています。しかし、そのままで終わってしまうことはありません。 「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」(8節)。神ご自身がイスラエルを贖い、回復してくださるのです。 今日の神の民である私たちも、イスラエルのように神に背いて、神の裁きを受けることがあるかもしれません。けれども、主なる神が神の民を見捨てることは決してありません。なぜなら、神の民に対する契約は、たとえ山が移るようなことがあったとしても、決して揺らぐことはないからです。「わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」と、神は約束しておられます。 神の契約は、人間の側の確かさや努力によるのではなく、神の側の契約に対する真実に支えられて、確かです。それゆえ、「平和の契約」と呼ばれます。神の契約の真実に信頼して、私たちは平安でいられるのです。なんと感謝なことでしょうか。 Tue, 22 May 2018 00:10:00 +0000 私たちのための僕の苦難(イザヤ書 53章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180522 no 2018 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 (イザヤ書53章5節) イザヤ書の後半には、繰り返し「僕」が登場します。とくにこの章では、「わたしたち」の身代わりになる僕の姿が描かれています。新約時代に生きる私たちは、この「僕」に救い主イエス・キリストの姿を見ることができます。同時にこの「わたしたち」に自分の姿を見ることができます。私たちの罪のために、主イエスは「刺し貫かれ」、「打ち砕かれ」、「懲らしめ」られ、「神の手にかかり」、十字架で裁かれたのでした(8節)。 申命記24章16節にこうあります。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」。人は、自分の罪のゆえに死に定められるのであって、たとえ親子でも身代わりは駄目だと神は定めておられます。 しかし、神は、私たちを救うために、ご自分の定められた掟を越えて、御子を身代わりにするという決断をしてくださいました。ですから、これはもはや掟や律法に基づくのではない、ただ一方的な神の恵みによる出来事なのです。私たちの身代わりとして献げられた主イエス・キリストを深く黙想しましょう。 Mon, 21 May 2018 00:10:00 +0000 恵みの良い知らせ(イザヤ書 52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180521 no 2018 いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。 (イザヤ書52章7節) かつて、戦いの勝利や新しい王の即位などの喜ばしい知らせは、伝令によって伝えられました。それで、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良き知らせを伝える者の足は」と言われます。 今回の知らせは、神が王となられ、贖いと救いの御業を行ってくださるという、これまでにない喜びの知らせです。そのため、「奮い立て」、捕らわれの場から「立ち去れ」と呼びかけられています(1、11節)。しかも王である主が、民に先立って進み、また、しんがりをも守ってくださるのです(12節)。 「地の果てまで」とあり、世界的な広がりが示されています(10節)。「その日」という言葉は終末的な広がりを暗示します(6節)。「目の当たりに見る」という表現は、救いの時が近づいていることを感じさせます(8節)。神が御業を成し遂げてくださる時が迫っているのです。 パウロはこの伝令を福音宣教者にあてはめました(ロマ10章15節)。福音によって、主イエス・キリストが贖いと救いの御業を成し遂げてくださったという、驚くべき恵みの良い知らせが伝えられているからです。ハレルヤ! Sun, 20 May 2018 00:10:00 +0000 ペンテコステ(3)「聖霊を受けなさい」(ヨハネによる福音書 20章19-23節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180520 no 2018 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 (ヨハネによる福音書20章21節~22節) 復活の主イエスが弟子たちの前に現れて、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられました。神が人を創造されたとき、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります(創2章7節)。復活の主は、堕落して滅びに向かう罪人が新たに生きることができるように、再び命の息を与えてくださいました。神の命の息である聖霊を受けることにより、私たちは真に生きる者とされるのです。 ペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちは皆、神の偉大な業を聖霊が語らせるままに語りました(使2章4~11節)。彼らが望む、望まないではなく、聖霊が働かれるままに、神の偉大な業であるキリストを証しするものとされたのです。それが教会の誕生の産声でした。 「聖霊を受けなさい」。この聖霊が教会を生み出し、教会は命の産声を上げます。キリストを証しして神の御言葉を宣べ伝えるのです。こうして、聖霊は御言葉と共に教会において働かれます。 私たちも教会に召されて聖霊を与えられました。命の産声を上げて、福音を宣べ伝えて歩みましょう。 Sat, 19 May 2018 00:10:00 +0000 絶えることのない主の恵みの業(イザヤ書 51章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180519 no 2018 天に向かって目を上げ 下に広がる地を見渡せ。 天が煙のように消え、地が衣のように朽ち 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業が絶えることはない。 (イザヤ書51章6節) 「立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」(17節)。神に対する背信のゆえにバビロン捕囚という神の憤りの杯を飲まなければならなかったイスラエルに、新しい慰めのメッセージが与えられました。エルサレムが再建され、再び喜びと楽しみが与えられます。主はおっしゃいます。「わたしの憤りの大杯を、あなたは再び飲むことはない」(22節)。 51章はさらに大きな恵みの御業を告げています。「諸国」、「島々」とあるように、世界的な広がりが示されます(5節)。「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」とあり、創造の世界の回復も示されています(3節)。たとえ天地がなくなっても、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」のです。 この救いと恵みの業が、今や主イエス・キリストによって始められています。私たちはなお罪に苦しみますが、主が私たちを贖い出してくださっているのであり、喜びと楽しみ、そして感謝の歌へと導かれています。永遠の救いの完成を目指して、きょうも主の恵みのうちを歩みましょう。 Fri, 18 May 2018 00:10:00 +0000 主に信頼する(イザヤ書 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180518 no 2018 お前たちのうちにいるであろうか 主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。 闇の中を歩くときも、光のないときも 主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 (イザヤ書50章10節) 神とイスラエルの民の関係が悪化したのは、民が神の言葉に応答しなかったからです。民は、神には救い出す力がないとでも思ったのでしょうか。それに対して神は、ご自身の成し遂げた出エジプトの出来事を示して、なぜ応えないのかと追及されました。 神は、ご自分の言葉をご自身の僕に託します。僕は忠実に託された言葉を語りますが、不信の民はかえって僕を侮辱します。「ひげを抜こうとする」(6節)ことは、当時、最大の侮辱でした。しかし、僕はひるむことなく、神の言葉を語り続けます。 実に、この僕の語る神の言葉に聞き従うことこそが救いであり、幸いなのです。神の言葉を拒み、自分勝手な考えで歩むならば、それは苦悩につながります。「苦悩のうちに横たわるであろう」と、警告されるのです(11節)。 この僕の姿は、主イエス・キリストを指し示しています。今や、主イエスの声に聞き従わなければなりません。「お前たちのうちにいるであろうか、…主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」と言って、主なる神は、主に信頼して聞き従うことへと私たちを招いておられます。 Thu, 17 May 2018 00:10:00 +0000 あなたを贖う神(イザヤ書 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180517 no 2018 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。 すべて肉なる者は知るようになる わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う ヤコブの力ある者であることを。 (イザヤ書49章26節) ビロンによってエルサレムは破壊され、荒れ果てました。不当な侵略だったなら、神に訴えることができたでしょう。しかし、原因は自分たちの背信にありました。それでシオンは言いました。「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と」(14節)。シオンとはエルサレムのことです。エルサレムの人びとは、「主が私たちを見捨てられた」と嘆いたのです。 しかし、主は言われます。たとえ女が自分の乳飲み子を忘れるという、あり得ないことがあったとしても、「わたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)。また、以前にもまさる繁栄を回復すると約束されます。それは、シオンの民の思いを越えるほどの回復です。その結果、すべての者が、主は贖うお方、救うお方であると、知るようになります(26節)。 生けるまことの神は、自らの罪のゆえに闇の中を歩む罪人を、決して見捨てることなく、贖い、救い、回復してくださるお方です。そのことが、まことの主の僕であるイエス・キリストを通して、今日、いっそう明らかに示されています。主なる神は、あなたを救い、贖う神であられます。 Wed, 16 May 2018 00:10:00 +0000 平和と恵みの主(イザヤ書 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180516 no 2018 イスラエルの聖なる神 あなたを贖う主はこう言われる。 わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。 わたしの戒めに耳を傾けるなら あなたの平和は大河のように 恵みは海の波のようになる。 (イザヤ書48章17節~18節) イスラエルの名をもって呼ばれる民は、名ばかりでかたくなな民になっていました。何か事が起こると理屈をこね、「わたしは知っていた」と言ったり、偶像がそれを起こしたと言ったりするような状態でした。 その民になお神は、「これを聞け」と語りかけます。今までも神が事を起こし、それを知らせてきたではないかと。そして、これから起こることも知らせようと。それは、ちょうどモーセによって出エジプトがなされたように、主の御腕となる者によって、神の民がバビロンから解放されるということです。 そのことを示して、主はおっしゃいます。「わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる」、また、「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」と。かたくなな民に何度も繰り返された、神の招きの言葉です。 すべての事を行い、御言葉によってそれを示される主に聞き従うことこそ、平和(シャローム)であり、恵み(ツェダカー)なのです。神の招きに応えて、神の恵みと平和のもとにとどまりましょう。 Tue, 15 May 2018 00:10:00 +0000 まことの知恵と知識(イザヤ書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180515 no 2018 お前は平然と悪事をし 「見ている者はない」と言っていた。 お前の知恵と知識がお前を誤らせ お前は心に言っていた わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と。 (イザヤ書47章10節) 神に背いたユダヤを裁くために、神の器としてバビロンが用いられました。今度はバビロンが神に裁かれ、滅ぼされます。その理由は、「わたしだけ、わたしのほかにはだれもいない」と、本来神ご自身だけが言うことのできることを自らに当てはめたからです。 それほどの高慢は、どこから来たのでしょうか。「お前の知恵と知識がお前を誤らせ」たと、主は言われます。バビロンは、天文学、占星術など、当時としては非常に進んだ文明を持っていました。それが高慢をもたらしたのです。その知恵と知識が、自分を「永遠」の存在とみなし、「何事も心に留めず、終わりの事を思わな」いものであったからです(7節)。 本当の知恵と知識は、神を知り、終わりの事を思わせるものです。それは、人を謙遜と神への信頼に導きます。その知恵と知識が、今や主イエス・キリストを通して与えられました。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロ2章3節)。キリストによって与えられた、まことの神を知る知恵と知識によって、私たちは、神を神とすることに堅く立ち続けます。 Mon, 14 May 2018 00:10:00 +0000 救いをもたらす生ける神(イザヤ書 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180514 no 2018 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。 もはや遠くはない。 わたしは遅れることなく救いをもたらす。 わたしはシオンに救いを イスラエルにわたしの輝きを与えることにした。 (イザヤ書46章13節) イザヤ書の後半では、何度も偶像について取り上げられています。「背く者よ、反省せよ」と呼びかけられるように、偶像のことは決して侮れない問題なのです(8節)。 二つのことによって、まことの神が示されています。一つは、人間によって担がれなければならない偶像と、人間を担ってくださる主との対比です。偶像は担がれなければ動くことができません。しかし主は、生まれた時から白髪になるまで人を担ってくださるお方です(3、4節)。 もう一つは、主が計画されたことは必ず実現するということです。しかもその計画は恵みの御業であり、救いの計画です。神の民は、出エジプトをはじめとして、すでにそれを十分に経験してきました。主なる神はあらためて、ご自身の恵みの御業を遅れることなく成し遂げると約束しておられます。 そのご計画どおり、主イエス・キリストによって神の救いの御業が成し遂げられました。主が生きて働いておられるという、これ以上の証拠があるでしょうか。もはや、ここから離れることはできません。主は今も、私たちを担ってくださっています。 Sun, 13 May 2018 00:10:00 +0000 ペンテコステ(2)みなしごではない(ヨハネによる福音書 14章15-21節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180513 no 2018 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」 (ヨハネによる福音書14章18節~19節) 主イエスは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されます。 聖霊が降って、福音宣教へと遣わされた初代教会は、四方八方から迫害を受けて、確かに「みなしご」のような存在でした。しかし、この世的には「みなしご」のようであっても、その「みなしご」には天の御父がおられます。主イエスは、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と約束されました(16節)。「別の弁護者」である聖霊によって、永遠に一緒にいてくださるのです。 この世に遣わされた私たちは、確かに「みなしご」のような孤独を感じることがあるでしょう。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受け」るからです(2テモ3章12節)。しかし、その現実の中でキリストの御言葉が立ち上がります。主イエスの約束は真実なのです。 地上でどんなことが起ころうとも、キリストが共におられること、私たちが「みなしご」ではなく、「神の家族」であることが、聖霊によって保証されています。それがペンテコステの出来事なのです。 Sat, 12 May 2018 00:10:00 +0000 わたしが主、ほかにはいない(イザヤ書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180512 no 2018 日の昇るところから日の沈むところまで 人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。 わたしが主、ほかにはいない。 光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。 わたしが主、これらのことをするものである。 (イザヤ書45章6節~7節) 主は、異教の国ペルシアのキュロス王をご自身の器として立てられます。キュロスを立てた目的が三つ記されています。一つはキュロス王自身が主を知るため(3節)、二つめはイスラエルが解放され、救われるため(4節)、三つめは「日の昇るところから日の沈むところまで」、人々が主を知るようになるためです。 「土の器のかけらにすぎない」人間には、さまざまな疑問が湧き起こるでしょう(9節)。なぜ残酷なバビロン軍が神の民の裁きに用いられたのか。なぜ解放する者が異教の王なのか。しかし、それは粘土が陶工と争うようなことなのです(9、10節)。 主は言われます。「わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」。 主のご計画と導きは、計りがたく、しかも恵み深いものです。そして、「恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」のです(23節)。たとえ不合理に思えても、闇の中、災いの中にあるかのように思えても、すべては神の民の益のためにあることを信じましょう。 Fri, 11 May 2018 00:10:00 +0000 わたしはあなたを贖った(イザヤ書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180511 no 2018 わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 天よ、喜び歌え、主のなさったことを。 地の底よ、喜びの叫びをあげよ。 (イザヤ書44章22節~23節) 「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない」とあり、偶像を造り、拝む者の愚かさが示されます(9~20節)。それに対して、まことの神は「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主」であり、創造と摂理の神でもあります(2、6、24節)。その神は、さらに罪を霧のように吹き払い、罪を贖ってくださるお方です。 罪を贖ってくださることの象徴的な出来事の一つが、ユダヤの民をバビロン捕囚から解放してくださったことです。そのために、神はキュロスという一人の僕を立てて、それを実現してくださいました(26~28節)。 それは、さらなる真の救いを指し示しています。すなわち、一人の僕であり、一人の牧者である者が立てられ、罪の贖いが成し遂げられます。神は、主イエス・キリストを立てて、究極的な罪の贖いを完成してくださいました。 私たちに残されていることは、それを信じて主に立ち帰ることです。主のなさったことを喜び歌い、賛美することなのです。「天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ」。 Thu, 10 May 2018 00:10:00 +0000 あなたの背きの罪をぬぐい(イザヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180510 no 2018 わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい あなたの罪を思い出さないことにする。 (イザヤ書43章25節) イザヤ書は、神の救いを語ったかと思うと、イスラエルのかたくなさを語り、また再び神の救いを語るという対比を通して、神の救いの恵みを明らかにしています。 43章では、「あなたの罪」に対して「わたしが救う」ことが対比され、強調されています。「わたしは」という主語が示され、「贖う」「名を呼ぶ」「共にいる」「あなたを愛し」「連れ帰り」と続きます。きわめつけは、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(4節)、「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さない」でしょう。 私たちに当てはめてみましょう。主が私たちを贖ってくださる、主が私たちと共にいてくださる、主が私たちを愛してくださる、主が私たちを集めてくださる、主が、主ご自身のために、私たちの背きの罪をぬぐってくださる。 イスラエルがかたくなであっても主が救いを告げておられる、そのように、私たちの罪と愚かさにもかかわらず、主がご自身の御業として、救いを成し遂げてくださいます。そのために、主イエス・キリストが来られたのです。 Wed, 09 May 2018 00:10:00 +0000 新しいことをわたしは告げよう(イザヤ書 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180509 no 2018 見よ、初めのことは成就した。 新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 (イザヤ書42章9節) 神に選ばれたイスラエルの民は、本来、神の僕として、諸国に神の道を示す役割を果たすべきでした。ところが、そのイスラエル自身が神に背を向けてしまい、かたくなになってしまいました(18~25節)。 天地創造の神は、新しい御業を行うために、新しい僕を諸国の光として立ててくださいます。神ご自身が選び、喜び迎えられる僕、神ご自身の霊を置かれる僕です。その僕は、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」のない方法で、神の道とご支配を示します(3節)。諸国はその僕によって、神のご支配を知ります。それを知ったなら、賛美せざるを得ません。預言者は、「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」と告げます(10節)。 福音書は、イエス・キリストこそこの僕だと語ります。主イエスは、罪のゆえに傷つき弱っている私たちに、新しい神の御業、神の憐れみのご支配を示してくださいます。「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」してくださいます(16節)。私たちは、神の御業によって、新しい賛美に導かれるのです。 Tue, 08 May 2018 00:10:00 +0000 わたしはあなたと共にいる神(イザヤ書 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180508 no 2018 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。 (イザヤ書41章10節) ユダ王国を滅ぼしたバビロンは、ペルシアのキュロス王によって滅ぼされます。キュロス王によってユダヤの民は解放され、国の再建へと向かいます。そのような歴史の動きに対して、この41章は、「王たちを従わせたのは誰か」、「成し遂げたのは誰か」と言い、背後に神の働きがあることを主張します(2、4節)。 さらに、自然の営みの背後にも神の働きがあると指摘されます(18~20節)。偶像礼拝者は、その真実の前に沈黙せざるを得ません(28、29節)。 そのように、歴史と自然をご支配なさる神がおっしゃっています。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」。 新約時代に生きる私たちには、さらにインマヌエル(神は我々と共におられる)である主イエス・キリストが示されています。主イエスは、十字架によって私たちの僕となり、友となってくださいました。この主イエスを信じる者は、「わたしの愛する友アブラハムの末よ」(8節。ガラ3章7節参照)と呼ばれます。 歴史と自然を支配なさる神が、さらに救い主として私たちと共におられます。 Mon, 07 May 2018 00:10:00 +0000 力強い慰め(イザヤ書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180507 no 2018 ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。 (イザヤ書40章27節) 神の民は、自らの罪のゆえに捕囚の憂き目にあっています。絶望、不信、あきらめ、さまざまな思いにとらわれていたことでしょう。そこに、主からの慰めの言葉が語られます。その慰めの言葉が気休めで終わらないために、二つのことが確かでなければなりません。一つは、慰めてくださる主は、いま自分たちを支配している異国の力や神々よりも力強いのか。もう一つは、主は自分たちを見捨ててはおられないのか。 第一の問いに対しては、「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」と言い、神の創造の御業を歌い上げて、異国の神々は人間が作った偶像でしかないことをあばきます(12~26節)。 第二の問いに対しては、「なぜ『わたしの道は主に隠されている』、『わたしの裁きは神に忘れられた』などと言うのか」と言い、主は羊飼いのように顧みると諭します。主は決してご自分の羊を見捨てるお方ではありません。 天地創造の神が羊飼いのように神の民を守り、導いてくださいます。この慰めが私たちにも与えられています。「主に望みをおく人は新たな力を得」るのです(31節)。 Sun, 06 May 2018 00:10:00 +0000 ペンテコステ(1)もっと大きな業を(ヨハネによる福音書 14章1-14節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180506 no 2018 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」 (ヨハネによる福音書14章12節) 5月第3主日にペンテコステを迎えます。今月の主の日はペンテコステを感謝して、聖霊降臨の御業について学びます。 本日の箇所は、主イエスが十字架につけられる直前の告別説教です。十字架の死を目前にして、主イエスは弟子たちを力づけて、「心を騒がせるな」とおっしゃいました(1節)。主イエスの十字架の死が、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」ための神の御業だからです(3節)。 この約束が、ペンテコステにおいて実現しました。かつて心を騒がせていた弟子たちでしたが、今や聖霊によって天上の主イエスに結び合わせられて、苦難の中で雄々しくキリストを証しし、福音宣教に明け暮れる者へと変えられました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。これが聖霊によって実現したのです。 私たちも、小さな者ですが、「もっと大きな業を行う」ために召されています。主イエスは肉の目では見えませんが、聖霊によって、今、私たちの目の前におられます。私たちは何を恐れましょう。 Sat, 05 May 2018 00:10:00 +0000 神に献げることの喜び(テモテへの手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180505 no 2018 不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 (テモテへの手紙一6章17節~18節) 信仰の戦いの一つに、富にしがみつこうとする自分との戦いがあります。その戦いを放棄すると、この世の価値観によって信仰が無意識の内に蝕まれてしまいます。 ある長老がおっしゃっていました。「富を用いる判断基準を神に置くことを大切にして生きてきました。神様は、そのわたしを祝福して、必要をすべて満たしてくださいました。神様に信頼して献げることの幸いを皆に知っていただきたいと願っています」。 献げる行為は、すべてのキリスト者に与えられた神の恵みであり、特権です。献げることは、この世の富ではなく、神に信頼を置いていることの表明です。それゆえ、献げることが私たちの信仰を確かにし、この世の価値観から私たちを守ります。私たちは、「神の国と神の義を第一にするときに、すべて加えて与えられる」との信仰に立つのです(マタ6章33節参照)。 聖書は、「受けるよりは与える方が幸いである」と教えます(使20章35節)。与えることによって神と人に仕えることができるからです。献げる行為は恵みに満ちています。聖書が語る献げる喜びを深く味わいましょう。 Fri, 04 May 2018 00:10:00 +0000 尊敬と愛をもって諭す(テモテへの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180504 no 2018 老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。 (テモテへの手紙一5章1節~2節) 互いに赦し合うことは大切です。けれども、誰かの過ちに気づいたときに、それを放っておくことはよくありません。その人のためにならないばかりか、神の栄光が汚されることになりかねません。過ちに気づいたら、尊敬と愛をもって諭しましょう。 難しいことかもしれません。放っておくほうが楽だと思うかもしれません。けれども、過ちを犯したその人が、自分の罪に気づき、神に立ち帰るために、あなたの存在が必要とされているのです。 諭すときに大切にしたいことがあります。自分も神の御前に等しく罪人であることを常に心に留めるのです。決して裁くのではありません。祈りをもって備えて、罪の赦しを求めて共に神の御前に立ち、共に神の諭しを聞く姿勢で、言葉を届けましょう。主の聖霊が働いて、あなたの思いがきっとその人にも理解されるでしょう。 あなたが過ちを犯したとき、今度はその人が尊敬と愛をもって諭してくださるかもしれません。あなたにとってもそのような存在が必要です。尊敬と愛をもって互いに諭し合う、健やかな人間関係を祈り求めましょう。 Thu, 03 May 2018 00:10:00 +0000 生ける神に希望を置く(テモテへの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180503 no 2018 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。 …聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。 (テモテへの手紙一4章10節、13節) 伝道する中で、もっとああすればよかった、と思うことが多々あります。失敗をし、くよくよしては、自分を責め、誰かを責めたくなります。 そのようなわたしに先輩牧師が言葉をかけてくださいました。「伝道は失敗の連続だ。大切なことは下を向かないこと。神様は失敗さえ用いてくださる。希望を見て、上を向いてやっていこう」。伝道は神の御業であり、神に希望があると、あらためて教えてくださったのです。 ここでは、「聖書の朗読と勧めと教えに専念」するよう、教えられています。礼拝における説教がそれに当たるでしょう。また、教会で、あるいは個人的に、御言葉と教理を学ぶことでもあるでしょう。そこにおいて、生ける神が働いてくださいます。私たちではなく御言葉が、人を内側から造り変えるのです。私たちは、御言葉と聖霊において今も働いておられる神に信頼することができるのです。 それゆえ、目に見える有様は失敗に思えたとしても、神の国は前進しています。主なる神が「あの失敗にはこういう意味があったのだ」と教えてくださる日が、やがて必ず来るでしょう。 Wed, 02 May 2018 00:10:00 +0000 主イエスの道を歩もう(テモテへの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180502 no 2018 神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 (テモテへの手紙一3章15節) 主イエスはご自身を「道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました(ヨハ14章6節)。私たちは主イエスを信じて、道である主イエスに従う歩みをいたします。その道は、主イエス・キリストの体である教会と一つにされる歩みです。神の家とされている教会に、私たちの信仰生活の中心があります。 ところで、神について知ることと、神を知ることは違います。たとえば、お米について知っているとは、お米の種類や産地を知っているということでしょう。けれども、お米を知っているとは、お米を食べて、その美味しさを知っているということです。その意味で、真実に神を知り、神を喜ぶ生活をするのです。 第一に、教会において、私たちは神を真実に知る者とされます。礼拝において神の真理の御言葉が語られ、聞かれているからです。第二に、日毎の御言葉と祈りが大切です。これらを霊の糧として、私たちは真実に神を知り、主イエスのあとに従う道を歩むことへと導かれます。 主イエス・キリストは、御言葉と祈りによって、今も私たちと共におられます。主イエスの道を共に歩みましょう。 Tue, 01 May 2018 00:10:00 +0000 祈りによって誰かと共に(テモテへの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180501 no 2018 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 (テモテへの手紙一2章1節) 「祈るしかないですね」という言葉を聞くことがあります。けれども、本当に祈っているでしょうか。くよくよするだけで、祈らずに終わってしまうことはないでしょうか。祈ることができないのは、ひょっとすると、他人の苦しみを本当に理解し肩代わりすることはできないと思っているからかもしれません。 確かに私たちは、本当の意味で他人の苦しみを理解することはできないでしょう。けれども、わたし自身、祈られていることに助けられたことがあります。祈りには力があります。 祈りにおいて大切なことは、祈っている私たちが中心なのではなく、祈りを聞いてくださる生けるまことの神が中心におられるということです。そのお方は、私たち以上に私たちのことをご存じであり、憐れみ深く配慮してくださるお方です。祈りの力は、決して私たちにあるのではなく、神にあります。 「わたしには祈ることしかできない」、いいえ、むしろ「わたしには祈ることができる!」のです。あなたの執り成しの祈りを待っている人がいるでしょう。私たちは神を信頼して祈ります。 Mon, 30 Apr 2018 00:10:00 +0000 神の恵みに生きる(テモテへの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180430 no 2018 わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 (テモテへの手紙一1章15節~16節) 学生時代に母教会の牧師から教えられた、大切なことがあります。「イエス様の救いはすばらしい。こんな小さな者に神様はあり余る恵みを与えてくださった」。その牧師は、教会では素朴で裏表のない、面倒見の良い父親のような存在でした。その、自分を誇るのではなく主イエスを誇りとするお姿から、主イエスの救いの貴さを、言葉と背中で教えていただきました。 わたしはクリスチャンの家庭に育ちました。救いの恵みが頭ではわかっていても、心で理解することがなかなかできませんでした。そのようなわたしにとって、その牧師の存在は、救いの喜びに生きる人のモデルでした。 主なる神は、小ささや弱さにもかかわらず、私たちを恵みの器として選んでくださいます。罪深い私たちを憐れみ、忍耐し続けてくださいます。それによって、人の立派さではなく、神が恵み深く、偉大なお方であることがあらわされるのです。 立派であることが求められているのではありません。神の憐れみと忍耐のもとに置かれて、私たちは神の恵みをあらわす器として用いられます。 Sun, 29 Apr 2018 00:10:00 +0000 わたしは羊の門である(ヨハネによる福音書 10章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180429 no 2018 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」 (ヨハネによる福音書10章9節) 共通聖書日課は、復活節に読む個所として必ずヨハネによる福音書10章の「良い羊飼い」の御言葉を選びます。主イエスの復活の命にあずかって、主を信じて生きる生活そのものが、良い羊飼いに養われる幸いな羊の生活です。 7節と9節で主イエスは、「わたしは羊の門である」と言われ、一方で、そのあとに続く11節と14節では「わたしは良い羊飼い」であると告げられます。主イエスを通らずに救いを受け、命を得ることはできません。それに対して、偽りの羊飼いは主イエスを通らないままで羊のところへ来ます。自らが救われないだけでなく、羊の命を養い育てることも決してできません。 牧草を得るために門を出入りすることは、羊たちの毎日の生活そのものです。キリスト者もまた、命の門である主イエスから出て主イエスのもとに帰る生活を送ります。日々聖書を読み、主イエスの名により祈ることを欠かしません。それがキリストの復活の命に生きる生活です。私たちは、主イエスの声に聞き従い、他の声に従うことはありません。羊は主を知り主は羊を知る、この愛の交わりのうちに育まれるのです。 Sat, 28 Apr 2018 00:10:00 +0000 神への生活を支えるもの (ユダの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180428 no 2018 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。 (ユダの手紙1章) ヤコブの兄弟であるユダは、「わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたい」と、愛する教会に手紙をしたためました。それは、「主であるイエス・キリストを否定している」人たちがいるからです(4節)。その否定は、「神の恵みをみだらな楽しみに変え」、「みだらな行いにふけ」る生活に現れていました(4、7節)。 この人たちにとって、神の言葉と自分の生活とは、離ればなれのものでした。生活の中心から、「主であるイエス・キリスト」が見失われてしまっていたのです。主イエスへの畏れがなくなり、むしろ人にこびへつらうような言葉が教会を支配していました(16節)。 言葉を裏付けるのは、その人の生活です。しかし、私たちも時に言葉と生活が離れてしまうことがあります。だからこそ、神の言葉と生活が完全に一致したお方である主イエスに、何度も立ち帰る必要があるのです。 ユダは教会に勧めます。「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21節)。 Fri, 27 Apr 2018 00:10:00 +0000 神は必ず顧みてくださる(創世記 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180427 no 2018 ヨセフは兄弟たちに言った。 「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」 (創世記50章24節) ヤコブの死に続いて、ヨセフの死を記して、創世記は閉じられています。ヨセフもまた最期に信仰の言葉を語ります。ヤコブは、過去に神によって与えられた約束を見つめ、約束のしるしであるマクペラの洞穴に自分を埋葬するようにと言いました。一方、ヨセフは、より将来を強く見つめて信仰の言葉を語っています。神が必ず顧みてくださり、やがてエジプトから導き上ってくださると告げます。ヨセフは、神の約束の将来の実現を預言しています。創世記は、このヨセフの預言の言葉で結ばれています。 ある信仰者が、こんな言葉を語っておられました。「人生のもっともすばらしい瞬間は、これから先にある」と。若い人ではなく、年配の人がこう言われるのです。「人生」を「世界」という言葉に置き換えてもよいでしょう。 「しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださる」。ヨセフの子どもたちのためだけの御言葉ではありません。神の救いの御業の完成の日を待ち続けるすべての人のための恵みの言葉です。今を生きる私たちのための御言葉です。「アーメン」(その通りになります)と言うのみです。 Thu, 26 Apr 2018 00:10:00 +0000 はるかに仰ぎ見る(創世記 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180426 no 2018 ヤコブは息子たちに命じた。 「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」 (創世記49章29節) ヤコブの死の出来事については簡潔にしか記されていません。しかし、埋葬する場所については詳しく語られています。ヤコブは、自分の遺体をどこに葬るかについて指示をして息を引き取ります。 ヤコブは、自分の遺体を、「カナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴」に葬るようにと願います。そこは、アブラハムが、妻サラを葬るためにヘト人から買い取った土地です。このことには、先祖や妻の眠る墓に葬られたいという素朴な思いだけではない、もっと大きな意味があります。 このマクペラの洞穴は、アブラハム、イサク、ヤコブに、カナンで与えられた唯一の土地です。アブラハムの歩みは、神の約束を信じて始められました。神の約束は、カナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるというものでしたが、実際に与えられたのはこの一片の土地のみでした。けれども、この土地は神の約束の実現のしるしです。神の約束は目に見える仕方ではまだ実現していません。しかし、死を前にしたヤコブは、神の約束の実現を信仰の目を持ってはるかに仰ぎ見ています。「はるかに仰ぎ見る…」(讃美歌488)。 Wed, 25 Apr 2018 00:10:00 +0000 交差された手(創世記 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180425 no 2018 ヨセフは、父に言った。 「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」 ところが、父はそれを拒んで言った。 「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。」 (創世記48章18節~19節) 主イエスは十字架の死がご自身の使命であり、預言者が語ったとおり必ず実現することをご存じでした。時が近付くと、主は弟子たちにあらかじめ知らせましたが、弟子たちには理解力がなく、もだえる主イエスと共に祈るために目を覚ましている力すらありませんでした。 老齢のヤコブは病み、今は死を前にしています。ヨセフは、父ヤコブの病の知らせを聞き、二人の息子、マナセとエフライムを連れて、見舞いに行きます。ヤコブは見えなくなった目で、その孫たちを抱き、祝福します。 そこで不思議なことをヤコブはします。ヤコブの手は、左右に交差されたのです。ヤコブの祝福の右手は左側にいた弟のエフライムに、左手は右側にいたマナセに伸ばされます。通常は逆のはずでした。父のヨセフにとってもこのことは意外なことであったようです。ヨセフは、右手を長男の方に置き換えようとしますが、ヤコブはそれを拒み、「わたしには分かっている」と言います。 このことは何を意味するのでしょうか。この交差された手の背後に神がおられます。神の思いは人の思いと異なります。このことは創世記で繰り返されてきました。カインとアベル、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ…。主イエスも言われました。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタ20章16節)と。私たちも人の思いを超える神の恵みによって選ばれ、救われています。 Tue, 24 Apr 2018 00:10:00 +0000 人は変えられる(創世記 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180424 no 2018 ヤコブは、ファラオに答えた。 「わたしの旅路の年月は130年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」 (創世記47章9節) ヤコブは、一族と共にエジプトに行き、エジプトの王ファラオの前に立ちます。王の前に立つヤコブは、飢饉から逃れてきた難民、羊飼いの老人に過ぎません。しかし、ここでヤコブは、臆することなく冷静に王に相対しています。 王は、ヤコブに年齢を尋ねます。エジプト人は長寿に関心をもっていたからでしょう。ヤコブは王に答えて言います。「わたしの旅路の年月は130年です」と。ヤコブは、これまでの自分の人生を「旅路」と呼びます。生ける神と共にある旅路です。また、イサクの生涯は180年、アブラハムは175年であり、自分はそれには遠く及ばないとも語ります。 これは嘆きの言葉ではありません。使徒パウロの「わたしは、…決められた道を走りとおし…た」(2テモ4章7節)に似ています。慎ましい感謝の言葉です。7節にはヤコブが王を祝福したことも語られています。 人は変われるのかという問いがあります。祝福を奪い、争っていたヤコブの姿はここにはありません。ヤコブが、ではなく、神がヤコブを変えられたのです。神が人を変えられます。 Mon, 23 Apr 2018 00:10:00 +0000 神の大いなる物語(創世記 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180423 no 2018 神は言われた。 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。」 (創世記46章3節~4節) ヨセフとの再会を果たした兄弟たちは、父ヤコブのもとに戻ります。彼らは、ヨセフが生きていることを伝えます。当然のことながら、ヤコブはヨセフと会うことを願って旅立つ決心をします。 しかし、ヤコブには不安がありました。一つにはこの出発は、部族全体の大移動だからです。さらに、かつての父祖たちの経験がありました。ヤコブの父イサクは神からエジプトに下ることを禁じられました(26章2節)。祖父アブラハムは神の御心ではないのにエジプトに下ってしまう過ちを犯しました(12章)。そこで彼は、礼拝をささげます。御心を尋ねるためです。神はヤコブに語りかけ、御言葉をお与えになります。神はご自身の壮大な計画を打ち明けられます。 私たちは、ともすると自分の小さな物語に生きようとします。そして、その自分の物語が思うようにならなければ不安になったり恐れたりします。絶望してしまうこともあります。しかし、実は、私たちは神の大きな物語に生きることに招かれています。礼拝において告げられる神の言葉が私たちを広い所に立たせてくれます。 Sun, 22 Apr 2018 00:10:00 +0000 聖霊を受けなさい(ヨハネによる福音書 20章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180422 no 2018 トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。…イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ヨハネによる福音書20章25節~26節) 主イエスの復活は、十字架から数えて3日目、すなわち日曜日でした。復活の主はその日の夕方、集まっていた弟子たちに姿を現されました。しかし、トマスは、その場にいませんでした。 8日の後、つまり翌週の日曜日に、再び主イエスは来て、言われました。「あなたがたに平和があるように」。 主イエスは、特別にトマスだけに言われました。「あなたの指をここに当てなさい、手をわき腹に入れなさい」。復活を疑うトマスのために主は来られました。主はトマスに命じます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。自らを恥じて直ちに信仰を告白したトマスは、「見ることにより、体験することによって、信じた弟子」かもしれません。けれども、主の憐れみが確かにトマスを捕らえたのです。 「見ないで信じる者は幸いである」。トマスと同様に疑ってしまう私たちかもしれません。けれども、私たちにも憐れみが注がれています。主イエスは息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われました。私たちは主の霊、聖霊によって信じます。そして、主イエスを信じないこの世界に遣わされるのです。 Sat, 21 Apr 2018 00:10:00 +0000 苦難の意味(創世記 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180421 no 2018 「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」 (創世記45章7節~8節) ユダと兄弟たちが罪を告白したことによって、ヨセフの閉じた心が開かれます。彼はとうとう耐えきれなくなって、自分の正体を明かします。宮廷全体に響き渡るほどの声をあげて泣き出します。そして、ヨセフの口から、これまでのすべてのことの意味を解き明かす、信仰の言葉が語られます。「神が、このことに働いておられた。神が救いの御業のためにこのことをなさったのだ」と。 ヨセフが穴に落とされてから22年の時が過ぎています。神の時計はゆっくり時を刻みます。ある神学者は、「神学は世紀単位で考える」と言っています。私たちは何でもすぐに解決をしたくなります。しかし、神は多くの場合、ゆっくりとご自身の御心を実現していかれます。 私たちの身の周りにも、「なぜこんなことが」と思うようなことが起こることがあります。苦難は苦難そのものの苦しみだけではなく、苦難を与えられた意味がわからないということにこそあります。その意味は、すぐには明らかにされません。けれども、やがて神の時の中で、そのことが解き明かされる日が来ます。 Fri, 20 Apr 2018 00:10:00 +0000 ひれ伏して罪を告白する(創世記 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180420 no 2018 ユダが答えた。 「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。」 (創世記44章16節) 再びエジプトに戻って来た兄たちを、ヨセフはさらに試みます。ベニヤミンがヨセフの銀の杯を盗んだと疑われるような仕掛けをして、彼らを責め立てます。そのとき兄たちは、ヨセフの前にひれ伏します。そして、兄弟たちを代表してユダが語ります。 ユダは、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言います。この言葉は、「神は私たちの罪を見出した」、「神が私たちの罪に到達された」とも訳すことのできる言葉です。銀の杯のことは、全くの濡れ衣でした。彼らに暴かれなければならない罪はないはずです。「身に覚えはない」と言い張るのが普通です。それならなぜ、このようにユダは語るのでしょうか。 ユダも兄弟たちも、これまでの出来事から、神がすべてをご存じで、22年前の出来事を今、暴かれている、裁かれている、そう思ったのです。 兄弟たちは今、ひれ伏しています。ヨセフが若い日に見た夢が、時を経て実現しています。でも兄たちは、ただヨセフの前にひれ伏していたのではありません。神の裁きの座の前にひれ伏していました。私たちも皆、そうするほかありません。 Thu, 19 Apr 2018 00:10:00 +0000 シャロームの回復(創世記 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180419 no 2018 執事は、「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。」 (創世記43章23節) 創世記のヨセフ物語にはテーマがあります。それは平和、シャロームです。信仰の家の平和の喪失と回復です。 43章では、ヨセフの兄たちは、シメオンを人質に残し、食糧を携えて父のもとに戻ります。それから再び、約束どおり末の弟ベニヤミンを連れてエジプトに向かいます。彼らは、ヨセフの屋敷の前に着いたとき、袋に入っていた銀について執事に正直に打ち明け、相談します。すると執事は挨拶をします。「御安心なさい。心配することはありません」と。執事はここで、「あなたがたにシャロームがあるように」と言っています。この挨拶は大切な意味を持っています。 37章4節に、兄たちは「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」とありました。これは「シャロームの挨拶ができなくなった」という言葉です。ここから一つの家の平和が崩れていきました。しかし、ここで、不思議にもその挨拶が彼らになされています。壊れた平和が回復され始めているのです。 「シャローム」、復活のキリストもこう挨拶をされました。私たちの平和の再建もここからすでに始まっています。 Wed, 18 Apr 2018 00:10:00 +0000 生きるために必要なこと(創世記 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180418 no 2018 彼らは同意して、互いに言った。 「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」 (創世記42章20節~21節) 夢の解き明かしのとおり、飢饉はエジプトを、また世界の町々をも襲います。そこで大臣ヨセフは、倉を開き、蓄えた食糧を国内だけでなく、世界各地の人々に売る施策を実行します(41章)。 大飢饉は、パレスチナにも及び、やがてヤコブと兄弟たちも食べるにも窮するようになります。そのような中、エジプトの穀倉の噂をヤコブも聞きます。ヤコブは、ベニヤミンを除く十人の子どもたちをエジプトに遣わします。こうして彼らはエジプトで、ヨセフの前に立ちます。ヨセフはすぐに兄たちだと気づきましたが、兄たちはヨセフに気づきません。ヨセフは兄たちを厳しく尋問し、兄たちと対話を始めます。この対話の中で、やがて兄たちは、長い間、隠し続けてきた罪を告白するに至ります。 20年を経ても罪が彼らに暗い力を持ち続けていたことを、創世記は語っています。罪に時効はありません。肉の糧を求めてエジプトに来た彼らでしたが、本当に必要としていたのは、罪の赦しでした。それは、今も全世界の人々に必要なことです。「人はパンだけで生きるものではない。…」(マタ4章4節)。 Tue, 17 Apr 2018 00:10:00 +0000 わたしではなく、神が(創世記 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180417 no 2018 ヨセフはファラオに答えた。 「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」 (創世記41章16節) ヨセフが、エジプトに売り渡されてから13年が過ぎ、彼はもう30歳になっています。まだ彼は獄中生活を続けています。しかし、ある日突然、彼は牢獄から連れ出され、身なりを整えさせられて、ファラオの前に立たされることになりました。 ヨセフが引き出されたのは、王が見た奇妙な夢のためでした。その夢は、よく肥えた7頭の雌牛と、それを食い尽くす痩せた雌牛の夢。さらには、よく実った7つの穂とそれをのみ込む干からびた7つの穂の夢でした。エジプトの知者は誰もこの夢を解くことができませんでした。その時、給仕役の長が2年の間忘れていたヨセフのことを思い出して、王にヨセフのことを話します。王はヨセフに見た夢を解くように命じます。 そこでヨセフは獄中の生活を支えてきた信仰を言い表します。それは、「わたしではなく、神が」という信仰です。夢の解き明かしでも、「神が」は繰り返し語られています(25、28、32節)。 「わたしではなく、神が」。これは神への信頼に立つ信仰であり、一切の栄光を神に帰する信仰です。私たちもこの信仰に生きます。 Mon, 16 Apr 2018 00:10:00 +0000 忘れ去られる不安 (創世記 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180416 no 2018 「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。…」 ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。 (創世記40章14節~23節) ある神学者が「忘れ去られる不安」について語っています。私たちの生きる今日の社会は、一人の人間がそこにいることが実に簡単に忘れ去られてしまうような社会です。また、この不安は人の死の不安とも重なっています。死は、永遠に忘れられてしまうことに思われるからです。 ここには、ポティファルの妻による事件後の、ヨセフの獄中生活が書かれています。獄中でヨセフは、給仕役の長と料理役の長のそれぞれの夢を解き明かします。ヨセフは、給仕役の長の見た夢は、3日の後にファラオが復帰を許すことを意味していると解き明かします。ヨセフは、夢が実現して監獄から出され、幸せになったときには、わたしのことを思い出して、ファラオに執り成して欲しいと願います。ところが、彼はヨセフのことを、「思い出さず、忘れてしまった」と記されています。 人は忘れても、神はヨセフのことを覚えておられます。十字架につけられた主イエスも私たちのことを忘れ去られません。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23章42節)。この祈りは直ちに聞かれます。 Sun, 15 Apr 2018 00:10:00 +0000 一緒にお泊まりください(ルカによる福音書 24章13-35節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180415 no 2018 二人が、「一緒にお泊まりください…」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 (ルカによる福音書24章29節~31節) 二人の弟子が、主イエスの死について語りながらエマオ村を目指していました。そこへ突然、復活のイエスが近づき問いかけます。「その話は何のことですか」。彼らは、「イスラエルを解放するはずの力ある預言者が十字架につけられて殺され、その遺体も失われてしまった」と悲しそうに答えました。 二人が思い描くメシア(=キリスト)は、この世的・政治的な解放者でした。しかし、聖書が語る真のメシアは「苦しみを受けて栄光に入る」メシア(=キリスト)です。 主イエスは、歩きながら二人に聖書全体を解き明かし、「御自分について」、すなわち救い主キリストについて語られました。それは、「聴きながら二人の心が燃えた」すばらしい御言葉体験でした。二人の心は燃やされ、さらに御言葉を聞くために願いました。「一緒にお泊りください」と。食事のとき、二人の目が開かれ、主イエスと分かりました。主イエスは姿を消し、二人はエルサレムに引き返し、復活の証人となりました。 教会では、真の救い主、復活のキリストが解き明かされます。御言葉に心燃やされる礼拝をささげましょう。 Sat, 14 Apr 2018 00:10:00 +0000 泣きっ面に蜂の人生に(創世記 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180414 no 2018 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。 (創世記39章2節) 兄たちによって穴に落とされ、やがてイシュマエル人に売り渡されたヨセフは、エジプトに連れてこられています。ファラオの宮廷の役人で、侍従長をしているポティファルという人の下にいます。かつては何不自由のない恵まれた環境にいたヨセフですが、今は売られて奴隷となっています。 さらにこの彼を苦難が襲います。ポティファルの妻の誘惑をヨセフは拒みます。すると彼女は逆に、奴隷であるヨセフに誘惑されたと主人に訴えます。主人は怒り、無実であるにもかかわらずヨセフを監獄に入れます。穴に落とされてからのヨセフの人生は、「泣きっ面に蜂」の不運な人生と言わなければならないでしょう。 しかし、聖書はこのヨセフについて驚くべきことを語ります。この箇所で、「主が共におられた」と何度も繰り返して語られているのです(2、3、21節ほか)。2節は、「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり」(口語訳)とも訳されます。主が共におられる幸運な人生は、何も辛い目に遭わない人生ではありません。苦難の中でも守られ、支えられる人生です。 Fri, 13 Apr 2018 00:10:00 +0000 ユダ族のはじまり(創世記 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180413 no 2018 ユダは調べて言った。 「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」 (創世記38章26節) ユダはカナン人の妻をめとり、エル、オナン、シェラという三人の子をもうけます。やがて長男のエルはタマルと結婚しますが、エルは若くして主に背いて死んでしまいます。当時の掟によって次男のオナンが、タマルに責任を負わなければなりませんが、その義務を果たすことなく彼も死んでしまいます。さらに、三男のシェラまで死ぬことを恐れたユダは、シェラにタマルへの義務を負わせず、タマルを実家に帰してしまいます。 何年かの後、タマルは神殿娼婦になりすまして舅のユダと関係し、子を宿します。ここに記されているのはタマルの罪でしょうか。そうではありません。ユダとその家の罪です。タマルはユダより正しいのです。 ユダ族は、イスラエルの十二部族のなかの代表的な氏族になっていきます。そのユダ族のはじまりがここに記されています。それはまことに罪深いものでした。しかし、聖書は事実を正直に記録しています。神の憐れみを信じるからです。やがて「ユダはタマルによって…」と主イエス・キリストの系図にもこのことは記されます(マタ1章3節)。 Thu, 12 Apr 2018 00:10:00 +0000 神は密かに働かれる (創世記 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180412 no 2018 ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。 (創世記37章23節~24節) ヤコブは、兄弟たちのなかでヨセフだけを溺愛し、兄たちは次第にヨセフを妬み、憎むようになります。ヨセフは、父や兄たちが自分を拝むようになるという夢を兄たちに語り、兄たちにひどく憤慨されます。 夢は、当時、神の啓示の手段とされていました。夢を兄たちに得意げに語るヨセフ、また夢を嘲る兄たち(19、20節)、双方に生ける神への畏れは見られません。その後、ヨセフは父の使いでドタンの荒れ野で羊の群れの世話をしていた兄たちのもとに行き、そこで事件が起こります。兄たちはヨセフを穴に突き落として殺そうとします。しかし、土壇場でヨセフの命は失われず、エジプトに売られることになります。 信仰の家が神に背き離れることによって崩壊する様が描かれており、ここを読む時、暗澹たる思いになります。しかし、創世記は同時に、人間のどうしようもない罪の悲惨の中で密かに働かれる神がおられることをここで語っています。「穴は空で水はなかった」ことが、そのしるしの一つです。神は今も私たちの間で確かに生きて働いておられます。 Wed, 11 Apr 2018 00:10:00 +0000 神に取り扱われる生涯(創世記 35-36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180411 no 2018 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れて彼を祝福された。神は彼に言われた。 「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」 (創世記35章9節~10節) ヤコブは神から、ベテルへ行き、そこに住み、その地に祭壇を造るように告げられました。ベテルはかつてヤコブがハランへ逃れたとき、石を枕にした彼に神が語り掛けて、彼と共にいて、必ずここへ帰らせてくださること、この土地を与えることを約束してくださった場所です。ヤコブにとって父母を離れた旅の出発点であり、また終点でもありました。 彼はその場所に再び戻りました。しかも「一族の者すべてと共に」とあるように(6節)、豊かに恵みを与えられて戻るのです。そこで「あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる」と告げられました。 「兄が弟に仕える」と言われたとおり、ヤコブが神の契約の祝福を受け継ぎました。しかも彼はもはやかかとをつかむ者ではありません。兄や父を騙して祝福を得ようとする者ではなく、ただ神の恵みによって祝福を受け継ぐ者とされたのです。 神に取り扱われたヤコブの生涯は、「霊的な神の民イスラエル」とされた私たちの生涯と重なります。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」のです(詩23編6節)。 Tue, 10 Apr 2018 00:10:00 +0000 神による兄弟の再会と和解(創世記 33-34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180410 no 2018 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。 (創世記33章3節~4節) ヤコブは、兄エサウとの再会のとき、兄が4百人の者を引き連れて来るのを見て、とても緊張したと思います。ヤコブは兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏し、へりくだった姿勢で臨みました。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣きました。兄弟は和解へと導かれたのです。エサウは長子の特権については、自分のものではないことをすでに認めていたのでしょう。 「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから」と、ヤコブは言っています(10節)。彼はかつて自分を憎んでいた兄エサウが、自分の予想を超えて温かく迎えるように変わったことに、神が自分に温かく関わってくださっていることが反映されていると見ています。 ヤコブは兄との再会に緊張しつつ備えて来ましたが、主ご自身がエサウにも働きかけ、すべてを整えてくださったのです。神は私たちを温かく扱ってくださっています。その恵みは相手にも及んでいくのです。 Mon, 09 Apr 2018 00:10:00 +0000 神との格闘-神に砕かれる祝福-(創世記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180409 no 2018 「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 (創世記32章29節) ラバンの許を去ったヤコブは、かつて自分に騙され、自分を殺そうとした兄エサウとの再会に備えます。それはヤコブにとって極度の緊張を伴うものでした。再会のための段取りを整えたヤコブでしたが、なお不安は消えません。 そのようなとき、何者かがヤコブと夜明けまで格闘しました。その人はヤコブに勝てないと見て、ヤコブの腿の関節を打ったので、腿の関節ははずれてしまいました。去ろうとするその人に、ヤコブは「祝福してくださるまでは離しません」と言って食い下がります。 これは、ヤコブにとって神の祝福を求める祈りの格闘でした。ヤコブはこの戦いに勝利し、イスラエル(神と争う)という名を与えられました。彼は祈りの格闘において、神に勝ったのです。 しかし、その前に腿の関節をはずされ、無力とされました。これは、ヤコブが神に砕かれ、神に対して敗北したことを意味します。同時にそれが、神から祝福をいただく勝利でもありました。このように神に屈服し、神に敗北するとき、私たちは本当の勝利と平安をいただくのです。 Sun, 08 Apr 2018 00:10:00 +0000 あなたがたを遣わす(ヨハネによる福音書 20章19-31節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180408 no 2018 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 (ヨハネによる福音書20章21節~23節) 主イエスが復活された日曜日、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、戸に鍵をかけ、自分たちだけで集まっていました。これは異教的環境の中に置かれた現代日本の教会の姿にも似ていないでしょうか。 しかし、復活の主は扉をこえて来られ、弟子たちの真ん中に立たれ、「平和があるように」と言われました。主は、恐れではなく平安をくださるお方です。死をさえも打ち破られた主には、どのような隔ての壁もありません。 主は改めてご自分が神の子であると告げ、「わたしもあなたがたを遣わす」と弟子たちを世に派遣なさいました。人が心の中に造り上げた壁を完全に打ち破り、全世界に福音を宣べ伝えよと命じられました。 弟子たちは主イエスから受ける神の息、聖霊によって力を与えられ、扉を開けて新しい歩みを始めます。恐る恐る世に出ていく私たちには、すべてに勝利された復活の主がいつも共にいてくださいます。福音には救いの力があります。新しい命の初穂として復活された主ご自身が力あるお方だからです。主イエスにはどのような壁もなく、恐れも闇もありません。 Sat, 07 Apr 2018 00:10:00 +0000 しかし神は(創世記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180407 no 2018 「『ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」 (創世記31章12節~13節) ヤコブは伯父ラバンの許を去り、故郷へ帰る決意をします。豊かになったヤコブを、ラバンもその息子たちも良く思っていなかったこと、さらに神のご指示があったことが、その理由です。 ヤコブは妻たちに、「最近、気づいたのだが、あなたたちのお父さんは、わたしに対して以前とは態度が変わった。しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった」(5節)、「わたしをだまして、わたしの報酬を十回も変えた。しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった」(7節)と語っています。また、追跡してきたラバンにヤコブはこう言います。「神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです」(42節)。 かつて父と兄を欺いたヤコブが、ラバンに欺かれる経験を重ねながら、「しかし神は」と告白できる信仰へと導かれたことに、心惹かれます。私たちは日々さまざまな経験をしています。自分に好意的でない人もいるでしょう。「しかし神はずっと共にいてくださる」ことを信じて、きょうも歩みましょう。 Fri, 06 Apr 2018 00:10:00 +0000 実現する神のご計画(創世記 29-30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180406 no 2018 ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった。 (創世記30章43節) 兄から逃亡したヤコブは伯父ラバンの娘ラケルに出会い、彼女との結婚を望みます。しかしラバンに騙され、ラケルの姉レアと結婚しますが、さらにラケルと結婚するために合計14年間働かされました。兄と父を欺いたヤコブは、さらに狡猾なラバンに欺かれたのです。 また、妻となったラケルとレアの対立と争いによっても悩まされましたが、ヤコブには11人の息子たちが与えられました。ここには、神の忍耐と憐れみがあるとしか言いようがありません。 30章には、報酬をめぐるラバンとヤコブの駆け引きが描かれます。ヤコブは20年にわたる伯父の許での生活で、ラバンに騙されながらも、息子たち、家畜など、多くの財産を得ます。彼を通してラバンの財産も増えました。ヤコブは、それを神の祝福として理解しています。 神は人間的な駆け引きの中においてもヤコブへの約束を確かに実行なさり、ヤコブの信仰をも導かれました。人間の思いに妨げられない神の救いの御業の確かさをここに見ることができます。 Thu, 05 Apr 2018 00:10:00 +0000 罪深い私たちを神はお見捨てにならない(創世記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180405 no 2018 「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 (創世記28章15節) ヤコブは兄エサウから逃れて、遠く伯父ラバンのところへ旅立ちました。その原因は、二度にわたって兄から長子の特権を奪い取ったことにありました。そのために兄だけでなく、父イサクをも欺いたのです。ですから、ヤコブの孤独で厳しい逃避行の原因は、ほかならぬヤコブ自身にありました。 旅の途中、石を枕に夜を過ごすヤコブに、神は語りかけてくださいました。ヤコブが夢で見た「先端が天まで達する階段」は、神と人間の間がつながることを表しています。自分の罪のために家族関係が最悪の状況に陥り、約束の地を離れるヤコブに、神はご自分とヤコブの間がつながる恵みを示してくださったのです。そして、彼が契約を受け継ぐこと、必ず彼をこの約束の地へ連れ帰ることを約束してくださいました。 自分の罪のために悲惨な状況に陥り、孤独になった者をさえ、神はお見捨てにならず、どこへ行っても共にいてくださいます。キリストによって救いの恵みを受け継ぐ者としてくださるのです。ヤコブの神こそ私たちの希望です。 Wed, 04 Apr 2018 00:10:00 +0000 人間の罪と神のご計画 (創世記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180404 no 2018 そこで、彼は祝福しようとして、言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えよう。」 (創世記27章23節~25節) 27章には、ヤコブが父イサクを騙して祝福を奪い取る場面が出てきます。 母リベカの発案で周到な偽装工作が行われました。父の好きな料理、毛皮、エサウの晴れ着…。ヤコブは、はじめは不安でしたが、父の前に出た時には一貫して父を騙し通します。ヤコブが父を騙す場面は、緊張感に満ちています。息子の帰宅が早いことに疑問を抱く父にヤコブは、「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」と言って、嘘を貫くために神の名を語るという罪まで犯します。親愛を表す口づけも、騙すための手段にしています。ヤコブのずるがしこい罪の性質がエスカレートし、頂点に達した場面と言うことができるでしょう。 自分が偏愛するエサウを祝福しようとしたイサク、長子の権利を軽んじたエサウ、夫を騙して自分が偏愛するヤコブに祝福を受け継がせようとしたリベカ、それぞれの思惑、罪があります。しかし、人間の思惑や計画を越えて、神はヤコブに契約を受け継がせるというご自身の計画を実行していかれます。 Tue, 03 Apr 2018 00:10:00 +0000 神の恵みの担い手として生きる幸い(創世記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180403 no 2018 その夜、主が現れて言われた。 「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。 恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。 わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす わが僕アブラハムのゆえに。」 (創世記26章24節) イサクは飢饉を逃れてペリシテ人の王アビメレクのところへ行き、神の命令によって、その土地に滞在しました。ところが、イサクは神が守ってくださることに委ねきることができず、身の安全のために妻リベカを妹だと偽りました。それにもかかわらず、イサクは主の祝福を受けて、豊かにされました。 豊かになった彼は、その地の人びとの反感を買い、周囲との衝突を避けるため移動しなければなりませんでした。その移動先でも井戸をめぐるトラブルに巻き込まれます。しかし、彼は井戸を掘り続けて、新しい井戸を与えられます。その後、アビメレクが彼と平和協定を申し出て、互いに誓いを交わしました。 イサクに注がれた神の恵みは、不信仰やトラブルによって変わることがありませんでした。神はイサクに、「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる」と語り、アブラハム契約の更新を確認してくださいました。寄留者としての厳しい環境の中を生きるイサクに、神は共にいてくださり、彼を神の祝福の担い手として歩ませてくださいました。その恵みが、やがてヤコブに受け継がれていきます。 Mon, 02 Apr 2018 00:10:00 +0000 神の救いの確かさ(創世記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180402 no 2018 「二つの国民があなたの胎内に宿っており 二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。 一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」 (創世記25章23節) ヤコブと双子の兄エサウが母の胎内にいるとき、神は母リベカに、兄が弟に仕えるようになるとお告げになりました。これはアブラハムからイサクに受け継がれた神の契約の祝福を、弟ヤコブが受け継ぐことを意味します。 二人が成長したある日、ヤコブは狩りから帰ってきた空腹の兄エサウから、自分が作った煮物と引き換えに長子の権利を譲らせることに成功します。エサウは神の契約を軽んじました。 しかしヤコブが契約を受け継ぐにふさわしい人物だったかというと、そうではありません。ヤコブは神の契約の祝福を、兄の空腹と弱さにつけこんで手に入れようとするずる賢い人間でした。それにもかかわらず神はヤコブを選ばれました。選ばれた理由はヤコブ自身にはありません。ただ神の自由なご意志によるのです。 私たちが神によって救いの恵みを受け継ぐ者とされたのも同じです。ただ神のご意志によるのです。だからこそ私たちの救いは確かです。だからこそ私たちは一切を神の栄光に帰し、神を賛美します。主の御名をほめたたえようではありませんか。 Sun, 01 Apr 2018 00:10:00 +0000 夜明けの出会い(マタイによる福音書 28章1-10節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180401 no 2018 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 (マタイによる福音書28章9節~10節) 復活の主イエスと最初に出会ったのは、マグダラのマリアともう一人のマリアという二人のマリアでした。十字架の時、男の弟子たちは逃げ去りましたが、彼女たちはその場にとどまり、主イエスの十字架の死を見届けました。その彼女たちが、主イエスの復活の最初の証人となりました。 そして、それは日曜日のまだほの暗い明け方でした。彼女たちが墓を訪ねると、待っていたかのように地震が起き、主の天使が天から降って、入口の大きな石を転がしました。墓の番兵は気を失い、彼女たちは天使に促されて墓に入りました。しかしすでに遺体はなかったのです。天使は告げました。「あの方は死者の中から復活された。…ガリラヤで…お目にかかれる」(7節)。 彼女たちが男の弟子たちのところへ走る途上、復活の主イエスが行く手に現れ、語りかけました。「おはよう(カイレテ)」。このギリシア語は、「安かれ」「平安あれ」「喜べ(リジョイス)」とも訳されます。確かに主イエスは二人のマリアに告げられたのです。わたしはよみがえった、安かれ!喜べ!。復活の主は今も私たちと共におられます。 Sat, 31 Mar 2018 00:10:00 +0000 主イエスの埋葬(ヨハネによる福音書 19章38-42節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180331 no 2018 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。 (ヨハネによる福音書19章40節~41節) 十字架で処刑された者は、十字架の上に放置され腐敗するまま放って置かれたと言われています。しかし、ユダヤ人たちは遺体の埋葬を重んじていました。ピラトも、ユダヤ人の死刑囚の場合には申し出があれば埋葬を許可していたようです。 この時、主イエスの埋葬のために、主イエスの弟子であることを隠していたアリマタヤのヨセフと、かつて人知れず夜に主イエスを訪ねたニコデモが用いられます。ヨセフは勇気を出して主イエスの埋葬を願いました。ニコデモは大量の香料を用意しました。神は二人の有力者を用いて王の埋葬のように主イエスの遺体に香料を添えて埋葬するように導かれました。 こうして、十字架の処刑と埋葬によって主イエスの死が明らかになります。主イエスは私たちの身代わりとなって神の裁きを引き受けてくださり、ご自身を犠牲とされました。ピラトもユダヤ人もこれで終わったと思ったことでしょう。 しかし、翌日の朝、驚くべきことが起こります。明日のリジョイスを楽しみに待ちましょう。 Fri, 30 Mar 2018 00:10:00 +0000 真理とは何か(ヨハネによる福音書 18章1節-19章37節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180330 no 2018 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。…真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」 (ヨハネによる福音書18章37節~38節) 大祭司カイアファは主イエスを尋問した後に、ローマの総督ピラトのもとに主イエスを連れて行きました。ユダヤ人には人を死刑にする権限がなかったからです。そこでピラトが主イエスを尋問することになりました。ユダヤ人は主イエスがユダヤ人の王を自称したと訴えます。 ピラトは主イエスを尋問します。そこで、主は「わたしの国はこの世に属していない」と答えられました。ピラトは「それでは、やはり王なのか」と質問を重ねます。主イエスはローマ人が考える地上の王ではありません。そうではなく、真理について証しをするために来たと言われます。この処刑の直前においても主イエスはご自身を証しし、ピラトに伝道をされました。 しかし、ピラトは、その言葉の重みを受け止め切れません。「真理とは何か」と問いましたが、もうそれ以上に聞くことはありませんでした。 主イエスはかつて「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。命の道を開く方は主イエスだけです。そのために主イエスは十字架の道に向かわれるのです。そこに主イエスの真理があります。 Thu, 29 Mar 2018 00:10:00 +0000 弟子の足を洗う主イエス(ヨハネによる福音書 13章1-17節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180329 no 2018 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り…たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い…ふき始められた。 (ヨハネによる福音書13章3節~5節) 主イエスが弟子たちの足を洗われたことを記念して、教会の暦では受難週の木曜日を洗足の木曜日と呼んでいます。この時、主イエスは父からすべてがご自分に委ねられたことを悟り、食卓の席を立ち弟子たちの足を洗われました。 マタイ福音書は、主イエスが天と地の一切の権能を授けられたことを、復活の後に記しました。ヨハネ福音書は、そのことが既に十字架に向かう前日の木曜日に起こっていると記しています。 ここには、すべてを委ねられた王であられる主イエスが、弟子たちの足を洗い、弟子たちを愛し抜かれ、その愛のゆえに低きに立ち、十字架に向かわれることが示されています。また、上着を脱ぐことは命を脱いで置くことを示し、弟子たちの足を洗うことは人々の奴隷として仕えることを示し、再び上着を着ることは命を受けることを示しています。 ですから、上着を脱ぎ、着ることで、奴隷として低いところに立つ姿を示す洗足の行為は、これから、主イエスが十字架において犠牲となられ、そののち復活される歩みを示しています。 Wed, 28 Mar 2018 00:10:00 +0000 裏切りの予告 (ヨハネによる福音書 13章21-32節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180328 no 2018 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 (ヨハネによる福音書13章21節) 主イエスはすべてをご存じでした。ですから、主イエスの十字架の苦難は、突発的な事故ではありません。しかし、すべてをご承知でありながら主は「心を騒がせ」ておられます。 古代教会の指導者アウグスティヌスは、この主イエスのお姿を「わたしたちに代わって死にたもう方は、同じくわたしたちに代わって心を騒がせておられるのである」と語り、さらに、「ご自分の意志によって弱いものと等しくなることによってその弱い者たちをご自分の体の中で、つまりご自分の教会の中で、慰めるためである」と語りました。また、「キリスト教徒の心は、悲惨によってではなく、憐れみの心によって動かされる」とも語っています。 主イエスは、ユダが滅びに向かっていることを憐れみ、警告されました。そして同時に、ご自身が向かわれる厳しい死の現実を引き受け、死の恐怖におののく私たち人間の苦痛、不安と恐れをすべて引き受けてくださいました。ここには、その主の姿が示されています。主イエスは、そこまで身を低くして私たちの傍らに来てくださる救い主なのです。 Tue, 27 Mar 2018 00:10:00 +0000 一粒の麦(ヨハネによる福音書 12章20-36節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180327 no 2018 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 (ヨハネによる福音書12章23節~24節) 主イエスのもとにユダヤ教に改宗したギリシア人がやって来ました。すでに主の教えがギリシア人にまで伝わっていました。世界が福音を待っているかのようです。 そこで主イエスは一粒の種の譬えを語られました。主イエスが十字架におかかりになることが、一粒の種が地に落ちて死ぬことに譬えられています。種は地に落ちて発芽します。そして根が張り、葉が伸びて多くの実を結びます。その時には種は種としてはもはや存在しません。種は実を結び、実として生まれ変わります。 主イエスはこの後、十字架刑で処刑されます。そしてお体は種が地に落ちるように、墓に葬られます。その十字架の死は新しい多くの実を生み出すための犠牲です。主イエスは墓から復活されます。その復活の命は主イエスを信じるすべての者に与えられます。復活の命は一粒で終わりません。主は、種として犠牲になることによって栄光を現されます。 そして、復活の命を全世界の主の民に与えてくださいます。復活の命に与る多くの実が実ります。その中に私たちも招かれています。 Mon, 26 Mar 2018 00:10:00 +0000 ラザロとの食卓と葬りの備え(ヨハネによる福音書 12章1-11節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180326 no 2018 過越祭の6日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。…ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。イエスは言われた。「…わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」 (ヨハネによる福音書12章1節~2節、7節) 過越祭の6日前のことです。主イエスは再びベタニアのマルタとマリアの家に行かれました。そこには、主イエスが墓から呼び出されたラザロがおりました(11章44節)。マルタとマリアは、弟を死者の中から生き返らせた主イエスに感謝して、夕食を用意します。生き返ったラザロと主イエスとマルタとマリアたちが、共に食卓の席についています。 マルタとマリアの姉妹は弟のラザロが亡くなって、彼を墓に葬った時に、このように再び食卓を囲むことができるようになるとは思いも寄らなかったでしょう。姉妹たちは主イエスの力ある業に感謝をしました。そこで、マリアは、一見、不可思議にも見える行動を取りました。主イエスの足に純粋で高価なナルドの香油を塗ったのです。弟子の一人ユダはその行動を批判しました。しかし、マリアのしたことは、主イエスの葬りの備えとなりました。 この後、主イエスは十字架にかけられます。そして墓に葬られます。しかし、日曜日には復活されます。主イエスは、私たちを復活の命に招くために十字架への道を歩まれます。 Sun, 25 Mar 2018 00:10:00 +0000 試練を乗り越える備え(マルコによる福音書 27章11-54節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180325 no 2018 イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マルコによる福音書27章46節) 主イエスは十字架の死がご自身の使命であり、預言者が語ったとおり必ず実現することをご存じでした。時が近付くと、主は弟子たちにあらかじめ知らせましたが、弟子たちには理解力がなく、もだえる主イエスと共に祈るために目を覚ましている力すらありませんでした。 主はもだえておられましたが、小さい時から聖書に親しまれ、多く暗唱もされたお方です。主イエスの心に深く刻まれていた御言葉こそが、かの時に不思議に試練を乗り越え、救いのわざを完成させる力となります。十字架上で語られた主イエスの「七つの言葉」の最後の四つは実は詩編の引用です。偶然、主イエスの口にのぼったのではありません。 主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた時、救い主は詩編22編の全体を思い起こしておられたはずです。前半は主の民の、まさにご自身の苦しみを描いている一方、後半は、そこで死から解放されたご自身の福音を世に告げ知らせる姿が描かれています。これを思い出しながら、誰にも耐えられない苦しみに耐え、救いのわざを成し遂げられました。ここにある尊い教訓を見逃したくありません。 Sat, 24 Mar 2018 00:10:00 +0000 神が合わせてくださる結婚(創世記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180324 no 2018 「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」 (創世記24章7節) アブラハムへの祝福が約束の子イサクへと受け継がれるときが、近づいてきました。その備えとして、アブラハムはイサクの結婚を段取ります。 アブラハムの出した条件は、カナンの娘ではなく、彼の一族のいる故郷の娘であること。また、イサクが故郷に戻るのではなく、故郷を離れて嫁いでくる決心ができる娘であることです。 アブラハムは、イサクの結婚相手を探す中で、自分が神の導きにより故郷を出てきたことを思い起こしています。自分がその決断をして本当に祝福されたので、同じ決断をして嫁いでくる娘は必ず神によって祝福される、とアブラハムは信じています。 イサクの嫁探しは、アブラハムの年寄りの僕に託されました。彼は、故郷に着くとまず祈ります(12節)。相応しい娘、リベカと出会うと、「ひざまずいて主を伏し拝み」ます(26節)。そして、神は、リベカに速やかに故郷を離れる決心をも与えてくださいます。年寄りの僕を通して働いてくださったのは、神です。 神の約束を受け継ぐ家庭が、神の働きにより起こされることを切に祈ります。 Fri, 23 Mar 2018 00:10:00 +0000 御国を受け継ぐ印(創世記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180323 no 2018 その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。 (創世記23章19節~20節) アブラハムへの祝福は、東西南北見渡す限りの土地の譲与と大地の砂粒のように数え切れないほどの子孫の繁栄です(13章14~17節)。23章では土地の約束が取り上げられます。 サラは127歳で天に召されました。アブラハムは「胸を打ち、嘆き悲し」み、サラのために墓地を「カナン地方の…ヘブロン」に購入します(2節)。アブラハムは放牧で生計を立てる寄留者です。まとまった土地をこれまで所有したことはありません。サラの墓地が、アブラハムが所有する唯一の土地です。 カナンの土地が与えられる約束の成就は、創世記で完結せず、出エジプト記を経てヨシュア記まで待たねばなりません。その間、多くの族長たちが天に召され、その都度、このサラの墓地に葬られてきました。旧約の民にとっての墓地は、約束の土地が与えられる印として用いられてきました。 教会の墓地で、「我らの国籍は天に在り」(文語訳:ピリ3章20節)の聖句を見かけます。今日においてもキリスト者の墓地は、約束の印です。墓地で、天の御国を受け継ぐ希望を仰ぎます。 Thu, 22 Mar 2018 00:10:00 +0000 主の山に、備えあり(創世記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180322 no 2018 「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。…地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 (創世記22章16節~18節) アブラハムはイシュマエルを死に引き渡す苦しみを味わいましたが、その中に神の守りが確かにありました。その体験は、我が子イサクを神に献げねばならない中にあって、彼に神の守りを期待させたことでしょう。イサクと山に登って行くとき、アブラハムは、献げ物は「神が備えてくださる」(8節)と語っています。 イサクは薪を担いで山に登ることができるほど成長しています。そのイサクが縛られ、祭壇の薪の上に載せられます。ここにはアブラハムだけでなく、イサクの服従も暗示されています。父と子が心を合わせ、御言葉に従おうとしています。 イサクに手を下そうとしたとき、天から主の御使いの声がありました。ハガルの場合と同じです。神は試されますが、神の守りは確かです。イサクの命は守られます。イサクもまた、地上の氏族すべてを祝福する器として立てられます。 諸民族への祝福は、神の民が神に従う苦しみを経て実現します。十字架の道を歩むキリストの従順によって、神の国は到来しました。私たちは、神の備えを信じ、キリストに従います。 Wed, 21 Mar 2018 00:10:00 +0000 子どもの泣き声を聞かれる神(創世記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180321 no 2018 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。 「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。…お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」 (創世記21章17節~18節) イサクを献げる22章に心理描写はなく、アブラハムは黙々と神に従います。 サラとハガルの女の争いが描かれる21章では、二人の間で苦悩するアブラハムの内面が丁寧に取り上げられています。ハガルとイシュマエルには、アブラハムの庇護なしに生きる術はありません。家から追い出すことは、彼らを死に追いやることです。サラの要求とはいえ、アブラハムは決断しかねます。 神は、アブラハムの苦しみを誰よりも理解してくださるお方です。イサクこそが約束の子ですが、イシュマエルも確かにアブラハムの子です。神は、イシュマエルもまた神の守りの内に置かれていることを、アブラハムに伝えます。 アブラハムはその確信のもと二人を追放します。しかし、ハガルはそのことを知らず、死を前に泣くしかありません。イシュマエルも泣きます。その時神の使いが現れ、ハガルに神の守りを示します。 多くの苦しみは、人間関係に起因しています。私たちはその中で、何が御心か分からなくなります。神はこの苦しみをご存じです。いつかどこかで、神の守りを確信させてくださいます。 Tue, 20 Mar 2018 00:10:00 +0000 祈りの人にする訓練(創世記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180320 no 2018 アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。 (創世記20章17節~18節) 20章の場面設定は、読者を悩ませます。文脈を踏まえると、アビメレクの寵愛を受けそうになったサラは90歳を超えています。また、アブラハムが妻を妹と言って欺くのは、12章に続いて2度目です。それなのに、アビメレクはそのことを咎めても、神は咎めてはおられません。では、ここから何を学ぶのでしょうか。 まずは、神の守りです。神はアビメレクの夢の中に現れ、わたしがサラに触れさせなかったと語り、サラに触れることを「わたしに対して」の罪と言われます(6節)。アブラハムとサラを、神はいかなる中にあっても守ってくださいます。 つぎは、祈りです。アビメレク家に新しい命が与えられるには、アブラハムの祈りが必要です。アブラハムの祈りは、神の祝福の扉を開く鍵です。ロトのために執り成したアブラハムは、諸国の民の祝福の源となるために、敵対する者のためにも祈ることを学びます。 神の祝福は、祈りの道を通って、広がります。神の守りと祝福の体験は、他者のために祈る人へと私たちを造り変えます。 Mon, 19 Mar 2018 00:10:00 +0000 20180319(創世記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180319 no 2018 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。…主は言われた。 「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」 (創世記19章16節~17節) 「主のもとから」の「硫黄の火」(24節)は、裁きの典型的な表現です。同時に、19章には救いが示されています。御使いがソドムの町を滅ぼす前にロトの家に立ち寄りました。救うためです。 しかし、ロトの娘たちの婿は、神の裁きを信じず、ロト自身も逃げることを躊躇します。また、ここには塩の柱になったロトの妻の物語が記されています。救いの未来より滅び行く過去に大きな愛着をもっていたのでしょう。裁きの中から場所的に離れても、精神的にすぐには離れようとしない頑なさが象徴的に描かれています。 裁きへのロトの恐れや彼の危機対応能力が、彼の命を救ったのではありません。ロトが逃げることができたのは、ひとえに主が彼とその家族を憐れんでくださったからです。それも神は「アブラハム」を御心に留め、ロトを救い出されました(29節)。 裁きを語ると人は救いを求めるようになる、という道筋はここにありません。しかし、教会は裁きと滅びを語ります。キリストが、ソドムの裁きよりも恐ろしい十字架の裁きを身に受け、滅びから救ってくださったからです。 Sun, 18 Mar 2018 00:10:00 +0000 このことを信じるか(ヨハネによる福音書 11章1-44節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180318 no 2018 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネによる福音書11章25節~26節) 主イエスがこれほど深く心動かされている姿を記す聖書箇所はおそらく他にありません。2回も「心に憤りを覚えた」とあるだけでなく、「涙を流された」ともあります。この主イエスのお姿からは、喜びも悲しみも私たちと同じように感じる人間となられた神の永遠の独り子であることが確認できます。主は私たちと同じ試練にも遭い、慰めてくださるお方です。ここでは愛する友ラザロの死に直面して、決して納得ができないお姿が記されています。 そうです。創造主なるお方は、人が神に背いたがゆえに、死ぬ身となってしまったことを良しとなさいません。主イエスは、肉体の死を逃れられない私たちのために死の力を克服して、赦しとよみがえりの道を備えてくださいました。罪を贖うために身代わりとして己を差し出してくださいました。これが不可欠で唯一の救いの道です。救いの道があるって、なんと喜ばしいことでしょう! 「わたしは…命である」とここで1回目におっしゃいます。14章でも重ねておっしゃいます。そしてラザロを生き返らせる前に聞かれます。「このことを信じるか」と。 Sat, 17 Mar 2018 00:10:00 +0000 執り成しの器となるために(創世記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180317 no 2018 主は言われた。 「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。…主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」 (創世記18章17節~19節) アブラハム物語は、神が心をゆるすことができる友(ヤコ2章23節)を人のなかに見いだされた物語です。同時に、アブラハムの甥ロトへの友情物語でもあります。アブラハムは、旅の最初からずっとロトを心にかけ、物心両面で支えてきました。 神は、ソドムとゴモラにロトの家族が住んでいることをご存じです。神が町を滅ぼす計画をアブラハムに打ち明けられたのは、ロトを救う機会をアブラハムに提供しておられるとしか思えません。また、アブラハムの召しは「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」ことでした。アブラハムがその使命を担うために最初にしたことは、ロトを救うことでした。神が正義のお方であることに訴えかけて、アブラハムは救いを求め神にくどいほど懇願しました。 神は、アブラハムが執り成しの器になることを期待しておられます。それは、執り成しの器なしには諸国民が祝福に入れないからです。私たちの救いも、主イエスの執り成しがあってこそです。主にあって神の友とされた私たちも、自らの友のために執り成します。 Fri, 16 Mar 2018 00:10:00 +0000 笑わせてくださる神(創世記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180316 no 2018 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか。」… 神は言われた。 「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク (彼は笑う)と名付けなさい。」 (創世記17章17節~19節) 75歳で旅立ったアブラムは既に99歳です。彼もサライも年をとりました。 主は、そのアブラムに現れ、多くの国民の父となると励まし、彼の名をアブラハムと改名なさいます。さらに、割礼の儀式を定め、彼の子孫が神の祝福を受け継ぐことを明らかにされます。また、サライは、諸民族の母となるという約束を受け、サラに改名されます。約束の確かさが、神の側から次々に提示されます。 ところが、アブラハムはサラの年齢を思うと、サラから産まれるはずはないと、笑います。18章ではサラも笑います。二人から祝福を受け継ぐ子が生まれるという約束を、夫婦共に信じることができませんでした。 神は、彼らの困惑を受けとめ、産まれる子をイサク(彼は笑う)と名付けるように命じます。神は、赤ちゃん誕生の喜びの笑いを与えてくださいます。誕生のあかつきには、二人は不信仰を悔い改め、かつ、笑わせてくださった神に心から感謝を献げたことでしょう。 不信仰な者が神によって笑わせていただけるとは、何という幸いでしょうか。 Thu, 15 Mar 2018 00:10:00 +0000 顧みられる神(創世記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180315 no 2018 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。 (創世記16章13節) 「不妊の女」と呼ばれてきたサライは、自分との間に生まれる子ではなくとも、アブラムから生まれる子であるなら、それでよし、と考えました。サライは彼女なりに、主の約束を受け入れました。アブラムもサライの苦悩を理解して、サライの提案に同意します。 しかし、両者の決断は、悲劇的な結末を迎えます。アブラムの子を身ごもったハガルは、アブラムの同意のもと、サライによって追い出されます。約束の成就のためにと思って練った策略でしたが、御心に適うものではありませんでした。 神は、アブラムにもサライにも見捨てられたハガルを心にかけてくださいます。御使いを遣わし、語りかけ、子を産むように励まし、約束の子でなくても、産まれ出る子を祝福されます。神は、悲しみのなかの母と子を顧みてくださいます。 私たちは、神の約束を自分の都合に合わせて解釈することがあります。その結果、自分で後始末さえできない、大きな過ちを犯すことがあります。神は、私たちの愚かしさと弱さをご存じです。神の憐れみは、悲しみ嘆くすべての者に及んでいます。 Wed, 14 Mar 2018 00:10:00 +0000 信仰義認(創世記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180314 no 2018 主の言葉があった。「…あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる。」 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 (創世記15章4節~6節) 財産の祝福を主に委ねたアブラムは、子孫の祝福をも主に委ねるように促されます。不妊の妻サライとの間に子どもができる可能性がないなかで、大いなる国民になるという約束を信じ、アブラムは旅立ちました。アブラムはこの矛盾に関して、自分なりの回答を用意したのですが、主はあくまでもアブラムとサライから子どもが生まれる、と約束なさいました。 アブラムは、約束を確かめる術を何一つもたずに、主が語られたということのみを根拠として、主の約束を信じました。主が、約束と現実の間の葛藤に苦しむアブラムに語りかけ励ましてくださったからこそ、アブラムは約束してくださった主ご自身を信じることができました。 主は、この信仰を彼の義と認め、「アブラムと契約を結んで」くださいます(18節)。義と認めるとは、神がアブラムを神との契約のパートナーとして認める、ということです。神は、約束を信じる者と共に歩んでくださいます。 神が真剣に語られるとき、私たちは真摯に聞きます。私たちは約束を信じて義とされ、キリストに結ばれ、契約の民として歩みます。 Tue, 13 Mar 2018 00:10:00 +0000 神からの祝福のみで生きる(創世記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180313 no 2018 アブラムはソドムの王に言った。 「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。」 (創世記14章22節~23節) ここには多くの王たちの名前が登場します。良い土地を選んだロトは、王たちの争いに巻き込まれ、財産を奪われ、捕虜となります。豊かさが一瞬の内に消え去るのは、今も昔も変わりがありません。 主の祝福によって王たちと遜色ない勢力を持つまでに強くなっていたアブラムは、このとき、318人の従者を引き連れ、ロトを救い出しました。その際、ロトだけでなく連れ去られた住民すべて、また、ソドムとゴモラのすべての財産と食料も取り返しました。 この勝利に際して、アブラムは取り返した財産にはいっさい手をつけませんでした。地上の王たちは、財産のため、私利私欲で戦います。しかし、アブラムはロトへの愛情によって戦場に向かい、勝っても戦争によって豊かになるのを潔しとしませんでした。アブラムに勝利と富を与えてくださるのは、主なる神です。 私たちは、地上のすべての祝福は神から来ることを信じます。ですから、上手くいっている時こそ、どのような選択をすることによって、神のみに栄光を帰すことができるのかを、祈り求めます。 Mon, 12 Mar 2018 00:10:00 +0000 東西南北縦横無尽に (創世記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180312 no 2018 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。…さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」 (創世記13章14節~17節) アブラムの旅立ちに、甥のロトが同行しました。ロトは大人ですが、子どものいないアブラム夫妻は、我が子に注ぐような愛情をロトに対して抱いていたと思われます。 アブラムへの祝福は、ロトへの祝福でもあります。それぞれが大所帯となり、共同の生活はできなくなり、生活拠点を移さねばなりません。その際、アブラムは場所の選択権をロトに与えました。 ロトは、「目を上げて眺めると…見渡すかぎりよく潤っていた」土地、ソドムとゴモラを選びます(10節)。ロト自身は悪い人ではなく、ロトの選択も自然なものでしょう。しかし、「目を引き付け」(創3章6節)る魅力、つまり、見た目の豊かさの背後に、住民の邪悪さと主に対しての多くの罪がありました。 見た目には劣る土地が、アブラムのものとなりました。しかし、その土地こそが、神が「永久に…与える」祝福の土地でした。そして、アブラムはこの土地で豊かにされていきます。 私たちは、主が与えてくださった人生を、それがどのような土地であったとしても、東西南北縦横無尽に走り続けて、主の祝福にあずかります。 Sun, 11 Mar 2018 00:10:00 +0000 起きなさい。恐れることはない(マタイによる福音書 17章1-8節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180311 no 2018 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 (マタイによる福音書17章2節~3節) これからエルサレムで起こる事を弟子たちにあらかじめ語っても理解してもらえない主イエスは、どのような心境だったでしょうか。天の父はいつも近くにおられましたが、もしかすると心細い気持ちもあったかもしれません。主イエスはある大切な時に三人の弟子を選び、「変貌の山」に登られました。そこに旧約聖書の登場人物が現れます。心細い体験があっても、決定的な働きを行った人たちです。主イエスを激励するためだったことが明らかです。 かつて、モーセは神からの使命に恐ろしくなり、「わたしではなく、別の誰かを送ってください」と断り、エリヤは疲れ果てて絶望的になり、「わたししか主を畏れる者はいない」と訴えました。そして、全能の主の助けを受けた二人は大きな役割を果たしました。主イエスを励ますのであれば、最適な二人です。 この時、恐ろしくなったペトロたちは、主イエスに、「恐れることはない」と励まされます。そうです。激励を受けた主イエスはご自身にしかできない罪の贖いの働きを成し遂げていかれます。そうすれば、信じる私たちに恐れることはまことにありません。 Sat, 10 Mar 2018 00:10:00 +0000 祝福の源となるために(創世記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180310 no 2018 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」 (創世記12章1節~3節) 神の救いの歴史は、アブラムの召しから大きく進展します。神がアブラムを祝福し彼の名を高め、彼の子孫を大いなる国民になさるのは、アブラムが祝福の源となるためです。アブラムの召しは、彼の祝福と彼の子孫の祝福のためだけではありません。地上の氏族が、すべて彼によって祝福にあずかるためです。 これから読み進める物語は、アブラムがどのようにして祝福の源の器となっていくかという彼の霊的成長を描いています。また、地上の氏族は、アブラムとその子孫を祝福してくださった神を誉め讃えることにより、彼らもまた神の祝福の中へと招かれます。 アブラムは祝福の源となるために、生まれ故郷、父の家を離れて、神が示す地に旅立たねばなりませんでした。父の庇護のもとに留まっていては、父に仕えるだけの人生で終わります。アブラムは、神のご計画に用いていただく人となるために、神にのみ依り頼む人生へと歩み出します。 私たちが信仰の人生を歩むのも、周りの人が私たちによって神の祝福に入るためです。神に依り頼む者への祝福は、その人の救いだけに限定されない広がりに開かれています。 Fri, 09 Mar 2018 00:10:00 +0000 互いに重荷を担いなさい(ガラテヤの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180309 no 2018 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 (ガラテヤの信徒への手紙6章2節) 聖書はキリスト者のことを「御霊の人」と呼んでいます(1節、新改訳)。決してお世辞ではありません。「アッバ、父よ」と祈る人は御霊の人なのです(4章6節)。 御霊の人であることは、だれかが罪に陥ったときの対応に最もよくあらわれます。私たちには、罪を犯した人を裁いて、石を投げようとする性質がありますが(ヨハ8章)、御霊の人は、自分が何者でもないことを覚えます。自分も同じ過ちに陥ったかもしれません。自分の知らないところで、自分の罪を兄弟姉妹に担ってもらっているかもしれません。何よりも、主イエス・キリストによる罪の赦しを覚えます。お互いに知っているのは、誰の人生にも重荷があることです。その重荷はいろいろな形であらわれますが、一番の重荷は罪です。 主イエス・キリストは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いておられます(マタ11章28節)。共に、この主の御前に出ることです。主の赦しと励ましの言葉を聞いて共に歩んで行くことです。主の御前で、私たちもまた互いに赦し合い、愛し合いましょう。 Thu, 08 Mar 2018 00:10:00 +0000 聖霊によって歩みなさい(ガラテヤの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180308 no 2018 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 (ガラテヤの信徒への手紙5章16節) 私たちは主の御霊、聖霊によって罪と死の呪いから解放された自由人です(ロマ8章2節)。肉の人は、神の国を受け継ぐことはできません。神の国の希望に生きる私たちですが、肉と霊の激しい対立や失敗の経験があります(7章15~18節)。 けれども、主の十字架を見上げましょう。パウロは、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を…十字架につけてしまったのです」と語ります(ガラ5章24節)。そこでは、人間の業とは思えない新しいことが私たちの内においてすでに始まっているのです。内なる聖霊のお働きです。その聖霊に導かれて共に進みましょう。 聖霊が実を結ぶ人生を歩ませてくださいます。まだ小さな実かもしれませんが実が確かにあるのです。最高の果実は愛です。愛に基づいて、その愛が生み出すさまざまな徳目が約束されています。喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。これらすべてはキリストご自身に現されました。 聖霊の導きに従う歩みとは、キリストのものとされた私たちがキリストに似せられる歩みです(4章19節)。 Wed, 07 Mar 2018 00:10:00 +0000 神から知られているのに(ガラテヤの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180307 no 2018 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 (ガラテヤの信徒への手紙4章9節) 「かつて」の私たちは神々の奴隷でした。高度な科学文明の時代ですが、世を支配する諸霊に縛られ、世間体や占いやしきたりに縛られ、時にはびくびくするような生活をしていました。しかし「いま」は神を知っています。 それなのに逆戻りする誘惑があります。奴隷であったエジプトの方がよかったと、かつて神の民は不平を言い始めたことがあります(出16章3節等)。神の子の自由に生きることを慕い求めなかった歴史はよそ事ではありません。自由の子として生きるために何よりも覚えたいのです。私たちが神を知っている以上に、神から知られている、ということを。 御子の誕生(4節)は、私たちの歴史を「かつて」と「いま」に分けるためでした。御子は、罪の力、掟の力の虜となっていた私たちを、救い出すために、身代わりになって十字架にかかってくださいました。私たちが、求めるよりも先に、神が私たちを愛しておられたのです。天地創造の前にキリストにおいて神に選ばれていたのです(エフェ1章4節)。この神を愛する人は、神に知られている人です(1コリ8章3節)。 Tue, 06 Mar 2018 00:10:00 +0000 新しい世界の宣言(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180306 no 2018 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスおいて一つだからです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章28節) こんな素晴らしい世界があることを誰も知らなかったと思います。イエス・キリストはこの罪の世に全く新しい世界を造るためにおいでになったのです。 救い主を信じる私たちは神の子とされています。洗礼を受けた私たちは「キリストを着ている」(27節)のです。心も体も本当に弱く脆いのですが、キリストにすっぽりと包まれています。キリストに全身が覆われています。罪と死の力に勝利された御方に守られているのです。中身は駄目と言いたくなりますが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(2章20節)。そうして、聖霊が、私たちの生涯すべてをかけて、聖めてくださるのです。 この世ではさまざまな違い、差別、排斥さえあります。しかし、キリストを着ている者にユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女もありません。皆が同じキリスト者です。それだけではなく、皆キリスト・イエスにおいて一つの体とされたのです。全く新しい信仰・希望・愛の共同体、それがキリストの教会です。 Mon, 05 Mar 2018 00:10:00 +0000 結果をだせなくても(ガラテヤの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180305 no 2018 人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 (ガラテヤの信徒への手紙2章16節) 激しい競争社会です。結果を出しなさいと迫られます。落ちこぼれの情けない思いになることもあります。行いによって義とされる世界では、成果をあげればあなたは正しい、それでよいと評価されます。頑張り屋さんは評価されるかもしれません。 けれども、それだけでは息詰まる競争でいつ振り落とされるかもしれない不安の人生です。例えば、ザアカイは徴税人となり、お金で見返そうとしましたが、空しい人生でした。そのような中でイエス・キリストに近づきました。その彼を主はアブラハムの子と呼んでくださいました(ルカ19章9節)。小さな貧しい信仰ですが、その信仰によって義と認められたのです。神の子イエス・キリストが、義と認めてくださったのです。神に対しても、人に対しても行いによって結果を出せなくても、信仰によって神に認められます。その信仰さえ神からいただいたものです。 福音はこの世の尺度ではかれません。義とされた人は、福音の恵みに生きる者へと神によって変えられた人です。私たちは、神が前もって準備してくださった善い業を行って歩みます(エフェ2章10節)。 Sun, 04 Mar 2018 00:10:00 +0000 もっとも大事なことを見分ける (マタイによる福音書 6章24-34節) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180304 no 2018 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。…あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 (マタイによる福音書6章31節~33節) 思い悩むというならば、主イエスほど思い悩んでもおかしくない方はおられないでしょう。エルサレムに上り、異邦人の手に引き渡され、辱められ、十字架につけられることになっておられるのですから。しかし主は覚悟を固く決められ、その使命を果たすことを決心されました。そのお姿を思うとき、衣食住をいろいろ心配する私たちは恥ずかしい思いがします。 けれども、そういった弱さを持つ私たちに主が激励の言葉を語ってくださいます。小鳥のことも見守ってくださり、私たちの髪の毛の数までご存じの天の父がおられるから、思い悩む必要はない、と。天の父は、その独り子をも惜しまないで、私たちの救いのために犠牲にしてくださるほど、私たちのことを愛してくださるお方です。逆境の時にも困窮の折にも、見守り続けてくださるお方です。 だからといって、何の緊張もなく、求めるべきものもないというわけではありません。これほどまでに私たちを愛してくださるお方にいかにして感謝し応えるべきでしょうか。「御国が来ますように」と祈って主の掟を忠実に学び、守ることではないでしょうか。 Sat, 03 Mar 2018 00:10:00 +0000 人を喜ばせるためでなく(ガラテヤの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180303 no 2018 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 (ガラテヤの信徒への手紙1章10節) 一人でも多くの人に福音の恵みにあずかっていただきたいと願い、信じる人が増えることを願って、そのための努力を重ねています。けれども絶えず問われています。「わたしは人に取り入ろうとしているのか。それとも、神に取り入ろうとしているのか」と。周りの人たちをどうしたら納得させられるのか、どうしたら説得できるのか、そのことばかりに思いが集中すると、人びとの歓心を買うだけのご機嫌とりになり、福音が曲げられてしまう場合があります。 どのような時にも決して見失ってはならないことがあります。その中心はわたしがキリストの僕であるという自覚です。愛の深い真実な救い主のものとされていることを覚え、その御方の僕であり続けることです。誤った福音を伝えるなら、キリストの御心のままに生きる僕でなくなります。救われた人間でなくなってしまいます。「わたしはあきれ果てています」と言われるほどに誘惑があります。 自分は誰を喜ばせようとしているのか。人か、神か。改めて問いながら、明日の礼拝日に備えましょう。 Fri, 02 Mar 2018 00:10:00 +0000 病を通して知ったこと(イザヤ書 38-39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180302 no 2018 見よ、わたしの受けた苦痛は 平和のためにほかならない。 あなたはわたしの魂に思いを寄せ 滅びの穴に陥らないようにしてくださった。 あなたはわたしの罪をすべて あなたの後ろに投げ捨ててくださった。 (イザヤ書38章17節) 誰もが、病を避けて生きたい、できるならば、心も身体も健康であり続けたいと願うのではないでしょうか。しかし、病を避けて通ることはできません。治る病もありますが、生涯、闘病生活を強いられることや、やがて死に至る病を患うこともあります。それは大変厳しく辛いものです。 その一方で、病を経験すると、これまで見えていなかったさまざまなものが見えてきます。自分の弱さや、自分のことを心配し支えてくれる者の愛が見えてくる人もいるでしょう。自分のこれまでの生き方やこれからの生き方を深く見つめ直す人もいるでしょう。そこでいろいろな発見や気付きが与えられるのです。そこで、「わたしが病にかかったのはこのためだったのか」と嬉しくなることもあるのです。 死の病にかかったユダの王ヒゼキヤは、涙を流して大いに泣きました。病の中で、彼は自分の死とともに、自分の罪が鮮明に見えてきました。しかし、神は、それを後ろに投げ捨ててくださったことに気付き、心が平安になったのです。病を通して神の恵みを改めて深く知ったのです。 Thu, 01 Mar 2018 00:10:00 +0000 何に頼って生きるのか(イザヤ書 36-37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180301 no 2018 「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。 ただ舌先だけの言葉が戦略であり、戦力であるのかとわたしは言う。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。」 (イザヤ書36章4節~5節) 人は、家族や友人、仕事やお金などいろいろなものを頼りにして生きています。その中で何が一番大事かと問われても、すぐに答えることは難しいでしょう。生きていく上でなくてはならないものがたくさんあるからです。 しかし、キリスト者であるなら、「神を頼って生きています」と答えることができます。「信じていた人が自分を裏切っても、確かだと思っていたものがなくなったとしても、神だけはわたしの前から消えることなく、わたしを支え続けてくださるのです」と告白することができるのです。 時に、「そのようなものを信じていて本当に大丈夫なのか」と問われて、「これで大丈夫なのか」と不安になることがあるかもしれません。私たちには、信仰が揺さぶられ、神以外のものに頼ろうとしてしまう弱い心があります。 十字架の主イエス・キリストが与えられているとは、その弱い私たちが神に受け入れられて神のものとされている、ということなのです。私たちは、弱ささえゆだねて、神のみもとに立ち帰ることができます。日ごとに信仰を新たにしていただき、確かな歩みを重ねていきましょう。 Wed, 28 Feb 2018 00:10:00 +0000 よろめく膝を強くせよ (イザヤ書 34-35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180228 no 2018 弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。 心おののく人々に言え。 「雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。 神は来て、あなたたちを救われる。」 (イザヤ書35章3節~4節) 神は私たちの手、膝、心に目を留められます。それらの部分は、試練や歳を重ねるときに、最も弱くなるところです。このときの南ユダの人びとの心の状態も荒れ野や砂漠のように荒れ果て、渇き切っていました(1節)。神は弱った信仰の手、膝、心を強くすることを求めておられます。 「雄々しくあれ、恐れるな」。「雄々しくあれ」というのは、堅く結び付きなさいということです。神と堅く結び付くことによって、弱った手に力を込め、よろめく膝を強くし、おののく心を静めるのです。 また、「見よ、あなたたちの神を」と言われています。それは、厳しい状況の中にあっても、神を見て、神の御心が何であるのかをしっかりと尋ね求めよ、神の言葉を一途な思いで聴くことに集中せよ、ということです。 そのときに改めて聴こえてくる言葉があります。それは「神は来られる」という言葉です。神などいないではないかと思えるような厳しい現実の中にあっても、神を見失ってはいけません。神は私たちを救うためにやって来られるからです。 Tue, 27 Feb 2018 00:10:00 +0000 立ち上がってくださる神(イザヤ書 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180227 no 2018 今や、わたしは身を起こすと 主は言われる。 今や、わたしは立ち上がり 今や、自らを高くする。 (イザヤ書33章10節) キリスト者として生きる喜びは、いろいろとありますが、その一つは、神が私たちの祈りに応えてくださるということではないでしょうか。私たちがささげる祈りに、すぐに応えてくださるときもあれば、そうでないときもあります。自分が望んだ答えを与えてくださるときもあれば、そうでないときもあります。しかし、神はいつも相応しいときに、相応しい仕方で、私たちの祈りに応えてくださいます。 南ユダの人びとは、アッシリアに苦しめられていました。この苦難の中から、人びとは「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」と祈りました(2節)。この祈りに対して、神は身を起こし、立ち上がってくださるのです。 神は、私たちの祈りを聞いて、座ったまま、じっとしておられるお方ではありません。神はご自身が望まれた時に立ち上がり、私たちを救い、助け出してくださるのです。ですから、私たちは、神が立ち上がってくださるその時を、日々、希望をもって待ち望みたいと思います。 Mon, 26 Feb 2018 00:10:00 +0000 何を支えにして生きるのか(イザヤ書 31-32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180226 no 2018 災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。 彼らは戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない。 (イザヤ書31章1節) 困難な状況に陥るとき、自分以外の何かに頼りたくなります。その辛い状況をすぐにでも改善してくれる大きな力に頼りたくなります。たとえすぐに状況が良くならなくても、そこでなお忍耐して生きることができるための支えが必要です。 ユダの人びとはアッシリアの脅威を前にして、エジプトと同盟を結ぼうとしました。エジプトは、多くの馬や戦車、また騎兵を持っていました。それらのものが、自分たちを敵から守り、支えてくれると信じました。目に見える力を自分たちの支えとし、今、置かれている状況を切り抜けようとしたのです。 しかし、神は、そのことをよしとされませんでした。なぜなら、ユダの人びとは神に頼ろうとしなかったからです。神は、「エジプト人は人であって、神ではない」と言われました(31章3節)。どれだけ大きな軍隊や力を持っていても、神の前では、それらはごく小さな存在に過ぎません。神の代わりをしてくれるものなど何もないのです。 きょうも、神に立ち帰り、神だけが成し得る業に目を留めて、生きていきたいのです。 Sun, 25 Feb 2018 00:10:00 +0000 神の愛に生きる(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180225 no 2018 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 (マタイによる福音書5章44節) 敵を愛し、迫害する者のために祈ることは、決して簡単なことではありません。私たちは、日々の生活の中で、隣人を愛することに苦しむことがあります。 しかし、きょうの箇所で、主イエスは驚くべきことを言われます。それは、悪人が右の頬を打つなら左の頬も向けること、下着を取ろうとする者には上着も取らせること、そして、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、という教えです。 天の父は、悪人にも善人にも、等しくその恵みをお与えになります。そして、この父は、私たち一人一人が真実の愛に生きるために、主イエスにおいて示されたご自身の完全な愛を豊かに注いでくださるお方です。敵を愛し、祈る姿は、まさに、イエス・キリストご自身に見られる姿です。 ここで主イエスが示される神の愛は、ただのきれいごとではありませんし、虚しく終わる歩みでもありません。この神の愛は、紛れもなく、神に敵対する私たち罪人に向けられたものです。そして、私たちは、この愛にあずかって生きることがゆるされています。 Sat, 24 Feb 2018 00:10:00 +0000 静かにしているならば(イザヤ書 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180224 no 2018 まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。 「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある」と。 (イザヤ書30章15節) 神を信じて生きるということは、神を信頼して生きるということです。ところで、私たちが神を信頼しているとき、その心の中は静かになっているでしょうか。穏やかになっているでしょうか。もし少しでも心騒ぐようであるならば、完全に神に信頼しきっているとは言えないのです。やはり、どこかで自分の思いや、神以外の何ものかに心奪われているのでしょう。 南ユダは、エジプトと同盟を結び、敵に立ち向かおうとしました。その背後には、神以外のものに頼ろうとする心がありました。ですから、もう一度わたしのもとに立ち帰り、静かにして、わたしを信頼するようにと、神は呼びかけておられます。 「静かにする」ということを、何もしないことだと考えるなら、不安になるでしょう。居ても立ってもいられず、自分や他者の力につい頼ってしまうでしょう。 しかし、「静かにする」ということは、何もしないということではありません。神が私たちのために立ち上がり、働いてくださる、その御業を見ることに集中することです。そのとき、生きる力が溢れてきます。 Fri, 23 Feb 2018 00:10:00 +0000 神の驚くべき業(イザヤ書 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180223 no 2018 「この民は、口でわたしに近づき 唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。 … それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。 賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される。」 (イザヤ書29章13節~14節) この世の価値観が絶対的なものではなく、もっと別の何かがわたしを支えているのだと信じたい。しかし、実際は、この世の力に引きずられながら、苦しんでいる人は多いのです。 キリスト者である私たちも、神から与えられている信仰と、この世の価値観の狭間で、色々と葛藤を抱えながら生きているのではないでしょうか。そのなかで、時に、この世の価値に呑み込まれてしまうことがあります。それでも何とかして信仰を保ちたいと思い、口先やうわべだけで、神を信じようとしてしまいます。この時のエルサレムは、神により頼もうとせず、エジプトの力を頼りにして、アッシリアと戦おうとしていました。神の御心を尋ね求めようとせず、自らの知恵を第一にしました。 しかし、神は心をご覧になられるお方です。どれほど敬虔な信仰者として振る舞っていても、神の御前には空しいだけです。神はそのような私たちを驚かせます。これまでの価値観をひっくり返し、神を神として生きる道を、私たちの前に拓いてくださいます。その先にキリストの十字架が立っています。 Thu, 22 Feb 2018 00:10:00 +0000 慌てることなく(イザヤ書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180222 no 2018 それゆえ、主なる神はこう言われる。 「わたしは一つの石をシオンに据える。 これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。 信ずる者は慌てることはない。」 (イザヤ書28章16節) 人生を揺り動かす大きな出来事に襲われると、私たちはどうしたらよいのか分からなくなり、慌てふためいてしまいます。そのような心の状態のなかでいろいろなものに必死に頼り、その状況から少しでも切り抜けたいと考えます。 私たちはいったい何に頼ったらよいのでしょうか。エルサレムは、このとき、信仰がぐらついていました。この世の楽しみや、この世の権力に酔いしれ、神を信頼せず、神からいただいた知恵によって歩もうとはしませんでした。私たちも心が揺らぐとき、与えられている信仰の確かさを疑い、失望してしまいます。 神は、シオンに一つの石を据えられました。その石は、家を建てるときの土台となる石です。すべての重みがその石にのしかかったとしても、決して崩れることも、倒れることもない確かな石です。 この石こそ、私たちを罪から救い出すために神が与えてくださった主イエス・キリストです。キリストを信じ、よりすがって生きていくならば、困難ななかにあっても、慌てることなく、確かな歩みへと踏み出していくことができるのです。 Wed, 21 Feb 2018 00:10:00 +0000 堅固な信仰に生きる(イザヤ書 26-27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180221 no 2018 我らには、堅固な都がある。 救いのために、城壁と堡塁が築かれた。 城門を開け 神に従い、信仰を守る民が入れるように。 堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に。 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。 (イザヤ書26章1節~4節) 私たちには、多くの欠けや破れがあります。それゆえに、何かが起こる度に、ぐらついて、倒れてしまうことがよくあります。そのような辛い経験をしているがゆえに、私たちの足取りはどこか覚束ないところがあるのではないでしょうか。 しかし、神が与えてくださる信仰に生きる者には、堅固な思いが与えられているのだということに心を向け直したいのです。どのようなことがあっても、崩れることも、倒れることもしない堅い信仰が与えられています。それは、私たちが、頑張ったり、忍耐して、困難な中を耐え抜くことではありません。「主こそはとこしえの岩」とあるように、主なる神が堅く確かな岩として、私たちを下から支え続けてくださるからこそ、私たちは倒れ伏してしまうことはありません。 もちろん、私たちは、さまざまな苦難を経験し、その中で、自分の罪や弱さを深く知り、今、自分の信仰はぐらついていると思わされることがあります。しかし、信仰の歩みとはそのようなところから新たに始まります。そこで主を信頼すれば、必ず平和が与えられるのです。 Tue, 20 Feb 2018 00:10:00 +0000 涙をぬぐってくださる神(イザヤ書 24-25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180220 no 2018 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。 これは主が語られたことである。 (イザヤ書25章8節) 人生にはいろいろな涙があります。イザヤがここで語るのは、私たちが犯す罪のゆえに流す涙です。自分の感情を抑えることができないとき、とめどなく涙が溢れ出るように、私たち人間は、罪の大きな力に対して無力です。罪がもたらす悲惨さの中でもがき苦しみながら、ただ涙を流すことしかできないのです。 しかし神は、終わりの日に、その涙をぬぐってくださいます。私たちの罪を赦してくださるということです。私たちは、この地上においては、まだ、悔いては罪を重ねる罪人であるかもしれません。イエス・キリストの救いにあずかりながらも、その恵みの豊かさをすぐに忘れてしまう愚かな者であるかもしれません。 しかし、それよりも確かな現実が私たちを取り囲んでいることに、私たちは目を向けたいのです。それは、どれほど私たちが罪深くても、キリストの赦しは決して揺らぐことはないということです。この神の愛と赦しに、私たちはしっかりと捕らえられています。ですから、喜び、感謝しながらこの地上を歩むことができます。 Mon, 19 Feb 2018 00:10:00 +0000 喜びに浮かれることなく(イザヤ書 22-23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180219 no 2018 騒音に満たされ、どよめく都 喜びに浮かれた町よ。 …お前たちは、都を造られた方に目を向けず 遠い昔に都を形づくられた方を 見ようとしなかった。 (イザヤ書22章2節~11節) 生きていくうえで、「喜ぶ」ということは、とても大切なことです。喜びがいろいろな形で奪われてしまうこの世の現実の中に、神は消えることのない確かな喜びを与えてくださいました。この神に目を向けて生きることへと私たちは招かれています。 ただ、信仰の喜びに生きるというのは、決して、喜び浮かれることではありません。浮かれてしまうと、どうしてもひとりよがりの喜びばかりを追い求めてしまい、気付いてみると、神から遠く離れてしまっていたということも珍しくありません。 エルサレムはアッシリアの攻撃に滅ぼされそうになりました。この出来事の背景には、エルサレムの罪がありました。彼らは悔い改める必要がありました。しかし、神に目を向けようとはせず、この世の喜びに浸り、自分たちが持っているものばかりに目を向けて、それを誇っていました。 神は「嘆くこと、泣くこと、髪をそり、粗布をまとうことを」布告されました(12節)。それは、悔い改めを求められたということです。神に立ち帰る時、神の民は、真実の揺らぐことのない喜びを見出すのです。 Sun, 18 Feb 2018 00:10:00 +0000 和解への道(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180218 no 2018 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」 (マタイによる福音書5章22節) 主イエスは十戒等を引用して語っておられます。けれども主イエスはここで律法を字義通りに守れと命じているのではありません。 「殺してはならない」ということ自体は、誰もが知っていることです。しかし、ここで主イエスが問われるのは、私たちの心の中に僅かにでもある、人を殺しかねない憎しみの思いです。私たちは、そのことを主から問われる時に、それが全く無いとは言えません。どうしても隣人を赦せないと思われる時があります。やられたらやり返す、という復讐の思いに支配される時さえあります。 主イエスがここで語られているのは、和解です。それは、聖書の神ご自身が、主イエスの十字架を通して、私たち罪人を赦し、ご自身の怒りを取り去ってくださった方だからです。 私たち自身は日毎に神の掟に背く者ですが、私たちに対する神の恵みはそれに勝るものです。私たちには、時に隣人との関係の中で困難が生じる時があります。しかし、その時も、私たちは主イエスの恵みを祈りつつ、和解に努めることへと導かれています。 Sat, 17 Feb 2018 00:10:00 +0000 解放の朝は来る(イザヤ書 20-21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180217 no 2018 見張りの者は言った。 「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。 どうしても尋ねたいならば、尋ねよ もう一度来るがよい。」 (イザヤ書21章12節) 夜。それは、光の見えない暗闇と不気味な静けさが支配する時です。そこでは、昼間には見えなかったいろいろな思いが心の底から沸き上がってきます。不安や恐れ、悲しみといった思いが色濃くなります。夜の中で、私たちは一刻も早く、朝が来ないかと、強く待ち望みます。朝の光に身も心も照らされて、その日を明るく生きることができれば、どれほど嬉しいでしょうか。 イスラエルとの関係が深かったエドムは、今、アッシリアの支配のもとで苦しんでいます。いつまでこの夜の闇のような苦しみと悩みは続くのか。いつになったら解放の朝は来るのかと、イザヤに問うています。その問いにイザヤは答えます。「夜明けは近づいている」と。近づいているというのは、朝は確実に来る、ということです。解放の時は必ず来るということです。しかし、まだ夜なのです。 私たちは今、どのような時を生きているのでしょうか。夜のような闇が見えている人がいるかもしれません。しかし、神が完全に解放してくださる決定的な朝が、必ず来るという約束に、私たちは希望を見出したいのです。 Fri, 16 Feb 2018 00:10:00 +0000 撃たれて、いやされて(イザヤ書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180216 no 2018 主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。 (イザヤ書19章22節) 私たちは、神にいやされなければ、生きていけない存在です。それだけ深く傷つき、痛みを負っているからです。それは、何よりも罪によってもたらされたものです。 神はその罪を撃たれます。もし神が私たちの罪を見過ごしたままでおられたならば、私たちは、痛みを感じずに済んだかもしれません。しかし、そこには想像を越えた悲惨な人生が待ち構えていたことでしょう。 だから、ここで神は罪の虜になっていたエジプトの民を必ず撃つと語られます。神は、罪を放っておかれるのではなく、私たちを撃ち、大切なことに気付いてほしいと願っておられます。撃たれるということは、大きなダメージを負うことを意味します。また、存在そのものが打ち砕かれるということが、そこで起こるのではないでしょうか。 しかし、そこでこそ神に立ち帰る道が見えてきます。神は撃つだけのお方ではありません。神の激しい怒りの中で、どうすることもできない者、心に傷を負い、痛みを負ったままでいる者をいやし、赦してくださるお方なのです。私たちはこの方に信頼し、痛みを乗り越えてゆきます。 Thu, 15 Feb 2018 00:10:00 +0000 造り主に目を注ぐ(イザヤ書 17-18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180215 no 2018 その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。 (イザヤ書17章7節~8節) 信じて生きるということは、何をよく見て生きるのかということと深く結び付いているのではないでしょうか。ですから、神を信じて生きるということは、神に目を注いで生きるということです。 ただ、日々の生活を振り返ってみると、いろいろなものに目が向いてしまい、疲れ果ててしまうことがよくあります。それは無理のないことかもしれません。私たちは、さまざまなことに気を配りながら生きているのですから。 私たちはキリスト者として、神に目を注がなければ、と分かっていながら、なかなかそのことに集中できない自分に苛立ちを覚えることがあります。まさにそのところで、自分を見失ってしまうのです。自分どころか、真の神を見失い、偶像の神々を造り出してしまっているのかもしれません。 しかし、神が私たちのうちに働かれるとき、もはや、偶像に支配されることはありません。本当に見るべきものだけを見つめます。そのときに、私たちの眼差しは、大きく開かれることでしょう。そして、きょう為すべきことに力を注ぐことができます。 Wed, 14 Feb 2018 00:10:00 +0000 虐げられることなく(イザヤ書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180214 no 2018 まことに、地上から虐げる者はうせ 破壊する者は滅び、踏みにじる者は絶える。 そのとき、ダビデの幕屋に 王座が慈しみをもって立てられ その上に治める者が、まことをもって座す。 彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。 (イザヤ書16章4節~5節) 私たちは、この世において、虐げられ、踏みにじられる辛い経験をすることがあります。その力に抵抗して立ち向かうこともできないときがあります。生涯、この苦しみの中を生きなければいけないのかという思いに捕われてしまうときがあります。 しかし、神は約束してくださいます。そのように私たちを虐げ、踏みにじる者たちは消え失せる、そして、新しい方が王座に着かれる時が来るのだと。その王座は、軍事力や権力、また経済力の優位な者が獲得する王座ではありません。新しい王は、神が慈しみをもって立てられ、この世に公平と正義を速やかにもたらしてくださるお方です。 この新しい王の姿の中に、イエス・キリストを見ることができます。昔も今も、力のある者が力のない者を虐げるという現実は、変わることがありません。しかし、この現実がいかに空しく、不確かなものであるかが明らかにされる時が必ず来ます。主イエスが与えてくださった救いの確かさの中で、まことの公平と正義がもたらされることを祈りつつ待ち望みましょう。 Tue, 13 Feb 2018 00:10:00 +0000 泣き叫ぶ声の中で(イザヤ書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180213 no 2018 叫び声は、モアブの全域に響き渡り 泣く声は、エグライムまで またベエル・エリムにまで達する。 (イザヤ書15章8節) 御言葉にじっと耳を傾けていると、至る所から聞こえてくる声があります。それはモアブの人々の嘆き声、叫び声、泣き声です。彼らの傲慢さに対して(16章6節)、神の審きがくだるとき、生きる喜びと楽しみがすべて奪われます。そして、そこには嘆きと悲しみしか残りません。 このような神の言葉を前にして、正直、どうしたらよいのだろうかと立ちすくんでしまう思いがいたします。神は、私たちが叫ぶその声を真剣に受け止めてくださり、流れる涙をそっと拭ってくださるお方です。だからこそ神に向かって嘆くことに、私たちは意味を見いだすことができるのではないでしょうか。 しかし、きょうの御言葉には、そのような神のお姿が語られているわけではありません。罪に対する神の厳しい審きと、その審きの中で絶望し、泣き叫ぶしかないモアブの人々の姿が描かれているだけです。私たちは、神に答えを求め、いつもすっきりとした思いの中を生きられるわけではありません。 神の審きに畏れを抱きつつ、もう一度、心を神に向け直すことがここで求められているのではないでしょうか。 Mon, 12 Feb 2018 00:10:00 +0000 神に再び選ばれて (イザヤ書 13-14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180212 no 2018 まことに、主はヤコブを憐れみ 再びイスラエルを選び 彼らの土地に置いてくださる。 (イザヤ書14章1節) もう一度、あの時に戻って人生をやり直すことができれば、と思うことがあります。私たちの歩みには数多くの失敗と過ちがあるからです。しかし、たとえ過去に戻ることができたとしても、その度に惨めな思いをするのではないでしょうか。それほどに、罪の力というのは大きいからです。 神は、ご自分に何度も背を向けて離れて行こうとするイスラエルの民を、再び選ぶことを約束してくださいました。つまり、ここでバビロンの支配からの解放を告げていてくださいます。神の選びというのは、人間の罪の現実を貫くほどに確かなものです。 過ちと後悔ばかりを繰り返してしまう自分自身に失望してしまったとしても、神は、あなたのことを決してあきらめてはおられません。「再び…選び」とあるように、あなたがもう一度、いや何度でも立ち上がって歩み出すことを、神は心から願っておられます。 神に選ばれているという恵みの事実をしっかり見つめ、そこに立ち帰るとき、私たちは再び、神から与えられた人生を歩み直そうという思いに変えていただけます。 Sun, 11 Feb 2018 00:10:00 +0000 光を輝かす(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180211 no 2018 「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイによる福音書5章16節) きょうの箇所には、「天の国」という言葉が繰り返されています。これは、主イエスを信じる一人一人に約束をされている場所です。 その弟子たちに主は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。私たち自身の内に、神に認められるような輝きがあるのではありません。私たちは天の国にふさわしい者ではありませんし、罪人である私たちの内には正しさもありません。 ここで語られている「塩」や「光」は、あくまでも、私たちのためにご自身の命を献げてくださった、キリストの愛の業に基づくものです。この方は、その十字架において律法を成就され、その業はすべての者を照らす光となり、効き目のある塩となりました。「あなたがたの光」も「あなたがたの立派な行い」も、イエス・キリストの十字架を通して生みだされるものです。 私たちのために死んで復活され、私たちに真実を行ってくださった主イエスの御力によって、私たちもまた、この日、隣人を愛し、隣人のためにこの光を輝かすことへと導かれています。 Sat, 10 Feb 2018 00:10:00 +0000 主をどこで見いだすか(マルコによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180210 no 2018 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 (マルコによる福音書16章6節) 復活の朝、女性たちは主の亡骸を手厚く葬るために墓に向かいました。彼女たちは主イエスを愛し、慕っていればこそ身の危険を顧みずに墓に向かいました。しかし彼女たちが捜し求めたのは主の遺体であり、死んだ主イエスでした。彼女たちの気がかりは、主イエスの墓をふさいでいた石に向かいました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(3節)。そこでは希望が過去となっています。まさに死んだ希望です。その彼女たちに告げられます。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。 私たちもそれぞれに主イエスを愛し、主を求めます。ところがなかなか主にお会いできず途方に暮れます。一生懸命捜し求めますが主イエスに出会うことができない。それは捜し求める場所が間違っているからです。生きている方を墓の中で見いだそうとするように、自分の小さな信仰の中で主を捜し求めるからです。 まさにそこで言われるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と(ルカ24章5、6節)。 Fri, 09 Feb 2018 00:10:00 +0000 神の子の死(マルコによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180209 no 2018 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 (マルコによる福音書15章39節) 過越の犠牲がささげられる3時に、主イエスは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この十字架において、一点の罪も見逃すことのできない義の神が、徹底的に罪を裁き、悪を呪い、御子を棄てられたのです。 神の厳しい裁きが主イエスに注がれたとき、天は真っ暗になり、十字架上の主イエスを拒みました。十字架の下では、人びとが主イエスを罵り、十字架から降りて来いとあざけっていました。天からも地からも拒絶され、神から見棄てられ、人びとからあざけられた姿、それが十字架でした。地面から高くつりあげられ、十字架に打たれた釘を支点として、宙ぶらりんの格好で、苦しみのうちに死んでいかれました。 こうして主イエスは、十字架の上で神から徹底的に裁かれ、呪われ、棄てられて、苦悶のうちに息を引き取られました。これらの出来事をつぶさに見ていた百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と語りました。 私たちはこの方をどのように告白するでしょうか。 Thu, 08 Feb 2018 00:10:00 +0000 神の御心に従う(マルコによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180208 no 2018 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 (マルコによる福音書14章36節) 旧約時代、イスラエルの民は、牛や羊などをいけにえとしてささげ、罪の赦しのために神との和解を求めました。しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3章23節)。そのため、アダムの堕落から始まった人類のすべての罪の問題が解決されない限り、神との完全な和解はありえません。それは今の時代も同じです。 主イエスはゲツセマネでの祈りに臨まれました。「アッバ、父よ、…この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。主イエスが切実に祈られたことは私たちの救いの実現のためでした。そして、その完成としての十字架を前にして、主は激しい誘惑と試練に直面しておられたのでした。 ここで主イエスが祈られた「御心」とは、主が十字架という耐え難い苦き「杯」を飲み干すことでした。そこで主は、「御心に適うことが」と祈られたのです。どこまでも神の意志に生き、死に向かわれる主イエスの姿がここにあります。 そして、「わたしが願うことではなく」という祈りに徹せられ、主イエスは決然と十字架への道を歩まれます。主イエスご自身がゲツセマネにおいて神と格闘され、その格闘の中で神への真実な服従へと進んでいかれたのでした。ご自身の思いに打ち勝ち、御心に適うことが行われるように祈り、父への服従の道を歩み抜いていかれます。この主に従うように呼びかけられています。 Wed, 07 Feb 2018 00:10:00 +0000 目を覚ましていなさい(マルコによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180207 no 2018 「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、…あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。…目を覚ましていなさい。」 (マルコによる福音書13章35節~37節) 主イエスは世の終わりについて語られた最後に、それがいつ来るかは誰にも分からないので、「だから、目を覚ましていなさい」と語られます。いつ何時、主がおいでになっても良い備えをもって日々を生きるように、と。それがここで教えられている大切なことです。 旅に出た主人がいつ帰ってくるか、それは僕たちにとって予測がつかないことでした。帰りが真夜中か、それとも朝になるかもしれない。しかし、いつ主人が帰ってきてもすぐに給仕できるように、僕たちは用意をしているようにと言われます。また、まだ帰ってこないと思って支度もせずに眠りこけることがないように「目を覚ましていなさい」とも勧められます。 主はいつ来られるか分からない、その主がいつおいでになってもよいように備えをしていることが大切です。 主がおいでになること。それを必ずしも世の終わりの出来事と考える必要はありません。わたし自身の終わりがいつ閉じられるか分からないからです。自分の死と向き合って生きる、それが主のおいでになることを待つ生き方でもあります。自分の死の備えをする歩みです。 Tue, 06 Feb 2018 00:10:00 +0000 生きている者の神(マルコによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180206 no 2018 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」 (マルコによる福音書12章27節) かつて神はモーセに現れた時に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。この「である」が大切です。アブラハムたちはモーセより以前の、過去の人物ですから、「わたしはアブラハム・イサク・ヤコブの神であった」と言われるはずですが、「である」と言われました。神がそのように言われたのは、神が今でも彼らの神であられ、彼らは今も生きているということを明らかにされるためでした。 そして、主イエスはこの神が「死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。ルカではさらに「すべての人は、神によって生きているからである」と付け加えられています。 遥か昔に死んだアブラハムたちを生かし、今も生かし続けておられる神は、私たちの神でもあられます。そしてアブラハムたちがその生の根拠をこの神においたように、私たちも自分の生の根拠を神におきます。 私たちはこの命の主によって生へと呼び出され、今も生かされ続けています。これから先の命も主に支えられて生きることができるし、生きていくのです。 Mon, 05 Feb 2018 00:10:00 +0000 小さい者を用いる主(マルコによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180205 no 2018 「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 (マルコによる福音書11章3節) 主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。そこで用いられたのは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」でした。人を乗せたことがない子ろばは、背中に物を載せただけで驚いてしまいます。そういう未熟な子ろばを、主イエスはあえて選ばれたのです。 おそらく主イエスをお乗せしたら、よたよたし、もたついたに違いありません。けれども、その子ろばは不安定な足取りの中、それでも、主イエスをお乗せし、エルサレムにお連れすることができました。なぜでしょうか。 子ろばもがんばり、足を踏ん張って、一歩ずつ力を込めて主イエスを乗せていったことでしょう。しかしそれ以上に大切なことは実は主イエスがこの子ろばにうまく乗ってくださったということでした。まだ人を乗せた経験のない未熟なろばに主イエスがうまく乗ってくださった。だから、子ろばは主イエスをお乗せすることができたのでした。 そのように主は未熟なわたしをも用いてくださるのです。「主がお入り用なのです」。この呼びかけに応えていきましょう。主が豊かに用いてくださいますから。 Sun, 04 Feb 2018 00:10:00 +0000 幸いな者 (マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180204 no 2018 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 (マタイによる福音書5章12節) 5章から始まる山上の説教で、主イエスは繰り返し幸いを語られます。ここで主が語られるのは、神を信じることの幸いです。 「心が貧しい」こと、「悲しむ」こと、「柔和」(これも貧しさや無力であるという意味を含んでいます)、これらはいずれも主イエスご自身に見られる姿です。主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者」(マタ11章29節)であると言われました。主イエスは、貧しさと弱さの中で、十字架の死に至るまで神への従順を貫かれたお方です。それは、罪人である私たちが、主が歩まれた幸いに生きるようにされるためでした。 ここには、主イエスによって地上の幸いに勝る幸いに生きるものとされた、神を信じる信仰者の生き方があります。信仰者は、主イエスのゆえに迫害を受けること、身に覚えのないことで悪口を受けることがあるかもしれません。しかし、「天には大きな報いがある」と言われるように、信仰者には大きな喜びと報いが約束されています。主イエスを仰ぎ、この幸いの道を共に歩みましょう。 Sat, 03 Feb 2018 00:10:00 +0000 小さい者に対する眼差し(マルコによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180203 no 2018 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」 (マルコによる福音書10章14節) 主イエスの許に子供たちが連れて来られたとき、弟子たちは追い払おうとしました。しかし、主イエスは弟子たちを叱って、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と諭され、「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」たのでした。 寄るべのない無力な彼らは大切な慈しみの対象で、全力をもってかばい、守り、慈しむ、かけがえのない相手でした。その主の慈しみの眼差しは、子供だけではなく、子供のように「小さい者」として軽んじられ、侮られ、卑しめられ、差別されている人々にも広げられます。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(9章37節)と明言された主イエスは、「これらの小さい者の一人」が、どれほどかけがえのない存在かを明らかにされます。「これらの小さい者」、その中のたとえ一人といえども、主イエスはおろそかにされません。その「一人」が主イエスにとっては大切なのだということを、ここで明らかにされたのでした。 Fri, 02 Feb 2018 00:10:00 +0000 不信仰の中の信仰(マルコによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180202 no 2018 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 (マルコによる福音書9章24節) 悪霊に取りつかれた息子を救うためにこの父親は、これまであらゆる手を尽くしたことでしょう。しかし、そのすべては無駄になりました。ここで彼が「おできになるなら」と言うのも無理はありません。しかし、主はその言葉を切り返されます。「『できれば』と言うか、信じる者には何でもできる」と。主を魔術師の類と考えていた父親に、主イエスはご自分に対する信仰を求められました。 父親はすぐさま、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。ここでは自分の信仰の確かさや信念の強さは問題ではありません。信仰はないのです。それを認めて、「信仰のないわたしをお助けください」と求めること、それがここで「信仰」と言われています。「信仰のない」不信仰なわたしを認め、主イエスに求めること、それがまことの信仰です。 信仰は大きさや多さではありません。厚さでもありません。向きが問題です。心がどこに向いているかです。主イエスだけに向けられていくものこそ信仰です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。私たちの心を主イエスに向けましょう。 Thu, 01 Feb 2018 00:10:00 +0000 切り株から生まれる若枝(イザヤ書 11-12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180201 no 2018 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。 (イザヤ書11章1節~2節) 1節に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」とあります。「エッサイ」はダビデ王の父親です。「株」とは切り株のことであり、主なる神の裁きがイスラエルの民に臨んで、エッサイの子ダビデの子孫を含めて切り倒されてしまったことが示されています。 けれども、それでおしまいではありません。「ひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と言われるとおり、エッサイの株から、新しい命が芽吹くものとされたのです。 イスラエルは不信仰のゆえに神に裁かれ、切り倒されてしまいました。しかし、神は、その切り株から新しい芽を生み出し、若枝を育て、神によってもたらされる救いを実現してくださるお方なのです。 やがて主は、イスラエルの聖なる方、主に真実に依り頼み、主を畏れ敬う者である神の御子を、「ダビデの子」としてこの世に遣わしてくださいました。そのお方こそが主イエス・キリストです。歴史の中に生きて働かれる摂理の神の働きこそ私たちの希望です。 Wed, 31 Jan 2018 00:10:00 +0000 わたしたちのために生まれた主(イザヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180131 no 2018 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。 (イザヤ書9章5節) アハズからヒゼキヤに王位が引き継がれました(王下18、19章)。ヒゼキヤは、ダビデのように主の目にかなう正しいことをことごとく行い、イスラエルの神、主を固く信頼し、その戒めを守りました。アッシリアがユダの各地を征服してエルサレムを包囲し、全面降伏を勧告したときも、ヒゼキヤはイザヤに執り成しの祈りを要請しました。 神がヒゼキヤの求めに応えて、「アッシリアの王がエルサレムに入城することも、矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、都に対して土塁を築くこともない」と約束され、その言葉のとおり、主の御使いが一晩のうちに18万5千人の兵を撃ちました。 神は祈る者を力ある御業で守られます。ここで「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」というのは、子どもの誕生というより、王の即位を知らせる言葉だと言われます(詩2編7節)。その王は、名を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君。」やがて、その方が救い主イエス・キリストとして、私たちに与えられました。 Tue, 30 Jan 2018 00:10:00 +0000 神を畏れ、神に従う(イザヤ書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180130 no 2018 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを 何一つ同盟と呼んではならない。 彼らが恐れるものを、恐れてはならない。 … 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。 あなたたちが畏るべき方は主。 御前におののくべき方は主。 (イザヤ書8章12節~13節) アッシリアと同盟を結ぶと語る王に、イザヤはそれは降伏以外の何物でもないと警告を発してきました。人びとにも繰り返し繰り返し、神を畏れ、神を信頼するようにと説いてきました。 けれども、功を奏しません。それは、6章10節で、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。…悔い改めていやされることのないために」と言われていたとおりです。イザヤはその辛い現実に直面しなければなりませんでした。 それでも、イザヤが待ち望んでいたのは、自分と同様、イスラエルの家、ユダの民が罪を悔い改め、清められること、救われることでした。「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける」(17節)と語っているところにも、そのことが言い表されています。 現状を打開する鍵は、人間的な策略や同盟を結ぶことではなく、主を畏れ、主に聞き従うことであるというイザヤの言葉は、今日の私たちへの言葉でもあるでしょう。 Mon, 29 Jan 2018 00:10:00 +0000 主が与えてくださる救いのしるし(イザヤ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180129 no 2018 イザヤは言った。 「ダビデの家よ聞け。 あなたたちは … わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」 (イザヤ書7章13節~14節) アラム・エフライム連合軍の攻撃に対して、アハズ王はアッシリアに使いを送り、援軍を頼みました(王下16章5節以下)。アッシリアの王ティグラト・ピレセルは、アハズの頼みを受けてアラムの都ダマスコに攻め上ってこれを占領し、王レツィンを殺しました(同9節)。また、ピレセルは、北イスラエルの全地方を占領し、住民を捕囚として、アッシリアに連れ去りました(同15章29節)。 6章10節で言われているとおり、アハズ王は主なる神の御前に心を頑なにして、「悔い改めていやされることのない」者です。そこで神は、アハズ王に一つのしるしを与えられます。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエルとは、神が我々と共におられるという意味です。 私たちは真の「インマヌエル」を知っています。それは、どのようなときにも共にいて、私たちの罪を贖い、私たちを守ってくださる私たちの救い主、イエス・キリストです(マタ1章23節)。 Sun, 28 Jan 2018 00:10:00 +0000 暗闇に輝いた大きな光(マタイによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180128 no 2018 「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、 暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 (マタイによる福音書4章15節~16節) 主イエスが伝道活動を始められたガリラヤは、ユダヤ人と異邦人が雑居し、さまざまな民族の文化が混合していました。そのためにエルサレムのユダヤ人からは嫌われ、宗教的にも軽蔑と憎しみしか受けられない地になっていました。 しかし、旧約聖書のイザヤ書に約束されていた通り、この地で主イエスは伝道の第一声を上げられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1章15節)。神が繰り返し預言してこられた救い主が天からこの世に来られ、いよいよその働きを開始されたのです。 私たちは自分で選んで「神の国」に入れるようになったのではありません。先ず、神が私たちを愛して呼んでくださったので、主イエスを知ることができました。それは一方的な恵みであり、神自ら私たちを罪の暗闇の力から引き揚げてくださいました。 呼んでくださったお方は、大きな光であり、光そのものです。そして、「罪の赦し」という福音の中に、生涯私たちを固く守ってくださるお方なのです。 Sat, 27 Jan 2018 00:10:00 +0000 イザヤの召命(イザヤ書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180127 no 2018 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。 「誰を遣わすべきか。 誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。 「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください。」 (イザヤ書6章8節) 6章には、イザヤが預言者に召されたときのことが記されています。それは、ウジヤ王が死んだ年のことでした。主なる神がご自身の姿をイザヤの前に現されました。これは、出エジプト記19章18節と同様であることを示しています。 それを見たイザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言います(5節)。罪深い人間は本来、聖なる神を見ることができません。 そのときセラフィムが祭壇の炭火を取ってイザヤの口に触れ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言いました(6、7節)。イザヤはそこで神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤはすぐに応えました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。 主はきょう、私たちにも同じ言葉を語られるのではないでしょうか。「誰を遣わすべきか、誰が我々に代わって行くだろうか」。 Fri, 26 Jan 2018 00:10:00 +0000 主にあって実を結ぶ(イザヤ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180126 no 2018 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。 主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。 正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)。 (イザヤ書5章7節) 神は、ユダの人びとを、ぶどう畑にたとえています。神は労を惜しまず、手塩にかけて甘いぶどうが実る良いぶどう畑を夢見つつこれを育てられました。しかし、実際にできたのは酸っぱいぶどうの畑でした(2節)。 礼拝に心が伴わないということは、信仰者の生活のさまざまな場面にあらわれてきます。主なる神は、貧しい者や弱い者が守られる、公平で豊かな社会が築かれることを願われました。しかし、ユダでは強い者が弱い者を食い物にして、血が流され、その叫び声が響き渡っていました。それは決して神の御言葉に耳を傾け、その御心に従おうとする姿勢ではありませんでした。 私たちは、良いぶどう、酸っぱいぶどう、どのような実を結んでいるでしょうか。豊かに良い実を結ぶために、主イエスを信じ、謙って御言葉をしっかり聴く者となりましょう。御言葉をしっかり聴くとは命令を守ることです。その命令とは、主イエスが私たちを愛されたように、私たちが互いに愛し合うことです。それが、主イエスの期待されている良いぶどうの実です。 Thu, 25 Jan 2018 00:10:00 +0000 エルサレムの残された者(イザヤ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180125 no 2018 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。 (イザヤ書4章2節~3節) 1節は3章26節の続きで、シオンの娘たちへの裁きが語られています。その日、裁きの日には、豪華な生活をする女たちが頼りにする男たちが戦いに倒れ、数少ない男性に群がる終末的混乱があるというのです。 2節以下でエルサレムの将来の栄光が語られます。「若枝」はヘブライ語で「生える」という動詞から派生した名詞で、植物の新芽を意味します。絶望的な主の裁きの後、地から主の新芽が生え出で、裁きを逃れた者たちを祝福するものになるというのです。それは滅ぼすための裁きではありません。神がご自分の民を聖別し、新しい未来を産み出すための裁きです。ですから、残された者は「聖なる者と呼ばれる」のです。 裁きによって残された者は、立派な者、非の打ちどころのない者ではありません。神は、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、すすぎ清めると語られています(4節)。本来滅ぼされるべき者が、裁きの日に残されて聖とされるのです。ここに神の恵みと救いがあり、十字架の福音があります。 Wed, 24 Jan 2018 00:10:00 +0000 頼みとしているものを取り去られる神(イザヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180124 no 2018 見よ、主なる万軍の神は 支えとなり、頼みとなる者を また、パンによる支え、水による支えをも エルサレムとユダから取り去られる。 (イザヤ書3章1節) 神は、人々が頼みとしているものを取り去られます。2節以下に、彼らが頼みとしていたものとして、「勇士と戦士」が挙げられています。彼らが軍事力あるいは軍事的な指導者を頼みとしていたことが分かります。続いて「裁きを行う者と預言者」が挙げられて、法的、宗教的指導者を頼みとしていたことが分かります。そして「占い師と長老」を挙げて、占いや呪いにより、あるいはまた長い人生経験をもとに助言、指導を与える指導者を頼りとしていたことが示されます。 この預言が語られた頃は、南ユダ王国はまだその平和と繁栄を謳歌している時でした。当時の人びとは、主ではなく、別のものに依り頼んでいました。イザヤの預言をそのまま受けとめる人はまことに少数でしかなかったと思われます。 やがて、イザヤの預言が実現し、彼らが頼みとしていたあらゆるものが取り去られる時が来ます。その時に初めて、本当の支えを知ります。「しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる」(10節)。 Tue, 23 Jan 2018 00:10:00 +0000 主がもたらしてくださる平和(イザヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180123 no 2018 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 (イザヤ書2章4節) 2節に言われている「終わりの日に」とは、この世の終わりの日のことを指しています。つまり、それはイザヤの預言の射程が、今のこの時代を超えて、世の終わりの日、はるか未来に及んでいるということです。 イザヤが召命を受けた紀元前740年ごろ、中東ではアッシリアが世界帝国の道を歩んでいました。彼らはシリアを占領し、北イスラエルを滅ぼし、この時には南ユダ王国に迫ってきていました。このような危機の中で、イザヤは「アッシリアは神の鞭であり、イスラエルが主に信頼しない時に、主はアッシリアを用いて、イスラエルを撃たれる」、そればかりでなく、傲慢なアッシリアをも撃たれると預言しました。 私たちには、この世にあってはさまざまな困難や苦しみがあります。しかし、イザヤは主なる神がもたらしてくださる平和、私たちのまことの希望を語ります。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」その日が来たときには主こそ真の支配者であることがわかると宣言しています。 Mon, 22 Jan 2018 00:10:00 +0000 心をご覧になる神(イザヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180122 no 2018 お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。 雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。 雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。 (イザヤ書1章11節) イザヤが活躍していた時期は、アッシリア帝国の興隆期にあたります。紀元前8世紀、アッシリア帝国はシリア、北イスラエルを征服したのを皮切りに、ペリシテ、エジプトを撃破、その勢いのまま南ユダに攻め込み、あと一歩でエルサレムを陥落させるにまで至りました。 このアッシリアによる南ユダへの攻撃を、イザヤは神の裁きと考え、ユダの民に悔い改めを説きました。イザヤとは「主は救い」という意味です。そのような名がつけられたのは、主の救いを味わって感謝していたという意味もありますが、困難の中にあって主の救いを期待しているという意味を感じさせられます。 ユダの民はその時、神を信じていなかったわけでも、礼拝をしていなかったわけでもありません。冒頭の聖句のように形だけの礼拝行為をすれば、神が喜ばれるということではないのです。 神が求められるのは、形ではなく信仰です。神は私たちの心をご覧になります。神の教えに耳を傾け(2、10節)、悪を行うことをやめ、善を行うことを求められます(16、17節)。 Sun, 21 Jan 2018 00:10:00 +0000 キリストとの出会い(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180121 no 2018 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 (ヨハネによる福音書1章29節~30節) 人びとに悔い改めを説き、洗礼を授けていたヨハネの周りには多くの人が群がり、彼の弟子になる者たちも出てきました。しかし、ヨハネは自らに与えられた「証人」という使命を忘れることはありませんでした。 彼は近づいて来られる主イエスを見て「世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣言しました。さらに、主イエスこそわたしが予告していた人であり、わたしよりも先におられた方だと紹介しています。「先に」という言葉は、「まだこの世界に何もなかった時に、すでに存在しておられた方」ということです。 この証言によって、まず洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスに出会いました。その一人アンデレは、まず最初に兄のシモン(ペトロ)を主イエスのもとに連れて行きました。 ヨハネの一言があったとはいえ、この出会いは偶然だったのでしょうか。決してそうではありません。出会いは人の思いを超えた神の恵みのご計画に他なりません。私たちが導かれる礼拝も出会いであり、神の恵みに満ちた招きなのです。 Sat, 20 Jan 2018 00:10:00 +0000 神の逆説(マルコによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180120 no 2018 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」 (マルコによる福音書8章35節) この直前に主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われています。主に従うのは自分の命を得たいから、と多くの人は考えるのではないでしょうか。しかし従うことは自分を捨てること、命を失うことが救うことだと言われます。 主の言葉は逆説に満ちています。しかしそもそも私たちに与えられている命は神から来たものです。私たちの命は、本当は私たちのものではありません。ここを間違えると、とりかえしのつかない損失につながると言われるのです。 主イエスの自己犠牲の歩みの終着点である十字架、それは死によって終わるものではありませんでした。神は主イエスを3日目に復活させられたのです。主イエスの死は、人の命を罪の支配から買い戻すためのものでした。それを得るために私たちがすべきことは、全存在を傾けて神に向かうこと、唯一無二の救い主であるイエスに従って歩むことなのです。肉体の死によって終わらない永遠の命を喜びつつ受け取りたいと思います。 Fri, 19 Jan 2018 00:10:00 +0000 回復を与えてくださる神(マルコによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180119 no 2018 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 (マルコによる福音書7章37節) 主イエスは耳が聞こえず舌の回らない人を癒やされました。それを目撃した人たちは大変驚きました。この癒やしの記事に触れるとき、自分は耳が聞こえるし舌も動くので自分とはあまり関係がないと思われるかもしれません。あるいは、体の不調等を覚えられる方であれば、自分の困難をも取り除いて欲しいと切実に願うかもしれません。しかし主イエスが与えてくださるのは、体の癒やしよりもっと深く広く根源的なものです。 私たちは多くの言葉を語っても、また多くの言葉を聴いても、心が晴れないという経験をすることがあります。人と心を通わすことができない孤独や、神と相通じることのできない不安を、誰もが持っているのではないでしょうか。 しかし主イエスは、十字架の贖いを通して、人と神、また人間同士の交わりを回復してくださるお方、命の言葉を与えてくださるお方です。私たちが注目すべきは、癒やしや奇跡よりも、この救いの御業の実現です。確かに「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と私たちも告白します。 Thu, 18 Jan 2018 00:10:00 +0000 憐れみ深い飼い主(マルコによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180118 no 2018 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 (マルコによる福音書6章34節) 主イエスは弟子たちに休息が必要だと感じ、共に人里離れた所に行こうとされます。しかし主イエスを見失うまいと一斉に駆けつける人びとがいました。 前の段落には洗礼者ヨハネが領主ヘロデに殺された事件が描かれています。ヘロデは権力欲に取りつかれ、見栄を重んじ、無実の人の命と神の言葉を抹殺しました。そのような人物の支配下にある人びとが主イエスに希望を見出して追って来たのです。 主イエスは彼らの有様を見て、「飼い主のいない羊のよう」であると思われました。誰も導いてくれる者がおらず、自力では正しい道に進むことができない、滅びに至るしかない、有様を見て取られました。 主イエスは、ご自身も休息を必要とされていたにもかかわらず、憐れみの思いを抑えきれませんでした。彼らが満腹になるほどの食べ物を与えられます。彼らは主イエスの愛に満たされました。主イエスこそ憐れみによってご自身を命のパンとして与え、私たちを天に導いてくださる真の飼い主であり、王です。 Wed, 17 Jan 2018 00:10:00 +0000 汚れた霊からの解放(マルコによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180117 no 2018 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、2千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。 (マルコによる福音書5章13節) 異邦人の地に、一人の男に取りついてその人を苦しめていた悪霊がいました。「レギオン(大勢)」という名のこの悪霊はこの地にやって来た主イエスを恐れ、豚に乗り移らせてほしいと懇願します。主がそれをお許しになると、2千匹もの豚が湖へと暴走し溺死しました。他方、悪霊に苦しめられていた人は正気を取り戻しました。一人の男が命を回復し、多くの豚が死んだのです。その様子を見た人びとは、あろうことか主イエスをその地方から追い出そうとしました。豚は彼らの経済の基盤でした。苦しむ人が救われることより経済活動の方が彼らには大切だったのです。 自分たちの繁栄のためには他人に犠牲を強いても良いという考えは、悪霊に取りつかれた神なきこの世にいつも現れてくるものです。それは共に死に向かって暴走する結果へと結びつきかねません。しかし主イエスはそうした世のただ中にいる私たちに、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と促されるのです(19節)。 Tue, 16 Jan 2018 00:10:00 +0000 信仰によって生きる(マルコによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180116 no 2018 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 (マルコによる福音書4章40節) 旧約の族長の一人、ヨセフは、兄たちに売られたエジプトの地で、王の見た夢を解き明かし、宮廷の責任者として、7年の豊作の間に、7年の飢饉に備える働きをしました。そして、飢饉の中でエジプトに穀物を求めに来た、兄たちとの感動の再会を果たします(創37、41、45章)。 神の御手の中で、「…木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、わたしたちにもたらされるのです」(『ハイデルベルク』問27答)。 エレミヤの言葉は、「肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人」(5節)に対して、「主に信頼する人」は、神の摂理の御手の中で、「干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と約束しています。それは、ヨセフのように、主の御手の中で御業を信じて、感謝に導かれる人の抱く、希望の約束です。 主の深い憐れみの中で、「打ちひしがれている」(マタ9章36節)人々を知るとき、主の祈り手とされて、感謝と希望を新たにしましょう。 Mon, 15 Jan 2018 00:10:00 +0000 神の御心を行う(マルコによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180115 no 2018 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マルコによる福音書3章34節~35節) 最初の人間が創造されたとき、人は神と共に生きる者であり神の家族の一員でした。しかし罪を犯して神の家にいられなくなってしまいました。神はそのような人類を深く憐れんでくださり、再び神の家族として迎え入れるために主イエスを遣わしてくださいました。 その主イエスは神の御心を行うようにと人びとに呼びかけられました。それは罪人にとって難しすぎることのように思われます。しかし主イエスは決して実現不可能なことを命じられたのではありません。この後、主イエスはゲツセマネの園で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14章36節)と祈られました。そして神の御心に従って十字架の死をその身に引き受けられたのです。 その主イエスを信じ、その言葉を聞き、主に従って歩むことを通して私たちもまた神の御心を行う者とされます。本当に神の家族とされるのです。 そうした人たちが現にここにいる。主イエスはこのように示しつつ、今、私たちを招いておられます。 Sun, 14 Jan 2018 00:10:00 +0000 これはわたしの愛する子(マタイによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180114 no 2018 イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 (マタイによる福音書3章16節~17節) 神の御子イエスは罪の無いお方であるにもかかわらず、罪を悔いて洗礼を受ける人びとの中に加わってくださいました。それは、主イエスが罪を持たれないまま、しかし、私たち人間と同じように罪人の一人となられたということです。このお方は私たちの罪にまみれ、苦しみに満ちた生活を知らない救い主ではありません。 主イエスがヨハネから洗礼を受けられると、天が開けて神の霊が降り、主イエスは神が愛し喜ばれる子であることが天から宣言されました。いよいよ「愛する子」の時代が始まろうとしていました。 多くの時代、苦しむ民衆のために犠牲になっていった勇敢な人びとはたくさんいたでしょう。しかし、人を罪と死から救うために死ななければならなかった人はイエス・キリスト以外にはおられません。なぜなら、罪を持つ人間は自分の罪も他人の罪も解決することができないからです。その人間の罪を解決するために、主イエスが、神でありながらも、罪なき人間となって来られたのです。 Sat, 13 Jan 2018 00:10:00 +0000 安息日の主(マルコによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180113 no 2018 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 (マルコによる福音書2章27節~28節) ファリサイ派の人たちは、安息日規定を細部まで正しく守ることが神の民の義務だと考えていました。やがてその中に誤った意識が入り込み、自分は規定を守っていると自負し、守れていないと思われる人を蔑むようになってしまいました。 本来、安息日とは、自分と自分の周りのすべて命あるものが休息し、命を回復するために神が定められたものです。彼らの姿勢はこの目的とは正反対のものでした。彼らは主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことを咎めますが、主イエスはダビデが供えのパンを食べた例を示されます。 神が求められることは、神の教えの核心を受けとめ、生きることです。主イエスは、安息日を本当の意味で実現させるために来られた方です。ご自身を神聖な供えのパンとして私たちに差し出され、永遠へとつながる命と安息を与えてくださいました。 私たちは安息日の主である主イエスのもとで心から安んじ、感謝をしつつ、安息日だけではなく日々の生活を喜んで生きたいと思います。 Fri, 12 Jan 2018 00:10:00 +0000 野獣と一緒におられた主(マルコによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180112 no 2018 イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 (マルコによる福音書1章13節) 天からの召命の声を聞かれた主イエスは、聖霊によってすぐに荒野へと送り出され、サタンからの誘惑を受けられました。どのような誘惑だったのか。それは「野獣と一緒におられた」という言葉から推察できます。 詩編73編22節には「わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた」との告白があります。野獣とは人間性を失った人間の象徴ということができるのです。 神を知らず、神に敵対し、愛を見失い憎しみ合い傷つけ合う人間たち。それは私たち自身の姿です。私たちは誰もが皆、自分の中にある野獣性に苦しめられ、同時に野獣のような人びとに囲まれ苦しめられています。 しかしそのただ中にイエスは身を置いてくださいました。神は、野獣の住むこの世の中を、神が共にいるところとしてくださったのです。この世は見捨てられず、神の希望の場所となりました。神を知り神と交わり、人間同士が互いに愛し合うことができるところとなったのです。 Thu, 11 Jan 2018 00:10:00 +0000 分断を越えるために(創世記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180111 no 2018 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。 (創世記11章8節~9節) 互いに理解しあえないという悲しみ…。たとえ同じ言葉を使っていても、バラバラな主義・主張がぶつかるばかりで、話が通じない。この21世紀という時代は、そういう「分断」の悲しさを、ことのほか強く思わされます。そういう争いと混乱は、このバベルの塔の出来事以前にはなかったのでしょうか。 それ以前は、人間は一つの言葉を話していました。しかし、「神などもはや必要ない」という自信と傲慢においてひとつになった人間の一致団結は、どれだけ高い塔を作ることができても、やがては必ず滅びにいたります。高ぶった者同士は、互いに競いつぶしあいます。全体主義の愚かさということも思い出してください。 人間のあるべき一致は、神の御心における一致です。おごり高ぶったバベルの人びととは対照的に、主イエスは、へりくだりの道を歩まれました。この主に従い、主にならうのです。神の御前で真に砕かれ、悔い改めた者たちだけが互いに尊敬し合うことができます。真の一致と平和は、そこからしか生まれません。 Wed, 10 Jan 2018 00:10:00 +0000 虹の契約(創世記 9-10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180110 no 2018 「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」 (創世記9章16節) 大洪水の後、神は契約を立て、その契約のしるしとして虹を見せてくださいました。ここでは、契約を「結ぶ」ではなく「立てる」と言われ、神の側からの約束の確かさが際立って示されています。この被造世界をどう扱うかは、創造者であり主権者である神の一存で決まります。その神がまったく自由に立ててくださる恵みと憐れみの約束。人間の側からは決して要求することができない、この約束によって全生命は支えられているのです。 虹のしるしで思い出したことがあります。ある方の葬儀の時でした。式が終わった時に、大きな虹が出たのです。それを見て、ご遺族の未信者の娘さんと、その友人である教会の姉妹とが抱き合って泣かれました。姉妹は、ノアの契約の虹を思い出したと言います。わたしも、神の憐れみについて考えました。 この地上で生きて、そして死んでいくすべての人間の営みを、神は、深い憐れみをもって見つめ、ご自身のもとに招き続けておられるのだと悟らされ、胸が熱くなりました。 Tue, 09 Jan 2018 00:10:00 +0000 二度とすまい(創世記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180109 no 2018 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」 (創世記8章21節) 「ノアは主のために祭壇を築いた」(20節)。箱舟から出たノアが最初にしたことは神礼拝でした。そのノアの姿に、あるべき創造世界が象徴されています。それは人が正しく神を礼拝して生きる世界です。人間は神を礼拝するために創造され、礼拝することで、本来の尊厳を取り戻します。礼拝が失われた世界の造り直しこそが洪水の目的でした。 この礼拝を受け入れて、神はご自分に言い聞かせられます。「二度とすまい」と。これは神の恵みの決定です。洪水によって、これまでの悪を流すことはできました。しかし、またすぐに悪くなります。人の心は悪に傾いているからです。外側の汚れを落としても、内側から汚さがしみだしてきます。これを清めるためには、裁きと呪いではダメです。赦しと癒やしが必要です。神は愛をもって辛抱強く人間を清めていく忍耐の道をここで選んでくださいました。 残念ながら私たち人間は、神が大地を呪わないと言ってくださったのに、自ら大地を軽く扱い、滅びを引き寄せています。神の忍耐を無にしないでいたいものです。 Mon, 08 Jan 2018 00:10:00 +0000 新しい創造のための滅び(創世記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180108 no 2018 地上で動いていた肉なるものはすべて、…ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物はすべて、…ぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。 (創世記7章21節~23節) 洪水が始まりました。「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」(11節)。天地創造の際に、光の創造にはじまる神の御手の業によって、「深淵=混沌の海」が制御されました。しかし、それが裂けて氾濫したのです。神が抑えていた手をのけてしまわれました。それは、怒りに我を忘れられた神の全面放棄ではなく、罪の極まった世界をもういちど造り直すという、創造のやり直しです。地上の悪に大なたをふるう決断をされたのです。それは、新しく生かし、希望をつなぐためです。 それは再び初めを与えるための終わりでした。すべてはぬぐい去られましたが、箱舟にいた者たちを神は残してくださいました。神は彼らを通して、新たな世界を始めてくださいます。 私たちもノア同様、決定的な破滅が与えられた後の生き残りです。その破滅とは、主イエスの十字架です。神は、全人類の滅びと引き換えに主イエスを死に渡されました。その死によって、生かしていただいた命です。それは私たちがこの新しい命をもって新しい世界を建て上げていくためなのです。 Sun, 07 Jan 2018 00:10:00 +0000 キリストの豊かさ(エフェソの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180107 no 2018 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、 (エフェソの信徒への手紙3章7節~8節) パウロは、「伝道者」としての働きが自らの使命であることに揺らぐことのない確信を持っていました。それは、自分の能力や才能に自信があったからではありません。むしろ、誰よりもその資格がないことを十分に心得ていました。 神の御前に、自分は「罪人の中で最たる者」(1テモ1章15節)と告白したパウロは、ここで「最もつまらない者であるわたし」と記し、「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜」ったと、記しています。罪を深く自覚するパウロは、神の恵みと力がなかったならば、わたしはこのようにはなれなかったと言うのです。パウロは、神が福音宣教者としての力を備えてくださった恵みを、ただただ驚きをもって記します。 私たちの伝道も、自分で計画し、自分で行う働きなのではありません。神の永遠のご計画に基づくものです。この事実を思う時、私たちに託された神の救いの働きがどんなに栄光に富んだものであり、宣べ伝える福音が、どんなに計り知れないキリストの豊かさ(富)であるのかがわかります。 Sat, 06 Jan 2018 00:10:00 +0000 神に従う無垢な人(創世記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180106 no 2018 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。 (創世記6章9節) 「神に従う無垢な人」とは非のうちどころのない高潔な義人というよりも、神に命じられるがまま、不器用なまでに従順に生きる人という感じではないでしょうか。 ノアはほとんど話しませんでした。ですから、彼がどんな人物なのか、よく分かりません。ただ特徴的なのは、「神が命じられたとおりに果たした」ということです(22節他)。晴れ上がった空の下で、海もない所に大きな箱舟を造りなさいという不可思議な命令に、彼は文句も言わず、従いました。 「ノアは神と共に歩んだ」。神との二人三脚。呼吸を合わせて、神の思いをわが思いとして歩みました。そして彼は「主の好意を得た」。この「好意」と訳された言葉は「愛する者に体が傾く、身を乗り出すこと」からきた言葉とも言われます。洪水前夜の神は、地上に人間の悪が増していくのに心痛められ、もう気が気でならないで身を乗り出しておられるようです。 そのような神の恵みの思いを、悪しき時代の中で、ただ一人だけ素直に受け止めた純朴な人。主イエスもまた、そういうお方でした。 Fri, 05 Jan 2018 00:10:00 +0000 人類の試練と希望(創世記 4-5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180105 no 2018 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。 (創世記4章25節~26節) 兄カインが弟アベルを殺すという人類最初の殺人は、親であるアダムとエバの深い悲しみとなり、人間が味わう大きな試練となりました。アベルは失われ、カインも「さすらう者」となって失われました。広がっていくはずの祝福の歴史が、この事件から失われたのです。これはもうどうすることもできません。神が、憐れんでくださらなければ…。 そのようにして打ちひしがれているアダムとエバを主は憐れみ、新たな子を与え、新しい歴史を始めさせてくださいました。セトという名からは、「神がこの愚かな私たちに授けてくださった…」という、深い感謝と、悔い改めの響きが聞こえてきます。そして、そのセトの子であるエノシュの時代に、人々は「主の御名を呼び始めた」と伝えられています。 人間が文化の発展とともに傲慢になり、いよいよ己の力を過信していくカインの系譜の歴史が描かれる一方で、このような、神へと思いを向けた人たちの歴史が始まったことをも聖書は伝えます。ここに、世界の希望があるのです。 Thu, 04 Jan 2018 00:10:00 +0000 神を信じ切れない弱さ (創世記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180104 no 2018 蛇は女に言った。 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 女が見ると、その木は…賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 (創世記3章4節~6節) エデンの園で、人は何不自由なく、何の疑いもなく、神の愛に包まれて暮らしていました。自由な愛において、純朴に神を信頼し、神との約束を大切にして生きていました。 しかし、そういう「神と共に生きる人」を皮肉に見つめる世慣れた蛇が「本当にそれでいいの?」と揺さぶりをかけてきます。それは、神の愛を疑わせるものでした。結果、人は、神の言葉より蛇の言葉を信じ、神と人との蜜月は破局を迎えました。 「神との約束を守っていては、本当の幸せを手に入れることはできないのではないか?蛇の言葉のほうがより現実的で人間的ではないか?」という疑いや傲慢は、私たちの内にもあります。そういう思いで善悪の知識の木の実を見つめた時、今まで気にもしていなかったものが、おそろしく魅力的に思えたようです。神を裏切ることは、いつでも魅力的に思えるのです。 神はそのような人の裏切りに、「何ということをしたのか」(13節)と、激しく怒られました。怒ったり、悲しむのは、本気でその人を愛しておられるからです。 Wed, 03 Jan 2018 00:10:00 +0000 神が用意してくださったもの(創世記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180103 no 2018 神が用意してくださったもの (創世記2章16節~17節) 人は神によって、土の塵から造られました。それゆえ人間は、決して神と同じではありません。土の塵にすぎないものであって、高ぶってはならないのです。しかし人はまた、被造物の中で唯一、神のかたちとして造られた尊厳ある存在であって、「神に僅かに劣るもの」とさえ、聖書に示されています(詩8編)。 神は人間をそのような尊厳ある存在として、まことに大切に取り扱い、エデンの園に住まわせてくださいました。そこは、神が人と共に過ごすために用意してくださった、甘く満ち足りた場所でした。その美しい園を耕し守って、ますます喜びの場所に整えていくということも、人間に期待してくださいました。 それは決して奴隷の労働ではありませんでした。神が人間に用意してくださったのは完全なる愛の関係でした。愛とは自由なものです。神は私たちに、自由な自分の意志で、神との約束を守ることを求められました。それが人に求められた神への愛でした。 そうしてなされたのが、16、17節にある最初の「契約」でした。 Tue, 02 Jan 2018 00:10:00 +0000 夕べがあり、朝があった(創世記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180102 no 2018 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 (創世記1章1節~5節) 神は最初の光を創造されて、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。そのあと、この命の光がしみとおっていくようにして、世界の基が整えられていきます。そして、「夕べがあり、朝があった」と六度繰り返され、最後は満たされた安息に至ります。「夕べがあり、朝があった」その順序が問題です。 朝をスタートとして、夜に向かうと考えるのが世の常かもしれません。人間の生涯もしかりです。夜明けの少年期を駆け抜け、日の光の満ちる昼の最盛期を過ごし、哀愁のただよう黄昏時をもって、死という人生の夜にたどりつく。しかし、聖書においては、夜で終わる物語はないのです。夕べの後に、朝がくる。混沌の夜があっても、必ず希望に満ちた朝がくるのです。 新約聖書でも同じです。主イエスが十字架で死なれた時、真昼なのに真っ暗になったと記録されています。世界を暗闇が覆いました。しかし、その十字架の絶望の夕べのあとに、復活の命の希望の朝が来たのです。 この1年もそのようにして、どのような夜があろうとも必ず光の朝へと至るのです。 Mon, 01 Jan 2018 00:10:00 +0000 言が肉となった(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20180101 no 2018 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 (ヨハネによる福音書1章14節~16節) 初日の出を拝むため山に登る人がいます。太陽は大きな存在(地球の約130万倍!)だからでしょう。しかし、それを造られたのは神です。その神が人となって来られたのは驚嘆畏怖する出来事です。 神が人となって来られたのは、人間が堕落したからです。人はきょうも神から与えられた自由の行使を誤り、罪と悲惨の中に生きています。だれでも救われる必要があります。神はこれをまず律法によって明らかにされました。律法も恵みであり、神の愛が証しされています。 しかし神の赦しの恵みと真理は何よりもイエス・キリストにより、その十字架の死と復活において現されました。主イエスだけが律法を完全に守られました。そして、私たちに代わって律法の呪いをその魂と肉体において引き受けてくださいました。 主イエスはいつも共にいてくださり、主に信頼して歩む道には必ず「恵みの上に、更に恵みを受け」る喜びが備えられています。ですから、私たちは安心してこの年も歩みを続けることができます。耐え難い試練に遭うことがあったとしても、です。 Sun, 31 Dec 2017 00:10:00 +0000 クリスマスの心・感謝(詩編 30編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171231 no 2017 わたしの魂があなたをほめ歌い 沈黙することのないようにしてくださいました。 わたしの神、主よ とこしえにあなたに感謝をささげます。 (詩編30編13節) 今年を振り返りながら、神に感謝をささげましょう。 感謝は神が与えてくださる恵みです。感謝には正しい出発点があります。それは主イエスによって与えられている救いの恵みを信じる信仰です。 主によって与えられた救いの恵みが感謝の源流です。主イエスの十字架の愛によって、この世のすべての悲惨と自分の汚れた罪から救われていること、主イエスの復活によって永遠の命が与えられている恵みに目を留めましょう。ここからたくさんの感謝が湧き出てきます。神に愛されていることに感謝しましょう。1年間の罪が赦されていることを信じて感謝をささげましょう。 個人的な体験のなかで与えられた神の助けや救いの恵みを思い起こし感謝しましょう。 苦しみや不安の中に置かれている方々は、やがて、困難を通り抜けて神に感謝をするときが必ずやってきます。 天の国籍が与えられている恵みに感謝をささげましょう。神の栄光を現すという人生の目的が与えられていることに感謝しましょう。悲しみも、喜びも感謝の心に変えてくださる神をほめたたえましょう。感謝をささげながら新年を迎えましょう。 Sat, 30 Dec 2017 00:10:00 +0000 アーメンを唱えつつ歩む(コリントの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171230 no 2017 (キリスト)において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。 (コリントの信徒への手紙二1章20節) 「アーメン」。この小さな言葉を唱えつつ、私たちは祈りの道を歩んでいます。 「アーメン」とはヘブライ語に由来し、「真実です」という意味です。私たちは祈るとき、「真実です」という真剣な思いをもって「アーメン」と唱えます。確かに私たちの祈りの真実さは大切です。しかし、それ以上に重要なことは、神の真実さに目を注いで「アーメン」と唱えることです。 神こそが真実なお方です。神はご自分の計画において長い歴史を貫いて救いを約束してくださいました。その約束はイエス・キリストにおいて「然り」、「アーメン」となったのです!(2コリ1章20節) 神は今も生きておられます。キリストにおいて救いを真実に実現してくださった神は、「アーメン」と祈りつつ歩む神の子たちに最善をはかって確かに祈りを聴いてくださいます。『ハイデルベルク』問129の答が「わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれている」と語るとおりです。この神の真実に励まされ、「アーメン」と唱えつつ御国への道を歩むのです。 Fri, 29 Dec 2017 00:10:00 +0000 何でもかなえられるとは?(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171229 no 2017 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 (ヨハネによる福音書14章13節) この御言葉はなんと力強い言葉でしょうか。しかしこの御言葉はよく注意をしないと、文脈を無視して、祈れば願うことは何でもかなえられると読んでしまいます。では主イエスが語られた「何でもかなえてあげよう」とはどういう意味でしょうか。 主イエスは12節で「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と語られました。主イエスはこの言葉で弟子たちを福音伝道に派遣されました。弟子たちはパレスチナの地でなされた主の働きを継続します。弟子たちによって福音が全世界に宣べ伝えられます。 主はこの福音伝道と教会形成の業には、たいへんな困難と弟子たちの苦難があることを予知されて、この御言葉を与えられたのです。伝道の進展を見ることが困難だからこそ、きょうの御言葉の約束を握りしめましょう。 主イエスは復活した後、父なる神のみもとに行かれ、福音伝道で労苦する弟子たちの祈りをとりついでくださいます。主は聖霊によって弟子たちと共に働かれ、弟子たちの祈りは神の栄光となります。 Thu, 28 Dec 2017 00:10:00 +0000 主の名を呼び求める者はだれでも救われる(ローマの信徒への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171228 no 2017 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 (ローマの信徒への手紙10章13節) 私たちは、私たちの罪のために十字架で死なれた主イエスを、神が死者の中から復活させられたと心で信じ、口でイエスは主であると公に告白して神の救いをいただきました。「主の名を呼び求める」とは、心で信じて義とされ、口で公に言い表すことです。 私たちは主の名を呼び求める信仰によって神に義とされました。その信仰によって罪の赦しと、新しい命と、復活の希望をいただきました。私たちの自分の業によらない、神の絶対的で主権的な恵みによって今の救いの中に入れられています。 そしてここで間違えてはならないことは、主の名を呼び求める信仰も私たちの自分の力によらない、ということです。私たちは自分の力で、心で信じ、口で言い表すという自分の立派な行いによって義とされたのではありません。 主イエスが、聖霊によって私たちの心に働きかけてくださいました。イエスは主であるという信仰の言葉と、それを心で信じ公に告白する力とを与えてくださったのは、私たちの内に働く聖霊です。信仰が神によって与えられたものであることを、私たちは今もこれからも信じ続けます。 Wed, 27 Dec 2017 00:10:00 +0000 全く聖なる者とされるとき(テサロニケの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171227 no 2017 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。…わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 (テサロニケの信徒への手紙一5章23節) 私たちが聖なる者、非のうちどころのない者とされるときが来ます。それは私たちの主イエス・キリストの来られる再臨のときです。主イエスは私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目に復活して、天に昇られ、いつかもう一度この世に来られます。 私たちがこの世の旅路を終えるとき、主を信じて亡くなった者の魂は、確かに、みもとで神にまみえるほど完全にきよくされています。そうではありますが、なおも体の完全な贖いを待ち望んでいます。この完成は、再臨に訪れます。 このとき主は神のご支配を完成され、父なる神に神の国を引き渡されます。主にあって召された者は復活の体を与えられ、再臨の主と出会い、いつまでも主と共にいるようになります。再臨の時に生きている者も、復活の体に変えられて聖なる者とされます。これが私たちに与えられる主の救いの完成です。 私たちは、この世にあっては、罪深さを嘆きながら歩みます。しかし、希望があります。ですから私たちは、すべてを主に委ね、主に赦されている罪人として、与えられた課題を懸命に果たし、きょうという日を生きるのです。 Tue, 26 Dec 2017 00:10:00 +0000 希望を誇り、苦難を誇る(ローマの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171226 no 2017 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ローマの信徒への手紙5章3節~4節) 私たちはさまざまな苦難を経験します。だれでも思いがけない病気や考えてもいなかった災いに襲われる可能性をもっています。そして苦難の中から逃れたい、どうにかして元の生活に戻りたいともがきます。 しかし主が苦難の中で私たちに与えようとしておられるのは、私たちが希望を誇り、苦難を誇るという勇気ある生き方です。例えていえば、苦難は希望に至る登山口であると語っています。そして希望の山頂を見つめながら、苦難と忍耐と練達というような行程を進みます。私たちは人生の苦難の中で、忍耐を学び、人生に熟練していくのです。そして人生の熟練が、鍛えあげられた誇らしい希望を生み出します。 ここで注意すべきことは、御言葉は苦難がそれ自体で忍耐を生み、忍耐も熟練もそれ自体で希望につながると語っているのではありません。苦難が段階を経て希望につながるのは、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。聖霊が私たちの中で神の愛を働かせてくださるので、私たちは希望を誇り、苦難を誇るのです。 Mon, 25 Dec 2017 00:10:00 +0000 主は私たちを憐れんでくださる(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171225 no 2017 主はわたしたちを どのように造るべきか知っておられた。 わたしたちが塵にすぎないことを 御心に留めておられる。 (詩編103編14節) 主は私たちの弱さとはかなさをよくご存じです。主がそのように私たちを知っておられるのは、主が人間を土の塵から創造されたからです。そして主は私たちが塵にすぎない者であることをお忘れになりません。 では主が私たちの成りたちを覚えておられることに意味があるのでしょうか。それを解く鍵は、14節の文頭にある「なぜなら」という語です。日本語訳聖書ではそれが省略されています。12節と13節では、主が私たちの背きの罪を赦してくださること、父がその子を憐れむように私たちを憐れんでくださることが語られています。そして14節は私たちに対する神の憐れみの理由を語っています。それは私たちが塵にすぎない者であることを主が覚えておられることです。 私たちは日常生活の中でしばしば自分が塵にすぎない者であることを実感します。そしてその弱さやはかなさに意味はないと考えてしまいます。あるいは、空しさを覚えます。 しかし主は、塵にすぎないことを御心に留めて、憐れんでくださいます。私たちは、塵に過ぎないという自覚から、主の恵みを見上げます。 Sun, 24 Dec 2017 00:10:00 +0000 クリスマスの心・愛(ヨハネの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171224 no 2017 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 (ヨハネの手紙一4章10節) クリスマスは、救い主イエスがお生まれになったことに思いを集中する時です。 この聖書の言葉は、主イエスの誕生に神の愛があると伝えています。クリスマスは、「わたしは神に愛されている」ことを知る時です。神は、わたしが神を愛する前に、わたしを愛してくださいました。 私たちは神の子どもですが、不従順な子どもでした。神に反抗して家を飛び出した子どもでした。神に対する感謝を忘れ、恩を忘れて、自分で大きくなり、自分で生きていると思いあがっている子どもでした。神に対して不従順な罪を重ねた子どもでした。父なる神の家に帰る道を完全に見失ってしまった迷子でした。 神は、その私たちを愛して本当の神の子にするために、唯一残された方法をお選びになりました。それは、主イエスにすべて私たちの罪を背負わせて身代わりとして十字架にかけて殺すという方法です。主イエスは、自ら進んで私たちのために命を捨てることをお選びになりました。神の愛と主イエスの愛は一つです。 クリスマスは、主イエスの誕生に心を寄せ、わたしに対する神の愛を知り、感謝と喜びの中で神をあがめる日です。 Sat, 23 Dec 2017 00:10:00 +0000 これからは、もう罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171223 no 2017 イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 (ヨハネによる福音書8章11節) ある朝、主イエスが神殿に行かれると、主を罠にはめようとする人々が女性を連れてきました。彼らは女性が姦淫の罪を犯したところを捕らえて、主に判定を求めました。 旧約の律法では、姦淫の罪は石打ち刑に定められていましたから、もし反対したら、律法に違反していると訴えるでしょう。その反対に、石打ち刑を認めたら、ローマ帝国だけがもっていた死刑の権限を侵すことになります。どう答えても不利な質問でした。 主は彼らの策略を知り、沈黙したまま指で地面に何かを書いていました。それによって、彼らに答える気がないことを示されたのです。 そして主イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われると、年長者から去り始め、他の人も去っていき、誰もいなくなり、女性と主が残されました。 主は言われました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。…わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。 罪の赦しを求める第五の祈りは、もう罪を犯さないという決意の祈りでもあります。 Fri, 22 Dec 2017 00:10:00 +0000 憎しみから解き放たれる(ローマの信徒への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171222 no 2017 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 (ローマの信徒への手紙12章20節~21節) 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るとき、自分ではどうすることもできない怒りや悲しみを自分の心から神に引き受けていただくことができます。神はそのことをご存じで正しく裁いてくださいます。 また、主イエスが深い愛で、私たちの罪を日々赦してくださっていることを思うとき、人を赦せない苦しみや憎しみから、主イエスの愛によって解き放たれ、心に神の平和を満たしていただくことができるのです。 パウロもローマの信徒への手紙12章20節でこう書いています。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」主イエスご自身が、悪に負けず、かえって、善をもって悪に打ち勝たれたのです。 主の愛と赦しによって、私たちも自分に対して罪を犯した人を赦し、神の前に心を清く保ちます。赦しという神の善により、人への憎しみという悪に、私たちは勝利することができるのです。 Thu, 21 Dec 2017 00:10:00 +0000 主に赦されたゆえに人を赦す(使徒言行録 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171221 no 2017 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。 (使徒言行録7章59節~60節) ステファノは執事的な働きだけでなく積極的に伝道し、主イエスを証しする人でした。すると、ステファノの教えに反対する人たちが出てきて、激しい議論になりました。 しかし、聖霊に満たされたステファノと論じ合っても、彼らは歯が立たなかったので、卑怯な方法でステファノを捕らえ、偽証人を立てて裁判にかけたのです。偽証人は、ステファノがエルサレムの神殿を汚し、モーセの律法に逆らっていると主張しました。 そのような状況でも、ステファノは落ち着いて、この弁明の機会を使って、イスラエルの歴史を順に追いながら力強く反論しました。 ステファノは、愛をもって語り、彼らが真実に気づいて悔い改め、主の救いを受けてほしかったのです。しかし、ユダヤ人たちは怒ってステファノを町の外に追い出し、石で打ち殺してしまいました。ステファノは、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びながら息を引き取りました。主に赦された心は、人の罪を赦す心とされるのです。 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」 Wed, 20 Dec 2017 00:10:00 +0000 神に赦されない罪はない(ヨハネの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171220 no 2017 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (ヨハネの手紙一1章8節~9節) 私たち人間は神から離れ、神との交わりを失ってしまったので、イエス・キリストの救いにあずかるまでは、だれも自分の罪に気づきません。人や社会に悪いことをしてしまったときには、罪悪感をもつことはあっても、特に、神を悲しませ、神に罪を犯したと感じることはありません。 私たちが、自分の罪に気づき、神を悲しませてきたことが分かるとしたら、神に愛され、聖霊の働きを受けているからです。聖霊は、御言葉をとおして神の愛と御心を示し、罪に気づかせ、神を畏れる心を与えてくださいます。 そのように罪を気づかされたとき、具体的な一つ一つの罪を神に告白して祈るなら、神はどのような罪も赦してくださいます。神に赦されない罪はありません。 公に言い表すとは、人々の前で告白するということではなく、神の前に真実に告白するということです。 それによって神は、罪を赦すだけでなく、心を聖霊によって清めてくださいます。聖霊は、心に愛と喜びと平安という実を結んでくださいます(新改訳:ガラ5章22節)。 Tue, 19 Dec 2017 00:10:00 +0000 7の70倍までも赦しなさい(マタイによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171219 no 2017 ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。 (マタイによる福音書18章21節~22節) ペトロは尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」。イスラエル人にとって、7という数は完全を意味するので、どんなに我慢したとしても、せいぜい7回までだと考えたのでしょう。 ところが、主イエスは言われました。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」。7の70倍とは、490回という数のことではなく、もう何回目か分からなくなる程、どこまでも何回でも赦してあげなさいという意味です。7回赦すだけでも忍耐が必要なのに、7の70倍とは、忍耐の限界を超えているように思います。 7の70倍赦すとは、主イエスの心を表しています。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈られた主イエスは、私たちの罪を何度でも、7の70倍までも赦してくださっているのです。 日々、主イエスに罪を赦されていることを思うとき、私たちも赦されている者として人の罪を赦せるようにされていくのです。 Mon, 18 Dec 2017 00:10:00 +0000 罪を悔い改める(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171218 no 2017 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 (詩編51編19節) 1節に「ダビデの詩」と書かれていますが、ダビデは主イエスが来られる千年前のイスラエルの王でした。そのダビデは、体を洗っていたウリヤの妻バト・シェバを見て、宮殿に呼び出し、関係をもちました。しかも、バト・シェバが子どもを身ごもったことが、夫のウリヤに知られないように、ダビデは彼をペリシテとの戦いの危険なところに送って戦死させてしまったのです。 このような恐ろしい罪を犯しても、だれも知らないと思っていたダビデのもとに、神は預言者ナタンを送って、その罪を指摘されたのです。 その時、ダビデは罪を認め、悔い改めて祈りました。 「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(3~5節)。 悔い改めは、罪を悔いるだけでなく、罪に背を向けて離れ、そこから神に信頼して歩むことです。神は、心からの悔い改めを受け入れ、どんな罪も赦してくださいます。 Sun, 17 Dec 2017 00:10:00 +0000 クリスマスの心・賛美(ヨハネによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171217 no 2017 「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 (ヨハネによる福音書9章25節) クリスマスは賛美の時です。賛美は神を喜びたたえ、あがめる心から生まれます。世界には多くの讃美歌があります。アメイジング・グレイスは特に有名です。この歌の作者ジョン・ニュートンは、歌詞の1節に「かつては盲目であったが、今は見える」という言葉を書きました。 聖書の中にこれと全く同じ言葉があります。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。生まれつき盲人であった人が、主イエスによって見えるようになった個所です。 ジョン・ニュートンの肉眼は見えていましたが、彼は霊の目が盲目だったと告白したのです。そして今は主イエスによって神の恵みが見えるようになったと賛美しています。罪深い自分、赦された自分、赦してくださる主イエスを、霊の目で見たのです。 神賛美は主イエスの救いを知ることによって生まれます。今は主イエスの恵みによって見えるようになりましたと心の中で救い主を喜びたたえましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章46、47節)。 Sat, 16 Dec 2017 00:10:00 +0000 干ばつの年にも憂いがなく(エレミヤ書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171216 no 2017 祝福されよ、主に信頼する人は。 主がその人のよりどころとなられる。 彼は水のほとりに植えられた木。 水路のほとりに根を張り … 干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない。 (エレミヤ書17章7節~8節) 旧約の族長の一人、ヨセフは、兄たちに売られたエジプトの地で、王の見た夢を解き明かし、宮廷の責任者として、7年の豊作の間に、7年の飢饉に備える働きをしました。そして、飢饉の中でエジプトに穀物を求めに来た、兄たちとの感動の再会を果たします(創37、41、45章)。 神の御手の中で、「…木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、わたしたちにもたらされるのです」(『ハイデルベルク』問27答)。 エレミヤの言葉は、「肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人」(5節)に対して、「主に信頼する人」は、神の摂理の御手の中で、「干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と約束しています。それは、ヨセフのように、主の御手の中で御業を信じて、感謝に導かれる人の抱く、希望の約束です。 主の深い憐れみの中で、「打ちひしがれている」(マタ9章36節)人々を知るとき、主の祈り手とされて、感謝と希望を新たにしましょう。 Fri, 15 Dec 2017 00:10:00 +0000 執り成しの祈りをささげるために(詩編 62編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171215 no 2017 民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。 神はわたしたちの避けどころ。 暴力に依存するな。 搾取を空しく誇るな。 力が力を生むことに心を奪われるな。 (詩編62編9節、11節) 40日40夜、昼も夜も、断食した後、空腹を覚えられたイエスを、悪魔は、「石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑します。しかし、イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との御言葉によって、この悪魔の誘惑を退けられました(マタ4章1~4節)。 私たちが、第四の祈りを、絶えず祈らなければならない理由は、たとえ、空腹であっても、満腹であっても、また、食糧に満ち足りていても、「自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなた(創造主なる神)の上にのみ置く」必要があるからです(『ハイデルベルク』問125答)。 詩編62編の御言葉は、「神はわたしたちの避けどころ」と、多くの人々に呼びかけ、「暴力に依存するな」「搾取を空しく誇るな」と言います。真の救いの力は、ただ神のみにあり、諸々の権力者にも、富裕者にもないことを警告するものです。 人の力に頼らず、神の力に期待する祈りは、戦争によって、貧困が引き起こされる連鎖を立ち切るためにも、必要不可欠です。きょうも神の言葉の力によって、執り成しの祈りを新たにしましょう。 Thu, 14 Dec 2017 00:10:00 +0000 主御自身が建ててくださらなければ(詩編 127編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171214 no 2017 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。 主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。 (詩編127編1節) 貧困と飢餓、富裕と飽食の同居するこの地球において、都市にその悲惨さを多く見ることができます。子どもの貧困や高齢者の孤独死は、一見豊かな国に見える日本でも深刻な社会問題になっています。 詩編127編は、いわば、「栄華を極めた」ソロモンの建てたエルサレム神殿において、「主御自身が建てて」「守ってくださるのでなければ」、「家を建てる人の労苦」も、「町を守る人が目覚めているのもむなしい」と言います。 それは、今日の、都市と国家、家庭と教会形成においても同じです。私たちの日本キリスト改革派教会がその創立宣言(1946年)において、この詩編127編の御言葉をもって、新日本建設と真の教会建設の幻を見たことを思い起こします。 では「主御自身が建ててくださるのでなければ」とは、何をどう期待して生きることでしょうか。それは、キリストだけが本当の労苦の喜びと祝福を与えてくださるお方であることを信じて生きることです。このお方は、十字架に至るまでご自身をむなしくされ、あらゆる労苦をご存じのお方です。そればかりか、復活の命に溢れるお方です。 Wed, 13 Dec 2017 00:10:00 +0000 「地球家族」の一人として平和を祈る(ヤコブの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171213 no 2017 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 (ヤコブの手紙1章17節) わたしの赴任している教会に、「地球家族」と題するカレンダーとともに、日本国際飢餓対策機構から毎月ニュースが届いています。世界各国の貧困と飢餓の実情が報告され、その解決のため、世界の人々の平和の実現を祈り求めることが訴えられています。日ごとの糧を祈り求める願いは、この平和を求める祈りと切り離せません。 使徒ヤコブは、きょうの御言葉の中で、繰り返して「わたしの愛する兄弟たち」と呼びかけます。それは、主イエスにあって、教会が、神を父とする神の家族であることを告白するものです。しかし「地球家族」の範囲はさらに広大なものです。主イエスが、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタ5章45節)と言われたとおり、神は、世界の人々の父でもあります。 輝き変わることのない神は、御子をさえお与えになるほどに、私たちに「完全な賜物」を与えてくださいます。いただいた賜物を「地球家族」のために御心に適って捧げましょう。その時、日ごとの糧を求める教会の祈りが、世界の人々の平和と連帯します。 Tue, 12 Dec 2017 00:10:00 +0000 罪ある者が汚した世のただ中で祈る(詩編 104編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171212 no 2017 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。 (詩編104編27節~28節) 主イエスは「空の鳥をよく見なさい」(マタ6章26節)と、大切なことを私たちに気づかせようとします。それは、「信仰の薄い」(同30節)私たちが、信仰深い目をもって、神が造られた世界を、よく見るようになるためです。 上に引用した詩編104編は、壮大な天地創造の描写による賛美の歌です。そこには、主に望みをおき、食べ物を待ち望む生き物たちの姿が、信仰の目で描かれています。 今、私たちが信仰の目で世界を見るとき、この大自然という神の恩恵を失う危機が見えてきます。創造の冠であったはずの人間の罪と悪ゆえに、全地球に広がる自然界も、空と海に行きかう動物界も、今までにないほど、姿も命も損なわれ、汚されているからです。この現実から目をそらせてはいけません。 詩編104編の作者は「どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように」(35節)と祈っています。この祈りを必要とする世のただ中に、主イエスはお生まれになりました。この事実を信仰の目をもって見るとき、祈りの質が変革され、罪ある世界に主の栄 Mon, 11 Dec 2017 00:10:00 +0000 祈りの優先順位(ペトロの手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171211 no 2017 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」 (ペトロの手紙一6章25節) 何かと思い悩みやすい私たちに、「命は食べ物よりも大切」「体は衣服よりも大切」と諭される主イエスは、「まず、神の国と神の義を求めなさい」(33節)と祈りの優先順位を教えてくださいました。それは主の祈りの第一から第三の願いの中で、「御名」「御心」「御国」を求める祈りとして展開されています。 それに対して、主の祈りの第四から第六の願いは、私たち自身のための祈りです。第四の願いで「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と自分自身のために祈るとき、最初に食糧のために祈ることを主はよしとされたのです。 また、主イエスは、主の祈りを教えてくださる前に、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」と教えてくださいました(8節)。私たちは、ともすれば、食べることは、私たちの勤労のお陰と思いがちです。しかしながら、主イエスは、私たちが労苦し、愛情をもって整えた食卓であっても、それは、私たちが願う前から、全能の神が先だって備えてくださった必要な恵みであると教えておられます。 神の恵みを感謝し、日々の糧を主に求めて祈りましょう。 Sun, 10 Dec 2017 00:10:00 +0000 クリスマスの心・希望(ペトロの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171210 no 2017 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 (ペトロの手紙一3章15節) 年末が近づくにつれ、大掃除、クリスマスカードや年賀状などの準備に追われて忙しくされている方も多いと思います。忙しさの中にあっても、きょうの御言葉にあるように、「心の中でキリストを主とあがめる」思いを大切にしましょう。「あがめる」は、神聖なお方として敬うことです。主イエス・キリストをあがめながらクリスマスに向かって歩みましょう。 キリストを主とあがめる人は、心に抱いている希望を伝える役目が与えられています。まずは、自分がキリスト者であることを周りの人に知ってもらいましょう。クリスマスは、あなたの身近な人に、キリストの素晴らしさをお伝えする良い機会です。身近な人からクリスマスの意味を尋ねられる時が与えられたら、キリストとわたしの出会いの証しをしましょう。自分の生きる希望がキリストにあることを伝えられるように、祈り備えましょう。クリスマスカードに聖句を書くことも有益です。 キリストが与えてくださった希望をあなたが伝えることによって、それを聞いた人の心に同じ希望が与えられるように祈りましょう。 Sat, 09 Dec 2017 00:10:00 +0000 天においても地においても(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171209 no 2017 御使いたちよ、主をたたえよ 主の語られる声を聞き 御言葉を成し遂げるものよ 力ある勇士たちよ。 主の万軍よ、主をたたえよ 御もとに仕え、御旨を果たすものよ。 (詩編103編20節~21節) 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 地上における私たちの歩みは、決して御心に適うようなものではありません。神は地上のすべてを御心のままに支配しておられるとはいえ、なお地上には「世を支配する諸霊」(コロ2章20節)がその影響力を振るっています。私たちの罪の裁きとしての呪いは、被造物すべてを虚無に服させています。私たちは、与えられた賜物を誠実に用い、主に助けられて御心の実現に向かいます。 御心を完全に実現することは不可能です。しかし、なお希望があります。天の万象、被造世界のすべては、罪の影響の中でなお神を讃えるものであり続けます。そして天において神の御許で、今この瞬間も御使いたちが主の御心を実現し、その栄光をほめたたえているのです。 私たちはまだ実現しない地上の御国、神の御心の完全なる実現をはるかに仰ぎ見つつ、その日その時に向かって、今この地上の歩みを進めます。神はその私たちの歩みを必ず顧みてくださり、恵みをもって臨んでくださるのです。 Fri, 08 Dec 2017 00:10:00 +0000 地上の務めでも御心を(コリントの信徒への手紙一 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171208 no 2017 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 (コリントの信徒への手紙一7章17節) 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 私たちは、それぞれ地上の生涯における務めを与えられています。 信仰をもって歩むこと、神と隣人を愛すること、福音を証しし教会に仕えること、神の栄光を讃え、神を喜んで生きること、これらはもちろん私たちに共通の最も重要な務めです。しかし同時に私たちには、それぞれの生活の場があり、それぞれ遣わされている責任があります。それらに誠実に向かうことも神から与えられた務めです。直接信仰と関わらない務めであっても、神は私たちにそれぞれの生活の場所と共に与えてくださっているのです。 私たちの地上の歩みやそこで向き合うさまざまな務めが私たちの思いと相容れないことは少なくありません。神の御心に明らかに反するのでない限り、私たちは与えられた務めに誠実に向き合い、その場で神の御心をあらわすことを与えられた務めと受け止めるようにと、パウロは勧めています(1コリ7章17節)。教会の外のどのような働きにおいても、神の御心を実現することができるのです。 Thu, 07 Dec 2017 00:10:00 +0000 神に委ねる(ローマの信徒への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171207 no 2017 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 (ローマの信徒への手紙12章2節) 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 私たちは信仰を持っていると言っても、地上で生きる者です。信仰についてどんなに学び、神についてどんなに知ったとしても、目の前にはさまざまな「目を引き付け」るものがぶら下がっています(創3章6節)。エデンの園のアダムたちでさえその誘惑を退けることができませんでした。まして罪の影響を引きずる私たちが、この誘惑を退けて神の御心を自分のものとして勝ち取ることなどできるはずがありません。 しかし神は、私たちを罪から贖い出し、永遠の命の約束を与えてくださいました。その神が、救われてなお無力な私たちに働きかけ、神の御心が私たち自身の心となるようにしてくださいます。 私たちは救いを自分で勝ち取ったのではありません。神に自分を委ねたとき、救いがおとずれました。それと同様に、救われた後も自分で自分を新たにするのではなく、神によって新たにしていただくのです。神が私たちを、御心を実現する者としてくださることを信じ、祈り委ねてまいりましょう。 Wed, 06 Dec 2017 00:10:00 +0000 キリストの苦しみを共にする(ルカによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171206 no 2017 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 (ルカによる福音書22章42節) 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 私たちに必要なことは、自分自身の命や思いを実現しようとすることではありません。むしろそれらを捨てて神の御心を実現し、神から永遠の命をいただくことです。キリストがその命を捨ててまで私たちを大切にしてくださったからこそ、私たちはその命をいただくことができました。 ですから、私たちもそのキリストのようになろうと願うのは、当然の心持ちでしょう。キリストが私たちの罪を贖い、命を獲得するためにしてくださった振る舞いとは何であり、それに倣うとは、どうすることでしょうか。 ところで、ご自分の命を捨てようとするとき、キリストは本当に苦しまれました。それが父なる神の御心であることを知りつつなお、自分の命を捨てて神の御心を自身の心とすることは、苦しみの選択でした。 キリストでさえそうなのですから、私たちはなおさらでしょう。平然と神の御心に生きることができる人はいません。絶えず「御心をなさせたまえ」と祈り続ける。それが私たちの姿です。 Tue, 05 Dec 2017 00:10:00 +0000 何に従うのか(マタイによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171205 no 2017 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」 (マタイによる福音書16章25節) 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 私たちは、罪から解放されて「自由を得るために召し出され」(ガラ5章13節)ました。自由とは、一般に「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること」(大辞林第三版)です。 しかし、聖書において、私たちが救われて自由とされているということは、そうではありません。救われた私たちはむしろ自分の本性に従うのではなく、神の御心に拘束・支配されるのです。一般的な定義であれば、これは自身の自由を放棄しているように映ります。 聖書は、私たちが自分を捨てることによって真の命を獲得することができると教えています。私たちが私たちの本性によって、命を得ようとする道は、全く不十分であるばかりか、何の益も生み出すことができないのです。 むしろイエス・キリストがご自分の命を十字架上で捨てたことによって、永遠の命を獲得してくださったように、私たちも自身を捨てることによって命をいただけます。キリストの永遠の命をいただけますよう祈りましょう。 Mon, 04 Dec 2017 00:10:00 +0000 御心をあらわす者とされる(マタイによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171204 no 2017 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 (マタイによる福音書7章21節) 「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 私たちは、神の救いは、信仰によって与えられると確信しています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言われているとおりです(ロマ10章10節)。「善い行い」によって義と認められようとする試みは無意味なものです。 けれども、主の名を呼ぶだけでいいのかといえば、そうではありません。主の名を呼ぶだけで何も変わらない人は、天の国から拒絶されると言われるのです。 行いによって救われるのではありませんが、信仰には行いが伴います。主を信じ、その名を呼ぶ人は、罪を赦されて主と和解します。すると、主の御心が自分の心に宿ります。その結果として、御心を行う者となるのです。 御心を行うために、何か一生懸命頑張るのでしょうか。そうではありません。救われること自体を神に委ねている私たちは、救われて御心をあらわす者とされることをも日々神に委ね、祈り求め続けるのです。日々御心を行う者とされていきましょう。 Sun, 03 Dec 2017 00:10:00 +0000 神の恵み深い厳しさは、わたしを日々変えてゆく(フィリピの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171203 no 2017 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (フィリピの信徒への手紙2章6節~8節) 今週からアドベント(待降節)が始まります。アドベントは「到来」という意味です。教会がアドベントという言葉を使うときは、主イエスの到来に限られます。主イエスの到来を待ち望む期間をアドベントというのです。 主イエスの到来には二つの意味があります。一つは、主イエスが天からこの地上に人間の姿をとって到来された誕生のことです。主の誕生はすでに起こったことなので過去のことです。もう一つは、十字架にかかり、死んで、3日目によみがえり、天に昇っていかれた主イエスが、再び地上に到来される再臨です。主の再臨は、まだ起こっていませんから将来の事柄です。アドベントは、主イエスの十字架によって与えられた救いを思い起こし、将来与えられる救いの時を待望する季節です。 再臨を待ち望むパウロは牢屋の中でこの手紙を書きました。この手紙は喜びの手紙と呼ばれています。この手紙に記された喜びは、静かな喜びです。キリストを信じる人は、置かれた環境に左右されない静かな喜びが与えられていることがわかります。アドベントは静かな喜びの中を歩む季節です。 Sat, 02 Dec 2017 00:10:00 +0000 わたしはすぐに来る(ヨハネの黙示録 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171202 no 2017 “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。…以上すべてを証しする方が、言われる。「然りわたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 (ヨハネの黙示録22章17節~20節) ヨハネの黙示録を読んだ人は「主イエスよ、来てください」と祈るように励まされます。神の右の座に着かれ、今、私たちのために執り成してくださる主イエスは、「わたしはすぐに来る」と再臨の約束をされました。 主イエスは22章で三度「わたしはすぐに来る」とおっしゃいました。それは、必ずそのことを実現させるという強いご意志の表れです。すぐに来られる方はこの世を覆っている暗闇をやがて終わらせる「明けの明星」(16節)です。主イエスが来られるときに、この世界は新しくされ、神と人が共に生きていく神の国は完成されます。これを実現してくださる主を待ち望みながら、私たちは「主イエスよ、来てください」と祈ります。 この祈りは何よりも聖霊と花嫁である教会の祈りです。ヨハネはこの言葉を聞く私たちを励まし、共に同じ言葉で祈るようにと招いています。聖霊は、私たちの魂の最も深い所に働いて、主イエスにお会いしたいとの願いを湧き上がらせてくださいます。この聖霊の御声に合わせて、私たちも「主イエスよ、来てください」と祈るのです。 Fri, 01 Dec 2017 00:10:00 +0000 御国の完成に至るまで(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171201 no 2017 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。 (ヨハネの手紙一3章8節) 私たちは悪魔との戦いを避けて通ることができません(1ペト5章8節)。確かに神は、人間の堕落の時にすでに女の子孫が蛇の頭を砕くという救いの約束を立ててくださいました(創3章15節)。そして、主イエスは悪魔の働きを滅ぼすためにこの世に来られ、十字架と復活によってその約束を成就してくださいました。主イエスはすでに悪魔に打ち勝ってくださいましたが、他方、この約束の確かさの中にありながらもなお私たちは日々戦いの中に置かれ、悪魔との戦いを続けていることも事実です。 では、この戦いは果てしなく続くのかと言えば、そうではありません。神が「すべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで」(『ハイデルベルク』問123答)です。その時には戦いは終わり、今のさまざまな苦しみは過ぎ去ります。 その救いの完成の日まで、悪魔との戦いは肉の力によらず、神の武具による霊的な戦いです(エフェ6章10~18節)。その中心は福音をのべ伝えることであり、絶えざる祈りです。私たちは福音宣教と祈りによって悪魔との戦いに挑んでいく者でありたいと願います。 Thu, 30 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の国と救いの希望(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171130 no 2017 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていること…被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること…を、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 (ローマの信徒への手紙8章22節~23節) パウロは私たちの目を将来の望みに向けさせながら今の苦しみに耐えるように励ましています(ロマ8章18節)。私たちは日々、罪を犯す苦しみ、病気の苦しみ、人間関係の苦しみなどを味わいます。これらの苦しみは、神の救いが完成していないところから来る苦しみです。 やがて神の救いが完成されるときに、この世界は新しくなります。そこでは神が私たちと一緒に住んでくださり、私たちの涙をことごとく拭い取ってくださいます。もはや、死も悲しみも嘆きも労苦もありません(黙21章4節)。 この約束が確かであるために、神は私たちに聖霊の初穂を与えてくださいました(ロマ8章23節)。「初穂」というのは収穫を保証するものです。また、収穫の喜びを前もって一部を味わうことができるものです。聖霊の初穂が与えられている私たちはやがて神の国に入ることは確かであり、また、今、神の国の喜びを前もって味わうことができます。 きょうも聖書を読み、祈る中で、聖霊は私たちを神に近づかせてくださり、私たちに神の愛を注いでくださいます。 Wed, 29 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の国と教会(マタイによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171129 no 2017 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 (マタイによる福音書16章18節) 主イエスはペトロに「わたしの教会」を建てると宣言されました。教会はペトロ個人のものでも、また、その後継者のものでもなく、主イエス・キリストのものです。主イエス・キリストを中心としてささげられる礼拝こそ、神の国の最も鮮やかな現れです。それゆえ、この世のさまざまな妨げや迫害の中でも、私たちは主イエス・キリストが中心であるような「あなたの教会を保ち進展させてください」と祈ります。 この祈りは一つの地域教会の進展にとどまらず、むしろ、公同教会の全体に関わります。この点について『ハイデルベルク』には次のように記されています。第54問「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか」。答「神の御子が、全人類の中から、…選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ」です。 このように神の国の進展は御言葉と御霊により、まことの信仰の一致において立つ教会の進展と切り離すことのできない事柄なのです。 Tue, 28 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の国と神の義(コロサイの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171128 no 2017 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 (コロサイの信徒への手紙6章33節) 主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃいました。「何よりもまず」という表現を通して、私たちの生活の優先順位を改め、自己中心から神中心になるようにと教えられたのです。神中心であることを求めて、絶えず御言葉と聖霊とによってわたしの心を治めてくださるようにと祈ります。そのときに、私たちの生活の場は神の国へと変わるでしょう。なぜなら、神がわたしの王となってくださり、私たちに神の赦しと愛による平安が与えられるからです。 この恵みを深く味わうときに、私たちに神に従いたいという願いが与えられます。つまり、神に喜ばれる正しいことをしたいという願いが与えられるのです。これを言い換えるならば、「神の義」を求めるようになるのです。ですから、神がわたしの王となられ、私たちに神の赦しと愛による平安が与えられるときに、それに続いて神が喜ばれる正しいこと、つまり、「神の義を求める心」は一緒に与えられるのです。 きょうも、神がわたしの王となってくださり、そして、喜んで神の御心を行わせてくださるようにと祈りましょう。 Mon, 27 Nov 2017 00:10:00 +0000 御国が来ますように(コロサイの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171127 no 2017 「だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。 御国が来ますように。』」 (コロサイの信徒への手紙6章9節~10節) 「主の祈り」の第二の願いは「御国が来ますように」です。この「御国」という言葉は「神の国」のことです。これは場所のことではなく、「神の支配」を意味します。ですから、「御国が来ますように」という祈りは「神が王として私たちと世界を支配してください」という願いです。 主イエスは罪を犯す者は罪の奴隷であると教えられました(ヨハ8章34節)。人は自由に罪を犯すのではなく、罪に支配されているからです。どうすれば、罪の支配から解放されるのでしょうか。主イエスの十字架の贖いを信じることによるのです。そのとき、私たちは罪から解放され、すべての罪は赦されるのです。けれども、神の国はなお未完成です。罪と悲惨がなお世界を覆っています。私たちも罪を悔いてはまた犯すことによって、悲しみを味わいます。 しかし、やがて世の終わりに、神は神の国を完成してくださり、私たちと世界とは新しくされ、罪と悲惨は完全に姿を消します。その神の国の完成を期待しつつ、きょうも「御国が来ますように」と祈り続けましょう。 Sun, 26 Nov 2017 00:10:00 +0000 新しく生まれた者の家族としての生き方(コロサイの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171126 no 2017 主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。 (コロサイの信徒への手紙3章22節~24節) 新約聖書によれば、キリスト者の家庭は一つの新しい気質で一致しています。つまり神への愛、忠誠心、従順、賛美と感謝です。また、お互いへの愛、忠誠心、敬意、憐れみと助け合いの精神です。主イエスも長男としてこの責任を果たされました(ヨハ19章25~27節)。これこそが、新しい規範と新しい態度・考えを与えられた家族のライフ・スタイルです。(エフェ5章21節~6章9節他)。 神の家の子どもとして私たちは、キリストにある完全な真実について繰り返し教えられる必要があります。究極の目標は、お互いを造り上げること(1コリ14章)、神の子たちの長男であるイエス・キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長すること(エフェ4章13節)、そしてお互いの刺激となり、模範となることです(1コリ4章14~17節、フィリ3章17節)。最も重要なアイデンティティと人生の方向性は、私たちの家庭と信仰共同体で形作られます。したがって、信頼できる模範者や助言者が重要です。孤独な人や傷ついている人が、愛に満ちた配慮と待遇を見出すことができるよう、それぞれの家庭が希望の源となるように召されています。 Sat, 25 Nov 2017 00:10:00 +0000 今も、そしてとこしえに(詩編 115編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171125 no 2017 わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって。 わたしたちこそ、主をたたえよう 今も、そしてとこしえに。 ハレルヤ。 (詩編115編1節、18節) この詩編の詩人は、周囲の敵意とあざけりの中で、危機的状況にありました。しかし、自分たちの知恵や力による打開や回復ではなく、ただ神の慈しみとまことによって、神の御名があがめられることを祈り願います。なぜなら、死んでいる偶像とは異なって、生きて今も働かれ、すべてを御旨のままに行われる神がこの危機に介入されることを詩人は信頼しているからです。この主に依り頼めと、詩人は全イスラエルに呼びかけます。そして、その信頼が結びの言葉において、永遠なる神が限りある私たちをとこしえに賛美する者にかえてくださる希望へと発展していきます。 この詩編は、過越祭で用いられるもので、主イエスが最後の晩餐を終え、出かける前に歌われたとも言われます。十字架の死に臨まれる前に、死を超えてなされる神の御業を信頼して、この主に依り頼めと全イスラエルに呼ばわれたのでしょう。だから、復活された主イエスを信じる私たちの賛美も、地上での死を超えてなお、主イエスと共にあり、終わりはありません。限りあるわたしも、主に依り頼んで、今も、そしてとこしえに「御名をあがめさせたまえ」。 Fri, 24 Nov 2017 00:10:00 +0000 わたしの生活のすべてを通して(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171124 no 2017 「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイによる福音書5章16節) 主イエスは、がんばって世の光となりなさい、ではなく、あなたは現に、世の光である、と言ってくださいます。なんと光栄なことでしょう。しかし同時に、それほど大層な者ではありませんと尻込みしてしまうかもしれません。私たちの言動によって神の評判を高められるはずもなく、かえってこれを汚してしまう日々の現実を私たちは知っているからです。しかし、神はその現実を打ち破られる方です。「あなたがたは世の光である」と言われるとき、神は確かにご自身の光を主イエス・キリストを通して私たちに与え、さらにその私たちを通して、神はご自身の光をこの世に照らそうとされているのです。最初から輝く人を用いて神の輝きをあらわされても、神の栄光は示されないでしょう。むしろ光なき者を用いてご自身の光を示されるとき、神の栄光が現れるのです。 弱く乏しい私たちです。でも、暗闇の中で輝いている光なる主イエスが、聖霊によって全生活を照らしてくださっているゆえに、私たちは心から願います。このようなわたしを変えて、その生活のすべてを通して「御名をあがめさせたまえ」と。 Thu, 23 Nov 2017 00:10:00 +0000 絶望の淵に立たされたときでも(エレミヤ書 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171123 no 2017 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」 (エレミヤ書32章14節~15節) このときエレミヤは拘留されていました。またエルサレムもバビロン軍によって包囲されていました。人が見るなら、エレミヤもエルサレムももうすぐ終わってしまう存在で、希望はありません。しかし神は、そのようなエレミヤに、まもなく従兄弟が来て、アナトトにある自分の土地を買ってくれと言う、と不思議な言葉を与えられます。そしてその言葉通りになります。エレミヤは、正当な値段、正式な手続きでその土地を購入し、証書を大切に保存しました。その行為は、この後イスラエルの民は散らされるのですが必ず帰還し、これまでと同じように主が与えられた土地に住むことができるという神の約束に対する確信を雄弁に語る預言行為となりました。 私たちの現実の生活の中で、神のすばらしさが見えず、むしろ絶望が口を開けて待っていると感じることがあります。しかしその現実のただ中においても「御名をあがめさせたまえ」という祈りが絶望に陥ろうとするわたしを支え、力ある主の御業を待ち望む忍耐と希望を与え続けます。絶望の淵に立たされたときでも、わたしに「御名をあがめさせたまえ」と祈らせてください。 Wed, 22 Nov 2017 00:10:00 +0000 わたしに与えてくださった光栄を覚えて(ルカによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171122 no 2017 そこで、マリアは言った。 「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」 (ルカによる福音書1章46節~48節) 天使から主イエスを身ごもったことを知らされたマリアは、エリサベトを訪れます。エリサベトも神の御業として身ごもったことを聞かされたからです。エリサベトは親類ではありましたが、社会的立場はずいぶん違っていました。エリサベトは、エルサレムに住む祭司の妻でありアロン家の娘、一方マリアは、ナザレという田舎町の若い娘です。しかしエリサベトはマリアと出会ったとき、「わたしの主のお母さま」とマリアを呼び、彼女を高く上げられた神を賛美したのでした。このようにして、マリアは自分の身に起こった光栄を知り、そして主の御名を賛美したのでした。 私たちもまた主による光栄をいただいています。主イエスは私たちのために地上にお生まれになり、このわたしのために十字架で死なれ、そしてよみがえってくださったからです。身分の違い、貧富の違い、能力の違いは、この恵みの前に関係ありません。神は、「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」力あるお方だからです(出33章19節)。きょうも、小さく貧しいわたしに与えてくださった光栄を覚えて、「御名をあがめさせたまえ」。 Tue, 21 Nov 2017 00:10:00 +0000 神を正しく知り(サムエル記上 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171121 no 2017 サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けたられたのだ。」 (サムエル記上15章26節) イスラエルの初代の王となったサウルに、主なる神の命令が預言者サムエルを通して与えられました。「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」。しかし、サウルはその神の言葉を退けて自分勝手に考え、最上のもの、上等なものを滅ぼし尽くさず取って置きました。それゆえサウルは王位からも退けられることになったのです。 私たちは、主を正しく知ることなしに、正しく応答することはできません。かえって、主が喜ばれないことをしてしまうものです。それでは神のすばらしさを讃えることはできず、主イエスが共にいてくださる人生にも気づきません。そして結果として、主の者とて生きる喜びも光栄も失ってしまうことになるのです。 「正しく知る」とは、私たちが自分勝手に神について考えるのではなく、何よりもまず神の自己啓示である聖書によって神を知ることです。そして、主なる神を正しく知るならば、私たちは神を賛美せずにはおられません。神を正しく知ることが、御名をふさわしくあがめることの入口です。主よ、きょうもあなたを正しく知り、「御名をあがめさせたまえ」。 Mon, 20 Nov 2017 00:10:00 +0000 創造主なる神にならって(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171120 no 2017 「だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。』」 (マタイによる福音書6章9節) 主の祈りは、マタイによる福音書とルカによる福音書で主イエスが教えられますが、マタイによる福音書では祈りの乱れを正すようにして教えられます。その乱れとは第一に「偽善者のようであってはならない」と、人の目を意識した祈りを正されます。第二に「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と、ただ自分の必要を並べ立てる自分発信の祈りを正されます。どちらも他人と自分が中心の祈りで、神が中心ではありません。そこで、主の祈りを祈ることで、私たちの生活を神中心へと引き戻します。 第一の祈りは、「御名をあがめさせたまえ」です。「御名」とは神の名ですが、単なる名前のことだけでなく、神に関わるすべてのこと、つまりその存在、知恵、力、聖、義、善、真実(『ウェストミンスター小教理問答』問4)が含まれます。ですから、この世界に満ちている神のすばらしさ、そして私たちの生活の中に示された神のすばらしさをほめたたえてきょうも歩ませてくださいという、頌栄的人生に招かれた人の祈りでもあるのです。主よ、きょうもわたしの生活の中で、「御名をあがめさせたまえ」。 Sun, 19 Nov 2017 00:10:00 +0000 朽ちない種から生まれた者の共同体として(ペトロの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171119 no 2017 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 (ペトロの手紙一1章23節) 今週、私たちは、地上の家族とキリストの体という二つの家に属していることについて考えましょう。 神の新しい家(オイコス)としての教会は、根底から新しくされた者の共同体として、神の主導で創造されました。神はこの家族の保証人です(エフェ1章9~14節)。それゆえに、この家族という表象は、神が関係を持つお方であるという神の不思議さを私たちに何よりもまず教えてくれます。この神は民との契約の中に生き、憐れみ深く恵みに富んでおられます。聖書全体を通して神の継続的な契約が言及されています。この新たな誕生は、実の父・朽ちる種からではなく、朽ちることのない種から新たに生じました。 神の主導権に基づいて、信仰者は新しい家、新しいアイデンティティ、新しい方向性を受け取ります。この新しい家では、この世で重要視されない人びとが歓迎されるのです。この新しい方向付けは、実の家族の絆を超越し、再解釈します(マコ3章31~35節、マタ10章34~39節)。したがって、教会は大きな一つの家族の一員であり、そこでは、皆がお互いに仕える者となるのです(ヨハ13章14節)。 Sat, 18 Nov 2017 00:10:00 +0000 主よ、憐れみたまえ(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171118 no 2017 「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 (ヨハネによる福音書14章14節) 主イエスは「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と言われ、「われらの父よ」(口語訳:マタ6章9節)と呼びかけるようにと教えてくださいました。 『ハイデルベルク』問121の答には「体と魂に必要なことすべてを期待するため」とあります。「体と魂に必要なこと」は日常的な必要です。日常的な必要であるがゆえに、御心を求めることよりも、自分の要求を身勝手にも祈ってしまいがちです。それに気づくと、反対に、祈ることに躊躇してしまいます。 しかし、パウロは「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ロマ8章39節)と力強く語っています。この愛に励まされます。 主イエスは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタ6章8節)と言ってくださいました。 このように罪にまみれた私たちですから、一切をご存じの主イエスに私たちの一切をゆだね「主よ、憐れみたまえ」と主イエスの前にひれ伏して「天にましますわれらの父よ」と呼びかけましょう。 Fri, 17 Nov 2017 00:10:00 +0000 天にまします(エレミヤ書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171117 no 2017 天をも地をも、わたしは満たしているではないかと 主は言われる。 (エレミヤ書23章24節) 「天」とはどこでしょう。天高き雲の上でしょうか。大空の高きところでしょうか。はたまた、大宇宙の果てる先にあるのでしょうか。「天の雲」(マタ24章30節他)や「天から雨が降り」(ヤコ5章18節)などは大空の高きところへと、「天の星」(黙6章13節)や「天の果て」(マタ24章31節他)は大宇宙の果てる先へと、私たちの思いを連れて行くかもしれません。しかし、自らを省みるなら、果たして私たちに「天」を思い描くことができるほどの能力があるのだろうかと、思います。 聖書に記されている「天の王座」(エフェ2章6節)におられる父なる神とその右に着座しておられる私たちの救い主、イエス・キリストを、聖霊においてただただ見上げるほかに手だてはありません。 しかし、聖霊において見上げるとは、決してむなしく見上げることではありません。「天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる」のです。主イエスが聖霊において共にいてくださるのです。 この力強さに支えられて、私たちは「天にまします」と祈るのです。 Thu, 16 Nov 2017 00:10:00 +0000 お父ちゃん(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171116 no 2017 この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 (ローマの信徒への手紙8章15節) 長期出張から帰ったとき、子どもたちは「お父ちゃん」と呼んで、喜んで迎えてくれます。しかし、わたしはお土産を買って帰りません。なぜなら、子どもたちは、次第に「お父ちゃん」が帰ってきたことより、お土産を喜ぶようになってしまうからです。 「アッバ、父よ」の「アッバ」は、いわば「お父ちゃん」に近い幼児語です。主イエスは、ご自身の霊である聖霊によって父なる神を知らせ、まさに「父を見」させてくださいます。私たちは、その父なる神に深く信頼して「お父ちゃん」と呼びかけることができます。 パウロは「『アッバ、父よ』と呼ぶ」と言っています。しかし、この「呼ぶ」は尋常ではありません。「〔烏が〕かあかあと鳴く、〔大声で〕叫ぶ、金切り声をあげる、どなる、わめく」などの意味です。 私たちは嬉しいときに、父なる神を「お父ちゃん」と言って、大声で喜ぶだけではなく、悲しいときにも、父の胸に飛び込んで、安心して、わめき、どなり、叫ぶことができるのです。 このような神はどこにもいません。ただ、主イエスによって知らされた神のみです。 Wed, 15 Nov 2017 00:10:00 +0000 父を知って祈る(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171115 no 2017 「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 (ヨハネによる福音書14章7節) 私たちに教えられた「主の祈り」は、むなしい偶像の神にささげるお題目のように、早口で「となえる」ものではありません。主イエスによって示された父なる神に、聖霊によって導かれて祈るものです。 とは言え、天の父なる神は霊であって、私たちの五感を総動員しても、私たちが霊なる神を知ることなど、到底できるはずがありません。 しかし、主イエスは、私たちと同じ肉をとって、私たちの世界に来てくださいました。主イエスはご自身について「天から降って来た者」(ヨハ3章13節)とも、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」とも、おっしゃいました。 ヨハネは、その手紙で「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1ヨハ1章1節)として主イエスを紹介しています。手紙の受け取り手も復活の主イエスに、聖霊によって、手ごたえを覚えたことでしょう。 私たちも、復活の主イエスに、聖霊によって、手ごたえを覚えるとき、主イエスは、ご自身により父なる神を知らせて「父を見」させ、祈りに力を与えてくださいます。 Tue, 14 Nov 2017 00:10:00 +0000 「われらの」~一つの群れの祈り(ヨハネによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171114 no 2017 「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」 (ヨハネによる福音書10章16節) 「主の祈り」は、孤独なわたしだけの祈りではありません。主イエスの羊は「一人の羊飼い(主イエス)に導かれ、一つの群れになる」。「主の祈り」は、たとえ一人で祈っていたとしても一人の羊飼い(主イエス)に導かれた「一つの群れ」の祈りです。 もちろん、礼拝において声を合わせて祈るとき、ひとりひとりの「主の祈り」としてだけではなく、「一つの群れ」の祈りとして受け入れてくださいます。ですから、私たちも「一つの群れ」の祈りになるように、互いに他の人の声を意識しながら、ちょうど合唱隊が歌うかのごとく、リズムを合わせて祈りましょう。そこには、ゆっくりしか祈れない高齢の兄弟姉妹や、幼い子どもたち、その日初めて「主の祈り」を祈られる方もおられるかもしれません。互いに愛の配慮を持ち寄って祈るなら、それ自身が主イエスへの愛の献げ物ともなります。 このように、「主の祈り」は、愛の配慮を伴う祈りです。たとえ祈れない夜を一人悶々と過ごすことがあろうとも、「主の祈り」を祈ることによって、主イエスご自身があなたに寄り添い、あなたを慰め、励ましてくださいます。 Mon, 13 Nov 2017 00:10:00 +0000 「われらの」~祈りは孤独か?(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171113 no 2017 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 (マタイによる福音書6章6節) 「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」とあります。ひとりで祈るのです。そういう祈りは一見孤独に思えます。実際に、孤独をしみじみと覚えながら祈っている方もおられるかもしれません。しかし、そうではありません。主イエスは「われらの父よ」と呼びかけるようにと教えられました(口語訳:マタ6章9節)。 私たちは、時には苦悩の淵に追いやられ、時には打ちのめされて、祈りの言葉さえ失ってしまうことがあります。そのようなときこそ、主イエスは、私たちに「われらの父よ」と呼びかけるようにとおっしゃいます。そして、私たちの必要のすべてを「主の祈り」の中に詰め込んでくださったのです。 ですから、たとえ祈りの言葉を失ったときでも、むしろ、祈りの言葉を失ったときにこそ、主イエスが教えてくださった「主の祈り」を祈って、言葉にさえできない思いを主イエスに打ち明けましょう。 「主の祈り」は、ほかの誰かの祈りではなく、まさにあなたの祈りです。しかし、それだけではなく、あなたをひとりぼっちにはしない、「われら」の祈りなのです。 Sun, 12 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の家の価値観(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171112 no 2017 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり…神の住まいとなるのです。 (エフェソの信徒への手紙2章19節~22節) 初代教会の信者は、神との関係、互いとの新しい関係を家族概念の用語で表現することを好みました。神は、子たちに命を与え、教育し、憐れみを示し、配慮する、信頼できる親・家族の長として描かれます(2コリ6章18節、エフェ2章)。また、互いの関係は、忠誠を尽くす兄弟姉妹として表現されています。明らかに彼らは互いに愛し、配慮し、憐れみ合うばかりか、他者の名誉を守ることにも献身的です(ヨハ13章34、35節)。 1世紀の頃、社会システムとしての家はどのように機能していたのでしょうか。当時の主要な社会システムの一つは、祖父母、両親、子ども、奴隷からなる大家族の親密な間柄で、これが社会の根幹を成していました。もう一つは政治権力の公的な領域です。父親は権威者、保護者、教育者の象徴でした。とりわけ教育者として、父親は子ども(特に息子たち)に重んじるべき徳を教える責任があります。家庭の基本的価値観は、コイノニア(共有・交わり)、献身、忠誠、生涯にわたる世話、もてなしです。このような価値観はどれくらい今日のクリスチャンの家庭に反映されているでしょう。 Sat, 11 Nov 2017 00:10:00 +0000 祈りの基礎(ルカによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171111 no 2017 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。」 (ルカによる福音書11章1節~2節) スポーツ選手は、初めから一流の選手になることはありません。自分勝手に練習したとしても、あまり上達することはありません。オリンピックを目指す人も、最初は基礎を教えてもらって、基本の練習を繰り返します。そして何年もかけて練習を繰り返すことにより上達し、やがてオリンピックを目指し、金メダルを目指すことができるようになります。 神を信じて、神に祈りを献げることも同じです。私たちの救い主、お父さまである神に何を祈っても良いと語られてはいますが、いざ祈り始めると、自分の要求ばかりが口に上ります。これでは神の御心など理解できません。 主イエスは、このような私たちを知っておられるからこそ、私たちがお父さまである神に祈り求めるときの基礎的な模範を、主の祈りを通して教えてくださいました。この主の祈りを繰り返し学ぶことが大切です。主の祈りを毎日、意味を考えながら祈ることによって、神は私たちに祈りの訓練を行ってくださいます。このようにして、私たちは神の子どもとして成長することができるのです。 Fri, 10 Nov 2017 00:10:00 +0000 主に委ねて祈ろう(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171110 no 2017 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 (マタイによる福音書6章31節、33節) 私たちは、毎日の生活の中で、さまざまなことを思い悩み、苦しみ、嘆きつつ歩んでいます。しかし主イエスは、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とお語りになります。主イエスは、私たちが神さえ信じれば、私たちの生活は二の次で良いと思っておられるのでしょうか。 決してそういうことはありません。そもそも私たちが神に祈るとは、誰に何を求めて祈っているかを考えてみれば、納得できるのではないかと思います。私たちが祈り求めている神は、天地万物を創造し、今もすべての生きとし生けるものに命を与え、恵みを与えてくださる神です。この神のすばらしい恵みが、神によって命を与えられている私たち一人ひとりにも向けられています。神は、私たちのすべての必要を知って、私たち一人ひとりを愛しておられます。 私たちは、まず、神の国と神の義しさを求め、神をほめたたえます。神は、必ず、私たちの生活の必要をも、すべて満たしてくださいます。神を信じることと生活することは、神の御前では同じことです。 Thu, 09 Nov 2017 00:10:00 +0000 確信して祈ろう(ダニエル書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171109 no 2017 神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。 (ダニエル書9章18節) 「どうせ祈っても聞かれることはない」と諦めてしまうことはありませんか。それは、生きて働いておられる主なる神の存在を疑っているか、神の存在は認めても、わたしの祈りなど聞いてもらえていないと、自分に対する神の愛を見失っているかです。 私たちが祈りを献げている主なる神は、今も生きておられ、私たちのすべてをご存じです。それは私たちの存在・行動ばかりか、私たちが日々なにげなく話している会話のすべて、そして、私たちの心の中で考えていることすべてに及びます。 知っているとはただ知識だけの問題ではありません。主なる神は愛をもって私たちを知ってくださり、私たちが罪の故に滅び行くことを惜しんでくださるお方です。救いのために、ついには私たちの罪の刑罰を、御子である主イエスに背負わせられました。 それほどまでに神は私たちを愛してくださっているのですから、私たちの嘆きの祈りに最後まで耳を傾けてくださらないはずはありません。だからこそ私たちは、疑うことなく、諦めることなく、主なる神を信頼して、神に祈り求めるのです。 Wed, 08 Nov 2017 00:10:00 +0000 遜りをもって祈ろう(詩編 34編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171108 no 2017 主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。 (詩編34編18節~19節) 私たちは、何かを祈り求めるとき、必死になり、祈りが聞かれることを願ってしまいます。しかしこのとき、私たちにとって神とはどのような存在なのでしょうか。もしかすれば、祈りを聞いてくださる神を、召使いの如く、自分の願いを叶えてくれる存在と思っていないでしょうか。 私たちは、祈り求めている主なる神についての考えを改めなければなりません。私たちは、自らの罪の故に肉において死に、滅び行く存在でした。自分がどんなにすばらしい事業を成功させ、称賛され、地位を得ようとも、自らの罪と刑罰を、主に取り消していただくことはできません。 しかし、御子イエス・キリストは、十字架で苦しまれ、私たちの罪の刑罰を引き受け、死を遂げてくださいました。私たちはキリストに縋るしか罪の赦しと救いを勝ち取る手段はありません。そこで私たちは、キリストを救い主と信じる者とされました。 だからこそ私たちが主に祈るときも、罪を赦してくださった主に感謝し、罪赦されたにもかかわらず罪を繰り返す罪人であることについて、主に赦しを願い、遜りをもって主に祈り求めましょう。 Tue, 07 Nov 2017 00:10:00 +0000 主なる神に祈ろう(ヨハネの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171107 no 2017 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。 (ヨハネの手紙一5章14節~15節) 「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタ7章7節)と主イエスは語られます。この御言葉に励まされて、私たちは神に祈り求めます。 しかしきょうの個所では「何事でも神の御心に適うことを…願うなら」と語られています。私たち自身の願いであったとしても、そこに自分の欲望を満たそうとする思いが潜んでいるなら、その願いを神は受け入れません。そのような願望を実現しようとすれば、誰かを犠牲にしてしまう危険があるからです。キリストの十字架の御業により、私たちを救いへと招いてくださる御父・御子・御霊なる三位一体の神は、真実であり、愛なる方です。 主なる神が求めておられる御心は、私たちが、御子イエス・キリストの十字架の贖いにより罪が赦され救われた者として、感謝と喜びをもって信仰に生きることです。そうであれば、私たちが神に願い求める祈りも、主なる神を愛し、隣人を自分のように愛する思いから出る祈りです。 私たちの心を知っておられる神は、御心に適うことを願うときに私たちの祈りをすべて聞き入れてくださいます。感謝して祈りましょう。 Mon, 06 Nov 2017 00:10:00 +0000 祈りは感謝から(詩編 116編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171106 no 2017 主はわたしに報いてくださった。 わたしはどのように答えようか。 救いの杯を上げて主の御名を呼び 満願の献げ物を主にささげよう 主の民すべての見守る前で。 (詩編116編12節~14節) 私たちは、毎日を当たり前のように生きています。食べること、着ること、住む家、働きや学びの場所…。それらのものが与えられているときには、何の疑いもなく、その中に暮らしています。「なぜきょうも食べるものがあるのだろう」「どうしてきょうも住む家があるのだろう」などと、いちいち疑問に思いません。しかし、いつも普通にあるものがなくなると、途端に「なぜ」と叫び、うろたえ、神に嘆いてしまいます。 私たちが毎日、何不自由なく生活できるのは、今も生きて働いておられ、私たちと一緒にいてくださる主なる神(インマヌエル)が、私たちの必要を満たしてくださり、神の恵みに生きることを良しとしてくださっているからです。 では、このように主なる神の恵みが示された私たちは何をすべきでしょうか。きょうも生命が与えられ、すべての恵みが満たされていることを神に感謝し、祈りを献げることではないでしょうか。ダイナミックに私たちに働きかけ、恵みをお与えくださる神に感謝し、生きることに喜びつつ、きょうも祈りをもって始めましょう。 Sun, 05 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の家族とされている恵み(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171105 no 2017 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、…これを語り聞かせなさい。 (申命記6章4節~7節) 今月は4回の日曜日にわたって、家庭・家族について聖書から考えてみましょう。 聖書は、神と民との関係を、家族が持つ様々なイメージで喩えます。例えば、主はイスラエルを花嫁として見ておられます(エレ2章2節、イザ54章4~8節)。イスラエルの背信は、結婚相手に対する不貞も同然とされています(ホセ1章2節、エレ3章20節)。神は子らに、親がそうするように「身をかがめて食べさせ」(ホセ11章4節)、「衣を作って着せられ」ました(創3章21節)。 家族という枠組みの中で神学が形成されたため、そのことがイスラエルの神観・創造観・倫理観に影響を与えました。その流れで、特に申命記において、社会を一つの家族(兄弟姉妹の共同体)とみなすようになりました。その結果、やもめ、孤児、寄留の民に対する特別な配慮が生じました。旧約聖書が言う「家族」とは、血縁関係だけを指すのではないという点を評価することは大切です。これが実は、信徒たちが世界を見るときの手本になります。つまりそこでは、弱い者や寄留者がもてなしを受け、家族の一員とされるのです。今週このことを改めて思い巡らしましょう。 Sat, 04 Nov 2017 00:10:00 +0000 いよいよ神のかたちへと新しくされ(フィリピの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171104 no 2017 なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 (フィリピの信徒への手紙3章13節~14節) 神が創造された時間のなかを私たちは歩んでいます。時は現在から過去へと瞬く間にゆき過ぎていきます。しかし、過去の記憶がいつまでも私たちの心に重く留まることがあります。それが良き記憶であれ、辛い記憶であれ、今を生きようとする私たちの足を引っ張ることがあります。わたしの尊敬する人は、聖書に触れ、その言葉に打たれながらも、過去の記憶に縛られ、「今さら自分が神を信じるのはおこがましい」と語りました。 しかし、パウロは「前のものに全身を向けつつ」と語ります。それは今を生きることへの促しです。神はいかなる者にも未来を見つめることをおゆるしになります。『ハイデルベルク』は教えます。神の戒めが私たちに語られるのは、「わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです」(問115答後半)。 聖霊によって、前を見られたならば、その時、過去の記憶も私たちの内で姿を変えるでしょう。次第次第に、神は私たちを変えてくださいます。 Fri, 03 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の恵み深い厳しさは、わたしを日々変えてゆく(ヨハネの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171103 no 2017 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。 (ヨハネの手紙一1章8節~9節) 神の戒めはわたしに罪の自覚を与えてくれます。わたしは祈りに疎く、いつも心を焦らせてばかりいますが、「神を愛しなさい」という戒めが、その愚かしさに気づかせてくれます。わたしは隣人に冷たい心を向け、その言い訳を重ねていますが、「隣人を愛しなさい」という戒めが、そのずるさに気づかせてくれます。わたしに痛みも伴わせながら。 神はご自身の厳しさとご自身の戒めに留まる大切さを、わたしの隣人を通して、礼拝の説教を通して、わたしに届けてくださいました。そこに神の愛がありました。神の恵み深い厳しさは神がわたしと共に在ろうとされる激しいご意志であることを、今、わたしは感謝して受け止めます。 わたしに迫る神の厳しさについて、『ハイデルベルク』は教えます。「わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです」(問115答前半)。 神の戒めを聞き続けるならば、わたしはきっと今より、自分の愚かしさと神の愛に気づかされるはずです。その力が、神の戒めにはあります。 Thu, 02 Nov 2017 00:10:00 +0000 神の戒めが確実に私たちを変え始めている(詩編 1編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171102 no 2017 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 (詩編1編1節~2節) 「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」(ルカ22章28節)。この主イエスの言葉が、わたしは大好きです。主はそのように弟子たちを温かく見つめ、愛されました。 ところで、わたしの冷たい心は思います。弟子たちは本当に主と一緒に踏みとどまってきただろうかと。彼らは、主の教えに鈍く、ケンカばかりしてきたのではなかったか。共に在ることで神のご栄光をあらわすよりはむしろ汚してきたのではなかったか。しかし、主イエスの眼差しは違います。わたしの目は人の欠点ばかりを追いかけますが、主の目は、主と共に在る新しく変えられている人の姿を見つめます。 その幸いをもたらす視線がわたしは嬉しい。わたしもそのように、罪と格闘する自分と人の姿を見つめたい。『ハイデルベルク』は教えます。「その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」(問114答後半)。 神の戒めが確実に私たちを変え始めています。神の戒めが導く、その温かい事実にも目を注ぎたいと願います。 Wed, 01 Nov 2017 00:10:00 +0000 小さな一歩のために諭し、励まし合うために(コヘレトの言葉 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171101 no 2017 善のみ行って罪を犯さないような人間は この地上にはいない。 人の言うことをいちいち気にするな。 そうすれば、僕があなたを呪っても 聞き流していられる。 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを あなたの心はよく知っているはずだ。 (コヘレトの言葉7章20節~22節) 神の戒めは私たちの心に罪を罪と刻み続けます。しかし、私たちは与えられた神の教えに深い感銘を受けながら、そのことで瞬間的に、自動的に心が全く清く変えられるということはありません。私たちは神の戒めを聞く聖書の民でありつつ、罪人であり続けます。『ハイデルベルク』は教えます。「最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません」(問114答前半)。 教会に通い始めた頃、「人を見てはいけないよ」と繰り返し教えられました。神の戒めを聞く罪人の姿につまずいてはいけないからと。「人を裁く刃はそのまま自分にも返ってくるよ」とも教えられました。その言葉の重みを少しずつ受け止めているところです。 私たちの心にも、隣人の心にも、そして、それぞれの行いにもなお罪が宿り続けていることを、神の戒めは指摘します。しかし、それは互いの罪を裁き、傷つけ合うためではありません。それは、皆が罪を抱えながらも、神の憐れみに生かされていることを喜び合うためです。赦し合うためです。そして神の戒めに生きる、その小さな一歩のために諭し励まし合うためです。 Tue, 31 Oct 2017 00:10:00 +0000 罪は、罪を罪と見えなくさせるから (詩編 19編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171031 no 2017 主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光を与える。 (詩編19編8節~9節) 罪が罪と見えなくなるところに罪の恐ろしさがあります。 最初の人アダムとエバが、神に食すことを禁じられた善悪の知識の木の実に心奪われた時のことを思い出してみましょう。聖書は記しています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創3章6節)。木の実は、女エバの目に抗えないほどの魅力を輝かせていました。その魅力は、神の言葉が約束していた自由をエバの心に霞んだものにしました。神の言葉に反しても木の実の魅力に身を任せることが当然であると思わせました。結果、エバはアダムと実を食します。 私たちもそうです。罪に誘う声にささやかれ、心魅了される時、神の言葉は遠ざかり、罪が罪と見えなくなります。だからこそ、神の「律法」、「定め」を心で聞き続けることが私たちには必要です。『ハイデルベルク』は第十戒が求めることを「わたしたちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです」(問113答後半)と教えています。神の戒めが私たちに罪を罪と教え続け、正しさを慕い求めることへと導きます。 Mon, 30 Oct 2017 00:10:00 +0000 心に芽生えた悪は何十倍にも膨らみ、行為となる (詩編 139編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171030 no 2017 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。 わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。 どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。 (詩編139編23節~24節) 聖書には多くの「罪人」たちが登場します。例えば、カインという農夫がいました。彼は自分の弟アベルだけが神に大切にされているように思え、アベルを襲い、手にかけてしまいました(創4章)。また、ダビデという王がいました。彼は王宮の屋上から覗き見えた婦人の美しさに心を奪われ、関係をもち、子を孕ませました。そのスキャンダルの発覚を恐れ、婦人の夫が戦死をするように仕向けもしました(サム下11章)。 彼らはいずれも最初から重い罪を犯そうとしたわけではありません。最初は、ただ小さな光景、小さな衝動があっただけです。罪は心に芽生えたよくない思い、悪を何倍、何十倍にも膨らませて、私たち「罪人」の行為とします。 『ハイデルベルク』は、第十戒が求めることを「ほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に、入り込ませないようにするということ」(問113答前半)と教えています。 罪は一度、動き始めると私たちの心で制御することができません。ですから、罪に無防備な私たちのせめてもの抵抗はその心を神に見て頂き、憐れみを祈り求めることです。 Sun, 29 Oct 2017 00:10:00 +0000 ソリ・デオ・グロリア(soli Deo Gloria、「神にのみ栄光」) (ローマの信徒への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171029 no 2017 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 (ローマの信徒への手紙11章36節) 「神にのみ栄光」は、これまでの四つのソラ、すなわち聖書のみ、キリストのみ、恵みのみ、信仰のみと密接に関わっています。これら四つのソラは、互いに結び合っていると共に、これらすべてはこの最後の「神にのみ栄光」というところに向かっています。 つまり、これら四つのソラが正しく機能するなら、必ず「神にのみ栄光」は実現されるということです。逆に、神の栄光について関心を失ってしまえば、四つのソラは、力を見失ってしまうとも言えます。 実際、中世のローマ・カトリック教会の問題はここにありました。当時、ローマ・カトリック教会は神の栄光については語っていましたが、それは実質を伴ったものとはならなかったのです。彼らは、義認については、神の恵みのみではなく人間の行いを強調しました。また人間である教皇に重きを置きました。このようにして、神の栄光を横取りすることになりました。 しかし、カルヴァンは人間の生きる目的は「神にのみ栄光」であると語ります。私たちの生き方は、「神にのみに栄光」を帰すものとなっているでしょうか。 Sat, 28 Oct 2017 00:10:00 +0000 祝福を受け継ぐために (ペトロの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171028 no 2017 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。 (ペトロの手紙一3章9節) 私たちが主イエス・キリストのもとへと召され、かけがえのない救いと新たな命の喜びに生きるようにされたのは、祝福を受け継ぐためでした。そのことは何と感謝すべきことでしょうか。 私たちはこの神の祝福に値する者では全くありませんでした。そのような私たちが、祝福を受け継ぐ者とされたのは、ただ主イエス・キリストにおいて現された神の憐れみと恵みのゆえです。 そうであれば、この祝福のなかで感謝をもって歩むと共に、この祝福をさらに多くの人たちに伝えていきたいのです。 また「迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とも語られています(ロマ12章14節)。日々に私たちが出会うどのような人に対しても、真実の言葉を語り、真実に生きる。自分の思いではなくすべてを神に委ねて、祝福を祈り続けていく。そのとき、「わたしの隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する」こと(『ハイデルベルク』問112の答えにある第九戒の目的)が、確かな現実となっていくのではないでしょうか。 Fri, 27 Oct 2017 00:10:00 +0000 互いに体の一部 (コリントの信徒への手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171027 no 2017 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。 (コリントの信徒への手紙一4章25節) 神に救われた喜びをもって、毎日、感謝して歩んでいきましょう。主と共にある平和をもって、常に御言葉に親しみ、希望に歩みましょう。神の恵みを知る者として、いよいよ熱心に祈り、伝道に心を燃やしましょう。 私たちは何よりも教会に生きる者です。ここで私たちに求められることがあります。それは、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語る」ことです。なぜなら、「わたしたちは互いに体の一部なのです」から…。 また「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(ロマ12章5節)。ここでの「体」は教会のことです。教会において一人一人が一つの体のように互いにつながり連帯します。それでこそ本当の教会となることができます。 そのためにはまず一人一人が主イエス・キリストとしっかりと結びつくこと以外にありません。それによってキリストを中心として互いに一つの輪のように御前に一つとされます。私たちは偽りを捨てて、真実の言葉を語り、キリストの体なる教会に生き、絆を深めてゆきましょう。 Thu, 26 Oct 2017 00:10:00 +0000 真実を喜ぶ (コリントの信徒への手紙一 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171026 no 2017 愛は…、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 (コリントの信徒への手紙一13章4節~6節) 人の性質の中で、真実・誠実であることは、ほかの何ものにも代えがたい美点でしょう。真実であれば、多少の欠点を補うこともできるでしょうが、逆に真実がなければ、たとえどれほど優しく、気が利いたとしても、すべてが色褪せてしまいます。表裏がないこと、いつまでも変わることのないこと。この真実が人に対しても、神に対しても、欠かすことができません。 神は真実を喜ばれます。そして、それは不義を喜ばれないことと表裏一体です。 ここで留意していただきたいことがあります。私たちは多くの場合、自分に加えられた一つの不義はいつまでも覚えています。しかし、この世界で弱い人たち、貧しい人たちに加えられた百の不義はすぐにも忘れてしまっているかもしれません。 ですから、不義を見逃さず、いつも真実を語り、真実に生きるためには、勇気が必要です。語るべき時に躊躇しないのです。また真実の一部を語りながら他の一部を隠したりするようなずるいこともしません。真実で清い者として常に歩み行くことができるように、聖霊よ、私たちを支え導いてください。 Wed, 25 Oct 2017 00:10:00 +0000 ただ真実を語る (ヨハネによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171025 no 2017 「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」 (ヨハネによる福音書8章44節) とげが刺されば痛みます。でも、とげを抜けば痛みはすぐに消えますね。体が傷つけば痛みは続くでしょう。でもやがて痛みは消えてしまいます。心の痛みは複雑ですが、時が癒やしてくれる場合もあります。 しかし、嘘をついたら、そのとげは自分の心に深く入り込んで、いつまでも自分を苦しめることになります。そんなことはない、嘘をついても少しも気にならない、というなら、それは「自分が偽り者だ」と言っているのと同じことです。 心に刺さったとげは、そのままにしていれば心と魂を傷つけ続けます。それを抜いてくださるのは、ただ主イエス・キリストだけです。主に罪を告白し赦していただいて、これからはただ真実を語る者となろうではありませんか。 悪魔は「偽り者」であり、本性から偽りを言います。これに対して、主イエス・キリストは、「その口には偽りがなかった」(1ペト2:22)のです。主イエス・キリストと共にあって、聖霊に導かれて生きる時、私たちは真実を語ることができます。なぜならその時、主の真実に生かされているからです。 Tue, 24 Oct 2017 00:10:00 +0000 神の御前で (箴言 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171024 no 2017 うそをつく証人は罰を免れることはない。 欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。 (箴言19章5節) 「嘘も方便」という言い方がありますが、私たちはこれを決して安易に受け入れてはなりません。嘘はあくまで嘘でしかありません。また、本音と建前を使い分けるのが大人の知恵だ、といったような理解も間違っています。大切なのは常に真実を語ることです。 いろいろな時に、この人は恐らく嘘をついているのではないかと感じることもあるでしょう。真実が何よりも求められるはずの裁判や政治の場でも、平気な顔をして嘘が語られていることもあります。 しかし、平気で嘘をついて、他人を無実の罪に陥れたり、自分の罰を逃れたりするような人は、心に何の恐れもないのでしょうか、神に対する恐れはないのでしょうか。 問われるのは、あなたは本当に神の御前に生きているか、それであなたの良心は痛むことはないのかということです。政治家たちだけのことではなく、言葉の真実は私たちの生活の場でも問われています。 神の御前に、神を畏れ、神を愛して、神に従って生きる。そのように神の御前に生きることに徹する。その生き方こそが、神に喜ばれる生き方です。心から喜んで主と共に歩み、常に真実を語りましょう。 Mon, 23 Oct 2017 00:10:00 +0000 心には真実な言葉 (詩編 15編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171023 no 2017 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。 … 心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。 (詩編15章1節~3節) 主の幕屋に宿り、聖なる山に住む。これこそ幸いなことです。詩編84編5節「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら」。 心に真実な言葉があり、舌には中傷を持たない人こそ、幸いな人。ぜひともそのような人として、真実な言葉を語りたいですね。 真実の言葉は、どこから来るのでしょうか。主イエス・キリストからです。主は私たちを愛してくださって、私たちのために贖いの御業を全うしてくださいました。この恵みの主に私たちは堅くつながるのです。そして、聖霊の助けにより、神に喜ばれる真実の言葉を語ることができるよう、いつも祈り求めましょう。 「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(ヤコ3章9節)。このようなことがあってはなりません。呪いと中傷の言葉を捨て、主への賛美と感謝の言葉で口と心を満たしましょう。喜び、感謝しつつ、希望をもって、主を賛美する。これこそ真実の言葉です。 Sun, 22 Oct 2017 00:10:00 +0000 ソラ・フィデ(sola fide、「信仰のみ」) (ローマの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171022 no 2017 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 (ローマの信徒への手紙1章17節) 救済論、すなわち救いの教理は宗教改革者において最も大切な主題でした。それゆえ、宗教改革者たちは二つの原理に注目します。その一つは「形式原理」である「聖書のみ」です。これは聖書のみが私たちの神学の根本だからです。もう一つが「実質原理」である「信仰のみ」です。救いの教理の本質である「義認」は、信仰のみと深く結びついています。 しかし、ローマ・カトリック教会の教えは、宗教改革者たちの教えとは異なります。救いに関してローマ・カトリック教会は、義認は「信仰のみ」だけでなく、「人間の協力」によって段階的に聖化されて完成される、と主張しました。 それに対してカルヴァンは、義認は、「キリスト教を守る主要点」とし、「信仰のみ」(ソラ・フィデ)を語ります。主イエス・キリストが、十字架の贖いの死によって獲得してくださった義、その義を「私たちは信仰のみを通して神の慈しみによって無償でいただく」のです。行いによるのではありません。また信仰それ自身もまた神の恵みによって与えられるものです。ただ神に感謝するほかありません。 Sat, 21 Oct 2017 00:10:00 +0000 働く目的 (イザヤ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171021 no 2017 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。 (イザヤ書4章28節) 聖書は、盗みをさせないための配慮をも語ります。盗みから離れるため、エフェソの信徒への手紙は、働いて正当な収入を得て、困った人に分け与えるようにと勧めています。ここで、「余りが出たら分け与えなさい」とは言われていないことに注目しましょう。 世間では労働がまずは自分の必要を満たすためにある、と考えます。お金が十分貯まれば働かなくてもよいとも考えます。しかし、天の父なる神を脇におくこの考え方では第八戒を全うできません。勤勉と言われる日本は、他者を支援する活動への寄付を外国より出し惜しむと指摘される国でもあります。 私たちはキリストの十字架によって「生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの」とされ、天の父なる神から「我らの日用の糧」を与えていただいています。それならば、労働やその収入はわたしのためだけでなく、神の国の進展のため、困っている隣人のためにあるのです。その本来の道筋に立ち帰るとき、私たちは他の人から盗むということから遠ざけられ、第八戒を守る者へと近づけられます。 Fri, 20 Oct 2017 00:10:00 +0000 裸の隣人に愛の衣を (イザヤ書 58章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171020 no 2017 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。…飢えた人にあなたのパンを裂き与えさまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出であなたの傷は速やかにいやされる。 (イザヤ書58章6節~8節) 「何々してはならない」という十戒の掟は、禁じる事柄の反対のことを行うことをも勧めています。第八戒では、盗まない、奪わないにとどまらず、奪われて苦しむ人を見たら惜しまず与えて助けることも求められています。イザヤ書でも断食だけで律法を守ったと満足する人に、真に律法を守るとはどういうことか示そうと具体的に指示しています。 ルカによる福音書の10章の「善いサマリア人」のたとえでは、律法の中心である「隣人を愛する」ことの例として、追いはぎに服も何もかも奪い取られた人に助けの手を尽くしたサマリア人が挙げられています。これを「盗んではならない」への積極的応答のあり方を示すものと受け止めることもできるでしょう。 また「飢えた人にパンを、裸の人に衣を着せ…」との言い回しに、終末の審判の時、天の王が正しい人にかけてくださる言葉(マタ25章34節以下)を思い起こす方もあるでしょう。困っている人を助けると、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と褒めてくださり、神の国を受け継がせてくださいます。 Thu, 19 Oct 2017 00:10:00 +0000 生ける神と共に (エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171019 no 2017 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章5節) 盗みの罪は、自分にはあれもこれも足りないと思い込み、隣人が正当に所有しているものをうらやみ、奪い取ろうとする貪欲から始まります。使徒パウロは貪欲について「貪欲な者、つまり、偶像礼拝者」と語り、天の父なる神以外のものを神とする偶像礼拝から貪欲も生じることを示しました。偶像は「死せる神」であり、私たちに何ものをも与えません。「あなたにはそれだけあれば十分」と示してもくれません。そのため偶像礼拝者には満たされるという感覚がなく、貪欲を招いてしまうのです。 だから貪欲、盗みから逃れるには、今も生きて私たち一人一人に愛の心を持って臨んでくださる天の父なる神を知ることです。この生ける神が地上にも支配の御手を伸ばし神の国をもたらしておられます。神は、神に背を向けていた者に働きかけ、一人、また一人と救いの恵みを豊かに注いでくださいます。そして、神の子へと造り変えてくださり、更には神の国を相続させてくださいます。それ故、私たちはこう賛美します。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩23編1節)と。 Wed, 18 Oct 2017 00:10:00 +0000 主によって満足する (ルカによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171018 no 2017 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 (ルカによる福音書3章14節) 洗礼者ヨハネがヨルダン川で悔い改めを呼びかけ洗礼を行っていたとき、兵士たちが、どう生きるのが悔い改めになるかを尋ねました。ヨハネは金をゆすり取ること、だましとることを禁止すると共に、「自分の給料で満足せよ」と勧めました。給料だけでは自分の生活の必要を十分には満たせていない、という思いから、足りない分を埋めようと他の人から奪うようになってしまったことをヨハネは見抜いたのです。 ともすれば人は、自分が必要と思ったとき、すぐに必要なものが手に入るのでなければ困る、と思います。そのために給料もできるだけ多く欲しいとも思ってしまいます。 しかし、天の父なる神は、ものがたくさんあることが肝心なのでないことを教えるため、私たちの求めにすぐに応えられないこともあります。この一見厳しそうな対応にも、滅びに落とすまいとする神の愛が込められています。最も賢明に配慮くださる天の父に立ち帰り、悔い改めて生きる時、パウロと共に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言う者に変えられます(フィリ4章11節)。 Tue, 17 Oct 2017 00:10:00 +0000 正しく量る (エゼキエル書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171017 no 2017 イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。 不法と強奪をやめよ。 正義と恵みの業を行い わが民を追い立てることをやめよと 主なる神は言われる。 「あなたたちは、正確な天秤、正確なエファ升、正確なバト升を用いなさい。」 (エゼキエル書45章9節~10節) 物の分量を量ることは日常生活に欠かせません。計量カップや升といった量りに毎日世話になります。ただこうした量りが正確かどうかは、私たちが一目見るだけでは判断できません。そこにつけ込まれ不正が行われることもあります。例えば米1キロを売り渡すと見せかけ8百グラムしか渡さず、代金を余計に受け取るという形で。しかもこの不正は見破りにくく広まりやすいのです。旧約聖書のあちこちでこの量りの不正が告発され、強奪、盗みとして非難されています。 相手から奪い取りまでして、自分の利益ばかりを追い求める人の罪は、神の子キリストを銀貨30枚という奴隷並みの値段でたたき売るまで極まってしまいました。 しかし、キリストはこの私たちの罪のためにも十字架で死んでくださいました。罪赦された私たちにキリストは今やこのように語られます。 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」と(ルカ6章38節)。 Mon, 16 Oct 2017 00:10:00 +0000 天の父を離れて盗む (コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171016 no 2017 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う物は、決して神の国を受け継ぐことができません。 (コリントの信徒への手紙一6章10節) 第八戒「盗んではならない」について、ハイデルベルク問110は「権威者が罰するような盗みや略奪」だけを禁じるのでないと答えます。「自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも盗みと呼」びます。 盗みとは、警察に捕まり、罰せられるようなことだけではありません。聖書は、「強欲な者」を「泥棒」、「人の物を奪う者」と同列に挙げています。そして、それらの者たちは、「神の国を受け継ぐことができません」と警告します。天の父である神は私たちに必要なものを恵み深く与えてくださっています。しかし、そのことを信じようとしないのです。その時、本来の必要よりもっと多くを求める強欲が湧きます。この盗みの罪は、私たちから遠いところにあるのではなく、現代の資本主義社会には当然のように存在します。 天にいます父なる神はキリストを遣わして、私たちをこの盗みの罪からも救い出してくださいます。神を天の父として示し、神の国を第一に求める者には必要なものをみな与える(マタ6章33節)と約束くださっています。 Sun, 15 Oct 2017 00:10:00 +0000 ソラ・グラティア(sola gratia、「恵みのみ」) (エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171015 no 2017 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節) 中世のローマ・カトリック教会も、神の恵みによって人間に救いが与えられると信じていました。しかし彼らは、神の恵みだけでは不十分であるとしました。神の恵みに加えて、自由意志による人間の協力も必要であるとしました。彼らは救いのために神と協力する人間の業を強調しました。つまり、彼らは神の恵みに人間の自由意志をかき混ぜてしまったのです。 これに対して宗教改革者たちは「恵みのみ」を強調しました。彼らは「恵みのみ」(ソラ・グラティア)が聖書的な救いの中心的な教えであると信じました。 宗教改革者たちのなかで、カルヴァンは他の誰よりも恵みの教理を強調した神学者です。彼は『キリスト教綱要』第3篇の表題を次のように記しています。 「われわれはどのようにキリストの恵みを受けるか。そこからどのような実りがわれわれに生じるか。それにともなう効果は何か」と。 主イエス・キリストにおいて現された神の「恵みのみ」が、私たち罪人を救います。神の「恵みのみ」が、私たちの生活を善き生活とし、実りを生じさせます。 Sat, 14 Oct 2017 00:10:00 +0000 神に対する罪の自覚 (創世記 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171014 no 2017 「この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」 (創世記39章9節) エジプトに連れて来られたヨセフは、宮廷の役人ポティファルに買われました。しかし、主が共におられて、ヨセフを異国の地においても守ってくださいました。そのようなヨセフに対して、ポティファルの妻は、誘惑の言葉をかけて言い寄ります。この誘惑に対して、ヨセフはきっぱり語ります。「わたしはどうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」。 ヨセフは、自分を豊かに祝福しているお方が神であることをよく知っていました。ヨセフは、神を信じ、神を愛していました。ですから、誘惑にのることは、何よりも神に対して大きな罪を犯すことになると語ります。 私たちもまた日々、さまざまな誘惑に襲われています。特に、メディアが発達している現在、サタンは、生活のあらゆる手段を用いて私たちを罪の中に陥れようとします。しかし、私たちは主イエス・キリストによって救いの恵みと祝福を神からいただいています。日々、聖霊に導かれて御言葉に聞き、神の愛を悟りましょう。そして、神を信じ、神を愛して、神のみ顔の前に歩みましょう。 Fri, 13 Oct 2017 00:10:00 +0000 心の中で犯す罪 (マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171013 no 2017 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」 (マタイによる福音書5章27節~28節) イエス・キリストの時代の教師と呼ばれる多くの人たちは、「姦淫してはならない」という戒めを、文字通りに考えていました。そして、一般の人々もまた、そのように教えられていました。ですから、外側で現実に罪を犯さなければ、姦淫の罪に問われることはない、と考えていたのです。 しかし、イエス・キリストは単に外側のこととして命じられているのではない、とされました。すなわち、この戒めを人間の心の中にある思いを問うものとして教えられたのです。 私たちはかつて、このような思いを持っていることに痛みを感じることはありませんでした。むしろ、そのような思いを悲しむことも悩むこともなく、当然のこととしていたかもしれません。 しかし、主イエス・キリストを知った今は、そうではありません。主は、結婚をしている異性をみだらな思いで見ることは、そのまま心の中の姦淫の罪であると言われます。全く身に覚えのない人は誰もいないでしょう。私たちは皆、罪深い者です。しかし、この罪のためにも、キリストは十字架にかかって死んでくださいました。 Thu, 12 Oct 2017 00:10:00 +0000 聖霊が宿られる神殿 (コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171012 no 2017 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 (コリントの信徒への手紙一6章19節) コリントの町にはみだらな行いが満ち溢れており、教会にもかつての風習から抜け出せない人びとがいました。このような人びとに対して、パウロは、みだらな行いを避けるようにと厳しく語ります。それはみだらな行いが特殊な罪だからです。 通常の罪は、体の外側にあります。つまり、通常の罪は自分の体とは別の、物や人に対して行われるものです。しかし、みだらな行いは自分の体に対して罪を犯すことになる、と語っています。自分の体に対する罪は、自分が生きている限り、消えることがないものとして残るからです。 パウロは、信仰者の体はもはや自分自身のものではないことを強調します。なぜなら、信仰者の体は神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿だからです。聖霊は聖なるお方です。ですから、信仰者の体をきよめて住んでおられるのです。 神殿では、神をほめたたえることが求められました。私たちの体は、聖霊によってきよめられ、神を賛美する神殿とされます。神の恵みは私たちの体にまで届きます。ですから、体においても神の栄光が現されるよう祈ります。 Wed, 11 Oct 2017 00:10:00 +0000 みだらな行いを避けるために (コリントの信徒への手紙一 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171011 no 2017 みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。 (コリントの信徒への手紙一7章2節) コリントの町は、商業と貿易の町として知られていましたが、この裕福な町には、多くのみだらな行いが満ちあふれていたのです。しかし、そのような町にも、多くの信仰者たちが起こされたのです。ところが、長い間、異教の習慣の中にいた信仰者たちの中には、これまでの習慣から抜け出すことができない人びとがいました。パウロはそのような人たちに信仰者の正しい歩み方について教えたのです。しかし、パウロの教えを誤解した人たちもいました。これらの人たちの中には「男は女に触れない方がよい」と、あまりに禁欲的に受け止める人たちもいました。 そこでパウロは、2節でこう語りかけています。「男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と。 結婚の第一の目的は、互いに愛し合い、助け合うことです。それは「みだらな行いを避けるため」でもあります。夫婦の性的関係そのものは、正しく用いるならば慰めであり、祝福なのです。夫と妻がこのことを正しく理解することが、この世の誘惑に打ち勝つために大切なことです。 Tue, 10 Oct 2017 00:10:00 +0000 神の国を受け継ぐ者にふさわしく (エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171010 no 2017 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章5節) エフェソの町には、アルテミス神殿があり、異教に特有のさまざまな性に関する風習がありました。そのような環境の中でも、主はパウロを用いて福音を伝え、人びとが主イエスをキリストとして受け入れ、信じる者としてくださいました。 エフェソの信仰者たちも、かつては多くの異教の習慣の中に生活していました。主イエスを信じて、自分たちがこれまで行っていたことが、どれほど人間としての正しい道から外れているかを、彼らは知るようにされました。 パウロは、4節において、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談」を避けるようにと具体的に勧めています。この世においては、これらについて巧みなことが、話題に豊富な人であるかのように考えられているかもしれません。 しかし、私たちは、御言葉に聴き、みだらな者は神の国を受け継ぐ者にふさわしくないことを知っています。聖書は主イエス・キリストを信じる信仰者たちが、神に愛されている者であると語っています。それ故に神に愛されている者にふさわしい歩みをするように、勧めています。 Mon, 09 Oct 2017 00:10:00 +0000 身を汚してはならない (レビ記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171009 no 2017 あなたたちは必ずわたしの命令を守りなさい。これまで行われてきたいとうべき風習の一つでも行って、身を汚してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。 (レビ記18章30節) モーセを通して与えられた戒めのうち、第七戒ほど、かつても今も人間の罪を明らかにするものはありません。 レビ記18章の背景には、神が人間に与えられた正しい性の関係を、いとうべきものに変えてしまったカナンの風習があります。レビ記は、肉親や兄弟姉妹、また、結婚をしている他人の妻について、さらには、動物との性的な関係に至るまで語っています。 主なる神は「これまで行われてきたいとうべき風習の一つでも行って、身を汚してはならない」とお語りになります。 このような風習は、遠いモーセの時代だけのことでしょうか。決してそうではありません。私たちが生きているこの現代の社会においても行われ続けていることです。しかもそれらのことが「身を汚すこと」であると認識され、省みられることはありません。 しかし、私たちの「体も魂も…イエス・キリストのもの」(『ハイデルベルク』問1)です。それ故、キリスト者である私たちは自分の身を汚してはなりません。「わたしはあなたたちの神、主である」との御言葉を、今こそ心に留めましょう。 Sun, 08 Oct 2017 00:10:00 +0000 ソルス・キリストゥス(solus Christus、「キリストのみ」) (ローマの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171008 no 2017 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 (ローマの信徒への手紙3章24節) 前回学びました「聖書のみ」は、「キリストのみ」ということと結びついています。聖書のみが私たちの信仰と生活の指標であるならば、キリストのみは私たちの信仰と生活の唯一の目標です。 当時、ローマ・カトリック教会は、聖礼典を執行する聖職者が神の赦しと救いの恵みを伝達する仲保者的な役割を果たせると主張しました。そのような考えは、功績主義を、さらには免罪符をも生むことにまでなりました。 しかし宗教改革者たちは、全く罪のうちに堕落してしまった私たち人間が義とされるのはただキリストのみによると語ります。「キリスト教を他の宗教と区別するのは仲保者キリストの存在にある」というカルヴァンの言葉は大切です。彼は、『キリスト教綱要』第2篇で全くの罪人である人間、旧約と新約のキリスト、仲保者、救い主キリストという順番で、「キリストにおける贖い主なる神の認識」について述べています。 キリスト教の中核的教理であるキリストの十字架なしには、もはやキリスト教ではありません。私たちはただ十字架にかけられたイエス・キリストのみを讃えます。 Sat, 07 Oct 2017 00:10:00 +0000 敵をも愛する (マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171007 no 2017 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 (マタイによる福音書5章44節~45節) 愛は、いっさいの見返りを期待しません。私たちは、自分に利益となって返ってくる人だけを愛するならば、それは自己中心の愛でしかありません。 神の愛は、このような自己中心の愛とはまったく違います。神の愛は、無条件であり、無限でもあります。この無条件に注がれる神の愛が、敵をも愛するという主イエスの教えに最もよくあらわされています。そして、この敵をも愛する行為は、主イエス・キリストの十字架を通して示されました。主イエスは、神に背を向けて自己中心の罪に生きる私たちを罪から救うために十字架にかかって死んでくださいました。 私たちは、この主イエス・キリストの十字架の死によって、神との和解がなされ、罪ゆるされて、神と共に生きていくことができるようになりました。私たちは、この無条件で、無限の神の愛が自分にも注がれていることを知ることができます。その時、敵をも愛する愛に私たちは生き始めます。「殺してはならない」という戒めは、私たちをこの愛に招いています。 Fri, 06 Oct 2017 00:10:00 +0000 互いに愛する (ローマの信徒への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171006 no 2017 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 (ローマの信徒への手紙12章10節) 互いに愛し合うことの大切さを私たちは知っています。同時に互いに愛し合うことの難しさもまた私たちは経験しています。 この世界をつくり、人間を特にご自身のかたちにつくられた主なる神は、私たちを愛してくださいました。主なる神は、人間が罪に堕落した後も、変わらず私たちを愛してくださいました。この変わらない私たちに対する神の愛は、神の愛する独り子、イエス・キリストを十字架につけるという仕方で、私たちにあらわされました。 キリスト者は、御子イエス・キリストに結びつくことによって、神の愛を受け、互いに愛し合うことに生きていきます。 神の愛は、人を殺さずに生かします。神の御子、イエス・キリストは、へりくだって十字架にかかってくださいました。キリスト者は、この御子イエス・キリストに結びついて生きていきます。その時、私たちのような者であったとしても互いに愛を持って接し、相手を心から尊敬し、自分より優れた者と思うようにもされます。その人を敬うことで、その人をも生かすことができるようにされます。 Thu, 05 Oct 2017 00:10:00 +0000 自己中心から神中心へ (ガラテヤの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171005 no 2017 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。 (ガラテヤの信徒への手紙5章19節~21節) 聖書は、人間に罪があることを教えています。罪とは、この世界と人間を造られた主なる神を無視して、自己中心に生きていくことです。自己中心的な生き方は、神を無視するだけではなく、他の人をも無視することになります。自己中心とは、自分の思いを絶対化することです。自分を神とすることと言ってもよいでしょう。このように自分の思いを絶対化すると他の人を愛したり、敬ったりすることができなくなってしまいます。つまり、罪とは神と人を愛せないことなのです。 聖書は、この自己中心の罪に支配された生き方を「肉の業」と呼んでいます。「肉の業」とは、自分の思い、自分の欲望を絶対化して生きていくことです。「肉の業」は、まことの神を無視して生きる偶像崇拝につながっていきます。偶像崇拝とは、人が自分の欲望を満たすためにつくり出した偽りの信仰です。ですから、偶像は、人の欲望の数に合わせてつくられます。 主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタ16章24節)と招かれます。自己中心の罪を悔い改めて神を中心にして生きましょう。 Wed, 04 Oct 2017 00:10:00 +0000 光の中を歩もう (ヨハネの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171004 no 2017 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。 (ヨハネの手紙一2章10節~11節) 憎しみは、私たちの心を闇で覆います。たとえ相手に原因があったとしても、私たちが人を憎むとき、私たちは、闇の中にいます。 闇の中では、自分がどこにいるのか、これからどこに行くのかもわかりません。そして、闇の中にいることは危険なことでもあります。私たちの心が憎しみで満たされる時私たちの心は主なる神から遠く離れてしまいます。また神が与えてくださった人生を喜び楽しんで歩んでいくこともできなくなります。では、どうしたら良いのでしょうか。 主イエスは、憎しみに満ちた世に、まことの愛をあらわしてくださいました。主イエスは、人を憎んでしまう私たちのために十字架にかかり、ご自身の尊い命を捨ててくださいました。この主イエスの十字架の血によって私たちの罪がゆるされました。キリストの十字架は、人を生かす光をこの世にもたらしました。 私たちは自分の力によってこの憎しみをどうすることもできません。ただ主イエス・キリスト、この方だけがこの憎しみの心に勝つことができます。ですから、きょうも十字架の恵み、神の愛の光の中に留まりましょう。 Tue, 03 Oct 2017 00:10:00 +0000 怒ったままでいてはいけません (エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171003 no 2017 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 (エフェソの信徒への手紙4章26節) 使徒パウロは、怒ることすべてを戒めているわけではありません。聖書は、確かに神の正義に基づく怒りがあることも教えています。洗礼者ヨハネは、ファリサイ派とサドカイ派の人びとに、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ3章7、8節)と語ります。ですから、怒りには、確かに正しい怒りもあります。 しかし、主イエスは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(同5章22節)と弟子たちに教えられました。パウロも主イエスと同じように、たとえ怒ることがあったとしても罪を犯さないようにと戒めています。しかし、私たち人間は罪深いものです。私たちは、怒った時は、それが正しい怒りであると思うのですが、実は人を傷つけ、人の尊厳を踏みにじってしまっていることが多いのです。これは、その人を殺しているのと結局は同じことになります。 しかし、このような私たちに、神は「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と言われます。怒ることはあったとしても、その日のうちにその怒りは治めなさいという牧会的な御言葉です。 Mon, 02 Oct 2017 00:10:00 +0000 人は神にかたどって造られた (創世記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171002 no 2017 「人の血を流す者は 人によって自分の血を流される。 人は神にかたどって造られたからだ。」 (創世記9章6節) 主なる神は、地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になり、ノアとその妻、三人の息子(セム、ハム、ヤフェト)とその妻たち、動物たちを箱舟に入れて救い、他の人間を洪水によって滅ぼされました。 主なる神は、ノアとその家族を最初の人間アダムと同じように祝福しました。そして、神は、ノアとその家族に、青草に加えて、動物の肉を食料として与えてくださいました。ただし、血を含んだまま食べることは禁じられました。血は、命をあらわしますから、生きたまま食べることが戒められたのです。主なる神は、動物を食べることを許可されましたが、むやみに殺すことまで認められたわけではありません。 ましてや人間どうしが殺し合うことを認めてはいません。人が人の血を流した場合は、その賠償として自分の血、すなわち命が要求されます。こうして、殺人が禁じられました。その理由は、人が神のかたちにつくられているからです。人の命は、神のものです。与えられている命に感謝し、他者を大切にしながら私たちは歩みます。 Sun, 01 Oct 2017 00:10:00 +0000 ソラ・スクリプトゥラ(sola Scriptura、「聖書のみ」) (詩編 19編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20171001 no 2017 主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 (詩編19編8節) 宗教改革500周年を迎える私たちに求められるのは、改革派教会の遺産に感謝しつつ、唯一の神にのみ栄光を帰すことです。そのため、宗教改革の中核である「五つのソラ」(「ソラ」は、~のみという意味です)に注目するのは、今日、私たちにとってとても大切な課題です。 「私たちは今新しい時代の夜明けに立っている」と語ったマルティン・ルターの言葉の重さは、宗教改革の重要性を物語ってくれます。その当時の権威は三つに分けられていました。つまり、中世教会の伝統、ローマ・カトリック教会の会議、教皇でした。ところが、宗教改革者たちは当時の権威に立ち向かって「聖書のみ」をキリスト者の唯一の最終的な権威として認めようとしました。カルヴァンが『キリスト教綱要』で、聖書の必要性と信憑性をそれほどに強調する理由がここにあります。彼は、聖書という眼鏡をかけるとき、すなわち信仰によって聖書の権威を認めるとき、神を創造主としてだけでなく救い主としても知ることになる、と述べています。 人間が神を知ることができる唯一の場所は「聖書のみ」です。 Sat, 30 Sep 2017 00:10:00 +0000 教会における秩序(使徒言行録 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170930 no 2017 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。 (使徒言行録20章28節) 私たちの改革派教会は長老制という政治形態をとっています。それが最も聖書的であるという確信からです。長老(牧師も長老です)によって構成される小会、中会、大会で教会の伝道方針や教育方針が審議されて、決定されます。 では、長老はどのようにして立てられるのでしょうか。それは教会員の選挙によって選ばれるのですが、この選挙の中に聖霊が働いてくださることを信じています。ですから、きょうの聖書個所にもある通り、長老は聖霊が任命なさったのです。そう信じて、私たちは長老に対してふさわしい敬意を払い、長老たちによる会議の決定に従います。 ところで、長老は監督者とも呼ばれる通り、委ねられた群れ全体を配慮して見守るという役目があります。それは決して権威を振り回すことではありません。むしろ群れの模範となって、献身的に群れの世話をすることです(1ペト5章2、3節)。 このような働きに最初からふさわしい人は誰もいません。ただ聖霊だけがその人にふさわしい賜物を与え、その人を訓練してくださいます。ご自分の教会の長老のためにお祈りください。 Fri, 29 Sep 2017 00:10:00 +0000 国家との関係(ローマの信徒への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170929 no 2017 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 (ローマの信徒への手紙13章1節~2節) 国家権力の宗教への介入が不安視されている昨今です。憲法を改正して戦前・戦後の全体主義的な国家を取り戻そうとする風潮があるという意見が教会内外で表明されています。この時代にあって私たちはどのように認識し、考え、行動すればよいのでしょうか。 どのような時代であっても、教会の最も大切な働きは、福音宣教です。伝道を脇に置いて、国家のしている事に声をあげるのなら、教会は教会ではなくなってしまうでしょう。 しかし、福音宣教とは、福音書と使徒言行録においては神の国到来の告知です。国とは支配のことです。神の国到来を語る際、国家の支配のあり方と神の支配のあり方は、常に緊張関係の中にあります。教会が行う福音宣教は、必然的に、国家に対する見張りの役目を担っています。 第五戒から、上に立つ人を敬うように学んできました。国家のために働く為政者たちも神によって選ばれた人たちです。彼らが、神に託された働きができるように、と教会は心から祈らねばなりません。また、彼らが明らかに神の道から離れるとき、教会として声を上げることは、教会がなすべき神の国の福音宣教です。 Thu, 28 Sep 2017 00:10:00 +0000 上司と部下の関係とは(エフェソの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170928 no 2017 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 (エフェソの信徒への手紙6章5節~7節) わたしは献身する前、大学や研究所で12年間ほど働いていました。その間に三人の上司の下で働きました。それぞれが異なるタイプの上司でした。放任主義の上司、押し付け型の上司、細かな所までもコントロールしようとする上司でした。相性の良かった上司、そうでなかった上司がいました。わたしは上司に対して不満を持ち、そして上司から理不尽なことを言われたことが数多くありました。しかし、どの上司も神から与えられた存在と思い、神に仕えるように上司に仕えることを学んできました。 本日の聖句で奴隷と主人の関係が取り上げられます。パウロが奴隷制を扱うのは、当時、奴隷のキリスト者がいたからです。パウロが語るのは、どんな境遇においてもキリスト者として生きる知恵です。 もちろん、パウロは奴隷制を積極的に肯定しているわけではありません。また、人間の尊厳を損なってまでも、相手に隷属することは神の御心ではありません。そうではありますが、キリストに従うように敬意をもって真心から主人に従うという基本的な姿勢は、現代の人間関係にも当てはまります。 Wed, 27 Sep 2017 00:10:00 +0000 妻と夫の関係とは(エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170927 no 2017 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章21節) 夫婦とは不思議な関係です。血縁とも、地縁とも、利害関係とも異なる関係です。好きだから結婚したのでしょうし、子どもを授かると共に親になります。 妻と夫の関係で、わたしが一番大切だと思っていますのは、「人が独りでいるのは良くない」(創2章18節)と言われた神が結び合わせてくださったという点です。妻と夫が愛し合う中に、二人を結び合わせようとされた神の意思が働いている関係です。 夫婦は物理的・精神的近さのゆえにお互いのことで常に揺れ動く感情を持ちます。感情だけでは関係を維持することは困難であると思います。そこで、その相手が神によって与えられた相手であることを思い、お互いの間に立ってくださる神を共に畏れ、神に信頼して歩むことが大切です。 パウロは夫婦に互いに仕え合いなさいと教えます。キリストに仕え、キリストを愛するように、お互いのパートナーに仕え愛することが求められています。これは、教会とキリストとの関係を語る中で語られた言葉です。教会生活の中に、夫婦の関係が整えられていく恵みが宿っています。 Tue, 26 Sep 2017 00:10:00 +0000 親と子の関係とは(エフェソの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170926 no 2017 父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。 (エフェソの信徒への手紙6章4節) 十戒の第五戒が望んでいることは、子どもが親に一方的に従うことではありません。親の側には、子どもが喜んで従いたいと思う、尊敬に値する人であることが求められています。ところが、そうありたいと願っていても、子どもをいらだたせることの何と多いことでしょう。 もちろん、子どものことを思わない親はいないでしょう。「あなたのためを思って」としつけに力が入ります。しかし、一歩立ち止まって考えてみてください。「あなたのためを思って」という言葉に、「わたしの願い」や「わたしの期待」が見え隠れしていませんか。しつけによって子どもが怒るのは、子どもながらにも親の言葉に理不尽さや愛情の無さを感じ取っているからです。 子どもは親の所有物ではありません。子どもは親とは違う人格を持ち、主から与えられた独自の人生があります。子どもはその養育を主から託された存在です。子どもと共に御言葉から学び、子どもと共に神の御心を祈り求め、子どもと共に夢の実現に向かって歩むことが大切です。神の子である私たちを、神がそのようにしつけ、諭され、育んでくださっているからです。 Mon, 25 Sep 2017 00:10:00 +0000 子と親の関係とは(箴言 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170925 no 2017 わが子よ、父の諭しに聞き従え。 母の教えをおろそかにするな。 (箴言1章8節) よく耳にすることですが、子どもは自分の親を選ぶことはできません。では、親は子どもを選べるのでしょうか。生まれて育つまでは、どんな子どもになるのか、親でさえわかりません。選ぶことができないこの関係を、もし否定的に考え始めたら、そのような親子関係からは何も良いものが生まれません。 しかし、人間には選ぶことも予測することもできないこの関係に、神の知恵と配慮と恵みが働いていると確信するときに、親子関係の見え方も変わってきます。神は、我が家にしかない特別な関係の中に、親子ともども置いてくださっています。その関係を与えてくださった神への畏れこそ、親子関係を考える出発点です。 十戒の第五戒は子どもに対して、父母に聞き従うことを望んでいます。この戒めを守るために、また守るようにと教えるためにも、神が与えてくださった特別な関係に対する畏れと深い理解が必要です。 昨今、幼児虐待の痛ましいニュースを耳にします。罪にねじれたこの世に生きる者の一人として、すべての親子が祝福の中に生きることができるようにと祈ります。 Sun, 24 Sep 2017 00:10:00 +0000 きっとあの人にも起こる(イザヤ書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170924 no 2017 あなたがたはこれらのことの証人となる。 (イザヤ書24章48節) よみがえられた主イエスは、弟子たちに伝道するようにはっきりとお命じになりました。主イエスの復活の事実と伝道命令。この二つが弟子たちの伝道のエネルギーとなったのです。 弟子たちの真ん中に立たれた主イエスは、まず旧約聖書に書いてある事柄はすべて実現すると語られ、ご自身の死と復活はそのような神のご計画の中で起こったことであり、これに続いて罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられると語られました。伝道とは、そのような「必ず実現する神の救いのご計画」に参与させていただく働きなのです。 さらに主イエスは、伝道は弟子たちが今いる場所から始まり、罪の赦しと神の愛を体験した弟子たちがその事実の証人となると告げ、「父が約束されたもの」「高いところからの力」すなわち「聖霊」を待つようにお命じになりました。 私たちも聖霊の力を祈り求め、置かれているその場で自分が体験した救いの恵みを証しするなら、必ず実現する神のご計画の動きを感じることができます。わたしの身に起こったことは、きっとあの人にも起こります。 Sat, 23 Sep 2017 00:10:00 +0000 真の安息を求めて(イザヤ書 66章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170923 no 2017 新月ごと、安息日ごとに すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと 主は言われる。 (イザヤ書66章23節) 『ハイデルベルク』の主な作成者であるウルジヌスは、この問答の解説書も著しています。第四戒の個所を読んでみますと、ウルジヌスは第四戒で教えられていることを教会の課題として、さらにそれを具体的に行う教職者の課題として詳しく解説しています。 主の日が真の安息の日となるためには、礼拝をはじめとして主の日に行われるさまざまな活動が、主の御心に沿って行われなければなりません。とりわけ礼拝説教が神の言葉としてふさわしく語られ、聖礼典が神の定められたとおりに執行され、用いられなければなりません。これは教会の務めであり、特に正式にその職務に召された者の責任です。そうでなければ、信徒に神の集会に熱心に集うことを勧めることができません。 今週は第四戒について学ぶ機会が与えられました。明日は主の日です。どうか、礼拝で主のご用にあたる牧師、説教者の働きを覚えて祈ってください。また司式者や奏楽者、教会学校教師などの奉仕者のためにも祈りましょう。明日の礼拝の上に主の祝福が豊かにありますように。 Fri, 22 Sep 2017 00:10:00 +0000 信仰生活のリズム(ヘブライ人への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170922 no 2017 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 (ヘブライ人への手紙4章11節) 十戒は二つの部分に分けられます。第一戒から第四戒までの前半部分は私たちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え、第五戒から第十戒の後半部分は私たちが隣人にどのような責任を負っているかを教えています。 前半部分の最後に位置する第四戒は、まことの神のみを信じて歩もうとする信仰者の日々の生活が地に足のついたものになるように整えてくれます。第四戒が教えているのは、単に7日のうちの1日だけのことではありません。なぜなら、主の日に神から安息をいただいてから始まる1週間とそうでない1週間とが同じではありえないからです。 週の初めの主の日、主から罪の赦しをいただき、身も魂もリフレッシュされる。そして、主の日を出発点として他の6日の働きに遣わされ、また主の日を迎える、という1週間のリズムが、健全な信仰生活を形成します。 主の日の過ごし方が変われば、他の6日の過ごし方も変わります。その意味で、主の日をどのように過ごすのかはその人の全生涯に関わっています。この安息にあずかるように努力することは、人生全体を豊かにします。 Thu, 21 Sep 2017 00:10:00 +0000 安息日と主の救い(申命記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170921 no 2017 「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」 (申命記5章15節) 十戒が直接的に語られている聖書個所には、出エジプト記20章と申命記5章の二つがあります。実際に聖書を開いて読み比べていただきたいのですが、興味深いことに、同じ第四戒を取り扱っていながらも、両者には明確な違いがあります。 申命記5章15節は次のように語っています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。 安息日を守るべき理由について、出エジプト記20章では主の創造の御業との関連で説明されていたことが、ここでは主の救いの御業との関連で説明されています。安息日とは主の救いの御業を思い起こす日である、と。 救いの御業のゆえに安息日を守ることは、主の復活により安息日が週の7日目から初めの日に変わったことで、より鮮明になりました。救い主イエス・キリストが復活された日こそ、主の救いの御業を思い起こし、喜び祝うのにふさわしいからです。 Wed, 20 Sep 2017 00:10:00 +0000 創造主なる神にならって(出エジプト記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170920 no 2017 「6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」 (出エジプト記20章11節) 第四戒には、十戒の他の戒めとは異なって、「~しなさい」あるいは「~してはならない」という命令だけでなくて、なぜこの戒めを守らなければならないかを教えるための説明が付けられています。 きょうの聖書個所、出エジプト記20章11節は、私たちが安息日を守るべき根拠について、主なる神の創造の御業から説明しています。 主なる神は、6日の間に天と地と海とそこにあるすべてのものをお造りになり、7日目に安息なさったではないか。だから神にかたどって、神のかたちに似せて造られているあなたたちは、主にならって、何であれ6日の間働いて、7日目を安息日とするのだ、ということです。 ここからきょう覚えたいことは、私たちはもともと安息日を守るために創造されているのだ、ということです。安息日を守るということは決して特別なことではありません。安息日を守ることが、私たちの本来あるべき姿なのです。そして本来あるべき姿にもどっているとき、私たちは本当の安息を味わうことができるのです。 Tue, 19 Sep 2017 00:10:00 +0000 信仰の訓練と継承(出エジプト記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170919 no 2017 「6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」 (出エジプト記20章9節~10節) 聖書の教えは、それを受け取る人が置かれている状況や立場の変化に応じて新たな気づきを与えてくれます。 青年時代、第四戒はわたし自身がどのように主の日を過ごすべきかを教えてくれる指針でした。CSから始まって、朝礼拝、昼食をとりながら青年会、CS教師会など、そして最後は夕礼拝という、主の日の教会のプログラムに集うように、またそのために週日の生活を整えるように、第四戒はわたしを訓練してくれました。 結婚し、家族が与えられている今、同じ戒めが、とりわけ子どもたちに安息日の祝福を伝え、どのように信仰を継承していくかを考えるための指針になっています。 第四戒において主が想定しておられるのは、この戒めを直接聞いているわたし、そしてあなただけではないのです。「息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と、主はおっしゃいます。主なる神は、あなたとあなたの愛する家族、あなたの大切な友人たちがともに神の教会に集い、ご自身の安息を得るようにと願っておられます。 Mon, 18 Sep 2017 00:10:00 +0000 安息日を「心に留める」(出エジプト記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170918 no 2017 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 (出エジプト記20章8節) 十戒の他の戒めにも当てはまることですが、一見単純なことのように思える第四の戒めをふさわしく理解し実践するためには、信仰的な知恵と分別が必要です。とりわけ今という時代は、より一層必要なのではないかと感じています。 主の日であっても働かざるを得ない状況にある方や高齢や病気などのゆえに主の日の礼拝に集うことの困難な方が大勢おられる中、この戒めの安易な適用は、そのような方々から安息を奪ってしまうことになりかねません。これは、この戒めが本来意図している真の安息の実現とは正反対のことです。 礼拝に出席することがしんどかったり、主の日の奉仕が時として重荷に感じられることもあるでしょう。そのような中で第四戒について学ぼうとするとき、まず私たちに求められているのは、安息日を「心に留める」ことです。この世の誰も与えることのできない、ただ主なる神のみが与えることのできる真の安息とその恵みが、私たちに差し出されています。このことに感謝し、神が真の安息を実現してくださるのを、神に期待しましょう。 Sun, 17 Sep 2017 00:10:00 +0000 神の熱意と喜び(ルカによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170917 no 2017 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 (ルカによる福音書15章10節) 15章の三つのたとえ話には共通点があります。「失われた者を探し求める神の熱意」と「失われた者が見出された時の神の喜び」です。 見失った羊は特別に高価な羊ではありません。ドラクメ銀貨1枚も大した額ではありません。家を出た弟息子は、父親が生きている内に財産の分け前を求めるような親不孝者です。にもかかわらず、羊飼いはその1匹が見つかるまで探し、女もその1枚が見つかるまで探します。自分のものだからです。父親も帰って来た弟息子がまだ遠く離れていたのに見つけて走り寄り、抱きしめます。自分の息子だからです。そして言うのです。「一緒に喜んでください」。「喜ぶのは当たり前ではないか」。ここに主イエスを通して失われた罪人を捜し求めてくださる神の熱意と、一人の罪人が悔い改めて立ち帰る時の神の喜びが表されています。 私たちはこのような神の熱意によって探し出され、このような喜びの内に招かれています。伝道とは、キリストの体としてこのような神の熱意と喜びに仕える働きです。この光栄ある働きのためにきょうも遣わされて行きましょう。 Sat, 16 Sep 2017 00:10:00 +0000 20170916(ヤコブの手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170916 no 2017 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。 (ヤコブの手紙5:12) 神の前でなされる合法的な誓いはもちろんあります。その事実を踏まえた上でなお、聖書は誓いを立てることへの慎重な姿勢、厳しい調子を崩しません。「正当な誓い」「合法的な(御言葉に適う)誓い」を適正に保持するために、偽りの誓い、とりわけ「聖人」など被造物を指して誓うような迷信をきっぱり排除しているのです。 ヤコブの言葉は、主イエスの戒めを明白に受け継いで語っています。「然り」と「否」を自由にあやつることができるかのような思い込みと傲慢は、結果的に神を偽り者とする重大な罪の温床です。誓いはしばしば、自分が正しいという不遜な信念と一体です。誓うことによって、神の意志や行動に人間が介入し、思いのまま神を動かそうとする誘惑に陥るのです。自分の考えや期待のために、「摂理」の御手を気ままに動かすことができる。そのような理解は聖書の信仰とは異質です。 身勝手な誓いを離れ、祈りと賛美への道を歩むようヤコブは勧めます(13節)。考えてみれば、正当な誓いは必ず神への祈りと賛美を含むでしょう。従順と信頼を包み込む誓いだけが、合法的です。 Fri, 15 Sep 2017 00:10:00 +0000 聖霊によって良心が語る(ローマの信徒への手紙 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170915 no 2017 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることです (ローマの信徒への手紙9章1節) 真実を語ることがどれほど困難であるか、を弁えないキリスト者はいないでしょう。真実な言葉、いのちの言葉。それだけを語って十字架に向かわれたキリストから、言葉の恵みと深み、言葉の喜びと責任を知らされているからです。パウロは神の啓示を担う使徒として、とりわけ言葉の真実に心を尽くした人です。そのパウロがここで悲痛なほどの懸命さで語ります。「真実を語り、偽りは言わない」と。 9章から語り始めるのは、神の救いの歴史とイスラエルの選びという、旧新約聖書を貫き通す重大な福音の筋道です。同胞イスラエルは今なお救いの歴史の焦点であり、イスラエルを離れては、キリストにおいて実現した救いの歴史に完成はありません。宣教の実りはイスラエルを除外しません。それは単なる同族意識や民族感情ではありません。御国の実現はイスラエルの立ち帰りを含む、という揺るぎない神学的な洞察です。福音の真理のためなら自らの犠牲を厭わない、パウロの命がけの告白です。 救いの成否がかかるとき、大胆に聖霊を呼び出して語ることは、教会の責務です。福音の務めはかくも厳かです。 Thu, 14 Sep 2017 00:10:00 +0000 思いやる心こそ(コリントの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170914 no 2017 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。 (コリントの信徒への手紙二1章23節) コリント訪問が、何かの理由で延期されている。その事情の詳細をここで述べることはできません。パウロの訪問計画が、そもそも「軽はずみ」「人間的な考え」だと非難する声も、パウロの耳に届いているようです。しかしパウロは言います。訪問の延期は、「あなたがたへの思いやり」なのだ、と。あなたがたに対して寛大でありたいからだ、と。自分の命にかけて誓ってもよいとまで断言します。 ここでのパウロのように、神の名を呼んで誓うことを特異な目的で行う人がいるでしょうか。このような不思議な作法で誓いを用いることは、驚き以外の何物でもありません。ここに、伝道者・牧会者パウロのコリント教会への愛と献身が如実に現れています。パウロの強い口調が、教会に対する彼の痛むほどの愛から出ていることは、明らかです。 パウロはコリント教会の信仰を「支配」したくありません。教会の喜びに仕える「協力者」でありたいのです(24節)。支配的な牧会、独善的な教会指導はパウロと無縁です。謙遜と愛に満ちた牧会者、真の羊飼いの場所を死守すること。教会が思いやりの集いになる秘訣がここにあります。 Wed, 13 Sep 2017 00:10:00 +0000 不実と無知を癒やされる神(ヨシュア記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170913 no 2017 ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった。 (ヨシュア記9章15節) 約束の地カナンに入るイスラエルの民に、神は既存の民と町々を「滅ぼし尽くす」よう命じました(申7章2節)。しかし既存の民を皆殺しにしたわけでないことは、聖書の記録からも歴史的な知見からも明らかです。 ギブオン人は、遠方からの困窮者を装ってヨシュアを訪ね、助命と占領地での居住を求めて、イスラエルとの「協定」を謀ります。虚偽を見抜けないまま和を講じ、指導者たちは協定締結の誓いに加わります。虚偽に基づくことが後日判明すれば、一般の契約なら破棄されるでしょう。しかしこの場合は、誓いを神に立てたという理由で、契約は継続されます(ヨシュ9章19、20節)。御前での誓約は、人間の不実と無知にまさり、隠された偽りを癒やす力をもつことが、暗示されています。 ギブオン人は、イスラエル共同体と主の祭壇で一種の神殿奴隷として奉仕し、捕囚後の城壁再建にも貢献します(ネヘ3章)。ギブオン人の例を「ぶどう園の労働者」の譬に繋いで語る説教伝統もあるようです(マタ20章)。不利益な誓いさえ癒やして用いる神の知恵。すべてを益とする神に感謝します。 Tue, 12 Sep 2017 00:10:00 +0000 主は生きておられる(エレミヤ書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170912 no 2017 もし、あなたが真実と公平と正義をもって 「主は生きておられる」と誓うなら 諸国の民は、あなたを通して祝福を受け あなたを誇りとする。 (エレミヤ書4章2節) 約束の地カナンに入るイスラエルの民に、神は既存の民と町々を「滅ぼし尽くす」よう命じました(申7章2節)。しかし既存の民を皆殺しにしたわけでないことは、聖書の記録からも歴史的な知見からも明らかです。 ギブオン人は、遠方からの困窮者を装ってヨシュアを訪ね、助命と占領地での居住を求めて、イスラエルとの「協定」を謀ります。虚偽を見抜けないまま和を講じ、指導者たちは協定締結の誓いに加わります。虚偽に基づくことが後日判明すれば、一般の契約なら破棄されるでしょう。しかしこの場合は、誓いを神に立てたという理由で、契約は継続されます(ヨシュ9章19、20節)。御前での誓約は、人間の不実と無知にまさり、隠された偽りを癒やす力をもつことが、暗示されています。 ギブオン人は、イスラエル共同体と主の祭壇で一種の神殿奴隷として奉仕し、捕囚後の城壁再建にも貢献します(ネヘ3章)。ギブオン人の例を「ぶどう園の労働者」の譬に繋いで語る説教伝統もあるようです(マタ20章)。不利益な誓いさえ癒やして用いる神の知恵。すべてを益とする神に感謝します。 Mon, 11 Sep 2017 00:10:00 +0000 主への愛と畏れの中で生きる(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170911 no 2017 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。 (申命記6章13節) 神はご自身の御名が、私たちの生活のすべての領域で尊ばれ愛されることを要求されます。この要求つまり神の戒めこそ、教会とキリスト者に与えられる喜び、平和、慰めの保障です。神の戒めは、神が私たちの全生活に責任を負うという約束と一体だからです。律法は神の愛の証しです。 「誓い」を巡る聖書とハイデルベルク信仰問答の教えは、神の民がどのように日々、言葉の生活を誠実に謙虚に営んでいるかへの、問いかけであり真剣な検証です。安易な約束で大切な隣人に失望を与えることが、どれほど多いことか。共に生きる信仰の友に身勝手な主張で不愉快な思いをさせたことが、幾たびあったか。省みて顔を伏せるほかありません。誠実さに欠けた言葉が、取り返しのつかない躓きを生んでしまったことも、伝道者としての苦い反省です。 真実な言葉の生活は、主イエスの御名にしっかりと結び合わされることから生まれます。主イエスへの愛と畏れから、偽りのない交わり、欺かない言葉の歩みが始まります。何よりも礼拝を通して御言葉の恵みを受け、言葉の癒やし、言葉の再建を祈り求めます。御名が崇められますように。 Sun, 10 Sep 2017 00:10:00 +0000 宣べ伝え、寄り添う(ルカによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170910 no 2017 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。 (ルカによる福音書9章1節) 主イエスは十二人を呼び集め、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」派遣なさいました。「神の国の宣教」と「病人のいやし」が共に弟子たちに与えられた使命であったことに注目したいと思います。「病人のいやし」は「悪霊の追い出し」と共に神の国の到来を告げ知らせる特別なしるしでした。ですから、すでに完成した聖書が与えられている今の時代の教会に同じように与えられている能力ではありません。伝道の使命は第一に神の国を宣べ伝えることにあります。「神が王としてあなたを支配し、すべての暗闇の支配から解放してくださる」ということを、十字架の言葉を通して告げ知らせるのです。 同時に、義なる神のご支配は人々に罪の悔い改めを迫ると共に、悪魔の暗闇の支配を打ち砕いてくださいます。ですから、神の国を宣べ伝えることと、苦しみ悲しみの中にある人々に愛をもって仕えることは別のことではなく一体的になされるべきことです。主イエスによって世に派遣される弟子たちは、神の国を宣べ伝えつつ、弱い立場にある人々に主の愛をもって寄り添うことを通して神の国に仕えるのです。 Sat, 09 Sep 2017 00:10:00 +0000 御名を汚すことは最大の罪(コロサイの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170909 no 2017 だれかが罪を犯すなら、すなわち、見たり、聞いたりした事実を証言しうるのに、呪いの声を聞きながらも、なおそれを告げずにいる者は、罰を負う。 (コロサイの信徒への手紙5章1節) 偽りの誓いや、神の名を用いて人を呪うことに、神がどれほど激しい嫌悪と怒りをお持ちになるか。この聖句は、取り付く島もないほどの厳格さで私たちに迫ってきます。レビ記5章の文脈で問われている罪は、意図的に犯した罪でない場合を念頭に置いています。1節は、神への冒涜の事実を知りながら、罪を告発せず証言を控えることも「罰を負う」とされます。沈黙による消極的な罪への加担が罪責を負うのです。神が、御名の聖さと誉れをどれほど重んじておられるか。際立った決意が示されています。 軽はずみな罪も神の前には「責めを負う」(4節他)。その通りです。けれどもここには、小さな罪でも罪責を負うとともに、すべての罪への「赦し」の道も同時に開かれています。「彼はその罪を犯したことを告白し」(5節)、贖罪の献げ物をささげることによって、罪の赦しを受けることができます。極度に貧しい者は「小麦粉1/10エファ」が赦しの代償です(11節)。小さな罪を見逃さない主が、一握りの小麦粉で罪人を放免されます。憐れで貧しい罪人のための救い主が、もうここに立っておられます。 Fri, 08 Sep 2017 00:10:00 +0000 イエスの御名がすべてを包む(コロサイの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170908 no 2017 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 (コロサイの信徒への手紙3章17節) 神は言葉によって世界を創造し、人間と世界の贖いのため、御子を「言(ことば)」として世に遣わされました。御子イエスは、言葉と聖霊によって世にいる神であられます。つまり、神は言葉という手立てを用いて人間と一つになろうとされます。神は、言葉を通して、人間と世界に近くおられ、いや世のただ中に住んでくださるお方です。 言葉によって、祈りと賛美、告白と感謝によって神に近づくことができること。それは何という幸いでしょう。「わたしたちのすべての言葉と行い」が、神を讃える用具とされます。それだけに、すべての言葉、すべての行いが、神への賛美に用いられるよう、十分に整えられることが求められています。責任は依然として重大です。 「我々がイエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、我々の生の領域がある…という誤った教えを我々は退ける」(バルメン神学宣言、1934年)。すべてを主の誉れに帰することは、言葉と生活両面での真剣で誠実な献身と戦いを求めます。弱く崩れやすい私たちを、主よ、支えてください。 Thu, 07 Sep 2017 00:10:00 +0000 御名を呼ぶ者に答える神(詩編 50編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170907 no 2017 「告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。 それから、わたしを呼ぶがよい。 苦難の日、わたしはお前を救おう。 そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」 (詩編50編14節~15節) 聖書の神は「名」をもつ神です。神の名は、神の恵みと真実を担う「器」ですから、主の名が正しく唱えられるところに主は真実に臨在してくださいます。主の日の礼拝は、神の臨在の最先端であり、主はそこで唱えられる名によって、民との出会いを実現してくださいます。 主の名はイエス・キリストという御名の啓示で頂点に達します。主の名を正しく知り、信頼し、告白することによって、道と真理と命の発見に至ります(ヨハ14章6節)。ですから、イエス・キリストの名に勝る名はなく、キリストの御名が包みえない苦難も嘆きもありません。「悩みの日にわたしを呼べ」(詩50篇15節、口語訳)。神を呼ぶこと。それは賛美であり、祈りであり、信仰の告白です。人間の唇、人間の舌、人間が語る言葉とその響きが、最も深く神への誉れを現す道、それが主を呼ぶことです。 主を呼ぶ信仰と礼拝は神への最善のささげものです。苦難の日に、試練と困窮の日に、キリスト者と教会は、はばかることなくただ神を呼びます。病の中で、眠られない夜の闇の中で御名を呼べば、救いは直ちに私たちに届きます。 Wed, 06 Sep 2017 00:10:00 +0000 大胆にキリストを告白する(マタイによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170906 no 2017 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」 (マタイによる福音書10章32節) 注意深く言葉を用いることは、言うまでもなく大切です。けれども、言葉に生きる生活は、決して臆病であってはなりません。周りを気にして、語るべき言葉まで惜しむことは、聖書と主イエスの本意ではありません。 主の名をみだりに唱えないための最善の道は、イエス・キリストを「主」と言い表す信仰の告白です。主は言われます。「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(10章27節)。キリスト告白の点で、臆病になるな、大胆であれ、と主は教会を励ましておられます。屋根に登りなさい。つまり外に出て行ってキリストを告白せよ。これは、とくに神の言葉の宣教を託された教会、なによりも説教の務めを担う伝道者への挑戦ではないでしょうか。居心地のよい教会内だけで通用する言葉ではなく、教会の外にいる人に語りかける言葉を、教会は必要としています。 主イエスを伝え、この名に込められた神の愛と義、真実と公正を大胆に告知することが、いま教会に託された最大かつ緊急の使命であると信じます。イエス・キリストをすべての人の主と呼ぶことにまさる大胆な言葉はありません。 Tue, 05 Sep 2017 00:10:00 +0000 然りは然り、否は否(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170905 no 2017 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」 (マタイによる福音書5章37節) 社会の慣習の中で、誓いや約束を求められることがしばしばあります。とりわけ信仰に生きる生活は、神と人の前でなされる厳かな誓いぬきには成り立たないと言えるでしょう。洗礼、結婚、教会の務めにつく場合などです。 それでは、「誓うな」という主イエスの厳しい言葉は、何を語るのでしょうか。人は、自分の誓いの誠実さを自ら保証することができません。また、神の名による誓いを自分の目的のために身勝手に乱用する過ちに陥りがちです。さらに、神に対しても人に対しても、自分の都合で然りを否に変え否を然りに捻じ曲げ、状況に合わせるという名目で「然り、否、否、然り」という屈折した道に、すぐにそれてゆきます。ですから、キリストは不用意に誓うことを厳しく戒めておられます。 言葉の真実に幾らかでも近づこうとすれば、然りと否を明らかにする道を探究しなければなりません。その道は、「然り」を「然り」とされたただ一人のお方、イエス・キリストに通じています。人間に対する最後の「否」を十字架で語り、最後の「然り」を復活で完成されたキリストの言葉に養われる人は幸いです。 Mon, 04 Sep 2017 00:10:00 +0000 偽りのない言葉で生きよう(レビ記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170904 no 2017 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 (レビ記19章12節) 言葉を用いて生きる生活の質が、深く問われる時代です。言葉が劣化し、内容のない言葉が氾濫しています。社会生活のすべての領域において、痛切な嘆きと虚しさが、拡散しています。いつの時代、どんな社会でも言葉への問は確かにあったのですが、今の時代は未体験のものだ、とわたしには思われてなりません。 神は、偽りの誓いを憎まれる、と御言葉は教えます。神は創造された世界を、ご自身の聖く正しい言葉で満たすことを願っておられます。神の像に造られた人間が、偽りの言葉、空虚な言葉、欺く言葉で生きることを厭われます。 神の選びを受けた、旧約の民イスラエル、そしてイエス・キリストの教会は、「主の名」をみだりに唱えてはならない、という第三の戒めを、言葉の生活の規範として尊びます。教会は、「わたしは主である」という神の宣言と約束によって生きる民だからです。 兄弟姉妹そして隣人を、偽りの誓い、虚しい言葉で欺くことは、「主」である方への背信です。まことの主であるキリストが、いのちの言葉として世に来られました。この主への愛に生きるため、わたしに聖い言葉を与えてください。 Sun, 03 Sep 2017 00:10:00 +0000 わたしへの言葉(ルカによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170903 no 2017 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 (ルカによる福音書5章4節) 一晩中漁をしても何もとれなかったというむなしさの中で、シモンは舟の上からお語りになる主イエスのすぐ隣にいたにもかかわらず、その御言葉が心に届きませんでした。しかしお話が終わり、主イエスが個人的に「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃったその御言葉に聞き従った時に、驚くべき大漁を経験したのです。一般的な教訓としてではなく、このわたしに語りかけてくださる御言葉に聴き従う時に、人は「先生」ではなく「主」と出会うことができるのです。 この大漁を経験したシモンは「わたしから離れてください」と言いました。神に等しい「主」なるお方の御前に出るにふさわしくない自分自身の罪深さを自覚したからでしょう。しかし主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。自分の罪深さを知り、その罪を赦してくださる主イエスと出会い、その御言葉に聞き従う時に、人は人間をとる漁師となることができるのです。自分の力を頼みとせず主の御力に信頼して、わたしに語られた主の言葉に聞き従い、網を降ろします。 Sat, 02 Sep 2017 00:10:00 +0000 霊と真理をもって礼拝を(ヨハネによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170902 no 2017 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 (ヨハネによる福音書4章23節~24節) サマリア人の女性とキリストとの間で会話が交わされます。この女性にはキリストのおっしゃることが呑み込めません。ただ、キリストが自分の私生活のことを言い当てたとき、長年、心に抱いていた疑問が口をついて出ました。それは、礼拝についての疑問です。自分のことを言い当てた預言者ならきっと答えてくれると思ったのでしょう。 この女性はどんな事情からかは分かりませんが、かつて五人の夫と暮らし、今は新たな男性と同棲生活を送っています。しかし、決して宗教に無頓着だったわけではありません。きっと誰よりも心の虚しさから神を求めていたに違いありません。しかし、先祖伝来の礼拝の持ち方にも心満たされない空虚さを感じていたのでしょう。そこでは、生きた神との出会いを感じることができなかったようです。 生きた神と出会うのは、場所の問題でしょうか。そうではありません。神の霊に導かれ、信頼に値する真理に根ざした礼拝だけが、生きた神との出会いを実現し、渇いた魂を癒やすことができます。イエス・キリストはそのような礼拝へと私たちを導いてくださいます。 Fri, 01 Sep 2017 00:10:00 +0000 この言葉に留意していてください(ペトロの手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170901 no 2017 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。 (ペトロの手紙二1章19節) キリストの再臨の信仰を批判する異端教師がキリスト教会内に入り込み、教会に混乱と分裂を引き起こしたことがあったので、この手紙が書かれました。 「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。…何一つ変わらないではないか」と異端者は、教会に揺さぶりをかけます(3章4節)。そこで、ペトロは、教会に対して終わりの時の審判が確かにあり、異端教師に惑わされることなく、使徒の教えに固く立ち終末の希望を保持するようにと教えます。預言の言葉がいっそう確かなものとなっていると教会に告げます。預言とは、人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものです(1章21節)。 ペトロは、「預言の言葉に留意していてください」と述べます。私たちは、神の言葉が、聖霊の働きにおいて、その通りになっていることを実感して生き、喜びましょう。 母国語で聖書を読める私たちは、画像を通してではなく、神の言葉を味わって食べて生きています。そして、神の言葉を通して喜び、感謝するのが私たちなのです。 Thu, 31 Aug 2017 00:10:00 +0000 主の言葉を聞くことにおいて始まる(ローマの信徒への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170831 no 2017 信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 (ローマの信徒への手紙10章14節、17節) カルヴァンは『キリスト教綱要』で次のように述べています。「わたしは、全く何ひとつの像も許されてはならないと考えるほど、迷信〔的な潔癖感〕にとらわれてはいない。むしろ、彫刻や絵画は神からの贈り物なのであるから、わたしはこれらを純粋に・正当に用いることを要求する」(第1篇、第11章12節)。画像などについて、芸術としては認めると彼は言います。しかし画像(偶像)を拝むべきではないと批判します。 『ハイデルベルク』は、神を拝むことは、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によると告白します。パウロは、信仰とは聞くことであり、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まると述べます。この言葉によれば、神を礼拝するとは、画像を拝むことではなく、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 カルヴァンの宗教改革は、「神の言葉に徹底的に聞くこと」がその主旨です。私たちもこのカルヴァンの信仰を覚え、聖書が語っているように、ただ神の言葉に始まって、神の言葉に聴くという姿勢をもって礼拝に臨み、その姿勢を守り続けていきたいものです。 Wed, 30 Aug 2017 00:10:00 +0000 それでも主に依り頼む(列王記下 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170830 no 2017 (ヒゼキヤは)聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。… 彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。 (列王記下18章4節~5節) 南ユダ王国の中で、好意的に紹介されている王が、ヒゼキヤ王です。ヒゼキヤ王は、預言者イザヤの感化を受け、異教の粛清を行いました(イザ36~39章参照)。その粛清でヒゼキヤ王は、高台を取り除き、石柱を打ち壊して、アシェラ像を切り倒し、モーセの造ったとされる青銅の蛇を打ち砕いたのでした。ヒゼキヤ王は「偶像」を徹底的に打ち壊しました。 さまざまなイスラエルの王が存在した中で、聖書は良い王と悪い王を挙げています。その基準は、ただ一つ、偶像礼拝をしたか、しないかです。そして、ヒゼキヤ王は、偶像を徹底的に打ち壊したゆえに、名君として挙げられているのです。さらに、名君として挙げられた理由は、「彼は、イスラエルの神、主に依り頼んだ」からだと言われています。ヒゼキヤ王は、主に依り頼みました。主の戒めを守り、主の言葉を信じて実行することにおいて主に依り頼みました。 私たちも、異教に囲まれ、偶像の中に生活しながら、それでも主に依り頼む者です。ですから、主の戒めを守り、主の言葉を信じ続け、偶像を避けて生きていきましょう。 Tue, 29 Aug 2017 00:10:00 +0000 私たちは神の子孫ゆえに(使徒言行録 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170829 no 2017 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 (使徒言行録17章29節) パウロは、アテネのアレオパゴスの真ん中に立って大胆に説教をしました(17章22~31節)。パウロはギリシア人に向かって伝道説教をしたのです。ギリシアの人たちの信仰心が厚いことを認めて、彼らを尊敬するという目線で説教をしていきます。 彼らの宗教は「多神教」と呼べるものでした。そこでは、ゼウスという神もあれば、まだ名前も付いていない神々もあり、彼らはそういうものを拝んでいました。パウロはそのことを念頭に置いて、真の神、唯一の神を彼らに紹介します。そして、パウロは「わたしたちは神の子孫なのです」と説教します。ギリシアの人たちも含めて「わたしたち」と述べています。そして、自分たちは神の子孫であるから、神を人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはいけないと説教します。そして復活して生きておられる主イエスのことを語り、説教を終えると、多くの人たちはその場を立ち去ってしまいました。パウロの説教を信じなかったのです。 私たちはこの説教を信じます。生きておられる主イエスに希望を置く私たちは偶像を拝みません。 Mon, 28 Aug 2017 00:10:00 +0000 自らよく注意しなさい(申命記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170828 no 2017 あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。 (申命記4章15節~16節) 十戒の第二戒について、『ハイデルベルク』は、「どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない」(問96の答)ということを教えています。 モーセが十戒を授かったとき、モーセがなかなか山から下りて来ないのを見て、イスラエルの民たちは、アロンと一緒になって金の子牛の像を造り、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えてしまい、神の怒りを招きました(出32章)。 彼らはどのような理由であれ神を形作ってしまったのです。もしかしたら、このとき、彼らは本当に過ちを犯してしまったということがよく分かっていなかったかもしれません。このことから、「あなたたちは自らよく注意しなさい」と聖書は語ります。 私たちは日常の生活において、さまざまな偶像に囲まれていますが、神が命じられた以外の仕方で礼拝をしないように、自らのことを注意しなければなりません。 常日頃から神が私たちに何を望んでおられるか、ということを覚えながら、聖書を読み、偶像礼拝に陥らないように戦いを貫いていきましょう。 Sun, 27 Aug 2017 00:10:00 +0000 地には平和(ルカによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170827 no 2017 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカによる福音書2章14節) 平和の君であるイエスの誕生を告げ知らされたのは羊飼いたちでした。天使は言います。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。社会から除外された存在であった羊飼いたちにとって、この知らせは、どれほど感動と喜びに満ち溢れるものだったことでしょう。真の救い主の御前にあっては、住民登録の数に入れられず、社会から疎外されている自分たちも居場所を持つ存在、つまり神の民の一員であることが示されたのですから。 「地には平和、御心に適う人にあれ」とは、神の限りない豊かな恵みによって地上に平和がもたらされることを布告するものです。人間の罪を贖い、救いと平和の福音をもたらすために主イエスは神の身分でありながら、人としてこの世にお生まれになりました。この方こそ唯一の慰め主であり、希望と平和の源です。 戦争やあらゆる暴力のないという意味での世界平和と聖書が語る神の平和とは同一ではありませんが、神との平和は世界の平和に関わっています。神の御心である平和が地にもなるよう祈りつつ、主イエスの平和を生きる者でありましょう。 Sat, 26 Aug 2017 00:10:00 +0000 おのが腹を神とする(フィリピの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170826 no 2017 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 (フィリピの信徒への手紙3章18節~19節) 偶像礼拝というと、私たちは、ただちに太陽を拝むことや、お金やこの世のものを神のようにして仕えることを思ってしまいます。もちろんそれらも神以外のものを神のごとくみなす点で、確かに偶像崇拝であることには違いありません。しかし、この『ハイデルベルク』問95の答は、神ご自身が御言葉を通してお語りになった以外の仕方で、つまり自分で勝手に考え出したり、造り出したりすることによって、それらを神とみなすことも含められます。 なぜこの第一戒で、偶像崇拝が禁じられているのかというと、それによって神ご自身の栄光を損ねたり歪めたりすることとなり、結局は自分自身が神のごときものとなってしまうからです。それが「おのが腹を神とな」す(文語訳)ことに他なりません。 私たちは、本来神に仕え、神の栄光を現すべき者であるのに、反対に神を自分に仕えさせたり、自分の都合のために利用する便利な道具としてしまったりしています。苦しい時の神頼み的なご利益信仰、わたしは無宗教です、との言い訳も実は、同様なのです。神を中心として生きたく願います。 Fri, 25 Aug 2017 00:10:00 +0000 自分の十字架を担って(マタイによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170825 no 2017 「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 (マタイによる福音書10章38節~39節) わたしは、かつて三浦綾子原作『塩狩峠』の映画を観、大きな衝撃を受けました。人が友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない、ということが主題でした。長野政雄というキリスト者が暴走する列車の下敷きとなり乗客の命を救った実話に基づいた作品です。後に小説も読み、より大きな感銘を受けました。それはまだ求道中であったわたしに受洗を決意させる契機となりました。 あれから40年が経とうとしています。この御言葉の前に立つと、自分というものがどれほど捨てられないのか、また神の栄光を求めるよりも自分の楽しみや思いを優先しているのかを突きつけられます。長崎西坂の26聖人の中で、最年少のルドビコ茨木(12歳)が棄教を懇願する両親に対して「この世の命とあの世の命とを取り替えられませぬ」と証言し賛美しながら天に召された逸話は、いつもわたしに問いかけるものです。 この二つのことをとおして、上記の御言葉をずっと考えさせられています。そのままに求められるなら、わたしは確実に失格でしょう。憐れみ深い救い主イエス・キリストに委ねていくほかありません。 Thu, 24 Aug 2017 00:10:00 +0000 悔い改めの実(ヨハネによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170824 no 2017 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 (ヨハネによる福音書17章3節) 「十戒」は、主に従っていく者の確かな道しるべです。 神の御心を知り、それを大切にして生きることは言うまでもありません。けれどもそこに大きな落とし穴があります。それは、私たちは救われたといえども、なお罪人であるという事実です。この事実を忘れて、もう自分は清い者・正しい者・立派な者だと思うなら悪魔のわなに見事に捉えられてしまいます。晩年のダビデやソロモン、また使徒ペトロも一時そうでした。 かつてわたしが教会に行き始めた頃、クリスチャンの人生は、罪の償いの生涯ではないかと受け止めたことがあります。菊池寛の作品『恩讐の彼方』に強く影響されたのかもしれません。誤って人を殺めた主人公が僧侶となって全国を行脚し、遂に難所の青の洞門を槌で掘り抜いた逸話です。そんな、わたしの信仰を心配した牧師夫人が何度も話し合いの時を持ち、長く丁寧な手紙まで書き送ってくださいました。悔い改めと償いとは全く違うことを学びました。 罪の償いは、主が十字架で既に成し遂げてくださいました。私たちは、主の救いを感謝して受け止めればよいのです。 Wed, 23 Aug 2017 00:10:00 +0000 必要なことはただ一つ(ルカによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170823 no 2017 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10章41節~42節) 主イエスと弟子たちは、ベタニア村のマルタとマリアの家を訪ねられました。 そのときマリアは主の足元に座って、主が語られる話に耳を傾けました。他方マルタは、突然の訪問で、足の汚れを洗う水を汲んだり、食事の用意を整えたりと大忙しでした。それで彼女は、家事を手伝わない妹に腹を立ててしまったのです。そのマルタに対して、主は優しく諭すようにして「必要なことはただ一つだけ」だとおっしゃいました。その一つのことは、主を礼拝することです。 ここではマルタがもてなしたこと自体を非難されたのではありません。しかしそれらが、礼拝することに優先してしまったことに問題がありました。主を礼拝することを横に置いて、他のことにどんなに熱心に取り組んだとしても、それは主の前に意味を失ってしまうことになります。 私たちの人生は、主の日の礼拝の時だけではなく、私たちの人生全体が神を礼拝して生きることに貫かれていることが大事です。あなたは、一体何に心を傾けているでしょうか。そのことを問い返しつつ、きょうの日も主に仕えて歩みませんか。 Tue, 22 Aug 2017 00:10:00 +0000 新しい掟(ルカによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170822 no 2017 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 (ルカによる福音書10章27節) この十戒を使徒ヨハネは、一方で「古い掟」と言い、他方で「新しい掟」と呼んでいます(1ヨハ2章7節)。同じ内容なのに、どうして二通りの仕方で語っているのでしょうか。 確かに十戒は、イスラエルの民がエジプトから脱出した後、シナイ山でモーセを通して与えられたものです。しかし今や、それは新しい掟としてイエス・キリストによって救われた私たちに与えられました。古い掟では、私たちの罪を明らかにし、キリストの救いへと導く養育係としての役目を持っていました。しかし今、私たちはキリストの救いにあずかり、神の子どもとされた救いへの感謝の応答として、この掟を受け取ることがゆるされています。使徒パウロは、そのことを「キリストの律法」と言い換えています(ガラ6章2節)。 昨年、私たちの教会では年間標語として「神を畏れて、互いに仕え合おう」を掲げました。まさにこれは、教会とはいかなるところなのかを的確に示していると思います。主を、畏れをもって礼拝し、愛する兄弟姉妹に仕えて生きる幸いと喜びがきょうも皆さまに豊かにありますように。 Mon, 21 Aug 2017 00:10:00 +0000 神を喜ぶ(申命記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170821 no 2017 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」 (申命記5章6節) 『ハイデルベルク』では、第一戒に序文も含められています。この序文に、主なる神が、十戒をイスラエルの民にお命じになった理由が示されています。 私たちは、ともすると福音(救い)と律法とを対立するものと受け止めがちです。例えば、福音書の中で律法学者やファリサイ派の人が登場してきて、主イエスや弟子たちの言動を非難する場面があります。すると私たちは、彼らを悪役として目の敵にしたりします。もちろん主イエスがしておられる事が正しいのですが、彼らの行動にも訳があります。神が律法をお与えになったのは、イスラエルの民を神を畏れない異邦人から区別するためでした。そのため何が善いことで、何が聖く、何が汚れているのかを信仰教育しようとされたのです。彼らは、それをできる限り守ろうとしました。 私たちは、救われたとは言え、罪を犯す者であり、さまざまな欠けや救いの知識についても不十分さがあります。そのための基準として今日も十戒の果たす役割は大きく、それがないと自分の考えやこの世の考えが基準となってしまいます。 Sun, 20 Aug 2017 00:10:00 +0000 和解の福音(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170820 no 2017 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 (エフェソの信徒への手紙2章14節~16節) ユダヤ人と異邦人との間に「敵意という隔ての壁」がありました。それは異邦人が神の戒めである律法を知らず、割礼の儀式などを実行しなかったからです。それゆえに、ユダヤ人は異邦人を軽蔑していました。 しかしながら、主イエスは十字架を通して敵対する者同士を神のもとに一つに和解させ、敵意を滅ぼし、平和の福音を告げ知らせました。キリストの十字架によって「敵意」が取り除かれたのです。私たちもまた自分とは異なる他者に対して敵対心や敵意を時に抱いてしまうものです。人間の罪深さがそこによく表れていることを認めないわけにはいきません。 聖書が意味する平和とは非常に幅の広い、また含蓄に富むものですが、敵対し、対立しあう者同士の間の「敵意という隔ての壁」が取り除かれること、これが平和という言葉の意味の一つです。私たちが抱くべきは他者に対して寄り添う思い、他者を受容し共感する姿勢、そして隣人愛の実践でありましょう。敵意の壁を壊し、真の平和を実現させるものこそ主イエス・キリストの十字架において示された神の愛なのですから。 Sat, 19 Aug 2017 00:10:00 +0000 神の栄光のために(コリントの信徒への手紙一 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170819 no 2017 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 (コリントの信徒への手紙一10章31節) 神の御心に適う善い行いは、神の恵みに応答したいと願うことから始まります。神が喜んでくださることを願ってすることは、「神の栄光を現す」ことになります。「神の栄光を現す」ことは、飲食だけでなく、キリスト者の全生活においてなされることです。 しかし、これがキリスト者の単なる自己満足や言い訳であってはいけません。何でもない小さな行いが神を思ってなされることもあるでしょう。反対に、善い行いと見えることが、実は自分勝手な動機から生じているかも知れません。 物事を行う動機が、神の喜ばれる信仰的な善い行いかの本質を決定します。「ただ神にのみ栄光あれ」という言葉が動機を見極める鍵であるので、キリスト信仰の一大原理となりました。 「神の栄光」とは、神のすばらしさが輝くことを表します。神が本当に神らしくあられることでもあるでしょう。神が神らしくあられるように、と願うことは、神中心の信仰そのものです。 神を讃えて感謝することは、神に栄光を帰すことですから、その最たる場所は礼拝にあると言えます。新たな思いで明日の礼拝に備えましょう。 Fri, 18 Aug 2017 00:10:00 +0000 神の律法に従い(サムエル記上 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170818 no 2017 サムエルは言った。 「主が喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。 むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。 見よ、聞き従うことはいけにえにまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」 (サムエル記上15章22節) 預言者サムエルは、時の王の信仰の姿勢を峻厳な言葉で正しました。イスラエルの神礼拝では、神の聖さを尊び罪の清めを求め、神と交わることを喜び感謝して、動物犠牲や穀物の供え物が献げられました。しかし、王は本来あるべき献げ物の意味を軽んじて形だけのものとしたのです。ですから、サムエルは、神の教えに従う目的は、心から神に従順になることであると、まっすぐに説きました。 神に従順になるために求められることは、人の思いや考えを優先することなく、神の思いや御心を第一とする、ということを知ることです。 それは神中心の信仰です。しかも、神は徹底して神を第一とすることを求められます。そこでは一切の妥協、あるいは言い訳をゆるさず、ごまかしのない、従順な魂を望まれます。この点について、時代や場所が異なっても一貫して、旧約の預言者たちが不信仰の時代を嘆いて、ただ神に聞け、と大胆に民に悔い改めを迫りました。そして、この神への徹底した従順は、新約にも受け継がれるキリスト信仰の要点です。 神の喜ばれる信仰をいつも自問したいと祈ります。 Thu, 17 Aug 2017 00:10:00 +0000 まことの信仰(ヘブライ人への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170817 no 2017 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。 (ヘブライ人への手紙11章6節) 神の像(かたち)に造られた人間の本来的使命は、神に喜ばれることです。信仰者に対するヘブライ的な称賛の言葉は、「神と共に歩む人」(例えば創5章24節)です。神に喜ばれる人の言い換えでしょう。 神に喜ばれるには、まずその神を信じる信仰がなければなりません。神が生きて存在しておられると信じるから、その神に近づこうとするのです。物理的な距離の問題ではなく、私たちの心や魂が、罪によって神から離れている状態から、神と共にありたいと欲することが「近づく」ことです。私たちが神に近づきたいと欲することは神も望んでくださることです。側に居ると、祈りも耳に届きやすいでしょう。 祈りは一方通行ではなくて神は聞いて答えてくださると信じることが、信仰です。 実際、神は「ご自分を求める者たち」を顧みて「報いてくださる方」です。ヘブライ人への手紙11章6節の「求める」という原文ギリシア語は、「まじめに、熱心に求める」という意味の言葉です。英語の聖書は、たいていその意味が反映されています。 神は、真摯で誠実な信仰を喜ばれる方なのです。 Wed, 16 Aug 2017 00:10:00 +0000 罪赦される救いの喜び(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170816 no 2017 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 (詩編51編10節) 詩編51編の詩人は、罪の汚れを深く自覚し、神の御前に罪の罰を受けた自分自身を「砕かれた骨」と言い表します。しかし、悔い改めた自分が、救いの喜びの声をあげたいと願います。 「喜び祝う」という言葉は、ヘブライ語原文では二つの異なる「喜び」という言葉を重ねています。日本語に直訳すると「わたしに聞かせてください、大きな喜びと、信仰の喜びを」となります。つまり、罪赦され神との交わりが回復されるなら、自分は救われたゆえの大きな喜びと信仰の喜びを、喜ぶにちがいないと言うのです。この短い節には三つ目の「喜び」(動詞「喜ぶ」)があります。この「喜ぶ」を新共同訳聖書は「喜び躍る」と巧く訳しました。なぜなら、この「喜ぶ」というヘブライ語には「積み上げる」や「浮かれて興奮する」という意味が含まれるからです。すなわち、「砕かれた骨」は、一つひとつ積み上げられ再構築されて、躍るほどの「喜び」に満たされるということでしょう。罪を赦し救ってくださった神に対する感謝の喜びです。 救いの恵みに、いつも、いつまでも喜び感謝したいと願います。 Tue, 15 Aug 2017 00:10:00 +0000 罪が何かを知って、次にすること(詩編 51編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170815 no 2017 あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。 (詩編51編5節~6節) 詩編51編には、詩人が、神の御前に罪を犯した後、それを指摘され罪を自覚し、「わたしは主に罪を犯した」と告白した上で、なお、神の憐れみにすがって祈っている姿が描かれています(サム下12章13節)。詩人は、自分の中の罪の根源を直視したからこそ、その罪を自分の力で支配して拭い去ることは難しいと弁え知りました。ですから、「罪は常に(いつも、いつまでも)わたしの前に置かれています」と言ったのです。罪を覆って隠し、見えないところに押しやっても、罪がなくなるわけではありません。それどころか、いつの間にか罪は、人を支配しようと近づきます。しかし、その罪の覆いを取り、自分の前において正視し、罪の汚れを神の視点をもってはっきりと知り、それに翻弄される自分自身を神に告白する。そのとき、神は憐れみによって、悔い改める者を顧みてくださいます。神は、魂を打ち砕かれた者をそのままにされず、罪を心から憎み、捨て去る決心を促してくださるのです。 信仰ゆえに罪に苦しみ泣く者をただ眺めておられる神ではありません。信じて祈るなら、罪を捨て去る力も必ず与えられるに違いありません。 Mon, 14 Aug 2017 00:10:00 +0000 上にあるものを求めなさい(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170814 no 2017 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 (エフェソの信徒への手紙4章22節~24節) キリスト・イエスと出会い、教えられた真理が主イエスご自身の内にあることを学んだのなら(4章21節)、自分の身に起こるはずのことが二つあると聖書は言います。 それは、「古い人を脱ぎ捨て」ることと「新しい人を身に着け」ることです。決して「古い人を脱ぎ捨て」切れずに、残った「古い人」の上に「新しい人」を重ね着するのではありません。「古い人を脱ぎ捨て」た後に「新しい人を身に着け」るので、いっそう主イエスの内にある真理がわかるということでもあります。それらは目に見えて起こるのではなく、内面的な心の変化の現実です。「滅びに向か」う罪の生き方をやめ、キリストに従う生き方に方向転換する者は、「神にかたどられた新しい人」(コロ3章10節では「造り主の姿に倣う新しい人」)として、存在そのものの変容を遂げるといえます。 しかも「心の底から新たにされ」たのだから、「正しく清い生活を送る」ことによって「新しい人」になるのではありません。そうではなくて、「新しい人を身に着け」た人は、結実として「真理に基づいた正しく清い生活を送る」ことが可能となるのです。 Sun, 13 Aug 2017 00:10:00 +0000 捕虜収容所における礼拝と洗礼(コロサイの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170813 no 2017 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 (コロサイの信徒への手紙3章12節~14節) 牧師であったわたしの祖父(片山弘二、享年94)から戦争体験を聞いてきました。祖父はフィリピンで敗戦を迎え、投降し、捕虜収容所に収容されました。クリスチャンであったがゆえに山下奉文大将などの絞首刑に立ち会う経験もしました。収容所では米軍の従軍牧師によって日曜礼拝が行われ、日本人捕虜への伝道もなされました。罪を悔い改めて神を信じ信仰に導かれ受洗に至る者も多くいたと聞いています。戦争中に犯した罪ゆえに神の御前で自己の原罪を深く自覚するに至ったのでしょうか。その一方で、受洗しておけば戦犯裁判において有利な判決が出るという噂から洗礼を受ける者もいたといいます。 互いに敵対して戦った日本人とアメリカ人。捕虜収容所という特異な場における罪の告白と洗礼。受洗者はどのような思いだったのでしょうか。和解には罪の自覚と悔い改め、そして赦しを請うことが前提となります。私たちは主イエスの十字架によって罪赦された者として、その恵みに感謝しつつキリスト者としての和解の務めに励み、戦後世代の平和責任とは何かを考え続けたいと思うのです。 Sat, 12 Aug 2017 00:10:00 +0000 私たちもそのような者でした(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170812 no 2017 知らないのですか。…みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 (コリントの信徒への手紙一6章9節~10節) 「この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただ」きなさい(ロマ12章2節)。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(同12章1節)。 私たちはこの世に染まりやすい者です。以前罪と思われていた行いが、いつの間にか流行になっています。 最大人口約70万人を有した港町コリントには、千人の神殿売春の男女がいたと言われています。町の名前まで不道徳な行いと関連づけられるほどでした。しかし、キリストにおいて希望はいつもあります。この教会にはかつて大変な生き方をして来た人もいました。「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」とあります(1コリ6章11節)。 神の憐れみがなければ、私たちは希望のない罪人です。「みだらな行いを避けなさい」。私たちの体は聖霊の神殿です。代価を払って私たちは買い取られたのです。恵みのゆえにのみ救われた私たちには、神の栄光を現す特権が与えられています。 Fri, 11 Aug 2017 00:10:00 +0000 福音の骨格(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170811 no 2017 あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 (ローマの信徒への手紙6章13節) 信仰によってのみ救われるならば、何をしても良いのか、という疑問が生じます。聖書の答えははっきりしています。そのようなことはありえない。 信仰によってキリストと共に結ばれた者は、キリストと共に葬られ、罪に対して死んだのです。「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。…わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは…もはや罪の奴隷にならないためである」(6章4~6節)と記されています。それにきょうの御言葉が続きます。 天国は無償のプレゼントです。努力の報いとして得ることはできません。人間は罪人であって、自らを救うことができないからです。神は憐れみ深い方で、私たちを裁きたくないのですが、神は義なる方でもあり、罪を裁かなければなりません。神はこの問題を、キリストを通して解決されました。ですから、キリストにのみ救いの根拠と信頼を置く者だけが救われるのです。 恵み・人間・神・キリスト・信仰は福音の骨格です。また真の信仰には善い行いが必ず伴うと聖書は教えています。 Thu, 10 Aug 2017 00:10:00 +0000 救いの確信が与えられるように(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170810 no 2017 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ(ます)。 (ヨハネの手紙一3章14節、21節) 善い行いをして救われるのではありません。信仰プラス・ゼロで、信仰によってのみ救われるのです。その溢れるほどの感謝の思いから善い行いが自然に生じます。そういう意味で、私たちは自分の信仰をその実である善い行いによって自ら確かめるのです。 救いの確信ほど大切なものはありません。罪を犯すと、救いの確信が弱められます。しかし、善い行いによって「自分は救われているのだ」という確信が与えられること自体は自然なことです。ハイデルベルク信仰問答書がドイツで出版された1563年にトリエント公会議が終了し、カトリックの対抗宗教改革が勢いづきました。会議では、信徒が救いの確信を持つのは油断をもたらすので危険であり、救われるために信仰プラスアルファ(善い行い)が必要だとされました。 そのころ、日本は戦国時代、「南蛮人」の宣教師たちの霊性、情熱、慈善活動や病院設立等を見て大勢の日本人がキリシタンになった時代です。しかし、信徒が聖書を読むことは許されていませんでした。 ヨハネの手紙一が書かれたのは読者が神の子としての確信を持てるよう、その幸いに招くためでした。 Wed, 09 Aug 2017 00:10:00 +0000 証し人として生きる(ペトロの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170809 no 2017 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。 (ペトロの手紙一3章1節~2節) 私たちの隣人をキリストに導くために善い行いは不可欠です。私たちは暗闇の中から神の驚くべき光の中へと招き入れられたので(2章9節)、神のすばらしさについて「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使4章20節)。 最高の善い行いの一つは隣人を愛しキリストに導くことでしょう。救いのすばらしさの余り、私たちは証し人として生きずにはいられません。もし私たちが黙っていれば、「石が叫びだす」と主イエスは言われます(ルカ19章40節)。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸」だとパウロが叫びます(1コリ9章16節)。 異教徒は私たちの立派な生き方や行いを見て、神をあがめるようにもなります。無言の行いによってでも、配偶者を信仰に導く特権が与えられています(1ペト3章)。 喜んでいなければ、誰も私たちの持っているものを欲しがりません。自分は罪人の中の最たる者(1テモ1章15節)、神の無条件の愛と選びがなければ、私は救われませんでした。天国は無償のプレゼントです。このように思うと、喜びと平安に溢れた人生に変えられます。感謝です。 Tue, 08 Aug 2017 00:10:00 +0000 悪い木が良い実を結ぶこともできない(ペトロの手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170808 no 2017 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。 (ペトロの手紙二1章10節~11節) 「悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタ7章18節)。救われる前、私たちの古き自我は、神また隣人を愛することができませんでした。しかし、聖霊によって新しく生まれた自分は、神を愛し、また神を礼拝することをも愛しています。神の民も愛することができます。神と隣人に仕えることをも愛することができます。新しい自分が誕生しています。ハレルヤ! 「良い木が悪い実を結ぶこと」(同7章18節)はない。生涯、私たちの神へのささげものは全く不完全なものに過ぎません。しかし、私たちの真実な救い主のゆえ、私たちの不完全なささげものも神に受入れられ、喜ばれるのです。ほっとします。 「さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ」ることができます。一般の信徒は、油断するから、パウロのような特別な聖人以外、救いの確信を持つのは危険だ、と教える教派もあると聞きます。しかし、救いの確信を持つのは当然のこと、信徒の特権であると聖書が教えています。「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」とあります。 Mon, 07 Aug 2017 00:10:00 +0000 全生活全生涯にわたる感謝(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170807 no 2017 「あなたがたは地の塩…世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイによる福音書5章13節~16節) ハイデルベルク信仰問答書の序文のテーマは「ただ一つの慰め」、第一部のは「神の律法によって人間の悲惨を知る」、第二部のは「人間の救いー主イエスによる神の恵み」(使徒信条の解説等)と言えるでしょう。 そして問86から始まる第三部のテーマは「感謝」です。聖霊より新しいいのちが与えられています。全生活全生涯にわたる感謝と服従について学びます。「十戒」と「主の祈り」の解説です。 代価を払って私たちは贖われました。ですから神の栄光を現さざるを得ません。もはや自分自身のものではありません。聖霊が私たちの内に宿っています(1コリ6章)。聖霊を悲しませてはなりません。聖霊によって私たちは「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられて、ますます新しくされ」るのです(コロ3章9、10節、新改訳)。 こんな「土の器」でしかない罪人であっても、神があがめられるということーなんという特権! また右の手のしていることを左の手に知られないようにすること(マタ6章3節)―これは聖霊の仕業のほかありませんですね。 Sun, 06 Aug 2017 00:10:00 +0000 平和を実現する人々(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170806 no 2017 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイによる福音書5章9節) 私たちが主イエス・キリストを模範として歩むとき、それは「平和を実現する人々」としての歩みとなるでしょう。主ご自身がその生涯を通して教え、そして贖いの死を通して私たちを神と和解させてくださり、人間同士の平和の模範を示してくださったからです。主イエスによる贖いの業を通して、私たちには神との平和という関係性をもう一度回復することが許されているのです。主イエスが平和の君と言われる理由です。 困難や絶望や不正義、そして差別や怒りや憎しみが渦巻く状況が現代世界を特徴づけるものであったとしても、主にある希望を語り続けることが重要です。主イエスが死より三日目に復活されたように、平和の芽が萌え出る希望の時を確信しつつ、平和の種を撒き続けましょう。そのためには過去を直視し、学び続けることが大切です。日本のキリスト教会には「聖戦目的完遂」を掲げ、戦争に積極的に協力した歴史があります。キリスト教会の戦争責任の問題も含めて過去の戦争の記憶を継承しつつ、キリスト者としての平和責任を共に果たし、「平和を実現する人々」となろうではありませんか。 Sat, 05 Aug 2017 00:10:00 +0000 一つの群れとなるために(コリントの信徒への手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170805 no 2017 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。…そうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。 (コリントの信徒への手紙二2章7節~11節) 戒規の後、本人の悔い改めが示されたとき、神の家族はどうあるべきでしょうか。 罪の裁きのために用いられた教会会議は、悔い改めた人に対しては、「キリストの前で」(2章10節)、真に赦し、受け入れます。 「キリストによって赦されない罪はなく、癒されない傷もない」(70周年記念宣言)のです。悔い改めが確かなら、今度は、本人が立ち上がるための最善の配慮が教会には求められます。パウロは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけ、愛を確認するようにと勧めます。 教会は罪の赦しの恵みを共に喜び分かち合う神の家族です。このような時こそ、自分も罪赦された者であることを自覚し、赦しの共同体に生きる者として、心から兄弟を受け入れなければなりません。 人を責め、裁くことが得意な私たちです。赦すことが難しい私たちです。キリスト者同士を互いに敵対させ、教会を分裂させようとするのがサタンのやり口です。教会はこれに乗ってはなりません。 赦し合い、愛し合う一つの群れとなれるよう、聖霊の助けをいただけますように。 Fri, 04 Aug 2017 00:10:00 +0000 最も厳しい戒規(コリントの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170804 no 2017 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」 (コリントの信徒への手紙一5章13節) 「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」とあるように、教会は、除名という最も重い戒規を執行しなければならない場合があります。「悪い者」とは、罪の赦しの道を知りながら、大きな罪を悔い改めようとしない者のことです。 除名された人と、その後、どのように関わったらよいのでしょうか。神と教会に立ち帰るよう本人のために祈ることは正しいことです。しかし、御言葉に従わない人に、倣ってはならない、と御言葉は教えます(2テサ3章6、14節)。それは、彼の不潔や汚れを容認したり、悪に引き込まれたりすることのないためです。教会会議の決定をなし崩しにしてしまわないためです。教会はその聖さを保つために、古いパン種を取り除かねばなりません。 それはまた、その人自身のためでもあります。たとえその人の肉が滅ぼされたとしても、真実の悔い改めに導かれ、主の日に彼の霊が救われるためです(1コリ5章5節)。 除名という最も厳しい戒規でさえ、兄弟を罪から救い出し、再び聖徒の交わりに回復するための手立て、霊的訓練なのです。 Thu, 03 Aug 2017 00:10:00 +0000 神の聖さと憐れみのゆえに(マタイによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170803 no 2017 「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。…二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 (マタイによる福音書18章18節~20節) 教会にとって一番大切なこと、それは教会の純潔と平和を増進させることです。教会は、主キリストのご性質と御業、ご意思を反映する主の御体だからです。 しかし、教会は罪赦された罪人の集まりでもあります。私たちは日毎に罪を犯すだけでなく、戒規に該当する罪を犯してしまうこともあります。神の言葉に反する行いと生活によって、神の御心を深く悲しませ、隣人を傷つけ躓かせてしまうことも起こります。 こうした場合、教会は罪の種類と大きさを慎重に判断し、鍵の務めの二つ目である戒規を執行します。戒規には、訓戒、陪餐停止、職務執行停止、免職、除名があります。 兄弟の違反を扱うその会議の中心に、兄弟を贖われた主キリストが「わたしもその中にいる」とおっしゃいます。わたしの正義と聖さを貫き、憐れみと慈しみの愛を示せと主は語られます。 戒規は罪を犯した兄弟を神の家族から締め出すためのものではありません。罪を犯したにもかかわらず愛をもって罰せられない子どもほど惨めで哀れなものはありません。戒規は、神の聖さと憐れみによる霊的訓練なのです。 Wed, 02 Aug 2017 00:10:00 +0000 ただ聖霊によって(ヨハネによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170802 no 2017 彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 (ヨハネによる福音書20章22節~23節) 「あなたがたが赦せば、その罪は赦され…赦さなければ、赦されないまま残る」。これは、私たちの力で罪を勝手に赦すとか、赦さないということではありません。赦されるとするならば神によってのみ赦され、赦されないとするならば、神によって罪はそのまま留まるということです。神だけが罪を赦す権威を持っておられるからです(マコ2章7、10節)。 ここで注意したいのは、主が弟子たちに罪の赦しの権限をお与えになったのは、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われた後だということです。主イエスの罪の赦しの権限を委ねられた教会は、聖霊によって神のみ旨に適う形で罪の赦しと裁きを宣言します。 聖霊が宿ってくださるキリスト者も同じ務めに与ります。私たちの証しと働きを通して、信じて赦される者と、信じないがゆえに赦されない者とが、より分けられます。 主イエスは、今も「平和があるように」と赦しをもたらすために、私たちを世に遣わされます。神との平和を与えてくださる聖霊の御業に、畏れと喜びをもって仕えましょう。 Tue, 01 Aug 2017 00:10:00 +0000 天国の扉を開く福音の説教(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170801 no 2017 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。…御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」 (ヨハネによる福音書3章34節~36節) 天国の扉を開ける鍵の務めの一つは福音の説教です。なぜ福音の説教が天国の扉を開ける鍵となるのでしょう。 福音の説教においてキリストにある罪の赦しが宣言され、神の存在とご性質、御業とご意思が確かに示されるからです。神ご自身が福音の説教を神の言葉として用いてくださるからです。 ですから、これを取り次ぐ福音の説教者の働きは重要です。そして、説教者を通して語られる神の言葉を聴く者には、御子を信じる(従う)か、信じない(従わない)かのどちらを選ぶのかという決断が求められます。罪の赦しの約束を信じる者には天国の扉が開かれますが、信じない者には扉は閉ざされたままです。福音の言葉は、神の言葉を信じない者には神の怒りと刑罰をもたらす裁きの言葉となるのです。「神の怒りがその上にとどまる」からです。 神は、キリストにあって「神と和解させていただきなさい」(2コリ5章20節)、「命を選び…なさい」(申30章19、20節)と招いておられます。従うか従わないかをあやふやにした生き方を捨て、この招きに応えて、福音の説教に生かされて歩もうではありませんか。 Mon, 31 Jul 2017 00:10:00 +0000 天国を開く鍵(マタイによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170731 no 2017 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 (マタイによる福音書16章19節) 『ハイデルベルク』問83はその答で、鍵の務めとは「福音の説教とキリスト教的戒規」であり、これらによって、「天国は信仰者たちには開かれ、不信仰な者たちには閉ざされる」と教えています。「つなぐ」とは、縛る・禁止する、「解く」とは、開放する・許可するという意味です。天国への入国を禁止したり許可したりする権限(鍵の務め)を、主は「わたしの教会」(18節)に授けられたのです。 神に背いた私たちは、天国に入る資格を失いました。それゆえ天国に入るには罪の赦しが必要です。天国の扉を開く鍵、罪の赦しの権限を主はご自分の教会に与えられました。キリストの教会が罪の赦しを宣言するならば、それは天においても有効なのです。 地上の教会で福音を信じ洗礼を受け、罪を赦された人は、天上でも裁かれることはありません。たとえからみつく罪にひと時倒されたり、救いの確信が揺らぐことがあったりしても、主の約束は確かです。 「あなたの罪はゆるされた」と語ってくださる主は、この確かな約束を目に見える教会を通して与えてくださっています。地上の教会に加えられることは、天国に加えられることなのです。 Sun, 30 Jul 2017 00:10:00 +0000 神の命を継いでいく営み(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170730 no 2017 「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 (使徒言行録2章39節) この箇所は、幼児洗礼式で用いられる御言葉です。その親の信仰ゆえに、その子はまだ信仰を言い表すまでに至らなくても契約の子です。幼児洗礼は、神がアブラハムに約束された(創17章)契約信仰の実現の形です。同時に、「神の国はこのような者たちのものである」(マコ10章14節)と祝福して言われた、主イエスによる新しい恵みの契約の表れでもあります。 この時の聴衆は、説教(御言葉と聖霊)に「心を大いに打たれた」人たち(使2章37節)でした。神の扱いを受けて回心した人たち、聖霊の支配の下にある人たちでした。ペトロは、彼らに、この恵みは自分たちだけのものでないことを諭します。 この箇所でひときわ目を引くのは、「この約束は…だれにでも、与えられている」とある一文です。「神である主が招いてくださる者ならだれにでも」、「あなたがたの子供にも」、「遠くにいるすべての人にも」です。 契約の子もまた、聖霊の支配の下に置かれています。ですから、たとえ幼い子であっても、神の命を継ぐ者とされ、命を受け継ぐ営みを既に始めています。 Sat, 29 Jul 2017 00:10:00 +0000 ふさわしさ(コリントの信徒への手紙一 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170729 no 2017 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 (コリントの信徒への手紙一11章27節) カトリック教会はパンをキリストの体そのものと捉えるため、パンに宿るキリストの正しさと人間の罪との間に落差が生じます。それが聖餐の場面での裁きへの恐ろしさとなります。もちろん、聖餐に与る際の人間の状態が軽んじられてしまってはなりません。 しかしカルヴァンは、「ふさわしさ」ということの議論を、全く神中心的に展開します。カルヴァンによれば、「ふさわしさ」の追求は人間には不可能なことでした。また、神は信仰の弱い者を強めるために聖餐を定めてくださったので、自らの弱さを理由に聖餐を拒否するとしたら、神への侮辱になると考えました。 難しい問題ですが、自分が正しくなったら聖餐に与ることができ、強くなれば「ふさわしく」なれるということではありません。弱さと病を抱えた私たちは、自己の力ではいかんともし難い罪人であることを認め、そこからの救いを求め願います。その時の悔い改めこそが、神の救いに値する「ふさわしさ」となるのです。 神が、今を生きる私たちそれぞれの必要に全く適った救いと赦しを与えてくださいますように。 Fri, 28 Jul 2017 00:10:00 +0000 招かれざる者はいない(コリントの信徒への手紙一 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170728 no 2017 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。…」と言われました。 (コリントの信徒への手紙一11章23節~24節) 『ハイデルベルク』問81は「どのような人が、主の食卓に来るべきですか」と問うています。実際に主イエスの聖餐の食卓に与ったのは、どのような人びとだったのでしょうか。それは「引き渡される夜」に起こりました。つまり主イエスは、もうすぐこの後に弟子に裏切られ、敵に引き渡されることを知りながら、その弟子たちを招いて、主の晩餐を催してくださったのです。主イエスの周りにいたのは、主イエスを金で売ってしまうユダであり、次の朝には三度も主イエスのことを知らないと言い切って、裏切ってしまうペトロたちでした。しかし主イエスは彼らの裏切りに先駆けて、彼らが赦される道を、主の晩餐とそれが示す十字架とによって開いてくださったのです。 主イエスは「わたしの記念としてこのように行いなさい」とも言われました。主の晩餐は、今を生きるこの私たちに対してこそ差し向けられている、継続的に効力を発揮する記念の行為です。なぜなら十字架で流された主イエスの血と裂かれた肉は、正しい者のためのものではなく、この私たちのような罪人をこそ、救い、赦すためのものだからです。 Thu, 27 Jul 2017 00:10:00 +0000 天に本国を置く私たち(フィリピの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170727 no 2017 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 (フィリピの信徒への手紙3章20節) 言葉の通じない外国に行くことは心細いことで、わたしはインド旅行で不安を経験しましたが、その時の頼みの綱は、在印日本大使館に勤務していた知人の電話番号でした。普段は特別意識しないことなのですが、何が最終的に自分を助けてくれて、どこの誰が自分の味方となり、責任を持って守り、自分の居場所と身分を保証してくれるのかというと、それはやはり自分が属する国なのです。 『リジョイス』の読者は日本人が多いでしょうし、この手紙を書き記したパウロはユダヤ人でした。しかし、地上の国家的所属を超えて、信仰者は天国に国籍を持っているとパウロは語ります。そして私たちの本国が天にあるということは、私たちが危機に瀕した時の最終的な身分を保証し、最終的に私たちの身元を引き受け、その生活と命の安全を保証してくれるのが、その天の国でありそこにおられる神だということです。 聖餐式は私たちの身分と存在の証明として、私たちは誰なのか、どこに所属し、誰に守られて生きる者であるのかを、ありありと示してくれます。きょうも私たちは天の本国に属し、守られています。 Wed, 26 Jul 2017 00:10:00 +0000 神を宝とする(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170726 no 2017 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」 (マタイによる福音書6章21節~23節) なぜ私たちは、世の富に惹かれるのでしょうか?それは、世の富には力があるからです。自分で富をコントロールすることができると考えますが、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とあるように、逆に富の方に支配されてしまう弱さが私たちにはあります。ですから何を宝とするのかということが、私たちを左右します。 私たちは、神を宝とすることで、正しく神によって支配される人生を歩みます。実に、これほど私たちを生かし、富ませてくれる生き方は他にありません。神を自らの宝としても、金銭的な富を謳歌する人生には直接結び付かないかもしれませんが、そこには神に愛される人生が存在します。私たちが神を自分の宝とするはるか以前から、神は、私たちを愛しご自身の宝物とし、神の愛を必ず悟らせてくださいます。 神を宝として歩む人は、神に守られ、心も顔も素振りもその全身が明るくなります。心が暗くなり、沈み込むこともありますが、聖餐にあずかるとき、キリストの愛に養われている自分を見出します。キリストを見る心の目が開かれている人は、幸いです。 Tue, 25 Jul 2017 00:10:00 +0000 天におられる弁護者(使徒言行録 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170725 no 2017 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 (使徒言行録7章55節~56節) 聖餐式は天におられる主イエスとの結び付きを確認する礼典です。ステファノは殉教の場面で天におられる主イエスが「見える」と言いました。主イエスが神の右に「立つ」という言葉は聖書の中でここだけにしか使われておらず、しかも繰り返されています。 主イエスはルカによる福音書12章8節で、「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とも語られていますので、これは天の法廷で、主イエスがステファノの弁護者として、立ちあがって裁判を行ってくださっている場面だと解釈することができます。この時ステファノは不当な裁判にかけられ、石打ちの刑によってまさに殺されようとしていましたが、同時に天の法廷では、主イエスが立って自分を弁護してくださっているのが見えたのかもしれません。その主イエスの様子が見えたことによって、彼は勇敢さを得ました。きょうもあなたのためにも、主イエスは立って無罪を勝ち取ってくださる。私たちはその主イエスと結ばれています。 Mon, 24 Jul 2017 00:10:00 +0000 成し遂げられた(ヨハネによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170724 no 2017 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 (ヨハネによる福音書19章30節) 主イエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。この言葉を語られる直前、主イエスは十字架の上で、「渇く」と言われました。それは、わたしは干上がったという言葉です。なぜか?それは、注ぎ切ったからです。泉のように主イエスの内側に潤っていた命の水は、十字架の上で注ぎ切られ、主イエスはカラカラになられました。その命の水の、最後の一滴が注ぎ切られたという完了の合図が、「成し遂げられた」という言葉だったのです。では、その主イエスの命の潤いは、どこに向かって注ぎ切られたのでしょうか? 『ハイデルベルク』は、「教皇のミサ」という言葉に、私たち自身が自分の救いを成し遂げるという自力救済の救いを読み取ったうえで、それを否定しています。 主イエスは「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」とも言われました。十字架の犠牲と死は、私たちの救いのために「成し遂げられた」主イエスからの命の贈り物です。自力でではなく、その命をただ主イエスからいただくことで、私たちは救われ生きるのです。 Sun, 23 Jul 2017 00:10:00 +0000 新しい契約(ルカによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170723 no 2017 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 (ルカによる福音書22章20節) 古い契約(旧約)の時代と違い、新しい契約(新約)に生きる私たちには、救い主がはっきりと示されています。救い主が、今や礼拝の中で、特に説教と聖礼典を通して生き生きと示されることにより、契約の民としての営みがいよいよ新しくされていきます。 きょうの箇所で主イエスは、この後裏切ることとなるペトロとも新しい契約を交わされました。この後31節で、主イエスはペトロが三度ご自身を否定すること、信仰が無くなる程の事態に陥ることを予告され、その上で「立ち直ったら兄弟たちを力づけるように」と言われています。そして後にすべてを知ったペトロは「激しく泣」くこととなるのです(62節)。 私たちも、罪を犯した、と後から気付かされることがあります。しかし、既にこの御言葉が与えられていました。すべてを承知の上でご自身を提供してくださる方は、私たちの罪をも担い、十字架へと向かわれたのです。この方が、「新しい契約である」と私たちに今語られ、杯を差し出してくださる。ここに契約の民としての喜びと神の恩恵とを見ます。この恵みを契約の子らに譲り渡してゆきましょう。 Sat, 22 Jul 2017 00:10:00 +0000 キリストに接ぎ木される神秘と生命(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170722 no 2017 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。 (ローマの信徒への手紙6章6節~7節) 主イエスは最後の晩餐で、御父を「農夫」、ご自身を「まことのぶどうの木」、弟子たちを「その枝」に譬え、枝が豊かな実を結ぶよう「わたしにつながっていなさい」とお命じになりました(ヨハ15章4節)。キリストと信徒たちは、実りを共有する生命共同体です。しかしこの絆は、初めからあったのではなく、あの十字架において結ばれたのです。 使徒パウロは、キリストを「オリーブの木」、ユダヤ人を「栽培された枝」、我ら異邦人を「野生の枝」に譬えました。野生の枝が接ぎ木され、栽培された枝が一度は折り取られても再び接ぎ木されて、一つの生命共同体になると教えました(ロマ11章17節以下)。命の絆は、枝を剪定して接ぎ木する農夫の業、すなわち神の選びと召しにかかっています。 神によって我らがキリストに接ぎ木され、その死のかたちに似せられるなら、その復活のかたちにも似せられます(同6章5節)。この神秘の決定的なしるしこそ洗礼であり、その生命の持続的な保証こそ聖餐です。 洗礼を受けた私たちは、キリストに結びあわされているがゆえに、十字架と復活のキリストの養いに常に与ります。 Fri, 21 Jul 2017 00:10:00 +0000 キリストの血と体による交わり(コリントの信徒への手紙一 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170721 no 2017 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。 (コリントの信徒への手紙一10章16節~17節) パウロは、コリント教会で聖餐を執行しているかのように、「賛美の杯」を語ります。ユダヤの習慣では、食事の最後に飲むブドウ酒を賛美の杯、あるいは「祝福の杯」と呼びました。 キリストが最後の晩餐のあるじとして過越の食事にふるまわれたブドウ酒は、「キリストのまことの血」による交わりによって、人が罪を赦され、神との和解に入れられる「祝福のしるし」でした。ゆえに、憐れみ深い神への「賛美の杯」と呼ぶことは、聖餐のブドウ酒にふさわしい。 このようなキリストとの交わりは、キリスト者相互の交わりへと拡がります。一つのパンを裂いて、すべてのキリスト者が分かち合う聖餐の食べ方は、「キリストのまことの体」による交わりにおいて、教会の本質である「聖徒の交わり」を表します。 我らはひとつの聖霊に満たされ、ひとつの洗礼を受け、ひとつのパンから食べ、ひとつの杯から飲み、ひとつの信仰に立って、ひとつの希望を分かち、ひとつの愛に生きる。ゆえに「キリストの共同体」と呼ぶことは、聖徒の交わりにふさわしい。 Thu, 20 Jul 2017 00:10:00 +0000 天からの生きたパンは命の養い(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170720 no 2017 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 (ヨハネによる福音書6章51節) ヨハネが伝える主イエスの福音は、給食の奇跡と、贖いの死と、聖餐の教えとが混ざり合っています。 主イエスが与える食べ物とは「永遠の命に至る食べ物」、すなわち主イエスの御父が与える「天からのまことのパン」です。人々の霊的な飢え渇きを永続的に満たし得る「いのちのパン」とは、「天から降ってきた生きたパン」すなわち主イエスご自身のことです。 主イエスのもとに来て、イエスを信じた者に与えられる「命の糧」となるために、「天からのパン」は、この地で裂かれねばなりませんでした。主イエスの体が裂かれる贖いの死によってのみ、「聖餐のパン」は信者の「魂のまことの食べ物」となります。聖餐式は、ただ一度の十字架の犠牲を想起して、感謝をささげる礼典です。 パンが人間の体を養うように、裂かれたキリストの体が信者の魂を養います。ただ信仰をもってキリストの苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命を受け取るのです。 御父よ、あなたからの命のパンを食べさせ、生ける神のことばを聴かせ、我らの魂を永遠に養いたまえ。 Wed, 19 Jul 2017 00:10:00 +0000 裂かれたパンは主の体の目印(マタイによる福音書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170719 no 2017 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイによる福音書26章26節) キリストが弟子たちに準備させた過越の食事には、律法に従って酵母を入れないパンがありました。当時の過越祭で、実際に小羊の血が家の入口に塗られていたかどうかは、定かではありません。しかし、血が塗られていなくても、過越祭の食事において、血は想起されていたことでしょう。 主は、その食卓でパンを裂いて弟子たちに与え、「これはわたしの体である」と言われました。裂かれたパンは、十字架で引き裂かれるご自身の体を指していたのです。キリストはご自分が「過越の小羊」であることを示されました。キリストと弟子たちの最後の晩餐は、新しい霊的な意味で過越の食事であり、新しい契約における最初の聖餐でした。 聖餐式で、パンがわたしとあなたのために裂かれるのを目で見るのと同じくらい確かに、キリストの体があなたとわたしのために十字架上でささげられ、裂かれました。司式者がパンを裂くのを見て、十字架上のキリストの体を想起し、パンを食べ、キリストの贖いの恵みを自分の体で受け止めます。聖別されたパンは、礼典的一致においてキリストの体であり、パンに与り、キリストの体に与ります。 Tue, 18 Jul 2017 00:10:00 +0000 礼典の方法としての過越(出エジプト記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170718 no 2017 「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」 (出エジプト記12章13節) きょうは、昨日の続きです。礼典の方法に思いを向けます。 主は、モーセを通して、イスラエル全会衆の清めと贖いのために過越祭をお定めになりました。毎年正月祭日の夕暮れ、家毎に傷のない小羊を屠り、小羊の血を家の入口の門柱と鴨居に塗り、小羊の肉を焼いて食べ、種入れぬパンに苦菜を添えて食べます。苦菜はエジプトでの苦難を、種入れぬパンは腐敗しない共同体を、小羊の肉は霊的滋養を意味しました。過越祭の儀式は、家に塗られた血をご覧になった主がその家を過ぎ越し、その家の者たちの災いと滅びを容赦なさった、歴史的出来事を想起するための「旧約の礼典の方法」でした。 主イエスは過越祭に、最後の晩餐のあるじとしてパンを裂き、それを「わたしの体」と呼んで弟子たちに与え、またブドウ酒の杯を取り、それを「わたしの血による新しい契約である」とおっしゃって兄弟たちに渡しました。その直後、受難の僕イエスは体を裂かれ、血を流されたのです。十字架のキリストこそ、世の罪を取り除く神の小羊でありました。この終末的出来事を想起する聖餐こそ「新約の礼典の方法」です。 Mon, 17 Jul 2017 00:10:00 +0000 礼典の性格としての契約(創世記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170717 no 2017 「わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」 (創世記17章10節~11節) 『ハイデルベルク』問78の答に、聖なるパンは「キリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれ」とあります。 割礼は、生後8日目の男子の生殖器官に付けられる切り傷のことです。他民族の割礼の目的は種族の存続です。神の民の割礼は、神がアブラハムとその子孫を祝福してくださるという永遠の契約のしるし、つまり、子孫に対して神の契約が結ばれているという見えるしるしです。肉の割礼には、祝福への感謝、契約への信頼、神の民としての献身という、心の割礼が伴います。これが「旧約の礼典の性格」でした。 神の御子イエスは、アブラハムの子孫として肉に割礼を帯び、真の人として心の割礼にふさわしい従順を全うされました。罪なきキリストは、ひたすら罪ある人間のために受難と復活を遂げ、主の名にふさわしい天の王座に挙げられるとき、弟子たちに洗礼をお命じになりました。「洗礼の水」は「キリストの血」と目され、「罪の洗い清め」という見えない神の約束の見えるしるしとなりました。水の洗礼には、心の洗礼すなわち信仰告白が伴います。これが「新約の礼典の性格」です。 Sun, 16 Jul 2017 00:10:00 +0000 幾千代にも及ぶ慈しみ(出エジプト記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170716 no 2017 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」 (出エジプト記20章2節) 聖書が教える「契約」は、神が結んでくださるからこそ成立します。ここに聖書の「契約」における、神の恩恵性と主権性を見て取れます。永遠なる方が一度口にされた言葉は必ず成ります。ですから、契約は成立しますが、私たちの側に成立の根拠はありません。 十戒の冒頭で、神は「あなたの神」だと言われます。また、「わたしは主」、これまでのあなたの人生を導いてきた、と言われます。この「わたしは主、あなたの神」との二度繰り返しは、強調です。私たちは、この神の恵みと選びのもとに生かされていますことを、感謝せざるを得ません。その上で、この律法を、愛をもって守るよう言われるのです(20章6節)。 一人の小さく欠けある者が、神の愛を受け、神の恵みと選びを知り、感謝と喜びの中で、律法を守る生活へと向かいます。その時に、神は幾千代にも及ぶ慈しみをお与えくださいます。このことを神が約束してくださいました。自分のことだけでなく、これからの子々孫々のことまでも約束してくださいました。そしてこのことは神のゆえに必ず果たされます。これほど喜ばしいことがありましょうか。 Sat, 15 Jul 2017 00:10:00 +0000 主イエスが定められた聖餐式(コロサイの信徒への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170715 no 2017 主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 (コロサイの信徒への手紙11章23節~24節) 聖礼典とは、イエス・キリストの十字架の犠牲のゆえに、神が恵みによって、罪の赦しと永遠の命を与えてくださるという「福音の約束」を、よりよく「理解させ、封印」するものです(『ハイデルベルク』問66の答)。聖礼典は、神が制定されたものです。それゆえ、聖書の中に、制定の言葉を見出すことができるものでなければなりません。教会が聖礼典を制定する権威を持つのではありません。聖礼典を定め、その執行によって、確かに神の民に恵みを与えられる権利と権威は、ただ神のみが所有しておられるのです。 マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、いずれも最後の晩餐の場面を描いています。 パウロはコリントの信徒への手紙一の11章23節以下で、聖餐式を行うようにという命令を、主イエスご自身から受けたことを明言しています。主イエスは、パンとブドウ酒を配られる際、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられました。それゆえ私たちは、主イエスの命令に従って聖餐式を行います。そして私たちは「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。 Fri, 14 Jul 2017 00:10:00 +0000 上にあるものを求めなさい(コロサイの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170714 no 2017 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 (コロサイの信徒への手紙3章1節) 死者の中から復活されたイエス・キリストは、天に上げられました(使1章9節)。イエス・キリストは今、父なる神の右の座に着いておられます。では、主イエスが「天におられ、わたしたちは地にいるにもかかわらず」、私たちはいかにして主の「御体といよいよ一つにされてゆく」ことができるのでしょうか。 天と地の隔たりを結びつけることができるのは、ただ聖霊の働きによります。十字架と復活による福音の恵みを、天上のキリストから地上の私たちに運ぶのは、聖霊の御業です。 キリストは聖霊において、私たちの内に住まわれます。そして、アダムが自分の骨から造られたエバを見て「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創2章23節)と呼んだように、私たちは主の「骨の骨、肉の肉」となるよう、キリストの体に結びあわされているのです(『ハイデルベルク』問76の答)。 教会はキリストの体です。そして私たちはその部分です。私たちはキリストの復活の命を共有し、「一つの御霊によって永遠に生かされ」ています。それゆえ、私たちは地上に生きつつも、いつも「上にあるものを求め」て歩みます。 Thu, 13 Jul 2017 00:10:00 +0000 いよいよ一つにされていく(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170713 no 2017 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 (ヨハネによる福音書6章55節~56節) 私たちは毎日食事を摂ります。食べた物は、自分の体の中に取り入れられていきます。食べ物が自分自身のものとなっていくのです。イエス・キリストは、ご自身の肉と血をまことの食べ物・飲み物と言われました。それゆえそれを食べ、飲む者は、主イエスと一つにされていくのです。 『ハイデルベルク』問76の答は、聖餐の祝福について「聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく」ことだと記しています。キリスト者は、聖霊によってイエス・キリストと結びつき、罪を赦されて義とされ、神の子とされます。その意味で、キリスト者はすでにイエス・キリストと一つにされていると言えます。しかし、ここでの強調点は「いよいよ一つにされてゆく」点にあります。これは聖霊の働きによる成長を言っています。 父なる神は、私たちの罪を赦して義とし、神の子としてくださいました。神は父として、子を養い育ててくださいます。父なる神が、神の子たちにふるまってくださる食事が主の晩餐です。聖餐にあずかることよって、私たちはイエス・キリストと「いよいよ一つにされてゆく」のです。 Wed, 12 Jul 2017 00:10:00 +0000 信仰の心をもって聖餐にあずかる(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170712 no 2017 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 (ヨハネによる福音書6:51) イエス・キリストは「天から降って来た生きたパン」であり、それを食べた人は「永遠に生きる」ことができます。イエス・キリストは真の命を与える方です。その命を保証するために、主によって定められたのが聖餐式です。 では私たちは、どのように聖餐にあずかったらよいのでしょうか。『ハイデルベルク』問76の答は「信仰の心をもって」受け入れる必要があると教えています。聖餐式で用いられるパンとブドウ酒は、あくまでもパンとブドウ酒です。その実体は変わりません。それゆえ、信仰なしにこれにあずかってもそれは無益です。主イエスの十字架の死を自らの贖いとして受け入れる信仰がなければなりません。 ただし、あずかる人の信仰の力によって、聖餐が有効になるのではありません。聖餐が現実に恵み深いものとなるのは聖霊の働きによります。信仰の心をもって聖餐にあずかるとき、聖霊が現実に働いて、私たちが「罪の赦しと永遠の命」にあずかっていることを確証してくださるのです。まさに主イエスが言われた「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」ことが現実となるのです。 Tue, 11 Jul 2017 00:10:00 +0000 確実な恵みにあずかる(マタイによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170711 no 2017 「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」 (マタイによる福音書14章22節~24節) イエス・キリストは、十字架につけられる前の夜に聖餐式を制定されました。聖礼典は「目に見える聖なるしるし」であって、「神は、その執行を通して、福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、封印」なさいます(『ハイデルベルク』問66の答)。すなわち、パンとブドウ酒という物質を用いて執行されるという感覚的な確実性において、それにあずかる者に確実な霊的祝福を与えるものです。 聖餐式において私たちは、十字架につけられたキリストの体と流された血を指し示すパンとブドウ酒をいただきます。司式者の手から受け、実際に食べ飲むのです。それを私たちは感覚的に感じ取ることができます。口から入り、食道を下ってお腹に入っていく。その感覚的しるしの確実さが、霊的祝福の確実さになるのです。聖霊の働きによって、それが現実になります。 主イエスは、福音の約束を保証するために、聖餐式を制定してくださいました。「確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる」(『ハイデルベルク』問75の答)ためです。それゆえ私たちは、聖餐式にあずかることを本当に大切にする必要があるのです。 Mon, 10 Jul 2017 00:10:00 +0000 わたしのための主の十字架(マタイによる福音書 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170710 no 2017 「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」 (マタイによる福音書26章26節~28節) 最後の晩餐において、イエス・キリストは、パンを裂き、それを弟子たちに与え、更にブドウ酒の杯を取って、弟子たちに与えられました。主イエスの制定によって、私たちは今日も聖餐式を守っています。 パンとブドウ酒は、地上的なものです。これに対して、キリストの十字架による罪の赦しと永遠の命は、霊的なことです。両者は別々のものです。しかし、神の約束の言葉と聖霊の働きによって、両者は関連づけられるのです。 聖餐式において、確実に霊的祝福にあずかることができることを、私たちはどのようにして知るのでしょうか。『ハイデルベルク』問75の答は、「わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である」と述べています。すなわち、パンとブドウ酒を私たちが「見る」のが確実であるように、キリストの体が「わたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された」ことは確実なのです。 それゆえに、主イエスは聖餐式ごとに「取って食べなさい」「皆、この杯から飲みなさい」と私たちを大いなる祝福へと招いておられます。 Sun, 09 Jul 2017 00:10:00 +0000 同じ御言葉によって養われる(創世記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170709 no 2017 「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。…地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 (創世記22章17節~18節) この「あなたを祝福し、あなたを増やす。諸国民の父とする」という内容のことは、神が既にアブラハムに何度か約束しておられたことです(17章他)。アブラハムはこの神の言葉に聞き従ったのです。それゆえに彼は全き者・完全な者と言われました。このように信じ従う者を神は義とし、さらに豊かに祝福してくださいます。 契約の民は、いついかなる時にも御言葉に聞く民です。私たちも苦難に出会う時がありますが、だからこそ神は、常に従ったアブラハムに、祝福と子々孫々の繁栄を約束されたのだと思うのです。 やがてこの御言葉は、子孫であるイサクとヤコブにも約束されます(26章4節、28章13、14節)。神はこのようにして、父祖に約束された御言葉を、世代を超えた私たちにも語りかけることで、従順を求めておられます。 時代は違うけれども同じ御言葉によって養われる。これこそ神の子としての祝福であり、永遠の契約に入れられている者のみが味わうことのできる特権の一つです。私たちは、この特権をこの時代にあって味わっているのです。 Sat, 08 Jul 2017 00:10:00 +0000 神は家族をも恵みの中に(使徒言行録 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170708 no 2017 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」…看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。 (使徒言行録16章31節~33節) クリスチャンの中でも信仰とは個人的なもの、その恵みも信じるその人に限られたものと考えがちです。しかし、神は旧約の時代においてはもちろん、新約の時代においてもイエス・キリストを信じるその人だけではなく、その家族をも視野に入れて、「聖なる者」としてご自身のものとして祝福してくださる神です(1コリ7章14節)。特に、家族の中で自分ひとりだけがクリスチャンという方はそのことを知る必要があります。イエス・キリストにおいてご自身を示された神の恵みはそれほど大きいのです。 神は、イエス・キリストを信じる私たちと私たちの子どもの神ともなってくださると約束されました。ですから、教会はその神に心から感謝して信者の子どもたちにも洗礼を授けます。また、信者は教会に自分の子どもに「幼児洗礼」を授けることを願い出る権利を持っています。そして、教会は、神の契約を信じ、子どもをどのように養い、育てるべきかを親に勧告し、親と共に育てる責任を担います。 主イエスを信じるとは、家族の救いをも信じることで、教会と一緒にそのために祈り続けることです。 Fri, 07 Jul 2017 00:10:00 +0000 神の契約とイエス・キリストの福音(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170707 no 2017 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 (ガラテヤの信徒への手紙3章29節) 神が御子イエス・キリストにおいて信じる人との間に立てられる(新しい)契約の内容は、旧い契約と異なるものであったのでしょうか。 キリストを信じた人々について、パウロは「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と言っています。パウロは、神がイエス・キリストを信じる人に与える中心的な恵みは、旧約のそれと同じであることを教えています。 それで、『ハイデルベルク』問74の答は、信者の子どもたちも「大人と同様に神の契約とその民に属しており」、とか「彼らもまた、契約のしるしとしての洗礼を通して…未信者の子供たちとは区別されるべきです」と言っています(コロ2章11、12節)。 神は、イエス・キリストを信じる人々にも、きょう、「わたしはあなたとあなたの子孫の神である」と語ってくださいます。契約の子どもたちに対して、神はいつも味方です。ですから、私たちは、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ロマ8章31節)と喜びの声を上げるのです。 Thu, 06 Jul 2017 00:10:00 +0000 神は契約に忠実(イザヤ書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170706 no 2017 そして今、わたしの僕ヤコブよ わたしの選んだイスラエルよ、聞け。 … あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。 (イザヤ書44章1節~3節) 神は、アブラハムとの間に立てられた契約に常に忠実です。神は、その子孫の神として子孫を祝福し、導いておられます。これこそ、旧約聖書全体が告げていることです。 その一方、アブラハムの子孫であるイスラエルは神に背信を重ねました。神は預言者たちの口を通してイスラエルに厳しい言葉を発せられました。それは、神の民とされたイスラエルが神との契約を無視し続けたからであり、かつ、神がそのことを放置できなかったからです。 しかし、神はご自身がアブラハムとの間に立てられた契約のゆえに、その彼らに神に立ち帰るように語り、忍耐強く導いて来られました。そして神は、彼らを外国の手による捕囚という苦しい経験をさせるのですが、その民にも、「あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、わたしはあなたの末にわたしの祝福を与える」と契約の更新を約束されたのです(参照エレ31章31~34節、32章36~40節)。 その同じ神が、イエス・キリストを遣わされて「新しい契約」を立て、いまは、主イエスを信じる人々とその子どもたちの神となってくださっているのです。 Wed, 05 Jul 2017 00:10:00 +0000 人間と契約を立てられる神(創世記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170705 no 2017 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 (創世記17章:7節) 信者の子に洗礼を授ける幼児洗礼は、聖書の契約理解と深い関係があります。神が人との間に結ばれる(正確には、「立てる」)旧い契約と新しい契約との関係、さらに、イエス・キリストの福音をどう理解するのか、これらが幼児洗礼で問われています。四回連続で、考えて参ります。 神は、ご自身の言葉を信じて従ったアブラハムを義とされ、彼との間に契約を立てられて、「あなたとあなたの子孫の神となる」と約束されました。神は、その契約のしるしとしてアブラハムの家系に生まれた男の子に割礼を施すようにと命じられました(17章9~14節)。そして、モーセに導かれてきたシナイで、神がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルと立てられた契約は、アブラハムとの間に立てられた契約の更新でした(出20章2節)。 神はイスラエルに「父母を敬え」という戒めを授け、また過越の祭やその他の機会に彼らの子どもたちに神のことを、特に神の救いの業を教えるように命じられました(同12章24~27節、申6章20~25節)。神をアブラハムの子孫の神として理解することが、幼児洗礼を理解する出発点です。 Tue, 04 Jul 2017 00:10:00 +0000 聖霊が新たに造りかえてくださる(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170704 no 2017 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。…あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 (コリントの信徒への手紙一6章9節~11節) 主イエスは、ご自身を信じる人皆に聖霊を与えると約束されました(ヨハ14章15~17節、使2章38、39節など)。聖霊は、イエス・キリストが十字架で血を流されたことによる罪の清めを、信じる人びとにあてはめてくださって、確かに罪は赦されたと証印してくださいます(2コリ1章22節、エフェ1章13、14節)。そのことを目に見える形で「保証」するために、神は洗礼を定められました。 さらにまた、その聖霊は信じる人びとを新しく生まれさせ、新たに造りかえてくださいます(テト3章5、6節、2コリ3章18節)。聖霊が働いてくださることを、洗礼は見える形で表しています。 ですから、『ハイデルベルク』問73は、「洗礼を『新たに造りかえる洗い』とか『罪の洗い清め』と呼」ぶお方は聖霊であると語っています。答において、霊的なことを「わたしたちに教えようとしておられる」このお方とは、聖霊のことです。そして、「ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように」、「わたしたちが現実の水で洗われるように」と感覚的な水の洗いにおいて、実際に働いてくださるお方こそが聖霊です。 Mon, 03 Jul 2017 00:10:00 +0000 御子イエスの血が罪を清める(ヨハネの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170703 no 2017 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 (ヨハネの手紙一1章7節) 『ハイデルベルク』が洗礼について教えるところでこのような問いがあるのには、特別な時代背景があります。当時のローマ・カトリック教会は、司祭によって執行される洗礼の水そのものが自動的に洗礼を授けられる人の罪を洗い清めると、教えていました。ですから、『ハイデルベルク』は、その教えを聖書の教えではないと否定して、次のように言います。「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです」。 旧約の時代、神はご自身の民イスラエルに「罪の献げ物」の規定を与えられました(レビ4章1節以下)。そして神は、献げ物を献げたその人の罪が「罪の献げ物」の流す血によって清められたということを、示されました(同17章11節)。 新約の時代、神はイエス・キリストが十字架の上で死んで血を流されたことによって、信じる人の罪を清めて、聖としてくださいます(ヘブ9章11~14節など)。そして神は、洗礼という「外的な水の洗い」という目に見える形、体感できる形で、洗礼を受ける者は罪から清められ、聖とされたことを、証印してくださるのです。 Sun, 02 Jul 2017 00:10:00 +0000 産めよ、増えよ、地に満ちよ(創世記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170702 no 2017 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 あなたたちは産めよ、増えよ 地に群がり、地に増えよ。」 (創世記9章1節、7節) 聖書に「契約」という言葉が出て来るのは、ノアの箱舟物語(6章)が最初です。そのエンディングである9章では何度も用いられます。神はノアに、念を押すように祝福を約束されています。 神は世の初めから、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉で契約の民を祝福してくださっていました(1章28節)。しかし、その後神は、地上に人の悪が増している様子をご覧になり、非常に後悔されました(6章5~7節)。洪水のあと、神は、人が心に思うことは、幼いときから悪いけれども、生き物を打つことは二度とすまい、とおっしゃって(8章21節)、もう一度この言葉を述べて、祝福がいつまでも続くようにしてくださったのです。 契約の民の子が誕生し、成長する。やがてその子にもまた子が与えられる。そして成熟し、老いてやがて土に帰る。この営みの中で神は命を継いでいてくださいます。人は悪いものだとしても、このように神は祝福してくださり、さらに、人の悪を一手に引き受け、十字架につけられた主イエスによって、契約の子とされていることに心留めたく思います。 Sat, 01 Jul 2017 00:10:00 +0000 救いと滅び(マルコによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170701 no 2017 「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」 (マルコによる福音書16章16節) 『ハイデルベルク』問71の答の括弧書き、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」は、聖句そのもので、復活の主キリストの言葉です。洗礼は単に一つの儀式として、それを受ければ救われるというものではありません。そこには、人間の信じるという行為が必要です。 この聖句は、キリストを信じる者には恵みの宣言であり、信じない者には非常に厳しい約束です。人間には「信じて洗礼を受ける者」と「信じない者」がいます。前者は「救われ」、後者は「滅びの宣告を受ける」と主は言われます。 主キリストがこの言葉を語られたとき、弟子たちは復活を伝えに来た人たちの言葉を信じませんでした(14節)。いつも主と共にいた弟子たちがです。私たちも愛する肉親や友人に、主の復活を伝えても信じてもらえないことがあるのは当然だと思います。 信じられなかった弟子たちは、復活の主と出会って、信じる者に変えられました。弟子たちと出会ってくださったキリストは、今、聖霊において私たちの中におられます。聖霊が、働いてくださり、親しい人たちが信じて洗礼を受けられるように祈ります。 Fri, 30 Jun 2017 00:10:00 +0000 確実に洗われる約束(マタイによる福音書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170630 no 2017 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章19節~20節) 『ハイデルベルク』問71の答の第一に、きょうの御言葉が記されています。復活の主イエスが弟子に対して語られた言葉です。ここで「すべての民をわたしの弟子」にすること、そして、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことが命じられています。 『ハイデルベルク』問69では、洗礼の洗いの効果について教えていましたが、問71では、キリストは洗礼の効果の約束をどのようにされたかが記されています。 なぜこの洗礼が効果あるものとなるのか。それは、この前の18節に「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とあるように、全能の神からキリストが授かった権威による命令だからです。 それゆえ、教会が洗礼を授ける行為も、父なる神からキリストが受けた権威による命令であるからこそ効果あるものとなるのです。ですから、教会が施す洗礼は、神の権威に基づく洗礼なのです。 この洗礼は確実に私たちの「罪を洗い流し」、私たちを「新たに造り変える」力あるものとして、私たちに施されます。それゆえに私たちはこの洗礼に希望をもって与ることができるのです。 Thu, 29 Jun 2017 00:10:00 +0000 新しく生まれる(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170629 no 2017 「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。…『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。…霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 (ヨハネによる福音書3章5節~8節) わたしが洗礼を受けたばかりのころ聞いた説教で特に心に残ったのが、きょうの御言葉でした。 洗礼は「キリストの血と霊とによって洗われる」とあるように、「霊の洗い」であること、それによって「新たに生まれる」ことだということを、主イエスは上記の御言葉で教えておられます。 「風」も「霊」もギリシア語では同じ言葉が使われます。激しい風、さわやかな風、色々な風を私たちは感じることができます。しかし、私たちには「それがどこから来て、どこへ行くか」は分かりません。 私たちに神の霊がしてくださることも、「今、わたしはこんなに清くされた」と自覚できないかもしれません。しかし神は、「わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩む」ように導いてくださいます。ですからこのように私たちは告白できるのです。 たとえ、今のわたしが清くなくとも、霊の働きは、私たちの思いを超えて「思いのままに吹」き、そして、私たちを清めてくださるのです。 この神の霊に信頼し、自分自身をゆだねて歩んでまいりましょう。 Wed, 28 Jun 2017 00:10:00 +0000 キリストの犠牲のゆえに(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170628 no 2017 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて…くださいました。 (エフェソの信徒への手紙1章7節~9節) 洗礼の恵みの根拠は何といってもキリストの十字架です。『ハイデルベルク』問70の答は「それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る、ということです」と告白します。 イエス・キリストは、十字架に架けられ、私たちが受けるべき罪の罰を受けてくださいました。そしてそこで流された血によって私たちの罪は洗い流されるのです。それは、神がイエス・キリストの十字架の故に、私たちの罪を赦してくださったということです。 私たちの功績ではなく、神からの一方的な恵みである、と聖書は言います。私たちが真に悔い改めてイエス・キリストのもとに行き、洗礼に与るとき、恵みとして神は私たちの罪を赦してくださいます。 さらに聖書は「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与え」る、と言います。 私たちが洗礼を受けることができるのも、神の恵みです。また、その後に神からいただくさまざまな恵みがどれほど大きいかを理解させてくださるのも、神の恵みです。 洗礼は、神の国の入り口なのです。 Tue, 27 Jun 2017 00:10:00 +0000 新しい命に生きる(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170627 no 2017 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 (ローマの信徒への手紙6章4節) 私たちが受ける洗礼は、「キリスト・イエスに結ばれるため」の洗礼です。神に逆らい、キリストに逆らい、神とは無縁の生活をしてきた私たちが、罪に死んで新しい命に生かされるということです。中には、今までの生き方とは180度変えられ、全く違った人のようになる方もおられます。わたしのような平凡なキリスト者には何だか羨ましくなるような信仰の体験をお持ちです。 しかし、そのような特別な体験がキリスト者の価値を決めるのではありません。どんなに平凡であっても私たちが信仰を与えられるとき、今までとは違ったわたしがそこに必ずいるのです。 わたしは、警察官の子として生まれました。親の仕事柄、幼い時から良い子でいないといけない気がして、表面的には真面目な良い子でした。こういう人間は、洗礼を受けても「あなた変わったね」とは言われません。また自分でもその自覚が乏しいものです。 しかし、洗礼の喜びは、私たちが「罪から解放され」、「キリストと一体」とされた、という点にあります。そのことを確信するためにも、御言葉に日ごとに励まされたいと願うのです。 Mon, 26 Jun 2017 00:10:00 +0000 洗礼とは(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170626 no 2017 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」 (使徒言行録2章38節) キリスト教の洗礼とは、何なのでしょうか。『ハイデルベルク』問69の答えによれば、洗礼の見える形は「水の洗い」です。「水の洗い」と言いますと、体や衣服、また食物などを水で洗い、その汚れを落とすことです。それと同じように、キリストは、ご自身の血と霊によって、私たちのすべての罪を洗い流すことのために、この礼典を定められたと言うのです。 キリスト教でいう罪は、キリスト者以外の方にはわかりにくいようです。それを一言でいうと、神の掟に逆らうことと言ってよいでしょう。まさにそれは、十戒の教えとかけ離れた生活をするということです。 洗礼という儀式そのものに、私たちの罪を洗い流す効力があるわけでは、決してありません。まず、私たちが、聖書によって罪を示され、それが本当に神に対する反逆であることを自覚し悔い改めることから、私たちの信仰は始まります。その人が、キリストの名によって洗礼を受けるとき、罪は赦され、聖霊によって新しい人生が私たちの内に始まるのです。そこから、私たちの人生の意味は、大きく変わってくることでしょう。 Sun, 25 Jun 2017 00:10:00 +0000 神の教会(ローマの信徒への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170625 no 2017 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 (ローマの信徒への手紙11章36節) 教会の歩みこそ、人を通して御業をなさる聖霊の働きを物語っています。 日本キリスト改革派教会創立70周年記念宣言の序言の中に、「わたしたちが寄り頼むべきは、自らの力でもこの世の力でもなく『わたしはすでに世に勝っている』と仰せになる方の福音の力だからである」、とあります。この70年間の歩みを総括して次の三点を指摘したいと思います。 第一に、敗戦と焦土の中で神が、創立者たちを起こしてくださったことです。創立者たちには「汝の栄光を仰がしめ給へ」との思い、プロテスタント・改革派教会の伝統を受け継ぐ教会建設の志を与えられました。 第二に、この70年間、私たちの教会は順風の時には、それを神の恵みと喜びました。他方、試練の時には、神の憐れみにすがり、主イエス・キリストの苦難を思い、涙を流して耐え忍びました。 第三に、「汝が既に我等の衷に肇め給ひし大いなる聖業を完遂せしめ給へ」と祈り、神によって始められた自律教会(御言葉にのみ立つ教会)建設は、今も途上にあります。 これらは、まさに御霊なる神による働きなのです。 Sat, 24 Jun 2017 00:10:00 +0000 いつもあなたと共にいる(マタイによる福音書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170624 no 2017 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章19節~20節) 復活の主イエスは、弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われました。洗礼を授けること、主イエスからの言葉を人びとに教えて行くこと。この二つを行う目的は、「すべての民を主イエスの弟子にすること」です。つまり、主イエスの弟子づくりをするのです。 ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、とにかく民族の違いなど関係なく、主イエスを信じて従っていく弟子を獲得する。それは、主イエスに結び付いて従っていく民・新しい共同体を形作っていくということです。そのために用いられる手段が洗礼です。 私たちが出かけて行ってこの働きをする時、失敗したり、不安になったりすることもあります。そういう時でも、主イエスの方から世の終わりまで私たちと一緒にいてくださり、私たちと同じ主イエスを信じる民を増し加えてくださるのです。 主の教えと洗礼と聖餐とによって、主イエスが共におられる人生の中に、私たちは招き入れられるのです。 Fri, 23 Jun 2017 00:10:00 +0000 イエスに結ばれている(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170623 no 2017 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 (ローマの信徒への手紙6章3節) ギリシアやローマの世界に、聖書が禁じている生活習慣が数多く見られました。それは不道徳などの罪として表れます。同時に、これらの罪を生じさせる最も大きな罪、つまり、まことの神から離れるという罪がありました。そのような地域に福音が宣べ伝えられ、主イエスを信じる者たちが起こされていきました。 主イエスを信じたとき、私たちは教会で「洗礼」を受けます。パウロは、この洗礼を受けるときに、受洗者の身に起こっていることを端的に言い表しました。「キリスト・イエスに結ばれる」、キリスト・イエスの「死にあずかる」と。パウロは直前の2節で、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」とも語っています。主イエスの「死にあずかる」とは、諸々の罪に対して死んで、罪の奴隷として生きることと決別するということです。それは主イエスとその人が結び付いているから起こります。 主イエス・キリストの十字架の御業を通して、私たちは罪との関係を断ち、その代わりに、このお方に結ばれて一つとなり、きょうという一日を生きるのです。 Thu, 22 Jun 2017 00:10:00 +0000 心に受ける礼典のしるし(申命記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170622 no 2017 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。 (申命記30章6節) 主は、ご自分の方から結んでくださった契約に基づき、イスラエルの神となってくださいました。その時、主は「わたしは、あなたとあなたの子孫の神となる」とはっきり断言してくださいました。 その反面、人間は口先だけで約束をして裏切ることがあります。ですから、人間同士の約束には、その人の心が遠く離れていることがあります。私たちは、そのような人間なので、神が結んでくださった契約とそこから得られる恵みを前にしても、不従順の故に神から離れてしまうことがあります。 しかし、神にはそのような裏切りや偽りがありません。神が一方的に結んでくださった契約とその誠実さはどこまでも貫かれます。主は何度も何度も離れてしまう私たちのことを、再びご自分の下へと立ち帰ることができるように目を向けていてくださいます。そのために主は、主の御声を聞く私たちの心にその恵みを思い起こさせてくださいます。 主は、そのようにして、いつでも私たちをご自分の下へと立ち帰らせ、神を愛し、神と共に生きるようにしてくださいます。それこそが私たちの命そのものなのです。 Wed, 21 Jun 2017 00:10:00 +0000 契約のしるし(創世記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170621 no 2017 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。 (創世記17章10節~11節) 主はアブラハムと契約を結ばれた時に、わたしは「あなたとあなたの子孫の神となる」(創17章7節)と言われました。神がわたしの神となってくださる。これが、主が結んでくださった契約において一番大切な部分です。 主は、ご自分から結んでくださった契約により、私たちの神となってくださり、共にいてくださいます。そこで主は、続けてアブラハムに「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい」と言われて、男子の包皮の部分を切り取る割礼の実行を指示されました。 この「守る」とは、「保つ」、「大切にしっかり抱え込んでおく」という意味もあります。ですから、主が与えてくださった「契約」、私たちの神となってくださり、私たちと共にいてくださるというすばらしいプレゼントを大切に保存していることを示すしるしこそ、旧約時代の「割礼」なのです。 割礼を受けるとは、神が立ててくださった契約により、他の何かと代えられない、人生で一番のプレゼントを手に入れ、それを封印して確かに持っていることを表すのです。 主はこのようにして、私たちが神の祝福の中にいることを確認させてくださるのです。 Tue, 20 Jun 2017 00:10:00 +0000 キリストの言葉に聞く(ローマの信徒への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170620 no 2017 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 (ローマの信徒への手紙10章17節) 「信仰」とは何か。そう問われたときに、さまざまな答えが浮かび上がってきます。その一つとして、「神に信頼すること」と答えてみて良いと思います。神を信頼し、いつでも呼び求める。そして、この神を礼拝し、この神に祈り、この神に一緒にいて欲しいと願う。それが「信仰」そのものです。 パウロは、私たちが神を信頼して歩むために何が必要か、そのような「信仰」は、どのようにして始まるのかをはっきり語りました。「キリストの言葉を聞くことによって始まる」と。信仰はキリストの言葉を聞くことで初めて生まれるのです。 まだ、神を信じていない人は、このキリストの言葉を聞いて信仰に至るのであり、すでに、信仰生活にある人たちも、キリストの言葉を聞いて神へのさらなる信頼に生きるようになるのです。 今、皆さんは、『リジョイス』を通して聖書の御言葉を、キリストの言葉を聞いておられます。それはまぎれもなく生ける真の神が、この瞬間もあなたに語りかけ、寄り添ってくださっていることの表れです。安心してきょうという日を主イエスと共に歩みましょう。 Mon, 19 Jun 2017 00:10:00 +0000 水と霊とによって生まれる(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170619 no 2017 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 (ヨハネによる福音書3章5節) ファリサイ派に属するニコデモは主イエスに、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言いました。その時、主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。ニコデモは、「新たに生まれる」ことを、お母さんの胎内に戻って、もう一度生まれることのように考え、「そんなことできるわけない」と困惑しました。主イエスは、戸惑っているニコデモに、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とも言われました。 「新たに」という元々の言葉には、「上から」、「天から」いう意味があります。主イエスが「新しく生まれる」、「水と霊とによって生まれる」と言われたのは、上から生まれる、つまり、神によって天から来られた主イエスとの関係に生きることです。 主イエスは神のもとから来られたお方です。神の国は、自分の力で人生をやり直して入れるものではありません。唯一の方法は、水と霊によって新たに生まれ、主イエスとの関係に生きることなのです。 Sun, 18 Jun 2017 00:10:00 +0000 聖霊に導かれた救いの宣言(ローマの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170618 no 2017 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 (ローマの信徒への手紙1章16節) キリスト教会の海外宣教は、エルサレムから遠く離れたローマにまで及びます。パウロは、ローマ訪問に先立って、力強く書き送ります。「福音は神の力」である、と。だから「福音を恥としない」と宣言しました。 ペトロがユダヤ教の最高法院における尋問の場面で声高らかに断言している通り、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4章12節)。パウロが抱いていたのは、まさにこの確信です。「福音を恥としない」とは、世界の都ローマに携えていくのはこの「福音」しかない、ローマにイエス・キリストの福音を宣教します、という決意表明です。続けて、この「福音は、…信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と、理由を述べています。 パウロをこのような宣教の確信に導いたのは他ならない聖霊の働きです。そして、その同じ聖霊が、聖書を読む私たちの心に働いてくださり、私たちの目を開き、福音を受け入れる者へと変えてくださるのです。 Sat, 17 Jun 2017 00:10:00 +0000 主イエスから注がれる恵み(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170617 no 2017 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 (ヨハネによる福音書15章5節) ぶどうの木と枝の関係は、お互いがつながっており、木の根から枝をとおして、水分や養分が実へと運ばれ、実が豊かに実るという関係です。それによって私たちは、美味しいぶどうの実を収穫することができます。 主イエスはこのようなたとえを示すことによって、ご自身とそれにつながる弟子たちとの関係を教えてくださいました。もし弟子たちが信仰によって、主イエスにつながり、聖霊を通して御言葉という水分や養分をいただき続けるならば、ぶどうの実が豊かに実るように、主イエスに似る者へと成長させていただけるでしょう。その主イエスは、17節で言われました。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と。 御言葉をとおして主イエスの愛を感じながらも、日々の生活の中で愛の乏しさばかりを痛感する私たちです。しかし、私たちは、信仰によって主イエスにしっかりとつながってさえいれば、乏しさを覚える時にこそ、御言葉によって、溢れる愛が主イエスから注がれ、また一歩、豊かな実を結ぶ一日を刻むことができるのです。確かな結びつきを感謝しましょう。 Fri, 16 Jun 2017 00:10:00 +0000 絶大な神の力に生かされる(テモテへの手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170616 no 2017 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。…だれにでも授けてくださいます。 (テモテへの手紙二4章7節~8節) 6節でパウロは、自分は「いけにえとして献げられています」と語っています。彼は殉教の死を目前にして、自分の人生を振り返っているのです。「戦いを戦い抜き」、「道を走りとおし」、「信仰を守り抜き」という言葉によって、パウロのやり遂げた満足感と、人としての力強さが伝わってきます。 しかし、一方でパウロはコリントの信徒への手紙二で、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12章9節)と語っています。彼はキリストをとおして、自分という人の弱さと、キリストという神の力を鋭く感じていた人でした。そう考えるならば、パウロの背後には、弱さを全面的に用いてくださる、絶大な神の力が働いていたことがわかります。 信仰によってキリストに結ばれたキリスト者の人生もまた、神の力によって一つ一つの使命を成し遂げる人生です。困難を神の力によって乗り越えることのできる人生です。そして再臨の日に、「善い忠実な僕だ。よくやった。多くのものを管理させよう」と言われて、「義の栄冠」を受ける人生なのです。 Thu, 15 Jun 2017 00:10:00 +0000 隠れたところで見ておられる神(ルカによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170615 no 2017 「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 (ルカによる福音書17章10節) 10節冒頭で、「あなたがたも同じことだ」との主イエスの言葉が語られます。これに先立つ7節から9節には、この世の主人と僕の関係が語られています。そしてその関係は、僕が主人のために命じられたことを果たしても、感謝される関係ではないというのです。これはお金持ちの主人と雇われている僕の関係を連想するとき、よく理解することができるでしょう。 10節で、この関係は、主イエスという主人と弟子たちという僕へと話が移っていきます。主イエスから命じられたことを弟子たちが果たした時には、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言わなければならないと。 私たち弟子が、主イエスのご命令を果たしたとき、しばしば大きな声で自分の成果であるかのように、人に知らせることがあるのです。 しかし弟子とは、主イエスと出会い、神の子どもとして、家族の一員になっている者です。主イエスからのご命令を果たしたときには、隠れたところで見ておられる主イエスが十二分にあなたをねぎらってくださいます。 Wed, 14 Jun 2017 00:10:00 +0000 信仰は神からの一方的な恵み(イザヤ書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170614 no 2017 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。 (イザヤ書11章:6節) 信仰とは望んでいる事柄が今は見えなくても、今それを持っているかのように、やがて実現することを確信することです。そして、この信仰がなければ、神に喜ばれることができないというのです。 信仰の人アブラハムは、75歳で数えきれない子孫が生まれるとの約束を与えられましたが、その約束が実現に向かって動き出すのには、実に25年の歳月を要しました。アブラハムが百歳、妻のサラが90歳のとき、しかも人間が出産を望み得なくなったとき、神はようやく約束を実現してくださったのです。 もしアブラハムの信仰が、彼自身の中から出ているとするならば、彼は望み得ないときになお、信じることはできなかったでしょう。 神とは、私たちに信仰という恵みを一方的に与え、地上の生涯でそれを試しながらも、私たちを励まし続けてくださるお方です。そして約束の実現、すなわち主イエスの再臨のとき、主イエスと顔と顔とを合わせてお会いするという約束の実現へと、確実に導いてくださっています。 きょうもこの信仰を祈り求めながら、主イエスと共に幸いの中を歩みましょう。 Tue, 13 Jun 2017 00:10:00 +0000 善き行いの脆さ(イザヤ書 64章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170613 no 2017 わたしたちは皆、汚れた者となり 正しい業もすべて汚れた着物のようになった。 わたしたちは皆、枯れ葉のようになり わたしたちの悪は風のように わたしたちを運び去った。 (イザヤ書64章5節) 私たちには、御言葉を読み祈ることによって、「きょうも一日主イエスと共に歩もう」との強い決心が与えられます。しかし、一日の歩みの中で予想もしないような出来事にでくわし、相手からの厳しい言葉によって、あっという間に、強い決心がどこかに飛んで行ってしまったりします。このように私たちの善い行いや正しいと思っている意志は、本当に表面的であり脆いものであることを痛感します。 そして預言者イザヤもまた、「正しい業もすべて汚れた着物のようになった」と語ります。さらにその正しい業は、悪によって枯れ葉のように飛んで行ってしまうほどに軽いものだと語るのです。しかし7節で「わたしたちは粘土、あなたは陶工」と語ります。自分の脆さに留まっているならば、どこに飛んで行くかもわからない私たちです。 そのような私たちを美しい形に整え、価高い器へと仕上げてくださる陶工、すなわち全能の神がおられます。 この神の言葉に聴くとき、私たちは神の憐れみによって悔い改めへと導かれ、私たちの内に、新しい力がみなぎってくるのです。 Mon, 12 Jun 2017 00:10:00 +0000 律法の実行と義(ローマの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170612 no 2017 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 (ローマの信徒への手紙3章20節) ここで言われている律法の実行とは、割礼を施すという儀式的な事柄を指しています。 創世記17章には、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしとして、この割礼という儀式が記されています。この契約は義なる神がアブラハムの神となり、アブラハムが神の民に加えられるという、百パーセント神が主体の恵みの契約でした。そして神は、アブラハムを彼の信仰によって義と認め、神の民としてくださったのです。 しかしユダヤ人たちは、目に見えない信仰よりも、目に見える割礼という儀式を第一に考えました。すなわち百パーセント神が主体の恵みの契約に、自分たちの儀式や善い行いを介入させたのです。 パウロは善い行いを追求しても、結局はそれを完全に実行できない自分の空しさ、すなわち罪の自覚だけを見出すのだと語ります。 主イエスは十字架の死によってこの罪を完全に償い、義を獲得してくださいました。私たちは、主イエスを信じることによって義とされ、神の前に正しい者とされています。その主イエスと共に平和の一日を歩みましょう。 Sun, 11 Jun 2017 00:10:00 +0000 人の力によらない(使徒言行録 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170611 no 2017 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。 (使徒言行録3章5節~7節) 使徒言行録3章には、エルサレム神殿の「美しい門」のそばで物乞いをしていた、40過ぎの一人の男性が、ペトロの「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という一言で、歩けるようになった奇跡の物語が記されています。 「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(使徒3章7、8節)。 見事な奇跡と言うほかありません。その場に居合わせた人々は、見まがうばかりの変化に、「我を忘れるほど驚いた」(3章10節)と聖書は伝えています。ペトロの説教によれば「自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように」理解してはならない(3章12節)、と否定的な面を言いつつ、積極的には「(イエスの名を信じる)信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3章16節)、と述べています。人の手柄なのではなく、昇天された主イエスが今もなお、聖霊を遣わして働き続けておられます。 Sat, 10 Jun 2017 00:10:00 +0000 永遠の神の義に生かされつつ(ローマの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170610 no 2017 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。 「正しい者はいない。一人もいない。」 (ローマの信徒への手紙3章9節~10節) 「わたしの良心がわたしに向かって…責め立て」て語ります、「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と(問60答)。この断罪を、私たちは受け入れるしかありません。 およそ1500年間以上神の律法を所有し、守ってきたユダヤ人も、哲学や文明を通してローマ帝国に大きな影響を与えたギリシア人も、すべて罪の下にある、と使徒パウロは証言しています(ロマ3章9節)。また、クリスチャンであっても、実際は生涯罪を犯し続けています。すべての人間は罪の支配下に置かれ、例外なく罪の奴隷として罪から逃れることもできない存在です。 しかし、永遠に滅ぼされるはずの私たちに、救いの道が開かれました。罪深い者であっても、罪すら支配する主イエスの十字架と復活によって完成された神の義を、信仰によって受けることができます。主イエスは、わたしをご自分の体に連なる者として受け、永遠の命を注いでくださいます(ロマ6章23節)。私たちは、永遠に義と認められつつ生きるのです。 Fri, 09 Jun 2017 00:10:00 +0000 ただ神の義である方に結ばれて(ヨハネの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170609 no 2017 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 (ヨハネの手紙一5章11節~12節) 『ハイデルベルク』問61の答はこうです。 「自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです」。 義とされるすべての根拠がただ主イエスにあります。このイエスと結ばれているだけで、まるで枝がぶどうの木につながれているだけで、その枝の命が維持できるように(ヨハ15章5節)、主イエスの中にのみ存在する「命」が私たちを支えます。ここでいう「命」とは、本来神の特質を表すものです。「命」とは永遠に持続する量的なものというよりは、永遠の神と真の交わりを可能とする質的なものです。 主イエスご自身、「命」であると宣言されました(ヨハネ14章6節)。永遠の命は人間の努力で得られるのではなく、神が送られた主イエスを自分のものとすることで得られるものです。それは、ただ神が私たちに与える恵みを受け取ること以外には不可能です。私たちはただ信仰によって永遠に主と結ばれているのです。 Thu, 08 Jun 2017 00:10:00 +0000 神の義による神と罪人との和解(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170608 no 2017 神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 (コリントの信徒への手紙二5章18節) 旧約時代、イスラエルの民は、牛や羊などをいけにえとしてささげ、罪の赦しのために神との和解を求めました。しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3章23節)。そのため、アダムの堕落から始まった人類のすべての罪の問題が解決されない限り、神との完全な和解はありえません。それは今の時代も同じです。 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるため」でした(ローマ3章25節)。 「和解」という言葉には、貨幣を同じ価値のものと交換するという意味があります。神は御子の尊い血潮で私たち罪人の代価を支払ってくださったのですから、神が私たちをどんなに価値ある者と思ってくださっているのかがわかります。旧約聖書には、私たちの罪をすべて主に負わせられたとあります(イザ53章6節)。クリスチャンになっても自分を責め立てる思いから解放されないことがあります。しかし、神ご自身の満足できる和解は、すでに主イエスを通して成就されたのです。 Wed, 07 Jun 2017 00:10:00 +0000 わたしの義の根拠となる主の復活(ローマの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170607 no 2017 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。 (ローマの信徒への手紙4章24節~25節) 「義と認める」という言葉は法廷用語です。一度義と認められれば、罪の疑いがあっても、罪が無い者と同じ扱いを受けます。実に、私たちが義と認められるために、主イエスが身代わりとなって十字架で死んでくださり、復活されました。主イエスの死と復活こそ義認をもたらす根拠です。それは、私たちがクリスチャンとして生きるために不可欠な神の恵みそのものです。このお方によらず、他に神の義をもたらす人は存在しません(使4章12節)。 主イエスは罪と全く無関係のお方でしたから、十字架におかかりになる必要は全くありませんでした。しかし、主イエスはご自分からその道を選ばれ、それが父なる神の御心でもありました(マタ26章39節)。信じる人びとに義を与えようとする神の目的は、主イエスの死と復活によって成就されたのです。たとえわたしの良心がわたしに向かって、罪と悪を責め立てたとしても(参照:『ハイデルベルク』問60答)、主イエスの復活こそわたしの義が成立する一番強力な証拠です。それゆえ、クリスチャンは、復活にあずかる者としての希望から、この世で離されることは決してありません。 Tue, 06 Jun 2017 00:10:00 +0000 神の恵みによって無償で義とされる(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170606 no 2017 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節) 私たちは、空気そして親からいただいた命などは無償でもらっています。おそらくこれらの代価を支払うことができる人はこの世には存在しないでしょう。なぜならそれらの値段を決めることすらできないからです。 同じように聖書も、救いはただ神の恵みによってのみ与えられると証言しています。神の賜物をただで信仰によっていただけると言うのです。神の恵みの価値をはかることも、代価を払ってその賜物を買うことも不可能だからです。「ただで」とは言いましたが、神が罪と全く関係のないご自身の御子であるイエス・キリストの命を十字架に引き渡し、代価を完全に支払ってくださっています。 主イエスという代価は、罪人である私たちのすべての罪の問題を解決します。私たちが神の前で義と認められるだけではなく、神の子となる特権をも与えられます。ついに私たちは神の栄光を表す最高の存在へと変えられ、神を永遠に喜ぶことのできる者に変えられます。神の計りしれない恵みは、無償で私たちの体に永遠に表れ満ち溢れます。 Mon, 05 Jun 2017 00:10:00 +0000 信仰によって生きる(ハバクク書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170605 no 2017 「見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 (ハバクク書2:4) パウロは、ハバクク書を引用し、「正しい者は信仰によって生きる」と語っています(ロマ1章17節)。ハバクク書に出てくる信仰(エムナ)は、真実、偽りのない、という意味です。「真実の神」という場合にも用いられます(申32章4節)。神が真実であられるから、私たちはその神を信じることができます。信仰によって生きることができる根拠は、神の真実さにあります。 「正しい」という言葉は、「義人」とも訳されます。人間は自分の目に正しいと思うような相対的な義を持っています。しかし、この世には神のみが認める絶対的な義が存在します。自分の信仰の熱心さは相対的なものですが、神が神を信じる者を義と認めてくださるとは、神の絶対な義の表れです。また神の義を受け取る信仰も神からの賜物です(エフェ2章8、9節)。 罪と全く関係のない神の御子を私たちの代わりに罪人とされたのは、主イエスによって私たちが神の義を得ることができるためでした(2コリ5章21節)。たとえ神のなされる業が理解し難くても、信仰義認とは、神はご自身を信じる者を守り、必ず生かしてくださるという恵みの教えです。 Sun, 04 Jun 2017 00:10:00 +0000 ペンテコステ(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170604 no 2017 一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 …この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 (使徒言行録2章4節~6節) 今日はペンテコステ。イエス・キリストが十字架に架けられ、3日目に復活なさった後、50日後に聖霊が降臨されてキリスト教会が誕生した記念の日です。 その時の様子を聖書は次のように報告しています。 当時、エルサレムにはユダヤ教の盛大な祭りの一つである五旬祭に参加するため、各地から多くの人々が集まっていました。その中で驚くべきことが起こりました。午前9時ごろ、120人ほどのキリストの弟子たちが礼拝をしていると、突然、「激しい風が吹いて来るような音」が「家中」に響き、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。その結果、皆が聖霊に満たされ、いろいろな地方の言葉で神をほめたたえ始めました。このことは、主イエスが昇天直前に約束されておられたことの成就です(使1章4、5節)。ペトロの説教が指摘するように、旧約聖書の中で約束された「終わりの時」の到来、つまり、キリスト教会が歩み始めた日でした。この日を境に、弟子たちは、エルサレムから始まって地の果てにまで、聖霊によって押し出されて行ったからです(使1章8節)。 Sat, 03 Jun 2017 00:10:00 +0000 想像を絶する完全な祝福(コリントの信徒への手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170603 no 2017 しかし、このことは、 「目が見もせず、耳が聞きもせず、 人の心に思い浮かびもしなかったことを、 神は御自分を愛する者たちに準備された」 と書いてあるとおりです。 (コリントの信徒への手紙一2章9節) 聖書は、「この生涯の後」の永遠の命が具体的にどのような状態なのかを詳しくは教えていません。その時が来てからのお楽しみです。しかし、「完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」ことだけは約束しています。 パウロはイザヤ書64章3節から引用しながら、この完全な祝福を「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」と表現しています。このイザヤは続く節で、この祝福を「わたしたちはとこしえに救われます」と表現しています。私たちは、今、主イエスを信じるならば、「この生涯の後」に完全な祝福に必ずあずかることができ、永遠に救われるのです。 ですから、順境の時は神への感謝で満たされ、逆境の時は忍耐強くされて、天の王座の主イエスに向かって頭を挙げて歩みます。たとえ、苦しくても悲しくても、聖書の約束によって、想像を絶する完全な祝福が与えられることを確信させられ、慰められて、この世の旅路を歩むのです。 明日は地上の教会で礼拝が行われます。一週間毎の礼拝は、完全な祝福に向かう旅路の中継点です。完全な祝福を再び確信できますように。 Fri, 02 Jun 2017 00:10:00 +0000 主イエスとの命の交わり(ヨハネによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170602 no 2017 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 (ヨハネによる福音書17章3節) 「永遠」とは、国語辞典によると、「(過去・現在から)未来に至るまで、時間を超越して、無限に続くこと」です。すると、「永遠の命」も、どこか抽象的、哲学的な概念であるかのように思えてしまいます。しかし、永遠の命は、既に今から「この生涯の後」にも与えられる復活の主イエスとの命の交わりです。復活の主が永遠であられるように、この主との交わりも永遠に続くものです。ですから、きわめて具体的です。 ところで、ヨハネは「永遠の命」を「イエスを知ること」と述べています。「知る」とは、ただ何かについて知識を持っているということではありません。『ハイデルベルク』は問21で、「まことの信仰」とは、神の啓示の「確かな認識」のことだけでなく、「心からの信頼」と教えています。聖書において証言されている主イエスを知ることと同時に、その主イエスに信頼することが大切なのです。それはすなわち、復活の主と命の交わりを持つことです。 復活の主との命の交わりのために、きょうの御言葉を読んだ後、ぜひ、祈りましょう。永遠の命の実が豊かに結ぶ一日でありますように、と。 Thu, 01 Jun 2017 00:10:00 +0000 今、実感できる永遠の命(ローマの信徒への手紙 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170601 no 2017 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 (ローマの信徒への手紙14章17節) 「使徒信条」は、「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」の順序で信仰を告白しています。身体のよみがえりは、文字通りには主イエスの再臨の時に与えられますから、この順序ですと、永遠の命は、死後はじめて与えられる恵みであるかのようです。 ところで、パウロは、「神の国は、…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と述べています。この神の国こそ、聖霊によって与えられる主イエスとの交わりであり、永遠の命に他なりません。 主イエスは、御自身をぶどうの木、信じる私たちをその枝に譬えられました。それで、私たちは、主イエスと交わることで、今、豊かに実を結ぶことができます(ヨハ15章5節)。今、豊かに結ぶ実の一つが永遠の命です。すると、永遠の命は、死後はじめて与えられる恵みでなく、主イエスとの交わりを与えられている今、聖霊によって心に感じることができる恵みとなります。それは、まず何よりも、毎週主の日の礼拝で実感できる罪の赦しであり、神との平和であり、インマヌエル(「神は我々と共におられる」)の喜びに他ならないのです。 Wed, 31 May 2017 00:10:00 +0000 御子に似た者となる(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170531 no 2017 しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき、御子をありのままに見るからです。 (ヨハネの手紙一3章2節) 今、私たちは、肉眼で御子を見ることはできません。しかし、御子が再臨なさり、私たちに復活の体が与えられる時には、その肉眼で御子を見ることができます。その同じ肉眼で、御子に似た者とされた自分自身はもちろん、信仰の兄弟姉妹も見ることができます。 わたしの一番の楽しみは、やはり、主イエスとお会いすることですが、ペトロやパウロ、カルヴァン、果てはアブラハム、ダビデのような信仰の兄たちを見ることです。御子の「ありのまま」のお姿とはどのようなものでしょうか。また、その御子に似た者とされる信仰の兄たち、私たちの姿とはどのようなものでしょうか。想像は尽きません。 私たちは、やがて、この地上に完成する神の国において、御子イエスに似た者となることが約束されています。つまり、それは御子のように神を愛し、人を愛する者とされるということです。この世では、不一致、分裂が絶えません。しかし、神の国では、男女の差はもちろん、賜物の違いなどいろんな多様性がありますが、御子にある一致と平和が実現します。御子に喜んで従い、互いに真心込めて仕え合うのです。 Tue, 30 May 2017 00:10:00 +0000 死は勝利にのみ込まれた(コリントの信徒への手紙一 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170530 no 2017 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。 「死は勝利にのみ込まれた」。 (コリントの信徒への手紙一15章54節) この世の中で絶対に間違いのない統計があるのをご存じでしょうか。作家のサマセット・モームは言いました。「人間の死亡率は100パーセントである」と。確かにこの世の中に不死身の人間は存在しません。そうすると、人間は、死の力に絶対に勝利することはできないのでしょうか。 主イエスも、確かに十字架で死なれました。しかし、主イエスは、3日目に死の力に勝利して復活なさいました。この主イエスを信じて死ぬ人は幸いです。死後、魂は完全に清められて、直ちに主イエスの御許に引き上げられます。そして、体は主イエスに結ばれたまま墓に埋葬されます。やがて、主イエスの再臨の時、その御力によって埋葬された体が引き起こされ、魂と結び合わされて、「朽ちないもの」、「死なないもの」とされるのです。 この復活の時、私たちは、主イエスにあって死の力に勝利できます。主イエスを信じて死ぬ者は、その死をもってすべてが終わるという可能性は0パーセントです。この驚くべき、間違いのない神の力のもとに、私たちは、地上の死の先も、主イエスの命に、永遠に生き続けます。 Mon, 29 May 2017 00:10:00 +0000 魂はキリストのもとへ(ルカによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170529 no 2017 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカによる福音書23章43節) 主イエスにより四日市教会に牧師として遣わされ、間もなく丸12年になろうしています。その間、20名の信仰と人生の先輩たちの葬儀式を司式させていただきました。献身的に教会を支えてくださった兄弟姉妹たちとの別れは辛く悲しいですが、それでもわたしの心が辛さ悲しさで押しつぶされてしまわないのは、本日の主イエスの御言葉が与えられているからです。 十字架上の主イエスの隣には、二人の犯罪人が十字架にかけられていました。そのうちの一人、主イエスに救いを託した犯罪人に主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この悔い改めた犯罪人は、十字架上でやがて息を引き取ると、その体は十字架から引き下ろされ埋葬されたことでしょう。しかし、魂は直ちに楽園に引き上げられたのです。このことは、主イエスに結ばれた魂のすべてに共通することです。 この御言葉に基づく信仰があればこそ、私たちは、葬儀式でうなだれてしまうのでなく、敬愛する故人の魂が既に主イエスと共にある天の楽園を仰ぎ見て、神を賛美することができるのです。 Sun, 28 May 2017 00:10:00 +0000 神の主権(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170528 no 2017 主は天に御座を固く据え 主権をもってすべてを統治される。 (詩編103編19節) 日本キリスト改革派教会は、創立の年(1946年)に「創立宣言」を表明しました。わたしが、神戸改革派神学校に入学する前、ある先輩の教師から半年間、毎週金曜日の夜、創立宣言を教えていただいたことを今でも忘れることができません。宣言の学びを通して何としてでも改革派教会の牧師になりたいとの思いが強くなっていきました。 創立宣言で表明されている改革派教会の進路は、何にもましてすべての領域の権威の源でいます神が主権者であり、私たちは何をするにも神の栄光のためにするということです。そのことが「有神的人生観・世界観」という言葉で言い表されています。この第一点の主張は今後も日本における宣教と改革派教会の形成にも不可欠なものです。また私たちの日常の信仰生活の基本でもあります。 この詩編の作者は、一切は神の支配下にあるので全被造物からの賛美に値する方である、そして詩の終わりで「わたしの魂よ、主をたたえよ」(103編22節)と呼びかけています。終末の日、主権者でいますキリストは神の国と神のご計画のすべてを完成されます。 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 Sat, 27 May 2017 00:10:00 +0000 罪のゆるし(ローマの信徒への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170527 no 2017 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 (ローマの信徒への手紙7章24節~25節) 私たちは、知らないうちに人を傷つけたり、何気ない言動で人をつまずかせてしまったりしていることがあります。逆に私たち自身が親しい人からの心ない言葉によって立ち上がることができないような痛手を被ることもあります。私たちは、この類の罪を日々、何度となく犯しています。 パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆息していますが、これは、私たち自身の嘆きでもあります。人生とは罪との戦いです。私たちは、頭では主の御心に適った道を歩みたいと思っていても、誰ひとり自らの力や努力では、この悲惨な現実から抜け出すことはできないのです。 しかし、イエス・キリストを信じる者には「罪のゆるし」の恵みが与えられます。イエス・キリストが私たちに代わって、神の律法を完全に守り行い、神の義を満たしてくださったので、神は私たちをあたかも罪を犯したことがなかったかのようにみなしてくださいます。それゆえに、救われた私たちは、お互いに主にあって罪赦された者として、愛し合うことができるのです。 Fri, 26 May 2017 00:10:00 +0000 賜物を分かち合う恵み(ローマの信徒への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170526 no 2017 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。 (ローマの信徒への手紙12章:6節~7節) 聖徒の交わりは、キリストを頭とする教会に連なる一人ひとりが、「主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかって」キリストの体を形作ることで成り立っています。何の才能も賜物も与えられていない人は一人もいません。神はすべての人に各々、その人にふさわしく何らかの賜物を分け与えておられます。 与えられている賜物は、人さまざまです。私たちは、それを主からの恵みとして感謝して受け、兄弟姉妹に与えられた賜物に対しては正しく評価し、お互いにねたまず、自分に与えられている賜物を喜んで兄弟姉妹の成長と益のために用いていくことが大切です。 私たち日本人は、遠慮深い国民性をもっていますが、賜物を用いずにとっておくと、それはやがて錆びついてしまいます。惜しまずに賜物を他者のために用いることで神に対する感謝の念を表すことができます。それは、聖徒の交わり、キリストの体を大きく成長させるのみならず、自分自身の信仰をも豊かにしていくことでしょう。勇気をもって、主が与えてくださった賜物をお互いに分かち合ってまいりましょう。 Thu, 25 May 2017 00:10:00 +0000 救いの確信(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170525 no 2017 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。 (ヨハネの手紙一3章19節) イエス・キリストを信じる信仰を告白する者には、神の御前に義と認められ、神の怒りと呪いから解放されて、永遠の命と復活の恵み、御国を受け継ぐ等の恵みが約束されています。他方、私たちがこれらの恵みと祝福に与るためには、今しばらく、この地上にあって自分自身の中に根強く残る罪と戦い、日々悔い改めの生活を続けなければなりません。 信仰生活の途上で遭遇するさまざまな艱難や試練によって、救いの確信が揺らいだり、場合によっては疑いを抱いたりするかもしれません。救いの確かさ、選びの保証を、自分自身の内に探そうとすると、むしろ、自分の罪と悲惨に気づかされ、自己嫌悪と絶望感に陥ってしまうでしょう。 そういう時こそ、主の日ごとの礼拝に集い、そこで語られる説教、すなわちイエス・キリストの御言葉に耳を傾け、主の晩餐に兄弟姉妹と一緒に与ることによって、聖霊の助けと導きをいただきましょう。心を新たにさせられ、聖霊において臨在しておられるイエス・キリストを覚える時、私たちは群れの一つの枝であり、すでに死から命へと移されていることがわかるのです。 Wed, 24 May 2017 00:10:00 +0000 イエス・キリストの羊(ヨハネによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170524 no 2017 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。…わたしは羊のために命を捨てる。」 (ヨハネによる福音書10章14節~15節) イエス・キリストは、私たちにとって、永遠の大牧者であり、良い羊飼いです。 私たちは、キリストを知る前は、自分の思い通りに、気の向くままに生活していました。自分の力で牧草のある所、水のあるところを見つけるつもりで、知らないうちに進むべき道を見失い、深い谷底に落ち、自分の力で脱出することもできずに、ただ声を上げて泣くことしかできないような者でした。しかし、イエス・キリストは、わたしという1匹の羊のために遠くの山々、谷底まで探し求めてくださっただけでなく、教会という囲いの中へと導いてくださいました。良い羊飼いが命がけで狼から羊を守るように、イエス・キリストは、私たちのためにご自分の血を流して罪という最大の敵と戦って勝利してくださいました。私たちを死と滅びの中から導き出してくださり、教会という主の牧場で常に見守ってくださるだけでなく、御言葉の糧によって養っていてくださいます。 私たちは、聖霊の働きによって信仰による一致を保ちつつ、やがて来り給う永遠の御国を目指して、大牧者に養われ、導かれ、地上の旅を続けているのです。 Tue, 23 May 2017 00:10:00 +0000 聖なる者(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170523 no 2017 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 (エフェソの信徒への手紙1章4節) 教会に通っている人たち、いわゆるクリスチャンのことを「聖徒」と呼びます。つまり、「聖なる者」です。教会は、聖徒の交わり、聖なる者の共同体です。しかし、その実態は、決して、聖いと呼べるようなものではありません。クリスチャンを名乗ることを恥ずかしいと思うほどに俗なるもの、汚れたものであることを思わされます。 かつて、コリントにある教会も、その点でさまざまな問題を抱えていました。分派争いや道徳的、倫理的な乱れ、礼拝の秩序そのものが保てなくなるほどの、およそ教会と呼ぶに値しない状態でした。しかしパウロは、このようなコリント教会への手紙の冒頭に「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と挨拶文を送っています。 「聖」とは、神の所有物となるということです。キリストの十字架の贖いの恵みによって、罪赦されて、神の所有物となったので、コリント教会は聖徒であり、聖なる者とされた人々なのです。罪人の頭であった私たちも世の人から選び分かたれて神のものにされた、その一点において「聖なる者」と呼ばれるのです。 Mon, 22 May 2017 00:10:00 +0000 キリストの血により(ヨハネの黙示録 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170522 no 2017 「あなたは、屠られて、 あらゆる種族と言葉の違う民、 あらゆる民族と国民の中から、 御自分の血で、神のために人々を贖われ …たからです。」 (ヨハネの黙示録5章9節~10節) 「教会」と聞いて、まず心に思い浮かべるのは、屋根の上に立てられた十字架ではないでしょうか。日本よりクリスチャン人口が多いお隣の国、韓国では、暗くなるとこの十字架に赤い電気が灯り、教会の存在をより一層アピールしています。イエス・キリストは、人びとを罪の世から救い、永遠の命を得させるために、十字架においてご自身の血を流されました。赤い十字架は、このキリストの血による罪からの贖いを表しています。 十字架によって救われた者たちは、一人ひとりが主イエス・キリストに聖霊によって、結び合されています。そして、その一人ひとりは、世の中で孤立無援の存在なのではありません。キリストのもとで一つの群れとなり、お互いを兄弟姉妹とする強い絆で結び合わされていきます。 主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われました。そのような小さな群れから、数百人を超える大きな群れまで、このキリストの救いを信じる者の群れが「教会」となり、やがてそれは国を超え、民族を超え、時を超えた存在となるのです。 Sun, 21 May 2017 00:10:00 +0000 神の恵みによる選び(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170521 no 2017 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 (エフェソの信徒への手紙1章4節) この御言葉は、わたしが入信して間もない頃、自分の信仰が確かなものかどうか悩んでいた時に与えられたものです。その時、驚きと喜びの中で神の恵みに感謝し、主を賛美しました。 「予定についての信仰の宣言(50周年記念宣言)」4(2)に「神がわたしたちをキリストにあって選ばれたのは、世からわたしたちを聖別してキリストのもとに集め、神に仕える民としてわたしたちの奉仕を用い、神の国を進展させ、完成に至らせるためです」とあります。 神の選びを確信できた後、どのように生きていけばよいのかという課題が頭に浮かんできました。そのような時に出会った御言葉がこれです。「その一人の方(キリスト)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(2コリ5章15節)。 この御言葉により改革派教会の伝道者になろうと決心しました。43年間、定年まで伝道牧会を続けられた事を心から主に感謝します。 Sat, 20 May 2017 00:10:00 +0000 永遠にあなたがたと一緒に(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170520 no 2017 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。…この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 (ヨハネによる福音書14章16節~17節) 月曜日に確認したように、聖霊なる神は、天地創造の初めからおられた永遠の存在、永遠の神です。ですからきょうの御言葉で言われているとおり、この方は永遠に私たちと一緒にいてくださることができます。 きょう、もう一点心に留めたいことは、聖霊なる神が「これからも、あなたがたの内にいる」と言われていることです。「あなたがたと一緒に」というのは、周りで漂うようにそばにいるというのではないのです。 天から降ってきた聖霊は、もともと、いまにも爆発しそうな、雷のように落ちそうな存在だったのでした。そういう爆発的な力が私たちの内にある、ということを、私たちはもっと感覚を鋭くして感じ取りたいと思います。その爆発的な力は、もとはと言えば、父なる神の熱意から来ているものです。罪深い私たちを何とかして救い、まことの命に与らせたいという深い憐れみと愛。それほどまでの力が私たちの内にあるのならば、私たちはそれに突き動かされないわけはないのです。 もう祈るだけの者ではなく、御心を行う者へと変われるはずです、永遠に。 Fri, 19 May 2017 00:10:00 +0000 神の霊が、あなたがたの上に(ペトロの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170519 no 2017 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、…驚き怪しんではなりません。…あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。…神の霊が、あなたがたの上にどとまってくださるからです。 (ペトロの手紙一4章12節~14節) できれば試練に遭いたくない。そう思う人は少なくありません。しかし聖書によれば、キリスト者には試練がふりかかってくるものなのです。試練は耐え忍ぶもの、と思いがちですが、きょうの御言葉の省略された部分では「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」と言われています。驚きます。 なぜそこまで言えるのでしょうか。そこに「神の霊」が働かれるからです。19節には「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」とあります。神が「真実であられる」こと、聖霊が天地創造のとき以来の存在であることは確認しました。そのお方にゆだねてよいのです。 また「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(5章10節)という言葉も見えます。試練に遭うと、このような聖霊の働きを味わえるので、喜ぶことすらできるというわけです。 Thu, 18 May 2017 00:10:00 +0000 アーメンと唱えてキリストとつながる(コリントの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170518 no 2017 わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。 (コリントの信徒への手紙二1章21節~22節) 「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」に助けられて祈れるなら、力が与えられて、がんばれそうな気がします。しかし、試練の道を歩んでいるときには、祈ることすらできなくなる、というのが、弱い私たちの現実です。 きょうの御言葉の直前にこう書いてあります。「神は真実な方です。…神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」(18~20節)。神はもう、イエス・キリストにおいてすべての約束を果たしてくださいました。神もイエス・キリストも真実な方、アーメンな方です。祈れなくなってしまっても、この方の言葉・この方の名によって献げられる祈りに「アーメン」と唱え、このお方につながっていさえすれば、希望は失われません。「わたしにつながっていなさい。…あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハ15章4~7節)。祈る力(霊)がきょう再び与えられますように。 Wed, 17 May 2017 00:10:00 +0000 「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊(ガラテヤの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170517 no 2017 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 (ガラテヤの信徒への手紙4章6節) 昨日さらりと「イエス・キリストは、聖霊の力を受けて地上を歩まれ、十字架の死を忍ばれ、異邦人も含めすべての民のために立てられ(復活させられ)た」と記しました。 主イエスは、神の御子です。しかし「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い」、十字架の死に向かわれるときには、御子であるにもかかわらず「この杯をわたしから取りのけてください」と悲痛な祈りを祈られました。「アッバ、父よ」は、この祈りのときの叫びです。この叫びから「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という祈りに変えられていきました。 「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」とは、父の御心に従いとおせるように与えられる神の力のことです。自分の十字架を背負って主に従え、と命じられていますが、これは簡単にできることではありません。しかし「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使1章8節)と言われているとおり、「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」に助けられて祈るなら、神は「わたし」を新しく創り変えてくださり、主の言葉に従いとおせる者とされるのです。 Tue, 16 May 2017 00:10:00 +0000 約束された“霊”(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170516 no 2017 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤの信徒への手紙3章14節) きょうの御言葉には、旧約聖書のすべての約束の成就が凝縮されています。 まず「アブラハムに与えられた祝福」ですが、これは「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」という約束のことです(創22章18節)。そしてこれは、神がその子イサク、孫ヤコブとも約束してくださった祝福です。 その祝福が「キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」とあります。昨日見たように、イザヤは救いの到来を、霊の動きに注目して預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(11章1、2節)。「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」(同10節)。そのとおり「若枝」であるイエス・キリストが、聖霊の力を受けて地上を歩まれ、十字架の死を忍ばれ、異邦人も含めすべての民のために立てられ(復活させられ)ました。 そして「その後(主の死と復活が成し遂げられた後)、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエ3章1節)との約束どおりに、ついに私たちにも聖霊が降ったのです。 Mon, 15 May 2017 00:10:00 +0000 神の霊が水の面を動いていた(創世記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170515 no 2017 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 (創世記1章1節~2節) 使徒信条で「我は聖霊を信ず」と告白します。「聖霊」について何をどう信じているか、それを今週確認します。 聖霊のことは、創世記の冒頭に記されていますので、ハイデルベルク信仰問答 問53の答にあるとおり、この方は永遠の存在、永遠の神です。天地創造の初めからおられた、ということです。 天地創造のとき、聖霊は何をしていたのか。その後どうなったのか。実はこの点について、あるユダヤ人たちの理解が私たちに、非常に興味深く、大切なことを教えてくれます。「神の霊が水の面を動いていた」とありますが、「動いていた」という言葉は、雷が落ちる前のように、エネルギーが溜まってブルブルと動いているさまを表す言葉だそうです。落ちるか、爆発するか、次の段階を待っている動きを表す言葉です。しかし、天地創造が終わっても、聖霊の次の段階の動きはありません。創世記の中でも、完結しません。 やがてユダヤ人たちはこの聖霊がいつ落ちるかに関心を抱くようになりました。預言者の中ではイザヤが特に関心を持ち、救いの到来を預言するときに「ついに、我々の上に霊が高い天から注がれる」(32章15節)と表現しました。 Sun, 14 May 2017 00:10:00 +0000 契約の子の救い(マタイによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170514 no 2017 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 「ラマで声が聞こえた。 激しく嘆き悲しむ声だ。 ラケルは子供たちのことで泣き、 慰めてもらおうともしない、 子供たちがもういないから。」 (マタイによる福音書2章17節~18節) 自分とは別の「ユダヤ人の王」が生まれたと聞いたヘロデ王は、将来、自分の王座が奪われる不安と恐れに駆られて、生まれたばかりの主イエスを殺そうとします。そのためにヘロデ王は、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」のでした。 主イエスの殺害は失敗に終わりましたが、この事件の巻き添えで殺された多くの幼子の母親たちは、悲嘆の中に突き落とされました。18節のエレミヤの預言には「希望」の言葉が続けられていたのですが、この母親たちの希望とは何でしょうか。それは主イエスを救い主と信じる自分の信仰です。 「こんな目に遭ったら、そんなこと、信じられるわけがない」と思われるかもしれません。しかし、それだからこそ、信じることができた時には、「この信仰は、わたしを救いに選んでくださった神からの賜物だ」と悟ることができるのでしょう。そして、母親を救いに選んでくださった神が、その子をも契約に入れていてくださったという事実が、その時に明らかとなり、こうして母親は慰めを受けることになるでしょう。 Sat, 13 May 2017 00:10:00 +0000 再臨のキリストによる裁きの祝福(マタイによる福音書 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170513 no 2017 「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 (マタイによる福音書25章46節) 再臨のキリストの裁きは、祝福なのでしょうか。 マタイによる福音書25章34~46節で、主イエスは、弟子たちに、王による裁きをお話になりました。裁きとは分かつことです、右と左に。 しかし、主イエスがなさる王の裁きのお話は面白いのです。なぜなら、王は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした」ことを、自分にしたこととするからです。 王の兄弟である最も小さい者とは、私たちキリスト者です。王とはキリストです。再臨のキリストは王として、世界の人などを裁かれます。その裁きの規準は、キリストがこの世に遣わされた、最も小さい者に、人びとがどのように応対したか、ということです。 キリスト者が困難を覚えていた時に、ある人が憐れみ、親切にしたなら、その人は主イエスに親切にした者として祝されます。ところが、キリスト者に無慈悲なことをした者は、主イエスに無慈悲なことをした者として裁かれます。 主イエスは小さなキリスト者をこの世に祝福をもたらす存在として置かれています。キリストの再臨の時に、この世における教会とキリスト者の価値が明らかとなります。 Fri, 12 May 2017 00:10:00 +0000 再臨のキリストを待ち望む(詩編 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170512 no 2017 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 (詩編8章23節) 『ハイデルベルク』問52では、再臨のキリストによる慰めが教えられています。 使徒パウロは、「将来の栄光」について記しています。現在、キリストと共に苦しむことが、将来、キリストが再臨された時に、その栄光に入れられる希望となると(ロマ8章18~30節)。 今、教会は、被造世界と共に、罪ゆえに虚無に服している面があります。迫害と苦難に伴う悲しみは避けられません。しかし、希望があります。十字架のキリストは復活され、昇天されましたが、再び来ると約束してくださいました。その時に私たちの救いが成就します。被造世界が再創造を願い、うめいているように、神の子である私たちも、この体が完全に贖われる日をうめき、待ち望んでいます。 神の子とされ、御国でキリストと共に栄光の中で、主を賛美している自分の姿を想像できませんが、今の苦しみから解放されることはうれしいことです。キリスト者といえども、この世では罪人であり、罪を犯すことは必然であるというこの世の惨めさから解放されるのです。何とキリストの再臨は待ち望ましいことでしょう。 Thu, 11 May 2017 00:10:00 +0000 すべての敵から守り支えてくださる(詩編 110編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170511 no 2017 わが主に賜った主の御言葉。 「わたしの右の座に就くがよい。 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。 敵のただ中で支配せよ。 (詩編110編1節~2節) 詩編110編は、王の即位式に歌われました。祭司か預言者が、王に油を注ぎ、王冠を被らせ、律法の書を手渡しました。そして、預言者を通して、王に即位する者に、神託が告知されます。その時、王は主なる神が設けられた王座に就くがよい、と主なる神は仰せになりました。「わたしの右の座に就く」ことは、王の名誉であるだけではありません。主なる神の子として神の支配に参与することを意味しました。 「わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」とは、完全な征服を示す象徴的行為です。実際にヨシュアは、カナンの五人の王を捕らえてから、すべてのイスラエルの人びとを呼び集めて、兵士たちの指揮官たちに五人の王の首を足で踏むように命じました。そして、ヨシュアはイスラエルの人びとに「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して主はこのようになさる」と言いました(ヨシュ10章24、25節)。 今、主イエス・キリストは父なる神の右の座につかれ、その御力によりすべての敵からこの世の教会を守り、支えてくださっています。 Wed, 10 May 2017 00:10:00 +0000 昇天と神の右に座されることの益(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170510 no 2017 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、…キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 (エフェソの信徒への手紙4章12節~13節) 『ハイデルベルク』問51は、私たちにキリストの昇天と神の右の座につかれることの益を教えています。すなわち、キリストは聖霊を通して私たちに「天からの諸々の賜物を注ぎ込んでくださる」こと、父から与えられた天地の一切の権能によって、「すべての敵」から教会を「守り支えてくださる」ことです。 使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙4章で、私たちに勧めを語ります。それはまず「一つ」という言葉で一致を保つことの勧めです。そして、7~12節で、パウロは、私たち一人一人が「キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられ」、「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」というキリストの賜物としての役務が与えられていることを語ります。そして、これらのキリストの賜物としての役務は、補い合い、結び合わされて、キリストの体なる教会を建て成長を促進するために与えられたものです。 「キリストのしもべとしての役員は、各々の召しと賜物に応じて力を合わせて共に働き、主の模範にならって愛をもって奉仕する」(70周年記念宣言)。 Tue, 09 May 2017 00:10:00 +0000 父なる神の、キリストによる統治(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170509 no 2017 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 (エフェソの信徒への手紙1章22節) 『ハイデルベルク』は私たちに「この方(昇天し、神の右に座されたキリスト)によって御父は万物を統治なさるからです」と教えています。 エフェソの信徒への手紙1章15~23節は、使徒パウロの祈りです。彼は感謝と執り成しの祈りをしつつ、父なる神が、キリストを天においてご自分の右の座に着かせられることで、万物をご支配なさることを教えています。キリストが死人の中から復活し、昇天し、神の右の座につかれたのは、万物をキリストの足もとに服させるためであったと。 万物を支配なさるキリストが、私たちの教会の頭です。この世の荒波の中でキリストの体である教会は、迫害の嵐に遭い、苦難に遭います。しかし、教会は、父なる神より天地の一切の権能を与えられた教会の頭であるキリストとの豊かな交わりと平安と慰めの中に生きることを許されています。 「福音に生きる教会は、キリストの命が通う一つの体であり、互いに配慮しいたわり合う牧会的共同体である。一つの部分が苦しめば全体が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全体が共に喜ぶ」のです(70周年記念宣言)。 Mon, 08 May 2017 00:10:00 +0000 キリストはキリストの教会の頭である(コロサイの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170508 no 2017 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 (コロサイの信徒への手紙1章18節) 『ハイデルベルク』問50は、私たちにキリストの昇天について、二つの目的を教えています。それは、キリストがキリストの教会の頭であること、そして、父なる神がキリストを通して万物を統治されていること、です。 上記の御言葉は「キリスト讃歌」と呼ばれてきたものの一部です。パウロはその讃歌の前半でキリストと創造の関係(コロ1章15~18節)を、後半でキリストと救いとの関係(同1章18~20節)を歌っています。先だっておられた御子と万物の創造を歌い、今もキリストによって万物の存在は継続し、支えられていることを歌っています。そして、パウロは、御子イエス・キリストが同時にキリストの教会の頭であると歌っているのです。「キリストの体」は、「エクレシア」、すなわち、人びとの集会です。信徒の集会であり、地方ごとにある共同体です。わたしは、小さな群れと共に毎週礼拝をしています。 地方の小さなキリストの群れであっても、「私たちの教会の頭はキリスト」と信じる時、大きな喜びを覚えます。人が作った団体ではなく、キリストの復活によって造られた群れであるからです。 Sun, 07 May 2017 00:10:00 +0000 神の全能、己の無能(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170507 no 2017 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。 (ヨハネによる福音書15章16節) 表題の「神の全能、己の無能」という言葉は、信仰的な立場を改革派とは異にする、ある他派の伝道者が、何度も強調していた言葉です。わたしは改革派教会に来る前、この伝道者が校長を務める神学校で教えを受けていました。しかし皮肉なことに、この言葉が身にしみてわたしに分かるようになったのは、改革派教会へ来てからのことでした。わたし自身の救いの体験が、まさにその通りの救いであったにもかかわらず、です。 神の全能を本当に悟らないままでは己の無能を悟ることができず、己の無能を本当に悟らないままでは神の全能を悟ることができません。神の主権的な選びを悟る者は、自分には神への信仰を選び取る力がなかったことを悟ります。また、自分には神への信仰を選び取る力がなかったことを悟った者だけが、神の主権的な選びを悟ります。 「神の全能、己の無能」、これを悟った人は幸いです。神が、ご自身の自由な恵みと憐れみとによって、あなたを救いへと選んでくださいました。また、神が、ご自身の自由な恵みと憐れみとによって、それをあなたに悟らせてくださったのです。 Sat, 06 May 2017 00:10:00 +0000 キリストの聖霊(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170506 no 2017 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 (ヨハネによる福音書14章16節) ハイデルベルク信仰問答 問49の答によれば、天にあげられたキリストは、ご自分の霊である聖霊を地上に送られました。 イエス・キリストは、ひとりの人ですから、一つの場所に身を置くことしかできませんでした。しかし、聖霊は、ペンテコステの朝、弟子たち一人ひとりの上にとどまったように、信ずるすべての者の内に留まります。また、風が思いのままに吹くように、時と場所に限定されることなく駆け巡り、キリストの支配を天地に満たす方でもあります。 ところで、信仰のない人は、私たちが非科学的な復活やキリストの再臨を信じていることに驚きます。私たちも、なぜ自分が復活や再臨を信じるようになったのかうまく説明できないかもしれませんが、この信仰は、私たちが聖霊により復活のキリストにあずかっていることの実りです。 聖霊が罪人に働きかけるとき、霊的に死んでいる者を、復活させ天地を支配しているキリストに結びつけ、その死と復活を適用して神の子につくりかえていきます。神の子にされた私たちは、地上のことではなく天上のことを求め、神の右に座し栄光を受けておられるキリストを讃えます。 Fri, 05 May 2017 00:10:00 +0000 キリストが天に(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170505 no 2017 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 (ヨハネによる福音書14章2節) 昨日に続いてきょうも、キリストが父なる神のもとで栄光にあずかっておられることの益を考えます。 今、キリストが天で輝いておられるのは、神の永遠の御子としてだけではありません。人となられ十字架において死んで葬られ永遠の命に復活された私たちの救い主として、です。キリストが栄光を受けられたのは、自分の益のためではありません。私たちの救いのためです。救われる者の初穂として、輝くためです。私たちの救いの核心は、キリストが語られたとおり、「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」にあります(ヨハ14章3節)。 科学的なものの見方に慣れている私たちには、復活であるとか神の国を受け継ぐということについて、戸惑いをおぼえることがあるかもしれません。しかし、キリストは復活し、その栄光のからだを持って天におられます。 御子が弱き肉を取って人となられたのは、肉を持って生きている私たちを救うためでした。そして、この救いの完成は、キリストのいる所に、私たちも栄光のからだを持っていることになる。このことにあります。 Thu, 04 May 2017 00:10:00 +0000 弁護者キリスト(ヨハネの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170504 no 2017 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 (ヨハネの手紙一2章1節) キリストは、天に上げられ、父なる神のもとで父なる神と同じ栄光を受けておられます。 キリストがこの栄光にあずかったのは、第一に罪なき生涯を送り、神に従いきったこと、第二に十字架において私たちのすべての罪を償ったことによります。しかもキリストはひとりの人としてではなく、教会のかしら、すなわち信じるすべての者の代表として父のもとにおられます。 私たちは日々罪を犯す者でありますが、父なる神はこのキリストにおいて私たちを見ておられます。罪に支配され、霊的に死んだ者としてではなく、キリストの恵みのもとに入れられ、キリストの命に生きる者として、神は私たちを見てくださいます。 ハイデルベルク信仰問答の問49の答は、キリストを弁護者と呼んでいます。私たちの傍らに立って、「この人の欠けと罪はわたしが償いましたから、わたしのゆえにこの人を、罪なき神の子とみなしてください。そのために父はわたしを十字架にかけたのではありませんか」と、弁護しておられるかのようです。 このキリストを主と仰ぎ見て、赦しの喜びを握りしめ、与えられた生涯を歩もうではありませんか。 Wed, 03 May 2017 00:10:00 +0000 天と地と陰府(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170503 no 2017 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 (ローマの信徒への手紙8章34節) 天に上げられるイエス・キリストを見た弟子たちは、復活の朝に主イエスが葬られた墓をふさいでいた大きな石が転がされ、墓が開いているのを目で見ていました。 ところで、墓は、復活した主イエスが外に出るために開けられたのではありません。復活した主イエスは鍵のかかった部屋に入ることができたのですから。墓穴は、死が克服され、陰府に風穴が開けられたことを、弟子たちが見て確認するためのものでした。 その後弟子たちは、主イエスが天に上げられるのも目で見ました。開いた墓と昇天とを合わせて考えると、弟子たちは天と地と陰府とが復活の主イエスによって境が取り払われ、ひとつにされたことをその目で見たことになります。 天と地と陰府の境を取り払ったイエス・キリストは、教会のかしらです。それゆえ、教会は、地上にあっても、天に座すキリストの恵みの支配の中に生かされており、死の力はもはや無力です。 キリストを礼拝する教会は、地において天に通じている唯一の場所です。小さな教会であっても、大きな教会であっても、天上の祝福である永遠の命はひとしく満ちています。 Tue, 02 May 2017 00:10:00 +0000 天を見つめていた(使徒言行録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170502 no 2017 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 (使徒言行録1章9節) キリストが上げられた天とは、空や宇宙のことではなく、神の御座です。御子をイエス・キリストとして地上に遣わしてくださった父なる神がおられるところです。 この父のもとに上げられたことから分かることは、主イエスが父から託された救いを成し遂げてくださったこと、また、父なる神が主イエスの地上の御業を受けいれてくださったことです。託された働きを途中で投げ出して戻ることなどありえないからです。 キリストは、神の栄光を捨て、人となり、罪なく生き、人類の罪の償いを果たしてくださいました。父なる神は、受肉前の永遠の御子としてではなく、人となってくだった私たちの主イエス・キリストを受け入れてくださいました。 復活した主イエスが天に今おられることは、天が人のために用意されていることを意味しています。私たちもその時がきたなら、栄光ある姿に変えられ、キリストとともに、天の国を受け継ぐことになる、これが福音の約束であり、救いの完成です。 私たちが天に上げられた主イエスを仰ぎ見ることは、天の国を受け継ぐ私たちの幸いを見ることでもあります。 Mon, 01 May 2017 00:10:00 +0000 天にのぼり(使徒言行録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170501 no 2017 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。 (使徒言行録1章9節~10節) 使徒言行録1章9節には、弟子の前でイエス・キリストが天にあげられたこと、弟子たちはイエスを雲に覆われて見えなくなるまで見つめていたことが書かれています。弟子たちは本当に驚いたことでしょう。それゆえ、二人の御使いに声をかけられるまで、弟子たちは天を見つめていたとあります。 上げられていく主イエスをその目で見たことには、大切な意味があります。それまでにも、主イエスが神から遣わされた救い主であることを教える特別なできごとが起こるということがありました。 ヨハネから洗礼を受けたとき、天が裂けたこと、聖霊が鳩のような姿で主イエスの上に降ったこと、天から声まで聞こえたことがありました。これは、主イエスにおいて天が、すなわち神の奥義が開かれたことを教えるためです。 今度は、その天に主イエスが上げられるのを、弟子たちは目で見たのです。それゆえ、主イエスにおいて天と地がつながっていることを確信したはずです。この後、教会が誕生し、道、真理、命であるキリストを証ししていきます。教会は、目で見たことを世に証ししているのです。 Sun, 30 Apr 2017 00:10:00 +0000 愛なる神と共に(ヨハネの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170430 no 2017 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 (ヨハネの手紙一4章16節) わたしは救いというものを「神が共にいますこと」と定義しています。ますますその思いが強くなってきています。パウロ自身の心情でもありました(フィリ1章23節)。それは単に定義としてだけではなく、そのことを確信し、自己体験にしようと願っています。神が共にいますことこそ、生きていく上での支え、励まし、慰めだと思います。 毎日、その時間と共に人生は刻々と古くなっていきます。そして、それをだれも押し留めることはできず、取り返しがつきません。慙愧の念に駆られ、悔恨の積み重ねの日々です。どうして、新しい生活など望めるのかと思います。 しかし、そのような中で、神が共におられます。眠っているときもさめているときも、喜んでいるときも、悲しんでいるときも、順境のときも、挫折、失敗しているときも、神はわたしのうちに共にいまし、変わらない助けとなっていてくださいます。 神はインマヌエルの神です(マタ1章23節)。その神との出会いが、救いです。救われた者としてその神と共に生きることが、私たちの新しい人生です。 Sat, 29 Apr 2017 00:10:00 +0000 しかし本当は(フィリピの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170429 no 2017 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 (フィリピの信徒への手紙3章20節) この聖書の言葉は「しかし」で始まっています。その前に語られた事柄を受けてのことです。その前に語られていたのは「腹を神と」することでした。食べることは大切なことです。個人の人生にしても、政治にまつわる出来事にしても、どうやって「食べる」「食べさせる」か、の問題という面があるのは否定できないのではないでしょうか。そして、それこそが現実的な事なのだと私たちはいつしか信じ込んでいるのかもしれません。 しかし、とパウロは言います。それとは違う現実に私たちキリスト者は生きはじめている、そこに一緒に立とうというのです。その現実こそが、天の本国におられる主イエスと共にある歩みです。 パウロはこの節のもう少し前の箇所(3章14節)で、自らを「目標を目指してひたすら走る」者としています。それは、自分の地上における今この時の生き方において、天の国というゴールを目標とし、常に主イエスとの関わりにあって前向きに生きる生き方です。 私たちは、本当は天に本国を持つ国民なのだ、だからそのように生きていこうというのです。 Fri, 28 Apr 2017 00:10:00 +0000 罪からの自由(コリントの信徒への手紙一 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170428 no 2017 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 (コリントの信徒への手紙一15章16節~17節) コリントの教会には、主イエスの復活を信じきれない人たちが存在したようです。私たちもまた、復活ということを身近に感じられないような気がする時があるかもしれません。それに対してパウロは、復活とはそもそも私たちに何をもたらしたのかと問いかけています。それにどう答えるかが、私たちの信仰それ自体の価値あるいは意味を左右します。 パウロははっきりといいます。もし、ただ「かつて主イエスというすばらしい人がいてくださった、ということだけに望みをかけているのであればそれは惨めなことだ」と(1コリ15章19節参照)。なぜなら、もしそうであれば、きょうのところにあるとおり、私たちは未だに罪の中にあることになるからです。 パウロがいうところの「罪の中にある」とは、私たちが神と敵対し、神の民ではないということです。しかし、主イエスは十字架の死で私たちの罪を贖い、そればかりではなく、復活によって、神の御前で生きる新しい生き方の道をも開いてくださいました。それゆえ私たちはきょうも罪の人ではなく、神の民として歩むのです。 Thu, 27 Apr 2017 00:10:00 +0000 今ここで天に生きる(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170427 no 2017 神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 (エフェソの信徒への手紙2章4節~6節) 使徒言行録には主イエスが天に昇られる様子が描かれています。そして私たちは、主イエスが今も天の神の右の座において世を支配されていることを信じています。一方、私たちは地上にあって、肉の命を生きています。ですから、天の神と私たちの生活には隔たりがあって、私たちはただ聖霊において、父なる神や主イエスと関わりを持つことができるというように理解しています。 そのような認識は神学的には正しいことですが、パウロはもう一歩踏み込んで、私たちの命また人生は、実際のところどのようなものなのかを描き出そうとしています。その際、パウロは人が以前は神の御前に死んだ状態で悪魔の支配下にあって生きていたということをまず確認しています(エフェ2章1、2節)。 しかし、今は違うというのです。私たちは、今この地上において既に、主イエスと一つにされているゆえに、復活の命に生き、また、天の王座にある主イエスと一緒に、天の王座についているというのです。たとえ地上の歩みが厳しくとも、私たちは今このところで、天上の交わりを味わいつつ生きています。 Wed, 26 Apr 2017 00:10:00 +0000 キリストと共に(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170426 no 2017 (ローマの信徒への手紙6章5節~6節) パウロはこのところで「古い自分」ということを言います。それはどのようなものでしょうか。私たちはアダム以来、生まれたままでは罪に生きており、その実態は「不従順」にあるとパウロは言います(ロマ5章19節)。それは神に従うことができず、そもそも神を知ることができないゆえに、神なしで自ら善悪を判断して立派に生きていくことができるとする生き方です。 しかし、洗礼を受けた時にそのような一切を判断するわたし―すなわち「古い自分」は「キリストと共に葬られ」たというのです(同6章4節)。パウロはこのことについて、私たち一人ひとりに「それともあなたがたは知らないのですか」と問いかけています(同6章3節)。それは当然ながら、あなたがたは知っていると言いたいからです。では私たちは何を知っているのでしょうか。それは、私たちが、きょうこの時も、明日も、地上の具体的な人生の中で、罪の奴隷にならなくてもよいということです。 洗礼を受け、キリストと一体となった私たちは、もはやキリストと別の存在ではなく、いつでもキリストとつながっています。それゆえに新しい復活の命に生きているのです。 Tue, 25 Apr 2017 00:10:00 +0000 変わらぬ賛美を(ペトロの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170425 no 2017 主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は…わたしたちを新たに生まれさせ…イエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…天に蓄えられている…財産を受け継ぐ者としてくださいました。 (ペトロの手紙一1章3節~4節) ペトロは、きょうの箇所の書き出しでまず、神を賛美します。「ほめたたえられますように」という言葉は、決して空騒ぎというものではなく、彼の深いところから出た言葉です。 ペトロはこの時も楽な生き方をしていたわけではありません。また、教会の歩みが常に順風満帆だったわけでもありません。この直後の6、7節においては、二回も「試練」という言葉が登場します。また、この手紙の書き出しには「各地に離散して仮住まいをしている」という言葉もあります。これは、この世が仮住まいであるという信仰の視点を示し、同時にキリスト者の生が、必ずしも安穏な時ばかりではないことにも言及しています。しかし、その直後には「選ばれた人たち」という呼びかけが続いています。そしてこれこそがペトロの神賛美の理由です。 では私たちは何に選ばれているのでしょうか。それは「新たに生まれ」ることであり、また「復活によって、生き生きとした希望を与え」られ、朽ちない「財産を受け継ぐ」者に、です。主イエスのご復活のゆえに、私たちはいつもこの希望と賛美に生きます。 Mon, 24 Apr 2017 00:10:00 +0000 神に受け入れられているわたし(ローマの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170424 no 2017 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。 (ローマの信徒への手紙4章25節) きょうの言葉の前提となっているのはアブラハムの歩みです。ご存じの通り、アブラハムには神によって祝福の約束が与えられていましたが、百歳になるまで子どもは与えられませんでした。そのままでは、約束の成就の見込みはありませんでした。 しかし、そのようなアブラハムは一つのことを信じていました。それは神こそは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ロマ4章17節)そのような方であるということです。そして期待しようがない状況において神と共に歩んだアブラハムはそのあり方が義(神に受け入れられた者)とされたのでした。 ところで、信仰によるこのような生き方は、一人アブラハムだけのものではないと、パウロは言います(同4章23、24節)。私たちは、罪にとらえられているという意味で、見込みのない者です。キリストは、死をもって罪を贖い、また、復活において命に呼び出されることによって、見込みのない者が新しく生きる姿を実際に示してくださいました。私たちもこの主の復活を信じて義とされ、永遠の命を手にしています。 Sun, 23 Apr 2017 00:10:00 +0000 聖霊の実(ガラテヤの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170423 no 2017 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 (ガラテヤの信徒への手紙5章22節~23節) 罪の縄目から解放された生、悪いところを取り除いて全く新しくされた生、それがキリスト者の新しい生き方、新しい道です。この道を私たちはどうやって見いだし、力強く歩むことができるのでしょうか。 新しい生き方が、私たちの奮励努力の結果により確立されるとしたら、それは惨めな評価を伴うことになるでしょう。私たちの力など大したものではないからです。罪との戦い、この世の霊的勢力との葛藤でいつも敗れています。挫折と失敗の連続です。そして、自己嫌悪が山積します。 しかし、そうではありません。そうであってはなりません。聖霊は、私たちのうちにあって、私たちを生かし、動かし、促し、変えていかれます。肉は醜悪なものを私たちのうちに積み残していきますが、聖霊は私たちのうちに働き、大きな果実を残していかれます。私たちの内に起こされる、パウロが列挙している大きな、驚くべき変化こそ私たちに対する聖霊の豊かな価値ある賜物、贈り物です。 そして、聖霊はこの賜物をすべての神を信じて生きるものに確実に間違いなく与えられます。私たちは受けるのみです。 Sat, 22 Apr 2017 00:10:00 +0000 試みの中にあるキリスト者の幸い(ヘブライ人への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170422 no 2017 キリストは、…激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。…そして、…神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 (ヘブライ人への手紙5章7節~10節) キリストのご受難と死を通して私たちに示されることは、全くの恵み以外にありません。御子が私たちと同じ肉を取り、人としてお生まれになったということは、私たちの弱さや悲しみを共有されるということのほかありませんでした。 十字架の前の苦しみは、このお方が「激しい叫び声をあげ、涙を流し」たことからも分かります。それはすべて私たちが負うべき苦しみであり、死でありました。このすべてをご存じのお方が私たちの大祭司となってくださったということは小さいことではありません。大祭司。この職務はわが国の歴史の中にありませんのでピンと来ないかもしれません。旧約聖書の中でこの役割は、神殿において神の御前で人びとの罪の贖いとなるいけにえの動物をささげて執り成す、というものです。 毎年ささげ続けなければならない犠牲を、御子はご自身の身体をもって、一度神にささげられました。それゆえに、主イエスを神の御子と信じるだけで、神は私たちに御子と等しい永遠の命を与えてくださるのです。この驚くべき恵みは、主イエスのゆえに、私たちが試みの中にあっても、揺るがない完全な約束です。 Fri, 21 Apr 2017 00:10:00 +0000 感謝のいけにえ(エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170421 no 2017 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章1節~2節) やもめの息子を死からよみがえらせ、会堂長の12歳の娘を生き返らせ、愛するラザロを手元に引き寄せられた力あるお方こそ、人の子イエス・キリストです。 このお方は、私たちのために死なれました。しかも死後に葬られ、陰府にくだり、私たちの味わう苦しみをなめ尽くしてくださいました。そして、その死において、ご自身をいけにえとして完全に神に献げてくださいました。それは父なる神の御心に添ったものです。御父は、御子のなだめの香りを喜んで受け入れてくださいました。 それは、キリストを信じて神の子どもとして愛されている私たちが、御子にある愛の存在として互いに愛によって歩むことを望んでおられるからです。 そこまでしてくださったお方と共に生きる時に、私たちが愛の存在にならなければ矛盾でしかありません。それでも他人を愛し切れない私たちです。私たちをどこまでも愛してくださる主は、祈りのうちに真理の聖霊によって私たちを助け、私たちが愛に生きるように取り計らってくださいます。主にある交わりこそ私たちの感謝のいけにえです。 Thu, 20 Apr 2017 00:10:00 +0000 「キリストの犠牲と死」からの益(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170420 no 2017 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。 (コリントの信徒への手紙一6章6節~7節) 90歳近くのご婦人から、「先生、復活があることは嬉しいのですが、いったい何歳くらいで復活するのでしょうか」という質問を受けました。「そのことについて聖書にはっきりと記されていませんので答えられません。神は決して悪いようにはなさらないでしょう」と答えるのが精一杯でした。 何歳で復活ということよりも、二度と罪の奴隷にならないということを心に強く留めたいと思います。もし輪廻転生のようなかたちで生まれ変わったとしても、また罪ある世の中に罪深い者として存在するならば、永遠に地獄なのではないでしょうか。 私たちはキリストの十字架により罪が赦されても、地上にいる間は罪の残りかすを拭えません。そのような骨の髄まで罪深いわたしが、イエス・キリストを神の子救い主と信じるだけで、二度と罪の奴隷とはならないという特権が与えられる、この破格の恵みに与ります。キリストの十字架の死を、わたしが生かされるためと信じて死ぬならば罪から解放され、さらに復活のキリストと共に、何歳のわたしであっても永遠の御国で生きることが許されます。 Wed, 19 Apr 2017 00:10:00 +0000 身代わりの死と私たちの死(テサロニケの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170419 no 2017 神は、わたしたちを…主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。 (テサロニケの信徒への手紙一5章9節~10節) 自分だけは死なないと錯覚している人がいます。それでいて死んだらすべては終わりだと決めつけていたりします。 神の愛は徹底して、神から離れている私たちを常に待ってくれている放蕩息子の父親と重なります。わたしが奉仕している学校で、生徒たちから聖書の時間に「神が愛なら、滅びの道を置いているのはおかしいのではないか」という質問を受けます。 神は私たちを見放されません。神から離れている私たちの間に立って、近づくことさえできない罪人を招いて執り成してくださるのがイエス・キリストです。主イエスに飛び込んだらよいのですが、罪の故に信じられず、頭の中で神は不平等だ、理不尽だと決めてしまいます。そこに人間の悲惨さがあります。地獄に行くのはまっぴらごめんであっても、神の国へ行くのはもっと嫌だと言っているようなものです。 神の子イエス・キリストは、「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるため」に命を注いでくださったのです。救われた私たちがともに、励まし合い、お互いの向上に心がけるためです(11節)。 Tue, 18 Apr 2017 00:10:00 +0000 キリストの葬り(イザヤ書 53章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170418 no 2017 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。 (イザヤ書53章9節) 死ぬことが本来ない神の子が、死なれました。これは大事件です。死は悲しい、信じられない、衝撃的な出来事です。死去じたい受け止めにくい出来事ですが、葬儀ということをもって完全な死別の確定となるのです。 私たちが死ぬ時、永遠の御国の命が与えられている確信ほど大きな慰めはありません。復活は自分が本当に死ぬという実感と裏表の関係だ、とわたしは思います。生と死との関係は、イエス・キリストの十字架を見るほかありません。神の子がこの世に遣わされたということは、まさに私たちの生を生きてくださったからにほかなりません。そして葬られ、一切の弁解もなく完全に死なれたのです。 このことは、神が天上からがんばれと私たちを励まされたのではなく、神である御子がこの世においでくださり、私たち人間の死と生の事実を経験してくださったことを意味します。私たちの死を実感するためには、「神に逆らう者と共に」つまり罪深い私たちと同じ姿をとってくださり、現実の死として「富める者と共に葬られた」のです。これこそ、真の愛にほかなりません。 Mon, 17 Apr 2017 00:10:00 +0000 キリストの死(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170417 no 2017 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 (ローマの信徒への手紙8章3節) 大学生の時、「神の子イエスがどうして神から呪われたものとならねばならないのか」という疑問が生じました。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」とあります(ガラ3章13節)。「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」(申21章23節)と説明されています。 それでも、キリストの死は呪われていたという言葉が頭から離れませんでした。祈りの中で、それほどまでに、わたしの罪は重いのだということを示されました。のほほんとしてクリスチャンホームに育ったわたしにとって、その衝撃は小さくなかったのです。小さい頃からいったい何を教わっていたのか。このとき、聖書の言葉が真剣に迫ってきました。 罪を罪として処断する死とは、このように徹底したさばきであったのです。この死は本来このわたしの身に起きなければならないことだったのです。それを御子に負わせるという神の計り知れないご計画があり、愛があります。少しだけそれを実感できたような気がしました。このお方の死を無下に扱ってはならないと本気で覚悟しました。 Sun, 16 Apr 2017 00:10:00 +0000 新生と希望(ペトロの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170416 no 2017 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…てくださいました。 (ペトロの手紙一1章3節~4節) 今日は、イースターです。 今日の聖句で、ペトロは、神が私たちを「新たに生まれさせ」たと語ります。私たちはすでに新しく生きています。新しい命にあふれています。その命が私たちを生かしています。その命は死人の中から復活させられたイエス・キリストから来たものです。 洗礼によって、私たちはキリストと共に十字架につけられて死に、しかしながら、キリストと共によみがえらされました(ロマ6章4節)。キリストの命が私たちのうちにありますから、生き生きとした、活力ある、希望に満たされます。 新しい命の一局面は希望です。新しく生きるとは、希望に生きることでもあります。希望こそ新しい命が生み出し、もたらす宝物です。どんな絶望的なときでも、苦悩に満ちた現実でも、私たちには希望があります。死でさえ、その希望を打ち壊すことはできません。復活の主イエス・キリストが共にいますところでは、希望は決して失われることはありません。 新しい人生とはキリストの命に生かされ、キリストの復活の希望に生きることです。それこそ、かけがえのない人生の基盤です。 Sat, 15 Apr 2017 00:10:00 +0000 呪いを引き受けられた主イエス(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170415 no 2017 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章13節) 当時のユダヤ人たちが、神を冒涜する者を処刑する方法は石打ちでした。しかし、ヨハネによる福音書の中でユダヤ人指導者たちがいみじくも言っているように、彼らには死刑を行う権限がありませんでした(ヨハ18章31節)。もちろん、ステファノの殉教の例が示すように、権限がなくても、しようと思えば石打ちの刑にすることもできました。しかし、ユダヤ人たちが主イエスを自分たちの手で処刑しなかったのは、主イエスをローマ皇帝に反逆する王として、ローマ人の手で処刑させたかったからです。結果、イエス・キリストは十字架の上で死を遂げられました。 けれども、神の救いのご計画は、この人間的な思惑をはるかに超えていました。神にはキリストを石打ちではなく、十字架の木にかける必然性がありました。ご自身が律法の書で伝えていた通り、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」(申21章23節)。 そうです。律法を完全に守ることのできない、呪われた「わたし」に代わって、主イエスが十字架の木にかかって、「わたし」の呪いを背負ってくださいました。 Fri, 14 Apr 2017 00:10:00 +0000 ポンテオ・ピラトのもとに(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170414 no 2017 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 (コリントの信徒への手紙二5章21節) 主イエス・キリストが十字架で苦しみを受け、死を遂げられたことは歴史的な事実です。もしこのことが人類の歴史の中で起こった出来事でないとしたら、キリスト教の救いは絵空事にすぎません。どんなに論理的に正しい教えでも、それが起こらなかった事実の上に成り立っているのであれば、信じるに値しません。 使徒信条には、ここだけ場違いと思える歴史的な人物の名前、ポンテオ・ピラトの名前が出てきます。この人こそキリストの裁判で重要な鍵を握っていた人物です。人間的な言い方をすれば、主イエスを赦すことも処罰することもこの人の手の中にありました。 しかし歴史は、人間の思うように進んでいるようでも、実はそうではありませんでした。主イエスを十字架にかけようとするユダヤ人の思惑も、それにうまく対処しようとするピラトの思惑も、それぞれ満たされたように見えて、実は神の深いご計画だけが実現していました。 罪のない主イエスを十字架に引き渡すことによって、神の義を受け取ることができるようにと神はされたのです。その救いの実現の痕跡は歴史の中に刻まれています。 Thu, 13 Apr 2017 00:10:00 +0000 十字架と神の義(ローマの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170413 no 2017 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 (ローマの信徒への手紙3章24節) 讃美歌262番はこう始まります。「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ」。そうです。キリストの十字架には罪人に対する神のこの上ない愛が表れていると同時に、罪に対する神の妥協を知らない義の要求が示されています。 神は決して罪を是認されるお方ではありません。犯された罪に対して完全な償いを求められるお方です。ご自分の求める義が少しでも侵害されることを許されません。その義の要求を、罪を犯した人間に突き付けておられます。しかし、この神の義の要求を完全に満たすことのできる罪人は一人もいません。泥だらけの着物を泥水でどんなに一生懸命洗ってもきれいにならないのと同じです。 けれども、ここにその要求を完全に満たすことのできるお方がおられます。まことの神でありまことの人である主イエス、その人です。主イエスが「わたし」に代わって十字架の上でわたしの罪を償い、神の義を満たしてくださいました。十字架の苦しみを通して主イエスが勝ち取ってくださった義を、今や神は恵みにより無償で信じる者に与えてくださいます。 Wed, 12 Apr 2017 00:10:00 +0000 罪と死との法則からの解放(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170412 no 2017 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 (ローマの信徒への手紙8章1節~2節) 神は罪を犯したアダムにおっしゃいました。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と(創3章19節)。本来、神から与えられた命も労働も人間に喜びと充実をもたらすものです。ここには「死」という言葉こそ出てきませんが、生きる意味をむなしくしてしまう死の不気味さが、いみじくも表現されています。 この罪と死の法則から「わたし」を解放してくれるただ一つの方法を神は用意してくださいました。それは、「わたし」の身代わりとなって、罪の罰を十字架の上で受けてくださったキリストと結ばれることです。 イエス・キリストを救い主と信じる者は、誰でもキリストと結ばれています。キリストと結ばれた者は、罪と死との法則から解放されて、永遠に神を喜ぶ人生へと回復していただけます。 主イエスが受けられた苦しみの中に、「わたし」のために用意された救いの道を見出す人は幸いです。キリストが「わたし」に代わって、神の求められる義を全うしてくださったからです。 Tue, 11 Apr 2017 00:10:00 +0000 神の愛と唯一の犠牲(ヨハネの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170411 no 2017 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 (ヨハネの手紙一4章10節) 赦しには愛が伴います。愛のないところに真の赦しは実現しません。神は実にご自身がお造りになった人間を愛しておられます。ご自分を裏切り、罪のうちに堕落していった人間を、決して見放すことはなさいませんでした。神はご自分の被造物のために、愛をもって救いをご計画されるお方です。 旧約の時代には、やがて実現する罪の完全な贖いと赦しとを、神は動物の犠牲であらかじめ示してくださいました。しかし、それはやがて完成されるものの影にすぎません。完全なものが現れるまで、繰り返し献げられる必要がありました。そして、繰り返されるたびに、罪の記憶が呼び覚まされます。 そこできょうの聖句は語ります。動物の犠牲が指し示してきたものこそ、十字架の上で全世界の罪の贖いを成し遂げられた主イエスの姿である、と。それはもはや繰り返されることのない唯一の犠牲です。 十字架の上で受けられた主イエスの苦しみ。この苦しみこそ、人間の罪を赦そうと願う神の愛の表れです。主イエスの十字架の苦しみの中に、「わたし」に対する神の愛を見出す人は幸いです。 Mon, 10 Apr 2017 00:10:00 +0000 主イエスが担った苦しみとわたし(イザヤ書 53章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170410 no 2017 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 (イザヤ書53章3節) 神は預言者イザヤの口を通して、やがて遣わされるメシアの姿を、苦難の中を歩む僕としてお示しになりました。その姿は、目を疑うほどに惨めな姿です。父なる神の御許で持っていた栄光の姿を打ち捨てて、僕の姿で現れたメシア。多くの痛みを負い、病の苦しみを共感してくださる救い主。その姿を目にする者は、まるで自分とは関わりのない人のように、このメシアを軽蔑し、無視します。 主イエスが歩まれた道、それは苦難の道でした。罪の世界に降ってこられ、罪と悲惨に苦しむ私たちと共に、主イエスは苦しみの中を歩んでくださいました。私たちが罪の世界で味わう悲しみ苦しみで、主イエスが味わわれなかったものは一つもありません。主イエスこそ苦しむ私たちの真の理解者です。 主イエスは罪のないお方でしたが、十字架の苦しみをお受けになったその姿は、イザヤを通して語られた苦難の僕そのものです。苦しみを受けるこのお方の姿こそ、実は、やがて最後の審判で裁きを受ける「わたし」の姿です。主イエスの十字架の苦しみのうちに、「わたし」の身代わりの姿を見出す人は幸いです。 Sun, 09 Apr 2017 00:10:00 +0000 新しい命に生きる(ローマの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170409 no 2017 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 (ローマの信徒への手紙6章4節) 教理用語で「聖化」という言葉があります。この教理は聖書の明確な教えですが、実は宗教改革者たちによって確立した教説でもあります。 ウェストミンスター信仰告白第13章を是非ご覧ください。そこには簡潔に、聖化とは何かが説明されています。なかでも肝心なことは、聖化が、神の恵みであり、神が聖霊によって私たちのうちに起こしてくださる救いのみわざであるという点です。「聖徒たちは恵みにおいて成長し、神を畏れつつ聖さを完成していく」(村川・袴田訳、3節)。 キリスト者は信仰によって神の前に義なるもの(罪をゆるされたもの)とされていますが、また、神の大きな力によって、罪の影響力から解放され続けます。聖霊が私たちのうちで驚くべき仕方で働いて、私たちを聖めてくださいます。ですから、キリスト信者は、すでに、聖くされる道を歩んでいます。新しい生き方の根源的な力は聖霊から溢れでています。 聖なる生き方は、すでにキリストを信じるものにとって「内から」始められています。この恵みを心から信じるとき、私たちはいかなる状況下でも前に向かっていけるのです。 Sat, 08 Apr 2017 00:10:00 +0000 キリストにあって起きた罪と義の逆転(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170408 no 2017 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 (コリントの信徒への手紙二5章21節) 信仰義認。それは聖書が教える救いについての最も凝縮された宗教改革的告白です。信仰とはもちろん、イエス・キリストへの信仰です。では、なぜ、キリストが義認の根拠となるのでしょうか。それは、キリストにおいて、神の義が表と裏とから示され、罪と義との逆転が起こったからです。 キリストは全く罪のない方、言い換えれば、神の律法をその真の精神と基準において実行し、神の御前に義人でした。神はこのキリストを信じる信仰において、私たちをキリストと一つにし、キリストにあって義としてくださいました。 同時に、キリストは私たちのすべての罪を担い、神の御前に罪人の代表と見做され、その罪のために十字架上で裁かれました。もしキリストに一点の罪でもあれば、その死は自らの罪に対する裁きとなるだけで、他人の身代わりにはなり得ません。しかし、キリストにはまったく罪がなかったので、その死には、信じる私たちに対して、神の裁きと赦しの効力があったのです。 義人キリストが私たちのために罪人として裁かれ、罪人である私たちがキリストへの信仰により義とされる―罪と義とが逆転したのです。 Fri, 07 Apr 2017 00:10:00 +0000 死をもたらす律法が命への導き手に(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170407 no 2017 神は…御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 (ローマの信徒への手紙8章3節~4節) キリストを信じて義とされた私たちはさらに、真の義人であるキリストに似たものに変えられ、霊的に清められていきます。これは聖化と言われ、聖霊の神の主権的、恩恵的な働きで、私たちをキリストと一つにしてくださったことの実りです。 私たちの信仰の歩みの規準(また基準)となり、これを促すのが、実は、キリストが守り行われた同じ神の律法なのです。律法は罪人に対しては、神の義として死を啓示します。それゆえ、私たちの罪深さを担われた主は律法によって裁かれました。その結果、律法は私たちにもはや死を啓示するものではなく、救いの完成に向かって歩むための命の道を示すものとなりました。 キリストが私たちの義認のために守り行われた同じ神の律法を、私たちは聖霊の恵み深い導きの下に、聖化の基準および目標として守り行います。パウロは聖霊が働いてくださる私たちこそ、律法の要求(神の御心)を行うことができると明言し激励しています。それは決して律法主義者のようにではありません。律法主義は死に向かう道ですが、律法そのものは神の恵み深い御心です。 Thu, 06 Apr 2017 00:10:00 +0000 ただ一人の贖い主、キリスト(テモテへの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170406 no 2017 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 (テモテへの手紙一2章5節~6節) 贖いは聖書が教える救いの特質です。救いとは罪からの救いです。しかし、罪自体が単に悪とか悲惨なのではありません。罪とは、神に対する敵対という人格的な性質の事柄です。したがって、救いも神との関係の変化がその出発点、また中心点です。 人は罪を犯して神の怒りと裁きの対象となり、死すべきものと化しました。人はこれから解放され、再び神の恵みの支配下に戻されねばなりません。しかし、誰も自分でそうすることはできません。罪人だからです。 しかし、主イエス・キリストは人の罪を引き受け、罪人の代表として神の裁きを受け、十字架に死んでくださいました。また、主は神の御心(律法)を完全に守り行い、その真の精神に生き、神の前に義人でした。キリストの復活は、神によるこのことの宣言です。 罪を悔い改め、キリストを信じる人は、キリストにあって、神により罪を赦され、義と認められます。主は、私たちが神の許に買い戻されるために、ご自身をその代価として神に支払われました。つまり贖ってくださったのです。私たちはもう神のもの、神の子なのです。 Wed, 05 Apr 2017 00:10:00 +0000 僕になった神―低さの極みにまで(フィリピの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170405 no 2017 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 (フィリピの信徒への手紙2章6節~7節) キリストは神の御子、つまり神ご自身です。しかし、人間になられました。それも、かりそめにではなく、完全に、永遠に(神でありつつ)人間となられたのです。しかも、主人のために何もかもを犠牲にして働く僕として来られました。人に仕える神。謙遜の極みです! 足の速い人は遅い人に合わせることができますが、その逆はできません。人間が神になることは不可能ですが、真の神は人間になることができます。世の神々はかりそめに、また人を支配する―人に仕えられる――ために人になりますが、人に仕えるために人になることはありません。 キリストは、当時の最高刑、特にユダヤ社会での神の最大の呪いである十字架刑を受けられました。私たち罪人の代表、また身代わりとして神の裁きを受けるためです。神の御子がここまで謙遜になられたことが、私たちを救ったのです。その御子のお姿を、パウロはフィリピ教会に互いの謙遜を勧めるための最大の根拠・実例としました。私たちも、キリストの謙遜のお姿に倣いましょう。キリストをほめたたえることによって、謙遜な生き方を実践しましょう。 Tue, 04 Apr 2017 00:10:00 +0000 聖なる方・罪なき方こそ真の救い主(ルカによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170404 no 2017 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」 (ルカによる福音書1章35節) 天使がマリアに男児誕生を告知したとき、彼女は未婚でした。不妊や高齢の女性の出産はなかなか難しいですが、既婚者の場合、万が一になら、起こるかもしれません。でも、マリアには全く起こり得ないことです。しかし、それが起こるのが、神が真に全能者であられる所以です。神にできないことは何一つありません。そして、処女降誕の出来事が強調し確証していることは、生まれる男児がまったく罪のない、それゆえ真に救い主であり得るということです。 処女性は古代の宗教世界で純潔の、また神々に受け入れられることの象徴でした。しかし聖書の処女降誕物語は、マリアではなく、主イエスの無罪性・純潔性を表しています。主イエスが、神によって受け入れられる真の犠牲であり得ることを明示しています。 罪人の一人に過ぎないマリアがなぜそのような方を出産できるのでしょうか。聖霊の神が彼女に臨んでくださるからです。またこの出来事は、罪人の救いが人間自身にはまったく不可能であり、神の主権と恵みによってのみ実現することをも裏側から照らし出しています。 Mon, 03 Apr 2017 00:10:00 +0000 真の神が真の人に―神の言なればこそ(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170403 no 2017 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。 (ヨハネによる福音書1章1節、14節) 第14主日のハイデルベルク信仰問答は、キリストの受肉―神の御子が人となること―を教えています。神々が人となるという化身、権化の思想は古くから多くの神話や民話にあります。それらは例えば、神仏が人間を救うために仮の姿を取ったとか、天下泰平のために時の為政者として現れたなどの形で登場します。しかし、そのような神々は人間や自然と連続する、同列の存在です。中途半端な神は、中途半端にしか人間になれず、また関われません。 しかし、聖書が教える神は創造者、超越的、絶対的な神、真の神であり、同時に、弱さや苦しみを持つ真実の、現実の人間になられました。真の神にして真の人―「言」は「肉」となったのです。 言には意味(知性)と音声(感覚)があるために交信手段となり得ます。超越的な神と現実世界に住む人間とが真に仲保されるためには、両方の特性を併せ持った存在が必要です。神である言が肉となったとは、神が仮にではなく、現実に本当の人間となったということです。真の神であればこそ、真に私たちのところに来られたのです。 Sun, 02 Apr 2017 00:10:00 +0000 福音にふさわしく生きる(フィリピの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170402 no 2017 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、…わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、…たじろぐことはないのだと。 (フィリピの信徒への手紙1章27節~28節) 新しい生活をすることとはどのような生き方でしょうか。福音にふさわしい生き方と、言い換えることができるでしょう。 パウロは「生活を送りなさい」と言うときに、「市民権を得る」、「市民生活をする」を意味する言葉を用いています。フィリピ市はローマの植民都市で、住民はローマ市民権を持ち、遠くはなれたマケドニア州にありながら、イタリア半島にあるローマ市と同じような制度、法規、特権を持ち、ローマ市のような市民生活をしようとしていました。首都ローマ市の市民の生活の仕方、習慣をフィリピの町でも実行しようとしていたのです。ローマ市民は多くの特権を保持していました。政治参加、法による保護、時には生活保護(小麦の無償配給など)。何よりも重要なことは、彼らがローマ市民として誇りを持って生活していたことでした。 福音にふさわしい生活とは、何よりもキリストの福音を誇りにして、周囲に同調しない生き方をすることです。福音の持っている価値を存分に知り、自覚し、神の国の市民権を持つ者として御心を求めて生きること、それが福音にふさわしい新しい生き方です。 Sat, 01 Apr 2017 00:10:00 +0000 神の栄光を讃えて生きる(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170401 no 2017 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。 (コリントの信徒への手紙一6章20節) 私たちの体も魂もキリストのものであることは、体も魂も神の愛の御手のうちにあるということです。私たちの体も魂も、どうしようもないほどに罪の支配のもとにありました。頭ではわかっていても何度も繰り返してしまう罪。 けれどもそれは、本当の意味でわかったことにはなりませんでした。私たちは、自らの罪の深ささえ神の言葉に出会うまで知らなかったのです。その恐ろしさ、醜さ、私たちのすべてを呑みこんでしまう圧倒的な力。 だからこそ、キリストは体も魂もすべて引き受けて、十字架へ向かわれました。私たちの罪の支払う報酬である死をその身に引き受けたのです。私たちが当然支払うべきはずであった死。私たちの罪は、神の独り子を殺してしまうほど、むごいものです。 キリストは、私たちのために尊い代価となってくださいました。ですから私たちの体も魂も、本当の意味では死にません。この世で遭遇する死は、私たちにとって、未だ残る罪との別れと永遠の命への入口になったのです。死はキリストの復活の勝利にのみ込まれました。 私たちの体と魂のすべては、この神の栄光を讃えて生きるのです。すべては神の栄光のために! Fri, 31 Mar 2017 00:10:00 +0000 私たちの居場所(コロサイの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170331 no 2017 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 (コロサイの信徒への手紙1章13節) 私たちに潜む闇は何でしょうか。わかるようでいて、しかし問い続けるとなかなか言葉で表しにくいものかもしれません。闇という言葉自体が、捉えどころのない不気味な力の象徴です。それは混沌としていて、秩序が無い様子をも連想させます。罪はまさに闇の力と言い得るような、抵抗できないほどの大きさで、時に私たちを圧倒します。 しかし私たちの愛する神である御父は、私たちを「闇の力から救い出して」くださいました。救いは、どこから救われたかと同時に、どこへ向かって救われたかが大切です。 御父によって救われた私たちは、「その愛する御子の支配下に移」されました。ここは、誰も侵すことのできない場です。私たちは、キリストのものとなっているのです。御父と御子の愛の交わりにも等しいほどのその愛に取り囲まれているのです。 神の愛は、ご自身の揺るがない意志を意味します。だからこそ、この愛から誰も引き離せないのです。この御子に現された神の愛の支配に私たちは立ち続けます。ここが私たちの住処であり、私たちの永遠の居場所なのです。 Thu, 30 Mar 2017 00:10:00 +0000 小羊の血による生活(ペトロの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170330 no 2017 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。 (ペトロの手紙一1章18節~19節) 神の子とされた私たちは、神の独り子であるイエス・キリストを「我らの主」と呼びます。このお方だけが、私たちにとって救い主だからです。 財産や健康は大切ですが、それが私たちを罪から救うのではありません。私たちの罪深さは、何ものをもっても解決し得ないほどに深刻で悲惨なのです。神の独り子であるイエス・キリストの「尊い血」が流されるほどに、私たちの罪は重いのです。 そもそも私たちが、私たち自身の主、神であろうとすることが罪の始まりでした。自分は自分のものである。皮肉にもこう認めれば認めるほど、私たちは不自由になっていきます。神に造られた広い世界、また、神のかたちに似せて造られた隣人が、見えなくなっていきます。 伝統もそれがただ私たちを正当化するにとどまるなら、「むなしい生活」を生み出します。本来良いものであるはずなのに、それが形だけとなり、自己批判する力がなくなるからです。 今この時、私たちの罪深さと共に、それゆえに流された十字架の御子の尊い血を思い起こしましょう。この小羊であるキリストが、私たちを導かれるのです。 Wed, 29 Mar 2017 00:10:00 +0000 神の恵みはどこまでも(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170329 no 2017 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 (ローマの信徒への手紙8章14節) 神の子は、本来イエス・キリストのみに当てはまることです。しかし、キリスト者になった私たちも当然のようにして神の子と呼ばれます。私たち自身を見つめるならば、罪の子、罪人とだけ呼ばれたほうが、まだその現実に当てはまるのかもしれません。 けれども、神は、私たちをどこまでも神の子と呼んでくださいます。私たちが、自らをいたずらに神の子と名乗るのではありません。また反対にどうせ罪人だから、と開き直るのでもありません。 神から呼びかけられることこそが、何よりも大切なのです。神の呼びかけは、独り子をお与えになるほどに現実のものです。それだけではありません。信仰を呼び起こす聖霊を与えてくださるほどに確実なものなのです。 私たちは、神からの大きな宝物を受け取る手さえ、萎えはてていたのです。そんな私たちに神は、独り子イエス・キリストと聖霊によって現された御手をもって、私たちを支えてくださいました。 神がお支えくださるからこそ、私たちはどこまでもその恵みに生きることが許されるのです。神の子という名が、その恵みのしるしです。 Tue, 28 Mar 2017 00:10:00 +0000 十字架から始まる生活(ヘブライ人への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170328 no 2017 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、…人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 (ヘブライ人への手紙1章3節) 御子イエス・キリストを見つめる生活は、神を神とする生活です。それは、神ではないものを神とするのではなく、神のみを礼拝する生活です。 新約聖書が書かれた時代には、天使を礼拝する人たちがいました。しかしイエス・キリストは天使よりも優れたお方です。なぜなら、そのお方は「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であるからです。 イエス・キリストは、旧約聖書にも記されていた神の言葉をその存在をもって完全に現されました。地上の生涯そのものが「義を愛し、不法を憎」(ヘブ1章9節)む歩みでした。その極みが十字架でした。 あの十字架の主イエスを見つめるとき、私たちは自らの不義を見つめます。同時にキリストの義を得ている事実に出会います。私たちの不義をキリストが担い、キリストの義が私たちに転嫁される。 自分には非がないと責任を擦り合う世にあって、私たちは、この御子の十字架のもとに留まります。それは罪を罪と認めることです。罪を罪とすることは、神を神とすることに繋がります。御子の十字架は、その罪を神が赦される場です。 Mon, 27 Mar 2017 00:10:00 +0000 独り子を見つめる幸い(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170327 no 2017 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 (ヨハネによる福音書1章14節) 私たちは、キリストのものです。それは「神の子」と呼んでくださるほどに確かなものです。しかし神の子という身分は、本来キリストのみのものです。ですからキリストは神の「独り子」と呼ばれます。私たちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです(問33答)。 その恵みは神の言であるイエス・キリストが「肉」となったことに現されました。ご自身を十字架の死に至るまで、この悲惨な私たちの現実を身にまとわれたのです。私たちの現実は、ほうっておけば滅びゆく体、また魂です。絡みつく罪が私たちを死へと誘いこむからです。誰も明日の命を保証できません。 けれどもキリストは肉をとり、「わたしたちの間に宿られました」。私たちの罪にまみれた生活、死へと向かう命に入って来られたのです。 どこに救いが、と嘆かざるを得ないような世に神の独り子は宿られました。私たちにはない栄光が、この御子にはあります。私たちにはない恵みと真理が、この御子には満ちています。 私たちはこの独り子に、この世にはない命の光を見出したのです。 Sun, 26 Mar 2017 00:10:00 +0000 恵みの善い管理者(ペトロの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170326 no 2017 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 (ペトロの手紙一4章10節) 私たちが、愛をもって仕えることができる者となるために、なんと神はすべての必要を満たしておられます。 まず、一人一人に賜物が与えられています。この賜物は特別なものとは限りません。体を動かせることも、口を動かせることもすべて賜物です。さらに神は、一人一人に賜物を用いる力も与えておられます。 かつてモーセは、エジプト行きを命じられた時、主に答えました。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。つまり、私は賜物が無いのでできませんと答えたのです。すると主は言われました。「一体、誰が人間に口を与えたのか。…主なるわたしではないか」(出4章11節)。これでは、主の召命に応えない訳にはいきません。 聖書は、一人一人に賜物も、これを用いる力も与えられていると告げています。私たちに、あと必要なのはただ一つ、善い管理者であることです。すなわち、主人の心を喜ばせたいと願うしもべの心です。どうか主が、私たちの内にその心を燃え立たせてくださいますように。 Sat, 25 Mar 2017 00:10:00 +0000 キリスト者と呼ばれるように(ペトロの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170325 no 2017 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 (ペトロの手紙一2章5節) 使徒言行録の11章に、アンティオキアの教会で「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と記されています。キリストの名を口にする者は、キリスト者・クリスチャンとあだ名されたのです。 自分から名乗ったのでもなく、宣伝したのでもありません。そのようにあだ名されるくらい、人びとから見て、その生き方と存在が世間の人たちとは違っていたのでしょう。 自分を振り返って考えてみると、主イエスに見いだされて救われるまでの私たちの生き方は世間のそれとかわらず、自ら名乗りをあげ、自分の存在を訴え、自分の居場所を必死に守らなければ生きていけなかったのではないでしょうか。そのような中に埋もれていた私たちを主イエスはご自身の命で救い出してくださいました。 私たちは今、この方にあって神に対して生きています。ですから私たち自身を「生きた感謝の献げものとして」この方に献げて、きょう生きるのです。私たちもパウロと同様です。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2章20節)。 Fri, 24 Mar 2017 00:10:00 +0000 あなたがたはキリストの体(コリントの信徒への手紙一 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170324 no 2017 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 (コリントの信徒への手紙一12章27節) 「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分」、これと似た言葉に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハ15章5節)があります。こちらは「実を結ぶ」ということのためにイエスが教えてくださった御言葉です。実を結ぶためには枝は木につながっていなければいけない。だから実がなるように「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながってい」ると語られました。 私たちが普段の生活でそのような実を結んでいるかどうかを考えると、ちょっと不安になってきます。そのようなとき私たちは自分の原点に帰らなければいけません。 神は御子を私たちに遣わされ、キリストは私たちを救い、ご自身の「体」としてくださいました。そして「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」(1コリ12章24節)。私たちは、まさにその部分なのです。 私たちはこの方を通して父を知り、この方の犠牲によって贖われ、この方の命で守られ、神に対して生きています。 Thu, 23 Mar 2017 00:10:00 +0000 わたしは良い羊飼い(ヨハネによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170323 no 2017 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 (ヨハネによる福音書10章28節) 旧約の昔から神の民を「尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」、そういう役目をもった者を「牧者」と言ってきました。(エゼ34章16、23節)。 神は群れや民に対してそういう役割を託した人たちを立ててこられましたが、旧約聖書にはこうした牧者への神からの指示や叱責の言葉がたくさんみられます。なかなか神の御心にかなう牧者はいなかったようです。 良い羊飼いか、そうでないかは、自分自身を養うか、群れを養うか、という養いの対象がその中心にあったようです。主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と断言され、その言葉どおり、私たちのために十字架にかかってご自身の命をもって罪から贖いだしてくださいました。 「決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」のは、この羊飼い主イエスが、まさにご自身の命をもって救ってくださったからに他なりません。主イエスの命が私たちを守り、私たちを永遠の命へと養ってくださいます。 Wed, 22 Mar 2017 00:10:00 +0000 永遠の贖いを成し遂げられた祭司キリスト(ヘブライ人への手紙 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170322 no 2017 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。 (ヘブライ人への手紙9章12節) きょうもまた、新しい一日が始まります。神が与えてくださるという意味で「新しい」日なのですが、現実の生活は日々の繰り返しのようです。昨日までの過去も明日からの未来も喜怒哀楽さまざまありますが、なんだか繰り返しのような日々です。神の御前での私たちの歩みも、ときどき改善も進歩もないように感じられることがあります。 ヘブライ人への手紙10章11節には「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます」と記して、いけにえによる礼拝の不完全さにふれています。動物犠牲による贖いは決して完全には罪を取り除いてはくれないのです。 イエス・キリストの「ただ一度」の、動物ではない「御自身の血」による犠牲こそ、私たちを罪から完全に贖う救いなのです。犯しては悔い、悔いては犯す繰り返しの毎日の中に、「見よ、すべてが新しくなった」という日が来ています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(2コリ5章17節)。 Tue, 21 Mar 2017 00:10:00 +0000 既に父を見ている(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170321 no 2017 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 (ヨハネによる福音書1章18節) 店で買い物をしていて、品物を見ていて気づかず、手を伸ばしたそのとき、ばったり友人と会う。買い物かごを持っているので、ちょっと恥ずかしそうに挨拶して…、などということがあります。私たちは目でさまざまなものを見つつも意外とそのすべては見ていなくて、心を向けているものだけを見ています。 人間と同じような姿や形をもたない神を目で見ることはできません。かつてモーセの時代、神の山ホレブで神が降ってこられたとき、全山煙に包まれ山全体が激しく震えるのを民たちは見ました。そこに民たちが見出したものは、神の恐ろしい姿だけで、神のまことの姿全体では決してありませんでした。 主イエスが十字架につく前、父のもとに行くことを告げ、「父を知る。いや、既に父を見ている」と語られると、フィリポが「御父をお示しください」と願います。するとイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」と教えられました。 神は、震える山の様子でもなく、主イエスの顔や服装でもなく、主イエスの教え、その業、主イエスの存在そのものを通して、私たちにご自身を現されたのです。 Mon, 20 Mar 2017 00:10:00 +0000 あなたはわたしの愛する子(ルカによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170320 no 2017 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (ルカによる福音書3章22節) 私たちはたくさんの人の中で生活をしています。きょうも仕事場で、家庭で、社会で、いろいろな人と共に生活をしています。ただ周りに人がいるというのではなく、助けたり、助けられたりして、生きています。「人が独りでいるのは良くない」と言われた神は私たちのまわりにさまざまな人を備えてくださり、私たちの歩みを助けてくださいます。 とりわけ私たちが神と共に歩む上で必要とする助けを、神はいにしえの昔から遣わしてきてくださいました。特に王や祭司や預言者たちがそうでした。それらの人々が任職されるときに注がれる「油」は、神から特別な賜物が与えられたことを表しています。イエス・キリストこそ、最も豊かな賜物を備えた助け主です。 私たちと同じ洗礼を受けられた主イエスは、その洗礼の中で、天の父の「あなたはわたしの愛する子」という声と、聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来られたのを見られました。神の愛する御子でありつつ、私たちを助けるために洗礼まで受けられる主イエスこそ、父の心に適うキリストです。 Sun, 19 Mar 2017 00:10:00 +0000 わたしと一緒に熱心に祈ってください(ローマの信徒への手紙 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170319 no 2017 どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、 (ローマの信徒への手紙15章30節~31節) 「どうか、わたしのためにわたしと一緒に神に熱心に祈ってください」。パウロはローマの兄弟姉妹たちに懇願します。その祈りの課題は、二つありました。一つは、ユダヤにいる不信の者たちから守られること。もう一つは、エルサレムに対する私の奉仕(ディアコニア)が聖なる者たちに歓迎されることです。 この時、パウロが成し遂げようとしていた奉仕とは、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々に、異邦人教会が集めた募金を届けることでした。一般的には、このような奉仕は感謝されることはあっても、何か問題が起こりそうな奉仕ではありません。それでも、パウロは「この奉仕が歓迎されるように、是非祈ってほしい」と告げています。 奉仕にあたるとき、自分を過信しないパウロのこの慎重さ、へりくだった態度、そして心からなる祈りの要請。これらこそパウロが多くの働きの実を結んでいった一つの理由だったことでしょう。 私たちも、慎重さ、へりくだった態度を忘れずに、互いの奉仕が歓迎されるように祈ってまいりましょう。 Sat, 18 Mar 2017 00:10:00 +0000 神との平和(コロサイの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170318 no 2017 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、…万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 (コロサイの信徒への手紙1章19節~20節) 「平和である」とは、どのような状態でしょうか。国語辞典では「戦争や争いがなく、世の中が穏やかな状態にあること」と記されています。 ではどうしたらそのような状態になるのでしょう。それにはまず、人と人との間に平和が実現しなければならないでしょう。しかし、そのような平和が実現されるためには、もっと本質的で、かけがえのない平和が実現されなければならないでしょう。そのかけがえのない、真実な平和とは何か。それは「神との平和」です。 天地創造の時、神は、エデンで、人(アダム)にかけがえのない、豊かな神の平和を与えてくださいました。しかし、人は罪を犯し、堕落し、この神との平和を喪失してしまいました。 神は、そのような私たちのために、キリストを遣わし、十字架の血によって罪を贖い、もう一度、神との平和を取り戻してくださいました。そのため、今、私たちは、エデン、つまり、神の国の平和を味わうことが許されました。日々、神と豊かにまじわり、神から満ちあふれる命と英知、そして、愛をいただいて生かされているのです。 Fri, 17 Mar 2017 00:10:00 +0000 信仰による義(ガラテヤの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170317 no 2017 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 (ガラテヤの信徒への手紙5章4節) 人は、「行い」によって「正しい者」とされ、救われるのか。これは、聖書の中心的テーマの一つです。ある人たちは、人は行いによって、自らの力によって、義と認められ、救われると考えます。しかし、聖書は一貫して人は行いによっては救われないと語ります。 かつてアブラハムが義と認められ、救われたのも、その行いによるものではありませんでした(創15)。何より、力によっては、実に無力でした。アブラハムの高齢の妻サラの胎は、その力を完全に失っていました。しかし、この二人に、星のように子どもを与えてくださると約束してくださった神は、サラの胎を開き、御国の繁栄と、継承の約束であるイサクを与えてくださいました。アブラハムは、自らの力によらず、神の「約束」を信じる「信仰」によって御国を受け継がれたのです。 今日の私たちが救われるのも、自らの力によるのではありません。十字架の死に至るまで、完全に神の義を全うしてくださったキリストを信じる、信仰によります。このキリストの「身代わりの義」を信じる者は、どんなに力ない者でも救われ、御国を受け継ぐことができるのです。 Thu, 16 Mar 2017 00:10:00 +0000 パウロにつく、アポロにつく(コリントの信徒への手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170316 no 2017 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 (コリントの信徒への手紙一1章12節) コリント教会の中には、さまざまな課題が存在していました。その中の一つが、「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』…」という「分派」の課題でした。ここで問題なのは、キリストがパウロやアポロなどと同列にされていることです。パウロはこれを解決するために、教会員に対して、最も基本的なことを語っています。 それは「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」ということです(1コリ3章5節)。すなわち聖書は、彼らはただの「人」である、と言っているのです。そして、人は人を救うことができるのか、人は人を養うことができるのか、人は人を成長させることができるのかと問うているのです。 ある人たちは、「人」は人を救えるし、人は神たり得ると言います。しかし聖書は言います。人を救うことがおできになるのはただ神のみです。人を養うことができるのはただ神のみです。人を成長させることができるのはただ神のみです(同3章6節)。 私たちの教会が、人に依り頼まず、どんなときでも神と、主イエス・キリストに依り頼んで歩むことができますように。 Wed, 15 Mar 2017 00:10:00 +0000 わたしはぶどうの木(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170315 no 2017 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 (ヨハネによる福音書15章5節) 聖書はここで、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、すなわち、わたしを離れては「実を結べない」と言っています。どうして私たちはキリストを離れては実を結べないのでしょう。 それは、私たち自身は貧しく弱い「枝」に過ぎず、自分自身の内にはいかなる命も、力も存在していないからです。いったいこの世のどこに、永遠の命が存在しているのでしょう。それはこの世の中には存在していません。ただ、私たちの主、キリストの内にのみ存在しています。私たちの主、キリストの内にのみ永遠の命が存在し、永遠の力と恵みが存在しているのです。 なぜ、私たち自身が貧しくても、弱くても大丈夫なのでしょうか。 それは、私たちの主、キリストが強く、あらゆる恵みに富み、主ご自身の内にあらゆる命と力と恵みが満ち溢れているからです。それゆえ、私たちはこの主につながって生きるとき、豊かな実を結ぶことができるのです。 きょうも、この主に結ばれ、主と共に歩みましょう。この主と共に道を進み、主の命と恵みを届けましょう。 Tue, 14 Mar 2017 00:10:00 +0000 ほかに救い主はない(イザヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170314 no 2017 わたし、わたしが主である。 わたしのほかに救い主はない。 (イザヤ書43章11節) ここには、「わたしのほかに救い主はない」と教えられています。 イザヤ書43章の背景には、バビロンの人びとが信じる神々の存在がありました。彼らは、捕囚の民が信じる神を無力なものとみなしていたでしょう。しかし、神の民は、はたしてバビロンの神々は人びとを救うことができるか、と逆に問い返しました。 聖書は、ほんとうの神以外に、人びとを救うことができる方はいないということを教えています。ほんとうの神は「生きておられる」神です(王上17章1節)。この神は、いつでもご自身の方から、私たちに御手を差し伸べ、ご自身の方から語りかけ、慰め、救ってくださるお方です。 私たちは、かつてこの神を知らず、この神から遠く遠く離れて生きていた者でした。いったい私たちは、どのようにして今ある生活に導かれたのでしょうか。 それはまさに、神ご自身が御手を差し伸べてくださったからです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…御子をお遣わしに」なったことによってだったのです(1ヨハ4章10節)。 Mon, 13 Mar 2017 00:10:00 +0000 ご自分の民を罪から救う(マタイによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170313 no 2017 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。 (マタイによる福音書1章21節) 夢の中に現れた主の天使は、驚くべき知らせを告げました。「マリアは男の子を産む」。その名は「イエス(救い)」。それは、「自分の民を罪から救う」という意味が込められた名でした。 私たちが神に喜ばれる者となるためには、罪の赦しが必要です。そのために私たちはその身に罪の罰を受けなければなりません。そしてその罰は、計り知れないほど大きく、そして果てしなく深いものなのです。 けれども神は、そのような私たちを罪から救うために、主イエスを遣わされました。 なぜ主イエスが、あの恐ろしい十字架に付けられなければならなかったのでしょうか。主イエスが、何かそれに値する罪を犯されたのでしょうか。違います。 それは、実に、私たちが受けるべき罪の刑罰の身代わりでした。私たちが受けるべき、大きく、そして果てしなく深い罪の刑罰の身代わりでした。 主イエスは、私たちの罪を贖い、私たちをこのように、神の家族、神の子にしてくださったのです。それゆえ私たちは、罪赦された者として、赦しの使者、愛の使者の営みを今日求められています。 Sun, 12 Mar 2017 00:10:00 +0000 ディアコニアに進むために(ルカによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170312 no 2017 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」 (ルカによる福音書10章41節~42節) 私たちが「ディアコニア」に進むためには、二つのことが必要です。一つは、腹立たしい現実を克服していくことへの覚悟です。 この日、マルタはいろいろのもてなし(ディアコニア)のため忙しく働いていました。ところがどうしたことでしょう。マリアは主の足元に座ったままですし、主イエスもそれを許しておられる。「何よ、わたしへのこの態度は…」。やがて、彼女は主に近寄ると言いました。「主よ、何ともお思いにならないのですか?」このマルタの腹立たしい気持ちに、きっと誰もが共感できることでしょう。このように、ディアコニアには、時に、腹立たしい現実に直面することへの覚悟が必要となります。 さて、最も必要なもう一つのこと、それは主の足元に座って御声を聴くことです。なぜなら、主イエスはどんなに嘲られても十字架の死に至るまで仕えることを止めなかったからです。このお方、主イエスの御声が、腹立たしい思いを癒やし、再び神と人とに仕えていく聖なる力を与えてくださいます。主イエスの御言葉だけが、私たちをディアコニアに進ませてくれます。 Sat, 11 Mar 2017 00:10:00 +0000 引き離せない神の愛(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170311 no 2017 死も、命も、…他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 (ローマの信徒への手紙8章38節~39節) 神に愛されている者にはどのような益があるでしょうか。神は全知全能の方ですから、そのような方に愛されている者であるならば、この世の苦しみがあるはずがない。病気にかかることも、貧しい生活をすることもない。いつも人々に愛されて幸せに人生を生きることになるでしょうか。 決してそうではありません。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(ロマ8章35節)と言いました。それは裏返して言いますと、クリスチャンであっても艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣があることを意味します。むしろ、クリスチャンであるがゆえにこのような苦しみをもっと多く覚えるでしょう。 しかし、クリスチャンの特権は、このような苦しみがあっても決してキリスト・イエスを通して示された神の愛から引き離されないことです。それは、神が私たちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたお方だからです。 これほど神に愛されているあなたを、この世のどんな被造物も神の愛から引き離すことはできないのです。 Fri, 10 Mar 2017 00:10:00 +0000 逆境においては忍耐強く(ヨブ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170310 no 2017 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。 (ヨブ記1章21節~22節) 最近、知り合いの方が癌にかかり手術を受けました。手術は無事に終わって回復に向かっていますが、本人も、その奥さんも「なぜ我々にこのような試練があるでしょうね。時が過ぎれば、これも我々のための神の恵みであるはずですが、今はなぜ神がこのような苦しみを与えてくださったのかよく分かりません」とおっしゃいました。おそらく、ヨブも同じ思いだったでしょう。 神を信じる者として、この世のすべてが神の御手の中にあり、神が御心のままに司っておられることを知らなければ、クリスチャンは大きな苦しみに耐えられないと思います。自分が信じた神に「裏切られた」と思うようになることもあるでしょう。 しかし、クリスチャンはただ神の存在を認めるだけではありません。神が真実で愛に満ちたお方であることを知り、そのお方を信じて生きる者です。だからさまざまな逆境にあっても忍耐強く神のお働きを待つことができます。 きょう、私たちにさまざまな苦しみがあっても、明日は私たちにその苦しみを喜びに変えてくださる神を信頼して、この一日を過ごしましょう。 Thu, 09 Mar 2017 00:10:00 +0000 すべてが御手によって(マタイによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170309 no 2017 「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」 (マタイによる福音書10章29節) 2羽の雀が1アサリオンで売られています。雀1羽では値段のつけようがないほど、雀というのは価値のないものであるという意味です。しかし、そのような価値のない雀さえも、神の許しがなければ地に落ちることがないほど神はその命を大切にしてくださいます。まして尊い神がご自身の民を忘れるはずがありません。むしろ、神は私たちの髪の毛までも1本残らず数えるほど、よく覚えていらっしゃるのです。 そのことを考えるときに、私たちはこの世において神の許しがなければどんなことも起こり得ないことを覚えたいのです。勿論、その中には悲しい出来事もあるでしょう。そして、なぜ神はそのようなことが起こることをお許しになったのかと疑問を感じることが少なくありません。 私たちはその答えをはっきりと見出すことはできませんが、確かなことは、そのすべてが神の御手の中にあって、神の御心に適っている、ということです。そして、神は神の民を絶対忘れることはなさいません。そのような神を信頼してきょうも一日を過ごしたいと願います。 Wed, 08 Mar 2017 00:10:00 +0000 この世において偶然などない(箴言 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170308 no 2017 くじは膝の上に投げるが ふさわしい定めはすべて主から与えられる。 (箴言16章33節) 日々の生活において、偶然と思われることを少なからず経験します。20数年前、わたしが来日してまず日本語の勉強をしているときに、ゴスペルシンガーだった友人の誘いで、東京のあるホテルでのクリスマスコンサートを手伝うことになりました。誘ってくれた友人を始め、数名の日本人と韓国人が一緒に行うコンサートでしたが、わたしはある日本人の牧師と同じマイクを使って歌いました。 その後、わたしは一つの教会を紹介され、その教会と協力伝道を行うことになりました。その教会の牧師が三か月前にわたしと同じマイクを使って歌った日本人の牧師、南越谷コイノニア教会の故古川第一郎牧師だったのです。 いくつかの偶然が重なり、わたしは韓国にいる時から憧れていた神戸改革派神学校で勉強することができ、また日本キリスト改革派教会の牧師になることができました。人々はこれを偶然とよく言いますが、わたしは、これこそこの世を司っておられる神の導きであると信じています。 きょうもあなたの生活の中で偶然と思われる神のご計画が確実に起こっていることを覚えましょう。 Tue, 07 Mar 2017 00:10:00 +0000 御自分を証しする主(使徒言行録 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170307 no 2017 「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 (使徒言行録14章17節) 教会員の方がご主人から「本当に神がいるのか。神がいるなら、こんなに多くの人が災害で亡くなるはずがないじゃないか」と言われたそうです。確かに、大きな災害を目の当たりにすると、多くの人は「神などいない」と思ってしまうでしょう。しかし、そう思うのは、人間の物差しで、神を計ろうとしているからです。 神は多くの被造物を通して御自分の存在を証ししておられます。私たちはさまざまな季節の実りを見ながら神のありがたさを感じます。また、美しい自然を見て神のすばらしさを経験します。さらに日々与えられる食物を通して、神がいかに私たちを愛しておられるかを示してくださいます。そればかりか、神は人間が自分の力ではどうにもならない御業を通して、人間が神を畏れるようにもなさるのです。そこには、私たちの思いをはるかに超えた神の特別な愛と配慮が満ちています。 きょうも全能の神が、自然を通して、御自分を証ししておられます。さまざまな出来事の中に、今も働く神の配慮と導きをしっかりと認めながら生きる一日でありますように、お祈りいたします。 Mon, 06 Mar 2017 00:10:00 +0000 全能の神の前で(エレミヤ書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170306 no 2017 わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。 わたしは遠くからの神ではないのか。 誰かが隠れ場に身を隠したなら わたしは彼を見つけられないと言うのかと 主は言われる。 天をも地をも、わたしは満たしているではないかと 主は言われる。 (エレミヤ書23章23節~24節) 人が神に関心を寄せるとき、その神がどんな力を持つのかをまず知りたがると思います。この場合、神は人間に御利益をもたらす神でなくてはいけません。そうしないと誰も関心を寄せないからです。だから、人々は神を作り出すときに、この神にはどんな御利益があるのかを決めて、そのことを宣伝します。 しかし、聖書の神、この世を造られた神は、決して人間に御利益をもたらす力だけを持っているのではありません。むしろ、聖書は全知全能の神を語っています。その神の力は必ずしも人間の御利益のために働くわけではありません。時には人間を正しい道へと導くために、その全能の力で人間を懲らしめたり、人間を戒めたりすることもあるのです。 預言者エレミヤは、その全能の神を伝えています。神は人間がどんなに遠い所にいても、いくら深い隠れ場に自分の身を隠そうとしても、神がそれを見つけられないことはありません。私たちはその神の御前に生きています。今も生きておられ、我らのすべてをご支配しておられる神の御前に生きていることを覚えて、きょう一日を過ごしましょう。 Sun, 05 Mar 2017 00:10:00 +0000 命に至る道(ルカによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170305 no 2017 「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」 (ルカによる福音書22章26節) きょうから四回の主日にわたって、愛をもって仕える業「ディアコニア」を主題として御言葉から学んでいきましょう。一回目のきょうは、弟子たちへの主イエスの御言葉に注目します。 最後の晩餐の食卓で、だれがいちばん偉いだろうか「あなたではない。わたしだ」と口々に言い合っていた弟子たちに主は言われました。「あなたがたはそれではいけない。…上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。 なぜ主はそのようにおっしゃったのでしょうか。それはきっと、人を押しのけてよい席を独り占めしようとする生き方では、結局、人は滅びに至り、仕えて生きる生き方だけが命に至るからに違いありません。 主は山上の説教の中で、滅びに通じる広い道と命に通じる細い道の、道は二つであると教えておられます(マタ7章13、14節)。隣人の益のために、よい席に座る権利を手放し、自ら貧しさを負うこと、それこそ仕えることであり、主が私たちに救いを与えるために選び取られた生き方でした。命の君なる主を見上げて進んでまいりましょう。 Sat, 04 Mar 2017 00:10:00 +0000 人が笑い、神も笑う(創世記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170304 no 2017 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創世記18章15節) 神のもとには笑いがあります。わたしにとっての神はジョークやユーモアを好まれるお方です。真面目で真剣な場面でも、ウィットに富んでおられます。 「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」(創17章2節)と神はご計画を示されました。創世記17、18章は、その計画が成就していく極めて大切な場面です。アブラハムは「90歳のサラに子供が産めるだろうか」(同17章17節)と笑いました。その笑いは、神の言葉を疑う冷笑でありましたが、神はそれを逆手にとって、それならあなたに生まれる子供の名前は「彼は笑う」にしてしまおう、と言われたのです。 サラも夫のアブラハムと同様、「ひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思った」(同18章12節)とあります。神はこの夫婦の、ご自身を疑う不信仰を良い意味で笑いに変えて、神がどんなに大能の方であるかを示してくださいました。神の笑いが人の笑いに勝ちました。人の冷笑を包み込んで、神による祝福の笑いに変えてくださったのです。 Fri, 03 Mar 2017 00:10:00 +0000 万事が益となるように(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170303 no 2017 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 (ローマの信徒への手紙8章28節) 使徒パウロがきょうの箇所で「万事」と言ったとき、そこには明らかに「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていること」(ロマ8章22節)が含まれているでしょうし、35節に出てくる艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣が考えられていると思います。人間的には避けたいことばかりですが、天の父はそれらの苦しみをも用い、万事相働かせて、益としてくださる、と聖書は証ししています。 「益となるように」とは、29節で語られている通り、「御子の姿に似たものに」することに他なりません。御子イエス・キリストが辿られた道を歩ませていただくとき、十字架の苦しみがつきまといますが、それは神から見放されたしるしではなく、むしろ愛されているからこそだと聖書は断言するのです。 ハイデルベルク信仰問答の答えも「たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです」と告白しています。これを私たちの告白としたいものです。 Thu, 02 Mar 2017 00:10:00 +0000 野の花の喜び(マタイによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170302 no 2017 「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」 (マタイによる福音書6章28節) 主イエスは天真爛漫であっけらかんとしておられるな、と思うことがあります。日々の衣食住について、少しも心配しておられません。私たちはと言えば、食い意地が張っていて、食をつなぐことを一生懸命に考えてしまいます。そのような現実を無視して、きょうの御言葉を言われたわけではないと思います。主イエスは、亡き父ヨセフの跡を継いで大工の仕事で一家を支えてこられ、その中で天の父に心から信頼しきっておられたのです。 往年の名ドラマ「裸の大将」の主題歌で、「野に咲く花のように風に吹かれて…そんな風に僕達も生きてゆけたら素晴らしい」と歌われていましたが、ちょうどそれに似て、神の養いに任せきってしまう幸せを、主イエスは教えておられます。 「やさいの時間」というテレビ番組では、一年を通していろんな野菜を育てていきます。子どもと一緒に見ていると、確かに野菜は自分で働きもしないし、紡ぐこともしません。野の花もそうです。それならもっと遙かに大事な私たちの生活を、神が心配してくださらないはずはありません。 Wed, 01 Mar 2017 00:10:00 +0000 パパ!(ガラテヤの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170301 no 2017 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 (ガラテヤの信徒への手紙4章6節) わたしが牧会させていただいている教会には、親のいない、あるいは親と一緒に暮らすことのできない子どもを引き取って、自分の子どもとして育てておられる兄姉がおられます。本当に素晴らしい働きだと、頭が下がる思いです。そのような子どもにとって、「パパ」「お父さん」と呼べることは、またそう呼べる人がいることは、どんなに嬉しいことだろうかと思わずにはいられません。また震災や事故、犯罪で親を亡くしてしまった子どもたちも、複雑な思いを抱きながら、深い悲しみと叫びを胸の内に秘めているのだろうと思います。 そのようなことを考えながら、きょうの御言葉を読みますと、親の名を呼べることは少しも当たり前ではありません。さらに、神に信頼して「アッバ、父よ」と叫ぶことができるのは、とても感謝なことだと、心に刻み直したいと思いました。親がいるいないに関わらず、私たち人類すべてに一人の天の父がおられます。しかも放蕩息子のように親元を出た家出息子・娘であった私たちに、主イエスは、さああなたも神をお父さんと呼んでいいんだよ、と今も語りかけておられます。 Tue, 28 Feb 2017 00:10:00 +0000 地球を丸ごと養われる神(詩編 104編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170228 no 2017 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 (詩編104編27節) 有名な讃美歌「輝く日を仰ぐとき」(讃美歌21226番)はこう歌っています。「輝く日を仰ぐとき、月星ながむるとき、雷鳴りわたるとき、森にて鳥の音を聞き、そびゆる山にのぼり、谷間のきよき流れに、まことのみ神をおもう」と。 この讃美歌も、そしてもっと豊かな意味で詩編104編も、何と私たちの想いを広げてくれることでしょうか。 光、雲、風、地、深淵、山々、川、泉、野ろば、草木、家畜、ぶどう酒、油、パン、糸杉の梢、野山羊、岩狸、月、太陽、森の獣、若獅子、海、レビヤタン(26節)などなど…。 例え外に出ることがなかったとしても、心のパノラマは大きく広がって、神の摂理の御手を見せてくれるかのようです。天も地も海も多様性に満ちあふれていて、しかもお互いがバラバラというのでなく、神の配慮の中で全部がつながっている。 無神論者がどんなに「神は死んだ」とうそぶこうとも、日々、絶えず、神が地球を丸ごと養っていてくださいます。そして神は、あなたを神にある命の希望で満ちあふれさせようとしてくださるのです。「命ある限り、わたしは主に向かって歌」(33節)おう。 Mon, 27 Feb 2017 00:10:00 +0000 偶像を離れ、創造主に立ち帰れ(使徒言行録 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170227 no 2017 「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」 (使徒言行録14章15節) ある姉妹が、ある時、ふと信仰の証しをしてくださったことがあります。人生に悩み、生きる目的が分からなくなっていた時に聖書と出会い、旧約聖書の初めの言葉「初めに、神は天地を創造された」を読んで、ここに答えがあるじゃん!と感動したんですと。そのお話を聞いた時、わたしの心にも光が灯ったような気がして嬉しくなりました。自分を造ってくださった創造主に出会うこと、これに優る喜びはありません。 使徒パウロは、ローマ帝国アジア州リストラにいた足の不自由な男性を癒やしました。ところがリストラの住民は、彼と同労者のバルナバをギリシア神話の神々と勘違いして、拝み始めたのです。とんでもない!とパウロは群衆を説得し、人間が考え出した神々や人間を神としてしまうような迷信を捨てて、人間と世界をお造りになった創造主に立ち帰るようにと叫んだのです。 「無から創造され」と信仰問答は答えていますが、何も無い所から一切を創り出せるお方こそ真の神です。これこそ人生ですべてを失った者に希望を与える福音の言葉!ここに答えがあるじゃん!と、私たちは教えられます。 Sun, 26 Feb 2017 00:10:00 +0000 神の言葉はつながれていない(テモテへの手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170226 no 2017 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 (テモテへの手紙二2章9節) 獄中にいたパウロは、弟子であるテモテに対して教えを与えます。キリストの恵みによって強くなること(2テモ2章1節)。パウロと共に苦しみを忍ぶこと(同2章3節)。キリストのことを思い起こすこと(同2章8節)。これらの言葉は、苦しみの中にいるパウロから、これからさまざまな苦しみを経験するであろうテモテに対する助言であり、忠告です。 パウロは福音のゆえに苦しみの中にありました。鎖につながれてしまったのです。しかし、パウロは確信をもってこう言っています。「神の言葉はつながれていない」。たとえ、国家に代表されるさまざまな力が教会を圧迫し、信仰者を迫害しても神の言葉に鎖をかけることはできません。神の言葉はこの地上の力では押さえることのできないものなのです。 これからの時代を考えたときに、パウロが生きた時代以上の困難さが待ち受けているかもしれません。忍耐が求められるかもしれません。そのような時にこそ、神の言葉に信頼したいと思います。私たちをどのような力が襲うとしても、神の言葉はあらゆる縛りを打ち砕く、とこしえに立ち続ける希望です。 Sat, 25 Feb 2017 00:10:00 +0000 三位一体と宣教(ルカによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170225 no 2017 「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。」 (ルカによる福音書4章18節) 父なる神が、ご自身の霊を主イエスに注がれたのは、貧しい人に福音を告げ知らせるためでした。そして、実際に、主イエスは、洗礼を受けられた時、鳩のように降ってきた神の霊をいただき、福音を告げ知らせました。このように、三位一体の神は、貧しい人に福音を告げ知らせるという宣教の働きを共にされます。 そして、この宣教の働きは今、私たちに任されています。復活された後、天に昇られた主イエスは、私たちに聖霊を送ってくださり「地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人と」なりなさいと命じられました(使1章8節)。三位一体の神が世界のすべての人々に宣教されたら簡単です。それなのに、神は「宣教という愚かな手段によって」(1コリ1章21節)すなわち、私たち一人一人を用いて、貧しい人に福音を告げ知らせるようにされたのです。 それは、三位一体の神の宣教の働きに私たちを加えてくださることによって、やがてあらわれるキリストの栄光に、私たちをあずからせるためです。主イエスは、この世に再び来られる時、「忠実な良い僕だ。よくやった。わたしと一緒に喜んでくれ」と言われるのです。 Fri, 24 Feb 2017 00:10:00 +0000 三位一体と信徒の交わり(ヨハネによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170224 no 2017 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 (ヨハネによる福音書17章22節) 主イエスは、神からいただいた「栄光」を私たちに与えてくださいました。なぜなら、父、子、聖霊が一つであるように、私たちも「一つになる」ためです。つまり、私たちは神の栄光によって一つになるわけです。では、栄光とは何でしょうか。主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハ12節23節)と語られつつ、「十字架」を背負われました。それによって、神は主イエスに栄光を与えてくださり、ご自身も栄光をお受けになりました。十字架の栄光の中、一つになられたのです。 教会共同体の中での大小さまざまなことで苦しみ、心が一つにならない場合があります。しかし、パウロは「苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(エフェ3章13節)と語りました。 苦難を見るのではなく、主イエスの十字架を見上げつつ、自分の十字架を背負う時、神はご自身の栄光を私たちに与えられます。そして、父、子、聖霊が一つであるように、神の栄光の中、私たちを一つにしてくださいます。十字架なしの栄光はありません。十字架によって私たちは神の栄光をいただき一つになるのです。 Thu, 23 Feb 2017 00:10:00 +0000 三位一体と交わり(コリントの信徒への手紙二 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170223 no 2017 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。 (コリントの信徒への手紙二13章13節) パウロは、主イエスの十字架による救いの恵みと、独り子をお与えになるほどにこの世を愛された神の愛が、共にあるようにと、コリント教会の信徒を祝福しました。そして、最後に、聖霊の交わりをも願いました。聖霊の交わりは、ギリシア語で「コイノニア」と言いますが、この派生語を第一テモテ6章18節は「喜んで分け与える」と翻訳しています。 では、何を喜んで分け与えたらいいのでしょうか。いろいろなことがあると思いますが、その第一は、時間を分け与えることでしょう。共に時間を過ごさず、成り立つ交わりはないからです。ところが、日常生活に追われ、神と交わりの時間を持つことが難しい方もいるかも知れません。しかし、宗教改革者マルティン・ルターは、たくさんの仕事であまりにも忙しい時、もっとたくさん祈ったようです。神との深い交わりがもっと必要だったからでしょう。 忙しい時こそ、惜しまず自分の時間を喜んで神にささげましょう。聖霊の交わりによって、私たちの営みがより豊かにされるはずです。どうか、きょう、聖霊の交わりが、共にありますように。 Wed, 22 Feb 2017 00:10:00 +0000 三位一体と洗礼(マタイによる福音書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170222 no 2017 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。 (マタイによる福音書28章19節~20節) 洗礼は、神と受洗者との間で結ぶ契約の儀式です。受洗者がキリストに結び合わされ、神の民の一員となるという身分を確認する契約です。主イエスは、このような洗礼を父と子と聖霊の名によって受けるようにと命じられました。それは、私たちが神の民の一員となるように、父、子、聖霊が働いてくださるためです。 父なる神は、罪人である私たちを憐れみ、ご自身との和解を計画なさいました。子なる神は、十字架で死なれることによって、父なる神と私たちを和解させてくださいました。そして、聖霊なる神は、私たちの内に来られ、私たちを新しく生まれさせ、新たに造り変えてくださるのです。受洗者は、この三位一体の神と、救いの働きを告白しなければ、洗礼を受けることができません。つまり、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けることによってのみ、キリストに結び合わされ、神の民の一員となるのです。 洗礼は、神が、父、子、聖霊の名によって結んでくださった契約なので、契約破棄などありません。三位一体の愛の交わりに私たちを加えてくださった神は、決して私たちを離さないでくださるのです。 Tue, 21 Feb 2017 00:10:00 +0000 三位一体と信仰生活(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170221 no 2017 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 (エフェソの信徒への手紙4章5節) 「神が御自身について、父、子、聖霊、三つの位格が、唯一まことの永遠の神であると、御言葉において啓示なさいました」(ハイデルベルク信仰問答 問25の答・要約)。真理の霊であられる聖霊が、私たちに、御言葉を明らかにしてくださるお働きによって、私たちは三位一体の神を告白することができます。 しかし、この告白は、単に教理や神学における告白だけに留まるものではありません。すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる神は、洗礼や交わり、伝道など、私たちの信仰生活の領域においても、ご自身が三位一体の神であられることを示してくださいます。それゆえ、私たちは信仰の営みにおいても、三位一体の神を告白することができます。 神が三位一体の神であられるという告白は、信仰生活とかけ離れているものではありません。むしろ、私たちの毎日の信仰生活と密接な関係があります。生活の上にあり、生活を通して働き、生活の内におられる父、子、聖霊の共同の働きによる豊かさを感じる時、私たちはより深く神の恵みを味わうことができるのです。 Mon, 20 Feb 2017 00:10:00 +0000 三位一体と使徒信条(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170220 no 2017 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 (ヨハネによる福音書15章26節) ハイデルベルク信仰問答 問24の答えは、「第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの贖いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化について」です。この答えのように、私たちは使徒信条や教理などを用いて、神が三位一体の神であることと、三位一体の神がなさった御業を告白します。 ところが、三位一体の神をさまざまな理由で告白できない人がいます。人間の理性や知識で理解できないゆえに認めない人もいます。しかし人間は、理性によっていかなる知識を積み上げても、三位一体の神に近づくことはできません。三位一体の神を告白できるのは、主イエスが父のもとから私たちに遣わされた聖霊の働きのみによって可能です。 「弁護者」、つまり、「真理の霊」である聖霊は、私たちに三位一体の神について証ししてくださいます。聖霊は私たちに「神が三位一体である」という真理を教えてくださいます。人の理性や知識を超える聖霊の教えによって、私たちは、三位一体の神を告白することができます。いや、聖霊に満たされている者は、三位一体の神を告白せざるをえないのです。 Sun, 19 Feb 2017 00:10:00 +0000 宣教に生きる教会(マタイによる福音書 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170219 no 2017 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書28章20節) イエス・キリストは復活の後、地上で40日の間、弟子たちと過ごされました。そして、天にあげられる前に弟子たちに対して宣教の御業を託されました。そして聖霊を通してキリストご自身が弟子たちと共にいることを約束され、弟子たちを派遣されました。 弟子たちが派遣されたのはイエス・キリストを否定したユダヤ世界であり、使徒言行録によれば、その歩みは皇帝を神とするローマ帝国へと広がるものでした。そのような世界にキリストは弟子を派遣されました。キリストは、天の父なる神から地上に遣わされましたが、同様に聖霊を通して弟子たちを派遣されたのです。私たちも同様にキリストからの派遣を受けています。礼拝で祝祷がなされ、私たちはこの世界へ、自分に与えられた場へと派遣されます。それはキリストによる派遣であり、宣教と証しという使命が与えられてのものです。 教会が行う、そして信仰者がなす国家に対する最善の奉仕はなんといっても祈りと善き生活、そして、そのうえに積み重ねられる宣教です。いつも私たちと共にいてくださるキリストとこの使命に生きていくのです。 Sat, 18 Feb 2017 00:10:00 +0000 キリスト者が信じるべき最も大切なこと(ヨハネによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170218 no 2017 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネによる福音書20章30節~31節) ヨハネによる福音書は、主イエスが「キリスト」、すなわち約束されたメシアであるばかりでなく、父のみもとから遣わされた神の子であることも教えています。この方を信じるとは「永遠の命」を受けるということでもあります。そのことを知らせるために、聖書は書かれました。 主イエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさいましたが、それらのことすべてがこの書物に書かれたのではありませんでした。それは、福音の中心的メッセージを伝達しようとする時、しるしすべてを書き記すことが重要ではなく、また必要でもなかったからです。聖書には、私たち人間にとってなくてはならない必要な言葉すべてが書き残されています。そして、その中心は、私たち罪人を救おうとなさる神の福音の約束です。ですから、キリスト者にとって信じるべきことは、「福音においてわたしたちに約束されていることすべて」(ハイデルベルク信仰問答 問22の答)なのです。 御言葉を通して明らかにされた「永遠の命」の約束を、私たちは信仰をもって握りしめ、力強い確信の中で感謝にあふれて、きょう一日を過ごしていきましょう。 Fri, 17 Feb 2017 00:10:00 +0000 新しく神に造られたもの(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170217 no 2017 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 (エフェソの信徒への手紙2章10節) 聖書の神は、私たちに「善い業」をするよう命じる前に、私たちを新しく造り変えてくださいます。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」。 ここで「神に造られたもの」であるわたしたちが「キリスト・イエスにおいて造られた」ということが大切です。これは、ただ無から創造された被造物という以上に、罪と死の中から再創造された「神の芸術作品」であることを強調しています。キリストを信じるようにされた者は、神が前もって準備しておられる善い業を行うための「芸術作品」へと再創造されたのです。「芸術作品になりなさい」と命じられているのではありません。既に「芸術作品」とされているのです。 キリストの贖いによって新しくされ、神の尊いお働きのためにこのわたしが神の芸術作品へと造り変えられている、という喜びの中で、神ご自身が準備してくださる善い業までも行う事ができるという幸いを覚えつつ、きょうも一日、主に感謝しながら、主に喜ばれる業を行って歩みましょう。 Thu, 16 Feb 2017 00:10:00 +0000 あなたにこのことを現したのは(マタイによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170216 no 2017 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」 (マタイによる福音書16章16節~17節) 主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられたとき、シモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。彼は、どのようにして主イエスの本当の姿を正しく知ることができたのでしょうか。主イエスは言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。この主イエスの御言葉によれば、神の霊の働きによらなければ、人は主イエスの正体・本質を知ることはできないのです。 神の御霊が働かれ、今まで閉ざされていた心の目が開かれます。そして、聖書を通して主イエスの中にまことの神としてのご性質と栄光を見ることができるようになります。すると人の中の霊が黙ってはいられなくなり、信仰の告白へと導かれます。私たちが主イエスを救い主として信じる時、実は御霊の働きを受けたのです。そのような恵みに与ったのだから「あなたは幸いだ」と主イエスはおっしゃるのです。ペトロと同じ信仰告白へと導き、恵みによって救いに至らせてくださった主に心から感謝を献げましょう。 Wed, 15 Feb 2017 00:10:00 +0000 聖書はイエスを証しするもの(ヨハネによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170215 no 2017 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」 (ヨハネによる福音書5章39節) ユダヤ人たちは旧約聖書の中に永遠の命があると思って、熱心に旧約聖書を研究しました。しかし、彼らの聖書研究には大きな欠陥がありました。旧約聖書が「永遠の命を与える方」として指し示している主イエスを、受け入れなかったからです。主ご自身が「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われているように、キリストを証言することが聖書の根本的な目的です。人は聖書を用いて、聖書が指し示すイエス・キリストを見上げるのです。そのことをユダヤ人たちはしませんでした。 今日、私たちは、聖書によってのみ、主イエスを知ることができます。ですから、まことに神が、御言葉において私たちに啓示されたことすべてを真実であると確信する、その確かな認識が必要です。聖書を調べたり研究することは、異教徒にもできます。しかし、旧新約聖書を神の言葉であると信じるということは、イエス・キリストを救い主と信じる者に与えられた特権です。私たちには、聖書の御言葉を理解し信じるために聖霊が与えられています。聖霊なる神の助けの中で御言葉を読み、きょうも新しくキリストに出会うことができるのです。 Tue, 14 Feb 2017 00:10:00 +0000 信頼して大胆に出て行く(マルコによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170214 no 2017 さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。…イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 (マルコによる福音書5章25節~2節8) 群衆が主イエスに押し迫っている中、12年間も出血が止まらず苦しんでいた一人の女性が「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れ」ました。この女性は、主イエスについての良い知らせ(福音)を聞き、主イエスへの知識を得ていました。そして「その知らせは間違い無い、この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じました。 病気のゆえに汚れているとされ、人前に出ることを許されていなかったこの女性は、「どうしても主イエスの助けに与りたい」という願いを捨てきれませんでした。そして、誰にも気づかれないようにして群集の中に紛れ込み、自分の運命をかけて手を伸ばし主イエスの服に触れたのでした。主イエスを信じ、行動したのです。悪霊も、神が唯一の絶対者であるという知識を持ち、それをはっきりと信じています。けれども神を信頼し従うことはしません(ヤコ2章19節)。しかし、彼女は、知って信じるだけではなく、信頼して行動を起こしました。そのことが主に喜ばれたのです。 私たちもこの信頼の心を持ち、心からの切なる祈りをもって、神の御前に大胆に出て行きましょう。 Mon, 13 Feb 2017 00:10:00 +0000 狭い門から入りなさい(マタイによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170213 no 2017 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 (マタイによる福音書7章13節~14節) 「人生は選択の連続である」とよく言われます。人生はまるで道のようなものであり、至る所に分岐点があり、その分岐点にぶつかるごとに、どちらの道を進むのかを選択しなければならない。そして、その人が今立っている地点というのはこれまでの一つ一つの人生の選択の積み重ねの結果なのだ、という考え方です。 主イエスもご自身を「門」にたとえて、ご自身を選ぶ者が受ける祝福について教えられました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。この御言葉を通して、主イエスは「わたしを選びなさい」と招いておられます。 これは、人の生涯のうちで最も大事な決断です。キリストを救い主と信じて心にお迎えし、救いの恵みに与るのか、あるいはそれを拒否して滅びに通じる道をたどるのか、その決断です。これは誰も避けて通ることのできない分岐点。この分岐点の後、その人の永遠の道がはっきりと決まるからです。招かれている門から入りましょう。 Sun, 12 Feb 2017 00:10:00 +0000 神を畏れる(ペトロの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170212 no 2017 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。 (ペトロの手紙一2章17節) ペトロは手紙の中で、神の僕として生きるように勧めています。信仰者は天の国を目指す旅人です。ですから、天を目指すものとしてふさわしい歩みが求められています。 この地上を歩む上で、教会と国家の問題を避けて通ることができません。ペトロが生きていた時代は、皇帝に代表される権力とどのように対峙するのかが問題でした。ペトロは、「すべて人間の立てた制度に従いなさい」(1ペト2章13節)と語り、国家の持つ政治権力を重んじています。しかし、それは主なる神という絶対的な存在の前では相対的なものです。国家を初め、諸々の権威は敬うものですが、私たち信仰者はなによりも神への畏れが先立つのです。私たちが地上の権威に従うのであれば、それは「主のために」(同2章13節)です。 地上の国は、神の国に比べれば過ぎゆくもの、暫定的なものです。それは旅人にとっては仮住まいであり、一時的なものです。地上の国家がどれほどの力を持ったとしても、それはまもなく過ぎ去ります。そのような視点にたちつつ、旅人としてやがてくる神の「訪れの日」(同2章12節)を目指して教会は歩みます。 Sat, 11 Feb 2017 00:10:00 +0000 神の時が満ちて(ガラテヤの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170211 no 2017 時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 (ガラテヤの信徒への手紙4:4) 人を罪と悲惨から救うことのできる救い主は、まことの人でありつつまことの神でなければなりません。このような条件を満たせる救い主に、人が自ら成ることはできません。しかし、神は、聖なる福音によって、「御自身の愛する御子によってついに成就なさいました」(ハイデルベルク信仰問答 問19の答)。 しかも、御子イエスがマリアから誕生されたことは、神の最高のタイミングで起こりました。きょうの個所は「時が満ちると、神は、その御子を女から…生まれ」させられたと言います。そうです。神の時が満ちたのです。 ローマの支配下にあったユダヤでは、救い主の到来にしびれを切らしていた者もいたでしょう。しかし、それは遅すぎることも早過ぎることもありませんでした。人の思惑を超えて、神はご自分の時計でご計画を進め、満を持して御子を遣わされたのです! ここに神の時を待つことを教えられます。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。『もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない』」(ヘブ10章36、37節)。主よ、あなたの時を待ちます! Fri, 10 Feb 2017 00:10:00 +0000 身代りの犠牲-イエス-(レビ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170210 no 2017 牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は…臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。 (レビ記3章4節) レビ記の最初の数章には、人の罪の贖いを初めとして、動物犠牲についての規定が続きます。奉納者は無傷の雄を臨在の幕屋の入り口に引いていき、動物の頭に手を置き、それを屠り、祭司が血を祭壇の側面に注ぎかけるのでした。 人が動物の頭に手を置くことは、動物への人の罪の転嫁を意味します。その後、それが屠られ、血が注がれることは、人に赦しが与えられることを意味しました。 自分に代わって殺される無傷の動物の鳴き声!大量の血!自分の罪の償いのために、人は自分では何もなし得ず、他者の犠牲を必要とするという罪の恐ろしさ、また痛みを、強く覚えたことでしょう。 実は、このような形で、神と人との間の唯一の仲保者、贖い主イエス・キリストの十字架の犠牲を、神は予め示しておられたのでした。ハイデルベルク信仰問答 問19が、キリストの死について「律法による犠牲や他の儀式によって象り」と言うとおりです。 御子を「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1章29、36節)として遣わされる上で、ここにも驚くべき神のご準備があったのでした。神よ、御名を心からほめたたえます! Thu, 09 Feb 2017 00:10:00 +0000 悪魔の頭を砕く主イエス(創世記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170209 no 2017 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」 (創世記3章15節) 私たちは、イエス・キリストが2千年前、世に来られ、私たちのために十字架で命を献げ、悪魔に勝利されたことを教えられています。 これは歴史の中で、いきなり起こったのでしょうか。いいえ、神の見事なご計画と準備によって起こったのでした。 人類の始祖アダムとエバが神に背き、神を恐れて園の中に身を隠した、何とすぐその後に、神は、キリストの十字架による悪魔への勝利を告げられました。神は悪魔に言われました。「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」。この時、既に福音が世界に語られていたことに驚かずにはおれません。 私たち人間はしばしば思いつきで発言や行動をして、よく失敗します。しかし、イエス・キリストの出来事は、遥か昔、それもアダムとエバが取り返しのつかない罪を犯した直後に、神がその計画を自ら示されていたことでした。神の救いの決意は、何と素早く、私たちを救おうとされる愛の熱意にあふれていることでしょう。ですから、ハイデルベルク信仰問答 問19は言います。「それを神は自ら、まず楽園で啓示し」と。 神よ、あなたの愛と熱心に心から感謝いたします! Wed, 08 Feb 2017 00:10:00 +0000 完全な仲保者イエス(テモテへの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170208 no 2017 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 (テモテへの手紙一2章5節) ユダヤ議会で尋問された時、ペトロは主イエスについて敢然と言いました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使4章12節)。 そのとおり、私たちの罪がいかに深くても、罪と永遠の悲惨から救われるために、ほかのどんな宗教指導者も救い主もいりません。父なる神から私たちに与えられたイエス・キリストは唯一完全な救い主だからです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」。 問18も「まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったいどなたですか」と問い、「わたしたちの主イエス・キリストです。この方は、完全な贖いと義のために、わたしたちに与えられているお方なのです」と断言します。 この仲保者イエス・キリストの完全性を、私たちはもっと深く心に刻むべきでしょう。この完全な救い主が、生きるにも死ぬにも、私たちに「あなたはわたしのもの」と断言してくださるのです(ハイデルベルク信仰問答 問1参照)。 Tue, 07 Feb 2017 00:10:00 +0000 まことの神、イエス(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170207 no 2017 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネによる福音書3章16節) 主イエスの十字架を思うと胸が痛み、イザヤ書53章の「苦難の僕」を思わずにはおられません。見るべき面影はなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、刺し貫かれ、打ち砕かれ、懲らしめられ、捕らえられ、裁きを受け、命を取られました(イザ53章2~8節参照)。ここまで徹底的に苦しめられた人が、かつて世にいたでしょうか。 人間には耐えられない苦痛を、主イエスはまことの人間として耐えてくださいました。神の怒りから何としても私たち罪人を救うために、御子イエスは、ご自分の神としての性質と力により、すべてに耐えてくださいました。ハイデルベル問17は言います。「その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださる」と。 こうして見ると、神が敢えてご自分の独り子を世に遣わされた理由が、一段とよく分かります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神よ、あなたを讃えます! Mon, 06 Feb 2017 00:10:00 +0000 正しいまことの人、イエス(ペトロの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170206 no 2017 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。 (ペトロの手紙一3章18節) 神は絶対的に正しい方ですから、罪には償いが求められます。従って、私たちが救われるためには、私たち自身が自らの罪の責任をすべて負い、償うか、あるいは、正しい誰かが、私たちに代わって罰を受け、私たちの罪を全部償ってくれる必要があります。 しかし、人には皆、生れながらに罪があるため、誰も他人の罪を償うことなどできません。ハイデルベルク信仰問答 問19は答えます。「神の義は、罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできない」と。 では、私たちには絶望しかないのでしょうか。いいえ、ここに福音があります! 全く罪のない正しいまことの人、イエス・キリストが、地獄の刑罰ともいえる苦しみを、十字架で受けてくださいました。それは、ただただ私たちのためでした。「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」。 御子イエスは、私たち罪人に代わって、苦しむために、まことの人となって世に来られたのです。何という主の愛でしょう!主よ、御名を賛美し、あなたを愛します。 Sun, 05 Feb 2017 00:10:00 +0000 ナボトのぶどう畑(列王記上 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170205 no 2017 ナボトはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。 (列王記上21章3節) イズレエル人であったナボトは、アハブ王の宮殿のすぐ近くにぶどう畑を持っていました。そのナボトに対して、王は畑を譲ってくれと話を持ちかけました。引き替えに、ナボトにはより良い畑を与えることを約束しました。この条件は決して悪くはないはずですが、ナボトはこの申し出を断ります。理由は簡単です。それは先祖から受け継いだ土地だからです。ナボトはアハブに言います。「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」。王は腹をたて、ナボトを石で打ち殺してしまいます。このようなアハブ王の行動を神は裁かれました。 王の権力を乱用したアハブ王に対して、ナボトは神を第一として、信仰を告白しました。聖書が記すナボトの言葉はごく短い言葉だけです。しかし、この言葉は重く、信仰と決心に満ちています。「主にかけてわたしにはできません」。その結果、王を怒らせ、自らに死を招くことになりましたが、ナボトは神への信仰を貫きました。 もし国家が権力を持って襲いかかってきたとしても信仰を告白するものでありたいと願います。 Sat, 04 Feb 2017 00:10:00 +0000 神との平和を創り出す方(イザヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170204 no 2017 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。 (イザヤ書9章5節~6節) イザヤ書前半は、メシアが「指導者、神、父、王」と称され、勇ましいのですが、40章からの後半は、四つの「僕の歌」を中心に、メシアの苦難が語られています。 福音書では、主イエスがメシアとしてのお働きを開始される場面でイザヤ書9章始めの部分が引用されています。その方は「驚くべき指導者、…平和の君」なのですが、やはり、そのご生涯の後半において受難の道を歩まれます。 マタイ福音書は、その始まりにおいて、ダビデの子イエス・キリスト誕生の次第でイザヤ書7章14節の「インマヌエル(神は我々と共におられる)」預言を引用します。そして、主イエスが苦難の僕の任務を果たして復活したのち、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、やはり最後も「インマヌエル」で結んでいます。 キリストの誕生と生涯、死と復活、昇天と着座で、私たちに神との平和が与えられました。神は私たちに、罪の赦しと永遠の命、神の子とする特権と、共に王座に着く光栄をお与えくださいました。私たちは天に国籍を持ちながら、平和を創り出す神の子らの使命を果たしましょう。 Fri, 03 Feb 2017 00:10:00 +0000 神とわたしを結ぶ方(ヘブライ人への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170203 no 2017 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 (ヘブライ人への手紙2章17節) 「ヘブライ人への手紙」は、「大祭司」という職務から、イエス・キリストの働きを説明しています。一般に祭司は、民の罪を償うために、いけにえの儀式をして、神に執り成す人たちですが、「大祭司」はただ一人であり、イエス・キリストのモデルでした。 イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハ14章6節)。天から来られたお方は、地上で自らいけにえとなって、私たちの罪を償う任務を全うし、天に昇られました。 そこで、天地の間に道ができて、クリスチャンの祈りはキリストを通って天に通じるのです。ですから、主イエスは「わたしの名によって祈れ」と言われました。私たちは、お祈りの最後に「イエス・キリストの名によって」と言います。その祈りは、キリストを通って、天に通じるのです。 ノアのときに現れた天地を結ぶ虹の意味は、イエス・キリストの和解に鮮やかに現されました。神とわたしを結ぶ方は、きょうも憐れみ深い大祭司として、わたしを神に執り成してくださっています。 Thu, 02 Feb 2017 00:10:00 +0000 生涯を取り返してくださる方(詩編 49編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170202 no 2017 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。 神に身代金を払うことはできない。 魂を贖う値は高く とこしえに、払い終えることはない。 人は永遠に生きようか。 墓穴を見ずにすむであろうか。 (詩編49編8節~10節) 詩編49編は、罪に対する厳しい罰を語っています。私たちの犯した罪は、取り返しのつかないものです。罪を犯した事実は一生消えません。ところが、神の目に、取り返しのつく方法が一つだけあります。キリストの生涯がわたしのものになることです。 キリストの生涯は、神の律法が要求する愛を完全に行うものでした。人となった神の御子はわたしを「兄弟」と呼んでくださいました。ゆえに、神は、このわたしをも、キリストにあって、「神の子」と呼んでくださいます。 そして、キリストの死は、私たちの律法違反の罪を「神に対して」完全に贖い、「とこしえに払い終えること」を成し遂げてくださいました。したがって、私たちは「墓穴を見ずにすむ」のです。人の「魂を贖う値」とは、キリストがご自分の命をかけるほど高価なものだったのです。 そのように、神は、わたしをキリストに結び合わせて「わたしの目にあなたは価高く、貴く」(イザ43章4節)と言ってくださいます。わたしの生涯は取り返しがつきます。神が、わたしをキリストの復活に結び合わせて再創造してくださるのですから。 Wed, 01 Feb 2017 00:10:00 +0000 身代わりになることができる方(エゼキエル書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170201 no 2017 「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」 (エゼキエル書18章20節) 地震や津波で若い命が失われたとき、助かった年配者は、「代われるものなら代わってやりたい」とつらい思いになります。ましてそれが家族なら、孫をなくした祖父母は、心底、そのような気持ちになるでしょう。しかし、人は誰も人の身代わりにはなれないことを痛感します。ですから、本当に身代わりになることができるなら、それは本当にすごいことで、神にしかできないことだと思わされます。 きょうの聖書箇所は、人は自分の罪を背負うのみで、誰も他人の罪の身代わりにはならないと断言しています。それゆえ、神は「単なる被造物」ではないイエス・キリストを、人の罪の身代わりとされました。旧約時代の動物のいけにえは、本当のいけにえイエス・キリストのモデルだったのです。 神の子にして人となられたイエス・キリストだけが、本当に身代わりになることができる唯一の方です。この方は命を捨てることもできれば、再び命を受けることもできる方です。今、復活して生きておられるキリストは身代わりを体験して、私たちの血肉が持っている罪の弱さを思いやることができるお方なのです。 Tue, 31 Jan 2017 00:10:00 +0000 払いきれない罪の代価(ローマの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170131 no 2017 神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 (ローマの信徒への手紙2章4節~5節) 罪の代価は払いきれないものです。まず、人類の罪を考えてみるとどうでしょう。神の作品である美しい世界を治めるよう、人類は特権と使命を与えられました。しかし、互いに殺し合う戦争はエスカレートし、今や世界を破壊する兵器まで存在します。 核兵器廃絶を願いながらそれができない現実は、わたし個人にも当てはまります。自分の欲する善は行わず、願わない悪を行ってしまう自分がいます。天地万物の創造者が「地球を元通りにして返せ」と要求されたら、その代価はどれくらいでしょうか?人類もわたしも、神の怒りを自分のために蓄えています。 人類もわたしも、罪の代価を払いきれません。わたしは自分の罪の代価も払いきれませんが、わたしが地球規模で巻き込まれている罪の代価も払いきれません。わたしも人類も罪の奴隷です。 罪の奴隷から解放される身代金を神は要求なさいますが、それを神自らお与えくださいました。払いきれない罪の代価を払える方を、神は救い主として与えてくださいました。ここに愛があります。キリストの十字架には神の忍耐と寛容があります。 Mon, 30 Jan 2017 00:10:00 +0000 神の最高の満足(出エジプト記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170130 no 2017 偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。 (出エジプト記23章7節) イエス・キリストは、裁判で「偽りの発言」により、「罪なき人、正しい人」でありながら殺されてしまいました。神は「悪人を、正しいとすることはない」のに、なぜ、イエス・キリストの死は、神が満足して受け入れられたのでしょうか。 天地創造の始め、神は万物を創造して「良し」と満足されました。そして特に人間を神のかたちに創造して、地上に造られたものが人間によって治められる状態を「極めて良し」と満足されました。 しかし、人間はサタンに誘惑され、神に背いてしまいました。そこで神は、人間と世界を救うために、神の御子を人間の姿にしてお遣わしくださいました。イエス・キリストは人間として神の満足される生涯をおくり、人間の身代わりとして十字架にかかってくださいました。 神は正しい人が悪人の身代わりになることを、ただ一度、キリストの十字架だけを「良し」とされました。そして、キリストの復活によって新しい天地創造をなさいます。したがって、キリストの死と復活には、神の最高の満足があるのです。 Sun, 29 Jan 2017 00:10:00 +0000 今年も神の栄光のみを追い求める(ペトロの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170129 no 2017 神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。…それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。 (ペトロの手紙一4章10節~11節) 宗教改革者たちは「神の栄光だけが、この世界に結実するように」と願い求めました。「栄光」は「神のすばらしさ」と言い換えることができます。聖書には多種多様な神のすばらしさが教えられています。詩編には次のような言葉があります。「天は神の栄光を物語り、大空は神の御手の業を示す」(詩19編2節)。大自然には、創り手である神のすばらしさが反映されています。この大自然に溢れる神の輝きと同じすばらしさが、互いの愛が形づくられるところに光輝きます。 愛することの下手な、罪人である私たちの間に、愛が形づくられるとき、そこには、救いの恵みの賜物として愛を創りだしてくださる神の御手の業が示されます。愛を知らない世界が、キリストによって愛を知り、互いを愛する共同体を形成していく。そこに神の栄光が示されます。 この世界のどこにも、神の恵みが届かない領域などありません。毎日の暮らし、教会生活、新しい一年にも、その栄光を示すため、神はあなたに賜物を託されます。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。 Sat, 28 Jan 2017 00:10:00 +0000 神は正しく裁く方(ヘブライ人への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170128 no 2017 「復讐はわたしのすること、 わたしが報復する」 と言い、また、 「主はその民を裁かれる」 と言われた方を、わたしたちは知っています。 (ヘブライ人への手紙10章30節) 聖書は、神が正しい方であると教えています。正しい方であるとは、罪を正しく裁かれる方であるということです。 考えてみてください。私たちの世界では、毎日いろいろな所で犯罪が起こっています。しかし、もし犯罪が放置されたまま、誰も裁かないとしたら。また、裁判が行われたとしても、本来裁かれなければならない人が裁かれず、罪のない人が裁かれたとしたら。そこに正義はありません。 現実に、私たちの世界では冤罪があり、不正な裁きがあります。だからこそ、神の正しい裁きが必要です。たとえこの世で裁きを逃れたとしても、神は体と魂の両方において永遠の刑罰を下され、正義を行われます。 ただ、そうなると罪人である私たちは、誰一人として神の裁きから逃れることができないのではないか?罪を裁く正しい神と、罪を赦す憐れみの神のどちらが真の神なのか?不安になります。しかし、どちらも神の姿です。 神は、キリストの十字架において、私たちの罪を完全に裁かれました。十字架こそ、「神の義と愛のあえるところ」(讃美歌262)です。 Fri, 27 Jan 2017 00:10:00 +0000 憐れみ深く、忍耐強い神(詩編 103編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170127 no 2017 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。 (詩編103編8節~9節) 聖書が教えていることは、神は確かに憐れみ深いお方であるということです。イスラエルの歴史を見て行くなら、そのことがよく分かります。 神は奴隷として虐げられていたイスラエルを慈しまれ、モーセを用いて、エジプトの奴隷から解放されました。神は無条件にイスラエルに恵みと憐れみを注いでくださいました。その後イスラエルが神の憐れみを忘れ、神の律法を破り、真の神以外の偶像に心を奪われた時も、神はイスラエルに裁きを与えられましたが、決してイスラエルを見捨てることはありませんでした。 主イエスは弟子のペトロが、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と質問した時、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」とおっしゃいました(マタ18章21、22節)。まさに、憐れみ深い神ご自身が、何度でも私たちに赦しを与えてくださっています。 今、神は、私たちが悔い改め、神に立ち帰るのを忍耐強く待っておられます。どうか日々、悔い改めて、神に立ち帰る勇気が与えられますように! Thu, 26 Jan 2017 00:10:00 +0000 律法を守ることのできないわたし(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170126 no 2017 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章10節) この世界に罪のない人は一人もいません。詩編の詩人が、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」(詩51編7節)と告白しているように、アダムから生まれたすべての人間は、生まれながらの罪(原罪)を持っています。 この生まれながらの罪の故に、人間は神の律法を正しく知ることも、正しく守ることもできなくなりました。どんなに自分は正しいことをしているように見えても、神の目から見た時、わたしも、あなたも日々、思いと言葉と行いにおいて律法違反の罪を犯しています。 神はそうした私たちの罪を激しく怒り、裁きを下されます。「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」(申27章26節)とある通りです。私たち人間はすべて神の裁きによって滅んで当然の罪人です。 しかし安心してください。神は律法の行いによってではなく、恵みによって、信仰によって生きる道を備えてくださいました。そのためにキリストご自身が律法の呪いを引き受けてくださったのです。 Wed, 25 Jan 2017 00:10:00 +0000 神は罪を決して見逃されない(詩編 5編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170125 no 2017 あなたは、決して 逆らう者を喜ぶ神ではありません。 悪人は御もとに宿ることを許されず 誇り高い者は御目に向かって立つことができず 悪を行う者はすべて憎まれます。 (詩編5編5節~6節) 神は律法によって、人間がどのように生きるべきかを教えておられます。それによって、神はこの地上に正義と公平を実現し、私たちに祝福を与えようとしておられます。 したがって、神は律法違反の罪を決して見逃されません。神は律法に背き、逆らう者を憎まれ、呪われます。なぜならば、律法に背き、悪を行っても、その罪を正しく裁くことができなければ、決してこの地上に神の正義と公平は実現しないからです。そうなったら、驕り高ぶる者、強い者の力が正義となり、弱い者、虐げられた者の救いは永遠に実現しません。 ただ、私たち人間は、罪を正しく裁くことができません。なぜなら、罪を裁く人間もまた罪人だからです。罪の無い神だけが正しい裁きをすることができます。神はこの世においても永遠においても、律法違反のあらゆる罪を正しく裁かれます。 神は虐げる者、悪を為す者への裁きを通して、地の貧しい人をすべて救われます。主はおっしゃいました。「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う」(詩75編3節)。 Tue, 24 Jan 2017 00:10:00 +0000 一人の罪と一人の正しさ(ローマの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170124 no 2017 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 (ローマの信徒への手紙5章18節) 聖書は人間の罪の原因を始祖アダムとエバの堕落によると教えています。アダムとエバは、蛇の誘惑に負け、神が決して食べてはならないとお命じになった善悪の知識の木から取って食べてしまいました。それによって、人類全体が堕落し、死がすべての人を支配するようになってしまったのです。 ただ、そのように言われても、自分はそんな昔のことは知らない、関係ない、と言いたくなるかもしれません。どうしてアダムの罪の責任を自分が問われなければならないのか、と思う人もいるでしょう。しかし、始祖アダムは私たち人類の代表です。ですから、アダムの罪の責任は単にアダム個人の問題ではなく、人類全体の問題です。そして、実際、私たちもアダムと同じように罪を犯しています。 こうして、一人の罪によって、すべての人が罪人となりました。しかし、神は私たちを救うために「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得る」道を備えてくださいました。この一人の正しいお方・主イエスこそ、私たちの救いの希望です。 Mon, 23 Jan 2017 00:10:00 +0000 神にかたどって造られた人間の責任(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170123 no 2017 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 (エフェソの信徒への手紙4章24節) 神は、神にかたどって造られた人間に律法をお与えになりました。神は律法によって、すべての人間に「真理に基づいた正しく清い生活を送る」よう命じておられます。 しかし、すべての人間は始祖アダムとエバの不従順によって堕落し、律法を行うことができなくなりました。それならば、もはや行うことができない律法を、神が人間に求めておられることは理不尽なこと、不正なことなのでしょうか。そうではありません。 神にかたどって造られた人間は、律法を正しく行うことのできる能力を与えられていました。神は決して不可能なことを人間に要求なさってはいません。神は最初から無理な要求をなさっているのではないのです。堕落し、律法を行うことができなくなってしまったのは、私たち人間の責任です。 私たちはまず神の愛を裏切って堕落し、律法を行うことができなくなってしまった自らの罪を自覚したいと思います。そして、私たちの救いは、神の憐れみによって新しく造られる以外にないことを、今一度深く覚えたいと思います。 Sun, 22 Jan 2017 00:10:00 +0000 今年もキリストのみが救い主(ローマの信徒への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170122 no 2017 死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。 (ローマの信徒への手紙8章34節~35節) 古代において、王はその右の座に皇太子や総理大臣を置き国の統治を任せました。この世界のまことにして唯一の王であられる神の右の座。そこにはイエス・キリストが座しておられます。この御方が父なる神とわたしの間を取り持ってくださいます。 宗教改革の時代、改革者たちは「神とわたしたちを執り成す方は、キリストのみである!」と力強く声を上げました。神とわたしの間にいてくださる方は、誰でもよいわけではないのです。神を信じることに疎く、信じた後も失敗を繰り返す私たちに愛想を尽かすことなく、最後まで面倒をみてくださる御方でなくては、この大役は務まりません。それができるのは、十字架の死と復活によって、私たちへの愛を示してくださったイエス・キリストのみです。 使徒パウロは「この御方の愛からは、何者も、わたしたちを引き離すことはできない!」と力強く語ります。 新しい年にも、私たちを否定する数多くの力があることでしょう。体のこと、性格のこと、社会的なこと…。しかし、どんな力が自分を否もうとも、キリストがあなたを肯定してくださいます。 Sat, 21 Jan 2017 00:10:00 +0000 聖霊による新しい誕生(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170121 no 2017 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。…だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 (ヨハネによる福音書3章3節~5節) ニコデモという人はファリサイ派に属していましたが、主イエスに好感を持っていました。主イエスのなさったしるしを見て、主イエスが「神のもとから来られた教師」であると信じていたのです(ヨハ3章2節)。その彼に主イエスは思いもよらない教えを語られました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。 なぜ主イエスは、彼にこのようなことを教えられたのでしょうか。主イエスは、ニコデモの心の中に律法を熱心に守ることによって神の国に入れるという思いがあることを、ご存じだったのでしょう。主イエスはそのような彼の思いを根底から打ち砕かれるのです。人は新しく生まれなければ、すなわち「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と。 人は誰も、自分の善行や熱心さによっては救われません。堕落した人間の腐敗はそれほど深刻なのです。ただ神の霊によって洗われ、新たに生んでいただくことによって、神の国に入ることができます。それは全く上からの、神からの恵みによる救いです。 Fri, 20 Jan 2017 00:10:00 +0000 人の悪を忍耐される神(創世記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170120 no 2017 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」 (創世記8章21節) この世界には悪と不法が満ちています。人が人を憎み、殺します。他人事ではありません。神は私たち人間の心をご存じであり、言われました。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。人の心は生まれながら悪の方向へと傾いています。悲しいことですが、愛する方向ではなく、憎む方向へと傾いてしまっているのです。堕落した人間全員にそのような心の腐敗と闇があります。 しかし、神はそのような人間を、そして世界を見捨てられませんでした。人の心の悪を知りながらなお、あの洪水のように世界を滅ぼし尽くすことは二度としないと約束してくださいました。なぜでしょうか。洪水から救われたノアは神のために祭壇をつくり、清い動物をささげました。神はその「宥めの香り」をかがれたのです。そして今や全く汚れのないキリストが「わたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物」(エフェ5章2節)としてささげてくださいました。 神は一人でも多くの者が悔い改め、キリストを信じて救われるように今も人間の悪を忍耐し、世界を保持してくださっています。 Thu, 19 Jan 2017 00:10:00 +0000 罪と死を超えるキリストの恵み(ローマの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170119 no 2017 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 (ローマの信徒への手紙5章18節) 人は皆、死にます。それは自然法則にかなったことであり、どうしようもないのでしょうか。 聖書はそのようには語りません。神が創造された世界には最初、死がありませんでした。その世界に死が入り込んだのは一人の人(アダム)の罪によってです。アダムは全人類の祖先であり、代表です。このアダムにあって私たちすべての人間は罪を犯しました。そして罪を犯した全人類の上に死が力を振るい、支配するようになったのです。私たちの力では、この死の支配から逃れることはできません。 しかし、そのような罪と死の支配をはるかに超える豊かな恵みが、私たちに注がれました。それは一人の人イエス・キリストによって注がれた恵みです。このお方が、私たちができなかった神への従順を成し遂げてくださいました。このお方の義によって、私たち死ぬべき罪人が義とされ、永遠の命が与えられます。 キリストに結ばれた私たちは、もはや罪と死の支配下にはいません。それを凌駕するほど豊かな恵みの支配の下に生かされています。なんと感謝なことでしょうか。 Wed, 18 Jan 2017 00:10:00 +0000 サタンとの戦い(創世記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170118 no 2017 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。 (創世記3章15節) 私たちキリスト者にはこの世においてサタンとの霊的な戦いがあります。 最初の人間はこの戦いに敗れてしまいました。人は神の言葉に堅く立ち続けることができず、サタン(蛇)の誘惑の声に耳を貸し、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、罪に陥ってしまったのです。その結果、すべてが満たされていた楽園から追放され、この世で多くの苦しみを味わうことになりました。このサタンとの戦いに勝利できなければ、私たちに幸いが訪れることはありません。そして弱い私たち自身を見るならば、勝てる見込みはないでしょう。 しかし、神はサタンに敗北を宣言してくださいました。「女の子孫」が「お前の頭を砕」くと。もちろんなお続く戦いの中でサタンが私たちに傷を負わせ、痛みをもたらすことはあります。しかし、それは「かかとを砕く」程度のものであり、致命傷ではありません。頭が砕かれるという致命傷を負い、滅びるのはサタンの方です。サタンに対する私たちの勝利が神によって、キリストによって保証されているのです。ここに希望があります。 Tue, 17 Jan 2017 00:10:00 +0000 人間の回復(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170117 no 2017 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 (エフェソの信徒への手紙4章24節) 神は、人間をご自分にかたどって良いものとして創造されました。人間は神を正しく知り、神との命の交わりの中で生きるべきものとして造られたのです。しかし人間は堕落し、腐敗してしまいました。神に対する無知と心のかたくなさのために、神の命から遠く離れたものとなってしまいました(エフェ4章18節)。そして欲望のままに不潔な行いにふけってとどまるところを知りません(19節)。私たちもそのような中にいました。 しかし、私たちはもはやそのように生きてはなりません。キリストを知り、キリストの内にある真理を教えられたからです。その真理の一つ目は古い人を脱ぎ捨てること(22節)。二つ目は、心の底から新しくされること(23節)。そして三つ目は新しい人を身に着けることです(24節)。「新しい人」とは真の義と聖において神にかたどって造られた新しい自分です。神はそのようなものとして私たちをイエス・キリストにおいて新しく造ってくださいました。この新しい自分を身にまとう時、私たちは本来の人間の姿に回復されるのです。 Mon, 16 Jan 2017 00:10:00 +0000 人間の創造と任務(創世記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170116 no 2017 神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 (創世記1章26節) この世には多くの苦しみがあります。被造物全体も「共にうめき、共に産みの苦しみを味わって」います(ロマ8章22節)。その責任は人間にあると言わなければなりません。 人間は、他の被造物(植物や動物)とは異なる存在として神に造られました。神は人間をご自分にかたどり、ご自分に似せて造られたのです。そのように人間は神の栄光をあらわす器として造られました。そして人間には神の御心に従って被造物全体を治めるという光栄な任務が与えられました。 ところが人間は造られたときの良い状態から堕落してしまい、委ねられた務めを正しく行うことができなくなってしまいました。そこに世界の悲惨と混乱の根本的な原因があります。 しかし、神は私たちができなくなった務めを正しく果たすお方として主イエス・キリストを遣わしてくださいました。キリストのご支配にこそ世界の希望があります。そして、苦しみの中でもキリストに従う者は御国を受け継ぎ、キリストと共に被造物を支配するという光栄な務めに就かせていただけるのです(2テモ2章12節)。 Sun, 15 Jan 2017 00:10:00 +0000 今年も恵みによってのみ救われる(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170115 no 2017 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節) 「あなたがたは…信仰によって救われました。…行いによるのではありません」。志を行動に移すことが苦手な人にとって、これは響きのよい言葉かもしれません。しかし、どうでしょうか?「信じる」ということは、それほどに易しいことでしょうか? 世に目を向けるとき、病気や貧困は蔓延し、天災や人災が後を絶ちません。自分に目を向けるとき、神がいるとは思えない日常が、私たちを取り巻いています。 この罪と悲惨に塗れた世界で、救いがあると信じること。それは、手放しで信じることのできる自明なことではありません。信仰をもつことができるのは「自らの力によるのではなく、神の賜物です」。信仰と救いは、恵みの贈り物としてのみ、私たちのものとなります。 そして「それはだれも誇ることがないためなのだ」と使徒パウロは言います。救いが恵みによってのみ与えられることで、誰が救う側で、誰が救われる側なのかがはっきりとします。 この一年、私たちは、自分で自分を救うのではありません。この一年も神が私たちを救ってくださいます。 Sat, 14 Jan 2017 00:10:00 +0000 人は常に悪いことを思い計る(創世記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170114 no 2017 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 (創世記6章5節~6節) 私たちの心は、神と人とを愛する方向とは「逆の方向」に、生まれつき傾いています。このことは、きょうの箇所の他にも、聖書全体で何度も言われています。例えば次のように言われています。 「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ロマ7章23節)。 私たちには、母の胎の中にある時から、神に従いたくないという生まれつきの方向性が心にあります。ただ従いたくないだけでなく、『ハイデルベルク』では、「憎む方へと傾いている」と言っています。これは、自分ではどうすることもできない悲しい現実です。 しかし、主イエス・キリストは、私たちのこの「神への反逆性」をご自分の十字架に釘づけにしてくださいました。そして「神に喜ばれる思いと行いをささげつつ生きることこそ我が喜び」という新しい心を造ってくださいました。 パウロの感謝が私たちの感謝の言葉になります。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ロマ7章25節)。 Fri, 13 Jan 2017 00:10:00 +0000 生まれつきの罪人(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170113 no 2017 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 (エフェソの信徒への手紙2章3節) わたしが教会に通い始めたころ、その教会では、口語訳聖書が使われていました。エフェソの2章3節は、口語訳では、次のように訳されています。「わたしたちもみな、…肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった」。 「生まれながらの怒りの子」とはどういうことか。「確かに怒ることはある。でも、自分はそんなに怒りっぽい人間でもない」と、その表現に、違和感を覚えていました。でも、そこは、新共同訳聖書のように、「ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者」という意味だと教えられ、わたしは納得できたのを覚えています。 罪のゆえに生まれながらに、思い、言葉、行いにおいて、心のすべての傾向が、神が嫌われる方向に徹底的に傾いている。それが私たちです。 「生まれながらに」と言いますが、詩編51編7節でダビデは言います。「母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」。生まれる前から罪の塊の私たちを、丸ごと赦してくださる。主の赦しの大きさは、どれほどなのでしょう! Thu, 12 Jan 2017 00:10:00 +0000 隣人を自分自身のように愛する(レビ記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170112 no 2017 自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 (レビ記19章18節) 「何のために生まれて、何のために生きるのか。答えられないなんて、そんなのは嫌だ!」これは、アンパンマンの歌の一部分です。わたしの学生時代、まさにこの歌の通り、何のための人生か、全く指針のない状態でした。 やがて教会に行くようになり、主イエスが、私たちに、「隣人を自分自身のように愛しなさい」と、教えてくださっていることも知らされました。そのときも、わたしは本当に嬉しかったのを覚えています。 もちろん、私たちは隣人を自分のように愛することはできません。でも、この指針になんとか自分の方を合わせて生きていきたいと思い、願い、祈ることはできます。 そんな私たちを父なる神、また、人となられた主イエスは、いつくしみ深く見つめて、励まし続けてくださっています。がんばれ、がんばれ、と。 ところで、私たちにとっての「隣人」とは?それは、教会の方々はもちろんのこと、日本では99パーセント以上のまだキリストを自分の救い主として受け入れていない私たちの周りの方々です。まず、そのような方々の友となる。隣人愛の初めの一歩です。 Wed, 11 Jan 2017 00:10:00 +0000 力の限り神を愛する指針(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170111 no 2017 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 (申命記6章5節) 青年時代、自分が何のために生まれて、どう生きていけばいいのかわかりませんでした。人間には生きる意味や、生きるうえでの普遍的基準があるのか。もしも、一人一人が生きる意味も生き方も決めていくものなのだとしたら心もとない、と思っていました。 やがて、教会に通うようになり、聖書を読み始め、人はどう生きるべきか、書いてあるのを知らされました。造り主である神と主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22章37節)と教えている。人間が生きる指針が非常に明瞭に記されているのが、わたしにとっては実に嬉しいことでした。 時代と共に移り変わる思想や個人が作り出す人生観ではない。「人間であるなら、こう生きるように造られている!」という明確な基準。それが、「神を力の限り愛する」という不変の指針です。 明確な基準・指針が与えられていることは、本当に幸いなことです。しかし、私たちは、この基準に従えるわけではありません。愛の指針により、愛のない自分に気づかされ、本当の愛を求める者に変えられていきます。 Tue, 10 Jan 2017 00:10:00 +0000 わたしはなんと惨めな人間(ローマの信徒への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170110 no 2017 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。…わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 (ローマの信徒への手紙7章24節~25節) わたしが大学生の時、倫理学のクラスは最初は100名ほどの受講者だったのですが、翌週には半分になり、ついに先生と一対一になりました。そのクラスの教科書はパスカルの『パンセ』でした。キリスト者ではない二人が『パンセ』を読んでいたのです。この随想録によく出てくる言葉が「悲惨」でした。わたしにはパスカルが言う「悲惨」の意味がよく分かりませんでした。 キリスト教会に通うようになり、わたしは「そうか。パスカルが言う『悲惨』とは、つまり『罪の悲惨』のことだったのか」と、納得しました。 生まれつき心の中に染みついている罪という自分ではどうすることもできないもの。この罪のゆえに人を傷つけ、自分をも傷つけてしまう。罪から逃れたいと思っても、生まれながらに心と体に染みついているので、どうすることもできない。罪を犯すまいと思えば思うほど、罪に支配されている自分と直面させられる。そんな私たちの告白がパウロと同じ告白でしょう。 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」。この嘆きから「だれがわたしを救ってくれるでしょう」という問いが生まれてくるのです。 Mon, 09 Jan 2017 00:10:00 +0000 神の律法による罪の自覚(ローマの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170109 no 2017 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 (ローマの信徒への手紙3章20節) わたしはキリスト者家庭で育ちませんでした。そんなわたしは、「神の律法によって、自分の悲惨さに気がつく」ということはありませんでした。 23歳で教会に行くようになるまでは、自分が罪人だとは、思っていませんでした。もちろん、完璧な人間とは思っていませんでした。しかし、ある程度思いやりもあるし、善悪の判断も自分なりにわかると思っていました。人と比べて、あの人よりは自分の方がよい、とか、悪いとか。とにかく、基準は誰かと比較することでした。教会に行くようになって初めて、わたしは絶対的な基準・物差しを教わりました。 天地万物をお造りになった神は、私たち人間をもお造りになり、この造り主が私たちの生きる基準も与えてくださいました。この造り主の基準である律法という物差しで自分を計ってみると、ずいぶん基準から外れていることに気づかされました。人との比較ではなく、神の基準である律法という物差しによって罪の自覚が与えられました。 罪の自覚が与えられたとき、わたしはとても嬉しかったです。「赦してください」と言う道が開かれたからです。 Sun, 08 Jan 2017 00:10:00 +0000 今年も信仰によってのみ救われる(フィリピの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170108 no 2017 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 (フィリピの信徒への手紙3章9節) 神は悪を憎み、正義を求められます。この御方と特別な関係を結ぶには、正しさ(義)を身に纏う必要があります。しかし罪人である私たちにとって、神の基準に従って正しく生きることは、無理難題以外の何ものでもありません。 使徒パウロは自分の行いによって得ようとする正しさを「律法から生じる自分の義」と言います。「行いで得られる義など、神に通用しない自己満足の正しさだ」と言うのです。 神の御心にかなう正しさは、「キリストへの信仰」によって「神から与えられ」ます。あなたを救うのは、あなたの行いではなく、キリストの行いです。キリストは、神に通用する正しさを十字架の死に至るまで、あなたの代わりに、貫き通してくださいました。 「このキリストを信じること。それだけでよい。それであなたを正しい者と認めよう。わたしと特別な関係を結ぶのに必要なのは、キリストを信じる『信仰のみ』である」。聖書を通して神は言われます。 新しく始まった一年、あなたには「救い」という神との特別な関係を歩むために「信仰に基づいて神から与えられる義があります」。 Sat, 07 Jan 2017 00:10:00 +0000 聖霊による永遠の命の保証(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170107 no 2017 あなたがたもまた、キリストにおいて…約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証で…す。 (エフェソの信徒への手紙1章13節~14節) きょうの聖句では、主の日は神の裁きの日、罪に対する審判が下される恐るべき日です。それは闇であって光ではないと言われます。 『ハイデルベルク』問1の答えは、主イエスに結ばれたわたしに働く御子キリスト・父なる神・聖霊なる神の御業について告白しています。 それらを聖書の御言葉から思い巡らしてきた今週最後の黙想は、聖霊なる神のお働きについてです。 聖霊なる神は、天に昇られた主イエスに代わって私たちに与えられた御方です。主イエスの心と命を私たちの内に宿してくださる御方と言い換えることもできます。 パウロはこの聖霊を「証印」と言っています。私たちが本当に主イエスのものであることを証しする印であると同時に、主の命がわたしの内にも宿っていることの印でもありますから「御国を受け継ぐための保証」となるのです。 やがて、わたしのこの肉体も朽ちて行く日が来ることでしょう。しかし、その体の中に宿る聖霊に結ばれたわたしの命は、神の国を受け継ぐにふさわしく整えられ、永遠に主と共に生きるのです。 〝ああうれし、わが身も主のものとなりけり。うき世だにさながら、あまつ世のここちす〟(讃美歌529)。このような神を、どうして讃えずにおられましょうか! Fri, 06 Jan 2017 00:10:00 +0000 父の御旨でなければ髪の毛1本も落ちない(マタイによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170106 no 2017 2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている。 (マタイによる福音書10章29節~30節) 1羽の雀さえも父なる神のお許しがなければ落ちない。髪の毛までも1本残らず数えられている!実に衝撃的な主イエスのお言葉です。 わたしの場合などは、すっかり数えやすくなってしまいました。神がずいぶんお許しになったようです。きっとそれだけわたしのことを心に留めてくださったのだと、主のお言葉に励まされます。 生きとし生ける物はすべて神の摂理と統治の下に置かれている。父なる神は、悪人の上にも善人の上にも、太陽を昇らせ雨を降らせる(マタ5章45節)。これは、天地万物を創造なさった神を信じる聖書の根本的な信仰です。 しかし、きょう、私たちが心に留めたいのは、そのような神が御自分の命さえも惜しまずに御自分のものとしてくださった、キリストに結ばれた人びとへの神の御心です。 『ハイデルベルク』は、主イエスに結ばれた者に対する父なる神の御心を「実に万事がわたしの救いのために働くのです」と告白します(ロマ8章28節参照)。 きょう一日も、わたしの身の上に起こる一切のことがわたしの救いのために働くとは、何という幸いでしょう。 Thu, 05 Jan 2017 00:10:00 +0000 悪魔から解放され、キリストのものへ(ヘブライ人への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170105 no 2017 イエスも…これらのもの[血と肉]を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 (ヘブライ人への手紙2章14節~15節) 「悪魔」なんてまるでお伽噺のようだ、と思うかもしれませんが、姿形は別にして、「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」(黙12章9節)は、聖書の中で人間を悪へと引きずり込む〝神の敵対者〟として描かれています。 聖書の時代の人びとだけではありません。宗教改革者のルターにとっても、悪魔は実にリアルな存在でした。いえ、今日の世界でさえ、悪魔的な力はリアルに働いていると言えないでしょうか。 人の心を失った人間は、まるで悪魔に魂を売り渡したかのように、極悪非道な行為を平然と行うようになります。命が神の独占物であるとすれば、悪魔は「死をつかさどる者」だからです。 しかし、全能の神である主イエス・キリストが、私たちと同じ肉体をもって「死」を死んでくださったことにより、悪魔の究極的な支配はことごとく打ち破られました。 この主イエス・キリストのものとされた者にとって、もはやキリストの支配が及ばない領域は存在しません。死の床でさえ、主はおられます。悪魔が私たちを脅かす領域など、1ミリたりとも存在しないのです。 Wed, 04 Jan 2017 00:10:00 +0000 キリストの尊い血による贖い(ペトロの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170104 no 2017 (ペトロの手紙一1章18節~19節) その昔、エジプトでの苦難に満ちた生活から神が救い出してくださったことを、ユダヤ人たちは自分たちの身代わりとなった「小羊」の血によって思い起こしました(出12章)。過越祭は自分の命が本当に贖われたのだというリアリティを、その血を見るたびに感じさせるものでした。 ちょうどそのように、私たちを苦難に満ちたこの世の生活から救い出してくださったのは神の真の「小羊」イエス・キリストの尊い血によると、ペトロは言うのです。 この手紙を書くずっと以前、ペトロは、同じようなことを口にしたことがありました。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。…イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使3章6節、口語訳)。 主イエスを裏切ったわたしのためにも注がれた主の血潮。それほどまでに、わたしを価値ある者と思ってくださる主イエスの命がけの愛。それによって、自分の命は贖われた。むなしい人生から、今やキリストの命の通う人生へと変えられたのです、と。 主はあなたのためにも死んでくださいました。その愛によって、きょうも歩きなさい! Tue, 03 Jan 2017 00:10:00 +0000 生きるにしても、死ぬにしても(ローマの信徒への手紙 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170103 no 2017 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 (ローマの信徒への手紙14章8節) わたしがわたしのものではなく、体も魂も、主イエスのものであること。それが、私たちの〝ただ一つの慰め″です。『ハイデルベルク』は、そこにもう一つの大切な表現を加えています。「生きるにも死ぬにも」という言葉です。 わたしの全存在が主のものであれば、当然のことながら死生観も変わってきます。それは〝献げられた人生″とでもいうべきものです。パウロが言ったように「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」なのです。 しかし、きょう心に留めたいことは、主のものとされているのは自分だけでないということです。主イエスに結ばれている人は誰でも、本人が意識していようがいまいが、主イエスのものだからです。 ですから、主にある兄弟姉妹たちを大切にしなければなりません。侮ったり裁いたりしてはなりません(ロマ14章10節)。尊敬の念をもって互いに愛し合いましょう。特に弱い人のことを配慮しましょう。主は、その人のためにも死なれたからです。 こうして、主にある慰めは、わたしのものだけでなく、私たちのものともなるのです。 Mon, 02 Jan 2017 00:10:00 +0000 わたしは、わたしのものではない(コリントの信徒への手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170102 no 2017 あなたがたの体は…神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。 (コリントの信徒への手紙一6章19節~20節) 体と魂は、本来、別物です。けれども「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」とあります(箴17章22節)。体も魂も健やかであることが人間には必要なのですね。 それだけに、そのような体や心の状態に一喜一憂させられて、私たちの一年はあっという間に過ぎてしまう。とりわけ、痛みや苦しみと闘う日々は耐えがたいものです。しかし、もしこの体も魂も自分自身のものでなかったとしたらどうでしょう? 「あなたがたはもはや自分自身のものではない」とパウロは言いました。主イエスがご自分の命という「代価を払って」私たちの〝身代わり″として死なれた以上、私たちはもはや自分のものではないからです。 それだけではありません。私たちの体や魂の痛みも苦しみも、実にわたしという小さな存在の人生に起こるすべてのことが、今や、主イエスのものとされているのです。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、…わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであること」(ハイデルベルク信仰問答 問1の答)。これが私たちの〝ただ一つの慰め″です。 Sun, 01 Jan 2017 00:10:00 +0000 今年も聖書によってのみ救われる(創世記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20170101 no 2017 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。 「光あれ。」 こうして光があった。 (創世記1章1節~3節) 宗教改革の信仰的特徴をまとめた表現のひとつに「五つのソラ([~のみ]の意)」と呼ばれるものがあります。「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」「キリストのみ」「栄光のみ」の五つの「~のみ」です。きょうの御言葉は、私たちが心から従うべき「聖書」の言葉、神の言葉の絶大な力を伝えています。 世界は神の言葉によって造られたのだと聖書は教えます。「混沌」と「闇」。それは、イスラエル人にとって、破壊と滅びをイメージさせる言葉でした。神の言葉は、その混沌の中に、秩序立った世界を造りあげます。闇の中に、光輝く世界を造りだし、成立させます。これが、聖書の言葉です。聖書の力です。 神の民はその長い歴史の中で、疫病や飢餓、天災や戦争、まさに混沌と闇に思える現実を体験しました。しかし、彼らはその暗がりの中で、聖書の語る希望の言葉に支えられて、「神の言葉は光を造りだす!」と語り継いだのです。 きょうから、新しい一年が始まります。混沌と闇の中に光と秩序を造ることのできる唯一の言葉。神の言葉によって、あなたの一年は始まります。「光あれ!」 Sat, 31 Dec 2016 00:10:00 +0000 さあ、立て。ここから出かけよう(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161231 no 2016 14章 (ヨハネによる福音書14章27節、31節) 十字架を間近にして弟子たちに向かい主イエスは言われました。「さあ、立て。ここから出かけよう」。その歩み行く先には十字架があります。しかし、さらにその先には復活があります。苦難の先には栄光があります。 この一年、苦しみや悲しみをどれだけ味わったことでしょうか。恐れや失望もあったでしょう。しかし、救い主は私たちに、そのまま全部を抱えたままでよいから、主と共に歩むようにと招いてくださっています。「さあ、立て。ここから出かけよう」。主と共にあるなら、そこにあるのは主が勝ち取られた平和、その主によって私たちに与えられた平和です。 この年も恵みのうちに終えようとしています。新しい年に向かって、主と共に歩み出しましょう。主がくださる確固たる平和の中で、勇気と希望をもって。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…目標を目指してひたすら」(フィリ3章13、14節)走りましょう。 聖霊が絶えず共にいて、私たちをいよいよ強め、慰め、導いてくださいますように。主の祝福が今、あなたに豊かにありますように。 Fri, 30 Dec 2016 00:10:00 +0000 喜び、祈り、感謝(テサロニケの信徒への手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161230 no 2016 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 (テサロニケの信徒への手紙一5章16節~18節) 主は確かに私たちを愛してくださっている。私たちが生きるということは、この愛に支えられて歩むこと。そこに喜びがある。どんな時にも、何によっても、凋むことのない喜びが。主によって救われ、主が共にいてくださる喜びは、私たちが自分で考えている以上に大きくて、そして、はるかに力強い。だから、何事につけても深刻めいたりせず、しらけたりせずに、あきらめたりもせずに、喜ぼう。 朝方、まだはっきりとは覚めやらぬ意識の中で、突然の雨が家の屋根をたたく音が聞こえてくる。とても嬉しくなる。信仰があればこそ、ここにも小さな喜びを見出すことができる。一つ一つの小さな喜びが、両手に抱えきれない喜びとなる。 日々、喜びをもって祈ろう。感謝をもって主を心からほめたたえよう。神が求めておられるのはこのこと。 いつも祈りと感謝とをもって、喜びの中を歩み行く私たちは、常に新たな希望を発見していく。その中で、また新しい祈りの言葉が与えられていく。そのように歩むことのできる私たちは何と幸いなことか。何と感謝すべきことか。 Thu, 29 Dec 2016 00:10:00 +0000 今まで、主は我々を助けてくださった(サムエル記上 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161229 no 2016 サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。 (サムエル記上7章12節) ベンチに座って沈む夕陽を眺めながら一日を振り返る。神の恵みを思い、感謝する。幼子のように素朴な、心からの信頼をもって一層深く主に拠り頼む。このような平安な時こそ、信仰者の特権。 一日の恵みを思うことは、この一年の恵みを振り返ることに重なる。何と多くの恵みと幸いによってこの年も生かされて来たことだろうか。そして、一年を思うことは、自分の来し方行く末を思うことへとつながる。その生涯にどれだけの恵みを見出すことができるだろうか。恵みは溢れて、現に受けているのに、どれほど受け止めて感謝しているだろうか。 受けた恵みをひとつひとつ数え上げて感謝しよう。それもまた喜びの時。「今まで、主は我々を助けてくださった」。この御言葉を常に思い、口ずさんで感謝しよう。今まで助けてくださった主は、これからも助けてくださる。沈む夕陽が明日もまた昇ってくるように。 たとえ再び太陽の昇らなくなる日が来ても、共にいてくださる主の恵みは変わることがない。絶えず新たな力と勇気を与えられて、この一日も歩み出していこう。 Wed, 28 Dec 2016 00:10:00 +0000 神の威光の輝き(ハバクク書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161228 no 2016 その威厳は天を覆い 威光は地に満ちる。 威光の輝きは日の光のようであり そのきらめきは御手から射し出でる。 御力はその中に隠されている。 (ハバクク書3章3節~4節) 現代に生きる私たちは、世界の出来事を、偶然の産物、あるいは、人間のわざとみなす考え方に影響されています。しかしハバククは、歴史を神のわざとして受け止めています。さらに、地上の混乱のうちにも神の到来を仰ぎみようと努めています。 ですから、彼はバビロニアの軍隊が近づいてくる現実を見つめつつ、不安な状況のなかでも神を讃えます。5節から始まる壊滅的情景の叙述にさきだって、神の威光の輝きが記されていることに注意を払いましょう。胸を締め付けられるような言葉の背後に、神に沈潜する心があることがわかります。苦難のなかでも神の名が軽んじられてはならないことを彼は肝に銘じます。 そして、神を讃える人は、粘り強く待つことを学びます。「わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」(18節)。のちに、この賛美はマリアによって新しく歌われることになります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章46、47節)。罪と悲惨のただなかにあった私たちを、御子が救いを携えて訪れてくださいました。 Tue, 27 Dec 2016 00:10:00 +0000 信仰によって生きる(ハバクク書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161227 no 2016 2章 (ハバクク書2章2節~4節) 「書き記せ」。ハバククへの神の答えは、民全体が銘記すべき答えとして与えられます。それは同時に、民への問いかけでした。「見よ、高慢な者を」とあります。それが誰なのか分かりません。誰もが自分への警告とすべきでしょう。また、「待っておれ」とありますのは、待つ忍耐が必要だからです。民が神の言葉に忠実に、無条件に、忍耐をもって従うことを、神はハバククに求めておられます。 「神に従う人は信仰によって生きる」。使徒パウロはこの言葉を、イエス・キリストを信じる者に神が授けてくださる義と永遠の命を語るものとして受けとめました(ロマ1章17節)。ハバクク書の文脈から理解するなら、キリストを信じる信仰にも、忍耐をもって神の言葉への聴従が求められています。 主イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタ10章22節)と語られ、ヨハネの黙示録は困難な状況における辛抱強さを勧めます。「聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」(13章10節、14章12節)。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2章10節)。 Mon, 26 Dec 2016 00:10:00 +0000 あなたはいつまで(ハバクク書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161226 no 2016 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに あなたは助けてくださらない。 どうして、あなたはわたしに災いを見させ 労苦に目を留めさせられるのか。 (ハバクク書1章2節~3節) 大国は、情け容赦なく、周辺の弱小国を食い物にします。イスラエルの権力者たちの民への態度も同様でした。いたるところに暴虐と不法があり、争い、いさかいがはびこり、…。 けれども、ハバククにとって最も苦しくつらいことは、そのことではありません。彼の心を重くする最大の問題は、神が世の悪を傍観し、自らの正義を示さないかのように思えることです。なぜ、わが民のうえに秩序を打ちたててくださらないのか、いつまで苦難のなかに置かれるのか。「あなたは助けてくださらない」と口にするとき、彼は我知らず、いっそう恐ろしい問いに近づいています。神ご自身、冷たく凍りついていて行動できず、何もしてくださらないのではないか、という問いに。苦しいとき、ハバククの問いが私たちの問いになります。神はわたしをどう見ておられるのか。この状況にどう関わっておられるのか、と。 神の答えは、心に群がる問いを蹴散らしてくれます。御子が誠実な証人として立てられている。神はあなたを覚えておられます。主イエスの歩みが、それを証ししています。 Sun, 25 Dec 2016 00:10:00 +0000 肉となられた言(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161225 no 2016 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 (ヨハネによる福音書1章14節) 神は、人の目には異常と見える仕方で介入なさることがあります。それが奇跡です。本日の御言葉が語っていることは、奇跡中の奇跡である「言の受肉」です。神が人の体を取られたことです。 ヨハネは、神話的に受け取られないように注意して言葉を使っています。「宿られた」は、「天幕を張って住む」という意味です。移動式の神殿である幕屋に神がおられたように、「わたしたちの間に宿られた」のです。肉体が神の栄光を隠しているとは言え、その神性の光は恵みと真理に満ちていて、十字架の中にも輝いています。こうして「神は我々と共におられる」というインマヌエルが実現したのです。神と自称した人はたくさんいますが、人となられた神はイエス・キリストだけです。 キリストが来られたのは、世のあらゆる困難や悩み、苦しみを思いやるためであり、そこから救うためです。キリストから肉を取り去ると現実感のない理想となり、逆にキリストから神を取り去れば救う力がなくなります。インマヌエルにこそ、希望と喜びとがあるということを覚えて、クリスマスをお祝いしましょう。メリー・クリスマス! Sat, 24 Dec 2016 00:10:00 +0000 引き寄せられた人びと(マタイによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161224 no 2016 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 (マタイによる福音書2章11節) 「占星術の学者たち」と訳されている言葉は、ペルシアあたりの身分の高い学者を意味しています。占星術だけではなく、医術や薬品、学問に秀でていた学者たちです。天体の運行にも精通していて、見たことのない不思議な星から、ユダヤに新しい王が生まれたと判断し、わざわざ訪ねて来たのです。 砂漠の道を千キロメートル以上も旅するのは大変なことです。彼らの数が3人とされるのは、持ってきた贈り物が3品であることからでしょう。身の回りの世話をするお付きの人がいたことでしょうから、キャラバンを組んで多人数で行動していたことでしょう。 それにしても、何という情熱でしょう。「拝みに来た」とあります(2節)。ただただ会いたかった、礼拝したかったと言っているのです。御子の誕生は彼らを惹き付け、神は、イスラエルではない人びとのこのような願いをも喜んで受け入れてくださいます。 私たちの救い主イエスは、いろいろな人を引き寄せるお方です。そして、この方を拝みに来る人は豊かな祝福を得ます。多くの人がそうであるようにと祈ります。 Fri, 23 Dec 2016 00:10:00 +0000 あなたがたのために(ルカによる福音書 2章(2)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161223 no 2016 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 (ルカによる福音書2章10節~11説) ベツレヘム近郊の羊飼いに告げられた言葉をよく見て考えてみましょう。誰にとってこのニュースは喜ばしいのでしょうか。おめでとうと言われているのは誰なのでしょうか。「民全体」は厳密にはイスラエルの民のことでしょう。しかし、ルカによる福音書が持っている救いの広がりから考えると、すべての人びとと理解することができます。 その中には野にいる羊飼いも含まれます。当たり前のようですが、実は、羊飼いは放牧のために安息日を十分に守ることができないため、厳格な人びとからは民の一員と見なされていなかったのです。でも、神はそのような区別をなさいません。このお方は「あなたがたのために」生まれてくださったのです。救い主誕生のニュースは、救いの外にいると思われていた人にとっても、大いなる喜びです。 ですから、おめでとうと言われているのは私たちなのです。子ども賛美に「うれしい楽しいクリスマス」という歌詞があります。そのうれしさ、楽しさは神が人類に与えられた大きなプレゼントである救い主の誕生という事実があればこそのものです。何とうれしいことでしょうか。 Thu, 22 Dec 2016 00:10:00 +0000 主の貧しさによって(コリントの信徒への手紙二 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161222 no 2016 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 (コリントの信徒への手紙二8章9節) 主イエスの降誕について、まずは物質的な貧しさを先に考えますが、比較すべきは、天で本来持っておられた栄光との差です。地上という場に限定されることも、嬰児の姿であることも貧しくなることであり、へりくだりの姿であったからです。 もちろん、この貧しさの中には十字架の上で何もかもはぎ取られたことや、死んで墓に葬られたことも含まれます。何かの本で「人が生まれてくるのは生きるためである」という言葉を見かけたことがあります。しかし、主イエスは、人の罪を背負って死ぬために、そうして、神の御旨を行なうために、生まれてくださいました。そのために貧しく生まれてくださったのです。それは、人として勝ち取ってくださった義という富を私たちに与えるためです。 クリスマスの讃美歌は明るい曲調のものが多いのですが、わたしには悲しげに思える曲調のものもあります。救いがいよいよ成ったという喜びと共に、「主よ、申しわけありません」という気持ちも覚えます。主の貧しさをしのびつつ、主によってもたらされた富の価値、救いの価値を覚えましょう。 Wed, 21 Dec 2016 00:10:00 +0000 飼い葉桶に眠る御子(ルカによる福音書 2章(1)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161221 no 2016 彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 (ルカによる福音書2章6節~7節) ローマ帝国が行った人口調査は、住んでいる町で行うのが一般的であったようですが、ユダヤでは部族や氏族が重要であったため、先祖の町で登録することになったようです。命令する側は簡単ですが、身重の者、子どもや老人は大変な思いをしたことでしょう。庶民が政治に翻弄されている姿があります。 小さなベツレヘムは人で溢れ、客間はすべて先約でいっぱいになっていました。馬小屋は夜間に牛や羊を野の獣や泥棒から防ぐ目的で入れておくべき所で、このあたりに多い洞窟の一つではなかったかと言われています。 それにしても何という貧しい姿でしょうか。敷き布団の代わりとなったのは干し草であり、飼い葉桶が揺りかごであったのです。バリトン歌手の今仲幸雄さんが『クリスマスオラトリオ』を説明して、バッハは主イエスの貧しさをせめて音楽で飾りたかったのではないか、と言っておられたことを思い出します。 私たちの救い主が誰よりも貧しい境遇にお生まれになったことに感謝いたしましょう。このような方であるから、私たちを思いやることがおできになる救い主なのです。 Tue, 20 Dec 2016 00:10:00 +0000 恐れず迎え入れなさい(マタイによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161220 no 2016 主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 (マタイによる福音書1章20節~21節) ヨセフは何を恐れたのでしょうか。それは「マリアを迎え入れ」ることでした。ヨセフはマリアから身を引こうとしました。自分はもう関われないと思ったのでしょう。 ところが神は天使を彼のもとに送って、「マリアを迎え入れることが正しいことなのだ。そうしてくれることが救いを実現することなのだ。あなたにはとびっきりの役目があるのだ」とおっしゃいます。 ヨセフがエジプトで母子を守ったことや、生活を支えたことはよく知られています。また、ヨセフは王族の末裔だったので(1章16節)、ダビデ王の血筋を長男イエスに継ぐという大切な役目を託されたのです。ヨセフは神の救いの計画にこのような形で参与するとは考えてもいなかったでしょう。王族であっても一介の庶民に過ぎなかったからです。でも神はヨセフに積極的にこの計画に加わるようにと促しています。 わたしはここにクリスマスをもたらすための神の細やかな配慮を見ます。神の計画では小さな一つも一人もおろそかにされることはありません。ですから、私たちは様々な恐れを捨てて、神のご計画に参与しましょう。 Mon, 19 Dec 2016 00:10:00 +0000 山々はぶどうの汁を滴らせる(アモス書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161219 no 2016 見よ、その日が来れば、と主は言われる。 耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。 山々はぶどうの汁を滴らせ すべての丘は溶けて流れる。 (アモス書9章13節) 主の日は闇であって光ではないと、主は語っておられました。その日を待ち望む者は災いだ、と(5章18節)。 しかし、9章の「その日」(複数形)は神がイスラエルの廃墟を復興してくださる時です。収穫の後には再び畑は耕され、ぶどうの種を蒔けば豊かに実を結び、人びとを潤します。そうしてイスラエルの繁栄も回復されます。主は、イスラエルの罪のゆえに激しい怒りを注がれますが、憐れみをも注いでくださり、荒れ果てた町を再建してくださるお方なのです。 ところで、新約聖書の視点から読むと、イスラエルの繁栄の回復とは、歴史的、地理的に国土を持つこの世の国のことではありません。主イエスにとって「わが民イスラエル」とは、ある国土、ある民族に限定されるものではなく、「まことの主の民」のことです。その民は、水をぶどう酒に変えることさえできる救い主によって集められます。そうして主の民として幸いな日々を歩ませていただけるのが、今日、主を信じて生きる民、私たちなのです。 その民は、主が植えられるのですから、もう再び、引き抜かれることはありません。 Sun, 18 Dec 2016 00:10:00 +0000 小さな町ベツレヘム(ミカ書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161218 no 2016 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 (ミカ書5:1) ミカは、ベツレヘムにイスラエルを治める新しい王が誕生すると預言しています。人びとはこの預言を時代が変わっても、状況が変わっても、まだかまだかと待ち続けました。 エルサレムの南方8キロメートルにあるこの町は、今でも大きな町ではありません。近くには羊飼いの野と呼ばれる場所があり、羊の放牧がなされている様子を見ることができ、牧歌的雰囲気を味わえます。しかし防備のない町は、当時の社会では無力で、アッシリア帝国の侵入を前にして風前の灯火でした。そのような中でダビデ家につながる「永遠の王」が与えられると告げられています。 人びとはこれから7百年待ったのですが、神は約束を決して破られません。キリストの誕生によってこれは現実となりました。そしてこの方は、単なる現実の助け以上の、より大きな祝福をもたらしてくださいます。永遠のお方が来て、永遠の王になってくださいました。 このことをお祝いするクリスマスまであと一週間です。さあ、心からキリストをお迎えする準備をいたしましょう。 Sat, 17 Dec 2016 00:10:00 +0000 わたしの聖書(詩編 119編(6)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161217 no 2016 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。 御言葉をあるがままに理解させてください。 わたしの嘆願が御前に達しますように。 仰せのとおりにわたしを助け出してください。 (詩編119編169節~170節) ふと目にとまった本の1節。「聖書は読むものではなく、味わうものです。神様から私たちへの愛の手紙なのですから」。 わたしが今、手にしている聖書は、神学校に入学する前、教会のご婦人に図書カードを頂き、新しく購入したものです。それから、7年と少しの時が経ち、美しかった装丁はずいぶんとくすんだ色に染まり、めくるページはずいぶんとくたびれたものになりました。そのような聖書を眺めることが毎朝のわたしの喜びです。初めて、わたしが教会に足を踏み入れた時、年配の方が鞄から大切そうに、愛おしそうに出される聖書の重厚さが目に焼き付いています。その聖書に、わたしの聖書も一歩ずつ近づいているような気がして嬉しい。 この聖書はわたしの叫びを知っています。わたしの祈りを、嘆願を知っています。そうして、わたしは、あの日よりわずかでも、御言葉をあるがままに味わえるようになったのか。そうぼんやり考えながら、それでも、神の愛が、わたしから片時も離れることがなかったと、また嬉しくなって、きょうも聖書の言葉を追いかけています。 Fri, 16 Dec 2016 00:10:00 +0000 健やかな弱さ(詩編 119編(5)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161216 no 2016 わたしは口を大きく開き、渇望しています。 あなたの戒めを慕い求めます。 わたしの目は川のように涙を流しています。 人々があなたの律法を守らないからです。 (詩編119編131節、136節) 神と、その教えが軽んじられている、それが、この詩編を取り巻いている世界です(136節)。しかし、その愚かしい世界の中にも、神のために涙を流す、そのような健やかさを持つ人びとがいます。しかも、そこで流されている涙は、「川のように」、絶え間なく、終わりがなく、透き通っている、そういう悲しみを湛えるものです。 その人びとに、世界を直接、変革させる力があるわけではありません。神の教えを大きな声で叫ぶ、そういう勇ましさがあるわけでもありません。むしろ、彼ら・彼女らは、この世界の中で魂を渇かせ、倒れ込んでしまいそうな弱い存在です。深い深呼吸をするように御言葉を身体に浸み込ませなければ、この世界の中に吸い込まれていきそうな弱い存在です。人びとは、神のために涙を流すことしかできません。しかし、そのような涙を、かつても、今も、これからも、世界はどれほど必要としているでしょうか。私たちは、このような人びとでありたい。 神の憐れみは弱き者の涙に注がれ、世界はいまだ愚かしさに染まりきらない、そうわたしは信じています。 Thu, 15 Dec 2016 00:10:00 +0000 ひと足、またひと足(詩編 119編(4)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161215 no 2016 あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。 (詩編119編105節) 私たちは、今、混迷と不安の時代を生きています。幼い子どもたちから年老いた人に至るまで、これからどう生きていけばよいのかわからなくなっています。深い闇、悩みの中を歩んでいます。 しかし、そのような私たちにきょうの詩編は「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」と語りかけます。聖書の言葉には力があり、確かさがあります。聖書に聴きながら生きるなら、人生の道を違えることはありません。 では、聖書の言葉が「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」であるとは、どのような光のことを言っているのでしょうか。もしかすると、まばゆいばかり、遠い将来まではっきりと照らすようなとても強い光を思い浮かべるかもしれません。しかし、この光は、「灯」と語られています。闇の中の一歩先を照らすだけの灯です。しかし、それでよい、それで十分なのです。 「行く末遠く見るを願わじ主よ、我が弱き足を守りて、ひと足、またひと足、道をば示し給え」(讃美歌288)。 神よ、きょう、わたしが行く道を御言葉によって照らしてください。 Wed, 14 Dec 2016 00:10:00 +0000 主なる神の記憶の中に(アモス書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161214 no 2016 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。 「わたしは、彼らが行ったすべてのことを いつまでも忘れない。」 (アモス書8章7節) 主なる神は、イスラエルの人びとの行いが不正に満ちていることをご覧になって、厳しい裁きを語り続けておられます。人びとは、神を軽んじて商売を優先し、日常生活の中には偽りとごまかしと無慈悲が溢れていました。 そのようなイスラエルの人びとの行いを、主はいつまでも忘れない、と言われます。主は聖なる正しいお方ですから、人間の罪をそのままにして、適当に水に流す、ということをなさいません。主の前には、人びとの言葉も、隠れて行ったどのような業も明らかです。主はそれらを決して忘れることがない。これは一面非常に恐ろしいことです。 しかし同時に主は人の罪を赦すお方でもあります。人の罪をすべて見通しておられる主の前から隠れることはできませんが、罪を告白して赦しを求める者には、憐れみを施してくださいます。 そのことは、御子キリストによって明らかになりました。神の記憶の中にある私たちの罪を、神はキリストと共に十字架につけてくださいました。贖い主キリストに依り頼む人を、主はあたかもその人の罪を忘れたかのようにみなしてくださるのです。 Tue, 13 Dec 2016 00:10:00 +0000 神の言葉の前にへりくだる(アモス書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161213 no 2016 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。」 (アモス書7章10節) ベテルは旧約時代の重要な聖所でした。エルサレムの北、国境を超えたすぐのところにあります。イスラエルが南北王国に分裂してからは、北イスラエル王国の聖所として、エルサレムに対抗するようになっていました。 祭司アマツヤは、聖所ベテルで預言するなとアモスに命じます。アモスが王国に対する裁きの言葉ばかり語るからでした。 北イスラエル王国はアモスの語るすべての言葉に耐えられない、とアマツヤは言います。「耐えられない」とは、受け入れられない、受け止められない、という意味です。 アモスの言葉は神からの言葉です。神が預言者を通して語っておられるのに、それを受け止められず、受け入れられない。これが北イスラエル王国の神の前にある姿でした。神に仕えるはずの祭司でさえ、そうだったのです。 神の言葉は、私たちの世界と日常生活の中に鋭く切り込んできます。罪を認めて悔い改めよ、と迫ります。それを人間は受け止められず、聞くに耐えない、と言います。しかし、御言葉に聞いてへりくだることの中に真の幸いがあることを知りましょう。 Mon, 12 Dec 2016 00:10:00 +0000 主なる神が誓われる(アモス書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161212 no 2016 主なる神は御自分を指して誓われる。 万軍の神なる主は言われる。 わたしはヤコブの誇る神殿を忌み嫌い その城郭を憎む。 わたしは都とその中のすべてのものを敵に渡す。 (アモス書6章8節) 主なる神が誓いをなさるときは、ご自身よりも偉大な者がいないので、ご自身にかけて誓われます(ヘブ6章13節)。主は誓われることを、確実に実行されます。 ここで主は北イスラエル王国をヤコブと呼び、その都にあるすべてのものを敵に渡すと誓われました。イスラエルが敵の手に渡されることは避けられません。 イスラエルの人びとは、自分たちは神の民であるから、敵の手に陥落することなどないと思っていたことでしょう。しかし主は彼らの行いをすべて見ておられ、彼らが公平も真実も嫌い、弱者を踏みつけ、賄賂を取っていることをご存じです。そのような者たちへの裁きを、主はあえてご自身を指して誓われるほどに必ず実行されます。 しかし主なる神がご自身にかけて誓って実行されることは、裁きだけではありません。主はアブラハムへの祝福を誓われました(ヘブ6章14節参照)。この約束は決して取り消されません。罪を裁かれる主は、その民の救いも、誓いによって必ず実現してくださいます。悔い改めて主に立ち帰る者を必ず赦してくださいます。 Sun, 11 Dec 2016 00:10:00 +0000 エッサイの根株から(イザヤ書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161211 no 2016 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。 (イザヤ書11章1節~2節) 今、この瞬間にも世界の各地に紛争があります。争いのない平和がいつ来るのだろうかと絶望的な気分になることもしばしばです。人間の知恵だけで平和の構築を果たそうとすると、どうしても限界を感じてしまいます。 イザヤがここで述べていることは、エッサイの根株から生える若枝が樹立する平和な王国とその統治です。にわかには信じにくい光景かも知れませんが、野生の世界でさえ、もはや支配することも、されることもありません。そうだとすれば、人間どうしはなおさらなのです。 ここで大切なことは、その統治をなさる「若枝」の持っている資質です。それらは「主の霊がとどまる」ことによってもたらされます。「知恵と識別の霊」は裁判をする時に必要とされる能力で、「思慮と勇気の霊」は実行する能力があることを示します。しかし同時に「主を知り、畏れ敬う」という宗教的側面でも十分な人物です。 このようなお方が打ち立てる平和こそが、真の解決です。この平和は、武力によるのではなく、福音によりもたらされ、小さな若枝から芽生え、世界を覆います。 Sat, 10 Dec 2016 00:10:00 +0000 苦難の意味(詩編 119編(3)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161210 no 2016 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。 わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。 あなたの口から出る律法はわたしにとって 幾千の金銀にまさる恵みです。 (詩編119編71節~72節) どんな苦難も、その苦難そのものだけが、人を苦しませるのではありません。実はその苦難に意味が見いだせないことこそが苦しい、ということがあります。たとえ苦しくても、意味が見いだせるなら、耐えることができ、希望を失うことはありません。 この詩編は、苦難の意味を語ります。それは苦難によって人が神の前に卑しめられることにあると言います。苦難の中でこそ、人は自分が無力な小さな者であることを知らされます。ここではじめて人は砕かれ、低くされます。ここでこそ神の前における自分とは何者なのかを見つめ、神を求める者とされます。そのようにして神の愛と慈しみを知る者とされます。 「病まなければ ささげ得ない祈りがある 病まなければ 信じ得ない奇蹟がある 病まなければ 聴き得ない御言葉がある 病まなければ 近づき得ない聖所がある 病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得なかった」 (河野進牧師の詩) Fri, 09 Dec 2016 00:10:00 +0000 あなたの掟に従う道(詩編 119編(2)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161209 no 2016 主よ、あなたの掟に従う道を示してください。 最後までそれを守らせてください。 あなたの律法を理解させ、保たせてください。 わたしは心を尽くしてそれを守ります。 (詩編119編33節~34節) 詩人は、「あなたの掟に従う道を示してください」と願います。さらに「あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります」と心を込めて祈っています。そこには詩人の深い思いが込められていると言えるでしょう。詩人は、「掟に従う道」と言うように、神の教えを知っているだけでなく、その教えに聞き従って生きることを教えてください、悟らせてくださいと願っています。 私たちが陥る誘惑は、戒めを言葉としては知っていることに満足し、その戒めに従って生きているかという自己吟味を怠ることです。詩人は、自分をよく知る人でした。主に導かれることがなければ、とっくに恵みの道から外れる自分に気付いています。わたしには主の教えの道が備えられているからこそ、わたしに与えられているものが何なのかを、もっともっと教えてくださいと願っています。 救いは、ただただ主イエスからの恵みによります。そして、救われた者は、祝福として、掟に従う道を歩みます。守れないことを悔い改めこそすれ、掟に生きる喜びを手放すことはありません。 Thu, 08 Dec 2016 00:10:00 +0000 まったき道を歩む幸い(詩編 119編(1)) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161208 no 2016 いかに幸いなことでしょうまったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう主の定めを守り心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 (詩編119編1節~2節) 詩編の中で最も長い119編は、(アルファベットによる詩)と記されています。日本語ではイロハ歌です。 そこでは「いかに幸いなことでしょう」で始まっています。そしてその幸いは主の律法(トーラー)、に生きることであると言います。果たして人はどのように生きるべきでしょうか。誰もがまったき道を歩みたいと願います。けれども、「正しい者はいない。一人もいない」のです(ロマ3章10節)。そのとおり、私たちは弱く、誰も律法を完全に守ることはできません。むしろ、ここで求められていることは、「心を尽くして」歩むことです。これは二心なく、思いを一つにして主にお仕えすることを目指すものです。 詩編119編で「定め」、「命令」、「掟」、「道」などが繰り返されるのは、まさに御言葉と共に生きるところに私たちの幸いがあるからです。律法を確実に全うすることが、幸いを得る条件ではありません。私たちは、今日も御言葉が与えられていることを、なによりも主に感謝し、祈りつつ、願いつつ歩むようにと招かれています(7、8節)。そこにこそまったき道を歩む幸いが開かれていくからです。 Wed, 07 Dec 2016 00:10:00 +0000 主の日は私たちにとって何か(アモス書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161207 no 2016 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。 (アモス書5章18節) きょうの聖句では、主の日は神の裁きの日、罪に対する審判が下される恐るべき日です。それは闇であって光ではないと言われます。 旧約時代、主の民であるイスラエルは、主が自分たちの神なのだから、必ず敵から守っていただけると信じていました。しかし、それに安住して、主に服従せず、自分の生き方を顧みることもせず、心が主から離れてしまっていました。この民に対して、主は大変厳しく臨まれました。 イスラエルの人びとは、ついに主が自分たちを敵から救ってくださる「主の日」が来ることを期待していました。しかし、主の日は裁きの日、闇がもたらされる日となることをアモスは語ったのでした。 主イエスは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださいました。この主イエスによる罪の赦しを信じる私たちにとって、主の日はやがて完成される救いを待ち望む喜びの日です。 今日、主の日は裁きの日でなく、主キリストの復活と、救いの恵みに感謝して礼拝を献げる喜ばしい日です。心からの感謝をもって礼拝しましょう。主イエスにあって主の日を待ち望む者は幸いです。 Tue, 06 Dec 2016 00:10:00 +0000 その御名は万軍の神なる主(アモス書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161206 no 2016 見よ、神は山々を造り 風を創造し その計画を人に告げ 暗闇を変えて曙とし 地の聖なる高台を踏み越えられる。 その御名は万軍の神なる主。 (アモス書4章13節) 主なる神は、すべてのものをお造りになった全能者です。山々も、風も、闇も光も神の御手によるものです。この万物の創造主は、万軍の神または万軍の主、とも呼ばれるお方です。「万軍の神なる主」とは、天体も含むすべてのものを支配しておられる主、という意味が込められています。 今日では、旧約聖書の時代とは比べられないほど学問が進歩して、特に天文学では、宇宙の姿が描き出されています。そういう時代に生きている私たちは、果てしない宇宙の壮大さを知れば知るほど、万軍の神の偉大さと、そのお力のすばらしさを味わうことができるのです。 しかし、壮大な宇宙も漠然と存在しているのではありません。人の救いと神の御国の完成へと向かうご計画を神はお持ちです。 そして主なる神はそれを罪深い私たち人間に、預言者を通して告げてくださいます。神が主であられ、救いのご計画があることを私たちに知らせてくださいました。そうして神の御名をあがめる道へと私たちを招いておられます。万軍の神なる主の御名をあがめましょう。 Mon, 05 Dec 2016 00:10:00 +0000 預言の確かさ(アモス書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161205 no 2016 まことに、主なる神はその定められたことを 僕なる預言者に示さずには 何事もなされない。 獅子がほえる 誰が恐れずにいられよう。 主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか。 (アモス書3章7節~8節) 主なる神は、諸国民に対して大変厳しい裁きの言葉をお語りになりました。イスラエルの人びとは、選ばれた民ですから、特に厳しく主から罰せられます。 ここで預言者は自分と主との関係について語ります。主は、預言者たちを用いて、人の言葉でお語りになります。旧新約聖書を通して、主なる神は、この世とそこに生きる人間に対する御心を明らかにしてこられました。 狭い意味では預言者といえばこのアモスや、イザヤ、エレミヤ、といった人たちのことですが、広い意味ではアブラハムも(創20章7節)、ダビデも預言者と呼ばれます(使2章30節)。 神は、このような預言者たちを通してその御心を告げ知らせておられます。私たちが知るべきこと、知って益となることはすべて明らかにされています。 預言者は確実に神の言葉を私たちに告げてくれました。それは聖書に完結しています。この確かな御言葉が私たちの手に届くところにあることは、本当に幸いなことです。きょうも神の語りかけに聞くことができるように祈りましょう。 Sun, 04 Dec 2016 00:10:00 +0000 男の子誕生の予告(イザヤ書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161204 no 2016 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 (イザヤ書9章5節) この箇所は、変えようのない過去や、確実に起こる未来を意味する完了形で書き記されています。前後関係からここは未来のことを言っています。 この男の子が誰のことなのかで議論があり、王の即位式の歌だと考える人までいますが、多くの人は当時の人物ではなく、未来に到来する救い主の予告であると理解して来ました。 「名」と言っているのは、名前そのものではなく、なされることに対してつけられる尊称・肩書きのことです。それにしても何という内容でしょうか。「驚くべき指導者」とは、誰の助言をも必要としない最高の指導者を指します。「力ある神」という言葉は、このみどり子が大能の神ご自身であられることを、驚きをもって表現しています。「永遠の父」は、このお方が、永遠に民の保護者であることを、最後の「平和の君」は平和を保つように統治されるお方であることを指します。 イザヤ書の指し示す、このような救い主が生まれてくださるというすばらしいニュースです。心からの喜びと感謝をもって私たちもお迎えしようではありませんか。 Sat, 03 Dec 2016 00:10:00 +0000 最初の出会いへと(マルコによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161203 no 2016 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 (マルコによる福音書16章7節) マルコによる福音書は、主イエスの復活物語を、空になった墓の出来事を記すことで終えています。そのとき弟子たちに伝えられたメッセージは、復活された主イエスが弟子たちより先にガリラヤに行かれ、そこで彼らを待っておられるというものでした。ガリラヤは主イエスと弟子たちの出会いの場所であり、彼らの活動の出発点となった所でした(マコ1章9節以下)。ガリラヤで始まりガリラヤで終わる物語は、復活まで読み進むと、最初に戻ってもう一度を読み返すようにと指示しているかのようです。 聖書を繰り返し読むことを通して、私たちは聖書の言葉から新しい発見をすることができるはずです。聖書の言葉自身は変わっていなくても、聖書を読む私たち自身が、主イエスによって日々変えられているからです。私たちは、変えられていくなかで、主イエスが私たちと共に生きておられることを実感します。この福音書に復活の主イエスの姿が描かれていないのは、読者が既に復活の主と出会っていることを前提にしているからかもしれません。復活の主と出会った最初の日々を思い起こしましょう。 Fri, 02 Dec 2016 00:10:00 +0000 キレネ人シモンの出会い(マルコによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161202 no 2016 そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 (マルコによる福音書15章21節) 処刑のためゴルゴタまで歩まれる主イエス。すでに多くの体力を消耗し、十字架を負う力を失っていた主イエスの姿を見たローマ兵は突然、彼の負っていた十字架を通りすがりの一人の男に負わせようとしました。当時のユダヤの人びとにとってローマ兵の命令は絶対で、逆らうことは許されていませんでした。 十字架を負わされたのはキレネからエルサレムにやって来たシモンという男でした。福音書はこの男を「アレクサンドロとルフォスの父」と、わざわざ家族の名前を挙げて紹介しています。それは、彼の家族の名前が、この福音書を読む人びとによく知られていたからだと言われています。また、パウロを支えた協力者の中に、ルフォスとその母親が紹介されていますが、彼らも同一人物と考えられます(ロマ16章13節)。 そうだとすれば、この時、シモンに起こった突然の出会いが、その後の彼と家族の行方を大きく変えることとなったということになるでしょう。きょう、御言葉を通し十字架の主イエスと出会う時、この出会いもまた私たちと家族を大きく変える出来事となるに違いありません。 Thu, 01 Dec 2016 00:10:00 +0000 高価な香油(マルコによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161201 no 2016 「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」 (マルコによる福音書14章8節) 「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」。高価な香油を主イエスの頭に注いだ一人の女性の行為に対しての人びとの反応は冷ややかで、批判的なものでした。彼女の行為の本当の価値を知っておられたのは、主イエスだけだったのです。おそらく彼女の行為を「無駄遣い」と言った人は、主イエスの十字架の死も、「無駄死に」としか思えなかったのではないでしょうか。 私たちの神への奉仕の価値を決めるのは主イエスご自身であって、私たちの行為を好奇心で眺めている他の人びとではありません。もし、私たちが人の評価を気にしてしまうなら、私たちは自分の奉仕の本当の目的も、またその価値も見失ってしまいます。私たちのために十字架で命を献げてくださった主イエスの愛の御業への感謝が、奉仕を生み出します。主への感謝がなければ、私たちの奉仕には何の価値もありません。 主イエスの愛を見つめて生きる私たちの奉仕は、たとえそれが小さな業であったとしても、主イエスはその業を「高価な香油」として受け取ってくださいます。きょう、私たちは誰を見つめて一日を始めようとしているでしょうか。 Wed, 30 Nov 2016 00:10:00 +0000 主の民にふさわしい業(アモス書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161130 no 2016 2章 (アモス書2章4節) 主は、まずペリシテ人の町々、そしてエドム、モアブ、アンモンなどの近い関係にある人々への審判を語られました(2章3節まで)。彼らに対する裁きの理由は、他者への憐れみの情を捨てたことや、そのあまりの残虐さです。非人間的な、非道徳的な行いに対しての裁きでした。 しかし、主の民であるユダに対しては、理由が違います。主の教えを知っていたにもかかわらず、その教えを拒んだこと、偽りの神に惑わされたことがその理由でした。 主の御言葉を聞かされていなかった者には、人間としての一般的な道徳観を基準にしてその罪を指摘されますが、主の民に対しては、主の御言葉を基準にして語られます。 真の神を知らされた者には、それにふさわしい業が求められています。 私たちは、主の御言葉により自分の罪を明らかにされています。しかし神は、主イエスによって私たちに憐れみを施してくださいました。罪を悔い改めて主に依り頼むことこそ、主の民にふさわしい業なのです。 Tue, 29 Nov 2016 00:10:00 +0000 神の裁きの宣告の前で(アモス書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161129 no 2016 主はこう言われる。 エドムの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。 彼らが剣で兄弟を追い 憐れみの情を捨て いつまでも怒りを燃やし 長く憤りを抱き続けたからだ。 (アモス書1章11節) 主イエスがお生まれになる7百年以上も前のことです。羊飼いだったアモスは、主から召し出されて神の御心を人々に告げました。当時、宗教的にも社会的にも多くの罪を犯していた人々に、アモスは神の正義と裁きを語りかけます。彼はイスラエルに対してだけでなく、諸国民へも神の厳しい裁きを宣告します。 きょうの御言葉は、その中のエドム人たちに対するものです。彼らはヤコブの双子の兄エサウの子孫ですから、イスラエルの人たちとは兄弟関係にあります。具体的な事情は不明ですが、そういう関係にあるのに、憐れみの情を捨てて憤りを抱き続けたことを決して赦さない、と主は言われます。民族と民族の間の対立、いがみ合い、殺し合いは今日も相変わらず続いています。同じ神によって造られた人間同士にもかかわらず、剣で敵を追い回し、殺し合う。ここにも人間の罪が現れています。 このような人間の罪を裁かれる神は、人間の罪を贖われるお方でもあります。神の厳しい裁きの御言葉の背後に、罪を取り除こうとされる神の御心を聞き取りましょう。 Mon, 28 Nov 2016 00:10:00 +0000 慰める者はどこに(ナホム書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161128 no 2016 お前を見る者は皆、お前から逃げて言う。 「ニネベは破壊された 誰が彼女のために嘆くだろうか。」 お前を慰める者はどこを探してもいない。 (ナホム書3章7節) 富と力に満ちたアッシリアは人々の恐れの対象であり、同時に羨望の的でした。しかしそのアッシリアが滅ぼされる時、かつては恩恵を受けようとすり寄ってきた国々は逃げ去ります。富と力を失ったアッシリアに存在価値はないと言わんばかりです。その首都ニネベがどれほど惨めな状態になっても、「誰が彼女のために嘆くだろうか」、「慰める者はどこを探してもいない」と言われるのです。 17節には「お前を守る部隊…お前の将軍たちは…日が昇ると飛び去り、どこへ行くのかだれも知らない」とあります。アッシリアは永遠の虚無の世界、無限と思われる孤独の中に放り出されてしまいます。 しかしこういう悲惨な現実の中で示されているのは、「神だけは知っておられる」「神だけは慰めてくださる」ということです。このナホム書は、虚無の中にいる人たちに慰め(ナホム)を与えるために書かれた書物です。そしてこの慰めは、イエス・キリストがこの世に来てくださったことによって私たちに現実のものとなりました。 Sun, 27 Nov 2016 00:10:00 +0000 インマヌエルの到来(イザヤ書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161127 no 2016 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。 (イザヤ書7章14節) イザヤのよく知られる預言の言葉です。「男の子」は主イエス、「おとめ」はマリアのことを示す、クリスマスの出来事を表す言葉として教会は読んできました。 果たして7百年先を見通して語られているのかは疑わしいという議論があります。しかし、ユダヤ教でさえ、この時代だけに関係するとは考えられていないようです。時間を超越する言葉として読むほうが自然です。 ここでは、神が人と共に住むという意味のインマヌエル預言が語られています。しかも「おとめが身ごもって男の子を産む」というしるしを伴うと言われます。この子は常識ではあり得ない到来をします。さらにこの子はインマヌエルという神的な不思議な存在です。このようなお方は私たちの主イエス・キリスト以外にはおられません。 きょうからアドベントに入りました。世の中は既にクリスマス一色になっています。しかし、主を信じる私たちはクリスマスを、年中行事として祝うのではありません。大きな祝福を与えられる時として祝い、備えます。御言葉によって、ワクワクさせられながら待ち望みます。 Sat, 26 Nov 2016 00:10:00 +0000 目を覚ましていなさい(マルコによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161126 no 2016 「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたにはわからないからである。」 (マルコによる福音書13章35節) かつて「宗教はアヘンだ」と言った人がいます。しかし、主イエスは私たちの目を現実から引き離して幻想を見させるのではなく、「目を覚ましていなさい」と警告されています。「目覚めていること」それは、きょう主イエスが再臨されたとしても、それでよしという1日を私たちが送ることです。 きょう、私たちの心を支配しているものは何でしょうか。そのために大切な人生の時間を使うことは本当に正しいことなのでしょうか。私たちは自分の人生のために必要なものが何であり、またそうでないものが何であるか分からないまま、混乱してきょうと言う大切な1日を送ろうとしてはいないでしょうか。そんな私たちに主イエスは「目を覚ましていなさい」と勧めてくださいます。私たちは「きょう、主イエスが来てくださっても大丈夫。きょう、私の命が取り去られることになっても、大丈夫」と言えるでしょうか。私たちがそう言えるために、この朝、主イエスの御言葉をもう一度心に留めながら、きょうの1日をどのように過ごすべきかを考えてみましょう。 Fri, 25 Nov 2016 00:10:00 +0000 やもめが持っていたもの(マルコによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161125 no 2016 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」 (マルコによる福音書12章43節) 女性の自立が困難であった時代、夫に先立たれたやもめは最も弱く、貧しい存在と考えられていました。そのやもめが神殿でささげたレプトン銅貨は当時の貨幣で最も小さい単位で、それは誰にも顧みられることもないわずかな金額でしかありませんでした。しかし、その献金を主イエスは「だれよりもたくさん入れた」と評価してくださったのです。 私たちはこのやもめがレプトン銅貨以外に何も持っていなかったことに目を注ぎがちですが本当にそうでしょうか。実はこのやもめは他の人が持っていなかった大切なものを持っていたのです。それは神への信頼です。だから彼女が持っていたこの神への信頼が、その献金の姿勢に表されたと言えるのです。 「ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから」(マタ5章3節、共同訳)。私たちは自分の生活の中で足りないものだけに目を注ぎがちです。しかし、何も持っていなくても、この神への信頼を持っていることこそが、私たちにとって最高の幸せと言えます。 Thu, 24 Nov 2016 00:10:00 +0000 主がお入り用なのです(マルコによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161124 no 2016 「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 (マルコによる福音書11章3節) ろばは王様を載せるのにはふさわしくない動物です。戦いに勝利した英雄たちは馬に乗ることで人々にその勇ましい姿を示そうとします。ろばは人々の重荷を担う動物です。だから人々の重荷を担うためにやってこられた救い主イエスの姿を示すのには最もふさわしい動物であったと言えます。 昔、ある有名な牧師の信仰の証しを読んだことがあります。そこにはこの「子ろば」の話が記されていました。彼は「主がお入り用なのです」という御言葉を、自分に語られた神の言葉として受け取り、自分の人生を主のために献げようと決心し伝道者になったと語られていました。 「まだだれも乗ったことのない子ろば」。今までこの子ろばは誰からも必要とされることがありませんでした。しかし、今、この子ろばを必要とされる方が現れました。しかも、その方は救い主として人類を救う御業を実現させるためにこの子ろばを必要とされているのです。 主イエスはきょう、私たちにもこの言葉を語ってくださっています。「主がお入り用なのです」。 Wed, 23 Nov 2016 00:10:00 +0000 良い知らせを伝える(ナホム書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161123 no 2016 見よ、良い知らせを伝え 平和を告げる者の足は山の上を行く。 ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。 二度と、よこしまな者が お前の土地を侵すことはない。 彼らはすべて滅ぼされた。 (ナホム書2章1節) 敵国アッシリアに虐げられてきたユダの人々にとって、アッシリアの首都ニネベが陥落するという預言は「見よ、良い知らせ」と叫ぶべきものでした。この章にはニネベが滅ぼされる様が写実的に描かれています。それはユダにとって嬉しい描写だったことでしょう。しかし間もなくユダもエジプトに脅かされ、ついにはバビロンに滅ぼされることになるのです。ですから敵国アッシリアの滅びの預言は自らの滅亡の前触れに過ぎませんでした。 最終節の14節でも「見よ」という言葉が出てきます。そこでは万軍の主が「わたしはお前に立ち向かう」と言われます。「お前」とはニネベを指すと同時にユダのことでもあり、また神に逆らう私たちであるとも言えるでしょう。 神の裁きは私たちの敵に向かう時には「良い知らせ」となりますが、自分自身にも向かうものともなります。主イエスはその私たちが受けるべき裁きをご自分の身に引き受け、私たちを滅びから救ってくださいました。これこそすべての人々に伝えられるべき真の「良い知らせ」です。 Tue, 22 Nov 2016 00:10:00 +0000 主の忍耐と罰(ナホム書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161122 no 2016 主は敵に報復し 仇に向かって怒りを抱かれる。 主は忍耐強く、その力は大きい。 主は決して罰せずにはおられない。 その道はつむじ風と嵐の中にあり 雲は御足の塵である。 (ナホム書1章2節~3節) ユダの人々はアッシリアに経済的にも宗教的にも抑圧されていました。私たちもさまざまな苦しみにあいます。その時、神に祈ります。しかしどんなに祈っても神が一向に動いてくださらず、不義をも放置されているかのように思われることがあるのではないでしょうか。 しかし神は神に敵対する者を「決して罰せずにはおられない」方です。悪を放置し続けることは神の義に反するからです。ですから神が悪を行うアッシリアの首都ニネベの滅びを預言なさるのは当然のことです。しかし同時に神は「忍耐強く」(3節)、「恵み深く」(7節)あられます。滅びの時を先延ばしにして、人々が罪から立ち帰るのを待たれます。このように神は裁きを行われると同時に恵みを与えようとなさるお方なのです。 私たちはこの神のご性質の一方だけしか見えなくなることがあります。そして、神に対して怒りや苛立ちを抱いてしまいます。自分の思いや願望を後退させて神のなさることに道を明け渡し、心から神への信頼に生きようではありませんか。 Mon, 21 Nov 2016 00:10:00 +0000 新しい契約(ネヘミヤ記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161121 no 2016 またわたしはレビ人に、身を清めて門を守り、安息日を聖とするように命じた。 わたしの神よ、このことについてもわたしを心に留め、あなたの大いなる慈しみによって、わたしを憐れんでください。 (ネヘミヤ記13章22節) ネヘミヤ記は、再建された城壁の喜ばしい奉献式では終わりません。なお改革が必要だったことを、最後の章に記します。この章の出来事の正確な時期は分かりません。しかし、ネヘミヤがエルサレム不在の時に、神殿は汚され、安息日は守られず、禁じられていた異民族との結婚が行われていました。新しく歩み始めたはずなのに、また神に逆らうことをしてしまうのです。エルサレムに帰還したネヘミヤは、それらに対し断固たる処置をとります。 イスラエルの民の歩みはいつもそうです。神の恵みによって新しく歩み始めたかと思うと、また神に逆らってしまう。それは一つには、人間の罪深さということがあるでしょう。それと共に神殿や律法に基づく改革には限界がありました。神に立ち帰り神と共に歩むためには、新しい契約が必要だったのです。 主イエス・キリストの十字架と復活によって、神に立ち帰り、神と共に歩む新しい道が開かれました。キリストに依り頼むならば、大胆に神に近づき、神と共に歩めます。新しい契約の恵みの中を歩んでいきましょう。 Sun, 20 Nov 2016 00:10:00 +0000 喜び・感謝・賛美(ネヘミヤ記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161120 no 2016 その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。 (ネヘミヤ記12章43節) 城壁の再建は、7章で完成していました。しかし、城壁の完成そのものが目的ではありません。神殿の再建、礼拝の整備、悔い改めと誓約、住まいを定めること、そのようにして、神の民として再出発することこそが目的です。それが整えられてきたからこそ、12章で城壁の奉献の儀式がなされます。 二つの大きな合唱隊が、城壁の上を左右に分かれて行進します。二つの隊は神殿で合流し、賛美が献げられます。人々はいけにえを屠り、喜び祝います。奉献式の中心は、神が成してくださったことを喜ぶことです。27節は「奉献式と喜び(私訳、新共同訳は「祝典」)を行う」となっています。43節では「喜び」という語が5回(原文)も用いられています。「エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた」とあります。神の民たちは、神が成してくださったことを喜び、感謝し、賛美します。それが神の民の姿です。 きょうも礼拝で、神の成してくださったことを喜び、感謝し、賛美を献げましょう。神がそうさせてくださいます。 Sat, 19 Nov 2016 00:10:00 +0000 永遠の命は神からの賜物(マルコによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161119 no 2016 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 (マルコによる福音書10章27節) 主イエスのもとを訪れた一人の金持ちの男。彼は地位や財産など、この世で得られるありとあらゆるものを手に入れました。しかし、彼の心は満たされてはいませんでした。どうしても手に入れることができなかったものがあったからです。 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。男は自分が手に入れたくても手に入れることのできない永遠の命を求めて、主イエスの前にやってきました。しかし彼は、残念ながら主イエスの前を悲しみながら立ち去ることになります。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」という主イエスの言葉に、彼は従うことができなかったからです。 この男の誤りはどこにあったのでしょうか。それは永遠の命を、財産や地位と同じように、自分の力で獲得できるものだと勘違いしていたからです。しかし、永遠の命の祝福は神から与えられる恵みの賜物です。主イエスは永遠の命を、彼を信じて、従う者たちに喜んで賜物として与えてくださいます。 Fri, 18 Nov 2016 00:10:00 +0000 主が与えてくださる信仰(マルコによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161118 no 2016 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 (マルコによる福音書9章23節) 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。この父親の言葉は論理的に矛盾しています。どうして、信仰のない者が「信じます」と言うことができるのでしょうか。 この父親は悪霊に苦しむ息子を助けるために、今まで必死に生きてきたのでしょう。少しでも可能性があるならばどこにでも息子を連れて行ったはずです。しかし、それはいつも裏切られました。今回、父親は一縷の願いを持って息子をイエスの弟子たちのもとに連れてきました。しかし、父親の期待はここでも裏切られてしまいます。弟子たちは息子を支配する悪霊に手も足も出ない無力な醜態をさらすしかなかったのです。父親が今まで経験したすべての体験が彼から「信じます」と言う力さえ奪ってしまったでしょうか。 実は私たちは誰も自分では「信じます」と言う力を持っていません。そして、そのような私たちが「信じます」と言えるのはすべて主イエスの恵みの御業のおかげです。主イエスは今日も信じることができない私たちに、信仰を与えてくださるお方です。 Thu, 17 Nov 2016 00:10:00 +0000 なお「しるし」を求めるのか(マルコによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161117 no 2016 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 (マルコによる福音書8章11節~12節) 主イエスはさまざまな奇跡を行って自らが神から遣わされた救い主であることを明らかにされました。とりわけ二度繰り返された大いなる給食の奇跡は意味深いものでした(ヨハ6章参照)。しかし、ファリサイ派の人々は執拗に天からのしるしを求めてきました。主イエスを信じ受け入れる気持ちが初めからないのです。そのような不信仰な態度に、主は「決してしるしは与えられない」と拒絶されました。 現代人の多くも依然としてしるしを欲しがっています。しるしを求めることがなかったとしても、「もし神がいるなら」、「神が愛なら」と問いかけています。このような疑問が出てくる世のさまざまな問題はたしかにあります。けれども忘れてならないのは、それをつくり出した原因は私たち人間の罪にあって、神の責任では決してないということです。 主イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタ16章4節)とも明言されました。キリストの十字架の死と復活の出来事こそ、昔も今も永遠に変わらない、確かで揺るぎのない天からのしるしです! Wed, 16 Nov 2016 00:10:00 +0000 罪からの回復(ネヘミヤ記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161116 no 2016 民の長たちはエルサレムに住んでいた。ほかの民はくじを引き、10人のうち1人が聖なる都エルサレムに来て住み、残りの9人が他の町々にとどまるようにした。民は、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した。 (ネヘミヤ記11章1節~2節) この章は、城壁再建後の住民のリストです。3節から19節までがエルサレムに住んだ人々のリストで、20節から36節までが他の町々に住んだ人々のリストです。エルサレムに住む者は、民の長たちのほか、くじを引いて10人のうち1人を選んだとあります(1節)。また、民は進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福したとあります(2節)。エルサレムに住むことは、何か特別の意味があったようです。 それ以外の人たちは、ユダのすべての町で、それぞれ住んだとあります。その地域は「キルヤト・アルバ」(25節)、「ベエル・シェバ」(27節)まで至ります。かつてヨシュアに率いられて、初めてカナンの地に入って行ったときのことを想い起こさせられる領域です。 城壁が再建され、エルサレムは聖なる都(1節)とされ、神の民たちがそこを中心に、約束の地に広がって行く姿を見ることができます。バビロン捕囚から、着実に回復していくのです。 神は、大きな罪からも、回復させてくださいます。 Tue, 15 Nov 2016 00:10:00 +0000 新しく歩む(ネヘミヤ記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161115 no 2016 そのまことに貴い兄弟たちに協力するものであり、神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約するものである。 (ネヘミヤ記10章30節) 8章で礼拝が行われ、律法の朗読がなされ、仮庵祭が祝われました。それに応答するようにして、イスラエルの民は9章で罪を告白し、10章で新しく歩む誓約をします。あくまで、主の赦しと恵みが先にあって、新たに歩むことができるのです。 10章は1節から30節までが誓約をした者たちのリストです。31節から40節までが、誓約条項です。この誓約条項は、異民族と結婚しない、安息日を守る、神殿のために献げ物をする、という三つにまとめることができます。細かく見ていくと、今までの律法にはなかった条項もあります。たとえば、「薪の奉納」(35節)は律法には特に言及がありません。それらの条項は、律法全体の精神を汲んで、今の自分たちの状態に合わせて、解釈・適用させたものということができます。そのようにして、神の恵みに応答して従っていこうと決意しました。 今日でも御言葉が語られ、それが解釈され適用されます。私たちは神の民として、イエス・キリストの救いの御業に応答して、新しく歩んでいきます。 Mon, 14 Nov 2016 00:10:00 +0000 主を喜び祝う(ネヘミヤ記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161114 no 2016 イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切絶ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。彼らは自分の立場に立ち、その日の4分の1の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の4分の1の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。 (ネヘミヤ記9章2節~3節) 9章と10章は一対になっています。9章で罪の告白をし、10章では神との契約が更新されます。過去の罪の告白と未来への約束とも言えるでしょう。9章は過去の罪の告白です。その中で、31節までは「彼ら」という言い方で、先祖の罪を語ります。32節から終わりまでは「わたしたち」という言い方で、先祖に続く自分たちの罪を告白します。 そのような罪の告白の中で強調されるのが、イスラエルを見捨てない神の恵みと憐れみです。17節では「あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった」と語ります。ここに記されている「恵みに満ち」、「憐れみ深い」、「忍耐強い」、「見捨てない」という言葉があちらこちらに記されています。そのような神であるからこそ、罪人は悔い改めることができます。 イスラエルの罪の歴史と憐れみ深い神の姿は、他人事ではありません。私たちも罪の告白を新たにし、神の憐れみを受け、新たにお従いしていくのです。 Sun, 13 Nov 2016 00:10:00 +0000 主を喜び祝う(ネヘミヤ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161113 no 2016 エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。 (ネヘミヤ記8章5節) 城壁の再建工事が完成すると、ユダヤの民は集まって一つとなり主を礼拝します。エズラによって律法の書が朗読されます。レビ人は、律法を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解します。今日でいう聖書の解き明かしとしての説教です。 律法の言葉を理解した民は、嘆いたり泣いたりしました。律法の言葉を通して、バビロン捕囚に至ってしまった民の罪を深く自覚したのでしょう。しかし、礼拝は嘆きでは終わりません。ネヘミヤとエズラは言います。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(10節)。それゆえ、「まことに大きな喜びの祝い」(17節)である仮庵祭が、そのあと続いて祝われるのです。 礼拝は、悔い改めと共に、主の赦しと恵みを覚える喜びの時です。深い罪の自覚と共に、恵み深い赦しの喜びを味わうのです。十字架を見上げるとき、そこに罪の悲惨さを目の当たりにして、悔い改めへと導かれ、同時に神の赦しの豊かさを味わい知る者とされます。 Sat, 12 Nov 2016 00:10:00 +0000 主イエスの口止め(マルコによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161112 no 2016 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れ…天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。…すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 (マルコによる福音書7章33節~35節) 「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒されるにあたって、主イエスは細やかな配慮をされました。まず群衆の中から彼を連れ出して不安を取り除き、そして彼の両耳に指を差し入れ、また唾をつけて彼の舌に触れられ、天を仰いで、神がこれから何をしてくださるかを理解させようとしました。それは愛のボディ・ランゲッジ(手話)でした。 ふと、映画『奇跡の人』で見た感動的なシーン、少女ヘレン・ケラーがサリヴァン教師の手話によって心の目を開かれる場面が思い起こされます。ここでは、それに遥かにまさる驚きと感動を与える奇跡が行われたのです。 しかし主イエスは人びとに口止めをされました。何よりも奇跡の意味と主イエスご自身が正しく理解される必要があったからでしょう。人びとのこのような反応は今日も殆んど変わりません。 それだけに、聖霊によって心開かれ(エッファタ)、神の愛と真理を本当に知った者は黙しているわけにいかないでしょう。自ら積極的に出て行き、どのような妨げの中でも、喜びをもって主の御業を「ますます言い広め」ます。 Fri, 11 Nov 2016 00:10:00 +0000 あのヨハネが、生き返った(マルコによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161111 no 2016 「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」…ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。ヘロデが…その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 (マルコによる福音書6章14節~16節、20節) 洗礼者ヨハネの殉教の次第が記されています。ヘロデ王の妻ヘロディアが唆してそうなったことですが、王自身は、ヨハネの教えに当惑しながらも喜んで聞いていたとあり、ヨハネ殺害後も心穏やかではなかったでしょう。主イエスの噂を聞いて「あのヨハネが、生き返ったのだ」と思いました。それは迷信に過ぎませんが、彼に対する神のたしかな裁きでもありました。 洗礼者ヨハネの使命は人びとにキリストを指し示して道を整えることでした。その使命に忠実に生きて、彼は牢獄で突然斬首されることになりました。しかしこのヨハネの最期は、主イエスの死に固く結び付いていて、言わば先駆けとなるものでした。人びとの間で主イエスの業が「ヨハネが生き返った」と受けとめられたことも、まるで復活を先取りするかのようです。 神の救いのご計画に挫折や失敗があるはずはありません。ヨハネの生涯と使命がそうであったように、たとえ私たちの祈り願った通りにならなくても、神を信じて行った労苦が空しくされることは決してないのです。 Thu, 10 Nov 2016 00:10:00 +0000 わたしの名は「レギオン」(マルコによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161110 no 2016 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、…イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。…そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。…追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。 (マルコによる福音書5章2節~10節) 見るからに異常な人物が登場してきます。墓場に住み、並外れた怪力を持ち、石で自分を打ち、昼夜を問わず叫び続け…。その原因と正体は、彼にとり憑いた悪霊にありました。 イエスの問いかけに対し、返ってきたのは、「ワタシの名はレギオン。俺たちは大勢だから」というものでした。彼は、自分の名前すら忘れてしまうほどに自己を見失ってしまったのでしょうか。まことに悲惨この上ない有様です。 現代も、複雑な人間関係等でストレスの多い社会です。その中で心を病み苦しみ悩み叫んでいる人が沢山います。悪霊の暗躍は、ただ遠い昔の社会でのこと、自分とは全く関係がないことではありません。「あなたがたは、…不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」(エフェ2章1、2節)とあります。 地上における人生は、なお悩み多いものです。しかし、私たちの救い主は、悪霊に勝利され、悪しき力から解放してくださるお方です。今日、神が私たちを憐れみ助け、赦しときよめと解放とを絶えず与えてくださるように祈り願わずにいられません。 Wed, 09 Nov 2016 00:10:00 +0000 神の民の再建(ネヘミヤ記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161109 no 2016 7章 (ネヘミヤ記7章5節) ついに城壁の再建工事が完成しました。しかし、6章の最後には、トビヤがネヘミヤに脅迫の手紙をよこしたことが記されていました。完成したからと言って安心してはいられません。ネヘミヤは命じます。「エルサレムの住民に守備態勢を取らせ、各自が自分の持ち場と、各自が自分の家の前を守るようにせよ」(3節)。完成後、今度は維持していく働きが続きます。 その後、神の指示を受けて民たちの住民登録をしようとしたところ、最初に帰還した人々の名簿が発見されました。それが6節から68節まで記されます。この名簿はエズラ記2章にもあります。エズラ記では、かつて連れ去られた者たちが帰って来たという、過去との連続性が示されています。 ネヘミヤ記には別の意図があるようです。ネヘミヤ記は城壁完成後、今度は民たちが整えられていくことに話が移っていきます。そのために民のリストがここに記されたのでしょう。再建されるのは建物だけではありません。民たちの信仰生活が再建されなければならないのです。神は今も私たちの信仰生活を再建されます。 Tue, 08 Nov 2016 00:10:00 +0000 神の助けによって成る(ネヘミヤ記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161108 no 2016 城壁は52日かかって、エルルの月の25日に完成した。わたしたちのすべての敵がそれを聞くに及んで、わたしたちの周囲にいる諸国の民も皆、恐れを抱き、自らの目に大いに面目を失った。わたしたちの神の助けによってこの工事がなされたのだということを悟ったからである。 (ネヘミヤ記6章15節~16節) 城壁の再建工事が完成に近づくにつれて、妨害者たちもあの手この手で攻めてきます。ネヘミヤに危害を加えようとして、何度も話し合いを持ちかけます。さらにユダヤ人たちが反逆を企てているという噂を広めようとします。預言者を買収して、ネヘミヤを陥れようとしたり、偽預言者によって脅迫したりします。 そのたびにネヘミヤは、祈りつつ対処し、陰謀を見抜き、打ち勝っていきます。そしてついに城壁は完成します。城壁が完成したとき、ユダヤの民の周りの諸国民でさえ、ネヘミヤたちの信じる「神の助けによってこの工事がなされたのだということを悟った」のでした。 妨害のためのさまざまな企てが、かえって神の御業を広く示す結果になりました。 恐れるべきは、妨害・攻撃・迫害・脅迫ではありません。神に信頼しなくなることです。また、信頼すべきは、武力・知恵・能力・人間ではありません。確かに助けてくださる神の約束です。そうするなら、神の助けによって事が成ることを私たちも経験するのです。 Mon, 07 Nov 2016 00:10:00 +0000 神を畏れて生きる(ネヘミヤ記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161107 no 2016 5章 (ネヘミヤ記5章9節~11節) 5章の14節から、城壁再建工事の12年後のネヘミヤの回想になっています。どうやら5章は単純に時間的順序ではないようです。 1節からの前半部分も城壁再建の時期かどうか分かりません。いずれにしても、再建というのは城壁という建物だけではなく、民たちの生活や内面も含んでいるということを教えたいのでしょう。 イスラエルの貴族や役人と民たちの間に、貧富の差による困難が生じます。民たちは、食べることさえ厳しい状況なのに、貴族や役人たちは容赦なく畑や家を抵当や担保にし、さらに娘を奴隷として売らせたりしました。 そういう有様は、神の民の本来の姿ではありません。ネヘミヤは「神を畏れて生きるはずではないのか」と訴え、その日のうちに負債を帳消しにし、担保もすべて返すようにしました。ネヘミヤ自らもそのように実践しました。 神の民は神を畏れて生きるのです。それは、隣人を愛し、助け合うということでもあります。経済格差のある社会に生きる私たちですが、神を畏れ、分かち合って生活しましょう。 Sun, 06 Nov 2016 00:10:00 +0000 神が戦ってくださる(ネヘミヤ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161106 no 2016 わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」 (ネヘミヤ記4章8節) 城壁の再建工事が進むにつれ、敵の妨害も拡大します。そのため民たちは言います。「城壁の再建など、わたしたちにはできません」。 ネヘミヤは単純に「がんばれ」と鼓舞するのではありません。まず、戦闘員を配置します。その後、部下を、作業する者と武器を持つ者に分けます。作業する者も、一方の手で作業し、もう一方の手に武器を持ったり、あるいは腰に剣をつけたりします。さらに、敵がきたら集合の合図をする角笛の係りも決めます。そのように、できるだけの対策を講じます。さらに民たちには、「主の御名を唱えて」戦え、「神はわたしたちのために戦ってくださる」と励まします。 ネヘミヤは、心配になったからこのような対策を講じたのではありません。神が戦ってくださると信じていたからこそ、対策を講じたのです。祈ったからと言って、あとはじっとしているのが信仰的なのではありません。反対に武力だけに頼ることも不信仰です。神が働いてくださると信じるからこそ、人も最善をつくします。主にあって私たちの苦労は決して無駄にはなりません。 Sat, 05 Nov 2016 00:10:00 +0000 神の国は「夜も」進展する(マルコによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161105 no 2016 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。」 (マルコによる福音書4章26節~29節) 地に種を蒔けば実りが生じます。神の創造の御業による「不思議」ですが、人の心に命の種(キリストの福音)が蒔かれると、もっと素晴らしい「不思議」が起こってきます。そしてこの「不思議」にも成長発展の順序と段階がありますが、いつも問われるのは、福音をどのように聞き受けとめているかという私たちの信仰です。 それぞれの教会の歩みにおいても、教会設立や会堂建築、世代交代や牧師交代などの大事な時期があります。皆が祈りと思いを一つにして行動しなければならないときです。また時には、ただひたすら信じ祈って待つしかない「夜」のようなときもあり、私たちは忍耐して神の時を待ちます。 すると、そのうち待ち望んだ「早速、鎌を入れる」完成の時が到来します。私たちが永遠の命に復活させられる喜びの日です。その祝福をもたらすために主イエスは命を捨ててくださり、今日も私たちを用いて福音宣教の業を続けておられます。 たとえ遅々とした歩みに見えることがあっても、神の国は夜も昼も着実に進展していきます。 Fri, 04 Nov 2016 00:10:00 +0000 赦されない罪の警告(マルコによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161104 no 2016 「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 (マルコによる福音書3章28節~30節) 主イエスは決して赦されることがない罪について警告されました。罪意識で悩む者にとってはとても心が騒ぐことですが、この警告には理由がありました。 主イエスが聖霊の力によって悪霊追放の奇跡を行われたとき、悪意をもって聖霊の業をサタンの働きと決めつける人々がいました。とんでもないことです。サタンが悪霊を追い出すことは有り得ません。サタンは光の天使にさえ偽装すると言われますが、決して善を行うわけではありません。真に善きことはすべて神の聖霊の働きによることであり、それによって私たちの「内なる良心」も保たれ、人は悪いことをすればその罪責感から正しく悩み苦しみ反省することになります。しかしもし頑なに罪のうちに留まり続けるなら、それは聖霊に逆らうことであり、また聖霊を冒涜する結果ともなりかねません。 この警告に先立ち、主イエスは「どんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と語られました。神は慈愛に満ちた天の父です。御心にそって主イエスの血による赦しを心から感謝して受け取り、聖霊の導きに従って生きましょう。 Thu, 03 Nov 2016 00:10:00 +0000 レビの選び(マルコによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161103 no 2016 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 (マルコによる福音書2章13節~14節) マルコだけが、レビを「アルファイの子」と紹介しています。どのような家庭環境だったのでしょうか。彼は徴税人でしたので、特にファリサイ派の人々からはローマに加担する売国奴、罪人と見られていました。身内の者からも、あるいは、アルファイ家の恥だと思われていたのではないでしょうか。そうだとするとなおさら辛く悲しいことです。 しかし主イエスは、彼を見て弟子とされました。そしてレビの賜物は、後にマタイ福音書として豊かに実を結ぶことになりました。主イエスは1冊の本も書き残しませんでしたが、選んだ弟子たちをしっかり教え訓練し、約束の聖霊を遣わして正しく理解させ(ヨハ14章26節)、聖書が完成しました。 この聖書から様々なキリスト教文化が生み出されて今日に至っています。きょうは文化の日です。この日本社会が何とかもっと主を知る知識と喜びで満たされるように、と願います。 私たちも、聖霊に導かれ、聖書を通して、自らの賜物の用い方を主から学びます。そして、種々の文化活動を通し、福音の恵みを豊かに証していきたいと思います。 Wed, 02 Nov 2016 00:10:00 +0000 神の民は一致して(ネヘミヤ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161102 no 2016 わたしたちは城壁の再建を始め、その全長にわたって高さの半分まで築いた。民には働く意欲があった。 (ネヘミヤ記3章38節) いよいよ城壁の再建工事が始まります。3章には工事が順調に進んでいくことが記されます。しかし、反対者たちも妨害を始めます。それが3章の終わりから4章にかけて記されます。 3章の初めの方は「補強」されたそれぞれの場所と、その担当者のリストになっています。それぞれの場所については、今では正確に知ることはできません。だいたい、北から始まり反時計回りになっています。興味深いのは、担当者のリストです。1節の「大祭司エルヤシブ」と「仲間の祭司」から始まり、ある場所は一地方の住民、ある場所は家族・親族のグループ、それから鋳物師、香料調合師、地区の区長、またその娘たち、レビ人、商人とあります。実にさまざまな人びとが、それぞれ担当した場所を「補強」したことがわかります。 エルサレムの再建は、ただ城壁や神殿を再建するだけではなく、神の民が一致して協力していくということだったのです。神は、今もご自分の民に意欲を与え、それぞれ与えられた領分で、神のために一致協力して働くように整えてくださいます。 Tue, 01 Nov 2016 00:10:00 +0000 神が成功させてくださる(ネヘミヤ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161101 no 2016 そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」 (ネヘミヤ記2章20節) 荒廃したエルサレムの再建を願っていたネヘミヤに、機会が訪れます。王はネヘミヤの願いを受け入れ、エルサレムに行くことを許します。エルサレムに着いたネヘミヤは、城壁を調べ、自分の目で確かめた上で、ついにユダの人びとに呼びかけます。「エルサレムの城壁を建て直そうではないか」(17節)。人びとは奮い立って、いよいよ再建の事業が始まります。 しかし、同時に妨害者が現れます。ネヘミヤの活躍やエルサレムの再建によって、自分たちの立場が損なわれてしまう者たちです。彼らはネヘミヤたちの企てをあざ笑い、さげすみ、中傷します。これからの事業に暗雲をもたらすかのようです。 しかしネヘミヤは動じません。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる」。エルサレム荒廃の悲しい知らせを受けて以来、ネヘミヤは祈り続けています。そして、行く末に恵み深い神の御手を覚えています。「神の御手が恵み深くわたしを守り、…彼らは…この良い企てに奮い立った」(18節)。神のための働きは、神が成功させてくださいます。 Mon, 31 Oct 2016 00:10:00 +0000 宗教改革の心(2)~ただ信仰のみ(ハバクク書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161031 no 2016 「神に従う人は信仰によって生きる。」 (ハバクク書2章4節) 預言者ハバククの苦悩は、自分が信じてきた神についての認識が揺さぶられたことにありました。 律法が無力となり正義が曲げられているにもかかわらず、神は助けてくださらない。それどころか冷酷なカルデア人を用いて、ご自分の民を懲らしめようとなさる。何が正しいのか、信仰の拠り所をどこに置けばよいのか…。 私たちの信仰は、時に、神を縛ろうとするかもしれません。神ならきっとこうなさる、こうするはずだと。しかし、それは私たちの頭で考えた神、偶像に他なりません。真の神は生きておられる方です。苦難に遭おうがすべてを失おうが、神は神です。人間の思いを超える形で、裁きを与え、救いをもたらす方。 神を信じるとは「神」を信じることであって、私たちの考えや業を信じることではありません。義人は、このような信仰(信頼)によって生きるのです。 宗教改革記念日は、プロテスタントの正統性を記念する日ではありません。想像を絶する仕方で私たち罪人を救ってくださる生けるキリスト、その驚くべき恵みを仰いで喜び讃える日なのです。 Sun, 30 Oct 2016 00:10:00 +0000 宗教改革の心(1)~十字架に生きる(マタイによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161030 no 2016 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 (マタイによる福音書4章17節) 「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、彼は信仰者の全生涯が悔い改めであることを意味されたのである」。 1517年10月31日、ドイツはヴィッテンベルク教会の門扉に張り出されたという『95箇条の論題』の第一論題は、右のような文章でした。この問題提起をしたのは、神学教授として聖書注解を始めて間もない一人の修道士、マルティン・ルターという人です。 主イエスがお命じになった「悔い改め」とは、決して教会の儀式にあずかれば済むというものではなく、私たちが生涯自分の罪と格闘しつつ十字架に生きることではないかと、ルターは訴えました。 この主イエスの言葉の前に、福音書は荒れ野の誘惑の記事を記しています。ルターの時代の教会は、まるで悪魔にひれ伏したかのように、御言葉を濫用してはこの世の栄華を求め、安価な「平安」は説くものの十字架が語られてはいませんでした。 真の悔い改めと平安は十字架を信じ、十字架に生きることにある。それがルターの心に宿った確信なのでした。 Sat, 29 Oct 2016 00:10:00 +0000 神の子キリストなのだから(マルコによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161029 no 2016 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 (マルコによる福音書1章12節~13節) わたしが洗礼を受けたのは高校3年生の時でしたが、不安に思うことがありました。それは、もし昔あったような迫害が起こった時、自分は果して大丈夫だろうかということでした。 迫害の歴史を振り返ると、文字通りに野獣の餌食とされ殉教した人が大勢います。しかし主イエスを信じて生きる道は、「主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」(讃美歌461番)と歌われる幸いな人生です。私たち人間は本当に罪深く弱いもので、誘惑に負け失敗することも多々あります。昔イスラエルの民も荒れ野で何度失敗を繰り返したことでしょうか。しかし主イエスは真に私たちを救うため人となって来られた神の子です。サタンは繰り返し「もし神の子なら」と巧みに誘惑してきましたが、主イエスは即座にきっぱりと神の言葉をもって退け、十字架の死に至るまで御心に従い完全に勝利されました。 この勝利の王キリストがやがて栄光のうちに御使いたちを従えて来られ、「狼は小羊と共に宿り…」(イザ11章6~10節)と預言された真に平和に満ちた世界が実現します。 Fri, 28 Oct 2016 00:10:00 +0000 わたしが命じた事を守るように教えなさい(ユダの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161028 no 2016 愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。 (ユダの手紙20章~21章) 「キリストの完全な贖いがあるから、罪を犯しても赦されるし、これによって神様の救いの栄光がますます称えられる」との異端的な教えが早くも初代教会の中にあらわれてしまった。パウロもペトロも主イエスの弟のヤコブもこれを取り上げている。「霊魂だけが永遠に生き、肉体は関係ない」との主張はギリシア哲学の一種にもあった。 ここでは、主イエスの弟ユダが、この考え方を徹底的に断罪して、救いの完成の日を待ち望みながら、主のきよい目的や掟を思い起こしながら、信心深い生活に励むように勧めている。 このような御言葉によって私たちには主イエスがお育ちになった家庭の環境をいくらかでも、想像することができる。主イエスは、「神の掟を守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とおっしゃり、「わたしが命じておいた事をすべて守るように教えなさい」と弟子たちに使命を託された。私たちも、ただ主の憐れみと恵みによってのみ救われた者として、感謝に溢れ、主の愛の掟をいつも大切にして、救い主の再臨に備えたいと願う次第である。 Thu, 27 Oct 2016 00:10:00 +0000 ガイオへ(ヨハネの手紙三 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161027 no 2016 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。 (ヨハネの手紙三5章~6章) 教会とは、神の御子イエスをキリストとして信じる者たちの集いであり、礼典を大切に行い、信仰告白を基とした集いです。そこには、神と聖徒との関係があり、また、聖徒と聖徒との関係があります。聖徒は神に対して真実に生き、聖徒や隣人に対して忠実さを示します。教会で行われていることは、神の救済を伝え、味わうこと、証しすることです。 ヨハネの手紙三を受け取ったのはガイオという人でした。彼のことは、1節後半で、「わたしは、あなたを真に愛しています」と書かれているように、使徒ヨハネがよく知っている人物でした。彼は神を真に信仰し(3節)、聖徒や隣人を愛し、仕えていた人でした(5~8節)。ガイオは、特に他教会から訪れた者らに誠意をもって尽くしていました。彼らは自分の教会に帰り、ガイオの奉仕に感激を受けたと証言します。そのこと自体が、教会を大きくしたわけではないにせよ、ガイオの働きは、聖徒たちには大きな喜びをもたらしました。 教会は自分の会員を大切にするように、客員と求道者、誰であっても大切にする必要があります。 Wed, 26 Oct 2016 00:10:00 +0000 祈りから始まる(ネヘミヤ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161026 no 2016 これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。 「おお、わが主よ、…わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」 (ネヘミヤ記1章4節、11節) ユダの民たちが捕囚から解放され、ユダの地に帰り始めていたころのことです。ネヘミヤはペルシアに残り、献酌官という役割をもって王に仕えていました。そこへユダの地から来た人びとによってエルサレムの様子が伝えられます。ネヘミヤは、エルサレム神殿が、順調に再建されていると予想していたかもしれませんが、その知らせは悪いものでした。城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままだというのです。ネヘミヤは嘆き、断食をし、祈りをささげました。その祈りが5節から1章の終わりまで記されています。 その祈りの最後のところに「この人の憐れみを受けることができるように」とあります。「この人」とはペルシアの王のことでしょう。ネヘミヤは、王の許しを得て、自分がエルサレムに行って再建することを考え始めていたようです。ここからネヘミヤの再建事業が始まります。 ネヘミヤは何よりもまず、神に訴え、祈りました。そこから、新しい使命が始まったのです。きょうも、私たちが、どういう状況であったとしても、祈りから始めましょう。そこから新しい歩みが始まります。 Tue, 25 Oct 2016 00:10:00 +0000 希望の計画(歴代誌下 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161025 no 2016 「あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」 (歴代誌下36:23) ゼデキヤ王は、王国を堕落させました。この王が、南ユダ王国最後の王となりました。主は傲慢な王に、裁きをくだされました。バビロンの王ネブカドネツァルを遣わし、神殿と町を破壊させ、生き残った者を捕囚としてバビロンへと連れ去らせました。 しかし、主はお語りになります。「バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレ29章10、11節)。 主はご自分の計画に心を留めているとおっしゃいます。それは必ずあなたがたを連れ戻すという、力強い希望の計画です。主の愛は揺らぐことはありません。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ロマ8章28節)。主の救いの計画の中に私たちは召され、置かれています。主を信じ、共にきょうを生きましょう。 Mon, 24 Oct 2016 00:10:00 +0000 とこしえに変わることのない神との結びつき(歴代誌下 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161024 no 2016 ヨシヤの他の事績および主の律法に忠実に従った行為の数々は、初期のことも後期のことも、『イスラエルとユダの列王の書』に記されている。 (歴代誌下35章26節~27節) ヨシヤ王は、神との契約に忠実に生きる者として行動をし、その事績は記録されました。ヨシヤ王は律法に忠実な礼拝を整えるために、異教の祭壇をすべて壊しました。そして礼拝を回復するために、祭司たちを励まして、ふさわしい務めにつかせました。こうして、「預言者サムエルの時代以来」と言われるほどの盛大な過越祭が執り行われました(18節)。 すばらしい功績を残したヨシヤ王。彼が主の御言葉に従い、主の契約に忠実であったのは、先だって主が契約に忠実であられたからです。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(イザ55章3節)。 主は招かれます、魂に命を得よ、と。あなたの人生をわたしが担う、あなたの命をわたしが救い出す、わたしのもとに来なさい、と。その招きは、今、主イエスによって私たちにもたらされています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11章28節)。 Sun, 23 Oct 2016 00:10:00 +0000 主を畏れることは知恵の初め(歴代誌下 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161023 no 2016 『あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。あなたはこの所とその住民についての主の言葉を聞いて心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。』 (歴代誌下34章26節~27節) ヨシヤ王は、主の目にかなう行いをした王の一人として数えられます。このヨシヤ王の三代前の王ヒゼキヤがなした最大の貢献は、聖書に従って神殿礼拝をあるべき形へと整え、民の信仰を呼び覚ましたことでした。 神殿修復の時に、祭司ヒルキヤは律法の書を発見します。それを書記官シャファンに渡しました。シャファンは王のもとに書を持っていき、そして読み上げました。ヨシヤ王はそれを聞くと、衣を裂きました。ヨシヤ王は、先祖が律法の書に書かれていることに背き、神の怒りを招いていたことを知り、深く悲しんだからです。主はその姿をご覧になって、「へりくだって衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた」と言われます。ヨシヤ王はそれから人を遣わして、ユダとエルサレムの人びとを集めて、彼らに、聖書の言葉をみな語り聞かせました。そして書に書かれている言葉を実行することを自らが誓い、そして、民らにも誓わせました。 「主を畏れることは知恵の初め」((箴1章7節)。主は聖書を通して、その心を呼び覚ましてくださいます。 Sat, 22 Oct 2016 00:10:00 +0000 互いに愛し合う(ヨハネの手紙二 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161022 no 2016 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 (ヨハネの手紙二5章~6章) 使徒ヨハネは主イエスの十二弟子の一人であり、初代教会において大きな権威を持ち、中心的に活躍しました。彼は、主イエスの公生涯、初代教会の形成、発展の目撃者です。ユダヤ人と回心した異邦人とからなるエフェソ教会で牧会した人物です。 ところで、ヨハネの手紙二は、教会のある特定の人びとに向けて記されたものです。それは、「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)、「あなたの子供たちの中に」(4節)、「さて、婦人よ」(5節)とあることからわかります。不思議なことに、婦人と子どものための特別なメッセージは、時代を超え現在の教会にも、そして誰にでも当てはまります。 使徒ヨハネは、何を伝えようとしたのでしょうか。それは、「互いに愛し合うということ」でした。主イエスは公生涯の中で、戒めと愛の関係について何度も説明されました。使徒ヨハネも互いに愛し合うことを、古くからの変わることのない戒めとして勧めています。「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」。 Fri, 21 Oct 2016 00:10:00 +0000 神は聞き入れてくださる(ヨハネの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161021 no 2016 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。 (ヨハネの手紙一5章14節~15節) 私たちが神に願いをささげるとき、私たちはその願いが神によって聞き入れられるのかどうか、不安を覚えることがあるかもしれません。しかし、ヨハネは語りました。「何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる」。「何事でも」とあるように、私たちの祈りに制限はありません。 ここで、ただ一つ、「神の御心に適うことを」と語られています。神の御心に適うことを、神は聞き入れてくださいます。この言葉を前にするとき、私たちは何を思うのでしょうか。この願いは、神の御心に適っているのか、適っていないのか、とやはり考え込んでしまうかもしれません。 ところで、わたしの願いを神が聞き入れてくださるか否かを考えるということはどういうことでしょうか。そのように考える私たちは、すでに神のご存在を信じ、神の前に立っているということではないでしょうか。 神は、御前に立っていることを信じている者の願いを、聞き入れようとして耳を傾けていてくださいます。そのことに信頼しましょう。そして、祈りましょう。 Thu, 20 Oct 2016 00:10:00 +0000 神の愛を知り、信じる(ヨハネの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161020 no 2016 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 (ヨハネの手紙一4章16節) 神が私たちを愛してくださったので、私たちは、神を愛し、兄弟を愛する者へと変えられました。そのような神に愛されている信仰者について、きょうの聖句の中でこのように書かれています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」。 私たちは、神を愛することのない者でした。それは私たちが神の愛を知らなかったからです。しかし、ヨハネは、今「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知」っていると語ります。 神の愛は、その言葉においてだけ、私たちに示されたのではありませんでした。そうではなく、神はご自分の愛を、具体的なかたちにして、私たちに示してくださいました。それが、イエス・キリストを私たちの身代わりにされるということでした。 キリストによって示された愛を通して、神はご自身が愛なるお方であることを明らかにしてくださったのです。ですから、信仰者は「神の愛を信じています」と告白できます。この世において神の愛を信じるところにこそ、私たちの平安と確かな希望があるのです。 Wed, 19 Oct 2016 00:10:00 +0000 主に背く主の証人(歴代誌下 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161019 no 2016 彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。 (歴代誌下33章12節~13節) マナセは、ヒゼキヤが回復した礼拝を再び汚してしまいました。主の神殿の中に異教の祭壇を築き、主が忌み嫌われることを行いました。預言者の言葉にも彼は耳を貸しませんでした。 そこで主は、アッシリアを用いられました。マナセを攻め、捕らえ、バビロンへ引いて行かせました。マナセはそこで大きな苦悩を味わい、主の前にへりくだり祈りました。主はマナセの祈りを聞かれ、やがて王国へと帰還させられました。マナセはこうして主を知る者とされたのです。 主は、マナセに苦悩を与え、その苦悩を通して、悔い改めに導き、そして神を忘れるという悪から救ってくださいました。それは主こそ、ただ一人の神であり、救い主であることを、マナセに悟らせるためでした。主は悪を行ったマナセさえも愛し、主の証し人としてくださいました。 主は私たちに言われます。「あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」(イザ43章10、11節)。 Tue, 18 Oct 2016 00:10:00 +0000 涙の谷を行くときも(歴代誌下 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161018 no 2016 ヒゼキヤは病にかかり、死にそうになった。彼が主に祈ったので、主は彼にこたえ、しるしを与えられた。 (歴代誌下32章24節) ヒゼキヤは死の病にかかりました。預言者イザヤに死を告げられたヒゼキヤは、悲しみに暮れ、「顔を壁に向けて、主に」祈りました(王下20章2節)。すると、「あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいや」すというイザヤの預言を聞くことができました(王下20章5節)。そして、それは実現します。あなたの涙を見た。「わたしの嘆きを数え…革袋にわたしの涙を蓄えて」くださる主は、孤独の中で祈られる民の声を聞いてくださっています(詩56編9節)。それが声なき声だったとしてもです。 主イエスはおっしゃいます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタ6章6節)。 私たちには試練の中で祈ることを忘れる日々、涙の中で祈りたくても祈ることができない日々があるかもしれません。それでも、奥まった部屋で、顔を壁に向かわせる時、そこに主は共におられます。 Mon, 17 Oct 2016 00:10:00 +0000 主にささげることの祝福(歴代誌下 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161017 no 2016 ツァドク家の祭司長アザルヤはこう答えた。「主の神殿に献納物の奉納が始まってから私たちは食べ物に不足はなく、むしろたくさん残ってしまうほどです。主はその民を祝福してくださいました。この大量の物が残っています。」 (歴代誌下31章10節) ヒゼキヤは崩壊していた神殿を立て直し、失われていた礼拝を再建しました。そして祭司たちを集め、ふさわしい任務につかせます。祭司の役割が整えられることで、律法に書かれている通りの礼拝をささげる道が、人びとに開かれました。 それからヒゼキヤは、人びとにいけにえをささげるように命じました。それは、礼拝を司る祭司の生活を支え、彼らが「主の律法のこと」に専念するためでした。ヒゼキヤは命じただけではなく、自分自身もささげました。こうして神殿には人びとによってささげられた多くのいけにえが積み上げられました。その大きさは、「私たちは食べ物に不足はなく、むしろたくさん残ってしまうほどです。主はその民を祝福してくださいました」と祭司アザルヤに驚きを与えるほどでした。 献げ物をささげる、この行為の中に主の祝福があらわされています。主に贖われ、生かされているものだからこそ、主にささげることができます。この行為そのものが信仰告白であり、主の祝福のしるしです。私たちの生活に主の祝福が巡りゆく幸いを思わされます。 Sun, 16 Oct 2016 00:10:00 +0000 主に近づくことができる幸い(歴代誌下 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161016 no 2016 ヒゼキヤは彼らのために祈って言った。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。」主はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、民をいやされた。 (歴代誌下30章18節~20節) ヒゼキヤ王は、人びとの心に神に仕える心を呼び起こすために、それまで行うことができなかった過越祭を実行しました。ヒゼキヤは使者を派遣し、全イスラエルに招待状を送って、過越祭に集まるように呼びかけました。 「あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、御顔を背けられることはない」(9節)。 この招きを聞いた人びとの多くのものが、謙遜になってエルサレムに集まり、心をひとつにして、主がなさる御業を共に喜び祝うことができました。祭司たちは集まった人びとを祝福し、「その声は聞き届けられ…天にまで達した」(27節)。 主は憐れみ深い方です。平安を失っていた人びとを決してお見捨てにならず、ご自分のもとへ引き寄せ、祝福してくださいます。それは今も変わることはありません。主イエスは、「人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできにな」るお方です(ヘブ7章25節)。主は私たちの近くにおられ、祈りを聞かれ、魂の傷をいやしてくださいます。 Sat, 15 Oct 2016 00:10:00 +0000 死から命に移ったしるし(ヨハネの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161015 no 2016 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。 (ヨハネの手紙一3章14節) ヨハネは、きょうの聖句の中で、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」と語っています。死から命に移ったということは、「永遠の命」に移されたということです。 それでは、私たちが「永遠の命」に移された、というこの世におけるしるしは何なのでしょうか。私たちは、そのようなしるしがあるのだろうか、と考えるかもしれません。しかし、ヨハネは、「兄弟を愛している」ことが、確かなしるしである、と語ります。 かつての私たちは愛することができない者でした。しかし、キリストの愛を知った時、「兄弟を愛する」ことの喜びを教えられました。不十分にしか愛せなくとも、知識としてではなく、魂において、愛することの大切さを心に刻んでいます。「兄弟を愛する」ことは、キリストに愛されているしるしです。 このしるしは、私たちを愛してくださるキリストとの霊的な交わり、つまり、「永遠の命」の豊かさを表すものです。この命を与えられている者として、兄弟を愛するというしるしを、きょうも、豊かに示すことができますように、神に願い求めます。 Fri, 14 Oct 2016 00:10:00 +0000 「永遠の命」とは(ヨハネの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161014 no 2016 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。 (ヨハネの手紙一2章24節~25節) 私たちが永遠の命という言葉を聞く時に、どのような命のことを考えるでしょうか。永遠の命とは、この地上に生きている私たちの命が、限りなく続くこと、と考える方もおられるかもしれません。昔から、さまざまな国で、永遠にこの世で生き続ける命を手に入れようとしたことが、歴史の記録の中で明らかにされています。しかし、ヨハネが語る「永遠の命」とは、この地上の命が長く続くことではありませんでした。 ヨハネは、「永遠の命」について「初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう」と語っています。初めから聞いていたこととは、何でしょうか。それは、イエス・キリストが、私たちの罪が赦されるために、ご自分をいけにえとしてささげてくださったことです。 十字架の恵みが私たちの心の中に留まっているならば、私たちは御子の内に、また御父の内にもいます。そして、御子と御父の交わりの内にいることが、「永遠の命」です。地上の生の中にあっても、御父と御子を誉め讃える者は、「永遠の命」に生きています。 Thu, 13 Oct 2016 00:10:00 +0000 「命の言」を伝える(ヨハネの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161013 no 2016 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。 (ヨハネの手紙一1章1節) 私たちにとって、命とは何でしょうか。この世の人生を一歩一歩あゆむ肉体の命を考える方もあるでしょう。その中でどのような生き方をするのか、ということにまで思いを馳せる方もおられるでしょう。そのような肉体の命について考えることは正しいことです。聖書においても肉体の命を大切に考えて生きることは、決しておろそかに考えられてはいません。 ヨハネは、そのことを十分に知ったうえで、「命の言」について語ります。言が、命を支えているのでしょうか。ヨハネが語る「命の言」は、抽象的なものではありません。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」が、「命の言」です。 実は、ヨハネは、本当の人間としてこの世に来られたイエス・キリストを、「命の言」と呼んでいます。ヨハネは、見て、触れることができたキリストを通して、この世界が造られる前からおられた神なるお方と出会っていることを示されたのです。 「命の言」であるキリストが心に宿られるとき、肉体を含め、私たちの人生は永遠の神の御手に守られます。 Wed, 12 Oct 2016 00:10:00 +0000 閉ざされた扉を開かれる(歴代誌下 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161012 no 2016 その治世の第一年の第一の月に、ヒゼキヤは主の神殿の扉を開いて修理し、…言った。「レビ人よ、聞け。今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ。」 (歴代誌下29章3節~5節) 「わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス『告白』第1巻第1章1)。 ヒゼキヤは29年間、王として主に仕えました。最大の貢献は、ユダ王国に失われていたものを取り戻したこと、真の礼拝の回復です。「アハズは神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主の神殿の扉を閉じ」てしまいました(28章24節)。礼拝を喪失し、神を喪失した民は、自分が何者か、何によって生かされているのかを根本的に見失っていました。まさに民は、神と自らを見失うことで、安らぎを喪失してしまっていました。 しかし、主はそのような彷徨う人びとを憐れんでくださいました。主はヒゼキヤを王として立て、神殿の扉を開き、整え、そこに民を迎え入れてくださいました。「こうして、主の神殿における奉仕が復活した。ヒゼキヤとすべての民は神が民のためにしてくださったことを喜び祝」う者とされたのです(35、36節)。 主が礼拝の心を与えてくださいます。そして、安らぎを失った者に、礼拝を通して、真の喜びを与えてくださいます。あなたに礼拝の扉は開かれています。 Tue, 11 Oct 2016 00:10:00 +0000 裁きの中の憐れみ(歴代誌下 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161011 no 2016 その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「…今、わたしの言うことを聞き、兄弟の国から連れて来た捕虜を帰しなさい。主はあなたたちに対して激しく怒っておられる。」 (歴代誌下28章9節~11節) アハズは20歳で父ヨタムの後を継ぎ、ユダの王となりました。しかし、彼はヨタムと違い、父の姿から学びませんでした。彼が陥った罪もその結果も、北イスラエルの王たちが陥ったものとよく似ています。自ら偶像礼拝を行って、主なる神を捨てたのです。そのようにして神の怒りを招いた結果、ユダは北イスラエルとの戦いに敗北し、他民族からの侵略にあい、国は大きな痛手を負いました。大国アッシリアにも苦しめられました。すべてはアハズ王が、「ユダを堕落させ、主に甚だしく背いたから」です(19節)。しかし、そのような災難のさなかでも、アハズは神に立ち帰ることなく、ますます偶像礼拝の罪を犯し続けました。 ただ、そのような中でも神は完全にユダの民を見捨てられたわけではありません。北イスラエルとの戦いの結果、ユダの多くの婦女子が捕虜となり、サマリアに連れ去られましたが、主の預言者オデドを通しての神の警告の言葉によって、捕虜となった人びとは解放されることになりました。 神の憐れみは、裁きの中でも弱い者たちに向けられます。私たちの主なる神は、弱い者、小さい者を顧み、憐れんでくださる神なのです。 Mon, 10 Oct 2016 00:10:00 +0000 神の前をたゆまず歩こう(歴代誌下 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161010 no 2016 ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。 (歴代誌下27章6節) ウジヤの次のユダの王は、ウジヤの生前から王宮を取りしきっていた彼の子ヨタムです。聖書における彼についての記述が短いのは、皮肉なことに彼が歴代の王たちと比べて良い王であったからです。彼は「父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った」だけでなく、父の罪の姿から学び、「主の神殿に入ることだけはしなかった」のです(2節)。つまり、神の前に思い上がることなく、王の務めを果たしたのでした。 彼の建築事業を中心とする内政も軍事的成功も、父ウジヤの手がけた事業を引き継いだものでした。彼が新しく始めたことは何もありません。その意味では、ヨタムは王としては凡庸だったのかもしれません。彼が王として優れている点をあげるなら、それは「主なる神の御前をたゆまず歩き続けた」ことに尽きるでしょう。そして、これこそ、神の民を治める王にふさわしい態度だったのです。 歴史に残るような偉大なことを成し遂げなくても、たとえ平凡な人生であったとしても、神の前に誠実にたゆまず歩き続けるならば、神はその人を祝福してくださいます。私たちもまたそのような人生を歩みたいものです。 Sun, 09 Oct 2016 00:10:00 +0000 思い上がりを戒める(歴代誌下 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161009 no 2016 ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。 ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。 (歴代誌下26章15節~16節) アマツヤの次にユダの王となったのはウジヤです。彼は「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」と言われ(4節)、「神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及」びました。 しかし、そのような彼も罪と無縁でいることはできませんでした。彼が陥ったのは「思い上がり」という罪です。勢力が増したのは自分自身の力によるのだ、という思い上がりは、彼を傲慢にし、主に従う者ではなく主に背く者としてしまいました。彼が行った具体的な罪は、神殿の祭壇で祭司にしか許されていない香をたこうとしたことです。彼を諫める祭司に対して怒り始めたウジヤでしたが、そのさなかに重い皮膚病が彼の額を襲います。神の律法によれば、それは宗教的な汚れを意味し、人々から隔離されなければなりませんでした。ウジヤは、王としての務めも果たせなくなってしまいました。神の裁きはそのような形でウジヤに訪れました。 「思い上がり」は聖書がくり返し戒める罪です。それは全能の神の力を畏れず、すべてを神ではなく自分中心に考えるようになるからです。神の前における謙遜こそ、私たちのあるべき姿なのです。 Sat, 08 Oct 2016 00:10:00 +0000 エデンの園から聖なる都へ(ヨハネの黙示録 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161008 no 2016 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 (ヨハネの黙示録22章1節~2節) 世の終わりの新しいエルサレムには「命の木」があり、「川」が流れています。それは創世記のエデンの園を思い起こさせます。「初めであり、終わりである」と言われる主イエスが再臨されるとき、初めの時にあった祝福が取り戻されるのです(13節)。 失われたものの回復だけではありません。そこには発展があります。「園」であった最初の状態は、最後には新しいエルサレムという聖なる「都」へと発展しているのです。その過程には、子どもを産み、育てるという家族の営みがあり、地を耕すという労働と文化もあります。すべては神の祝福の実りです。 大きな失敗をしたり、思い通りにいかなかったりしたときに、私たちはもう一度初めに戻りたいと思うことがあります。そう思っても、私たちの力は、時計の針を戻すことはできません。しかし、神は最初の状態を回復することのできるお方であり、それどころか、私たちの失敗にもかかわらず、最初のとき以上の祝福へと導いてくださるお方です。エデンの園から聖なる都へ。この大きな神の導きの中に、私たちはきょうも生かされているのです。 Fri, 07 Oct 2016 00:10:00 +0000 目の涙はぬぐい取られ(ヨハネの黙示録 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161007 no 2016 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21章3節~4節) 天と地が新しくされる終末の完成の光景が描かれています。聖なる都、新しいエルサレムが天から下って来ます。そこは神が人と共にいてくださる場所です。そして、この終わりのときの恵みの大きさが、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」という言葉に表されています。新しいエルサレムでは、悲しみや苦しみのために流す一切の涙はぬぐわれます。 かつて、主イエスご自身がエルサレムのために泣かれました(ルカ19章41節)。エルサレムの汚れた罪を嘆かれたわけです。そこには罪や死によって涙を流さざるを得ない罪人に対する深い憐れみがありました。主イエスはそのエルサレムで十字架にかかり、罪と死の力を滅ぼしてくださいました。私たちの涙をぬぐうハンカチは、主イエスご自身の涙なのです。 この地上を歩む間、なお私たちの頬には涙が流れ続けることでしょう。しかし、そのときには主イエスの愛と憐れみの涙を思い出します。私たちには希望があります。主イエスがいつも共にいてくださり、そして、すべての涙がぬぐわれる新しいエルサレムが約束されているのですから。 Thu, 06 Oct 2016 00:10:00 +0000 キリストと共に千年(ヨハネの黙示録 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161006 no 2016 わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 (ヨハネの黙示録20章4節) 偶像礼拝を拒んで殉教した者たちが、やがて生き返ってキリストと共に千年の間統治するという約束が語られています。千年という、私たちの思いをはるかに超えた長い期間が、祝福の大きさを物語っています。それは、黙示録の前半で、苦難の期間が42か月、つまり3年半とされていたのと対照的です(11章2節)。私たちは普段、楽しい時間はあっという間に過ぎ、苦しい時間はいつまでも続くように感じるかもしれません。しかし、信仰者にとっては、苦難の時は短く、喜びの時は長いのです。 教会の歴史においては、この千年がいつのことなのか、また文字通りの千年なのか、さまざまな議論もあったようです。しかし、いずれにしても大切なことは、私たちが誰と共にいるかということです。「キリストと共に千年の間統治した」とあります。勝利者キリストと共にいることこそが幸いです。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と言われます(2ペト3章8節)。 信仰者は、きょうという日にキリストと共にいることで、千年の幸いを味わうことができるのです。 Wed, 05 Oct 2016 00:10:00 +0000 救えない神々を求めるな(歴代誌下 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161005 no 2016 主はそのアマツヤに対して怒りに燃え、預言者を遣わされた。彼は王に言った。「あなたの手から自分の民を救えなかった神々を、どうしてあなたは求めるのか。」 (歴代誌下25章15節) ヨアシュ王が家臣によって殺害された後、その子アマツヤが王位につきました。聖書はこのアマツヤについての評価を「彼は主の目にかなう正しいことを行ったが、心からそうしたのではなかった」と要約しています(2節)。彼はエドムとの戦いでは、神の人の忠告を聞き入れて、「助けることも、挫くことも」できる神の力を信頼して戦い、勝利します。しかし、戦いの後には、エドム人の拝む神々を自分の神として礼拝するようになり、それに対して警告を発する神の預言者の声にも耳を貸さず、かえって預言者を脅迫します。 敵国の神々を求めるという偶像礼拝に陥ったアマツヤとユダの民に対する神の怒りは、北イスラエルとの戦いでの惨敗、アマツヤの捕縛、エルサレムの城壁の一部破壊、神殿での略奪、さらにはその後の謀反によるアマツヤ殺害という形となってあらわされます。 偶像礼拝の罪は、私たちを「助けることも、挫くことも」できる力のある主なる神ではなく、私たちを救う力などない、救えない偽りの神々を求めることにあります。そのような罪に陥ることのないように、真の神の力にのみ、より頼んで歩んでいきましょう。 Tue, 04 Oct 2016 00:10:00 +0000 神の声に耳を貸さない罪(歴代誌下 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161004 no 2016 神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」 (歴代誌下24章20節) 祭司ヨヤダによって立てられた王ヨアシュは、ヨヤダの生きている間は正しく良い王でした。しかし、ヨヤダが死ぬと、ヨアシュの治世はまったく様変わりします。「主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた」のです(18節)。それはヨアシュが、神の預言者たちの戒めに耳を貸さず、世俗の政治家たちの言うことばかりを聞き入れた結果でした。 ついにヨヤダの子ゼカルヤに神の霊が降り、ヨアシュ王とその民に向けて神の怒りの警告を伝えます。しかし、民たちのとった行動は、共謀してゼカルヤを石で撃ち殺すことでした。それは、ヨアシュ王の命令でなされました。ヨアシュは自分を王位につけてくれた恩人であるヨヤダの子を殺したのです。この罪に対する神の裁きは、アラム軍による侵略と家臣によるヨアシュ自身の殺害でした。 主イエスはこのゼカルヤ殺害について言及しておられます(ルカ11章51節)。神の預言者を殺害することは、神の声に聞き従わないという最も重い罪です。しかし、その罪さえも主イエスは、その身に引き受けてくださいました。主イエスを信じる私たちは、神の声に耳を傾け、それに従う者であり続けましょう。 Mon, 03 Oct 2016 00:10:00 +0000 再び主の民となる喜び(歴代誌下 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161003 no 2016 ヨヤダは、自分とすべての民と王との間に、主の民となる契約を結んだ。こうして、国の民は皆喜び祝った。 (歴代誌下23章16節、21節) イエフの反乱によってアハズヤ王が死ぬと、アハズヤの母アタルヤがユダの国を支配することになりました。その際、北イスラエルの王の一族であるアタルヤは、ユダの王族の根絶を企みます。それは、神がダビデと結んだ契約を無くしてしまおうとする企みでした。しかし、神のご計画は、そのような彼女の企みをくじかれます。 6年に及ぶアタルヤの支配の後、かくまわれ生き残った前王の子ヨアシュが祭司ヨヤダによって王として立てられました。その際にヨヤダがしたことは、ユダの民に神との契約を再認識させることでした。背信の王たちによってユダでも偶像礼拝がはびこっていましたが、ヨヤダはそれを一掃しました。そして、主の神殿を聖別し、主なる神こそ唯一の神であり、その主なる神との契約によって、ユダの民は主の民であるということを再確認させたのです。民はこのことを喜び祝いました。 キリストによる新しい契約によって私たちをご自分の民としてくださる神のご計画は、それを妨げようとする人間の企みをくじかれます。そのように守られて、私たちが、今、キリストによって主の民とされていることに喜びを覚えます。 Sun, 02 Oct 2016 00:10:00 +0000 良い助言者を得よう(歴代誌下 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161002 no 2016 アハズヤは42歳で王となり、1年間エルサレムで王位にあった。その母は名をアタルヤといい、オムリの孫娘であった。この母が悪い勧めを与えたので、彼もアハブの家の道を歩んだ。 (歴代誌下22章2節~3節) 民からも見捨てられた王ヨラムが死んだ後にユダの王となったのは、他民族の襲撃からただひとり生き残った最年少の子アハズヤでした。アハズヤの母アタルヤは、「オムリの孫娘」、つまり北イスラエルの王アハブの娘です。アハブは「彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」王であり(王上16章30節)、預言者エリヤは、このアハブのもとで盛んになったバアルの偶像礼拝と対決しました。その娘アタルヤも当然父親の影響を受けており、その影響はユダの新たな王にも及びました。アハズヤは母アタルヤを助言者としましたが、その実質は傀儡のようなものでした。その母の悪い勧めにより、アハズヤもまた「アハブの家の道」、すなわち神に背く道を歩んでしまいます。それに対する神の裁きは、イエフの反乱による死でした。 私たちも人生において、助言者を必要とします。その多くは、私たちの身近な人物、家族や友人でしょう。しかし、身近な人が必ずしも良い助言を与えるとは限りません。かえって私たちを誤った道、神に背く道へと誘う場合もあるのです。神に従う者としてその道を踏み外さないよう良い助言者を得たいものです。 Sat, 01 Oct 2016 00:10:00 +0000 麻の衣と血の衣(ヨハネの黙示録 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20161001 no 2016 「小羊の婚礼の日が来て、 花嫁は用意を整えた。 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。 この麻の衣とは、 聖なる者たちの正しい行いである。」 (ヨハネの黙示録19章7節~8節) 「小羊の婚宴」と呼ばれる、終末における喜びの光景が描かれています。小羊イエスが花婿であり、教会が花嫁です。婚礼のとき、花嫁は輝く清い麻の衣を着せられます。その麻の衣は、「正しい行いである」とありますが、それは、行いによって花嫁と認められるという意味ではありません。この衣は「着せられ」るのであり、信仰によって救われた者が、さらに恵みによって正しい行いへと導かれるという意味です。 ある牧師は、この麻の衣に約束された神の恵みを思いながら、生まれた娘に「麻衣」と名前を付けたそうです。 恵みによって着せられるということは、このために救い主が犠牲を払ってくださったということです。黙示録はこのあと、救い主は「血に染まった衣を身にまとって」いたと記しています(13節)。キリストは十字架上で血を流し、その犠牲によって救いを与えてくださいました。人の目には不思議なことですが、小羊の血で洗われて、衣は白くなるのです(7章14節)。そのような麻の衣を着せられる婚宴の日を待ち望みつつ、十字架の主イエスを仰いで歩んでいきましょう。 Fri, 30 Sep 2016 00:10:00 +0000 真に人間らしく(ヨハネの黙示録 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160930 no 2016 地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。その商品とは、金、銀、宝石…奴隷、人間である。 (ヨハネの黙示録18章11節~13節) 信仰者たちを苦しめたローマ帝国が「大バビロン」と呼ばれています(2節)。そこには、暴力的な力だけではなく富の力がありました。地上の王たちと共に多くの商人たちが、ローマ帝国にある数々の商品を求め、自らその支配下に入ったのでした。 もちろん富や商売そのものが悪いわけではありません。しかし、思わず息を飲むのは、金、銀、宝石というぜいたくな商品のリストの最後に、「奴隷、人間」とあることです。人間が物のように扱われる世界がそこにはあり、ローマ帝国と商人たちの罪をはっきりと見ることができます。 このような現実は、かたちを変えて今日の私たちの社会にもあるのではないでしょうか。しかし、神の力によって大バビロンは滅ぼされます。そして、「わたしの民よ、彼女から離れ去れ」と命じられます(4節)。キリストの救いにあずかる者は、物のように扱われていた生き方、また誰かを物のように扱ってしまっていた生き方から解放されて、真に人間らしく生きるのです。だからこそ御言葉は私たちに語りかけます。「私の民よ、離れ去れ」と。 Thu, 29 Sep 2016 00:10:00 +0000 秘められた意味を知る(ヨハネの黙示録 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160929 no 2016 すると、天使がわたしにこう言った。「なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、七つの頭と十本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。 (ヨハネの黙示録17章7節) 獣とそこに乗った女を見て驚くヨハネに対して、天使はその秘められた意味を知らせようと言います。それは神を冒涜する悪しき力であり、教会を迫害する力でした。信仰者は、悪の現実をしっかりと見つめなければなりません。当時においては、ローマ帝国がまさにそのような力をふるっていました。 しかし、ただ悪しき力の正体だけが知らされるのではありません。そのとき信仰者には、小羊イエスがその悪しき力に打ち勝たれること、さらに、「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」ということが明らかにされます(14節)。秘められた意味を知るとは、何よりも「神の秘められた計画が成就する」ことを知るということなのです(10章7節)。 私たちも恐ろしい力を前にして、これは一体何なのか、なぜこのようなことが起こるのかと驚き戸惑うことがあります。しかし、聖書を開くとき、神の計画が知らされます。どれほど大きな力が押し寄せようとも、私たちには小羊イエスの勝利が約束されているのです。 Wed, 28 Sep 2016 00:10:00 +0000 愚かな王の末路(歴代誌下 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160928 no 2016 民は、その先祖のために火をたいたようには、彼のために火をたくことをしなかった。 (歴代誌下21章19節) ヨシャファトの次にユダの王となったのは、子のヨラムでした。ヨラムは、彼以前の王たちにもまして悪く愚かな王でした。彼は王座を奪われることを恐れて、自分の兄弟すべてと国の高官の何人かを退けました。その統治においては、ユダの支配下にあったエドムやリブナの離反を招き、ユダの国力を低下させました。信仰面においても、父ヨシャファトが取り除いた聖なる高台を再び造り、民にも偶像礼拝をそそのかしました。こうした彼の行いは、やがてその報いを彼自身にもたらすことになります。 神は、預言者エリヤを通して、彼の愚かさに対する裁きを告げます。その内容は、災いが彼の周囲の者たちを襲うこと、そして、彼自身が病に苦しめられることでした。災いは現実のものとなり、彼の子はひとりを残して失われます。そして、内臓を襲った不治の病によってヨラムは苦しみの中で死にました。彼は民からもその死を惜しまれることはありませんでした。まさに神からも人からも捨てられた王であったのです。神と人を愛することをキリストから教えられた私たちは、神と人とに愛される人生を歩みましょう。 Tue, 27 Sep 2016 00:10:00 +0000 神の戦い(歴代誌下 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160927 no 2016 彼は言った。「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。』」 (歴代誌下20章15節) ヨシャファト王がアハブ王と同盟を結んだことを悔い改めた直後、モアブとアンモンとエドムの連合軍が攻めて来ました。三大宿敵が攻めて来たのですから、これは一大事です。ヨシャファト王は神に祈ります。「神よ、…わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、…ただあなたを仰ぐことしかできません」(12節)。すると、これは神の戦いだから恐れるな、との主の御声を聞きました。勇気を得たヨシャファト王が、神を賛美しながら敵軍に向かって行くと、「主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた」のでした(22節)。 私たちの信仰の戦いも神の戦いです。私たちが神を信じ、神をほめたたえて進むとき、神がすべての事を成し遂げてくださいます。「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる」(17節)。きょうもこの御言葉を心に刻み、勇気をもって世の戦いに出て行きましょう。 Mon, 26 Sep 2016 00:10:00 +0000 真実の友(歴代誌下 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160926 no 2016 先見者ハナニの子イエフは、ヨシャファト王の前に進み出て言った。「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります。」 (歴代誌下19章:2節) ヨシャファト王はアハブ王と同盟を結び、愚かな戦争に協力したために、危うく命を落とすところでした。預言者イエフは、そのような彼を「悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか」と責め立てました。このイエフの言葉をどう受けとめるべきでしょうか。 私たちは、もともと神を信じないばかりか、むしろ神を憎む者たちでした。そのような私たちを神が愛し、私たちの友となってくださったからこそ、私たちは救われたのです。そうであるなら、私たちも、今神を憎んでいる人であっても、その人のために祈り、友となるべきではないでしょうか。 しかし、ここでの問題は、そういうことではないのです。真実の友とは、自分の利益のために相手の悪に目をつむり、互いに利用し合うような関係ではないはずです。しかし、ヨシャファト王は、アハブ王の悪には目をつむり、お互いの利益のためだけの馴れ合いの関係に終始したのでした。これは決して神の御心ではありません。私たちもこの過ちを繰り返さないよう注意しましょう。 Sun, 25 Sep 2016 00:10:00 +0000 受け入れ難くても(歴代誌下 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160925 no 2016 イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、いつも災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」 (歴代誌下18章7節) ヨシャファト王は神の言葉に従ったので、神に祝福され、富と名声を得ました。ところが彼は、北王国のアハブ王の娘アタルヤを息子ヨラムの嫁に迎えた、というのです(1節)。アハブと言えば、カナン人の神バアルの信奉者で預言者エリヤを迫害した悪名高き王です。 なぜそのような王と縁を結んだのでしょうか。それは同盟のためでした。ヨシャファト王は、たとえ信仰に反しても仲間を得ようとしたのです。またアハブから戦争に誘われた時、彼は相手に不快な思いをさせないように、心にもないことを言いました(3節)。 それと対照的なのが預言者ミカヤです。彼は二人の王の前で、戦えば必ず負け、王は死に、兵は散り散りになると、王たちが一番嫌うことを言いました(7節)。 み言葉に従うことは、自分の思いとみ言葉が重なる時にだけ従うというのではありません。時として、耳の痛い、受け入れ難いことであったとしても、与えられたみ言葉に従っていくのです。主の御心と一つになって生きる道こそが、まことに幸いな道です。 Sat, 24 Sep 2016 00:10:00 +0000 悔い改めのない恐ろしさ(ヨハネの黙示録 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160924 no 2016 人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。 (ヨハネの黙示録16章9節) 七つの鉢に盛られている神の怒りが地上に注がれます。出エジプトの際にファラオの頑なさの故に十の災いが起こったように、七つの災いが引き起こされます。 第三の災いは、水が血に変わったナイル川のように、すべての川とその源を血に染めます。これは、殉教者が流してきた血への裁きです。彼らの血はこれまで人びとの目から隠されていましたが、今や大地がその血を吸っていたことが明らかにされます。そして、天の神殿では「あなたの裁きは真実で正しい」と賛美の歌がうたわれます(7節)。 地上では、竜、獣、偽預言者の口から出る蛙のようなもの(悪霊)は、王たちを惑わし、「ハルマゲドン」に集結させます(12~16節)。王たちは滅びに向かっていることを知らず、そこに至るまでの災いにより悔い改めることはありません。人びとは、災いを支配する神の名を冒涜します(9、11、21節)。 ここに記されている恐ろしさは、悔い改めがないことです。裁きを受けて、悔い改めることができるなら、本当に幸いです。神の正しさへの賛美は、必ず、自らの罪深さへの悔い改めを生み出します。 Fri, 23 Sep 2016 00:10:00 +0000 モーセの歌と小羊の歌(ヨハネの黙示録 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160923 no 2016 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。 「全能者である神、主よ、 あなたの業は偉大で、 驚くべきもの。 諸国の民の王よ、 … 聖なる方は、あなただけ。 すべての国民が、来て、 あなたの前にひれ伏すでしょう。 あなたの正しい裁きが、 明らかになったからです。」 (ヨハネの黙示録15章3節~4節) 「神の怒りがその極みに達」し、「神の怒りが盛られた七つの金の鉢」は、天使の手に渡っています(1、7節)。神の怒りは、竜に対して、また、獣の像を拝ませる人間とその像を拝む人間に向けられています。そして、神の怒りが極みに達するとき、獣に勝ち、その像に勝った者たちが、天の神殿で声高らかに「モーセの歌と小羊の歌とを」うたいます。 この賛美は、天の神殿の歌声です。地上においては、七つの災いが到来しようとしています。しかしキリスト者は、この地での壮絶な戦いの最中に、天上の歌声を聞くことを許されています。賛美の内容は、神の裁きの正しさです。すべての国民が、神の裁きの正しさを知り、神にひれ伏すときが、必ず到来します。 「モーセの歌」が、紅海を渡ったモーセがうたった歌であるなら、「小羊の歌」とは十字架で死の海を渡り、復活され死に勝利された小羊であるキリストがうたった歌となります。天上では今もモーセもキリストも、神の裁きの正しさをほめたたえています。 キリスト者は小羊をたたえ、小羊は神をたたえ、栄光はすべて神に帰されます。 Thu, 22 Sep 2016 00:10:00 +0000 小羊の勝利に連なる希望(ヨハネの黙示録 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160922 no 2016 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に14万4千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。 ……この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。 (ヨハネの黙示録14章1節、4節) この章は、厳しい戦いを強いられている者に、終末の完成を垣間見せます。海辺に立つ竜は敗北し、小羊がシオンの山に立ち、獣の像を拝むことをしなかった者たちが小羊に従っています。竜と2匹の獣は、どのようにしても、小羊に従う者をこの地から抹殺することはできません。 14万4千人とは、文字通りの人の数ではなく、12の2乗掛ける千で、神の選びの確かさを表すものです。彼らの額には、獣の名の刻印ではなく(13章16、17節)、小羊と小羊の父の名が記されています。小羊の血によって贖い選び分かたれた人びとです。彼らは、小羊を愛し、小羊の行くところへは、それが十字架の道であっても、どこへでも従って行きます。この者たちは、「神と小羊に献げられる初穂」です(4節)。 私たちは、この初穂に続く者です。小羊が勝利される時、必ず、小羊の勝利を喜ぶ神の民がそこにいます。私たちは、勝利の小羊をほめたたえるために神に選ばれた者、神と小羊に献げられた者です。ただし、勝利に連なるには、「イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要」です(12節)。 Wed, 21 Sep 2016 00:10:00 +0000 主の憐れみの結果(歴代誌下 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160921 no 2016 主への恐れがユダを取り巻く地域の国々を襲い、ヨシャファトと戦いを交えるものはなかった。 (歴代誌下17章10節) アサ王の子ヨシャファトが南王国ユダの王となりました。ヨシャファトは神の言葉に従おうと努力し、また国民に神の言葉を教えるために指導者たちを町々に派遣しました。こうして王と国民が神の言葉に従おうと努力した時に、周りの諸国の民が主を恐れるようになりました。 しかし、これは決してヨシャファト王の功績ではありません。この事態は15章3節を思い起こさせます。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった」。神の民イスラエルが苦悩の中で主に立ち帰り、主を求めたあの日以来、主は彼らに御自分を示し続けてこられました。このような神の大いなる憐れみがあったからこそ、少しずつ環境が整えられ、やがてヨシャファト王が登場し、周りの諸国からも恐れられ、尊敬されるにまで至ったのでした。 今、私たちが何度も失敗を繰り返しつつ、なお礼拝生活を続けることができているのも、私たちの功績によるのではなく、ただ神の憐れみによるのです。それゆえ私たちは神にのみ、栄光を帰して歩みます。 Tue, 20 Sep 2016 00:10:00 +0000 神と心を一つにする(歴代誌下 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160920 no 2016 「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く。」 (歴代誌下16章9節) アサ王の晩年のことです。北王国が国境を侵犯し、要塞を築いた時、アサ王はその北にあるアラムの国の王に金銀を贈りました。そして、北王国との同盟を破棄し、背後から北王国を攻めるように頼んだのでした。この作戦は成功し、北王国は撤退しました。しかし神は預言者を通してアサ王にこう告げたのです。「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった」(7節)。 アサ王のやり方は神よりもアラムを頼るやり方でした。さらに「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」と語られました。アサ王の心が神と一致していたならば、神が力づけてくださるので、何も恐れる必要はありません。しかし残念ながら、アサ王は神と心を一つにすることができませんでした。 私たちにとって、一番重要なことは、敵に勝利し、人生に成功することではありません。神と心を一つにして生きること、これこそ私たちが最優先すべき事柄なのです。 Mon, 19 Sep 2016 00:10:00 +0000 悩みの中で主に立ち帰る(歴代誌下 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160919 no 2016 長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。 (歴代誌下15章3節~4節) 「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった」。耳を疑いたくなるような御言葉です。イスラエルとは神に選ばれた神の民のことです。今で言うならば教会のことでしょう。その彼らに、長い間、まことの神はなく、教える指導者もなく、神を示す書もなかった、と言うのです。 このように教会が主から離れる時が確かにあるのです。しかし神は、そのような私たちに、絶えず「まことの神へと立ち帰れ」と呼びかけてくださいます。 アサ王は礼拝の歪みを正し、まことの神のみを神とする礼拝を整えました。そして、その改革ぶりは、たとえ肉親の母であっても妥協することがありませんでした。では、どうしてこのような改革が進んだのでしょうか。イスラエルが神を見失い、神の教えから離れてしまい、礼拝も教育も失っていたからです。 主は私たちが立ち帰ることを、ずっと待ち続けていてくださいます。そして、悩みの中で主に立ち帰る時に、主は今でも私たちに御自身を喜んで示してくださるのです。 Sun, 18 Sep 2016 00:10:00 +0000 神に対抗することができない(歴代誌下 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160918 no 2016 アサは彼の神、主を呼び求めて言った。「主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください。…あなたはわたしたちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません。」 (歴代誌下14章10節) アビヤの子アサが南王国ユダの王となりました。彼は敬虔な王でした。あるとき、クシュ人の王ゼラが百万の大軍を率いて攻めて来ました。アサ王は、軍勢ではゼラの足もとにも及びませんでしたが、彼は助け求める神を知っていました。彼は神に祈りました。神にとって、私たちが強かろうと弱かろうと全く関係ありません。かえって、私たちが弱い時にこそ神の力が現れるのです。また人間はどんなに頑張っても神と並ぶことができません。並ぼうとする人間の高慢を、神は必ず打ち砕かれます。 私たちの人生にはさまざまな戦いがあります。私たちはそのような戦いの中で、アサ王が告白していることを本気で信じているでしょうか。「主なる神が天地の造り主であり、すべてのものを支配しておられる」ということです。私たちも、私たちを悩ませる敵も、すべては主のご支配の下にあり、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8章39節)。そのことさえ信じることができれば、私たちの人生は本当に自由で、平安です。 Sat, 17 Sep 2016 00:10:00 +0000 獣の正体(ヨハネの黙示録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160917 no 2016 わたしはまた、1匹の獣が海の中から上って来るのを見た。…10の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。 わたしはまた、もう1匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た2本の角があって、竜のようにものを言っていた。 (ヨハネの黙示録13章1節、11節) 12章は、「竜は海辺の砂の上に立った」で終わり、13章が続きます。そして、第一の獣は海から、第二の獣は地中から、この地に上って来ます。人びとの前に姿を現すのは獣です。この獣とは、「悪魔とかサタンとか呼ばれる」(12章9節)竜に操られている人間です。 この2匹の獣は、「竜のように」、「神を冒涜する」言葉を語ります。第一の獣を介し、「人々は竜を拝」みます(4節)。第二の獣は、第一の獣と比べると、「小羊の角に似た2本の角」しかなく、穏やかに見えます。しかし、第二の獣が、第一の獣を拝ませ、先の獣の像を造るように命じ、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせました(12~15節)。 第一の獣はローマ皇帝の力を、第二の獣は皇帝礼拝を定着させるように働きかける政治権力やマスメディアなどの力を暗示しています。彼らの背後に竜がいます。 力を身に帯びた権力者は、人の像を拝まない者の日常生活を圧迫します(17節)。しかし、キリスト者は、目を見開いて彼らの正体を見抜き、日常生活で不便をきたしても、神のみを礼拝します。 Fri, 16 Sep 2016 00:10:00 +0000 自らの証しの言葉で勝利する(ヨハネの黙示録 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160916 no 2016 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。… 「我々の兄弟たちを告発する者…が、 投げ落とされたからである。 兄弟たちは、小羊の血と 自分たちの証しの言葉とで、 彼に打ち勝った。」 (ヨハネの黙示録12章9節~11節) 「年を経た蛇」は、エデンの園で神のようになれるとアダムとエバを唆す蛇を思い起こさせます(創3章)。悪魔とサタンは、ギリシア語とヘブライ語の違いだけで、内実は同じで、両者ともこの竜の別名です。 「この巨大な竜」は、神に敵対し、神を悪し様に語り、神を信じないようにと人びとを惑わします。また、キリスト者の心に潜むどんな小さな罪をも見逃さず、暴き続け、神の御前にキリスト者を罪人として訴えます。自分は赦されない罪人であると、人に思い込ませ、人を神から引き離そうとします。 この竜は、神の前には無力で、天上においては居場所がなく、天から投げ落とされます。しかし、地上において自らを巨大化させ、人に対して戦いを挑みます。 竜の攻撃が如何に激しくとも、殉教の死を遂げることがあったとしても、私たちはキリストの血の贖いに感謝し、神をほめたたえます。私たちは、世の冒涜の言葉に悩まされ、自分の罪に苦しんでも、神を賛美し、自らの証しの言葉を手放すことはありません。神をほめたたえる者は、この竜に勝利する者です。 Thu, 15 Sep 2016 00:10:00 +0000 終末の到来の告知(ヨハネの黙示録 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160915 no 2016 さて、第七の天使がラッパを吹いた。… 「この世の国は、我らの主と、 そのメシアのものとなった。 主は世々限りなく統治される。」 …24人の長老は、…言った。 「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。 大いなる力を振るって統治されたからです。」 (ヨハネの黙示録11章15節~17節) 「第七の天使がラッパを吹いた」。とうとう最後のラッパが吹かれました。いったい何が起こるのでしょうか。恐ろしいことが起こるのでしょうか。そうではなく、思いがけない天上の情景が示されました。それは天上の礼拝です。 「天にさまざまな大声があって」(15節)。あらゆる民族、言葉の違う民が集まる礼拝です。「神の御前で、座に着いていた24人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し」(16節)ました。そういう壮大な礼拝です。 天上の礼拝を見たヨハネは、その後地上で次々と殉教の知らせを聞いたとき、あぁ、また天上の礼拝に群れの一人が加えられた、と思ったでしょう。今も、先に召された方々が、この礼拝の群れに加わっています。このようにして教会は天の礼拝に連なる地上の礼拝を営み続け、きょうもこの後も、主が再び来られる時までこれを続けるのです。 そして天上の礼拝の声は言います。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」と。 Wed, 14 Sep 2016 00:10:00 +0000 弱い時にこそ強い(歴代誌下 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160914 no 2016 このとき、イスラエルの人々は屈し、ユダの人々は勝ち誇った。先祖の神、主を頼みとしたからである。 (歴代誌下13章18節) レハブアムの子アビヤが南王国ユダの王となりました。彼は北王国に戦いを挑み、両軍が向かい合ったときに、山の上から敵軍に向かって演説をしました。そして、自分たちこそが正統であることを主張しました。ヤロブアムを反逆者、その家来たちをならず者と決めつけたのです。さらに彼らが金の子牛を拝んでいることや祭司たちを追放したことを非難し、自分たちの信仰こそが正統なのだと主張しました。 ところがアビヤが長々と演説しているうちに、敵軍が伏兵を迂回させたので挟み撃ちにされてしまいます。そこでアビヤと彼に従う者たちが主に助けを叫び求めたところ、奇跡的に敵軍を打ち破ることができたのです。 なぜ、勝利したのでしょうか。その勝利は、彼らの力や、知恵によるのでもありません。また彼らの正しさのゆえでもありません。18節には「主を頼みとしたから」と言われています。本気で神に依り頼んだからこそ、神は彼らを救われました。私たちも、主に依り頼む者でありたいと思います。「わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリ12章10節)。 Tue, 13 Sep 2016 00:10:00 +0000 神に軌道修正を迫られて(歴代誌下 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160913 no 2016 イスラエルの将軍たちは王と共にへりくだって言った。「主は正しい。」主は彼らがへりくだるのを御覧になった。主の言葉がシェマヤに臨んだ。 「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさず、間もなく彼らに救いを与える。」 (歴代誌下12章6節~7節) レハブアム王は神の言葉に従い、戦うことを諦めました。そのために彼は神からの祝福をいただき、力を増し加えられていきました。人間というのは悲しいもので、そうなると今度は驕り高ぶり、神を忘れてしまうのでした。 神は、このレハブアム王の高慢を打ち砕きます。エジプトのシシャクという王が大軍を率いて攻めてきた時に、神は預言者を通して、こうお告げになりました。「あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す」(5節)。するとレハブアム王は自分の愚かさに気づかされ、素直に自分の非を認め、頭を垂れたのでした。 すると神は言われました。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさず、間もなく彼らに救いを与える」。こうしてレハブアム王は、さまざまな過ちを犯しながらも、その都度、神に軌道修正を迫られています。そして、それに素直に聞き従って、少しずつ信仰の成長が与えられていきました。これは私たちの信仰の歩みとも重なります。神は私たちと共におられ、忍耐強く、行く道を導いてくださいます。 Mon, 12 Sep 2016 00:10:00 +0000 主の言葉に従う道(歴代誌下 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160912 no 2016 「『主はこう言われる。上って行くな。あなたたちの兄弟に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのはわたしだ。』」彼らは主の言葉を聞き、ヤロブアムに向かって行くことなく帰って行った。 (歴代誌下11章4節) アブサロムの要求をレハブアム王が拒否してしまったために、とうとう十部族は離反してしまいました。それに動揺したレハブアム王は、兵を召集し、その離反した部族をなんとか取り戻そうと戦いを決意しました。 ところがその途中で神は預言者を通して彼に告げました。「あなたたちの兄弟に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのはわたしだ」と。それを聞いたレハブアム王は、「ヤロブアムに向かって行くことなく帰って行った」と言われています。 これは非常に潔い決断です。一旦決断したことをやめるのは、とても難しいことです。特にレハブアム王の場合は、多くの部族を手放すことになるのですから、なおさらのことでしょう。けれども、このときレハブアム王は、主の言葉、主の御心を受け入れたのでした。 私たちも自分の言葉、自分の願いではなく、主の言葉、主の御心を最優先にしていきたいと思います。そうすれば、主は私たちの道をまっすぐにしてくださいます(箴3章5、6節参照)。 Sun, 11 Sep 2016 00:10:00 +0000 王国の分裂(歴代誌下 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160911 no 2016 王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。 (歴代誌下10章15節) ソロモンの死後、息子レハブアムがイスラエルの王に即位しました。そこへネバトの子ヤロブアムがやって来て、ソロモンがイスラエルの民に課した苛酷な労役を軽くしてくれるよう願い出ました(4節)。レハブアムは、このことでまず長老たちから意見を聞き、そのあと若い側近たちに相談します。長老たちは、申し出を受け入れるように勧めましたが、若者たちは強行手段に出るように勧めます。結局、レハブアムは若者たちの意見を聞き、更に厳しい労役を課すことを告げます。するとイスラエルの人びとは、幻滅して離反していき、ついに王国は分裂してしまうのです。 私たちの人生の選択においても、誰の言葉を聞くかということは、とても大切なことです。十字架の言葉はいつの時代にも愚かなものです。しかし、この言葉を避けてしまうときに、私たちは道を誤ります。 このレハブアムの行為は「神の計らいによる」と語られています。しかし神の計画は、裁きで終わるのではなく、イスラエルが悔い改め、再び神に従う道を歩むようになることでした。 Sat, 10 Sep 2016 00:10:00 +0000 もはや時がない(ヨハネの黙示録 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160910 no 2016 すると、海と地の上に立つのをわたしが見たあの天使が、 右手を天に上げ、 世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。…「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」。 (ヨハネの黙示録10章5節~7節) 9章において第五と第六のラッパが吹き鳴らされ、第七のラッパは11章15節で吹き鳴らされますから、第10章は、その間の出来事を記しています。 ここに、「もう一人の力強い天使」が登場します。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようだと言います。頭の虹は、ノアの箱船の時、神が罪人を滅ぼした後に二度と人を滅ぼさないと約束された印であり、顔は、主イエスの山上の変貌での栄光の輝きに似て、足は出エジプトで民を導いた火の柱を思わせます。天使は被造物であり、主イエスとは異なる存在ですが、この姿から、この天使は神と人間の仲保者となられたキリストを思わせます。 ここで天使は、「もはや時がない」と語ります。いよいよ、神の裁きの時が来るのです。これ以上延ばされることはありません。悔い改めを急ぎ、まだ、福音が届いていない人々に、神の福音を届けなければなりません。 しかし恐れる必要はありません。御言葉はこのことを「良い知らせ」と呼んでいます。それは、この時が救いの完成の時、喜びの時だからです。 Fri, 09 Sep 2016 00:10:00 +0000 まことのさばき(ヨハネの黙示録 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160909 no 2016 第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、…煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。 (ヨハネの黙示録9章1節~3節) 9章で、いよいよ第五のラッパが吹かれると、「一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ」とあります。擬人化された星、これは天から墜ちた御使いであり、サタンです。底なしの淵の穴を開き、災いをもたらすという使命を帯びて来たのです。その災いとは、いなごの災いでした。木を枯らし穀物を食い尽くすいなごは、旧約聖書では破壊の象徴ですが、ここでは、額に神の刻印を押されていない人を襲い、死にたいと願うほどの苦しみを与えるのです。そのいなごの姿ですが、出陣の馬に似て、顔は人間、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようだと言います。これは、いなごが人間に似て人間のような知恵を付けているというよりも、人間がいなご化したと見るべきです。 繁栄と栄光を求める人間の営みは、当時のローマ人の姿であり、その営みは、相手を食い尽くし、傷つけ合い、互いに苦しむ結果を産み出します。こうした繁栄と栄光の追求がもたらす苦痛を通して、神はそうした追求の空しさを示し、悔い改めを求めておられるのです。 Thu, 08 Sep 2016 00:10:00 +0000 災いの到来(ヨハネの黙示録 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160908 no 2016 さて、七つのラッパを持っている七人の天使たちが、ラッパを吹く用意をした。 また、見ていると、1羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」 (ヨハネの黙示録8章6節、13節) 七つの封印のうち、今までに六つの封印が開かれましたが、それは罪を犯した人間の罪に起因する災いでした。侵略戦争、経済的搾取などです。人間はこうした罪を犯し、神に背いて破滅の道を歩んできました。ここに、いよいよ第七の封印が解かれ、神の裁きが示されます(8、9章)。 今や、7人の御使いがラッパを吹く用意をして立っています。第一のラッパが吹き鳴らされると、大地が大きく損なわれ、第二のラッパが吹き鳴らされると、海の水が損なわれ、第三のラッパが吹き鳴らされると、川の水が損なわれ、そして更に、第四のラッパが吹き鳴らされると、太陽と月と星の光が3分の1失われ、こうして、地上の生物の生命活動は、維持困難に陥ります。 今、地球の温暖化や原子力発電の事故、地球環境の問題などに直面しています。これらの地球規模の災いは、御心に従い被造の世界を治めるべき人間が、自らを過信して自分勝手な営みに突き進んだ罪の結果です。私たちは神がお造りになったこの世界を大切にして歩んでいきます。 Wed, 07 Sep 2016 00:10:00 +0000 神の知恵を求め続けよう(歴代誌下 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160907 no 2016 ソロモンは、エルサレムで40年間全イスラエルを治めた。ソロモンは先祖と共に眠りにつき、父ダビデの町に葬られ、その子レハブアムがソロモンに代わって王となった。 (歴代誌下9章30節~31節) 父ダビデの後を継いでイスラエルの王として立てられたソロモンは、40年の治世の後、天に召されました。くしくもその在位年数は父ダビデ王と同じでした。 ソロモン王の名声はイスラエル国内にとどまらず、周辺の国々にも響き渡っていました。シェバの女王の来訪の記事はそのことを示しています。 しかし、神から豊かな知恵を与えられ偉大な働きをなしたソロモンでしたが、その生涯のすべてが称賛に値するかといえば、そうではありませんでした。歴代誌の著者はそのことを直接的に記してはいませんが、後半生のソロモンは、純粋に主なる神に知恵と識見を願っていた頃の彼ではなくなってしまいました。そのときの彼には、もはや知恵と識見は失われていたのでしょう。 ソロモンから教えられることは、私たちは生涯において神の知恵を求め続ける必要があるということです。神の知恵とは「キリスト」(1コリ1章30節)です。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロ2章3節)と聖書にあります。自分の愚かさを知り、主の前に絶えず身を屈め続けます。 Tue, 06 Sep 2016 00:10:00 +0000 まことの繁栄(歴代誌下 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160906 no 2016 そのころソロモンは、前廊の前に築いた主の祭壇の上で、焼き尽くす献げ物を主にささげた。安息日、新月祭、および、年に三度の祝祭日、除酵祭、七週祭、仮庵祭に関してモーセが命じたように、日ごとの定めに従って献げ物をささげた。 (歴代誌下8章12節~13節) この章は、神殿建築に7年、王宮建築に13年、合わせて20年にわたる巨大な建設事業を行った後のソロモン王の主な業績を伝えています。ソロモン治世下のイスラエルの繁栄ぶりがうかがえる内容です。 ソロモン王は周辺の町々を次々に再建、攻略し、各地に軍事拠点を整備して軍事力を強化していきます。その力を背景に、ソロモン時代のイスラエルの版図は、北はユーフラテス川、南はエジプトとの国境にまで及びました。 同時にソロモン王は、神礼拝が適切に行われるように心を配りました。彼自身がエルサレム神殿で安息日や除酵祭などの祝祭日に定められた献げ物をささげるとともに、神殿に仕える祭司とレビ人にそれぞれの務めをよく果たすように命じました。ここにソロモン時代の繁栄の一つの理由があります。 まことの繁栄はまことの神を畏れ敬うことなしにはありえません。 しかし、老境に入ったソロモンはそのことを忘れてしまったかのように偶像礼拝に走ります。そして、それがイスラエルの繁栄が失われる理由になったのです。 Mon, 05 Sep 2016 00:10:00 +0000 晴れやかな心で(歴代誌下 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160905 no 2016 第七の月の23日に王は民を自分たちの天幕に帰らせた。彼らは、主がダビデとソロモンとその民イスラエルになさった恵みの御業を喜び祝い、心は晴れやかであった。 (歴代誌下7章10節) 神殿奉献の祭りとそれに続く仮庵の祭りを通して、イスラエルの人びとは2週間にわたって豊かな恵みの時を過ごしました。そして祭りが終わり、「レボ・ハマトからエジプトの川に至るまで」(8節)の広範囲な地域からエルサレムに集まった彼らは、皆晴れやかな心で家路につきます。 祭りの期間中、完成したばかりのエルサレム神殿の荘厳な姿は彼らの目を、楽しませました。レビ人たちの奏でる美しい賛美の調べは彼らの耳を、そしていけにえとしてささげられた牛や羊の献げ物は、エルサレムに集った彼らの舌を喜びで満たしたことでしょう。そして何よりも、まことの神が御自身を現され、そのまことの神が彼らを愛してくださり、彼らに豊かな恵みを与えてくださるということが、彼らの心を大きな喜びで満たしました。 神の臨在の恵みは、すべての時代、神の民に喜びと祝福を与えてくださいます。私たちも晴れやかな心できょうという一日を過ごしましょう。私たちに与えられている神の臨在の豊かな恵みを感じつつ、そしてそれを喜び祝いながら。 Sun, 04 Sep 2016 00:10:00 +0000 約束を実現される神(歴代誌下 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160904 no 2016 「主は約束なさったことを実現された。主が約束なさったとおり、わたしは父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座につき、イスラエルの神、主の御名のためにこの神殿を建てた。」 (歴代誌下6章10節) 主の契約の箱が運び込まれたエルサレム神殿に、主の臨在を表す雲が満ちています。その様子はかつてイスラエルの偉大な指導者モーセが契約の板を授けられた、あのシナイ山での出来事を彷彿させる出来事でした。 ここでソロモンは、イスラエルの全会衆を前にして神殿建築の経緯について語っています。注目したいのは、神殿建築が主なる神の約束の実現であるとの告白です。ソロモンは神殿建築の事業を自らの権力を誇るための功績とは考えていませんでした。それは父であるダビデ王に約束してくださった主の恵みの御業であって、そのために自分が用いられていることを喜んでいました。だからこそソロモンは主を心からほめたたえ、祈りをささげたのでした。 この神殿をとおして、神は約束どおり臨在してくださいました。主なる神は約束なさったことを必ず実現されるお方です。そしてそのお方は、主イエスを信じるすべての人に永遠の命を約束してくださいました。私たちのきょうの歩みが、主への感謝と賛美に満ちた一日になりますように。 Sat, 03 Sep 2016 00:10:00 +0000 目から涙をぬぐわれて(ヨハネの黙示録 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160903 no 2016 「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、 昼も夜もその神殿で神に仕える。 …玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、 命の水の泉へ導き、 神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。」 (ヨハネの黙示録7章15節~17節) ヨハネは招かれ、摂理に基づいて今後起こるべき出来事を垣間見ました。6章では、神と小羊の怒りという激しい嵐の始まりが示されました。嵐と言えば、黙示録全体が嵐の描写です。そうした厳しい終末的嵐の到来の前に、一人の天使が現れ、嵐を押さえ、神の僕たちの額に刻印を押し続けていきました。これは出エジプトの時、屠った羊の血を家の鴨居に塗って主の災いを通り過ぎさせた印と同じです。裁きの災いから神の僕たちを守ろうとしておられるのです。そればかりではありません。 場面は一転し、刻印を押された神の民の姿が映し出されます。あらゆる国民から選び出された、過去・現在・未来の神の民です。地上の世界では、キリスト者に迫害と殉教の苦難の日々がなお続きますが、小羊であるキリストが直接、彼らの牧者となり、彼らの目の涙をぬぐい取ってくださいます。何と大きな恵みでしょうか。この地上で報われることがなくとも、牧者であるキリストはすべてを見ていてくださいます。苦難の中で流す涙をその手でぬぐい取ってくださいます。苦難は、無駄にはなりません。 Fri, 02 Sep 2016 00:10:00 +0000 怒りの大いなる日が来た(ヨハネの黙示録 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160902 no 2016 また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。…神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。 (ヨハネの黙示録6章12節~17節) 七つの封印で固く封じられていた巻物が、次々に小羊、すなわちキリストによって解かれ、これから起こるべきことが明らかにされていきました。それは、最後の日に至るまでの間に引き起こされる、悲惨な災いの連続でした。罪ある人間が起こしていく災いの歴史が示されたのです。武力による内乱・侵略戦争、食料・経済危機、その結果としての多くの民の死。こうした中で、神に従って生きた殉教者たちの魂が神の義を求めて叫びます。しかし、神はもう暫く待つようにと答えます。人間にとっての最後の悔い改めの時が、なお残されています。しかしやがて大地震が起き、天地の様が変わり果てる終わりの時の様子が示されます。それは、山と岩が自分の上に崩れ落ちて死ぬ方が、神と小羊の怒りで裁かれるよりもまだマシだと思うほどだと言うのです。 終わりの日は必ず来ます。しかしキリストはすべての人が悔い改めて神の下に立ち帰るのを願って、待っておられます。誰一人滅びることを願っておられません。終わりの日が来る前に、真実、神の下に立ち帰りましょう。 Thu, 01 Sep 2016 00:10:00 +0000 巻物を受け取る小羊(ヨハネの黙示録 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160901 no 2016 わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。 (ヨハネの黙示録5章6節~7節) 神の右の御手に巻物、黙示録がありました。この巻物には、神の摂理によるこれから起こる出来事が記されていましたが、封印されていました。御使いの一人が、「封印を解いて、この巻物を開く」、即ち神の御心・摂理の展開を明らかにする者はいないかと問いましたが、だれもいません。そこでヨハネは激しく泣きます。もしだれもいなかったなら、ただ決定的な滅びが来るだけです。賛美の歌は消え去り、悲しみの歌だけとなるからです。 ところがある長老が、泣くなと言いつつ、見よ、と指し示します。見ると、屠られて死んだような跡があるのに生きている小羊、即ち復活された主イエスが立っておられました。屠られた小羊である主イエスは玉座に座っておられる神から、この巻物を受け取られました。だれも封印を解くこと、開くことのできない巻物に、主イエス御自身が近づいてそれを受け取り、やがて開いてくださいます。屠られたような小羊、主イエスが、御言葉の書の封印を解き、活ける命の言葉から、来るべき神の最終的勝利を示してくださいます。 Wed, 31 Aug 2016 00:10:00 +0000 神が共におられる喜び(歴代誌下 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160831 no 2016 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。 (歴代誌下5章2節) 主の神殿のために行われてきた仕事がすべて完了しました。神殿建築に着手してから7年目の第7の月(現在の暦では9月から10月)、奉献式が行われました。 セレモニーの中心は2枚の石の板が納められている契約の箱を神殿に運び入れることでした。契約の箱は主の臨在の象徴であり、それが神殿に安置されることは神殿に神がおられることの証しとなるからです。 神殿建築の事業を推し進めてきたソロモン王は、契約の箱の前でイスラエルの全共同体と共に、いけにえとして羊や牛をささげます。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできないほどでした。 そして祭司たちによって契約の箱は至聖所へと運び込まれ、ケルビムの翼の下に安置されます。その後、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に詠唱者による主への賛美の声が響き渡る中、主の臨在を表す雲が神殿に満ちていきます。 ここには神が共におられることの喜びがあふれていて、何度読んでもわくわくさせられます。そして同じ喜びで私たちも共に満たされたいと心から願います。 Tue, 30 Aug 2016 00:10:00 +0000 先人の祈りと献げ物によって(歴代誌下 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160830 no 2016 ソロモンはこれらすべての祭具を作ったが、それはあまりにも多く、その青銅の重さは量ることもできないほどであった。 (歴代誌下4章18節) 歴代誌下4章には、神殿で使用されるさまざまな祭具について記述されています。モーセの時代の臨在の幕屋における祭具と比較すると、より大きくなり、重厚さが増しているのがわかります。神殿自体が幕屋より大きく重厚な造りですから、そこで使用される祭具類も当然そうなります。そして、必要な資材の量も増えます。 膨大な量の建築資材をソロモンはどのように調達したのでしょうか。それは先代のダビデ王の時代に準備されました。歴代誌上29章には、ダビデ王自身が準備していたものに加え、イスラエルの諸部族の長なども多くささげたことが記されています。ソロモンは父の代の遺産と思いを受け継いで神殿建築を成し遂げたわけです。 きょうの個所を読んだ後、わたしは遣わされている教会の会堂に入り、会堂全体を眺めてみました。築20年を過ぎたこの会堂は、先々代の井原牧師のときに計画が立てられ、先代の根来牧師のときに完成したものです。すでに天に召された方々を含めて、多くの先人たちの祈りと献げ物がここにあることを改めて気づかされました。 Mon, 29 Aug 2016 00:10:00 +0000 主が求めておられる礼拝(歴代誌下 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160829 no 2016 ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。 (歴代誌下3章1節) ソロモン王の治世第4年の第二の月の2日、かねてより準備が進められてきた神殿の建築がいよいよ始まりました。選ばれたのはエルサレムのモリヤ山でした。 ここは、ダビデが人口調査を行ったことによって、疫病がイスラエルに猛威を振るい、7万人もの死者が出たとき、主のための祭壇が築かれ、献げ物がささげられたところでした。ダビデ王は、主が先見者ガドを通して命じられるままに、麦打ち場があったこの土地をエブス人から買い取り、祭壇を築いて焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、それによって疫病は終息したのでした(サム下24章)。 ここはまた、アブラハムが約束の子イサクを主の命令どおりに焼き尽くす献げ物としてささげようとした場所でもあります。 モリヤにまつわるこれらの出来事は、これから建てられる神殿でささげられる礼拝について暗示していました。それはまことの信仰とそれに基づく献げ物によってなされる礼拝です。そして、それは私たちが主日毎にささげる礼拝においても求められていることです。 Sun, 28 Aug 2016 00:10:00 +0000 この小さなわたしにも(歴代誌下 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160828 no 2016 「しかし、この方のために神殿を建てる力が誰にありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくためのものでしかありません。」 (歴代誌下2章5節) 人間は、まことの神の存在を意識するとき、自分自身の存在の卑しさ・小ささを痛感させられます。永遠の神からご覧になれば人間の一生はほんの一瞬に過ぎず、全能の神の御力に比べれば人間の力など無に等しい。神殿建築を進めようとしていたソロモン王も同じ思いを抱いていたに違いありません。 聖書は創造主なる神と被造物との間に決して乗り越えることのできない厳然とした違いがあることを教えます。「この方のために神殿を建てる力が誰にありましょうか」というソロモンの告白は真実であり、天も、天の天も、まことの神をお納めするには全く不十分というほかはありません。 しかし、いかに幸いなことでしょう、それでも永遠にして全能なる神はこの小さなわたしの前に現れてくださるのです。私たちが霊と真理とをもって礼拝をささげるとき、主は確かにそこに臨在されます。そして御言葉を通して語ってくださり、祈りと賛美と献げ物を受け取ってくださいます。それはただ、神の愛と憐れみによるものです。 Sat, 27 Aug 2016 00:10:00 +0000 天上の礼拝における24人の長老(ヨハネの黙示録 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160827 no 2016 すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。…また、玉座の周りに24の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていた。 (ヨハネの黙示録4章2節~4節) この章で、ヨハネは天に開かれた門があるのを示され、上って来て、今後起こることを見るようにと促されます。これは単なる将来の姿ではなく、摂理の内に歴史を導く神の御業の結果を見るようにとの促しです。霊に満たされて、ヨハネが真っ先に見たのが、天上の礼拝の場所であり、そこにおける礼拝でした。 ヨハネは一つの御座が天にあり、その御座に着いている方(至高の神)を見ます。黙示として示された神の姿は、幻のようですが、周りの状況はビジュアルに示されており、白い衣を着て頭に金の冠をかぶった24人の長老を見ます。24人の長老とは、神に選ばれた民イスラエルの12部族と、十二使徒によって作られた「新しいイスラエル」である教会を意味します。つまりアブラハムに約束された神の民と、イエス・キリストの教会が一緒になって、神にお仕えしているのです。 ユダヤ人の迫害も受けていた七つの教会では、礼拝の時にこの御言葉も朗読されたでしょう。この困難な時もやがて過ぎ行き、旧約・新約時代の真の信仰者が、共に礼拝する時が来る、とどれほど励まされたことでしょうか。 Fri, 26 Aug 2016 00:10:00 +0000 主を食卓へ迎える者に(ヨハネの黙示録 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160826 no 2016 『「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」』 (ヨハネの黙示録3章20節) 2章と3章には、アジア州にある七つの教会に宛てたメッセージが記されていますが、本日はラオディキアにある教会に着目します。 ラオディキアの町は金融と毛織物業が盛んで、繁栄していました。この豊かな町の雰囲気が、教会の中にも深く浸透していたのでしょう。この教会は、昨日のスミルナにある教会とは正反対で、何一つ褒められず、厳しい叱責を受けています。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)とまで言われています。神を信じつつも、豊かさ故に、この世の富に信頼し、神に頼らなくとも生きていけると考えて、神を必要としていなかったのでしょう。 主はこの教会を「口から吐き出そう(関係を絶つ)」とまで言われました。しかし主は、この教会をまだ見捨てられません。この教会の人びとが心の扉を開くまで、主自らがたたき続けられたのです。早く開けなさい、共に食事をしようとのお誘いです。今も主は、私たちの心の扉をたたいておられます。主を受け入れ、食卓に迎える者は誰でしょうか。 Thu, 25 Aug 2016 00:10:00 +0000 死に至るまで忠実であれ(ヨハネの黙示録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160825 no 2016 『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。…死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」』 (ヨハネの黙示録2章8節~10節) 第1章では、迫害にある教会のただ中に立つ主イエスの顕現が語られていましたが、2章と3章には、その七つの教会に宛てて書き送れと託されたメッセージが記されています。ここでは、スミルナにある教会に、目を留めます。 一世紀末のスミルナの町は、立地条件に恵まれた港湾都市として、アジア州の中でも大都市として栄えていました。しかしスミルナの教会は、奴隷などの信徒が多く、ひどい貧しさに苦しんでいました。 しかし、スミルナの教会の信徒は、主イエスが「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」とおっしゃったほどに、真実の信仰生活を送っていました。一言の叱責も悔い改めの要求もありません。スミルナの教会は、この時代、迫害の迫る中で、真実の信仰に生きた教会だったのです。そのスミルナの教会に、主イエスが語ります。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」。この「命」には定冠詞が付いており、文脈から永遠の命を意味します。死に至るまで忠実であること。信仰に生きる私たちにも、大切な課題です。 Wed, 24 Aug 2016 00:10:00 +0000 何事でも願うがよい、あなたに与えよう(歴代誌下 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160824 no 2016 その夜、神はソロモンに現れて言われた。「何事でも願うがよい、あなたに与えよう。」 (歴代誌下1章7節) 父ダビデに次いで王として即位したソロモンは、ギブオンでイスラエルの全会衆と共に感謝の礼拝をささげます。かつてモーセが造った神の臨在の幕屋がある特別な場所での、1千頭もの焼き尽くす献げ物がささげられるという盛大な礼拝でした。 その夜、神はソロモンに現れて言われました。「何事でも願うがよい、あなたに与えよう」。そのときソロモンが願ったのは、富や財宝や名誉などではなく、王として民をよく導くための知恵と識見でした。御心に沿うこの願いを主は喜ばれ、もともとの願いである知恵と識見に加え、富と財宝と名誉をもソロモンに与えられました。 聖書の語るまことの神は、私たちの願いを聞き、それを実現してくださるお方です。イエス・キリストは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とはっきりと言われました(ヨハ14章13節)。 私たちも知恵と識見を祈り求めたいと思います。イエス・キリストという知恵、すべてをこの真の裁き主にお任せする、という識見です。その中で、きょうも主への願いを注ぎ出してみましょう。 Tue, 23 Aug 2016 00:10:00 +0000 ダビデの祈り(歴代誌上 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160823 no 2016 「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」 (歴代誌上29章13節~14節) 神殿建築の準備を終えたダビデは、全会衆の前で祈ります。それは、彼の心からあふれ出て来た祈りです。 まず神への賛美が出て来ました。「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します」。その後に続いたのは、驚くべき告白です。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」。 ダビデは、多くのことを成し遂げたにもかかわらず、自分は何も成しえていない者として、神への賛美と感謝に満たされています。確かに信仰によって確認するなら、その通りでしょう。しかし、それをそのままに知ることができるのは、神の恵みです。神殿建築の準備を通して、ダビデは、さらに、その心に多くの富を得たように見えます。 神を知れば知るほどに、自分の貧しさを知る者として、神を仰ぎ続けます。「この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」(15節)。望みは神にあります。 Mon, 22 Aug 2016 00:10:00 +0000 勇気をもって行え(歴代誌上 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160822 no 2016 「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。…今、よく考えよ、主は聖所とすべき家を建てるためにあなたを選ばれた。勇気をもって行え。」 (歴代誌上28章9節~10節) ダビデは、神殿建築を託したソロモンに対して、「今、よく考えよ」と勧めます。それは、人のことではなく、神のことをよく考えよということです。「主は聖所とすべき家を建てるためにあなたを選ばれた」。 主なる神が神殿を建てるために、ソロモンを選ばれたのです。ですから、大切なのは、神殿建築の事業に向き合う前に、神に向き合うことです。すべてのことが神から出て、神によって成し遂げられます。これから先、順調に進もうが、いろいろと悩み苦しもうが、神と心を一つにすることに、事業の成否がかかっています。 そうして、もう一つの勧めが続きます。「勇気をもって行え」。ダビデの準備は行き届いたものでした。神も必ず助けてくださいます。しかし、肝心のソロモンが勇気をもって神を信じなくてはなりません。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである」(20節)。 Sun, 21 Aug 2016 00:10:00 +0000 こぞって主を賛美せよ(詩編 150編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160821 no 2016 息あるものはこぞって 主を賛美せよ。 ハレルヤ。 (詩編150編6節) 150編は詩編全体の結びにふさわしく、圧倒的な迫力で「主を賛美せよ」と私たちに迫ります。主こそ唯一の賛美されるべきお方であり、息あるものはこぞって主を賛美するよう呼びかけられています。 「聖所で」、「大空の砦で」賛美せよ、と呼びかけ(1節)、「力強い御業のゆえに」、「大きな御力のゆえに」と賛美の根拠を挙げています(2節)。まことに主は力ある創造主であり、万物の保持者です。イスラエルを力強い御業によって救われた救い主であり、あらゆる楽器によって賛美されるにふさわしいお方です(3~5節)。 詩人は最後に「息あるものはこぞって主を賛美せよ」と、主に命を与えられたものすべてに賛美を呼びかけます。私たちの創造主、救い主、主なる神は、その御業と御力のゆえに、あらゆるものから賛美を受けるにふさわしいお方です。 主の日に同じ信仰をもつ兄弟姉妹と共に、聖所でこの主を賛美できる私たちは何と幸いでしょう。この特権と恵みを覚え、感謝し、心からの賛美を主にささげようではありませんか。 Sat, 20 Aug 2016 00:10:00 +0000 主イエスは我らのただ中に(ヨハネの黙示録 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160820 no 2016 ある主の日のこと、…後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。 (ヨハネの黙示録1章10節、12節~13節) ヨハネの黙示録は、一世紀末、キリストからヨハネに与えられた啓示(「黙示」という言葉は「啓示」とも訳せる)です。激しい迫害下にあったアジアにある七つの教会へ、この啓示が書き送られました。今、降り注ぐ迫害は厳しいけれども、やがて終わり、キリストが最後の勝利を得てくださるという、希望の信仰に堅く立つことを勧める書です。 ヨハネは、礼拝をささげているとき、七つの教会を表す燭台と、その明かりを灯された方、主イエス・キリストが、燭台の真ん中に立っておられるのを見ました。主は、足まで届く衣を着て胸高に帯を締めた大祭司の服装をしておられました。 主イエスは、サウロが主の弟子たちを殺そうと追う中、彼に「なぜ、わたしを迫害するのか」と問い、弟子への迫害を自分の事として受け止めてくださいました。黙示録では、大祭司の装いで教会のただ中に立ち、苦しむ人びとと共に居てくださるお姿に、ヨハネや七つの教会の人びとは、どれほど励まされ、希望を与えられたかと思います。その主が、今、さまざまな困難に喘ぐ私たちのただ中にも居てくださるのです。 Fri, 19 Aug 2016 00:10:00 +0000 神との和解から人との和解へ(フィレモンへの手紙 ) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160819 no 2016 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。 (フィレモンへの手紙17節~18節) オネシモのように逃げた奴隷は、当時のギリシア・ローマの社会の中で、誰からも庇護を受けられませんでした。オネシモは本当に困りました。逃げたことで非常に傷つきやすくて、脆い人間になりました。実は、主人のフィレモンがオネシモを見つけたら、彼を殺す権利を持っていました。ですからパウロもこの命に関する問題に関わりました。 奴隷オネシモは、使徒パウロの良い影響でイエス・キリストに出会って、回心していました。パウロは彼の協力者フィレモンに、オネシモをただの逃亡者としてではなく、キリストにある兄弟として新しく見なした上で、改めて受け入れるように、手紙を書いています。 パウロは、「神は、キリストを通して、わたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けにな」ったと語ります(2コリ5章18節)。神との和解は、キリスト者を人との和解の奉仕へと誘います。神は和解の言葉を私たちにゆだねられたのですから、私たちは、そのメッセージを実践し、世に伝え、世に和解をもたらしましょう。 Thu, 18 Aug 2016 00:10:00 +0000 教会の一致(フィリピの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160818 no 2016 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 (フィリピの信徒への手紙4章1節~2節) 当時フィリピの教会にはエボディアとシンティケを中心に葛藤が起こっていました。パウロはこの二人の婦人を支えてくれるよう願います。福音のためにパウロと共に戦ってくれた婦人だったからです。おそらく、この二人はパウロを助けて、最初のころから熱心に教会に仕えたのでしょう。そのような二人が今、互いに争う関係になりました。 この問題を解決するためにパウロはこの二人に「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。「主において同じ思い」とは何を意味するのでしょうか。パウロはフィリピの信徒への手紙2章2節で同じ思いについて教えています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。 抱くべき同じ思いとはイエス・キリストの心です。キリストを模範とし、キリストに倣ってキリストのような心を抱くことによって教会が一致します。へりくだって互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことに注意を払うことによって一つになることができるのです。 Wed, 17 Aug 2016 00:10:00 +0000 第一の秩序(歴代誌上 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160817 no 2016 イスラエルの子らの数は次のとおりである。家系の長、千人隊と百人隊の長、役人たちは、王に仕えて、一年中どの月も、月ごとに交替する各組のあらゆる事柄に当たった。1組に2万4千人いた。 (歴代誌上27章1節) ダビデの時代、イスラエルの秩序はとてもよく整えられました。指導者として「家系の長、千人隊と百人隊の長、役人たち」が立てられました。また、彼らは王に仕えて、その職務を担いました。さらに、その指導者の下に、12の組分けがなされ、2万4千人ずつが割り当てられました。さらに、その12の組は、月ごとに責任を分担して担い、無理のない仕方で働きに従事したように見えます。 主の恵みによって、ダビデ王の下で、イスラエルは指揮力が整えられ、さまざまな課題に応じることができるようになりました。 しかし、ダビデは整った指揮力に依り頼むことはありません。なぜならダビデは神を畏れ、神に信頼する者だったからです。やはり、頼むべき御方は神のみです。「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。…その御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる」(29章12節)。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない」(詩33編16節)。神と心を一つにすること、これこそすべてに先立つ第一の秩序です。 Tue, 16 Aug 2016 00:10:00 +0000 門衛の勇気(歴代誌上 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160816 no 2016 彼らは皆オベド・エドムの子らで、彼らとその息子たち、兄弟たちと共に奉仕にふさわしい力を持つ勇者たちであった。…メシェレムヤには、息子と兄弟が併せて18人いた。皆、勇者であった。 (歴代誌上26章8節~9節) この章で取り上げられる門衛の主な任務は、聖別されたものの保管でした(20、22、26、28節参照)。時代が下って、歴代誌下23章では、門衛は神殿の門を守って、ふさわしくない者たちや侵入者が入って来ないようにします。「主の神殿の門に門衛を立て、いかなる汚れであれ、汚れのある者は入れないようにした」とある通りです(代下23章19節)。神殿には聖なるものが保管されているからです。 門衛の組分けにおいては、指導者として立てられた者たちが特に「勇者であった」ことが語られます。門衛は、ふさわしくないものを見分けます。そして、侵入しようとする相手がどのようなものであろうとも、断固として拒む勇気が必要です。 このような門衛の勇気は、私たちが自分の心を守るときにも必要なものです。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」(箴4章23節)。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリ3章16節)。 Mon, 15 Aug 2016 00:10:00 +0000 平和を実現する人々(マタイによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160815 no 2016 義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイによる福音書5章6節~9節) 主イエスは、御言葉を聞こうと集まってきた人々を前に山上で説教をされました。よく知られた「山上の垂訓」です。「平和を実現する人々は、幸いである…」という御言葉は、第二次世界大戦後の平和主義運動に大きな励ましと力と希望とを与え続けてきました。 この御言葉を、「戦争によって平和を実現せよ」というメッセージに読み替えようとする人は、さすがにいないでしょう。前後の文脈はそのような理解を許しません。「8月15日」に終止符を打ったあの戦争は、その破壊と殺戮の凄まじさにおいて、確かに、主イエスの指し示す平和とは対極に位置するものでした。 主イエスの歩んだ十字架への道は、私たちすべてを神ご自身の和解と平和のうちに入れるためのものでした。その業の成就によって、私たちは御子の命を代価に「身請け」していただくことができたのです。それは、とてつもなく「高価な恵み」です。 この恵みを受けた私たちキリスト者は、今、日本で、平和を実現する働きへと召されています。なぜなら、私たちは「神の子」と呼ばれる者たちなのですから。 Sun, 14 Aug 2016 00:10:00 +0000 主の慈しみに生きる人(詩編 149編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160814 no 2016 主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。 主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み 伏していても喜びの声をあげる。 (詩編149編4節~5節) 詩人は冒頭で、主の慈しみに生きる人の集いで新しい賛美の歌を歌え、と主の民に呼びかけます。この詩編全体で「主の慈しみに生きる人」という表現が3回出てきます。この語は「聖徒」とも訳され、主との契約の慈しみに信頼し、献身と愛をもって応答している人を指します。 主は一方的にイスラエルの民を救われ、彼らに救い主としてご自身を啓示され、彼らと契約を結ばれました。そして主は民の歴史の中で、その契約に基づく慈しみを示してこられました。主は人格的な神ですから、この慈しみは抽象的ではなく具体的です。預言者たちの言葉によって民を命の道へ導かれ養われました。彼らが契約を破ったときには「立ち帰れ」と呼ばれ、また悔い改めるとき喜んで受け入れられました。この主の不変の慈しみこそ、民の信仰の確信の根拠でした。 この主の慈しみに信頼し、献身と愛をもって応答する人はまことに幸いです。「御自分の民」、「貧しい人」(4節)は「主の慈しみに生きる人」を指していると思われます。そのような人は主の栄光の輝き、勇気、また喜びと賛美の心を与えられるのです。 Sat, 13 Aug 2016 00:10:00 +0000 誇るべきもの(フィリピの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160813 no 2016 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。 (フィリピの信徒への手紙3章7節~8節) かつてパウロは、律法に関してはファリサイ派の一員、その熱心は教会を迫害するほどで、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、パウロはダマスコの途上で主イエスに出会った後、有利であったこれらのことをキリストのゆえに損失と思うようになりました。イエス・キリストを知る知識が最も尊いということを知ったからです。 キリストを知るというのは、主イエスの死と復活を知ることです。神は、パウロが律法を完璧に守ったからではなく、イエス・キリストを信じる信仰により、恵みによって彼を「義」と認められました。パウロは自分を「義」としてくださるキリストを得るために、キリストの内にいる者と認められるために、すべてのものを無価値なもの、損失とさえ思いました。 パウロが誇ろうとしているものは、キリストへの信仰による「義」、信仰に基づいて神から与えられる「義」です。私たちの中に信仰に基づいて神から与えられた「義」があることを知るならば、かつて有利であったものが損失に思えるはずです。主イエスを知る知識のみを誇りましょう。 Fri, 12 Aug 2016 00:10:00 +0000 確かな人(フィリピの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160812 no 2016 テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。 (フィリピの信徒への手紙2章22節) パウロには同労者がたくさんいました。その中で代表的な人物がテモテです。投獄されたパウロは、フィリピの教会を心配し、様子を知るためにテモテを遣わそうとしています。 テモテはパウロと同じ思いを抱いて、親身になってフィリピの教会のことを心にかけている人でした。テモテは自分のことよりもイエス・キリストのことを追い求める人です。そして、息子が父に仕えるように、パウロと共に福音に仕えていました。このようなテモテの働きは、パウロだけでなく、フィリピの教会も認めるところです。 パウロはテモテのすべての働きを一言で称賛し、推薦します。それは「確かな人物」であるという言葉です。この言葉は、彼の確かさが試みを通して証明された、試みを通してテモテが認められたという意味です。パウロは試みの中にあったテモテを応援し、確かな人となるようにと祈ったに違いありません。 私たちが試みを受けるとき、主イエスは試みを乗り越えて、確かな人となるように助けてくださいます。試みを通して、私たちはさらに成長し、確かな人となるのです。 Thu, 11 Aug 2016 00:10:00 +0000 心に留めている(フィリピの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160811 no 2016 というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 (フィリピの信徒への手紙1章7節~8節) どのようなことでも互いに覚えて祈り合い、すべて分かち合える人がいるのは、実に幸せなことです。また大変な状況に置かれている人びとのことを覚えて祈るときもあります。 けれども、私たちは相手のことをどれほど思っているでしょうか。パウロはあなたがたのことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めていると語ります。フィリピの教会は、最初の日からパウロと共に、福音のための働きにあずかってきた教会です(5節、4章15節)。主イエス・キリストの福音を伝える働きを共にしてきた同労者であり、主にあって同じ信仰を持っている兄弟姉妹であることを強調しています。このように、パウロは、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めていつも祈っています。その祈りには、キリスト・イエスの愛の心が伴っています(8節)。フィリピの信徒たちのために、いつも喜びをもって祈っています(4節)。 私たちもパウロのように主にある兄弟姉妹のことを心に留めて祈りましょう。キリスト・イエスの愛の心で、主の恵みに共にあずかる者と思って心に留めましょう。 Wed, 10 Aug 2016 00:10:00 +0000 賛美の奉仕(歴代誌上 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160810 no 2016 ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した。 彼らは年少者も年長者も、熟練した者も初心者も区別なく、くじによって務めの順番を決めた。 (歴代誌上25章1節、8節) 神殿における賛美は、そこに集まる人びとの自発的な奉仕以上のものでした。それは、職務として準備されました。「ダビデと将軍たちはアサフ、ヘマン、エドトンの子らを選び分けて、奉仕の務めに就かせた。彼らは竪琴、琴、シンバルを奏でながら預言した」。責任をもって主を賛美する者たちがいました。その総勢は4千人であり、288人の指導者に導かれて、24の組に分かれていました。主への賛美は、主の民にとって、無くてならないものです。賛美は、主を賛美したいから主をほめたたえるという以上に、民に求められ、命じられていることです。「イスラエルの神、主をたたえよ、世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。主を賛美せよ」(16章36節)。 しかし、この奉仕を担った者たちは、最初からすぐれた者である必要はありませんでした。他の奉仕とは違って、年齢や能力によらず、この奉仕に選ばれたことこそが重要でした。「彼らは年少者も年長者も、熟練した者も初心者も区別なく、くじによって務めの順番を決めた」。私たちもこの奉仕に召された者です。 Tue, 09 Aug 2016 00:10:00 +0000 主の御心をたずねて(歴代誌上 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160809 no 2016 エルアザルの子らにもイタマルの子らにも聖所の長と神の長がいたので、彼らはくじによって組に分けられた。 (歴代誌上24章5節) ダビデは、祭司職の組分けを行いました。この奉仕は、「アロンの子ら」に割り当てられていました。それが主の定められたことです。 「アロンの子ら」は、エルアザルとイタマルです。彼らがアロンの祭司職を引き継ぎました。さらに、彼らの子孫が、祭司職を引き継ぐべき者たちです。その子孫の数などを考慮して、両者の家系に従って、24の組分けを行いました。「家系の長の数はエルアザルの子らの方がイタマルの子らより多いことが分かったので、エルアザルの子らは16人の家系の長に従って、イタマルの子らは8人の家系の長に従って組に分けた」(4節)。主の御言葉に従って、ここまでの組分けが行われました。その上で、さらに細かい組分けのために、くじが引かれました(5節)。くじは、結果を偶然に任せるためではなく、人の思いを退け、神の御心だけを求める手段として、この時代に用いられたものです。 主の御言葉が明瞭に教えるところまで忠実に進んだ上で、主の御心がたずね求められたのです。「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる」(箴16章33節)。 Mon, 08 Aug 2016 00:10:00 +0000 最も賢い選択(歴代誌上 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160808 no 2016 ダビデはレビ人をレビの子ゲルション、ケハト、メラリの組に分けた。 (歴代誌上23章6節) ダビデは、神によって、自分の計画を変更させられました。しかし、それによって、まず大切な事柄に力を注ぐことへと導かれたように見えます。彼はレビ人の状況を調べました。「30歳以上のレビ人を数えたところ、その男子の数は、3万8千人であった」(3節)。そして、彼らの務めを定め、「2万4千人は主の神殿における務めを指揮する者に、6千人は役人と裁判官に、4千人は門衛に、4千人は、ダビデが賛美するために作った楽器を奏でて、主を賛美する者になった」(4、5節)。 建物を建てる前に、働き人を整えることが先になりました。このことこそ、神殿建築にふさわしい進め方のように思われます。実際、どんなに堅固な建物を建てても、そこでの営みの内容が何よりも重要なことです。 すぐには、そう思えなくても、主に従うことこそ、最も賢い選択です。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴3章5、6節)。 Sun, 07 Aug 2016 00:10:00 +0000 民の角を高く上げてくださる主(詩編 148編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160807 no 2016 主は御自分の民の角を高く上げてくださる。 それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。 主に近くある民、イスラエルの子らよ。 ハレルヤ。 (詩編148編14節) 148編は天にあるもの、地にあるものすべてに主を賛美するよう呼びかける壮大なスケールの詩編です。1~6節で天に、7~10節で地に、11~13節で諸国の民に賛美を呼びかけます。主は万物の創造主であり、偉大な力と慈しみによってそれらを保持しておられる全能者、あらゆるものから賛美を受けるべきお方です。 詩人は最後に「主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ」と主の民に賛美を呼びかけます。主は御自分の民の角を高く上げ栄誉を与えてくださる方です。詩編では「角」は力、勢いを象徴します。主がご自分の民に力を与え、今も、また将来においても勝利者としてくださることを民は確信して歩むことができます。 全被造物の中心は主の民です。主はご自分の民である私たちに特別な慈しみを注いでくださいました。御子キリストの贖いによって私たちを救い、地上の歩みにおける勝利者、また御国の相続者としてくださいました。この栄誉を覚え、主の慈しみのゆえに心からの賛美をささげましょう。 Sat, 06 Aug 2016 00:10:00 +0000 思いを一つにしなさい(コリントの信徒への手紙二 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160806 no 2016 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。 (コリントの信徒への手紙二13章11節) 誰の人生にも突風が吹き荒れるときがあります。しかし、主を信じる者にとっては、人生の思わぬ困難さえ、すべてのことが共に働いて益となります。今は完全さから遠いとしても、主に向かって成長することが約束されています。 ここで大切なことは、神の家族としてこの恵みを体験することです。私たちは、互いに愛する兄弟姉妹です。血のつながりの兄弟ではありません。キリストが内におられる群れです。限りない愛と義のキリストと深く結びつけられ、共々に豊かに実を結ぶ人生へと招かれています。 「思いを一つにしなさい」と語るのは、祝福の源である主から引き離そうとする力があるからです。大きな群れであれ、小さな群れであれ、思いを一つにすることは簡単ではありません。一致は、キリストの心を一人ひとりの心とすることにより与えられます。その時、私たちは教会らしい教会へと変えられます。 誰からはじめるのでしょうか。きょう、御言葉を聞く私たち一人ひとりです。愛と平和の神が共にいてくださる、という約束を思うと、喜びがわいてきます。 Fri, 05 Aug 2016 00:10:00 +0000 高慢防止用のとげ(コリントの信徒への手紙二 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160805 no 2016 また、あの啓示された事があまりにもすばらしい からです。それで、そのために思い上がることの ないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを 痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 (コリントの信徒への手紙二12章7節) 「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(ウ小教理問答一)。本当にそうですと言えるために、主は私たちの人生に深く関わり続けてくださいます。神はどんな方法を用いられるでしょうか。 神はサタンをさえ用いられます。パウロの身に一つのとげが刺さったままでした。痛いので、直ぐに抜こうとしました。真実に祈り続けても、抜けないままでした。 私たちの人生にも、これさえ無ければ、もっと十分に働けるのにと思えることがあります。けれども人生の苦難を抱えたままということがあります。否定的な思いになりやすい私たちですが、主の深い愛のご配慮を覚えましょう。神は、自分の手柄にしやすい私たちに、高慢防止装置をつけてくださっているのです。 それだけではありません。摂理の神は、弱さ、辛さの中で、本当にすばらしい恵みを体験できるように取り計らっておられます。主の恵みは十分であることの体験です。力は弱さの中でこそ十分に発揮される不思議な人生です。ただ神の栄光があらわれるためです。 Thu, 04 Aug 2016 00:10:00 +0000 変装するサタン(コリントの信徒への手紙二 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160804 no 2016 こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 (コリントの信徒への手紙二11章13節~14節) 偽装や変装はよくあること。電話一本で多額の現金を騙し取られる人は後を絶ちません。主の民も無縁ではありえません。「わたしの言うことは嘘です」。「わたしは偽物です」。そんなことを言う偽物はいません。エバが蛇の悪だくみで騙されたように、主の民も偽物に騙される可能性があります。 主イエスは荒れ野で悪魔の激しい誘惑を受けられました(マタ4章)。光の天使を装うサタンは甘い言葉を用意します。御言葉を知る者には、その意味を微妙に変化させ、誘惑します。私たちを神とキリストから引き離し、不従順にするのが目的です。 ふらふらとこの世に惹かれる私たちに、聖書は語ります。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(ヘブ4章7節)。ルターも「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい…』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」と言っています。 激しい世俗の力が迫る中、日々悔い改めて、第一のことを第一にできるように共に祈り求めましょう。 Wed, 03 Aug 2016 00:10:00 +0000 神と共に歩む人の志(歴代誌上 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160803 no 2016 「わたしの子よ、わたしはわたしの神、主の御名のために神殿を築く志を抱いていた。」 (歴代誌上22章7節) ダビデの最初の志は、自分が神殿を建築することでした。「わたしはわたしの神、主の御名のために神殿を築く志を抱いていた」。その志を実行に移すだけの力もあり、時も熟しているように見えました。しかし、神はお許しになりませんでした。「あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。…この子がわたしの名のために神殿を築く」(8~10節)。 ダビデはそれを知って、ソロモンのために祈ります。「今こそ主が共にいてくださり、あなたについて告げられたとおり、あなたの神、主の神殿の建築を成し遂げることができるように」(11節)。また、ソロモンのために、必要な資材も人材も抜かりなく準備しました。それは、自分が建設を主導する以上に苦労なことだったかもしれませんが、主の御心を自分の志としました。 神の明瞭なご意志を知って、ダビデは最初の志を捨て、自分の志にこだわらず、神の御心に従って、自分の志を修正しつつ進みました。これが神と心を一つにして歩む人の志の持ち方です。 Tue, 02 Aug 2016 00:10:00 +0000 神の支えこそ国の柱(歴代誌上 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160802 no 2016 ダビデは神に言った。「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。あなたの民を災難に遭わせないでください。」 (歴代誌上21章17節) ダビデの人口調査は、汚点とされています。民数記1章では神がモーセに人口調査を命じられました。サムエル記下24章によれば、主が怒りの中からダビデに人口を数えよと誘われた、と書かれています。歴代誌では、サタンがダビデを誘ったとあります(1節)。 この背景には、順調に王国が建設されたことによる王と民の高慢さがありました。それを戒めるためだったのかもしれません。あるいは人口調査の際、20歳以上の男子は、銀半シェケルを命の贖いとしてささげるという規定(出30章15節)があったのをおろそかにし神の怒りを招いたという説もあります。 神は人口調査をしたことの償いとして三つの事を提案され、ダビデは3日間の疫病を選び、そのおかげで7万人が犠牲となりました。 本来、人間の側で正しいと思った事でも、神の目から見れば、間違った決定をしてしまうのが人間の罪であります。神のみ心から離れては、他の人々に犠牲を払わせることとなりますので、信仰者は己の思いに固執せず、よく祈り求めて、神のみ心を聞かなければなりません。 Mon, 01 Aug 2016 00:10:00 +0000 勝利を得させる神(歴代誌上 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160801 no 2016 ダビデはその王の冠を王の頭から奪い取った。それは1キカルの金で作られ、宝石で飾られていた。これはダビデの頭を飾ることになった。 (歴代誌上20章2節) 年が改まり、春になると戦の好機が訪れ、司令官ヨアブは軍隊を率いてアンモンを攻撃し、ラバを包囲しました。ヨアブはダビデに使者を送り、「直ちに残りの兵士を集結させ、この町に対して陣を敷き、陥れてください。わたしがこの町を陥れると、この町はわたしの名で呼ばれてしまいます」と言って、ダビデに勝利の名誉をささげました(サム下12章28節参照)。 ダビデは、ラバを攻略し破壊し、金や宝石で飾られていたラバの王冠を奪い、これがダビデの頭を飾ることになりました。しかし、王冠は1キカル(約34キロ)あったので、常時被っていたのではありません。そしておびただしい戦利品と捕虜を手に入れ、労働に従事させました。 さて、ラバは軍事的・商業的に要衝の地でもありましたが、ダビデはこの時、自ら出陣せずヨアブに全権を託し、その間、姦淫の罪を犯してしまったのです(サム下11章参照)。彼はこの出陣の好機に、自ら先頭に立ち神のご意志を果たすべきなのに成さず、さらに罪を重ねました。私たちもなすべき時には誘惑に負けず、果敢に行動したいものです。 Sun, 31 Jul 2016 00:10:00 +0000 主の慈しみを待ち望む人の幸い(詩編 147編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160731 no 2016 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 食べ物をお与えになる。 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。 主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。 (詩編147編9節~11節) 詩人はこの詩編を通して主を賛美し主に信頼するよう私たちを促します。 主は天地万物を創造され、御言葉によってそれらを支えておられる力ある神です。獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになられます。主はご自分が造られた小さく無力な生き物の求めに応じて必要を満たされる慈しみ深い神です。それらの生き物は無意識に主の慈しみを待ち望み、その期待は裏切られません。 主はご自身の民が主に信頼して主の慈しみを待ち望むことを喜ばれます。しかし、人はしばしば主よりも見えるものに信頼します。「馬の勇ましさ」や「人の足の速さ」は戦いのための有利な条件を象徴している、と思われます。しかし王が戦いに勝利するのは、目に見える強力な備えではなく、ただ主によるのです(詩33編16~18節)。 私たちはしばしば主に依り頼まないで、見えるものや自らの力に依り頼むという失敗をします。生涯をかけて、この聖書の原則によって生きることを学ぶ者でありたい、と願います。 Sat, 30 Jul 2016 00:10:00 +0000 要塞も破壊する力(コリントの信徒への手紙二 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160730 no 2016 わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。 (コリントの信徒への手紙二10章3節~4節) 昔も今も、これからも、世界の根本的な問題は罪です。目に見えない悪魔の力です。科学技術の力、経済力で武器をどんなに増強しても、罪の問題の解決にはなりません。この点での科学文明の無力を深く覚える必要があります。そして、この罪に対して、地上の教会が戦闘の教会であることを決して忘れてはいけません。主の御許に凱旋をゆるされるまで戦いに生きるのです。 キリストにある私たちは肉体を持つ人間として弱さや欠けを身にまとっています。けれども肉に従って生きるのではありません。神に由来する武器を取るのです。それは要塞をも破壊する力を持ちます。自分の罪、他の人たちの罪との戦いです。悪魔との戦いです。血肉を相手にする戦いではありませんから、神の武具を身につけるのです。 御言葉と礼典と祈りという恵みの手段(ウ小教理問答88)の大切さを再確認しましょう。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(1ヨハ5章4節)。勝利が約束されている戦いです。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(ヤコ4章8節)。 Fri, 29 Jul 2016 00:10:00 +0000 奮い立たせる熱意(コリントの信徒への手紙二 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160729 no 2016 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。 (コリントの信徒への手紙二9章2節) 1世紀の地中海世界の各地にたてられた教会は小さな群れでした。一つひとつの群れの距離も離れていました。いまの日本の教会も似ていると思います。 コリント教会は、エルサレム教会の困難を覚えて祈り、献金をしていましたが、暫くそれを中断していました。なぜなら、自分たちのような小さな存在はお役に立てないと思う人がいたからです。消極的な評価によって悪魔は私たちの目を曇らせようとします。けれども使徒パウロは「あなたがたのことを誇りました」、「あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせた」と語ります。 ところで、キリスト者人口8割と言われている南アフリカの教会との出会いの中で、キリスト者人口 1パーセントと言われている小さな私たちの存在が彼らの大きな励ましとなっていることを、私たちは知りました。 「聖なる者たちへの奉仕」、主の名による奉仕・ディアコニアは、思いを遥かに超えて用いられます。多くの人々を奮い立たせたというのは、恵みが伝染したということです。アブラハムの子孫の私たちは祝福の源とされています。 Thu, 28 Jul 2016 00:10:00 +0000 主の貧しさによって豊かになるため(コリントの信徒への手紙二 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160728 no 2016 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 (コリントの信徒への手紙二8章9節) 弱さや欠けがいっぱいありますが、キリストのゆえにすでに豊かにされています。私たちは「受けるよりは与えるほうが幸いである」と主が言われたことを覚えましょう(使20章35節)。 主は、ご自身を与え尽くす道を歩み通されました。天の栄光に輝いておられた神の御子が、一切の栄光を捨てて、僕の身分となり、人間と同じようになってくださいました。本当に豊かなお方が、貧しくなられたのは、私たちのためでした。本来、仕えられるべきお方が、仕えるためにお出でくださいました。命のすべてを差し出してくださいました。この救い主のお蔭で私たちは豊かなものとされました。その恵みを受けている私たちに「慈善の業においても豊かな者となりなさい」と勧められています(7節)。 私たちの小さな賜物を主のために用いてくださいと差し出すなら、主は祝福して用いてくださいます。しかし、分かち合うことなく、「教理的な正しさだけなら、愛の欠如と自尊心を増すだけです」と、或る神学者は語ります。キリストに倣って生きられるよう祈りましょう。 Wed, 27 Jul 2016 00:10:00 +0000 良きことを行ってくださる主(歴代誌上 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160727 no 2016 「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」 (歴代誌上19章13節) ダビデがサウルに追われ、さ迷っていた時、サウルの敵であったアンモン人の王ナハシュは彼をかくまってくれました。その王が亡くなったのでダビデは恩義と弔意を表すため家臣を送りました。ところが、アンモンの高官は疑心暗鬼になり、息子ハヌン王をたきつけ、使者を捕らえ、ひげをそりおとし、衣服も腰から下を切り落として辱めました。 ダビデの怒りを知ったハヌン王は、銀貨を近隣のアラム軍に贈り、彼等を買収して、戦いに備えました。ダビデの軍司令官ヨアブは、アンモン人の戦線が前方と後方にあることを知り、戦列を二つに分けて待機しました。ヨアブの軍隊が迫るとアラム軍は逃走しました。ところが、ヨルダン川の向こう側にいたアラム軍が出動したので、ダビデは全軍に攻撃命令を出し、ヨルダン川を渡り勝利を収めました。 こうして全軍一体となって、勝利をおさめた姿は今日の教会においても罪との戦いに打ち勝つ信仰者の姿を彷彿させるものであります。「雄々しく戦おう、主は助けてくださる。」 Tue, 26 Jul 2016 00:10:00 +0000 勝利を与えられた主(歴代誌上 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160726 no 2016 ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。 (歴代誌上18章14節) ダビデの真摯な祈りに神は、戦争の勝利をもって応えられました。「神は敵をこの手で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった」(14章11節)。ダビデは先ずペリシテ人を打ち破り、次にモアブを破りました。彼らはダビデに隷属し、貢を納めるようになりました。また、当時は銅の産出国としてアラム最強の国であったツォバの王ハダドエゼルがユーフラテス地方に覇権を確立しようと行動を起こしたとき、ダビデはこれを攻めて滅ぼし、援軍として駆け付けたダマスコのアラム人も同時に滅ぼしました。 これを見たアラム全土はダビデに降伏しました。ヘルモン山の北側にあるハマト王トウは交戦中のハダドエゼルをダビデが滅ぼしたことを知り、王子をダビデのもとに送り、勝利を祝って金・銀・青銅の品々を贈りました。こうして、ダビデはエドム、モアブ、アンモン、ペリシテ、アマレクからの戦利品を神に献げました。ダビデは重臣たちと共に、全イスラエルを支配し、裁きと恵みの業をもって民を治めました。ダビデは息子達を側近として、神に仕える者としてとりたてました。これは将来到来される主イエスの働きを予表させるものであります。 Mon, 25 Jul 2016 00:10:00 +0000 選びの民と共に歩む主(歴代誌上 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160725 no 2016 「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。」 (歴代誌上17章13節~14節) ダビデは王宮に住むようになり、預言者ナタンは彼に言いました。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。神はあなたと共におられます」(2節)。こうして、ナタンはダビデと神の間に立って、ダビデが王として民のために尽くすことができるように、そして神が彼の子孫からその王国を揺るぎないものに成す者を立ててくださるとの約束を伝えました。 また、神のために神殿を建てる者はダビデではなく、その子孫であると教えました。人が神の住まいである神殿を建てるように見えても、結局神ご自身がそれに相応しい者を選んで建てさせるということです。これは、ダビデが決して己を誇ることがないように、との神のご配慮でした。 ダビデは素直に祈りをもって神にその思いをさらけ出しました。「主よ、あなたは神です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください」(26、27節)。私たちも主の体である教会が、神の祝福をいただき、ますます繁栄できるように、祈りましょう。 Sun, 24 Jul 2016 00:10:00 +0000 神に信頼する者の幸い(詩編 146編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160724 no 2016 君侯に寄り頼んではならない。 人間には救う力はない。 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人。 (詩編146編3節~5節) 詩人は冒頭で「ハレルヤ、わたしの魂よ、主を賛美せよ」と彼の魂に呼びかけます。さらに「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼」むことができる人は、と信仰者として歩める幸いを高らかにうたいます。彼が信じている主は、天地とその中のすべてのものを造られた全能者、力ある神です(6節)。これこそ彼の賛美と信仰の確信の根拠です。 詩人は、生けるイスラエルの神と対照して人間に寄り頼むことの愚かさを語ります。人間は、神によって土の塵から造られ、命の息を吹き入れられ、生きる者となりました(創2章7節)。その成り立ちからして、はかなく限りある存在です。その命は創造主なる神に全面的に依存しているのです。神の霊が人間を去れば、もとの土に帰ります。 どんなに高い地位にある権力者でも、抱いていた思いや計画は死が訪れれば直ちに滅び去るのです。その時がいつなのかだれも知ることはできません。そのような頼りにならない人間ではなく、命と存在のすべてを握っておられる主に信頼して歩みましょう。 Sat, 23 Jul 2016 00:10:00 +0000 御心に適った悲しみ(コリントの信徒への手紙二 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160723 no 2016 あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 (コリントの信徒への手紙二7章9節~10節) とかく私たちは、耳あたりのよい言葉に心を惹かれるかもしれません。しかし、聖化未完成の私たちが罪の指摘をされることは本当に大切です。荒れ野を旅した神の民のように罪を犯すことがあるからです。 キリストに深く愛されている群れに、パウロは、涙を流して叱責の手紙を書きました。出した後も、受け取り手がどのように反応するのか、不安な思いでいっぱいでした。けれども、今は、喜んでいます。なぜなら、神の御前に悔い改めるという、すばらしい結果が生じたからです。不信仰に同情同意する友でなく、信仰への道を明らかにする友とされたいものです。 罪を隠蔽し続けようとしたダビデに、神は鋭く罪を指摘する預言者ナタンを遣わされました。そのとき御心に適った真実の悔い改めがダビデに、恵みの中で、起こったのです(詩51編)。自己中心の中で犯す罪に悔い改めがなされなければ、悲しみが深まるばかりです。 神の御心に適った悲しみがあります。赦しがたい罪を犯したとしても、そこで神に向かうなら、赦し、救い、喜びへと向かいます。 Fri, 22 Jul 2016 00:10:00 +0000 わたしたちは生ける神の神殿(コリントの信徒への手紙二 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160722 no 2016 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。 (コリントの信徒への手紙二6章15節~16節) 私たちは、天の御国に召されるまでこの世を生きます。どのように生きるのかという理解と実践は、信仰に基づいています。救われるためではなく、他者に救いの祝福を届けるために、私たちは善き生活を目指します。 主イエスは世間から罪人呼ばわりされている人たちと親しい交わりをされました。そのような人たちとの積極的な交わりが肯定されています。しかし、ベリアルや不信仰や偶像にどんどんと引かれて行くなら、そのような交わりは危険です。不釣り合いなくびきに繋がれてはいけません。私たちはキリストに結ばれています。このことを覚えることにより、何が不釣り合いなのかが見えてきます。 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」です(1コリ6章19節)。私たちはキリストの尊い血潮により神のものとされた「生ける神の神殿」です。悩み多いこの世ですが、私たちは、もはや自分自身のものではありません。自分の体で神の栄光を現すように、この日も主から召されています。地の塩、世の光として遣わされていきましょう。 Thu, 21 Jul 2016 00:10:00 +0000 わたしたちはキリストの使者(コリントの信徒への手紙二 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160721 no 2016 神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 (コリントの信徒への手紙二5章20節) 弱さや欠けが多くあっても、神との和解を得た私たちは「新しく創造された者」です。 神のすばらしい御業の結果です。それが私たちだけに留まらないために、神は私たちに新しい使命を与えておられます。キリストは弟子たちに言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハ20章21節)。 自分はその任にふさわしくないと思うような私たちですが、驚くべき主の信頼です。パウロは「キリストに代わって」と言います。「代わって」の意味は、使者、使節です。この世の誰にもできない特別な使命を帯びた大使です。 21世紀になり過去のどの時代よりも、科学技術が進展しました。けれども、地球規模と言えるほど人間の罪は深刻です。この世が抱える問題は、この世の知恵、力、経験では解決不能です。いまこそキリストにある私たちの出番です。不思議な解決の道が与えられています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリ1章18節)。 Wed, 20 Jul 2016 00:10:00 +0000 主に感謝し、主をほめたたえよう(歴代誌上 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160720 no 2016 わたしたちの救いの神よ、わたしたちを救い 諸国の中からわたしたちを集め 救い出してください。 聖なる御名に感謝をささげ あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。 (歴代誌上16章35節) 民は神の箱を運び上げ、ダビデが張った天幕の真ん中に安置しました。すべては神の祝福の中で行われ、ダビデは感謝の献げ物を準備し、民と喜びを分かち合うために、パン1個、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を民に与えました。これは、約束の地に於ける良き作物の実りを与えるとの神の約束を表していました。 そして、レビ人から奉仕者を立てイスラエルの神、主をたたえて賛美するようにと命じました。アサフを頭として、その兄弟たちによって聖歌隊が構成され、神礼拝の様式が整えられました。 こうして神の恵みの御業にほめ歌を歌い、喜びを心にとめて主の御力と公平な裁きを願い、主がアブラハムと結ばれた契約を守り抜く事を歌いました。 申命記7章7、8節に記されていますが、貧弱な民が選びの民とされたのは只々、神の一方的な選びと愛に他なりません。神の箱の前で日毎の定め通りに礼拝が守られ、神を愛し、掟を守る者には幾千代もの間、慈しみが注がれる事が約束されました。「主の慈しみはとこしえに」と祈りましょう。 Tue, 19 Jul 2016 00:10:00 +0000 失敗から謙虚に学ぶ(歴代誌上 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160719 no 2016 「レビ族の家系の長であるあなたたちは、…主の箱を、…運び上げよ。最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」 (歴代誌上15章12節~13節) オべド・エドムの家に仮安置されていた神の箱をエルサレムに運ぶために、ダビデは、宮殿を造営し、箱を安置する場所を整えました。最初の試みは神の怒りのために失敗し、不幸な結果となりましたので、神の法に従い、アロンの子らとレビ人をエルサレムに招集しました。 ダビデは彼らに言いました。「あなたたちは、兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、わたしが整えた場所に運び上げよ。最初のときには…主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである」と。ダビデは最初の失敗を悔い改め、神の定めを履行しました。 民は楽器を奏で、声を上げて喜び祝い、レビ人は箱を担ぎ上げました。この時ダビデは亜麻布の上着をまとい、麻のより糸で織ったエフォドを身に付け喜び踊りました。箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルはこれを見下ろし、喜び踊るダビデを見て心の内でさげすみました。 神はいつまでも人の過ちを心に留めることはありません。人の目にどのように映ろうとも、神は悔い改めて賛美する者を愛してくださいます。 Mon, 18 Jul 2016 00:10:00 +0000 ダビデ支配の確立(歴代誌上 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160718 no 2016 ダビデは、主が彼をイスラエルの王として揺るぎないものとされ、主の民イスラエルのために彼の王権を非常に高めてくださったことを悟った。 (歴代誌上14章2節) 神はダビデを恵みの契約の継承者として選ばれ、彼は40年間王位に就きました。7年半ヘブロンでユダを、33年間エルサレムでイスラエルとユダを統治し、彼の王権は揺るぎないものとなりました。神が導いてくださったのです。ティルスの王ヒラムは、ダビデの王宮建設のためにレバノン杉、石工、大工を贈り、友好関係を築きました。ダビデはヘブロンで5人の妻を、エルサレムでは9人の妻を迎え、王家は繁栄しました。 ペリシテ人はダビデが全イスラエルの王となったことを知ると、彼の命を狙って侵攻して来ました。ダビデは主に「戦うべきかどうか」と尋ねたところ、主は、「攻め上れ。あなたの手に渡す」と答えられ、彼は勝利しました。ペリシテ人は敗走の際、彼らの神々を捨てて逃走しました。再び侵攻する際、主は「彼らを追って攻め上らず、彼らを避けて回り込め。…反対側から敵に向かえ。…神が…あなたに先んじて出陣されるのだ」と言われ、命じられたとおりに行動したダビデは勝利を収めました。 主の御心と神の知恵に聞き従う彼の姿は、正に信仰者の模範です。 Sun, 17 Jul 2016 00:10:00 +0000 呼ぶ人すべてに近くいます主(詩編 145編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160717 no 2016 主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし 主を畏れる人々の望みをかなえ 叫びを聞いて救ってくださいます。 (詩編145編18節~19節) 詩人は冒頭からあふれるばかりの賛美をささげています。主はご自身の造られたすべてのものに恵みを与え、憐れんでくださる、慈しみに満ちておられる神です。主がどんなに善いお方であるかは、すべての命あるものに向かって御手を開き、望みを満たしてくださることから明らかです(9節)。 なおさら主は、主を信じ依り頼む者の祈りに応えてくださるにちがいありません。主は信仰者の祈りを決して虚しくされないお方です。「主を呼ぶ人」、「まことをもって呼ぶ人」、「主を畏れる人々」、「主を愛する人」、と言い換えながら、この詩人は主に心から信頼して生きるまことの信仰者を表現していきます(18~20節)。 私たちの主は偶像と違い、生きておられる人格的な神です。目には見えなくても、まことの信仰者の最も近くにおられます。言葉にならない祈りさえも理解され、主を呼ぶ者に最善の仕方で確実に応えてくださる方です。祈りは、どこででもまたいつでもできる、信仰者に与えられた恵みの手段です。真心から信頼して主を呼ぼうではありませんか。 Sat, 16 Jul 2016 00:10:00 +0000 このような宝を土の器に納めています(コリントの信徒への手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160716 no 2016 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 (コリントの信徒への手紙二4章7節) 立派な絵画には高級な額縁を用意することでしょう。料理の美味しさは器の工夫で更に増します。 神は私たちを、すばらしい宝を納める器とされています。私たちに相応しい立派さがあるからではありません。土の器です。本当に脆く壊れやすい器です。弱い肉体です。外なる人は衰えていき、病にもかかります。精神的に特別に強いと言えず、いつ壊れるか分からないような脆さがあります。そして、やがて死を迎える器です。 けれども、その中に本当にすばらしい宝が納められています。昔の行燈は紙で覆われており、破れた行燈の方が、周りに明かりがよく届きました。キリストの栄光がより輝くため、私たち一人ひとりは相応しい器とされています。器自身と、その中身とは全く不釣り合いです。キリストの救いの光が絶対に、その人から出たものでないことは明らかです。 自分を、金や銀のように見せる必要はありません。自分を何か立派な者に見せようとしていたら、キリストの光が隠されてしまいます。なぜなら、破れの中でこそ救いの光が輝くからです。 Fri, 15 Jul 2016 00:10:00 +0000 わたしたちの推薦状(コリントの信徒への手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160715 no 2016 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。 (コリントの信徒への手紙二3章2節~3節) 文字で記した紙に書かれた推薦状は重要です。パウロも書いたことがあります(ロマ16章参照)。けれども、もう一つの推薦状があります。生ける神の霊によって、人の心の板に書かれた手紙です。 空しい日々を過ごしていた人たちが、キリストの福音により救われました。偶像から生ける真の神へと立ち帰り、愛の中を生きています。もちろん地上の歩みの中で弱さや欠けを示すことがあります。それでも主に向かって生きる群れの立派な一員です。 私たちは、パウロとは比べようもない小さな名もない働き人として、生涯を終えると思います。けれども主の日毎に礼拝者として共に歩む群れの一員とされています。主の心を心として6日間を生きようとしています。 これらの一人ひとりの小さな働き人が、偉大なキリストを指し示す推薦状となります。ペンやインクで書かれた手紙は、特定の人だけしか読めません。しかし、主の民の生き方が御霊によって変えられ、一人ひとりが証し人として生きるとき、すべての人に知られ読まれる手紙になります。キリストの名が記されている手紙です。 Thu, 14 Jul 2016 00:10:00 +0000 サタンにつけ込まれないため(コリントの信徒への手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160714 no 2016 わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。 (コリントの信徒への手紙二2章10節~11節) サタンのやり口はエデンの園での誘惑からわかります。サタンは欺きの専門家です。あらゆる機会を用いて、私たちを神から引き離そうとします。パウロが、悩みと憂いに満ちた心で涙ながらに厳しい手紙を書いたのは、サタンの誘惑を覚えたからです。大きな罪が放置されたままであったからです。キリストの栄誉が汚され、つまずく人も出てきました。 解決のための戒規を通して大きな悲しみを経験することもあります。けれども悲しみを通して信仰の目が覚まされてきます。ところが、サタンは次の手も考えています。悔い改めを疑い、一度つけたレッテルや評価を変えないように誘惑します。罪人の中の最たる者と告白するパウロ(1テモ1章15節)もまた、怪しまれた経験があります(使9章21節)。 追い出すことや悲しみに陥れるのが戒規の目的ではありません。十字架は神の義と愛のあえるところです(参照:讃美歌262)。無限の赦しを受けている私たちは、この世とは大きな違いがあります。サタンにつけ込まれないよう赦しの共同体として生きるのです。 Wed, 13 Jul 2016 00:10:00 +0000 神をたずね求める(歴代誌上 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160713 no 2016 「あなたたちが賛成し、またわたしたちの神、主の御旨でもあるなら、わたしたちはイスラエル全土に残っている兄弟、および牧草地をもつ町にいる祭司とレビ人に使いを送ってここに集め、わたしたちの神の箱をここに移そうではないか。サウルの時代にわたしたちはこれをおろそかにした。」 (歴代誌上13章2節~3節) 神の箱にはあの十戒を記した2枚の石の板が納められており、「契約の箱」とも呼ばれていました。長方体でアカシアの木で作られ、内外は純金でおおわれていました。その上には金の飾りがつき、四隅には運搬用の棒を差し入れるための金の輪が付き、その上板には純金のケルビムが置かれていました。これは主の幕屋の至聖所に置かれ、主の臨在の象徴でした。この箱は一時ペリシテ人に7か月間奪われましたが、これが返還され、キルヤト・エアリムに20年間置かれていました。 ダビデは、サウルの時代を通してそれまで神の箱を「おろそかにした」こと、つまり、「神を尋ね求めなかった」ことを悔い改め、エルサレムに箱を安置するために人々を招集しました。箱はレビ人の肩に乗せて運ぶべきでありましたが、車に乗せたために、キドンの麦打ち場にさしかかった時に牛がよろめき咄嗟に手をだしてしまったウザを神は、ご自身に背いた者として撃たれました。ダビデは、神の定めを疎かにした事を恥じ、箱の運搬を3か月間控えました。主に仕える者は、主に従順であるべきです。 Tue, 12 Jul 2016 00:10:00 +0000 主の前に心を一つにしよう(歴代誌上 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160712 no 2016 「ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。 エッサイの子よ、あなたの味方です。 平和がありますように。 あなたに平和、あなたを助ける者に平和。 あなたの神こそ、あなたを助ける者。」 ダビデは彼らを受け入れ、部隊の頭とした。 (歴代誌上12章19節) ダビデがサウルから逃れているとき、傑出した勇士たちがツィクラグにいるダビデのもとに集合し、イスラエルが一つとなって彼を王位に就けました。各部族の勇敢で有能な戦士が続々とダビデのもとに集いました。弓の名手、戦闘にたけた者、百人の敵を倒した者、これまで武勲をたてた者たちがダビデへの忠誠を誓い、心を一つにしてヘブロンに集結しました。 この時代はペリシテとの対立の時であり、サウルもダビデも大いに悩まされていました。ダビデはサウル王に命を脅かされ、はからずも敵国に避難しなければなりませんでした。彼は命の危険と信仰の危機にも直面しました。それでも、彼のまわりにいた戦士たちの忠誠のおかげで、それを乗り越えることができたのでした。 私たちもいかなる危険と困難、誘惑に直面したとしても、全き信頼と祈りをもって主の前に心を一つにして、主に依り頼もうではありませんか。 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタ21章22節)。 Mon, 11 Jul 2016 00:10:00 +0000 イスラエルを牧する王の登場(歴代誌上 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160711 no 2016 「これまで、サウルが王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。あなたの神、主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがわが民イスラエルの指導者となる』と。」 (歴代誌上11章2節) サウルは主の言葉を守らなかったという罪を犯し、主に聞かず、自分の思い込みで事をなしました。その結果サウルは主の怒りを買い、主に捨てられ、イスラエル全体が暗闇の中に落ち込みました。そこにダビデという若者が主に召され、次の王として颯爽と登場しました。 イスラエルの民は、ダビデの下に集いました。主が「わが民イスラエルを牧するのは、あなただ。あなたがわが民イスラエルの指導者となる」と言われたというので、ダビデは主の御前で油注がれ、王となりました。 ダビデはエブス人が支配していたエルサレムに向かい、彼らを打ち滅ぼし、町を城壁で囲み、要害とし主と共に住むことになりました。ダビデは主に祝福され、多くの勇士が彼を慕って集いました。彼の権勢は並ぶ者がないほど強くされ、主の恵みはますます加えられていきました。三勇士が敵陣を突破し、ダビデのために水を汲んで来たとき、「彼らの命のかかった血をどうして飲めましょうか」と神に申しました。 私たちも主とこのように美しくかたい主従関係を築きたいものです。 Sun, 10 Jul 2016 00:10:00 +0000 人間とは何ものなのでしょう(詩編 144編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160710 no 2016 主よ、人間とは何ものなのでしょう あなたがこれに親しまれるとは。 人の子とは何ものなのでしょう あなたが思いやってくださるとは。 人間は息にも似たもの 彼の日々は消え去る影。 (詩編144編3節~4節) 詩編144編は、「主をたたえよ、わたしの岩を」と、敵との戦いの中で、岩のように堅固にわたしを守られた主への賛美で始まります(1、2節)。 3節では一転して、力強い主の前で、人はどのような存在なのかと、自分自身に目を向けています。何と人間とははかないものでしょう。直ちに消え去ってしまう息のような存在、人生の日々は、日が沈めば消え去ってしまう影のようで、つかの間です。詩人は冷静に一人の人としての自分自身のはかなさと弱さに目を向けています。 しかし、主は息のようにはかない者の最も近いところにおられます。祈りに応えて戦いを導かれ勝利を与えてくださるお方です。何とすばらしく、畏れ多いことでしょう。そのような詩人の思いが伝わってきます。 私たちの主は、すべての信仰者を世界でたった一人の存在であるかのように親しく顧みてくださる神です。詩人の「いかに幸いなことか、主を神といただく民は」(15節)との最後の感嘆の言葉を、いま私たちの信仰告白としたい、と願います。 Sat, 09 Jul 2016 00:10:00 +0000 苦難と慰め(コリントの信徒への手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160709 no 2016 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 (コリントの信徒への手紙二1章4節) パウロは自信に満ち、弱さなど示したことがありませんでした。けれども根本的に変えられました。苦難や弱さも正直に語ります。苦難は苦難だけで終わらない人生へと変えられたからです。 パウロは、生きる望みさえ失うほどの辛さをも経験しました。自らの無力を深く覚えたことでしょう。そうであっても、心から神とキリストを賛美しています。苦難のただ中で神ご自身が慰めてくださいました。苦難を通して自分に注がれている主イエス・キリストの恵みを数えられるようになりました。そればかりか、自分たちの苦難が、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる、とパウロは語ります。 わたしが教会へ通い始めた頃は、弱い人は宗教に頼ると言われ、憤慨したことがあります。しかし、今なら怒りません。何も問題ない立派な人のように見せる必要はありません。もともと教会は、そのようなところではありません。進行中の苦難があるとしても、見通しは明るい慰めの共同体です。「これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」(10節)。 Fri, 08 Jul 2016 00:10:00 +0000 主にお会いする(2)(ヨハネによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160708 no 2016 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 (ヨハネによる福音書21章7節) ティベリアス湖畔で復活の主イエスが現れてくださいました。 一晩中漁をして何も獲れなかったのに、誰とも知れない人の言うことを聞くと網を引き上げることもできないほどの大漁でした。その人があのお方だと最初に気付いたのは「イエスの愛しておられたあの弟子」ヨハネでした。体の中を電気が走ったようになったことでしょう。 3年数ヶ月前にも同じことがありました。あれは主だ!その言葉を聞いてペトロもどきっとしたに違いありません。一時も早く主イエスの側に行きたい気持ちが、船も魚も他のことも忘れさせてしまいました。 ヨハネの主イエスへの愛は、見分けにくい状況の中で主だと気付かせました。ペトロの主イエスへの愛は我を忘れさせました。どちらがよい悪いではありません。どちらもよいのです。 主イエスへの愛の現れ方、表し方には個性があります。私たちの小さな教会の中でもいろいろな個性、主イエスへの愛の形があります。礼拝で復活の主にお会いする私たち。わたしの愛を素直に表しましょう。 Thu, 07 Jul 2016 00:10:00 +0000 主にお会いする(1)(ヨハネによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160707 no 2016 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 (ヨハネによる福音書20章16節) 日曜日の朝早く、マリアは主イエスの墓に行きます。けれどもそこに納められているはずの主イエスの遺体は見当たりません。とうとう泣き出してしまいます。わたしの主が取り去られてしまった、と。復活が信じられないマリアの信仰は未熟です。しかし主イエスを愛する気持ちは純粋で深いのです。 そのようなマリアに、主イエスはなぜ泣いているのか、と声をかけてくださいます。泣かなくてもよいのだよ、わたしはここにいるのだから。弱い信仰だと咎めたりなさいません。主イエスへの愛をご存じでいてくださるからです。 復活の主にお会いしてマリアはすがりつきます。死から命に。絶望から喜びに。頭で考えるより先に心が反応してしまいました。もう放さない、どこにも行かないでください。主イエスは言われます、わたしを地上につなぎ止めないように。これから父のもとに行くのだから。 わたしは夢を見ます。わたしのような者でも御国に入れていただいたら主イエスにハグさせていただけるだろうか、と。 Wed, 06 Jul 2016 00:10:00 +0000 主への不従順による裁き(歴代誌上 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160706 no 2016 サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず…主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。 (歴代誌上10章13節~14節) 9章までの系図が終わり、10章ではサウルの死が語られます。初代の王サウルが敵の手に倒れ、サウル王朝が断絶するのですが、それはサウル王が主に不従順だったために死んだからでした。王は口寄せに伺いを立て、主の導きを求めなかったのです(13節)。 サムエル記にはサウルが主から退けられたのは、アマレクの戦いで敵を滅ぼしつくさなかったことを理由としてあげています。 またサウルが主の言葉を軽んじたことをサムエルに指摘された時に、悔い改めず、言い訳をしたことに言及しています。 私たちも内に潜む優柔不断さ、短気、短絡的な性質や衝動に気をつけましょう。その根源は罪の奴隷となった自己中心性です。 日々、内なる罪を思うと、身が縮みますが、むしろ憐れみに富まれる主の前に出、悔い改めて、主の前に自分を献げるものでありたいと思います。 いつも主の目から見て正しいかどうかを人生の中心に据えましょう。 Tue, 05 Jul 2016 00:10:00 +0000 苦しみの彼方に(歴代誌上 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160705 no 2016 彼らは神殿の奉仕の職務について有能な人々であった。 (歴代誌上9章13節) 1章から始まった長い系図は9章で終わります。そしてサウルの記事に進んでいきます。9章の最後にサウルの系図がもう一度書かれていますが、ここには、厳しかったバビロン捕囚後、祖国に帰って来て、エルサレムに居住できた者たちが記されています。 1節によれば、捕囚として連れ去られた理由が神に背いたこと、つまり偶像礼拝の罪によるのであることがわかります。それならば帰還の理由はなんでしょうか。主はペルシアのキュロス王を用いて不思議な方法で帰還の道を開かれました。特に最初に帰還を果たした祭司の数の多さを見るにつけ、主への礼拝の回復、主の栄光を表すことが強調されています。このことがエルサレムに帰還の道を開いたように思えます。 私たち一人ひとりも主が示された地で懸命に生きています。そこには存在する意義や使命、理由がそれぞれにあるはずです。それらを受け止め、そこで精一杯主から賜った使命を果たしてゆきましょう。 Mon, 04 Jul 2016 00:10:00 +0000 信仰の継続と継承の大切さ(歴代誌上 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160704 no 2016 ネルにはキシュが生まれ、キシュにはサウルが生まれ、サウルにはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルが生まれた。 (歴代誌上8章33節) 8章はすべてベニヤミン族について記しています。33節にはイスラエルの初代の王であるサウルの名前が出てきます。そしてサウルの子たちの名前もありますが、彼らの名前の意味が興味深いのです。 ヨナタンは「主なる神の賜物」、次男マルキ・シュアは「わたしの主なる王は救い」、三男アビナダブは「わたしの父は高貴」、四男エシュバアルは「バアルの人」という意味なのだそうです。長男と次男につけた名前を見ると、主への信仰のあついサウルであったことが分かります。 しかし三男からは主に栄光を帰すのではなく、自分への賞賛に変わっています。四男に至っては異教の神バアルを賛美する名前になっているのです。初めの信仰を保てず、主から見離されてからのサウルは悲惨な生涯を終えます。あつき信仰を保ち続けることの如何に難しいことかと思います。 信仰はたとえ、地味であっても、何よりも継続、そして次の世代への継承が大事であることを教えられます。 Sun, 03 Jul 2016 00:10:00 +0000 心が挫けるとき(詩編 143編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160703 no 2016 わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫けます。 わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し 御手の業を思いめぐらします。 (詩編143編4節~5節) 詩人は敵に命をねらわれ「わたしはさながら墓穴に下る者です」と絶望感をあらわにしています(7節)。人間的には助かる見込みがない中で、詩人の心は意気消沈していきました。「わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます」と赤裸々に告白しています。 信仰者でも激しい試練に直面するとき、どうしようもないほど心が沈むことがあります。直面している試練にだけ目を留めるならば、詩人のように落胆し、そこから抜け出せなくなってしまう弱い者です。 ここで詩人がとった信仰回復の方法は非常に賢いものでした。それは、これまでに主がなしてくださった御業を思い巡らすということでした。彼の人生の中で主がなしてくださった驚くべき救いの御業、また歴史の中で主の民イスラエルになしてくださった御業、それらをひとつひとつ思い返し思い巡らしたのです。 私たちも試練から目を離して、主が神の民に、そして私たちに何をしてくださったかを、御言葉をとおして黙想し、そこから希望と力をいただきましょう。 Sat, 02 Jul 2016 00:10:00 +0000 成し遂げられた(ヨハネによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160702 no 2016 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 (ヨハネによる福音書19章30節) 十字架は一番残酷な死刑の方法です。囚人を裸にして、木に釘づける。それだけと言えばそれだけです。一気に殺してしまわない。恥と苦しみの中に放って置く、長い痛みと苦しみ。のどの渇き、じわじわと味わわされる死。しかし肉体の苦しみもさることながら、主イエスにとっては父である神に捨てられるという恐ろしさがあります。 罪のないお方が罪人として裁かれる。耐えがたい苦しみであったでしょう。十字架のメッセージは、何度でも新たに聞き直さなければなりません。それはわたしのための主イエスの愛であると。 十字架の上で「成し遂げられた」と主イエスは言われました。神の御子が人となられた、苦しみの生涯を送られた、ついに罪人のわたしを救うため身代わりの十字架に架かってくださった。その御生涯の目的が今完成した、と。 「頭を垂れ」、この言葉はもう一箇所でだけ使われています。ルカによる福音書9章58節「人の子には枕する所もない」、の「枕する」です。主イエスは十字架の上に今枕されました。安息なさったのです。私たちの救いが完成したからです。 Fri, 01 Jul 2016 00:10:00 +0000 だれを捜しているのか(ヨハネによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160701 no 2016 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 (ヨハネによる福音書18章4節) 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13章1節)。主イエスの最後の1日を、ヨハネによる福音書はこのように書き始めています。主イエスは御自分から十字架に向かわれました。逃げ場がなくて十字架につけられたのではなく、御自身の栄光と受け止めて、正面から向かい合われました。最後の夜を過ごされたゲツセマネの園に、敵たちが迫ります。 「だれを捜しているのか」との主イエスの声は、あなたは正しい捜し方をしているのか、とわたしには聞こえます。正しい関係を持つように、と。それは自分の思惑、利害でのつながりか。十字架で結ばれる命と愛の関係なのか。 かつて「あなたはどこにいるのか」と、神は罪を犯したアダムに呼びかけられました。神が捜してくださいました。今、主イエスはだれを捜しているのか、と呼びかけられます。罪を犯している兵士や祭司長に、いいえ、私たちに。 御自分の血潮をもって買い取られた御自分の民たちを、主イエスはいつも求めておられます。 Thu, 30 Jun 2016 00:10:00 +0000 栄光の時(ヨハネによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160630 no 2016 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」 (ヨハネによる福音書17章1節) 主イエスは「時が来ました」と言われます。十字架の時です。罪人を救うために主イエスを十字架につけるという神の救いのご計画の完成する時です。この日まで主イエスは「わたしの時は、まだ来ていません」と、たびたび言われました。その時が来ていませんでしたから、敵の誰も主イエスを捕らえることはできませんでした。けれどもついにその時が来ました。神の御子が、罪を一度も犯されなかったお方が、私たち罪人の身代わりとして罪人の頭のように十字架につけられる。それも、偶然の時の流れではなく、神が計画なさり、主イエスが選び取られた時として。 それを主イエスは「栄光」と言われます。御子の栄光であるだけでなく、父なる神の栄光であると。栄耀栄華を求めるのでなく、私たちのために貧しさの極みの十字架につくことこそ主イエスの栄光と。なんということでしょう。罪人であるこのわたしの救いが神の栄光であるとは。それほど私たちを愛していてくださるのです。私たちを愛して、このうえなく愛し抜かれた(13章1節)、その表れが十字架なのです。 Wed, 29 Jun 2016 00:10:00 +0000 その家が災いのさなかにも(歴代誌上 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160629 no 2016 彼は名をベリアと付けた。その家が災いのさなかに (ベラア)あったからである。…ラダン、アミフド、エリシャマ、ノン、ヨシュアと続く。 (歴代誌上7章23節~27節) マナセとエフライムは、神の憐れみによるヨセフの子どもです。その子孫からモーセの後継者であるヌンの子ヨシュアが生まれます。系図には、ヨシュアの先祖ベリアが登場します。ベリアという名は、その父エフライムが付けたもので、「災い」という意味です。 ベリアには二人の兄がいました。二人は、ガトで盗みを働いたために、殺されました。父は、喪に服し悲しみます。ベリアは、その中で身ごもられた子どもです(21節)。父は兄の罪への悔い改めの思いから名付けたのではないかと考えられます。 兄の出来事は、名前が列挙されている中に書かれています。主は、父の執り成しと悔い改めを聞かれ、子孫を与えてくださいました。罪を赦すばかりか、ヨシュアを主のご計画の為に用いてくださいました。 人類の歴史は、罪の歴史でもあります。私たちも罪の歴史を担う者です。その罪を思うと、身が縮みます。しかし、憐れみに富まれる主の前に悔い改め、自らをささげる者でありたいと願います。 Tue, 28 Jun 2016 00:10:00 +0000 主への賛美の尊さ(歴代誌上 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160628 no 2016 ソロモンがエルサレムに主の神殿を築くまで、彼らは幕屋、すなわち臨在の幕屋の前で詠唱者として仕え、その規則に従って任務に就いた。 (歴代誌上6章17節) 神の箱が幕屋に安置されたとき以来、ダビデによって神殿での詠唱者としてヘマンが任務に召されます。彼は「歌をうたう者」とか「歌い手」とも呼ばれています。この呼び名での表現で歴史の中に刻まれた人物でした。そして、この表現から彼の賜物、人格や人柄を推測できるのではないでしょうか。私たちも主の日、幕屋の前で、主を賛美する者として覚えられたら何と幸いなことでしょうか。礼拝の中での心からの賛美は主への祈りであり、素晴らしい献げ物なのです。 詩編22編4節には「だが、あなたは聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」と言われています。主の日にとどまらず、何時でも、どこでも主を賛美する者、主に向かって歌をうたう者として歩めたら何と幸いなことでしょうか。人生の海の嵐の中でも、晴れの日も雨の日も、ただ声を出すだけでなく、心から主に向かって賛美をささげましょう。宗教改革者マルチン・ルターはこう言いました。「賛美を歌おう、そして悪魔を退散させよう」と。 Mon, 27 Jun 2016 00:10:00 +0000 主の憐れみによる選び(歴代誌上 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160627 no 2016 彼の兄弟の中で最も勢力があったのはユダで、指導者もその子孫から出たが、長子の権利を得たのはヨセフである。 (歴代誌上5章2節) 5章には、ヨルダン川東岸ギレアド地方に嗣業の地を得た部族の系図と、大祭司とされたアロンの子らの系図が記されています。 父祖イスラエル(=ヤコブ)の長男ルベンは、母ラケルの死後、その悲しみがまだ癒えない時期に、父の側女ビルハと床を共にしました。これは、父の家督の権を強奪する行為であり、家族の崩壊を意味します。このために、ルベンは長子の権利を失うことになりました。 そこで、代わって長子の権利を得たのがヨセフです。ヨセフは、他の兄たちの妬みを買ってしまいます(創37章3、4節)。それで、彼は兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られてしまいました。やがて、彼は神の守りを得て、高い地位を得、エジプトの大飢饉に備えました。 本来、罪の故に祝福を得ることのできない私たちに、神はしばしば同様の計らいをなさいます。主イエスの愛と憐れみによって、神の子となる特権をお与えくださったばかりでなく、さらに、主の救いのわざのためにも用いてくださるのです。 Sun, 26 Jun 2016 00:10:00 +0000 わたしの避けどころ、わたしの分(詩編 142編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160626 no 2016 主よ、あなたに向かって叫び、申します 「あなたはわたしの避けどころ 命あるものの地で わたしの分となってくださる方」と。 (詩編142編6節) 詩人は今、迫害者に追われています。安全な逃れ場はなく、また彼に同情し助けの手を差し伸べてくれる友もまったくいません。激しい孤独感にさいなまれています(4、5節)。 しかし詩人の心は決して絶望しません。地上のいかなる場所も、いかなる助け手も彼の避けどころではないことを知っているからです。詩人の心は、まっすぐに彼の唯一の助け主、避けどころである、生ける主に向かい叫びます。「あなたはわたしの避けどころ、命ある者の地で、わたしの分となってくださる方」。 カナンの地がイスラエルの各部族に分配されたとき、レビ人は土地ではなく、主ご自身を「嗣業」として受け取りました(ヨシュ13章33節)。詩人はこの表現を比喩的に用い、彼の分は地上のいかなるものではなく、ただ主ご自身である、と信仰告白をしているのです。 主はどのような状況下にあっても、私たち信仰者にとって安全な避けどころ、またすべてとなってくださるお方です。主を受け継ぐことを光栄とし、生ける主に信頼して歩みましょう。 Sat, 25 Jun 2016 00:10:00 +0000 世に勝っている(ヨハネによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160625 no 2016 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 (ヨハネによる福音書16章33節) きょうの御言葉は14章から続いてきた主イエスの最後の説教、その結びの言葉です。主イエスがお話しされた、その目的は、「わたしによって平和を得るため」でした。そうです。その平和を味わうことこそ、私たちの人生の目的です。主イエスによってこそ、私たちは神との間に平和を得ることができます。ウェストミンスター小教理問答の第1問が私たちの人生の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことだと言っているのはこのことです。 クリスチャンとして悩み多い毎日の生活です。また妥協してしまった。また誘惑に負けてしまった。それなのにどうしてそんなことが可能なのか。それは、主イエスが既に、世の事柄に勝利しておられるからです。主イエスにつながっている私たちは全員すでに勝利しているのです。 どんなに弱いわたしであっても、大丈夫だよ、と言って頂けます。主イエスにある者は主イエスと共に「世に勝っている」のですから。世は神に敵対するものです。最後の敵は死です。けれども主イエスが十字架と復活によって勝利されましたから、私たちも勇気を出すことができます。 Fri, 24 Jun 2016 00:10:00 +0000 ぶどうの木(ヨハネによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160624 no 2016 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節) 主イエスと私たちとの関係が、ぶどうの木と枝の関係に譬えられています。 幹を離れた枝は、実りどころか生きていくこともできません。そのように、主イエスこそ私たちの命の源です。枝が幹に支えられているように私たちは主イエスに完全に支えられているのです。また、農夫がぶどうの枝に注意するように、神は私たちに対して一所懸命に世話してくださる、私たちが育ち、実を結び、豊かな収穫をもたらすように、絶えず見守っていてくださる、こう主イエスは教えていてくださるのです。 私たちの内には何の強さも、霊的な生命力もありません。それらは全部、主イエスによって与えられるものです。主イエスとつながっていなくても十分やれるじゃないか、と言われるかも知れません。つながらない枝は切り花のようなものです。一時花が咲いても実ることはありません。 主イエスを離れてはわたしには力も実りもないのです。主イエスとつながり、その間に生命的な流れがあって初めて実を結ぶことができ、天の御国を目指す望みを持つことができるのです。 Thu, 23 Jun 2016 00:10:00 +0000 御国への道(ヨハネによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160623 no 2016 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (ヨハネによる福音書14章6節) 主イエスは御自身を「道である」と言われます。天の御国に行くための道筋であるとともに、方法・手だてをも意味しています。このお方なしではどうしても「そこ」に行くことはできません。 「真理」は人が知らなければならない知識・知恵です。物理学や数学で言う真理ではありません。それらの一番深い基礎になる事柄、神に至る、天の御国に至る真理です。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節)、そういう、神に至る、天の御国に至る真理です。真理は一つ、このお方のみです。 また、主イエスは「命」そのもののお方です。人だけではなく、天地万物の造り主であり、ことに永遠の滅びに陥るべき罪人を、御自身の命をもって救ってくださいました。私たちを死から命に移し替えてくださった命の主です。 そしてこれらの事実は一つの方向に向かっています。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。賢さも、優しさも、よい行いも、天の御国に入れていただくのには役に立ちません。このお方による以外はないのです。 Wed, 22 Jun 2016 00:10:00 +0000 苦しみの彼方に…(歴代誌上 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160622 no 2016 母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。 (歴代誌上4章9節) 2章に続いて、ここではユダのもう一つの系図が記されています。何と言っても注目されるべき人は9節に出てくるヤベツでしょう。この祈りはヤベツの祈りというよりも、ヤベツに与えられた祈り、教えられた祈りと言えるでしょう。 ヤベツに祈りを教えたのは、母親だと思います。ヤベツの母は人生の深い苦しみ、肉体の深い痛みを味わい、失意のどん底にいました。けれども、そこで主に祈りを献げ、神の助けに与り、無事に出産を終えることができたので、その恵み、主の計らいを忘れないために、あえて苦しみを意味する「ヤベツ」という名をつけたのかも知れません。 そのとき、ヤベツの母を祈りに導いたのは、助け主である聖霊なる神でした。聖霊は母だけではなく、その子ヤベツに、そして私たちをも祈りに導かれるのです。聖霊ご自身は、同じ様に人生の苦しみを味わっている私たちのために、言葉に表せない呻きをもって今も執り成してくださいます。そして神はこの祈りに応え、万事が益となるようにしてくださるのです(ロマ8章28節)。 Tue, 21 Jun 2016 00:10:00 +0000 ダビデの子孫からの祝福(歴代誌上 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160621 no 2016 ヘブロンで生まれたダビデの息子は次のとおりである。 (歴代誌上3章1節) この章にはダビデの子らの名が記されています。先ず、ヘブロンで王位についた時の子たちの名が記されています。続いてエルサレムで王位を頂いた時のたくさんの子たちが続いております。人も羨むダビデ大王の子として生まれた子たちでした。 しかし、信仰者の父のもとで恵まれた状況にありながら、それに感謝もせず、彼らの生き方は父の道を踏み外してしまいました。欲望の赴くままに生き、流血の災いを繰り返し、父ダビデの苦しみの種となってしまったのです。 また、ダビデは、苦しみの中で、バト・シュアとの間で犯した自分の罪を悔い改め続けるしかありません。御心にしたがう敬虔な親と言っても、完全な親などいません。 子どもも親も、自らが神の前にしっかりと立ち、自分の弱さと罪を認め回心しないならば、ダビデの子アムノンやアブサロム、アドニヤのように罪と悪を繰り返す者となるのです。 私たちは、ダビデの子孫からの祝福を、主イエスから受けています。今一度、神の前に出て、霊による主イエスの子として歩ませていただける幸いに感謝を献げます。 Mon, 20 Jun 2016 00:10:00 +0000 ユダの子孫からの祝福(歴代誌上 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160620 no 2016 ユダの子は皆で5人であった。 (歴代誌上2章4節) この章にはイスラエル十二部族が最初に記されていますが、その後即座に北イスラエル王国ではなく、南の王国ユダにスポット・ライトをあてています。すなわちユダの系統の中に将来の希望の光を灯しているのです。ユダの子、ペレツ、ラム、そしてエッサイを紹介した後、ダビデとつながっていきます。 このように聖書の中に系図が示されるときに、私たちは何を覚えるのでしょうか。そこには、人間の罪と汚れや弱さ、また善を行いたくても行うことができない人間の限界性を知るのです。しかし、そのような私たちにもかかわらず、神は御自身の憐れみを我らに注いでくださったことを覚えるのです。 昔、アブラハムとその子孫とに結ばれた恵みの約束をお忘れにならずに、人間の現実の歩みの中に介入してくださいました。その歴史の延長線上の彼方に来るべきお方を通して私たちを救われるという祝福の光を見出すことができるのです。このように歴史の中に働かれる神の救いの約束に気づく者は、まことに幸いな人です。 Sun, 19 Jun 2016 00:10:00 +0000 わたしの心を守ってください(詩編 141編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160619 no 2016 わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。 悪を行う者らと共にあなたに逆らって 悪事を重ねることのありませんように。 彼らの与える好餌にいざなわれませんように。 (詩編141編4節) 詩人はいま激しい試練に直面しています。逆らう者がわなをしかけ、彼を落とそうとねらっているからです。彼は主の速やかな助けを祈り求めています。 しかし、そのような切迫した状況のなかでも、詩人の思いは冷静に彼の内側に向けられています。悪人の誘いに乗って、彼らと同じ道を歩んでしまう弱さを自身の内に見ています。そして、「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください」と祈るのです。ただ主だけが彼の心を守り、御心にかなう歩みができるように恵みを備えてくださることを知っているからです 私たちは誰かに苦しめられているとき、自己憐憫に陥り、冷静さを失い、その苦しみから助け出されることだけを祈り求めがちです。しかし、この詩人の最大の関心事は主との正しい関係であり、彼自身の心の健やかさでした。詩人は、主の道を歩み続け、常に主に喜ばれる者でありたいと願い、主の恵みをひたすら祈り求めます。この詩人の言葉の中に、真の信仰者としての深い霊性を感じとることができます。 Sat, 18 Jun 2016 00:10:00 +0000 愛の主イエス(ヨハネによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160618 no 2016 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 (ヨハネによる福音書13章1節) 過越祭はイスラエルの救いを一番具体的に、印象的に表すものです。イスラエルは過ぎ越しの小羊の血によって神の裁きの死を免れたからです。過ぎ越しは、はるかに主イエスの十字架の死を指さしています。 それを主イエスは「御自分の時」と言われます。いつどのようにして苦しみにあい、死なれるのかを主イエスは知っておられました。それでもなお主イエスは十字架の道を歩まれます。主イエスの死は偶然でも、避けられなかった事故でもありません。主イエスは「御自分の時」として受け止められます。 その上で「弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜かれ」ました。主イエスの愛は御自分の命をかけての愛でした。十字架が間近に迫っているこのときでも、主イエスの心を占めているのは弟子たちへの愛でした。 この愛こそ福音の中心です。主イエスは私たちを愛し抜いてくださる。いのちをかけて愛してくださる。私たちが弱くても罪深くても愛してくださる。この愛が私たちの救い、命、喜びなのです。 Fri, 17 Jun 2016 00:10:00 +0000 一粒の麦の恵み(ヨハネによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160617 no 2016 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 (ヨハネによる福音書12章24節~25節) 今のわたしがあるのは、主イエス・キリストのおかげです。キリストに出会うまでのわたしは、自己中心的なまでに、自分を愛して生きてきました。自分さえよければ、他のことはどうでもよかったのです。また、聖書の話を何度聞いても、古い自分にしがみついたままで、新しくなろうと真剣に考えたことは少なかったと思います。自分に栄光を帰そうとする自分を憎み、心をすべて主にお委ねすることが、なかなかできなかったのです(25節)。 しかし、そんなわたしを主は忍耐し、愛し続けてくださいました。自分だけを愛する生き方がいかに惨めであるかを知って、思い悩んだときに、主イエスは、十字架を指し示してくださいました。一粒の麦である主イエスが、わたしのために十字架について死んでくださり、すべての罪を赦してくださったことが、本当に分かったのです。 一粒の麦である主イエスの恵みが、多くの実りを与えてくださいました。御子を賜わるほどに、神から大切にされている自分を心から喜び、これからも主を賛美し、主にお仕えしていきたいと思います(26節)。 Thu, 16 Jun 2016 00:10:00 +0000 死んでも生きる(ヨハネによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160616 no 2016 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネによる福音書11章25節~26節) 私たちは、涙ながらに神に訴えることが、時にあるのではないでしょうか。主よ、あなたがいてくだされば、こんなことにはならなかったのに。なぜここにいてくださらなかったのですか、と(21節、32節)。 マルタとマリアの姉妹は、愛する兄弟ラザロの死を深く悲しみました。マルタとマリアも、彼女たちを慰めるために来た人たちも共に涙を流し、彼の死を悼みました。この涙の中には、人の力も、そして神の力さえも、死には打ち勝てないのだという諦めがあったのかもしれません。 しかし、主イエスは、彼らと一緒に涙を流しながらも、死に対して真っ向から立ち向かわれたのです。そして、愛するラザロをよみがえらせてくださいました。 私たちは、どれだけ涙を流しても、どれだけ叫んでも、死を命に変えることはできません。しかし、復活の主は、死んで終わることのない確かな命の喜びへと招いてくださるお方です。だから、どのような悲しみの中にも、主がいてくださることを信じることができます。そして、今日も生きる力と勇気が与えられています。 Wed, 15 Jun 2016 00:10:00 +0000 すべての人はアダムから(歴代誌上 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160615 no 2016 アダム、セト、エノシュ、 (歴代誌上1章1節) 歴代誌上の冒頭には、アダムからの系図のリストが延々と記されています。さながら昔々の墓地に来て墓標を見ている思いになってしまいます。彼らは、この世に生を受け、激動の人生を駆け巡りやがては死んで、これらの墓標に名を刻みました。愛と憎しみの狭間に立ち、ある時は戦って傷つき倒れ、叫び声をもった生身の人間です。 ここに名を連ねる人びとは無意味な存在ではありませんでした。民族の進展に貢献した大切な人びとでした。彼らの人生は、赤々と燃える松明の如きものではなかったかもしれません。ほの暗い灯心のごとくであったかもしれません。どちらにせよ、彼らの人生は、ある時は子として、ある時は父として、命をつなぐものでした。それぞれ命の火をともし続けて来たのです。実に一人ひとりが神の愛の対象であったのです。 私たち、人類は一人の人アダムから誕生しました。彼の罪の故に呻きながら生きています。同時に、アブラハムのすえである第二のアダムであるイエス・キリストが、私たちに与えられています。主によって新たに生まれる希望に生きることができます。 Tue, 14 Jun 2016 00:10:00 +0000 ヨブの悔い改め(ヨブ記 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160614 no 2016 あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 (ヨブ記42章2節、5節~6節) ヨブは神の言葉により、世界の壮大さとその世界をつくられた神の果てしなさとに触れました。ヨブはその言葉のもとに平伏します。すると神は、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(4節)とヨブに対話を求められます。 神は、ヨブが嘆きのなかで思い描いていた以上に、愛に深く、自分をとらえて離さない神であられました。その神に対して、ヨブは「自分を退け、悔い改めます」(6節)。ヨブは神に対する自分の無知を、また、自分に対する神からの愛を低く見積もっていたことを悔い改めたのです。 主はヨブの悔い改めを受け入れ、ヨブを祝福し、三人の友人たちを叱責されます。彼らは神をよく知らず、正しく語らず、ヨブを苦しめたからです。ヨブは、これらの体験を通し、嘆く者を見捨てることのない神とさらに深く出会います。サタンの企て(1、2章)は失敗しました。 私たちは苦難を嘆くばかりで、人の痛みに寄り添えず、神を求めることも少ない者ですが、ヨブが仰ぎ見た同じ神と出会っています。ヨブのように神を求め、真実の悔い改めに生きることを願います。 Mon, 13 Jun 2016 00:10:00 +0000 主権者である神の近づき(ヨブ記 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160613 no 2016 彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。 いるなら、わたしの前に立て。 あえてわたしの前に立つ者があれば その者には褒美を与えよう。 天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。 (ヨブ記41章2節~3節) ヨブ記では40章前半に陸の怪物ベヘモットが語られ、人間では制御できないものの象徴としてレビヤタンが語られています。ベヘモットとレビヤタンを通して、ヨブには理解できない霊的な世界の神秘がヨブの前に開かれます。 ヨブ記のレビヤタンは、ヨハネの黙示録では巨大な竜、サタンとして登場します。もし仮にヨブが黙示録の記述に触れる機会があったなら、サタンの激しい攻撃から実は神が守ってくださっていたことに感謝したことでしょう。 神は、ヨブにレビヤタンと戦う勇気があれば、「わたしの前に立て」と語られます。レビヤタンが恐いのなら、誰が神の前に立ち得ましょうか。ヨブはここで、「自分は正しい、神は間違っている、私は神を告発する」という訴えの愚かさに気付いたことでしょう。 ヨブが神に呼びかけるということは、幾多の生き物、不可思議な怪物という隔たりを越えていくということでした。ヨブは愚かにもその無謀な挑戦を神にし続けてきたのです。そして、神はヨブの切実な愚かさを愛されました。神は、その大きな隔たりを越えて、ご自分からヨブに近づいてくださっています。 Sun, 12 Jun 2016 00:10:00 +0000 迫害や命の危機の中でも(詩編 140編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160612 no 2016 主にわたしは申します。 「あなたはわたしの神」と。 主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、わたしの神よ、救いの力よ わたしが武器を執る日 先頭に立ってわたしを守ってください。 (詩編140編7節~8節) 詩人は、蛇のような鋭い舌を持ち、蝮の毒を唇に含んでいるような敵と遭遇しました。彼らは言葉の罠を仕掛け、行く道に落とし穴を掘っています(4~6節)。 詩人は、その中で神に祈り訴えます。「主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と。また、敵が、自らの唇の毒を自分の頭にかぶり、立ち上がることができなくなれば、と願います。詩人は、舌を操って人を陥れる者は、神により退けられると信じています(10~12節)。 ところで、このメッセージを準備しているとき、フランスでISによる同時多発テロが起こりました。悲しみや怒りの中で、嘆き祈る声が上がっています。今の時代、群衆の中に身を隠すテロの罠が、社会を脅かしています。 では、詩人の「わたしが武器を執る日、先頭に立ってわたしを守ってください」という祈りを、今日、どのように理解すればよいのでしょうか。私たちがとるべきは神の武具、身に着けるべきは、平和の福音です(エフェ6章13~18節)。偽りの言葉を退け、世界の平和のために根気よく祈り続けることが求められています。 Sat, 11 Jun 2016 00:10:00 +0000 主イエスは良い羊飼い(ヨハネによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160611 no 2016 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 (ヨハネによる福音書10章10節~11節、14節) 聖書は、神を「羊飼い」に、人間を「羊」に譬えて語ることがよくあります。(詩23編など)。羊は、たいへん弱い動物です。一人で自分の身を守ることもできませんし、一人で餌にありつくこともできません。羊飼いがいる群れから、はぐれてしまえば、その羊は生きていくことができなくなるのです。同じように、人間も、羊飼いである神のもとから離れて生きていくことはできません。 主イエスは、「わたしは良い羊飼い」である、とおっしゃいました。良い羊飼いであられる主イエスは、私たちのことをよく知っていてくださいます。自分や他人が自分のことを知っている以上に、もっと深いところで、わたしのことをいつも心にかけてくださるのです。 なにより、主が良い羊飼いであられるのは、私たち羊のために、十字架の上で命を捨ててくださったからです。神から離れ、失われた羊を探し出すために、神は御子をこの世に遣わしてくださいました。今、神と共に生きることができる幸いを覚えつつ、わたしのすべてを知っていてくださる主の御声に聴き従って歩みましょう。 Fri, 10 Jun 2016 00:10:00 +0000 神の業が現れるため(ヨハネによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160610 no 2016 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (ヨハネによる福音書9章3節) 今の自分を受け入れることができなくなるとき、私たちは、その原因がいったい何であるのかを追求しようとします。自分がこうなったのは、「あの人のせいだ」と言ってみたり、「過去にあんな不幸な出来事が起こったのには、ちゃんとした理由や原因があるに違いない」と考えてみたりします。しかし、それで納得できるわけではありません。何かが心に引っ掛かったまま、生きなければなりません。 ところで、人生で遭遇する出来事において、何が良いことで、何が悪いことでしょうか。社会的な価値判断がそれを決めるのでしょうか。一般にはそうです。しかし、主イエスがくだされる判断は、違います。主イエスは、神の業があなたに現れるために、あなたは、今、ここに生かされているとお語りくださいます。つまり、神があなたに何をしてくださるのか。そこに、あなたのこれからの人生がかかっているのだというのです。 キリスト者も辛いことをたくさん経験します。それでも、前を向いて生きられるのは、運命のいたずらではなく、神こそがわたしのすべてを支配しておられることを知っているからではないでしょうか。 Thu, 09 Jun 2016 00:10:00 +0000 赦されて生きる(ヨハネによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160609 no 2016 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 (ヨハネによる福音書8章11節) 生きていくうえで大切なことがあります。それは、自分がいったいどういう人間であるのかを知ることです。それも、たまに思い起こすのではなく、日々、主からいただくみ言葉によって、自分を位置づけ、今日を生きて行くことが大切だと思います。 私たちが、毎日聴くべき主イエスの言葉がここにあります。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。 私たちは、十字架の主によって、すべての罪が赦されている人間です。何と幸いなことでしょうか。私たちは、もう自分が犯す罪によって、のたうちまわって苦しむことはないのです。私たちは、もう「自分は罪深い人間だ」「決して赦されない罪を犯した人間だ」と、自分で自分に言い聞かせながら、辛い毎日を生きる必要はないのです。 ただお一人、罪を罪として裁くことがおできになる主が、そして、その罪を背負って十字架についてくださった主が、きょうも私たちに告げてくださいます。「わたしもあなたを罪に定めない」。この言葉が、私たちを本当に生かすのです。 Wed, 08 Jun 2016 00:10:00 +0000 主の御手の中で(ヨブ記 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160608 no 2016 全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。 神を責めたてる者よ、答えるがよい。 (ヨブ記40章2節) 神は、ヨブに言葉を促し続けられます。「神を責めたてる者よ、答えるがよい」と。その神の迫力に、ヨブはたじろぎを見せます。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう」(4節)。ヨブは神の前に平伏せざるを得ませんでした。 そういうヨブから言葉を引き出そうと、神はさらに言葉を投げかけられます。「男らしく、腰に帯をせよ」と(7節)。古代中東の衣服は、日本の着物のようにボタンがないので、帯を締めなければ、「締まりのないもの」になってしまいます。神はまるでヨブに、本腰を入れてわたしにかかって来いと迫っておられるかのよう、そして、このやり取りを楽しんでおられるかのようです。神は、ヨブをご自身の御手の中に置き続けてこられました。 苦難の意味を問うヨブの問題は解決されませんでしたが、解消しました。苦難の意味がわからなくてもよいことを知り、神との語らいの中に置かれている幸いがヨブを包みました。神は、私たちが苦悩を語るとしても、本気で神と向き合うことを喜んでくださいます。 Tue, 07 Jun 2016 00:10:00 +0000 野の獣を養っておられる神(ヨブ記 39章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160607 no 2016 誰が野生のろばに自由を与え 野ろばを解き放ってやったのか。 その住みかとして荒れ地を与え ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。 (ヨブ記39章5節~6節) 前章から挙げられている獅子や烏、鹿、野生のろば、野牛、駝鳥、野の獣、鷹や鷲は、人間が飼い馴らすことが難しい生き物です。馬は身近な動物ですが、だからこそ人は馬の力強さを知っています。 神は語られます。「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは、お前が分別を与えたからなのか。…高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか」(26、27節)。お前がしたからなのか、と神から問いかけられたとき、ヨブは自分のちっぽけなことと、神の偉大さを覚える以外にありませんでした。 しかし神は、自らの小ささに打ちのめされたヨブが、その小ささから神に向かうことを望んでおられました。神はこの世にある生きとし生けるものを養っておられます。神はいずれの生き物も御手のうちに置き、命を育み、成長を守っておられます。これは動物だけのことではありません。神はヨブの命をも支えてこられました。 自分の世界に浸っていたヨブは、自分の思いを遥かに超えた神の世界に新たに目が開かれます。私たちは、「空の鳥をよく見なさい」(マタ6章26節)の御言葉を思い起こします。神との語らいの中で自然を見る目は幸いです。 Mon, 06 Jun 2016 00:10:00 +0000 神からの答え(ヨブ記 38章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160606 no 2016 これは何者か。 知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。 男らしく、腰に帯をせよ。 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 (ヨブ記38章2節~3節) 神はエリフの言葉に続いて、長い沈黙の後に語り出されました。ヨブの問いは「自分は無実であるのに、何故このように苦しめられるのか、神の正義はどこにあるのか」というものでした。神は、この問いに直接的には答えてはおられませんが、ヨブに語りかけてくださいました。 神はこの時を心待ちにしておられたかのようです。これまで、ヨブが自分の身にふりかかった災いの不可解さに耐え続けたように、神も沈黙という忍耐を重ねてこられました。この二つの忍耐がついに終わりを迎えます。 「わたしが大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われるとき、ヨブは答えることができません。創造世界について「お前は何を知っているのか」と問われても、自分の存在の小さなことを自覚する以外にないのです。 しかし、神の厳しい言葉はヨブの口をふさぐためではありません。「答えてみよ」と、神はヨブのさらなる言葉を聞こうとされます。神はヨブとの交わりを望んでおられます。今はもう沈黙ではなく、言葉を通して。時は満ちました。それはヨブにとって厳しくも、恵み深い時です。 Sun, 05 Jun 2016 00:10:00 +0000 神の配慮の中を歩む幸い(詩編 139編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160605 no 2016 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 (詩編139編1節~2節) 神に従って歩む人生は、自由がなく窮屈に感じられるということはないでしょうか。若いころ、わたしはそのように感じていました。それは、神が、わたしを究めておられる、わたしのすべてを知っていてくださる、ということを理解できていなかった、または、心の中にうまく納まっていなかったからかもしれません。 しかし、この詩編の詩人は、そのようなわたしの不安を包み込むように、大きなスケールで神の御性質に目を向けています。そして、その神に従って歩む人生の確かさを告白しています。神ご自身がわたしを存在させ、わたしのすべてをご存じの上で、配慮をもって歩みを導いておられるのだと。 「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる」(17、18節)。 この詩人の告白に、私たちの告白を重ねましょう。神に従う歩みは、神の御計らいの中に置かれているがゆえに確かであり、それゆえ大胆に歩んでいけるものなのです。 Sat, 04 Jun 2016 00:10:00 +0000 キリストの時を信じる(ヨハネによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160604 no 2016 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」 (ヨハネによる福音書7章6節~7節) 生きることは、時を刻むことでもあります。私たちはどういう時を刻んで生きているのでしょうか。ある人は、「わたしの時間は、わたしのものだから、どう使おうが構わない」と言うでしょう。またある人は、「わたしの将来設計は、わたしが計画を立てて、その実現のために、時間をかけて努力するのだ」と言うでしょう。主イエスがおっしゃった「あなたがたの時はいつも備えられている」とは、まさにそういうことです。自分の思いどおりに時を過ごし、神さえも好きなように動かそうとすることなのです。 しかし、主イエスは、「わたしの時」とおっしゃいました。その「わたしの時」とは、主が十字架にかけられる時を指し示しています。主は、人々とは違う、神の時を刻んで生きておられました。 私たちキリスト者は、他の人々と同じ時の中を生きています。しかし、その中心にはいつも、神が定められた時を忠実に歩まれた主イエスがおられます。そして、主の十字架を見上げる度に、神の大きな愛を知り、罪赦されている恵みを覚えます。私たちは、主と共に時を刻む歩みへといつも招かれています。 Fri, 03 Jun 2016 00:10:00 +0000 わたしが命のパンである(ヨハネによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160603 no 2016 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」 (ヨハネによる福音書6章35節、37節) この世が与えるパンは、確かに、その日の命を支え、美味しいという満足と喜びを与えてくれるでしょう。また、パンだけではなく、この世のさまざまな楽しみが、私たちの生きる命を豊かにしてくれるでしょう。 しかし、人間もこの世のものも、やはり限界があるのではないでしょうか。永遠に私たちに満足を与え続けることはできません。まして、死を前にした時に、それまで自分を支えていたものが役立つ保証はどこにもありません。 主イエスは、「わたしが命のパンである」と、ご自身を紹介してくださいました。その命とは、「終わりの日に復活させること」ができる命です(39、40節)。また、この世での生活において、罪や弱さを覚えることがあっても、決して、主イエスは私たちを外へ追い出したり、失われたままにしておかれたりはなさいません(37、39節)。 主イエスこそが「命のパン」です。この主の招きに応えて、主のもとに行くとき、私たちは飢えることも、渇くこともなくなります。きょうも主のまことの命に生かされていることに、感謝をささげましょう。 Thu, 02 Jun 2016 00:10:00 +0000 良くなりたいか(ヨハネによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160602 no 2016 さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、またもう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 (ヨハネによる福音書5章5節~6節) 主イエスは不思議なことをおっしゃいました。38年も重い病で苦しんでいた人に向かって、「良くなりたいか」と問いかけられたのです。誰に言われるまでもなく、良くなりたいに決まっています。良くなりたいからこそ、水が動いた時に、真っ先に飛び込んだ者は癒される、と言われていたベトザタの池のそばに居続けているのです。 しかし彼は自分の足で池に向かうことができませんでした。良くなるかもしれないというわずかな望みも、彼にとっては決して届かない望みだったのです。ですから、主イエスから「良くなりたいか」と問われても、すぐに「良くなりたいです」と答えることができませんでした。 私たちにも、「良くなりたい」と長い間、願っていることがあるかもしれません。それにもかかわらず心のどこかで「絶対に良くなるはずはない」と思い込んでしまいがちです。その思い込みが、主の言葉を聞こえなくしてしまっているのではないでしょうか。しかし、主イエスの言葉は、そのような私たちの心を貫いて届けられます。男が立ち上がって歩いたように、主の言葉は、私たちを癒す力があるのです。 Wed, 01 Jun 2016 00:10:00 +0000 神の驚くべき御業(ヨブ記 37章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160601 no 2016 ヨブよ、耳を傾け 神の驚くべき御業について、よく考えよ。 (ヨブ記37章14節) エリフは、自然を通して示される神の御声のとどろきとその業をヨブに示します。激しい稲妻を通して神の御声はとどろき、神が命じられるままに雪は降り積もり、雨は激しく降ります。 その圧倒的な神の御業を前に、彼がヨブに語るのは、神の驚くべき御業について、よく考えよ、ということです。これまでヨブは、自分が受けてきた苦しみと辛さを神に訴え、自分に襲いかかって来た災いを叫び続けてきました。しかし、エリフはここで、「人間が何か言ったところで、神が言い負かされるだろうか」と語ります(20節)。 ここで彼がヨブに語っていることは、神を畏れ敬うことです。全能者は大いなる力をもって私たちを治めておられます。決して無意味に私たちを苦しめることはなさらない、とエリフはヨブに最後の言葉を語ります(23節)。 現実には、神を畏れる者にも苦難があることは、誰もが知るところです。それゆえにこそ、私たちの思いをはるかに超えた神のご計画を、よく考えるべきです。苦難の中にある私たちにも、神がその驚くべき御業を悟らせてくださるように祈り願います。 Tue, 31 May 2016 00:10:00 +0000 苦難を通して救われる神(ヨブ記 36章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160531 no 2016 神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し 苦悩の中で耳を開いてくださる。 (ヨブ記36章15節) 「待て、もう少しわたしに話させてくれ」(2節)。長く語ってきたエリフですが、彼にはどうしてもまだ話したいことがあるようです。彼は37章にかけて最後の言葉を語ります。 ここで語られているのは苦難の意味です。神は苦悩の中にある者に、その行いを指摘し、罪の重さを示され、その行いを悔い改めるよう諭されます。また神は、貧しい人をその貧苦を通して救われ、苦悩の中でその人の耳を開き、お語りになるというのです。苦難の中でこそ聞くことができるのが神のみ言葉です。 エリフは苦難に喘ぐヨブに、苦難の意味を語ります。苦難は私たちにとって喜ばしいものではありません。どうしてもそれを避けたい、そう思うのが苦難です。しかし、ここでは、それもすべては私たちのためであり、私たちが心から悔い改めて神に立ち返り、神の救いを受けるためだというのです。 神は、苦難を通して私たち罪人を救おうとされています。私たちの耳を開いてくださいます。私たちをはるかに超えた神の御旨を信じ、きょうも歩みたいと思います。 Mon, 30 May 2016 00:10:00 +0000 神を待つ(ヨブ記 35章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160530 no 2016 あなたは神を見ることができないと言うが あなたの訴えは御前にある。 あなたは神を待つべきなのだ。 (ヨブ記35章14節) エリフは、ヨブと傍らにいる友人たちに対して語り続けます。ここでエリフは、あなたがどんなに過ちを犯してもまた正しくても、神は人間によっては動かされない、と語ります。神は全能であられ、変わることのないお方、この方に一切の主権はあります。 ここでヨブに語られているのは、神に対して空しく口数を増すことではなく、「神を待つ」という信仰です。14節にあるように、ヨブ自身の訴えは既に神の前にあります。だから、ふさわしい時になされる神の裁きに委ねて、神を待て、とエリフは言います。 私たちは、神に自分の悩みや苦しみを訴えることがあります。それは私たち自身の信仰です。けれども、いつの間にか空しく口数を増しているだけの時もあるかもしれません。私たちの訴えが神を動かすのではありません。ふさわしい時に、神は御自身の業を私たちに成してくださいます。 私たちは、試練を通して神の前に砕かれることもある中で、この方を待ちたいと思います。その中で、きょう一日も、心からの祈りと願いを神に献げたいのです。 Sun, 29 May 2016 00:10:00 +0000 祈りに答えてくださる神(詩編 138編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160529 no 2016 ダビデの詩 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。 (詩編138章1節、3節) 「ダビデの詩」とありますが、実際はダビデ起源の詩が捕囚後に編集されたものと思われます。詩人は神が祈りに答えてくださり、捕囚から解放されたことに深い感謝を覚えています。「呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました」。 今も、神は私たちの祈りに、求めに答えてくださる方です。しかしそれは、短絡的に何でもわたしの願い通りになるということではありません。けれど、祈りを通して神を見上げることで、自分の悩み苦しみにだけ集中していた思いから解き放たれ、神の配慮の中に生かされていることを思い起こすことができます。そのようにして、神の恵みの御手に自らをゆだねることの確かさと、平安へと導かれていきます。 詩人は、将来の歩みについても神に信頼し祈ります。「わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください」と(7節)。 私たちも、この神に信頼して祈りましょう。 Sat, 28 May 2016 00:10:00 +0000 もう渇かなくてよい(ヨハネによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160528 no 2016 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネによる福音書4章14節) 暑さによって喉が渇くと水を飲んで喉を潤したくなります。同じように、魂や心においても、私たちは渇きを覚えます。ちょっとしたことが原因で、心が痛み、傷ついてしまうのです。いったいどうしたら、それらの渇きを満たすことができるのでしょうか。ぽっかりと空いた自分の心を満たすために、様々なものを当てはめようとするのですが、どうもしっくりこないのです。どれだけ努力しても、いつまでたっても満たされない日々に私たちの心はますます渇きを覚えるばかりなのです。 しかし、主イエスは驚くべきことをおっしゃいます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と。私たちは、渇いて苦しむ必要はないのです。渇きを満たすために、あくせくして疲れ果てることもありません。たとえ渇きを覚えたとしても、主イエスのもとに来たらよいのです。 神の愛のゆえに、私たちは永遠の命をいただきました。神と共にある豊かな命は、どんなことがあっても枯れ果てることはありません。泉のように、いつもあなたの心の底から命の水は、湧き出てきます。この主のもとに行きましょう。 Fri, 27 May 2016 00:10:00 +0000 あなたも新しくなれる(ヨハネによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160527 no 2016 「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 (ヨハネによる福音書3章3節) 人はだれでも、「新しくなりたい」という憧れを持っています。今の自分より、もっと魅力のある自分になりたいと心のどこかで思っているのです。しかし、その憧れは憧れのままで終わってしまうことが多いのではないでしょうか。一所懸命、手を伸ばしても、新しくなれない自分に希望が持てなくなるのです。 聖書に、ニコデモという人が登場します。彼もまた新しく生まれ変わって神の国に入って、救われたいと心の底では願い続けていたのです。しかし、「人は新たに生まれなければ」との主イエスの言葉を聞いた時、受け入れることができませんでした。 新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。自分の力で人生をやり直すことでしょうか。そうではありません。「新しく生まれる」というのは、「上から生まれる」という意味でもあります。上から、つまり神の御手によって、神の力によって生まれるということです。そのために、主イエスは十字架で死んでくださいました(14節)。この十字架を見上げて、神を信じる時、あなたも罪赦され、神に救われた人間として、本当に新しくされるのです。 Thu, 26 May 2016 00:10:00 +0000 最初のしるし(ヨハネによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160526 no 2016 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 (ヨハネによる福音書2章11節) 主イエスが最初のしるしをなさったのは、婚礼の席においてでした。結婚は、人生の大きな喜びの一つです。主はこの喜びの席に共にいてくださいました。しかし、その宴席で、困ったことが起こりました。準備していたぶどう酒がなくなったのです。喜びに水を差すたいへんな出来事でした。その時、マリアは、息子のイエスに何とかしてほしいと願います。しかし、主は願うだけではなく、主がなさることに、主の言葉に信頼することに招かれました。 このとき、主の言葉に信頼し、それに仕えることによって、人びとは主の御業の素晴らしさを経験します。つまり、水がめに汲んだ水が、ぶどう酒に変わるというしるしをその目で見ることに導かれました。 このしるしは、やがて来る「わたしの時」(4節)の前触れです。それは、主イエスが十字架について死なれる時のことを指し示しています。私たちも主を信じ、主の言葉に信頼して歩むとき、主の御業を経験します。欠乏や苦難の中で、なお主の言葉に信頼して生き、十字架を仰ぐとき、私たちも栄光を見ることに導かれます。 Wed, 25 May 2016 00:10:00 +0000 全能者への信仰(ヨブ記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160525 no 2016 神が罪を犯すことは決してない。 全能者は正義を曲げられない。 (ヨブ記34章12節) エリフが、知恵ある者、知識ある者に語っています。彼はここでも、ヨブのこれまでの言葉を引用してその姿を厳しく問うています。エリフがここで繰り返し語っているのは、神こそ全能のお方であり、人はやがて塵に返るだけの存在だということです。 神は罪を犯すことのない全能者(12節)、人の一歩一歩を見ておられる方(21節)、人を裁かれる方だと言われます(23節)。その方に対して、ヨブは自分の正しさのみを主張していると、エリフは問うのです。 ヨブ記には、主なる神について「全能者」という言葉が多く用いられています。神は私たちのすべてを握っておられるお方であり、私たちの一歩一歩を見ておられます。また、世の権力者をもその座から引き下ろすことのできる全能の方です。 エリフの言葉は間違いではありません。しかし、ヨブもまた神は全能の神、と信じていたでしょう。しかし、そのようにわかってはいても、苦悩し、嘆かずにはおれないのです。私たちにもその苦しみはわかるのではないでしょうか。このヨブを全能の神はお見捨てになりません。 Tue, 24 May 2016 00:10:00 +0000 私たちのための執り成しと代償(ヨブ記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160524 no 2016 私たちのための執り成しと代償 (ヨブ記33章27節~28節) エリフは、ヨブに向かって自らの心を率直に語ります。彼は、これまでヨブが語ってきたことを咎めます。そして、激しい苦難を味わう者に、一人の御使いを示します(23節以下)。 この御使いは、苦難に呻く者のために神に執り成しをしています。また、滅亡に落とさないために、神が支払われた代償を見いだしました。この執り成しと代償によって、苦難に呻いていたこの人は新しくされ、若者よりも健やかにされるというのです。 私たちにとっての健やかさがここにあります。27~30節を見ると、この苦しんでいた人は神によって滅亡から救い出されたことを喜び、命の光の輝きに包まれています。そしてこの人はこれまでの罪を悔い改めてもいます。 このような神との関係こそ、私たちを健やかにするものです。罪人は私たちを神に執り成してくださる方、また私たちの身代わりとなってくださる方を必要としています。私たちにとってその方は、真の仲保者であられ、御自身を献げてくださったイエス・キリストです。この方によって、私たちも命の光の中を歩みます。 Mon, 23 May 2016 00:10:00 +0000 真実の言葉を語る(ヨブ記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160523 no 2016 いや、わたしはだれの顔を立てようともしない。 人間にへつらうことはしたくない。 (ヨブ記32章21節) 32章になり、突然エリフという人が登場します。彼はヨブに対しても、またヨブの三人の友人たちに対しても、憤りを覚えています。ヨブ記では、これまでには出てこなかったタイプの人です。 おそらく、エリフはまだ若かったために、これまで年長者たちに意見を言うのを控えていたのかもしれません。しかし、ヨブと友人の討論にもはや黙っていることができず大胆に語りはじめます。彼はそのような自分について「腹の内で霊がわたしを駆り立てている」(18節)と言い表しています。 霊によって彼が語ろうとしていることは、人の顔を立てることや、へつらうことではありません。彼は、苦難に喘ぐヨブの問題の核心について語ろうと決意しています。もし、自分がへつらう言葉を語るなら、神が自分を退けるように、とすら言います。 神の霊に導かれて語る言葉は、真実の言葉です。へつらうことではなく、その人を生かす言葉です。私たちもきょう一日それぞれ遣わされた場所で、主イエスを証しする言葉を語る者にされたいと思います。 Sun, 22 May 2016 00:10:00 +0000 天上の礼拝を望みつつ(詩編 137編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160522 no 2016 バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。 (詩編137編1節) 詩人は今、捕囚の地バビロンで静かに祈っています。エルサレム神殿での荘厳な礼拝を思い、あざける者たちの中で現在の状況を嘆いています。「どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で」(4節)。 私たちの礼拝はどうでしょうか。エルサレム神殿の礼拝のように、力強い賛美が響いている教会もあるでしょう。けれど、自分の賛美の声だけが聞こえるような礼拝を守っている教会もあります。あるいは、礼拝の場に集うことができず、いつも一人の礼拝という方もいらっしゃるかもしれません。異教の地に生きる信仰者たちの嘆き、悲しみを私たちもまた経験しながら生きています。 けれど、どんなに小さな祈り、賛美、礼拝でも、神はそこに目を注いでくださっています。神は、キリストを通して礼拝する者を求めておられ、その賛美と祈りを喜んで受け入れてくださいます。私たちの嘆き、叫びをも神は聞いていてくださいます。 ですから、やがて加えられる天上の礼拝に思いを馳せつつ、今は、それぞれが置かれている場で、心からの礼拝をささげてまいりましょう。 Sat, 21 May 2016 00:10:00 +0000 来なさい。そうすれば分かる(ヨハネによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160521 no 2016 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。…イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。 (ヨハネによる福音書1章38節~39節) 自分たちの前を歩いておられる主イエスを、じっと見つめながらついていく弟子たちがいました。私たちもまた、主イエスの背を見つめながら、きょうも歩き続けます。主は、私たちのその眼差しに気付いてくださり、立ち止まり、振り向いてくださるのです。 そして、呼びかけてくださいます。「何を求めているのか」と。主イエスに従いながらも、主のことが分からなくなることがあるかもしれません。そもそも、なぜ、今わたしは主イエスという方について行っているのかさえ分からなくなることがあるのです。 しかし、主イエスは、言葉にならない私たちの思いを汲み取ってくださいます。「あなたはわたしの何を知りたいのか。わたしに何を求めているのか」と。主は、問いを私たちに投げかけながら、さらにおっしゃいます。「来なさい。そうすれば分かる」と。 この主イエスのお言葉があるからこそ、安心して主に従うことができます。主に従えば、分かるのです。そして、いつも主に新しく出会えます(41節)。主が私たちの「救い主」であるとはどういうことかを、きょうも教えてくださいます。 Fri, 20 May 2016 00:10:00 +0000 励ましの祈り(ヘブライ人への手紙 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160520 no 2016 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。 (ヘブライ人への手紙13章20節~21節) この手紙は、迫害と艱難と戦いながら走り続ける信仰者に、大いなる救いの事実を見上げさせ、信仰の勇気を与え続けてきました。その上からの励ましが、最後の美しい祝祷に凝縮されます。 神の栄光の反映である、神の御子イエス・キリストが、十字架で「永遠の契約の血」を流してくださり、私たちが命に至る道を開いてくださいました。この主が、憐れみ深い「大牧者」として、迷える「羊」である私たちを、完全な安息へと導いてくださいます。主イエスが「死者の中から引き上げられた」ことこそが、永遠の救いの契約が成就されたことの確証です。それゆえ私たちには、神との間に「平和」が与えられています。 この「平和の神」が、世との戦いに疲れ果て、重荷を負う者たちに、永遠の平安を与えてくださいますように。どうかきょうも激しい戦いの中で、脱落せず、つまずかず、「御心」を行い、神の栄光を現すことができますように。 この祝祷にあずかるとき、今の私たちも勇気と励ましを与えられます。この祝祷に送り出されて、きょうも走り抜きたいと願います。 Thu, 19 May 2016 00:10:00 +0000 今こそ、踏ん張り時(ヘブライ人への手紙 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160519 no 2016 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。…エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。 (ヘブライ人への手紙12章16節~17節) 私たちは急に決断を迫られ、一気にその後の進退が決まるようなことに直面するときがあります。主イエスのもとに「正しい人を装う回し者」が現れます。彼らは主イエスの揚げ足を取るため、熟慮を重ねた抜け道のない質問を投げかけました。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(22節)。 目の前に困難な現実が続くことで、自暴自棄になってしまって、神への信仰を投げ出してしまいたくなる時があるでしょう。しかし、たくさんの信仰の先輩たちが、まるで沿道からランナーを励ますようにして、私たちを囲んでいます(1節)。今が踏ん張り時だ、と。主イエスは「信仰の創始者また完成者」として(2節)、マラソンを始めさせ、走り抜かせてくださるトレーナーです。この方が、半歩先を一緒に走ってくださっています。 このマラソンからの脱落者の例として、エサウが挙げられているのは興味深いことです。彼は、今すぐここでのインスタントな満腹を求めて、一番大事なものをやすやすと売り渡し、取り返しのつかないことになりました。私たちは、今すぐここでの快楽に流され、永遠の宝の希望から離れてしまうことがないようにしたいのです。 苦しい時こそ、一歩一歩を刻むようにして、毎日こつこつと聖書を読み、お祈りをし、霊的に養われることを求めることです。その積み重ねが、あなた自身を変えてくれます。 Wed, 18 May 2016 00:10:00 +0000 神よ、答えてください(ヨブ記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160518 no 2016 どうか、わたしの言うことを聞いてください。 見よ、わたしはここに署名する。 全能者よ、答えてください。 (ヨブ記31章35節) 「ヨブは語り尽くした」(40節)。彼は耐え難い試練の中にあって、自分のすべてを語り尽くしました。これまでヨブは、彼のもとを訪れた三名の友人から、自らの信仰を咎められてきました。無理解な友人たちに囲まれて孤独と絶望へと追いつめられたヨブは、ここで、自分はこれまで、これをしたことは決してない、あれをしたことは決してない、と神の前での潔白を繰り返し叫びます。 ヨブがこれほど激しく訴える背後には、全能者である神に答えてほしい、という願いがあるからです。私たちが耐え難い苦しみに向き合わされるときも、自分の苦悩や悩みをそのまま神に注ぎ出すならば、それは神への信仰の始まりです。孤独と絶望の中で、ヨブは全能者を畏れつつ、この方にありのままにぶつかって行きます。そして、神はその叫びに答えてくださいます。 神は私たち一人一人に、悟り得ない深い御旨を持っておられます。私たちは主イエスの十字架にある神の愛を信じるゆえに、幸いも不幸も神からのものと受け止めて歩みたいものです。 Tue, 17 May 2016 00:10:00 +0000 あなたはお答えにならない(ヨブ記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160517 no 2016 神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない。 御前に立っているのに あなたは御覧にならない。 (ヨブ記30章20節) 29章で「過ぎた年月」の繁栄を思い起こしたヨブは、30章では一転して、嘲笑を受けている「今」の自分を語ります。かつては人々から敬意を払われていた彼も、今は自分より若い者から嘲笑を受けています。 しかし、ヨブにとって何よりも辛いことは、神に向かって助けを求めて叫んでいるのに答えがない、御前に自分が立っているのに自分に目を留めてもらえない、と彼が感じているところにあります。ヨブにとっての今は、神が自分に敵対し怒っておられ、自分を死の国へ連れ戻そうとされている、と思われるときです。 信仰者もさまざまな試練を避けることはできません。試練の中で、神は自分に沈黙されている、と思われることもあるかもしれません。信仰者にとって辛いことです。しかし、ヨブが自分のありのままをすべて語り尽くし、注ぎ出した後に、神はヨブにお答えになり、彼は最後に神の憐れみを受け取ることになります。 私たちも試練の中にあって主イエスに信頼して歩み続けるとき、最後に神の愛を受け取ることに導かれます。 Mon, 16 May 2016 00:10:00 +0000 心からの声を神に上げる(ヨブ記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160516 no 2016 どうか、過ぎた年月を返してくれ 神に守られていたあの日々を。 (ヨブ記29章2節) どうか、過ぎた年月を返してくれ!ヨブが苦難の中で、心からの叫びの声を上げています。ヨブは、かつての自分の繁栄の日々を思い起こしています。彼は、これまで人びとから敬意を受けて歩んでいました。しかし、今は違います。ヨブは繁栄からは遠く、苦難の中にあります。 ただ、ここでのヨブの嘆きは、あくまでも神との関係の中でのことです。「神に守られていたあの日々」をヨブは思い起こしています。また、神との親しい交わりや全能者が自分と共におられたときのことを思い起こしてもいます(4、5節)。 私たちの生涯にも、ヨブのように、今自分には神の守りがないと思われる試練の時があるかもしれません。ヨブの嘆きは、私たちが人生で経験する悲しみと痛みを代弁していると言えます。 ヨブはその中で、神からの答えを求めて心からの叫びと嘆きを神に訴え続けてきました。そして、その叫びは神に聞かれます。私たちも、きょう一日、心からの祈りの声を神に上げる者でありたいと思います。 Sun, 15 May 2016 00:10:00 +0000 聖霊による神の業の宣教(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160515 no 2016 「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 (使徒言行録2章11節) 教会が伝道へと出ていく上で解決されなければならないのが、言葉の問題でした。それは外国語を修得するという外的な問題だけではありません。私たちは同じ言葉を話しながら心が通じ合わず、通い合わないという現実にも直面します。互いに話し合いながら、それで心が通い合うわけではなく、むしろ誤解したり、対立したり、ぶつかり合っていきます。そしてどんなに熱心に語り合っても、それによって問題が解決し、心が通い合うようになるよりは、むしろますます離反し、敵対してしまう、それがバベルの呪いです。 これを解決できるのは、交わりの絆である聖霊だけです。聖霊が働かれるとき、そこに和解と交わりを生み出すような言葉が語られていくようになります。聖霊降臨の出来事とは、バベルの呪いが解かれて、言葉による交わりが回復されるようになったということでした。それぞれが理解し、通じ合う言葉によって「神の偉大な業を語る」ようになったのです。そしてそこから教会の宣教は、世界に向けて開始されていきました。 Sat, 14 May 2016 00:10:00 +0000 見えない希望を信じる(ヘブライ人への手紙 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160514 no 2016 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 (ヘブライ人への手紙11章1節~2節) 「信仰」とはどういうことかを考えるときに、なにより大事なのは、信仰に生きた「昔の人たち」の生きざまに学ぶことだと、この11章は教えてくれているように思います。 大洪水が来る予兆など何もないのに、信じて箱舟を造ったノアのように(7節)。ただ神の導きを信じて「行き先も知らずに出発した」アブラハムのように(8節)。 こちら側には何の手がかりもないのに、目には見えない希望の約束だけを信じて、飛び込んでいく。彼らのような信仰が、自分のうちにあるだろうかと、気後れを覚えさせられます。 しかし、11章を読み進めているうちに、違う視点をも与えられました。人の「信仰」に先立つ「神の恵み」の視座です。つまり、23節以降を、「信仰によって」を「神の恵みによって」と置き換えて読むような視点です。 「昔の人たち」が偉大なのではなく、彼らに「信仰」を与えてくださった神の恵みが偉大なのです。そして神は、彼らと共におられたように、私たちにも信仰を与え、共におられます。 Fri, 13 May 2016 00:10:00 +0000 忍耐が必要なのです(ヘブライ人への手紙 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160513 no 2016 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。…自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。…神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 (ヘブライ人への手紙10章32節~36節) 「忍耐が必要」と、聖書は繰り返し教えています。忍耐とはどういうことでしょうか。不当な暴力を受けても、我慢だ辛抱だ、ただ黙って耐え忍ぶのだと単純に考えてはいけません。むしろ出エジプト以来、聖書の救いのメッセージが、差別や抑圧との戦いを支えてきたという歴史があります。戦いが必要な時はあります。 「忍耐」とは、希望と常に結びついています。「いつまでも残るものを持っている」という希望です。神が約束してくださった、この永遠の宝の希望を励みに、濁流のような試練の中でも、流されず、踏みとどまることです。イエス・キリストを主とする信仰に、踏みとどまることです。それが忍耐です。 この手紙の聴衆は「あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ」、財産をも奪われました。サタンの狙い撃ちです。私たちもまた、クリスチャンと名乗る以上、必ず世で苦しみがあります(1ペト4章12節など)。大事なことは、それにひるむことなく、信仰によって命を確保することです(39節)。そのために、我慢ではなく、「喜んで耐え忍」びます。 Thu, 12 May 2016 00:10:00 +0000 キリストの血の効力(ヘブライ人への手紙 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160512 no 2016 もし、雄山羊と雄牛の血…が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 (ヘブライ人への手紙9章13節~14節) 「生き物の命は血の中にある」、「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています(レビ17章11節)。いけにえが屠られると、赤い鮮血がおびただしく流れ出ます。血を流し、がくがくと震えて、いけにえが絶命していきます。自分の身代わりに死んでいくのです。壮絶な光景です。そのような犠牲の姿を見ることは、信仰生活に緊張をもたらしたことでしょう。 その神殿祭儀において流された血は、やがて与えられる、イエス・キリストの血による「永遠の贖い」を指し示すものでした(ヘブ9章12節)。「この杯は、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの血で立てられた新しい契約である」とは、聖餐式の式文です。そこで思い起こされるのは、あの十字架の上で流された主の赤い鮮血です。主の壮絶な絶命です。 この主イエスの血を真剣に思い起こすなら、私たちの中で必ず何かが変わり始めます。キリストの血は、私たちの良心を清めて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に真剣に仕える者と変えるはずです。 Wed, 11 May 2016 00:10:00 +0000 主を畏れる(ヨブ記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160511 no 2016 そして、人間に言われた。 「主を畏れ敬うこと、それが知恵 悪を遠ざけること、それが分別。」 (ヨブ記28章28節) 人間には銀や金などを採掘する知恵がありました。また、硬い岩を切り裂き、川の源をせき止めてまで、価値のありそうな物を得る知恵すら持つようになりました。 では、本当に価値のあるもの、すなわち私たちを生かす真の知恵を、人間は探せるのでしょうか。どこにあるのでしょうか。「それは命あるものの地には見いだされない」(13節)と言われています。そして、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」と語られます。 主を畏れることに知恵がある、という信仰は、詩編と箴言の中にも繰り返し見られるものです。主を畏れ敬うことは、主への信仰そのものです。ヨブもまた、神を畏れ、悪を避けていた人でした。 私たち罪人が主への畏れを持つようになるのは、主が御業をなしてくださったからです。イスラエルの民は、大いなる力をもってエジプトから導き上った主だけを畏れ、ひれ伏し、崇めることが求められました(王下17章36節)。私たちを罪の奴隷から贖い出してくださったのは、主イエス・キリストです。私たちは、この主を畏れ、誇りとして、一日を歩みましょう。 Tue, 10 May 2016 00:10:00 +0000 頑迷な潔白の主張なのか?(ヨブ記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160510 no 2016 断じて、あなたたちを正しいとはしない。 死に至るまで、わたしは潔白を主張する。 (ヨブ記27章5節) ヨブはこの最後の反論で友人たちの三度の議論と説得を全面的に拒否します。 ヨブは語ります。「わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」(2節)、「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する」。 ヨブに罪ありとした友人たちに対しては「わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」と言い(7節)、彼らこそ「神を無視する者」であると責めます(8節)。 最後は「神に逆らう者が神から受ける分、暴虐な者が全能者から与えられる嗣業は次のとおり」(13節)、「神は彼に襲いかかり、許さない」と友人たちに警告をしています(22節)。 ヨブのこの潔白の主張には少しの迷いもなかったのでしょうか。むしろヨブは心の底では自分の罪を認めながら、その罪は神の裁きとして自分が受けている苦難の大きさほどには深くない、と必死に訴えているのではないでしょうか。 Mon, 09 May 2016 00:10:00 +0000 友を真理で切り捨ててよいのか?(ヨブ記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160509 no 2016 だが、これらは神の道のほんの一端。 神についてわたしたちの聞きえることは なんと僅かなことか。 その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。 (ヨブ記26章14節) ビルダドの「どうして、女から生まれた者が清くありえよう」(25章4節)との言葉は真理であり、無罪を確信するヨブの心を激しく打ちました。 ヨブはたまらずビルダドの発言をさえぎって口を開きます。「あなた自身はどんな助けを(わたしのような)力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を(わたしのような)知恵のない者に与え、どんな策を多くの人に授けたというのか」(2、3節、補足筆者)。 ビルダドはヨブを無視して神の支配を語り続けます。「亡者たち、陰府の淵に住む者たちは、水の底でのたうち回る。陰府も神の前ではあらわであり、滅びの国も覆われてはいない。…神は御自分の雲を広げて、玉座を覆い隠される」(5~9節)。最後には「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか」と語って議論を終えています。 ビルダドは、あなたは分かっていないとヨブを切り捨ててしまいます。友を真理で切り捨ててしまってよいのでしょうか。 Sun, 08 May 2016 00:10:00 +0000 恵み深い主に感謝せよ(詩編 136編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160508 no 2016 恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 神の中の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 (詩編136章1節~3節) 136編は神殿礼拝での交読文です。祭司の言葉に、会衆は「慈しみはとこしえに」と応答します。神への感謝が延々と続き、会衆は神の恵み深さを一つひとつ数えることができたことでしょう。 私たちなら、どんな感謝が続くでしょうか。命を与えてくださった方に感謝せよ。わたしに目を留め、救いの道を示してくださった方に感謝せよ。病や苦しみの時に、共にいてくださる方に感謝せよ。永遠を見据えて生きることを教えてくださった方に感謝せよ。神に愛されて生きる恵みを与えてくださった方に感謝せよ。神と人を愛することを教えてくださった方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。 この詩編は、私たちを神への感謝に新しく導き入れてくれます。ともすれば、神の愛と恵みをあたりまえのこととしてしまう私たちです。もう一度神の恵みに目を留め、神の愛の中で歩む幸いを思い、感謝しつつ歩んでまいりましょう。 「すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。天にいます神に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(25、26節)。 Sat, 07 May 2016 00:10:00 +0000 このような大祭司が与えられている(ヘブライ人への手紙 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160507 no 2016 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。 (ヘブライ人への手紙8章1節~2節) 「永遠の大祭司」イエス・キリストは、ただ一度の決定的な犠牲のいけにえとして、十字架において御自身を献げてくださり、私たちに完全な罪の赦しをもたらしてくださいました。それゆえ私たちは、もはや恐れも負い目もなく大胆に神に近づき、その愛を疑わずに身を委ねることができます。 しかもこの大祭司は、神の右の座に着いて、天にある真の幕屋で仕えておられる、と記されています。神の右の座は、神に等しい全権の象徴です(エフェ1章20、21節)。それは、神の御子に当然の栄誉です。そのような方が、完全に私たちの側に立って、神に執り成していてくださるのですから、もはや何を恐れることがありましょうか(ロマ8章34節)。 ヘブライ人への手紙は、大祭司に焦点を当て、繰り返し語ります。私たちが何度でも覚えるためです。私たちのために十字架で死んでくださった主が、天で真の大祭司となり、今も、私たちのために執り成してくださいます。ですから、「このような大祭司が与えられて」いるとは、キリスト者の心を、救いの確信と喜びに満たす言葉です。 Fri, 06 May 2016 00:10:00 +0000 完全に救うことができる方(ヘブライ人への手紙 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160506 no 2016 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 (ヘブライ人への手紙7章27節) イエス・キリストは、神の絶対不変の誓いによって立てられた「永遠の大祭司」です(20~22節)。ヘブライ人への手紙は一貫して、この大祭司イエスの開いてくださった神への道、命と救いの道にとどまるようにと、試練の中で苦しむ兄弟姉妹を励ましています。 この「永遠の大祭司」は、創世記14章に登場するメルキゼデクのような、王にして祭司である方であり、特別に神から立てられたユニークな方です。何より、御自身の体をいけにえとして、ただ一度献げられたというところに、そのユニークさの極みがあります。 そのただ一度のいけにえ、すなわち十字架の死によって、罪の贖いは完全に成し遂げられました。十字架は神の完全な救いです。ですから、私たちは、この救いに何も加える必要はありません。 わたしがどれだけ神に背いてしまっても、もうすべては神の赦しの愛の中に置かれています。神の怒りを怖がる必要はありません。自分を自分で裁く必要もありません。成し遂げられた完全な救いを信じるのです。 Thu, 05 May 2016 00:10:00 +0000 最後まで希望を持ち続ける(ヘブライ人への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160505 no 2016 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。 (ヘブライ人への手紙6章11節~12節) ヘブライ人への手紙の最初の読者たちは、信仰のための迫害によって、さまざまな艱難に苦しんでいたであろうと想像されます。ですから、この手紙では一貫して信仰の励ましがなされています。偉大な大祭司である御子イエス・キリストが開いてくださった救いにとどまるようにと勧められます。信仰の成熟を目指した学びの勧め(1、2節)や、背教の誘惑に対する警告(4~8節)もそのために語られています。 とはいえ、その教会は福音を捨てて堕落してしまっているわけではありません。むしろ、熱心な愛の業が表れてくるような、生きた信仰を持ってもいました(10節)。だからこそ、その熱心を保ち、最後まで救いの希望にとどまってほしいと言われます。それは、私たち「おのおの」の魂の状況を御心にとめていてくださる、主ご自身の切なる願いでしょう。 聖書の信仰の熱心、それは時を経ても冷めることのない熱いものです。しかし、私たちは悲しいほどに冷めやすい…。信仰生活は長いマラソンです。坂道に苦しみ、足を痛めてあえぐ時こそ、ゴールにある希望を思いましょう。 Wed, 04 May 2016 00:10:00 +0000 愛のない正義の危うさ(ヨブ記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160504 no 2016 どうして、人が神の前に正しくありえよう。 どうして、女から生まれた者が清くありえよう。 (ヨブ記25章4節) 悪人が栄える事実を語って神の正義を問うヨブに対して、ビルダドは否定することも説明することもできません。 ビルダドはその問題に触れることをせず、神の偉大さによってヨブに答えようします。「恐るべき支配の力を神は御もとにそなえ、天の最も高いところに平和を打ち立てられる」。神の支配は人の想いをはるかに超える。お前はそれを理解していない、と言いたいようです。 「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って、離れたことはない」と語るヨブ(23章11節)。それに対してビルダドは、「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう」、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」と言って、ヨブの無罪の確信を徹底的に打ち崩そうとします。 ビルダドの言葉は間違ってはいません。むしろ正論です。しかし、このように正論を振りかざすことは、必死に自己弁護をするヨブを追いつめて、神との関係を壊してしまう危うさをもっています。愛のない正義ほど危ういものはありません。 Tue, 03 May 2016 00:10:00 +0000 主を賛美するために(詩編 102編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160503 no 2016 後の世代のために このことは書き記されねばならない。 「主を賛美するために民は創造された。」 (詩編102編19節) 日本キリスト改革派教会は、創立70周年記念信徒大会をきょう開催します。この日を迎えることが許されたことを思い、主の御名をほめたたえます。信徒大会自体は一日限りの開催です。しかし、そこで与えられる祝福は、これからの教会の歩みを力付け、末永く続きます。 聖書は、人は神に似せて造られたと教えています。この神に似せられた者の特権の一つは、主を賛美することです。102編は、はっきりと「主を賛美するために民は創造された」と歌います。 厳しい時代を生き抜く中で、詩人は「私の生涯は移ろう影、草のように枯れて行く」(12節)と叫ばざるを得ませんでした。けれども、13節からは力強い賛美に変わります。それは主がとこしえの王座についておられることを仰ぎ見たからです。そして祈りによって導かれたのが、まさに19節と言えます。 苦難の中でも、祈りつつ与えられた主を賛美する喜びを分かち合い、後の世代に語り伝えていくことは何と幸いなことでしょうか。信徒大会がそのような時となりますように。 Mon, 02 May 2016 00:10:00 +0000 悪人が栄え、消え去らない(ヨブ記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160502 no 2016 だが、そうなってはいないのだから 誰が、わたしをうそつきと呼び わたしの言葉をむなしいものと 断じることができようか。 (ヨブ記24章25節) エリファズに対するヨブの反論は、神の前でくりひろげられている悪人たちの悪行と、その被害者たちを神が御心に留めておられないかのように見える悲惨の描写です。 ヨブは言います。「人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る」、「人殺しは夜明け前に起き、貧しい者、乏しい者を殺し、夜になれば盗みを働く」、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」と。 悪人の運命についてはこう教えられていました。「大水に遭えば彼はたちまち消え去る」、「権力者が力を振るい、成功したとしても、その人生は確かではない」、「安穏に生かされているようでも、その歩む道に目を注いでおられる方がある。だから、しばらくは栄えるが、消え去る」と。 しかし、ヨブは「だが、そうなってはいないのだから、誰がわたしをうそつきと呼」ぶことができようか、と言います。このヨブの訴えは、苦難の中にある人間の共通の訴えではないでしょうか。 Sun, 01 May 2016 00:10:00 +0000 私たちも「神の宝の民」(詩編 135編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160501 no 2016 主はヤコブを御自分のために選び イスラエルを御自分の宝とされた。 (詩編135編4節) この詩編は神への賛美と祈りの詩です。世界を創造し、自然を支配しておられる神。歴史を通してイスラエルと共に歩まれた神、この神が賛美されています。 さらにこの詩編では神が、周辺の偶像の神と違う生ける神として賛美されています。「主は大いなる方、わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方」(5節)と。 このように神が賛美されるのはこの神が、「イスラエルを御自分の宝とされた」からです。申命記にはこのように記されています。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…救い出されたのである」(申7章6~8節)。 キリストの救いを通して、今、私たちも「神の宝の民」とされています。ですから、自分の罪や弱さにではなく、神の愛と赦しに目を向けて、生ける神をほめたたえつつ生きていきましょう。ハレルヤ。 Sat, 30 Apr 2016 00:10:00 +0000 試練に打ち勝つ信仰(ヘブライ人への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160430 no 2016 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 (ヘブライ人への手紙5章7節) 私たちの地上での生活は、イスラエルの民が荒れ野をさまよった日々と同じく試練続きです。神は本当にわたしを守り導き給うのか、疑いとつぶやきが心に沸き起こる。まさに、信仰が試される修羅場というものがあります。しかし私たちには、偉大な大祭司イエスによる完全なとりなしが与えられているのですから、神は必ず味方です。 主イエスも私たちと同様に試練を味わわれました。最大の試練は十字架上の苦しみです。しかし、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」も、神に対する信頼を全うされました。そうして、神は確かにその信頼に応えられ、主イエスを復活させ「死から救」われました。この大祭司イエスの後に続くことへと、私たちは招かれています。 思えば、わたしは入信する前、試練ということをきちんと考えた記憶がありません。信仰を持ったがゆえに、苦しみは試練として意味を持ち始めました。試練とは、信仰が試されることです。でもその度ごとに、主イエスとの新しい信頼関係が始まる、恵みの機会です。それはなんと驚くべきことでしょうか。 Fri, 29 Apr 2016 00:10:00 +0000 20160429(ヘブライ人への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160429 no 2016 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 (ヘブライ人への手紙4章11節) 「この安息」とは、イエス・キリストを信じる者に約束されている、永遠の完全な憩いです。主イエスのもとで、すべての涙をぬぐわれ、すべての労苦から解き放たれ、安心して息ができる…。 「この安息にあずかるように努力」するとは、具体的には、御言葉を受け、そこで告げ知らされる福音を聞き取り、信じることと言えるでしょう(2、3節)。もちろん信仰は、私たちの努力ではなく、聖霊の恵みによって起こされるものですが、聖霊の働きは、私たちの側の積極性を用いるという仕方でなされます。 この努力を怠るとき、「不従順の例」に倣うことになります。かつてイスラエルの民は、エジプトを脱し、ヨシュアによってカナンという「安息」の土地に入るように導かれましたが、その時、不従順と不信仰によって、入れなかった人びとがいました。 私たちの地上の日々も、荒れ野の旅路のように試練続きです。しかし、そこでこそ信仰は意味を持ちます。聖霊に助けられて行う努力をしようではありませんか。約束された永遠の憩いを仰ぎ見て、主の道にとどまりましょう。 Thu, 28 Apr 2016 00:10:00 +0000 心をかたくなにせず(ヘブライ人への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160428 no 2016 それについては、次のように言われています。 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 神に反抗したときのように、 心をかたくなにしてはならない。」 (ヘブライ人への手紙3章15節) 「わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」(詩95編6、7節)。この御言葉が、主日礼拝の招きの言葉として読まれる教会も多いことでしょう。 礼拝で私たちは、生けるキリストに出会います。その方は圧倒的な方であって、大いなる救いの創始者、万物の支配者なる神の御子であるのだと、ヘブライ書は教え、私たちの心を高く引き上げてくれます。この方を信じ、御前にひざまずき、聞き従う。その低く砕かれた心に、主のやさしい声がしみこみ、命は潤されます。 しかし、私たちの心はもろく、日々の生活に追われる中で、主を疑い、主を離れ、かたくなになります。荒れ野でぐらぐらに揺れ動いたイスラエルの民の中に、きょうを生きるわたしと同じ姿があります。きょう木曜日、新たな思いで、主イエスを拝み、主の声を聞き、その声に、信頼しなさいと招かれているようです。 Wed, 27 Apr 2016 00:10:00 +0000 思う存分言い分を述べたい(ヨブ記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160427 no 2016 その方にわたしの訴えを差し出し 思う存分わたしの言い分を述べたいのに。 (ヨブ記23章4節) 神と和解せよとのエリファズの勧めは、ヨブにとってはむなしい言葉でした。 ヨブは「その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたい」、「そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ、わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう」と安直な和解よりも神との対論を希望しています。 ヨブにとっては、神は「東に行ってもその方はおられず、西に行っても見定められない。北にひそんでおられて、とらえることはできず、南に身を覆っておられて、見いだせない」と感じられるようです。 無理もありません。神は「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って、離れたことはない」という無罪のヨブを、激烈な苦難に落としておられます。ヨブにとって「神は望むがままに行われる」独断の神です。「それゆえ、わたしは御顔におびえ、考えれば考えるほど、恐れる」。 神への恐怖の中で隠れた神を追い求めるヨブの言葉は、エリファズへの反論というよりも、神に訴える言葉です。その言葉で、ヨブは神に繋がり続けます。神の前で、一人で語る言葉の一つひとつを神は決して聞き逃されません。 Tue, 26 Apr 2016 00:10:00 +0000 神と和解しなさい(ヨブ記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160426 no 2016 神に従い、神と和解しなさい。 そうすれば、あなたは幸せになるだろう。 (ヨブ記22章21節) 21章にあるヨブの激しい反論をエリファズは冷たく聞き流すようにして、三回目の論議に入ります。 エリファズは「あなたが正しいからといって全能者が喜び、完全な道を歩むからといって神の利益になるだろうか」と、自分は神に訴えていると言ったヨブを軽くあしらっています。そして、ヨブが今、災難を受けているのは、「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったではないか」、「だからこそあなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」と、ヨブの罪に対して、神の罰がもたらされたことを指摘しています。さらに、エリファズは、「彼らは時ならずして、取り去られ、流れがその基までぬぐい去った」と、神が悪人を裁かれたことを述べます。そのうえで、ヨブに「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになる」と勧めます。 エリファズはヨブを罪ありと決めつけ、幸せのために、神と和解せよと語っています。あまりにもお手軽な救いの道の提示ではないでしょうか。神との和解に自らひれ伏すことなしに、人を招くことはできないはずであるのに。 Mon, 25 Apr 2016 00:10:00 +0000 神に逆らう者が生き永らえて(ヨブ記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160425 no 2016 なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか。 (ヨブ記21編7節) 悪人は、不幸になる運命だと語るツォファルの威嚇を、ヨブは忍耐をもって受けとめ、「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」と友人たちに願っています(2節)。 本当に、ツォファルの言う通りなのか。ヨブの目には、悪人であっても、「彼らは幸せに人生を送り、安らかに陰府に赴く」ことがあるように見えます。「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか」。このことは、ツォファルら友人たちが語る因果応報の教理でも説明がつきません。ヨブは、ツォファルらの言葉にある嘘を指摘します。「悪人が災いの日を免れ、怒りの日を逃れている」。そうであるならば、ヨブへの威嚇も、慰めも的外れであるはずです。「それなのに空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」。ヨブは、友人たちの因果応報の教理を痛烈な言葉で批判します。ヨブは本当のことが知りたいからです。 私たちにも分からないことが多くあります。そのことに欺きの言葉ではなく、謙虚に向き合えたらと願います。 Sun, 24 Apr 2016 00:10:00 +0000 神の祝福(詩編 134編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160424 no 2016 主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。 夜ごと、主の家にとどまる人々よ 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。 天地を造られた主が シオンからあなたを祝福してくださるように。 (詩編134編1節~3節) この詩編は「都に上る歌」の最後に位置しており、神殿礼拝の最後に、聖職者と民とが交互に唱えあった詩と考えられます。 「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ」と聖職者が呼びかけ、民が「夜ごと、主の家にとどまる人々よ、聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」と応えます。 最後は聖職者の祝福の祈りで締めくくられます。「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福してくださるように」。 私たちの礼拝も、「招きの言葉」で始まり、賛美、祈り、御言葉の朗読、解き明かし、…そして「祝福の祈り(祝祷)」と続きます。私たちもこの民と同じように、神の祝福をいただいて再びこの世の旅へと出ていくのです。キリスト者の生涯はこの繰り返し、積み重ねです。しかし、これこそが神の国へと続く歩みであることを覚えましょう。「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(121編8節)。 さあ、私たちも神の御前に集い、神からの祝福を頂きましょう。そして、この世へと踏み出していきましょう。 Sat, 23 Apr 2016 00:10:00 +0000 押し流されないように(ヘブライ人への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160423 no 2016 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。 (ヘブライ人への手紙2章1節~3節) 1章3節で見たように、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」である御子イエスの登場は、それ自体が、最終的・究極的な神からの救いのメッセージでした。 これまでの歴史において、天使たちを通して語られてきたことをはるかに凌駕する「これほど大きな救い」を、御子は携えて来てくださったのです。この方は、私たちを栄光へと導くために、数々の苦しみを通って、十字架の死を死んでくださいました(9、10節)。悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった私たちを解放してくださったのです(15節)。そういう御子の足跡そのものが、大いなる救いへの神の招きです。 この招きは、人類の歴史の大転換点です。けれども、私たちは、「今はそれどころではない」と言いかねないほどに、慌しく、忙しく、疲れてしまっているかもしれません。むとんちゃくであるかもしれません。今、あなたの魂は、行き場なく漂流していませんか。しばし手を止めて、神の壮大な語りかけに耳をすましませんか。押し流されてしまわないように。 Fri, 22 Apr 2016 00:10:00 +0000 とてつもない方の登場(ヘブライ人への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160422 no 2016 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 (ヘブライ人への手紙1章3節) 神とは「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」です(1テモ6章15、16節)。この神を見た者は、死なねばならないと、旧約の民はおそれを抱きました。 しかし最初の弟子たちは、自分たちはイエス・キリストという方において、その神を見たのだ、と告げ広めました。「御子は、見えない神の姿」(コロ1章15節)とパウロは告白し、「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」とペトロは叫びました(2ペト1章16節)。あのヨハネ福音書の序章も然りです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハ1章18節)。それは、弟子たちにとっても、まったくありえないような告白であったはずです。しかし、主イエスに出会った者たちは、そう叫ばざるを得なかった。なんと驚くべきことだったのでしょう。 「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」とは、そういうとてつもない信仰告白です。 Thu, 21 Apr 2016 00:10:00 +0000 力となってくださる主(テモテへの手紙二 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160421 no 2016 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 (テモテへの手紙二4章16節~17節) 「テモテへの手紙2」は、苦難の中で殉教の死を迎えようとしているパウロが、愛弟子テモテに書き送ったものです。 パウロは福音宣教のために多くの苦しみを忍び、戦わなければなりませんでした。最初に裁判にかけられたときには、誰も助けてくれず、弁明してくれる人もいませんでした。どんなに孤独であったことでしょう。 しかし、主だけはいつもパウロを離れず、そばにいて力づけてくださいました。「福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために」宣教の業を導き続けたのは主でした。彼が戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜くことができたのも、主が守り支えてくださったからです。パウロがテモテに知ってほしいのは、この主の確かな守りと恵みの豊かさなのです。 私たちもまた、どのような状況の中に置かれようとも、たとえ死の時にも、主がそばにいて、力づけてくださることを確信したいのです。そして、その確信をも主が与えてくださることを共に祈り求めて参りましょう。 Wed, 20 Apr 2016 00:10:00 +0000 神に逆らう者の喜びは、はかない(ヨブ記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160420 no 2016 神に逆らう者の喜びは、はかなく 神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。 (ヨブ記20章5節) ヨブは、19章29節で、友人たちに「あなたたちこそ、剣を危惧せよ」、「裁きのあることを知るがよい」と警告しました。その言葉を受けて、ツォファルは激しい怒りをあらわします。「あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる」、「わたしは反論せざるをえない」と。 ツォファルはここで新しいことを語っているわけではありません。彼は、前回(11章)同様、因果応報の教理を、厳しさを増したかたちで繰り返しながら、ヨブを責めているに過ぎません。「神に逆らう者の喜びは、はかなく」、「豊かさの極みにあって欠乏に陥り」、「食い尽くして、何も残さない」、「神の怒りの日に、洪水が起こり、大水は彼の家をぬぐい去る」。このように、ツォファルは、「神に逆らう者」の運命を語ります。 相変わらずの因果応報一点張りでヨブを説得できるのでしょうか。ヨブは、ツォファルの言う「神に逆らう者」ではありません。ツォファルは、ヨブに変わるように求めます。しかし、変わらなければいけないのはヨブではなくツォファルたちです。けれどもまた、その姿こそ、罪深いわたしたちの姿かもしれません。 Tue, 19 Apr 2016 00:10:00 +0000 この身をもって神を仰ぎ見る(ヨブ記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160419 no 2016 この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。 (ヨブ記19章26節) ヨブはビルダドに対して反論します。「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ」と(2、3節)。 ヨブはビルダドに、「神がわたしに非道なふるまいをし」、「不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ」、「神はわたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵とされる」と訴えます。また、「神は兄弟をわたしから遠ざけ」たため、家族とすべての人から疎まれていることを述べます。そしてついに友の情けを求めて号泣します。「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」と(21節)。 この悲嘆のどん底で、なんとヨブは、「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう」と語るのです。 ヨブは復活の希望により自らの身をもって贖い主である神を仰ぎ見ることを願います。その一縷の望みが、ヨブを絶望から守ります。 Mon, 18 Apr 2016 00:10:00 +0000 ヨブの死後の罰を語る(ヨブ記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160418 no 2016 彼は光から暗黒へと追いやられ この世から追放される。 (ヨブ記18章18節) ヨブの悲痛な訴えと嘆きに対し、友人ビルダドは前回(8章)以上の冷酷な因果応報の教理でヨブを責めます。 ビルダドは、「なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか」と自分たちの善意と知恵を認めないヨブを責めます。 ビルダドはヨブを悪人と決めつけ、「神に逆らう者の灯はやがて消え」、また「破滅が四方から彼を脅かし」、「死の初子が彼の肢体をむしばみ」、「破滅の王に向かって一歩一歩引き寄せられる」と言います。「死の初子」とは重い皮膚病のこと、「破滅の王」とは、死のことです。そして「彼の思い出は地上から失われ」、「彼は光から暗黒へと追いやられ、この世から追放され」、「子孫はその民の内に残らず、住んだ所には何ひとつ残らない」と悪人の過酷な運命を三段階で述べます。 ヨブに罪があり、この罰を受けるのがふさわしいと、ビルダドのように誰が言うことができるのでしょうか。「怒りによって自らを引き裂く者よ」(4節)。ヨブにぶつけたビルダドの言葉は彼自身が引き裂かれていることをあらわしています。人を裁くことができるのは神お一人だけです。 Sun, 17 Apr 2016 00:10:00 +0000 神の家族と共に礼拝する恵み(詩編 133編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160417 no 2016 見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。 (詩編133編1節) 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。 この詩編の御言葉を読むとき、幼い兄弟が仲睦まじく座っている姿、わたしにはそんなほほ笑ましい情景が浮かんできます。ですがこの詩編は、単に肉親の兄弟の姿を語っているのではありません。ここで語られていることは、同じ信仰を持ち、一人の神を崇める神の家族、兄弟姉妹が共に在る幸いです。とりわけ、その幸いは、神の家族として共に主の礼拝の場に留まり、恵みに与り続けるときに味わえます。 注がれる油(2節)は、神が与えてくださる祝福です。祝福は全身に注がれ、シオンの山々に滴り落ちるほど、豊かにあふれるのです。 また、きょう、礼拝の場に集っておられる方だけでなく、病院や施設、あるいはご自宅で療養中のあの方、この方、神の家族お一人お一人を思いながら、共に神の恵みに与りたいと思います。祝福は、私たちが地上の歩みを終えた後もさらに、永遠の命の祝福へと続きます。 さあ、私たちも愛する方々と共に、心からの礼拝をささげましょう。 Sat, 16 Apr 2016 00:10:00 +0000 十分に整えられるためには(テモテへの手紙二 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160416 no 2016 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 (テモテへの手紙二3章16節~17節) テモテがいた教会には、キリストと共に生きることを忘れ、福音の言葉をあげつらって「聞く者を破滅させる」者たちがいました(2章14節)。パウロは彼らの高慢を警戒するよう注意すると共に、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」とテモテに命じています。 テモテは幼い日から聖書(旧約聖書)に親しんできました。彼の祖母ロイスと母エウニケもまた聖書の神を信じる信仰者であったからです。テモテは、祖母の、また母の信仰に育まれながら、何より聖書に学ぶことを通して、救いに至る知恵、すなわちイエス・キリストを信じる確信を与えられていったはずです。そこから、決して離れてはいけないのです。 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。聖書だけが永遠の神の霊感によって書かれた書物であり、神の思いを伝えるただ一冊の本であり、人を教え、救いに至らせる命の言葉です。 私たちが、神を喜び、神の求めておられる働きをするために、聖霊のお働きのもとに、聖書はきょうも私たちを教え、戒め、正し、訓練して、十分に整えてくださいます。 Fri, 15 Apr 2016 00:10:00 +0000 思い起こすべき方、主イエス(テモテへの手紙二 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160415 no 2016 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 (テモテへの手紙二2章8節~9節) テモテは教会の指導者でしたが、年が若いということで軽んじられることがあったのでしょう。加えて内外の厳しい状況の中で、彼は伝道者として生きることにひるんでいたのかもしれません。 そのようなテモテに、パウロは「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と命じています。テモテが委ねられた働きを果たすためには、このお方を思い起こすことが何よりも必要なことでした。 テモテが思い起こすべきイエス・キリストは、「ダビデの子孫で、死者の中から復活された」方です。このお方こそ、旧約聖書が指し示した約束の救い主、死の闇から復活されたお方です。その方が、小さな存在である私たち人間に目を留めてくださいました。このお方と共に死ぬなら、私たちはこの方と共に生きるようになります。この方の言葉は何にも、死にも繋がれていません。私たちをただ命へと導くものです。だからこそ、今、目の前にある苦難も耐え忍べるのです。この事実を思い起こすように、パウロはテモテを励まします。 この主イエスに愛され、生かされる恵みを思い、感謝する一日でありますように。 Thu, 14 Apr 2016 00:10:00 +0000 福音に生き、福音を守る(テモテへの手紙二 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160414 no 2016 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。 (テモテへの手紙二1章13節~14節) 「健全な言葉」とは、言うまでもなく「神の福音」のことです。なぜ、福音が健全な言葉と言われるのでしょうか。私たちの周りにはいろいろな教えがあり、全く根拠もないのに、人を救うことができるかのように教えるものがたくさんあります。それに対して、神の福音こそは、確実に人を救うことができる真実なもの、人に「不滅の命」(10節)を与えるものなのです。 「健全な言葉」は、その直後に「あなたにゆだねられている良いもの」と言い換えられ、それを擁護するようにと命じられています。当時、テモテを取り巻く状況は厳しさを増していました。誤った教えに揺さぶられ、福音から遠い生活に堕ちていく人、キリスト者の交わりから離れていく人がありました。教会は内から揺さぶられていました。また、外からも、教会はさまざまな迫害にさらされていたのです。 しかし、いつの時代においても、福音を守る戦いはあります。この手紙は、神が与えてくださった良いものを守るのがテモテ自身ではなく、彼の内に住む聖霊だと教えます。私たちの戦いも、この神の助け無しにはできません。 Wed, 13 Apr 2016 00:10:00 +0000 まことの保証人(ヨブ記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160413 no 2016 あなた自ら保証人となってください。 ほかの誰が わたしの味方をしてくれましょう。 (ヨブ記17章3節) エリファズに対するヨブの反論が16章から続いています。 ヨブは神に向かって「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり」と独り言のように訴えます。苦難のヨブには罪がある、という友の嘲りの中で、「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう」と、神御自身が、ヨブにも、友人たちにも、ヨブの無罪を保証し、味方となってくださることを願いました。 ヨブは、友人たちにも言葉を向けています。「あなたたちは皆、再び集まって来るがよい。あなたたちの中に知恵ある者はいないのか」(10節)と。友人たちは、彼らなりの慰めの言葉、希望の言葉をもって、ヨブを励まそうとしました。それはヨブも認めています(12節)。しかし、それらの言葉は、ヨブの心を上滑りしていき、まったくヨブを生かす力になりませんでした。そうして、ヨブは、もう「わたしは陰府に自分のための家を求め、その暗黒に寝床を整えた」(13節)と友人たちの言葉を退けます。 ヨブにとり、今や神だけが真の希望であり慰めでした。 Tue, 12 Apr 2016 00:10:00 +0000 神に望みをかける(ヨブ記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160412 no 2016 このような時にも、見よ 天にはわたしのために証人があり 高い天には わたしを弁護してくださる方がある。 (ヨブ記16章19節) エリファズの第二回目の論議に対してヨブはこの章と17章で反論します。 ヨブは、「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」(2節)と言って、自分の立場を理解しない相手を拒みます。 神に向かっても、「戦士のように挑みかかり、わたしを打ち破り、なお打ち破る」敵であるかのように激しい言葉をぶつけています(14節)。さらに、「神は悪を行う者にわたしを引き渡し、神に逆らう者の手に任せられた」ので、友たちがヨブの敵となり「彼らは大口を開けて嘲笑い、頬を打って侮辱し、一団となってわたしに向かって来る」と言います(10節)。 しかし、神に追い詰められていることを感じながら、それでもヨブは、神を「友」と呼び、心を高く天に上げ、「わたしを弁護してくださる方」、「わたしのために執り成す方」と、神に望みをかけ続けています。そして、「人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように」と願い続けます(21節)。ヨブは敵と見える神になおも望みを失っていません。 Mon, 11 Apr 2016 00:10:00 +0000 友に対する忍耐(ヨブ記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160411 no 2016 彼は暗黒から逃れられない。 熱風がその若枝を枯らし 神の口の息が吹き払う。 (ヨブ記15章30節) ヨブと三人の友人たちとの論戦はひとまわりして、再びエリファズが登場し第二回の論戦が始まります。 エリファズの言葉は、4、5章にある語り始めの言葉よりもはるかに厳しく冷たいものになっています。そうなってしまったのは、ヨブが、友人たちに対して語った、あなたたちは「神に代わったつもりで論争するのか」(13章7~10節)という批判と拒絶の言葉が原因でした。 それに対し、エリファズは、ヨブの無知と不敬虔を責め、その不遜を指摘し、神を信じない者の運命をヨブに突きつけます。エリファズにとって、ヨブはもう友人ではないかのようです。彼にはヨブが自分を低くして悔い改めるとは考えられなかったのです。 エリファズは「神の口の息が吹き払う」と悪人の運命を語ってヨブを威嚇します。これはエリファズの正義のように見えます。しかし、神の刑罰に対する恐怖によって引き起こされる悔い改めは、信仰的に真の価値はありません。それはルターが絞首台の思いによって生み出された悔い改めだと語ったとおりです。 神の愛と友への忍耐が真の悔い改めに導きます。 Sun, 10 Apr 2016 00:10:00 +0000 救いの喜びをもって神を礼拝する(詩編 132編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160410 no 2016 ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。 わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。 (詩編132編17節) 詩人は、ダビデが契約の箱を安置し、主を礼拝する場所を定めようとしたときの労苦に思いを馳せています。やがて、それが詩人の現実の祈りに重なります。「わたしたちは主のいます所に行き、御足を置かれる所に向かって伏し拝もう」(7節)。 後半は神がダビデを通して与えられた約束、メシア詩編です。神はダビデを祝福し、ダビデの子孫から、救い主の誕生を約束されました。この約束は、ダビデだけでなく、詩人や神礼拝のために神殿に上る当時の人びとにまで及びます。 そして今、私たちはこの約束がイエス・キリストの誕生によって確かに実現したことを知っています。 新約聖書でザカリアは歌います。「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(ルカ1章69節)。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(同78、79節)。 さあ、私たちも、与えられた救いの喜びと共に、主の日の礼拝に心を向けましょう。 Sat, 09 Apr 2016 00:10:00 +0000 変わらぬ愛をもって(エフェソの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160409 no 2016 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。 (エフェソの信徒への手紙6章23節~24節) きょうの御言葉は、手紙の結びとしての祈りの言葉です。ここでパウロは「兄弟たち」と呼びかけています。エフェソの信徒たちは、そのほとんどが旧約の区分から言えば異邦人でありました。ユダヤ人であるパウロにとって、かつて彼らは神を知らない汚れた者たちであったのです。 けれども、イエス・キリストはユダヤ人と異邦人をご自分において一人の新しい人に造り上げてくださり、平和を実現してくださいました。異邦人であったエフェソの信徒たちも、パウロにとって「兄弟たち」となったのです。私たちもユダヤ人ではありませんが、イエス・キリストにあって、パウロから「兄弟たち」と呼ばれる者となっているのです。 また、パウロは「変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人」にと呼びかけています。私たちは生まれながらの自分の愛で主イエスを愛しているのではなく、神からいただいている愛で主イエスを愛しているのです。その主の変わらぬ愛によって、私たちは今すでに永遠の命に生かされているのです。 Fri, 08 Apr 2016 00:10:00 +0000 暗闇ではなく光(エフェソの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160408 no 2016 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章6節~8節) パウロは「むなしい言葉に惑わされてはなりません」と語ります。むなしい言葉とは、空っぽな言葉であり、何の実りも結ばない言葉です。 私たちが生活している日本社会には、たくさんのむなしい言葉が溢れています。それゆえ、私たちは、命の言葉である聖書に毎日耳を傾けていく必要があります。むなしい言葉に惑わされないために、私たちは毎日、真実で変わることのない神の言葉を読み、聞く必要があるのです。 むなしい言葉の代表は、「神などいない」という言葉でしょう。そのようなむなしい言葉に惑わされるとき、私たちは自らを神とし、不従順になり、神の怒りに値する者となってしまいます。いや、かつて私たちはそのような者であったのです。以前の私たちは暗闇でした。暗闇に住んでいたというのではなく、私たち自身が暗闇であったのです。 しかし、そのような私たちのもとに、世の光であるイエス・キリストが来てくださいました。そして、暗闇であった私たちを光としてくださったのです。 Thu, 07 Apr 2016 00:10:00 +0000 造り上げられる体(エフェソの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160407 no 2016 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとな…るのです。 (エフェソの信徒への手紙4章11節~13節) パウロはキリストを教会の頭、教会をキリストの体であると語りました。教会は民族の違いを超えた一人の新しい人であるのです。 パウロは、7節で、頭であるキリストがその体の一部である私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みを与えてくださっていると教えます。第1コリント12章でも、パウロは聖霊の賜物について教えており、そこではさまざまな賜物が挙げられています。しかし、きょうの御言葉のなかで挙げられているのは、どれも御言葉の務めに関するものです。それはおそらく、パウロが御言葉こそ体の動きを統制するものであると考えていたからでしょう。キリストは教会に御言葉の奉仕者を与えることにより、すべての聖なる者たちを奉仕にふさわしい者として整えられます。 「教会」と聞くと、各個教会のことを考えられると思いますが、日本キリスト改革派教会全体も一つの教会と言えます。私たちの教会が神と人に仕える教会となるために、この『リジョイス』が豊かに用いられることを願っています。 Wed, 06 Apr 2016 00:10:00 +0000 せめぎ合う神への思い(ヨブ記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160406 no 2016 どうか、わたしを陰府に隠してください。 あなたの怒りがやむときまで わたしを覆い隠してください。 しかし、時を定めてください わたしを思い起こす時を。 (ヨブ記14章13節) ヨブは、その心を死の彼方へと向かわせながら、自身の内にある神への二つの思いをせめぎ合わせています。 ヨブは一方で見つめています。神は、理不尽にも思える激しい怒りを燃やされ、災いをくだされるお方であることを。神への恐れ、畏怖の念。それがヨブの信仰の根底にあります。しかし、他方でヨブは捨てきれません。神は愛のお方であるということを。神は怒りを燃やされながら、その最中にも自身で造られた人間を守り、やがて怒りを静めてくださる方であることを。どちらが本当の神であられるのか。怒りを暴発される神か。それとも、自分という小さな存在をも忘れられない、優しく愛深き神か。ヨブは、死の彼方の世界を隠れ家のようにして、神の本当の姿を見極めたいと願います。 私たちにも、依然として、神の御業が不可解に見えることがあります。しかし、主の十字架を見つめる私たちは知っています。神の怒り、裁き、そのすべての御業の基に、人間への果てしなく大きな愛があることを。私たちは、その愛を、地上においても、死の彼方においても全身で浴び、生かされていきます。 Tue, 05 Apr 2016 00:10:00 +0000 命をかけて、神に向かう(ヨブ記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160405 no 2016 そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。 だが、ただ待ってはいられない。 わたしの道を神の前に申し立てよう。 このわたしをこそ 神は救ってくださるべきではないか。 神を無視する者なら 御前に出るはずはないではないか。 (ヨブ記13章15節~16節) 神への畏れを深めるヨブ。このヨブは神への強い憧れと愛を抱き続けている人でした。災難の後も決して変わらずに。だからこそ、命をかけた言葉を神に向かわせます。「このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか」。 こう言うヨブは不遜でしょうか。傲慢でしょうか。友人たちにはそう聞こえました。しかし、ヨブは人間の小ささを知っています。人間ごときが、果てしなく大きな神、知恵に満ちた神にたやすく物申せるはずがないことも。そして、神は、訴えかける者に、激しい怒りと不快感を示されるかもしれないことも。そのヨブが叫んでいます。救いを求めて叫んでいます。神への愛の発露として、抑えきれない神への憧れをもって。まっすぐに叫んでいます。そこに、一切の下心はありません。神との間を取り繕う、飾りたてた言葉もありません。丸裸の心だけがぶつけられます。 私たちは知らされます。ヨブ記の冒頭で、神がなぜあれほどヨブを信頼されていたのか。それは、このようなヨブのまっすぐさであったと。そして、そのまっすぐさは繰り返される嘆きのなかで、より澄んだものに導かれていると。 Mon, 04 Apr 2016 00:10:00 +0000 神と共に知恵と力はある(ヨブ記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160404 no 2016 知恵は老いた者と共にあり 分別は長く生きた者と共にあるというが 神と共に知恵と力はあり 神と共に思慮分別もある。 (ヨブ記12章12節~13節) 友人たちの言葉が、彼らとヨブとの間にある深い溝の存在を露わにしていきます。両者は、ヨブを襲った災難以前には、その溝に気づかず、互いを友人として気遣い、人を生かし、励ます「知恵」を分かち合っていました。 しかし、その「知恵」がヨブの嘆きを説明しきれなくなったとき、深く、大きい溝が両者の間に姿を見せました。それでも、友人たちは共有してきた「知恵」に誇りをもち、語り続けます。他方、ヨブは破滅的な災難を身に受けることで、彼らの「知恵」にかつての軽やかな信頼を置けなくなりました。そこに悲しい限界を見たからです。たとえ、それが最良の人間たちによる、歴史と経験を通し得てきた最高の「知恵」であったとしても、ヨブの嘆きに救いを与えてはくれません。 私たちの日々に起こる小さな一つの事柄にさえ、その理由を人間の「知恵」で安易に説明してはいけない、できないことがあります。人には決して分からない、神の「知恵」に秘められたことがあります。そのことにもう少し繊細であれたなら、私たちは隣人の痛みに、あと少しだけ柔らかく向き合えるはずです。 Sun, 03 Apr 2016 00:10:00 +0000 主を待ち望むということは(詩編 131編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160403 no 2016 主よ、わたしの心は驕っていません。 わたしの目は高くを見ていません。 大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。 (詩編131編1節) この詩編の結びは「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」です。 それでは、「主を待ち望む」という私たちの姿勢の中身はどうなっているのでしょうか。それが、最初に言われている「わたしの心は驕ってい」ないということです。そしてそれをダビデは、「高くを見ていません。大き過ぎることを…追い求めません」と言い換えます。 ダビデには、神殿を建てるという高く大きな夢がありました。神がそれをお許しにならなかったときのダビデの心境を聖書は語っていませんが、あの体験を経たあとのダビデその人の歌がこれだと考えられます。ライフワークといってもよいものが成らなかったとき、ダビデは「わたしは魂を沈黙させます」と言いました(2節)。今まで「大き過ぎること」を見ていた自分を、今、沈黙させ、「わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と言いながら、自分の今までの願いを無にするようにして「主を待ち望む」という姿勢を獲得しました。 神はこのようなダビデの「待ち望み」に確かに答えられ、ダビデの子、イエス・キリストを送られたのです。 Sat, 02 Apr 2016 00:10:00 +0000 今や、教会によって(エフェソの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160402 no 2016 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。 (エフェソの信徒への手紙3章10節~11節) パウロは、1章において、キリストにある神の選びについて記しました。それは神の「秘められた計画」でしたが、パウロたちには特別に啓示されました。この計画について、パウロは6節でこう記しています。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。 イエス・キリストにあって、ユダヤ人も異邦人もなく、すべての人が同じ約束にあずかることができます。そして、そのことをパウロは、異邦人の使徒としてすべての人に解き明かしているのです。 このパウロの働きは、恵みによって、私たち教会に託されています。キリストにあって、一つの体とされ、約束された御国を受け継ぐ私たちこそ、キリストにおいて実現した神の計画をすべての人に解き明かす宣教の器です。神は私たちをキリストにあって救いに定められただけではなく、他の人びとを救うための手段としても定めておられます。 Fri, 01 Apr 2016 00:10:00 +0000 わたしたちの平和であるキリスト(エフェソの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160401 no 2016 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…ました。 (エフェソの信徒への手紙2章14節~16節) エフェソの教会は、神の契約の民であるユダヤ人とまことの神を知らない異邦人から構成されていました。そのエフェソの教会を、パウロは、キリストにおいて造り上げられた一人の新しい人であると語ります。 イエス・キリストを信じるまでユダヤ人と異邦人は対立して生きていました。互いに敵意を抱き、交わりを持とうとはしませんでした。しかし、イエス・キリストは十字架によって両者を神と和解させてくださり、両者の間にある敵意という隔ての壁を滅ぼしてくださったのです。 キリストを十字架につけたのは、ユダヤ人であり、異邦人でした。キリストは、十字架において、ユダヤ人と異邦人の両者から敵意を受けられました。その敵意を赦すという仕方で、両者に神との平和を、さらには両者の間に神の平和をもたらしてくださったのです。 キリスト教会は様々な国籍の人たちから成り立っています。それは私たちが、キリストにあって平和を与えられ、一人の新しい人として造り上げられているからなのです。 Thu, 31 Mar 2016 00:10:00 +0000 絶大な神の力(エフェソの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160331 no 2016 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、…あらゆる名の上に置かれました。 (エフェソの信徒への手紙1章19節~21節) エフェソの信徒への手紙は、教会についての教えがまとまって記されている手紙です。イエス・キリストの使徒パウロは、1章で、キリストにある永遠の選びについて記します。それも神をほめたたえる文脈において記します。 教会(エクレシア)は、「召し出された者たちの集い」の意味ですが、その召しは、神のキリストにある選びに基づくものです。神は、天地創造の前から、キリストにおいて御自分の民を選んでくださいました。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、神の選びの民であり、神の恵みによって救われた者たちであると考えてよいのです。私たちは、御国を受け継ぐための保証として聖霊を与えられ、「イエス・キリストは主である」と大胆に告白し、神の栄光をたたえる者たちとされています。 今日の御言葉は、その私たちに対して、キリストに働いた神の絶大な力が働いてくださったことを教えています。私たちがキリストを信じ、霊的に生きる者となることができたのは、キリストを復活させ、天へと上げられた絶大な神の力のお働きによることなのです。 Wed, 30 Mar 2016 00:10:00 +0000 晴れやかな偽り(ヨブ記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160330 no 2016 もし、あなたも正しい方向に思いをはせ 神に向かって手を伸べるなら また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ あなたの天幕に不正をとどめないなら その時こそ あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく 恐怖を抱くこともないだろう。 (ヨブ記11章13節~15節) ヨブが、神に発した、暗くもギリギリの愛の言葉を、3人目の友人ツォファルは、「無駄口」と切り捨てます(3節)。ヨブの苦悩から、彼の耳は、偽善と高慢さしか聞き取れません。彼もまた打ちひしがれるヨブを高みから見下ろすだけで、嘆く者の傍らに在ろうとしません。そして、他の友人同様、ヨブの過ちを正そうと躍起になります。 ツォファルが注目したのは、ヨブの神に対する恐れでした。彼は自信満々に、その恐れから解放される方法をヨブに語ってみせます。それは神に手を伸ばし、自らが犯した罪を認め、悔いることでした。そして、もう二度と罪を犯さないと誓うことでした。そうすれば、心の恐れは消えるだろう。ツォファルが語る方法は明快で晴れやかです。 しかし、それは可能なことか。ヨブはそれほど神の御業を軽く、また自身の恐れを易く受け止めてはいません。いずれもが深く重たい。だからこそ暗く苦悩しています。 私たちは、暗さの中、混乱の中で神を味わう時があります。味わっている人に出会います。その尊い人間の姿を大切にまっすぐ見つめられたなら。心からそう願います。 Tue, 29 Mar 2016 00:10:00 +0000 告白を生きる者へ、神は愛ゆえに沈黙する(ヨブ記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160329 no 2016 御手をもってわたしを形づくってくださったのに あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも わたしをも、呑み込んでしまわれる。 わたしの人生など何ほどのこともないのです。 わたしから離れ去り、立ち直らせてください。 (ヨブ記10章8節、20節) 主は与え、主は奪う」(1章21節)。ヨブは、かつて自身が語ったその告白を深めていきます。告白を生身で経験し、苦しむことを通して。 なぜ、神は、一方で人間を形づくり、命と恵みを約束されながら(12節)、しかし、他方で人間を災いに呑み込んでしまわれるのか。かつての告白に、ヨブはもう美しい調和を見ることができません。与え、奪われる神は矛盾しておられる。それが、ヨブのリアルで、率直な感覚になりました。もはや安定した告白の日々にヨブは帰れません。矛盾しているように見える神が耐え難い。その神のもとにある日々を厭う。ヨブは混乱し、願います。神が自分から離れて去ってくれることを。そうして、神から解放され、自分が消えていくことを。 それでも、ヨブは自分からは、神に別れを告げることができません。それがヨブの信仰です。神が離れ去ること。ヨブはその別れを最後の恩寵として神に願います。それがヨブのギリギリの愛です。神は、そのヨブに愛を絶やされません。ヨブから離れられません。神は、ヨブに捉えきれない大いなる神として、ヨブの願いに沈黙を貫かれます。 Mon, 28 Mar 2016 00:10:00 +0000 ヨブが憧れた世界(ヨブ記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160328 no 2016 このように、人間ともいえないような者だが わたしはなお、あの方に言い返したい。 わたしの上からあの方の杖を 取り払ってくれるものがあるなら その時には、あの方の怒りに脅かされることなく 恐れることなくわたしは宣言するだろう わたしは正当に扱われていない、と。 (ヨブ記9章32節、34節~35節) ヨブは夢見ます。もしも神と相まみえることができたならと。しかしそれが無理な望みであることをヨブはよく知っています。神は果てしなく遠いお方。その神にヨブの声は届かない。神は理不尽に、容赦なく災いを与えられるお方。その神がヨブは恐い。 それでも、もしもという希望がヨブの心から消えません。もしも神と人との間に立ち、神の怒りを静めてくれる方がおられるならば、そのときヨブは言いたいのです。神よ、ちゃんと見てくれ、俺の言い分を聞いてくれ、俺は正当に扱われていない、と。ヨブは痛いほどに神を愛しています。その思いがわずかにでも届き、その手応えがあったならば、ヨブの苦悩は報われたでしょう。しかし、やはりそれは無理な憧れであることにヨブの思いは沈みます。神と人との間に立ち得る方は、神と等しく、同時に人の痛みを知る人間でなければいけません。 そのようなヨブの憧れが私たちをキリストへと誘います。キリストこそ神と人間の架け橋、私たちの平和です(エフェ2章14節)。キリストが、私たちの叫びを神へと運びます。今、私たちはヨブが憧れた世界に生きています。 Sun, 27 Mar 2016 00:10:00 +0000 命への扉が開かれるとき(ルカによる福音書 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160327 no 2016 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」 (ルカによる福音書24章45節~46節) 復活された主イエスは弟子たちの真ん中に現れます(36節)。弟子たちはどれほど驚いたことでしょう。例えば「明るい暗闇」という表現は矛盾しているように、このとき「喜びのあまりまだ信じられ」なかった(41節)とある弟子たちの心は、矛盾の形でしか表現できないものでした。死んだはずの主が復活したという理解を超えた現実が、彼らに混乱と喜びを同時に与えました。 そこで主イエスは「彼らの心の目を開」かれました。聖書全体(44節)に書いてあることを悟らせるためです。「書いてある」という表現は「以前から神のご計画であった」という意味です。何度も聞いていたにもかかわらず聖書の言葉が理解できなかったのは、心の扉に鍵がおろされていたからです。 完全に閉ざされた扉が開かれる時、それがイースターです。主イエスの遺体を納めた墓が開き(2節)、二人の弟子たちの目が開き(31節)、そして心の目が開かれた。主が開いてくださった新しい命への道を祝うこの日、私たちの心の目もキリストが開いてくださいますように。 Sat, 26 Mar 2016 00:10:00 +0000 今ここで始まる命(ルカによる福音書 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160326 no 2016 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカによる福音書23章42節~43節) 主イエスの横で十字架につけられた犯罪人の一人は、ここが自分にとって人生の総決算としてふさわしいと思いました。しかしこの男は、主イエスは「悪いことをしていない」と言います。そしてこの男は主イエスがメシアとして支配なさるとき自分を思い出してほしいと願いました。 しかし主イエスはこの男が望んだ以上の約束をされます。この男ははるか将来の救いを希望していました。しかし主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。この刑罰は命を失うには普通1日以上かかる残酷な手段でした。それでも主イエスは「今日」といわれます。 それは主イエスと共に生きる「今」「ここ」に始まる新しい命だからです。だれもがこの男は地獄に行ったと思ったでしょう。しかし主イエスとの交わりを、誰も引き裂くことはできないのです。「わたしは確信しています。…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8章38、39節)。 Fri, 25 Mar 2016 00:10:00 +0000 イエスの力強い祈り(ルカによる福音書 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160325 no 2016 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 (ルカによる福音書22章31節~32節) 主イエスとの最後の食事の後、弟子たちは悪魔から激しい誘惑を受けます。悪魔の目的は、彼らの心をくじき神の任務には到底耐えられない罪人であることを証明することでした。 ペトロはすぐに三度も主イエスを知らないと否定するほど深刻な裏切りの罪を犯しました(54節以下)。失敗する前の彼は自分の信仰を堂々と誇ることができましたが(33節)、誘惑に出遭い自分の信仰的な誠実さなど全く役に立たないことを知りました。 しかしこの失敗をとおして彼の信仰は練り清められます。神にとっては失敗にも意味があるのです。彼はこの時「兄弟たちを力づけ」る(32節)伝道者となるための鍛錬を受けていたのでした。 ときに私たちもペトロのように信仰が無くなってしまうのではないかと思うほどの試練にあう時があります。そんな時、私たちに代わって祈ってくれる信仰の友がいることは喜びです。さらに力強い味方がいます。ペトロの「信仰が無くならないように」祈られたイエスは、今日私たちのためにも執り成しの祈りをしてくださるからです。 Thu, 24 Mar 2016 00:10:00 +0000 終わりを見つめて祈る(ルカによる福音書 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160324 no 2016 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。 あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 (ルカによる福音書21章28節、36節) 自分の将来への思い煩いや、社会に対する絶望など、足下を崩すような不安感が襲ってくる時があると思います。そんな時には何かにすがり、現実から逃げ出したくなります。 しかし主イエスは言われます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」(34節)。その日と言われている終わりの日が、「不意に罠のように」私たちを襲うことがないためです。その日には、それぞれが「人の子の前に立つ」(36節)のです。 ですから、その日がいつ来てもよいように備えて「いつも目を覚まして祈」(36節)りましょう。祈りは私たちの心を真っ直ぐ神に向けさせてくれます。この祈りは戦いであり、見ることを避け続けてきた課題に私たちを正面から向き合わせます。しかしこの祈りの先に解決があります。 なぜなら、私たちにとって終わりの日は「解放の時」(28節)だからです。主を信じる私たちに、最後の勝利は約束されているのです。ですから希望をもって祈り続けましょう。 Wed, 23 Mar 2016 00:10:00 +0000 大きな深淵(ヨブ記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160323 no 2016 シュア人ビルダドは話し始めた。 いつまで、そんなことを言っているのか。 あなたの口の言葉は激しい風のようだ。 神が裁きを曲げられるだろうか。 全能者が正義を曲げられるだろうか。 あなたの子らが 神に対して過ちを犯したからこそ 彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。 (ヨブ記8章1節~4節) 「人間そのものが大きな深淵である」(『告白』)。教父アウグスティヌスの言葉です。 ヨブと友人たちの神を巡る溝は大きく深くなっていきました。そのことに苛立ちを隠せない二人目の友人ビルダド。彼には頑強な信仰がありました。それによれば、あらゆる災いは、人間の罪に対する神の罰です。その罰に人間は従順に服さなければいけない。それがビルダドにとっての真理でした。ビルダドにとっては、神も人間も深淵ではなく、謎でもありません。それらは明快な事柄です。そんなビルダドにとって、「なぜ」と問い続けるヨブの苦悩は激しい風のように、ただ荒々しく空しいものです。 苛立つビルダドは、ヨブの子たちの罪を持ち出します。それはヨブにとって最も辛く、心配していた事柄でした。そんな生々しい痛みに踏み込んでさえ、ビルダドは自分の真理を押し付けようとします。彼にヨブの嘆きの深さを聞き取る力はありません。神の御業の不思議さを仰ぐ想像力も持ち得ません。それは、私たちの日々の姿かもしれません。今日、私たちは隣人の言葉に、隣人の何を見つめるでしょうか。 Tue, 22 Mar 2016 00:10:00 +0000 無垢な願い(ヨブ記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160322 no 2016 人間とは何なのか。 なぜあなたはこれを大いなるものとし これに心を向けられるのか。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。なぜ、わたしの罪を赦さず悪を取り除いてくださらないのですか。 (ヨブ記7章17節、20節~21節) わたしの目にあなたは価高い(イザ43章4節)。神が、私たちを愛し、大切な存在として見つめていてくださることに勇気を抱きます。 しかし、ヨブは苦悩の中で、神がそういうふうに人間を大いなるものとして見つめ、心を向けられることに、不可解さと重さを感じ取るようになっています。ヨブは理解していました。わたしの命は風にすぎないと(7節)。それほどに人間の生涯は短く、軽いものであると。神がわざわざ本気になって目を留めるに値しない存在、それが人間であるはずでした。そして、そうであるならば、人間が犯した罪も神にとって些細なことであるはずでした。しかし、神は人間の罪を重大に受け止め、激しい怒りを燃やされる。それがヨブには解りません。自分が神の負担となってしまっている。愛する神の偉大さを自分が傷つけてしまっている。それが、ヨブには辛く、耐え難いことになりました。 ヨブが願うことは今、病から回復することではありません。ひたすらに自分が神の負担とならないようにということです。辛ささえも神への無垢な告白となり得る。ヨブの願いが教えてくれます。 Mon, 21 Mar 2016 00:10:00 +0000 愛には恐れがない(ヨブ記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160321 no 2016 絶望している者にこそ 友は忠実であるべきだ。 さもないと 全能者への畏敬を失わせることになる。 わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。 流れが去った後の川床のように。 今や、あなたたちもそのようになった。 破滅を見て、恐れている。 (ヨブ記6章14節~15節、21節) 友人エリファズの励ましは、「絶望している者」という自覚をヨブに与えました。 ヨブの苦悩は深まります。しかし、その深まりがヨブの感覚を鋭敏にもしました。ヨブはエリファズが語る神の正しさの羅列に「欺き」があることを見抜きます。その羅列は、まるで川の流れのように時が経てば消えてなくなってしまう、そういう不確かなもの、その場しのぎのもの。そのような言葉を語ることは、友にも、神にも、不忠実、不誠実、欺く在り方ではないか。 ヨブの鋭さは、さらに、あなたは恐れていると、エリファズの欺きの奥にある「恐れ」を見抜きます。なぜエリファズが通り一遍に正しく神を語ったのか。実は、そこにヨブの破滅に対するエリファズの恐れ、自分も巻き込まれるのではないかという脅えがあったこと。だからこそ実は、正しい神を語る言葉をヨブにではなく、自分にこそ向けていたこと。それが、ヨブには透けて見えてしまいました。 恐れが、友の苦悩を深めます。そこに愛がないからです。「愛には恐れがない」(1ヨハ4章18節)。きょう、私たちの言葉がまっすぐ友に向かうものでありますように。 Sun, 20 Mar 2016 00:10:00 +0000 罪の赦しを求めて(詩編 130編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160320 no 2016 わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。 (詩編130編5節~6節) 「深い淵の底から」嘆き祈り「主に望みをおく」という祈りは、さまざまな試練にあるとき私たち誰にとっても身近な祈りです。そして「主に望みをおく」ということは、「御言葉を待ち望む」こととひとつです。きょうはその待望の御言葉が与えられる主の日です。自分が抱える「深い淵の底から」御言葉を求め、聖書を開きます。 ところで、この詩編作者の固有の「深い淵」は何でしょうか。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、誰が耐ええましょう」と語り、「あなたのもとに」ある「赦し」を待ち望んでいます。詩編作者は、「罪」の淵の底から御言葉を求めています。 「見張りが朝を待つにもまして」切実に「赦し」と「慈しみ」を期待する罪人。それは主を十字架につけてしまった直後の弟子たちの「淵の底」の姿と重なり、私たちに通じるものです。その弟子たちの肉声のように私たちにも「イスラエルよ、主を待ち望め」という言葉が届きます。 「主はイスラエルを、すべての罪から贖ってくださる」。そのことを切望して神に向き合うことこそ、私たちに必要な礼拝の姿勢です。 Sat, 19 Mar 2016 00:10:00 +0000 神の御前を生きる(ルカによる福音書 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160319 no 2016 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (ルカによる福音書20章25節) 私たちは急に決断を迫られ、一気にその後の進退が決まるようなことに直面するときがあります。主イエスのもとに「正しい人を装う回し者」が現れます。彼らは主イエスの揚げ足を取るため、熟慮を重ねた抜け道のない質問を投げかけました。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(22節)。 当時、異教の国ローマ帝国に支配されていたユダヤで、ローマに積極的に税金を納めるというなら、大多数の民衆の失望を買います。反対に税金を納めなくてよいというならローマ帝国への反逆となり、主イエスは袋小路に追い込まれたはずでした。 主イエスは彼らの偽善を見破り、彼らの示すどちらの側にも立ちません。人の顔色をうかがうのではなく、神の前を生きるのです。主イエスは言われました「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。 貨幣には皇帝のものであるしるしとして肖像と銘がありました。では、「神のもの」とは何でしょう。神の姿が刻まれている私たちこそ神のものです。ともに神だけを畏れ生きていきましょう。 Fri, 18 Mar 2016 00:10:00 +0000 賜物を隠さないで(ルカによる福音書 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160318 no 2016 「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』」 (ルカによる福音書19章17節) ムナのたとえでは、違う生き方をした人たちが出てきます。主人に忠実でなかった僕は、預った1ムナを布に包んでしまいこみ、主人が命じたように商売をしませんでした。他方、忠実な僕たちは商売をして、それぞれ10ムナと5ムナを稼ぎました。 預ったお金は1ムナずつ、現代でいうなら百万円くらいでしょうか。これは商売をするには僅かなお金を託したという意味です。しかし同じお金を預っても僕たちの態度は違いました。不忠実な僕は主人が「恐ろしかった」のでした。彼らの分岐点は、主人を見るまなざしです。 このたとえの主人は主イエスです。主人が王になって帰ってくるのは終末の日のことですが、個人的な終わりの日ととらえることも許されるでしょう。終わりの日に、貧乏くじを引いた人生だったと言うなら、不忠実な僕と同じです。 しかし、私たちの目には貧乏くじを引いたと見える人の方が、すばらしい働きをすることがあります。神からいただいた命を燃やすとき、そこに輝きが生じます。賜物を用いるように神は招いておられます。 Thu, 17 Mar 2016 00:10:00 +0000 そうして、言葉は暴力になる(ヨブ記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160317 no 2016 わたしなら、神に訴え 神にわたしの問題を任せるだろう。 見よ、幸いなのは 神の懲らしめを受ける人。 全能者の戒めを拒んではならない。 彼は傷つけても、包み 打っても、その御手で癒してくださる。 (ヨブ記5章8節、17節~18節) ヨブがなぜ嘆くのか。どうやら友人エリファズは理解したようです。それは、神を見失い、神の御業にゆだねることを忘れているからだ、と。 そこで、エリファズは、神の偉大さと、その御業の憐れみ深さとについて、そして、その神にゆだね生きる者の幸いについて、熱心に教え聞かせます。それらの言葉は、おそらく神を正しく語っているものでした。しかし、そうでありながら、それらの言葉のいずれもが、どこか攻撃的です。エリファズ自身が神の正しさを背負っているかのような興奮が感じられます。そうして、言葉は暴力になりました。神を正しく語ることが、神を正しく示すことには必ずしもなりません。そこに、語る者自身の正しさへの畏れと、語りかける者への柔らかい愛がないならば。「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(8節)。そのようなエリファズの高揚が、ヨブの悲しみを深めます。 私たちが神の正しさを語るのは、互いの違いを強調し、高みから説得するためでしょうか。いえ、その正しさのもとに、共に在ることを、同じ目線で分かち合うためです。繊細な愛の想像力をもって。 Wed, 16 Mar 2016 00:10:00 +0000 苦悩する友の傍らで(ヨブ記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160316 no 2016 あなたを疲れさせるだろうが 誰がものを言わずにいられようか。 あなたは多くの人を諭し 力を失った手を強めてきた。 あなたの言葉は倒れる人を起こし くずおれる膝に力を与えたものだった。 だが、そのあなたの上に何事かふりかかると あなたは弱ってしまう。 それがあなたの身に及ぶと、おびえる。 (ヨブ記4章2節~5節) 「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、1トンの塩をいっしょになめなければだめなのよ」(『塩1トンの読書』)。わたしが大切にしている本の一節。塩は一度にたくさんなめることができません。少しずつ味わうものです。そのように嬉しいことも悲しいことも共に少しずつ長い時間をかけて経験していくことで、やっとひとりの人を理解する入口に立てる、とその言葉は教えてくれます。 ヨブの苦悩に友人エリファズは言葉を向けます。彼はためらいがちに、それでもヨブの嘆きを咎めずにはおれません。エリファズはヨブの輝かしい過去を知っています。ヨブのことをよく理解しているつもりでした。だからこそ、ヨブが嘆きに身を浸すのはふさわしくないと言葉を重ねます。しかし、エリファズは、今、ヨブが何に苦しみ、どのような言葉を必要としているかに心を向けていません。 この時、エリファズが友人としてできた唯一のことは、ヨブに寄りそい、その痛みを理解できなくても、発せられる嘆きに耳をすませることではなかったでしょうか。それが共に少しずつ塩をなめるという営みに繋がったはずです。 Tue, 15 Mar 2016 00:10:00 +0000 苦悩する人間の尊さ(ヨブ記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160315 no 2016 なぜ、労苦する者に光を賜り 悩み嘆く者を生かしておかれるのか。 彼らは死を待っているが、死は来ない。 地に埋もれた宝にもまさって 死を探し求めているのに。 (ヨブ記3章20節~21節) 「苦悩のうちにある者は聖なる者である」という言葉に出会ったことがあります。 塵の中にうずくまるヨブのもとにやってきた友人たち。ヨブの悲惨な姿に皆が言葉を失いました。その沈黙を破ったのはヨブでした。「その日は闇となれ」(4節)。ヨブは自らの誕生の日を呪います。 神は「光あれ」と世界を創られ、その光のうちに、人間を良いものとして造られました。それが、ヨブには分からなくなりました。なぜ神は、人間に光を見せられたのか。なぜ神は、人間に嘆きを与えながら、なお生かされるのか。すべて闇に覆われてしまったなら、命さえも奪われてしまったなら、ヨブは理解できます。神はそういうお方であると。しかし、そうではない。神は光を奪いきらず、ヨブを暗さの中で、深い悲嘆の淵で、なお生かされる。そこにヨブの苦悩があります。神の御業の意味が分からない。その苦悩にヨブは正直です。そこにヨブの人間としての美しさ、尊さを見ます。 私たちも神の恩寵の光と、心に広がる闇との狭間で苦悩するでしょう。その苦悩が、私たちを神の御前にある人間であり続けさせます。 Mon, 14 Mar 2016 00:10:00 +0000 不幸も共にいただこう(ヨブ記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160314 no 2016 彼の妻は、 「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。 「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。 (ヨブ記2章9節~10節) 財産を失い、子たちを失ったヨブ。しかし彼から神へのまっすぐさが失われることはありませんでした。ヨブを信頼した神の正しさも揺らぐことはありませんでした。 しかし、サタンはあきらめません。ヨブの無垢さはまだ証明されていないと神に詰め寄ります。サタンは再び神の許可を得、ヨブの体にひどい病をもたらします。ヨブは、まるで神の呪いを受けたかのような有様に変貌しました。ヨブは灰の中に座り、体をかきむしります。そのようなヨブに、彼の妻は寄り添い、言います。もう無垢であることをやめて、神を呪った方が楽ではないか。それは彼女なりの精一杯の思いやりの言葉だったでしょうか。彼女も辛かったでしょう。しかし、そのような優しさにもサタンは企みを忍びこませます。妻の言う通りと、ヨブに神を呪わせるために。 それでも、ヨブは願います。「わたしたちは」と。ヨブはまっすぐに神に向かい続けます。しかも妻と共にそうあることを願います。神から共に不幸をもいただくことが共に在ること、愛し合うことです。ヨブのまっすぐさは、妻への愛と妻の神への愛を守ります。 Sun, 13 Mar 2016 00:10:00 +0000 かつての苦しみから(詩編 129編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160313 no 2016 イスラエルは言うがよい。 「わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった。」 (詩編129編1節~2節) 「わたしが若いときから彼らはわたしを苦しめ続けた」ということを二度繰り返してこの詩編は始まります。人生の長い期間にわたって「わたしを苦しめ続けた」もの。そのことに思いを凝らすことでデボーションも深められます。 そのつらい思い出から祈り始めることは、「彼らはわたしを苦しめ続けたが彼らはわたしを圧倒できなかった」という事実に自から向かうでしょう。それによって、やはり「主は正しい」という認識をあらたにすることになります。自分の人生の歩みを思い返し、主は常に「束縛を断ち切ってくださる」方であったことを思いましょう。 そのかつての束縛をこの詩編はさらに生き生きとした比喩にして「抜かれる前に枯れる屋根の草のよう」と歌い、それを現在と未来へも向けるのです。つまり、今もそしてこれからも悩みや苦しみに捕われるとき、主はやはりそれを「抜かれる前に枯れる屋根の草のよう」にしてくださるに違いない。「彼らはわたしを苦しめ続けたが彼らはわたしを圧倒できなかった」という体験をもう一つすることになるでしょう。 Sat, 12 Mar 2016 00:10:00 +0000 人間にはできないこと、神にはできること(ルカによる福音書 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160312 no 2016 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。 (ルカによる福音書18章25節~27節) 議員はイエスに「何をすれば」永遠の命を頂けるかと質問をしました。彼は青年だとマタイによる福音書にあります。若くして成功した人でしたが、人生に対してむなしさを抱えていたのでしょう。 イエスは青年の問題を見抜き、議員に財産を捨てるように招きました。しかし彼にはそれができませんでした。この財産が彼を縛る偶像だったのです。彼に隣人愛から目をそらさせ、真の神に従うことを邪魔していたのです。財産を捨てるようにというイエスの招きは、ただ真の神を礼拝するようにという招きでした。 私たちにも、捨てられない偶像があります。しかし人の力で捨てることはできません。救いは人が「する」努力の先にはないからです。永遠の命は「受ける」(30節)ものであるからです。イエスは言われました、「人間にはできないことも、神にはできる」(27節)と。捨てるのは愛の交わりに入るためです。永遠の命を探す議員に、イエスは「私」が答えだ、身軽になって従いなさいと招かれたのです。 Fri, 11 Mar 2016 00:10:00 +0000 キリストに向かって走る(ルカによる福音書 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160311 no 2016 「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」 (ルカによる福音書17章24節~25節) 3・11の地震から5年たちました。町の復旧もままなりませんが、それ以上に、心に受けた深い傷はなかなか癒されません。神からの慰めを心から祈ります。 災害には備えが必要です。なおのこと世の終わりには備えが必要なはずです。どう備えるべきかが31~33節にあります。「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない」のです。直訳すれば「畑にいる者は後ろのモノをふり返るな」となります。「後ろのモノ」とは過去の生活のことです。良いモノ、悪いモノどちらであっても捨てるのです。 最後の日に私たちはキリストの前に立ちます。誰もが丸裸で隠すことはできません。ただし信じる者たちには、キリストは恐ろしい方ではありません。「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」お方なのです(黙21章4節)。だから共に「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走」りましょう(フィリ3章13、14節)。 Thu, 10 Mar 2016 00:10:00 +0000 貪欲は偶像礼拝にほかならない(ルカによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160310 no 2016 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 (ルカによる福音書16章13節) ある金持ちと、ラザロというできものだらけの貧乏人がいました。金持ちは贅沢に暮らし、そして死んで立派な葬儀をしてもらいました。他方、ラザロはいつも腹ぺこで、ついに死んでも葬儀はありませんでした。しかし死後、彼らの境遇は逆転します。ラザロは天使によって宴会の席にいるアブラハムのそばへ、金持ちは陰府へと。 金持ちは陰府で苦しみますが、境遇はもう変わりません。彼の間違いは何だったのでしょうか。それは聖書の間違った読み方による自己正当化です。神の祝福は神の命令への服従の結果である。それなら富んでいる自分は神に間違うことなく神に従っていると。そして貧しいラザロを無視しました。反対に主イエスは貧しい人を憐れみます。主イエスは「貧しい人」に福音を告げ知らせるために来られました(4章18節)。 世界には1日1ドル以下で暮らす人が13億人近くいるそうです。金持ちとラザロは家の門でつながっていました。私たちは世界中の情報と一瞬でつながる時代に生きています。神は私たちに分かち合うよう招いておられます。 Wed, 09 Mar 2016 00:10:00 +0000 ある日、天上の集会で(ヨブ記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160309 no 2016 主はサタンに言われた。 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 (ヨブ記1章8節) 天上において交わる神と御使いとサタンの集会。そこから二つの視線が一人の男に注がれます。その視線の衝突にこの物語の幕はあきます。 ヨブという男。彼はまっすぐに神を畏れ生きてきた人でした。神はそのヨブを温かく見つめ、「彼ほどの者はいまい」と信頼されていました。一方、サタンは睨んでいました。ヨブのまっすぐさには裏があると。ヨブは東の国一番の富豪でした。多くの家族に恵まれ暮らしている人でした。それがヨブを無垢にさせていると。それらが奪われたなら、すぐに神を呪い始めると。 サタンは神に挑戦します。神の視線が正しいのか。サタンの視線が正しいのか。サタンは否定してしまいたい。神に向かうまっすぐなヨブを。そしてヨブに信頼を置く神を。 神はその挑戦を受け止められます。ご自身の正しさをヨブに託されます。そうして、悲嘆がヨブを襲い、瞬く間に財産も子どもたちも奪われていきました。 ヨブは知りません。天上からの視線を。私たちも知りません。自らの苦難の意味を。しかし、そこに注がれている神の視線があることを私たちは知っています。 Tue, 08 Mar 2016 00:10:00 +0000 主の約束を待ち臨む(申命記 34章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160308 no 2016 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。 (申命記34章10節) イスラエルを率いた偉大な指導者モーセは、カナン到着を前にして天に召されます。申命記は「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」という賛辞を贈ります。ただ、申命記を通読してきた者からすると、18章15節で神がモーセのような預言者を送ると約束されたことと矛盾する、と思われるかもしれません。しかし旧約時代に限定すれば、モーセに匹敵する預言者は現れなかったのです。キリスト教会はモーセから千年以上も後に降誕されたキリストに、モーセのような預言者の成就を見ます。いやモーセに優るお方です。 主が約束なさったことはすぐに実現するとは限りません。キリストが再臨し、罪と死を完全に滅ぼされるとの約束も未だ成就を見ていません。それでも主は最も適切な時に確かに約束を成就してくださることを、聖書は強調し、それゆえ信仰に踏みとどまるように励まします。私たちも、この地を完全に神の国とするという主の約束が確かに成就することを信じ、主に従って今日も神の国の進展のために励んでまいりたいと願います。 Mon, 07 Mar 2016 00:10:00 +0000 主はなお民を慈しむ(申命記 33章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160307 no 2016 あなたは民らを慈しみ すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。 彼らはあなたの足もとにひれ伏し あなたの御告げを受ける。 (申命記33章3節) 約束の地カナンを前に、主はイスラエルに、時に厳しく語りかけてきました。しかしその締めくくりに、主はモーセを通して祝福の言葉を与えます。主の聖なる民としてイスラエルを慈しむことこそ主の御心の大本なのです。 ところで各部族に祝福が告げられていく中、ルベンへの言葉は「ルベンを生かし、滅ぼさないでください」(6節)と実に短いものです。ルベンはヤコブの長男でしたが、過ちを犯してしまいます(創35章22節)。更にカナンに近づくとルベン族はその手前の東ヨルダンに定住すると言いだし、モーセに叱責されます(民32章)。それでも主は、ルベン族を祝福からはずしはしませんでした。主の慈しみを受けたルベン族は、主に服従してカナンでの戦いにも赴いたのでした。 主の慈しみは、不品行に満ちた新約のコリント教会にも「聖なる者」と呼びかけ(1コリ1章2節)、そして今を生きる私たちにまで示され続けています。十字架に示された主の慈しみなくして生きていけない、と悟ったとき、私たちは主の足もとにひれ伏し、主の御告げに耳を傾ける者となります。 Sun, 06 Mar 2016 00:10:00 +0000 祝福された生活(詩編 128編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160306 no 2016 いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。 あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。 あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。 (詩編128編1節~2節) 「イスラエルに平和」という言葉で結ばれる詩編です。その平和の中身としてこの詩編が挙げるのは、「あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる」ことであり、「妻」であり、「食卓を囲む子ら」です。それは平凡とも言いうることかもしれませんが、それを指して「あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか」と言います。さらに「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」と言うのです。 それは裏返していうと、平凡な生活そのものが祝福にほかならないことを実感できるということでしょう。その平凡さの中に「神の民に平和」を与えてくださっている御手を見る視力。「いかに幸いなことか」と感謝できる心の持ちよう。それが「主の道に歩む人」に与えられた恵みです。家族があり、「あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる」仕事があります。毎日の生活、毎日の労働が豊かな意味を与えられています。労働の時間が、家族との時間が、本来の幸いを回復します。きょうから始まる一週も、そのような「主の道に歩む人」の祝福に満たされているはずです。 Sat, 05 Mar 2016 00:10:00 +0000 愛はじっとできない(ルカによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160305 no 2016 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 (ルカによる福音書15章20節) 放蕩息子の父親は、まだ遠くにいる息子を見つけて走り出しました。着物の裾をまくって走る姿は父親の威厳をそこないます。それでも彼は走るのです。そして汚い身なりの息子を抱きしめ接吻する。これは二人の関係の回復を意味します。この回復は父親の方から始められ、息子の罪の告白にも先立っています。 息子は言いました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」告白の内容を、息子はあらかじめ用意していましたが、この先の言葉は父親によってさえぎられました。罪の告白が途中でさえぎられたのです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザ65章24節)。 この父親の愛の姿は私たちに向けられた神の一方的な愛を教えます。同時に忘れてはならないのは「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9章22節)ことです。このたとえを語られた主イエスの十字架によって私たちも罪が赦され「アッバ、父よ」と神を親しく呼ぶことができるのです。 Fri, 04 Mar 2016 00:10:00 +0000 塩気を保ってこそ(ルカによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160304 no 2016 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」 (ルカによる福音書14章34節~35節) 主イエスの教えは、家族や自分の命を憎み、自分の十字架を背負ってついて来なければ、弟子ではありえないという厳しいものです。これは、一緒について来た大勢の群衆に語られたもので(25節)、物見遊山でついていけば弟子になれるという思いに釘を刺し、彼らをふるいにかける言葉です。 この後に「塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」と語られます(28節)。思慮深く、完成を目指し続ける決心も必要です。弟子になるために十分な費用とはどのくらいでしょうか。「自分の持ち物を一切捨てないならば、…わたしの弟子ではありえない」(33節)。 そして、きょうの御言葉では、塩気がなくなることへの警告が語られています。これらの御言葉の厳しさは、弟子の自覚と喜びをもって主に従うことを、主が心から願っておられことを表しています。 主イエスは、癒し、嵐を静め、わずかなパンと魚で5千人を養い、雀の1羽さえ忘れない神の慈しみも教えてくださいました。主のご配慮の中、主に従うことのできる光栄と喜びを保つことが、弟子の塩気です。 Thu, 03 Mar 2016 00:10:00 +0000 キリストの恵みによって(テトスへの手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160303 no 2016 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 …神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 (テトスへの手紙3章7節~8節) 3章でパウロは、正しい信仰とともに、正しい生活を強調しています。パウロは「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし」ていたと語ります。けれども、キリストの恵みによって救われ、聖霊によって新しく生まれさせられたことによって、良い行いに励もうと心がけるようになったことを告白します。 信仰者の信仰と生活は、キリストの恵みを土台にしています。それゆえ、キリストの恵みがなければ、信仰は信念にすぎなくなり、また生活は、倫理的生活に留まるだけです。信仰者の生活は、単なる良い行いの積み重ねではありません。それは、神が私たちに豊かに注がれた恵みが、私たちから溢れ出ることの結果なのです。 今、信仰生活の面で悩む部分がありますか。そうであれば、主の恵みを切に求めましょう。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」。その神が、必ず私たちをまた新たに造り変え、励ましてくださいます。 Wed, 02 Mar 2016 00:10:00 +0000 愛が深いからこそ(申命記 32章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160302 no 2016 主は荒れ野で彼を見いだし 獣のほえる不毛の地でこれを見つけ これを囲い、いたわり 御自分のひとみのように守られた。 (申命記32章10節) 「新約に比べ旧約の神には愛を感じにくい」と言われるのに対し、旧約でも神の愛がよく示される一例として、10節が紹介されることがあります。ただその後にはイスラエルに対する主の厳しい言葉が続きます。主の愛と厳しさとが自分の中で折り合いがつかない、と思われる方もあるかもしれません。 そこで今一度、十戒を振り返りましょう。第二戒で主は「わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(申5章9、10節)とおっしゃいます。熱情の愛を注ぐからこそ、その愛を裏切る者に厳しくなさるのです。 同様の厳しい愛は、「ぶどう園と農夫のたとえ」(マタ21章他)にも描かれています。そこには、愛するひとり子さえもお遣わしになる神の深い愛が示されています。しかし、その神の忍耐と愛を最後まで拒む者には警告が与えられます。主の愛は裏切られても痛くもかゆくもないような愛ではないことを、旧約も新約も一貫して語っています。 Tue, 01 Mar 2016 00:10:00 +0000 主があなたと共に(申命記 31章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160301 no 2016 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」 (申命記31章6節) 「強く、また雄々しくあれ」と主がヨシュアにおっしゃった場面、と聞くと、モーセ亡き後のヨシュア記冒頭を思い起こされる方もあるでしょう。その前の申命記にも、ヨルダン川を渡れないと知ったモーセを通して主がヨシュアに告げられる場面が出てきます。偉大な指導者モーセがいなくなると分かった時点から、ヨシュアをはじめイスラエル全体に恐れが生じていました。それを鎮めようと、主ご自身が語りかけてくださいました。主が共にいて、共に歩まれるから、「強く、また雄々しくあれ」、「恐れてはならない」と繰り返し力づけてくださいました。 私たちも、目に見える形で頼りにしていた人や物が目の前から去ることで心揺らいでしまうところがあります。主が共にいてくださるのに、肉の目には見えないために、主を見失ってしまう恐れがあります。ですから、繰り返し、今も生きて一人一人に呼びかけてくださる主の御声を聞くことが大切です。日曜日の公同の礼拝や家庭礼拝で、聖書にある神の言葉に繰り返し耳を傾けることで、恐れは去り、強く、雄々しくされます。 Mon, 29 Feb 2016 00:10:00 +0000 再び主に立ち帰る(申命記 30章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160229 no 2016 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 (申命記30章2節~3節) 主はエジプトで奴隷であったイスラエルを導き出し、シナイ山で神の民とする契約を結びます。しかし荒れ野の旅においてイスラエルは幾度も罪を犯してしまいます。それでも主は今一度主に立ち帰り契約を結ぶよう招かれました。この契約では、人の服従だけが求められるのではありません。主も「あなたの神」としてさまざまに働きかけ、神の民を祝福へと導こうとなさいます。とりわけ「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と宣言されました(6節)。 この主の御心はバビロン捕囚の時、エレミヤに「新しい契約」を予告されたときにも示されました。「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレ31章33節)。それは神の御子キリストと聖霊によって成就しました。14節の「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という御言葉は、新しい契約のもとで主に立ち帰る私たちに確かに実現するのです。 Sun, 28 Feb 2016 00:10:00 +0000 焦慮してパンを食べる人よ(詩編 127編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160228 no 2016 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。 主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。 (詩編127編1節) 「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる」ような毎日の生活があります(2節)。それだけで慌ただしく過ぎてゆくだけの労働生活なら、聖書は「それは、むなしいことではないか」といいます。生活をむなしいものにしてしまわないためにはどうしたらよいのでしょうか。 「主御自身が建ててくださるのでなければ」家は建ちません。家を建てようとして働くわたしたちの労苦はむなしいものになってしまいます。「主御自身が守ってくださるのでなければ」生活を守ろうとするわたしたちの努力もむなしいものになってしまいます。毎日の生活がそんなむなしさに帰してしまわないために、「主御自身が建ててくださる」、「主御自身が守ってくださる」という信頼へと、日々、思いを向けましょう。 そのとき、わたしたちの労働は、主を信頼した、主とともにする働きになるでしょう。わたしたちが生きることは、主とともに生きることになるでしょう。それは決してむなしくはない、信頼と喜びに満ちた充実した労働生活の基盤となるでしょう。 Sat, 27 Feb 2016 00:10:00 +0000 信仰だけでなく、生活も(テトスへの手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160227 no 2016 しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。…あなた自身、良い行いの模範となりなさい。…そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。 (テトスへの手紙2章1節~10節) 神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している偽教師たちを非難しつつ1章を終えたパウロは、「しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい」とテトスに言います。聖書の教えに適って、信仰と共に、生活についても大胆に語りなさいということです。それで、パウロは、年老いた男女や、若い男女、奴隷に対して、信仰者に望まれる信仰生活について具体的に述べます。 けれども、生活の面について語ることは簡単なことではないでしょう。相手を傷つけ、悲しませるかもしれないし、また、嫌われるかもしれないので、かなりの勇気が必要です。パウロもコリント教会を戒めたとき、コリント教会の信徒たちを悲しませたのではないかと心配しました。しかし、後悔はしませんでした。なぜなら、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」るからです(2コリ7章10節) 信仰者は行いによって、救われるわけではありません。しかし、救われた者は、行いによって、神の教えである聖書を、あらゆる点で輝かすことになるのです。 Fri, 26 Feb 2016 00:10:00 +0000 聖書の教えに従って勧める(テトスへの手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160226 no 2016 監督は…教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。 (テトスへの手紙1章7節~9節) パウロがテトスを残していったクレタの教会には、間違った教理を教える偽教師たちがいました。信仰生活が比較的短い異邦人教会であるため、クレタの教会の信徒たちは、それが間違った教えであるかどうか見分ける力がなかったのでしょう。間違った教理を教えられた信徒たちは、間違った信仰生活を過ごすようになっていました。それゆえ、パウロは健全な教えに従って、すなわち、聖書に従って、信徒たちを教えるようにと語ります。 今日の多くの異端の教会も聖書を教えます。その教えは、一見、聖書からの「健全な教え」であるように見えることもあります。けれども、彼らの教えは「異端」という言葉のように、「端」すなわち最後が異なっています。なぜ、彼らはそういう教えを語るのか。それは、「恥ずべき利益を得るため」(11節)です。彼らは聖書に従って教えるのではなく、自分たちに聖書を従わせようとします。 聖書は従わせるものではなく、私たちが従うべき信仰と生活の唯一の基準である神の言葉です。今日も一日、聖書の教えに従って、主と共に歩んで行きましょう。 Thu, 25 Feb 2016 00:10:00 +0000 主が招き入れたのは(申命記 29章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160225 no 2016 今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者に至るまでいる。それは、…今日、主があなたを立てて御自分の民とし、自らあなたの神となられるためである。 (申命記29章9節~12節) イスラエルが約束の地カナンに近づくと、主は今一度人々を集め契約を結ばれました。主が契約相手となさったのは、驚くほど広範囲の人々でした。特に「妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者」は、当時の社会では一人前扱いされていない人たちでした。女性や子どもは成人男性に劣るとされ、寄留者はイスラエル民族と血統的に異なる外国人、薪集めや水くみをするのは奴隷ということで(ヨシュ9章参照)、低く扱われがちでした。しかし、主はそうした人々をも分け隔てせず神の民とし、愛の御手を差し伸べると宣言されました。 この主なる神の独り子キリストも、社会的に冷たく扱われていた人々のところに足を運び、御自身から進んで愛の御手を伸ばし、人々の友となられました。旅で泥まみれになった足を洗うという、当時奴隷の仕事とされたことをも進んで引き受けられました(ヨハ13章)。 そして自ら、十字架で罪の贖いとなられることで、私たちを罪から救い神の民としてくださったのです。この分け隔てない神の愛にこそ、私たちの慰め、希望があります。 Wed, 24 Feb 2016 00:10:00 +0000 主の道と滅びの道(申命記 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160224 no 2016 あなたは、今日わたしが命じるすべての言葉から離れて左右にそれ、他の神々に従い仕えてはならない。 (申命記28章14節) 申命記28章は14節までは神に従う者への祝福を、15節から68節までは神に従わない者への呪いを語ります。祝福と比べ、呪いの警告にかなりの分量が割かれていることが分かります。それは「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」からです(マタ7章13節)。あまりに広いので、入ってしまっていることすら気づかないこともあります。そこで神は、神から離れた者にふりかかる出来事を列挙し、人々が神から離れてしまっていたことに気づかせようとされたのでした。 ただこうした警告だけで旧約の神の民が主の道に立ち帰ることはできませんでした。命に通じる道は細く、それを見いだす者は少ないからです(同14節)。 そこで「わたしは道である」と言われるキリストがこの世に来てくださいました。キリストが十字架で人の罪を砕いてくださったことで、滅びの道から抜けだし、主の道を選び取る者へと私たちを造りかえてくださいました。今、私たちの前には祝福の道が広がっています。その命の道を一歩ずつ確かめながら、人々を招き、共に歩みます。 Tue, 23 Feb 2016 00:10:00 +0000 愛が深いからこそ(申命記 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160223 no 2016 また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。あなたは石の上にこの律法の言葉をすべてはっきりと書き記しなさい。 (申命記27章7節~8節) 申命記27章の後半では主の戒めを守らない者への呪いが宣告されていきます。ここだけを見ると主なる神は恐ろしい方と思われるかもしれません。しかし主は、取るに足りなかったイスラエルを神の民とし、和解の献げ物の時には、主に献げられたいけにえの肉を民に分け与え、食べて喜び祝うようにされました(レビ7章参照)。主は人を喜びの内に生かそうという愛をお持ちの「熱情の神」(申5章9節)です。だからこそ、人から喜びや生き生きとした命を奪うことに対して、主は厳しい姿勢を取られます。人に戒めを与え、厳しく警告なさることも神の愛から出るものです。 新約の時代になり、礼拝では、キリストの養いをいただき喜ぶ聖餐式が制定されています。そこに、私たちを滅びから救おうと御自身の命まで差し出してくださったキリストの十字架の愛が示されています。主からいただいた永遠の命の幸いを十分に全うするためにも、神からの深い愛に基づく主の戒めを深く心に刻み、救われ、キリストのものとされた感謝の応答として戒めを守るよう努めていきましょう。 Mon, 22 Feb 2016 00:10:00 +0000 主により聖なる民へ(申命記 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160222 no 2016 主もまた、今日、あなたに誓約された。「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と。 (申命記26章18節~19節) 旧約のイスラエルは特別優れていたわけでなく、「わたしの先祖は、滅びゆく1アラム人」(5節)と言う他ありませんでした。エジプトで奴隷にされてもいました。しかし主はアブラハムを選んで以来、イスラエルを神の民とし、数々の約束を与え、エジプトで虐げられていた状態から解放し、約束通りカナンの地に導かれました。イスラエルの必死の努力ではなく、主の恵みの御手が、イスラエルに乳と蜜の流れる豊かな地を得させてくださったのです。 ですから、神の民にふさわしく主の掟を守って生きよ、とイスラエルに命じられます。そのとき主は、イスラエルを宝の民、主の聖なる民にする、という後押しをも約束されました。新約の時代もそれは変わりません。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリ1章6節)。 私たちも弱く小さな者ですが、主が導き完成に至らせてくださると確信しています。だからこそ「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います」(17節)。 Sun, 21 Feb 2016 00:10:00 +0000 涙と共に種を蒔く(詩編 126編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160221 no 2016 涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 (詩編126編5節~6節) 主が「捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった」とうたい出されています。つまり、この人は、そこから連れ帰ってもらえることは夢としか思えないような「捕われ」の中に閉じ込められてしまっているようです。しかし、その「捕われ」から連れ帰ってもらえるなら「わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう」とか、「わたしたちは喜び祝うでしょう」と期待します。その期待が「主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください」、わたしたちを「捕われ」から連れ帰ってくださいという祈りになりました。 今、この人は、どんな「捕われ」にあるのでしょうか。「涙と共に種を蒔く」とか、その涙の「種の袋を背負い、泣きながら出て行った」とありますから、何か大きな悲しみに捕われてしまっているようです。 しかし、そのような「涙と共に種を蒔く」人が、「喜びの歌と共に刈り入れる」ことができる。「泣きながら出て行った」人が、「喜びの歌をうたいながら帰ってくる」ことができる。そのことを主の「大きな業」といいます。 Sat, 20 Feb 2016 00:10:00 +0000 信仰の戦いを立派に戦い抜く(テモテへの手紙一 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160220 no 2016 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 (テモテへの手紙一6章12節) パウロはテモテに「神の人よ」と呼びかけ、信仰の戦いを立派に戦い抜くように励まします。そこで彼に、多くの証人の前で信仰を表明したことを思い起こさせます。 信仰の戦いに行き詰まり、疲れを覚える時、私たちは自分が信仰を告白したことを思い起こしましょう。私たちは永遠の命を得るために神から召されて信仰を告白したのです。告白した内容は主イエス御自身が、ポンテオ・ピラトの前ではっきり宣言なさったことでした。私たちが「主イエスはまことの王であられる」と告白をするとき、主イエス御自身がピラトの前でなさったのと同じことを表明しているのです。パウロは教会の困難な問題に直面し疲れを覚えているテモテに、主イエスとの確かな結びつきを確信させて励まします。 私たちも今は種々の信仰の戦いの中に置かれながらも、信仰の告白によって主イエスとしっかり結ばれています。その確かさは再臨の時に誰の目にも明らかになります。信仰の表明をした私たちには今も後も主イエスが共にいてくださいます。ですから神に召された信仰の戦いを立派に戦い抜いていきましょう。 Fri, 19 Feb 2016 00:10:00 +0000 寄り添う教会(テモテへの手紙一 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160219 no 2016 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。…身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。 (テモテへの手紙一5章3節~7節) 5章には教会のやもめへの援助について詳しく記されています(3~16節)。 当時の教会ではやもめに対する配慮はとても大切なことでした(使6章1節)。当時はやもめが社会に出て生活資金を得る機会はほとんどありませんでした。ですから、困窮したやもめへの支援は教会としてなすべき義務でした。そのためにどういう人に財政的な支援をするかというルールは当然必要だったのでしょう。9節にあるのはそのための登録制度についての言及と考えられます。そして9、10節には登録に該当する具体的な条件が細かく記されます。 当時と今日では社会保障制度も違いますし、教会と社会の状況も同じではありません。けれども弱い立場にある人、困窮している人に寄り添っていくという教会の姿勢が、この時代の教会から既にあり、しかも当時の社会と教会の状況を踏まえた、とても具体的できめ細かな制度作りが行われていたこともわかります。 私たちの教会でこの姿勢が受け継がれ、愛の執事的業がさらに豊かに展開されますように祈りましょう。 Thu, 18 Feb 2016 00:10:00 +0000 働く者の権利(申命記 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160218 no 2016 脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。 (申命記25章4節) 約束の土地での農業には牛が用いられました。農作業で用いる牛に口籠をかけると餌が食べられません。ですから、そのようなことをしてはならないと命じられました。牛に十分な栄養を与えれば、作業は進むからでしょう。 この御言葉はテモテへの手紙一の5章18節で引用されています。「聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています」。 使徒パウロは、牛でさえ働くために餌を与えられるのであるから、人間の場合はなおのこと、働く者にふさわしい報酬が与えられなければならないと語ります。また、テモテへの手紙一では特に「御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい」(5章17節)と述べられています。パウロの引用の意図は、福音の種をまき、福音に奉仕する者の生活は、支えられるべきであるということです。 同様に、勤労者の生活全体も守られなければなりません。信徒一人一人の生活が支えられねばなりません。 Wed, 17 Feb 2016 00:10:00 +0000 神の救いを想起して(申命記 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160217 no 2016 寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。 (申命記24章17節~18節) 約束の土地で新しい営みを始める神の民に対して、神は、繰り返し、「寄留者、孤児、寡婦」に配慮を向けることを命じられました。 神はその配慮をただ人道主義的な視点からではなく、エジプトからの解放に基礎付けられます。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、エジプト人の農場で働かされ、土木工事等に使役されていたでしょう。そのような困難な奴隷状態から、神は一方的な憐れみと愛によって彼らを助け出されました。 困窮はかつての自分たちの姿です。寄留者は、難民のような方たちかも知れません。孤児にもシングル家庭にも貧困が迫っています。ですから、神は畑のぶどうの実を取りつくさないで彼らのために残すことを命じられました。それは彼らが神の救いの恵みを味わうためです。その味わいによって、共同体全体が喜びに満たされるためです。 神は罪の奴隷から私たちを救い、私たちに貪欲と貧困に立ち向かう力を与えてくださいます。神はそのようにして、貧しい者たちに、また私たちにも寄り添ってくださるお方です。 Tue, 16 Feb 2016 00:10:00 +0000 貧しい者への配慮(申命記 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160216 no 2016 隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。 (申命記23章25節~26節) 今日であれば、ぶどうや麦は所有者の物で、他人が勝手に入り込んで作物を食べると窃盗になるでしょう。しかし、神はイスラエルの共同体の中で、貧しい者たちが飢えに苦しまないように、このように配慮しました。 神は、ぶどう畑や麦畑の所有者の権利だけでなく、そこを通る神の民の生存の権利をも同様に守ります。もちろん、健康でありながら、人の畑で生活を満たす者は盗みに当たるでしょう。神は土地をイスラエルに与え、それぞれの畑に作物を育み、祝福してくださいます。神に与えられた物は、神の必要のために用いられます。 もし、事故や病で家の主人が失われたとしたら。その心配は家族を残さねばならない主人にも、残される家族にもありました。しかし、イスラエルは、共同体において、生きていくことを分かち合いました。この相互扶助の戒めは、後の社会保障の精神の先取りとなりました。 私たちが手に入れた地位も名誉も財産も健康もただ神の憐れみと祝福によります。与えられた祝福への感謝は、与える幸いと結びついています。 Mon, 15 Feb 2016 00:10:00 +0000 同胞への親切(申命記 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160215 no 2016 同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない。もしも同胞が近くの人でなく、だれであるかも分からない場合は、それを家に連れ帰り、同胞が捜しに来るまで手もとに置き、捜しに来たとき、その人に返しなさい。 (申命記22章1節~2節) 自分たちの同胞を助けなければならないことが語られています。困っている方があれば、誰でも助けることは当たり前だと思われるかもしれませんが、実行することは簡単ではありません。ですから、戒めとして、「見ない振りをしてはならない」と繰り返し語られています。 私たちは面倒なことには関わりたくありませんし、忙しい時に、同胞の牛や羊の世話まで手が回りません。そこに私たちの罪の問題があります。 さらにここには、同胞とは誰か、という問題もあります。身内の家畜であれば、保護しますが、他人の家畜の世話まではできません。まして相手が厄介な人間であればなおのことです。 しかし主イエスは、善いサマリア人のたとえで、同胞を超え、敵と思うような人に対しても、見ない振りをすべきでないことをお教えになりました。同胞という言葉は兄弟も意味します。 主イエスは十字架と復活によって、私たちの同胞となってくださいました。ですから、私たちは目の前の人を主イエスの兄弟姉妹、同胞と思って親切にするのです。 Sun, 14 Feb 2016 00:10:00 +0000 自分の道にそれて行く者(詩編 125編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160214 no 2016 主に依り頼む人は、シオンの山。 揺らぐことなく、とこしえに座る。 山々はエルサレムを囲み 主は御自分の民を囲んでいてくださる 今も、そしてとこしえに。 (詩編125編1節~2節) 「主に依り頼む人はシオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る」。これが私たちの姿です。しかし、周囲を見渡すとどうでしょうか。「よこしまな自分の道にそれて行く者を、主よ、悪を行う者と共に追い払ってください」(5節)と言いたくなるような人がいるものです。 そのような人が視界に入る中で、それでも「主は御自分の民を囲んでいてくださる、今も、そしてとこしえに」ということに思いを寄せましょう。その思いを確かなものとするためには、「主に依り頼む」という自分の姿勢を改めて明確にすることが必要でしょう。そうしなければ自分自身が「よこしまな自分の道にそれて行く」ことになりかねないからです。 きょう、自分がどんな「自分の道にそれて行く」可能性があるか、それを意識的に「追い払って」、主に依り頼む姿勢を取り戻し、自分が「主の民」であることを再確認しましょう。そういうあなたこそが「今も、そしてとこしえに」主に囲まれて、「揺らぐことのない」あなたなのです。このことを実感して、きょうという日に向かい、きょうという日を終えましょう。 Sat, 13 Feb 2016 00:10:00 +0000 専念すべきこと(テモテへの手紙一 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160213 no 2016 わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。…以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。 (テモテへの手紙一4章13節~14節、16節) 13~16節では、牧会者と教会にとって一番大切なことが教えられます。それは御言葉と祈りに集中することです。 パウロはテモテに「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」と命じます。エフェソの教会では偽教師が誤った教えを言い広め、教会を混乱させていました。ですから、彼らの教えに心を奪われることなく、御言葉の奉仕に専念するように命じました。 教会の中に起こるさまざまな問題に心を奪われて、右往左往しないように注意しなければなりません。また人心掌握術を駆使して教会を動かそうとすることも正しい取り組みとはいえません。聖書の朗読と説教によって神が教会を守り、健全に建て上げてくださいます。主の御言葉を信頼することが求められます。そこから離れてはなりません。 教会が種々の問題で混乱するときこそ、指導者がどこに焦点を定めているかが問題となります。パウロはテモテに、この点で自分自身と教えに気を配るように命じます。そうすれば自分自身と、その言葉を聞く人々(教会)を救うことになるからです。 Fri, 12 Feb 2016 00:10:00 +0000 教会役員を覚えましょう(テモテへの手紙一 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160212 no 2016 この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。 (テモテへの手紙一3章10節) 3章には「監督」「奉仕者」(教会役員)の資格が記されています。教会役員が忠実に主に仕えてその務めを果たすとき、教会も役員本人も大きな祝福を受けます。ここに記された資格はとても厳格なものです。それらを全部厳密に満たすことができなければ「監督」や「奉仕者」にはなれないのでしょうか。 長老や執事に選ばれても、この箇所を読んで自分にはとてもできないと思ってしまわれるかもしれません。けれども、そう気づかされることがとても大切なことです。そこから、主への、教会への忠実さが培われていきます。 教会役員になるために一番大切なことは神の召しです。種々の弱さや欠点を持つキリスト者を、神が役員として召し、教会の働きのためにお用いになるのです。神は召された人に、その務めを果たすために必要な賜物を与えてくださいます。神の恵みによって赦され召されていることを信じて仕えていけば大丈夫です。 今朝は教会役員として立てられた兄弟姉妹が、神の恵みによって整えられてその務めを果たしていくことができるように祈りましょう。 Thu, 11 Feb 2016 00:10:00 +0000 獣と化した国家への抵抗(ヨハネの黙示録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160211 no 2016 この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。 (ヨハネの黙示録13章12節) 神は人びとの福祉と平和の実現のために、国家的為政者を立てておられます。しかし人間の罪ゆえに、国家が獣と化し、権力を振るい、人びとから思想・良心・信教の自由を奪うことがあります。「獣を拝ませた」とは、そういう全体主義的な支配の現実状況を表しています。 戦前の日本も、天皇を現人神とする国家神道体制の下で国家が獣と化し、天皇崇拝と神社参拝を強制し、人びとを侵略戦争へと駆り立てました。信教の自由、良心の自由は奪われ、真理は大きく歪められました。 そのことを忘れないために、今、日本の多くの教会が、2月11日を天皇制神話に基づく「建国記念の日」としてではなく、「信教の自由を守る日」として覚えています。そして、各地で2・11集会を開催し、思想・良心・信教の自由と政教分離を守るために祈り、行動しています。 私たちも為政者が神の御心に適う正しい政治を行うことができるように、執り成し祈ることが必要です。同時に、国家が獣と化し、全体主義的にならないように見張りの務めをも果たしていかねばなりません。 Wed, 10 Feb 2016 00:10:00 +0000 十字架の預言(申命記 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160210 no 2016 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。 (申命記21章22節~23節) パウロは、この箇所をガラテヤの信徒への手紙3章13節で引用し、主イエスの十字架刑が、呪われた者に対する刑罰であることを語りました。この申命記の戒めは、特に、死刑執行後のことを語ります。ここで言われている、その死体を木にかけるとは、遺体をさらしものにするということです。 ヨシュア記10章26、27節は、ヨシュアがアモリ人の5人の王を打ち倒し、彼らを殺して木にかけ、その日のうちに埋めたと記しています。敵である王を処刑し、遺体をさらし、神の敵は神に呪われた者であることを明らかにしました。 私たちの救い主は私たちの代わりに、そのような神の敵意を身に受けてくださいました。裸同然で十字架にかけられ、さらし者にされて神の呪いを引き受けてくださいました。神に敵対する者こそ、そのような裁きを受けなければなりません。しかし、主イエスは御自身の罪は何もないままに、その裁きを受けてくださいました。それは、神に敵対していた私たちを救うためでした。その主イエスの愛に、今日も私たちは守られています。 Tue, 09 Feb 2016 00:10:00 +0000 主による勝利(申命記 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160209 no 2016 「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」 (申命記20章3節~4節) 申命記20章では戦争についての戒めが語られています。神の民は多くの、そしてさまざまな戦争を経験しました。エジプト脱出の時には後ろからエジプトの軍に追われました。荒れ野の旅路の途上でもアマレク人からの襲撃に苦労しました。約束の土地においても争いの危機が絶えずありました。敵から民を守るための戦力が必要でした。その戦力をいかに用いるのか。神の民には戒めが必要でした。 この戒めがあっても、イスラエルは、バビロン捕囚を体験し、また、その領土はローマ帝国に組み込まれてしまいます。これらの戒めは、土地を巡る戦いではなく、霊的な戦いに当てはめられることとなります。 主イエスの弟子たちが全世界に遣わされるなかにも、戦いはあります。「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」です(エフェ6章12節)。大きな力が教会に立ち向かって来る時に、私たちは恐れてしまいます。しかし、神は「心ひるむな。恐れるな。…主が共に進み、…勝利を賜る」と励ましてくださいます。 Mon, 08 Feb 2016 00:10:00 +0000 報復を越えて(申命記 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160208 no 2016 あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。 (申命記19章21節) 「目には目を」という戒めは、報復を奨励しているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。この戒めは、申命記では裁判での偽証に対して、同等の報復を求めることを述べています。 私たちの社会では、しばしば、被害を受けたら倍返しだと心の中で叫びます。それは愚かな罪人の報復の思いです。それでは報復の連鎖が続き、さらなる悲劇が生まれかねません。ですから、神は同等の報復で忍耐することを命じました。怒りと復讐に支配されてはならないということです。 ところが主イエスは、この戒めをマタイによる福音書5章38節で引用し、続けて39節で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と語られました。主イエスは復讐心に支配されないために、やり返さないことを教えられたのです。そして愛による解決の道を示し、十字架において実行されました。 社会秩序としての法は必要です。しかし、法的処置だけでは問題は解決しません。神の正義と主イエスの愛だけが、復讐と怒りの思いを乗り越える力です。 Sun, 07 Feb 2016 00:10:00 +0000 主がわたしたちの味方でなかったなら(詩編 124編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160207 no 2016 イスラエルよ、言え。 「主がわたしたちの味方でなかったなら 主がわたしたちの味方でなかったなら わたしたちに逆らう者が立ったとき そのとき、わたしたちは生きながら 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。」 (詩編124章1節~3節) きょうは、もし「主がわたしたちの味方でなかったなら」ということを想定してみるようにと聖書は促しています。そうであったなら「わたしたちは敵意の炎に呑み込まれていたであろう」。「驕り高ぶる大水が、わたしたちを越えて行ったであろう」。 意識されているのは、わたしたちの身近な人間関係です。「逆らう者」、つまり自分と意見の違う者が、炎のような「敵意」を向けてくる。自分としてはそれは「驕り高ぶり」としか思えないが、そういう人の言葉が「激流」のように自分を呑み込み、まるで息の根を止めようとするかのように自分を苦しめる。そういう現実の「餌食」になっていただろう。そのことを思ってみよ、と言われると、誰しも決して他人事ではない事態を思い浮かべることができます。 しかし、そんな「仕掛けられた網」を破ってくださり、「わたしたちの魂」を逃れさせてくださった方。それは「天地を造られた」方だ。「わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある」。こんな筋道を思いめぐらしてみるように、聖書は、きょう、わたしたちを促しています。 Sat, 06 Feb 2016 00:10:00 +0000 すべての人々のために祈る(テモテへの手紙一 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160206 no 2016 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 (テモテへの手紙一2章1節~2節) テモテが牧会者としてまずなすべきことはすべての人々のために祈ることでした。それは神がすべての人々が救われて真理を知ることを望んでおられ、御子イエス・キリストをお遣わしになったからです。主イエスは私たちの救いのために御自身をささげてくださいました。 その祈りの中で特に「王たちやすべての高官」のために祈ることが勧められます。為政者のための執り成しの祈りです。その理由として私たちが落ち着いた平穏な生活を送るためであることが挙げられます。為政者が行うことが人々の生活に大きな影響を持つからです。特に当時の社会では、キリスト教会が皇帝の権威に逆らうものとして激しい迫害を受ける危険にさらされていたことも背景にあります。 為政者のための祈りは、今日の日本においても大変重要です。私たちはこの世に妥協してはいけませんが、この世に対し閉ざされていてもいけません。私たちの信仰の目が祈りという仕方でこの世に対し開かれていることが重要です。すべての人が救われることを願う神の熱心を強く覚えて祈りたいと思います。 Fri, 05 Feb 2016 00:10:00 +0000 神の憐れみによる励まし(テモテへの手紙一 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160205 no 2016 わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 (テモテへの手紙一1章15節~16節) パウロは、エフェソの教会で牧会に困難を覚えていたテモテを励ますため、自分が受けた神の憐れみを語ります。教会を迫害していた自分を、神が「忠実な者」と見なして福音宣教者としてくださったという驚くべき恵みです。 彼は自分のことを「罪人の中で最たる者」だと言います。教会の指導者として資格のない者を、神は赦して立ててくださいました。パウロは自分の存在そのものが神の憐れみの大きさを示す「手本」であると語ります。だから同じ主の憐れみがテモテにも与えられているというのです。 パウロは、自分はこのように苦労して乗り越えてきたのだからあなたもそうしなさい、とは言いません。パウロが示した道筋は、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエス」(12節)にますますより頼むことでした。 教会の働きや、信仰の戦いの中で、困難に直面し疲れを覚えるとき、パウロ同様に主の憐れみが私たちにも与えられていることを覚えましょう。神が召してくださった働きであり、信仰生活です。神が必ず必要な御言葉を示して支えてくださいます。 Thu, 04 Feb 2016 00:10:00 +0000 預言者派遣の約束(申命記 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160204 no 2016 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。 (申命記18章18節) 私たち人間は、聖なる神の声を直接聞き、神を直接見ることはできません。そこで神は、神と人間との間に、神の言葉を告げるモーセのような預言者を立てると約束してくださいました。 この預言の言葉の実現として来られた大預言者が、主イエスです。聖書は主イエスを証言する文書です。神はかつて預言者を通して語られた言葉を、今の時代には聖書を通して伝えてくださっています。 しかし、聖書には私たちの将来の具体的な課題等について明確なことは示されていないではないか、と思われる方もあるかもしれません。その不安が、人びとの心を、異教の神々や占いなどに向けさせるのでしょうか。 かつて、神は預言者を通して神の言葉を語り伝えてくださいました。今も、生ける神は、主の日の礼拝で説教者を立て、大預言者であられる主イエスの言葉を語り聞かせてくださいます。その聖書の説き明かしを聞くなかで、私たちは、具体的な課題について主の導きを祈り求めます。今も生きて働かれる神は、神と隣人を愛し、主のご栄光をほめたたえる道を示してくださいます。 Wed, 03 Feb 2016 00:10:00 +0000 神に仕える王として(申命記 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160203 no 2016 彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。 (申命記17章18節~19節) イスラエルの王は、神の僕であり、諸国の王とは全く異なる存在です。もともとイスラエルには王はいませんでした。神が王として神の民を治められるからです。ですから、神が王を立てよと命じられたわけではありません。 しかし、後の時代に周囲の敵に対応するため、人びとは王を求めるようになり、神はこれを許容されます。そのときを見越して、神は「あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい」と命じられました(15節)。そして立てられた王に「律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」と命じられます。王は神を畏れ、神の教えに従って、託された使命を果たす神の僕です。 私たちは王ではありませんが、それぞれ家庭や職場等で大切な責任と役割を持っています。地位や名誉もあるかもしれません。そこで、私たちは、どのように力を発揮するのか。神の僕たる私たちは神を畏れて、託された使命を果たします。 Tue, 02 Feb 2016 00:10:00 +0000 救いの想起(申命記 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160202 no 2016 アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。 (申命記16章1節) アビブの月は当時のイスラエルの暦の1月でした。神の民は毎年1月15日(現在の暦では3・4月にあたる)に過越祭を祝いなさいと命じられています。それは主の救いを思い起こし、感謝するためです。過越祭の由来は出エジプト記12章に記されています。出エジプト記には各家庭で小羊を殺して、その血を家の柱と鴨居に塗った、と記されています。 約束の土地ではこの祭は「主がその名を置くために選ばれる場所」(6節)で行うように語られています。後にその場所は神殿として整えられました。 この過越祭のときに、主イエスは十字架にかかられ、ご自身を、罪人を救うための犠牲となさいました。犠牲の小羊は、主イエスを示しています。 私たちは毎年受難週に主イエスの十字架を記念して礼拝をします。しかし、それだけではなく、毎週の礼拝が、十字架による罪の赦しを感謝する礼拝です。主は、各教会の礼拝にご自身の名を置き、共にいてくださいます。主イエスの十字架を毎週思い起こして罪の赦しの恵みを心に刻みましょう。 Mon, 01 Feb 2016 00:10:00 +0000 神の貧困対策(申命記 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160201 no 2016 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。 (申命記15章7節~8節) 誰もなりたくて貧困になるわけではありません。ですから、神は貧しい同胞を助けることをお命じになりました。神の貧困対策です。 この言葉は、7年目毎の負債の免除の規定の中で語られています。病や災害、不作などの理由で収入が無くなって困った者は、隣人から借りて生活します。翌年も借りれば、さらに負債は大きくなります。ですから神は7年目ごとに、その負債を免除せよと命じられます。人間は罪深く、返済免除の年が近づくと貸さない者も現れます。しかし、神はそのときには返済を求めずに与えなさいと言われます。 負債免除の規則があれば、これを悪用する者が現れるかもしれません。しかし、返済できるのにその義務を怠る者がいれば、その者は、窃盗の罪に問われるでしょう。 申命記の時代と私たちの状況は異なります。社会保障制度も今は整えられています。それでも、神は「貧しさ」が放っておかれてよしとはされません。それは時代を越えて変わらないことです。その上で私たちも貧困にいかに向き合うべきか問われています。 Sun, 31 Jan 2016 00:10:00 +0000 嘲笑され侮られる苦しみ(詩編 123編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160131 no 2016 わたしたちを憐れんでください。 主よ、わたしたちを憐れんでください。 わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。 平然と生きる者らの嘲笑に 傲然と生きる者らの侮りに わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。 (詩編123編3節) 「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」と歌い始めるこの詩編は、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と繰り返し求めます。エリコの盲人も求めた「主よ、憐れみたまえ」(キリエ・エレイソン)という求めを、教会は古来から、大切な礼拝要素としてきました。 私たちが「主よ、憐れみたまえ」と祈るのはなぜなのでしょうか。それは、私たち自身が神の御前に罪人であるがゆえです。しかし、それだけではありません。もう一つ聖書がつねに敏感である苦しみは、人から「恥」や「嘲笑」や「侮り」を受けることの苦しみです。この詩編はとくにこの苦しみのことを「憐れんでください」と訴えるのです。主はどのように憐れんでくださるのでしょうか。 福音書の十字架の場面は、主イエスがローマ兵からもユダヤ人からも「嘲り」「侮辱」「ののしり」を受けられた苦しみを強調しています。ここに私たちへの憐れみがあります。このように主は私たちに答えてくださっているのです。だからこそ讃美歌136番が歌うように「悩みと恥にやつれし主を、我はかしこみ君と仰ぐ」のです。 Sat, 30 Jan 2016 00:10:00 +0000 悔い改めの時(ルカによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160130 no 2016 「『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。…』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。…肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 (ルカによる福音書13章7節~9節) 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と主イエスは二度繰り返し、そして、いちじくのたとえが始まります。悔い改めの時が迫っていること、悔い改めを我が事として考える必要を主イエスは私たちに語っておられます。 ぶどう園の主人は植えたいちじくに実がなるのを楽しみにしていました。だから、「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」のです。このようにいちじくに関心を寄せ、忍耐強く待てど暮らせど実がならないので、切り倒すよう園丁に命じます。3章の洗礼者ヨハネの言葉が思い出されてなりません。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。…斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3章7~9節)。 「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。…来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。神の慈しみと厳しさを覚え、光あるうちに罪を認め、神の慈しみのもとに立ち帰りましょう。 Fri, 29 Jan 2016 00:10:00 +0000 だれを恐れるべきか(ルカによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160129 no 2016 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」 (ルカによる福音書12章4節~5節) 不安が社会を覆っている時代です。情報が溢れ、怖いものは数えきれないほどあります。「だれを恐れるべきか、教えよう」。これは、真に恐れるべきものと、そうでないものとを見分ける知恵の言葉、私たちを不必要な恐れから解放してくれる希望の言葉ではないでしょうか。「友人であるあなたがたに言っておく」と主イエスが愛する弟子たちに語られた言葉です。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。 この権威ある神は、愛の神です。5羽2アサリオンで売られている雀の、半端でおまけの一羽でさえ、神がお忘れになることはありません。それどころか、私たちの髪の毛の数までも、一本残らず主はご存じだというのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。 神のかたちに創造され、御子をさえ惜しまずに与えられた私たちが、神に忘れられることはありません。十字架と復活によって示された神の愛の確かさを心に刻み、永遠を支配しておられる神の権威を思うとき、「恐れてはならない」という主イエスの言葉は、力強く私たちを支えてくれます。 Thu, 28 Jan 2016 00:10:00 +0000 幸いなのは誰か(ルカによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160128 no 2016 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 (ルカによる福音書11章27節~28節) 群衆の中から女が、主イエスの母の幸いを謳いました。このように立派な教えを説く息子を産み育てた母親は、どんなに誇らしいだろう、と。主イエスは言われます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。 主イエスの母マリアこそ、神の言葉を聞き、それを守った人でした。天使の告知に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と応え、主イエスを胎に宿しました。赤子の主イエスが乳房を吸ったのは、馬小屋でのことでした。礼拝しにやってきた羊飼いの話、メシアを待望していたシメオンの言葉、神殿での少年イエスの言葉など、不思議に思いながらも心に納め、神の約束に信頼して歩みました。十字架で苦しむ息子を見守り、復活を喜び、約束の聖霊を待ち望んで弟子たちと共に祈りました。 マリアの幸いは、主イエスの母であるということ自体よりも、むしろ神の言葉を聞き、それを信じて自分を明け渡し、神の約束が成るのを見たことの中にあります。私たちも御言葉を心に蓄え、信頼して歩むなら、神の約束が私たちの歩みの中に成るのを見ることができます。 Wed, 27 Jan 2016 00:10:00 +0000 神の宝の民(申命記 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160127 no 2016 あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体に傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。 (申命記14章1節~2節) ここでは、まずイスラエルの民が神の子らであると語られ、次に死者をどのように悼むかが示され、そして、イスラエルは神の宝の民とされた、と結論付けられます。神の民であるという自覚は、死別のあり方とも深く結びついています。 当時の人びとは、死別の深い悲しみの故に、自分の体を傷つけ、死者との間に血の契約を結び、死者礼拝を行いました。死の向こうとこちらとは隔てられていますから、死者と結ばれ、それにより悲しみを癒やそうとしたのでしょう。 しかし、イスラエルの民は、愛する者の死に際して、神の子として、神に祈り、悲しみを神に訴えます。死者と結ばれ、死者を礼拝し、悲しみに耐えるのではなく、死の悲しみの中でこそ、人の死をも支配しておられる神とより深く結ばれます。 主イエスは、十字架にかかられ、私たちを神の聖なる民、神の子、神の宝の民としてくださいました。それは、私たちの悲しみや死別の深い傷をも癒やしてくださるためです。復活の主は死の悲しみの中でより力強く私たちを支えてくださいます。 Tue, 26 Jan 2016 00:10:00 +0000 誘惑に打ち勝つ力(申命記 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160126 no 2016 その預言者や夢占いをする者…は、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。 (申命記13章6節) 偶像崇拝は生ける真の神を神としない最大の罪です。それによってイスラエルが真の神から引き離されるならば、イスラエルは罪のうちに滅びるほかはありません。誘惑するものは偽りの宗教であり、異教文化に馴染んだ隣人たちであり、友好関係にある共同体です。この世の絆にひかれて神を第一としなくなるとき、神の祝福は遠ざけられます。 私たちは身近な誘惑にさらされて信仰の危機に直面します。偶像崇拝の危険とは他宗教の問題である以上に、神から私たちが離れていく危険性そのものです。そこで告げられる裁きの深刻さは、罪の堕落の悲惨さを語っています。そして、私たちはそうした救いがたい罪が自分のうちにあるのをここに認めざるを得ません。もし、この律法が徹底して実現されるならば、世界は神の御手によって滅ぼし尽くされます。 しかし、福音によって明かされた真実は、神が御子の贖いによって私たちのうちから悪を取り去ってくださることです。聖霊の恵みであるキリストへの信仰こそが、あらゆる誘惑に打ち勝つ力です。 Mon, 25 Jan 2016 00:10:00 +0000 主の御心を行う(申命記 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160125 no 2016 あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。 (申命記12章8節) 12章からは26章に至る法令集が始まります。これは、神との契約に従って民が豊かな祝福を得るための手段です。イスラエルがモーセの律法を全うして、それを孫子の代まで受け継がせるのは、異教徒たちに囲まれながらも、信仰の証しを通して真の神を知らせるためです。神の祝福は、契約の恵みを通して、イスラエルから世界へと向かいます。 そこで注意すべきは「主が良しとし、正しいと見なされることを行う」ために(28節)、判断の基準を神に求めて、御言葉に聞くことです。自分の目に頼って周囲と同じように振る舞った結果、イスラエルは子どもたちを犠牲にするという悲惨までも味わいました。 律法遵守の義務などと言うと、いかにも奴隷的な扱いを受けるような印象を受けますが、そこには土地の豊かさを享受する祝福があり、自由に肉食もできる寛大さも示されています。イスラエルの神は決して不条理な仕方で民衆を踏みつける暴君ではなく、御自分の民を愛情深く育てる親のように、モーセの口を通して語ります。 Sun, 24 Jan 2016 00:10:00 +0000 礼拝に行くときわたしはうれしい(詩編 122編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160124 no 2016 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。 「あなたのうちに平和があるように。」 わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。 「あなたに幸いがあるように。」 (詩編122編8節~9節) 「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった」と、礼拝に向かうときのうれしさを素直・素朴に歌い出す詩編です。神を礼拝できることの個人的なうれしさから出発して、心は礼拝に共に与る仲間「わたしの兄弟、友」へと広がっていきます。そして仲間たちの顔を思い浮かべながら一人一人に「平安があるように、…平和があるように」と繰り返します(6節)。まるでこれを、礼拝に向かう喜ばしい足取りのリズムのようにして。さらには、主の家にまで人格のように呼び掛けて「あなたに幸いがあるように」、すべてのよきことがあなたを満たしますようにと願うのです。 一人一人のこのような思いが一つになったとき、どれほど祝福に満ちた礼拝になることか、想像に余りあります。礼拝の喜びと聖徒の交わりの喜びは一体です。それは復活のキリストご自身からも「あなたがたに平和があるように」(ルカ24章36節)と願われている私たちの礼拝であり、聖徒の交わりです。そのような礼拝にきょうも行けるなら、単純素朴に「わたしはうれしかった」と言ってよいでしょう(1節)。 Sat, 23 Jan 2016 00:10:00 +0000 必要なことは(ルカによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160123 no 2016 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10章41節~42節) 主イエスたちが、ある村に入ると、マルタが迎えました。忙しく立ち働くマルタをよそに、妹マリアは主の足元に座り、話に聞き入っています。不満をもらすマルタに、主は、必要なことはただ一つ、マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない、と答えられます。 必要なただ一つのこととは、主の御言葉に聴き入ることです。主のお考え、願い、戒め、ご計画を聴いて初めて、私たちは、主を知り、主に喜ばれる道を選び、歩むことができます。私たちの生活や活動の源に、主の言葉が据えられることが必要です。 マルタは、もてなしを否定されたわけではありません。主イエスに諭され、優先順位を教えられた彼女は、過越祭の6日前にも主イエスを夕食に招き、給仕に励んでいます。 聖書の中で、二度名を呼ばれた人は、主から大切な務めを委ねられています。モーセ、サウル、シモンです。マルタも主イエスから、奥義を聞かされます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ11章25節)と。タイプこそ違いますが、マルタも主から深く愛され、主の御言葉に養われて歩みました。 Fri, 22 Jan 2016 00:10:00 +0000 最も小さい者こそ(ルカによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160122 no 2016 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」 (ルカによる福音書9章48節) 誰がいちばん偉いか。古今東西、人の集まる所では、このような議論が有形無形に起こるのが常のようです。主イエスの弟子たちも例外ではありませんでした。誰がいちばん偉いかを話し合いながら、その実、自分が一番だと各自が結論を出している「彼らの心の内を見抜き」、主イエスは一人の子供の手を取り、ご自分のそばに立たせて言われます。「わたしの名のために」この子供を受け入れる者は、わたしを、そして父なる神を受け入れるのだと。 主イエスの御名によって悪霊を追い出しながら、自分たちと共に主イエスに従わない者を咎めたヨハネを、主イエスは振り向いて戒められました。大切なのは、主の「名のために」行うことにあるのでしょう。私たちの動機や目的が問われているのではないでしょうか。 「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と語られた主イエスは、子ロバに乗り、弟子たちの足を洗い、十字架の死にまで従われた最も小さく低いお方でした。それゆえ神は、主イエスを復活させ、神の栄光の右の座に高く上げられました。 最も小さく最も大きな私たちの主を、もう一度見上げたいと思います。 Thu, 21 Jan 2016 00:10:00 +0000 自分の持ち物を出し合って(ルカによる福音書 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160121 no 2016 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。 (ルカによる福音書8章2節~3節) 罪深い女に赦しを宣言した主イエスは、その後、神の国を宣べ伝えながら、町や村を巡り、旅を続けられました。十二弟子を伴う大所帯です。 彼らに奉仕したのが、多くの婦人たちでした。イエスに悪霊を追い出していただき、病をいやされた感謝と喜びを、彼女たちは忘れることなく語り合っていたのかもしれません。悪霊に悩まされる苦悩、床に臥さねばならない孤独で無力な日々から解放された今、憐れみによって与えられた自由な時間と財産をもって、主イエスの一行に奉仕したいと願うのは、信仰者として当然のことだったかもしれません。 ルカはここで、マグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナ、と名前や立場を詳細に列記しています。「男だけで○○人」と、女性が人数に数えられていなかった当時の社会的背景を考えれば、特筆に値することです。事実、後に、彼女たちは誰よりも先に墓に向かい、キリストの復活の証人となり、復活の出来事を弟子たちに伝える役割を果たします。財産であれ時間であれ、与えられているものをもって、忠実に神にお仕えする私たちを主は喜んで用いてくださいます。 Wed, 20 Jan 2016 00:10:00 +0000 約束された祝福(申命記 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160120 no 2016 あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。 (申命記11章11節~12節) 神がイスラエルに約束された土地の祝福は豊かです。特に雨のことに注意が払われています。エジプトでは水汲みに多大な労力を費やして畑仕事をしなければなりませんでしたが、新しい土地では豊富な水が約束されています。雨は神の恵みを象徴的に表します。 ただ、エジプトとの比較ということでは、実際、ナイル川の豊かな流れを知る民にとって、カナンの土地はそれほど魅力的に見えたかどうかはわかりません。モーセがここで語っているのは、むしろ、目に見えるもの以上の神の恵みを信じる信仰でしょう。大切なことは、地の実りという物質的な豊かさばかりでなく、神が常に目を留めておられ、配慮しておられる特別な恵みがあることです。 こうした神の気配りが隅々に及ぶ土地は、さながらエデンの園のようです。そして、新しいエデンに住まうのは天の星の数ほどもある民です。呪いの警告は祝福の大きさを際だたせるばかりです。契約を結んでくださった主なる神だけを信じよう、と誰もが思うに違いありません。 Tue, 19 Jan 2016 00:10:00 +0000 あなたの賛美、あなたの神(申命記 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160119 no 2016 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。 (申命記10章20節~21節) 神がモーセを通じてイスラエルに授与された十戒の契約の板は、民の背きによって一度破棄されました。神と民との契約は、人間の側の違反によってかくも容易く破棄されてしまうものですが、神は再びご自身から契約を結んでくださいます。神ご自身が記入した契約の板は、もう一度モーセに手渡されて、民の間に留まります。 イスラエルの民は、出エジプトと荒野の旅路において、神の力を祝福と裁きの両面で体験してきました。それらの出来事は苦しい道のりであったかも知れませんが、最後は主の祝福が実現して自分たちが幸せになるためだったとわかります。 イスラエルは小さな民でしたが、神と出会って、その祝福のもとで大きくなります。躓きの多かった歴史を振り返れば、決して自分を誇ることはできません。しかし、唯一の真実の神と契約を結んだという、特別な神の恵みを誇ることができます。 主はわたしの賛美、わたしの神です。この喜びに満ちるとき、神の民の喜びは土地との結びつきを越えて遥か遠くにまで及びます。 Mon, 18 Jan 2016 00:10:00 +0000 正しいからではなく(申命記 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160118 no 2016 あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。 (申命記9章7節) イスラエルが導かれる土地には強力な敵が待ち構えていました。それでもそこに入っていけるのは、神が先頭に立って戦ってくださるからです。それを信じる信仰だけが民に求められたことでした。 ですから、イスラエルは自分を誇ることができません。モーセは念を押すように「あなたが正しいからではない」と繰り返します(4~6節)。イスラエルが選ばれて約束の土地に導いていただけるのは、第一に、神が御自身の契約に忠実であられるからです。そして第二に、イスラエルがいかに不信仰であっても、モーセという執り成し手があって、赦されてここまで来ることができたからでした。誇るものなど何もないのがイスラエルです。あえて言うならば、そのように何も誇ることができない、惨めで弱い民であることが、彼らが選ばれた理由です。 神が罪人を救ってくださるのは、ただ憐れみによります。聖書は新約聖書の福音も合わせて一貫して恵みの神を私たちに伝えています。私たちはただ、その事実を受け入れて、神を神として仰ぎます。 Sun, 17 Jan 2016 00:10:00 +0000 心を高く上げよ(詩編 121編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160117 no 2016 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。 (詩編121編7節~8節) 「見守ってくださる」という言葉が6回も出てきます。「見守る」だけでなく文字どおり「守ってくださる」という原語です。守ってくださっている方に「目を上げ」ましょう。その方のもとからあなたの助けが来ます。さまざまな試練の中で、私たちの足はよろめきがちだからこそ、きょうも礼拝に行きましょう。 そして「出で立つのも帰るのも主が見守ってくださる」ことを体感しつつ、「天地を造られた主のもとから」あなたにどんな助けが来るか、あなたからどんなふうに「災いを遠ざけて」くださるか、その確かな答えを礼拝の中でこそ受け取ってください。私たちが「目を上げる」ための場所、それが礼拝ですし、礼拝の中でこそ私たちは心を高く上げることができます。「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」であることを疑いなく味わえるのが礼拝です。 「主があなたを助けて、足がよろめかないようにし」てくださる確かな手応えを実感して、帰宅しましょう。今週もまた、主が「あなたの魂を見守ってくださる」にちがいありません。 Sat, 16 Jan 2016 00:10:00 +0000 もう泣かなくともよい(ルカによる福音書 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160116 no 2016 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 (ルカによる福音書7章13節~15節) 主イエスがナインの町の門に近づくと、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。やもめである母親の愛する一人息子、しかも「若者」です。自分の身体をもぎ取られるような深い苦悩と悲しみ、失望の闇の中を、町の人々に付き添われて、やもめは泣きながら歩いています。 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と声をかけます。棺に触れて「起きなさい」と言うと、死んだ息子は起き上がりました。頼まれて行った奇跡ではありません。母親を憐れむ心から若者をよみがえらせ、「母親にお返しになった」のです。 愛する者たちが共に生きることを望まれた主は、私たちの病や痛み、罪を引き受けて、神との平和と永遠の命を得させてくださいます。主にあって愛する者と死別した場合、御国での再会という慰めがあります。生きながら離別の悲しみを味わい、共に暮らしながら心の通わない苦しみに遭う時にも、主は深い憐れみの心で「もう泣かなくともよい」と慰めてくださいます。主に知られていない悲しみはありません。むしろ主は私たちの悲しみを御自身のものとして担い、今日も共に歩んでくださいます。 Fri, 15 Jan 2016 00:10:00 +0000 父の憐れみを受けて(ルカによる福音書 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160115 no 2016 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (ルカによる福音書6章36節) 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(27、28節)。 私たちは、この御言葉を読むとき、ご自分を与え尽くし、十字架で敵を赦して祈られた主イエスを思い起こします。 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)。「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」(35節)。私たちは、人に善いことをし、報いは天からいただくようにと勧められています。情け深い神の、子としていただく報いです。恵みにより、信仰によって私たちは既にいと高き方の子とされていますが、主に倣う歩みを重ねる中で、より主に似た者に変えられていきます。 神を「私たちの父」と親しくお呼びできるのは、主の憐れみの故でした。 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5章8節)。神の愛を心いっぱい受け取り、神の愛の内に留まりながら、主イエスに倣う小さな一歩を踏み出すことができますように。 Thu, 14 Jan 2016 00:10:00 +0000 御言葉に養われる(申命記 8章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160114 no 2016 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 (申命記8章3節) 主イエスは荒れ野でサタンに誘惑され、石をパンに変えて飢えを満たすよう唆されました。そこで主イエスが想い起こした聖句がこの3節です。イスラエルは荒れ野を旅する中で飢えに苦しみました。すると神は憐れんで天からマナを降らせてくださいました。それは彼らを選んだ神が、ご自身の約束の言葉に忠実であることの証しでした。 人生は試みを受けることの連続です。パンを欠くこともあり、あてどなく彷徨う日々があり、災いに遭って生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされることもあります。そのような危機に直面しながらも、なおも希望をもって生きることができるのは、あらゆる時に神の備えがあり、約束された祝福は揺るがないとの御言葉を想い起こすからです。耐え難い試練にあっても、今なお生きているのは、神が支えてくださるからです。 生活が奢れば恵みを忘れます。ですから主は私たちを訓練され、御言葉に立ち帰るよう促されます。試練に耐えた後には祝福に至ることは、主イエス・キリストのご生涯が、何よりも雄弁に物語っています。 Wed, 13 Jan 2016 00:10:00 +0000 祝福と呪いの間で(申命記 7章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160113 no 2016 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 (申命記7章6節) 主なる神がイスラエルをお選びになったのは「主の愛のゆえ」です(8節)。神はこの世の小さな者に目を留め、これを尊んで慈しみを注いで「御自分の宝の民」とされました。モーセが繰り返し「契約を守れ」と呼びかけるのも、その情熱的な主の愛に応えるためです。 その応答の仕方が「七つの民を滅ぼす」ことになるのはキリスト教の博愛主義には合わないようにも思えます。ここには主の愛の熱情的な側面が、祝福と呪いという非常に明暗のはっきりした区別で語られています。主を愛して契約の中に留まる者は宝物のように大切にされます。反対に、偶像を拝んで主に敵対する者はことごとく滅ぼされます。律法に示される神との関係はこのように白か黒かです。 神の民はこの間を揺れ動きながら歴史の中を歩みます。そこで経験したことの多くは呪いの方が現実的でした。その度に神の言葉が思い起こされて、その真実が重みを増したことでしょう。しかし、その呪いを我が身に担われた主にのみ信頼し、神の愛に立ち帰れば、祝福こそが私たちに確かなものとなるのです。 Tue, 12 Jan 2016 00:10:00 +0000 幸いのための掟(申命記 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160112 no 2016 「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。」 (申命記6章24節) 主がモーセを通じてお語りになった律法には約束が伴っています。主の言葉を聞いて忠実に守れば幸いを得る、との約束です(3、18、24節)。それは、自分ひとりのためではなく、神と契約を結んだ民全体のためであり、子どもたちもまたその幸福を受け継ぐためです。 流浪の民イスラエルが土地を受け継ぐのも、そこに長く生きるのも、神の恵みによります。命を賭けて敵と戦って良い土地を獲得したのは確かに彼ら自身の働きがあってのことです。しかし、神の恵みが取り去られてしまえば、それは一つも実現することはありませんでした。 その恵みを子々孫々に語り継ぐことの大切さをモーセは本書で繰り返し語ります。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(5節)との掟に励まされて、御言葉を忘れることがないように生活に密着させて生きる、信仰教育と生活の指針が、ここにあります。本来、モーセの律法は人を罪に定める手立てではなく、天の父から子に贈られた、幸いのための尊い教えです。 Mon, 11 Jan 2016 00:10:00 +0000 何度でも新しく(申命記 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160111 no 2016 主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。 (申命記5章3節) 礼拝で唱えられる「十戒」は出エジプト記20章の他に申命記のここにもあります。この十戒の告知に特徴的なのは、シナイ山の出来事が神の啓示の決定的な出来事とされていることです。その光景は神の尊厳を表す火と煙に満たされ、その中から語りかける神の声を民は直接耳にしました。ここに明記されるのは、モーセが語る神の言葉の尊厳です。それは後々「律法」の尊厳となり、モーセの語った言葉は神の言葉であることをすべての会衆が受け入れるよう要請されます。 モーセはこの十戒を中心とした神の律法を、今日、ここで、全会衆を前にして生ける神の言葉として語ります。それはかつてシナイ山で起こった荘厳な出来事ですが、その尊厳がそのままモーセの説教によって再現されます。「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」。 ここで語られている「今」はモアブに集結した民に呼びかけられた「今」ですが、この「今」はその後の時代を一貫して、この御言葉が語られる現在において何度でも「今」として新しく語られます。 Sun, 10 Jan 2016 00:10:00 +0000 平和をこそ、わたしは語る(詩編 120編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160110 no 2016 わたしは不幸なことだ メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは 平和を憎む者と共に わたしの魂が久しくそこに住むとは。 平和をこそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る。 (詩編120編5節~7節) メシェクもケダルも武力を誇った国々です。彼らのことをこの詩編は「平和を憎む者」、「彼らはただ、戦いを語る」と言いますが、神の民もまたそういう彼らの「傍らに」住んでいます。「わたしの魂が久しくそこに住」まなければならないとは全く「不幸なこと」です。「平和を憎む者」という言葉と「彼らはただ、戦いを語る」という言葉に、前からも後ろからも囲い込まれたところに「平和をこそ、わたしは語る」という文があります。これが、私たち神の民の明確な態度表明の立ち位置です。 前後から脅かされる中で平和を語り続けること。それは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は平和の君」と告げられているお方に従い続けることに他なりません。「地には平和」という讃美歌と共に生まれ、「平和を憎む」私たちの罪によって殺され、復活してなお「あなたがたに平和があるように」と言って私たちの「真ん中に立」ってくださったお方です。このお方のみに従うことが、どのような非常事態においても私たちの態度表明であることに変わりありません。 Sat, 09 Jan 2016 00:10:00 +0000 恐れることはない(ルカによる福音書 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160109 no 2016 イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。 (ルカによる福音書5章10節~11節) この時、シモン・ペトロは、何を恐れていたのでしょうか。 イエスは、シモンの舟に乗り、舟から群衆に教え始められました。この時の教えは、シモンの心にも響くものがあったのでしょう。徹夜の漁が徒労に終わり、疲れて気落ちしていたのに、イエスから促されると、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。 主のお言葉どおりにすると、おびただしい魚で網は破れそうになり、舟は沈みそうになりました。シモンはひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白します。漁師の自分以上に湖を知り尽くし、自分のすべてをも知り尽くしておられる方を、舟にお乗せしていることに気づいたのです。シモンは主イエスと出会って、罪深い自分の姿を見つめずにはいられませんでした。 おののくペトロに主イエスは語ります。「恐れることはない」、「あなたは人間をとる漁師になる」と。すべてをご存じの主はペトロを平安のうちに招き、将来を宣言されます。 私たちも主に知られ、平安のうちに招かれています。遣わされた場所で、主に従って歩みましょう。古い思いを捨てて。 Fri, 08 Jan 2016 00:10:00 +0000 御言葉を盾として(ルカによる福音書 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160108 no 2016 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、…40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 (ルカによる福音書4章1節~4節) 私たちと同じ一人の人として洗礼を受けられた主イエスは、神の子として悪魔の誘惑を受けられます。 石にパンになれと命じたらどうだと言われると、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答え、悪魔を拝めば世界中の権力と繁栄を与えようと誘惑されると、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えます。天使の守りが約束されているのだから、ここから飛び降りたらどうだと言われると、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と、すべての誘惑を、御言葉を盾にして退けます。人となられた御子は、私たちにもできる方法で、誘惑に勝ってくださいました。 神に愛され御心に留めていただいている私たちも悪魔の誘惑にあうことがあります。今日、ここに生かされていることに畏れを覚え、神無き虚栄や、神が勧めておられない蛮勇を避け、御言葉に従って歩みましょう。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブ4章15節)主が、私たちのために今日もとりなしていてくださいます。 Thu, 07 Jan 2016 00:10:00 +0000 炎のことば(申命記 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160107 no 2016 あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。 (申命記4章24節) モーセはまるでシナイ山に立っているかのように神の契約について語ります。かつて神は、黒雲と密雲が垂れこめるホレブの山(シナイ)で、火の中からイスラエルに語りかけられました(11、12節)。民は神の姿を見ることができませんでしたが、神の言葉は雷鳴のようで、炎のごとき激しさで民に迫りました。モーセは、神の熱情をうちに宿して、炎のように燃え上がる主の愛と裁きを「今日」、再び語ります。 イスラエルは人間の願望が生み出す神々に惑わされないように、御言葉に従う生活によって自らを聖別しなくてはなりません。偶像は手元にあって触ることさえできますが、それは何の希望も与えてくれません。それに対して真の神は姿をもたず、遠く手の届かない天におられます。しかし、真の神は御言葉によって、私たちの心に語りかけ、生活にまで触れて来られるお方です。 契約違反を警告する裁きの言葉もまた、民に対する神の熱情を伝えます。私たちはその炎の中に、私たちの罪のために十字架におかかりになった主イエスのお姿を垣間見ることができます。 Wed, 06 Jan 2016 00:10:00 +0000 信じる理由(申命記 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160106 no 2016 わたしはそのとき、ヨシュアに命じた。「あなたたちの神、主が二人の王に対してなさったことをすべて、あなたは自分の目で見た。主は、あなたがこれから渡って行くすべての王国にも同じようにされるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。」 (申命記3章21節~22節) ヘシュボンの王アモリ人シホンとの戦い、そしてバシャンの王オグとの戦いはイスラエルにとって輝かしい勝利の記憶となりました。それは、カナンを前にして、臆して世を去った前の世代とは異なるイスラエルの姿です。けれども、その出来事を通してモーセが伝えるのは、イスラエルの雄姿ではなく、主の御業です。主と共にあってこそ、イスラエルには栄光が輝くのであって、そうでなければ、民は荒れ野で滅びる他はありません。 それを忘れてしまえばイスラエルは力を失い、敵を前にして怖けます。アモリ人の地での二つの戦いは、主がイスラエルのために戦ってくださった聖なる記憶であり、イスラエルが勇気を奮い起こすことができる理由です。「恐れてはならない」との呼びかけには、まず主が戦ってくださった、という歴史的な根拠があります。 私たちは、主イエスが十字架と復活を通して戦い取ってくださった勝利を信じることによって、「恐れてはならない」との神の呼びかけを、今も日々への派遣の言葉として聞くことができます。 Tue, 05 Jan 2016 00:10:00 +0000 与えられた土地で友好関係を築く(申命記 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160105 no 2016 主はわたしに仰せになった。 「あなたは、今日、モアブ領アルを通り、アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた。」 (申命記2章17節~19節) かつてイスラエルはカナンの地へ、南からの侵入を試みて失敗しましたが、今度は主の言葉に従って北からのルートを辿ります。その際、神は五つの民との接触について慎重にお語りになりました。 エドム、モアブ、アンモンは、どれもイスラエルと親戚関係にある民族です。エドムはヤコブの兄エサウの子孫ですし、モアブとアンモンはアブラハムの甥であるロトの子孫です。イスラエルは彼らの土地を通過して約束の地へ進まなくてはなりません。その際、神はイスラエルに、彼らに戦いを挑んではならない、と命じておられます。きちんと礼を尽くして通らせてもらうようにと、友好関係を築くことが求められます。 土地の取得の背後に、土地に対する神の定めがあります。イスラエルには約束された土地があり、そこで自らを聖別して信仰を保たなくてはなりません。同時に神は諸民族にも固有の領地を与えておられます。信仰が異なる周りの人々も、神の目からすれば皆兄弟姉妹です。 私たちも、住む場所を与えてくださった神に感謝し、周りの方々と友好な関係を築きます。 Mon, 04 Jan 2016 00:10:00 +0000 歴史を振り返る(申命記 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160104 no 2016 主はわたしに言われた。「彼らに言いなさい。攻め上って戦ってはならない。わたしはあなたたちのうちにいない。敵に撃ち破られてはならない。」わたしはそう伝えたが、あなたたちは耳を貸さず、主の命令に背き、傲慢にも山地へ上って行った。 (申命記1章42節~43節) イスラエルの世代交代を前にして、モーセが懇切丁寧に解き明かした神の言葉が、この『申命記』にまとめられています。はじめにモーセは神の民と共に荒れ野を旅してきた道程を振り返って語りかけます。 イスラエルの信仰はその歴史と深く結びついています。歴史を振り返ることで重要なのは、そこに神の救いの業を確認して、神への信頼と忠誠とをいつも新たにすることです。そしてまた、そこでの民の躓きを反省して、同じ過ちを繰り返さないように自戒することです。都合の悪いことは思い出したくないのが人情かもしれませんが、そうしたごまかしが何の意味もないことをイスラエルは知っています。歴史の真実から目を背けることは人間の愚かさに過ぎず、神の御前にとぼけても何の益もありません。歴史を反省し悔い改めて歩むところでこそ、明日への道は開かれます。 モーセの言葉は私たちに信仰の目で振り返るように促します。その時、神が先頭を進まれた救いの道と、神が背負ってくださった人生の歩みが、私たちの過去に未来に見えてきます。 Sun, 03 Jan 2016 00:10:00 +0000 御言葉を楽しむ (詩編 119編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160103 no 2016 わたしはあなたの律法を楽しみとします。 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。 わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。 あなたの口から出る律法はわたしにとって 幾千の金銀にまさる恵みです。 (詩編119編70節~72節) 「わたしはあなたの律法を楽しみとします」(70節)、「あなたの律法はわたしの楽しみです」(77節)。このように繰り返される「律法」とは、この119編の冒頭で、「いかに幸いなことでしょう…主の律法に歩む人は」と言われていた「律法」です。 また、それは詩編全体の冒頭、第1編の「いかに幸いなことか…主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」のように「教え」とも訳されます。私たちの幸いの基である主の教え、御言葉のことです。 私たちの幸いは御言葉を「楽しむ」生き方にあります。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」。 そのようにして私たちの苦難は御言葉との出会いを生みます。今、私たちは御言葉を学びながら生きるすばらしい生き方に移されています。そのことを思えば、そのきっかけになったあの時の苦難は自分にとって良いことだった、と考えることができる幸いがあります。 Sat, 02 Jan 2016 00:10:00 +0000 揺るがず、信仰に立つ(使徒言行録 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160102 no 2016 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 (使徒言行録4章8節、20節) ペトロとヨハネは足の不自由な男を主イエスの御名によって癒し、主イエスこそ聖書が預言したキリストであると宣教しました。そのため最高法院で尋問されます。二人は主イエスの十字架の死と、神の力による復活を堂々と語って、「この方以外には、だれによっても救いはありません」(12節、新改訳)と福音を告げ、最後に「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と明言します。 私たちも信仰のゆえに迫害を受けることを想定すべきです。そのとき私たちは、たとえどのような権威であっても、それに従うことはできません。私たちが従うのは、ただキリストだけです。 それにしても一体、どこからこのような勇気や力が湧いて来るのでしょう。御言葉はペトロとヨハネの背中を押してくださった方がおられたと記録しています。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」。そうです。聖霊が揺るがない信仰に立つ大胆さをペトロに与えられたのです。この新しい年も聖霊の力と導きを信頼し、「見たことや聞いたこと」を証しし続けましょう。 Fri, 01 Jan 2016 00:10:00 +0000 信仰を支える四つの柱(使徒言行録 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20160101 no 2016 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 (使徒言行録2章42節) 一年の計は元旦にありと言いますが、皆さまは何を今年の信仰生活の要とされるでしょうか。初代教会の信徒たちは、使徒の教え(御言葉)・交わり・パンを裂くこと(聖餐式)・祈りを信仰生活の四つの柱とし、その実践に熱心でした。 御言葉は、公的礼拝や家庭・個人礼拝を通し、私たちの魂が健全で希望をもって安らかに過ごせるように神が与えた命の糧です。 交わりは、一人ひとりをキリストの体の大切な部分として互いに励まし、慰め、喜び、泣いて、主にある兄弟姉妹として歩むことです。 「パンを裂くこと」は十字架で主がその命を献げることによって私たちを滅びから救ってくださった事実に、私たちの心を向けさせます。 最後に、主は祈りを用いてご自身との人格的な交流に私たちを招き、御言葉に示された御心を聖霊により明らかに示されます。 この四つの柱に熱心であるなら、当時の信徒が「すべての民に好意を持たれた」(47節、新改訳)ように、私たちも、周りの人びとにキリストの香りを放つことになります。 Thu, 31 Dec 2015 00:10:00 +0000 礼拝-神の顧み(イザヤ書 66章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151231 no 2015 天はわたしの王座、地はわが足台。 あなたたちはどこに わたしのために神殿を建てうるか。 … わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人。 (イザヤ書66章1節~2節) 長く重厚な書物が、ここで閉じられます。けれどもここで語られた神の言葉は、決して閉じられることがありません。人間と世界、とりわけイスラエルと教会に語りかけ続けます。イザヤ書を通して語られる神の言葉は、甘い言葉、人にへつらう言葉ではありません。神の言葉は、人間の罪を直視し、罪ゆえの悲惨から目を逸らしません。 イザヤ書が最後に問いかけるのは、礼拝という主題です。どのような礼拝を神は喜ばれるか。新天新地を待ち望む教会と世界は、礼拝の恵み、礼拝の改革という主題を曖昧にしないよう、最大の注意を払うべきです。「あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか」。これは神殿礼拝の否定ではありません。しかし、神殿礼拝が形式に流れ、偶像礼拝の罪に陥る現実に、預言者は終わりまで敏感です。 神が喜ぶ礼拝者は、「苦しむ人、霊の砕かれた人」です。信仰ゆえの苦しみを恐れず、謙遜な祈りで主に近づく人です。御言葉におののく人を、神は顧みられます。神の顧みは神の牧会です。神の顧みこそ、来る年の教会と世界の希望、信じる者の慰めです。 Wed, 30 Dec 2015 00:10:00 +0000 喜びに生きる民(イザヤ書 65章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151230 no 2015 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 初めからのことを思い起こす者はない。 … 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。 (イザヤ書65章17節~18節) 神の言葉は、どのような苦難の中にも希望を見出す力を主の民に与えます。イスラエルの歴史が、その最も鮮やかな実例です。数々の背きと過ちが、選びと恵みを空しくするのではないかと懸念されるような危機がありました。人間の目では、希望を繋ぎとめることが不可能に思えるほどの失意と闇。それが神の光に照らされた人間の現実です。 天地を創造された神には、失望もなく諦めもありません。それが「新しい天と新しい地」の創造に結実します。聖書に証しされた神は、人間のあらゆる失意に終わりをもたらす神です。世界のどのような危機にも、明るい見通しをもって立ち向かい、最後の勝利と完成をもたらす神です。 「新しい天と新しい地」を描く聖書の言葉は、不思議なほど控えめです(黙21章も同様)。イザヤ書が告げる新天新地の最大の特質は「喜び」です。神ご自身が喜びの内におられます。神はその民を喜び、民もまた神を喜びとします。歓喜の光が私たちを待っている、何という幸いでしょう。しかもそれは、終わりでなく真の始まりです。 Tue, 29 Dec 2015 00:10:00 +0000 神を待ち望む(イザヤ書 64章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151229 no 2015 あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。 昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。 (イザヤ書64章3節) 捕囚が解けて、民がエルサレムに帰還する時代が、この箇所の背景と考えられます。一説では、紀元前538年に捕囚から解放され、同515年にエルサレム神殿が再建されるまでの期間が、ここでの預言の背景とされます。 荒廃し手の付けようのない都に、人々の目が釘付けにされている様子を想像することができます。古いものは去り、新しいものは未だ再建されない、いわば空白の時代です。自分の存在の限りない軽さを嘆く痛ましい言葉も見られます。「わたしたちは皆、枯葉のよう」(5節)。恵みに根を下ろさない人生は、枯葉に等しい。この実感が、自分たちの「汚れ」と「悪」の自覚に結びついていることが重要です。預言者は、罪の自覚に欠ける民のため、深い嘆きと悔い改めを痛切に告白しています。 自分で自分を救う道はないことが分かるとき、「あなたを待つ者に計らってくださる方は、神よ、あなたのほかにはありません」という嘆願と希望が真実となります。骨身に徹して自己の無力を知るとき、神を待ち望む信仰が希望を生みます。神を待ち望め! Mon, 28 Dec 2015 00:10:00 +0000 父の背に負われて(イザヤ書 63章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151228 no 2015 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。 (イザヤ書63章9節) イザヤ書の終わり近くでも、主の民の苦しみはなお続きます。捕囚は終わりました。けれども長い苦渋と嘆きの後に来るのは、疲労と虚脱、自分はいったい何者かという不安です。 民は自分が陥った苦境を、自らの罪と不従順に結びつけず、新たな不従順に心を委ねようとします。自分たちの悩みに、主は無関心なのではないか。この厳しい状況の中で、主は、イスラエルの主であることから身を引いておられるのではないか。身勝手な言い分です。しかし私たちも、自分の苦難を「不運」と感じ、神の親切と配慮を疑い、自らの霊的責任を棚上げにすることが多いのです。 預言者は、神がイスラエルを「子」として選んだ恵みに縋り、神を「父」と呼ぶ信仰に立ち帰ります(8節、16節)。この父と子の絆の中で、主の民はすべてのつぶやきに終止符を打たねばなりません。父は子らの苦難を「御自分の苦難」とされます。苦しみつつ、自らを低くする神です。父の背に負われて歩んだ歴史を、思い起こしてごらんなさい。一年の終わり近い日々、私たちも、主に担われた恵みを心に刻みます。 Sun, 27 Dec 2015 00:10:00 +0000 ホサナ(詩編 118編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151227 no 2015 家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。 これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。 (詩編118編22節~23節) この詩の「どうか主よ、わたしたちに救いを」(25節)という言葉は、原文では「ホシア・ナー」で、これは主イエスのエルサレム入場の時に、民衆が叫んだ「ホサナ」という言葉と同じです。この詩は交唱歌というジャンルで、指揮者と会衆、あるいは行列してきた巡礼とそれを迎える祭司とが交互に歌う節によって構成されています。 「解き放たれた」、「包囲する」、「激しく攻められて」、「城門を開け」という言葉から捕囚からの帰還、神殿再建が背景として考えられます。神殿再建時には望外の喜びの中からこの叫びが興ったことでしょう。 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」という驚きは、イエスのメシア職の証拠聖句としてイエスの弁証に用いられます。「正義の城門」が開かれるためには「主の御名によって来る人」すなわちメシアが到来して、その戸を開かねばなりません。 主が来られ、光が神殿に満ち、私たちはその光を喜び、献身の心を祭壇まで運び、感謝をささげます。喜びの今日、主の日の礼拝。私たちも「ホサナ」と叫んで、この方を迎えましょう。 Sat, 26 Dec 2015 00:10:00 +0000 イエスとは誰であるか(ルカによる福音書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151226 no 2015 イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。 (ルカによる福音書3章23節) これはルカによる福音書に書かれているイエスの系図の書き出しです。マタイとルカの福音書に記された系図は違った書き方がされています。マタイは旧約聖書の預言の実現として、それに対してルカは地中海世界に住む人たちを念頭に置いて書いています。 ルカの系図はヨセフからさかのぼり、アダムを経て神に至ります。これはマタイのように旧約に預言されていたメシアというより、イエスとは誰であるかということを伝えたいと考えてのことでしょう。 イエスが全世界の救い主であることを知るためには、すべての人がイエスを救い主として受け入れることができるような書き方が必要です。それでルカはイエスの系図を、イエスがヨルダン川で洗礼を受けた出来事の後に記しました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)。 この天から声があったということから、イエスは神の子であり、すべての人の救い主として来られたことを強調しています。ルカはこのことによってイエスとは誰であるかを語っているのです。 Fri, 25 Dec 2015 00:10:00 +0000 神の栄光と人の平和(ルカによる福音書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151225 no 2015 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカによる福音書2章13節~14節) 天使が救い主イエス誕生の夜、羊飼いに告げるメッセージは神への栄光と人への平和でした。この二つの言葉が神と人に最もふさわしい賛美であると天使は告げています。賛美とは神に対する信仰の応答です。救い主イエスの誕生は神の栄光を現し、地上では人間のための平和をもたらす出来事です。 栄光とは神が具体的な形をとって現れることを意味し、平和は救い主から与えられる平安のことです。救い主イエスの誕生によって、神はご自身を明らかにしてくださいました。そして、御心に適う人に平和が与えられます。御心に適う人とは、羊飼いたちのように天使が伝える神の御心に応えていく人のことです。羊飼いたちは救い主誕生の告知を聞いて驚き、そしてその驚きは救い主への礼拝となります。 救い主到来の知らせは、礼拝という出来事となります。これは神からのメッセージを聞いた者がとるべき最もふさわしい応答です。そして主の日の礼拝は、そのたびごとにクリスマスの出来事への信仰の応答になるのです。 Thu, 24 Dec 2015 00:10:00 +0000 神に対する信仰と信頼(ルカによる福音書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151224 no 2015 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 (ルカによる福音書1章38節) ルカによる福音書に描かれているクリスマス物語は、ザカリアの不信仰と対照的にマリアの信仰について語ります。 まず、マリアのところに天使ガブリエルが遣わされ、「おめでとう、恵まれた方」と語りかけます。戸惑うマリアに対して、天使は「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げます(31節)。 これを聞いたマリアの驚きは次の言葉に表れています。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。ただし、これはザカリアが天使の言葉を疑ったのとは違います。夫がいないのに子どもが生まれるはずはないという事実を述べたものです。そのようなマリアに、天使は「聖霊があなたに降り…生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げます(35節)。マリアはこの言葉を受け入れました。 救い主イエス・キリストの誕生は、マリアの神に対する信仰から始まります。 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。神の言葉への信頼が、クリスマスのわたしへの訪れを確かなものとしています。 Wed, 23 Dec 2015 00:10:00 +0000 働き続ける主と共に(イザヤ書 62章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151223 no 2015 エルサレムよ、あなたの城壁の上に わたしは見張りを置く。 昼も夜も決して黙してはならない。 主に思い起こしていただく役目の者よ 決して沈黙してはならない。 また、主の沈黙を招いてはならない。 (イザヤ書62章6節~7節) 捕囚の苦しみを解かれ、都エルサレムの再建という歴史の節目に、預言者は焦点を当てています。人々は深く傷つき、疲れ果てています。けれども、荒廃したエルサレムを「シオン」という美しい名で呼ぶとき、イスラエルの民の心は喜びと慰めに満たされたに違いないのです(1節)。 エルサレム再建は、捕囚からの解放という歴史の一点だけでなく、エルサレムが「新しい名」を冠せられる終末の時も視野に入れています。終末に向かう救いの歴史。神の国完成を目指す奉仕と献身。その大切な使命を担うのは、キリストの教会です。教会は、救いの城壁に置かれた「見張り」、「主に思い出していただく役目の者」です。 求められているのは、怠惰な沈黙に陥らないことです。祈りと賛美を絶やさぬことです。教会の沈黙は、「主の沈黙」さえ招きかねないからです。主は、イザヤの時代も今も、民の苦難と苦闘を思い出してくださいます。主イエスの誕生こそ、神の記憶の結晶、主が沈黙を破られたしるしです。誕生した御子イエスは、やがてエルサレムで罪と死への勝利を得、新しいエルサレムの基礎を完成します。 Tue, 22 Dec 2015 00:10:00 +0000 民よ、今こそ喜べ(イザヤ書 61章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151222 no 2015 主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み … つながれている人には解放を告知させるために。 (イザヤ書61章1節) イザヤ書が描く救いの道筋は、大きく長い弧を描くように進みます。イスラエルの民は、バビロンからの解放を経験します。しかしそれは、決してすべての問題の解決ではありません。人間の苦しみを終わらせるのは人間自身ではありません。神による介入、神への徹底した明け渡しが必要です。 神による介入は、歴史を人間の次元から神の次元へ、と引き上げます。主による油注ぎを受けた方、神の霊によって捉えられた方、つまり神からのメシア(油注がれた者)が、救いの歴史に新しい次元を開きます。神ご自身がメシアに油を注ぎ、神の霊を宿らせ、神の徹底した介入なしには決して救われることのない世界に、メシアを「遣わ」されます。 それがクリスマスの恵み、降誕節の奇跡であることは言うまでもありません。まさしく、神は独り子を与えるほどに世を愛してくださいました。独り子を信じる者が、滅びをまぬかれて永遠の命を得るためです。こうして、貧しい人は良い知らせを聞き、「打ち砕かれた心」は包まれました。飼い葉桶に眠る神こそ私たちの希望です。 Mon, 21 Dec 2015 00:10:00 +0000 主は輝いておられる(イザヤ書 60章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151221 no 2015 見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。 しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。 (イザヤ書60章2節) 地上を旅する神の民の歩みから闇が一掃されることはありません。いま味わっている悩みと嘆きはいつ終わるのだろうかとの疑問は、教会とキリスト者を悩ませ苦しめます。人間の目に映る限りでは、「暗黒が国々を包んでいる」現実は、21世紀の日本も、同じように思えます。 イザヤの預言は、失意と落胆の中で将来への希望を失うかに見える神の民への、普遍的な命令であり激励であり教育です。「起きよ、光を放て」(1節)。これが命令です。「おののきつつも心は晴れやかになる」(5節)。これが約束です。教会は、このような命令と約束のもとで、繰り返し立ち上がり、憂いに満ちた心に、晴れやかな喜びの満ちる経験を重ねてきました。おののきながらも、心は晴れやかにされるのです。 命令、激励に加えて、神の民への教育の言葉も豊富です。特にここでは「しかし、あなたの上には主が輝き出で」に目を留めます。信仰は、「しかし」という言葉を合図に踏みとどまる決断です。大胆な「しかし」が神の御許から訪れました。この「しかし」が、クリスマスを晴れやかな光に包んでくれます。 Sun, 20 Dec 2015 00:10:00 +0000 福音は全世界へ(詩編 117編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151220 no 2015 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえにわたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。 (詩編117編1節~2節) この詩は詩編全体の中で最も短いながら、その内容はまことに壮大なものがあります。すべての国だけでなく、すべての民が、それぞれの言語で、主をほめたたえる。ここにはマクロとミクロの両方が視野に入っています。 世界の言語数は約7千語ですが、そのうち聖書全巻が翻訳されたのは531言語、新約聖書は1329言語、そのほか部分訳(分冊)などを合計すると2883言語です(2014年世界ウィクリフ聖書翻訳協会資料)。 ウィクリフ聖書翻訳協会によれば、世界には文字を持たない民族がたくさんあり、このような世界に聖書を届けるためには、まず宣教師がその民族と長年にわたって生活を共にし、彼らの言語を聞き取って文字化する必要があります。その文字を教えて、初めて聖書をその言葉に翻訳して伝道するのです。何とも気が遠くなるような長い地道な、忍耐強い働きです。 彼らの熱心はどこから来るのでしょうか。それは「慈しみとまこと」に富む「主」がおられることを知らせたいからです。私たちも今日、この方を礼拝し、証ししましょう。 Sat, 19 Dec 2015 00:10:00 +0000 信仰の勝利者(使徒言行録 28章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151219 no 2015 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。 (使徒言行録28章15節) パウロは暴風を逃れ、マルタという島で助かりました。しかし、パウロはこの島で蝮にかまれて、死ぬと思われましたが、何の害も受けませんでした。主はこのような奇跡を起こし、パウロを救われました(マコ16章18節参照)。それは主ご自身がなさろうとするローマでの異邦人宣教の道を開くためでした。 生き残ったパウロはやがてローマに着きました。すると、ローマの兄弟たちがアピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来ました。このアッピア街道はローマの将軍が戦争に勝利したことを、群衆が熱烈に歓呼する道です。本文でも王や将軍を迎えるときに使われる単語が使われています。まさに凱旋する王や将軍の統治が始まろうとしています。 パウロは数えきれない死の危険や、海の暴風の危機を主の守りによって乗り越えてきました。福音によって新しい統治が開かれようとしているかのようです。福音宣教はローマで終わりではありません。さらに大きく、世界中に広まっていっています。パウロを守ってくださったのと同じ仕方で私たちを守り、主イエスが再臨するまで続きます。 Fri, 18 Dec 2015 00:10:00 +0000 絶えず試練、絶えず主イエスの助け(使徒言行録 27章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151218 no 2015 しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」 (使徒言行録27章14節、25節) 「良い港」という所でパウロは、これ以上航海を続けることは危険だと感じ、出港をやめるよう求めました。しかし、百人隊長は自分の経験や知識を信頼していた船長や船主を信用し出発します。 その結果、エウラキロンという海の暴風にあい、ルカが「助かる望みは全く消えうせようとしていた」と書くほどでした(20節)。この自然災害によってパウロによるローマへの福音宣教は絶望的に見えました。しかし、神からの天使がパウロに、ローマへの福音宣教が神の計画であることを伝えて励まし、パウロを含めて276人の命を救ってくださいました。 しかし、船が激しい波で壊れだします。囚人が逃げてしまったら兵士たちはその責任を負わなければならないので、囚人すべてを殺そうとしました。しかし、百人隊長が兵士たちを思いとどまらせたので、パウロは救われます。 生きる望みがないような絶望の瞬間が次々と襲うときがあるかもしれません。そのときこそ、主イエスによって強く慰められる瞬間です。その希望を持つことがゆるされているのが、私たちクリスチャンです。 Thu, 17 Dec 2015 00:10:00 +0000 信じるように祈り続ける(使徒言行録 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151217 no 2015 「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」 (使徒言行録26章27節) パウロは、旧約の預言は、キリストの復活によって成就したと証しします。さらに福音が異邦人へも開かれている、と語り、アグリッパ王に福音を受け入れるように熱心に話しました。アグリッパ王の父はヨハネの兄弟ヤコブを殺した人ですが(12章参照)、アグリッパ王は、ユダヤ人に理解のある人でした(3節)。 パウロの話を聞いて異邦人フェストゥスは、「お前は頭がおかしい」と言いました。しかし、旧約の預言を知っていたアグリッパ王は、「わたしを…キリスト信者にしてしまうつもりか」と言います。パウロはそう言う王に、「私のようになってくださることを神に祈ります」と答えました。 アメーバが進化してサルとなりサルが人間になったと信じる現代の人には、復活など、おかしい話でしょう。私たちの前にいるのは、聖書の言葉で自分の人生を理解しようとしたことがない人々です。 わたしは伝道所の信徒の方々と共に駅前で賛美しながら路傍伝道をしています。時にはおかしい人だなと思われたり、早く逃げる人もいます。けれども福音を信じ救われるように、パウロ以上に祈り続けたいと思います。 Wed, 16 Dec 2015 00:10:00 +0000 ただ恵みにより救いが(イザヤ書 59章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151216 no 2015 主は正義の行われていないことを見られた。 それは主の御目に悪と映った。 主は人ひとりいないのを見執り成す人がいないのを驚かれた。 主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。 (イザヤ書59章15節~16節) イスラエルの救いは、現実の歴史の中で、さまざまな曲折を経ます。捕囚からの解放が実現しても、それがすぐさま民に平和と安定をもたらすわけではありません。行き詰まりと閉塞の中で、人々の心にきざすのは、「主の手が短くて救えない」という神への不信感です。まことの平和と解放を妨げている真実の原因を見ず、御手の業に不足を言い立てるのがアダム以来の人間の性癖です。 救いに至る展望が容易に開けない現実は、神御自身の嘆きでもあります。神は、人間の心に潜む果てしない罪と背きに心を痛められるお方です。神は、愛と憐れみに打ち震えながら、救いの道を探られます。神の全能は、心情も驚きもない機械的な力ではありません。愛し、悲しみ、裁き、憤ることにおいても、神は全能の主であられます。 民の悲惨を見ながら、誰一人執り成す者のない現実に、神は驚きを隠しません。救いは、ただ神の一方的な決意と献身による恵みです。独り子イエスを賜るほどに世を愛された神。神は、独り子をベツレヘムの飼い葉桶に横たえ、ゴルゴタの十字架にまで送られました。感謝します。 Tue, 15 Dec 2015 00:10:00 +0000 礼拝と正義(イザヤ書 58章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151215 no 2015 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。 … 飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。 (イザヤ書58章6節~7節) 断食という宗教的行為は、今日のキリスト教会とキリスト者には極めて疎遠な習慣です。一部のキリスト教会では、信仰生活の生きた慣行として重んじられていますが、多くの場合、主に宗教的な実り・敬虔の実行に焦点を合わせていると思われます。 イザヤが同胞に求める断食は、社会的な不義や不公正を是正するための具体的な行動を呼びかけている点で注目されます。断食に、宗教的な偽善や自己満足が紛れ込みやすいことは、主イエスも指摘しておられる通りです(マタ6章16節以下)。 断食が、祈りと悔い改めの徹底という、宗教上の目的をもつことは当然です。しかし、社会的な意味を考慮しないまま行われる断食は、少なくともイザヤのような預言者の理解からほど遠いと言わねばなりません。断食は、自分のパンを貧しい隣人と分かち合うこと、社会的な不公正の谷間で苦しむ人々を助けることです。礼拝の恵みと正義の要求は分離されません。分離されがちな二つを結び合わせるとき、教会は「わたしはここにいる」(9節)という主の声を鮮明に聞く集いとされるはずです。 Mon, 14 Dec 2015 00:10:00 +0000 打ち砕かれた心の支え(イザヤ書 57章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151214 no 2015 高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。 わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。 (イザヤ書57章15節) バビロン捕囚は、イスラエルの民にとって未曽有の試練でした。試練と苦難の中で、人々の信仰も篩われ、試されます。あれほどの悲惨を経験しても、イスラエルの心は神を畏れることから遠いままです。神に立ち帰り遜る道は、神が憐れみの霊を贈ってくださるときにのみ開かれます。 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方」。神の名乗りは圧倒的な威力をもっています。かつてイザヤを圧倒し、彼を預言者として召し出した神の、聖にして偉大な本質が、ここでも明らかにされます。人間の小賢しい知恵で、神の聖なる名を侮り欺くことが、どれほど空疎な企てであるか。神の聖なる威力は、高慢な人間を打ち砕き、「へりくだる霊の人」に造り変えます。ここに苦難の時の希望があり、困窮の時の慰めがあります。 高く聖なる神が、「へりくだる霊の人」と共にあり、神の高さが、同時に神の低さでもあるというのがイザヤ書を貫く神の臨在です。「打ち砕く」とは、原型を留めないことです。そこまで砕かれた人は、歴史上、ただお一人です。神は独り子イエスにその道を歩ませてくださいます。 Sun, 13 Dec 2015 00:10:00 +0000 神への感謝と人々への証し(詩編 116編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151213 no 2015 主に満願の献げ物をささげよう 主の民すべての見守る前で 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。 ハレルヤ。 (詩編116編18節~19節) この詩人は瀕死の病か、迫害の艱難に遭ったのでしょう。「あなたはわたしの魂を死から…助け出してくださった」と体験を語ります(8節)。この死ぬほどの恐ろしい体験は「死の綱」、「陰府の脅威」、「激しい苦しみ」、「縄目」と表現されます。 牧師は還暦を過ぎるまでには、大抵の苦しみを経験します。病気の苦しみ、痛みやストレスで眠れない夜、老化による慢性的な痛み、伝道の不振によるあせり、人間関係のもつれ、言葉の過ちの悔い。それらを経験しつつ、今日、牧師は講壇に立っています。そして自分の伝道者としての力量を自覚した頃にはもう定年です。 この詩人は「わたしは主を愛する」、「わたしは主を呼ぼう」、「わたしは信じる」と激しい口調で自分の信仰を証しします(1、2、10節)。それも「満願の献げ物」によって、「主の民すべての見守る前で」、「主の家の庭で」と、公的な場で主が「哀れな」私たちを憐れんでくださったことを知らしめようとしています。なぜならそれが「神の正義」だからです。きょうは神の正義が公に賛美される日です。この方を呼びましょう。 Sat, 12 Dec 2015 00:10:00 +0000 重なる陰謀を乗り越えて(使徒言行録 25章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151212 no 2015 祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。 (使徒言行録25章2節~3節) 40人の暗殺団の企みも、弁護士を使って判決によってパウロを死刑にさせようとしたことも失敗に終わりました。それでは終わらず、今度は新しく総督として赴任したフェストゥスに、ユダヤ人の最高宗教指導者たちが、ユダヤ人全体の代表として、初めての挨拶にやってきました。そこでカイサリアにいるパウロをエルサレムへ送り返すように頼みます。途中でパウロを殺そうと、陰謀を企んでいるのです。 しかし、主イエスの導きによってこの陰謀もまた失敗に終わります。パウロはカイサリアで軍人たちによって徹底的に守られていました。また総督フェストゥスは、まもなくエルサレムからカイサリアに戻らなければなりませんでした。そのため、ユダヤ人たちの願いを断ります。 この判断によってパウロは命が助かります。いろいろな宗教を含めて福音宣教を止めさせようとする陰謀やたくらみは今も絶えず起こっています。しかし、それは失敗に終わります。どのような状況でも主イエスによる福音宣教は揺るぐことなく進むからです。ここに宣教の夢と希望があるのではないでしょうか。 Fri, 11 Dec 2015 00:10:00 +0000 2年たって(使徒言行録 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151211 no 2015 さて、2年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。 (使徒言行録24章27節) 大祭司であり、最高法院の最高裁判官でもあるアナニアが弁護士を連れてきてパウロの死刑を求めています。罪の内容は騒動の罪、反乱の罪、神殿冒涜の罪の三つです。どれをとっても死刑の可能性が高いものです。パウロは訴えられている三つの罪に対して弁明し、自分の無罪を証明して勝利をします。 しかし、フェリクスは、民衆の暴動を経験しており、ユダヤ人全体の願いを断ることで、もし、暴動が起きたら、自分自身の政治的な命が危うくなります。そこで彼が取った行動は、パウロから金をもらおうとする下心と、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを2年もの間監禁させることでした。 ところが、これは2年の間、パウロを安全に保護しようとする主イエスの導きでした。パウロは、主イエスのローマ宣教の約束はどうなるだろうと心配したかもしれませんが、ここでも主イエスはフェリクスを用いて徹底的にパウロを守り、ローマ宣教への準備をしておられました。宣教は、主イエスご自身のものです。私たちは、忍耐と祈りをもって、主ご自身の宣教を主と共に行います。 Thu, 10 Dec 2015 00:10:00 +0000 祈りの家の祝福(イザヤ書 56章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151210 no 2015 また、主のもとに集って来た異邦人が 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり 安息日を守り、それを汚すことなく わたしの契約を固く守るなら … わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。 (イザヤ書56章6節~7節) 56章では安息日への注意と関心が、前面に現れます。バビロン捕囚からの帰還という歴史的な変化を踏まえた言葉が、ここから始まります。歴史と社会が変化するとき、神の民の霊的な課題もまた変化を遂げることが多いと考えるべきです。 何よりも大きな変化は、バビロン捕囚以後の救いの歴史が、異邦人の救いという、世界的な視野を持つに至ることです。礼拝から排除されていた「宦官」(3節)にも契約の恵みが適用されます。救いの扉が広々と開け放たれるとき、招かれる私たちが神の愛に相応しい応答を返すことは当然の責務です。その中心に置かれるのが、安息日を正しく守ることです。深い注意を寄せるべきなのは、安息日を守ることが、決して形式上の義務として教えられてはいないことです。 「主に仕え、主の名を愛し、その僕と」なる安息日の生活が、霊的な深みを保つことを神は要求しておられます。安息日とは、神への愛が輝く日です。神の僕としての喜ばしい献身が実を結ぶ日です。それは「祈りの家」に住まう喜びです。この喜びに招くため主イエスは来られました。 Wed, 09 Dec 2015 00:10:00 +0000 魂にまことの命を(イザヤ書 55章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151209 no 2015 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。 聞き従って、魂に命を得よ。 わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。 ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。 (イザヤ書55章3節) 民に代わって罪と病を背負われる主の僕の愛と労り。そこから届く回復と癒しの恵みが、55章でも、さまざまな形で約束されています。 「聞き従って、魂に命を得よ」。聞くことは、聖書の信仰の命です。聞くことで信頼し、聞くことが平和と喜びをもたらします。贖い主である主の僕は、「聞き従う」ことを喜びとされました(50章4節)。聞くためには、主のもとに集わなければなりません。つまり聞くことは、神の近さを約束する恵みだからです。聞き従う者は、「魂に命を得」ます。 魂は、感情・知識・心の状態などのすべてを取りまとめ、人間の命と存在の根幹を形作ります。しかも旧約における魂は、人間の弱さを浮き彫りにします。命の寄る辺なさ、深い悩みの中で嘆き傷ついている人間、それが魂として生きる人間です。 逃れられない弱さをもつ私たちを、また、聞くことが苦手な私たちを、力強い救いへと招く神の恵みが訪れました。ダビデが待ち、イザヤが憧れた「とこしえの契約」が実現しました。実現した契約を、一層深く体験する待降節でありますよう。 Tue, 08 Dec 2015 00:10:00 +0000 神は憐れみに富む(イザヤ書 54章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151208 no 2015 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。 (イザヤ書54章7節~8節) 個人も社会も、歴史の中で苦しみもだえる経験を続けています。もっと違った、もっと穏やかな道がないものか。目を伏せ首を振りながら嘆きを繰り返す私たちです。けれども、イザヤ書を通して語り続ける主は、人間とその歴史が、苦悩と嘆きに満ちたものであることに、まっすぐ向き合っておられます。 神は、イスラエルの民を「わずかの間」捨てられました。捕囚はイスラエルの存亡にかかわる重大な試練です。選びの民が直面する試練。その原因が、民自身の背きと罪にあることは、まぎれもないことです。捨てられ、見放される屈辱を、不当な扱いだと言い開きする権利は、人間にありません。抗弁する資格も権利ももたない私たちのために、一人の僕が苦難を背負われました(53章)。苦難の僕による罪の贖い。その愛と憐れみによって、神の民の嘆きは「わずかの間」で終わりを告げるでしょう。 それに対して、神の慈しみは「とこしえ」です。神が御顔を隠されるかに思える霊的な闇夜は、やがて過ぎ去ります。神の強い御手が、とこしえの愛で私たちを「引き寄せる」日が近づいています。 Mon, 07 Dec 2015 00:10:00 +0000 愛、痛みの果てに(イザヤ書 53章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151207 no 2015 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 (イザヤ書53章4節) イザヤ書後半部には、「僕の歌」と呼ばれる四つの驚くべき使信が記されています。53章はその最後の歌です。これによってやがて新約聖書で全貌を現す主イエスの救いの核心につながる、重大で痛切な福音を伝えています。 僕の苦しみは、人々から理解も共感も得られないかに思われました。しかし、やがて事態は一変します。僕の苦しみと惨めな面影に、まったく新しい光が当てられます。この僕が受けている、恐ろしいほどの苦難と痛みは、「わたしたちの病」を担う代理の受苦でした。 「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」。これがとんでもない思い違いだと知ったとき、人は皆神の前に恥じるでしょう。僕の苦難の中に救いと赦しがあることを知れば、この僕こそ人生の主だと告白するでしょう。主の僕の苦しみが、主イエスの生涯を通して実現したことを、感謝をもって告白するに違いありません。 僕自身には、どのような罪も過ちもありません。しかし神は、この僕の上に罪と背きに対する裁きを置かれました。主イエスの愛と痛みの故に、今日の平安があります。 Sun, 06 Dec 2015 00:10:00 +0000 わたしたちこそ、主をたたえよう(詩編 115編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151206 no 2015 偶像を造り、それに依り頼む者は 皆、偶像と同じようになる。 (詩編115編8節) 古代社会では、戦争はそれぞれの国の守り神どうしの戦いと考えられていました。バビロンへ捕囚となったイスラエルの人びとは、国の守り神が負けたことになり、バビロン人から「彼らの神はどこにいる」(2節)と笑われました。 しかし詩人は、諸国の神々は偶像にすぎないと、言い切ります。敗戦は神のご計画の上であって、自分たちへの刑罰かもしれない。これによって神は、私たちに大きなことを教えようとしておられるのだ、と信仰を表明します。 4~8節の偶像をあざける一まとまりは、当時の慣用句として用いられたものでしょう(参照:詩135編15~18節)。足、口、目、耳、鼻、手、喉がいくら偶像にあっても、それらは全く役に立ちません。 そして、もっと恐ろしいことは、「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」ことです。偶像礼拝者の口は役に立たず、彼らの祈りは、天地の創造主に届くことがありません。 「主を賛美するために民は創造された」(102編19節)のですから、きょうの主の日、「わたしたちこそ、主をたたえよう」(18節)。 Sat, 05 Dec 2015 00:10:00 +0000 無事に護送するように(使徒言行録 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151205 no 2015 また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ、次のような内容の手紙を書いた。 (使徒言行録23章24節~25節) 40人以上のユダヤ人たちの暗殺団が組織されて、パウロを殺す陰謀が企てられました。それはパウロを殺すまでは飲み食いしないと誓いを立てるほどの激しいものでした。この状況から逃れるのは不可能のように見えます。 ところが、絶望的な状況を脱する契機となったのは、(意外なことに)パウロの甥でした。パウロの甥は千人隊長にその陰謀を告げます。千人隊長はその話を信じるようになりました。それはユダヤ人全体を敵に回すより主イエスを死刑にしたピラトの行動とは正反対のものでした。千人隊長は40人の暗殺団をはるかに超える470人ぐらいの軍隊を動員させてカイサリアまで護送し、無事にパウロを守りました。 実はパウロの暗殺団が組織される前の夜、主イエスはパウロを励まし、「ローマでも証しをしなければならない」と言われていました(11節)。どれほど主イエスご自身が福音宣教に情熱を持っておられるかが分かります。 今も主イエスは福音を伝える者を助けながら働かれます。だれも主イエスの宣教を止めることは不可能です。 Fri, 04 Dec 2015 00:10:00 +0000 主よ、あなたはどなたですか(使徒言行録 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151204 no 2015 「『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。」 (使徒言行録22章8節) 熱心に神に仕えているという確信に満ちていたパウロは、クリスチャン男性は勿論、女性たちをも迫害し、獄に入れ、死に至らせることすら正しいと思っていました。 クリスチャンたちを逮捕しに行くとき、パウロは正午の一番強い太陽の光を遥かに超える神の光と遭遇しました。パウロにとって、これは奇跡的な体験でした。パウロは、光の中で、自分こそ赦しがたい悲惨な罪人であったことに気付かされました。そして、主イエスがクリスチャンたちと一つの体であることを知り、驚きました(マタ28章20節)。さらに驚いたのは、このように悲惨な罪を繰り返していた自分の名前を主がよく知っておられたことです。そして、報復の言葉ではなく、赦しと恵みが差し出され、洗礼を受けることに戸惑いを覚えるような自分が、異邦人の宣教のための使徒として任命されていたことでした。 主の救いは、どのような者にも制限なく与えられます。私たちの将来をご存じで、私たちを用いて、揺らぐことなく宣教を進めるお方が、「主よ、あなたはどなたですか」の答えなのです。 Thu, 03 Dec 2015 00:10:00 +0000 主の御心が行われますように(使徒言行録 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151203 no 2015 パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 (使徒言行録21章14節) パウロがエルサレムに上ろうとすることに対して、霊に動かされていたティルスの弟子たちは、何回も何回も繰り返して命令語調で反対しました。また、本書の著者であるルカも含めて泣きながらエルサレムに上らないようにと説得しました。 さらに、カイサリアでもアガボという預言者が、エルサレムでユダヤ人がパウロを縛って異邦人の手に引き渡すと預言しました(11節)。聖霊によって知らされたのですから、行くのを断念しても、どこででもすばらしい働きができるはずでした。しかしパウロは、たとえ殺されても、神の愛と恵みであるエルサレムの教会のための献金を届け、自分が行った宣教の報告をしたい、とエルサレムに上ることを決めました。 結局、パウロは預言どおりにユダヤ人に逮捕され、暴行を受け、殺されそうになります。しかし、主イエスの導きによって千人隊長に助けられ、これをきっかけにローマへの宣教の準備が始まります。「主の御心が行われますように」と祈ったとおりになりました。今の時代にも全く変わりなく、主イエスの御心のみが行われます。 Wed, 02 Dec 2015 00:10:00 +0000 急いで逃げなくてもよい(イザヤ書 52章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151202 no 2015 しかし、急いで出る必要はない 逃げ去ることもない。 あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから。 (イザヤ書52章12節) バビロンに留まることは、神の民にふさわしくありません。「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ」と命じられています(11節)。神の民はみな、この命令を聞いています。バビロンに象徴される世は、希望と失意の間で揺らぐ場所です。約束と希望を打ち砕くものが満ち満ちています。最終的には立ち去るほかない場所で、神の民は苦難と忍耐の日を過ごしています。 やがては立ち去るべき場所で、耐え、そして待ちながら、真剣な祈りと奉仕に明け暮れつつ、主の民は生きています。主の助けが遅くなることはありません。神は、ご自身の民が耐えられない試練のなかに、生身のまま置き去りにされることを、決してお許しにならないからです。 捕囚の地からの旅立ちを、先頭に立って導かれたのはイスラエルの神、主です。神の国を目指すキリスト者と教会の進路を、先頭に立って導くのも同じ主です。ですから、私たちの地上の旅路は、信頼と平和に満ちた巡礼の旅です。急いで逃げる必要はありません。「しんがり」を守られるのは、勝利を得られた主です。慌てず、怠らず、進みましょう。 Tue, 01 Dec 2015 00:10:00 +0000 振り返れば恵み(イザヤ書 51章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151201 no 2015 わたしに聞け、正しさを求める人 主を尋ね求める人よ。 あなたたちが切り出されてきた元の岩 掘り出された岩穴に目を注げ。 (イザヤ書51章1節) イスラエルの民は、捕囚という試練の痛手を受けています。神との信頼関係を再建することなど到底不可能なほどの激震が、人間と社会を闇のなかに閉じ込めています。癒しと回復への道を指し示してくださるのは、ただ神の憐れみのみです。神は、預言者を通して、回復と再生に向かうただ一つの道を、イスラエルに示そうとされます。何よりもそれは「わたしに聞け」という切なる呼びかけであり、痛みを伴う愛の招きです。神は、みずから痛みを負うため、すでに「主の僕」を召し、歩むべき苦難の道、忍ぶべき道を定めておられます(50章4節以下)。 神は、苦難と悩みの内で「主を尋ね求める人」に、救いと解放の道を備えてくださいます。その道は、物珍しいものではありません。神に聞き、救いの歴史を振り返ることです。2節の「父アブラハム」と「母サラ」は、イスラエルが「切り出されてきた元の岩」です。アブラハムを記憶することは、神の選びと愛に立ち帰ることです。取るに足りない者にどれほどの真実が注がれたか。どのキリスト者にも振り返れば、感謝の数だけ、恵みの記憶があります。 Mon, 30 Nov 2015 00:10:00 +0000 主を畏れ、主の僕の声に聞き従おう(イザヤ書 50章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151130 no 2015 お前たちのうちにいるであろうか 主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。 闇の中を歩くときも、光のないときも 主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 (イザヤ書50章10節) この章では、エルサレムとその住民の関係を、母と子になぞらえています。人々の目には、エルサレムがまるで夫から離縁状を突きつけられた妻のように、エルサレムに住む住民たちが借金の肩代わりに債権者に引き渡された子供のように映っています。しかし、主である神は「離縁状はどれか」「債権者は誰か」と問いかけます(1節)。エルサレムが敵の手に渡り、その住民が捕囚の民として連れて行かれたのは、決して神が離縁状を突きつけたからではなく、債権者として子供を引いていったからでもありません。神の民自身のそむきの罪の結果です。神が彼らを見捨てたのではありません。 ここには、まだ救いの希望があります。神はその僕を通して、神の民イスラエルを救いへと招き続けています。「主なる神が助けてくださ」います(7節)。主の僕も、頑ななこの民の抵抗にも挫けずに、主からの言葉を語ります。主にそむき続け、自分の思いに頼って歩み続けるならば、その行き着く末は苦悩しかありません。 神は、今日もなお、神を畏れ、キリストの声に聞き従う者がいるかと問いかけ、イエス・キリストを通して私たちを救いへと招いておられます。 Sun, 29 Nov 2015 00:10:00 +0000 イスラエルを導く神(詩編 114編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151129 no 2015 地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に ヤコブの神の御前に 岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。 (詩編114編7節~8節) エジプトを脱出したイスラエルの民に、最も強烈なインパクトを与えたのは、紅海渡りの奇跡でした。「海を押し返されたので…人々は海の中の渇いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」(出14章21、22節)。また主は「硬い岩」から水を出させ、民の渇きを癒してくださいました(出17章6節)。 シナイ山での律法授与のときは、「シナイ山は全山煙に包まれ…山全体が激しく震え」ました(出19章18節)。また民がカナンの地に入るためヨルダン川を渡るとき、「ヨルダン川の流れはせき止められた」(ヨシュ4章7節)のです。 まことにヤハウェはカナンの土着宗教を凌駕する方。詩人はカナンの自然宗教を克服する主をほめたたえます。イスラエルを導く方は、この世の常識を越える方です。 私たちは物質的な水には足りていますが、霊の水に渇いてはいないでしょうか。霊の水を求めましょう。主イエスは言われました。「わたしを信じる者は、…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハ7章38節)。 Sat, 28 Nov 2015 00:10:00 +0000 私たちの大きな使命(使徒言行録 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151128 no 2015 「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」 (使徒言行録20章24節) パウロの目には、この先自分に、死を意味するような苦難が起こり来ることが、既に見えていました。しかしパウロは、その艱難を、ただただ恐怖心から見据えていたのではありません。主イエスと共に歩む人生の目的に至るための、死の恐れを超えた通過点と見ていました。 死に瀕しても、自分の決められた道を走りとおすのだとパウロが語る時、その目は、御自身の命を顧みずに十字架への道を歩み通された、主イエス・キリストを見据えていました。その主イエスの歩みに打たれたパウロの人生は、主イエスと同じ軌道へと導かれています。 三年間も滞在したエフェソ教会との涙ながらの別れという悲しい場面に直面しながらも、パウロの目は、福音に生きるという神からの使命を見上げていました。パウロは、どのような中にあっても、死を超えてなお、自らと人びとの救いとなる本当に価値あるものを、指差しています。 パウロを召してくださった神は、同じ大きな使命を与え、同じ大きな希望に生きるようにと、今日の私たちを招いておられます。 Fri, 27 Nov 2015 00:10:00 +0000 御言葉の力を受けて(使徒言行録 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151127 no 2015 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。 (使徒言行録19章20節) クリスチャンになるということは、私たちがどのようになることなのでしょうか。罪が赦される(義認)、永遠の命を約束される、神の子どもとして受け入れられ、整えられる(聖化)など、他にもいろいろな言い方で、その恵みを説明することができます。それらをすべてひっくるめて、ひと言でそれを言い表すならば、クリスチャンになるとは、私たちが「主の言葉」の力を受けて生きるようになることです。 上記の御言葉の主語は、「主の言葉」です。それが「勢いよく広まり、力を増していった」と言われています。神が信仰者に与えてくださるのは、この「主の言葉」の、すべての民族と国境の壁を打ち破る勢いで広がっていく、神の力です。 義認と聖化は、信仰者の個人の内に働く御業です。救いの祝福に入れられた者は、それらを超えてもっと広く大きな、うねるような神からの力、つまり、この「主の言葉」からの力を得て、その力を心身にみなぎらせて生きます。この力に押し出されて伝道に励みます。これが、救われた人間に与えられる新しい生き方です。 Thu, 26 Nov 2015 00:10:00 +0000 わたしは主、あなたを贖う(イザヤ書 49章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151126 no 2015 わたしはあなたを僕として ヤコブの諸部族を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。 だがそれにもまして わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。 (イザヤ書49章6節) イザヤ書には「僕の歌」と呼ばれる個所が四つあります。この四つの「僕の歌」は、どれも神の救いを成し遂げる一人の人物に言及しています。きょうの個所は、イザヤ書42章に次いで、第二の「僕の歌」です。 ここに歌われている僕に与えられた使命は、はっきりとしています。それは「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」ことです。言い換えれば、神の民の回復を実現する主の僕です。そう聞けば、民族としてのイスラエルを回復し、ダビデ王朝を復興する、ユダヤ民族の救いをイメージするかも知れません。しかし、この僕に与えられた使命には、それを超えた広がりがあります。主なる神は続けてこうおっしゃいます。「あなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」。 救いを地の果てまで、もたらす者とは誰でしょう。新約聖書に照らして見ると、そのお方はイエス・キリスト以外にはおられません。主イエスこそ異邦人の光としてやって来られたお方です(マタ4章16節)。私たちはイエス・キリストを通して救いの光を見ることができます。 Wed, 25 Nov 2015 00:10:00 +0000 初めでありまた終わりである神(イザヤ書 48章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151125 no 2015 イスラエルの聖なる神 あなたを贖う主はこう言われる。 わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。 (イザヤ書48章17節) 「ヤコブの家よ、これを聞け」と、神はご自分の民に呼びかけます。そう呼びかけられる神の民イスラエルは、口先ばかりの神の民でした。「まこともなく、恵みの業をすることもないのに、主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える者」たちです(1節)。彼らは神の契約の名であるイスラエルの名をもって呼ばれる者たちでありながら、現実の姿はその名にふさわしいとは言えません。神に逆らい続ける頑ななイスラエルの民は、神から滅ぼされてしまっても当然です。 けれども、神はご自身の栄光のために、罪のうちに滅びそうなこの民を救います。昔、エジプトの国から彼らを救い出したように、今また、囚われの地、バビロンから彼らを解放します。しかも、そのことが起こる前に、彼らに未来を予告します。それは、ことが実現するときに、まことの神に正しく栄光を帰するためです。 この章全体が指し示しているのは、単に神の民の頑なさではありません。それにもかかわらず、ご自身の栄光のために救いを実現する神の姿です。この神に対する私たちの正しい認識が私たちを豊かに生きていくことへと導いていきます。 Tue, 24 Nov 2015 00:10:00 +0000 御名は万軍の主(イザヤ書 47章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151124 no 2015 わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主 イスラエルの聖なる神。 (イザヤ書47章4節) バビロンは一時、神の道具として用いられましたが、神の審判によって滅ぼされてしまいました。それは神の気まぐれではありません。神は審判によって神ご自身の正義を示しておられます。ほかでもない神ご自身が、正義をもってバビロンを裁かれたことは、言うまでもありません。 けれども、ここでは審判者が誰であるのか、ということよりも、バビロンが滅びに至る原因と、その滅びが避けがたいものであることが強調されています(6節後半、7節)。バビロンが滅びた根本的な原因は、極めて高慢な態度によって、自分を神のように見なしていたことです(7、8節)。 この章には二人の「わたし」が登場しますが、それはバビロンの罪を告発する神である「わたし」と、神の前に高慢にも「わたし」を豪語するバビロンです。一方は「その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる神」と呼ばれるお方であり、もう一方は、このお方の前に傲慢な態度が打ち砕かれる罪人です。 このバビロンの高慢さは、けっして他人事ではありません。人間にとって最も驕慢な態度は、神を信じないこと、そして自分の主として受け入れないことです。 Mon, 23 Nov 2015 00:10:00 +0000 ご自分の計画を必ず実行される神(イザヤ書 46章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151123 no 2015 わたしは初めから既に、先のことを告げ まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。 わたしの計画は必ず成り わたしは望むことをすべて実行する。 (イザヤ書46章10節) 神はご自分の民を、まるで母が自分の子の面倒を見るように、最初から最後まで徹底的に保護されます(3、4節)。神がその民を顧みるとき、この世の人に優って温かく、憐れみに満ち、誠実であり、完璧です。それは神が天地を創造され、人を造られたので、神は誰よりもこの世を熟知されているからです。 また、神は無計画のお方ではありませんから、起こりくることは何でもご存知です。世の中で生じるどのようなことも、前もってそれを告げることができます。そればかりではありません。神ご自身が良しとされるところに従って、万事を確実に導いていくことができます(10節)。 神が世に成し遂げる事の中で最も大事なことは、ご自分の民を救うことです。神にとって、このことほど重要なことはありません。それは神の契約に記されているご自分の約束だからです。それゆえに、神はご自分の民のために、恵みの業を成し遂げ、速やかに救いをもたらしてくださいます(13節)。 私たちは、この世にあっていつも、神が行う御救いを考え、神の御救いの観点に立って、今を生きます。 Sun, 22 Nov 2015 00:10:00 +0000 時間・空間を超えた主の臨在(詩編 113編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151122 no 2015 日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。 (詩編113編3節) この詩は過越祭に歌われた詩編と言われ、時間と空間を超えた主の臨在がたたえられます。「今よりとこしえに」という時間を超越される主。さらに「日の昇るところから日の沈むところまで」という空間にとらわれない主の臨在。 さらに「すべての国を超えて高く」、「天を超えて輝く」主の高い「御座」がほめたたえられますが、その主が「なお、低く下って」私たちのすぐそばにまで降りて来てくださるのです。このコントラストが詩の主張点です。 高き栄光の天におられる主は低く下って「弱い者」、「乏しい者」、捕囚の人々に自由を与え、生活権を奪われた「子のない女」に憐れみの目をかけてくださいます。 神は私たちから遠く隔たった孤高の天におられるのではありません。いつでも私の祈りと訴えを聞いてくださいます。教会の中で「主を畏れ敬う者たちが互いに語り合」う会話に耳を傾けて聞かれます(マラ3章16節)。モーセは言いました。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」(申4章7節)。 Sat, 21 Nov 2015 00:10:00 +0000 力と勇気の源(使徒言行録 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151121 no 2015 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 (使徒言行録18章9節~10節) まだ信仰を持っていない人びとに対して語り続けていたパウロには、恐れがありました。恐れを覚えざるを得ないほどの厳しい迫害が、彼に迫ったのでしょう。 それに加え、わたしが思うには、単純に人びとの抵抗に遭うのが恐いという気持ちがあったでしょうし、人の反応に対して過敏になり、気を遣ってしまうという心情も含まれていたのではないでしょうか。神経をすり減らすような恐れと緊張を強いるものが、敵対する人の前で語り続けることに伴っていたはずです。 きょうの御言葉の直後に、「パウロは1年6か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」とあります(11節)。パウロがこのように教え続けることができたのは、「恐れるな」という神からの励ましがあり、また、コリントの町に大勢の神の民がいることを示され、語り続ける必要性にも気付かされたからです。御言葉の支えなしには、パウロは容易に力尽きていたと思われます。 神からの言葉こそ、私たちの伝道の労苦を最後まで支える、力と勇気の源です。きょう、この御言葉を神から受けています。 Fri, 20 Nov 2015 00:10:00 +0000 大きくて近い神(使徒言行録 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151120 no 2015 「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」 (使徒言行録17章27節) 「地球は青かった」という言葉があります。宇宙から地球を眺めると、地球は闇に浮かび上がる青い球体としての全体像を現します。それと同じように、高い視点からこの私たちの世界を見下ろして、かたちづくり、導いてくださるのが、神です。 パウロは、偶像を神とするアテネの人の前で、彼らの神々よりもスケールの大きな「世界とその中の万物とを造られた神」について語り、その神がすべての人に命を与え、すべての民族を造り出し、季節を決め、国々を定められたと語りました。しかし、その神は、この世界を大きく取り囲んでくださりながらも、同時に私たち一人一人と近く居てくださるお方です。 神がモノに還元されず、目にも見えないということは、神の不在を意味するのではありません。むしろ空気のように、私たちが生きるうえで不可欠なお方として、神はどこにでもいてくださるという事実を表しています。きょうという日のすべての瞬間に、私たちが赴くすべての場所において、私たちが神を見いだすことができるように、神は近くに居てくださいます。 Thu, 19 Nov 2015 00:10:00 +0000 暗闇に光を呼び込む(使徒言行録 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151119 no 2015 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 (使徒言行録16章25節) パウロとシラスは、牢獄の中にいました。当時の牢獄は、長い洞窟でした。わたしの脳裏に次の光景が浮かびます。 その一番奥の狭く真っ暗な闇の中で、二人は、洞窟の天井から時々落ちてくる水滴を、鞭打たれた背中の傷に受けていました。これは、人生がひどいかたちで終わっていく寸前の状況です。この先のことは諦めざるを得ず、恐らく彼らのこれまでの生涯の中で、一番暗く、一番苦しい状況でした。 しかしながら、彼らは牢獄の一番奥で、真夜中に神を賛美しました。彼らの内側に宿った神の霊は、絶望的なその場所を、神への賛美が響く明るい場所、祈りの場所に変えました。イエス・キリスト。この方の名前を口ずさみ、賛美するとき、天窓が開きます。そのことによって、命が失われるはずの暗い牢獄のような場所が、明るい救いの場所になります。 私たちも、それぞれがきょう置かれている場所で、そこがたとえ暗い場所であっても、パウロやシラスと同じ霊に導かれて賛美を歌うことができます。そして、彼らと同じ祈り方で、共に祈ることができるのです。 Wed, 18 Nov 2015 00:10:00 +0000 ご自分にかけて誓う神(イザヤ書 45章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151118 no 2015 わたしは自分にかけて誓う。 わたしの口から恵みの言葉が出されたならば その言葉は決して取り消されない 。わたしの前に、すべての膝はかがみ すべての舌は誓いを立て 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。 (イザヤ書45章23節~24節) 世のすべてのものを創造された神は、イスラエルの聖なる神であり、正義の神です。このような神の特質が、イザヤ書40章から48章には特に強調されています。神は世にご自分の正義が満ち溢れるように、地が開いて救いが実を結ぶように、恵みの御業が共に芽生えるように、それを創造する、と言われます(8節)。 また主なる神は未来に何が生じるのか、この世に起こることのすべてをご存じです。神に逆らう者たちの結末も、神の民の行く末もよくご存じです。それゆえに、それぞれどのような最期を迎えるのかを明らかに示すことができます(16、17節)。 神は告げられます。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」と。神はご自身が言われたとおりにことを成し遂げられます。だからこそ、神の救いの御業は確実です。 では、神に逆らって偶像に仕えて生きる者たちはどうなるのでしょう。神はその者たちをも招いて告げます。「地の果てのすべての人々よ。わたしを仰いで救いを得よ」(22節)。 Tue, 17 Nov 2015 00:10:00 +0000 罪を霧のように吹き払う神(イザヤ書 44章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151117 no 2015 わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 (イザヤ書44章22節) 万物を創造され、ご自分の民を救われる神だけが唯一のまことの神です。他の神々は、人間の手で作られた命のない偶像に過ぎません。そのような偶像を自分で生み出し、それに仕える人間の、何とむなしいことでしょう。そのむなしさに気がつかなければ、惑わされた心は、道を誤らせます(20節)。 しかし、憐れみ深い神は、道を踏み外したご自分の民に対して、ご自分に立ち帰るようにと呼びかけます。彼らは過ちを犯しました。けれども、神はその罪を霧のように吹き払い、贖ってくださいます。神は過ちを犯したご自分の民を裁かれますが、その後には神の契約どおり、彼らを再びカナンの地に帰ることができるようにしてくださいます。神はイザヤを通して予告します。「僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い、ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を再び興す」と(26節)。 私たちは神を忘れて生きることに傾きやすい者です。しかし、神は決してご自分の民を忘れない方です。神はいつも私たちをご自分の思いの中においてくださっています。 Mon, 16 Nov 2015 00:10:00 +0000 わたしのほかに救い主はない(イザヤ書 43章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151116 no 2015 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。 あなたたちがわたしの証人である、と 主は言われる。 わたしは神 今より後も、わたしこそ主。 (イザヤ書43章12節~13節) イザヤ書43章は、創造者であられる神が、民の救済者としてご自身を現しています。その第一声は「恐れるな」という言葉で始まります。あらゆる困難を通り過ぎる時も、この神が、いつも共にいてくださいます。共にいてくださる神によって、神の民は徹底的に守り抜かれます。 今や神の民は、単にイスラエルという一つの国の民だけではありません。神の恵みを受けた者たちが、東からも西からも、北からも南からも集められ、神の民に加えられます(5~7節)。ここに私たちは神の尽きることのない慈しみを発見することができます。神は御旨に従って、新しく造られた神の民のために、いつも彼らの王となり、ご自分の民のために、新しいことを行ってくださいます。このような祝福をいただいて、神の民は前進し(19、20節)、ついには、恵みによって、罪が完全に赦されます(25節)。 私たちは自分の過ちや罪悪にもかかわらず、神の赦しの恵みによって、神の子とされました。私たちの生き方は、まさに神の恵みによって始まり、神の恵みによって支えられ、救いの完成へと守り抜かれます。 Sun, 15 Nov 2015 00:10:00 +0000 まっすぐな人(詩編 112編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151115 no 2015 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る 憐れみに富み、情け深く、正しい光が。 (詩編112編4節) この詩も「いろは歌」の構造です。111編は主の御業を賛美するのに対し、112編では「主を畏れる人」の信仰を描いており、二つの詩は姉妹編と呼ばれます。 この詩では特に信仰者の心のあり方とその手の業が取り上げられます。心のあり方では「主を畏れ」、「戒めを深く愛」し、「まっすぐ」で、「憐れみに富み」、「情け深く」、「その心は、固く主に信頼している」と最上級のほめ言葉でたたえられます。それは信仰者の理想の姿を表しています。 この信仰者の心のあり方は行動となって具体的に現れます。「貸し与え」、「貧しい人々にはふるまい与え」ています。そしてこの言行一致の生き方は主によって報いられます。「子孫はこの地で勇士となり」、「多くの富があり」、「記憶され」、「敵を支配」し、「栄光に輝く」。 現代の複雑な、また多様な価値観の中に生きる私たちは、このようにまっすぐな、素朴な信仰を忘れがちです。それを見越したかのようにコヘレトは語ります。「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」(コヘ7章29節)。 Sat, 14 Nov 2015 00:10:00 +0000 励ましを必要とする教会(使徒言行録 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151114 no 2015 数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」 (使徒言行録15章36節) パウロは、第二回の伝道旅行に出かけます。しかし、パウロは、新しいところに宣教に向かったのではありません。前回出掛けて行って伝道してきた場所をもう一度訪問して、そこにある諸教会を力づけるためでした。さらにパウロはこの後、第三回の伝道旅行にも出かけ、自分が教会に赴けない時には手紙を書いて送りました。 パウロが伝道者としての生涯を主として費やしたのは、新しい教会を開拓する働きのためばかりではありません。既に建てられている教会を励まし、牧し、維持するためでもありました。 新しい教会の開拓も大切です。しかし、教会を維持することも同じくらい大切です。一度信じ、福音を受け入れて始まる信仰生活は、神の前にいつも立ち続けることで維持されます。それには、毎週、さらに毎日、御言葉に触れ、悔い改めるべきを悔い改めることが重要です。継続的な信仰生活を送ることで、神の愛の深みを知り、希望と恵みを大きくしていただくことができます。 今朝、御言葉と出会うそのときが、新しい一歩となりますように。 Fri, 13 Nov 2015 00:10:00 +0000 教会を建て上げる伝道(使徒言行録 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151113 no 2015 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。 (使徒言行録14章27節) パウロとバルナバは、迫害にさらされながらも、ユダヤ人以外の異邦人の地に出向いて、福音を宣べ伝えました。そして、それぞれの地に教会を建て、そこに複数の長老たちを立てました。 パウロとバルナバは、長老たちを主に委ねて、出発地であるアンティオキアに帰ってきました。そしてすぐに、神が異邦人にも信仰の門を開いてくださったことを報告しました。淡々と語られていることですが、福音の鮮やかな広がりがここに実現していました。 今日の私たちは、このとき異邦人へと開かれた信仰の門によって、信仰にあずかっています。主イエスが打ち建てられた救いは、他の宗教を信じる異邦の地にも、その隔たりを乗り越えて、その地にいる救いを必要としている人々に届き、信仰者を生み出します。しかもその一連の宣教の業は、信仰者たちの歩みを通して、諸教会が建てられることを通して届けられます。 伝道して何をするかが、シンプルにここから見えてきます。信徒の群れなる教会を建て、そこに長老を立てる。この地に教会があるのは、神の業が行われた印です。 Thu, 12 Nov 2015 00:10:00 +0000 神の恵みにしがみつく(使徒言行録 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151112 no 2015 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 (使徒言行録13章43節) 「神の恵みの下に生き続けるように」という言葉は、「神の恵みにしがみつく」とも訳せる言葉です。聖霊によって宣教へと送り出されたパウロとバルナバは、信じた人々におめでとうと言ったのではなく、「神の恵みにしがみつきなさい」と強く促しました。握りしめる親の手を子どもが握り返すように、神の恵みにしがみつくのです。 パウロとバルナバは、救いの安楽椅子に座っているのでなく、迫害に直面しながら宣教しました。彼らは迫害や試練の中で神の恵みにしがみつきました。しがみつける恵みが、彼らの目の前にいつもありました。 信仰者は、どのような状況にあろうと、自分は神の恵みの下にいると確信します。そして、他の何者によってでもなく、神の恵みによってこそ生きるのだと決意します。他のものの下でなく、神にひたすらしがみつくことが、信仰者の生き方です。 私たちは、他のものに依り頼んで生きよという誘惑を絶えず受け、その声にさらされています。恵みに依り頼んで生きることは戦いであり、集中力と祈りが必要です。そのような私たちに「神の恵みにしがみつく」力が、今日も豊かに与えられますように。 Wed, 11 Nov 2015 00:10:00 +0000 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を(イザヤ書 42章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151111 no 2015 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。 民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。 (イザヤ書42章6節) 神はご自分の民に望みの光を与えられます。ご自分の契約どおり、世のすべての民が神の祝福を受け、その祝福によって生きることができるようにと、一人の人物をお選びになりました。その人物は神の僕、神が喜び迎える者です(1節)。神はご自身が選ばれた僕を用い、その僕を通して救いの御計画を成し遂げられます。 この僕を遣わすお方は、天地をお造りになった主なる神です。創造の冠として人をお造りになり、人に命の息を吹き込まれたお方です(5節)。神が成し遂げようとしておられる救いの御業は、まさに新たな創造の御業とも言うことができます。その救いの御業のために遣わされる神の僕は、「民の契約、諸国の光として」、「闇に住む人をその牢獄から救い出す」任務が与えられています(6、7節)。 この僕が遣わされていくイスラエルの民の心はかたくなです。神との約束を破り、そのために懲らしめを受けても、まだ自分の罪を悟りません。罪の世界は深い闇です。けれども、この僕は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(3節)、任務を遂行します。ここに私たちの救いの希望があります。 Tue, 10 Nov 2015 00:10:00 +0000 わたしはあなたと共にいる神(イザヤ書 41章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151110 no 2015 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。 (イザヤ書41章10節) キュロスは紀元前539年にバビロンを征服します。当時、彼は諸国の王たちを屈服させました。またバビロンに捕囚となったユダヤ人たちを、本国に帰還させたのもこのキュロスです。このことはイザヤの預言の成就です(45章参照)。 ここで大切なことは、その時代の誰がキュロスを登場させたのかということです(4節)。それは、主なる神にほかなりません。私たちは、歴史の中で働かれる主権的な神にいつも期待し、仰ぎ見なければなりません。歴史を導くのは、その時代の神々や王たちではありません。私たちの主だけが主権をもって歴史を導かれるお方です。 神の主権は、この世的には何の価値もないイスラエルの民を守って救い出します。そこにこそ、神の主権の偉大さが現れています。また、神はイスラエルの民を新しい地で生きるようにと、主権をもって導かれます。歴史の中でご自分の民を救う神の主権こそ完全です。 主権を持ったこの神が、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」と呼びかけてくださいます。主権をもって働かれるお方が共にいてくださるので、私たちの慰めと希望は絶えることがありません。 Mon, 09 Nov 2015 00:10:00 +0000 究めがたい英知の神に望みをおく人(イザヤ書 40章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151109 no 2015 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。 (イザヤ書40章31節) 主を信じる人は、信仰によって喜びをもって生きています。来るべき救い主に対する望みがあるからです。けれども、時には疲れを覚え、この世での苦労から、確信を失いかけることがあります。 イザヤは捕囚の苦しみを体験し、戸惑う神の民にこのように告げました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と。 主に望みをおくためには、主なる神がどのようなお方かを正しく知る必要があります。私たちの神はとこしえにいます神であり、地の果てに及ぶすべてのものの造り主です。主ご自身、疲れるお方ではなく、究めがたい英知を持った神です(28節)。信仰者が絶望するのは、究めがたい神の英知を低く見積もるからです。神こそ私たちのすべてをご存じです。 私たちは神に望みをおいて生きる者です(31節)。主なる神を仰ぐことは私たちの生きる力です。望みを失いかけるときにこそ、目を高く上げ、究めがたい英知の神に期待して信仰の歩みを進めます。 Sun, 08 Nov 2015 00:10:00 +0000 主の御業を見よ(詩編 111編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151108 no 2015 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 (詩編111編2節) この詩は、表題にあるとおり、ヘブライ語のアルファベット22文字を、各行の頭に用いる「いろは歌」の構造です。1節「ハレルヤ」の「ハレル」は「ほめたたえよ」、「ヤ」は「ヤハウェ」の短縮形です。 この詩には「御業」という言葉が5回繰り返されます。原文では単数形の「彼の働き」と、4回登場する「彼のもろもろの業」で、これが3種類の言葉で表現されます。神のなさったすばらしい業を見るだけでなく、それを積極的に尋ね求めることが勧められています。 神の御業とは天地創造から、人間の歴史を導いておられる摂理まですべてです。その中で詩人は、神と信仰者との関係に焦点を定めています。信仰者は「それを愛する人」、「主を畏れる人」、「御自分の民」と呼ばれます。神は「御自分の民」に嗣業をお与えになり(6節)、贖いを送る方です(9節)。それは神が私たちとの間に立てられた「契約」があるからです(5、9節)。 従って私たちは、契約に忠実なお方の前に、心をつくして主の御業を尋ね求め、心に記し、命令に従い、畏れ敬い、賛美をささげるのです。 Sat, 07 Nov 2015 00:10:00 +0000 教会は一つ(ガラテヤの信徒への手紙 6章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151107 no 2015 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。 (ガラテヤの信徒への手紙6章18節) 「わたしたちの主イエス・キリスト」という言い方は、この手紙の中では6章にのみ出てきます(14、18節)。 「わたしたちの主イエス・キリスト」は、割礼のあるパウロから割礼のないガラテヤ教会の人びとへの呼びかけの中で語られています。さらにもう一つ。同じ文脈でパウロは、ガラテヤ教会の人びとに対して、「兄弟たち」とも呼びかけています。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(15節)。パウロは、イエス・キリストは分け隔てなさることなく、新しく創造された私たちの主なのだ、と言っています。 現代の日本の私たちには、ユダヤ律法主義の偽教師問題(割礼問題)というものは存在しないでしょう。しかし、パウロがガラテヤ教会の人びとに願ったことは、神が私たちに願っておられることと同じです。私たちは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」(14節)だけを誇ります。そのとき、兄弟姉妹間を分け隔てる壁が取り除かれ、「神のイスラエル」(16節)としての、すなわち唯一の公同の教会としての一致を保つことができるのです。 Fri, 06 Nov 2015 00:10:00 +0000 愛と自由(ガラテヤの信徒への手紙 5章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151106 no 2015 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 (ガラテヤの信徒への手紙5章13節~14節) 愛と自由は、密接な関係にあり、切り離すことはできません。親と子の関係であっても、愛を押しつけることはできません。ここに愛する苦しさがあります。愛を受け取るように強要することも、愛を引き出すために何らかの力を用いることもできません。 愛を育む自由には、社会的な側面もあります。昔なら身分の差が、今日でも民族的な偏見や経済的な格差が、愛の自然な発露を妨げることがあります。真実の愛が社会を包むために、自由で平等な社会の構築が必要です。この自由を保障することは、国家の責務であり、キリスト者の祈りです。 まず神が私たちを愛してくださり、御子キリストの十字架によって、律法の呪いからの自由を私たちに得させてくださいました。この自由を与えられた私たちは、自己中心的に生きるのではなく、「愛によって互いに仕え」なければなりません。これは、教会が教えるべきことです。 「自由を得るために召し出された」ことへの感謝と喜びが、隣人のために喜んで奉仕する人を造り上げ、隣人のために喜んで奉仕する人を、世へ、国へ、と送り出します。 Thu, 05 Nov 2015 00:10:00 +0000 あなたがたのことが心配です(ガラテヤの信徒への手紙 4章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151105 no 2015 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。 (ガラテヤの信徒への手紙4章9節、11節) 未成年者が、遺産相続の権利を持っていても、実際に遺産を手にするのは大人になってからです。ガラテヤ教会員は、霊的な意味で、神の国を相続できる大人です。しかし、彼らは、その祝福を享受しようとせず、「あの無力で頼りにならない支配する諸霊」と呼ばれているこの世の思想の一つ(律法主義)に「逆戻り」しようとしていました。 パウロは、彼らは遺産相続をすることができない未成年者だと勘違いしている、と嘆いています。彼らの態度は、命の代価を払って贖い出してくださった方に恩を仇で返すことであり、反逆であると言えます。「わたしの子供たち」と呼びかけるパウロは、「あなたがたのことが心配です」と語り、「途方に暮れてい」ます(20節)。 彼らは、パウロの心を察することができたでしょうか。御子を遣わしてくださり、御子の霊をお与えくださり、自分たちを相続人としてくださった父の御心を察することができたでしょうか。 父なる神は、私たちにも「あなたがたのことが心配です」と、多くの人を通して語りかけ、なおも招き続けていてくださいます。 Wed, 04 Nov 2015 00:10:00 +0000 エルサレムの裁きと未来の救い(ゼファニヤ書 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151104 no 2015 「お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。 主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」 (ゼファニヤ書3章17節) 本章は災いと裁きの前半部と、救いと賛美の後半部が対照になっています。預言者ゼファニヤは、先ず「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は」と指摘して(1節)、エルサレムの代表的な三つの罪、すなわち、反逆、汚れ、暴虐を取り上げます。神の恐ろしい警告にもかかわらず、エルサレムは悪を行い、また腐敗と罪のゆえに結局神の裁きを招いてしまいます。悔い改めない人の結末は明らかです。イエス・キリストの贖いの恵みを拒む人に対する神の裁きも同じです。 しかし、神は全能者で王の王として存在されます。神はユダの残りの者に救いを与え、その国を回復されます。それゆえ、救われたユダは心の底から喜び躍ります。同時に、神の救いはユダだけでなく、諸国にも広がります。神がユダの残りの者のゆえに喜び楽しまれる理由はここにあります。 このようにゼファニヤは将来メシアを通して成し遂げられる救いを見上げつつ、慰めと希望に満ち溢れています。全能なる神は、キリストによって救われた私たちのゆえに喜び楽しまれます。 Tue, 03 Nov 2015 00:10:00 +0000 ユダへの悔い改めと異邦人に対する裁き(ゼファニヤ書 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151103 no 2015 主を求めよ。 主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた この地のすべての人々よ 恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。 主の怒りの日に あるいは、身を守られるであろう。 (ゼファニヤ書2章3節) 「主の日」は裁きの日、怒りの日として、神の正義が明らかになる日です。罪を徹底して裁くのが神の正義です。そこで、預言者ゼファニヤは、「共に集まれ、集まれ、恥を知らぬ国よ」(1節)と呼びかけつつ、「主を求めよ。…恵みの業を求めよ」と悔い改めを促しています。 特に、ゼファニヤの「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ」(3節、口語訳)という表現に注目する必要があります。悔い改めて神に立ち帰る人は、神の御前に謙遜な人です。神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになります。洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マコ1章4節)理由もここにあります。 それからゼファニヤは、ユダの周辺の代表的な国々、すなわち、ペリシテ、モアブとアンモン、クシュ、アッシリアに対して裁きを語ります。これらの国の人々がユダの滅亡をあざ笑い、神を無視し、高慢に振る舞ったからです。異邦人もまた主の前にひれ伏す時が到来します(11節)。神の裁きと救いの御業は、全世界におよび、「キリストの再臨」によって明らかになります。 Mon, 02 Nov 2015 00:10:00 +0000 ユダに対する裁き(ゼファニヤ書 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151102 no 2015 主の大いなる日は近づいている。 極めて速やかに近づいている。 聞け、主の日にあがる声を。 その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。 (ゼファニヤ書1章14節) 旧約の他の預言書のように、本書は1章で裁きを、2章で悔い改めを、3章で救いを語るというパターンを見せてくれます。ゼファニヤは、ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に活動した預言者です。その時、ユダの国とその民は、マナセとアモン(王下21章)の悪影響によって、さまざまな偶像崇拝と罪に陥っていました。ゼファニヤは、その民に、「主の日」が近づいていると警告しつつ、悔い改めを促しています。 それゆえ、ゼファニヤは本書の最初からユダとエルサレムに対する神の徹底した裁きを予告します。神の裁きの対象は、偶像崇拝者、その祭司たち、天の万象を拝む者、主に背を向ける人です。それから預言者は、その裁きの明白性と緊急性を強調します。「主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている」と。民が思うよりも神の裁きは近づいていました。 神は罪を憎まれるだけでなく、徹底して裁かれるお方です。キリストの最後の審判は近づいています。しかし、罪を悔い改めてキリストに結ばれている私たちは安全です。キリストへの信仰こそ、救いにつながるからです。 Sun, 01 Nov 2015 00:10:00 +0000 メシア預言(詩編 110編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151101 no 2015 わが主に賜った主の御言葉。 「わたしの右の座に就くがよい。」 (詩編110編1節) この詩は、王の即位式において歌われた式文と解釈されます。宮廷詩人は「わが主」である王に向かって、「主(ヤハウェ)が語られる。主の右の座にあなたは座るのだ」と、最大級の褒め言葉をもって王を称えています。 ダビデは偉大な王でしたが、主の右に座ることなどできませんでした。イスラエル・ユダの歴代の王も同様です。神の右の座に着座されたのはイエス・キリストだけです。従ってこの詩は、旧約聖書における最高のメシア預言の一つとなりました。 主イエスは言われます。「どうしてメシアがダビデの子なのか」(マコ12章37節他)。ユダヤ人たちはメシア(救い主)を待ち望んでいましたが、そのメシアとは武力によって敵を打ち破ってくれる軍事的解放者だと考えていました。主イエスは、メシアは人間ではない、神の子だ、と教えられました。 メシアは「とこしえの祭司」(4節)です。従って異教徒との戦争などありえません。戦いはヤハウェが身を乗り出すように、自ら「諸王を撃たれる」(5節)のです。それは悪の諸勢力が完全に滅ぼされる最後の戦いの日です。 Sat, 31 Oct 2015 00:10:00 +0000 “霊”によって歩み続ける(ガラテヤの信徒への手紙 3章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151031 no 2015 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あなたがたに、“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 (ガラテヤの信徒への手紙3章3節、5節) 5節の「授け」「行われる」という言葉は、現在形です。ガラテヤの教会で奇跡が実際に行われていたのでしょう。その前提でお話しします。 ガラテヤ教会の人びとは福音を聞いて、福音を信じたので、ただそのことによって、信仰によって、聖霊が与えられました。たとえ、ガラテヤ教会の人びとの信仰の状態が、律法主義を主張するユダヤ的キリスト者たちに混乱させられ、「肉によって仕上げようとする」ほど悪くなったときでさえ、神は、ガラテヤの教会へ、聖霊を注ぎ続け、奇跡を行い続けていてくださいました。 そのとき、彼らは勘違いしたのかもしれません。「もっと律法を守れば、そして割礼を受ければ、ユダヤ人のようになれば、聖霊は、もっと働いてくださるに違いない」と。神の恵みと憐れみの印である聖霊と奇跡を、立派な行いに対するご褒美のように思ってしまったのです。 主を誉め讃える言葉を授けてくださる聖霊は、今日も私たちに豊かに注がれています。これは、神からの約束によるものです。私たちは、主に感謝し、”霊”によって心から賛美を献げます。 Fri, 30 Oct 2015 00:10:00 +0000 わたしの主イエス(ガラテヤの信徒への手紙 2章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151030 no 2015 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 (ガラテヤの信徒への手紙2章20節) 「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」。これは、他者に教理を教えている言葉ではありません。キリストと共に死んでキリストと共に生きる人生に造り変えられたパウロが神に献げている信仰告白です。ここで告白されているのは、神とパウロ個人との縦の関係です。 前の段落(11~14節)では、パウロは、兄弟姉妹との一致と交わりを覚えつつ福音の真理を語っていました。パウロは兄弟姉妹との横の関係をも非常に大事にしていた人なのです。ですから、パウロは、「わたしたちを愛し、わたしたちのために」と語ることもできたはずです。そのパウロが、あえて、「わたしを愛し、わたしのために」と「わたし」を強調していることは、注目に値します。 「わたしが今、肉において生きている」とも書いてあります。肉のゆえの痛み、苦しみを伴う毎日です。このような日々の中、「キリストがわたしの内に生きておられる」とパウロは語ります。 「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた」主イエスが、わたしの内に今生きておられるので、わたしは、きょうも、肉において主と共に、主のために生きることができます。 Thu, 29 Oct 2015 00:10:00 +0000 キリストの僕(ガラテヤの信徒への手紙 1章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151029 no 2015 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 (ガラテヤの信徒への手紙1章10節) 「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか」とパウロが言っているのは、人からの評価を受けたいという思いが、もう今ではパウロにはないからです。 ここで、パウロは昔の自分と対比する中で「今では」と語っている、と私は理解します。昔、ユダヤ律法主義者だった頃の彼は、教会を迫害し、次々とクリスチャンを捕まえて牢屋に送り込み、多くのユダヤ人たちから気に入られて、きっとすばらしい評価を受けていたことでしょう。そして、人から評価される自分の立派な働きを誇りながら、「もっと立派な働きをして、もっと評価を受けよう」と思っていたことでしょう。しかし、「もし、今なお」そんな思いを持っているとしたら、彼は「キリストの僕」とは言えないところでした。 キリストの僕とは、自分の立派な行いに目を留める者ではなく、キリストがなされた業に目を留める者です。まことの福音に生きる者は、自分ではなく、神がほめたたえられることを求める、そういうしるしを帯びるのです。 私たちはキリストの僕。神こそ、すばらしいと告白する幸いへ招かれた者たちです。 Wed, 28 Oct 2015 00:10:00 +0000 過失からの回復(サムエル記下 24章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151028 no 2015 「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。」 (サムエル記下24章10節) ダビデは人口調査をします。歴史を見ても、国家が安定するとき、あるいは安定を求めるとき、権力者は国家の力を調べます。人口調査は課税のため、兵士の徴募のために必要とされます。ダビデの国も地上の国家である限り、周辺諸国家と同じように国家的行為をしたとしても、それを悪とすることはできません。しかし、ダビデの人口調査はダビデ自身を悩ませ、ダビデは神から懲罰の御告げを聞くことになるのです。 このような事態を招いた理由は知らされていませんが、なぜかを考えてみましょう。ダビデは、この国を経済と軍事で維持できるのだという思いに促されて、人工調査を行ったと考えてよいでしょう。頼るべきは神なのに、それ以外のものに信頼を置く。それは神の憎まれるところです。ダビデの国は決してそうであってはならなかったのです。力に頼ることへの悔い改めの後、疫病は止み、回復への道が開かれました。 治政の根本において信頼すべきは経済や軍事力ではなく神です。今日の政治家からすれば戯けた話かもしれませんが、そうなのです。 Tue, 27 Oct 2015 00:10:00 +0000 神の言葉とともに(サムエル記下 23章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151027 no 2015 主の霊はわたしのうちに語り 主の言葉はわたしの舌の上にある。 (サムエル記下23章2節) ダビデはサムエルから油を注がれた時以来主の霊が降るようになりました(サム上16章13節)。 彼は預言者ではありませんが、しかし、誰よりも主の言葉を重んじた人物であったことは確実です。時に主の託宣を求めています(サム上23章2節など)。預言者の言葉にも耳を傾けています。ダビデほど、神の言葉に耳を傾けて人生を生きた人はいません。ダビデはその業績のゆえに後世のユダヤ人から賞賛されるのですが、それはイスラエル王国の統一者、あるいはイスラエルを強い国とした英雄だからというだけではありません。彼が多くの人の心を捉えて離さないのは、神の言葉への信頼と服従によります。そして、彼が御言葉に心服し得たのは、聖霊が常に彼と共にあったからです。聖霊が働かれなければ御言葉はむなしく響く、ただの音声と同じです。 聖霊に導かれながら、御言葉を決して軽んじなかったところにダビデの偉大さがあります。ダビデの生涯にはいつも御言葉がありました。時に励まされ、時に叱責され、その御言葉と共にあり続けた生涯の幸いを思います。 Mon, 26 Oct 2015 00:10:00 +0000 詩の心(サムエル記下 22章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151026 no 2015 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え 不法から救ってくださる方。 (サムエル記下22章2節~3節) サムエル記下22章には、感謝の歌が祈りの心でうたわれています。感謝を祈ることの大切さを覚えます。 ダビデはすぐれた詩人でした。ここだけではなく、詩編にはダビデの作とされるものが多く記されています。 私たちは、その言葉の一つひとつに感動を覚えるのですが、それは、ダビデの詩がただ芸術性に富んでいるからというわけではありません。その詩の言葉に、ダビデの、主に対する確固とした信頼を見いだすからです。信頼は、何ら疑いも、信仰的葛藤もない完璧な信心から出てくるものではありません。 ダビデの詩編には、感謝と共に、苦悩、嘆息、悲しみ、時には神に対する疑問を表現する言葉が満ちています。果たしてこの作者は神を信じているのかと問いたくなるような言葉も残しています。だからこそ私たちはダビデの詩に感動させられます。まったくの絶望状態に見舞われ、信と不信の境界線まで押しやられ、そこで神を信じると告白する、そのようなきわどさも珍しくありません。しかし、そこでこそ私たちの現実と共鳴し、主に対する信頼に新しく気付かされます。 Sun, 25 Oct 2015 00:10:00 +0000 復讐を求める心に救いを(詩編 109編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151025 no 2015 彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ 子らはみなしごとなり 妻はやもめとなるがよい。 (詩編109編8節~9節) 詩人は、相手の不幸を公然と祈っています。私たちは主イエスの「敵を愛せよ」という教え、パウロの「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という教えを知っていますから、この「復讐の詩編」を読むと戸惑ってしまいます。 これは詩人の言葉ではなく、詩人を攻撃している敵の言葉なのだとして、この問題を避けようとする解釈、方法もあります。また新共同訳聖書は8~20節を一段下げて編集し、「主はこのように報いられる」と、主の報復の具体的描写として理解しようとしました。 しかし詩人は赤裸々に、復讐を求める自分の心をさらけ出しているのです。しかし同時に、そのような自分の惨めさを自覚しています。「わたしを助けてください」(21節)という祈りは、「わたしは人間の恥」だ(25節)という罪の自覚のゆえです。 復讐したくなるわたしの心を、人にではなく神にさらけ出してよいのです。自らの復讐心を含めすべてを神に明け渡してしまいましょう。人がわたしを呪うことがあっても、神はわたしを祝福してくださいます。そのことを信じて神に祈ります。 Sat, 24 Oct 2015 00:10:00 +0000 主の復活を信じない弟子たち(マルコによる福音書 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151024 no 2015 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 (マルコによる福音書16章12節~13節) 私たちは、主イエスの復活が真実であることを心から信じます。それでは復活の意味とは何でしょうか。まず、主イエスは「力ある神の子と定められた」ことです(ロマ1章4節)。第二に、聖書の預言が成就されたことを証明します(詩16編10節)。第三に、主イエスを信じる人は復活することを保証します。第四に、イエスの復活は福音の中核の真理です(1コリ15章1~6節)。 主イエスは復活され、その姿を人びとに現されましたが、弟子たちは信じようとしませんでした。ルカはエマオへ向かっていた二人の弟子に現れた復活の主イエスについて詳しく記しました。二人がエルサレムに戻ってイエスの復活を伝えても、弟子たちは信じませんでした。 しかし彼らの前にご自分を現された主イエスの姿を見て、弟子たちははじめて復活の主を信じました。疑い深い弟子トマスも「わたしの主、わたしの神よ」とひざまずきました(ヨハ20章28節)。 主イエスは「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました(同29節)。見ないのに信じる私たち皆は、ほんとうに幸いな者です。 Fri, 23 Oct 2015 00:10:00 +0000 侮辱される救い主イエス(マルコによる福音書 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151023 no 2015 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 (マルコによる福音書15章19節~20節) 神から命じられたことに違犯したアダムの罪によって、人々は死に支配されるようになりました(ロマ5章14節)。しかし、神は第二のアダムである「キリストによってすべての人が生かされる」道を開いてくださいました(1コリ15章22節)。十字架の贖いの血による救いです。 その救いを得させるため、キリスト・イエスは惨たらしい受難を苦しまなければなりませんでした。十字架の死に至るまでのキリスト・イエスの受難と屈辱が私たちの罪のためであることをいつも心の中に刻んでいましょう。 15章には、主イエスの受難の御姿が生々しく描かれています。ピラトの尋問を受け、鞭打たれて十字架の死に引き渡される主イエス。ローマ兵士たちから酷く侮辱される主イエス。そして十字架の上につけられる主イエスの御姿です。 私たちは、常に十字架の上の主イエスを思い起こし、人間の罪深さへの悔い改めと救いの恵みへの賛美をささげなければなりません。心の中で片時も主イエスの十字架を消してはいけません。そこに、私たちの救い、その希望がはっきりと示されています。 Thu, 22 Oct 2015 00:10:00 +0000 神のまなざし(サムエル記下 21章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151022 no 2015 ダビデの世に、3年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」 (サムエル記下21章1節) ギブオン人はヨシュアの時代からイスラエルの民と共存してきました(ヨシュ9、10章)。ギブオン人は、ヨシュアに対し賢く立ちまわり、欺くかたちで平和協定を結ぶ約束を取りつけたのでした。 時代が下って、聖書に記されていませんが、サウル王は何らかの理由でギブオン人の大量殺害を企てたのです。ギブオン人はその犠牲になりました。そして、ダビデの治世のいつか書かれてありませんが、3年間飢饉に襲われます。その原因を託宣に求めたところ、かつてのサウルの殺戮が原因とされ、そのために、ギブオン人の求めでサウルの子孫が犠牲になります。このとき、ダビデはヨナタンの子メフィボシェトを差し出すことをためらい、同名の、サウルの子を替わりとします。 この一連の事件をどう受け止めるべきか、読者は戸惑うはずです。ダビデの行動を何でも肯定する必要はありません。背景にサウルの家が最後までイスラエル統一の妨げとなった事実があるのではないかと思います。 昔、キブオン人の悲しみに目を留めておられた神が、今も目を見開いてこの世の痛みをご覧になっておられます。 Wed, 21 Oct 2015 00:10:00 +0000 平和と葛藤(サムエル記下 20章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151021 no 2015 「わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。」 (サムエル記下20章19節) 北の10部族が構成するイスラエルと南部で力を持つユダとの葛藤は長く続いてきました。アブサロムの反乱も北のイスラエルの支持があったからです(15章10節)。 ここに記されるシェバの反逆も、ダビデ王の統一にもかかわらず、根強くあったイスラエルとユダの対立を物語っています。ヨアブがアブサロム軍の将軍であったアマサを殺害したのも、アマサの動員の遅延の理由として、イスラエルとの結びつきを疑ったからではないかと推測できます。 ダビデ王国はいつもこの分裂の危険性を含んでいました。シェバは「ならず者」に過ぎません。しかもベニヤミンの出身です(1節)。しかし、彼のまわりには、イスラエルの優秀な兵士が集まってきます(14節)。背景にはこの亀裂が反映しているでしょう。 一見して統一され、すべて調和しているようであっても、恐れと慎重さ、何よりも信仰が欠けているところでは、たとえ教会であっても内側に分裂の兆候をはらんでいます。そのことに、私たちは注意深くなって、なり過ぎることはありません。いつも神の憐れみのもとに一致を祈り求めましょう。 Tue, 20 Oct 2015 00:10:00 +0000 歴史の進展(サムエル記下 19章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151020 no 2015 ダビデは身を震わせ…言った。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」 (サムエル記下19章1節) アブサロムとの戦いが終わり、その後のさまざまな処置が記されます。勝利した者、敗北した者、それぞれの言動が記録されています。勝者のような姿ではないダビデ、それを叱責する将軍ヨアブ、アブサロム側に立った人たちの改悛、功労者バルジライの願いなどとさまざまです。 本来なら、この勝利によりダビデ王国の統一がなった、と記載されてもよかったのではないでしょうか。しかし、聖書は、勝利者ダビデを描くにまして、これまで延々とダビデ家の内情、つまり親子の対立に筆を注いできました。ダビデ家の負の側面を記す意図は何でしょうか。 その目的は、当然、ダビデの失敗談をただ記すことにあるのではありません。あくまでも神が導かれた神の民の歴史を記すことにあります。神は強い者、成功した者、賢い者を用いてその民の歴史を展開されますが、また弱い者、失敗する者、敗北者、不運と見なされている者をも用いて救いの歴史を推進していかれます。 今日も、神は神の国発展をさまざまな人々の人生を組み合わせて推し進められます。 Mon, 19 Oct 2015 00:10:00 +0000 悲哀と憐憫(サムエル記下 18章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151019 no 2015 兵士は言った。「出陣なさってはいけません。…しかしあなたは我々の1万人にも等しい方です。」 (サムエル記下18章3節) アブサロムは戦闘中、樫の木に頭がひっかかり、宙づりになったまま、ダビデの将軍ヨアブに殺害され、あっけなく死んでしまいます。アブサロムの反乱はこうして失敗し、鎮圧されることになります。 ダビデはこの戦闘には参加しませんでした。当時の戦争は、大将の首を取ることで決着しました。部下の兵士たちは、そのことをおもんばかって出陣を阻んだかのように記されています。しかし、実態はダビデに戦意がないと思ったからではないでしょうか。敵将の「アブサロムを手荒には扱わないでくれ」(5節)など、戦う相手の指導者が言うべき言葉ではありません。 しかし、正直なダビデの心情であったと思います。歴戦の勇士ダビデから見れば、アブサロムの戦術は児戯にも等しく見えたのではないでしょうか。ダビデが送ったフシャイの偽りの策にアブサロムが乗せられた時点で、敗北は明らかです。それだけに、ダビデは子アブサロムの運命を心配したはずです。 神の人ダビデのこのような悲哀と憐憫は、敗者を思いやる神の思いを映し出しているかもしれません。神は敗者であっても憐れむお方です。 Sun, 18 Oct 2015 00:10:00 +0000 曙を呼び覚ます(詩編 108編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151018 no 2015 神よ、わたしの心は確かです。 わたしは賛美の歌をうたいます。 「わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。 わたしは曙を呼び覚まそう。」 (詩編108編2節~3節) まだ暗い明け方、ベッドの中で目覚めます。あるすばらしいアイディアがひらめき、もう寝てはいられません。さんざん苦しんできた問題に、解決の道がありそうだと希望がわいてきた。詩人はそのような状況下だったのでしょうか。神を信頼し、「わたしは曙を呼び覚まそう」と言うのです。 普通は曙がわたしを呼び覚ますのです。詩人は神に賛美を歌わねば気がすまないほど興奮しています。そして古くから歌われてきた57編の後半を朗唱しました。 そして詩人は歴史を支配される摂理の神を思い起こしました。そうだ、今までわたしは自分の力でこの苦境を解決しなければと思っていたが、神の御手に守られているのだ。 この詩編の最後の部分は、60編の後半と同じです。これはイスラエルが敵に包囲され苦境にあるときに、神に助けを訴えた祈願の歌です。イスラエルの神は全民族を支配される神ではないか、それなら私たちの苦境をご存じだ。今こそ神は敵を踏みにじってくださる。 すべてが八方塞がりで絶望的なときこそ、神を信頼し、神を見上げましょう。 Sat, 17 Oct 2015 00:10:00 +0000 受難に向かって行かれるイエス(マルコによる福音書 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151017 no 2015 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 (マルコによる福音書14章41節~42節) 主イエスを殺そうとするユダヤ宗教指導者たちの計略は着々と進んでいきました。 14章は、十字架につけられる金曜日までの出来事を記しています。そこには、イスカリオテのユダの裏切り、イエスの逮捕、最高法院での尋問に至るまでの緊迫した状況が生々しく描かれています。 目の前に迫った受難に向かって、主イエスはオリーブ山にあるゲツセマネに行かれます。最後の祈りをささげられるためです。主イエスはペトロとヤコブ、ヨハネを近くに連れて行きました。三人は主イエスが苦しむのを見守るために呼び出された証人です。 ルカは苦しみもだえて切に祈る主イエスの姿を「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記しました。それほどまでに、苦しい時を主イエスは父なる神に向かい、祈り続けられました。主イエスのその祈りは、子として「畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブ5章7節)。主イエスは死を免れたのではありませんが、死からの復活という形で聞き入れられました。そうして、復活の主イエスは、私たちの永遠の救いの源となりました。 Fri, 16 Oct 2015 00:10:00 +0000 その時に備えなさい(マルコによる福音書 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151016 no 2015 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」 (マルコによる福音書13章32節~33節) 13章で主イエスは、エルサレム神殿の崩壊について預言され、ついに世の終末についての預言をされます。ペトロとヤコブ、ヨハネ、そしてアンデレが終末の徴について質問すると、主イエスはその徴について答えてくださいました。しかし、その終末がいつ来るかについては父なる神だけがご存じであると答えられ、終末は神の固有の権限であることをはっきりと示されました。確かに主の再臨に伴う終末がいつ来るか誰も知りません。多くの偽預言者が現れ、終末について預言しましたが、すべて外れてしまいました。 終末の日に備えて人間がやるべきことは、たえず目覚めていることだけです。目覚めていれば毎日が、毎時間が、再臨の主と出会う絶好のチャンスともなります。 37節で「すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」と命じられた主イエスの言葉を最後に、受難の物語が始まります。主を信じる私たちにとっての終末は、主の十字架、復活、昇天に基礎づけられています。終末は世の終わりではなく、既に始まっている永遠の命の完成です。怖がることも、拒むこともありません。 Thu, 15 Oct 2015 00:10:00 +0000 人間の思いを超えて(サムエル記下 17章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151015 no 2015 アブサロムも、どのイスラエル人も、アルキ人フシャイの提案がアヒトフェルの提案にまさると思った。アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである。 (サムエル記下17章14節) フシャイがエルサレムに戻った目的はアヒトフェルの計略を阻止するためでした。ダビデがフシャイに託した計画は見事に功を奏するようになってきます。 逃亡したダビデをどうするか。アヒトフェルの提案はダビデをすぐに襲うことでした。夜襲をかければダビデたちは虚をつかれ敗走するに違いありません。しかし、次に呼ばれたフシャイは、ダビデはそのような策を必ず見抜くはずだ、むしろ、大軍を率いて正面から攻撃すべきだと主張します。むろん、大軍を集めるためには時間がかかります。その間、ダビデは十分な準備をすることができます。それこそフシャイの策略でした。アヒトフェルはダビデ王を助けようとするフシャイの意図を読み取ったに違いありません。そして、フシャイの策の結果も分かっていたはずです。アヒトフェルこそ先を見通すことができるほんとうの戦略家、「軍師」でした。しかし、その意見は採用されませんでした。そこに、主の定めがあったことをサムエル記は記しています。 様々な人間の思いを越えて、主が定められたことこそが成し遂げられていきます。 Wed, 14 Oct 2015 00:10:00 +0000 苦悩の中で(サムエル記下 16章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151014 no 2015 「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 (サムエル記下16章12節) アブサロムがエルサレムで勝利を宣言している間、ダビデは逃亡を余儀なくされます。その時、ダビデは、若いころ、サウル王に命を狙われて荒れ野を逃亡した経験を思い出していたかもしれません。 しかし、今回のほうがより深刻であったに違いありません。かつて親しいものであった人たちが裏切り、しかもダビデを呪いました。あるいは、王宮に残したダビデの側女をアブサロムは自分の自由にします。これはダビデに代わってアブサロムが権威を掌握したことを公然と示すものでした。このような屈辱をダビデは経験したことがありません。目に見えているところで起きていることは悲観的なことばかりです。ダビデは、サウル家の一族であったシムイの呪詛に対して弱気とも受け止められる言動で応じています。ダビデのこのような態度は失望と敗北感で満たされていたと考えても不思議ではありません。 しかし、そうであったでしょうか。ダビデは、今の呪いを幸いへと変える神の意志を決してあきらめていません。私たちも人々から敗北と挫折の中にあると思われても、神の意志に信頼します。 Tue, 13 Oct 2015 00:10:00 +0000 本当の力(サムエル記下 15章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151013 no 2015 「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。」 (サムエル記下15章25節) 再びダビデに会うことがゆるされたアブサロムでしたが、やがてそのダビデの王位を狙うようになります。放っておいても彼は王となる器量があった人かもしれません。しかし、ダビデから王位を奪うことで、王になろうとします。そして、彼が40歳のとき、ついにその思いを実行に移し(7節)、ヘブロンで反抗の狼煙を上げます。最初は少数でしたが、徐々にアブサロムを支持する人々が増加していきます。 これを聞いたダビデはアブサロムに抵抗もせず、あっさりとエルサレムを脱出していきます。彼に従って行こうとする者をエルサレムに帰したりもします。これではまともにアブサロムの攻撃を撥ね除けることはできません。ここに、若いころのような勇敢さでもって、正面から敵と戦うダビデの姿はありません。むしろ、アブサロムの家臣団を混乱させるという戦術を取ります。 このようなダビデの行動を見ればアブサロムがわざわざ暴挙に出る必要はなかったかのように思われます。しかし、力は腕の力、暴力だけではありません。一見姑息のようであってもダビデは実は忍耐する力を蓄えていたのです。 Mon, 12 Oct 2015 00:10:00 +0000 ゆるされるべきもの(サムエル記下 14章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151012 no 2015 「わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます。」 (サムエル記下14章14節) 兄弟を殺害したアブサロムはその罪を精算するかのように外国に逃亡します。しかし、ダビデはアブサロムを愛しており、その帰国を願っていました。しかし、逡巡もしていました。アブサロムの罪は、カインによるアベル殺害を思い起こさせる悲劇であり、ダビデの家の恥辱であったからです。 ダビデの信頼する家臣ヨアブは、ダビデの内なる心をつかみ、計略を立てます。テコアの女を呼び、その口から、アブサロムを許すように導く言葉を語らせます。見事、この計画は成功し、アブサロムはエルサレムに戻ってくることになります。 ところが、アブサロムは父ダビデ王のもとに行こうとしません。何故行かなかったのか。「わたしの前に出てはならない」(24節)といったダビデの言葉を文字通りに受け取ったために、父親の本意を掴めなかったからです。さらにいえば、子を愛する父ダビデの思いを理解できなかったからです。アブサロムは自らを低くして父の憐れみによりすがるべきでした。神の愛を理解して立ち帰る者のように。私たちは日々、神の愛を求め、立ち帰り続ける者でありましょう。 Sun, 11 Oct 2015 00:10:00 +0000 慈しみ深い主(詩編 107編) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151011 no 2015 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。 (詩編107:6,参照13,19,28節) 主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 (詩編107:8,15,21,31節) (詩編107編6節、8節他) 詩編第5巻最初の107編は神賛美で始まります。 神は私たちの具体的なこの世の人生のただ中に来られ、苦しみから救ってくださいます。このことを詩人は四人の異なる人生を登場させて詠います。荒れ野や砂漠で迷う流浪の民。闇と死の陰に座り、鉄の枷に締めつけられる囚人。どんな食べ物も喉を通らない病人。嵐と大波に翻弄される船乗りです。どのような立場の人にも神の慈しみの目は注がれ、人の目には驚くような方法で、神は私たちを「苦しみから救ってくださ」います。 神は、大自然に御手をのばし、山河を起こしまた消滅させ、農地を祝福してこれを潤わせ、また怒りによってこれを塩地にされます。神は義人に祝福を、不義な者には災いをのぞませます。 ハイデルベルク信仰問答27を見てみましょう。問「神の摂理について、あなたは何を理解していますか。」答「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、…支配し、…すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。」 Sat, 10 Oct 2015 00:10:00 +0000 神のものは神に返す(マルコによる福音書 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151010 no 2015 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。 (マルコによる福音書12章16節~17節) 12章には11章27節から始まる主イエスと宗教指導者たちとのいろいろな問答が記されています。この一連の論争によって主イエスへの彼らの反感と憎しみが深まります。 ここで、宗教指導者たちはファリサイ派とヘロデ派を遣わし、主イエスの言葉じりをとらえるための罠を仕掛けます。繊細な政治的問題を絡めた質問をもってです。 それはローマ皇帝に税金を納めるのが正しいかどうかという質問でした。主イエスが、もし納めなくてもよいと答えれば、ローマ帝国から反逆者として処刑されることになります。また、納めなさいと答えれば、今度はユダヤ人から酷いバッシングがあるはずです。しかし彼らの下心を見抜いた主イエスは、デナリオン銀貨一枚をもって、教えられます。神のものは神にと。 人間には神の像が刻まれています。人間は神のものです。わたしも神のものです。大切なことは、そのわたしが何をするにしても、根本的に神のものとして神の愛に生きることです。自らを神にお献げする生き方において、皇帝に、社会に貢献する在り方も開かれていきます。 Fri, 09 Oct 2015 00:10:00 +0000 主イエスの後に従う群れ(マルコによる福音書 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151009 no 2015 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。 「ホサナ。 主の名によって来られる方に、 祝福があるように。 我らの父ダビデの来るべき国に、 祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」 (マルコによる福音書11章9節~10節) 「ホサナ」はヘブライ語で、「私たちをお救いください」という意味です。困難な状況からの助けを求める祈りの言葉として用いられます(詩118編25節)。 主イエスがエルサレムに入城されたとき、多くの人びとは一斉に「ホサナ」と叫びました。そして主イエスが通られる道に自分の服や葉の付いた枝を敷きました。主イエスが自分たちを苦しみから救い出すメシアであることを信じたからです。 しかし、彼らが期待したのはイスラエルを政治的に解放する王としてのメシアでした。彼らは、十字架に至るまで低きに下り僕となられた主イエスをどうしてもメシアと受け止めることはできませんでした。だから最後には「十字架につけろ」(15章13節)と叫んだのです。 きょうの場面は、ゼカリヤ書9章9、10節の実現です。主イエスはまさに真の平和の王となられるため、高ぶることなく、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。その主イエスを、群衆は、歓喜の中で迎え入れましたが、主はすべての人に裏切られました。最後まで主と共におられたのは、ただ父なる神だけでした。 Thu, 08 Oct 2015 00:10:00 +0000 憎しみの果て(サムエル記下 13章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151008 no 2015 その後、こういうことがあった。 そして、アムノンは激しい憎しみを彼女に覚えた。その憎しみは、彼女を愛したその愛よりも激しかった。 (サムエル記下13章1節、15節) まるで小説の題材になるようなことが、ダビデの子どもたちの間で起きました。 ダビデ家の長男アムノンは異母兄妹タマルに抱いていた強い恋心を、凌辱という行為をもって暴発させます。しかも、その結果、恋心を激しい憎しみへ変化させるという二重の辱めを、アムノンはタマルに強いました。 この記事から、ダビデの子どもに対する躾のまずさ、あるいはその遠因となった、ダビデの多妻に対する批判を読み取ることができるでしょうか。それらが、このような惨劇を生んだのだ、と。 ただし、古代国家において、王族が多くの妻妾を持ち、異なった母から生まれた兄妹が結婚する、それは珍しいことではありませんでした。非難されるべきは、アムノンが従兄弟の策略にそそのかされ(5節)、妹のタマルを欺き、欲望を満たしたこと、さらに目的を果たすとそのタマルを捨ててしまったことです。ここには人間を単なる欲望の対象としてしか見ず、自らの都合だけで生きる人間の身勝手さが浮き彫りになっています。この醜悪な事件は、その人間の罪の性質を暴露しているのです。 Wed, 07 Oct 2015 00:10:00 +0000 嘆きとその向こう(サムエル記下 12章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151007 no 2015 主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。 (サムエル記下12章24節~25節) この章は1節から25節を一気に読まなければなりません。預言者ナタンの叱責、ダビデの悔い改めと嘆き、その子の死と激しい悲しみ、そして、ソロモンの誕生。 ナタンの指摘によってダビデは密かに処理したと思っていた罪を暴かれます。その時、ようやく彼はどれほど深刻な罪を犯したかを自覚します。そのあと、彼が経験せざるを得なかったのは神の懲罰でした。不義の結果として生まれた子どもは死にます。このような悲劇的結果を迎えれば誰もが立ち直れない思いを味わうことでしょう。 ダビデは悔恨と嘆きのうちに追いやられます。そこで、たいていの人は神から離れていくものです。神はただ厳しい神、無慈悲な神でしかないと思うからです。しかし、ダビデは裁きを受け入れ、悔い改め続けます。ダビデの罪は容易に赦されるような生易しいものではありません。神はダビデを見捨て、滅ぼされても当然でした。しかし、神は憐れまれます。その証拠が、与えられた子供エディドヤ(主に愛された者)、すなわちソロモンでした。神は、ダビデとその家への愛を捨てられませんでした。 Tue, 06 Oct 2015 00:10:00 +0000 醜悪な本性(サムエル記下 11章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151006 no 2015 ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。 (サムエル記下11章27節) ダビデは全く欠陥のない聖人君子ではありません。 11章に記されるダビデの悪事は、他人の妻を奪うということだけではありません。バト・シェバとのよこしまな行為を隠そうと、ダビデは、その重大性を十分に自覚しないまま、計略によってバト・シェバの夫ウリヤを死に追いやります。それは、ダビデに対する彼の誠実さ、忠誠心を何より踏みにじるものでした。 なぜダビデがこのような罪を犯すことになったのか。聖書は何も語っていませんので、バト・シェバにも責任があると言い訳をしたり、責任をなすりつけ合ったりしても無意味です。ダビデのしたことは主の御心に適わない。その一言に集中する必要があります。 神の御心に適っているかどうか、それは難解な作業を必要としません。神の御心はいたって単純です。それを受け入れられないところに、人間の醜い本性があります。そして、その醜い本性は、私たち自身の問題でもあります。私たちもまた単純なはずの神の御心が見えないことがあります。神の赦しと憐みを求めて、祈り合いましょう。 Mon, 05 Oct 2015 00:10:00 +0000 曲解せずに(サムエル記下 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151005 no 2015 ダビデは、「ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ」と言って、使節を遣わして哀悼の意を表そうとした。 (サムエル記下10章2節) ここに登場するハヌンの父ナハシュは、サムエル記上11章1~11節に出てくるアンモン人の王であると言われています。そこにはサウルが王としてイスラエルの人々から推挙されるきっかけとなった出来事が記されます。 ダビデとナハシュの関係は聖書には記されていませんが、ダビデがイスラエルを統一する過程で、ナハシュはダビデと同盟関係を結んだのかもしれません。ダビデはナハシュから得た好意を忘れず、代わって王となったハヌンのために哀悼を示す使節を送ります。 しかし、それに対するアンモン人の仕打ちはまったくひどい扱いでした。ダビデの善意は曲解されます。その結果、イスラエルと、アンモン人とアンモン人に同調したアラム人連合軍との間で激しい戦闘が起こることになります。善意が善意として受け止められないこと、猜疑心、不信感、敵意はいつもあります。その結果は悲惨です。友情や信頼、同情などの感性に重きを置かないのはえてして世の常であるかもしれません。しかし、神の民はそうであってはならないのです。神の愛に生かされる民は隣人への愛にこそ重きを置きます。 Sun, 04 Oct 2015 00:10:00 +0000 自分を賢者と思い込んでいる者の愚かさ(箴言 26章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151004 no 2015 犬が自分の吐いたものに戻るように 愚か者は自分の愚かさを繰り返す。 自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。 彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。 (箴言26章11節~12節) 「愚か者」は箴言に49回出てきます。賢い者は愚かさを知っています。主イエスも両者の対比を用いられました(マタ7章24~27節)。 愚か者でも、犬が自分の吐いたものに戻るのを見ると、強い嫌悪感を抱くでしょう。しかし、愚か者は、愚かさを繰り返し一時的に悲しくなっても、愚かな自分を直視できず、繰り返さないようにする努力を厭います。 ペトロの手紙二には、「『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』…と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです」(2章22節)とあります。愚か者が自らの行為によって正体を現すとは、昔もペトロの時代にも、また今日にも当てはまるものです。愚か者を見抜くには、行動を見ればよい、ということです。 さらに、始末に負えないのは、「自分を賢者と思い込んでいる者」です。愚かなことをしても、自分を賢者だと見なしていますので、悔い改めることができません。エンドレスで愚かさを繰り返します。 自分の愚かさを知り、愚かさを繰り返したと嘆き、主に救いを求める者には、豊かな希望があります。 Sat, 03 Oct 2015 00:10:00 +0000 すべての人の僕になること(マルコによる福音書 10章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151003 no 2015 「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」 (マルコによる福音書10章43節~44節) 主イエスのこの言葉は、9章35~37節と同一の教えです。神の国には、世間一般の人が、偉くなるために追い求めるあり方とは正反対の原理があります。それは、主イエスのもとでは、すべての人に仕える「僕」こそが偉い者とされるということです。 「仕える者」と「僕」は、自分のすべての権利をあきらめ、ただ主人の指示に従わなければなりません。その指示に徹底的に服従する僕を主人(神)は祝福し、いちばん上になる者とされます。 使徒パウロは、「自分を無にして、僕の身分になり、…十字架の死に至るまで従順」だった主イエスのことを語っています(フィリ2章6~8節)。主イエスこそ、すべての人に仕える「僕」でした。それは父なる神の御旨に従って、自分の命を献げる使命を最後まで果たされたお姿、受難のお姿の中にはっきりとあらわされました。 私たちに示される主イエスの生き方は、私たちのそれとまったく同じではありません。私たちは弱い。しかし、主イエスの弟子になりたいと願う者は、十字架の道に従いながら、人々に仕える生き方を強く祈り求めて歩みます。 Fri, 02 Oct 2015 00:10:00 +0000 イエスをお遣わしになった方(マルコによる福音書 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151002 no 2015 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 (マルコによる福音書9章36節~37節) 弟子たちはカファルナウムに向かう路上、だれがいちばん偉いかと議論し合いました。また、主イエスの受難の予告についても、弟子たちは別々のことを考えていました。そこで主イエスは一人の子供を彼らの真ん中に立たせ、抱き上げられます。それは、天国の民になるためにはどうすればいいのかをその子供を通して教えるためでした。 当時のユダヤ社会では、子供は考え方や力が弱く、労役や戦争に役に立たないと思われていました。主イエスはその子供のような弱い者、未熟な者を受け入れるのは、わたしを受け入れることと同じであると言われました。それは主イエスへの信仰が最も小さい者、未熟な者に仕える形で表されなければならないことを弟子たちに教えるためでした。 主イエスは神の御旨により「かえって自分を無にして、僕の身分になり」(フィリ2章7節)この世に遣わされました。それを信じ、受け入れることは父なる神を受け入れることになります。私たちは、父なる神と子なる神との神秘的な関係の中へ、子供のような弱い者に仕えることを通して招かれています。 Thu, 01 Oct 2015 00:10:00 +0000 友情を忘れない(サムエル記下 9章) https://www.rcj.gr.jp/_rejoice_daily/detail.php?id=20151001 no 2015 「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。」 (サムエル記下9章7節) サウルの子ヨナタンは、ダビデを「自分自身のように愛し」ました(サム上18章3節)。その友情は、ダビデが生命の危険にさらされたときにも崩れ去ることはありませんでした。むしろ、父サウルの命令に背いてでもヨナタンはダビデを救おうとしました(サム上19章)。 当時の家父長制において、父親の権威が絶対的に重んじられていたことを考慮に入れるならば、その時のヨナタンの行動は常軌を逸しているといっても過言ではないほどでした。だからこそ、ダビデはヨナタンの友情を決して忘れることはありませんでした。ヨナタンの遺児を丁重に扱うことで、これに報いようとしたのです。 しかし、これは単なる恩義からではありません。ダビデはヨナタンとの親しい関係を通して神が働いておられるのを知っていたのです。そうして、ダビデはイスラエルの王とされ、神の救いの計画の担い手とされました。神はこのような人間関係を豊かに用いられます。神を信じるものが、身近にいる人との関係を軽んじることは、そこにおいて働かれる神の御業を損なうことにもなるのです。