「心の貧しい人の幸い」田村 英典(2018.07.29)

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心の貧しい人の幸い

田村 英典(タムラ ヒデノリ)

北神戸キリスト教会 引退牧師

日付
2018年07月29日
所属
北神戸キリスト教会 牧師(2018.07.29当時)
場所
北神戸キリスト教会 日曜朝の礼拝において
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
◆幸い
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。マタイによる福音書 5章1節~10節

 この教会におけます私の説教もいよいよ最後となりました。何を話そうかと色々考えましたが、先程お読みした、いわゆる山上の説教の冒頭にある<幸いの教え>の中の特に3節を取り上げることにしました。これこそ私たちの救い主、神の御子・主イエス・キリストが真先に語られ、従って、私たち信仰者に期待される最も大切なことだからです。

 最初に、全体的なことを確認しておきます。
 第一に、5:3~10でイエスは8種類の人に言及されます。つまり、イエスは8つの角度から、真(しん)に幸いな真(まこと)のクリスチャンの特徴をここで教えておられます。

 第二に、私たちはこれら8つを全て自分に当てはめるべきであり、幾つかだけが自分の内に見られることに満足してはなりません。

 第三に、これらの幸いは一時の心の平安などではなく、永遠者・絶対者なる神との関係における幸いであり、あくまで信仰を通して神が私たちに与えて下さる最高の幸せです。

 では、3節を見ます。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」

 教えられる第一点は、これこそ、私たちがイエス・キリストの僕(しもべ)として真先に身につけるべきものだということです。イエスによれば、これなしに人は天の国に入ることはできません。天の国は心の貧しい人のみ入れます。

 「心の」とあります。ギリシア語の原文では「霊において」となっています。この言葉は、エフェソ4:23で心の「底」と訳されています。心は心でも最も深い所です。「貧しい」と訳されているギリシア語は、乞食のような貧しさを指します。従って、「心の貧しい人」とは、「私は神の前で誇るものなど、何一つない全く無力な罪人だ」という自覚を徹底して持っている人を意味します。

 誰もが必ず迎える死の後、天国に入れて頂くためには、教養のあるなしや、人に認められる立派なことをしたかどうかなどは、問われません。しかし、心の底で、自分が自分をどう評価し、どう見ているかが問われます。そして、心の貧しい人、すなわち、自分の罪と不信仰を悲しみ、自分が霊的に真(まこと)に貧弱で、神の憐れみによらなければ自分には何も良いものはないことを徹底して自覚している真に謙(へりくだ)った人が、イエスの十字架の恵みによって義と認められ、幸いな天国の永住権を頂けるのです。

 イエスは、ルカ18:9以降で、自分は正しい人間だと自惚れて他人を見下している人々に譬を語られますが、13節の徴税人のような信仰者こそ、神の前に義とされ、天国に迎えられる心の貧しい人なのです。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんで下さい。』」(ルカ18:13)

 心の底で自分が自分をどう評価し見ているのか。これこそが、天国に入れるかどうかで、第一に問われます。またこのことで、真(まこと)のクリスチャンかそうでないかの違いもハッキリします。

 次に私たちは、心の貧しさという点で他人を評価することを忘れてはなりません。
 心の貧しいことは、この世で必ずしも歓迎されません。この世には、心の貧しさより、強さやユニークさを評価する傾向があります。問題は、こういう傾向が教会やクリスチャンにもしばしば見られることです。人を、その人の心の貧しさ、つまり、本当の意味での謙虚さで評価するのではなく、その人の学歴や学識、仕事の種類、仕事の実績、社会的地位、ユニークさや面白さで評価するクリスチャンも結構多く見られます。

 けれども、イエスによれば、神は人を決してユニークな個性や経歴で評価されません。神が真先に評価されるのは、自分の罪深さ、弱さ、小ささを主の御前にどれ程自覚しているかという心の貧しさです。従って、私たちも第一に心の貧しい人かどうかで他者を評価すべきことを教えられます。「この人こそ王になる人だ」と、つい外見だけで判断したサムエルに、神は言われました。Ⅰサムエル16:7「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 では、心の貧しさとは、もう少し具体的に言って、どういうことでしょうか。まず、どういうことでないかを見たいと思います。

 これは単に大人しいとか、勇気のないことや引っ込み思案で気弱なことではありません。イエスの言われる心の貧しさとは、ある人に生れつき備わっている性質や気質のことではありません。心が貧しいこと、悲しみ、柔和、義に飢え渇くことなどは、皆、人が悔い改めと信仰、つまり、回心によって霊的に生まれ変り、聖霊を通して新しく神から頂いた性質であり、神の恵みによるものです。

 無論、心が貧しいとは、やたら謙遜で慇懃(いんぎん)なことではありません。20世紀最大の説教者の一人と言われたマーティン・ロイドジョンズが、ある町の教会から説教を頼まれ、そこへ行った時のことを書いています。土曜日の夕方、列車でその町に着いた時、迎えに来ていた一人の男は殆ど力づくでロイドジョンズの手から鞄をもぎ取り、こう言いました。「私は、先生が明日説教をして下さる教会の執事でございます。ご覧の通り、私は名もない男に過ぎません。全く取るに足りない者です。どうでもいいような者でございます。教会でも大した人間ではありません。牧師先生の鞄持ちが私にピッタリでございます。」ロイドジョンズは「この人は、自分が心の貧しい人間であることを人に知ってもらおうというその心の故に、かえって自分が謙遜でないことを証明している」と言っています。その通りだと思います。

 また、心が貧しいとは、個性を抑圧することでもありません。

 では、どういう人が心貧しいのでしょうか。一番良い例は聖書に登場する人物です。出エジプト記3、4章を見ると分りますように、神の人モーセは、神が求めておられる任務に自分が全く相応しくなく、不十分なことをよく知っていましたので、こう言いました。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わし下さい。」(出エジプト4:13)
 ダビデは、彼自身をも含めて小さな私たち人間に神が素晴らしく豊かに恵みと祝福を下さるのを覚えて、こう歌いました。詩編8:5「あなたが御心に留めて下さるとは、人間は何ものなのでしょう。あなたが顧みて下さるとは。」
 神から預言者となる召しを受けた時、イザヤは神を恐れ、「私は汚れた唇の者」と言いました(イザヤ6:5)。
 エレミヤも召しを受けた時、「ああ、私が主なる神よ。私は語ることを知りません。私は若者に過ぎませんから」と恐れて答えました(エレミヤ1:6)。
 ペトロは元来積極的で自信に満ちた人でしたが、主イエスの真の姿に触れた時、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言って主の足許に平伏しました(ルカ5:8)。
 人も羨む豊かな才能に恵まれていたパウロも、イエスに出会って回心した後は、自分の力に一切頼らない真(しん)に心の貧しい人に変えられました。

 しかし、神の御子でありながら、人として世に来られた主イエスの内に、私たちは最高の模範を見ます。主は神でありながら、人として生きようとされました。その結果、「私は自分では何もできない」と言われた程でした(ヨハネ5:30)。「私は自分では何もできない。ただ天の父に依り頼んでいる。」そこで主は驚くばかり祈りの生活をされ、ことごとく天の父に祈り、天の父にご自分を明け渡し、依り頼まれました。

 心の貧しい人とは、神の前で自分を見つめ、徹底的に自分の小ささを知っている人です。また自分の生れつきの素質に信頼を置かず、自分がある家柄やある民族に属していることなどを決して誇りません。他人を見下げません。生れながらの立場や能力に依り頼みません。受けた教育や業績、また自分が誰と知り合いで、何を知っているかなどを誇りません。過去の体験を自慢げに語ることもしません。クリスチャンになった後のパウロにとって、そんなものはフィリピ3:8「塵あくた」(直訳「糞土」)でした。

 自分は何者でもなく、自分には本当は何もないことをよく知っており、ただ謙(へりくだ)りと従順をもって創り主なる神を仰ぎ、神の憐れみに徹底的に依り頼むこと。これがイエスの言われる心の貧しさです。そして、これには確かな約束が伴っています。すなわち、「天の国はその人達のものである!」「天の国がその人たちに与えられる」ではありません。「天の国はその人たちのものである!」です。何とすごい約束でしょうか。

 では、如何にして私たちは心の貧しい者になれるのでしょうか。第四にそれを見て終ります。
 それは人を見るのではなく、人の目で自分を評価するのでもなく、神を見つめ、自分の心を御言葉により徹底的に検討してみることです。そして、自分は自分をどう考えたいのか、自分を人にどう思わせようとしているのかをよく考えてみることです。特に、全ての人を、心の底にある隠れたことまで裁かれる神の前にいつか自分が立つ時のことを考えることです。すると、私たちは自分が如何に空っぽで、自分の力だけで造り出した良いものなど一つもないことを悟るでしょう。

 しかし、何より私たち罪人のために、神であられながら徹底して己を空しくして人となられた主イエス・キリストの謙りを、常に覚えたいと思います。その主の御前(みまえ)で、一体誰が高ぶることなど、できましょうか。

 その主イエスはラオディキアの教会にこう言われました。黙示録3:17「あなたは、『私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」私たちの内になお残る高慢で愚かな自尊心は、この主イエスの前で、恥じ入り、吹き飛んでしまうでしょう。

 が、その時こそ、愛と憐れみに満ち、限りなく柔和な私たちの救い主イエスは、次の御言葉を私たちに下さいます。イザヤ57:15「高く、崇められて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、謙る霊の人と共にあり、謙る霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

 「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
これを主イエスが、山上の説教の中で真先に言われたことの持つ重要性と素晴らしさは、どんなに強調してもし過ぎではありません。

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