「貧しいやもめの信仰」田村 英典(2018.07.22)

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貧しいやもめの信仰

田村 英典(タムラ ヒデノリ)

北神戸キリスト教会 引退牧師

日付
2018年07月22日
所属
北神戸キリスト教会 牧師(2018.07.22当時)
場所
北神戸キリスト教会 日曜朝の礼拝において
【新共同訳】
ルカ
20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」マタイによる福音書 20章45節~21章4節

 先程お読みしましたルカ20:45~21:4は、ユダヤ教指導者、特に律法学者たちに対するイエスの非難と、それとは対照的に一人のやもめの信仰をイエスがほめられたことを伝えます。北神戸における私の礼拝説教も、残すところ、2回となりましたが、今朝は、神を真直ぐ見上げて生きる<貧しいやもめの真実な信仰>を改めてご一緒に教えられたいと思います。

 まず偽りの信仰と生活について見ておきます。45節「民衆が皆聞いている時、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。』」
 イエスは6つの点を上げられます。第一に、律法学者たちは46節「長い衣をまとって歩き回りたが」りました。彼らはしばしば足まで届く大きな房の付いた長い白いマントや肩掛けをし、颯爽(さっそう)と歩き回ったそうです。人に注目されたかったのでしょう。

 第二に、46節「広場で皆から声を掛けられ挨拶されること」が好きでした。

 第三に、神聖な礼拝の場である会堂で「上席」に座ることを好みました。当時、会堂の正面に聖書を置く台があり、その横あるいは手前に「上席」と呼ばれる少し高い所があり、長椅子が会衆に面して置いてありました。通常、そこには特別な説教者や会堂の責任者が座りましたが、律法学者たちは会衆の視線を受けるそこに座りました。目立ちたかったのでしょう。

 第四に、これは宴会でも同じで、「上座」に座ることを好みました。ここに見られるのは結局、虚栄心です。

 第五、第六に彼らは47節「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈り」をしました。つまり、強欲で偽善家でした。彼らは時々一般の家でも話をしましたが、あくまで彼らは平信徒でしたので、謝礼をもらってはなりません。しかし人々は、話の後、そっと謝礼を手渡し、律法学者たちの方もいつしかそれが普通になっていたようです。
 その点で最も都合のいい相手は、孤独なやもめでした。中には妾(めかけ)同様にされ、食い物にされることもあったといいます。神が出エジプト記22:21、22で「寡婦や孤児は全て苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは孤児となる」と言っておられたのに、この有り様でした。

 無論、律法学者の皆がこうだったのではありません。が、全体として、偽善、虚栄、強欲など、彼らの堕落ぶりはひどかったのです。ですから、イエスは言われます。47節「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」最後の審判で、神は一人一人の罪を露わにされ、裁きから漏れることは決してありません。

 しかし、これは他人事(ひとごと)ではありません。主はこれを45節「弟子たち」に言われました。従って、私たちクリスチャンも覚えなくてはならない警告です。実際、ルカがこの福音書を書いた紀元1世紀後半の初代教会でも、既に堕落は起っていました。パウロは、堕落した教会指導者たちについて、こう書きました。Ⅱテモテ3:5、6「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。」Ⅰテモエ6:5でも「信心を利得の道と考える」強欲な教会指導者たちのいることを指摘しました。

 人間の罪深さ、そしてサタンの恐ろしさを、つくづく思わされます。偽善、虚栄、強欲!サタンは教会と信徒一人一人を偽りの信仰生活に引き入れようと、絶えず狙っています。

 私たちを脅かし滅ぼすものは、他宗教や国家権力など、外からの迫害や弾圧、異端や偽りの教理や神学だけではありません。偽善、虚栄、強欲など、偽りの信仰生活も、私たちを内側から滅ぼし、悪魔と同じ永遠の滅びへ落します。エフェソ6:12が「私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と言うことを繰り返し覚え、目を覚まし、偽善や虚栄や強欲などを断固退けたいと思います。


 さて、これは抽象的に心に留めるだけでは十分でありません。正しい信仰に基づく具体的な生活が大切です。そこで教えられるのが、この後のやもめの献金の記事です。献金に表れている彼女のような真実な信仰が、私たちを偽りの信仰と生活から守り祝福するからです。

 当時、エルサレム神殿の一番外側にある異邦人の庭から門をくぐり、中に入りますと、そこは婦人の庭と呼ばれ、13個の賽銭箱が置かれ、夫々にラッパの形をした受け口が付いていました。献金の用途が分るように、ヘブライ語の大きな文字が書いてあり、献金者は献げたい所へ行って献げることができました。

 21:1「イエスは目を上げ」られました。疲れて腰を下ろしておられたのでしょう。そして金持たちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられると、2節「ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れ」ました。一目で分かる位、彼女は貧しかったのでしょう。「軽い」という意味のレプトン銅貨2枚は、当時の1日の賃金の64分の1に過ぎませんでした。

 でも、イエスは言われます。3節「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。」何故そう言えるのでしょうか。4節「あの金持たちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 ここから、私たちは、献金に表れている彼女の真実な信仰を教えられます。

 その第一は、神のためには惜しまず献げる信仰です。金持たちは確かに多くを献げました。彼女の献金の数10倍だったかも知れません。しかし、それが彼らの生活に何も響かなければ、すなわち、彼らの生活に何の犠牲も伴わないなら、自分の生活の余り物を出したに過ぎません。大事なことは、それを献げることで、私たちの生活に何か犠牲が生じるか否かです。このやもめは「乏しい中から持っている生活費を全部入れ」ました。当然、彼女は生活を切り詰めるという犠牲を払わなければなりません。言い換えますと、彼女は、献金により自分の生活を献げたのでした。

 私たちはどうなのか、と考えさせられます。神のために、時には自分の好きなことや好きな物を犠牲にし削ってでも、私たちは献げているでしょうか。私たちの教会は、関西地区伝道協議会から毎年2百数十万円の援助金を頂いています。これは全て諸教会の献金に他なりません。では、私たち自身はどうでしょうか。自分の楽しみのためには何千円、何万円でも使いますのに、例えば、将来の大切な伝道者を養い育てる神学校のために、毎月いくら献げているでしょうか。雀のお宿キリスト教会館改築のために、この5月にいくら献げたでしょうか。よく考えたいと思います。ルカの伝えるやもめは貧しかった。しかし、神のためには惜しまず献げる本当に真実な信仰を持っていました。

 第二に、彼女は神に全幅の信頼を持っていました。そうでなければ、とてもこんな無鉄砲とも言えるような献げ方はできなかったでしょう。彼女の生活は貧しかった。でも、彼女は全部を献げた。どうしてそんなことができたのか。日毎の神の支えと愛を覚え、神を心から信頼し、また色々なことで神の救いの愛と恵みを具体的に覚えて神に感謝し、神を喜んでいたからでなくて何でしょうか。

 私たちは、彼女が生活費を全部献げたことに驚き、戸惑うかも知れません。「生活はどうなるのか」と。当時、賃金は毎日支払われましたので、恐らく彼女はその日の残りのお金を全部を献げたのだと思われます。明日になれば、神は必要なものは、また必ず新しく与えて下さるという神への全幅の信頼が彼女にはあったのだと思います。神への見事な信頼です。貧しくても、彼女の精一杯の献金に表れているものは、神への感謝と信頼に満ちた真実な信仰でした!

 第三に、彼女の生き甲斐と喜びは、ただ神の中にありました。生活費全部を献げた彼女には、他の誰かが自分を評価してくれることなど、全く眼中にありません。律法学者たちは常に人の誉め言葉や評価を期待しましたが、彼女にはそんなことは一切関係なかった。イエスの誉め言葉すら知らず、彼女は黙って雑踏の中に消えて行きました。でも彼女は、自分に神への献金ができたことが嬉しくて満足でした!誰の評価もいらない!隠れたことも何もかもご存じの神こそが、彼女の生き甲斐と喜びの全てだったのです。常に人の評価を求めた律法学者たちと比べて、これは何という違いでしょう。一体、神の御前にどちらが真に豊かでしょうか。まさに彼女はマタイ6:20の主イエスの御言葉通り、富を天に積み、宝を天に貯えた人でした。

 最後に、私たちは、彼女をこのように温かく高く評価された神の独り子、主イエス御自身が、私たちのために如何に大きな犠牲を、それも喜んで献げて下さったか、を決して忘れたくないと思います。Ⅱコリント8:9は言います。「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」

 律法学者達のように、偽善、虚栄、強欲といった偽りの信仰生活に陥らないためには、結局、神の御子イエス・キリストが私たちのためにどんなに大きな犠牲を、それもご自分の命さえ喜んで献げて下さったかを、覚えることが一番だと言えましょう。

 信仰は必ず献げ方に表われます。その意味で、第一に神のためには惜しまず、第二に明日のことについては神に全幅の信頼を置き、第三に生き甲斐の全てを神に置いていた、名もない一人の貧しいやもめの献金に表れている信仰に、私たちは改めて自分を問われ、大切なことを教えられます。

 夫々が、今朝の御言葉の問い掛けに真摯に応えたいと思います。特に、私たちのために喜んでご自分の全てを献げて下さった主イエスの計り知れない愛を改めて覚え、この主の愛に感謝と喜びをもってお応えし、主の尊い御業のために改めて意識的に献げ、天に宝を積む者に、是非されたいと願います。

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