目標を目指して

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目標を目指して

田村 英典(タムラ ヒデノリ)

日付
場所
北神戸キリスト教会 日曜 朝の礼拝 
当時
北神戸キリスト教会 牧師
3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。フィリピの信徒への手紙 3章12~16節

 当教会おける私の説教も、あと4回になりました。「目標を目指して」と題して、今朝はクリスチャンの生き方の最も顕著な特徴の一つを改めて確認したいと思います。

 クリスチャンの生き方を、聖書は色々なものに喩えています。イエスはマタイ7章の賢い人と愚かな人の譬話で家を建てることに喩え、パウロもⅠコリント3:10以降で建築家に喩えます。ヘブライ11:13やⅠペトロ2:11は旅人、Ⅱテモテ2章の初めでは兵卒と農夫、Ⅰコリンと9:24以降では競技場で走る人とボクシング選手に喩えています。

 今朝の所で、パウロは自分の生き方を短距離競走の選手に喩えます。13節「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 ここで「ひたすら走る」とか、12節で「何とかして…努めている」と訳されている元のギリシア語は、「迫害する」という意味を持ちます。パウロはそういう強い言葉を使い、ゴールを目指し必死に体を伸ばして走る選手の姿こそ、自分の姿勢だと言います。

 何故、こんなことを言うのでしょうか。17節で「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」と言うように、皆に倣ってほしかったのでした。

 では、それは何のためでしょうか。3:2で、あの犬共に注意せよと言います。つまり、ユダヤ主義者たちが入り込んでいたのでした。ユダヤ主義とは、人が救われるためには、イエスへの信仰と共に、昔からユダヤ人が守ってきた儀式や習慣も必要だという考え方です。しかし、救いのための必要十分条件に、信仰以外に何かを加えますと、必ずと言って良いほど、そちらの方へ重心・ウェイトが移り、救いは危うくなります。パウロはこの危険から皆を守るため、自分の根本姿勢を書いたのでした。

 同時に、それは、皆が14節「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るため」でした。私たちも誤った生き方から守られ、確実に救いに入れられるために、真(まこと)のクリスチャンの根本姿勢を再確認したいと思います。

 パウロは、12節「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」と言います。ユダヤ主義者たちが<我々は完全だ>と言っていましたので、パウロはこう書いたのですが、大事な点ですので、確認しておきます。私たちはこの世で決して完全な者にはなれません!

 歴史を振り返りますと、いわゆる<完全聖化>を唱える人たちが時々現れました。でも、それは聖書の教えとも私たちの体験とも合致しません。そもそも、主イエスは<主の祈り>の中で、私たちに祈りをどうお教えになったでしょうか。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。「我らの罪をも赦したまえ!」クリスチャンは、これを生涯祈り続けます。私たちが生涯、罪を犯すからです。イエスによれば、完全聖化など、あり得ません。

 また、聖書は完全な信仰者を一人も伝えていません。パウロですら、「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…私は何と惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:19、24)と告白しました。

 確かに私たちは、主イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、罪を全て赦され、義とされ、神の子とされ、清くされます。これ以上の恵みはありません。

 でも、現実の私たちにはまだ罪の汚れが残り、思いと言葉と行いにおいて日々罪を犯します。ですから、パウロも13節「兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません」と言いました。

 しかし感謝なことに、これが全てではありません!パウロが12節で「自分がキリスト・イエスに捕えられているから」と言い、イエスも弟子たちに「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」(ヨハネ15:16)と言われたように、イエス・キリストの絶大な恵みがあるからです!イエスが私たちを選び、イエスが私たちを捕えて下さっている!ですから、信仰の薄い私たちではありますが、なおもクリスチャンとして歩ませていただくのです。

 そこで、大切なことが二つあります。「なすべきことはただ一つ」(13節)ですが、それに二つの面があります。一つは消極面です。それは13節「後ろのものを忘れ」ることです。大切な点ですので、しっかり心にとめたいと思います。

 無論、クリスチャンは、一切後ろのものを忘れるのではありません。むしろ、神はどんなに過去の歴史から学ぶことを私たちに教えておられることでしょう。従って、クリスチャンは必ず自分や自分の国の歴史、自分の教会や教派の歴史を振り返ります。過去を振り返ることを、クリスチャンは忘れてはなりません。そして、罪や不信仰に気付くなら、直ちに神の前に平伏し、主の十字架の故に赦しを請い、でも、もし私たちの過去に神の大きな愛と憐れみを見出すならば、すぐ感謝し、一切の栄光を神に帰するのです。
 私たちは、時々、自分の過去を振り返ると良いと思います。すると自分がいただいていた神の憐れみの余りの大きさに、心が震えるでしょう。

 但し、間違った振り返り方はしてはなりません。これは短距離走を考えるとよく分ります。全力疾走をしながら、後ろを振り返れば、たちまちスピードは落ち、競走に破れます。過去を振り返ることは大切ですが、十字架の福音の下でしませんと、私たちは自分の過去の罪や失敗の記憶に潰されます。

 良くない振り返り方のもう一つは、自分の過去の何かを頼ったり、誇ることです。ユダヤ主義者たちの問題もここにありました。2節以降から分かりますように、彼らは割礼を誇りました。<だが、そんなものなら私にはもっとある>と言い、パウロは4~6節で自分の過去を披瀝します。実際、パウロはかつてのユダヤ社会では、エリート中のエリートでした。しかし、7節以降で<それが何だというのか>と、キリストから与えられる絶大な救いの恵みと比べて、過去の自分の何かを誇り、頼る愚かさを指摘します。

 不気味にも創世記19:26は言います。「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」イエスは言われました。ルカ9:62「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」
 もし、昔の栄光や業績などを振り返り、いつまでもそれらを懐かしがり、悦に入り、あるいは誇ったり頼ったりしている自分に気付くなら、私たちは直ちにこう叫ばなければなりません。「私の救いを妨げようとする邪悪な霊よ、今すぐ私から去れ!」と。

 以上、消極面を見ました。次は積極面です。13節「前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」です。パウロは大変重要なことを教えます。クリスチャンの根本姿勢は、目標を目指してひたすら走るということです。過去を謙虚に真摯に振り返るのも、あくまで前進するためです。

 「賞」とは何でしょうか。御言葉に忠実に生きた人に、神が世の終りに下さる義の栄冠です。端的に栄光と言っても構いません。それを神は忠実な信仰者の皆に下さいます。

 運動競技で金メダルを貰えるのは一人ですが、信仰においては違います。そもそもクリスチャンの歩みは、他者との競争ではありません。それは絡みつく罪や古い自分との闘いであり、御言葉に忠実に一生懸命に生きた者は、全員、義の栄冠を主からいただけます。パウロは言いました。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けて下さるのです。しかし私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けて下さいます。」(Ⅱテモテ4:8)

 では、「目標」とは何でしょう。救いの完成のことです。私たちが、救い主イエス・キリストにもっと似ること、神の素晴らしさが一段とよく分り、もっと神を喜び、賛美できる者にされることなどです。

 大事なことは、こういう目標を持ち、これを目指してしっかり生きる私たちであることです。主に愛され、捕えられているなら、私たちはそうならないではおられません。そして、私たちがそうであることほど、幸いなことはありません。

 目指す目標もなく、自分の現状に満足している人は、一般的に言って、成長しません。そして、魂にとって、それほど危険なことはありません。今の自分にあぐらをかき、あるいは過去の自分の何かに寄りかかっている時、私たちの魂にはどうしても緩みができています。これほど、サタンの狙いやすい相手はありません。

 一方、明確な目標を持っている人は、一般的に言って、ブレにくく、フラフラしません。目標を目指して一生懸命ですから、無駄なことにも惑わされにくく、結果的に最も目標に達しやすい。まして、私たちの目指すものが、単にこの世で終る目標ではなく、主ご自身が喜んで下さる永遠の命に直結する救いの完成であるなら、どんなに幸いでしょう。何故なら、この目標には、神ご自身が関って下さっているからです。パウロは言いました。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです!」(フィリピ2:12、13)

 神の子とされた自分の救いの完成を切に願い、神に喜ばれる者にもっと自分を変えられたいという熱い願いのあることは、本当に感謝なことです。心がフラフラしていませんから、サタンも手を出しにくい。従って、特別な賜物や力がなくても構いません。私たちを生れる前から愛し、十字架で命を献げて下さった主イエスを見上げてひたすら歩むなら、やがて、マタイ25:21「忠実な良い僕だ。良くやった。…私と一緒に喜んでくれ」という主ご自身の喜びの声を聞き、皆と一緒に義の栄冠を授けられている自分を発見しているでしょう。

 私達は今朝、自分の胸に手を当てて正直に自分に問いたいと思います。もし、特に目標もなく空しく生きている自分に気付くなら、それを気付かせて下さった主に、今、直ちに感謝し、赦していただき、そして今日、改めてキッパリ救いの完成を目指し、ご一緒に前進したいと思います。慈しみ豊かなイエス・キリストが、御霊を賜わらず、私たちを助けて下さらないなんてことが、どうしてあり得ましょう!

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